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2012年08月日本史4: ♪邪馬台国ドンと来い♪118 (541)
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♪邪馬台国ドンと来い♪118
- 1 :2012/11/14 〜 最終レス :2012/11/28
- /. ヽ
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l ;;,-~""";;;'''-;;;;__
ヽ (,.,;.,〜-ー''''~ ̄
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∩ミ ∩ミ __l>o<l__ .(二二二) 。 . .
い,,c'_ノ _|__〈ハ〉__|_ (;`・ω・) 。・゚・⌒)。 。・。・゜ ゜゜。 ・。゜.゜::.゜ ゜ ゜゜。 ・ 。 ゜ .。 .
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(・ω・ ) )∽[ ̄ ̄ ̄ ̄]∽[ ̄ ̄ ̄ ̄] . 。 。゚. 。 * 。, ´。. ゚。 ゚
しー し─J彡 ◎───◎. ◎───◎ =3 =3 ゚. ゜ ゜. 。 ゚., ,+ 。 ゚. + 。
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_|田|_|ロロ|_| ロロ|_|田|.|ロロ|_| ロロ|_|田|.|ロロ|_|田|._| ロロ|__|ロロ|_| ロロ|_|田|.,,傘傘傘::::::::傘傘傘..,,,,傘傘...........
- 2 :
- 全スレ ♪邪馬台国ドンと来い♪117
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1351019967/l50
- 3 :
- 弥生時代末期の北部九州、筑紫博多。
漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)の奴国も、跡継ぎを巡る「大乱」により卑弥呼(アマテラス)の
邪馬台国に国を譲る。これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と交戦状態になり、「和」国は分裂。卑弥呼はその最中に急死する。
【分裂した「和」国】
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)・筑紫/宇佐┃→安芸→吉備→「大和」
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)・日向↑┃ 【神武東征ルート】
...................隅国(鹿児島)
卑弥呼の跡を継いだ筑紫邪馬台国♀女王「台与」は日向投馬国王♂を婿として迎えた後、薩摩隅国(隼人)との三つ巴で肥後狗奴国
(後の熊襲)を滅ぼし、「和」国を再統一する。その男系祖先の出自を後世に伝えるため、神武は日向(投馬国)から出航し、倭(和)国の
首都を筑紫・博多から(先遣隊ニギヤハヒが拓いた)奈良・三輪山麓へ東遷。「大王(おおきみ)」に即位し、「大和」朝廷を樹立した。
※記紀が、投馬国の祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の伯母・卑弥呼(アマテラス)をその姉としたのは、
天皇家(♂投馬国王♀台与夫妻の子孫)の系図操作。漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は建国の功績を消され出雲に祀られる。
- 4 :
- 【大和朝廷における、♂日向(投馬国)系大王と♀筑紫(邪馬台国)系大王の(それぞれの男系が途絶えたことによる)政権交代】
〔前期古墳〕…三輪(銅鏡)王朝(神武〜仲哀)=♂日向(投馬国)系大王
〔中期古墳〕…河内(鉄剣騎馬)王朝(応神〜武烈)=♀筑紫(邪馬台国)系大王
(高句麗の南侵に脅かされた百済・新羅・伽耶への軍事援助で王権強大化)
〔後期古墳〕…近江王朝(※継体〜天智〜桓武〜現在)=♂日向(投馬国)系大王
-継体・安閑・宣化=日向系大王〔樟葉宮→筒城宮→弟国宮→余磐玉穂宮〕
継体の大王即位が河内皇族(筑紫系)の抵抗で大幅遅延→「筑紫君・磐井の乱」を誘発
-欽明〜♀皇極(斉明)=筑紫系大王〔飛鳥板葺宮〕
筑紫系大臣、蘇我氏(娘達を皇后に)による日向系皇族大弾圧→「乙巳の変」(大化の改新)へ
-天智・弘文=日向系大王〔近江大津宮〕
「白村江の戦い」惨敗→百済滅亡で半島権益を完全喪失。国庫大消耗→「壬申の乱」へ
-天武〜♀考謙(称徳)=筑紫系「天皇」〔飛鳥浄御原宮→藤原京→平城京(恭仁京)〕
両系和解の記紀編纂(日向系大王の活躍=筑紫系大王の活躍)→「長屋王の変」・「道鏡事件」へ
-光仁・桓武〜現在=日向系天皇
筑紫系天皇の奈良〔平城京〕から、本拠地・近江(琵琶湖)近くの〔長岡京/平安京〕に遷都。
- 5 :
- 邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。卑弥呼の墓は、小城公園内桜ヶ岡(さくらおか)です。
私が1991年に発見しました。ですから私は日本のシュリーマンを名乗っています。
- 6 :
- 邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。卑弥呼の墓は、小城公園内桜ヶ岡(さくらおか)です。
私が1991年に発見しました。ですから私は日本のシュリーマンを名乗っています。
- 7 :
- すみません。ミスタッチで二度書いてしまいました。
- 8 :
- 今更いいんですよ…
あなたの研究、さらに人生そのものがミスタッチみたいなものですから…
- 9 :
- >>1
また立てやがったのか
満州の遊び場を提供するだけだぞ
- 10 :
- 読売新聞に前方後方墳のことが載っていたな。前方後方墳から三角縁神獣鏡は
どのくらい出ているのかな。
- 11 :
- >>9
このスレは日本史板の代表スレのようなもの。
私が立てずとも誰かが立てる。余計な御世話だ。
- 12 :
- うるせー
- 13 :
- >このスレは日本史板の代表スレのようなもの。
基礎がなってない。 正確に構築できるはずがない。
「全スレ」
出世しねえな、お前さんは。
- 14 :
- 「川柳の達人」=「卑弥呼は満州(朝鮮)にいた」
- 15 :
- >>13
よく細かいところまで見ている。
「スレ立てありがとうございます川柳の達人様」くらいの
礼の一つぐらいほしいものだ。
- 16 :
- >>14 全然違う
朝鮮と 一緒にするな 達人を
川柳下手ですまんな、じゃ・な。
- 17 :
- >>16
「標語の達人」だろ
- 18 :
- 伊作と筑紫の民が2人で使ってんだろ
故に時折人格が2重に見える
- 19 :
- >>1 乙!
前スレ>>981:ちはやぶる皇神
>「萬里」有効に使わせてもらってます。
「修辞の萬里」+「使者来倭に因る知見二千余里」=萬二千余里 という机上計算を首肯してもらえるなら、
水陸行2ヶ月という使者来倭に因る知見が、二千余里である。 でok?
- 20 :
- >>10
最近、前方後方墳という言葉を良く聞くと思ったら狗奴国のシンボルと
化しているのか。いよいよ考古学は畿内説の都合の良いように利用されて
いる感があるなあ。
- 21 :
- >>14
朝満男は他にもE-mail欄を空欄(緑色)にしたり、sage(青色)たりして自作自演してるよ。
いくら名前や色(青⇔緑)を変えても、品のないキムチ臭さは抜けないから馬脚を現してしまうけどw
- 22 :
- テスト
- 23 :
- >>21 なるほど・参考になった。
- 24 :
- 満州さんあんまり無理しないでください
- 25 :
- あいかわらずあほな奴らがあほな書き込みをしているなw
しかし川柳の達人に絵の才能があるとは意外だった。
それはさておき私はまたまた画期的な珍説?を発見した。
満州源流考によると伊蘇とは満州語で九の意味だという。
ところで伊都国の旧名は伊蘇国という。
これは要するに九州の国という意味ではないのか。
また満州のどこかに伊蘇河というのがあったような気がする。
伊都国人というのはその辺りから渡来した人間ではないのか。
ここに書くのは惜しいような気もするが、
出血大サービスで書いておこう。
因みに私は最近まともな投稿はしていないが、
それは、ここに書くのが惜しいようなことばかり発見しているからである。
まあ来年あたり私の本が出るだろうから、それをお楽しみに。
- 26 :
- 新潟の城の山古墳の発掘で、四道将軍の実在及び祟神天皇が4世紀前半に実在じたことがほぼ確実になった。
しかしこれは卑弥呼=ヤマトトトビモモソ媛の否定に繋がる。
畿内説の最有力説が崩れ去るのだ。
なぜならヤマトトトビモモソ媛は祟神天皇の2世代前だ。
2世紀後半生まれの卑弥呼とするには祟神天皇を3世紀後半生まれと仮定して、
100年を2世代で説明しなければならない。
1世代20年くらいの時代に現在より長い50年は絶対無理。
石田純一みたいなのが2人いたという屁理屈はダメ。
- 27 :
- ヤマトトトビモモソ媛=卑弥呼かはおいておくけど
歴史的に見て叔父や叔母と同じ位の年齢って不思議じゃないだろ
石田純一が複数居ても何もおかしくはないのでは?
ちなみの毛利元就とか70歳で子供産ませてるし
それだけじゃ何とも言えん
- 28 :
- >>25
早めに出してね
- 29 :
- >>27
毛利元就が70歳で生ませた子が毛利家の家督を継いで、
世代間70年だったのか?
ちなみに継体から祟神まで一世代が約20年。
だいたいヤマトトトビモモソ媛の兄・吉備津彦は四道将軍の一人。
ヤマトトトビモモソ媛を卑弥呼だとして推定180年生まれ、
吉備津彦を177年生まれと仮定しよう。
祟神が四道将軍を派遣したの年を300年と仮定したら、
吉備津彦は御年123歳になる。
あるわけない。
- 30 :
- >>25
>私は最近まともな投稿はしていないが、
>それは、ここに書くのが惜しいようなことばかり発見しているからである。
>まあ来年あたり私の本が出るだろうから、それをお楽しみに。
↑こんな「卑弥呼は朝鮮(満州)にいた」が本を出すんだって!
みなさん、いくらなら買いますか???
- 31 :
- 年違わず一致は金メダルもの 1年違いの整合は銀メダルもの
【開化崇神 編年表】
皇紀西暦 干支 倍暦紀皇年
510 -151 庚寅 210 7
511 -150 辛卯 8
512 -149 壬辰 9
513 -148 癸巳 211 10 崇神誕生⇔崇神の御名に因み任那成立【金】
・・・・・・・・・・・・・
530 -131 庚戌 220 27
531 -130 辛亥 28 崇神立太子
・・・・・・・・・・・・・
550 -111 庚午 230 47
551 -110 辛未 48←→開化48年 呉兵20万3千人沖縄襲来 黄龍2年【金】
552 -109 壬申 231 49
553 -108 癸酉 50
・・・・・・・・・・・・・
562 -99 壬午 236
563 -98 癸未 60 開化60年 開化崩御
564 -97 甲申 237 元 崇神元年 崇神即位 天津神算木と一致【金】
・・・・・・・・・・・・・
569 -92 己丑 238 6 崇神6年 倭笠縫 鏡祭祀 鏡作神社鏡改鋳【銀】
570 -91 庚寅 239 7 景初3年鏡銘文年(鏡祭祀と1年違い)
・・・・・・・・・・・・・
627 -34 丁亥 258 64 倍暦戊寅年=古事記崇神没年(259年崩御と1年違い)
628 -33 戊子 65
629 -32 己丑 66
630 -31 庚寅 259 67
631 -30 辛卯 68 崇神崩御【銀】
- 32 :
- >>30
>
> みなさん、いくらなら買いますか???
金くれるなら読んでやってもいい。
- 33 :
- 九州になったのって7〜8世紀頃では?
早くて6世紀?
- 34 :
- >>30
内容にもよるな
税込み525円なら考えんこともないよ
- 35 :
- ↑自作自演乙
- 36 :
- >>946
>なるほど、
>(魏)正始元年春正月、東倭重譯納貢,焉耆、危須諸國、弱水以南、鮮卑名王、皆遣使來獻。天子歸美宰輔、又増帝封邑。
>というわけか。どうして「東夷条」に書かれていないんだろうな。
「宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絶。」(晋書)ことでいいんでない?
「至魏景初三年、公孫淵誅後、卑彌呼始遣使朝貢、魏以為親魏王、假金印紫綬。」(梁書)
「卅九年。是年也、太己未。魏志云、明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守 夏遣吏將送詣京都也。」(日本書紀)
景初三年六月の帯方郡。喪明けに合わせて洛陽入り。
- 37 :
- >>35
何と自作自演なんだよwwww
もしかして、同人誌って525円は高いの?
- 38 :
- >>19 :ローガン
OK (95%)
残り5%は考察中。
基準の「萬里」は、生涯変わらないでしょう。
- 39 :
- 東スポ 「森光子は元気に退院!ダンスを踊り、スクワットも150回こなす」(11月14日16時)
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1352888940/
↓
【訃報】森光子さん心不全で死去
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1352888014/
東スポ・新潮とはいえ裏取りせず思いつきで記事書いてるのがよく判る
社内に頭おかしいのしかいないんじゃないか?
- 40 :
- 現在、シュリーマンの事績がほとんど否定されてるのを知ってちょっとショックを受けた。
- 41 :
- >>40
トロイアも否定されてるのか?
- 42 :
- >>41
シュリーマンが指摘した層とは違ってるってさ。
- 43 :
- 現在考えれば放置してもらった方がマシだったという意味で否定されてるんではないの?
きちんと記録にも留めず正確な検証を却って困難にしただけで
日本も同じで発掘調査と称した江戸の藩による調査とか迷惑以外の何物でもない
昭和初期の大学による調査ですら今再調査して誤りが明らかになるくらい
- 44 :
- 崇神天皇の崩御は288年です。4世紀まで12年あります。
しかし、考古学上の誤差を考えれば、妥当というところでしょうか。
- 45 :
- >>38:ちはやぶる皇神
>OK (95%)
了解。
ただ、私が考える九州説では、翰苑引用魏略と廣志
『分職命官、統女王而列部。
【魏略曰:「從帯方至倭、循海岸水行、歴韓國到拘耶韓國七千餘里、始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑拘、副曰卑奴。無良田、南北市糴。南渡海至一支國、置官至對馬。
地方三百里。又渡海千餘里、至末廬國、人善捕魚、能浮沒水取之。東南五百里、到伊都國。戸万餘。置官曰爾支、副曰曳渓觚・柄渠觚。皆統屬王女也。】』
『邪届伊都、傍連斯馬。
【廣志曰:倭國東南陸行五百里、到伊都國、又南至邪馬嘉國、自女王国以北、其戸數道里、可得略載、次斯馬國、次巴百支國、次伊邪國、案倭西南海行一日、有伊邪分國、無布帛、以革爲衣、蓋伊耶國也。】
ここに出てくる伊都国→邪馬台国という位置関係と、上陸後、「水陸行2ヶ月」は整合しないことから、
景初の使者と正始の使者の行く先が違うと捉えた上で、
卑弥呼後の政変と、古墳時代初期の畿内の求心力を、加味し
壹與代の東遷を考えるものです。
- 46 :
- ところで、東遷する意義って何?
- 47 :
- >>45 名前:ローガン
>景初の使者と正始の使者の行く先が違うと捉えた上で、
OH YEAH !
>壹與代の東遷を考えるものです。
大反対。
梯儁と張政では、来倭の目的が違う。同じルート、同じ日数のはずがない。
問題は「其國王皆屬王女也」から「丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐」
に陳寿が改変した事に集約されていると、現在は考えています。
- 48 :
- >>45 名前:ローガン
糸島伊都国が、独立した一国で存在する可能性は皆無である。
伊都国について、もう一度検証し直すべきと思います。
また、後ほど。
- 49 :
- 糸島は博多湾の入り口にあり、
奴国といずれぶつかり、
下位に立つか吸収される運命にある。
- 50 :
- 行程記事を2人の記録を合わせたものだとか言い出したら、それはもう誤魔化しだな。
- 51 :
- いや、そうとはかぎりませんよ。
Wュは、いろんな資料をみて書いたのですから。
もっともティシュンとチョウセイが、ということはありませんが。
- 52 :
- 後漢に朝貢した倭奴国=半島系の筑紫国、伊都国や奴国の前身
中国江南地方から東シナ海を渡って肥の国に上陸した一族=邪馬台国の前身
耕地に恵まれない邪馬台国はその鉱山技術、より高度な製鉄技術、冶金技術+鬼道をもって
一気に有明海沿岸、阿蘇、伊都国連合をも含む北部九州を席巻、一大率を置き諸国を検察
薩摩大隅の狗奴国をも支配下に置こうと画策するも苦戦、魏への朝貢はこの頃
狗奴国は天草島(投馬国?)から侵攻を始め一気に肥の国を蹂躙、夜須川(天の安河?)まで進出
邪馬台国の王族は逃亡し日田から山国川あるいは駅館川をさかのぼって宇佐に落ち着くも小規模勢力に
4世紀はじまり前後(?)朝鮮半島南部(高天原?)の騒乱の影響で多羅からやってきた一団(タラシ系の王族=景行天皇、神功皇后)が
八女、宇佐など北部九州を平定しようとするも地元豪族たちの抵抗に遭う
神夏磯姫と縁戚関係を結んでいにしえの邪馬台国の血筋を入れたタラシ系の王族(イザサワケ=応神天皇)は瀬戸内海を東進
吉備の勢力と手を結び河内に入り、後の大和朝廷の基礎をつくる
自分の家の近所にあり、小さい頃から目の前で見てきた大仙陵古墳の被葬者はこうして西からやってきた征服王なのではないか
自らの事跡を誇るために海から見えるあの場所に陵を造らせたのではないか
- 53 :
- >>50
東南陸行五百里で糸島に行く自信はあるのか
>>51
郡使往來常所駐は後漢時代の記録だろう
- 54 :
- 後漢時代の記録だろ。
ご明察です。後漢の時代も漢の使者は倭国にきていたのです。
- 55 :
- >郡使往來常所駐は後漢時代の記録だろう
過去に駐したというわけではない。駐まることとなる所ということだ。
- 56 :
- >>46
異民族の征服
- 57 :
- 常にってあるでしょ。
- 58 :
- >>55
>駐まることとなる所ということだ
過去の事実があってこそ常だろ
今回から未来にかけて常を予測するのか
- 59 :
- >>47:ちはやぶる皇神
>梯儁と張政では、来倭の目的が違う。同じルート、同じ日数のはずがない。
いや、伊都国をハブ港と捉えたら、そこまでは同じ。書き方の変化が、別資料を示唆するでしょう。
上で挙げた魏略と廣志はそれぞれ
a「分職命官、統女王而列部」(職を分け官を命じ女王に統べ部を列ぬ)
b「邪届伊都、傍連斯馬」(斜めに伊都に届き傍ら斯馬に連なる)
という難解な本文の説明が目的。aは倭国の職制、bは倭国の地勢。しかし、いずれにも奴、不彌、投馬国は表れない。
魏略、廣志のテキストは、伊都国→邪馬台国だった…と考えてみた訳です。
なら、水陸行2ヶ月は別資料。なんてね(笑)
>>50
>行程記事を2人の記録を合わせたものだとか言い出したら、それはもう誤魔化しだな。
「参問」と出てくるでしょう。訳本ではたしか、「交え問う」と訳してた。
「照らし合わせて調べる」という意味でしょう。つまり複数の資料があったワケ。
- 60 :
- >>46
明治時代になって、時の権力者、大久保利通はとにかく天皇を公家から遠ざけ
たいと思っていた。なので、大阪に遷都しようとしていたらしい。
しかし、前島密の進言で東京になった。
理由は、日本全体を視野に入れたとき、特に、当時、従わない勢力のあった
東北地方の支配には東京の方が便利だということだった。
九州から大和に遷都の理由も、日本全体を視野に入れたとき、近畿地方の方が
日本の中心になり、便利だと考えたのだろう。関東地方までを考えると、
九州では何かと不便になる。
それと、奈良盆地のようなところに都を築こうとしたのは、大陸からの
攻撃に対する用心のようにも見える。仮に、呉との関係が深かったとすれば、
西暦280年の晋による呉の滅亡も理由だったのかもしれない。
あるいは自然災害も考えられる。日向だったら津波とか台風とか。
吉野ヶ里遺跡の廃絶の様子などを考えたら、疫病などもあるかもしれない。
- 61 :
- >>46
江戸時代の天皇は江戸幕府の命令で在位中京都御所から出ることを許されず、
御簾内に入ることを許される公家たち以外は天皇の顔をほぼ知らなかった。
大久保利通らは天皇を中心とする国家を樹立する際、これまでのように天皇を御所内に閉じ込めるのではなく、
広く日本国民全体にその存在を知らせるために、まず天皇が京都御所から出ることを提案した。
当初、明治天皇は大阪へ行幸。その後、京都へ戻った後東京へ行幸する。
江戸時代末期の東京は世界有数の100万人規模の大都市であり、街が廃れるのを嫌った前島密の建議が通ったためとされる。
明治天皇が京都から東京へ移動する間、街道の人々にもその様子を見せ、
天皇というものを広く国民に浸透させようとした。
- 62 :
- ハブ港という概念なら、唐津と小戸が、古くからの港。
消えたのかもしれないが、今は糸島に大きな港の痕跡はない。
- 63 :
- >>59 ローガン
今晩は。衣替えですかな?
>いや、伊都国をハブ港と捉えたら、そこまでは同じ。
末廬國(唐津)から、東南陸行で糸島には行けない。
魏略、廣志ルートは、伊都から邪馬台国へ直行。
伊都は糸島に非ず。東南陸行五百里、戸万余の佐嘉国になる。
糸島ならば、一大国〜呼子〜水行糸島が自明の理。
わざわざ遠くに上陸して歩く理由はないでしょう。
>いずれにも奴、不彌、投馬国は表れない。
>別資料を示唆するでしょう。
「分軄命官、統女王而列部」
職を分け官を命じ、女王に統べ部を列しぬ。
ここに官名がないということは、別史料と判断します。
>水陸行2ヶ月は別資料。なんてね(笑)
南至投馬國、水行二十曰は、当然別史料でしょう。
博多湾沿岸から、宮崎を想定しています。
對馬國〜一支國〜末廬國〜伊都國〜邪馬壹國
「 自郡至女王國、萬二千餘里 」
- 64 :
- >>59 青いローガン
紀元前の早良王国は、奴国をはるかに凌ぐ出土物である。
だが、弥生中期初頭に、武将らしき木棺墓が二人、甕棺墓
の王族が二人、木棺墓の王族が五人死んでいる。
奴国に制圧されたと思われる。
この後、紀元前後にかけて奴国が急成長してくる。
それに伴って、糸島も成長している。
大宰府南の筑紫野市から小郡にかけて戦死者が、多い。
また、倭乱の時期以前も異常に多いとされている。
これは、奴国が覇権国家であったと想像する。
この凶暴な国家が、贅沢品を埋葬する有千餘戸の小国を
見逃すはずはない。
須玖岡本遺跡、三雲遺跡からは、王葬儀に用いる「玻璃壁」
が出土している。鏡、太刀とは重みが違う。後漢時代の同じ王統である。
糸島は、奴国の王墓と思う。
奴国王都は、那珂川上流にあったのではなかろうか。
- 65 :
- 方向、距離、戸数、「皆統屬女王國」
佐嘉国は、条件を満たしている。
「邪届伊都」「憑山負海、鎮馬臺、以建都」
邪馬台国は、八女〜熊本北部を指している。
- 66 :
- >>65:ちはやぶる皇神
貴説了解。では視点を変えて
前に書いたけど「差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。」の壱岐の民が作物を求めて市糴。その本土側が「濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。」人気の少ない海人国では変でない?
原の辻交易で云われる本土側は、やはり糸島の潟港。
交易を基軸とした壱岐との航路がある訳だから、使者の船も壱岐→糸島でしょう。
また、どこまで事実を伝えているかは?なれど
「今使譯所通三十國」とあるので、複数のクニが半島との通交があるとして
臨津捜露の役割を持つ一大率の地所をハブ港に求めないのは、現実的では無いでしょう。
又後程。
- 67 :
- 魏使来倭時、末廬國は独立国家ではない。 王、官がいない。
桜馬場遺跡は、広形銅矛の石製鋳型片が出土している。
奴国特有の物である。
倭国王帥升による、制圧と思われる。
糸島に眠る王墓は、この偉大な奴国覇権王「帥升」ではないだろうか。
- 68 :
- 王、官がいない国ってどうやって動いていくのかな?
- 69 :
- >>59
>「参問」と出てくるでしょう。訳本ではたしか、「交え問う」と訳してた。
>「照らし合わせて調べる」という意味でしょう。つまり複数の資料があったワケ。
参問は周旋五千里についてで、行程記事には関係ないね。
- 70 :
- ローガンは九州説に転向したのか?
ついに悔い改めたのか
- 71 :
- >>66 ローガン
>臨津捜露の役割を持つ一大率の地所をハブ港に求めないのは、現実的では無いでしょう。
私は、邪馬台国へ急いだ「張政ルート」の佐嘉伊都国と初の魏使来倭「梯儁ルート」の
「悉可以示汝國中人、使知國家哀汝」である糸島伊都国が状況的に順番的に似ていたが為に、
陳寿は、佐嘉と糸島が交錯しているという考え方です。
したがって、「 自女王國以北、特置一大率」は、梯儁の糸島伊都国と思います。
一大国と一大率は相対してます。 倭国上陸直前の壱岐に一大率は常駐していたと思います。
近畿勢力やその他の交易船は、当時の渡海能力からすれば壱岐は外せない状況だった。
伊都国を糸島にすれば、方向、皆統屬女王國で否定されます。
伊都国を佐嘉にすれば、「檢察諸國、諸國畏憚之」が現実的ではありません。
「伊都国は二つあった」が自説です。
- 72 :
- >>67
帥升は当時シュセンと発音したようです。
倭面土国(イメンド国)は、今津今山の今として名がのこっています。
あ、それから姪浜(かつては前の浜)一帯もそうです。もちろん糸島半島から早良一帯も。
周船寺のスセンは帥升の名のなごりでしょう。
となると、糸島の王墓のどれかが、彼の墓ということになりますか?
- 73 :
- 唐松山 倭王は二人いた
太国 二倍暦だった
ちはやぶる皇神 伊都国は二つあった
- 74 :
- まあ、佐賀と糸島、三瀬峠通って山の北と南と思えば、
今ならさほど遠くない。
でも、山越えは結構大変だから、当時は
一体とは思えないなあ。
あと、糸島に一大卒がいても、影響力は糸島だけだが、
佐賀は肥前全体に影響を持つ。
肥前国庁が置かれたのはそれなりの理由がある。
- 75 :
- メンド
- 76 :
- >>72 :サガミハラハラ
一大率の建物と思える遺跡地は、福岡教育委員会の周船寺遺跡第七次調査で
見つかっています。 私は間違いないと思ってますが・・・私だけかも?
福岡市西区周船寺3丁目で、今津湾を臨む標高7mの扇状地帯です。
750平方米で中央の建物の四面を縁でめぐらされています。
高床式住居ではなく、特殊な建物ということでした。
場所的には、ピッタリなのですがねぇ!
注目されてません。
- 77 :
- 二つあることは三つある
- 78 :
- 周船寺三丁目って、ここ10年くらいでどどっと開発されたとこだね。
周船寺から元岡桑原にいく道で、
三丁目から反対側に、確か神社があったはず。
なにか痕跡が残ってるかもしれんね。
- 79 :
- >>70
ローガンは九州説に転向したのか?ついに悔い改めたのか
どちらでもいい。ただ短里とやらのアホ説相手、飽きただけ。 まともな九州説的思考は本意。
>>71:ちはやぶる皇神
>私は、邪馬台国へ急いだ「張政ルート」の佐嘉伊都国と初の魏使来倭「梯儁ルート」
これにちょっと言葉尻。(笑)
「急いだ」理由は?だいたい、六年詔の黄幢を届けただけでしょうに。
>>69
>参問は周旋五千里についてで、行程記事には関係ないね。
それ、複数資料の存在を認めたと受け取れるだけ。
しかし仮に反対意見だとしても、論ずる訳でなし、根拠を明示する訳でなし、いやはや…。こんなん多い。九州説。
- 80 :
- 黄幢は魏の勢力下の国々に向けてのものでしょ、JK
- 81 :
- >複数資料の存在を認めたと受け取れるだけ。
参問の意味がちがうようだが、そこまでとがめる必要もないかと思っただけ。
参験問尋の略なりと解説していた学者がいたよ。
>根拠を明示する訳でなし
倭人伝の文脈上明白なこと。言われても気づかぬほどアホとは思っていなかったが。
- 82 :
- そうか、ローガンもやっと九州説に転向したか。
ま今どき畿内説だと、
満州クンと同列になっちゃうもんな
- 83 :
- 大率の話が出たから書いておこう。
大率を百済の官とする資料は二つある。
官有十六品 長曰左平 次大率 次恩率…(隋書百済伝)
次大率三十人二品一称達率 次恩率…(冊府元亀)
その大率が伊都国に常駐しているというのはおかしな話で、
どこかに錯誤があるのではないかと考えられるのである、
君らの頭と同じようにw
- 84 :
- 魏使が来た 鮑を出せと 一大率
魏使一行 貝でもてなす 一大率
- 85 :
- 魏使一行が一大率をもてなしているのか。
- 86 :
- 倭が、君らが思っているような日本ではない証拠を、もう一つ挙げておこう。
2002年に、百済の古都とされる風納戸城から「大夫」の銘のある土器が出たそうである。
風納戸城が果たして百済の遺跡であるかどうかは疑問の余地があるが、
とにかく朝鮮半島からそのような土器が出土している。
またネット史を見れば、朱蒙の時代から既に高句麗には大大夫、中大夫があり、
その後も中畏大夫、大夫という位階がずっとあった。
倭の使者が自ら大夫と称し、難升米も大夫と書かれていることは周知の通りであるが、
日本の古代に大夫という位階があったという史料は無い。
ところが高句麗や半島にはあったのである。
これを見ても、倭とは日本ではないことが分かる。
- 87 :
- 黄幢と名の付く地名があるのは、中国地方。
- 88 :
- >>86
現代日本にAdmiralだとかcolonelだとかの役職は無いけれど、
自衛官がアメリカに行けば、そのように自称するよ。
- 89 :
- 鬼道、大率、大夫 ← 墨子
- 90 :
- 大阪維新の会 大口後援者にマルハン(密入国)、ソフトバンク(帰化)、パソナ(竹中平蔵会長)
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1346072621/
【政治】『大阪維新の会』の"大口後援者"にマルハン、ソフトバンク、パソナ [08/27]
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1346027314/
また騙されるのかB 層。学習しろ
- 91 :
- >>86
大夫というのは周時代から使われているもの。
後漢書に「建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫」とあり、
日本では、西暦57年にはすでに使われていたことがわかる。
- 92 :
- なんでここの連中はこうも物分りが悪いのか。
記紀を含めて日本の文献で日本の古代に大夫と呼ばれるような位階は無かったのである。
だから倭奴國とは日本ではないのである。
- 93 :
- >>92
いたよ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B2_(%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%88%B6)
太政官の史は、弁官が率いる弁官局に属しており、同局が左右に分かれていることから、
左大史・右大史・左少史・左少史に各2名合わせて8名存在することから八史(はちし)とも
呼ばれた。後に弁官局の大史から五位の位階(大夫)に昇るものが現れるようになり、
これを特に大夫史(史大夫)と呼んだ。
- 94 :
- >>92
記紀を含めて日本の文献で日本の古代に邪馬壹国と呼ばれるような国は無かったのである。
だから卑弥呼の女王国とは日本でないのである〜と考えて女王国を半島にあったと
主張してるのか?w
まあ伝の借り物なら紀の神功39年などにあるわけだが・・・?
これはそうそう〜借り物だからな〜例外だ。
- 95 :
- >>88
Admiralとかcolonelというのは官職名である。
しかし中国で謂うところの大夫というのは官職名ではなく、
人間の身分を表わす言葉である。
王−公−卿−大夫−士−庶人−工商−奴隷(先秦時代)
>>93
それは律令時代の話である。
それ以前に大夫と呼ばれる階層が日本にあったという史料は無い。
- 96 :
- 大夫というのは中国で言えばそのような身分にあたる
くらいの意味だろ
- 97 :
- >>72 :サガミハラハラ
>糸島の王墓のどれかが、彼の墓ということになりますか?
やはり、ガラス壁、金銅四葉座飾金具が出土している三雲南小路王墓1号墓でしょうかね。
時期が合うのか、勉強しなおしてみよう。もう一度「伊都国を掘る」でも読んで。
- 98 :
- >>95
大夫という位階があった半島の国からの使者について「自称大夫」という記述はあるかい?
半島の国に大夫という位階があったなら、それこそ「自称大夫」の倭人ではないという証拠だ。
倭には、正式に大夫という身分がなかったし、
漢・魏の皇帝もそんな身分を倭人に許してなかったから、
便宜的に倭人が「大夫」と言ったことを「自称」と書いたわけだね。
>しかし中国で謂うところの大夫というのは官職名ではなく、
>人間の身分を表わす言葉である。
日本にジェントリという身分階層はないけれど、
過去、ジェントルマンと自称した日本人は数知れないよ。
- 99 :
- >>66 :4枠ローガン
>臨津捜露の役割を持つ一大率の地所をハブ港に求めないのは、現実的では無いでしょう。
日本書紀 推古天皇
「將軍來目皇子、到于筑紫。乃進屯嶋郡、而聚船舶運軍粮」
【来目皇子を新羅討伐の将軍となし、筑紫に到り、進みて嶋郡に屯(いわ)
みて船舶を聚(あつ)め、軍(いくさ)の粮(かて)を運ぶ。】
今津湾は、古代のハブ港であった。
奴国王 対 女王国は、壱岐・今津湾の争奪戦である。
一大率は周船寺にいた。(福岡市西区周船寺3丁目?)
近畿勢は、宗像族の協力のもと沖ノ島・対馬ルートの開通を急いだ。
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