2011年10月1期戦国時代戦国時代の情報網・兵站網について
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戦国時代の情報網・兵站網について
- 1 :10/02/28 〜 最終レス :11/09/03
- 信玄の狼煙によるネットワークや
兵站が上手かったとされる秀吉秀長等
戦国大名・武将の情報網や兵站網について語ろう
- 2 :
- 自己解決しました
- 3 :
- >>2
勝手に名乗るな
- 4 :
- >>3
それも自己解決しました
- 5 :
- 伝馬制とか軍道とかの話か。
- 6 :
- 武田の間者って、裏切り者多そう・・・
信玄の死なんて、ツツヌケ。
- 7 :
- 何でスレ立てしておいてネタ振りしないんだ?
- 8 :
- 自己解決したからです
- 9 :
- 兵站面白そう
- 10 :
- 棒道について
- 11 :
- 秀長は九州征伐で、島津の兵站基地になりそうな寺院を
水軍で急襲して潰しているね。
北条征伐でも東海道からの場合はそれに似たことが出来たが北国軍の場合は
それが出来なかった上に、各城や砦の土地が沼地で押さえにくかった。
- 12 :
- 中国征伐〜山崎〜急襲征伐までの秀吉軍の兵站能力と機動性とか
は凄いよな。
- 13 :
- たかだか歩いて二,三日の距離で兵站もへったくれも無いだろ
- 14 :
- 30分圏内のスーパーとかがなくなったらパニックになるがな
- 15 :
- 略奪もしくは押し買いすればいんじゃね
- 16 :
- 占領しても嫌われたら、後が面倒
- 17 :
- >>15
現地にそれだけの物があったらね。
大友氏が耳側の戦いの時に士気が低下したのは、兵糧の不足が原因。
特に現地(日向中部)での調達が、うまくいかなかった。
当時の日向は、全体として豊後・筑後・肥後・豊前・筑前に比べて石高が低く
しかも南部(延岡)と北部(都城)に偏っていた。
なまじ最大動員したので、余計に苦しくなった。
それで当時の大友当主の義統は、豊後野津で兵糧集め・輸送の陣頭指揮を
執っていた。
- 18 :
- 田舎でバーベキューやろう
→器具だけ持ってって材料は現地で買おうぜ
→スーパーがなかったでござる
みたいなノリか
- 19 :
- いや、10人でバーベキュー。
最低限の肉(各自100g)と野菜は、持っていくが、足りない食材とビールは
現地調達。
コンビニや酒屋ぐらいあるだろと思って現地に行くと、
参加者はいつの間にか20人になってるわ、コンビニ・酒屋もないわで、
みんな目が点。
幹事は町に残って追加食材を買いまわっているが、現地ではもう火を
起こしている。
どうすんのでブーイングという状況だろう。
さらに直前、日向北部に出兵したときには、あっさり決着がついて
兵糧の現地調達が難しいという問題は、発生しなかった。
まあどこの大名も現地調達の方が比重が高かったらしいし
正確な統計資料なんてないから計画が杜撰だったという批判は
間違いだろう。
因みに上杉謙信の「義」を重んじる。大義名分をというのも、
現地調達分を出兵依頼した側に負わせて、スムーズに調達する
という意味で、十分な実利があった。
- 20 :
- ってっか甲冑・武器をもって行軍ってものすごい疲れるよ。それに加えて兵糧も運ばないといけないから
一日に行軍できる距離なんてたかだか知れている。だから今の距離感覚で考えると大変なことになる。
秀吉は中国大返し〜賤ヶ岳〜九州征伐〜小田原征伐では、武器弾薬・甲冑・兵糧を分けて運び
行軍の速度と効率化を徹底的に行った。まぁこれは瀬戸内海にしろ東海道にしろ琵琶湖にしろ水軍を活用できたのと
先に行く先の農村に金銀ばらまいて兵站基地の確保出来たのが大きい。
家康も関ヶ原の際、武器弾薬を別に運ばせ・戦闘に関わる兵士を疲れさせないように努めた。
どこかの本に、史料からの計算で合戦前の西軍と東軍の睡眠時間差が3時間以上有ったとのこと。
それを考えると秀忠は関ヶ原の時も、大阪の陣の時もまずかったね。
- 21 :
- 大坂の陣は秀忠じゃなくて家康の戦じゃないの
夏の陣開戦前の「三日分の腰兵糧で良い」という有名な台詞も家康のものだし
まあ夏の陣はその家康の読み通り短期決戦で決着が付いてるけど、
やはり前の豊臣と比べて徳川の兵站軽視は否めないと思う
- 22 :
- なんか豊臣の兵站に幻想をいだいている奴が…
どこのどういう部分で兵站が軽視されているんだい?具体的に言わないと。
- 23 :
- 街道の整備は兵站の重視以外の何物でも無い
- 24 :
- 秀吉の兵站は(まあ豊臣政権は他のこともみなそうなんだが)担当官の職人芸と慣習頼りで
輜重は必ずしも安定していない。
重視と言う意味で言うのなら、精緻なシステムを整備した徳川政権の方が
兵站と言うものを重視していると言って良い。
- 25 :
- 担当官の職人芸といってしまえばそれまでではあるけど
旧織田領域内での内ゲバ、四国遠征、九州遠征、小牧長久手、北条遠征、奥州仕置き、
文録慶長の役
よくもまあ兵站担当官はやり遂げたものだと思う
文録慶長については前線と後方を結ぶライン確保の見通しが甘かった点はあるけど
兵站物資の九州集積については過不足なし
あと秀吉死去にともなう帰国作業全般も地味に神業に近いものがある気がする
- 26 :
- >>22
関ヶ原で軍資金が足りなくて本多正信が右往左往したり、
大坂冬の陣で物資が足りなくて大坂方と和議を結ぶ刃目になってる
>>25
文禄の役は戦線が伸びすぎ、また朝鮮の義兵の活躍で
日本軍に餓死者がデルは目になったりしてるけど、
慶長の役ではある程度問題も解決されたとか
- 27 :
- >>26
関ヶ原での本多正信の行動は宇都宮で対上杉の防備をしていた時に中山道への移動という
命令変更だから資金が足りなくて当然、またそれで進軍が遅れたという話はない
それに大坂冬の陣でも一時的に食料が乏しくなったのは事実だが、その為に講和をした事実は
ないし(むしろ物資欠乏で講和を求めたのは豊臣方)、餓死が出たという事実も無い
それに家康は直ぐに兵糧を送るように命じている
- 28 :
- 焦土作戦かもしれないけど
朝鮮出兵は現地が豊かでいくらでも食料を調達できるという幻想的な見通しが崩れたのが原因では
- 29 :
- つーか豊臣軍は小牧長久手でも九州役でも朝鮮役でも実は兵糧不足に陥ってるんだよな。
小牧陣に関しては兵糧が無くて小牧に大軍を維持出来なくなった(筒井順慶書状など)
朝鮮役の飢餓地獄は知っての通り。
秀吉の兵站は基本的に綱渡り。
- 30 :
- 兵站が上手く言った成功例と言われる小田原役ですら、実体としては関東の物価が高騰して
参戦諸将は馬の飼料すら確保が困難になったという記録が残っている。
秀吉の兵站も、その勢力にあわせて規模こそ大きいが同時代の常識的なレベルを
大きく超えたものではなく、それをすごいと言うのは後世に(しかも戦後になって)作られた
幻想の部分が大きい。
- 31 :
- 太閤記には小田原征伐のとき長束正家に命じて
20万石の兵糧を備蓄したと言う記事があるし、
敵方の北条五代記でも豊臣軍が攻囲中に酒宴をし、
それが城方の動揺を誘ったとある
同時代の史料にも特筆されてるくらいだから、
戦後になって始まった幻想ってのはないな
- 32 :
- >>31
> 太閤記には小田原征伐のとき長束正家に命じて
> 20万石の兵糧を備蓄したと言う記事があるし、
そりゃ天下人なんだからその程度の備蓄は出来るだろ。物資があることと
輜重能力は別問題
> 敵方の北条五代記でも豊臣軍が攻囲中に酒宴をし、
> それが城方の動揺を誘ったとある
それは兵站じゃなくて、合戦の真っ最中に酒宴しても大丈夫なほど小田原城の後方は
平定された、ってのを表したパフォーマンス。
根本的に認識を間違えてる。
- 33 :
- 小田原征伐の際には商人たちが多数京から着いて来て、
豊臣軍の陣地近くに市や色街まで出現したとある
これは物資の他にそれを輸送する能力があって初めて可能なもの
攻囲に参加してる諸将も妻子を呼び寄せてるくらいだから
物資はふんだんに有ったんでしょ
つうかただの酒宴パフォーマンスだったら、城方もそこまで動揺しない
- 34 :
- >物資があることと 輜重能力は別問題
別に天下人になったら物資が降ってくるわけじゃないだろうけどね
- 35 :
- 輸送で問題になるのは内陸輸送
船に比べて陸路輸送は100倍効率が悪い
- 36 :
- 小田原は水軍活用出来たのが大きいね
- 37 :
- 小牧長久手じゃ秀吉は一度も制海権を取ることが出来なかったから、それが兵站の
停滞にもつながったんだろうな。
- 38 :
- つっこみどころはここだろうに
>太閤記
>北条五代記
- 39 :
- 軍記物を端から否定するとどうしようも無くなる
一次資料と比較して、異なったら否定されるというのが現在の流れ
- 40 :
- 単体では信憑性の薄い軍記でも、敵味方双方の記述が
一致してれば十分信用できる
つうか長束正家に兵糧集めを命じた文書は現存してるし
- 41 :
- うんなもん知ってるよ。
だから話の出所が違うでしょ、って言ってるの。
- 42 :
- そりゃ軍記物だって100%嘘じゃないんだろうけど結局個々の記述に対する
検証っていうステップは必要でしょうに。
そこ抜かしちゃ先々話がマトモに進まなくなるし、それがめんどいなら
精度の高い史料をドンと提示すりゃいいだけの話じゃん。
なんでわざわざ太閤記なんて出してくるのか意図が読めん。
- 43 :
- お話だと解かり易いからだと思う
- 44 :
- >>38
この場合「幻想ができた時期」が問題なのだから
史実ではない方が資料として適切なんじゃないだろうか?
- 45 :
- 軍記物にも概ね真実を記述している軍鑑や三河物語、北条五代記、朝倉始末記等々
まともな物も多くあるんだから一蓋に否定する理由は無いだろ。
もっとも、戦後理由もなく史料に準ずる扱いになった信長公記にも
脚色や改変、誤りは色々あるから精査は必要だろうけど
- 46 :
- 一時期史料価値を完全に剥奪されかかった太平記も、今じゃ普通に
一級史料に準ずる形で使われてるな。
- 47 :
- 甲陽軍鑑の山本勘助は架空の人物とか言われてたけど
新資料発見で実在が確認されてるし
- 48 :
- つうか幻想ではないけどな>豊臣軍の兵站重視
とりあえず長束正家という官僚の能力がずば抜けてたのははっきりしてる
- 49 :
- >>48
ただ、家康と言う小沢一郎みたいな奴に250万石も与えてしまったばかりに・・・
- 50 :
- いくらなんでも家康に失礼。
家康は売国奴ではない。
- 51 :
- >>48
それは豊臣ではなく長束の職人技がすごかっただけだ。
システムとして成立していたわけではない。むしろ豊臣政権の未熟さを表していると言っていい。
- 52 :
- 正直何を言ってるか理解できない
凄い優秀な官僚を抱えた政権は駄目と言ってるらしいが
- 53 :
- 官僚抱えてないだろw優秀な文吏を抱えてはいたが
- 54 :
- そもそも豊臣政権には官僚機構が存在しない。
ほぼすべてのことを前例と慣習、そして秀吉の意思、これだけで済ませた。
- 55 :
- ってか出来る前に崩壊したという方が正しいかも
官僚制確立するのに努力はしたが
それこそ徳川幕府の官僚制だって50年くらいかかったし
- 56 :
- ただ徳川家の機構と仕組みは、同時期の豊臣家よりもずっと先を行っていた。
秀吉はむしろ、自分の恣意が通るように機構づくりを拒絶した感もある。
- 57 :
- 狼煙とかは、結構重要な情報インフラだよな
- 58 :
- 徳川の官僚団は、元々は北条のものだったってな話も読んだな。
関東移封の際にそれらを吸収したとか。
- 59 :
- >>58
吸収するにはそれを吸収出来るだけの基板がないと無理。
織田だって、豊臣だって室町幕府の完了団を吸収したはずなのに…。
- 60 :
- 北条の官僚組織も室町幕府のそれを模倣したものなんだがなあ・・・。
源流は一緒のはずなのになぜ
- 61 :
- 徳川家は北条以前に分国法を定めた今川家と武田家の領地を収めていたからね
あの辺と北条は古文書の残存が他国と比べても桁違いというし
徳川家(当時は松平か)自身も一時は今川家の傘下だったからその辺の統治は
身に付いているだろうし
- 62 :
- 政治も軍事も根本的な所は何千年も前に完成されているから要は組み合わせの違いだお( ^ω^)
- 63 :
- 補給の概念を実現させたのはアメリカ様が最初だがw
- 64 :
- >>63
キミは議論の内容がまるで理解出来ないという、気の毒な頭を持っているな。
断片的な知識を仕入れただけで物事がわかった気になるのは、恥をかくだけだから気をつけろ?
- 65 :
- どっちもどっちだね
>>64は自分が賢いと思ってるようだけどさ
第三者から見れば同レベル
- 66 :
- そして>>65も
- 67 :
- じゃあ>>67も
- 68 :
- 敢えて聞こう
議論どこ?wwww
- 69 :
- お
優越感ポイント貯めてるね
- 70 :
- どんくらい劣等感ポイント貯まった?
- 71 :
- 武士階級には戦国大名の正規の輜重部隊とは別に、箱持ちなどという個人用の
物資運搬担当を戦に連れていってるな。
- 72 :
- 武士は原則として自弁ですから
- 73 :
- 佐川急便のロゴみたいなヤツ?
- 74 :
- ありゃ江戸期の飛脚じゃ。
- 75 :
- 武士は武具、飯自弁が当然として、軍役衆の飯は支給だろうけど
武具はどうしてたん?
- 76 :
- 時代と地域と大名家でケースバイケース。
- 77 :
- 時代と地域と大名家でケースバイケース(キリッ
- 78 :
- 武具はリースもあったらしい。事実そういう業者が存在していた
- 79 :
- 徳川家の後方支援は奉行・代官等がそれぞれ独自に行いつつ、
それを年寄衆が取り纏めるという方式なので、実態が掴み難い
- 80 :
- そんなことより酒のもうぜ!うぃーっく♪
- 81 :
- 保守
- 82 :11/09/03
- >>78
具体的な業者の名前や参考文献を挙げてもらいたい
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