2011年12月2期戦国時代36: 【反逆者】 荒木村重 【薄情者】 (83) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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38: 【五大老】前田利家を語る二槍目【槍の又左】 (534)
39: 困るほどの律儀者、佐竹義宣を語る (552)
40: 雑兵足軽の実状 (797)

【反逆者】 荒木村重 【薄情者】


1 :10/12/03 〜 最終レス :11/12/20
妻子を見捨てて逃亡した彼ですが反省はしていたようです

2 :
自虐野郎乙

3 :
まあとっとと死んだ負け組には用はない

4 :
視野狭窄乙
別に当時としては短命ではないし、子孫が残ってるから負けてもいない

5 :
age

6 :
荒木道糞は人格者
高山右近も

7 :
>>6
道重?

8 :
家臣が可哀想

9 :
age

10 :
age

11 :
しかし何で生き残ったんだろうな。あそこで死んどけば評価も上がっただろうに。

12 :
「戦国期三好政権の研究」で、荒木村重の謀反は村重の決断というよりも
領民からの突き上げによる行為だったこと。
花隈城への移動は純粋に戦略的な理由からのこと。
村重が毛利に救援要請にいったあとも戦争を継続した主体は領民たちだったこと、
さらにこの、領民たちによる反織田行動は、本願寺などの扇動ではなく
摂津領民の自主的な蜂起だったこと、などが考察されていた。
領民というフィルターを通してみた戦国大名像はかなり面白かった。

13 :
池田勝正に取って代わった

14 :
age

15 :
>>12
荒木は被害者だよね…なんで謀反したかわからないとか、黒田如水を捕らえたとか
領民国人たちの意志であって荒木の意志じゃないよね。

16 :
村重は土地のリーダーとしての役割を果たした。
立派なリーダーだよ。
信長が気狂いなのだから・・。

17 :
信長は圧政者だからな…民衆の指導者に祭り上げられたのがすでに不幸の始まりで果ては家族皆し。

18 :
>>15
でも逃げたのは変わらないし国人抑える力量もなかったって事だよね
いくら何でも黒田捕らえて閉じ込めるのまでは国人のせいじゃなくて荒木の私怨だろう
被害者面しても足使えなくなったり子供されかけた黒田が可哀想
国人の言いなりになってたヘタレなのか信長に一度は従ったけど嫌になったから裏切った気骨ある奴なのか
どちらにせよ一族見捨てて一人逃げたのは薄情者すぎる

19 :
>>18
人望ある実力者の池田勝正が追放された時点で領民の意志だろ…。
当時、信長から摂津守護に任じられていたが
播磨や但馬遠征させられたり
石山本願寺攻めさせられたりと休む暇なく連戦激闘続きで
ついに領民の反信長の意志決定で勝正が追放されて荒木が擁立されて摂津の要衝に籠城したんだから。
ちょうど謙信上洛の噂が京洛内外に広がり
畿内各国ことごとく蜂起鳴動して混乱してたし。
柴田は謙信の前に北陸に敗走し、
丹波の赤鬼に光秀は敗走させられてしまい
秀吉は背後を封じられ播磨に孤立し
大和河内一帯で松永久秀は野心に目覚め…
摂津和泉&北陸一向宗は謙信と手を結んで協調体制。
近江では六角や斉藤や浅井残党が再蜂起…

20 :
謙信生きてたらどうなったんだ?
反織田勢は元気一杯だし
仮に一旦関東に出兵してから対織田戦に謙信が再度出馬だとしてもまだ余裕はあるし
関東出兵も関東の反後北条勢力と勝頼は謙信寄りで行動しそうって考えたら
後北条の行動を制肘出来そうだし
全周反織田だね

21 :
>>19
担がれた時点で纏める自信なきゃダメだろ・・・御輿から降りろよ
優柔不断な奴だったのか?そのせいで一族は悲惨な目にあったんだが
担がれるにせよ黒田閉じ込めも領民の意志にせよ一族を見捨てて一人逃げたのは無責任だろ・・・
>>20
仮に遠征で北条を従えられたとしたらもう天下統一確定だろ
信長と謙信が戦争して信長のが多少多くても勝つのは謙信ってみんな言うに決まってる

22 :
1、5倍の兵力で信玄が蹴散らされたからな。
信長の場合は謙信の4倍いてトントンだろう。
オレも謙信が信長を葬った時点で天下人になれる状況+資格はあったと思う。
人格者だし諸侯、諸勢力の人望も厚い。
天皇も謙信が征夷大将軍になれば枕を高くして任せられる。

23 :
その場合やっぱり跡目争いで何やかんやで家康が天下取りそうだな
ルート的に先に織田が滅亡するだろうしそしたら家康もびびって許しを乞うし謙信は許すだろうし

24 :
跡目は足利氏を養子にすりゃあ纏まるだろう。

25 :
丹波の荒木氏重とかと村重は同族なのん?

26 :
信長の死後に秀吉が堺に呼んで召抱え
秀吉の死後に黒田長政が荒木残党を家臣に

27 :
俺はルルーシュみたいな反逆者になる
だから神の力を明け渡すくらいの力をもっている者は私に力をくれマジなので、よろしく

28 :
征夷大将軍は東の江戸に居を構えた徳川ならではの称号だよな。
ノブナガや秀吉なら幕府という形態は使わないような気がする

29 :
上杉が織田と戦ってたら?
一度や二度は勝つが
戦力が先に尽き
寝返る国人が出てきて終了だろ
いかに献身と言えど国力を覆すことはできない
浅井朝倉武田の二の舞になるだけ

30 :
松永と荒木は意外に気があったんじゃないだろうか。
上杉政権が樹立していたら、面白い事になりそう。

31 :
謙信は戦争屋なんで政権を樹立維持させることなんてできません
何人か鞭でひっぱたいて瓦解させるのが落ち

32 :
荒木村重は竹脇無害のみ。異論は認めない

33 :
>>12
ポピュリズムに走っちゃったてこと?

34 :
荒木村重でくぐったら興味深いレス見つけた。
654:人間七七四年:2010/07/24(土) 20:17:21 ID:mS+ismrB
三好軍は元亀元年10月に山城御牧を落とし、山城まで進出して、淀城に石成友通が入っている(天正元年8月落城)。
唯一の信長派高屋城畠山昭高は同年4月(6月とも)三好派家臣遊佐・安見にされてる。
畿内の状況は圧倒的に反信長方だったと考えるべき。
荒木村重は元亀元年6月主君池田勝正を追放したけど、勝正が将軍義昭を頼ったため、単に反義昭派に追い込まれただけ。
2年8月に池田勝正・細川藤孝らの攻撃を受けている。
畿内で孤立した状態だったので、結果として信長に賭けるしか生き残る術がなかった。
細川藤孝の理由は不明だが、
3月の時点では兄三淵藤英を将軍側に残しているから、真田のように家を二つに割った感じがする。
後の関係から考えると、荒木も細川も明智光秀の誘降の成果かと。

35 :
658:人間七七四年:2010/07/25(日) 01:42:59 ID:kl5cVkzn
畿内三国は本願寺が20〜30%程度の領土を有しているので、それを除く。
攝津
ここは一言で言えば「義昭=信長」体制から、
元亀2〜3年頃「義昭=三好」に変わったため混乱した。
その被害者で、かつ台風の目になったのが荒木村重。
永禄11年
義昭・織田は和田惟政・池田勝正・伊丹忠親の三守護体制を敷いた。
三好・本願寺の誘いを受けて「伊丹忠親」、池田配下の「荒木村重」、勝正弟の
「池田知正」らが三好党となる。
城を逐われた池田勝正が義昭を頼り、原田城に入って抗争。義昭援軍と荒木軍戦う。
元亀2年
三好党荒木村重・池田知正が、義昭党和田惟政を討つが、やがて「義昭=三好」
路線が明らかになり荒木沈黙。
三好氏による攝津安定化。
天正元年
3月荒木、誘いを受けて織田方へ。高山右近を味方につけて和田惟長を暗。
池田知正も誘う。 11月織田軍により、三好衆・伊丹・勝正など逃亡または討死。
河内
三好義継と畠山昭高の分割支配。義継三好派転身。昭高も三好派家臣遊佐信教・安見直政に暗。
天正元年、織田侵攻により義継自害。家臣降伏。遊佐・安見斬首とも逃亡とも。

36 :
大和
筒井順慶は興福寺官符衆徒(荘園管理官・事実上の守護代)であるため、基本行動は外敵排斥。
そのため大和支配を目指す松永久秀と永年抗争し、松永の行動如何で派閥を変える。
天正元年信長が松永を赦免したのも、寺院領廃止の目的があったため。
高市郡高取城には越智家高(旧南朝)。筒井氏と永年抗争。戦国期は河内畠山氏に属。
元亀前期は畠山派として松永と組んで筒井と戦うが、2年9月伯父家益に暗。
天正後は筒井下。 本能寺の変で明智党となり滅亡。
山城
北部は義昭配下の山本・磯貝・渡辺ら、天正元年明智に討伐される。
長岡辺は革島など細川配下なので藤孝の動向次第。
南山城は真木島昭光ら義昭配下、木津川辺は松永支配。淀周辺は石成。
和泉
三好分国として安定。配下領主松浦・寺田・沼間・眞鍋など。
讃岐十河存保が織田に通じた後、誘降を受け入れる。

37 :
659:人間七七四年:2010/07/25(日) 01:44:12 ID:kl5cVkzn
ついでに堺・京商人の動向。
まず堺会合衆だが、一般には永禄12年に信長に屈服したと言われるが、事実は違う。
会合衆の長老格天王寺屋津田宗及は日記(天王寺茶会記)によると、 元亀争乱期を
通じて、何度か本願寺や三好と会い、信長が天満森で敗走した直後に本願寺にも
訪問し、御茶を点てている。 逆に織田方とは全く会っておらず、津田が仲間の
会合衆と共に初めて信長に会うのは、天正元年11月京妙覚寺においてである。
元亀期、堺会合衆は二派に分かれ、津田が長老格に対し、信長派今井は新参なので、
反信長派が優勢だったと考えられる。 むしろ今井を残しておいて、裏目が出た時に
対処する商人らしいやり口だったのだろう。 また津田は元亀2年2〜3月京へ赴き、
京町衆と数度会合をもっている。
天正元年4月信長は上京を焼き、町衆の多い下京に自分に従えと命じているため、
京町衆も反信長派になっていたかと。 畿内一円の商人逹は「矢銭」をかけた信長を
嫌い、反信長派の動きをしていたと推定。 資金流通や弾薬物資も、信長よりも反信長
陣営に有利に回っていたと考えられる。

38 :

669:人間七七四年:2010/07/25(日) 10:04:26 ID:j9baQrgN
>658
>三好氏による攝津安定化。
細川昭元が元亀4年2月まで織田派として勇戦
三好・松永は何回も撃退されてる
679:人間七七四年:2010/07/26(月) 05:01:45 ID:0aQWzLDy
>669
細川昭元は三好派。
細川家本流で管領家・細川総領家・三好家の主君筋。母は六角氏。
父細川晴元は家中の実力者三好元長(長慶父)の害教唆から、三好長慶と
抗争のうえ近江で客死した。 一時和睦の際、生まれたばかりの昭元が人質と
して三好家に送られ、父死後も三好家中(芥川城)で成長する。
元亀元年三好武将として野田城に籠城。志賀陣和睦の時、将軍義昭の偏諱を得る。
元亀三年3月義昭・三好和睦成立(推定)の使者として石成友通と共に上洛。
この時、京に留め置かれたと推定され、天正元年7月信長より山城真木島城を
与えられる。以下略。
また公記では、昭元上洛に続き、本願寺の和睦に関わる茶器の記述があるが、
本願寺和睦時期は公記の誤記で、天正元年11月が有力。

39 :

松永が降伏したのは天正元年12月26日「多聞院日記」「尋憲記」
これも公記の誤記で、本来天正2年の頭に記すべきもの。丸1年ズレている。
ちなみに軍記物「和州諸将軍伝」に松永筒井は明智の扱いで元亀2年
11月1日和睦したという。 実際、この間の同時代史料に戦闘はなく、
逆に翌年3月筒井が上洛している。戦闘再開は4月末(松永謀反)。
私見では畿内の大まかな流れとして、
元亀元年攝津武将寝返り工作。 元亀二年義昭方武将と信長方武将の重なり
合う問題頻発のため、義昭と和睦交渉。11月頃徐々に戦闘停止。
元亀三年3月義昭・三好和睦成立。
義昭・三好和睦の裏には、近い将来の義昭・信長の正式な手切れを見越し
ての事であり、 和睦で無駄な争いが続く攝津を安定させ、更に松永らを
誘って河内をも平定させる計画だったと思う。 松永・畠山の対立は表向き
織田領内の内紛として。
誤算は和睦によって生じる荒木の主君追放責任(旧主池田勝正は義昭側に
いる)からの織田転身と、 突如、三好本国で起きた「大形殿騒動」かな。
大形殿騒動。天正元年初頃〜5月と推定される。
阿波・讃岐は名目上守護細川真之のほか、阿波国主は三好長治(実休子)、
讃岐は十河存保(長治弟)。 実休の右腕だった篠原長房が鬼十河・実休死後、
長治・存保の後見として二国を実質的に統治していた。 長房は三人衆の次席に
位置し、永禄期の松永内戦では三人衆側として度々畿内に上陸して形勢を逆転、
元亀元年野田戦では2万を率いて上陸し追撃、瓦林・茨木を落とすなど、三人衆を
勢いつける力となっていた。 だが一族の篠原自遁が「大形殿」を側室にした事を怒ると、
自遁の讒言で後見を解雇され、川島城に謹慎。 大形殿とは守護細川持隆の後室で、
持隆が実休に討たれると実休の妻となった女性。
3月真之・長治(共に母が大形殿)の攻撃を受け5月討死。存保も別事で長房と対立し
参戦したのが決定打という。 この騒動で四国からの後方支援が無くなってしまっていた。

40 :

以上、信玄上洛スレ64より。
荒木村重についての推測を抜粋し簡単に纏めると、
・永禄11年、三好の調略により主君・義昭派の池田勝正を追放。池田知正を担ぐ。
・元亀2年、同じく義昭派の和田惟政を害。
・同年、義昭と三好の和睦により、池田勝正復権、荒木村重は責任を問われる。
・天正元年、織田派へ転向。義昭派の和田惟長を害した高山右近を取り込む。
・天正2年、池田勝正と伊丹忠親を攻め、その所領を乗っ取る。
という事になる。
この説の疑問点は
・池田勝正の復権が本当に存在したのか?
・池田知正の扱いはどうだったのか?
・織田信長への内通はいつごろからか?
・和田惟長は義昭派だったのか?
というところだろうか。

41 :
>>39
>>松永が降伏したのは天正元年12月26日「多聞院日記」「尋憲記」
>>これも公記の誤記で、本来天正2年の頭に記すべきもの。丸1年ズレている。
これ詳しく。たしか11/22に筒井と松永が戦ってたよね。
その後、信長に松永久秀が降伏したって書いてある。たしか最初に降伏したのは息子だっけ?
なんでこのタイミングで松永だけ信長に降伏したのかまったく理解できないんだよね・・・
>>「大形殿騒動」は作り話もしくは天正元年7月前後じゃない?
日本史人物生没年表によれば長房は7/16に死んでるとしているし、
元亀3年12月には三好康長・篠原自遁・大和守らが大山崎で禁制出してるが
大和守って長房もしくは、息子に大和守を譲ってたんじゃないかい?
信長に金を出させて義昭が修築した淀城には石成友通もいたし
10/2付け六角承偵書状の内容には
義昭側近六角義堯からの話として信玄西上開始の秘密情報と共に三好甚五郎に四国衆の渡海を命じてる。
(三好神五郎政長の子である三好政勝?姉妹は池田信正の正室だね。その子が池田長正)
三好勢も総力あげてる感じで、このタイミングで四国本国で内輪もめしてるとは思えない。

42 :
大形殿騒動って
軍記に載ってる話だろ。
本当にあったかも疑問だな。
なんせ天正6年正月にも
義堯の命で謙信の上洛支援として、
阿波淡路の兵が堺に
上陸してるし。
いまだ義昭側に三好衆が帰属してる。

43 :
>>41
信長公記では松永降伏が昨年冬(元亀3年~天正元年)となっているけれど、
今年冬(天正元年~天正二年)の間違いというだけかと。
三好義継が11月に死んでいるので久秀の降伏はやむなしだろうし、
信長が久秀の降伏を許したのは、>>36の通りかと。
篠原長房については、日本史人物生没年表の方も疑わしい。
淀古城の戦いと一致させているだけではないだろうか。
篠原長房が死んだ後、三好長治が三好本国を纏めたのだろうけど、
比較すると力不足だったと思う。
>>42
いくらなんでも年代比定がおかしいかと。

44 :
すると、「多聞院日記」「尋憲記」には
天正元年12月26日に松永が信長に降伏してるって書いてあるの?
たしか尋憲記では天正元年3/6に義昭も義継と松永を許して京都にくるのはめでたい。
足利家への奔走を頼むって書いてあるんだよね。
公記の記述から信長に降伏を装いつつ
その裏で義昭への降伏交渉してて3月にまとまり義昭に内応してたと考えてたよ。
個人的には和田をした荒木も同様な真似をしてると思う。
篠原長房に関しては日本史人物生没年表のとおりに義昭の抵抗に最後まで付き合って戦死したのではないかと思うが。
>>42に関しては
大和多武峰(談山神社)の宗徒に義堯は呼応を命じており
談山神社文書と義堯文書は裏が取れるっぽい。
ちょうど毛利に東進がスタートし栗屋が摂津に入り、
児玉が淡路岩屋に入り三木城が織田から離反するなど
一連の流れから天正6年で合ってると思われ。

45 :
>>44
>すると、「多聞院日記」「尋憲記」には
>天正元年12月26日に松永が信長に降伏してるって書いてあるの?
おそらく。(>>39も引用なのでスマソ)
但し信長が検分のため接収した多聞山城に入城したのは元亀2年だから、
多聞山城の落城は天正元年12月26日頃であり、信長公記の記述は明らかにおかしい。
>たしか尋憲記では天正元年3/6に義昭も義継と松永を許して京都にくるのはめでたい。
>足利家への奔走を頼むって書いてあるんだよね。
天正元年正月には信長と義昭の対立が表面化しているから、
これは義昭ー三好ー松永の密約を世間に公開し、織田派への圧力を
目的とした行動と考えるのが自然かと。

46 :
>日本史人物生没年表によれば長房は7/16死去
調べたら上桜城の戦いの日だった。年表は元亀4年説をとってることになる。
なんらかの騒動により、篠原長房が三好長治の害されたのは確かの様。

47 :
話を端折り過ぎて大和多聞山城を信長が接収した日付と
落城した日付の前後に何があってのことかわからん…

48 :
>>33
単純に領民の不満を放置したら大名としての存続が危ういと判断したのだろう

49 :
池田追放も市民意思だろうね。

50 :
>>18
一族見捨てて一人逃げたというのは、完全に誤伝だよね。
>花隈城への移動は純粋に戦略的な理由からのこと。
>村重が毛利に救援要請にいったあとも戦争を継続した主体は領民たちだったこと、 >>12

51 :
無理でしょー 城主が死を覚悟して戦う兵士においらは戦術的に考えて他の
城に移動するけどおまえらはここで死ぬまで戦ってねなんて通らんでしょー

52 :
池田勝正も知正も村重も市民に首を挿げ替えられてるだけ
都市国家の市民が指導者を選出してるようなもんでしょ。

53 :
>>51
花隈城、尼崎城、石山本願寺には毛利軍の乃美宗勝、荒木元清、桂元将らが
来てるのだから、援軍待ちの状態であって死ぬ覚悟なんか必要無いし、
有岡城は相当な堅城だから早々に落城するなんてありえないという判断で
妻子残したんだと思う。(実際は部下の裏切りで落城。)

54 :
責任を取る必要がない民衆のほうが好戦的な時もあるんだな
今も昔も

55 :
まぁ惣村一揆の都市版だもんな。

56 :
池田追放は荒木が領民と通じて行ったもの、と考えるべきだろ

57 :
そりゃある程度の武将なら織田の強さも解るけど、摂津の庶民は
「尾張の田舎者なんかたいした事ないやろ」程度に考えていただろうし。

58 :
本願寺や毛利も後援してたし。
天皇の和睦斡旋で時間稼ぎをしてるうちに
中川や高山の調略に信長が成功しなければ、
織田は丹波戦線も崩壊する可能性もありやばかったのも事実。

59 :
池田勝正も荒木村重も信長の度重なる出征の犠牲者ということなのか。
それとも矢銭が問題?

60 :
秀吉がいた別所の播磨
佐久間がいた本願寺の摂津
明智のいた波多野や赤井の丹波
この辺りの戦線は互いに補給路を構築してたから織田は崩壊するね。
手取川の大敗のためか、
織田は慢性的に兵力不足に陥っていて
天皇に頼る以外に手段が無くなってた。
この機会に姫路の北に位置する但馬南部の生野銀山を毛利が奪取してたら、
織田は雪崩れを打って崩壊したろうね。
第二次木津川口の勝利による開場封鎖の成功は大きい

61 :
「信長の棺」だったかなあ、なんかの歴史小説で村重が逃げたのは包囲軍の責任者が
秀吉から信長公嫡男、織田信忠公に交代した直後、と書いてあった気がする
それで信長公は跡継ぎ息子に何してんだ!と思う反面、息子かわいさにその憎しみを
村重に向けてしまい、女子供全串刺しというルーマニアのワラキア公ヴラドなみの
残虐性を発揮してしまったという気がする

62 :
ツッコミ必要だよね?
>>60
謙信とっくに死んでるし。
村重の謀反は全然戦略的じゃ無いよ、絶対。
>>61
村重は逃げてないし、逃げて信長が怒る理由もわからないし、
捕虜を虐したのは有岡城陥落後だから、織田信忠公は褒められる側だし。

63 :
現実から目を背けていては真実には辿りつけないぞ!
村重は死にたくねえ、死にたくねえと思ってお気に入りの少女の側室を連れて毛利領に逃げたんだ
やつはそこで兵をくれ、またがんばるって言ったがさすがにそれは許されなかった
兵のみならず、妻子まで見捨てて逃げた男は武士として死んだも同然なんだ・・・

64 :
現代的解釈程度じゃプロにはなれんよ。

65 :
手取川の戦い以前の織田軍はたしかに兵力不足を感じさせない。
謙信や丹波の赤鬼が死んでから
まだ半年しか経ってないよ。
どこの戦線も兵力不足で織田は苦戦続き。
そこに荒木が大規模に決起だから天皇を頼ったのが信長。
この隙に宣教師を脅迫して高山や中川らを寝返らせる時間を作った。
もっとも毛利は天皇の斡旋をシカトして
木津川口で大敗したおかげで
制海権を手に入れた織田は摂津での戦局打開に成功しちゃうけど。

66 :
>もっとも毛利は天皇の斡旋をシカトして
>木津川口で大敗したおかげで
>制海権を手に入れた織田は摂津での戦局打開に成功しちゃうけど。
「毛利が天皇の斡旋をシカト」したことと「木津川口の大敗」に何の因果関係があるの?

67 :
荒木元清が厚遇されたのは何でだろ?

68 :
>>62
>>61は歴史小説というフィクションの感想文を書いているだけだから真面目に指摘しても無駄かと

69 :
荒木って結構可愛がられてたのに
なんで謀反したんだろうな?不思議だわ

70 :
もともと離反癖があるやつじゃん

71 :
和田親子したり
松永同様に
面従腹背の見本みたいなやつらだ。
しかし松永も大和国における
反筒井の領民の意向であり
久秀の意思は関係ないのかも知れない。

72 :
和田惟政・池田勝正・伊丹忠親を選んだ信長の目は本当に節穴だね。
漏れなく落ちぶれてるし。

73 :
面従腹背こそ我らの個性

74 :
>>72
だよな。お前ならそんなミスしねえもんな!

75 :
信長は家臣にすべて丸投げで
ロクに内政をやらんから
松永や荒木らが
在地支配を続けることが可能だから面従腹背してる。
実際に信長が彼らを支配していたというのも難しい。
彼らは自分に都合がよい時や劣勢の時だけ、
信長に味方顔しただけ。

76 :
>>74
ありえないだろw
俺だったら絶対、村重と右近を選ぶねw

77 :
信長が無理な動員を要求しすぎて、
松永や荒木は国人たちの突き上げをくらってたんだろうな。

78 :
配下の国人たちが細川三好時代みたいに幕府を介した同盟者きどりでいたら
完全に部下扱いでこき使われてぶち切れあたりが真相だろうとは言われている

79 :
村重謀反の時摂津の惣村は、村重敗亡後も織田軍と戦い続けているので、
信長の搾取は惣村レベルで非常に過大なものだったことがわかる。

80 :
あれだけ多方面で戦を継続してりゃ、兵糧も兵士も欠乏するわな。

81 :
だがさんのースレ

82 :
ここでの信長の戦後処理の方法がどうも理解できない。
人を指図する身分の妻子は全員極刑の磔(長槍串刺し・
長刀腹裂・鉄砲縦銃創)に処せられているのに、村重一族
は、殆ど京で一番楽な死に様の斬首刑である。
本来ならば、見せしめに村重一族を磔に架けるべきだと思う
のだが、皆様はいかがでしょうか。

83 :11/12/20
もう村重が逃げた後だったからじゃね?
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38: 【五大老】前田利家を語る二槍目【槍の又左】 (534)
39: 困るほどの律儀者、佐竹義宣を語る (552)
40: 雑兵足軽の実状 (797)