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2011年10月1期戦国時代【裸の大将】 日向伊東氏を語ろう 【放浪記】
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【裸の大将】 日向伊東氏を語ろう 【放浪記】
- 1 :08/05/10 〜 最終レス :11/11/30
- 何のかんの言われながら明治維新まで大名だった日向伊東氏を語りましょう。
三村氏のスレじゃないけど、隠れファンもいるでしょ?
- 2 :
- 2
宮崎県人です。
- 3 :
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- 4 :
- 伊東義祐→祐兵ってのは、凄い人生だと思う。
宮崎平野一帯の支配者→飫肥を占領して日向のほぼ全域→島津に敗れ親子で大友の居候
→大友没落後はただの浪人→義祐客死→祐兵は秀吉に仕官→本能寺後、天下統一の過程を経験
→飫肥藩主
だもの。戦国秀久なみの浮沈劇じゃないだろうか。
- 5 :
- 語る程の人物じゃないだろ。
オマエラ時間を浪費するなよ。
- 6 :
- 日向四十八城の詳細が良く分からない
- 7 :
- 長くなるが
佐土原城 伊東三位入道義祐、隠居後は佐土原摂津守
都於郡城 伊東左京大夫義益
三納城 飯田肥前守祐恵
穂北城 長倉藤七(改民部少輔、子も藤七)
富田城 湯地五郎九郎(改志摩介)
高城城 野村蔵人佐
財部城 落合民部少輔兼呑(若名藤九郎、子も藤九郎)
那珂城 郡司弥六左衛門尉(今湯地出雲神、津宮左馬助)
宮崎城 肥田木勘解由左衛門尉(今長嶺紀伊守、肥田木越前守)
曾井城 八代民部左衛門尉(改下野守)
清武城 長倉伴九郎、上別府宮内少輔
紫波州崎城 川崎上総守(今息和泉守)
田野城 長倉河内守(今息宮内大夫)
倉岡城 野村隠岐守(今山城守)
石塚城 平賀刑部少輔
穆佐城 落合兵部少輔
木脇城 福永民部四郎
本庄城 河崎兵部丞
八代城 伊東新三郎(改新助隠岐守息)
守永城 内田四郎左衛門尉
綾城 佐土原遠江守
飯田城 河崎治部大輔
内山城 野村刑部少輔
染野切寄 染野志摩介
紙屋城 米良主税助
- 8 :
- 野尻城 福永丹波守
高原城 福永源左衛門尉 (淡路息)
戸崎城 肥田木四郎左衛門尉
三ツ山城 平良彦十郎(改遠江守、子も彦十郎)
那佐木城 肥田木三郎兵衛
野久尾城 米良筑後守(筑後守死後新納伊豆守)
須木城 米良長門守(若名右馬助)
新納石城 長友源二郎
塩見城 右松四郎左衛門尉
門川城 米良四郎右衛門尉
日知屋城 福永新十郎(氏本駿河守)
山陰城 米良喜内
坪屋城 米良休助
田代三方領主 松尾下総守、篦尾彦三郎、俣江主税助
水清谷領主 奈須九右衛門尉
入下領主 入下弥四郎
神門三方領主 小崎右近将監、田爪、借屋
高智尾領主 三躰惟政(三田井惟政)
雄八重領主 米良分左衛門尉
平野領主 米良民部少輔
飫肥本城 伊東祐兵 (地頭上別府常陸守、福永宮内少輔)
酒谷城 長倉淡路守
目井城 河崎駿河守
瀬平城 上別府常陸守
48あるかな?
- 9 :
- 飫肥城知行割
城主 伊東祐兵
今城 伊東相模守祐梁 (三〇町)
松尾 木脇越前守祐守 (二〇町)
その他 佐土原讃岐守 (一〇町)
稲津因幡守重信 (九町)
長倉監物 (六町)
野村剣介 (六町)
上別府狩野介 (六町)
湯地刑部少輔 (六町)
落合藤七 (七町)
荒武又兵衛尉 (六町)
河崎紀伊守 (六町)
壱岐右近丞 (六町)
福永与八郎 (六町)
酒谷地頭 長倉淡路守
同後見 落合但馬守(六町)
長倉備前守(六町)
目井城 河崎駿河守祐長
- 10 :
- 伊東氏といっしょに関東から日向の国に来たと言われている家系の俺が着ましたよ。
勿論、滅亡の際は見限ったようで、江戸時代は郷士だったようです。
- 11 :
- >>10
長倉、稲津、落合、湯地、河崎、宮田、福永・・・のどれかですな。
うちも同じ東国系家臣で、帰参組でした。
- 12 :
- 稲津といえば稲津掃部助
関ヶ原の合戦後、主家に滅ぼされたのはやはり口封じだったのだろうか・・・
福永氏は伊東義祐の母の実家でしたっけ
- 13 :
- >>7-9
本当に乙です
ありがとうございます
これでやっと分かった
- 14 :
- しょ正三位はぐっぐっ軍隊で言うと少将くらいなのかな?
- 15 :
- よく三万貫も献上したもんだ。堺の町も嫌がった大金なのに。
しかし佐土原を始め日向ってそんなに栄えてたのかな?
重税に苦しんだ民衆なんて記録なんてないのだろうか。
- 16 :
- 伊東さんの先祖が作った稲荷山東林寺が菩提寺のおいらが通過しますよ
- 17 :
- 祐親の墓があるんだっけ?
>>15
数字には誇張もあるでしょ。
まあ、政治批判の落とし文に「近頃は佐土原の役人が多過ぎる」と書いてあるぐらいだから
尹祐の代に比べて経済が大きく変わっていたのは間違いないだろうけど。
- 18 :
- 何やって銭金蓄えたんだろ
やっぱり倭寇?
- 19 :
- >>17
伊東祐親の墓はちょっとはなれたところ、谷を挟んだ向こう側ってかんじかな。
もともと曽我兄弟の父河津三郎祐泰のために作られた寺だそうで河津三郎の墓と曽我十郎、五郎の首塚があります。
- 20 :
- >>19
遠い親戚同士で葬られてるのね
- 21 :
- >>19
曽我兄弟=曽我十郎、五郎
- 22 :
- 佐土原近辺には曾我兄弟の墓と言われる五輪塔がいくつもある。
伊東の支配を嫌った領民が曾我兄弟伝説に合わせたのかな?
新たに入った島津が伊東の評判落とすために噂流したのかな?
- 23 :
- >>22
兄は頼朝んところで斬られているし、弟も翌日打ち首だから日向にはいっていないんだけどね。
ええと、曽我兄弟(おかんが曽我さんの後妻になってた)に討たれた工藤祐経の子供の伊東祐時が日向の地頭職になって
一族を展開させたから、まぁ曽我兄弟の存在は対伊東戦略に有効だったかもしれませんね。
ただ、頼朝の陣屋に襲い掛かるという謎の行動(兄弟の後援者の北条時政の陰謀説)もあったわけで、
頼朝の後胤説もある島津氏がよいしょするのもなんだかな感じですね。
曽我兄弟は工藤祐経の叔父の伊東祐親の子河津三郎の子供達
所領争いで工藤祐経が伊東祐親を襲ったときに河津三郎がされた。
相撲の河津掛けは河津三郎が最初にやらかしたとされる。
- 24 :
- よろよろながらも明治維新まで完走したのはたいしたものだ。
- 25 :
- しかし、よろよろ加減では相良には負けるな
相良に比べたら伊東なんて遙かにしっかりしてる
- 26 :
- 小悪党の家系だよな。中ボス的というか
- 27 :
- 鎌倉初期から明治維新まで完走できた大名は
伊東・佐竹・島津・相馬
あとはどこだっけ?
- 28 :
- 九州だと地味だが地方豪族から武家化した松浦氏
鎌倉幕府から肥前有馬庄の地頭職を与えられた有馬氏とか
対馬の宗氏は実質的に鎌倉時代から対馬を支配下に置いたが
対外的に大名と認められるのは対馬守護であった小弐氏滅亡後だから外した
- 29 :
- >>28
肥前有馬氏も途中で転封+養子相続で血統断絶だから微妙
- 30 :
- 江戸時代の飫肥藩は材木商が大金もって城下町はかなり発展したからな。
特に何の特産品もなく、港も商業も発展しなかった佐土原藩は借金まみれだった。
太閤国替え万歳だな。
- 31 :
- いやいや
伊東は元々国を追われて秀吉の元で与力奉公していたのが新規取り立てされたという成り行きにですから。
ちなみに当初は飫肥だけしかもらえなかったことに対して伊東氏は不満たらたらだったらしい。
この不満が関ヶ原の合戦の時の稲津掃部助の暴走?や100年近くもを繰り返した「牛之峠」争論に
つながっていく。
佐土原は既に島津中務大輔家久領だったのが家久急死により、その息子の豊久(当時忠豊)に
そのまま相続させてやったという経緯。
- 32 :
- 誤 成り行きにですから
正 成り行きですから
- 33 :
- 初めは曽井に封じられる所だったのを飫肥にしてもらったんじゃなかった?
- 34 :
- 不憫だな
- 35 :
- 伊東氏で検索したら案外色々なサイトが見つかった
この規模の大名としては史料が豊富な方なのかね
- 36 :
- 鎌倉初期には期待されたが
その後、スローダウン。
しかし明治維新までともかく完走した。
巨人の堀内前監督の選手生活のような盛衰。
- 37 :
- 堀内って中期にファンの恨みを買うようなことしたっけ?
- 38 :
- 悪太郎
- 39 :
- ファンの恨みは買っていないが
首脳陣やONのNから怒鳴られることはあったとされている。
>堀内(晩年はエースナンバー18をつけて敗戦処理登板)
- 40 :
- じゃあ今の堀内は晩年の伊東義祐みたいなもんか。
新規取り立てはあるのだろうか。
- 41 :
- ないと思う。
- 42 :
- 伊東祐兵を主人公にした小説って、そこそこ面白いんじゃないかと思うの
- 43 :
- 伊東氏より勢いがあった和田や三浦が滅んだのを尻目に
細々ながらも維新まで続いたわけだから、ある意味勝ち組。
- 44 :
- 飫肥の街並みはなかなか素晴らしいぞぉ。
城は途中で学校にナットルヶな。
- 45 :
- >>44
中世山城としての飫肥城は数倍の広さがあったって聞いたけど、具体的にはどこまで?
酒谷川が外堀?
- 46 :
- Λ_Λ . . . .: : : ::: : :: ::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::
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- 47 :
- >>45
いんや。現在もある本丸の背後に無数の曲輪が林立していたようだ。
武家屋敷のある辺りや、東側の微高地も、外郭を形成した曲輪だったと考えられている。
- 48 :
- 「日向記」以外で、戦国期の伊東の史料で手に入る本ってないでしょうか?
- 49 :
- 日向伊東氏中心の史料となると、それしかないと思われ。
あと「伊東氏大系図」もあるが、これは入手がめんどくさい。
- 50 :
- >>49
ありがとうございます。やはり、そんなもんなんですか。
日向記以上の内容を得ようとしたら、敵対していた島津の史料からちょこっと
書かれてる部分を探すとかしかないんでしょうね。
- 51 :
- 先日、祐清の小説があるというのでどんな題名か教えてもらったら「犬神家の一族」だったorz
- 52 :
- スケキヨ覆面をかぶって戦場に出れば敵兵はびびると思うが。
- 53 :
- 戦場でも肖像画のような黒頭巾を被ってたんだろうか
- 54 :
- 入浴の際には必ず湯船で逆立ちして両足を湯から出していたらしい
- 55 :
- 敵兵の首を取ったらそれを菊人形にしたらしい。
- 56 :
- 伊東氏のウワサスレはここですか
- 57 :
- >>53
大阪城天守閣寄託の「伊東義祐像」の事でしたら、あの肖像画は実際は、
上杉謙信の肖像画らしいです。
そっくりな図案の謙信像が京都大学総合博物館にあるとか。
- 58 :
- 伊東氏の城下には「三つ首塔」が建っていたらしい。
ところで伊東氏の現在の当主はどこでなにをしているのやら?
- 59 :
- 結構前に地元のテレビに出てた
普通の爺ちゃんだった
- 60 :
- >>57
本物と伝えられる肖像画が大坂に一枚あったけど、戦災で焼けちゃったらしい。
写真が一枚だけ残っている。息子祐兵に似ているとか。
- 61 :
- 大友伊東時代に延岡治めてたのダレ?
- 62 :
- 県土持氏。豊後をかつて治めていた佐伯氏と仲が良かった。
大友の日向南進時に撃退された。
- 63 :
- 佐土原は日向の小京都って言われてたんだよね。
今でも面影あるの?いい寺とかある?
- 64 :
- 突出して歴史があるのは大光寺。
続いて崇称寺、蓮光寺、吉祥寺、高月院あたりかな。数は多いが、新しいものが多い。
ちなみに前島津が建立した天昌寺始め、今はなき寺も多い。
- 65 :
- >>60
その写真見てみたいな。
何かの本に所収されていますか?
- 66 :
- >>63
ttp://shogo33333.ninja-web.net/
ここに佐土原の写真があるよ
- 67 :
- 義祐が客死にしたところの市が編纂した史書にあるらすい。
ちなみに、全国初の市史だったらしい。
- 68 :
- そうなのか
- 69 :
- >>67
t楠
・・・といいたいのだが、
堺市史って何巻もある上にそれは戦前に出た物(だからおそらく旧字体)
更に昭和になって出た続刊、それも何巻もあるらしい orz
堺市HPで公開している資料目録に何か載ってないかと思ったが見つからなかった
http://www.lib-sakai.jp/kyoudo/kyo_kakusyu/kyo_ka_shishi.htm
- 70 :
- 旧字体のなにがわるい( ・`ω・´)
- 71 :
- スカイネットアジア航空の新社長は伊東氏
ただ出身が岐阜なんだと、日向か伊豆なら繋がり感じたんだけどなぁ
- 72 :
- >>70
悪くはないけど
アフォの私には読みこなすのが大変でw
>>71
松坂屋創始者と同起源の可能性があるかも
- 73 :
- 北条家臣にいる伊東氏は遠い親戚なのかな
確か伊豆に領地持ってたけど
- 74 :
- つか戦国時代に活躍するほとんどの伊東氏が藤原為憲を祖とする同流じゃないか?
いつ分岐したのかはそれぞれで違うだろうし、もちろん仮冒もあるだろうが。
- 75 :
- 所さんの「笑ってコラえて」で門川町やってるあげ
米良祐次の領地ですよ
- 76 :
- 伊東ってあのほっそい日南海岸を通って飫肥に攻め込んでたの?
- 77 :
- そう言えばどこから攻め込んだんだろう?
北郷の山岳ルートは、今では道があるけど、戦前までは細い山道しかなかったしなあ。
やはり海沿いだろうね。
- 78 :
- 守りやすい土地なんだな
- 79 :
- 逆に言うと、下向した時点でマイナー武将決定だったわけで。
平野が広いようでそうでもなく、大した産業もなく…。
国力も伸び悩んで大変だったろうな。
- 80 :
- 親族内の内輪もめも・・・
あ、国力が伸び悩んだから少ない物の取り合いになって内輪もめが激しくなったのか?
うーん・・・
このスレのタイトルになっている「放浪する裸の大将」こと伊東義祐もどろどろの内輪もめを制して当主に
本当は坊主になってそのまま歴史の彼方に消え去る宿命だったはずなのに。
- 81 :
- 義祐以前には伊東の内紛って無くないか?
- 82 :
- 初めましてm(__)m
突然ですが、福永伊豆守祐炳と福永丹波守ってどういう関係なんですか?
- 83 :
- 知らんけど、丹波守の寝返りで諸県の諸城が一気に崩れたんだから
血縁的にもそれほど遠くは無いだろね。
しかし福永のその後が気になる。薩摩藩士になれたのかな。
- 84 :
- 戦国時代の島津氏家臣人名辞典『本藩人物志』
島津氏家臣姓名辞典『諸家大概』
両本に「福永氏」や福永姓の記載は見つからないね。
伊東氏に改姓した様子もないし。
さっと見ただけなので見落としあったらスマソ
- 85 :
- 『「さつま」歴史人名集』という一、二行程度の記述しかない本には、
福永丹波の項目の中に”子孫は加治木”とある。
ゆかりのなさそうな加治木姓になったとは思われないから、薩摩藩士になって
九州征伐で島津が厳封された後とかに薩摩の加治木に移り住んだんじゃないかと。
- 86 :
- 「息子の元服を無視されて謀反した」という説があるくらいで、嫡流の可能性は高いでしょう。
- 87 :
- 義祐のキャラ立ちは異常
- 88 :
- 伊東義祐3000vs島津義弘300
- 89 :
- 1572木崎原の戦い
http://jp.youtube.com/watch?v=O1yAMNpioyY
- 90 :
- 伊東義祐vs島津義弘
戦国武将としても人間としても全然勝負になってない。
ように見えるんですけど。
- 91 :
- 西の福永氏だけじゃなく、南西の長倉氏も義祐とは仲が悪くてですね。
しかし何でこうもいざこざが起きたのだろう。
義祐に人心掌握術が欠けていたのか、
日向の地にも下克上が浸透したのか。
- 92 :
- >>91
やはり嫡男が死んでからの放蕩ぶりと散財ぶりや、苦言を呈した者を
遠ざけたり、家臣を小馬鹿にしたり(これは落合民部少輔しか記録ないけど)、
伊東祐松の専横を咎めなかったりとそういう主君じゃねぇ・・・。
- 93 :
- そもそも日向をほぼ全域支配してるのに3000撃破されたぐらいで滅亡ってwww
たいした奴じゃないよ
だから島津も300ぐらいあったら大丈夫って思ったんだろ
伊東にとっちゃ3000は全兵力だったんだろう
- 94 :
- ほぼ日向全域支配して動員可能兵力が3000ってことはないような…
- 95 :
- 動員兵力の問題じゃないな。祐安、祐立の時代には西都市だけで鹿児島県と戦って勝ってんだから。
- 96 :
- 一応、飫肥での戦いでは20000を動員したとはなってるけどね。
無論、どこまで真実かは?だけど。
3000撃破されてその数自体は多く思えないけど、討ち死にした者の
名簿の中に、城主とか地頭、その嫡子の名前がたくさん出てくる。
4、5年間では その立て直しができなかったと考えるしかないかなぁ。
- 97 :
- 木崎原の合戦では、西都から佐土原の武家の跡取りはほぼ全滅したって話だからなあ。
当の伊東家もそうなったし。
若兵で編成されたんだろうね。
義益とか、勝ち戦の経験のあるものがいれば、木崎原は状況変わったかも知れんな。
- 98 :
- 木崎原は義弘の手の中で踊らされた時点でほぼ負け決定だったと思う。
飯野城の先の加久藤城を攻めるために、前日の夜から行軍して疲れた中を
早朝から城攻め、しかも騙されて断崖絶壁の入口を攻撃してるんだからね。
相良軍が来ることも、間者が飯野でとっ捕まってるし、盲僧を送り込まれて
情報筒抜けだったわけだし。
ただ、城攻めを若兵じゃなく、熟練の者に任せてたら違う展開はあったかも。
加久藤城は落とせてたかもしれないし、少なくとも池島川で水浴びは
なかったろうね。
- 99 :
- >池島川で水浴び
いくら暑かったとはいえ、これは
「やーいやーい、こっちは余裕だぞーい」
と、飯野城勢や加久藤城勢を挑発した、つもりだったんだろうか・・・
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