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2011年10月1期鉄道懐かしなつかしの国鉄日豊線・豊肥線・久大線 TOP カテ一覧 スレ一覧 削除依頼
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【ALIENS】 Talk Japan's old railways ! 【ONLY】
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國鐡廣島
今時のリバイバル列車に物申す!


なつかしの国鉄日豊線・豊肥線・久大線


1 :08/09/13 〜 最終レス :11/12/10
ローカル線なので、3線まとめてみました。

2 :
(日豊線)
・DF50の牽引する特急富士・特急彗星
・DE10(C58)の牽引するローカル列車(大分-佐伯)
・C55・C57の旅客列車
・D51の貨物列車
・急行高千穂
(豊肥線)
・9600の牽引する貨物列車
・C58の牽引する旅客列車
とりあえず、こんなもんか。

3 :
【本線】が抜けてるが

4 :
1979年、日豊本線のED74見たよ

5 :
富永一郎氏作のヘッドマーク

6 :
これら3線で蒸気は乗ったことがないけど
別府の杉の井パレス?に行った帰りに
西鹿児島発門司港行きの客車列車に乗ったとき
ちょっとしたカルチャーショックを受けて
旧客に惚れてしまった。

7 :
知らない間に日出行きとか暘谷行きとかの列車が出来たこと

8 :
暘谷行
あったか?

9 :
全部本線じゃねえか

10 :
>>8
幸崎発暘谷行きってのがあった
すぐに中山香行きに変更されたけど

11 :
久大線の電気式改造の湘南型郵便荷物車は子供心に強烈なインパクトがあった。

12 :
キユニ16だな
キハユニ22(?)が夕方の幸崎きに連結されていて、荷物室まで人をのせていたな

13 :
西鹿児島行き「にちりん」がキハ80系だったのが今も印象に残っている。

14 :
宮崎の大淀川鉄橋の風景はSLが電車になったくらいで
40年間くらい何も変わってない。

15 :
冷静に考えてみると、宮崎電化で、485の11連とか583の12連が
宮崎まで入線していたんだが、有効長はたりてたんだろうか。
宗太郎だと、D51クラスで定数40くらいのはずなので、貨物とて
140mくらいの長さ(実車のワムで20両)しかないはずなんだが・・・・

16 :
宮崎は未だに国鉄型のオンパレード

17 :
>>15
一部駅、後方ドア締め切り、信号封鎖で対応

18 :
>>16
国鉄色は元気?

19 :
中山香と杵築の間、それと直美と直川の間だったか、信号所があった。

20 :
>>19
川原木信号所だっけか?(直川〜重岡)
まだED76牽引の旧客鈍行時代に停車中に降りた事がある。
そういえば昔85年ぐらい?まで荷物&郵便列車が1往復有って
オハフ50を1両ぶら下げて客扱いしてたっけか
運用が確か上りは客扱い無しで佐伯に11時半位に来てて
下りは16時半ぐらいに佐伯発〜南宮崎行なってたな。
覚えてる人が居たら編成の詳細を教えてもらいたいです。
うろ覚えだが確かこんな感じ ↓
宮崎方【緩急付パレ車】【パレ車】【パレ車】【マニ】【スユ】【オハフ】 大分方
あとどこまで走ってたかも知りたいですね〜、北は門司港まで行ってたのかな?南は西鹿児島までなのか?

21 :
>17
いまでも、午前の下り貨物は、コキ11両+ED76なんだけど、そんなことやってる?

22 :
あ、そういえば、大分と門司港の間、旧客が一往復走ってた。編成は忘れたけど。
で、それに乗って大分から別府に行ったとき、列車が完全に停まるのが待ち切れなかったのか、
急いでたのか、婆さんが別府駅のホームに着地失敗してすっ転んでうずくまっているのを見た覚えがある。
その旧客が暫くしてピンク色の客車に代わって、やはり門司港と大分間を走ってた。
いつだったか、亀川と豊後豊岡の間にトンネルが開通して、ちょっと距離が短くなったのかな。
大分駅だったと思うんだけど、「宇佐(?)までの運賃改定」というような張り紙があったような・・・

23 :
宮崎ブームの頃は編成長に比べてグリーン車多めで運転されていましたよね。

24 :
日豊本線竜ヶ水駅が豪雨で流されたのには驚いた。
もろ流された人家の前でC57貨物発車を撮ったよ。C5741だった。S49頃。

25 :
>>24
竜ヶ水駅が流された時は、乗務員も必死で
海に沈みそうになっている乗客を助けたという逸話がありましたね。
もちろん平成になってからですが。
火山灰地の悲しさといってしまえばそれまでですが、
はるか昔の人たちがヤバそうな場所を
地名に隠して伝えてくれていたのかもしれませんね。
新造されて間もないキハ200も廃車になって代替新製されたような。

26 :
質問なんですが。
昭和50年代後半の宗太郎越えの運用で、当時の時刻表を見ますと、一部電車が運用されてるようですが。
朝夕などは急行の送り込み運用ついでに475系が使われていると聞きました。
緑車は使用禁止?
日中にも電車の運用があるけど、これは何が使われているのでしょうか?これも急行の間合い?
あと、旧客の普通ってどのような編成になってたのでしょうか?
よろしければアドバイス下さいませ。

27 :
>>26
50年代後半ねえ〜、記憶では昼行の日南が廃止された移行なら・・・
車両はそのままのでG車は開放だったので乗りドクでしたね。
旧客は荷物車・郵便車を数両とハザ4両ぐらいで
佐伯で3両ぐらい抜いたり(宮崎方)足したり(大分方)してました。
佐伯以北は長い編成になってましたね。

28 :
>>26
どうもです。
通勤車(421・423・415)は佐伯以南は投入されてないと別スレで教えてもらったので
475の間合いって事でしょうね。。。。(日南はまだ存在していた頃の時刻表を見て)
ttp://www.youtube.com/watch?v=obxFyb6ljEw
フリゲsimutransで、佐伯→延岡の旅(キハ80にちりん)を再現してみました。
配線など情報は教えてもらいましてなるべく再現してます。
良かったら見てみてください。。。
(※閲覧される場合、画面右下の「高画質に表示する」をクリックして下さいませ)

29 :
>>28のネタの続きで急行日南(関西直通夜行)の再現しようと当時の時刻表を見ていて驚いたけど・・・
急行「日南1号」(都城発京都行)って宗太郎停車(16:12発)するんだなw 
誰が乗るんだ? 誰の為に止めてるんだ?w なんでまた宗太郎に停車するんだろう・・・
(マップ再現の唯一の資料w)航空写真(S49年撮影)を見ても、小さな集落がある程度の駅のようだけど。。。
●その他の宗太郎越え(佐伯〜延岡)の途中駅停車の優等列車ダイヤ
上り
急「日南」3号(宮崎発大阪行) 北川18:52 直見19:38
下り
急「高千穂」(西鹿児島発東京行) 北川9:30 日向長井9:39
急「日南」2号(大阪発宮崎行) 直川10:01 重岡10:43 市棚11:12
急「日南」3号(京都発都城行) 市棚12:58
それ以上に驚いたのは・・・
始発・直川16:21→終着・直見16:28 という一駅区間の列車(客レ4592)が存在していた!
直見折返しの下り、直見発の佐伯方面の列車も存在しないが、この運用は何?

30 :
もう一つ疑問
急行「日南」1号が宗太郎16:12発なんだけど。
下り普通レ543(大分発都城行)が宗太郎16:04発→市棚16:22発
その他の普通列車を見たら宗太郎発時刻→市棚発時刻、約10分
レ543と日南の交換は市棚(16:10着だとしても、2分で宗太郎まで行けない・・・)だったら
日南は宗太郎に16:12までに到着しない・・・ような。
これって、日南が宗太郎でレ543の交換待ち、と考えて良いの?
交換待ちついでに客扱い(誰が利用するかわからないけどw)してたのかな?

31 :
昔、日出駅に留置されてたスロ81ってどうなったの?

32 :
>30
日南1号の話だけど、その時間帯に、下りの電車特急か電車急行かDC急行がいないかな?
市棚は3線で、追い越し可能な駅なんで、
宗太郎に543レ到着
      日南1号到着
      543レ発車
      (下り優等列車通過)
      日南1号発車(16:12)
で下り優等列車は、市棚で543レを追い越し
なのではないかと思う。
昭和49年だとすでに電化しているけど、新幹線はまだ博多まで開業していないので
おそらく、急行青島(臼杵を15時くらいに下っていく)が該当だと思うけど。(記憶頼み)

33 :
>>32
ビンゴです!
時刻表無しでよく覚えますね・・・(驚
書き込みの後で再度時刻表を見てましたが
543レの重岡→宗太郎の所要時間がその他普通列車より遅かった
(その他列車は14分程度→20分程度)
なので仰るとおり
>宗太郎に543レ到着
>      日南1号到着
>      543レ発車
>      (下り優等列車通過)
>      日南1号発車(16:12)
ですた。。。急行青島も大正解っす。
ありがとうございました。

34 :
>32
あ、そのころ(電化前)、厨房で貨物列車(D51)やら追っかけてたので、
ぼんやりダイヤが頭の中に残っているだけよ。
急行日南が電車になったあたりからはほとんどわからない。

35 :
・・・というか手動ドア列車全盛時代って今でいう「運転停車」という概念自体なかったからな。
運転停車であろうがなかろうが,列車が停まれば人は乗降しちゃうから
宗太郎程度(失礼)の駅でも「客扱」停車にしたのだろう。
日豊線の話で昭和50年3月頃の時刻表みていて驚いた思い出がある。
南延岡→延岡間を利用しようとした場合,夕方高千穂線だかに直通する「快速」が
停車したあと,夜中の夜行「日南」まで列車なかったんだよな。
都城方面からの普通列車は南延岡止,また延岡以北への普通列車は延岡始発なので
ちょうどエアーポケットみたいになにもなかった。
その後改善されたが・・・。

36 :
あと、大分-佐伯のローカルにC58がはいっていたなんてしってるかな?
その後、DE10になっちゃったけど。
ステータス感じるよね

37 :
C58というと1号が別府と豊肥線の三重町の間で「豊の国号」という名前で
運転した。今から20数年前のことだけど、覚えている人いるかな?

38 :
>>28
動画拝ませてもらいました、ありがとうございます。動画上の佐伯球場の近くに私の実家が有りまして、
この設定時代のオープン戦(広島カープvs日本ハム)で山本浩二選手の大ファールボールが実家の瓦を
破壊してくれたのはとても懐かしく・・・推定飛距離150b(どうでもよい話だが)
佐伯駅の配線ですが、1番線と国道217号線の間に興人と日通用の貨物ヤードが4〜5本ぐらい有ったかと
記憶しています。あと延岡方の踏み切りから50bぐらいまで貨物突放用の側線が本線に平行してましたね、
朝の7時半頃下りの貨物列車が興人用の空有蓋車と苛性ソーダ?とかの黄色タンク車とかを突放で
切り離して、16時頃の上りでパルプ積んだ有蓋車と空になったタンク車を編成に付け足してた様な運用で
列車を牽引してきた釜(ED76)が抜き差し作業をしてました。当時小学校への通学時の行きと帰りに
その光景を飽きる事無く良く見てましたね〜。下校時に興人へ貨車を引き込む時に貨車のステップに乗って
タダ乗りしてて、よく監視員のオッチャンに怒られてた(引き込み線が横切る2本の国道に信号や踏切が無かった)
>>35
高千穂線運用がらみだけど、50年代半ばまで佐伯止の最終上りと佐伯発の始発下りが気動車で運用で北延岡?
まで有ったかと記憶してます。確か編成は20系と58系の混成だったとうろ覚え・・・。

39 :
>>35
成る程、昔の行き違いの為の停車でも客扱いしてた訳がわかりました。
手動だから駅に停まれば、乗降できる。
どこの駅にも駅員がいる。
時刻通りなので、他の駅で行き違いすることが少ない。
こんな感じですかね。

40 :
>>38
こちらこそ。地元民に見て頂いたけると光栄です。当時のお話を聞けるのもありがたいです。
制作資料が国土地理院の航空写真(昭和49年のみしかない orz)と、現在のネット地図を照らし合わせつつでした。資料が少ない。。。
佐伯駅構内配線は広げ過ぎると、街の大半を占有するので省略しました。。。

41 :
>>38
(長文なので更新)
航空写真に球場が映ってましたが、プロ野球も行われた球場だったとは。。。
カープ全盛期だったんですね(今年は期待!)
ちなみに、その航空写真で佐伯鶴城高近くに大きな陸上競技場らしき建物が写ってましたが。
あれは学校の施設だったんでしょうか?
ググッてもそれらしい答えが見付からなくて。。。

42 :
電化前の時代は、線路脇の電柱にいっぱい
電線が張られていた風景が甦るのだが、
あれはどんな理由だったんですか。

43 :
通称ハエタタキと言われる電柱のことかな
横桁が長くて数本あり一番下の横桁に支えのため斜めの支柱がついていて
まさにハエタタキのような感じだったのでついた名前ですが
通信用でしたがかなり早いうちに使われなくなったようです
以後は通信用電線のみ撤去して通常の電柱として使うようになってました

44 :
ハエタタキ型電柱が本来の役目で使われていた最後は
九州では、鹿児島交通かと。スレチでごめんなさい。

45 :
俺の父親の実家が宇佐市にあって
昔は宇佐に特急なんて停車しなかった。
「富士」で行って中津乗換えか新幹線+急行「ゆのか」だった。
それが昭和51年だか52年だかあたりに「にちりん」が3往復停車したときなんて
町はもうすごい騒ぎだったそうだ。
まーそれ以前の日豊本線大分までの特急停車駅は
小倉・中津・別府・大分だから騒ぐのも無理ないわな。
さてこのまえ父親の墓参りのため久々宇佐駅におりた。
昔は通過していったあの「富士」からおりた。
おりたのは僕だけ。ヒマそうな駅員に特急券を所望すると
「どうぞー」と一言。
急行「ゆのか」しか停車しなかったころ柳ヶ浦高校が甲子園出場した
といえば横断幕があちこちに飾られていた駅前商店街・・・だったはずなのに
人っ子1人いない。ヒマそうなタクシーの運転手に行き先を告げると・・・
高々2000円程度の距離なのに「今日は朝からツイとる!」と独り言。
父親の実家はもうなくて墓があるだけ。それでもしばらくそのへんをブラついてみた。
夕方また宇佐駅に戻ってきた。なんとなく1人で飲みたかったがやっぱり店はない。
適当に電車にのって行橋までいってみると,何軒か飲み屋があった。
こじんまりした店のカウンターでちょっと上品そうなママ相手に1人で飲んだ。
よく考えてみたらその日一日ではじめて会話らしい会話をしたのがここのママさんだった。

46 :
>>45
宇佐駅の周りは、何もないね。中心部からも離れてるし。
宇佐市の中心の四日市には飲み屋があるけど。

47 :
>>45 乙
 宇佐駅は実態は豊後高田駅だわな

48 :
普通電車も門司港←→大分直通が当たり前のようにあったな
しかも殆どが非冷房車

49 :
>>41
帰省中だったので亀でスマソ
そのグラウンドは鶴城の陸上用のグラウンドです、
母校の佐伯東小学校も間借りで使わせてもらってましたね。
ココからは編成全容が眺めれるぐらい開けてたので、
よく朝方に新聞配達のバイト帰りに583系彗星を眺めてました。
>>43
ああ〜線路にずっと這わせてる国鉄電話線ですね、
記憶では53年ぐらいまで見た記憶が有ります。
にちりんで車窓眺めてたらずっと延々と電線がウエーブ
こんな感じ ↓
〜〜〜〜|〜〜〜〜|〜〜〜〜|〜〜〜〜|〜〜〜〜|
しててウザかったのを記憶してますw
>>45
宇佐駅前は今はホント閑散としてますね〜。
50年代半期の宗太郎駅前と変わらないような・・・w
富士は宇佐に止めずに杵築に止めろよと・・・
昔止まってたのに、ソニックやり過ごすだけなのに
客扱いしないのは酷すぎる(現在)
>>48
当時交流車に非冷房車有りましたか?
当時は475系?415系で冷房はデフォだったような・・・?

50 :
映画「なごり雪」で上臼杵駅、重岡駅を使ってたね
過去のシーンでは国鉄時代の設定にもかかわらずJR九州色だったけど

51 :
>>49
鉄道電話はずっと後年まで使っていてハエタタキの太いケーブルのうねうねはそれだと思うが
碍子につながれていた細い電線が本来の役目だったね
これは40年代後半にはほとんど取り外されていたみたい
電話でなくて電信だったと聞いている

52 :
>>50
非鉄な多くの観客にとっては、色なんて気にしないw

53 :
>>50
地元民ですが、あの映画の列車はやはり昔のアズキ色のほうが良かったと思いますね
帰省のときは「彗星」をよく利用していました、「にちりん」は疲れましたからね

54 :
>>49
急行型でない交直型電車にはゴロゴロ非冷房あったよ。
・・・というか昭和50年ごろなんて冷房車なんてあったのか?
おれは東京だったが常磐線の普通列車はオール非冷房だったよ。

55 :
映画「なごり雪」の主人公若かりし頃はまだDF50+旧客だったかと。
東京に帰るシーンで電車が延岡方面に行ったのを見たときはおもわず「おいおい反対だろ」って言ってしまった。

56 :
臼杵から東京へくには、にちりんで宮崎空港までって、飛行機にのるんだよ

57 :
なるほど・・・っていや普通列車に乗ってたし。
思い出してみれば主人公が東京から臼杵に帰るのに新幹線使ってたな。映ってるのは700系だったのに車内は500系、
おまけに小倉から乗ったのが特急じゃなくて普通だったし。臼杵まで何時間かかるんだよ。
「なごり雪」は鉄道的にはつっこみどころが結構あったような。

58 :
大林監督の映画ならば柳川で撮られた「廃市」など
今は亡き佐賀線の列車が筑後柳河駅に入ってくるところから始まり
佐賀行きの列車が夏の原野を走り去っていくところで終わっていますね
「佐賀行き」といいながら実際は瀬高方面に走って行っていましたが

59 :
日南3号の話題はスレ違いですかそうですか。

60 :
「なごり雪」ね
駅のシーンがやたらと多いだけに
少なくてもあずき色くらいには塗り替えて撮影して欲しかったな
パッチギではキハw塗り替え、ぽっぽ屋では改造までしているんだからさぁ

61 :
当時宮崎には1編成、国鉄色があったような気がする。

62 :
>>29さん
亀にて恐縮です。
> それ以上に驚いたのは・・・
> 始発・直川16:21→終着・直見16:28 という一駅区間の列車(客レ4592)が存在していた!
> 直見折返しの下り、直見発の佐伯方面の列車も存在しないが、この運用は何?
僕も、この4592列車の掲載された時刻表を持っています。
29さんのおっしゃるように、とても気になる列車です。
JTB時刻表の1973年7月号ですが、このときは、直川1554→直見1603(休日運休)でした。
列車番号から考えて、下2桁目(十の位)が「9」なので、混合列車または貨物列車と考えられますが、
たった一駅区間のために客車を一両ぶら下げてわざわざ客扱いするとは、想像できません。
この列車の設定時間帯や沿線人口、休日運休である点から考えて、
おそらく中学生の帰宅用として、4〜5人程度の生徒を運ぶために、
貨物列車の車掌車を使って、便宜的に客扱いしたのではないかと考えられますが、
いかがでしょうか。
どなたか、わかる方がいらっしゃったら、教えていただきたいです。
ちなみに、同様の事例について、うろ覚えで大変に恐縮ですが、
40年ほど前の新聞(縮刷版)で、
北海道の根室本線で小学生の通学用に貨物列車の車掌車が客扱いされていたケースが紹介されていた記事を
目にしたことがあります。

63 :
>>62
根室本線の、貨物列車の車掌車に便乗する児童の話、
NHK-TVのこどもニュースで見ました。
歩いたとしたら2時間?かかるとか。
車内の石炭ストーブが印象的でした。
九州と関係なくて、すみません。

64 :
しかし面白いなぁ
昭和41年7月号の
佐伯〜延岡間の優等停車は
下り急行日南(515D,別府始発西鹿児島行)重岡停車0939
下り急行夕月(203,新大阪発宮崎行)直川停車1056
下り急行日向(1203,京都始発都城行)重岡停車1353
上り急行日向(1204,都城始発京都行)北川停車1513
どれも列車交換がらみなのだが,515Dは「D」なのだから別に「運転停車」でもよさそうなんだけどね。

65 :
日豊線の大分県内の駅の大半には急行、準急が停車していたことがある。
列車交換のためだから、片道停車がほとんどだったけど。

66 :
佐伯市役所にといあわせ汁

67 :
なぜか巨大グロベンを思い出した。

68 :
熊本で高校生をしていた頃、ある試験を受けるために大分に行くのに
自宅近くの駅から急行「火の山」に乗った憶えがあります
立野あたりからの車窓は最高でしたね、いろいろあってむしゃくしゃしていた時期だったのですが
非常に爽快な気分になりました、やはり旅は良いものです

69 :
大分で小学生をしていた頃、学校の算数の試験に
大分駅から豊肥線で三重町駅まで急行「火の山」を利用するとき
乗車券がいくら急行券がいくらだが、では一万円で何回往復できるか、といった問題が出されました
教師が自分の故郷を想いまがらつくった問題ではなかったかと想像しています

70 :
>>69
単なる鉄ヲタというオチではw

71 :
http://schipol.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1221402948/82

72 :
中学生の頃だったかな?東中津駅から延びていた引込線から某企業敷地内へ分岐するところにダルマ式転轍器があった(今は線路そのものもなく軌道敷が残るのみ)。当時すでに路線廃止だったのだろう、よく転換して遊んだが一度も咎められることはなかった。

73 :
放屁線

74 :
及第線

75 :
必線(スレ違いだが)

76 :
土産線(スレ違いの上に読み違いだが)

77 :
久大線のキユニ16、隣にはいつもキハ45の601または602を連結してセットで運用されていましたね。
荷物がキユニに積みきれなくなると、キハ45の車内にあるアコーディオンカーテンを閉めて半室荷物室として使用しているのを見ました。
昭和50年頃の思い出です。

78 :
親父は急行高千穂で23時間かけて東京に受験しにいったって聞いた。
しかも座席車で。
今だとかなり信じられない話だよな。
海外の大学行くより時間がかかるw

79 :
寝台特急富士にフルに乗れば24時間以上

80 :
>>79
時間はそうかもしれないが特急寝台と急行の座席では疲労はえらい違い
比較の対象にもならんと思う

81 :
昔なら急行に乗れただけましかも。
貧乏人は普通列車だったらしい。

82 :
しかも長距離カーフェリーの本格普及は昭和40年代後半以降
宮崎空港のジェット化は早かったが新婚さん向けだから、学生は高千穂のボックスで辛抱するしかなかったろうな

83 :
>>82
昭和40年といったらおれの親父(30歳大卒それなりの企業勤務)の手取りが1万円〜程度だったそうだ。
それでも東京〜九州の航空運賃は軽く1万円以上したからなー。
今の感覚だと最低でも10万〜20万以上する贅沢な乗り物だったな。

84 :
飛行機に乗ったら宮日新聞の「きょうの飛行機利用者」欄みたいなのに名前が載ったらしいよw
もちろん連なってる名前は名士ばかりで身分不相応な者が載ると恥ずかしい。

85 :
消防のとき、宮崎空港から羽田まで飛んだな。
ジェット化の前のことだ。

86 :
>>85
ジェット化前だと、伊丹で乗り換えじゃなかった?
俺も小学生の頃、東京→大分を飛行機に乗せてもらったことがあるが、
東京→大阪が727で、大阪→大分がYS11だったと思う。YSはやたら煩かったな。
本当はフレンドシップに乗りたかった。というか、それ以上に「富士」に乗りたかったし、
さらにそれ以上に「高千穂」に乗りたかった。
で、その飛行機初体験なんだが、俺はそのときまで、飛行機のタラップを降りたら、
綺麗なおねえさんがレイを首にかけてくれるものだとばっかり思っていて、それがないので
かなりがっかりしたことを覚えているorz

87 :
急行「火の山」
両親の実家が熊本で、宇和島に住んでいたので宇和島運輸の旅客船(のちフェリー)で国際観光港へ。夜発で別府には朝7時頃到着。
別府駅までタクシー。
8:20の「火の山1号」に乗る。
港の匂い、別府駅の匂い、朝の匂い、車両の匂い・・・今でも思い出す。

88 :
鹿児島本線荒尾駅近くに住んでいた俺は
小さい頃家族旅行といったら別府だった
鹿児島本線からそのまま入っていく火の山を利用していました

89 :
>>83
今の世の中、30歳大卒それなりの企業勤務の手取りが10〜20万ってことはないと思う。

90 :
「火の山」での家族旅行の思い出をお持ちの方々がおられて嬉しいです。
当時は確か三角ゆきでしたっけ?
立野のスイッチバックには胸踊りました。
朝の別府始発の列車と言えば他にも、西鹿児島・鹿屋ゆき「しいば」、長崎・佐世保ゆき「西九州」
どんどんあげていくと、門司港・広島発宮崎ゆき「青島」、ぐるりと回って戻ってくる「ひまわり」、九州をほぼ一周していた「フェニックス」…いろんな列車がありましたね。
DC急行全盛期の懐かしい思い出です。

91 :
火の山は三角行きと博多行きがありました。
俺が乗ったのは53年、豊後竹田から大牟田まで、
豊後荻からの山登りで、いつ止まるのかと思うようなノロノロ運転。
外輪山を下る時のカルデラの雄大さ。
立野のスイッチバックなどが印象に残ってます。

92 :
>>86
全日空のフォッカーF27フレンドシップ。
足摺と室戸の両岬の沖を通って羽田に直行だった。

93 :
別府に行くのに「ゆのか」をよく利用していましたが
この列車にはビュッフェが付いていましたね
別府に近づくと本当に湯の香がしてきて温泉地に来たという気分になります
そういえば長距離列車にその名も「べっぷ」というのがあったような気がします

94 :
>>90
博多から来る「火の山」もあったよ

95 :
>>91
>火の山は三角行きと博多行きがありました。
そうでしたね。
ボックス席の通路側に手すりというか取っ手が付いてましたが、
単純な形のやつと立体的な形のやつとがあって、立体的な方が高級感があるように感じてました。
小学生の一人旅でしたが、飲み物は冷凍した缶入りポンジュースを2本持たされ、車内販売は御法度でした。
立野あたりで売りに来るアイスクリームが欲しかった・・・
夏休みの冷房は快適でしたが、冬休みの暖房は効きすぎで火照った顔をくもった冷たい窓に押し当てるのが気持ち良かった。

96 :
1977年頃に大分近辺で使われてた気動車ってどんなのあります?
西九州や由布、火の山で使用された58系はもちろん、あとは45系の他、
久大線で毎朝キハ55か26を見かけたのは覚えてるんですが…。
廃止された宮原線では当時新鋭のキハ40に乗りました。

97 :
「べっぷ」ありましたねー。臨時(季節だったかも)列車でした。
子どもの時に、「かいもん」に乗った時に、別府で後ろ寄りの車両が切り離されたことがありました。あれが「べっぷ」だったかも…。
非営業になったサハシ455のビュフェの丸椅子に座って、横向に流れる景色を見て、特別な列車感を味わったりもしましたね。当時はわざわざそんなことをする人は無く(今も?)、ビュフェ室貸切でした。

98 :
大分運転所所属のキハ55には、一次車バス窓の33番がいましたね。
珍車で、キハユニ16の3というのもいて、これは他のキハユニ16とは側面のドアや窓配置が異なり、前面も貫通型という1形式1両状態の車両で、久大線に入ってました。
何度か乗りましたが、座席の背もたれが低いので、後ろ側の人と頭がぶつかったりすることがありました。これも思い出に残る車です。
キハ20の250番は宮原線を担当していて、大分12時13分発の久大線鳥栖ゆきに、回送を兼ねて豊後森止まりで連結されていました。
この車が検査に入ると、普段豊肥線で走っているキハ53の8番や9番が宮原線に入ることもありました。

99 :
>>96
大分には2両のみの珍形式キハ45 600番台の601、602が配置されていましたね
これは簡易荷物室付で数ある簡易荷物車の中で唯一の新製車
運転室寄りがロングシートと窓には保護棒、アコーディオンカーテン付かな

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