1read 100read
2011年10月1期戦国時代【権六】柴田勝家 その2 TOP カテ一覧 スレ一覧 削除依頼
・ 次のスレ
■日本に戦国は不要■
島 津 は 銀 河 も 嘆 く 屑 大 名
結局世の中金なんだろ…
【ひこにゃん撲滅】彦根城を爆破します


【権六】柴田勝家 その2


1 :09/05/18 〜 最終レス :11/12/09
講談やゲームの影響で秀吉に手玉に取られた猪武者と思われがちな名将を語れ。
関連スレとかは>>2-5の辺り。
■wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E5%8B%9D%E5%AE%B6
■前スレ
【義理人情】柴田勝家【現代で酷評】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1157097383/

2 :
■関連スレ
【三法師】清洲会議を語る【天正十年】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1192629955/
賤ヶ岳の戦いを分析する
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152985790/
【美女】お市の方【信長の妹】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1187163745/
悲憤の武将・佐々成政
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1165854720/
家康が最も恐れた男、前田利家
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1226805433/
【報いを待てや】織田信孝【羽柴筑前】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1180257020/

3 :
秀吉視点で損してるけど、
十分以上に優秀な家老、軍人、人望
お市がいっしょに死んでくれるほど。
魅力があったんじゃないか。

4 :
ごん六豆の創始者

5 :
でも野心丸出しで台頭してきた家康に同盟申し込んだけどナァナァであしらわれたよね。
あの頃の秀吉同様、家康も神掛かってた時期なんだけど(利用できるものは信雄でも利用してたたけど)
同盟して秀吉に対抗できるほどの器量でもないし、たいして利用価値もないと見切られちゃったのが
権六風情の器量をあらわしてるんじゃないの。
信長の下でなら名将といっていい働きをしたけどね。でもそれだけ。

6 :
つーかあの当時の家康は、織田家内部の紛争には、局外中立の立場だっただけで。
自分の新領地もまだ不安定なのに、不安定をほっておいて他所に手を広げるような
アホな真似をする家康じゃ無いよ。
勝家の器量と言うより家康の都合だわな。

7 :
勝家や佐々や佐久間は乱世には向いてない感じがする
真面目すぎたような
逆に秀吉家康利家などはのし上がる為ならなんでもする
乱世向きの武将

8 :
実際のところ、猛将といわれる割に華々しい戦がないし。
どっつかっつーと伊勢撤退戦のときに負傷してやられかけたとか……
有名な甕割りの逸話はもろ創作だし。

9 :
わしが権六じゃー。鬼の柴田じゃー。猿ー。お市は貰ったぞー。わはははっー。

小一郎。わしゃー、勝家だけは許せんでよ。お市様はわしのもんじゃで。戦じゃ戦じゃ。
小一郎
兄者。姉様が聞いたらどえりゃことでよ。

いいや、わしゃやるで
、勝家に勝ってゲットするだぎゃ。出陣じゃー。
小一郎はそれ以上何も言えなかった。

10 :
>>8
んなこたない。派手な奇策や大逆転といった講談向きの話だけが「軍功」ではない。
きっちりと堅実に戦果を挙げるのも重要な軍功。
常に先陣などの重要な役割を任されて、かつ織田軍は着実に勝利を重ねたのだから、
勝家が優秀な指揮官であったという評価は間違いではない。

11 :
越前一国を任せられた器量は評価してくれ。

12 :
>>10
たしかに勝家は有能は有能だろうけど「猛将」と言われるほどの軍事功績があるかと言われると疑問符は付く。
これは福島正則のスレでも似たようなこと書いたことあるけど、少数で多数の軍を猪突猛進で打ち破ったくらいの講談向きな「軍功」がないと「猛将」とは呼びづらい。
勝家には「甕割り」とか「かかれ柴田」などの逸話はあるけど、勝家や福島は軍功そのものよりも本人の剛毅な性格が「猛将」と呼ばれる所以なんじゃないかな。
ただ福島は好きじゃないけど勝家は割りと好きなのは、福島は偉そうな事を言っておいて形としては簒奪者(家康)に擦り寄った印象があるのに対して勝家はあくまで簒奪者(秀吉)に立ち向かったイメージのせいなのかなあ?

13 :
まあ「猛将」は江戸時代に作られたイメージだろうね。
江戸時代は神君家康↑、相対的に秀吉↓、さらに相対的に勝家↑という構図だしね。

14 :
そういえば江戸期の元禄くらいに評価されてた武将と言うのは、明智光秀、柴田勝家、石田三成
だったそうな。
三人とも天下分け目の戦をしたから、だそうな。

15 :
勝家が簒奪者に立ち向かったって・・・
各将の思惑はどうあれ、一応形式上は当時織田家の政策決定会議だった清洲会議を反故にしてるし、
信孝より織田家一門の序列が上だった信雄(更に信包)を会議でもろに蔑ろにして自分と親しい信孝を推し、
その後信孝以外の主要な織田家一門衆や織田家の家老や譜代衆、信長側近だった稲葉・細川・蒲生などと敵対。
清洲会議の決定を反故にして三法師を譲り渡さない信孝に肩入れ。
なりふりかまわず織田家と敵対勢力のはずの長宗我部や雑賀衆らと同盟。
どうみても織田家内部の派閥抗争です、ありがとうございました。
勝家がその派閥抗争にもし勝っていたら秀吉同様簒奪者にならなかったという確証がどこにあるのやら。
どうみても勝家も野望を持ってあの派閥抗争に臨んでいったようにしか見えん。

16 :
まぁ秀吉だって毛利や上杉と結んでるしね

17 :
>>15
あくまでイメージな。それは福島も同じだけど。

18 :
>>15
だから勝家も秀吉同様織田家の存続よりも
自分の領地と影響力の拡大と派閥闘争にあけくれてたってだけでしょ。
それが秀吉だけ簒奪者で勝家だけ織田家の守護者みたいに言われるのはおかしいよね。
>>17
フクシマ?北条綱成のおやぢ?誰の話?

19 :
>>18
おかしい言われても実際簒奪していないんだからしょうがない。
勝家に織田家を簒奪する意図があったという証拠を見つけてから言ってくれ。

20 :
>>15
そういうイメージが広まっている、って話でしょ。事実がどうかでなくて。

21 :
>>5
あの時点で家康が動くわけねーだろ
つーか
>権六風情
とか言ってる時点でバイアスかかってるのが見え見えだけど。

22 :
領国経営に加えて、北陸の一揆を平定して、上杉をあそこまで追い詰めたんだから十分華々しいだろ。
そりゃ功績でいえば秀吉より上だわな。

23 :
鞆にいる義昭にも書状出してるくらい、権六も余裕がなかったみたい。

24 :
良い家臣になれても良い勢力の長にはなれなかったタイプだな。
指導してくれる人がいるうちはいいが。それがなくなるとどうしていいのかわからなくなる。
それだけ毒気がなかったってことなんだろうが。

25 :
家臣の意味を知っていたのでしょう
皆が主やTOPを目指しているわけではないよ
そこに譜代武将としての潔さや美しさを感じるのです
大きな大名家には必ず存在するタイプの人ですけどね

26 :
↑エライ!
天下を目指せばいいってもんでもないからな。権六は秀吉に屈することなく見事に散った。

27 :
>>24
軍団長って立派な勢力の長だけどな。

28 :
>>27
のぶやぼ?w

29 :
秀吉とその部下たちが凄すぎたね
秀吉は勝家の養子から盟友からどんどん切り崩していった
まさに相手が悪かった
秀吉の家臣にはプライド的になれないし
どうしようもなかったね

30 :
>秀吉とその部下たちが凄すぎたね
というか、秀吉とその部下たちの「運」が凄すぎたのだと思う。
やはりいち早く京都に上って明智光秀を撃破したことが大きかった。
勝家にも光秀を撃破する力は充分にあったのだろうけど、
越中から京都までの距離&上杉軍の猛抵抗があり、秀吉に比べ不利な状況だった。
あとは、今の時代もそうだと思うが、
どんなに義理堅い人物も、いつだれに裏切られるか分からないということ。
こればかりはどうしようもないし、信長もどれだけの人物に裏切られたことか。
最後まで勝家に味方した金森長近や佐久間盛政はもっと評価されるべきだね。

31 :
ていうか
もともと秀吉と光秀はつるんで本能寺起こしたんじゃないの?
だってつじつまの合わないことだらけじゃない
まず光秀が毛利に密使送った時、裏道はいくらでもあるのになぜわざわざ秀吉の本陣近くを通らなければならない?
ほんとは毛利でなく裏で結託していた秀吉に対する密使で秀吉が裏切ったわけでないの?
なぜ光秀は京制圧後、主力の兵を近江に送った?
確かに対勝家、対徳川に備えるということもあるが
通常は堺や摂津など当時の日本の経済的中心地の畿内制圧し
唯一の同盟者長宗我部と連絡路確保し与力の筒井に圧力をかけるのが妥当だろう
あたかも【西方から援軍】が来るかのように畿内はガラ開き状態
従って小兵の信孝に信澄を討たれた
また秀吉の大返しも疑問
そもそもこれだけの急反転するには足軽など装備を外し急行せねばならないだろう
畿内近くで新たに再装備するにも街道沿いに糧食を準備するにもかなり事前に準備していなければならない
秀吉に単独講和権なぞないのにすんなり毛利と和議できるのも怪しい
結局、勝家も光秀も秀吉にハメられたんじゃないの?

32 :
>>31
ここでフルボッコにされて来い
■■■本能寺の変徹底考察スレC■■■
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1224216957/

33 :
いや、運 だけではないだろ。
なりふり構わずやれるだけやった秀吉軍団に
運が味方したんだろ。
相当の行動力がなければあんなことできないだろ。
勝家には織田家で実権握るだけで天下取りなんて考えもしなかっただろう。

34 :
最近こういう贔屓の引き倒しで、お気に入り武将を現代の自分の感覚で理想化しちゃうキモイのが増えたよな。
であげくには敵対した相手を親の仇の様にこき下ろして、運だのわけのわからん陰謀論だのに終始して。
戦国板の質の低下が著しくなったのっていつ頃からだっけ。

35 :
運は大きいだろ。背後は人質とった宇喜多や南条がおさえ、毛利も運よく追撃しなかったし
敵討ちの大義名分得る事ができたから多くの味方が集まったし

36 :
>>34
まるで理想の時代があったかのような話しぶりだなw
特に変わって無いぞ、この板。

37 :
>>28
信長の野望と何の関係があるのか分からんけど、
勝家の地位は大名並の裁量権も与えられてるから立派な一勢力
軍事力だけでいえばその辺の大名よりよっぽど強大だし。

38 :
>>31
> 秀吉に単独講和権なぞないのにすんなり毛利と和議できるのも怪しい
実はある史料によれば、毛利方も本能寺のことを知っていたことになってる。
で、小早川が、信長の後は秀吉の天下になるだろうから恩を売ろう、と言ったと書かれている。

39 :
後日に書かれた安国寺の話は話半分で理解してください

40 :
ところがどっこい、これがなんと「佐久間軍記」に書いてあったりする。
話の出所は不明だけどね。

41 :
ぶっちゃけ佐久間軍記にどのくらい信用性があるのか

42 :
>>41
明智軍記よりはマシじゃないか?
そういや、勝家の子孫は旗本になってると思うけど、家譜とか伝わってないのかな?

43 :
でもあの時点で毛利はもうガタガタだからね。単独での勢力挽回は無理でしょ。
いまさら追激戦で秀吉の軍勢に打撃を与えたところで
情勢が落ち着いた頃に織田軍が戻ってきたらやられるだけ。
毛利家の威光に陰りが見えた以上は一旦秀吉を追い払っても、中国地方の豪族たちもすぐに又離反するだろうし。
もし小早川が信長と信忠の死去を知っていたら、
織田家は混乱するだろうけど秀吉が纏め上げて戻ってくるだろう、
だったら目の前の小さな勝利は放っといて、今のうちに恩を売っとけ、
くらいに考えてもそこまで不思議じゃないと思うけど。

44 :
毛利が信長横死を知っていたら普通、宗治に腹切らせるような真似しないお┐ (´ω`) ┌
そもそも追撃追撃言うけど、宇喜多や秀吉の残した押さえの兵を無視して
一体どうやって追撃するつもりなのだお
ましてあの異常な行軍速度だし
長躯追い縋るような真似したら逆に秀吉側に分断されて崩壊するのがオチだお┐ (´ω`) ┌

45 :
まあ秀吉の大返しは全軍ではないし逃亡者続出で播磨で立て直さざる
おえなかったのは秀吉好きの無視する点
播磨で偽装する秀吉の切れ味は凄いのだけどスピードだけなら勝家のほうが早かったりするwww

46 :
小早川でなく吉川元春が毛利を仕切っていたなら秀吉を追撃した可能性はある?
兵が無尽蔵であるまいし秀吉が随伴した兵力や秀吉の領国国力からの動員兵力から推察するに
秀吉の残置した兵なんかたかが知れてるだろう
それに宇喜多はあくまで山陽方面に集中されてるから山陰方面はカスカスじゃないの?

47 :
どっちにせよ明智ときちんと連絡の取れていない状況で動けるわけ無いだろ。

48 :
>>45
秀吉崇拝だからな。

49 :
勝家と市をくっつけたのは秀吉ってマジ
これって秀吉の勝家への最大の配慮じゃね
秀吉は「勝家殿、ワシに逆らわないで従ってくれ」って思ってたぽいな

50 :
はいはい夢想は寝てからしろ

51 :
>>50
夢精はしたけどな

52 :
勝家も若い頃ノブなんとかから信長に鞍替えしてるからな
前田達の秀吉への鞍替えも戦国のならわしとして納得済み
勝家みたいな武将は前田達を囲えなかった自分の不徳を責めるタイプ

53 :
責めるタイプもなにも府中城で詫びてんじゃん。
前田方が盛政のせいだとか、「秀吉軍を食い止めるから落ち延びよ」とか前田家譜で
ほざいてんのは見苦しいけど。

54 :
前田の資料ははっきり言って武功以上に信用できぬ
後世の物語だから仕方ないと言えばそれまでだが

55 :
勝家って実は戦で負けてばかりじゃね?

56 :
最高指揮権もって敗戦という意味じゃ賎ヶ岳くらいだろ
稲生やら伊勢長島攻めやらは負け戦に参加してるだけだし
手取川の責任を全部柴田に押し付けるのは無理がある。

57 :
勝家も内心は
前田〜
裏切り者〜
と思ってただろう

58 :
なんか時代が秀吉に味方したように思えて仕方ない
古いタイプの武将の勝家より、新しいうねりを起こせる秀吉に時代が味方した
そんな気がしてならない。

59 :
勝家と秀吉の間に、新しい古いの差は無いだろ。

60 :
ヒデヨシ教ですか

61 :
>>42
三男の流れの者だけど一応辿れるよ。勝家から数えると当代は20ー23代くらいかな。
でも伝記的なモノはほとんどなくて山崎の後、黒田を頼って九州へ。出家してさらに筑紫野、平戸と落ちた事くらい。
ウチは本筋じゃないので筑紫野、平戸の本家にはもう少し残ってるのかもね。

62 :
あごめん山崎じゃなくて賤ヶ岳の後。

63 :
どうも清洲会議では対立なんか無く、三法師擁立して織田家を支える事ですんなり決まったらしいな。

64 :
対立してたらあの所領配分で納得するわけないわな

65 :
しかし秀吉の死因がかっけだったとは・・・
野菜や果物食わずに魚ばっかり食ってたのかな
とんだ百姓の味方だなw

66 :
玄米食べずに白米ばかり食べてるとなりやすいんじゃなかったっけ?

67 :
宣教師の記録からの推測らしいけど、
どこまで信用できんのかね?
症例が合致しそうな病気って他にもありそうだし。
家康より長生きをっていう意思があっただろうから
偏食はしなさそうだが。

68 :
どうせなら、勝家の食生活を語ろうぜ。

69 :
宣教師の記録によると勝家の領地では
大殿といえば勝家
殿といえば勝家の子息
だったらしい。
それぐらい絶大な権力があったんだから食生活も豪勢だっただろ。
蟹食い放題

70 :
>>69
この場合の勝家の子息は誰のこと?

71 :
全員じゃね?

72 :
>>70
柴田勝敏?

73 :
嫡子、という意味なら勝豊でしょ。

74 :
結局勝敏の父親って誰よ

75 :
おれ親から柴田勝家の子孫だって教わってるんだけど
どうも信用できません
家計図うpしますんで
http://imepita.jp/20090810/776360
鑑定お願いします

76 :
>>75
内容は全く読み取れません
書かれている紙は現代のモノのように見えます
これだけの判断ではダウトです

77 :
なるほど
実際の家計図も見たことあるのですが
それの縮小コピーらしいです
昭和51年につくられたと書いてあります
確かにその紙も古くはありませんでした

78 :
うちも勝家というより勝豊の子孫らしいぞw
長浜での秀吉からの降伏勧告の書状見せてもらったことがあるw

79 :
まじかw
一番右のほうが書いておくと
柴田修理亮勝家 三男三郎太郎 勝久

初代 市郎右衛門 勝清
ここからはじまってるんだが
wikiで調べたら勝家の三男の勝久(勝敏)って
16歳で死んでるやんw
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E5%8B%9D%E6%95%8F

80 :
初代 本国越前 生国尾州 市郎右衛門 勝清
とある
誰これ?

81 :
おお・・・権六公の・・・!
誇りに思ってくださいませ!

82 :
よくあるありふれた偽系図のパターンじゃん

83 :
>>82
どうしてそう思うの?
どのへんがどんな風に?

84 :
滅びた名家の、いたかいなかったか定かでないような人物を祖先にする、
というのは偽系図の黄金パターンだよ

85 :
じゃあこの方は?
滅びた名家だから嘘ってこと?
http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20090731/CK2009073102000022.html

86 :
何で食ってかかるの?
「よくあるパターンだ」といってるだけなんだが?

87 :
ん?悔しかったの?

88 :
仮に偽家系図だったとしても
自分の家系に勝家公を選んだご先祖は見る目があると思う。

89 :
戦に身代わりになった影武者が沢山いたし
先祖を残す為に女の子は政略結婚させられたから
どこかしらには残ってる

90 :
勝家軍の亡霊出るんだってな。
○橋で首のない武者行列見ると絶対死ぬらしい。

91 :
>>90
怖いけどどこだよ

92 :
「なんでも鑑定団」の出張鑑定in国分寺に毛受の子孫が出てたな

93 :
>>90
柴田軍の者だって言うと助かるらしい

94 :
羽柴軍なんて言ったら・・・(((( ;゚Д゚))))

95 :
鬼柴田理恵

96 :
そういえば柴田理恵って富山(越中)の出身だったな

97 :
>>95
ワロタ

98 :
質問です。
柴田勝定という人物と
柴田勝全という人物について調べているのですが
両者とも源左衛門を名乗っていた為、事績が混同している事が多く
どちらが何を成したのか、よくわかりません。
たぶん、どちらかは明智光秀に属して山崎合戦で討ち死に。
どちらかは勝家の滅亡後は堀秀政に仕えて以後も堀家臣として名前が度々出てくると思うのですが
どっちがどっちなんでしょうか?
花押が違うので同一人物ではないようなのですが

99 :
>>98
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/hitori/sibata2.htm

100read 1read
1read 100read
TOP カテ一覧 スレ一覧 削除依頼
・ 次のスレ
■日本に戦国は不要■
島 津 は 銀 河 も 嘆 く 屑 大 名
結局世の中金なんだろ…
【ひこにゃん撲滅】彦根城を爆破します