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2012年07月戦国時代230: 【報いを待てや】織田信孝【羽柴筑前】 (657)
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【報いを待てや】織田信孝【羽柴筑前】
- 1 :2007/05/27 〜 最終レス :2012/07/18
- 三七丸こと信孝について語るスレッド
- 2 :
- 糞スレ立てんな蛆虫
- 3 :
- >>2
お前が
- 4 :
- 織田信雄を語るの353で信孝スレを立てて欲しいと希望した者です。
1さん、ありがとうございました。
とりあえず辞世の句を「昔より主を内海の野間なれば、報いを待てや羽柴筑前」
これが一番一般的なようです
- 5 :
- 兄弟スレおめでとう御座候。
- 6 :
- 寄騎に恵まれてない印象が強いよね
家臣で有名なのといえば小島兵部と岡本良勝くらい?
- 7 :
- あっちでも書いたけど、関盛信は寄騎だったかな。
- 8 :
- >>4
潔さの欠片も感じられない句だよな。
だがそれがいい。
- 9 :
- ちなみに、切腹した際自らの腸を引きずり出し掛け軸に投げつけたと
いわれてるが、生物学上無理らしい。
- 10 :
- 糞スレ立てさせんな蛆虫
- 11 :
- お前が
ここは信孝について語るスレだ。分かったらくんな。
- 12 :
- 清洲会議の事がつくづく惜しまれる。
柴田勝家も反論せんか。
だいたい3歳の子に何ができると言うのだ
- 13 :
- >>12 推薦した秀吉以下、全員思っていたことだろう
- 14 :
- もしあそこで柴田勝家が秀吉を押し切り、信孝を家督にすえていたら
どうなっただろうか。
そもそも織田秀信と織田信孝、どちらが上なのか。
- 15 :
- 星芒 長澤奏子著
信孝や信孝の娘を題材にした小説
- 16 :
- >>1
3月7日生まれだから、三七ってマジ?
- 17 :
- マジ、
信長は子に変な幼名をつける。
個人的にそれで子供達が傷ついたりして、そのせいで
子供が信忠信孝除きみんな小粒なんじゃないか、と
思っている。
- 18 :
- 清洲会議は意図的に一益はずされてるしな
池田はどう見ても重臣とは言えんし、長秀も若狭国主では勝家や秀吉より一歩下
がる
会議自体が秀吉の策謀臭い
勝家が光秀を先に討てば何の問題なく信孝が家督を得ただろうけど
でも不思議なのはなぜ本能寺の変時に信忠は幼い幼児の三法師をわざわざ京都に
連れていったんだろう?
しかも大軍の重囲下にありながら、信益に連れて逃げたと言われるが、そんなに
容易く光秀は逃したのか?
- 19 :
- 三法師脱出は創作だから、まじめに考えるだけ無駄だよ。
- 20 :
- 本能寺発生時に、三法師は岐阜城にいて、その後変を聞いて清洲に避難。
こっちが史実だから。
- 21 :
- じゃ信益は独りで逃げたの?後継者の甥っ子見捨てて
ヒデェ奴じゃ
でもこういう奴じゃないと家名残せないのか
正直に生きるとロクなことがないと言うことだよ
信孝くん
- 22 :
- >>21
信益すじゃなく長益
- 23 :
- スマソ
- 24 :
- >>17
ありがとー。
奇妙とか茶筅とかは知ってたけど、スゴイねw
あと、信孝って筒井や三好に養子入りする予定もあったぽいね。
- 25 :
- そういうのから、本能寺の変信孝黒幕説も
でてくる。俺は全く信じんが
- 26 :
- 三好笑岩への養子は四国攻めの大義名分を得るためでしょ
それに倣ったのが秀吉
- 27 :
- >>24
「人」なんて名前の子供もいるんだぜ
- 28 :
- >>15
>信孝や信孝の娘を題材にした小説
メチャクチャ読みたいなそれ。信孝の娘には名前ついてた?
- 29 :
- >>21
信忠に腹を切らせて自分はトンズラこいた織田有楽斎よりマシ。
- 30 :
- >>15
これって自費出版ですか?
アマゾンや紀伊国屋の検索で出てこないが
- 31 :
- 信長が子供につけた名前とついでに生年と本能寺の変の時の年齢
? 信正(1554−1647)庶子といわれる。僧になり94歳で亡くなる。本能寺の歳は29歳。
長男信忠(1557−1582)幼名奇妙丸。本能寺の変の時26歳。詳しくは信忠スレを。
次男信雄(1558−1630)幼名茶筅丸。本能寺の変の時25歳。詳しくは信雄スレを。
三男信孝(1558−1583)幼名三七郎。本能寺の変の時25歳。詳しくはこのスレを。
四男秀勝(1568−1585)幼名於次。本能寺の変の時15歳。羽柴秀吉の養子となる。
五男勝長(1568−1582)幼名御坊丸。本能寺の変の時15歳。信忠と共に討ち死に。
六男信秀(1571−1596)幼名大洞。本能寺の変の時12歳。僧になったと言われる。
七男信高(1576−1602)幼名小洞。本能寺の変の時7歳。織田信成は子孫になる。
八男信吉(1573−1615)幼名酌。本能寺の変の時10歳。なぜか八男になっている。
九男信貞(1574−1624)幼名人。本能寺の変の時9歳。なぜか九男になっている。
十男信好( ?−1609)幼名良好。本能寺の変の時はまだ幼少であった、という。
十一男長次( ?−1600)幼名縁。本能寺の変の時はまだ幼少。全く不明の人物。
- 32 :
- 信孝の家臣で幸田彦右衛門は忘れないで欲しいな。
人質に出されていた母親の話なんか、これぞ武士の女だもんなあ。
- 33 :
- 幸田孝之だね、美濃で稲葉一鉄と戦い討死にしてる
- 34 :
- >>29
いや、その織田有楽斎が長益の事なんだけど。
>>21は長益のことを間違って信益と書いてはいるがな。
- 35 :
- 織田信孝辞世の句
「川角太閤記」「昔より主を内海の浦なれば報いを待てや羽柴筑前」
「氏郷記」他 「昔より主を内海の浦なれば尾張を待てや羽柴筑前」
「坂役叢話」 「昔より主を内海の野間なれば報いを待てや羽柴筑前」
まあ似たような感じだが、一般的には「坂役叢話」のが多用されてる
- 36 :
- 本能寺の変前の信孝は自前の兵力だとどれくらい持っていたのかな
5000ぐらい?
- 37 :
- 山崎の合戦では4000だったと思う
- 38 :
- それは総動員数じゃないよな。
たぶんだけど。
- 39 :
- >>34
信忠に腹を切らせて自分はトンズラこいた織田有楽斎より(信孝のほうが)マシ。
ってことだろう。
- 40 :
- 総動員なら1万2000だった気がする
- 41 :
- 一万云々といっても、自分の所領以外の伊勢や伊賀やらのも集めてるから、
総動員とは違うんじゃないかな。
実際、信孝の本能寺の変の時の所領は伊勢二郡(鈴鹿・河曲?)のはず。
5万石ずつとしても、せいぜい10万石。3000〜4000がいいとこじゃないかな。
神戸、国府、峰、鹿伏兎らの国人ぐらいだし、組下にいたの。
- 42 :
- >>28>>30
http://homepage1.nifty.com/manyapage/parque/syuppan/seibouhyou.htm
娘の名を賢子としている。生後まもなく父信孝が自害したあと信正(信長庶長子)に引き取られた。
母は村井貞勝の遠縁の者の娘。ちなみに信正の養父は村井貞勝。
夫は医家の坂氏、信正の嫡子信衡。
- 43 :
- >>42
サンクス。別スレで教えてもらった次女の方だったのね。
秀吉に殺された長女かと思ってた。
- 44 :
- 実は信孝には信茂、信豊という息子もいる。
いくつかの文書に見える。
- 45 :
- 信正は実在の人物なんだ
ちょっと驚き
ところで本能寺の変時、信孝が決起して信澄を討った時点で摂津国主の池田恒興
に恐らく連絡したと思われる(というより恒興自身が信孝のもとにはせ参じるの
が筋と思うが)
恒興が動かなかったのは信孝を見捨て状況の変異の様子見?
それとも既にこの時点で秀吉の息がかかっていたと見るべきだろうか?
清洲会議では秀吉により重臣格に抜擢されてるし、怪しいが
- 46 :
- 【織田信広】庶長子・影の薄い長男総合【織田信正】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1180506410/
立ててみたから使ってね。
- 47 :
- 一応、調べていたら天正六年六月二十七日の神吉城攻めでは足軽に混じって城に
乗り込んだというから指揮官としてはわからんが、武勇に関してはある方らしい
まあ城攻めの総指揮は兄の信忠が取っていたけど弟の無茶ぶりには手を焼いただ
ろう
その後、京都所司代村井貞勝のもとで事務方としての経験も積んだようだ
太閤記などに記されているようなそんな愚息でもなさそうだ
しかし元亀元年に養父神戸具盛と不和になり翌年神戸家家臣を粛清するのだが、
元亀元年と言えば、信孝はまだ十二歳
不和ってほんとかな
- 48 :
- 実際は信孝付きの織田家臣と具盛や神戸家中が対立したってあたりかな。
粛清も信孝主導というより信長の意を受けた家臣が行ったんだろう。
- 49 :
- もちろんそうだと思う
ということは四国遠征に成功し三好家の家督を継いだら
三好家も後々粛清されることになったのかな
- 50 :
- そのあたりは北畠家でも行われたし、小早川もやっているな。
- 51 :
- このスレ伸びてるな スレ立て依頼者として嬉しく思うよ
あと話しぶったぎってしまうが、信長が信孝と
会話している記録って残ってる?
個人的な興味なのて分からなければスルーしてください
- 52 :
- 天正8年に病身の村井貞勝を補佐するため信孝は在京し禁裏との交渉などしてい
たらしく、7月には本願寺から教如が退去する誓詞を交わすため、信長を京に迎
えているので、その際に仕事上の話を交わすのは当然と思うが、自らの身上など
プライベートの事は信長を畏れて言えないだろうね
- 53 :
- プライベートでの信長って、そんなに怖いイメージないなあ。
信忠を叱責した書状やいわゆる¨ご勘気¨は公的なものだし、
信勝以外の卑属には手を掛けていない。
ねねへの宥め状などは兄が妹をお守りするような繊細さがある。
一門の中で身分が信包より下なのに信長に四国を任されようとしていたのだから
信長からの期待は大きく気に入られていたのではないかな。
- 54 :
- 52殿、53殿。個人的な興味に答えていただき感謝する。
どんな大名でも子に教育するような話は残っているのに、信長にはそれがない
ような気がする。
信長の目には息子たちがどう移っていたのか気になる。
まあ親馬鹿な信長だからなw 雷を落としたのは信雄の伊賀攻めの時と
信忠が能を舞いすぎたときぐらいか
- 55 :
- 信忠に関しては残ってるとオモ>信長
叱→「馬が欲しい時に金を与え、金が欲しい時に馬を与えるようじゃなきゃいかん」
誉→「俺が行く前に武田平らげたもんだから、俺は甲斐に観光にいったようなもんさ〜」
どっちも本人の前では言ってないが
- 56 :
- 本能寺の動機は長宗我部攻めを阻止するためというのが
近年有力なようだ。
さらに四国攻めは信孝が信長に強く求めて決まったともいう。
だとすれば信孝はその行為のために自身と父の命を失った
ことになる。
- 57 :
- 本能寺の変後に、近衛前久が明智に加担したので信孝が成敗するとの噂が流れたそうな。
>>56
明智の家老、斎藤利三は長宗我部と縁者だからね。
外交の取次も明智がやってたし、秀吉が三好に肩入れしたのも理由になるか。
- 58 :
- >>55
>叱→「馬が欲しい時に金を与え、金が欲しい時に馬を与えるようじゃなきゃいかん」
こんなことやってるから本能寺の変がおこったんじゃないかとふと思った
- 59 :
- 長宗我部攻撃は、べつに誰かしらに進められたからというものでもないけどね。
普通に考えれば、長宗我部のこれまでの行動をみれば討伐するしかない。
秀吉が三好に肩入れしたとか、長宗我部を守るためにというのなら、どうして
明智はそれ以前に、長宗我部の反織田の行動を止めようとしなかったのか。
かつては敵対していたが、降服してからは従順に仕えている三好。
同盟は結んだがロクに役に立ったことがなく、逆に他で忙しくて四国に関わって
いられなかった時期に、四国の親織田勢力を攻撃するような長宗我部。
どちらを選ぶかとなったら、個人的な性格の問題ではないだろうよ。
- 60 :
- どっちかというと武田攻めじゃないかなぁ。
光秀は恩賞に殆どありつけなかったからね。
武田攻めに関しては、「信長が到着する前に信忠が武田をオ滅ぼした! 信忠はさすが信長の後継者!」と
いわれているけど、途中で信長が家臣に信忠が無茶な進軍をしないように書状を出している割には
信長の進軍速度は遅い。
丁度信忠が武田を滅ぼした時点で武田の国境に足を踏み入れるタイミングは、信忠に功を立てさせるために
信長が武田領入りを引き伸ばした結果とも取れないだろうか。
なら、信忠に全て任せば良いじゃないかと思うかもしれないが、信忠の身を案じるなら、必ず後詰はしなければならなかった。
「武田崩れ」は、もちろん信忠の軍が強かったことが一番の原因だけど、このうえ更に後詰が来るという絶望感から起こったこと。
信長の後詰がなかったら武田戦は長引いた可能性が充分ある。
その意味では、武田領に入らなかったとしても、信長軍にもそれなりの功があったといえる。
けれど、徳川などの外様を除き、武田領は全て信忠の息の掛かった武将に割り振られた。
信忠への実質的な相続を急いでいた信長にとっては、武田攻めは、武田を滅ぼしたとともに
家臣団に対する、「今後、信忠につかないものは、活躍の機会を与えられない。」というメッセージも持っていたかもしれない。
信長的には「だから今ここで代替わりの誓約も結んどけ」という意図だったんだろうけど、明智の返事は「NO」だったと。
信長の変な行軍・戦場での行動って、親バカフィルターを通して見ると納得が行くことがあって面白い。
信忠に総大将を任せて自分は近場で鷹狩していたこととかも、「暢気に隠居」というよりは「はじめてのおつかいを見守る親」の方が
真実に近そうな気がする。
大軍を指揮するのは非常に難しいようで、家康なんかは、大軍を有機的に指揮できないまま一生を終えている。
19の若造が5万も6万もの大軍を常に有機的に動かすことができたことは、ちょっと信じがたい出来事だ。
よくよく考えると、少年の内からこれほどの大軍を動かした人物って、日本史上で信忠しか居ないんだな。
まぁ、信長としても心配だろうから、万が一劣勢になった時には、何時でも指揮を代われるように近場にいたんじゃないかな。
で、いかにも「心配で後ろに詰めてます」って様子で居たら、信忠が家臣に侮られるかもしれないので、鷹狩してたと。
諸大名には「信長ついにボケたか!?」と思われて、第二次信長包囲網に繋がったと。
- 61 :
- >>54
自分は信長はそんな子供に過保護な人間じゃないと思うし、思いたくないな
自らも信行との争いで家中を二分した痛い想い出があるし
結局、信忠には河尻秀隆を付けて指揮官として養成していった
18歳の信忠単独で行った岩村城攻めは次第点
信長がその時の信忠と同年齢のときは信忠のような大軍を指揮していなかった
恐らく、信孝にも長秀を付けて指揮官として修行させるつもりだったのだろう
勇猛さでは神吉城攻めで見せていたし、天正8年期に京で吏僚としての経験を積
んでいたから、これから旗頭としての教育を施す予定だったのだろう
四国平定後は惟住日向守、惟住という西国の名を貰った光秀、長秀とともに九州
平定に向かったことだろう(何の根拠もないよ、単なる個人的推測なだけ)
- 62 :
- >>59
信長と長宗我部氏の関係は次のように変化している。
1.四国は元親の切り取り次第
2.土佐と阿波半国のみを認める
3.讃岐を信孝に、阿波を三好康長に与え、残りは未定。
2までは斉藤利三や光秀も容認できたろう。使者を送って
説得を試みている。
だが3では長宗我部氏の存在そのものが否定され、織田方の
軍勢によって滅亡必至。それで利三が激怒し光秀をたきつけて
謀反を起こさせたというのが近年有力な説。
2から3への変化は信孝が信長に求めてそうなったという。
従って3にならなければ本能寺は起こらず信長も信孝も
生きられただろう。
この説が正しければ信孝は自分で自分の首を絞めてしまった
ことになる。
- 63 :
- 長宗我部の縁者である利三が光秀を炊きつけて本能寺の変になった、というのは
一応つじつまは合うがそれを支持する文献的な根拠なんかが皆無なのが痛いな
- 64 :
- そりゃあ史料的根拠なんてないよ。
ここ1,2年で鈴木、藤本、桐野、谷口らによって
黒幕説が否定され、そして消去法的に残ったのが
長宗我部救援。
桐野はそれだけでなく野望説も同時に主張してる。
鈴木、藤本は「検討に値する」という言い方だが。
谷口の新刊では光秀の年齢を一般に言われてる55ではなく
67とし、このところ武功のない自分が佐久間や林のように
追放され、明智家が路頭に迷うことを恐れたというのも
理由に挙げている。
- 65 :
- >>62
まず1.だが、これはあくまで対三好をにらんだ同盟。かつ「織田領、親織田勢力でも
切り取り自由」なんて約束はない。しかし長宗我部は三好が信長と戦っていた時期は
ロクに戦わず(当時土佐国内で戦っていた長宗我部にそこまでの余裕がなかったとは
言えるが)、三好が信長に従うようになって両者の同盟の存在意義が揺らいだ時期に
なってから、何故か織田勢力化した三好を攻撃。
しかしこの時期の信長は本願寺、毛利を敵に回して四国の情勢に強く介入することが
できなかった。やむを得ず臣従勢力が攻撃されるのを座視することになる。
(当然、信長は長宗我部に対して不快な思いを抱いただろう)
で、本願寺・毛利戦線に目途がついてから四国問題を取り上げることになる。
2.を見れば判るが、信長は当初は長宗我部の領土を認めようとした。実際に
当時の長宗我部の領土はこんなもの。あと讃岐を少々か。
つまり信長はこれまでの行いは不問にすると言ったわけだ。信長にしてみれば
譲歩ではある。その上で、信長に服従する意志があるのなら讃岐で切り取った
部分は三好に返却しろといった。信長にだって、従属する三好を保護する義務が
あるのだから、このあたりは退けない要求だったろう。
しかし長宗我部はけった。
その結果、長宗我部討伐が決定され、3.となった。
明智にしてみれば納得ができないような決定でもないし、信孝がどうこうする
以前の問題として、長宗我部の対応をみれば2.から3.への移行は当然といえる。
この決定を明智が不服としたというのなら光秀はそうとうのバカだし、ここまで
行き着く前に長宗我部を外交で抑えられなかった明智の不手際となる。それを
恨んだというのなら単なる逆恨みだそりゃ。
君の説は時空列をごちゃまぜにして背景を完全に無視しているよ。
- 66 :
- 信長が認めていたのは一条家を戴いた長宗我部氏の支配体制で、
一条氏が元親に追放されてからは関係が拗れてるとか。
- 67 :
- >>65
ってか長宗我部って四国征伐時のときも秀吉側の降伏勧告を蹴ってなかったか?
もしそれが本当だとしたら、案外元親はプライド高いがゆえにあまり才能なかったのかもねw
もちろん、それなりにはあったと思うが、少なくとも信ヤボ革新のような、
総合能力で全武将中第6位なんてのは有り得ないだろうなw
- 68 :
- 長曽我部って北条以上に無茶してるんだな
何でなの?
- 69 :
- >>68
既得権の範囲が実力以上に広がってしまった事と、その既得権を持った家臣や盟下の諸侍を
押さえつけられるほどの独裁権力がなかった(無理に押さえつけようとすると元親自身が追放される)から。
- 70 :
- 【神戸】信孝公【当主】
永禄11年2月、信長が北伊勢に侵攻した際に、神戸城を本拠とした関一族の神戸友盛は信長に抵抗したが
支えきれずに信長の3男三七丸を養子にするという条件で降伏した。
当時三七丸は11歳、幸田彦右衛門が傳役として、その他、岡本太郎右衛門、坂仙斎、三宅権右衛門、
坂口縫殿助、山下三右衛門、末松吉左衛門、立木、河村以下の侍が添えられ、後に友盛の娘と婚約した。
また関一族の関氏・峯氏・国府氏・鹿伏兎氏らが与力となった。
しかし、男子がなかった友盛は以前から関盛信の子勝蔵(盛吉)を養子すると約束していたが
これが反故になってしまったので友盛、盛信ともに三七丸のことを快く思わず、粗略に扱った。
元亀2年正月、友盛夫妻が、年始の挨拶のため近江日野の蒲生家を訪れたとき
信長はこれを捕らえ沢城に隠居させ蒲生家に預けた。
この時、領地を検地し、神戸家の侍の所領を削り、尾張から来た侍に与えた。
そしてこれに抵抗する神戸具盛の孫、高岡城主山路弾正を高田孫右衛門に命じて誅殺して
神戸家の侍の粛清が行われ、その他120人の侍が追放された。引続き神戸家に仕えた者は480人。
これらを神戸480人衆と称したという。
山路の跡の高岡城には、信孝の異父兄小島兵部少輔が入れ置かれた。
元亀3年春頃、兄信忠・信雄と一緒に元服し、神戸三七信孝と号した。加冠の役は柴田勝家が務めたという。
神戸家当主として、神戸家の家臣だけでなく関一族をも摩下に置いた信孝だが
関家の当主関盛信は信孝に好意を持たず、とかくこれを軽んずる傾向があったという。
天正元年春、ついに盛信は信長の勘気を蒙り、蒲生賢秀に身柄を預けられた。これによって、関領の新城以下は信孝の領分とされた。
- 71 :
- >>69
大名権力と下部豪族の軋轢というのはよく言われるが、例えば長宗我部と同じ
豪族レベル出身で典型的な豪族連合政権といわれた毛利氏は五カ国割譲講和を
成功?させている。吉川など反対派もいたが、その主張はあくまで割譲領土を
低く抑えるべしというもので、講和自体には反対はしていない。
まあ毛利氏の場合は、直接戦って戦力・国力差を豪族たちも承知していた、また
戦った末に力及ばず負けを認めたという点で、長宗我部とは異なるが。
戦いもせずに軍門に降るというのでは、そりゃあ影響は異なるだろう。
それでも、元親の外交は、織田に限らずかなり不信が多いシロモノだが。
「当人は負けを承知していたが、下からの突き上げで止む無く―」
とも言いづらいんだよね彼の場合。
- 72 :
- 元親記に元親公斎藤殿の事明智と相談
という記述があるぞ
誰も気づいてないが俺は発見した
- 73 :
- 俺が>>72書きこんでから過疎ってる…
- 74 :
- 今まで割と活気があったが、信長の息子のスレは基本的に過疎だよ
- 75 :
- いや、詳細な続報がないとレスのしようがないわけで。
- 76 :
- 高野春秋に信孝が紀伊高野攻めの総大将として活躍している様が描かれているんだが
本当はどうなんだろ?
- 77 :
- 本能寺の変で割を食ったのは、死者以外では、やっぱ信孝だよなあ。
讃岐一国はガチ。んで、三好康長が五年ぐらいで死ぬだろうから、
阿波もゲットで二カ国の太守。
伊予と土佐に分封されるだろう諸将も信孝の寄騎大名になるだろうから、
南海道の主になれただろうに・・・。
- 78 :
- >>72
元親紀はどの位信頼できる資料なの?
明智軍記や武功夜話みたいなことはないよね?
- 79 :
- >>78
元親記がのっている戦国史料叢書(四国史料集)をちょうど借りてる。
元親記は寛永8年(1631)に長宗我部旧臣が、元親の33回忌を記念して書いたとある。
ってことで、元親の人物像について誉・褒が誇大な部分があるが、良質な史料とあるよ。
- 80 :
- >>72
元親のことは褒めすぎだが、まあ良質な資料と言えるだろう
体験者が書いたものだし
- 81 :
- 織田信長の子で言えば、信忠と信孝どっちが上だ?
どちらも戦死?だが
- 82 :
- 圧倒的に信忠でしょ。
あの年齢で、あそこまで大規模な軍団を動かして武田を滅ぼした武将は
同年代に皆無だし、何より嫡男としてそのような教育を受けている。
信孝は一武将としての勇猛さは認められているし、嫡男教育などからは
遠い所で養育されたにもかかわらず、頭角を表してきたので、
改めて教育を施されている途中だったとは思う。
信雄は……駄目だろうな。
駄目すぎて秀吉にお目こぼししてもらった感じ。
信房(勝長)が、意外にも北条などの資料に、良き武将として残っているし、
武田方から頼られている書状もあるので、やはり二条城で死んだのが惜しまれる。
- 83 :
- 生来の資質はどっちが上かわからないけどね。
改めて見ると信長の息子たちはダメ息子ばかりってイメージがあるけどそうでもないな。
- 84 :
- 窮地に陥ったときの垣間見えるのは資質と言えないか?
二条城で見事戦士した信忠
流言に惑わされて信澄を殺した信孝
資質的にも偉大な兄には適いそうに無いです・・・
- 85 :
- 信澄が本当に明智と繋がっていたのかもしれんけどね。
まあ信忠のほうが上な可能性が高いとは思うが。
- 86 :
- >>82よく分かった。詳しい説明感謝する
あとまた聞くが、そこそこ優秀な信忠、信孝の間の信雄はなぜ無能だったのだろうか?
信長の教育が悪かったのか
伊賀攻めの時叱りすぎて信雄が傷ついたとかは…無理やりだがないかな?
- 87 :
- 信雄が商人気質の生駒衆に育てられたからという話はあるな
- 88 :
- 案外天下統一後に商業へ信雄を進出させて商業をも牛耳るつもりだった・・・・・ってことはないかw
- 89 :
- >>88それはいいなw
- 90 :
- 辞世のセンスのなさに失笑。
プライドばっか高い駄目男だったんだろうなこいつ。
- 91 :
- 創作くらいも見抜けない馬鹿ってまだいたんだねwww
- 92 :
- 自分は、辞世の句にここまで恨みを込められる信孝像が好きだけどなあw
- 93 :
- 後年の創作だしな、創作した頃にはそういう信孝像ができてたのかもな。
- 94 :
- >>93
創作というのはどこからきてるんだ? 同時代の複数資料に見られるのに
- 95 :
- 確かに、語呂だけ合わせたような安直で珍妙な句だお
教養のある人間が作ったとはとても思えないお
こんな失笑ものの句を遺したのは不可解だお(;^ω^)
創作によるものか、信孝がアホだったのか
今となっては分からんけど
- 96 :
- 仙台なんとかとかいう奴
いろんなスレで見かけるけどなんか刺々しいな
ほんと何様?
- 97 :
- >>96
百姓様
- 98 :
- >>95のほうがアホじゃね?
- 99 :
- ネタでやってるんだから楽しんであげなよ。
- 100read 1read
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