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2011年10月1期野球殿堂川上哲治を語れ
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【日本記録】斎藤雅樹【最多勝5回】
守備走塁は過大評価されすぎ
ここだけ35年前のスレ
【神戸三宮】●●●●掛布雅之●●●●
川上哲治を語れ
- 1 :05/11/26 〜 最終レス :11/12/08
- 通算成績:打率.313(歴代5位)、MVP3回(1941・1951・1955)、首位打者5回(1939・1941・1951・1953・1955)、本塁打王2回(1940、1948)、打点王3回(1939・1941・1955)
ベストナイン6度(1951年・1953年・1955〜1958)1953年に日本シリーズMVP
指揮官としてV9達成
赤バット・弾丸ライナーなどと俗なネーミングをされたが打撃の神様と呼ばれたのは
後にも先にも川上だけだ。なぜここまでの表現をされたのか。
今一度川上という人間に迫ってみよう。
- 2 :
- 重複だろ
- 3 :
- ついでに打撃の神様はテッド・ウィリアムズが先
- 4 :
- 重複ってこれのことか?
【打撃の神様ドン】川上哲治【V9監督】
1 :名無しさん@お腹いっぱい。 :03/10/20 20:05 ID:9SaX0ktz
テキサスの哲ことドン川上について
192 :神様仏様名無し様 :2005/03/31(木) 11:43:15 ID:1yS3el3T
>>177
石原慎太郎は所詮文弱なんだよ。
タカ派や男尊女卑的な言動をしているが、根は小心で女々しい。
気性のさっぱりした奴が文学など志すはずはない。
もう大分前にレスなくてDat落ちしてるようだが
- 5 :
- 初めて首位打者に輝いた1939年以来、晩年の1957,1958年を除いて規定打席到達したシーズン
で3割を切ったのが1948年だけ(ただこの年も.298で本塁打王に輝いている)というのはなか
なかの記録だと思う
現役時代、日本最高クラスの打者で在り続けた選手ですね
- 6 :
- 監督のイメージが強いなあ。
つか,この板の住人の大半は,監督時代すら
知らないだろうが。
- 7 :
- その1948年も現在のルールでは3割越えている
当時は犠飛でも打数に加えていた
戦後は56年まで実質ずっと3割といっていいと思う
1957年のシーズンもベストテン5位
- 8 :
- >>なぜここまでの表現をされたのか。
戦後の娯楽といえば野球しかない時代だったから
良いようにも悪いようにも大げさに言われる
- 9 :
- ×戦後の娯楽といえば野球しかない時代だったから
○戦後の娯楽といえば野球と相撲、プロレスしかない時代だったから
- 10 :
- 東西対抗戦〜1リーグの頃ってプロレスってあった?
相撲もいつ頃復活したか正確に知らないんだけど
- 11 :
- >>10
相撲は1945年11月に戦後最初の本場所をやってるよ
- 12 :
- サンクス
じゃあしばらくは相撲と野球が日本人の生きる希望になってたわけだ
そういえば当時の大横綱双葉山と川上は同じ九州出身で交流があったらしいね
- 13 :
- 人間的には小物のような気がしていたが他選手の優れた点を素直に認める
あたりはエライ
- 14 :
- ゴキローを私は打撃の神様と呼ばれてたが彼こそがそう呼ばれるにふさわしいと言ったこと?
たしかに腹黒い部分あるけど打撃でも人間的にも川上のほうが上
今の人間は戦争も知らない平和な世で何不自由なく野球をやってこれた
一日一日の生活を考え、外国の影からくる圧力に耐えるべく精神力、粗悪なボールを使う中
で一人外野を鋭いライナーを飛ばしていた、誰に教わることもなく腰の回転で打つ打法を編み出す
メジャーを目のあたりにして組織野球の大事さを肌で感じ監督に従ってチームの中心となり
監督となってチームをまとめあげ常勝チームをつくりあげる
かたや小さい頃から言われるままにバッティングセンターにかよいそれがたまたま素質に
見合って打撃がよくなり圧倒的な力を発揮、だがそれを勘違いしてチームへの協調を妥協
と勘違いして歩調をあわせず一人相撲おまけにチーム批判を言いたい放題
どっちがいいかなんて一目瞭然
- 15 :
- 偉そうなことぬかすな
- 16 :
- ゴキヲタ出張乙
- 17 :
- 〜ん、一郎を出すまでもなく、新人時代の話とかね。
タイガース山口のカーブ打ちに唸った、とか賞賛だけでなく
練習しなくてもちゃんと結果出すのがプロだ、とか言う
当時の良くない面も素直に供述している姿勢、
自分の生きた時代を美化しないトコロ。
- 18 :
- カーブ打ちといや初めて職業野球見に行った時にもうこれしかないってのを見つけてたとか
その時打たれたのはかの沢村栄治、そういや川上は歴代最速投手に誰の名をあげたん
だろうか?三原や水原は言うまでもなく沢村だったが同じく彼の全盛期を見てる川上にとってはどう感じていたんだろうか?
- 19 :
- >>13
不仲だった広岡氏の正力賞の受賞(1982年)を強く推薦しましたな。
- 20 :
- 電車から外の広告見て動体視力を磨いてたいうけど、それって視力悪くなるだけじゃ?
晩年メガネかけてたし・・・
- 21 :
- >>17
>自分の生きた時代を美化しないトコロ。
まぁ名監督の条件だろうね、現在の選手を最大限に評価して使っていかなくちゃならないのに
「漏れ達の時代は・・・・」って自分達の時代を基準にしてれば、進歩がないって事になるし
名将三原脩も、例の「日本野球の打撃人を五人挙げれば・・・」のセリフの中で挙げてるのは
大下・中西・川上・長嶋・王で自分が全盛期の景浦や中島の名前は挙げてないし
もっとも最高の投手は稲尾じゃなくて沢村だって言ったって説もあるがソースは未確認
- 22 :
- 戦後赤バットで名をはせたけど、スタートは悪い印象で持ちきりだった
- 23 :
- イメージ悪くなったといや、1億円フォールドアウトとか
- 24 :
- 金銭感覚に関しては落合と同レベルだな。
- 25 :
- >>23
1億じゃなく3万円じゃないか。
- 26 :
- 今銭闘とか言って揉めてる選手たくさんいるけどみんな川上に比べたらかわいいレベル
当時2ちゃんがあったら野球板ではなく全体で総叩きだろう社会全体そういう雰囲気だったし
戦後の生活が苦しい時代にいくら職業野球一の打撃人といってもそんな大金をもらうことは
許されなかった、でも川上は家族を養うために真剣に考えての結論だったんだよな
- 27 :
- 丹波○郎がTVでこの世で一番嫌いな人間だと言ってたな。
おかげで死線を彷徨い大霊界が見れたんだからある意味恩人なのだが。
- 28 :
- 戦争といえば、川上氏も鉄砲玉が飛び交うような生死を分かつ戦場に行けば
精神が鍛えられてバッティングに役立つと本気で思っていたらしい。
- 29 :
- 現在31歳だが、中学の頃国語のテストで川上氏の書いたものが論説文で出た覚えがある。
内容はよく覚えてない。
- 30 :
- >>29
本当に本人が書いたと思ってるのか?
- 31 :
- >>29
本当に本人が作ったテストだと思っているのか?
- 32 :
- >>31
テスト作ったのは先生か業者だろ。
- 33 :
- >>32
本当に本人が先生だったと思っているのか?
- 34 :
- 赤バットも兵役ついてるんだな3年くらい
それも選手としては脂のりかけてる頃に
戦地でどこも負傷したり無駄に体を傷つけない自己管理もさすが
- 35 :
- 腐れ外道ワンコ貞治
中韓ゴキブリ野郎が日本野球界を蹂躙する!
腐れ外道ワンコ貞治
中腐れ外道ワンコ貞治
中韓ゴキブリ野郎が日本野球界を蹂躙する!
韓腐れ外道ワンコ貞治
中韓ゴキブリ野郎が日本野球界を蹂躙する!
ゴ腐れ外道ワンコ貞治
中韓ゴキブリ野郎が日本野球界を蹂躙する!
腐れ外道ワンコ貞治
中韓ゴキブリ野郎が日本野球界を蹂躙する!
腐れ外道ワンコ貞治
中韓ゴキブリ野郎が日本野球界を蹂躙する!
キブリ野郎が日本野球界を蹂躙する!
- 36 :
- 川上に完全勝利した野球人はいないだろう
これからいろいろと紹介していきたいとこだが
- 37 :
- 与那嶺氏が中日監督時代、中日が巨人にリードされていると
「チクショウ、テツの奴」とつぶやいたそうだ。
西本幸雄氏が近鉄の監督を辞めたとき、「心残りは日本一になれなかったことですか?」
という質問に対して、「いいや、テツの奴をギャフンと言わせることができなかったのが
心残りだ」と答えたそうだ。
- 38 :
- 江夏が新人のとき、当時の阪神監督だった藤本爺に『おい、テツ!』って呼び止められて
『ハッ!』って直立不動になったのを見て、江夏がビビッタって逸話もあった
- 39 :
- 西本さんは大毎の監督を辞めた(クビになった)後、
川上から打撃コーチを要請されたけど断った。
- 40 :
- >>38
そりや川上にとって自分が入団した時の監督なんだから仕方ないだろう。
- 41 :
- 川上は上に弱く、下に強いからな
- 42 :
- 水原追い出しには一躍かってるんだけどな
もちろん正面からではなく影から
- 43 :
- >>41
戦争経験者ともなれば上の命令は絶対で下には当り散らすってのが普通なのかもな
まあ普通の人だってそういう傾向はあるだろうけど
- 44 :
- 監督時代、選手の契約更改の場に居合わせ、選手がゴネると
「貴様、これで納得しないなら来年はもう使わんぞ」と
一喝したそうな。
その反面、日本球界がセーブポイント制を採用していなかった当時
数字としては残らないものの、投手がしっかり抑える(セーブをあげる)と
年俸査定のポイントとして認めたそうだ。
監督を辞めたとき(1974年)にはまだ54歳だった。
年齢的にはまだまだ監督業をやれたかもしれない。
- 45 :
- >>44
巨人辞めて、他のチームに行ってたら面白かったね。
パリーグでノムや金やんと渡り合ってたら、きっと球界の
歴史は大きく変わっていただろうな。
- 46 :
- >>44
監督勇退後、球団社長を狙ってるって噂もあって、ビビッた当時のフロント陣が必要以上
にセゲヲを担いで川上を巨人から遠ざけたって話もある
その時はまだ、巨人は、本社(讀賣新聞)を継げない、バカ殿(子正力)のおもちゃって
雰囲気があったから、本社筋の介入もほとんどなかった、風向きが変わったのが
江川事件の時で、「あんな連中(小正力を含むフロント陣)に任せてたらエライ事になる」って
判断した務台老が介入し始めて、川上も復権を果たしたとか
- 47 :
- 鉄のカーテンとかいってキャンプはマスコミをシャットアウト。
当時は面白くない野球なんて言われてたけど、今の巨人より確実に面白かった。
- 48 :
- 巨人から入団を誘われていたときに、同時に新生球団の南海やノンプロの鉄道会社からも
誘われていた。南海のほうが契約金が高かったことを後で知り「惜しいことをした!」
と残念がったそうだ。ノンプロの鉄道会社も好待遇で、福利厚生で電車のパスが貰えるので
そのパスで両親を旅行へ連れて行きたいとも考えていたそうだ。
川上氏の実弟の川上治徳氏は地元の熊本県人吉市で竹とんぼ愛好家として知られている。
- 49 :
- >>48
最後の一行、ここ数年で最大のヒット
- 50 :
- >>21
>もっとも最高の投手は稲尾じゃなくて沢村だって言ったって説もあるがソースは未確認
わざわざ自分の無知をひけらかさなくても
- 51 :
- >>48
「兄・赤バット、弟・竹トンボ。〜夢と共に駆け抜けた戦後60年」
(川上治徳著・熊本日日新聞社)
帯のコメント
『ホームランと竹トンボ。どんな辛い時も、私達はいつも青い空を見上げていました』川上哲治氏(野球評論家・元読売巨人軍監督)
主な内容
原点は親父のゲンコツ
腰で耕せ
「職業野球」という響き
終戦の日
兄の帰
- 52 :
- 『巨人軍の鬼と呼ばれて』を読んだことある人ちょっときてくれ
- 53 :
- 川上さんが60歳の時にOB戦に出ていた。
その日は体の調子が良かったらしく流し打ちでヒットを打っていた。
あのバッティングのしなやかさには見ていて驚かされた。
現役時代はそれは凄かっただろう。
- 54 :
- この人、長嶋とは逆に過小評価されすぎだよ。現役時代の実績、監督時代の斬新な取り組み、その後の
球界に与えた影響力なんかを考えると、もっと評価されていい。
- 55 :
- >>54
そうだね。
声だけはデカい団塊世代の長嶋コールにかき消された感はあるな。
はっきり言って選手としても監督としても、長嶋よりも数段上なのにな。
100歩譲ってV9の偉業はONがいたからこそ、というのであれば
長嶋の監督としての数回の優勝も、王や張本や斎藤や落合や
松井がいたからこそ、ということになるわけだし。
やっぱり川上氏はもっと評価されるべき。本人が健在なうちに。
- 56 :
- 70年代後半の川上派と長嶋派の抗争劇がイメージダウンになっているような
気も。あの時期は長嶋さんに世間から同情が集まった。
- 57 :
- 男のケジメと言われた長島辞任劇に裏で暗躍してたのが川上だと言われてる
詳細さだかでないがいつもこの手の噂が絶えないテキサスの哲であった
- 58 :
- 野手がフライを取らない。ランナーがベースを踏まない。
そんな異常な怠慢プレーが何時も起きていた異常なシーズンだった。
それをやっていたのは川上派の選手だった。
内紛状態は頂点に達していた。
長嶋派の選手がハッスルプレーを見せていたのだけが救いだった。
- 59 :
- CSの解説でロッテの応援を褒めてた。ちょっと意外だったな。
- 60 :
- 名球界(1978年設立)が、昭和生まれの選手に限定しているのは
川上氏を名球界に入れると何かと面倒になると思ったための
措置といわれる。
名球界も250S達成者や、日米の成績を通算などの入会資格の改正をするまえに
川上氏や杉下氏などににも入会資格を与えたらどうかと思った。
- 61 :
- 名球会はカネヤンの主宰でしょ
公的団体でも何でもないのだから別にいいんじゃない?
- 62 :
- あの赤バットはとある運動具店の発案で宣伝料として1万円もの大金が貰えるとのこと
だから川上も乗ったんだろう、当時2chがあったら「また銭神か」と叩かれそうだ
- 63 :
- セーブは30セーブを9年連続で出来れば名球界資格が得られるなら
比較的楽だろうな。
- 64 :
- 金投手や張外野手は数字上では川上より上回ったが存在そのものは足元にすら及ばない
- 65 :
- 色んなエピソード聞くと、あの時代に生まれた人としては奇跡的にバランス感覚のある人だよね
ただの懐古主義者にはないふかみがある。
この人の発言とかまとめた本とかあるのかな?
- 66 :
- >43
澤村も景浦もそれとは正反対だぞ?時代は違っても川上的なのは下から
の支持は得られないよ。川上は人の上に立つより職人的だな。
- 67 :
- >>65
>>51
- 68 :
- 俺みたいな素人ファンが最も忌み嫌うタイプの人間やね
川上≒ワンコ
- 69 :
- 王監督は突然の糞詰まり症状で「お便所」に立て篭もり出てこられません。
ドア越しにプップッと音を発しながら「皆さんにご心配をかけていますが今力んでいます。もう少しで開穴しますのでそれまで
暫くお待ちください。采配は孫オーナーに任せます」と申しておりました。
- 70 :
- フジ739でやっている『さらば、愛しきプロ野球…。』の初話が川上哲治だったが、
依然かくしゃくとしているな。門田の方がやばそうだ。
- 71 :
- 門田はやばいよなぁ…なんか本人ももう諦めたような感じだし
- 72 :
- ▽川上哲治・元読売巨人軍監督の弔辞
藤田君……。
「今までよく頑張ってくれたね。きみは自分のことは忘れて、いつも人のことばかりに気をつかって、本当に大変だったね。ごくろうさん。いまはもう楽になったことだろう。ありがとう。長いあいだ、本当にありがとう」
きみが亡くなった翌日の朝、用賀の自宅をたずねると、きみは応接間に眠るように静かに横になっていた。訃報をきいてから、気持ちが乱れてどうしようもなかったが、きみにこう話しかけたら、心が少し静まった。
去年の十一月二日、正力賞の選考会で会ったとき、杖をついていたので、「大丈夫か」と声をかけると、「大丈夫ですよ。おやじさんこそ気をつけてくださいよ」と逆に気づかってくれた。何年か前から透析をする体になって、入院することも何度かあったが、
この日は会議のあとの食事もちゃんととっていたのですっかり安心していた。翌月に入院していたことは知らなかった。まさか、あの日が最後の日になるとは……。思いもしなかった。
- 73 :
- このショックは、今日になってもまだおさまらない。この何十年のあいだ、公私にわたり、一緒に過ごしてきた、あまりにも多くの思い出が、次から次と甦ってきて尽きることがない。
選手のころ、水原監督から「藤田頼む」と言われたら、肩が少々重くても、また、完投した翌日でも、チームの勝利のために、「行きましょう」ときみは黙って投げ続けた。投手生命を縮めてしまったが、愚痴ひとつ聞いたことはなかった。
V9時代、すぐにピッチャーを代えたがる僕に、コーチのきみは「まだ大丈夫です」と投手をかばい、僕のズボンのベルトを握り締めて、マウンドへ行かせなかった。鬼のような顔つきのきみを忘れられない。
また、宮田投手の個性を活かすため、リリーフにつかい「八時半の男」に仕上げて、プロ野球でのリリーフ専門投手の基礎を築いた。それもきみの功績だ。
- 74 :
- そして長嶋くんの後を受けて、大逆風のなかで監督になると、みごと日本一となって巨人軍の大ピンチを救ってくれた。戦力もどん底、
火中の栗を拾う損な役回りはきみにしかできないことだった。さらに王監督の後のチームのピンチのときも、再建をひきうけた。長嶋監督のときと同じで、
人気監督のあとは、誰が見ても腰のひける損な役割だった。だが、このときも、「友達がちょっと疲れたので、その代わりを務めるだけです」と逆に王
くんを気づかう爽やかなコメントをしていた。
きみには以前から心臓の持病があった。このころは腎臓も悪くなっていて、医者から「今度監督をやったら命を縮めますよ」と言われている、と聞いていた。
「でもね、おやじさん、あのおじいさんの務台さんから、『藤田くん頼む。きみしかいないんだ』と言われたら、断れませんでした」ときみは笑って言っていた。
自分を捨て、務台光雄会長の心にこたえた。愛する巨人軍へ笑って命を差し出す男気。この男は、いつでもる、勇気のある本物の日本男子だ、と改めて感じたことを覚えている。
- 75 :
- しかし、そういうきみは、いまはもういないのだ。どんなに辛く悲しくとも、その現実を受け入れるしかない。
いつだったか、きみが大好きだ、という言葉を聞いたことがある。
「あたりまえのことを、あたりまえにすれば、あたりまえのことが、あたりまえにできる」
慶応高校野球部長、故、長尾先生から教わった、ときみは言っていた。若いころから、球界の紳士、と呼ばれていた、いかにもきみらしい人生観だった。いつかそれを褒めたら、「いやいや、学生のころは喧嘩っ早くて、不良だったんですよ」と言っていたのを思い出す。
「紳士たれ」という言葉こそ、かつて正力松太郎さんが巨人軍の指針として示された言葉だ。紳士とはやせ我慢ができて、人に手柄を譲れること。そして誰にでも愛情をもって接することができること。きみはその全部を持っていた。
- 76 :
- 言うまでもないが、きみは優しい夫で良き父親。あたたかく素晴らしい家庭を築いていた。本当にきみは情にあつく優しい人だった。しかしそれだけではなかった、と僕は思う。
きみほど厳しさに徹底した男は少ない。愛情とは、ただ仲良く、甘く優しくすることではない。厳しく相手と向き合ったうえで、人を活かすことだ。どんな人間にもその人なりに素晴らしい持ち味がある。
失敗を受け入れ、弱さを認めてチャンスを与え、力を引き出してやる。それがきみが命を削ってまでも、後輩たちに伝えたかったことだ、と僕は思っている。
そういうきみだから、運にも恵まれた。ドラフトで、原くんを引き当てた。教え、育てて、いまやきみの立派な後継者となって、今年の巨人軍を率いてくれている。心配はいらない。かならず大きな花を咲かせてくれるに違いない。
いろいろ言ってきたが、今頃は先に行った仲良しの牧野くんと再会しているかもしれないな。約束を破って、僕より先にいってしまったが、もうすぐ僕もいくだろう。そうしたら、そちらでまた楽しくやりましょう。
今日は辛くて寂しい。悲しいけれど、涙を見せずにきみを送ることにする。どんなに辛いときでも、笑顔を忘れなかったきみへの、それが一番の供養だと思うからだ。
ありがとう。ありがとう。本当にありがとう……。
藤田くん、さようなら。
http://www.giants.jp/G/gnews/news_20060215_0001.html
- 77 :
- 川上の捕球のヘタさに
広岡がキレた、という話は有名だが、
川上は守備はダメだったの?
それとも、晩年だけのことかな?
- 78 :
- >>77
捕球がヘタ云々ではなく
無理してとりにいくと、自分にエラーが記録されるのがイヤで
自分が楽して捕球できる所しか捕らなかった。
- 79 :
- 星一徹に2軍コーチ要請したけど、断られた。
- 80 :
- 藤田葬儀に際杖ついて歩いてる姿があったがヨレヨレだな
年が年なだけに仕方ないがもうダメかもね
読売軍次の名物訃報はこの人かも
- 81 :
- 川上哲治が、なぜ打撃の神様と呼ばれるのか、得点圏打率を出すとよく分かる。
チャンスに強いといわれる長嶋と単純に比べてみても.343で、長嶋の.314を大きく上回る。
最高を示したのは「球が止まって見えた」という1951年の.456。
これも長嶋の最高、61年の.434を優に超している。
(得点圏打率のシーズン最高記録は85年落合の.492)
ルール上犠飛がなく、打率も低い時代での数字だからなお凄い。
- 82 :
- >>81
この数字は本当に凄いですね
- 83 :
- 天性の勝負強さってやつか
史上最年少で打点王の記録は今も破られてないし今後もこの記録を更新する者はいないだろう
- 84 :
- さすがをなめて肥料の質がわかる漢だけのことはある。
- 85 :
- プロ選手でこれだけ長生きしてる人も珍しいかも。
もっと長生きしてこれからの巨人や球界を見守り続けてほしい。
- 86 :
- 信用できる書き手による、分厚い評伝はあるんですかね?
あったらぜひ読みたいところだなー
- 87 :
- 川上さん自筆(か知らないが)『遺書』って文庫本が出てましたよ
- 88 :
- 次は川上ジャパンで
- 89 :
- 所詮星野の77も川上の真似で。その77もコンバット77の真似でしたっけ。
けどまあ何と言っても「湯口事件」のコメントが川上の人格を物語ってますので。
- 90 :
- 川上の対〇〇ってエピソードをあげればきりがないほど出てくる
- 91 :
- 「石橋をたたいて渡らぬ」という川上野球が
日本のプロ野球をつまらなくした、という批判は
V9当時からある。
この板の一部の長嶋スレと似ている?
- 92 :
- 148 名前:神様仏様名無し様 投稿日:2005/12/05(月) 09:55:57 ID:ewz7prqg
はみ出し物大好きな二宮清純が川上と話をする機会が設けられて、
「あんたが日本の野球をつまらなくしたんだ」と長年の鬱憤をぶつけたら
川上は少し不思議そうに、
「あの当時の巨人はONもまだ未完成で大砲不在のチームだったから
ああいう野球をやったんだし、第一あの当時ああいう野球をやってるのは
巨人だけだったから他のチームとの両義の違いがはっきりして面白い
試合になったわけでしょう。問題なのは我も我もとみんな巨人と同じ
野球をやろうとすること。私が今監督が出来たら、V9時代とは全く違う
豪快に見えながら勝てる野球を作る。要はリーグのバラエティぶりですよ」
と答えたのに二宮すっかり恐れ入ったとか。
またこの日の話で二宮が感心したのが送りバントや犠牲フライなどの
日陰の仕事をした人間に対する査定ポイントを明確化して、派手な
数字を残せない人間が給料で満たされるようにしたこと。
「誰だって好きに打って数字を残したいんですよ。チームのために
いやな仕事をした挙げ句に給料まで抑えられるんなら、誰がそんな役を
引き受けますか」
という発言にすっかり感心していたのにはちょっと笑えた。
- 93 :
- 選手を率いるのはうまかったかもしれないが、育てるほうだと
どうかと思う。
V9戦士の森・土井・堀内・柴田を見るとつくづく思う。
- 94 :
- 文庫本の遺言持ってる。
啓発書として参考になることが多い。
- 95 :
- 川上哲治の出身地(熊本県人吉市)は球磨焼酎の産地ですよね。今も元気の秘訣は
「球磨焼酎」でしょうね。
- 96 :
- NHKだけでせこせこ解説してるのかと思ったら去年スカパー308chJスポ3にゲストで出てたな
西武とロッテだというのに風変わりというか何と言うか
体元気なら今年も出てきてほしい
- 97 :
- >>92
論客の二宮も恐れ入ったって感じだな(w
- 98 :
- >論客の二宮
>論客の二宮
>論客の二宮
- 99 :
- 石井たくろうの記録で唐突に名前があがり、板も浮上。
- 100read 1read
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