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2011年10月1期戦国時代美濃斎藤家
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美濃斎藤家
- 1 :06/06/17 〜 最終レス :11/12/07
- 蝮の道三
大男の義竜
凡愚の龍興
美濃三人衆
個性的な面々の斎藤家について語りましょう
- 2 :
- 斎と斉
どっち?
- 3 :
- 龍興は凡愚か
父親の急死で13歳の若さで家督継げと言われても、
なかなか苦労すると思うがどうだろう。
織田信長は17でした。
- 4 :
- まあ20になるまで粘りましたがね
- 5 :
- >>2
齋藤
- 6 :
- 道三乗っ取り以前の斎藤家は語っていいのか?妙椿とか。
- 7 :
- どうぞ
- 8 :
- 石丸の乱が痛かったな。あのまま利仁流斎藤が美濃の支配層に残っていたら
信長侵攻時の美濃の結束は高かったかも
- 9 :
- なら利三もか。
- 10 :
- 家臣に城を奪われた時点で擁護できんなあ
- 11 :
- やはり竹中重治でしょ
- 12 :
- 龍興って何度か信長破ってなかったっけ?
- 13 :
- 殆ど負けだろう。破った戦いといえば十四条・河野島合戦くらいじゃないか?
- 14 :
- 道三の父はなんて名前だっけ
- 15 :
- >>14
ミチロウ
- 16 :
- >>14
長井新左衛門尉じゃ
松波基宗の子ともされるが、例の出世物語が親子二代にわたる話では?
と言われことが多い
- 17 :
- もう親子二代説で確定でしょ。
- 18 :
- 世代的には一番しっくりくるな>二代説
- 19 :
- 道三は義龍以外に子供いたの??
- 20 :
- いっぱいいたよ
- 21 :
- 五男は長龍だったね
- 22 :
- >>19
義竜に手打ちにされたはず。
- 23 :
- 斎藤新五郎はどうなるのよ?
- 24 :
- 道三は謀将のイメージが強いが、戦も強い。
美濃内乱では同族から近江勢、
加納口の戦いでは尾張勢率いる織田信秀を完全に叩きのめしてる
- 25 :
- 大柄で病弱で謀略家な義龍のキャラがいまいち掴めない
- 26 :
- 実績が少なすぎる
- 27 :
- http://s.pic.to/16uis
岐阜市にある織田塚。
- 28 :
- 義竜の死因は何?
- 29 :
- (俗)斎藤義龍は道三の息子ではなく土岐頼芸の息子で身長2mでハンセン病だった
(史)義龍は道三の息子で身長も平均値で変な病には犯されてなかった。
- 30 :
- 父子二代の逸話が,
ひとり分にまとめられて伝えられてしまった
という定説で本当なのか?
- 31 :
- 今二代説である程度言われているのが、最初期の法華経を学んでいた僧
法蓮房として生を受けたが、その後その学友のつてを使い、美濃の名家長井家に
仕官した所までが、父である可能性が高く、その後斎藤道三の実父が亡くなったという辺りから
正式に道三(この時は司馬小説では庄九郎だったか勘九郎だったか)の名が出てきたらしい。
- 32 :
- どこからが道三なのかな?
松浪庄五郎?
西村勘九郎?
長井新左衛門?
父は松浪基宗?
- 33 :
- 六角義賢が家臣に宛てた手紙に、道三の父親が小坊主、油商人、長井市への
仕官ということを経て、道三が長井氏を乗っ取り、美濃の国主になった。
と、書いてある。
- 34 :
- 斎藤秀龍・・・その道の人のような名前だね
- 35 :
- >>33
ってことは西村勘九郎までは親父殿なのかな?
- 36 :
- 岩井三四二の斉藤道三書いたの面白いよ〜
書店で売ってるの見たこと無いけど。
- 37 :
- 日本大百科全書によると
(略)
この俗説には混同があり、その前半部分は道三の父の事績で、道三の国盗りの過程は、
実際には道三とその父の2代にわたったことが明らかにされている。
妙覚寺学僧で還俗して西村を称したのは実は道三の父新左衛門尉(しんざえもんのじょう)であり、
新左衛門尉は守護土岐氏の有力家臣長井氏に出仕してしだいに台頭、
長井氏を称し長井氏惣領と並ぶ実力者に成長する。
新左衛門尉は1533年(天文2)死去するが、その子長井規秀(道三)の確実な初見も33年で、
同年もしくは34年、道三は長井氏惣領を討ち、
35〜36年、時の守護土岐二郎(実名未詳)を追放して頼芸を守護とする。
37年ごろ守護代斎藤氏の名跡を継いだらしく、斎藤利政と名のり美濃の実権を握ると、
やがて52年頼芸をも追放するが、子の義龍と不和になり、
56年(弘治2)4月長良川畔に戦って敗死した。
織田信長、飛騨の三木自綱はその女婿。 〈谷口研語〉
- 38 :
- つまり長井新左衛門尉までが父
長井規秀→斎藤利政→道三ということね
ありがとうございます
- 39 :
- どうも国盗り物語のイメージが強い。
- 40 :
- じゃあ斉藤道三はいつ生まれたんだろ。
- 41 :
- 永正元年(1504)説があるね
- 42 :
- 義龍が長命なら信長は美濃攻略だけで一生終わりそうだな
- 43 :
- 義竜は結局頼芸の子なの?
- 44 :
- わからない。
話自体はもちろん創作だけれども嘘から出た誠ってこともあるしね。
永久に分からないと思うよ。
- 45 :
- 斎藤家が支配してたのは美濃一国?西美濃?
- 46 :
- 西美濃じゃない?遠山がいたし
- 47 :
- 道三の幼名は峯丸といい、非常な美童だった。
また大変頭も良かった。
- 48 :
- 道三の生涯を書いた古い資料は『美濃国諸日記』と太田牛一の書いた『信長公記』がよく使われる。
- 49 :
- 美濃国諸日記は、道三一代立身説なの?
- 50 :
-
- 51 :
- 美濃って、東西以外にも中美濃とか奥美濃ってあるんだ
そこらがよくわかりません
- 52 :
- 父子説を裏付けてるのは
六角承禎の手紙と『近濃記』の2つ。
- 53 :
- 道三が美濃を取ったといわれているころは、
加茂郡北部や恵那郡北部は三木氏の支配圏。郡上郡の東氏も半独立状態。
- 54 :
- 斎藤妙椿の頃は、郡上の東氏や居益の長江氏を破って、威勢は国中に及んだんだけどね
土岐も守護代の斎藤も後が続かなかった
- 55 :
-
- 56 :
- 道三の親子国盗り説でちょっと疑問に思ってたことなんだけど
あの当時に書かれた資料には一代説て書かれてたりするの?
あるんなら、一代で国を盗るっていうインパクトある嘘を皆、揃って書いたってことかな?
そんな混合するほど人々の印象に残らない事件じゃないと思うんだけど
- 57 :
- あげ
- 58 :
- >>56
これを言ったら実もフタもないけど、
はっきり言って一代説も二代説も大差ない。
京都からきた商人が
美濃の一家臣の家と親交を持ち
ちょっと美濃に基盤を作ったところで
二代目(つまり道三)にバトンタッチだから、
実質、一代の国取りに等しい。
- 59 :
- まあたしかに、二代説が正しかったとしても、
守護の部下守護代の重臣小守護代のさらにしたの家からだからねえ。
- 60 :
- 非常に亀だけど>>58丁寧にありがとう
なるほどと納得しました
だとすると、道三はやはり一角の人物ではあったのかな
- 61 :
- 守護代長井氏を乗っ取ったのかが第一段階。
守護土岐氏を駆逐したのが第二段階。
どこでも起こってる主家乗っ取りを2回やった稀有な例なんだろうな。
- 62 :
-
- 63 :
- >>61
細かいつっこみですが、長井家は守護代ではなく小守護代ですよ。
- 64 :
- そうだね。ごめんなすって。
- 65 :
- 龍興と新五の生き方は対照的だよな。
龍興は、ひたすら織田家に反目して朝倉とともに死亡
新五は、ひたすら織田家に仕えて本能寺で死亡
- 66 :
- もし、道三の子供や孫に優秀なのがいたら、信長は天下を取れなかったの?
てか、なぜに美濃を攻めたのだ?伊勢はなぜ、後になった?
- 67 :
- >>66
道三の遺言状があったからだろ
美濃を後回しにしても遺言状の効力が薄まるばかり
道三の後継者としての美濃攻略なら龍興政権の親道三派の離反も狙えたかもしれないし
と俺は思っているんだが・・・
- 68 :
- 道三の遺言状は存在そのものが怪しいけどな。
織田家側の史料である信長公記にしかでてこないし、
信長の美濃侵攻を正当化するための捏造な気がする。
- 69 :
- この書状については偽書説もあるみたいだけど、道三の遺言状は
こういう感じで妙覚寺に残ってるよ。
ttp://www.geocities.jp/ootaka502/saitodousan.htm
- 70 :
- まあ遺言状はともかく舅&盟友の敵なら一応大義名分が立つんじゃないか
- 71 :
- 確かに遺言状云々は置いといても名分のたつ美濃を攻めるのが常道じゃね?
それに美濃は豊かな国だし、主君が変わったばっかの国ってのは狙いやすいとも考えたかもね
- 72 :
- 義龍がもうちょっと長生きだったら、信長の天下取りも遅れていただろうな。
- 73 :
- 時差は出るだろうが、結果としては変わらんだろうな・・蓄えた国力差で押し切られた部分もあるし。
一番時差が出る、というか歴史が変わるのは、道三が生きていた場合な気がする。
北畠の方に伸ばしていけるかもしれんが、少なくとも義昭つれて上洛、はなさそうだ。
上洛するとしても普通に上洛か。斉藤あたりと一緒に。
でも今思うと、美濃の斉藤と尾張の織田、さらに三河の家康まで同盟出来たなら、かなり強力な勢力圏だよな。
- 74 :
-
- 75 :
-
- 76 :
- 長井道利は道三の異母兄弟?
- 77 :
- 稲葉一鉄から明智光秀の家老になった斎藤利三の出自に詳しい人いますか?
- 78 :
- 詳しくないけど地元だと光秀の従兄弟か甥ってことで。
- 79 :
- 政宗>>>>>>>>>>油売り
- 80 :
- >>77
道三が養子入りした斉藤家と遡れば道祖。
- 81 :
- まぁ道三のスタート位置は、信長の親父信秀よりはましって言う程度。
- 82 :
- >>81
信秀のほうが親の代の下準備がある分有利。
道三二代説をとっても、二代目道三より信秀のほうがまだいい立場からのスタートだな。
- 83 :
- ( ・ω・)?
- 84 :
- そうかな?道三のほうが信秀よりはマシだと思うぞ。
小守護代と同等の力の家と、半国守護代家の三奉行の家だから。
- 85 :
- 弾正家のあった津島の経済力をバカにしてはいかんよ。
- 86 :
- >85
津島って猪子だかの領分もあったらしいけど。
- 87 :
- 経済力だけで家の格は決まらないよ。
それに弾正忠家は織田ではあるが、守護代織田家と繋がり有るかは不明だし。
おそらく、道三の長井家と同じく、成り上がって織田の名を貰った家だろう、と言われてるし。
- 88 :
- それでも一応国人をまとめる立場になれたんだから
金の力は偉大だな
- 89 :
- 織田弾正家は津田氏だったんじゃないかな
- 90 :
-
- 91 :
- 龍興が朝倉に亡命したのは同じ反信長派だから?
実母は近江浅井家の出だけど、浅井に対する信頼は低かったか。
- 92 :
- 義竜、超未熟児として産まれたはずなのに、
よくも無事に育ったものだな。
しかもデカく成長しおってからに。
- 93 :
- 稲 葉 一 鉄
- 94 :
- >>91
朝倉と浅井では家格が違うし
- 95 :
- 龍興は道三みたいに朝倉を乗っ取ろうとしたんだろ。
- 96 :
- 龍興って庶子だったの?
- 97 :
- >>96
それが通説みたい。
義竜も早世したし、子は多くなかったようだね。
龍興の子はどうだったんだろ?
- 98 :
- 義竜謀反の時には美濃三人衆+不破は同調したの?
- 99 :
- 龍興が一色なんとかって改名してたらしいけど
何か意味あるの?
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