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2011年12月1期日本近代史8: 西南戦争・薩摩軍勝利の可能性について 2 (123)
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西南戦争・薩摩軍勝利の可能性について 2
- 1 :10/11/28 〜 最終レス :11/12/03
- 前スレ
西南戦争薩摩軍勝利の可能性
http://www.unkar.org/read/academy6.2ch.net/history2/1171611134
- 2 :
- ほ
- 3 :
- 山縣有朋だったらあるいは持久戦に持ち込めたかも
知れないが持久戦を説く山縣に、用兵の天才
山田顕義が先制攻撃、速攻を持ち出した事から
西郷隆盛の軍も遂に人吉を守り切れず
結局玉砕よ。。
DFの山縣、速攻FWの山田市。
- 4 :
- 4様
- 5 :
- 保守
- 6 :
- 保守
- 7 :
- 保守
- 8 :
- 保守
- 9 :
- 勝てるわけ無いだろう、武器の差があるのだから
無謀な戦い
- 10 :
- 江藤淳によれば
旧幕臣が立たなかったことが一番大きいらしい。
旧幕臣勢力が西郷軍に加わっていれば明治政府崩壊もありえた。
- 11 :
- 物量の差が大きすぎるので薩軍勝利の可能性は薄いと思うなぁ。
案外、琉球に立てこもると面白いんじゃないかと思ってる。
琉球は当時はまだ、清との冊封・朝貢関係は完全に切れていなかった。
それを薩軍が勝手に「日本軍」として進駐するのだ。
当然清は明治政府にクレームするだろうし、台湾出兵での摩擦も
記憶に新しく、英米も介入してくる可能性がある。
事態を解決するために、明治政府が薩軍に対して譲歩をするかもしれないし
ゴタゴタが続けば大久保も失脚するかもしれない。
薩軍は大久保を政治的に抹出来れば十分だろ?
批判と反論は大歓迎だ。
- 12 :
- 保守
- 13 :
- 保守
- 14 :
-
馬術競技の金メダリストの父は薩摩藩士
http://s1.shard.jp/rabbit1/0202/5/150_1.html
その薩摩藩士は、西南戦争の最中に中央アジアいた。
- 15 :
- 保守
- 16 :
- >>1
西郷、もうたいていにせんか
- 17 :
- 保守
- 18 :
- 他の西国の乱が鎮圧された後に立っても勝てるわけない
- 19 :
- 政府軍は装備と実戦経験を充実させながら各個撃破していくんだからな。
鹿児島一国に割拠されたままの方が政府としては対応が難しかっただろう
- 20 :
- 保守
- 21 :
- しかし、雨が降ると鉄砲があまり役に立たないのを武器を使って
戦争するとは
- 22 :
- 薩兵は、政府の鎮台兵を百姓兵などと言ってバカにしてたんだろうが、
鎮台兵は体格検査とか性格適性などで選り抜かれた連中なはずで、
世襲で戦士ぶってた小さい薩摩男などは、素手で戦ったら瞬されかねないぐらい差があったと思う。
- 23 :
- >>22
幕末〜戊辰戦争で実戦経験豊富な薩兵とポテンシャルありそうだけど実戦経験ない徴兵とでは…
大鳥圭介とか幕府歩兵隊の回顧録に銃撃や白兵突撃における実戦経験がいかに重要だったか書いてあるよ。
ベトナム戦争やイラク戦争で屈強な黒人やアングロサクソンがどうなっちゃったかを引き比べてもある程度想像できるのでは?
- 24 :
- 結局、奄美から収奪した資金のおかげのバブル劇だったんだな。幕末薩摩は。
皮肉じゃなくて、革命とはそういうもんだという意味で。
奄美からパクれなくなってからの鹿児島は、革新から一番遠い、サムい土地になってしまった。
- 25 :
- 敬天愛人が信条の西郷信者のみなさん、
みなさんが大好きな「実行力」が生かせる時が来ましたよ!
今すぐ原発作業員に志願して、この国難を救ってください!
日本の隅っこで、議を言ってる場合じゃありませんよ!
- 26 :
- tes
- 27 :
- これは無理でしょうな・・・・
- 28 :
- いい加減薩摩の乱と呼ぶべき
- 29 :
- 31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/03(金) 02:27:53 ID:1eE6MbuB0
政府の密偵がかなり私学校に入り込んでいた形跡はあるので、難しかっただろうが、
やはり他地域との提携に立った、同時多発的方法しかないだろう。
@大久保暗を、腰抜けと思われた金沢士族にやらせる。
A土佐立志社の少なくても一部を抱き込み、私学校より先に決起との情報を散布。
B熊本城焼き討ちと、福岡士族の決起を同時に行う。
C三菱の汽船と新橋横浜間の六郷鉄橋を爆破。
D横浜の居留地を襲撃し、外国の民間人を人質にとる。
E本隊、鹿児島進発。同時に貴島隊、豊後路を目指す。
F熊本鎮台を野戦にもちこみ殲滅。降伏した将兵は部隊に繰り込む。
G鶴岡や弘前の士族による東北陽動作戦開始。
H名古屋や金沢、広島で放火を多発させる。
I小倉、長崎、福岡占拠。
J勝海舟を仲介者にして政府との交渉開始。
K徳川慶喜公に調停を依頼。三条・岩倉・伊藤・山県更迭。
- 30 :
- 61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/26(金) 23:01:26 ID:CcyPZZYbO
『薩摩軍の編成』
総指揮官…西郷隆盛
参謀格…淵辺高照
副官…仁礼景通
1番大隊大隊長…篠原国幹
2番大隊大隊長…村田新八
3番大隊大隊長…永山弥一郎
4番大隊大隊長…桐野利秋
5番大会大隊長…池野四郎
6・7番合大隊…別府晋介 6番隊長…越山休蔵 7番大隊長…児玉強之助
協力諸隊
- 31 :
- 政府軍は弾薬・食料が充分補給されていた。
薩軍は田原坂で弾薬・食料が尽きた。
つまり、政府軍=米軍、薩軍=旧日本軍 状態
生産力の差はどうしようもない。
最後に斬り込み・玉砕をやったところまで旧日本軍と同じ。
- 32 :
- 田原坂での朝敵の戦力はどのくらいだったの?
全戦力を投入していればもしかしたら。
- 33 :
- 西郷が「おたずねしたき宜がござる」と一人で上京してきたら政府は一番困ったりして
在野の世論が西郷に味方、政府分裂、大久保政権瓦解
- 34 :
- 32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/03(金) 11:07:19 ID:nsvshVk2O
おれがしりたいのは、熊本城陥落があれば対局はどうなったのかなんだよ。どうなったの?可能性はあった。あと一週間粘れれば城兵は餓死者が出始めるということ
33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/05(日) 02:58:22 ID:3mOOpuxI0
>>32
熊本城は、篠原の主張通り、損耗を顧慮することなく全軍の力で攻めきれば、
攻撃翌日の2月23日には落とせたかもしれない。
しかし、消耗した兵力で田原坂を守りきれたかどうか疑問である。
西郷小兵衛が戦死した高瀬の戦い程度の損害で済めば別だが、その程度では済まなかっただろう。
おそらく、数日後には政府軍に逆包囲され、田原坂と違ってかえって薩軍主力を捕捉しやすくなる。
鹿児島からの増援も、海軍で城下を監視、緑川に阻止線を引いて遮断。
弾薬では勝るので昼夜問わず、会津鶴が城を上回る砲撃をかける。
最後は3月末に砲弾下を生き残った薩軍が城門を開けて玉砕しただろう。
また、田原坂が突破される以前に熊本鎮台が降伏した場合も、多少の兵力の増援で攻防を長引かせただろうが、
結局は衝背軍に背後を突かれて熊本城に立てこもるか、やはり人吉に撤収するしかないだろう。
政府軍の脅威になるかたちで別の地方の士族が呼応するとしでも、
結局は数百名程度の決起で、逆に対立派閥や近隣の士族隊に阻止されてしまっただろう。
やはり>>31で書いたように破壊工作やテロしか方策がなく、それでも全体の動きに変化はなかっただろう。
熊本城にこだわらなかったからこそ、9月まで戦えた。
なお、熊本鎮台が反乱を起こし、樺山が谷と児玉を斬って西郷と合流したならば、局面は違ったかもしれないが、
現実には可能性は皆無だっただろう。
- 35 :
- 鹿児島土人に原発処理は無理!日本猿に自転車のパンク修理をさせるようなもの(笑)
- 36 :
- 寛大なる処置に感謝の鶴岡市は、おかしいですね。
33みたいなことをされたら、困ったでしょう
- 37 :
- >33
永山がそれをしようといいましたが。
- 38 :
- >>37
西郷一人でっつーか桐野と篠原に護衛何人かつけてって言った。
ただ「刺客を差し向ける政府が道中手をこまねいて見てる訳がない」との反論に返せなかった。
で野村忍介が「自分が船(三菱汽船?磯の汽船?)で海路若狭から京都に入って
今ちょうど京都にいる明治天皇に西郷を招集するお墨付きを貰ってくる」
と言ったが野村の口数が多すぎた(実際現実的過ぎて成功しそうだった)ので
篠原に「議を言うな」と一喝されて慎重論は一気に萎んだ。
三番大隊の辺見と四番大隊の野村が逆の配置で、
戊辰戦争の城下小銃四番隊のときみたいに永山の補佐に野村がついてたら
戦局は豊後方面から変わってった・・・かもしんない。
桐野はそれを知ってたから野村を四番大隊に入れて熊本北の山鹿に置き
八代海岸口の永山と会わせないようにしたんじゃないかなと本気で思ってる。
- 39 :
- >>30
>5番大会大隊長…池野四郎
池上(いけのうえ)四郎な。木村秀海センセが見たら泣くぞw
- 40 :
- 村田新八は西南戦争が無かったら初代総理大臣になっていただろう。
- 41 :
- 西南戦争が無かったら暗されずに大久保が間違いなく初代総理だろ
木戸はもう病死してるだろうから次は大隈か伊藤、その次くらいじゃない?
黒田よりは村田の方がよっぽど相応しいね
- 42 :
- は?賞典禄すら貰ってない大隈が3番手とかお前馬鹿だろ。
- 43 :
- 論功行賞順で首相が決まるなんて全くもって近代国家じゃないな
- 44 :
- >>42
同じく賞典禄もらってない伊藤や村田はいいのかwww
何で大隈だけ駄目なのん?伊藤と並んで大久保の後継者と目されていたのに。14年政変までは
- 45 :
- 42は西郷スレで総スカン食らった西郷マンセーくんだなw
西郷が最強な理由、それは賞典禄一番もらってるから、らしいですw
- 46 :
- 立憲に関する建議書、建白書の存在からして、
大隈の総理としての出番は、憲法の発布後だろうなあとは思う。
それまではチャンスがあっても固辞する気がする。
村田は黒田より総理に向いてるという意見には大賛成。
ただ村田の遠慮がちな性格からすると、大久保の命令で後を次いで
内務卿を先にやってから総理の椅子に就いた気がするんだよなあ。
大久保内務方針を順当に引き継げるのが多分村田で、
大隈は会計検査面から睨みを利かしつつ村田の後を引き継ぐのに
向いてるんじゃないかなって思った。お目付け役大隈って感じ。
いずれにせよこの二人よりフットワークが軽くて調整役に徹するのが上手い伊藤が
二人よりも先に総理の椅子に就きそうな気がする。
村田と大隈は性格的に官僚向きな印象がどうしても拭えなかった。
- 47 :
- 鹿児島軍 vs 政府軍の戦いは
鹿児島軍の圧勝だったじゃんw
警視庁まんせー
- 48 :
- 鹿児島では今だに鹿児島独自の大本営発表的教育やってるから恐ろしくなるわ
- 49 :
- 日教組や共産党が絡むくらいなら大本営発表的教育の方が分かりやすくて良いよw
>>47
野村・中島ペアのことか。
確かに野村の奇兵隊だけは政府軍を圧倒したなw
- 50 :
- 西南戦争が無かったらなんて前提の妄想が笑える(笑)(^w^)
楯突いた薩摩土人を官軍が征伐した!それは明治政府側にしてみれば当然のこと
- 51 :
- 鹿児島人は薩摩鹿児島は常に正義であり日本の近代化は鹿児島の力だけで成し遂げてたと思ってるマ
だから琉球侵略や奄美大島搾取また西南戦争敗北などなかったことにしたいのだろう
- 52 :
- 頭悪いよね〜家畜の飼育しかできない
鹿児島土着民(笑)
- 53 :
- そもそも西郷は勝つ可能性はゼロだと思ってただろ。
それでも暴徒化した士族にもう時代遅れだと言う事を思い知らせる意味で挙兵に乗った。
- 54 :
- 39 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2010/11/10(水) 09:32:13 ID:uwcUFzi00
Q : 西南戦争は西郷さんと鹿児島士族にとって、
日本のために自ら滅び、武士の世に幕を引くのが目的だったいうのは本当なの?
A :
敗色が決定的になると西郷は桐野と口をきかなくなり、
桐野のほうでも西郷を避けるような気配を示すようになったといわれる。
むろん、西郷の性格として桐野を責めたりなじったりすることはなかった。
この男に乗せられ、賊として最期を迎えるはめになった自分に対する嫌悪が、
西郷の桐野に対する感情を重くしたのではないかと思える。
- 55 :
- 会津や庄内の生き残りも何名か参加したようだな。
- 56 :
- 勝つ可能性0ではないだろう
熊本でつっかかってしまって終わった
- 57 :
- 負けていい戦争。
戊辰戦争の幕府と一緒。
南無
- 58 :
- 陸路では難しかったと思う
熊本スルーとかも出来なかったと思うし、まさに陸の孤島だかごんまは
- 59 :
- よくこんな連中が倒幕できたなあと思うが、
薩摩藩士のまともな層はさっさと鹿児島捨てて新政府で働いてるし、
鹿児島には幕末時の潤沢な資金もほとんど残ってなかったようだな。
最強軍団と言われた薩摩士族も、頭脳と資金を取っちゃえばあんなもんなんだろうな。
- 60 :
- 倒幕は念密な戦略と準備計画で行ったものだが
西南戦争は薩摩側からしたら意図せず政府側から起こったもので仕方ない
西郷なども下野してから暴発を抑える為に姿をかくし
完全に中央情勢に暗くなってしまってる
- 61 :
- 反政府世論は全国野に満ちていたんだから、熊本なんかは一部の兵を残してさっさと中原に出ればよかった
もともと覆す気があるなら他郷の同志と結び、反乱を大きくすれば政府の兵力では分散孤立せざる得なくなったろうが
そういう連携もなかったから、まったく政府転覆など意図してなかったろう
- 62 :
- ? じゃ何のために万を超える兵を出発させたんだよw
- 63 :
- もう暴発したから挙兵せざる得なくなっただけ
最初から意図してないから初めから戦略も何もない
挙兵の名文も政府に尋問の筋これありでとってつけたような理由をつけた
- 64 :
- 暴発と挙兵は別物のはず
挙兵は政府から大久保らを追い出し、実権を奪い返すためだろ
政府転覆とどう違うんだ?
他地方の不平士族と連携しなかったのは、連携する以前に南九州でつまずき、
他の不平士族は様子見に回ってしまったというのが実情じゃないのか?
西郷軍の当初の目論見では、各地の政府軍すら西郷軍に同調し反政府に回ると考えていたらしいじゃないか
京都あたりで各地の政府軍と不平士族が大量合流し、大軍でもって東京に進軍するイメージだったんだろう
戦略が無かったんではなくて、デタラメだっただけだな
- 65 :
- 政府転覆の意図あったら明治6年の政変で転覆してるわ
板垣や江藤や前原らとも手を結ぶのをハッキリ拒んでるのに
戦略があったのは鹿児島を潰す意図があった政府で
西郷は当初からそんな気さらさらないのはハッキリしてる
- 66 :
- 明治6年に政府転覆の意図が無かったから、明治10年の西南でも無かったと言うのはアタマが悪すぎるわ
- 67 :
- じゃあ何で西郷は暴発に激怒してるんだよ
暴発も西郷が猟師してる間に起こってる
- 68 :
- >>59
廃藩納地の後だからね。
>>64
知ではなく、武でカタを付けたい人が
西郷を祭りあげてやったのが西南の役だから。
新政府で武士は不要ですって言われて頭に来て。
- 69 :
- 最初から作戦を村田新八にまかせるべきだった。
桐野利明と篠原国幹に作戦を立てる能力はない。
しょせん下士官レベル
- 70 :
- そういえば、戊辰のとき薩摩藩で戦略級の方針決定とかしてたって言えば誰だろ。
伊地知正治なんかはそれに入れてもいいと思うが。
- 71 :
- その伊地知正治だろ?
薩摩では天才参謀みたいな扱いだったようだけど・・
あくまでも薩摩では・・
- 72 :
- 伊地知が馬鹿なら、白河で惨敗した西郷頼母や姉歯市之進、
伊地知の白河占領後に背後を襲ったものの大田原を落とせなかった大鳥圭介に山川浩あたりは、
人間と呼ぶに値しない猿未満の無能になってしまうのだが。
- 73 :
- まぁ戦前は国民感情的にも、満州放棄は無理だったと思うけどね。
ただ張作霖爆と満州事変ってやり方は……
- 74 :
- 戦争と2chに誤爆は付き物ですよね。
- 75 :
- >>72
確か大鳥の後日談では作戦面より装備品の質と物資の不足でどうしようもなかったとか。
まあ負けた側の言い訳という事もあるんだろうが大鳥は勝と違ってそのあたり馬鹿正直なんで事実に近いんじゃないかと思う。
五稜郭にたどり着いて物資が充実してて、土方達ら幹部も大いに士気が上がったという話は旧幕関係者も語ってる。
伊地知の能力云々について旧幕側で言及した資料ってあるのかな?
- 76 :
- 伊地知って薩摩以外での評価ってゼロに近いんじゃない?
司馬もなにかで、旧弊な人物だったみたいなこと書いてたし。
たしか大村は伊地知をまったく相手にしなかったとか。
大村はそういう正直すぎる対応するんでされたが。
- 77 :
- >伊地知
知名度は確かに低い。
でも、知名度の低さと能力の高さは必ず比例するものでなきゃ駄目なのw。
伊地知に関しては、その実績と結果が物語っているでしょうに。
- 78 :
- 伊地知に関しては、白河への突出の判断が白眉だと思う。
何も考えずに突っ込んで一度負けてるけどw
ただ、あそこで白河城を確保して守り抜いたことで、後続の板垣や
浜通り攻略軍の仕事が随分とやり易くなったし、同盟軍が
白河から関東へ進出するのを不可能にした。
まぁ指揮権的には方面軍レベルだったけど、やり手じゃないかな。
ところで、会津への突出とかの判断も最終的に採決してたのは大村なわけで、
その辺の戦略級に関わってた薩摩藩士っていないのかなーっと。
白河城攻略については、大村の着任前だかに伊地知へ自由裁量を与えた
結果なので除外。
- 79 :
- 伊地知レベルの戦功なら、倒幕や戊辰に従軍した指揮官クラスの人間はみんな持ってるだろうw
- 80 :
- 大村の仙台攻めに反対し
会津攻略を達成したのが板垣と伊地知コンビでないかね
- 81 :
- 伊地知
安政6年に精忠組に参加。
文久2年、功績により軍奉行となる。
類稀な軍略家であり、薩英戦争や戊辰戦争で大きな功績を挙げた。
白河口の戦いではわずか700の兵で白河城に拠る旧幕府軍2,500を大破。
会津戦争においても薩摩軍を指揮し、土佐藩の板垣退助と共に会津若松城開城に大きく貢献している。
兵法の特徴として、徹底した少数精鋭主義(薩摩藩兵では城下士の部隊、長州藩兵では奇兵隊系の部隊を選抜して率いた)と合伝流の伝統である火力絶対主義にあった。
戦後は薩摩藩の藩政改革に臨んだ。
- 82 :
- ↑
wikiに書いてあることが真実だと思っている情弱w
- 83 :
- Wikipediaのその項目周辺での明らかな誤りといえば
・山川浩は板垣退助を戦場で破った[[山川浩]]
正解「藤原の戦いに板垣は参加していないため、山川は板垣には負けたことしかない」
・会津藩は武装恭順を標榜した[[奥羽越列藩同盟]]
正解「当時会津藩は関東各地で転戦しており恭順していない」
・当時仙台藩は日本有数の雄藩にして武力も高く関東から樺太まで続く北部政府・・・
正解「仙台藩は雄藩として周囲の期待を集めたが実際の武力では劣っていた」
「蝦夷地は幕府領であり東北諸藩は委任されていただけ。幕府降伏後に北海道を領地に加えて考えるのは無理」
「星亮一が熱心に唱える北部政府なるものの存在は無かった。東北諸藩の協議会があっただけ」
東北至上主義者の書き換えで、誤りが増幅しているようです。
- 84 :
- 会津と長州「友情」の歌響く 2高校が共同制作し合唱
http://www.asahi.com/national/update/0805/TKY201108050423.html
第35回全国高校総合文化祭福島大会(ふくしま総文、文化庁など主催、朝日新聞社など特別後援)は3日目の5日、
福島市で合唱部門があり、福島県の会津高と山口県の萩高が、共同制作した曲「友情 時を越えて今」を歌った。
会津高のバスが渋滞に巻き込まれて到着が遅れ、合同リハーサルを一度もできないまま本番に。それでも、息の合ったハーモニーで大きな拍手を浴びた。
会津と長州が戦った戊辰戦争以来、両地域の一部には今もわだかまりが残る。「友情」は、そんな歴史を乗り越えようと、
5年前に山口県であった国民文化祭の一環で制作され、会津高が作詞、萩高が作曲。以来、定期演奏会のDVDを交換したり、手紙のやりとりをしたりして、交流を続けてきたという。
歌は「明日を信じ/優しい未来に向かって/飛び立とう さあ」という歌詞で終わる。会津高の金成昌吾部長(18)は
「過去の歴史はあるけれど、僕たちが新しい歴史を築いていこう、という思いで歌った」。萩高の杉山太紀部長(18)は「震災で大会開催も危ぶまれたが、一緒に歌えて本当に良かった」と話した。
秋篠宮ご夫妻と次女の佳子さまは午後に来場し、4団体の演奏を鑑賞した。(神庭亮介)
http://www.asahi.com/national/update/0805/TKY201108050423.html
- 85 :
- 勝ったところでどうするの?
チェストー幕府つくるの?
- 86 :
- 私学校での西郷の言動を考える限り、鹿鳴館及び華族の廃止と農村下牧であったと思われる。
つまり全国が静岡藩になる。
- 87 :
- 日本全国総郷中化だろ
つまり日本が北朝鮮になる
- 88 :
- だ薩摩芋侍。明治になっても抜刀突撃w
- 89 :
- >>86
その頃はまだ鹿鳴館は存在しとらんよ
- 90 :
- 西郷が勝ってもそれまでの政府主導側が追い出されただけで
諭吉っつぁんの言う通り政体の基本的な枠組は変わらないだろう
- 91 :
- 司馬史観だと、半次郎とかが指揮してなかったら勝ててたっぽい。
- 92 :
- >>85
いいかどうかはさておき藩制度維持かと。
- 93 :
- >>92
旧来の藩制度は崩壊させて侍階級の温存だけを図ったんじゃないかな
生き残った若者の侍たちは中共の紅衛兵的な存在になったと思う
- 94 :
- 西郷は近代化そのものに反対で、
廃藩置県も最後にようやく説得された。
その上政府方針に反して薩摩藩の人間を知事に置き続け、
新政府と対立し続けた。
- 95 :
- 西郷首班の留守政府の時にガンガン近代化しているのだけれども
- 96 :
- 西郷の判断基準って、近代化とか士族身分維持とかが日本のためになるかどうかじゃなくて、
そういう話しを持って来る人間が西郷に媚びてくるかどうかが判断の基準になってるからな。
- 97 :
- >>93
西郷は留守政府で山縣に同調して徴兵制を支持。
それまで軍隊は士族の志願兵で構成すると言っていた。
- 98 :
- 廃藩置県のときも、山縣の話聞くだけ聞いて一諾したんじゃなかったっけ。
まぁ当の山縣から「えっ?マジで?」みたいな反応されてたけどw
- 99 :
- 廃藩置県はそれまでに上層部では散々議論されてきて
後はいつやるかという問題だけだったから
タイミングが合えばそら即断するだろ
- 100read 1read
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・ 次のスレ
9: 【国際法】日本は無条件降伏したか【法学議論】 (821)
10: 【関東軍】石原莞爾と板垣征四郎2【満州国】 (551)
11: 【白馬青牛】瀬島龍三を語ろう【廣島もみじ民】 (10)
12: 【全共闘】学生運動とはなんだったのか2【内ゲバ】 (304)
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