1read 100read
2011年12月2期日本近代史55: 徳川慶喜を語ろう (377)
TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼 ▼
・ 次のスレ
56: 司馬遼太郎の歴史観について (922)
57: 【鬼謀】牟田口廉也中将を語ろう【聖将】 (525)
58: 【避難スレ1】日本は無条件降伏したか【法学議論】 (292)
61: 琉球王国・蝦夷共和国 part2 (273)
徳川慶喜を語ろう
- 1 :10/11/19 〜 最終レス :11/12/13
- まともに語れる場が欲しかったので立てました。
徳川と皇室ともにトップクラスの血を引き、強烈父上への世間の憧れ憎悪をそのまま引き継いでしまい、
思考過程を一切口に出さないままいきなり行動にでてしまう徳川最後の将軍について語りましょう。
周辺人物の話題もOK。
ヘタレ臆病者等々の罵詈雑言には適当にお相手を。
- 2 :
- パンがなければ
- 3 :
- 重複スレなので削除してもらってください
↓すでにある慶喜のスレッド
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history2/1288546256/l50
- 4 :
- 徳川ケーキ
- 5 :
- 名将慶喜
- 6 :
- 鳥羽伏見で錦の御旗を見て敵前逃亡をしたのは
ヘタレなのか、尊皇家として潔いのか、どっちか?
- 7 :
- 1に、ヘタレである
2に、周囲の会津や桑名が悪い。勝てる戦いで負けた連中に慶喜を罵倒する権利はない。(中村彰彦よ、星亮一よ、お前らは馬鹿だ)
3に、薩長にとっては望外の幸運だった
- 8 :
- ヘタレねえ・・・
京都での奮闘振りや後半生の静かな強さを感じる生き様なんか見るとどうもしっくりこない・・
それにしても中村氏や星氏の評判はよほど悪いね。
誰かを問答無用で罵倒する姿勢は歴史に親しむものとしてどうかと自分も思う。
- 9 :
- wq
- 10 :
- 10
- 11 :
- 大政奉還のときに二条城に出向いた在京40藩の重役ってのは誰なんだ?
- 12 :
- 代表的なのは薩摩の小松帯刀と土佐の後藤象二郎ですが、他藩も京都に代表や彼らの部隊を置いていましたので、
彼らへの宣言となったというわけです。
居なかったのは、当時朝廷からの正式の赦免を得ていなかった長州と、小藩の類でしょう。
- 13 :
- >>12
なんかネット上に出席者の一覧が見れる資料とかないですかね?
ググってもヒットしなくて…
- 14 :
- 井伊直弼らが将軍就任邪魔しなければ日本史は変わってたかもな
- 15 :
- 言っても詮無きことですが、
阿部正弘が長生きし井伊直弼を退けていたなら後の一橋派は全て幕府中枢入りですので、
後の勤皇佐幕の構図で、勤皇派がほとんど草莽しかいなくなってしまいます。
- 16 :
- 慶喜、大好きなんだが賛同者が殆どいないんだよなぁ・・・
大阪城の件さえなければ、好感度はそんなに悪くならなかったと思うんだよね
- 17 :
- 好感度を悪くしているのは戦争したがった主戦派や戦争で故郷が負けた事を悔やんでいる郷土史家だけでしょうw
大坂城の慶喜を丹念に見ていけば、夜逃げ説は覆せるんだがなぁ
- 18 :
- その覆せるという内容を聞きたい
- 19 :
- ↑
俺が説明しても信じずに難癖付けるのがオチなので、まずは本を紹介しておこう。
『徳川慶喜公伝』さらには『昔夢会筆記』を嫁。
さすれば、慶喜が何をしたかったのか。そして京都へ進撃やらかした大暴騰主戦派の罪が解るだろう。
- 20 :
- 鳥羽・伏見の戦いでの徳川慶喜の行為を「ヘタレ」認定から救うには、
・実は、旧幕府軍に使える予備兵など居なかった
・実は、薩長に強大な援軍が来ることが明らかだった
・実は、旧幕府には確実に巻き返せる手段があった
という証明のうち、どれかが必要です。
予備兵の問題ですが、大阪城には幕府歩兵予備を含む兵約一万が無傷で駐屯していました。
後備ということで戦力には劣っていたのかもしれませんが、新政府軍の四〜五千人は連戦中です。
しかし大阪城内の兵の大部分は動員された諸藩の軍勢で、彼等が動くかどうかは不明です。
あてになるのは幕府歩兵、あと旗本連中でしょう。
薩長側への援軍の可能性ですが、分かりません。
彦根藩は既に新政府軍の兵站を担当していましたが、一方で大阪城にも家老を含め若干の兵力がありました。
広島藩は兵を出さないと直前に通告し薩長側を激怒落胆させていましたが、彼らの軍が届くのには時間が掛かったでしょう。
その他の諸藩ですが、大体は様子見ですので動くかどうか分かりません。
巻き返せる手段ですが、これはいくらでもありました。
・榎本艦隊で海岸の新政府軍を攻撃し、背後を襲う
・江戸を火の海に変え徹底抗戦する
・・・・・・しかし、どれも実行しませんでした。実行しなければ絵に描いた餅です。
問題は、諸藩の動向を徳川慶喜はどう見ていたのかということでしょう。
尾張・越前や彦根が既に新政府側で兵站業務に就いていて、淀や津が旧幕府側に銃を向けている状態では、
大阪城内の諸藩を信じられなかったのかもしれません。
- 21 :
- お、こちらのほうが伸びてるなw やっぱまともに語りたい人多かったんだ。
>>16
自分も慶喜大好きだよw
ただあまりに幕末史において巨大な存在過ぎてスルーされてしまう傾向があるのかもしれん。
佐幕派は司馬のせいで幕府の一警備隊に過ぎない新撰組に、会津観光史家のせいで白虎隊やらに女子の人気が集中してしまうナゾな状態が続いてるし。
ちゃんと歴史の本流を見ようよ、と言いたい。せめて本流見てから枝葉に行けと。・・・言っても効き目ゼロだろうが。
今は一言だけ言っとくが、慶喜という人は実に人間が深い。
>>19
「徳川慶喜公伝」はまだだが、「昔夢会筆記」は読んだよ。
大阪城の件もさらっと語ってるね。
大阪城に当初入ったとき松平ブラザーズに各藩領への帰藩を諭したが手を焼いてついに「いかようにとも勝手にせよ」と言い放ってしまったこと。
それを後で後悔したこと(「一期の失策」)。
東帰して善後の策を巡らすことを会津藩士神保修理が説き、永井尚志がそれに同意したこと。
慶喜自身は東帰してのちの行動は「恭順謹慎」に固く心に決めていたこと。でもそれを心に秘めたこと。
大広間に諸有司・諸隊長を集めてどうすべきか問うたら、皆戦争すべしとじつに鼻息荒かったこと。
別室に板倉・永井を招いて恭順の真意は漏らさず東帰のことのみを相談すると、両人とも同意したこと。
大広間にとって返してとりあえず兵たちを鼓舞したこと。
板倉・松平ブラザーズら4,5人のみを従えて大阪城の後門から抜け出るとき、衛兵に咎められないかとひやひやしたこと。
でも小姓なんですと言ったらうまく欺かれてくれたこと。
- 22 :
- >>21
『徳川慶喜公伝』も読む事を強く薦める。
というのも、慶喜の回顧談しかない『昔夢会筆記』は慶喜の事のみで、慶喜の廻りの状況までは説明していないから。
公伝の方は、慶喜の回顧談も含めて慶喜を取り巻く廻りの状況や情勢を他史料の引用を用いて説明している。
そうした状況と慶喜の行動や思想を縛っていた水戸学的価値観道徳を総合して考えた場合、慶喜の思考回路内では京都で大戦をするという選択考え事態があり得ない事が解るはず。
故に、越前土佐尾張との調整の元で慶喜は”戦争せずに済む(徳川単独完全勝利は放棄したが、徳川家が政権に食い込む為の)”状況を作り出そうとし、それは事実成功していた。
つまり、”そもそも軍隊を京都へ送り込む必要が全くない”情勢だった訳で。
「上様を刺ししてでも軍隊を上洛させる(昔夢会筆記では「非常な手段を用いてでも軍隊を送り出す積もりだった。会桑などの主戦派は」と回顧している元桑名藩士がいる)」
という主戦派の大暴走こそが慶喜の朝廷工作を失敗させた原因だった。
結果戦になった訳だが、先にも言ったとおり水戸学の価値観においては”天皇を戦争の危険に晒す行為”はあり得ない。
では、すでに戦争になっている状況をどう止めるか?
そこに慶喜の大坂脱出の真意があるよ。俺はそう考えているけどね。
水戸学的価値観道徳を理解していないと、単純に「逃げ出したんだろう」という結論になっているみたいだが、
緒戦に負けたとはいえ、兵力は幕府軍が圧倒的なのは変わらず、しかも幕府歩兵が待機状態。戦う気なら逃げ出す必要すらない状況だ。
それは「足利尊氏になるのは厭だ」という慶喜の重いにすべてが語られている。
水戸学によって成立した『日本外史』という歴史書の足利尊氏の評価(幕末期の足利尊氏の評価)を読めば良く解ると思うぞ。
- 23 :
- ヒント
『昔夢会筆記』より引用
江間 あの時肥後守と越中守……すなわり会桑の首脳を、そっと何も言わずにお連れ出しになりましたのは誠に……。
公 あれを残しておけば始まる。
- 24 :
- >>22
うん、読みたいと思ってる。
ええと、1・2巻には本人は登場しなくてそれまでの幕府と幕府を取り巻く諸藩・海外の情勢に筆を割いているんだよね?
そうする必要があることが、慶喜が自身の意志とは別に大きなうねりの中に巻き込まれていく運命を良く表してると思う。
史料篇も面白そう。原市之進の手紙とか所収されてるかな。
水戸学か・・・ 水戸についても勉強しないと。幕末の全てのものは水戸に発してるんじゃないかとも思う。藩抗争が悲惨極まるらしいけど・・
今は家近さんの「徳川慶喜」を読んでる。ググルと家近さんの歴史研究家としての評価は高いみたいだね。
読めばさりなん、と思う。史料の読み解き方が半端じゃない。慶喜は「独断」が政治家としての最大の欠点だな・・・
>>23
ああ、あったねそういう箇所。自分もポイントだと思った。
それにしても江間さんはよくしゃべるね。渋沢もフランス渡航のこと延々としゃべってた。
慶喜は長くて2ページぐらいかな。しゃべるときはしゃべるが聞くときは聞く、というイメージ。
けど主語省略・あれ、これ、などの代名詞多用し過ぎ。しかも何を指してるのか分からないことあるし。もちっと丁寧にしゃべってくれ慶喜公。
- 25 :
- 水戸学は非常に重要。
基本的に幕末武士階級の多くは水戸学で、吉田松陰も自分は水戸学だと言っているぐらい。
薩摩長州も基本的価値観は水戸学。
でも、実はもう一つの国学の潮流がある。「平田国学」という奴で、こっちは下級武士階級、庶民の学者などの間で広まった。
「復古思想」や「天皇親政」はこちら側から影響を受けているので、水戸学を知ったらこちらも知らないといけない。
>水戸藩内戦
あれば思想対立というか…理想と現実の対立というか……学閥争いに怨恨がくっついたらああなった的な感じだね。
水戸徳川家主導で成立した水戸学には、基本的に幕府維持の体制を指示し、かつ封権身分制を維持する事が原則だとする。
天皇がトップ、徳川将軍家はその第一の家臣にして家臣の長。その下に諸藩があり、藩士がいる。
その身分を越えてはならず、分相応に己の責務を果たし、自己の上司に忠勤を励む。それが平和平穏につながり、引いては天皇の役に立ち、国の政治にも繋がる。
基本が朱子学だから。
ところが、黒船が来た。天皇は鎖国継続を望むが幕府はそれを不可として開国した。
これは水戸学的には、天皇の家臣である徳川が悪いになる。では、天皇の命に従えば現実的にどうなるか?。
日本人の常識が、開国によって通用しなくなった。
水戸学的には、脱藩して幕政にもの申すなんて飛んでもない事で、分をわきまえない所業だけどみんなやったんだ。
そうしなければ、幕府の間違いを正せないと言って。
一方で、脱藩せずとも幕府の間違いを正そうという尊皇派もいた。武市瑞山など正にそうした人物。
開国か攘夷か、幕府か天皇かという争いの影に隠れて見えてこないのが残念だが、
「立ちゆかなくなった思想常識を一新し、精算してしまう」という面が明治維新たる所以だと思う。
- 26 :
- 江戸幕府とともに終了した人物のスレが近代史板にある不思議。
- 27 :
- >>24
あれ、これ等の代名詞が多いのはしょうがないんじゃ?
もうこのときいい年だったわけだし。
- 28 :
- >>20
そもそも鳥羽伏見においては薩長の主力は京都にはついてない。
大村益次郎は実際京都におらず、京都に向かう軍にいた。
また機内の諸藩の多くは既に薩長についており、
付いてないのは紀伊藩などごく少数で、そここそ日和見である。
なので援軍が来ないというのは間違いですな。
薩長の先遣隊に大敗してしまったというのが正しい史実。
- 29 :
- イギリス維新側、フランスは幕府を支援し分断統治を手助けした
それぞれさらに、南北戦争の終了で武器があまったので困っていた軍産複合体・銀行がいたんだな
徳川のおかげで内乱の激化を避けられた
- 30 :
- >>25
良く知ってるなあ。勉強になるよ。
藩内戦について「怨恨」という表現があったけれど、それは老公斉昭が藩改革を推進する過程で反対派を徹底的に弾圧したことが発生の要因だろうか。
幕府によって隠居させられ長男が家督相続をしたあとも、自分を裏切って幕府に(?)した家臣への憎悪を隠さなかったようだし。
ここらへんは慶喜とだいぶ違うな、と思う。
慶喜は淡白というか、感情は人並みにあるのだと思うけれど、非常に醒めた印象がある。
>>24
そうなんだけどさ、若いときからこういう相手に伝わりにくいしゃべり方をするところがあったんじゃなかろうか。
この人物と意思疎通するのが必要だと認めた場合には(特に政治的に)丁寧にしゃべるが、それ以外は言葉が足らん、というか。
- 31 :
- >>30
慶喜が非常に冷めた印象なのは解る気がする。
資料読んでても感情を表に出す人じゃない感じだもんね。
- 32 :
- 残っている手紙も少ないようだし、日記は付けていたけれど薩長軍が江戸に侵攻してくる際に焼いてしまった。
慶喜という人物をもっと観察したい身としては、めちゃくちゃ惜しい。
性格から想像するに、大久保利通日記のように、感情を滅多に記述せず淡々と事実のみを記すスタイルだったのかな。
その後(明治に入ってから)日記を付けるのを再開することはなかったのは考えさせられる。
確かに醒めている、けれど奥の奥のほうにじりじりと燃える炎みたいなのは感じる。幕末期も明治期も。
- 33 :
- ありゃりゃ全然伸びてないや。
今再放送されてる慶喜大河のほうに行っちまってるのかね。
- 34 :
- >>20の書き込みは、貴重ですね。勉強になります。
>予備兵の問題ですが、大阪城には幕府歩兵予備を含む兵約一万が無傷で駐屯していました。
鳥羽伏見の戦いの後には、幕府方には一万人の軍勢しか居ませんから、(戦い前には一万五千人)
3千人の軍勢は、かなり貴重です。この3千の兵力は慶喜の親衛隊的性格があります。
>薩長側への援軍の可能性ですが、分かりません。
長州藩は、戊辰戦争終了時までに2万人の軍勢を送り出しているそうですから、
その位の援軍は出せるでしょう。ただし数ヶ月で2万人の援軍は無理かもしれません。
意外と薩摩藩は、戊辰戦争では数千人しか軍勢を出していません。
大久保、西郷などは幕府との戦争には、乗り気ですが、地元鹿児島はそうでもありません。
薩摩藩の主流ともいえる島津一門や家老連中は、幕府との戦争には乗り気ではなく、
長州との義理立てでここまでリスクを犯す事に反対しています。
>彦根藩は既に新政府軍の兵站を担当していましたが、一方で大阪城にも家老を含め若干の兵力がありました。
彦根藩の家老に慶喜に近い岡本黄石がおり、鳥羽伏見の戦いの最中には大阪城に居ました。
また、その家老付きの彦根藩士もいましたが、ホンの数名のボディガード兼補佐官的な武士ばかりですので、
彦根藩としてはもう新政府サイドです。井伊家一門や家老や重役のほとんどが、国許で新政府サイドに寝返っています。
そもそも彦根藩は、畿内の譜代佐幕派の筆頭的な大名なのですが、桜田門の変以降は、井伊家と水戸徳川家は、
犬猿の仲ですので、既に慶喜の将軍任官の頃から彦根藩は幕府に嫌気が差し、討幕派に近づいています。
別に尊王思想とか薩長との関係はなく、単に佐幕派内の内輪モメから討幕派に寝返っただけです。
しかし、その為に近江の小藩のいくつかは、鳥羽伏見の戦い以前から討幕派に寝返っています。
- 35 :
-
弱虫!
- 36 :
- (つづき)
>巻き返せる手段ですが、これはいくらでもありました。
>・榎本艦隊で海岸の新政府軍を攻撃し、背後を襲う
>・江戸を火の海に変え徹底抗戦する
一番効果的なのは、関東に居る幕府軍本体2万人が東海道を下り西進する事でしょう。
また、ストーンウォール号が手に入るまで慶喜が開戦を遅らせておけば、
徳川海軍は、更に強化されていたでしょう。
>尾張・越前や彦根が既に新政府側で兵站業務に就いていて、
>淀や津が旧幕府側に銃を向けている状態では、
>大阪城内の諸藩を信じられなかったのかもしれません。
尾張、越前などは、王政復古のクーデターでも50名から100名ほどしか参加しておらず、
彦根藩ほど新政府にのめり込んではいない、と思います。
>>28
>また畿内の諸藩の多くは既に薩長についており、
>付いてないのは紀伊藩などごく少数で、そここそ日和見である。
また、鳥羽伏見の戦い以前に(王政復古の大号令の頃くらいから)新政府寄りの
姿勢を見せていた畿内の藩は、カウントの仕方があるのだろうが、おおよそ12〜13藩程ある。
ほとんどが小藩だが、その中で彦根藩と郡山藩は、それぞれ20万石と15万石の畿内では大藩だった。
大阪城のすぐ近くにある摂津高槻藩などは、鳥羽伏見の戦いでは、洞ヶ峠を決め込み佐幕派、討幕派双方
から不信を買っている。
丹波園部藩も早期からの新政府サイドの藩で、既に大政奉還の頃には幕府から離れていた。
この時期、万が一京が戦火に飲み込まれる事態となった場合は天皇を藩主居城の園部城に
避難させるという策が立てられた。
丹波亀山藩は佐幕藩だったが、鳥羽伏見の戦いに幕府が負け、その圧力によって、
慶喜がまだ大阪城で抗戦中に討幕派に寝返る事になる。
特に鳥羽伏見の戦い以前に新政府サイドだった藩は、丹波、近江、摂津、大和に多い、これは、
京付近で公家との姻戚関係や禁裏御料(3万石)、公家領(10万石)などが多く点在していた事も関係している。
- 37 :
- 王政復古のクーデターにより将軍職も幕府も廃止になった。
その影響で1868年12月13日に京都司所代、京都守護職、京都町奉行は廃止になる。
新政府は従来の京都町奉行所にかわって「京都市中取締役」を設置し、
京都司所代や京都守護職の業務もこの職務に与えて膳所・篠山・亀山の
3藩を「京都市中取締役」に任命した。
出来たばかりの新政府に領土や人民の支配を加える事で実体を持たせようとしたのだが、
膳所・篠山・亀山の三藩のうち、鳥羽伏見の戦い直前の段階でも篠山藩と亀山藩は
佐幕派であり膳所藩だけが新政府側の藩であった。その為に取り立てて3藩による
「京都市中取締役」の成果は示せなかった。
また、新政府のお膝元である洛中程度は、新政府が支配しない事にはどうしようもなかったし、
クーデター以前には、親徳川派の摂政・二条斉敬や賀陽宮朝彦親王が主導する朝廷の下に
徳川宗家中心の朝廷新政府を成立させる事(関白or摂政は徳川慶喜)に皇族や公家を協力させる為に、
大政奉還直前の1867年に徳川慶喜は山城一国23万石を丸ごと禁裏御料として献上しようとしていた。
この構想は、王政復古のクーデター以降の小御所会議や三職会議でも構想として残っている、
越前・土佐・尾張などの親幕派の執拗な抵抗により、徳川宗家の辞官納地案は次第に
骨抜きにされ、慶喜の入京と議定就任が議論され始める、さらには徳川宗家中心の
朝廷新政府構想なども再び議論され始め、「慶喜の副総裁(副関白)就任」構想などを
越前・土佐・尾張の諸侯が皇族議定に根回しを始める。皇族としても山城一国
23万石を丸ごと禁裏御料として貰えるのは悪くない話しだからである。
また、これらの徳川側の畿内の統治機構再編構想も微妙に畿内の大名達に影響を与え、
鳥羽伏見の戦い以前の段階で新政府側に寝返る畿内の藩が表れる事になった。
- 38 :
- 慶喜は明治期が一番興味ある。
毎日趣味で忙しそうなところが好きだな。
- 39 :
- 条約勅許と兵庫開港の条約勅許が頭の中でごちゃごちゃになるんだけど、皆どうやって覚えてるの?
- 40 :
- 時系列的に全然違うだろ?
孝明天皇が死んでいるのに、慶喜は良く兵庫開港の条約勅許を獲得できたな、
この時期は朝廷の上層部は、親徳川派だが、中堅クラスには、尊王討幕派の公家が入り始めているからな。
- 41 :
- 時系列が違うけど、なんか似たような感じじゃないか?
どっちも徹夜で頑張ってるっぽいし。
あと、長州征伐も一次と二次とでどっちがどうだったかごっちゃになる。
慶喜が大活躍したのが一次?
- 42 :
- というより徳川慶喜は、孝明天皇が死んでいたから兵庫開港の勅許を得ることが出来た。
孝明天皇と一会桑は、横浜鎖港・兵庫開港中止・再鎖国を再三幕府に要求していたから、
徳川家茂が死に、徳川慶喜が幕府を相続できる環境が整った後も、
それまでの政治姿勢との整合性から、孝明天皇存命中は、慶喜は幕府の将軍位を継ぐことを固辞し続けた。
孝明天皇が死の床に着くと間もなく、俄かに慶喜が将軍職を継いだのは、そういう兼ね合いがある。
当時明治天皇の摂政だった二条は慶喜のいとこだった。
彼に開港勅許を出させることで、孝明天皇の攘夷政策と共に歩んできた一会桑は、一転して幕府の開港政策へ同調する。
- 43 :
- 要するに、兵庫開港問題で一会桑は、それまでの姿勢を一変させて幕府の掲げる兵庫開港へ転じたので、
幕府将軍位を手に入れたけど、それまでの朝廷内の同調者を、親戚の二条摂政らを除いて薩長側へと追いやってしまったのさ。
この時期に薩長側の公家が増えたというよりは、この時期に慶喜が変節して公家を切り捨ててしまったのさ。
- 44 :
- 確かに慶喜は孝明天皇の攘夷感情をもてあまし気味だが、
だからと言って孝明天皇の崩御は、慶喜とって政治的に良い事は何も無い。
慶喜は将軍任官は、なかなか自分からやりたがらなかっただけで
孝明天皇は、慶喜に絶対将軍職を継がせる意向。
将軍慶喜の後ろに孝明天皇が居れば、討幕派ともっと有利に戦えた。
明治天皇になり、外戚で討幕派公家の中山忠能が出て来た。
岩倉と組んで討幕の密勅をでっち上げたりしている連中。
ただし王政復古のクーデター後の小御所会議や議定会議では、
徳川の武力行使におびえてグラついているのもこいつ等。
更に孝明天皇の崩御による大赦で今まで処分されてきた過激な
尊王討幕派の公家達がごっそり朝廷に復帰してきた。
コイツラが薩摩と組んで兵庫開港の勅許反対のロビー活動をしている。
それを掻い潜っての勅許獲得だから慶喜の政治力は大した物だと思う。
>二条は慶喜のいとこだった
親族だけど、慶喜はかなり強引な交渉をして二条摂政から兵庫開港の勅許を得ている。
逃げ出そうとする二条摂政に対し、部下による武力行使をチラつかせて勅許を獲得している。
>この時期に慶喜が変節して公家を切り捨ててしまったのさ。
明治天皇の即位以来、ニ条摂政が退任の意向を漏らしている。
薩長が討幕の準備を整えているだけではなく、尊王討幕派の公家達も
朝廷に復帰し、ニ条-中川宮主導の公武合体派体制が動揺し始めているのも事実。
王政復古のクーデター前日の最後のニ条摂政主宰の朝廷会議では、
長州藩の朝敵解除と入京、長州シンパの公家や岩倉ら討幕派の公家の還俗と参内が認められた。
この様に親徳川派であるニ条摂政下の朝廷でも徳川の敵である長州藩や討幕派公家の
政界復帰が認められている事態となっていた。
長州シンパの公家や岩倉ら討幕派の公家の還俗と参内は、元々、王政復古のクーデター後に
小御所会議で決定する予定だったのが、何とニ条摂政下の朝廷会議で認められたのである。
次第に討幕派公家の復帰でニ条摂政の意向が反映され難くなっていた可能性すらある。
ニ条摂政が辞めたがったのは、こういう背景がある。
ただし二条摂政は、後任の摂政には五摂家の人物ではなく、将軍を退任したばかりの徳川慶喜を推薦しているのも事実。
慶喜は、ニ条摂政の推薦で、四百万石の天領と2.5〜3万人の幕府陸軍兵士や
幕府海軍12隻を持ったたまま、後任の摂政に就きたがっていた。
明治天皇の下で一元化された新政府の首班となり、徳川宗家の政治、軍事、経済力を維持する為にです。
- 45 :
- 言い訳は多いが、要するに徳川慶喜は、自らの将軍就任受諾直後に孝明天皇が発病崩御したので、
将軍の責務たる諸外国と老中の結んだ兵庫開港を、朝廷に認めさせることが出来たということになる。
孝明天皇存命中は、兵庫開港勅許は不可能だっただろうね。
将軍就任承諾直後の孝明天皇の体調不調表明及び崩御は、玄妙なものがある。
- 46 :
- 一会桑の、それまで孝明天皇と進めてきた兵庫開港反対論から、一転しての幕府の進める兵庫開港への方針変更は、
それまで徳川慶喜を支持してきた公家を薩長側に追いやる結果となった。
一会桑は将軍就任で幕府を手に入れた代わりに、孝明天皇の遺志の破棄という形で京都での基盤を失った。
君の言う恩赦による尊王攘夷公家の復権も、その結果の一つだろう。
結果と原因を取り違えるべきではない。
- 47 :
- なんだか読んでて頭がごっちゃになってきたぞ・・・難しい・・・
>>44
二条摂政に対する部下による武力行使のちらつかし。
夜も更けて(深夜以上か?)会議を切り上げ退出しようとする二条さんに対して、ここで会議をやめるのなら自分は腹を切る、そうなったら自分の家臣たちが報復行動に出るが、それでもよろしいか、と迫ったんだよね。
生涯に3度死を覚悟したうちの一つ(他二つは蛤御門の変時と官軍江戸進攻時)と後に回想してる。
会議が終わったのときはもう夜明け。緊急課題があるときは徹夜はざらだよね。よくがんばってるよ。
>>38
自分も明治期の慶喜好きだよ。幕末も好きだけどね。まあ、「好き」だと言われれば、本人複雑かもしれんが・・・
趣味を仕事にせざるを得なかったからね。朝敵の烙印を押された元徳川将軍が普通に仕事に出られるわけがない。
勝の圧迫は厳しかったなあ。それに「当然だ」と従いながらも宗家に勝手に直筆の書を偽造されて大久保一翁に渡され、こらえ切れなくなって怒りを爆発させる(静かに)ところがなんとも痛々しいというか・・
でも幸せなことも多かったろうと思いたい。母孝行できたし、子供に恵まれたし、少数だけれど慶喜を理解し守ってくれる人たちはいたし。
数奇というしかない星の元に生まれたが、それ(運命)に押しつぶされはしなかったと思う。
- 48 :
- >>47
勝の圧迫は本当に厳しかったみたいだよね。
ていうか、慶喜と勝ってお互いに快く思ってない割に、色々と接点があって面白い。
- 49 :
- >>44
>将軍慶喜の後ろに孝明天皇が居れば、討幕派ともっと有利に戦えた。
正直疑問。
兵庫開港問題で、孝明天皇と幕府の板挟みになるのがケーキちゃんだから。
孝明天皇を奉じて幕府を押さえ込めるほどの基盤があれば、鳥羽伏見なんか起きてないだろうし。
ある意味、京都で一会桑やってた弊害か。
- 50 :
- それでも孝明帝が死んでなきゃ薩長なんかがつけいる隙間はなくなるわな
- 51 :
- 孝明天皇の慶喜の信頼は、カナリモノだったからね。
フランス公使のロッシュにも
「ヨシノブさん、そんなにミカドに信用されているなら、開国路線で説得しちゃえば?」
って言われている。
明治天皇に代わった頃には
「ヨシノブさん、明治天皇は子供なんだから、アナタが教育して、政治は幕府に任せるように言い聞かせれば?」
って言われている。
慶応年間の幕府旗本なんかもそんな感じ。
幕府海軍を整備したり、幕府陸軍の全軍銃兵化(銃は元込式)、
横須賀に製鉄所造り始めたりして、徳川版富国強兵を始めているし。
これら慶応の幕府改革が明治維新の第一歩になっている。
孝明天皇が生きていれば、その支持で慶応の幕府改革と
幕府陸軍の全軍元込式銃兵化完成の時間が稼げた。
- 52 :
- 孝明天皇は会津公も信頼してたのに、
慶喜と容保は仲が良くない。
- 53 :
- なにを言っているんだ?
孝明天皇から信頼されていたのは、攘夷決行だと天皇から思われていたからだ、
その方針を変えたら信頼を失うのは当たり前だろ。
民主党が国民からあきれられているのと同じ事。
天皇の信頼を得るためには、兵庫を鎖港を実行しなきゃならん。
だがこれをしたら諸外国から見捨てられる。
つまり幕府は天皇か、諸外国のどっちかを選ぶしかなかったッテ事。
外交的には行き詰っている。
- 54 :
- 外国公使をメロメロにさせることに定評がある慶喜。
- 55 :
- >>54
具体的に誰?
- 56 :
- ロッシュとか、エドゥアルド・スエンソンとか。あ、でもエドは公使じゃないか。
- 57 :
- 最近会津贔屓から無能将軍と叩かれてるむきがあるけど
鳥羽伏見で負けた癖にそんな事言われてもね…
- 58 :
- 軍事的な指揮を執ったのは秀忠が最後。
家光ですら初陣がない。
慶喜が軍事的に有能だったら奇跡だ。
- 59 :
- 鳥羽伏見の戦いに負けた後でも、幕府軍は挽回出来た。
大阪城に篭城すべきだった。
また、開戦を4月まで伸ばして“ストーンウォール号”が手に入るのを待つべきだった。
また4月まで開戦を延期すれば、さらに元込め式銃の配備を拡大する事ができた。
- 60 :
- 歴史にifはないよ。
もし信長が本能寺で襲われなかったら〜以上につまらない話だ。
- 61 :
- 固定観念で頭ガチガチの人ね。
はっきり言って、イマジネーションが湧かない、頭の悪い人の発言。
- 62 :
- >>61
イマジネーションw
自分の好きな対象を贔屓の引き倒ししたいばかりに
歴史観を都合よく歪めたがる頭の悪い発言だなw
- 63 :
- >>51
そうなんだよな、孝明天皇の慶喜への信頼はたいしたものなのに、容保への信頼の方がクローズアップされがち。
会津贔屓のせいだろう。
そういや孝明天皇の孫にあたる大正天皇(皇太子時代)からもえらい好かれてたな。息子以上に年が離れてるのに普通に友達だ。
>>49
ケーキちゃんにわろた。幕府と朝廷の間にいっっっっっつも板ばさみな慶喜。
そら昔夢会で「困った」「むずかしかった」が常套句になるわけだw
>>54
メロメロにしとるわな。もうメロメロだ。あの東洋人に対しては高圧的態度で臨むパークスでさえ。
慶喜のために漢字で書を書いてあげてなかったっけ?
あの容姿で、少し微笑み「優しく快い声」で語りかければ、外国人でなくともたいていの人間は魅力に引きずり込まれると思う。
慶喜って人にあんまり会わないんだよ。で、実際に面と向かって会った人からはたいてい好感持たれてる。
- 64 :
- >>63
実際に面と向かってあった人から好感持たれてるってのは解る気がする。
その中の一人が渋沢栄一かね。渋沢はもう、信者の域のような感じではあるが。
- 65 :
- 慶喜とは仲良いし、井上馨とは下野後もつるんでるし、渋沢も面白い人だw
>>59
慶応4年の2月頃には北関東が打ち壊し祭りになって
上野国なんか殆どの藩が一揆勢に降伏するような状態になってたらしいが、そんな状態で大丈夫か?
日本海-下関-大阪-関東への物流も止まるぞ。
- 66 :
- 慶喜は山岡荘八の徳川慶喜読んでから興味持った
小説だが、戦前の人間が水戸学の視点で語るのは結構新鮮
- 67 :
- >>65
それって薩摩のテロ支援活動に乗じた農民一揆だろ?
武蔵、相模でも騒乱状態だぞ、八王子千人同心が治安出動したり、
伊豆の天領代官の江川家が伊豆で農民兵を徴兵して、一揆勢と戦っている状態。
だから、慶応4年の正月早々に薩長と開戦するのは反対なんだよ。
4月までは、関東の騒乱状態を鎮める為に、慶喜は関東に帰還(東帰)し
江戸周辺に駐留している幕府陸軍主力(1万7000〜20000)を
動員し関東一円に治安出動を繰り返すべき。
そうやって北関東や武蔵、相模の騒乱を鎮めながら時間を稼ぎ、
ストーンウォール号の入手と関東、東北、東海道、中部や北陸の諸藩の支持を確保する。
幕府軍が関東一円に治安出動を繰り返せば、関東諸藩は佐幕派と成るし
この時点では水戸藩は、諸生派だから、幕府軍と一緒に出動してくれる。
とにかく慶喜は、関東にもどり足場を固めるべき、家康も関が原の戦いの直前は
北関東で上杉と戦う気配だった。それが急に上方で光成の軍事行動の開始で西上
する事になる。
- 68 :
- >>66
山岡荘八の徳川慶喜は、篤姫で慶喜を演じた平さんのスレでも話題に出てたな。
自分は小説は歴史に関しては基本的に読まない主義なので、書店でぱらぱらとめくった程度だが。
なかなか面白そうだった。うら若い貴公子慶喜が投網をやっとった。慶喜の容姿の描写を小説だから文字でやってるわけだが、よく表現できてるなと思った。
中根や平岡、原ら側近達の描写もいきいきとしてたね。
ただ、慶喜がちと能弁で開放的過ぎるかな、と(実物に比べたら、だよ)思った。史実は閉鎖的だから(人間嫌いではない)。
- 69 :
- >>68
過去ログ見てみたいが、見つからない。
残念。
全巻読んだ感想としては、そんなに開放的なイメージはなかったかな。
いざと言う時の切れ味は鋭いが、基本は周りとの温度差が激しい孤高の存在の様に書かれていた気がする。特に後半ほどその感が強くなる。
まあ山岡は演劇畑の人間だから、小気味良い会話を武器にしている感はある。
自分は、むしろ勝との以心伝心の関係の方が何か違和感あったな。勝の事を好きではないが、と前置きはしているものの。
史実の慶喜と勝の関係も奇妙なものだ。
一応読むのをお薦めする。
ただ、自分の歴史観が邪魔して歴史ものの娯楽はパスという人も多いから、あんまり勧めにくい。
山岡荘八は皇国史観、家康信者とか言われるぐらいアクも強いし、結局は小説だから。
- 70 :
- 水戸学は朱子学と陽明学の影響があるといわれる。
朱瞬水はその姓とは裏腹に陽明学者でその影響下にある安積澹泊と
藤原惺窩の影響を受けた佐々宗淳は折り合いが悪かったらしく、
背後には朱子学と陽明学の対立があり、幕末にはこれが尾を引いて
天狗と諸生の内紛の種となった。
- 71 :
- >>69
確かに、山岡荘八の慶喜は勝との関係に違和感はある。
山岡荘八の慶喜では平岡との会話が凄く好きだな。
何か、いつも気を張ってる慶喜が少しだけ緩む感じ。
- 72 :
- >>69
俳優さんの名前でググったら出てくるはずだよ。平丘大さん、だったと思う。平幹二郎さんの息子さん。
まあ、山岡荘八の慶喜については一瞬だけだけど、ひたすら天ショウ院age(家茂含む)慶喜sageのドラマに皆マジギレしてたり(無理もない)、
お勧め慶喜本情報とか出ていて面白かった。
そっか、それほど開放的には書かれてなかったか。いや、ぱらぱらめくった印象だからね。
将軍後見職就任のときの演説がすごい美声(史実)ぺらりんこで、この人こんなに能弁な人だったかー??と。
歴史を本気で調べている人で歴史小説が嫌い、という人は多いね。気持ちはわかる。
読んでみよっかな、どうしようかな・・・
>>71
げええ、以心伝心な勝と慶喜なんてー! 嫌だ。
話逸れるが自分あんまり勝好きじゃないんだ。慶喜が言ってるんじゃないぞ。
才気溢れるのは認める。だがあの異常な自己顕示欲がどうも・・・
慶喜は権力欲・自己顕示欲がほとんど感じられなくてその点も好きなんだが、慶喜と勝が仮に幕末のある事柄に関して違った証言をしているとしたら、自分は慶喜の方を信用する。
平岡との会話いいのか。原がすんごく熱血漢だった気が。
原は社交的で明るい性格だったそうだから間違いではないと思うが。
しかしふたりとも暗されてしまう。うう・・・(涙)
>>70
水戸学について詳しくしってはるのか。とりあえず名前が難しいな。
あ〜、幕末については色々勉強せなならんことがいっぱいある。
- 73 :
- a
- 74 :
- 73だが、すまん間違えた。気を悪くせんでくれ。削除。
- 75 :
- 貴人に情なし。
水戸学よりも母親(宮家出身)に影響を受けているのでは。
生野の変で味方を置き去りにして逃げた公家と同じ行動パターン
- 76 :
- >>75
とりあえず基本書籍読んできてからここに来なさいw
ドラマスレが盛り上がってるねえ。やはり昔の大河は質が高い。
- 77 :
- >>76
大河ドラマの慶喜、面白いよね。
慶喜が京都に行ったあたりからぐんぐん面白くなっていく。
- 78 :
- >>75
禁門の変のときも長州藩の強訴に
すぐへたれた。
本質的に公家的体質。
- 79 :
- >禁門の変のときも長州藩の強訴に
>すぐへたれた。
銃弾が飛び交う中で陣頭指揮を執ったというが
- 80 :
- 大阪城からは結果的に夜逃げ状態だったけど、禁門の変では陣頭に立って立派に戦ってたんじゃなかったっけ
- 81 :
- 慶喜の場合、対朝廷でなければ結構勇ましい。
- 82 :
- >>>71
理解者が少ないんだよな。春嶽とゴチャゴチャやってると悲しくなる
平岡との会話は自分も好きだ
ただ、一方で平岡があたふたしている印象も強いな
慶喜が将軍になる気はないと発言する件とか
>>72
見つかった
なんか名前微妙に間違えてた
最後はそれこそ、理解者も減り、己を押しして、それでも信念を貫こうとする当たりが哀れを誘う。
それはそうと、現実の慶喜の弁舌もなかなかじゃないか?
「既に幕府をなきものと見て、日本全国の為を謀らん」
悩むぐらいならファンの俺は薦める。
山岡荘八は惚れる様な偉人を描いてくれるから、慶喜贔屓としては楽しめると思う。
あとは、水戸学や勤皇への共感が、現代人には持てないものという意味で変わってる。
以心伝心というか何と言うか。
お互いを必要と認めてはいるものの、決して仲が良いわけではない、と見える描写をしている。
確か最初の会見は、勝が高慢ちきに論じ、慶喜がむっつり頷く、って感じだった。
勝の高慢さはそれこそ、斉昭を馬鹿にするくらいで慶喜もイラついている。
ただ、慶喜はその感情を表に出さず勝を認めるから、仲が悪くないようにも見える。
何とも微妙な関係。
- 83 :
- >>64
小沢とタッソみたいな関係かな?
- 84 :
- 原市之進って、鮮明な肖像写真見るとイチローを輪郭卵形にしてさらに知的にしたようなすっごいいい男
土方とか目じゃない
- 85 :
- >>82
お、見つけてくれたか。名前間違えてた?ごめん・・・
確かに慶喜のファンだが、某慶喜研究書の著者さんに敬意を表して「慶喜贔屓」と自称しようと思う。
尊皇心については、現代では感覚で理解できる人はなかなかいないだろう。理解できるとしたら、お年寄りかな。
でも、歴史はその時代の価値観で眺めないとダメなんだよね。
山岡氏はその感覚を持ちながら慶喜を描いてるわけだから、尊皇心を肌で感じることができるかもしれない。
その意味で読む価値があるかな、と。
勝はなあ・・・「氷川清話」は読んだことがないし、伝記もしかり。だから語る資格今のところ自分にはないのだが。
斉昭を馬鹿にするとは、何を理由に?
慶喜を調べていると斉昭は激しくうるさ過ぎるきらいもあるけれど、大量の子供達に小まめに(うるさく)愛情を注いだり、いい面も多々ある。
いい意味でも悪い意味でも人間臭い、そして幕府(日本)のことを心から思った人でもあると思うんだ。
女好きなところが過度に目立たせられてて、誤解される部分があると思う。
>>83
タッソって誰だ。
>>84
原はいい男だよな。市之進という名前も好きだ。
写真からは、知性と明るさを感じる。目元が涼しい。
慶喜とは絵になる主従だったろうな。・・・ちょいと腐女子目線か。
- 86 :
- >>85
勝の「氷川清話」とか伝記は歴史を勉強するっていう意味で見るんじゃなくて、勝が慶喜のことをどう思っていたかで見ると割と面白く読めると思うけど・・・どうだろうか?
あと斉昭は烈公って言われるくらいだから、やっぱりそういう部分が目立っちゃうよね。
もう少し奥にあるものも見てもらいたい。
- 87 :
- 慶喜の伯父は哀公
- 88 :
- >>85
薩摩主体になってから勤皇の質が変わったとか、分かりにくい部分を描いていると思う
まあ自分で言っといてなんだが、山岡の個性はさっ引かなきゃいけないけど
斉昭批判は公武合体とか。尤もこれは山岡の天皇を前面に出すべきではない、って考え方が元になっていると思う
ちなみに、山岡は徳川斉昭を大天才と評している。自分も似た意見で、斉彬や春嶽が師事するなりの理由はあると思う。欠点はやっぱり大名育ちと女癖かな
- 89 :
- 慶喜の伯父=御三家筆頭の水戸斉脩
- 90 :
- 聞きたいんだけど、江戸開城の時に勝と慶喜が段取りの件で喧嘩(?)したってのは本当なの?
確か「断腸之記」か何かに書いてあったと思ったんだが。
- 91 :
- >>78
征長戦のとき、当初、大打込と大見得を切りながら、
各地で幕軍(官軍)が敗れると、たちまち臆病風に吹かれ始めた。
- 92 :
- あてにしていた薩摩が今回は参加できないと正式に拒否したのに、
江戸の老中すら、あれは私戦だと断言していたのに、強引に進めておきながら、
家茂の死もお構い無しに続行しようとしていたのに、突然の停戦交渉開始命令
- 93 :
- 家茂の遺言通りだと、亀之助(後の家達)が次代征夷大将軍に就任することになっていた。
この時点では一橋慶喜は長州出兵に更に意欲をみなぎらせていた。
しかし幕府内で一橋慶喜こそ適任者という意見が多数を占めていると聞いた途端、
即座に長州出兵は中止され、終戦交渉へ持ち込まれた。
しかし慶喜が征夷大将軍就任を受け入れたのは更に後、孝明天皇が体調を崩し床に就いた頃のことであった。
- 94 :
- 自分に累が及ぶの怖れ、自分を頼りにした天狗党に
残虐な処分を行う。そのあまりの残虐さは討幕派の
口実にまで使われる。
- 95 :
- 一橋家では藩政の経験もできないし、
幕閣もたいしたやつがいなかったし、
慶喜個人の力量だけではどうにもならないさ。
家康に四天王や本多父子がおらず、
秀忠・家光に利勝や知恵伊豆がいなかったらだめだったろうよ。
- 96 :
- 東京の山手線の巣鴨駅の線路に沿ってバス停1つ分ぐらいな一辺の敷地が
慶喜の梅屋敷の跡地。
静岡藩の居候から公爵になって慶喜家を興した明治35年辺りに静岡から越してきて
山手線開通すると煩くなるからと引っ越した。
近くには一橋伯爵家の跡地が徳川の名の付いた分譲マンションになってる。
- 97 :
- 最近の賊軍を贔屓したい層のトレンドは
慶喜を無能扱いし責任転嫁する事らしい
- 98 :
- >自分に累が及ぶの怖れ、自分を頼りにした天狗党に
>残虐な処分を行う
直接手を下したのは田沼。
慶喜が非難されたのは田沼に引渡したから。
この時点では倒幕側より幕府側の方が慶喜の評判を落とすことに躍起になっていた
なんでもかんでも慶喜の所為にしたい連中は意図的に混同したがる傾向がある。
- 99 :
- 悪口のための悪口言ってる連中って会津厨?さっさと自分の巣に帰れよ。
あ、もしかして家茂厨?
>>95
三卿は将軍家の家族扱い、つまり部屋住み身分だからな。領土は各地に点在、合計10万石。
幕政への参加は、意見を求められたときに奉書をする以外許されなかったのだったっけ。
軍事力もない。経済力もない。用人たちはほとんど幕府からの任命、つまり常に幕府に監視されてる環境。
持つのは己の身に流れる天皇家と身と徳川家の血、そして名高い才覚のみ。
家近氏が慶喜のことを幕末の「根無し草」的存在、と表現してたのが印象に残ってる。
これほど幕府から虐げられながらぎりぎりまで幕藩体制維持のために死力を尽くすのは、徳川一門としての責任感と、春嶽らの唱える公儀政体制が上手く機能するかどうか、疑念と不安がどうしてもぬぐえなかったためか。
老中は、井伊なきあとほんと人材がおらんな。板倉くらいだ。
>>88
大天才か。
斉昭は追鳥狩という軍事訓練を実施してたね。世間の注目を余程集めたようだ。
長州藩はそれに刺激を受けて、村田清風主導で藩政改革に着手してる。
その他の藩への影響については調べてないのでなんとも言えないが、相当に各藩に精神的影響は与えたろう。
ちなみに幼い慶喜(七郎麿)も追鳥狩に参加してる。すごく熱心に見てる。
斉昭は面白そうだなあ、うん。
- 100read 1read
- 1read 100read
TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼 ▲
・ 次のスレ
56: 司馬遼太郎の歴史観について (922)
57: 【鬼謀】牟田口廉也中将を語ろう【聖将】 (525)
58: 【避難スレ1】日本は無条件降伏したか【法学議論】 (292)
61: 琉球王国・蝦夷共和国 part2 (273)
-