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2012年07月戦国時代89: 凡将を名将のように説明するスレ3 (323) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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凡将を名将のように説明するスレ3


1 :2006/07/09 〜 最終レス :2012/08/08
復活!
ルール:凡将を名将のように紹介するスレ。その逆もあり。人物重複おk
【過去スレ】
凡将を名将のように説明するスレ
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1107879560/
凡将を名将のように説明するスレ 2
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1122993454/

2 :
http://meisyoude.gozaru.jp/
以前あったまとめサイト、消えちゃったのね。

3 :
あぁこのスレ好きだったのにな…
まとめサイトも良かったのにね。もったいない

4 :
俺もこのスレ好きだった!
>>1
復活乙

5 :
凡将を名将のように説明するスレ
http://makimo.to/2ch/hobby8_warhis/1107/1107879560.html
とりあえず初代スレはここで見れる

6 :
織田有楽斎
     
織田信長の弟。
本能寺の変では、織田信長・信忠親子が相次ぎ戦死し大混乱に陥る中、狂騒の京からいち早く離脱に成功する。
庶民は人離れしたこの活躍を絶賛し、「織田の源五は人ではないよ」と褒め称えたという。
関ヶ原の戦いでは西軍の武将蒲生郷舎を討ち取るなど大活躍を見せ、、大和3万石を授かった。
茶道にも精通し、利休七哲の一人にも数えられるほどだった。
大阪冬の陣では豊臣側の中心人物となり奮戦し、将としての器を示す。
有楽斎は豊臣の未来のために、和平策を提案したが
受け入れようとしない豊臣側に呆れ、有楽斎は大坂城を退去する。
有楽斎の提案を受け入れなかった豊臣は予言どおり滅亡してしまう。
大坂城退去後は茶道に専念し、趣味に生きた。
文武両道兼ね備えた希有な武将であり、文化人でもあった有楽斎は有楽町という地名で現代に残り、
人々の心に生き続けている。

7 :
数多の武将が、しのぎを削り覇権を争う戦国時代全盛期において
武田、上杉、北条、毛利など歴史的有名な大名をも完全に力で抑え付け
初めて京に上洛を試みた、真の戦国最強大名
その大上洛軍は3万とも4万とも謳われ
駿河を出発し尾張に入るまで、敵一人いない有様だったと言う
また、徳川家康の才能を早くから見抜き、己の帝王学を叩き込む為には
相手を人質に取るとまでいった信念の強い漢だった
彼の貫かれた信念と厚い親心の甲斐あって、家康は後に天下人になるのだが
彼の存在なくして徳川幕府の成立はなかった事は周知の事実であろう
また、お歯黒と言われる古来のお洒落を嗜み
戦国のファッションリーダーとしての一面も垣間見せている
そして、その文武に突出した彼の黄金人生の最期も、また歴史に残る壮絶なものだった
4万近くもの大軍で快進撃を続ける彼の軍だったが
敵の余りの弱さを哀れと思い、己の周囲は少数の兵を残しただけで
敵将・織田信長と指しの勝負を挑んだのである
そこには「今川軍は数だけではない。例え一人でも上洛してみようぞ」
という、彼の自信と志の強さ、フェアプレーの精神が感じられる
そして、鬼神の如き働きで敵兵をバッタバッタと切り伏せる義元であったが
予期せぬ戦場の、ぬかるみに足を取られ、転倒したところを敵兵に命を奪われてしまう
もし、彼が生きていたとしたら・・?
それは憶測としてではなく事実として、今川幕府の成立が実現していた事であろう


8 :
サッカーの神様

9 :
>>6-8

氏真適当すぎw

10 :
織田信雄 (おだ のぶかつ・のぶお)
永禄元年(1558年) - 寛永7年4月30日(1630年6月10日)
織田信長の次男(出生順では三男と言われる)。
1570年、北畠家との和睦の条件として若干12歳にて北畠の養子となり、17歳ま
での間には、完全に織田領化するなど、戦後処理に卓越した手腕を発揮する。
また、北畠家時代には、伊賀の地侍の危険性にいち早く着目し、この点に鈍感で
あった父信長の勘気を受けてでも伊賀攻めを実施するなど、先見の明もあった。
1582年、本能寺で信長が非業に倒れると、近江方面に出兵する。このとき、明智
勢が退去した安土城に火をつけ、信長の菩提を弔った。信長追悼については、細
川幽斎の追悼連歌会や秀吉による大金を投入した葬儀が有名であるが、この城そ
のものを信長の供物にするという豪儀な方法は、信雄の大気さを示すエピソード
といえよう。
本能寺の変の後は、自ら織田当主となることをいち早く放棄し、信長嫡孫である
三法師(後の織田秀信)を一途に立てるなど、織田家の柱石ぶりを見せつけた。
また、非嫡流での三男織田信孝が重臣筆頭の柴田勝家と組んで、三法師を岐阜城
に軟禁すると、羽柴秀吉と組んで両者を滅ぼし、三法師を救出する。

11 :
三法師救出後は、織田家の家政を秀吉ら重臣に任せて一歩退いた形で所領の尾張
から後見をすることになる。しかし、これは時期尚早でもあった。信雄不在の中、
秀吉が勢力を伸ばして織田家の所領を自分のものにしはじめたからである。
これのを見て、信雄はやむを得ず東隣の徳川家康の助力を得て秀吉の暴虐に対抗
することになる。(小牧・長久手の戦い)
この戦いでは、機動力と統制力に優れる信雄・家康の連合軍が数で勝る秀吉軍に
勝利し、戦線を膠着状態に持ち込むことに成功する。後方に不安のある秀吉は、
この状態に焦り、信雄に対して講和の要請をしてくる。信雄も、父信長の仇を討っ
た秀吉の功績に免じ、この講和を受け入れる。このとき、信雄は徳川家康に知ら
せることなく秀吉を講和を結んだが、これを聞いた家康は「天下のために大慶」
とおおいに喜んだという。家康ほどの人物にそれほどの信頼を得ていたというこ
とで、信雄の魅力を語る一端を垣間見せる。
この後、信雄は日本に残った残存勢力の掃討を秀吉に任せている。しかしながら、
小田原の陣(1590年)の後、転封を打診されたのを断ったことに際して、秀吉に
領土を奪われることになる。あくまでも秀吉を信じ続けた信雄の人間性がここに
きて裏目に出た結果であろう。

12 :
三法師救出後は、織田家の家政を秀吉ら重臣に任せて一歩退いた形で所領の尾張
から後見をすることになる。しかし、これは時期尚早でもあった。信雄不在の中、
秀吉が勢力を伸ばして織田家の所領を自分のものにしはじめたからである。
これのを見て、信雄はやむを得ず東隣の徳川家康の助力を得て秀吉の暴虐に対抗
することになる。(小牧・長久手の戦い)
この戦いでは、機動力と統制力に優れる信雄・家康の連合軍が数で勝る秀吉軍に
勝利し、戦線を膠着状態に持ち込むことに成功する。後方に不安のある秀吉は、
この状態に焦り、信雄に対して講和の要請をしてくる。信雄も、父信長の仇を討っ
た秀吉の功績に免じ、この講和を受け入れる。このとき、信雄は徳川家康に知ら
せることなく秀吉を講和を結んだが、これを聞いた家康は「天下のために大慶」
とおおいに喜んだという。家康ほどの人物にそれほどの信頼を得ていたというこ
とで、信雄の魅力を語る一端を垣間見せる。
この後、信雄は日本に残った残存勢力の掃討を秀吉に任せている。しかしながら、
小田原の陣(1590年)の後、転封を打診されたのを断ったことに際して、秀吉に
領土を奪われることになる。あくまでも秀吉を信じ続けた信雄の人間性がここに
きて裏目に出た結果であろう。

13 :
所領を奪われた後は、出羽・伊勢・伊予などで軟禁されていたが、1592年には小
禄ながら、秀吉の相伴衆に加えられている。この復帰の理由は定かにはされてい
ないが、すでに一大名の地位の落とされてしまった甥の秀信のためだと思われる。
この血縁の者に対する面倒見のよさは、信雄の特徴であり、後の大阪の陣におい
ては、従姉妹の淀殿のために豊臣家との確執を無視して大坂城で後見をし、さら
に、もう一人の従姉妹であるお江与(淀殿とは姉妹)にも大坂の情勢を伝えるな
ど、深い交流を続けている。
大坂の陣の後には、徳川家からの要請によって大名に復帰し、2つの大名家を出
すにいたる。
また、信雄は、能の名手でもあり「天下を取ったら、この舞いを公卿にみせてやろ
う」というほどであった。天下と匹敵するするほど神域に達したということでもあ
り、かつ、安土城を業火で包んだのを見ても判るように、芸術的への真摯さはたぐ
いまれまものを持っていた。また、茶の湯でも高見達した点をみても、文武ともに
優れた人物であったことがわかる。
なお、信雄を「のぶお」と読むか「のぶかつ」と読むかは、現在に至っても結論が
でていない。自らの呼び名すら韜晦した信雄は、後世の歴史家に対し数百年にわた
る研究課題を与えつづけているのである。
(12はミス><)

14 :
【上杉謙信】
長尾為景の次男。
その凶暴な気性から越後の虎と呼ばれた。
幼い頃は林泉寺に預けられて学問を学んでおり、元服すると栃尾城主となった。
ところが家督を継いだ兄の晴景に突如叛旗を翻し、兄を無理矢理隠居させ、長尾家の実権を掌握する。
北条氏に敗れた関東管領上杉憲政が越後に救援を求めてくると、
先祖代々の姓をあっさり捨てて関東管領に就任した。
関東管領就任後は、毎年のように関東に攻め寄せ、略奪や人身売買を繰り返した。
上杉軍の放火や狼藉によって関東の町は壊滅状態に陥った。
しかし味方の成田長泰を手打ちにするなど、謙信の言動は度を過ぎていた。
そのため徐々に関東諸将の信頼を失っていき、関東における所領の大半を北条氏に奪われてしまう。
謙信の関東攻略は失敗し、北条氏と同盟という救いの手に助けられる。
しかし北条氏が援軍を要請しても、謙信は何もせずに、それどころか領土の返還を求めたため
怒った北条氏に同盟を破棄されてしまう。
関東攻略を諦めた謙信は今度は北陸に手を伸ばす。
神保氏や畠山氏から領土を奪うが、最後は厠で急死する。
謙信は後継者を定めていなかったために御館の乱と呼ばれる後継者争いが勃発する。
国は内乱によって疲弊し、せっかく奪った北陸の所領のほとんどを失ってしまう。
謙信は乱世の梟雄として悪名を轟かせている。
謙信はアルコール中毒であり、気性も荒かった。
まだ幼い人質を自ら斬り殺した事もあったという。
また謙信領ではその余りある行為から、その家臣の反乱が絶えなかった。

15 :
名将も愚に書いていいのか

16 :
あえて凡将を名将として説明するから面白くて感嘆するんであって
其の逆をやると只のアンチスレ化しかねないので余計な波風は立てない方が・・・・

17 :
>>16
名将→凡将の場合は、アンチを感じさせないクオリティを求めたい。

18 :
織田信雄
覇王・信長の子でありその嫡子信忠の同母弟。
生来剛毅であり、幼くして伊勢の名門北畠氏に人質に出されるも
当主具教の弟らを抱き込み家督を簒奪し具豊と名乗って伊勢国司となり
さらに己の地位を安泰とするため北畠一門を根絶やしにする。
覇者となった豊臣秀吉とも対等に渡り合い、理不尽な転封には一顧だにせず断る逸話が有名。

19 :
大友義統を名将に出来る奴はおらんか

20 :
84 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2005/08/10(水) 18:32:17
大友義統 (おおとも・よしむね) 1558−1605
大友義鎮(宗麟)の嫡子に生まれる。幼名長寿丸。
将軍足利義昭の諱字を受け義統。後、豊臣秀吉の諱字を受け吉統。洗礼名コンスタンチノ。
信仰厚きキリスト教徒であり、彼の住まう野津においては爆発的に信者が増加したという宗教的徳望の持ち主であった。
また子作りに励んでばかりの実父大友義鎮に対し、お家騒動の元凶になると批判する高いな倫理性も併せ持っていた。
その為か、一万田宗慶ら義統に忠言する家臣は数知れずであったという。戦国時代においては稀にみる人格者だった
と言えるだろう。
戦場においては黒田長政揮下の将として朝鮮に出兵、長駆して鳳山城を占領する勇猛さ、小西行長の救援要請に対し
戦局不利と見て応じなかった的確な判断力を兼ね備えていたが、秀吉には理解されず、この対応を逃亡と非難、義統
は領国を召し上げられ山口の本国寺に幽閉された。家康はこの処罰に対し、石田三成や福原直高らによる「贔屓の
沙汰」と判断、慶長4年赦免される。
その後、関が原の合戦に西軍として参戦するも、敵が黒田如水では相手が悪かった。降伏したのち、配流。赦される
ことなく没する。享年48歳。

21 :
今川氏真を名将のように語ってみてくれくれ
一条兼定もキボン

22 :
前田利家は名将ですか?

23 :
今川氏真
今川義元と武田信虎娘の間に生まれる。幼少時から文武の神童と呼ばれ、とくに
蹴鞠と詠歌は東国で彼の右に出る者はなかった。武勇においても、父義元をしばしば
驚かせ、三河松平氏からの人質竹千代(のちの徳川家康)を弟分として鍛え上げたという。
父義元が織田信長とフェアプレイの旗本同士の合戦によって不運にも落命して以後、
氏真は駿河領国の治世に努め、父義元以上の名君として領民に慕われた。
この時期、松平元康(前出・家康)から父の敵討ちを勧められ、たびたび尾張織田領
に出兵しようと準備するが、家臣団の反対に遭い断念。一説には、敵討ちによって
信長を討取るのは簡単だったが、むしろ信長を背後から操り天下に覇を唱えようと考えた。
武田氏の駿河侵攻に際しては、領民たちの保護を第一義に無駄な争いを避けて
掛川城に素早く撤退。武田兵の無駄死にを回避させ、人道的な視野に立っていた。
家康や武田に先んじて上洛し、京都では蹴鞠の技を極める。のちに、信長の前で模範演技を
披露したのはあまりにも有名。じつは、京都での信長を操っていたのが彼で、
有職故実、宮中との交渉など、はては足利義昭の追放も指示したのだった。
駿河に帰還するために、武田攻めに従軍して武名を高めたのも周知のとおり。
ところが、信長は氏真の指図を受けずに独自の政権構想を打ち立てるようになっていく。
氏真は慙愧の思いで明智光秀を操り、本能寺に信長を討ったのである。その後は
幼なじみの家康の江戸開府を黒幕として指揮し、品川に屋敷を構えて老後を送った。

24 :
>>23追加
なお、甲斐信濃への「塩止め」と伝わるのは、武田氏や甲斐信濃領民を
苦しめるためではなく、じつは塩分の摂りすぎを警告する諸学に通じた氏真
ならではの高潔な措置だった。上杉謙信が塩分の摂りすぎで命を縮めたと伝承
されるケースと好対照である。蹴鞠などの運動第一、健康第一の武将だったのだ。

25 :
以前のスレであった、文官→猛将化
細川藤孝
幼いころから剣聖・塚原卜伝に鍛えられた剣豪武将。
「金串を一刀両断した」「大牛を一人で引きづりまわした」など、
怪力エピソードも残っている。
足利・織田などの弱小大名に仕えていたためか、その武勇のほどは余り
知られていないが、織田家の同僚の記録では「戦況がヤバくなってきたので
強い細川殿に代わってもらった」などという記述があり、
運送業者や野武士などのアマチュアの集団で、三河の兵士に比べ
3分の1の能力しか持たないほどの弱兵であった織田家にとっては
非常に心強い武将であったようで、堅城信貴山城を攻略するなど
ここ一番というときに起用されている。
晩年になっても猛将ぶりは衰えず、わずか500の兵力で1万五千の敵兵と
交戦して勝利を収めるなど、驚くべき武力を持っていたらしい。
なお、息子の与一郎と息子の嫁のガラシャも武力に優れており、
関が原の戦いの折には、味方がふがいなく敗走する中を与一郎のみが
踏みとどまり、敵本陣に猪突猛進して勝利を収め、息子の嫁のガラシャは
大阪城に向かい自爆テロを敢行するなど、父の血を引いて大いに奮闘している。

26 :
猛将化(ぎゃくに猛将を文官化?)も面白いね>>25愉しめたyo。
武勇の名将を女性化(じつは女だった)とかはどうかな?

27 :
ドイツ・サッカーワールドカップ決勝戦において
フランスの主将・ジダン選手が、イタリア代表・マテラッツィ選手に
頭突きを喰らわせた事件は、皆の記憶にも新しい事だろう
何故、あれだけの選手が己の引退試合、優秀の美を飾るべき大舞台において
あの様な行為をはたらいたのであろう?
それは「己の愛する母を冒涜されたから」
そう。偉大なる主将ジダンは己の晴れ舞台よりも、母への愛を貫いたのだ
そして戦国の世においても、愛する母への愛を貫いた一人の主将がいた
その名は、━━━━豊臣秀頼━━━━
彼は戦国一の出世頭、豊臣秀吉の子として
日ノ本総石高、総大名を統べるべき宿命を背負わされて、この世に誕生した
身の丈六尺、色白の大変な美男子だったと言われている。
生まれながらにして帝王の宿命を持ち、富も力も容姿も、全てを手に入れた漢
そんな全てを持つ漢に、運命は悪戯だった
彼の存在を嫉む一匹の醜い獣。そう、化け狸・家康が謀反を働いたのである。
彼は関ヶ原において辛くも豊臣義勇軍を退け、何を勘違いしたか江戸に幕府を開く
そればかりか、天下一統を統べるべき豊臣家を65万石の一大名に降格させる
この様な蛮行を秀頼が許す分けがない! 全ての大名が秀頼の怒りを恐れ、震え上がった
さすがの家康も秀頼の怒りを恐れ、すぐさま千姫を嫁がせ秀頼を右大臣に推薦する
そして京・二条城において秀頼に謝罪の会見を恭しく催す事になる
しかし反省も束の間、 家康の欲望や愚かさは底抜けだった。




28 :
信心深い秀頼が、寺に上納する為に作った鐘に「国家安康」の文字があるとして
己を呪う行為だとして、無謀にも豊臣家に戦を挑んだのである。
被害妄想の境地、精神錯乱者の兆候さえ感じさせ、豊臣家に弓を引く家康に対して
全国の諸大名達も恐怖を感じる。そして、反乱軍として秀頼に襲いかかるのである
秀頼は直ちに義勇兵を募り、これを迎え撃つ
当初、秀頼は配下である真田幸村の進言を用いり、城を出て家康を討ち取るつもりだったが
城に残す年老いた母を不憫に思い、籠城戦を決意する
野戦で戦えば、士気の低い反乱軍など一たまりもなかったが
籠城戦でも充分に勝算はあった。事実、反乱軍は大坂城の堀にすら近づけない有様だったという
しかし、ここで事件が起きた。
敵わぬとみた家康が南蛮渡来の大筒を、北朝鮮のテポドンの如き乱射したのである
そして、その中の一つが、たまたま淀君のそばに着弾し、淀君を大層、不安に陥れる
そして母思いの秀頼は、降参ともいえる家康の和睦を見す見す受け入れる事になる
秀頼にしてみれば、家康の首を目の前にしながらの和睦は、さぞ悔しかっただろう。
しかし愛する母の為、漢は我慢した。万感の思いを胸にし・・
そして無事、和睦も調ったと思った束の間。 またも家康が己の卑劣さを露にしたのだった。
そう。 アマゾンの大河に匹敵するとまで言われた大坂城の堀を、約束を違えて全て埋めてしまったのである
これには、さすがの秀頼も狼狽した。
飛べない豚は、ただの豚。それ以上に、堀のない城は、ただの城だったからだ。
そして、1615年。 その時、歴史は動いた。
再び叛旗を翻した逆賊・家康軍と、秀頼軍が大坂の地で再び雌雄を決する。
秀頼軍の猛攻は凄まじかった。並み居る敵を討ち果たし、家康本陣めがけて何度も突入する
家康は腰を抜かし、命からがら逃げまどう有様だったという
そこには遥か後方において、味方の軍を指揮する秀頼の威光が輝いていた。
秀頼は決意した。
今だ。 今、自分が前線に翔ければ味方の軍は逆賊・家康の首を取る事が出来よう
しかし、漢がそう決意した時、またしても母が止めに入った
「もしも、神君で在らせられる貴方様の身に何かあったとしたら、この母はどう生きればよいのか!?」
この母の懇願に漢は、またしても目の前の勝利と栄光を自らの胸に抑えた・・
その後・・数で勝る逆賊軍の手によって大坂城は炎に包まれる事になる
しかし戦国の主将・秀頼はこう言うだろう
「後悔はしていない。何故なら、それは相手を認める事になるから」

29 :
>>27-28
やんや、やんや

30 :
山内上杉憲政
関東管領上杉憲政は北条氏に圧迫されて関東をのがれ、越後の上杉謙信を
頼ったと伝えられ、凡将の見本のように語り継がれてきた。しかし、じっさいには
関東公方と関東管領の権威を復権し、関東平定の大構想を持っていたのだ。
北条氏との川越合戦で扇谷上杉朝定は川越城を追われ、山内上杉憲政を頼ってきた。
憲政はただちに今川氏と同盟をむすび、迅速な外交手腕を発揮した。両上杉氏は
8万の大軍を率いて川越城を包囲し、北条方の城将たちの命は風前の灯となったのである。
だが、ここで憲政は一計を案じた。北条氏康の8000の軍が後詰に出馬してくると、
どさくさにまぎれて扇谷上杉の軍勢を突き崩し、朝定の首を討取ったのである。
両上杉家は関東管領を交代で務めるライバルでもあり、憲政はこの一件で関東管領
の座に君臨することになったのだ。なんという狡猾、かつ周到な計画であろうか。
こんにちに伝わる凡庸な武将、臆病な公家大名という評判は江戸時代に作られた創作であろう。
こうして上杉家を一本化した憲政は、関東の武将たちを評定衆として傘下におさめ、
傀儡の足利晴氏を冠に、関東の覇者として君臨する予定だった。
ところが、勢いに乗った北条氏が憲政にも襲い掛かってきた。予定外の事態に
驚いた憲政は越後にのがれ、いったん長尾景虎に関東管領をゆだねることにした。
長尾氏に北条氏を抑えさせ、今川氏に武田氏を抑えさせる熟練の政治家らしい高等戦術だった。
武勇にも裏付けられたその政治手腕により、以後の関東情勢は上杉(長尾)・武田・北条の
三国志さながらの騒乱が火蓋をきることになる。つまり、上杉謙信・武田信玄・北条氏康ら
優れた戦国大名たちは、憲政の手のひらの上で踊っていたということになる。
こうして越後で楽隠居していた憲政だが、天下の情勢も流動的になってきたので、
謙信の死をさかいに再び政治の表舞台に出ることにした。すなわち、越後御館の乱
への介入である。ここにいたって憲政は上杉・武田・北条をイッキに和解させる
ことで、関東の覇者である自分が天下に号令する時だと考えたのである。
憲政の調停により、上杉景勝と武田勝頼が和睦。ついで、憲政は景勝と上杉三郎景虎の
和睦を調停し、あわせて北条氏政の和睦も取り付ける計画だった。
ところが、景勝の家臣が何を血迷ったのか、たぶん人間違いと思われるのだが、
春日山城に出向いてきた憲政を殺してしまったのだ。関東府管領として関東を平定する直前、
戦国の大英雄は勘違いによって斃れたのだった。彼が関東甲信越20万の軍勢を
もって西上していたならば、足利義昭はいうまでもなく織田信長や徳川家康もたちまちひれ伏し、
上杉幕府が発足していたことであろう。惜しむべき勘違い事件であった。

31 :
仙石秀久
通称 逃げの権兵衛
秀吉に逃げっぷりの見事さを賞賛され家臣の列に加わる。
数々の軍功を積み重ねて淡路城主となる。
薩摩の島津家の圧迫を受けていた、豊後の大友家救援のため四国勢を
率いて豊後に着陣。戸次川で両軍は激突し、激しい戦いの中、利我にあらずと
察した秀久はここでも見事な逃げっぷりを披露し無事淡路に生還する。
敵将島津家久は柔の者と秀久を賞賛したという

32 :
>>30-31
いいねいいね、仙石は知らんかったけど。
なるべく感想を書き込むようにしよう、職人さんたちの励みになるはず。

33 :
凄い!すべてが名将に見えてくる流石

34 :
三戦板にあった頃からこのスレは面白かったよな
職人頑張れ

35 :
小早川秀秋
太閤秀吉の甥であり、幼い頃から後継者として期待され、またふさわしい将の片鱗を見せていた。
しかし秀頼が生まれると冷遇され、厄介払いの如く小早川家に養子に出される。
しかし秀秋は腐ることなく鍛錬を重ね、朝鮮出兵では総大将として出陣、自ら数多くの首級を上げる活躍を見せる
しかし秀秋の存在を疎ましく思う三成(一説には秀頼の実父が三成であり、秀頼の強力なライバルである秀秋に恐怖していたと言われる)
によって戦果は捏造され、秀秋は秀吉の逆鱗に触れることとなる。
このとき秀秋は三成の策謀に気づいていたが、秀頼を自分の子供と信じて疑わない養父秀吉のことを思い、
自分が犠牲になるだけならばと自ら身を引いたといわれている。
関ヶ原合戦においては1万6千の兵力もさることながらそれ以上にその絶大な将器を広く知られていた秀秋を味方につけたほうが勝ちであろう
と雑兵に至るまで噂されるほどであり、両軍から破格の条件を持って誘われることとなる。
しかし家康、三成とも私利私欲の兵であることを見抜いていた秀秋は双方どちらにも味方せず中立を保っていた。
こんなつまらぬ戦で大事な家臣たちを一人でもことは出来ないと考えての勇気ある決断であった。
しかし劣勢になり恐慌をきたした家康軍が秀秋軍に発砲するという暴挙に出る。これを受けて兵士たちは
「西方にお味方すべし。家康軍に突撃すべし」といきり立ち、もはや中立の維持は不可能な状態であった
これを受けて秀秋は咄嗟に「三成とその操り人形である秀頼ではこの日の本は持たぬ、まだ家康であればなんとかなるであろう」
と判断し、家臣を一喝し石田方に突撃。秀秋軍の獅子奮迅の奮戦により総崩れ寸前であった東軍は大逆転勝利を収める。
戦後戦功第一であった秀秋は関白職を打診されるが、もはやいたずらに天下を乱したくないとしてこれを固辞する。
戦後は領土経営に尽力していたが、1602年に急死。秀秋の将器を恐れた家康の暗殺と言われる。

36 :
おお、やっぱり秀秋は名将だったか。
無理のない解説だし、当時の政治の裏側までよくわかる。
やんや、やんや♪

37 :
>>31がおもしろかったのでつくってみた
当時すでに秀久の逃げっぷりは伝説と化しており
秀久を先頭に目にもとまらぬ速さで戦場から消えて行く
仙石隊のパフォーマンスは、敵味方を通じて絶大な人気を誇った。
そのため、上方の戦においては「仙石逃げ」が行われると
味方はすぐに撤退の準備に入り、敵方は「なんと見事な逃げっぷりよ」と
賞賛し、追撃はしないのが暗黙のルールになっていた。
戸次川の戦いにおける大きな不幸は
豊臣政権に組み込まれたばかりの四国勢にとっては
「仙石逃げ」の真意がわからず、そのまま戦い続けたことにあったと言えよう。

38 :
おっと、さげ忘れた。
ごめんなさいさい。

39 :
>>37-38
やんや、やんや♪
ageてもいいよ、多くの戦国オタに読ませたい名作ばかりだ。

40 :
誤解を招くような紹介スレも復活しないかな。
あのスレも結構好きだったのに。

41 :
過去ログある?

42 :
ゴメン、ログとかわかんないんだ。
お詫びに、そのスレから一個。
いち早く鉄砲の導入を進め、上洛し、
日本全国を武家のもとに統制しようとした。
周辺の有力大名らを敵に回し、包囲網を敷かれる等、
幾度か危機的状況を迎えたこともあったが、
その度に外交交渉や、彼の同盟者や家臣たちの
軍事的な働きによって、その危機をはねのけた。
家臣の謀反によって彼の子供ともども京都で絶命するまで、
畿内での統治はおよそ十数年に及んだ。
その晩年には、旧来の有力家臣が相次いで粛正される等の
事件もあり、もしかしたら、この謀反には、
このときの粛正が関係しているのではないかと言う者もいるが、
謀反の背景については、依然日本史の謎の一つである。
また、鉄砲の普及に伴い、それまでの木の柵と土塁からなる城に、
新たに石を多用するなどした新時代の築城術を模索したことでも知られる。
城下には鉄砲鍛冶を集め、キリシタンの教会までもその領内にはあったという。
度々仏教界と衝突しながらも、その存命中はキリシタンを保護
し続けたことでも有名であり、金銀を豪奢に用いた彼の宮殿は、
彼の死と共に完全に焼失してしまったが、その内部の様子については、
彼の庇護を受けたフロイスら宣教師が、その著書や書簡に
詳しく書き残していることなどから、窺い知ることができる。
美術面においては、新進の絵師狩野永徳を重用した。
おそらくは焼失した彼の宮殿も、永徳の手になる様々な絵画で
飾られていたのではなかろうか。
最近の学説においては否定する人々もいるが、
上杉謙信にこの永徳の手になる洛中洛外図を贈ったのは、彼であるともいう。



織田信長……………じゃなくて足利義輝。

43 :
>>42
やんや、やんや♪
鉄砲対策の築城術から「上杉本洛中洛外図」(諸説あり)まで、義輝と信長は似てるんだね。
誤解させる記述もなかなか・・・orz。 すっかり信長の評伝だと・・・。
また、よろしこ!

44 :
囃されたんで、調子に乗っちゃいますよ?
『甲斐の虎』こと武田晴信(信玄)の宿敵ともいわれる戦国大名。
漢字一字の軍旗を用いた。
信玄に追い落とされた信濃の敗将を迎え入れ、
北信濃の地を巡って信玄と数度にわたる激戦を繰り広げた。
信玄を信濃から駆逐することは叶わなかったが、
その軍略で武田家譜代の臣を多数討ち取り、天下に勇名をはせた。
「人は石垣、人は城」として家臣を上手くまとめた信玄とは対照的に、
配下の反逆を数多く経験しており、その政治力は信玄に及ばないと見る向きが多いが、
滅亡の憂き目にあった武田家と異なり、
子孫は上杉一門の名跡を近代にまで残している。
なお、塩不足に陥った武田領に塩を送ったという事実はない。




上杉謙信……………じゃなくて村上義清。

45 :
>>44
あっぱれ、あっぱれ♪
なるほど村上義清、てっきり謙信公の武勇と思ったでつ。
もうひとひねりあれば、ワタシも信じ込むところを・・・。
もう、寝マツ・・・


であるか、励め! 上総介

46 :
北条氏康
北条家の三代当主。二代当主の氏綱が没し家督を継ぐ。
河越城が両上杉・足利に包囲された時は「これまで奪った領土はお返しする。」
と相手を騙し、更に夜襲という姑息な手段で敵を殲滅する。
その後は東駿河を攻め興国寺城を奪うも、戦下手ゆえ奪還される。
しかたなく駿河を放棄し、武田・今川と同盟を組むのである。
上杉軍が来襲した時は城に将兵と兵糧を蓄え、
民は見殺しにするという旧日本軍ばりの人命軽視の策を立てる。
結果的に上杉は撤退するものの、北条の関東覇権構想はもろくも崩れ去った。
後顧の憂いを立ち里見氏と戦うも、戦下手ゆえ劣勢に。
綱成の進言によりなんとか勝利を収める。
武田が今川を攻めた際も、関東のみに拘る無策振りで今川を滅亡させる。
恩義ある同盟国も力がなければ助けぬという卑劣な考えである。
上杉と同盟し武田とあたろうとするも、領土問題を解決できず同盟すらまともに結べなかった。
しかし後の名君氏政を始めとする四人の子の活躍により、
関東を制圧。武田との講和にも成功する。
自身は無能だが勢力を拡大する様は、「関東の死屍」と呼ばれた。
ちなみに、某ゲーム風に評価すると、統率55知略70政治75 である。

47 :
龍造寺隆信
肥前龍造寺氏当主。華奢で病弱であり、いつも目の下に隈のできた顔が印象的であったため「肥前の隈」と揶揄される。
幼い頃に厄介払いのように仏門に入るが、その後一族がいなくなり、やむをえず担ぎ出される。
当主となってからもほとんど存在感は無かったが、名将鍋島直茂やなぜか5人いる四天王などの活躍により、龍造寺氏は大大名となる。
しかし1584年、有馬氏討伐の軍を(直茂が勝手に)起こした際、
「たまには殿も戦場にお出になってはいかがですか」との直茂の無責任な進言を受け
隆信は自ら出陣するが、本陣で落馬、打ち所が悪く死亡する。
総大将を失った龍造寺軍は兵力優位でありながら総崩れとなり、その後没落する。
一説には隆信の出陣自体直茂の陰謀であったとも言われている。

48 :
>>46
なるほど、通説を逆転する発想。いいね。
>>47
も少し直茂をこき下ろしてもよかた。隆信は名君!ww

49 :
武田太郎義信
 武田信玄と正室三条夫人のあいだに生まれた一門期待の俊英だった。
川中島合戦では軍神上杉謙信と御幣川の中で切り結び(諸説あり)、
謙信をして「武田のこせがれに苦戦し、悔しいことであった」(北越軍記)
と言わしめるなど猛将ぶりを発揮。「甲陽軍鑑」の伝えるところによれば、
あまりの猛将ぶりに信玄も驚嘆したが、義信の攻撃的防御の策を用いず、
かえって武田軍は甚大な被害を出すことになった。合戦後、将兵たちが信玄の
愚策を批判したため、義信は部下たちをたしなめた。ところが、将兵の人気が義信
に集まるようになると、武田家中に対立が生じるようになってしまう。
 とくに反義信派の諸将が諏訪四郎(勝頼)を擁立する方向に動き、信玄も側室の
面影を宿す四郎を飯田城代に据える。ここに至って、危機を感じた義信派の過激分子が
クーデターを謀るも、義信の戒めによって事前に鎮圧される。信玄に疑われた義信は
武田家中の対立を回避するために、自主的に東光寺で謹慎中に病没したという。
 軍功の面では、ただ一人奮戦した川中島合戦のほかに、西上野の猛将長野業政とたびたび
干戈をまじえ、しばしば退けたという。義信との合戦に苦労した業政はのちに過労死。
 義信が病没した時、武田家中は悲しみに暮れ、その人徳と武勇を惜しまない者はなかった。
武田氏が田野に滅亡する命運は、彼の死によって決定づけられていたというべきであろう。

50 :
感想は有ったほうが良いが、joiAoA4Jのテンションはうざい。

51 :
同感だが>>49はうまいとおもった

52 :
>>49は真ん中の話以外はほとんど史実だしなぁ
義信事件=将来の武田家の分裂か滅亡が決定的になった瞬間だし

53 :
義信は凡将か?普通に有能だと思うが。

54 :
誰が見ても凡将愚将だともう捏造するしかないから見ていて詰まらんからそれはしょうがないだろ。
真実しか述べていないのにイメージと食い違うことがいいんであって。

55 :
北条氏康
名将と称えられる彼だが、人の気持ち、痛さ、心をほんの少しも理解しようとしなかった、
計算だけができた冷たい人間であった。
初陣より、人が休んでいるところばかりを急襲したり、
相手より多い兵力を持って多勢に無勢で相手をいたぶるなど
相手の気持ちを全く考えずに勝つことだけしか考えていなかったので
敵ばかり氏康は作っていった。
ついに凶行及ぶこと関東の正統な支配者たる上杉家すらも追い落としたため、
関東の人間だけではなく長尾家まで怒らせたため。
大兵力を持って氏康と正面決戦をしようとしたのである。
しかし氏康は、正面決戦も逐次抗戦もしようとせずに
自分だけ安全な小田原城に引き篭もってしまう。
確かに小田原城に引き篭もっていれば相手は退却せざる終えないだろう。
しかし略奪や寝返りもあるだろうし、部下は心細く思うだろう。
だが人の気持ちを考えることが出来ない冷血人間氏康はそんなことは全く考えずに
小田原城に篭りつづけた。
結果として相手を退却させることに成功はしたが上杉軍が毎年襲来することになり
関東制覇の夢は断たれたといっても過言ではない。
今川家を加護したときも、武田家から駿河を一時的に奪還したにも関わらず
土地を返さないなど、武田家以上の凶悪な行動に出た。
そのため、駿河の国人層は北条には協力しようとしなかったのだ。
彼は57歳で死ぬまで人の暖かさに触れることが無かったのであろう。

56 :
訂正
関東の人間だけではなく長尾家まで怒らせてしまった。
彼らは大兵力を持って氏康と正面決戦をしようとして、
関東の土地をほとんど奪っていった。

57 :
だから名将→凡将はスレ違いだって。
ていうかアンチ北条でも沸いてるのか?

58 :
>その逆もあり。

59 :
つまらん、名将をこき下ろすのは簡単、誰でも出来る芸。
凡将とされている(真実はともかく)のを名将として解説して、新しい発見があれば楽しいが・・・。

60 :
57 59 (共に生没年不詳)
凡将を名将のように説明するスレにおいて悪しき伝統となっていた、
名将を凡将のように説明する行為に対して毅然と立ち上がった義憤の士。
自らネタを書くわけでもなくただ批判のみ行うその姿は一見滑稽にも見えるが
これは「将たるもの軽々しく自ら先陣に立つべきではない」という深い思慮あっての行動である。

61 :
>>60
そこもとの評価の視座はともかく(たぶん当たってるが)
>>57>>59が、ここの住人をして唸らせる(もしくは唾棄させる)職人
だとしても、そのような評価に過ぎないのか?? せっかく書いてきたのに、つまらんなぁ。バカじゃねぇの??

62 :
ついでに、>>61
>>23>>30>>49
俺が一生懸命に頑張ったんだよ!! いろいろと、スマソ・・・。あばよ!

63 :
>>23はよかったよ

64 :
>>63
あんがとよ・・・
さッ、寂しい・・・。>>62より・・・。

65 :
今更かもしらんが、>>50に同意。
とりあえず回線切って(ry

66 :
北条氏政 〜第一章〜
北条家の四代当主。
父である氏康時代の相越同盟を無用と判断し、武田家と再同盟を結ぶ。
この同盟が功を奏し、関東に専念できた。水運の拠点関宿城をとり、宿敵里見を従属させる。
御館の乱が起きると氏邦・氏照らを派遣。武田にも援軍を要請する。
しかし、景勝が上野を譲るという条件を出し、武田は景勝側に。
氏政は怒り重須で戦いを挑む。この一戦では決着が付かなかったが、武田崩壊の序章となった。
真の同盟相手を求める氏政は信長と同盟を結ぶ。そして武田家討伐に乗り出したのだが、
織田家が北条家を恐れて武田軍の情報を隠した為、北条軍は苦戦した。
武田は滅び、駿河は徳川、上野は滝川一益、甲信は信忠が支配した。
織田家は天下をとったかに見えたが本能寺にて信長は死亡。
これを見て氏直を上野に派遣。滝川軍を打ち破り上野を手に入れる。
さらに真田氏・小幡氏を懐柔し信濃でも優勢に戦を進める。
甲斐に兵を進めた徳川は信濃奪取を目論み真田氏を調略。兵を小笠原領に進める。
これにより信濃を巡って徳川と北条が対立するのであった・・

67 :
北条氏政
ある日氏政が飯に汁をかけて喰ってる時に、汁を二回にわけてかけたのを見て
父・氏康は「飯にかける汁の分量も一度でわからぬか」と嘆いたが、
それに対し氏政は「一度に汁をかけてしまうと、食べ終わりかけには米が萎びてしまいます。
それよりも、まず少なめに汁をかけて米の歯ごたえや味わいを楽しみ、その後に汁をかけ足して
汁と米が渾然一体となった旨味を堪能するのがよろしいのではございませぬか」
とピシャリと言い返し、若くして氏康を越える見識を持っていたことを伺わせる逸話が残っている。

68 :
面白いな相変わらずこのスレは。
サイトがないのが残念だ。あれはかなりの良作揃いだったんだが・・・

69 :
北条氏政 〜第二章〜
しかし、氏政は信濃にはそれほど興味を示さなかった。
関東平野を制圧し、そこに領国を築くことこそ北条家のとる道と考えたのだ。
事実、真田家は上杉家に寝返り、信濃・上野に勢力を広げた。
あのままでは上杉・徳川・佐竹等の勢力の前に苦戦していただろう。
こうして信濃を手放すことで徳川と同盟を結び、
さらに勢力を拡大する佐竹・芦名に対抗し伊達と同盟を結んだ。
関東・東北・東海という別地方に拠点を置く勢力と同盟を結ぶ事は、遠交近攻の外交の鉄則通りだ。
これは氏政の優れた外交センスゆえであろう。
徳川・島津らが豊臣家に屈服し、豊臣家と対立したときも、
家康を介して氏規を派遣、上野沼田の領土問題を解決してもらう形で関係を友好にした。
しかし、関東の領土が平穏ではない為に自身の上洛だけは先延ばしにしていた。
さらに、名胡桃城奪取事件が発生。これは氏政の想定の範囲外だった。
これをきっかけに豊臣氏との対立は絶望的なものとなった・・

70 :
織田裏臭いは凡将じゃない気がするが

71 :
柿崎景家
越後柿崎城主。長尾為景・上杉謙信親子に仕える。
上杉定実の養子問題の際に伊達家に外交で赴いたという。
弘治二年村山美作守が武田晴信に内通した際にはその間者を捕らえ、謙信に注進。
美作守は直ちに誅殺された。
永禄元年からは春日山城の留守居役を務めた。
元亀元年北条氏との和議が成立した際には、子の晴家を人質に送った。
その他北陸の勢力との外交交渉も担い、奉行として行政にも手腕を発揮するなど
直江景綱らと共に重臣として重きをなした。
なお川中島の合戦にも参加しているが、飯富虎昌の攻撃を支えきれず危機に陥ったところを
色部勝長に救われたという。

72 :
なんか、よくわからなくなってきた
凡将→名将?
名将→凡将?
武将→知将?

73 :
武官→文官 じゃね?

74 :
北条氏政 〜第三章〜
氏政は小田原で評定を開き、策を練った。
子の氏直は野戦を主張したが、徴兵と軍需物資の蓄積、
韮山城などの支城により東海道の防備が調っていることから、篭城策をとることにした。
自身の結んでいた徳川・伊達との同盟を過信した面もあるだろう。
しかし、弟の氏邦は反発して鉢形城に帰ってしまう。
豊臣軍は黄瀬川周辺に布陣した。ここは源頼朝が平氏打倒の挙兵の際に兵を集めた地だ。
この動きを予想した氏政はゲリラ戦を指示。豊臣軍は兵糧を焼かれ一時は飢餓状態になった。
氏政の戦略は支城に篭城し兵力を分断、物資を欠乏させることにあったのだ。
ところが秀吉が到着してからは進軍が再開した。
徳川軍は足柄城を落とし、秀次軍も将を討ち取られながらも山中城を落とす。
しかし氏規が篭る韮山城は10倍の兵でも落とせない。
秀吉はやむなく兵の一部を残したまま小田原へと向かう。
そして各城の包囲をしつつ、一夜城建設や茶会を行った。
一方の前田・上杉軍は大道寺政繁を降伏させ武蔵を順調に南下していた。
しかし氏邦の鉢形城や湿地帯の忍城・館林城を落とせず進軍は難航。
戦線が膠着し豊臣軍の内部では不満を持つ将も現れた。
さらに夜襲の成功や堀秀政の陣没から豊臣軍の士気は落ち込んでいた。
一方の氏政側も内通者が出た事や八王子城の陥落で戦意を喪失し始めた。
さらに一夜城が完成し抗戦か降伏かで重臣も対立し始めた。
これを見た氏直が降伏を決断。戦後処理としては、
氏政・氏照、さらに松田憲秀・大道寺政繁に切腹を命じ、
氏直と氏規は家康の嘆願により助命された。
こうして、関東に君臨し続けた北条家は滅亡したのである。

75 :
北条氏政 〜最終章〜
氏政は佐竹・宇都宮等の反北条の機運が高い北関東の豪族を掌握、
さらに飛び地である信濃も豪族懐柔で成功するなど統治手腕が非常に上手い。
さらに本能寺後の上野侵攻や対徳川戦で証明されているように、
突発的な情勢に対して見事に対処している。
局地的に見ると敗戦も多いが、北条家の最大領土を築いたのも彼だ。
家を狭山藩1万1000石にまで落とさなければ、北条家最大の名君と言われただろう。

76 :
一条 兼定(いちじょう かねさだ、天文12年(1543年) - 天正13年7月1日(1585年7月27日))
僅か7歳で父・一条房基が死去した為、土佐一条家の家督を継ぐ。だが、いかに兼定が天賦の才を
持っていたとは言え未だ幼く、京より兼定の大叔父で、時の関白である一条房通が養父として後見
をする事になるが、兼定の不運はこの房通であった。房通は、兼定が幼少である事をいい事に専
横を始め、1558年には伊予の宇都宮豊綱の娘と婚儀をさせる。当時伊予では河野氏が村上水軍と共
に日の出の勢いであった為、兼定は河野氏との結びつきを望んだが、房通は身分が卑しいとこれを
拒否し、兼定の先見の明は房通によって潰される事になる。更に、兼定が成人し房通を見事京に追
い返した後、房通は京で兼定を悪く言い触らした為に、一条本家とも疎遠になってしまう。
この頃には既に土佐国・国司、中納言に叙され、若き兼定はその血筋と知略とをもって独自の外交
を始めている。まずは、有名無実の伊予・宇都宮氏と縁を切る為に豊綱の娘と離別し、1564年には
九州を席巻していた大友義鎮(宗麟)と結んだ。まさに磐石の態勢で土佐統一を始めようとした矢
先に突如、伊予の諸大名を助けるといった理不尽な理由で1568年に毛利元就に攻め込まれ、惜敗す
る。全く悲運としか言い様が無く、毛利の大義名分は全くのでっちあげであったとされる。
そして、台頭を始めていた長宗我部氏に対抗すべく、妹婿の安芸国虎と呼応して長宗我部氏を挟撃
しようとするが、1569年に国虎が功を焦るばかりに大敗して討たれてしまい、兼定の挟撃策は無能
な国虎によって台無しになってしまう。
また内憂も抱えてしまい、重臣であった土井宗珊が簒奪の動きを見せたが、見事に討ち取っている。
だが、宗珊にそそのかされた家臣達の勢いは、いくら名将の兼定と雖も止める事は出来ず、無益な
戦はしたくない、と1574年に大友氏を頼って一旦豊後で雌伏の時を過ごす。そして、翌1575年に大
友氏の援助で再興を図り、土佐に大々的に進軍し長宗我部氏と雌雄を決する渡川の戦いが起きる。
兼定は、宇和島から土佐中村に入り旧臣をまとめ、一大決戦になったが惜しくも敗れ、その怒りか
らか10年後に死去している。
兼定が暗愚であったという定説は、勝者である長宗我部氏によって喧伝されたものであり、都合の
良いように兼定を悪人にしたてあげたという説が有力である。また、土佐一条家の独立傾向に反発
する、公家の一条本家の企みがあったとされ、兼定の有能ぶりは、彼等によって書き換えられたと
言っても過言では無い。

77 :
織田信雄
織田信長の次男 幼名 茶筅丸
父信長の気性の荒さを兄弟の仲で最も色濃く受け継いだといわれる
伊勢北畠家攻略の際、和睦の条件として養子に送り込まれる
見事な手腕で北畠家を織田色に塗り替える事に成功
実績を積み重ね、自信をつけた信雄は意気揚々と伊賀征伐を敢行するが
土豪の反抗にあい一時撤退を決意する
再度の伊賀征伐には万全を期して大挙侵攻、伊賀の土豪衆を父信長譲りの
苛烈さをもって撫で斬りにし、伊賀を平定
信長亡き後天下を我が物にせんとする逆臣羽柴秀吉に対し兵をあげる
三河の徳川、四国の長宗我部、紀州の雑賀衆を味方につけ秀吉包囲網の
旗手として活躍する
信雄の器量を恐れた秀吉は信雄に和睦を提案する
領民想いの信雄は戦で領土が荒廃する事を懸案して渋々和睦に応じる
その後は秀吉の天下統一に協力し見事に太平の世をもたらした

78 :
戦国最強の傾き者  今川氏真
生まれた頃より、やりたいことをやり流れる雲の様に生きてきた「今川氏真」
彼は自分の命を賭してまで自分のやりたい事をやり遂げた戦国最強にして最高の
傾き者と言えるであろう。
 お歯黒という奇抜な風貌を好み、自分の命を賭して「蹴鞠」と「SEX」の心を
忘れなかった。
 武田氏と徳川氏に領土を犯されながらも、彼(氏真)は女を犯していたという・・・。
武田氏、徳川氏共に彼の豪胆さを大いに畏怖したという・・・・・。

79 :
この武将、ただ者ではない。
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/giin/1142799748/213

80 :
豊臣延由
〜豊臣家を復活させた果断の将〜
豊臣秀頼の嫡男。幼名国松。通称、木下縫殿助延由。
幕府提出資料では名は延次。豊後立石藩祖。
秀頼と側室成田甲斐との間に生まれ、将来の天下人を約束されて育つ。
ところが1615年、悲劇が起こる。父豊臣秀頼の大坂城が徳川氏に落とされ、
豊臣氏は滅亡。国松(後の延由)も辛くも逃げ延びたものの、影武者の
田中六郎左衛門の子は国松として処刑されてしまい、将来の天下人一転して
天涯孤独の素浪人となってしまったのである。
しかし国松は家臣の真田信繁・後藤基次とともに九州薩摩へ落ち延び、
島津藩にかくまわれ、真田に育てられてたくましく成長した。時の人々は
「花の様なる秀頼様(国松の誤り)を鬼の様なる真田が連れて落ちも
落ちたり鹿児島へ」とはやしたという。
成長した延由は父よりも祖父秀吉に似ていたのか、すばしこく食い逃げを
得意とし、鹿児島では食い逃げで有名であった。
後、客分として一族の豊臣(木下)延俊(豊後日出藩主)の元へ赴く。
延由の将器を認めた豊臣(木下)延俊は、延由に自らの領土を分け与え、
1万石の大名とするよう家老に命じたが、徳川幕府に内通していた家老長沢は
頑としてそれを認めようとせず、豊臣家本家再興を阻み続けた。
寛永19年(1642年)1月7日、豊臣(木下)延俊の死去後、
延由は家老と粘り強く交渉し、遂に5000石を以て豊後立石に
立藩。お家再興を果たす。しかし、立藩後も家老一派綾部甚左衛門・
綾部弥五右衛門・修験者岩尾某らは執拗に延由を狙い、襲撃を続けていた。
しかし延由はそれらの障害を跳ね除け、分国の完全支配に成功。
信繁譲りの謀略を十二分に発揮し、立石藩の基礎を固めた。
死に関しては、愛妾とともに武士をやめ、耶馬溪で寺子屋を開いていた
元家臣後藤基次が殉死している。
なお、室は里見忠義の娘であり、恐らく綾部・長沢らとの戦いでは
真田信繁配下の真田十勇士に加え里見八犬士も活躍したと思われるが、記録がまったく
残っていないので、活躍ぶりが不明なのは残念である。

81 :
織田秀信
織田信長の嫡孫。
父は信忠、西山家文言覚書秘伝録によれば母は武田信玄の娘、松姫とされている。
通称は三郎。幼名は三法師。
祖父信長・父信忠が家臣の明智光秀に討たれた際には
留守居として父信忠の居城岐阜城を預かっていた。
安土城が明智側に落とされた際も前田玄以など重臣の意見を容れ
冷静に事態に対処し、自ら清洲城に入り反乱の収束にあたった。
光秀混乱に乗じて神戸氏に養子に出ていた叔父の信孝が勝手に織田姓に復し、
柴田勝家とともに織田家の乗っ取りを図っていたが、
未然にこの陰謀を掴んだ三法師は先手を打って
織田家の諸将を清洲城に招集し、事態の収拾を図った。
三法師、わずか二歳の時のことである。
秀吉は感激の余り三法師をかき抱き、織田家の家督を三法師に相続させ
政務の代行に粉骨砕身することを誓い、主だった重臣たちもそれに従ったという。
秀吉との強固な信頼関係は彼が死に至るまで続き、
また秀信も秀吉の機智と行政手腕を愛し、父と仰ぎ、思うがままに政務を執ることを許した。
結果として秀信は祖父信長が成しえなかった天下統一をついに成し遂げ、
百数十年ぶりの平和を日本にもたらした。

82 :
関が原の戦いに際しては秀吉の一族であるはずの豊臣宗家でさえも
三成と家康の私戦として曖昧な態度をとる中、
率先して三成を支持し織豊政権、ひいては日本の平和を守るべく立ち上がる。
西軍の足並みが揃わぬ中、木曽川沿い東軍の大部隊をひきつけ、
ついに8月、東軍先鋒の池田輝政や福島正則らの攻撃に応戦する。
関が原での決戦に先立つこと一月、誰よりもこの戦いの歴史的な意義を理解していたのは
家康でも三成でもなく、織田秀信その人であったのかもしれない。
一進一退の野戦から三成の為により多くの時間を稼ぐべく、岐阜城に篭城する。
救援のあてなど当初から望めない中、
かぶいた甲冑をまとって常に陣頭で指揮し、不退転の決意を示した壮烈な戦いぶりは
本能寺の変での祖父・信長の最後の姿を髣髴とさせ、攻め手の諸将の胸を打ったという。
結局、充分な時間を稼いだとみた秀信が、池田輝政らの勧告をいれ開城するという形で
この関が原の前哨戦は幕引きとなる。
武具を解き、尾張知多へと護送され、静かに沙汰を待つうちに西軍の主力が敗れ、
関が原の戦いは終結した。東軍の中には秀信の存在そのものを危険視する声が根強くあったが、
秀信軍と槍を交えた福島正則らの懸命の助命の結果、改易という形で赦されることとなる。
この時、軽輩のものに至るまで家臣全員に再仕官のための紹介状を手ずから書いて渡し、
己の節義を貫く為に改易の憂き目にあい、彼らの禄を失うに至った事を詫びたという、
祖父とは一風違った家臣思いの逸話がある。
岐阜の明け渡しなど全ての仕置きを終えた秀信は、高野山に僧として隠居するよう言い渡された。
しかしながら秀信は、祖父信長が高野山を焼いた一件を理由に入山を辞去し、直後に謎の死を遂げる。
キリシタンとして受洗し、パウロの洗礼名をうけていた彼は、
異教徒となって生き延びるより、
信義を貫いて暗殺されることを受け入れたとの説もあるが、つまびらかではない。
慶長十年五月八日没。享年わずかに二十六。正三位中納言。

83 :
>>81
お、恐ろしい2歳児だw

84 :
松永久秀が義将になってるやつが好き

85 :
このスレのクオリティって単行本化できるな
オレは読んでるだけだけどすげー面白いよ

86 :
大宝寺義氏
ある時は越後の虎上杉謙信、又ある時は日の出の勢いにあった
織田信長と、当時の実力者を後ろ盾にして大宝寺氏の最盛期を築く。
あまりの武勇に、敵から悪屋形と嫌味を言われる事もしばしばあった。
織田信長が本能寺に倒れると、強力な後ろ盾を失った義氏は、最上氏の
謀略によって家臣に謀叛され波乱の生涯を閉じた。
羽柴秀吉はこの報を聞いて「日の本から賢人が一人消えた」と嘆いたという。

87 :
難波田憲重(?-1546)
扇谷上杉氏の重臣。武蔵松山城主。弾正と称す。法名の善銀でも知られる。
北条氏に河越城を奪われた扇谷上杉朝定を松山城に迎えて衰運の主家を支え、
関東にあって日の出の勢いの北条氏の行く手に立ち塞がり、進撃を阻んだ。
松山城に攻め寄せた北条方の山中主膳との「和歌合戦」も有名であり、
彼が文武に秀でた名将であることを物語っている。
1546年、長年対立していた山内家・古河公方家を反北条の旗印の下に糾合し、
河越城奪回戦を発動。ここに新旧関東勢力の一大決戦の幕が切って落とされる。
故地河越に上杉の旗を再び掲げ、扇谷家の宿願が叶うかに見えた刹那、
戦国戦史に名を残す、かの北条勢の夜襲を受ける。世に言う「河越夜戦」である。
憲重は敵の猛攻を食い止めるべく奮戦したが、その一子・隼人正ともども
乱軍の中壮烈なる討死を遂げ、主家の滅亡に殉じた。享年は明らかではない。
その悲壮な死は巷間さまざまに伝えられ、伝説の光に包まれている。
憲重は主君朝定が討たれたことを聞くや、天を仰いで悲憤慨嘆し、
「もはや我が武運も尽きたり、北条の輩にこの首は討たせじ」と刀を銜え、
自ら古井戸に身を投じた――という物語があれば、あっぱれ名将、花も実もある
武者ぶりよと、聴くものの涙を誘わずにはおかなかっただろう。

88 :
知識がないと書けないんだよな。

89 :
織田信包
織田信長の同腹弟
17歳のとき、兄信長が3000の兵で当時の最強勢力、今川義元の軍30000を打ち破るという奇跡を見る。
26歳のとき、兄信長の命で北伊勢を支配していた長野氏の養子として入る。
28歳のとき、兄信長は比叡山延暦寺を焼き討ちし、高僧女子供まで3000人余りを皆殺しにする。
30歳のとき、兄信長が浅井長政の居城・小谷城を包囲させて長政を自殺させる。
浅井の血が絶えるのは忍びないということから妹・お市を保護し長政とお市の娘・茶々、初、於江与を保護して育てた。
31歳のとき、兄信長が伊勢長島城を兵糧攻めし降伏させるも、約束を破り退去中の一揆衆に一斉射撃を浴びせ虐殺、
信包自身も理解できないが、甥信忠に「これも戦国なのかもしれませぬ」と諭す。
1582年、信包39歳のとき兄の織田信長が家臣明智光秀に本能寺にて殺される。
織田家は柴田勝家と羽柴秀吉の家臣同士の争いが起こる。
その後、信包は覇権を手にした秀吉に従う。
47歳のとき、豊臣秀吉が小田原征伐、北条家を滅ぼそうとする。関東に大勢力を誇った北条家の終わりを見る。
哀れに思った信包は北条氏政・北条氏直の親子の助命を秀吉に懇願するが逆に怒りを買い、改易される。
豊臣秀吉の死後、関ヶ原にて徳川家康が石田三成を破り権力を握る。
また、天下の動きを見たのであった。

90 :
革命児織田信長の弟。奇跡を見、戦国の厳しさを経験。
信長の死後、兄が築き上げた大勢力織田家を家臣の羽柴秀吉に乗っ取られる。
そして秀吉の死後天下を徳川家康が権力を握り1615年、非常にも豊臣家を滅ぼす。
信包は兄の身近にいて乱世の虐殺や裏切りなど疑念を抱きつつも成長した。
家臣によって消滅する権力の脆さも知った。元家臣に従わなければ生きていけない。
一人の大悪人に戦国を学び二人の悪人に翻弄された。
信包は1615年の事件も予想していたであろう。
乱世に疑問を持ち、権力に翻弄され、自分の存在意義もわからず、
人間の欲望を長年死ぬまで見て生きるために生きてきた一人の武将であった。

91 :
上杉謙信を戦闘能力より政治的手腕の高さで、
武田信玄を父や子を愛する人情家として説明して欲しい。

92 :
上杉謙信
越後を掌握すると、農閑期には雇用対策として他国遠征を敢行し、
軍事行動による物資の消費や街道の整備などでインフラストラクチャーのさきがけを行った。
同時に、遠征に際しても農地の取り合いの延長であった
当時の国取りの概念を脱却し、捕虜とした城下住民の身代金の要求と
未払い者の売買によって利益を得るという、
西欧の列強諸国の方策にも通ずる領地経営に縛られない
新機軸による戦時経済の循環を作り上げた。
また、金銀山の開発による豊富な貴金属流通量を更に有効利用し、
専売制のさきがけともいえる物品の買い上げと売却を行い、
相場の調整と投機を軌道に乗せた。
これらの方策の結果、ほぼ毎年の遠征の戦費を賄った上で、
更に軍団規模を拡大しながら累積黒字を積み上げるサイクルを形成するに至った。
これらの政策は、米どころといわれる越後を根拠地としながらも、
いち早く米本位制を脱却する兆しを見せ近世近代にさきがけるという、先駆的な業績を残している。
謙信没後、御館の乱に際し景勝が金蔵を押さえた時には黄金三万両の蓄えがあったという。
これらの謙信経済感覚の鋭さは後世、
豪商を目指す商人たちがこぞって越後屋の屋号を名乗った由の一因ともなった。

93 :
大内義隆
(永正四年〜天文二十年)
応仁の乱によって決定的となった室町幕府が権威を失ってゆく課程で
畠山、山名、そして細川といった旧来の幕府の要職を担った守護大名が次々と失墜してゆく中、
大内家は唯一名門としての矜持を保ち、西国の雄として天下に威光を放ち続けた。
その大内家の最盛期を築いた人物が大内義隆である。
彼の日本の担い手としての気概は近隣諸国の民はもちろんのこと、
遠く洛中にまで伝わり、幕府の高官から公家に至るまで大内の威光に
よすがを求め、屋敷を捨て、着の身着のまま義隆の元に群れ集った。
快く彼らを受け入れる義隆の器量にいよいよ城下山口は繁栄を極め、
日本一の都市となるに至り、
当時の有識者の間では天皇の行幸遷都までもが取り沙汰されるほどだった。
日明貿易によって海内屈指の富を一手に納めた義隆は、
同時に当時世界のパワーバランスを塗り替えつつあった
南蛮勢力に対しても鋭い国際的センスを以て対応する。
日本の武力統一に万一南蛮勢力が介在した場合の危険性をいち早く見抜いた義隆は、
当時の現状では無謀だった武力統一から、天皇の威信を核にした雄藩の連合を目指し
大友家、竜造寺家、松浦党などの大勢力の引込みに才知を持って挑み、友好関係の樹立に成功する。
だが、これらの先駆的な行動は、既得権益に縛られ、
旧来の価値観から脱却できない者の反動を呼び、
武断派である陶隆房の暴発による
無謀な尼子攻めと敗退、謀反によって非業の死を遂げる。
彼の遠大な日本再統一と世界進出への夢は、
彼が終生に渡って目をかけていた毛利元就という男の手によって20年後、
ごく不完全ながら引き継がれた。
日本、朝鮮、明、そして遠くヨーロッパにも目を向けた
義隆の理想に沿った西欧文明の吸収と超越という課題に挑むには、
毛利に吸収された大内の遺民を中心とした長州藩士をして、
実にその後300年という年月を必要とした。
天文20年9月1日没。
従二位兵部卿、太宰大弐、侍従如元。法名は竜福寺殿瑞雲珠天大居士。

94 :
松永久秀 (1510-1577)
三好家臣。詳しい経歴は不明だが三好長慶に右筆として仕える。
先に三好家に仕えていた弟・長頼の活躍もあり徐々に地位を築き、長慶が畿内を平定すると
幕政にも関わるようになる。
また軍を率いても大和を平定、飯盛山城にて窮地に陥った長慶を救出など功績を挙げた。
長慶死後はその養子・義継を後見、織田信長と結んで足利義昭政権に加わる。
その後信長と義昭の関係が悪化すると主君・義継と共に義昭を支持、信長と戦うが、
1573年義継が討死したため降伏した。
茶人、教養人としても知られている。

95 :
内藤宗勝 (1516-1565)
丹波守護代・内藤国貞の婿。国貞の死後その跡を継ぐ。
1565年対立する豪族・赤井忠家の城を攻撃するが、逆襲に遭い大敗、討死した。

96 :
>>94
ここは名将を普通に説明するスレですか?

97 :
>>94ポカーン

98 :
>>96
>>97
>>94は久秀のことを無能だと思ってるんだよ。きっと

99 :
>>96-98
目欄みろよ

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