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2011年12月2期日本近代史42: 龍馬暗の黒幕5 (975)
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龍馬暗の黒幕5
- 1 :11/08/22 〜 最終レス :11/12/15
- 坂本龍馬暗の黒幕は誰なのか議論するスレ 5幕目
過去スレ
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1285595845/
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1291987139/
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1302318918/
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history2/1311204792/
- 2 :
- 大政奉還により中央政局での立場を失った会津藩主松平容保が最有力候補ですな。
つーか暗実行の裏付けが京都見廻組以外に無い時点で結論はほぼ出てる。
- 3 :
- >>2
容保説の信者全員が陥る盲点である。
暗なんだから、見廻り組を使うことに、容保に断りを入れる必要はない。
容保に無断で見廻り組を使ってやってしまえばよいのである。
永井と佐々木が、容保に無断で、見廻り組を使って決行した。これが正解。
- 4 :
- さて、現場に、坂本、中岡、藤吉以外の者が3人いたと仮定して、その3人とは誰か。
峯吉が嘘を言っていると考えれば、島田庄作と大橋慎蔵と峯吉である。
彼らは最初から現場にいたのだ。
- 5 :
- ただし三人の書生がいた、というのは「近畿評論」の記事だけ(?)で、しかもこの記事には脚色があるとされており、
また慷慨の士が五六人いた、というのも明治13年の原本だけで、明治44年の覚書にはないから、
もしかしたら書生も慷慨の士もいなかったのかもしれない。
ただし、土佐藩士がいたことを書いてはまずいと考えて、わざと省略した可能性もある。
- 6 :
- 語尾に
じゃん
とかつけてんじゃねえぞ
- 7 :
- >>3
論理不明。
坂本中岡暗は、当時の旧幕府と諸侯、特に土佐藩との提携を頓挫させたという意味で、
当時の旧幕府首脳(徳川慶喜・板倉勝静・永井尚志ら)の基本姿勢に反逆するものであった。
ゆえに、この暗事件は幕府首脳の周知の結果の可能性は低く、むしろ当時大政奉還に反対し
執拗に大政再委任を要求した、松平容保などの独断と考えたほうが理解が容易な事件であった。
- 8 :
- 永井は「小物」すぎて難だがw容保説よか信ぴょう性はあるな〜
>>4
峯吉の嘘ってw多少の記憶違いも確かにあるだろうが
相手がお侍様なワケだから「安易」にその名を出すとは思えない
いくら知り合いとはいえ名誉に関わる事だからね
て意味で、確かに島田は現場に居たとは思う
龍馬に近江屋を勧め、事件前後に居た人物がみな「土佐藩目付」てのも面白いw
- 9 :
- 容保の命令を手代木が佐々木に伝えた、あるいは手代木が佐々木に命令した、と考えている人がいると思うが、それはまちがいである。
なぜなら手代木は「壮士二人を率い」と語っているが、今井と渡辺を信ずれば、暗団は七人だったのである。
もし手代木が容保の命令を伝えた、あるいは自分が佐々木に命令したとすれば、暗団の人数を知らないはずがない。
ゆえに手代木は龍馬暗のことを弟から聞いて知ったのである。
(つづく)
- 10 :
- 9のつづき
さて、龍馬暗が急に決まったことならともかく、前々から計画されていたことなら、手代木がそれを知らないはずはない。
ところが上記のことから、手代木が知っていた気配がない。ゆえに容保が命令者ではない。
司馬によれば渡辺は「近いうちに大物をやるというので」見廻り組にスカウトされたのである。
それは二月。ゆえに二月頃から計画されていたのである。容保が計画していたなら手代木がそれを知らないはずはない。
ところが手代木は知らなかった。ゆえに計画したのは容保ではない。
目付、大目付、若年寄、老中…そのあたりが計画したのである。あるいは所司代。
- 11 :
- 9と10から、手代木の「某諸侯」発言は、手代木の勝手な思い込みであった可能性が高い。
見廻組がやったと弟から聞いて、見廻組は守護職配下なので、容保候が命令したのだと思い込んでしまったのである。
ただしこの仮定が成り立つためには、手代木がそれを聞いたのは維新後で、佐々木は維新後も生きていた、と仮定しなければならないが。
なぜなら容保が守護職在任時なら、手代木は容保に真偽を尋ねることができたはずだから。
- 12 :
- >>6
3〜5は永井説を唱えているわたしであって、〜じゃん君ではありませんよ。
>>8
永井は若年寄ですよ。それより上は老中と将軍しかいないですよ。
たしかにやたら目付がうろちょろしているな。
- 13 :
- 事前に実行人数まで指定して暗命令を出していたら、
原発事故の対応手段と実行時間まで現場情報もないのに指定した菅直人と変らないわけだが。
- 14 :
- >>13
人数まで指定していたとは言ってません。
- 15 :
- >>9-11
手代木の三人とする説明には、二階へ上がったのが三人で後は見張りだったという後の研究者の説がついています。
つまり、この話を矛盾と感じる見方のほうが邪推となります。ゆえに暗を計画したのは松平容保の可能性が極めて高いわけです。
- 16 :
- 佐々木只三郎の場合、要人暗は清川暗という経験があったにせよ見廻組の任務の中では特異で、
しかも土佐藩と旧幕府との関係悪化を容易に予想できる行動であるため、暗は旧幕府首脳の統一意思とは思えない。
そのような業務を佐々木が、たとえ兄弟とはいえ関係がないとあなたが主張する手代木直衛門に明かしては服務違反だろう。
要するに手代木は無関係などではなく、逆に手代木が兄弟の縁を利用して、
上司からの命令としての坂本暗を弟に依頼した、としたほうが順当。
- 17 :
- がしかしだ、そこに手代木が彦根重臣に相談したという話が「都合が」いくわけ
そもそも服務違反というが、本来であれば佐々木「にではなく」
つまりは組織として与頭ではなく役に話を持って行ってこその服務違反であって
そうではなく佐々木に話が行った段階で差もありなんww
結果弟らが関わったことに何かしらの「危機」を感じた手代木が
懇意にしていた他藩の重臣に相談するわけだ〜
「弟が与頭とはいえ役を通さずに組織を動かした」等々・・・
彦根重臣手記では詳細は詳らかではないが
「無きにしもあらぬ」範疇であろうと
- 18 :
- >>15
しかし暗団が七人と知っていながら「壮士二人を率い」などと言うだろうか。
ただし暗団は三人だったという史料もちらほらあるから、三人だった可能性もないことはない。
今井の口述も、うんと深読みすれば、自分は見張り役だったと言い逃れるために、わざと人数を水増ししたとも考えられる。
>>16
わたしは「ゆえに手代木は龍馬暗のことを弟から聞いて知ったのである」と書いたが、必ずしもそうとはかぎらない。
翌日にはすでに近藤が知っていたという史料があるから、どこからか漏れて知った可能性もある。
- 19 :
- さて話は変わるが、岩倉には中岡をす理由がない。しかし龍馬をす理由はある。
ところで大橋慎蔵というのは岩倉の知恵袋と呼ばれた人物だそうで、中岡を岩倉に引き合わせたのも大橋らしい。
とすると、その大橋が現場にいたと考えても、あながち不自然な想像でもない。
とにかく、なぜ峯吉が「大橋さんと他の志士の面々」と大橋の名を挙げたか、が引っ掛かる。
- 20 :
- それはさておき木村幸比古の「龍馬暗の真犯人は誰か」を読んでいるのだが、この男はひどいね。
史料を無視して勝手な想像ばかりを書いている。こんなのは有害図書だ。
最初にこの本を読んでしまった読者は、変な先入観が身に付いてしまって、まともな推理ができなくなるだろう。
- 21 :
- >>17
手代木が会津藩を代表して、彦根藩に会談を申し込んでいる書状を、
松平容保が知らないと考えているのなら、松平容保は藩のことにすら責任を持たない座敷郎内の人間ということになる。
つまり、手代木の話し合いたい案件が坂本暗についてのことであった場合、
松平容保は坂本龍馬暗をこの書状を出す時点で承知していたことになる。
「松平容保は関係ないから無実」、とするあなたの意見は成立しない。
- 22 :
- >>19
>さて話は変わるが、岩倉には中岡をす理由がない。しかし龍馬をす理由はある。
そんなものは存在しませんが、仮定から間違っていますね。
- 23 :
- 岩倉には、す理由はあるだろ。
- 24 :
- >>22
容保大先生、政治的理由なんて、どうとでも説明がつくのです。
君のように、岩倉には龍馬をす理由がない、という人もいれば、岩倉には龍馬をす理由がある、という人もいるのです。
- 25 :
- 坂本と中岡の二人が標的だったとしたら、黒幕は、土佐か、幕府、あるいは土佐と幕府の共謀だろう。
理由はどちらも討幕的活動をしているから、というもの。
薩摩、紀州…などには、なにがなんでも二人を同時に標的にしなければならない理由はない。
- 26 :
- >>21
そりゃ〜アンタの足りない脳みそで判断するをは難儀な事と思われますが(笑)
では他藩の重臣、後藤とかも「いちいち」藩主にお伺いを立てての行動でしたか?
- 27 :
- 前スレの>>974を見て思ったのだが、永井というのは藩主でもないのに若年寄にまで成り上がった男である。
見方を変えれば、藩主という、重い、責任のある地位についたことのない人物である。
それゆえに言動が軽率である。毛利父子の首を刎ねろと言ったり、新選組を長州に送り込もうとしたり。
こういう人物だからこそ、見廻組という幕府の組織を使って、他藩の藩士を暗するなどということを考えたのではあるまいか。
容保は、仮にも藩主であるから、そんなに軽率なことはしないだろう。
- 28 :
- >>24
それなら、あると断言するのが間違い。
>>26
山内容堂は、藩政をかなり自らの決済で執り行った人間でした。
薩土盟約も締結条件に難色を示し、却下したのは山内容堂です。
あなたは、長州の全てを重臣にゆだねていた、そうせい公あたりを例に挙げるべきでした。
>>27
それを挙げるなら、松平容保の場合は配下の新撰組の行動は苛烈でした。他藩関係者も処刑されています。
- 29 :
- ほぉwでは後藤が龍馬と組んだのも容堂の「了承」なのですねw
- 30 :
- 佐々木多聞の密書は近江屋新助が差出人になっていたはず。ということは新助は幕府と内通していた可能性がある。
大正13年の「維新史蹟図説」でも井口家の人の談として佐々木只三郎と龍馬が話しているのが聞こえた、という証言があり、
近江屋新助が佐々木只三郎の声を知っていたらしい形跡がある。
新助は暗団が見廻組と知っていながら、谷らにはそれを話さなかったと思われる。
- 31 :
- >>28
容保先生、だから何回も言うけど、新選組が、内ゲバでもなく、粛清でもなく、公務執行でもなく、
幕府以外の人間の暗を行った例があるなら挙げてくださいよ。
仮にあったとしても、ただちにそれが容保の命令だとは言えないよ。
永井が命令したのかもしれないよ。
なぜなら油小路の変の指令者として永井の噂が立ったという例があるのだから。
- 32 :
- それと薩摩説や岩倉説の根拠は、平和路線の龍馬が邪魔だから、というものだ。
学者がどんなにそれを否定しても、学者の説を信じない人はいっぱいいる。
ごく常識的に考えて、討幕派にとっては穏健派の龍馬は邪魔だからだ。
薩摩はその段階では討幕ではなかったとか、龍馬は穏健派ではなかったとか諸説あるが、それらも説に過ぎない。
依然として、薩摩や岩倉には龍馬は邪魔だったという説は成立しうるのだ。
おまけに龍馬を害したのは薩摩人だという史料も存在するのだから、
薩摩説を検討しないのはまちがっているのである。岩倉説も当然検討しなければいけない。
- 33 :
- >>29
容堂の意向に逆らう部分があったら、当然訂正されたでしょうね。
松平容保が無責任な馬鹿と考えているとしたら、君は松平容保の幕末に果たしたことを過小評価している。
>>31
>だから何回も言うけど、新選組が、内ゲバでもなく、粛清でもなく、公務執行でもなく、
>幕府以外の人間の暗を行った例があるなら挙げてくださいよ。
君が勝手に限定しているだけで、新撰組や見廻組が公務と主張して人を拷問にかけてした例はあるではないか。
>なぜなら油小路の変の指令者として永井の噂が立ったという例があるのだから。
正親町三条の日記では、近藤勇が「土佐藩が伊東甲子太郎をした」と言っている件について討議、とある。
つまり、永井という噂とは裏腹に関係者の間では松平容保とその部下としての新撰組犯行という証言が得られていたと考えられる。
現にこの後で、旧幕府は新撰組には表面上処分が下り、中身はそのままで改名することになる。
新撰組が天皇配下の御陵衛士を傷した件及び、坂本龍馬を傷した(と土佐藩が主張した)ことが改名の原因とされている。
要するに、永井よりも確実な情報として、関係者の間では松平容保とその配下の新撰組犯人説が流れていた。
君が永井永井と言っている件で、関係者は松平容保を犯人にしているのですよ。
- 34 :
- >>32
常識的に考えて成立しないと判断された説を、ボクの常識は常識ではないといって持ち出すのは不合理です。
少なくとも、持ち出すだけの論理が必要ですが、あなたにはそれが全くない。
>ごく常識的に考えて、討幕派にとっては穏健派の龍馬は邪魔だからだ。
研究者の多数意見では、坂本龍馬は穏健派ではないのですが。
>薩摩はその段階では討幕ではなかったとか、龍馬は穏健派ではなかったとか諸説あるが、それらも説に過ぎない。
薩摩は基本的に討幕派だったと思われますが、外交上の協議の用意を無くすことはありませんでした。
研究者が提示する論理がある説と、あなたも論理を出せないような説
(例「ごく常識的に考えて、討幕派にとっては穏健派の龍馬は邪魔だからだ。」)を
一緒にするのは欺瞞です。
依然として、薩摩や岩倉には龍馬は邪魔だったという説は成立しうるのだ。
>あなたの心の中でしょう、一般的な研究者の説ではないし、まして常識的な説でもない。
>おまけに龍馬を害したのは薩摩人だという史料も存在するのだから、
根拠が極めて乏しい、あいつは気に入らない的な文章しか見当たりません。
>薩摩説を検討しないのはまちがっているのである。岩倉説も当然検討しなければいけない。
理由がありません。そして岩倉説の論理とやらは提示されていませんが?
あなたの文章は偏見を連ねて、常識だろ、と論理も無く偏見仲間を集めようとするだけじゃないですか。
- 35 :
- >>30
>大正13年の「維新史蹟図説」でも井口家の人の談として佐々木只三郎と龍馬が話しているのが聞こえた、という証言があり、
>近江屋新助が佐々木只三郎の声を知っていたらしい形跡がある。
この考え方は変です。話し声が聞こえたので坂本龍馬が客人と会っているのだろうと思った、程度の意味じゃないですか。
あなたの文章には邪推が目立つ、その上結論が「新助は暗団が見廻組と知っていながら、谷らにはそれを話さなかったと思われる。」
なのですからあきれます。新助が知っていて話さない論理がありません。
- 36 :
- 薩摩自体が出兵できなく龍馬所じゃないし
だから西郷大久保小松が総がかりで帰国してる
大政奉還案は弾圧で遅れた土佐を薩長に並ばせるための救済案でもある
ついでに龍馬を過大評価しすぎですわ
龍馬は藩論の代表者じゃないし、薩長をどうこうするほどの力もない
- 37 :
- >>35
容保先生はその史料を読んでないのですか?
佐々木が、申し置くことがあるなら承ろう、と言ったのに対して、龍馬が、
汝らに言うべきことはない、思う存分せ、と言う声が聞こえた、とはっきり書いてあるのですよ。
それと、新助が幕府と内通していたら、谷に話すはずがないではありませんか。
正親町三条の日記についても反論したいが、その日記は詳しく知らないので今はやめておこう。
とにかく新選組だって、永井が使おうと思えば使えただろうとわたしは推測している。
- 38 :
- 容保先生が反論してくれたおかげで、面白いことに気が付いた。
土人衛士を切候は
これを普通は「土人が衛士を切ったのは」と解釈するわけだが、そうするとその首謀者として永井の名が出るのは変である。
なぜなら、そうすると、永井が土佐人に命じた、ということになるが、幕府の人間が土佐藩士に命令するというのは変だからである。
そうすると「土人と衛士を切ったのは」という解釈も成り立つが、後の文を考えるとその解釈はやや苦しいから、結局、
「土人が衛士を切ったとされる油小路の変の首謀者は永井だという噂が立っている」と解釈すべきだろう。
土人がやったか新選組がやったかはともかくとして、とにかく首謀者として永井の名が出たのである。
- 39 :
- 今井弟書簡の、永井からの慰労金50両の書付を見た、という証言について、相川氏が
慰労金ではなくて支度金ではないか、と推理しているのを読んで、なんと勝手な推理をする人だろうと思ったのだが、
今日、新選組の母体となった浪士隊の支度金が50両だったということを知った。
応募者が多すぎて一人当たり10両になったのだが、とにかく当初は50両だったのである。
そうするとこの50両という数値が俄かに信憑性を帯びてくるのである。
もしこれが支度金だったとすると、それを永井から貰ったということは、龍馬暗計画の首謀者は永井だったということになるのである。
- 40 :
- >>38
その解釈はおかしい。
たとえ会話が聞こえたとしても、近江屋新助は坂本龍馬と佐々木只三郎の会話と断定することが出来ない。
君は場合場合によって、佐々木が斬ったと言ったり今井に斬らせたり、想像を挿げ替えては「正しいのである。」と勝手に宣言している。
実際は佐々木が言ったとは断定までは出来ないし、近江屋新助は「おそらく龍馬と押し入った相手の首領が会話をしたのだ」と言っているに過ぎない。
これで、近江屋新助と佐々木只三郎は事前に面識があったのだ、と君のように勝手に結論を下されては、こちらは君の破廉恥さに頭が痛くなる。
正親町三条の件だが、
近藤勇の当時の供述のように「御陵衛士を切ったのは土佐藩である」と正親町三条が考えているのなら、
この直後に、新撰組への旧幕府の処遇が怪しくなり、大阪に徳川慶喜が向かうと同時に新撰組は表面上廃止、
実際は単なる改名という処遇がなされる理由が乏しくなる。
もっとも、当時土佐藩は坂本中岡暗犯を新撰組と断定し処遇を求めていたので、それだけでも理由にはなるのだが。
どちらにしても、伊東甲子太郎暗後まもなく、事件の真相・近藤勇ら新撰組隊士による害が露見した事を考えれば、
既にこの日の中川宮との話し合いの段階で、薩摩派の正親町三条は近藤勇ら新撰組の犯行という証言を入手し、
佐幕派の中川宮へ詰め寄ったと私は考える。
高台寺党残党の薩摩藩邸への駆け込みは、事件当夜(実際は翌日夜の明ける前)だったのだから。
要するに、君が永井と叫ぼうとも、この時点で関係者の間では既に、伊東暗は新撰組及びその上司の松平容保の犯行として取りざたされていた。
>>39
支度金と暗料が同じ? 馬鹿な物言いだ。それを認めたなら新鮮組隊士は大金持ちですよ。
- 41 :
- どうも、実際は松平容保の関係した事件を、無理に永井という噂があるから永井という噂もあるから、と
永井と結び付けようとする変な意見があって困る。
伊東甲子太郎暗は、近藤勇ら新撰組の犯行であり、彼らの上司は松平容保であった。
坂本龍馬及び中岡慎太郎暗も、当時は新撰組犯行説が強く、当然上司は松平容保だ。
どちらにしても当時の世評を話せば、世評では犯人は松平容保とする説が有力だった、ということになってしまう。
わざわざ永井にする理由がない。
- 42 :
- 坂本龍馬及び中岡慎太郎の暗は、
松平容保が命令を下し、会津藩士手代木直衛門が命令を伝達し、
犯行の実行は見廻組佐々木只三郎が行ったということが種々の傍証から極めて有力視、
現在では、ほとんど既知の事実とされています。
それに疑問を呈するにしては、あなたの話はでたらめが多い。
- 43 :
- 容保先生の無意味な反論にいちいち答えるつもりはないが、ひまだから書こう。
1 佐々木と坂本の会話の件。君の無意味な反論には答える気もしない。佐々木と龍馬が会話を交わしていたとしても、
君の容保説にとっては何の関係もないでしょう。
2 君の読解力のなさが端的に表れている反論だ。50両が支度金だったとしたら、新選組の例から考えて、信憑性が出てくると
わたしは言っているのである。
3 新選組の上司が容保であることは誰でも分っているのですよ。新選組の上司は容保なのに永井の名が出ている、そこが問題なのですよ。
そこから、永井が新選組を自分の手足のように使っていたのではないか、さらにまた、
見廻組も自分の思いのままに使っていたのではないか、と類推できるのですよ。
- 44 :
- >>43
それは君の考えの方が意味がない。
1.君は近江屋新助と佐々木只三郎は事前に面識があったのだと主張する。しかしそれは>>40で示すように論理がない。
2.「50両が支度金だったとしたら、新選組の例から考えて、信憑性が出てくるとわたしは言っているのである。」
これは尚更論理がない。
はっきり言おう。そのように職務上の暗行為で毎回多額の現金を受け取っていたら、新撰組隊士は大金持ちになっている。
職務上の通常の褒美としては多すぎるのだよ。その他にもいろいろ不審なつじつまの合わない点の多い手紙を、未だに掲げている君は不可解だ。
3.「新選組の上司は容保なのに永井の名が出ている、そこが問題なのですよ。」
論理外れもいいところだ。正親町三条は伊東甲子太郎暗事件の直後には、新撰組の近藤の言う土佐藩犯行説ではなく、
犯行は近藤勇ら新撰組自身の手による暗であったことを把握していたと思われる。
高台寺残党は甲子太郎暗当夜には面識の無かった薩摩藩邸に逃げ込み、薩摩藩に事件証言を行い自らの保護を求めているのだから。
ゆえに、永井云々という話は前座で、実際は真犯人である近藤勇ら新撰組が天皇の護衛をしたという罪状報告と、中川宮への対処要求に
話の本題があったのではないかと推定できる。
現に新撰組への旧幕府への処遇は以後悪化し、慶喜の大阪移転に伴う見かけ上の解散、実は改名へと至る。
これについては土佐藩による、坂本中岡暗を新撰組の犯行とする旧幕府への弾劾も大きな役割を果たした可能性はあるが、
少なくとも、この時の話の内容が新撰組による暗の報告だったと考えられるところから、
永井よりも、新撰組の上司である松平容保の責任に話題が及んだと考えられる。
君の表面的な想像とは裏腹に、その後の処罰からは当日は新撰組とその上司である松平容保への処断が話題となったであろうということだ。
君は世評を問うが、伊東甲子太郎暗事件は直後には新撰組犯行とばれて、新撰組とその上司松平容保が問題となっている。
坂本中岡暗事件に至っては、世評は当時は新撰組犯行説で、もちろん上司は松平容保だ。
どちらを例にしても、世評で占うなら松平容保を犯人とするもので溢れていたことになる。世評が言うから永井という説はあまりに弱い。
- 45 :
- 誰がしたにしても、なぜこの暗事件には、ここまで食い違う証言があるのかが問題なんだよ。
政治的な理由で、この事件を操作しようとした勢力がいるんだろうね。実際にはなんでもない暗事件で、犯人はその日にわかっていたと考えるべきだろう。
当時の情報操作にはまっているのが容保説を叫んでいる人だよ
- 46 :
- 当時の世評が言うから永井、と言ってみたり
当時の情報操作に踊らされているから容保説に飛びつくのだ、と言ってみたり、あなたの話は矛盾が大きい。
今のところ確かなのは、会津藩士の手代木直衛門が、事件の詳細についてある程度以上確かな情報を残しているということ。
彼を中心に考えると、実行犯の佐々木只三郎と命令者の松平容保が無理なく説明できることになる。
- 47 :
- 手代木が一番確かな証言をしていると思い込んでいるだけでは? ちなみに永井説の方とは別人です。あなたは思い込みが激しく、冷静に物事を判断するのが苦手な方のようですね?
- 48 :
- >>44
容保大先生はほんとにアフォですねw
1 無意味な反論だからパス
2 ほんとに分らない人ですね、容保先生は。いいですか、支度金というのは江戸から京までの旅費その他ですよ。
今井は江戸から来たんですよ。そのための支度金ですよ。浪士隊も江戸から京まで行ったんですよ。そのための支度金として一人当たり50両が支払われたんですよ。
だから50両が支度金だったとしたら、浪士隊のそれと同じ金額だから、話に信憑性が出てくるというわけですよ。
慰労金だとしたら多すぎるが、支度金だったとしたら、つじつまが合うということですよ。分りましたか?
3 あのねえ、新選組の上司が容保だとは限らないんですよ。というのは6月から新選組は幕臣に取り立てられているからです。
もしかしたら会津藩お預かりではなくなっている可能性もあるのです。その証拠に、油小路の変の首謀者として永井の名が上がり、
坂本暗事件で近藤を聴取しているのも永井です。6月以降、差配が変わっている可能性があるのですよ。
- 49 :
- (つづき)
池田屋事件の後、新選組隊士に一人5両の褒美が支払われている。それから、うろ覚えだが、
油小路の変の後で、一人1両の褒美が支払われている。ということは、
油小路の変は、普通考えられているような内ゲバではなくて、公務だったということだ。
指令した人物がいたのである。そしてその人物として永井の名が上がっていたのである。
あの事件は単純な事件ではない。裏に何か陰謀が隠されているのである。
- 50 :
- なんだか、容保ガーが嫌いなので永井説を応援していたら
そいつがどんどん妄想にはまり込んでいる?
- 51 :
- なんでも永井のせいにするのは無理だし、
>>48,49に至っては全く話の内容に根拠がない。大体浪士隊のそれと同じ金額ではない。
手代木の証言を考える限り、会津藩及び会津藩主の松平容保の暗への関与を外すことは出来ない。
- 52 :
- 池田屋事件の恩賞金が一人5両だったというのは間違いだった。
一人10両で、別途、働きに応じて5両〜20両贈られた。(平隊士は5両、局長の近藤は20両)
>>51
浪士隊の支度金は当初一人当たり50両の予定だった。しかし50名募集のところ、250名ほど集まってしまった。
しかし予算は変更しなかったので、一人当たり10両になってしまった。
>>48についてだが、6月以降も新選組は守護職配下だったと思われる。訂正しておきます。
- 53 :
- ところで渡辺の証言にある「先斗町の料亭青楼」はどこにあったのだろうか。
誰か知ってる人はいませんか。
暗団は三条通りのほうから来たのか、四条通りのほうから来たのか。
四条通りのほうから来たなら、岡本や峯吉と出会っている可能性があるのだが。
- 54 :
- >>51
49について。根拠はすべて示してあるじゃないか。
1 油小路の変の後で、一人1両の褒美が支払われている。
2 首謀者として永井の名が上がった。
1からそれが公務であったことが推測され、指令した人物がいたと推定され、
2からその人物が永井であったと推定される。
- 55 :
- >>53
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765629
- 56 :
- P.9
- 57 :
- 55、56
せっかく教えてもらったけど、よく分からないw
十八丁下とは十八ページの下段だと思うが、p27〜p28にそれらしきものが載っているが、主人の名しか載ってないから、場所は分らないな。残念!
- 58 :
- p27に先斗町青楼として四人の主人の名が載っているから、四軒の青楼があったことが分かる。
- 59 :
- いずにしても暗団はきわめて近くに待機していたことが分かる。
近くには酢屋、土佐藩官舎、土佐藩邸、谷の下宿などがあるのに、よくも見つからなかったものだと…。
おかしいですねえ…。
- 60 :
- 今井 口書 東山辺りで待機
口伝 東山辺りで待機、三条大橋か四条大橋を渡って現場へ
近畿評論 先斗町で待機
渡辺 先斗町の青楼で待機
- 61 :
- 土佐藩邸の近くに彦根藩邸があることが前から気になっていたのだが、
うんと勘ぐれば、東山も先斗町も嘘で、彦根藩邸で待機していたのではあるまいか…。
- 62 :
- 渡辺がスカウトされた時の見廻役は堀岩見守。信州飯田藩主。松代藩も信州。
今井証言の松代藩はここからの思い付きでは?
渡辺がスカウトされた二月時点での目付は原、大目付は永井。
(永井はWikiでは2.3に若年寄格とあるが国史大辞典では2.30まで大目付である)
- 63 :
- 幕末の暗で、犯人がわからない事件はほかにもあるんですか?
- 64 :
- 暗団の帰路。
今井 口書 二条通りで別れた。
口伝 「ええじゃないか」にまぎれて帰った。
渡辺 四条通り→千本通り→下立売→智恵光院→佐々木の下宿寺
「ヨイヤナイカ」にまぎれて帰った。
渡辺の証言通りだとしたら、かなり大廻りをして帰っていることになる。
三条通りの方に出たほうが近いと思うが。
人目に付く四条通りをずどーんと千本通りまで直進している。
もっと人目に付かない小路を通ってもよさそうなものだが。
しかしどちらも「ええじゃないか」にまぎれて帰ったと証言しているので、信憑性はある。
- 65 :
- そりゃ似ているさ〜w
今井の話が「ネタ」なんだもん
・・・な説
- 66 :
- >>65
しかし今井の「ええじゃないか」の話は口伝であって、世間には発表してないはずだが。
- 67 :
- 今井の口書が世間に公表されたのは大正15年の「坂本龍馬関係文書」だろう。
その中で初めて暗団が7人だったことが公表された。
ところが渡辺の「原本」は明治13年に書かれたが、そこに暗団が7人だったと書かれている。
したがってこの二人の証言はかなり信憑性が高い。
ところが手代木は「壮士二人を率い」と述べていて、暗団の構成を詳しく知っていない様子である。
知っていたら「壮士七人を率い」とか「壮士数人を率い」と述べると思うのだが。
- 68 :
- 土佐の内ゲバじゃろ
- 69 :
- んでもその「原本」は果たして「その次期」に書かれたものか?
では、その原本には何故今井等犯行人物の「名」が記載されていないのか?
・・・だっけか?
- 70 :
- >>69
明治13年に書かれた、と物の本に書いてある以上、確かな裏付けがあるのだろう。
見れば分かるようにごく簡単な覚書のようなものだ。
「拙者」が参加したことさえ書けばそれでよかったのだろう。
- 71 :
- うろ覚えで申し訳ないが、土佐の桂浜かどこかで、土佐勤王党の連中を褌一丁の裸にして
だまし討ちした事件があったはずだが、その首謀者がたしか後藤象二郎ではなかったか。
後藤というのはそういう男だから、後藤と福岡が坂本と中岡を同時に消したと想定しても全然おかしくはない。
ところが松平容保と松平定敬、この二人はどう考えてもそんなことをする人物とは思われない。
- 72 :
- なぜそう思うかをあらかじめ書いておくと、容保や定敬が、非常識な、卑劣な、人間だったと思われるような事例がないからである。
容保は卑劣な悪人だったと言っているのはこのスレの容保大先生だけであって、一般のイメージはそれと正反対なのである。
定敬に至っては逸話さえ残っていない。
- 73 :
- 会津小説に騙されて、他人に罪を着せるのを喜ぶ人間が会津には多い。
記録を見ても、
>ところが松平容保と松平定敬、この二人はどう考えてもそんなことをする人物とは思われない。
>容保や定敬が、非常識な、卑劣な、人間だったと思われるような事例がないからである。
>容保は卑劣な悪人だったと言っているのはこのスレの容保大先生だけであって、一般のイメージはそれと正反対なのである。
と言われるような事例はどこにもなく、
逆に松平容保は、議事を取れば司会をはぐらかし、会議に至れば嘘と自己正当化ばかりだったのですが。
松平容保を擁護する人は、まともに松平容保の行動を調べもせずに彼をまともな人間だったと思い込んでいる。
- 74 :
- 今井は、見廻組は京都守護職付属だったと認めているのだから、どこからの指図かと訊かれれば、あっさりと、
京都守護職からの指図でした、と答えればよいのである。ところがそうは答えていない。
閣老からか、それとも京都守護職からか、よく知らない、ととぼけているのである。
隠す必要があったのである。なぜなら永井は今井と同じ獄舎に収監されていたのである。
同じ獄舎に入っている人間の名を告げるわけにはいかなかったのである。
- 75 :
- ところで渡辺は、鞘を忘れてきたのは世良だと証言しているが、実は渡辺本人だったのではないか。
今井は渡辺がまだ生きていることを知っていたので、メンバーに渡辺の名を挙げずに、渡辺吉太郎とした。
そして鞘を忘れたのも渡辺吉太郎ということにした。
渡辺篤はそれを読んで、今井が自分の名を隠してくれていることを知ったが、
龍馬暗に参加したの吉太郎ではなく自分だ名乗り出るためには、鞘を忘れたことは都合が悪い。
そこで実際には暗に参加しなかった世良の名を出してごまかした…。
- 76 :
- 一部訂正
龍馬暗に参加したのは吉太郎ではなく自分だと名乗り出るためには
- 77 :
- ま〜晩年の、しかも弟と弟子に話しただっけか?
この人の場合、比較的早い段階で手記にしていたからいいようなものの
やはり、年取ってからの供述には?なものを感じる
参考例としては、南京虐とか供述しているじいいさんとかね
- 78 :
- >>71
それ一領具足と山内一豊の話だろボケ
- 79 :
- >>77
それをいうなら手代木だって同じだと思うが。手代木が死んだのは78歳の時。
>>78
弘法も筆の誤り。猿も木から落ちる。
- 80 :
- >それをいうなら手代木だって同じだと思うが。手代木が死んだのは78歳の時
だから、「そういう事」なんだよw
- 81 :
- 犯行後の行動
今井 口書 二条通りで高橋と渡辺の2人は見廻組屋敷に帰り、佐々木は帰り、その他私たちはそれぞれの旅宿に帰宅した
今井 口書 それぞれ旅宿へと帰った
今井 近畿評論 私はその晩の前に相談していた佐々木只三郎のところに泊まり
今井 口伝 当日、全員で佐々木の居所に集合した。犯行後は「その後は散らばり、同夜と翌夜は、湯屋や酒屋など人の集まる盛り場をそ知らぬ顔でまわり…」
渡辺 佐々木の下宿の寺まで全員で帰った
これでみるとどうやら佐々木の下宿寺から出発して、犯行後も佐々木の寺に帰っている様子である。
見廻役にも所司代にも守護職にも報告している様子はない。
ただし佐々木の寺の向かいに永井の屋敷があったのだから、永井に報告している可能性はある。
いずれにしても、もし守護職の命令なら、まず守護職屋敷に報告に上がるはずだが。
- 82 :
- 渡辺
この件は秘密の公務であったので父に打ち明けたのみで、誰にも語っていない。
翌日、坂本が斬られたと評判になり、新選組の浪士が斬ったとか色々な噂が流れた。
こうして書くと軽く聞こえるかもしれないが、その当時の苦心は言葉では言い尽くせない
秘密の公務であったと語っているが、見廻組の犯行であることを必死になって隠そうとしていた様子がうかがえる。
要するに暗である。
- 83 :
- なんだか、永井犯人説しか信じない迷惑な人間がいるが、
動機を考えれば永井ではなく松平容保だろうに。
- 84 :
- >>81
佐々木が上奏・報告すればいいだけじゃない?
>>82
渡辺もなんで晩年になって「表に出てきた」の?な話だな
当時それだけ秘密だったのなら、何も「筆記」にて残すという方法も然りだったと
(ま、実際に覚書程度は書いていた模様だが)
つまりはちゃんとした詳細な「直筆」で子孫に残す〜後に公表ってパターンも出来たはずだけれども
今で言うなら最後に「TV」に出たかったwwみたいな感じじゃん
- 85 :
- >>83
永井説も然りだが、容保説もその「動機」につながる
明確な資料がありませんよ?ww
大政奉還に憂いでいたかもしれませんが
だから龍馬暗を命じた・・・という「記録」はありますか??ww
- 86 :
- かといって、大政奉還に乗っかろうとしていた人間の可能性は更にないわけで、永井よりは容保だろう。
- 87 :
- まさに50歩100歩。いまのままだと両者とも冤罪被害者。
容保を黒幕にするためとなると、急に資料とか飛び越して感情的に断罪しちゃうのってw
- 88 :
- >>84
渡辺の記録は本人が書いたものである。
>>86
大政奉還が暗理由だという証拠はどこにもないし、
容保が大政奉還にそれほど強く反対だったかどうかは不明だし、
永井が勝や大久保のような開明派だったかもあやふや。
- 89 :
- 人間は、会ったこともない人間にそれほど強い憎悪を抱くことはできない。
容保が龍馬に会ったことがあるかどうかは不明だが、永井は少なくとも三回は会っている。
会って会談して、強い反感と憎悪を感じた、ということはありうる。
ピストル射犯だし、いろは丸事件の首謀者(そのことは近藤や三浦から聞いて知っていただろう)だし、
大政奉還の建策者(建策者だとは知らなくても、それが龍馬の思想だということは直接会談して聞いただろう)だし…。
ちなみにわたしは永井説しか信じていないわけではない。
ひとまず黒幕は永井だろうと狙いを定めて、その傍証となるものを探しているだけである。
- 90 :
- 永井は前々から龍馬を狙っていた。そのうち大政奉還の件で後藤や福岡と会談するうち、
建策者として竜馬の名が出た。そこで一度会って、どんな男か見てやろうと思った。
そこで福岡に、その龍馬という男を連れてきてもらいたい、と依頼した。そして会談が実現した。
何度か会って話しているうちに、やはりこいつはってしまわなければならない、と考えた…。
- 91 :
- 想像力豊かなのは、わかったよ。説得力には欠けるが。
容保説ではないが、容保だとした場合、憎悪とかはいらない。政治的な理由だろうからね。
- 92 :
- >>87
容保を犯人とすると茶化すのに、変なメロドラマはスルーする感情が変だ。
- 93 :
- 大政奉還が暗理由だと考えている人が多いようなので書いておくが、
1 「慶喜公伝」p98に、容保、定敬は大義を了解していただろうが、藩士は旧幕府に未練があったので…、とあり
2 p101に、板倉はまだ不満を持っていたので、春嶽が説き、手代木にも奉還は仕方のないことだと説き、中根雪江をして永井や渋沢にも説いた、とあるから、
容保や定敬は了承していたが、板倉、手代木、永井、渋沢はまだ不満をもっていたと思われる。
3 次に、容保が、大政奉還が龍馬の案だと知っていたかどうかは不明である(寺田屋お登勢の文書が本物なら会っていたことになるが)。
しかし永井は会って会談しており、龍馬の思想が大政奉還であることは確実に知っていたと思われる。
以上の理由から、大政奉還が暗理由であったとしても、容保説より永井説のほうが蓋然性が高いのである。
- 94 :
- >>93
この説は成立しないと思う。
同時代の岩倉具視書簡には、松平容保は大政奉還に激怒し撤回を求めたとあり、
その後の松平容保の行動でも、>>93の引用部分を省略せずに話すと、
越前藩の公式記録には手代木・小野ら会津藩首脳に大政奉還受入れを説得したが、
会津藩は全く納得しなかったとある。
つまり、>>93で恣意的な引用がなされており、松平容保および会津藩が大政奉還を了承していたという記録は、
後代の「京都守護職始末記」及び「慶喜公伝」に限られ、松平容保は大政奉還を全く了承していなかったという
意見の方が研究者では主流となっている。
以上の理由から、「大政奉還が暗理由であったとしても、容保説より永井説のほうが蓋然性が高いのである。」
という主張は成立しない。大政奉還は松平容保は受け入れていなかった。松平容保こそ容疑者と考えざるをえない。
また、>>93では恣意的な引用が見られる。手代木や小野が会津藩の見解として大政奉還を拒否し、
松平容保の意思と言明していることを、あなたは隠して見解をまとめた。
- 95 :
- 見解をまとまる際、明らかな隠蔽を弄する人間の見解が正しいのでしょうか?
「板倉はまだ不満を持っていたので、春嶽が説き、手代木にも奉還は仕方のないことだと説き、中根雪江をして永井や渋沢にも説いた、とあるから、
容保や定敬は了承していたが、板倉、手代木、永井、渋沢はまだ不満をもっていたと思われる。」
これは慶喜公伝からの引用から得られた見解といいましたが、後半部分はどこを探しても、あなたのような見解は得られません。
むしろ同時期史料から言うと、容保や定敬は了承していなかったというのが現在の見解ですよ。
- 96 :
- では容保先生、その越前藩の公式記録の書名を教えてください。
できれば何ぺーじ、あるいは何月何日の項に書いてあるかを教えてください。
わたしが自分で読んで調べてみます。
で、仮に先生の言われることが正しいとしても、容保が、龍馬が大政奉還の建策者だと認識していたという証拠はありますか。
- 97 :
- 容保先生の言っているのは、たぶん「丁卯日記」のこの部分ですね。
「(慶喜の)御盛意貫徹希望仕り候は、肥後守(注:容保)は元より、家来共も一同御同然之儀に御座候得共、唯々今後の見込に於ては甚(はなはだ)心配仕候。
畢竟(ひっきょう)肥後守在職已然(いぜん)より存込居り候は、徳川家の政権は朝廷へ帰され、幕府にては王命を奉じ、順正の御政道に相成り候はば然るべしと存じ居り候處(ところ)、
此度の御一挙(注:大政奉還)にて、年来の誠心も違却仕り、失望の極地に御座候。政権を一途に帰され候は、恐れながら御尤(もっとも)至極の御儀存じ奉り候得共、
幕府迄御捨てなされ候ては、治り方附き申す間敷…」
なるほど容保候が失望の極地にあるとは言っているが、これはあくまで手代木が言ったことである。
手代木や外島は反対だったが、小野は賛成だったと「丁卯日記」にある。賛成の重臣もいたわけだ。
手代木は反対だったので、わざと容保候も非常に失望しておられる、などと言ったのかもしれない。
- 98 :
- 当時の藩主と家来の関係は、単純ではないよ。多いのは家来が進言して承認を解く形式が多い。
容保も手代木も、一介の浪士であは龍馬などほとんど知らず、誰かの進言、または、どうしても断れない依頼位でしか承認などしないよ。
まず、容保が命令者、黒幕というのは成立しない。
手代木が述べたような、断れない依頼である場合くらい。
容保が大政奉還を反対であろうと、容認していようと、黒幕説は、当時の殿様の存在を知らない素人節だよ。
容保は病気がちで、側女をはべらして酒を飲んでるようなことが多い。
当時、会津藩で竜馬らをよく知っている武士など多くはない。ましてや、暗をすべきと言えるほど、良く知ってる奴などゼロに近い。
容保の黒幕説だけは、論じても無駄。
それと、永井説だが、慶喜に大政奉還を進言したのが永井というのは通説。
大政奉還は、永井と慶喜が相談して決めたものだよ。
大政奉還時、当時は、幕府側の見回組の武士などに永井や板倉ら要人が暗されるのを恐れて、新撰組が二人の警護を大政奉還後には当たっていたくらいで、永井は見回り組など、うまくは使えないよ。
良く、当時の幕府内を見なさいよ。身内の方が怖かったのだよ。当時は。
- 99 :
- 丁卯日記によると、
慶応3年11月28日
松平春嶽は会津藩公用人、手代木直右衛門を呼び出し手代木は
「肥後守(容保)は元より家来共も一同、大政奉還を批判し旧幕制でなくてはならない」と言った
と記述があります。
日記だから個人記録だろ、というのは大きな誤りで、これは越前藩の公式の立場の人間の行動記録です。
板倉勝静側近の魚水実録も同様ですね。
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