2012年09月中国英雄25: 劉備が天下統一できなかった最大の原因 (804)
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劉備が天下統一できなかった最大の原因
- 1 :2009/04/16 〜 最終レス :2012/10/24
- 劉表死後に荊州乗っ取らなかったから
- 2 :
- R
- 3 :
- そんなに熱心でなかったから
- 4 :
- 袁紹程の人脈も名声もなきゃ、曹操程の資金力もなかったため。
- 5 :
- カンウの補佐が居なかったから【ホウトウ戦死】 イリョウで負けた為 エンショウと手を組まなかった為 赤壁でカンウがソウソウを見逃した為【これは演技だから除外】
- 6 :
- 中原から追い出された時点でじえんど
天下は袁紹と曹操の二択しかなかったよ
- 7 :
- >>6
もし袁紹が天下とってたら100年早い八王の乱が起こってたんかな。
- 8 :
- 逃げ回ったあげく
ムリヤリ蜀おっ立てただけの無能に
天下統一できなかった原因もクソもねーだろww
- 9 :
- >>8
お前曹操だな?
- 10 :
- 関羽が役立たずだから
- 11 :
- >>7
袁紹の天下だったら、劉備はその下についたのかね。
- 12 :
- 劉備は公孫サンの配下だから、顔良や文醜あたりの下につけられたかもね
- 13 :
- >>1
曹操が河北を制覇した以降、劉備に天下統一の目なんてものはない。
呂布に徐州を乗っ取られた時点で、天祐も曹操に劣ることを示しているから
天下統一ができるとも思えないな。
>>11
劉協を廃して、帝位に推戴されてたかも?
袁紹も曹操を倒したからと言って、即日禅譲を迫るとまではいかないであろうことと
出自は怪しくとも劉協より皇叔のお墨付きを貰っていて、帝位を継がすのに適当な人材だったから
- 14 :
- >皇叔
- 15 :
- >>13
もしそうなったら、すごい権力争いが行われそうww
実権を握る袁紹VS劉備家臣団
袁紹死後なんか、息子たちがやらかしてますますww
- 16 :
- 現実問題として、担ぐとしたら劉虞の息子、劉和だろ。
劉璋や劉曄など身元のハッキリしてる皇族が居るのに、劉備なんか担がれる道理がない。
- 17 :
- >>16
劉虞にはきっぱり断られているから、劉和も断られる可能性が高い
199年以降記述がないことから、官途の頃にはお亡くなりになってたりしている可能性もある
劉曄は曹操の傘下、劉璋は遠く巴蜀の地
史実の劉備は、演義と異なり野心満載の人物で引き受ける算段も高く、担げばそれだけ恩も売れる
(劉備がどれだけ恩に感じるか当てにならんが…、曹操なんかよりもよっぽど奸雄だからな劉備は)
道理については、元々臣下が主を廃することに道理もへったくれもないこと
懐に飛び込んできた皇叔の冠を持つ窮鳥を操るのは容易く、如何に扱うかは思うが侭
可能性ならないとは言い切れないと考える
けどまぁ、薄いか
なんせ劉備は袁譚と親密な関係だから、後を袁尚に継がせたいなら障害になりかねないものな
しかし、劉備を保護した裏に実はそんな企みがあったとしたら、度重なる劉備の失態を大目に見た理由にもなる
一説として、けっこう面白い考えだと思わない?
- 18 :
- >>16
問題は身元ではなく能力(徳)だよ
- 19 :
- >皇叔
>皇叔
>皇叔
- 20 :
- 見回りに来た役人が会ってくれないって理由だけで
キレて縛って鞭で叩いたから
- 21 :
- >>20
その時点でw
- 22 :
- 三国鼎立させただけで十分頑張ったって言える
野心なけりゃ曹操か袁紹の配下くらいでおわってた
- 23 :
- 国起こすのが遅かったからじゃん?
- 24 :
- 211年に入蜀したすぐさまに劉障を捕縛し、蜀に兵を2万程残し、一挙に漢中を抜き、
長安の韓遂らに合流する。劉備が何月に入蜀したとか、時間の問題等、いろいろあるが、ともかく劉備はこの機を逃さず迅速に動くべきだった。
ここで大胆に出れば歴史は流転したはず。
- 25 :
- >>25
後は荊州返還。蜀を手中に収めすぐさま荊南二郡を呉に譲渡し、長安と漢中、涼州を平定した所で更に荊南二郡を明け渡す。
とにかく1つ言えるのは、劉備は臨機応変でなかった事。出迎えに来た劉障を捕縛すれば、三年の月日も掛からず、何より無駄な血もなく蜀を平定できたのに。
劉備の優柔不断のせいで、張松や鳳雛ら貴重な者が死に、更に関羽の死に繋がったと言える。
全ては劉備に責がある。
- 26 :
- >>25
すまん、>>24と書くべきでした!すみませんでした!!
- 27 :
- お抱え武将は多彩だったのにな。
やはり憎まれてもワンマンで冷血でなければトップはつまらぬということか。
- 28 :
- そんなに露骨に人を騙して、滅亡がはやまるだけ
- 29 :
- >>25
魯粛が劉備についてれば最強だったって事か
- 30 :
- >>24
あれでも劉璋は、蜀の民臣からの人気は高かった
その劉璋を騙まし討ちの捕縛で蜀の民臣が心服するとは限らない
逆に大いに反感を買う恐れが高く、すんなりと平定できるとは限らない
次に漢中。まるで遮る者がないが如く語っているが、五斗米道の張魯は10数年もの長きに渡り漢中を支配し、
民衆からの人気の高い統治者で侮ってよい存在ではない。生半可では討伐は難しい
さらに涼州の軍閥と盟を結べるかどうかも不確定。馬超のいない劉備は涼州とのパイプを持っていないからね。
曹操の漢中侵攻において涼州を侵略される事を恐れて挙兵したのと同様に、劉備の漢中侵攻に対して涼州への侵略を恐れて挙兵しないとも限らない。
そして、荊州・益州・涼州と漢中を制していたとしても、曹魏との戦力の差はまだまだ大きい
劉備が急性に力をつければ、史実同様、孫呉も劉備の力を削るような動きに打って出てくる
反三国志の道は楽ではないよ
- 31 :
- >>30
24〜25カキコした者だけど、30さんの言う通りなんだよね。よく考え直せば。
それでも劉障は早くに始末を着けるべきだったと思うよ。血もほとんど流さず、時間も掛からなかっただろうと思うしね。
- 32 :
- でも、ムシロ織りで、かつ、何度も国を失いまくったのに、良く蜀とか
立てれたよ。それだけでも凄いわ。曹操にしろ、孫にしろ、先祖代々の
人脈が分厚いわ。
- 33 :
- 自分の部隊を守る部隊長としては有能だけど
大守として土地や土地の人の財産を守ることが
出来なかった、もしくは意思が希薄だった
だからやばくなったらすぐ逃げちゃう
コーメーがいなかった時代にそういう戦略的な行動をとれず
中原を押さえられちゃったから?
- 34 :
- 劉備の皇叔って家譜による代数で見る中国ではあり得なくない?
確か献帝より二世代くらい後なんでしょ?
- 35 :
- そもそも劉備が群雄として一人立ちするのが赤壁後に独立してから
それ以前はずっと誰かの配下として立ち回ってる
- 36 :
- 「金が」とか「人脈が」とか言うけど、劉備も別にただの筵売りだったって
わけじゃないんだよな。
祖父も父も豪族だったし、親戚に援助を受けて有名な儒学者の塾に通い
そこで公孫サンと知り合ったり、身なりを派手に着飾ったり
乗馬が趣味だったり、結構貧乏とは言えないような暮らしをしてる。
むしろ劉姓+(自称)漢室の末裔ということで色んなとこで恩恵を受けてる。
彼の苗字が「劉」じゃなかったらどうなっていたか非常に興味深い。
- 37 :
- >>36
劉姓や皇室でそんなに恩恵は受けてないよ
明らかなのは皇帝になるときくらいだろう
- 38 :
- >>37
受けてるよ。つうかそれが最大の武器だった。
- 39 :
- 黄布の乱で、漢王朝終わってるよ。
- 40 :
- 劉備が下手に騒乱を起さなければ、
名宰相曹操の下で、漢王朝の再統一は実現出来た。
- 41 :
- >>40
その場合は漢朝がその後も存続したのだろうか。
- 42 :
- 史実と同じように曹ヒが纂奪するよ
尤も劉備は立場上曹操がギ王になった時点で諫言してるはずだから旬イク旬ユウのように死を命ぜられ、その頃までは生きていなかっただろうがな
- 43 :
- 劉備が統一した場合、元勲はどうなったのかな?
関羽生存している間の統一なら劉協が皇帝のままなので関羽は除外する。
一番の問題は張飛かな?
劉備健在のうちはいいとして、劉備が死んだら先帝の義兄弟かつ外戚の立場は強力だろう
劉備存命、死後に関わらず誅殺出来ないだろうし
本来なら麋竺も有力だろうが弟絡みで官位は高いけど落ちる
後は孔明・李平含めた荊州・益州閥はどうなるか
孔明は誅殺?
- 44 :
- >>43
日本語でおk
- 45 :
- 劉備が曹操に帰順というか造反しなかったとしても、宿主をことごとく破滅させる寄生虫みたいな奴だから
曹操も劉協も無事では済まされなかったんじゃないか?
- 46 :
- 面白い意見だ。曹操が倒れ天下は麻のごとく乱れ、今こそ劉備の出番て訳だな。
- 47 :
- >>45 また珍説で荒らしですか
- 48 :
- 45の説は、説得力あるぞ。
- 49 :
- 劉備はただ宿主を破滅させるだけでなく、その混沌とした中で何故かいつもトップに立ってるからな
結果的には中央で曹操に仕えた方が上手く行っていただろう
- 50 :
- 曹操が「天下に英雄は、俺とお前だけだ!」って言われた時点で、
劉備は、逃げ出すしかないんかな?
- 51 :
- あれって演義の創作じゃないの?
- 52 :
- 史実でも言ってるよ
- 53 :
- 関羽が韓信見たいな性質じゃなかったから天下を取れなかったと言ってみる
少なくとも韓信のような性質だったら、荊州は取られず麦城の戦いは起きずその後の展開も変わるはず
- 54 :
- 神の意思には何人とて逆らえぬ。
劉備とて所詮・・・愚民の一人。
- 55 :
- 単純に力不足。
- 56 :
- 天の時に恵まれず
地の利を得られず
人の和だけでは、天下を盗るに適わず
- 57 :
- 関羽が韓信に勝るところなんて個人的武勇のみ
- 58 :
- >>57そうですね、関羽と韓信が戦場で戦えば間違いなく韓信が勝つでしょうね、
- 59 :
- ほぼ徒手空拳から一国の皇帝にまで成り上がったんだ、劉備は無能では有り得ない
蜀滅亡の大きな理由は漢室再興にこだわった事で、故に無駄な外征を繰り返す羽目になった
そもそも諸葛亮のような人材は内政に専念させ、ひたすら国力増強に励むべきだった
欲をかかず、せめて漢中王となった時点での勢力保持に努めていれば命脈を長く保てただろう
- 60 :
- ずっと天下三分ていうのいも、中国人の人も可哀想かも
- 61 :
- >>59
漢室再興を謳ったからやってきた人材(孔明とか)もいるわけだし
いまさら「うそでーす、すいませんでしたー」で済むことじゃないだろう
それこそ内部崩壊を引き起こしてしまうだろうから残念ながら無理だと思う
- 62 :
- 民主党が大風呂敷のマニフェストで自滅したのに似ている
- 63 :
- >>59
>ほぼ徒手空拳から一国の皇帝にまで成り上がったんだ、劉備は無能では有り得ない
まず、何に対して無能でないのかによって話しが変わる。
さらに無能でないのと有能とでは、大いに隔たりがある。
皇帝に成り上がることに、必ずしも政戦両略の才が必要とは言えず、
劉備の業績を見れば、政戦両略に才能は乏しいとしか言いようがない。
>蜀滅亡の大きな理由は漢室再興にこだわった事で、故に無駄な外征を繰り返す羽目になった
益州を得てから劉備が起した外征は、漢中と夷陵の2回で繰り返すというほど繰り返していない。
また、漢中王を僭称した時点で漢室とは決別している。
そして、夷陵の戦いは、直接的に漢室再興を目的とした戦いとは言いがたい。
>そもそも諸葛亮のような人材は内政に専念させ、ひたすら国力増強に励むべきだった
そもそもも何も、劉備存命中は、諸葛亮らに国政を任せていた。
ひたすら国力増強に励むというが、当時の劉備の年齢を考えれば、じっくりと国力増強に励んでいる猶予がない。
また、国力では、圧倒的に魏が優位にあり、時を費やせばその差は広がる一方になりえる。
>欲をかかず、せめて漢中王となった時点での勢力保持に努めていれば命脈を長く保てただろう
天下統一できなかった最大の原因を語るスレで、蜀漢の命脈を保つことについて語られても困る。
総じて、劉備存命中と存命後を混同して語っているようにしか見えない。
- 64 :
- 演義と勘違いしてるんじゃないのか・・・
- 65 :
- さらに言えば陳平や張良のような人材が居ない、ショウカのような人材は孔明がいるから問題ないけど
- 66 :
- >>65
謀士ならば、ホウ統、法正、黄権などがいた
戦死のホウ統、病死の法正は兎も角
黄権は活かしていたとは言いがたい
だから天下を取れなかった、との事なら納得
- 67 :
- >>66黄権と言う人はそのメンバーで見れば色んな意味で格下に思えるのですが
個人的にはとても三国時代の今張良や陳平になれる人材とは思えません、自分はメジャーな人間しか知らないモグリなので
- 68 :
- 〜しか知らないモグリなんだったら黙って見てればいいのに
なぜ反論する
- 69 :
- 劉備配下の謀臣としてはまず徐庶。その後釜がホウ統。次が法正。その次が黄権。そして孟達となる予定であった。
しかし全員が死ぬかギに投降してしまったため、畑違いの諸葛亮が軍を率いなければならなかった辺りが劉備陣営の限界と言えようか。
- 70 :
- 黄権は判るが孟達は如何なものか?費詩も言うように人物が小さい。
- 71 :
- 確かに陳平みたいな、口先三寸で国を何度も救うような奇才はいないが、
そもそもこいつ他の時代にも滅多に居ないタイプじゃないか?
口先一発で、英雄に恵まれて北方統一した時代の遊牧民を退けるわ、
呂氏クラスの官爵フルコンプの佞臣や君主権力を脅かす功臣を口先三寸だけで始末するわなんてのは。
- 72 :
- あえて挙げればミスターパーフェクトの藺相如か。完璧の逸話では秦王を相手に全くひるむ事なく、弁舌と
演技力で策略を成し遂げた。黽池(べんち)の会では秦の国内での会合に決死の覚悟で出向き、趙を
格下扱いしようとする秦側の策略をことごとくはねのけて面子を保った上で趙王を無事連れ帰っている。
その後も藺相如と廉頗将軍が健在であるうちは秦は趙を攻略出来なかったという。
- 73 :
- >>50
しかし「天下に英傑は君と余のみ」ってのは、考えれば考える程凄い言葉だな
恐らく「俺はライバルを全員蹴落とし、残るはお前だけだ。そのうちお前も倒してやる」という挑戦の意味を含んでいただろう
そしてまた、当時は客分に過ぎなかった劉備がその後三国の一角を建国して実際に自分を脅やかすわけだから、曹操の人を観る眼の確かさは見事としか言いようが無い
- 74 :
- そこまでわかっていて見逃す曹操の詰めの甘さは尋常じゃない
- 75 :
- >>74同感、他の時代の英雄(統一した皇帝)なら多分見逃さずに、どこかで仕留めていたのかと
- 76 :
- >>73
その手の発言は、外れたものは史書に書く必要がなく
当たったものだけが書かれるからすごいように見えるが
方々で似たようなこと、言ってたんちゃう?
>>74
窮鳥をを殺せば、降る者も頼ってくる者もいなくなるがな
袁紹との戦いが控えているのに罪なく「危険かも」だけで殺せないって
一応、左将軍の地位で懐柔もしてる
まぁ、恩知らずにかけては呂布に匹敵する劉備には何の意味もなかったけどなw
- 77 :
- >>75
曹操の人材収集癖はダテじゃないからな
旬イクや郭嘉、関羽以上に高く評価している劉備を部下にしたいと思うのも自然かもしれん
とは言え、その甘さが曹操が天下を統一出来なかった最大の原因だろうな
- 78 :
- >>76
君は一体何の根拠があって言っているんだ?
曹操は常に劉備を同じ車に乗せ同格の席に座り同じ食事をしたりとまるで兄弟のように扱っているのだが、これ程の厚待遇を受けた人が他にいるのか
曹操は劉備を高く評価して実際に劉備はそれに値する人物だった、それで良いじゃないか
何故不当に英雄を貶めようとするんだ?
- 79 :
- 実は曹操と劉備は親友
劉備は他の武将を頼って曹操との戦いを煽り、
曹操に戦いの口実を与えて、曹操の天下取り
を手伝っていた
- 80 :
- >>79
それでも天下取れなかったのか・・・
- 81 :
- ・・・単純に、曹操がいたからだろ。
- 82 :
- 単純に最初期に色々短気だったのも問題だと思う。
それに起因することでもあるが、挙兵から頭角表すまでの期間が、先祖の劉邦やら同期の曹操やらに比べて遅い。
曹操でも歴代では遅いくらいなのに。
- 83 :
- >>73
> しかし「天下に英傑は君と余のみ」ってのは、考えれば考える程凄い言葉だな
> 恐らく「俺はライバルを全員蹴落とし、残るはお前だけだ。そのうちお前も倒してやる」という挑戦の意味を含んでいただろう
この言葉は、袁紹との決戦前で、まだ、ライバルを全員蹴落としてない。
カクすら降っておらず、四方敵だらけの状態。
そして、この言葉のあとに「袁紹なんてたいしたことない」と続く。
味方してくれる者を持ち上げ、敵対する者を虚仮おろしている発言。
この流れで「お前も倒してやる」という意味が含まれているようには見えないな。
また、未来を予見しての発言とも思えない。
この後の展開を知るものからすると未来を予見した発言ととりたくなる気持ちは
わからんでもないがね。
- 84 :
- >>67
黄権は、魏に降っていながら蜀志に立伝された人物。(蜀志十三 黄李呂馬王張伝)
さらに漢中占領は、元々黄権が立てた計略にそったものであったとされる。
また、曹丕から「君は逆(蜀)を捨てて順(魏)にならった。陳平・韓信に倣おうとしたのか?」と
黄権自身を陳平・韓信に準えて、魏に降った理由を問われている。
そして、直接、魏との戦火を交えての降将でないこともあるだろうが、
魏でこれといった功績をあげていないのにもかかわらず、曹丕、曹叡から厚遇を受けている。
劉備が使い方を間違えず、使いこなせていたなら、龐統・法正と共に立伝されてたかも知れない人物と考えても
荒唐無稽と言われるほどの人物ではないと考える。
- 85 :
- >>84そうなんですか、光栄の三国志シリーズではたいした事なかったので、少しは出来る雑魚かと思っていました
- 86 :
- >>50
英雄は君と俺だけだ!共に天下統一の為にがんばろう!
って感じじゃないよな〜
曹操と劉備が共闘したらそれはそれで面白そうな妄想ができそうだが
- 87 :
- >>86多分裏切らないかのカマをかけていったのかと思う
- 88 :
- 関羽が荊州の太守になった時、韓信の霊が乗り移ったままであるのなら劉備は天下を取れたかもしれない
- 89 :
- >>86
そうか?
言い方しだいだと思うが、「2人が手を組めば天下も平定できる」と
取れないこともない発言じゃないか?
「英雄は君と俺だけだ!」だけが取り座されているが、
その後に「袁家のボンボンなんてたいしたことない」が続くのを忘れずに
ここの間に”2人が組めば”って考えも込められていたとも取れるんじゃないか?
- 90 :
- 物語的には格好の挑発だけど、史実の状況考えたら共闘宣言のような感じだよな
- 91 :
- ライバルどうしが組んだら無敵だぜ
- 92 :
- シャアとアムロが組んだら無敵だ
- 93 :
- いま曹操と手を組めば、第二、第三の曹操が現れる。
すると何のために曹操と力を合わせたのかわからなくなる。
- 94 :
- >>89
ただ曹操は「○○なのは俺と××だけ!」って言い回しが好きだから、単なる口癖かもしれない
- 95 :
- そもそもそんな評価をくだす事自体がおかしいと思うけど
ただのジョークか皇叔のご機嫌取りじゃね
- 96 :
- そして真に受ける馬鹿劉備
曹操に軽く試されたな〜
- 97 :
- 才能でも勝ってるとは言えないのに親が大金持ちの曹操と
せいぜい富農出身の劉備じゃスタート地点まで違うんだからどうしようもない
劉備が袁家くらいの名門出身だったら勝つ可能性が出てくる
- 98 :
- 劉備みたいな無秩序な生き方は袁家みたいな保守的な出自の価値観じゃ出来そうにないがな
領地や国を持っていたとしても、それを運営できたかという問題もあるし
劉備って人はとにかく戦い続けて一生を送った人で、政治的な功績なんてほとんどねーから
- 99 :
- >>97
劉備が徐州を譲り受けた頃ならば、領土や軍勢面では曹操との差はそれほどない。
現に陶謙は、曹操の進撃を2度ほど追い返している。
人材面でも関張がいて、陳珪・陳登親子や陳羣もいた。
遜色がないとまでは言わないが、言うほど見劣りする陣容でもないはず。
これ以降の差は、結局のところ呂布の襲撃を防いだ曹操軍と防げなかった劉備軍の差でしかない。
即ち、本拠の守りの人選ミス。
この点から出自での差は、言い訳にできないと思う。
- 100 :
- 漢中を魏延に任せたのも、この時の経験があったからなのかな
- 101 :
- 青州兵や烏桓突騎のような優れた歩兵や騎兵がいなかったから、
としか言えん
広大な大地を制覇するためには、特に騎兵は欠かせないのよね
- 102 :
- 本人は騎兵の扱い得意なのにな
- 103 :
- 東州兵じゃ駄目だったか
- 104 :
- >>101
青洲兵を強兵として取り上げる人は多いが実際に活躍した記述はとくにない。
逆に足をひっぱっていて、略奪してウキンに攻められるとウキンが裏切ったと虚偽の報を訴える始末。
徐州の虐殺も、青洲兵の暴走じゃないか?って勘ぐれる存在。
もともと賊で対呂布戦の頃は、(その後にやった行いを見ると)まだ烏合の衆から脱却できていなかったと思われる。
もちろん対呂布戦の頃に烏桓突騎なんて兵は、曹操ももっていなかった。
兵の質のせいで負けたなんて、言い訳にもなりゃせんて
- 105 :
- 汝南でもう少し時間を稼いで
徐庶あたり引っ張って孫権と手を組む
それで荊州へ共同で侵攻・占領して
袁家と三方から挟み撃ち
ここまでやっても曹操倒せたかわかんないのに
汝南さっさと落とされた時点で終わったんじゃね?
- 106 :
- 汝南で戦ってた頃じゃ、いくらがんばっても遅くないか?
どのくらい時間を稼ぐつもりかわからないが、いくら時間を稼いだ所で袁紹が官渡で挽回できるとは思えない。
事実、曹仁に敗れた後、再度進行したとき、進行している最中に袁紹は敗退している。
徐庶を引っ張るって、官渡の頃の話だろ?
正確な年齢はわからないが諸葛亮と同じぐらいとすれば、その頃はまだ10代後半から20代前半あたりの若造。
司馬徽の元で学んでいる最中と思われる。軍師にするには早すぎる。
さらに孫呉は、孫策が不慮の死に見舞われたばかりで対外的にどうこうできる時期ではない。
しかも、背後に曹操が控える状況では、孫呉と結んでも、軽々しく動けない。
そして、その頃の劉表配下には、黄祖が健在。孫呉と共同したとしても荊州を盗れるとは到底思えない。
劉表は低く見られる傾向にあるが、曹操すら劉表の生前は手出しを控えた相手。
袁紹の相手に忙しかったこともあるだろうが、簡単に倒せる相手であれば、官渡以後袁紹を叩く前に何らかのアクションを起こしているだろう。
軽々しく占領できると思わないほうが良い。
- 107 :
- そういや、満洲の「洲」を州の字の代わりに使う人をたまに見るけど、あれ厳密には州と違う字だからね?
清が水徳の王朝だから故郷の水徳を強調するために作った比較的新しい字だから。
ちゅうか、代用した単語でIMEとかに登録しないでマジ迷惑。
- 108 :
- 大阪を大坂って書かないでよね、と戦国時代スレで主張するより滑稽だな
- 109 :
- >>99
そんなに差はないってw
そんなこと言ってる論文あったら見せてみろよw
- 110 :
- >>108
いや、逆でしょ。
戦国時代スレで大坂を大阪と書くなというのが主題だし。
「洲」の字は本来「州」の異体字ではない。
満州以前の話題に洲の字が行政区画の意味で用いられるのは確かにおかしい。
洲の字は漢語林などを参照しても行政区画としては使えない文字。
- 111 :
- 文章はよく読めるが、論文は書けない 論はどうでもよいだろう。
ところで、
劉備が天下を取れなかったのは、個人の資質もあるが、なにより、
驢馬のうちの ウマ一族を抱きこんだからだろう。 良将がいっぱい
死んでいる。
- 112 :
- 転換期は幾つかあると思うが、どれだけチャンスがあったんだろうな。
・徐州牧就任
・赤壁戦〜荊州平定
・入蜀
・漢中戦
・関羽北上
- 113 :
- 徐州牧のままだったら滅んでた
赤壁戦〜荊州平定 +入蜀での戦力を維持していればな
あの呉も晋相手にかなり国を長持ちさせたんだし
- 114 :
- やっぱ成都に本拠地構えるまで時間かかりすぎた
曹操や孫権はとっくに地盤固めてるのに
- 115 :
- 呉に荊州奪われたのは大きかったな
逆に呉はそれゆえに暴君孫皓の時代も結構命脈を長らえることができた
- 116 :
- 三国志のゲームで全CPUにすると前期のシナリオほど劉備が勝つ可能性が高く後期にいくほど勝てなくなるな
赤壁シナリオが一番悲惨だが
- 117 :
- 孔明が徐庶を引き止めず
ホウ統を戦死させ
呉とうまくやっていけない関羽に荊州をまかせて殺して
張飛を殺して
魏延を殺したから
- 118 :
- 張飛は違うと思うがw
孔明が居なけりゃ劉備はグランドデザインを描けず、
そのまま傭兵団として生涯を終えただろうな。
孫権の下につくか劉ショウの下につくかぐらいしか選択肢がないんじゃないか?
- 119 :
- 曹操の元にて徳川家康、豊臣秀吉みたいにしていれば可能性はあったかも、司馬一族の反乱が前提になりますが
- 120 :
- 呉と手を結んだときにそのまま巍打倒の新勢力旗揚げをすれば可能性はあった
劉備が優柔不断すぎた
関羽が殺されたときも怒りに任せて呉に進行ではなく孔明に意見を聞いていればまだよかった
- 121 :
- >>117
ネタにマジスレするのもなんだが…
> 孔明が徐庶を引き止めず
儒教社会で士大夫が親を見捨てるなんて、普通はできないし、しない。
よって引き止めようがない。
> ホウ統を戦死させ
”劉備が”ならその通り。
当時、荊州にいた孔明に責任をかぶせるのは無理。
> 呉とうまくやっていけない関羽に荊州をまかせて殺して
ほかに適任者がいない。
ぶっちゃけ間羽の独断専行による自滅。
> 張飛を殺して
これは張飛の自業自得。
> 魏延を殺したから
演義に毒されすぎw
魏延を陥れたのは楊儀。その尻馬に乗ったのが董允と蒋琬。
こんなことグダグダ反論する以前に、曹操が河北を制した以降で
劉備が天下を統一できる可能性がそもそもないに等しい。
- 122 :
- 慎まなかったから
- 123 :
- この人、間違いなく劉邦より能力は上だよね。
けど、将の将の器、人の意見を聞く術は劣る。
- 124 :
- >>120
> 呉と手を結んだときにそのまま巍打倒の新勢力旗揚げをすれば可能性はあった
そのまま呉の客将として飼い殺しされそうだなぁ
- 125 :
- 三国時代は豪傑輩出は著しい時代だったが、戦況を覆すような
大戦略家不在の時代だったからな。
- 126 :
- 曹操と孔明はその資質はあったと思う。
曹操は出世のツテであったはずの宦官勢力が全滅し、事実上
袁紹の傘下で一族郎党中心のしょぼい勢力から始めて、幾度もの
危機を驚異的な軍事能力で切り抜けて華北を統一した。
孔明はそのままだったら流しの傭兵隊長で終わっていたはずの
劉備をして、三国の一角にのし上げた。
あと、明確な天下統一へのグランドデザインが描けていたといえば
袁紹をおいて他に居ない。劉虞さえ帝位を受けていればあっさりと
漢を復興させて宰相にでも王にでもなっていただろう。
- 127 :
- ツテでも法に則り鞭を打つって左遷された曹操パネェですね分かります
- 128 :
- 曹豹「俺を甘くみたツケだぜ」
- 129 :
- ___
_,, -ー ,, / ⌒ ⌒ 丶 あれれ、日本・中国で曹操の人気は高いんじゃなかったんだっけ?
/ " `..,:. <●> <●> 丶 日中両国で魏にまったく人気がないのが発覚してもいまだに曹操患者やってて楽しい?
:/ 曹操患者 :::::i:. | (__人__) | いつも一人寂しく劉備へのネガキャンはってるの?
:i :::::!,, ハッ \ |∪| 、____
ヽ.....::::::::: :::::i ハッ / ヽノ ___/
r " .r ノ~. ハッ 〉 /\ 丶 孔明を口汚く罵るしか楽しみ無いの?
:|::| ::::| :::i. ゜。  ̄ \/⌒_) ねぇどうなの?どうなの?
:|::| ::::| :::|: } ヘ /
:`.| ::::| :::|_: J´ (( トントン
____
/ / \\
. / (;;..゜);lll(;;..゜)\ このガキャあああああああ
/ ⌒(__人__)⌒ \ ナメてんのかああああfさdkjh;flsだhf
| ノ( |r┬- | u | ________
\ ⌒ |r l | / .| | |
ノ u `ー' \ | | | 情弱の蜀ファンごときが調子こいてじゃねええええ!
/´ .| | Sotec | そのうち蜀に投票したことを後悔する日が来るぞ!
| l プルプル u | | |
ヽ u -一ー_~、⌒)^),-、 | |________|
ヽ ____,ノγ⌒ヽ)ニニ-___| | |____
- 130 :
- >>129
こんな曹操患者まずいないと思うが…
何必死になってんだ?
- 131 :
- 弄るほどのコピペでもないだろ。
むしろこのコピペを貼ったこと自体が醜態になってるんだから。
- 132 :
- >>128
それが正解かも
徐州の兵を掌握しきれずに呂布の台頭を招き、徐州を失う。
そのため、曹操と比べて大幅に出足が遅れ、最後の最後までその遅れは取り戻せなかった。
- 133 :
- 徐州の猫糞に失敗した時点でアウトと言う事か。
- 134 :
- そもそも挙兵しなきゃよかったんじゃね?
- 135 :
- >>108
スレチだが、それ言う奴ムカつくよな
俺なんて昔「1583年に豊臣秀吉が作った城は?」って問題で大坂城って書いたら社会の先生に×にされたし
良くある漢字間違いをしたと思ったのかもしれんが、明治以前の出来事だから大坂が正しいんだっつーの
- 136 :
- 学校の先生なんてほとんどがそういうクズなのに
一方で世間は学歴至上主義なんだから矛盾してるわ
だから日本は世界統一できないんだよ
- 137 :
- 統一されても困るわいw
- 138 :
- >>134
挙兵って、曹操と袂をわかれて徐州で反乱を起こしたときのことか?
それ以前なら、挙兵しなけりゃ天下もなにもないから意味不明
このことだとしたら、一概に挙兵しなかったほうが良いともいえない。
曹操の軍師たちは劉備を危険視し、曹操に諌言している。
曹操自身、軍師たちの言に従って、反逆前に劉備を追跡する兵を派遣している。
董承の成功の見込みが薄い謀に巻き込まれている。
ことを起こさなかったら董承の罪に連座で処刑なんてことになっていた可能性が高いと考えられる。
- 139 :
- 武田家が滅びることになった戦いは?に天目山の戦いと書いたら
正解は長篠の戦でした残念ということがあったな
学校教育のレベルの低さ、
俺はたまたま日本史に詳しかったが他の教科に詳しい奴も似たような思いしたことあるんだろうなと思った
- 140 :
- そもそも劉備に統一出来るチャンスなんて一度でもあったか?
呉を併合したところで華北一帯を制圧してる魏には遠く及ばないし、
地理的にも戦力的にも長安にすら遠く届かないのにどうやって統一の足掛かりを掴むんだ?
韓信みたいな規格外の名将がいれば少しは期待も出来るかも知れんが、その人材も居ないし。
- 141 :
- >>140
無理やり考えるなら徐州を譲り受けた頃ならチャンスがなかったとはいえない
徐州〜官渡の戦いまでの間なら、立ち回り如何でもしかしたら?
がなかったともいえない
曹操が河北を制した以降では、どんな幸運に恵まれたとしても寿命的に統一は厳しい
- 142 :
- 勢力が誰であっても涼州が曹操陣営におちた時に外部からの芽は無くなったしな。
- 143 :
- 唯一にして最大のチャンスは徐州牧になったときだと思う
あの時点で地位だけなら曹操を超えてた(後ろ盾とかは比べものにならないが)
ただその後は立ち回り、運が悪すぎた
- 144 :
- 徐州なんて平野は根拠地にならん
攻守共に苦労するだけだ
- 145 :
- >>144
そうは言っても、曹操が当時治めていた兗州だって、守りやすいって言えるほどでもないぞ?
また、孫呉のように水軍に長じ、陸軍にやや劣る軍団で、周囲に曹操軍のような陸軍に長じた勢力があるなら守り難いであろうが
北部出身で騎馬の指揮にも通じた劉備が騎馬の活かせる平野がダメだと、どこへ行ってもダメってことにならんか?
守り難いってデメリットばかりあげるが、裏を返せば攻めに転じ易いにも通じる。
元は楚の北部に当たる地。天下を狙うのにそれほどハンデを抱えた土地とも思えん。
さらに守り難いといっても、劉備統治以前に曹操の侵攻を2度も防いだ実績もあったってことも一応あげとく。
- 146 :
- 徐州失った事で陳羣や田豫に逃げられたのも痛いな
- 147 :
- 田豫と別れたのは、徐州を失う前
- 148 :
- 田豫は親絡みだっけか。
- 149 :
- よく田豫を逃げたとか愛想尽かせたとか言う人がいるが、
それにしては時期が中途半端なんで本当に親の看病と自分の豪族共同体への義務で抜けたんだろう。
愛想を尽かせたなら本文はともかく『魏書』や『魏略』に書かれないはずは無いと思うし。
裴松之ならその逸話を否定するにせよ、一回わざわざ引用してからキレながら否定するだろう。
対蜀戦線に起用されなかったことを見ても、社会から見ても当人の感覚としても劉備を裏切ったというのは無かったんじゃないか。
- 150 :
- >>145
破格の英雄陳登が鍵だな
曹操とは本人も配下もレベルが違いすぎる
- 151 :
-
馬鹿かお前!
\____ _______/
\/
/ ̄ ̄\ バカ? ____
/ \ / \_ : ハァハァ...
|:::::: | : / / # ;,; ヽ
. |::::::::::: | /⌒ ;;# ,;.;::⌒ : :::\
|::::一般市民 | / -==、 ' ( ●) .:::::| 「劉備と関羽と諸葛孔明を徹底的に叩いてきたぞ!曹操の名誉を取り戻すんだ!」
. |:::::::::::::: } | ::::::⌒(__人__)⌒ :::::. ::::|
. ヽ:::::::::::::: } ! #;;:.. l/ニニ| ::::::/ :
ヽ:::::::::: ノ ヽ.;;;//;;.;`ー‐'ォ .;;#:::/ ハァハァ....
/:::::::::::: く >;;;;::.. ..;,.;-\
-―――――|:::::::::::::::: \-― / 曹操患者 \ ――
- 152 :
- 蜀を取った時点で、蜀は漢の一部ではなく別の国であると宣言すればよかった。
そうすれば蜀という国家の天下は統一したことになる。
- 153 :
- >>150
曹豹を懐柔し、重く用いて徐州兵を支配下に置き
呂布を向かいいれず、陳羣の諌めを聞き、地盤の強化に努めていれば
官渡の戦いの頃では、第三の勢力としてキーパーソンになりえる存在になれただろう
将軍に万人の敵たる関張
軍師に孫呉の侵攻を防いだ陳登
宰相に法制度の整備に長じた陳羣
と、量は足りないが質は抜群
勢力を保っていれば、政戦両略に通じる田豫も帰って来たかも知れない
孫策亡き後の孫呉と結んで、袁曹の抗争を尻目に河南・江北に勢力圏を広げれば
中原に袁曹劉のプチ三国志が築けていたかも
とは、夢想が過ぎるか…
- 154 :
- 孫呉はどこに消えた?
- 155 :
- 孫呉の劉備皇帝擁立策にのって、
内乱でのっとるしか
- 156 :
- あの状況で擬似的に三国鼎立状態になった場合、
劉備は王号名乗るんかいな? 越王?
- 157 :
- >>156
あの状況というのが徐州に割拠することをさしているとすると、
都としての適正を鑑みれば彭城に都して楚王を名乗るのが現実的かな。
- 158 :
- >>157
d 下ヒ(字化けるなぁ)が本拠地だと越王かなぁと思って。
- 159 :
- 越は本来会稽辺りのことを指す。
越が春秋・戦国時代に征服して北まで来てるのは事実だけど、
結局は当時として一番新しい楚の覇王が都したあたりの勢力図がそのまま地名として残ってる感じ。
んで、越は元の鞘に収まった形で、会稽近隣地域に戻ってると見た方が正確かと。
- 160 :
- 劉備は小沢
総理・天下統一より政局・戦局動かして
存在感アピールする方が好き
- 161 :
- 小沢的な人物は韓遂だろ。
劉備を現代の人物で例えるなら…野球の長嶋監督とかその辺りじゃね?
- 162 :
- あの腹黒劉備がド天然長嶋???
(ヾノ・∀・`)ナイナイ
- 163 :
- >>157
高祖の風ありと言われる劉備が項羽の王号名乗ると皮肉だな
名乗った時点で、何割かの信奉者も失いそうだが
- 164 :
- あれだけ主君変えまくってるのに
行く先々で軍事担当としてそこそこ重用される劉備の不思議
世渡りの上手な呂布みたいなもんか
- 165 :
- >>163
楚王は劉邦の元々の主君の王号じゃないか
ある意味由緒ある号だ
それに漢でも楚王がいたし、別に問題ないよ
- 166 :
- >>162
長嶋は表向きのキャラとは全く違ってデジタルで腹黒だぞ。
こと対人に関しては世間の評判と長嶋と野村がほぼ逆という。
- 167 :
- 長嶋は暴力関連でもなんか色々聞くよね。
暴力団じゃなくて、チームメイトや部下に対する暴力。
それが本当かどうかは知らんけど。
- 168 :
- 劉備のスペックじゃエン紹・曹操を倒すのは無理。
エン術の勢力を併呑できればまだ可能性はあったかな。
曹操を出し抜いてエン術を倒すなんてできるかどうか怪しいが。
- 169 :
- >>166-167
例えってのは、相手に伝えるためのものであり
わかり難く、伝わらない例えはいらん
>>168
歴史的にできなかったことだけに、スペック云々言い出したら始まらん。
ほかに劉備が天下を取れそうな状況があるならまだしも
ほとんどないなか、それでも天下をとるチャンスがありそうな話しをしているだけだろ?
- 170 :
- はなしし
- 171 :
- >>169
あれで伝わらないって国語からやり直した方がいいんじゃね?
- 172 :
- 長嶋が劉備だとすると、大沢親分は公孫讃になるのかな?
廬植先生のところは立教か
- 173 :
- >>172
あっぱれの片割れが在日じゃなかったか?
なので公孫はあっぱれの片割れだろ
- 174 :
-
曹操が強すぎただけ。
- 175 :
- 劉備も「天はなぜ劉備を生んだだけでなく、曹操も生まれさせたのか!」とか何度も心の中で叫んだだろうな
- 176 :
- 曹操がいてくれないと劉備なんか活躍できないだろ
アンチ曹操ってだけで成り上がったのに
- 177 :
- >>176
そうそう
- 178 :
- 曹操がいなければ華北は炎症の天下だろ?
劉備が炎症の大軍を相手にできるとは思えないから戦ったら殺される。
仕えても炎症は曹操以上にマメに粛正するから劉備みたいに不相応な野心を持つ奴は殺される。
- 179 :
- >>178
当時の劉備なら負けると踏んだら戦わずに逃げる
仕えるに至る状況が思い浮かばないが、仮に仕えたとしても
粛清されそうになる前に逃げ出す
この逃げ出すって才能は三国一
- 180 :
- 逃げてばかりなのに名声と部下が集まってくる劉備は異常
- 181 :
- 大義名分からは逃げてないからな
- 182 :
- 曹操の伸張で当時の人間が持つ違和感の隙間を埋めたのが
劉備の政治的な立場みたいな感じかね?
- 183 :
- >>181
そのツケは後世返すことになったんだけどな
国力すり減らしても北伐し続けないと統率ができない体質に
- 184 :
- >>181
漢王朝と決別して独立しておいて、漢王朝復興を大義名分とするなんて
正当性の欠片もない大義名分だけどな
>>183
諸葛亮政権下ではそうだったかも知れないが
諸葛亮没後は、北伐し続けなくとも統率は取れてたよ
蒋琬の政権下では、北伐の企画は完成していたが実施されずに終り
費禕の政権下では、北伐に消極的で制限をかけていた。
北伐に囚われて国力をすり減らしたのは、大義名分にではなく姜維がだろ
- 185 :
- 理想の漢王朝の復興でを目指しているのであって、
現実の漢王朝は堕落してると否定しているわけだ
劉備の行動にはそういうメタメッセージが含まれている
そしてそれ(正当性というより妥当性)はそれなりの人の支持を集めた
- 186 :
- >>185
冷静に考えればブレまくりなんだけどな、その主張
左将軍の位を貰っておきながら貰った相手を否定して後継自称って、やってる事は袁術と大差ないぞ
まあ、民主が政権取る日本の状況を鑑みれば、劉備が上手く演出して支持を得たってことなんだろうけど
曹操は曹操で反発食らってるわけだからな
というより、そんなイデオロギーの問題は二の次だったような気もするが
みんな劉備の事を「軍隊持ってる有力者」として見ていたんであって、王政復古云々は理由付けくさい
- 187 :
- 劉備と袁術は大差ないよ
前者がタイミングとか巧かっただけで
- 188 :
- >>185
> 理想の漢王朝の復興でを目指しているのであって、
> 現実の漢王朝は堕落してると否定しているわけだ
ここまでくると改革を越えて革命レベルの主張になるな
しかも、曹操の改革により、漢王朝末期の堕落は一掃されている。
その主張では、曹操政権を否定できる理由にならないな。
> 劉備の行動にはそういうメタメッセージが含まれている
判官贔屓の極み
負けては放浪人生の劉備の行動を普通に考えれば
そんなメタなメッセージを仕込む余裕なんかないだろう
> そしてそれ(正当性というより妥当性)はそれなりの人の支持を集めた
支持を集めていれば良いとの主張は、
曹丕の簒奪も否定できなくなるが良いのか?
>>186の言う通り、ブレまくりの主張だなw
>>187
袁術の場合、タイミングも悪いがそれ以上に皇帝僭称後の行いが悪すぎ
- 189 :
- >>188
待て、別に一掃しちゃいないぞ曹操は。
むしろ皇帝と対立した士大夫閥に迎合し、皇帝側近と対立しただけだ。
堕落した機構自体は残ってしまっている。
正確には曹丕が禅譲を受けたことによって一掃された。
- 190 :
- >>188
判官贔屓が当時あったかは知らんが、そういう心情で票集めたんだろ
負け方・放浪の仕方が上手かったと言える
劉備はゲリラから始めた革命家、で悪くないと思うけど
>支持を集めていれば良いとの主張は、
>曹丕の簒奪も否定できなくなるが良いのか?
よくわからない反論だ
世の中、曹丕派もいれば劉備派もいるってことじゃないか?
- 191 :
- 逃げるたびに劉備は平気で家族捨ててるな
何でこいつ家族を持とうとしたのかがわからん。どうせ見捨てるくせに
- 192 :
- 劉備も見捨てたくて見捨てたわけじゃないと思うの
- 193 :
- せめて劉備に韓信みたいな人材がいれば、もしくは関羽が韓信みたいな性質だったら何とかなったかもしれない
- 194 :
- 曹操にだって韓信に準えられるような家臣がいたわけじゃないんだから
劉備に韓信のような人材がいなかったから天下統一できなかったなんて
言い訳にもならんわ
- 195 :
- >>194曹操に韓信に準えられるような家臣は徐晃かと思う理由は負け戦がないからです。
- 196 :
- >>194
論点がずれてるというか、スレの趣旨をまるっきり勘違いしてないか君。
- 197 :
- ・本拠地を得るのが遅かった
・優秀な部下を集めて働かせる時間が足りなかった
これだけ
準備万端で望んだ漢中戦に関しては完全に曹操に競り勝ってるしな
- 198 :
- 漢中戦時は、法正や黄権みたいな人材も充実してたからね
魏軍としては、主力の騎馬や大軍の機動力を活かせなかった部分もあった
優秀な人材は、劉備の生涯通して見ると多々いると思う
本拠地が問題となると、徐州と益州の各々を得た時期を比較して、どちらが
天下統一のラストチャンスだったのかを検証する事になるのかなぁ・・・・
- 199 :
- 劉備は、劉邦と異なり、人の意見をあまり聞かない。
自分の考えと賢臣の助言とが不一致のとき、自分の考えを優先する。
それどころか、自分の意に従わない者を処罰すらしている。
そして、多くのターニングポイントで自分の考えを優先させて失敗したり、
窮地に追い込まれたりしている。
助言に従えば成功したとは限らないが、この点は主君として欠点ともいえる。
家臣の質・量では、漢の高祖・劉邦より劣るといわざるおえないが
それ以上に主君としての能力が劉邦より劣っているように思う
劉邦にできて劉備にできなかった天下統一は、そのあたりにも原因がある
ように思えてならない。
- 200 :
- 味方に韓信級がいてもいなくても
敵に司馬懿や陸遜がいる時点でもう_
あと、関羽荊州の独立性は韓信斉と比較される時がある
- 201 :
- >>198
劉虞の元で(ry
- 202 :
- >>199
粛清だったら劉備は三国1マシな君主じゃね?
- 203 :
- 意に沿わぬ諌言を繰り返す家臣を処刑するのと粛清は別物じゃないか?
- 204 :
- その線引きは難しいところだ
「劉備はマシ」には同意だが
- 205 :
- 粛清
権力の場で、反対勢力や将来自分を脅かす存在になりそうな人物・勢力を排除することである。
劉備はマシといっても、在位はたったの2〜3年、益州と云う地盤を得てからでも7〜8年と
曹操や孫権と比べて圧倒的に短い。
しかも、益州での反対勢力は、蜀取りであらかた追い払っている。
これでは粛清したくとも対象がいないんで比較にならん気もするが?
- 206 :
- 度量が大きく強い意志を持ち、おおらかな心をもって礼儀正しく人に接し、
人物を良く見極めてふさわしい待遇を与えた。
それらは前漢の高祖に通じ、英雄の器を備えていたといえよう。
国のその後を諸葛亮に全て託すのに際して何らの疑念を抱かなかったことは、
君臣の公正無私な関係を現すものとして永遠に手本とすべき事例である。
好機を得るための機知や行動の根幹をなす戦略では、魏武に及ばなかったため、
勢力の基盤となる領土もその才能の差に準じて狭かった。
しかし、挫折して人に屈しても諦めることなく、最終的には誰の下にも居らず独立したのは、
彼らの器量を考えた時、自分を何時までも許容し続けてくれるような人間だとは
到底思えないがためにそうしたのである。
単純に自分の利益だけを考えての事ではなく、自分にふりかかった災難を避け、
殺されないようにするためだったと言えよう。
そもそも劉備に天下を統一する意思や意図がなかったのではなかろうか?
行動理念が、漢王朝のためでも民のためでもなく、天下をすべる野心ですらない。
殺されないようにだけにな。
- 207 :
- 野心がないなら曹操に飼われていれば安泰だった筈だし
皇帝を僭称する必要もないのでは?
- 208 :
- それなら劉曄とかみたいに曹操に仕えたり、
劉驍ニか劉徽とか劉洪とかみたいに政争ガン無視で自分の得意分野に没頭して
中央に仕え続ける選択もあったろうと思うがね。
- 209 :
- >>208は>>206へのレス。
- 210 :
- >>207
>しかし、挫折して人に屈しても諦めることなく、最終的には誰の下にも居らず独立したのは、
>彼らの器量を考えた時、自分を何時までも許容し続けてくれるような人間だとは
>到底思えないがためにそうしたのである。
飼い続けてもらえないと考えていたようですけど?
- 211 :
- >>208
つ>>210
> 単純に自分の利益だけを考えての事ではなく、自分にふりかかった災難を避け、
> 殺されないようにするためだったと言えよう。
自分に降りかかった災難って、曹操暗殺計画に巻き込まれたことかもな
そう考えると劉備が”曹操は自分を飼い続けてくれない”と考えたとしても不思議じゃない
と推測できるかな。
- 212 :
- >>178
曹操がいなかったら、袁紹側の勢力として袁術や陶謙、呂布を打ち破る役割を
誰が担えたか・・・・・・・という疑問が出て来る
袁術派と袁紹派で中原が割れていた可能性もあるんじゃないだろうか
- 213 :
- >>212
スレ違いにも感じるが、久しくレスがついたので返答してみる
袁紹軍には沮授がいる。
郭図の横槍も入るであろうが、袁術・陶謙・呂布では曹操ほどの脅威にはならない。
袁術、陶謙、呂布らには、負けるべくして負けた理由がある。
容易とはいえないが史実と同様にいずれ駆逐されるであろう。
第一に袁術
皇帝を僭称以降、民を省みず奢侈に溺れ、諌言を退ける昏主に成り下がった。
どう考えても勢力として維持できるはずがなく、自滅が目に見えている。
第二に陶謙
高齢だけに先が長くなく、さして脅威とは呼べる勢力になりようがない。
第三に呂布
一見、強豪に見えるかもしれないが、武力だけでは賊の類と変わりなく、脅威と呼べる勢力にはなれない。
何はともあれ、本拠地で民政に励み安定させ、税制を整えて後方から前線へ支援を送る人材が欠いては、勢力の発展は見込めない。
陳宮が補うべき所で会ったろうが、補うことができていなかった。彼は縦横家であり、宰相としての才に欠けるのだろう。
袁紹が恐れねばならぬは、内部分裂。
尚を立てるなら譚を排除せねば内乱は免れないが、紹は曹操ほど思い切ったこと(粛清など)ができないように思えるので
ある程度中原が収まったら、天下統一を待たず内部抗争に明け暮れかねないな。
- 214 :
- >>213
陶謙の場合、曹操がいなければ割りと袁術側の勢力として機能してた気はする
陶謙が健在なら、公孫サンとも密に協力しただろうし・・・・
それでも、曹操ほどの脅威になるかと言われれば、NOだろうけどね
スレタイの流れに戻すと、曹操じゃなく袁紹なら劉備は中原統一出来たか?に
なると思うんだが、それも無理そうだなw
やはり、頭脳となる人材で圧倒的に欠ける気がする
諸葛亮含む有能な人士を、もっと早くに掻き集めておけば良かった?
- 215 :
- >>214
曹操が居ないことで、袁紹陣営から曹操陣営に鞍替えするはずだった連中の受け皿に劉備がなれればいいんだけどね。
- 216 :
- >>215
それだけの魅力があればいいんだけどね
当時の曹操の速さで劉備が同程度の勢力になっていられるかどうか
- 217 :
- 劉備が徐州を支配して群雄になれたのも、
曹操がさんざん陶謙をいたぶったからで、
曹操がいなかったら、劉備は天下取るどころか群雄にもなれずに、
戦上手の一将軍として人生を終えてた気がするな。
- 218 :
- もし曹操がいなかったらってIFは、不確定要素が多すぎて語るに語れないな
後漢末から曹操の死まで、良くも悪くも曹操が中心となり、基点となって中原が動いたからな
>>217
劉備なら公孫サンの旗色が悪くなる前にとっとととんずらするんじゃないかな?
その辺の危機に対する嗅覚は、先祖の劉邦に匹敵すると思う
- 219 :
- >>218
その場合は袁紹に降伏して、袁紹の将軍になってただろうな。
曹操がいなければ、袁紹の天下統一は間違いないから、
袁王朝の建国の元勲になれたかもしれん。
- 220 :
- とっとととん
スゲエカワイイ
- 221 :
- 劉邦はあまりそういう遁走はしてないけどね。
正面からがっぷり四つで戦って、敗北してから後方に逃走して突貫で戦線再構築して戦闘開始ってのはあるけど。
劉邦は曹操ほど多芸ではないけど、むしろ曹操の方が劉邦に近い。
劉邦は詩人でもあるしね。
- 222 :
- 小覇王・孫策
小曹操・劉備
何故天は同じ時代にこの男ぐわあああああああぁぁぁぁ哀しいね
- 223 :
- >>219
袁紹に降伏って、言い訳のしようがない完膚なきまでの裏切り行為ですよ?
まぁ史実でも裏切ったみたいなもんだから対して変わらないかもしれないけどねw
- 224 :
- >>223
大して忠誠心が厚くない公孫サンの将軍が、
旗色悪くなったらさっさと袁紹に降伏するのが一番普通の選択じゃない。
とんずらって、袁術か劉表か劉璋か孫策のとこにでもはるばる逃げるの?
- 225 :
- リョモウが裏切った事かな。カンウがいけないんだけどね。
- 226 :
- たとえあそこで荊州維持出来てても、やはり天下統一までの道程は果てしないぞ
陸遜など関羽よりずっと上の臣下擁する呉だって滅んだ
だから、ここの皆はあれよりもっと以前から考えてるんだ
- 227 :
- うまくいけば、短期間で、
黄河以南を支配できたかもしれないよ。
曹操が遷都を考えてたし。
- 228 :
- >>227
上段については、具体的にどうやって?
(ここはそういうことについて意見を出し合うスレです)
あと、上段と下段がどう繋がってるわけ?
- 229 :
- ジョウヨウ攻略成功。
呉はジョシュウ進駐。
漢中から長安攻略。
キョショウ攻略。
エンシュウ、攻略
呉、青洲攻略。
- 230 :
- だから、どう実行するのか「具体的に」頼むわ
- 231 :
- 本当は、たらればが、好きでないのですが・・・
具体的には、勉強不足で巧く表現できません。すみません。
三国志のゲームなら、こういう事ができそうです・・・
あと、シバイが曹操に助言して呉を動かしているのも、
この戦いでのネックですね・・・
- 232 :
- >>231
ゲームじゃないから。あと、呉は揚州と交州だけじゃ、
三国中最弱だから、荊州取って長江中流域押さえないと、
国力的にも防衛上でも魏や蜀と対抗できない。
だから、どんな状況になっても呉は必ず荊州を取りに行ってた。
- 233 :
- >>232
実際は孫権は荊州とるか徐州とるか迷ってたけどな
どんな状況になっても必ず、なんてものはない
そんなものは後世からみた結果論の産物
蜀が魏を攻めればその間、呉に対する脅威は特に無い
魏も関羽の動きで遷都を考えてるくらいに、蜀の動きに動揺し、その対応に集中してるので、
その間に手薄な徐州を取るって言う選択もないわけじゃなかった
- 234 :
- 長江を防衛ラインにするって戦略と、肥沃な要害の地を手っ取り早く手に入れるって点じゃ、
荊州取った方が正解だけどな。揚州本拠の呉が徐州を維持するのは難しいし、
荊州ほど旨みのある土地でも無い。防衛に長江を使えない。
- 235 :
- 徐州は何気に旨みのある土地だぞ
当時における肥沃な地帯にして、道が開けていて四方の交通に便利、
海にも面しており海産物も手に入る
中国史を通じて商人の往来が盛んで、何気に人と物が集まる土地ではある
まあその分、敵を陸戦主体で相手することになるけどな
- 236 :
- 劉備軍が荊州、益州を保持でき、司隷への魏に致命的打撃を与えるまで同盟を維持する場合においてはその限りではない。
長江北岸の橋頭堡の数が多いことは対魏戦線において有利に働くし、当時の大都市圏の一つであり、
ともすれば司隷を人口や経済力で上回ることも頻繁であった青州を手中に収めることのたやすい状況下にあれば、
呉側としても天下二分後の挽回が難しくない。
天下を狙うのであれば少なくとも天秤にかけるに値する土地。
- 237 :
- まぁ、解ると思うけど
>>236は>>234へのレスね。
- 238 :
- >>223
劉備が公孫瓚から離れた徐州救援のころは
公孫瓚が劉虞をコロコロして人望失ったときなので
とんずらする理由は十分あると思う
劉姓的に考えて
>>219
ついでに、袁王朝が建国された場合は、元勲になるよりは
献帝庇護に担ぎ上げられて路頭に迷う方が劉備らしい
- 239 :
- >>238
もともと異民族対策で対立していたが、侵攻を画策したのは明らかに劉虞が先。
むごい刑死を執行したことについては非難を言われても仕方ないが
劉虞を討つこと自体は予防戦争で非難を受ける云われは少ない。
そんで、手元に劉備がいたら劉虞討伐の先鋒役に任じられた可能性は高いように思う。
そうなったら劉虞の件で裏切るわけにも行かなくなりそうな気もしかねない。
もともとIFな話しだから曖昧な表現で申し訳ないが…
でも考えてみると、劉備ってば劉虞の件以前にさりとて理由もなく
恩のある公孫サンを見限って、徐州にとんずらかましてるんだよな
公孫サンがやばいことになるのを感知したのかね?
そう考えると恐るべき嗅覚だわ
- 240 :
- >>239
> >>238
> もともと異民族対策で対立していたが、侵攻を画策したのは明らかに劉虞が先。
> むごい刑死を執行したことについては非難を言われても仕方ないが
> 劉虞を討つこと自体は予防戦争で非難を受ける云われは少ない。
>
> そんで、手元に劉備がいたら劉虞討伐の先鋒役に任じられた可能性は高いように思う。
> そうなったら劉虞の件で裏切るわけにも行かなくなりそうな気もしかねない。
> もともとIFな話しだから曖昧な表現で申し訳ないが…
>
> でも考えてみると、劉備ってば劉虞の件以前にさりとて理由もなく
> 恩のある公孫サンを見限って、徐州にとんずらかましてるんだよな
> 公孫サンがやばいことになるのを感知したのかね?
> そう考えると恐るべき嗅覚だわ
- 241 :
- ごめん、携帯の操作ミス。
アンカーだけ残そうとしたら手が滑って送信してしまった。
>>239
徐州に来た段階ではまだ公孫氏派じゃなかったっけ?
田楷伴ってるんだし。
- 242 :
- >>239
劉備の徐州行きは曹操の徐州侵攻が起きた事が原因で
これは公孫陣営と協調関係にあるトウケンを助け、
敵対関係にある袁紹陣営と協調関係にある曹操陣営の動きを妨害する為に行われてる
だからこの行為自体は別に公孫陣営への裏切りでもなんでもなく、
むしろ公孫陣営の意向を受けた動き
まあ、いつもどおり劉備の摩訶不思議な魅力で徐州行ったらトウケンに気に入られ
多数の兵をもらったばかりか、トウケンの死語に徐州の後継者の地位までもらっちゃったから
公孫陣営に戻る理由がなくなっただけで、とんずらかましたって認識はあまりなかったんじゃないか
- 243 :
- 純粋に袁紹派と袁術派に色分けすると、曹操と劉備の動向が訳わからなくなるな。
というか、具体的に言うと袁術が劉備を攻撃した理由が訳わからん。
そこまでの構図は完全に袁術派と袁紹派で色分けできるのに。
なんか命令に従わなかったとかだろうか。
- 244 :
- >>243
袁術と陶謙はいつからかは不明だけど、敵対状態だよ。
呂範が袁術のスパイと疑われて捕えられた事件がある。
また、袁術の勢力圏の豫州に刺史を任命してる。
また、劉備が袁術に徐州を任せるべきと発言した際に陶謙配下の陳登が反対したり、
劉備が徐州継承後に袁紹に挨拶の使者を送って、袁紹が大喜びして劉備を褒めちぎっているところを見ると、
どうやら陶謙と袁術はいつの間にか敵対してて、劉備が徐州を継承した時に袁紹陣営に付いたと思われる。
- 245 :
- >>244
となると、公孫氏は帝位僭称時ではなくて陶謙救援時に既に離反してるのかな。
- 246 :
- もともと、公孫サンは独力で袁紹と戦う勢力があったので、袁術派である必要がなく
袁術との強固なつながりも見受けられない。ってか接点なくね?
>>241
陶謙と助けた事は公孫サンからの命だが、そこで勝手に官位をもらって徐州に居座ったのは裏切り行為に等しいんでね?
呂布が曹操の本拠を空き巣して回っていたことから手助けの必要もなくなったことだし、田楷と共に戻るのがスジってモン
- 247 :
- >>246
>陶謙と助けた事は公孫サンからの命だが、そこで勝手に官位をもらって徐州に居座ったのは裏切り行為に等しいんでね?
勝手に官位もらったも何も、裏切りを明白に表明しない限り官位を得たのは「公孫サン麾下の劉備」であってむしろ利益になる行動かと。
- 248 :
- 情勢がまだどうなるか分からないのに
どこが裏切り行為に等しいんだ?
- 249 :
- >>247
あのな、官位ってのは主君か朝廷からもらうもんだぞ?
部下に官位を与える権限ってのは、君主権の源泉。
部下が他の奴から官位貰ったら、それは官位をくれた奴を新たに主君と仰いだ事になる。
朝廷が与えた官位ならともかく、他の群雄が勝手に発行した官位を自分の部下が受け取っても、何の得にもならんぞ?
- 250 :
- 補足すると、劉表配下の韓嵩が朝廷への使者に行く事になった時、
韓嵩は「私が天子から官位を貰ったら、天子の臣下と言う事になるから、あなたのためにRなくなります」と言って、
断った例がある。要するに「天子から官位を貰ったら、天子の臣下って事になるから、
あなたの配下では無くなるけど、それでいいの?」ってこと。
当時の認識はこんなもん。
- 251 :
- >>249
主君からではないが、相手の死去からの相続だから公孫サン麾下からドロップアウトしたわけではないのが一つ。
また、朝廷の権威をうけたものの、非常時に基づく現地相続なので、権威が失われたわけでもないのが一つ。(劉焉らの例)
- 252 :
- >>250
それは天子という強力な中心性あっての事だと思うが。
天子以外との辟召関係での結びつきが、天子と結びつけばそっちが自動的に優先されて、
関係が完全に再編されてしまうことを危惧しているのだと思うけど。
並列ではないでしょ。
- 253 :
- >>251
劉備は陶謙から徐州牧の地位を継ぐだいぶ前に、
陶謙から豫州刺史の官位をもらってるんだよ。
そして、そのまま小沛に駐屯してんだ。
要するに公孫サンから与えられた平原国相の地位と職務を放棄して、
陶謙から官位をもらって、陶謙の豫州領を治める職務に就いたんだ。
ここまでやってたら、もう公孫サンの部下辞めて、陶謙の部下に完全に成りきってるよな?
- 254 :
- >>246
>袁術との強固なつながりも見受けられない。ってか接点なくね?
いとこの公孫越を袁術のところに送ってるよ
と言うか劉虞に対する行動が主で袁紹と敵対は成り行きでしょ
- 255 :
- >>254
でも、公孫サンが冀州で袁紹と戦ってる間は、実は劉虞が後方から食料補給してたんだよな。
公孫サンと劉虞の仲が決定的に危なくなったのは、冀州戦の大勢が袁紹の勝利に傾いて、
公孫サンが幽州に戻ってから、劉虞が食料の補給を止めて、公孫サン軍の維持が危うくなった時。
だから、劉虞との対立と、袁紹との対立は関係ない。
- 256 :
- 公孫瓚って怖くて打ったこと無いや
- 257 :
- お、行けるんだな
今までの数年って一体…
- 258 :
- >>1
蜀の成都から洛陽中原までは800`以上の移動距離。日本では奈良から大宰府くらいの
距離を長遠征するわけだからね。漢の高祖のように直ぐに行動すれば違ったかもしれな
いが引きこもってしまえば尻が重たくなる。呉は黄河流域ではなく揚子江流域を中心地
と考えているから無理はしない。
この時代は黄河中流域の北京付近から揚子江北域の南北600キロと青州府から長安までの
東西600キロの狭い地域の上洛戦争だから・・・そこから距離を置いたらダメポ。
- 259 :
-
冠羽が荊州を失った事が大きいよね。荊州からなら洛陽中原までは200キロ以内
で東京〜静岡くらいの距離だから十分に制圧できる距離と位置ですね。
- 260 :
-
劉備の蜀は奥州藤原氏が京都に攻め込む以上に難しくなったんだよ。奥州
藤原氏のような独立政権として最後は鎮圧される運命にあったと言う事。
- 261 :
- 成都から洛陽まで意外と近いんだな
- 262 :
- >>261
殆どが険しい山岳地帯の横断だから普通の3倍くらいの移動労力じゃないかな。船も
使えないし・・・魏も蜀も守るには良くてもお互いに攻めるのは大変だったんじゃないか?
曹操の赤壁の戦いでも許都から赤壁まで東京〜名古屋間くらいの距離で船が使える。
全然違う戦いかただよね。
- 263 :
-
12月28日 BSジャパン PM7:00〜PM9:00
三国志ミステリー「曹操の墓は語る 英雄の秘密」北村一輝
再放送あります。
- 264 :
- |
{ ! _,, -ェェュ、 |
ィ彡三ミヽ `ヽ ,ィハミミミミミミミミミヽ、|
彡'⌒ヾミヽ `ー /ililハilミilミliliミliliミ|
ヾ、 /iiiiイ!ヾヾミ、ミニ=ー-ミ|
_ `ー―' i!ハ:.:.\\_::::::::::::::/:.| このスレは
彡三ミミヽ i! ヽ:.:.:.:冫': : :::/,,∠|
彡' ヾ、 _ノ i!::: ̄二ー:: : ::::ソ ・ ,| 曹操患者に
`ー ' {ヘラ' ・_>シ;テツ"''''"|
,ィ彡三ニミヽ __ノ ヽヘ`" 彡' 〈 | 監視されて
彡' ` ̄ `\ ー-=ェっ |
_ __ ノ {ミ;ヽ、 ⌒ | います
,ィ彡'  ̄ ヾミミミミト-- ' |
ミ三彡' /⌒ / ̄ ̄ | : ::::::::::|
ィニニ=- ' / i `ー-(二つ
,ィ彡' { ミi (二⊃
// / l ミii ト、二)
彡' __,ノ | ミソ :..`ト-'
/ | ミ{ :.:.:..:|
ノ / ヾ\i、 :.:.:.:.:|
ィニ=-- '" / ヾヾiiヽ、 :.:.:.:.::::|
/ / `/ ̄ ̄7ハヾヾ : .:.:.|
ノ _/ / / |:. :.:.:.:.:.:.:|
- 265 :
- >>259
なら宛から上庸までも近そうだな
司馬懿が8日で移動できるわけだ
- 266 :
- 刑道栄に斬れって言ったからだよカスども
- 267 :
- 韓信がいなかったからに決まってるだろ
- 268 :
- 正月のテレビで南米アンデスだかのインカ時代の山道をチャリンコで走るみたいな動画あったが
蜀の産道も同じようなものかと思ったらあそこを何万の兵が通って攻め込むなんて恐ろしい難関かと思ったわ
- 269 :
- 崔州平曰く
分かれ争った後に統一され、統一された後にまた分かれ争う。
人の力ではこの天下の法則は覆せません…
- 270 :
- >>267そうだね,劉邦も漢中から中央に進出したし
- 271 :
- 曹操より先に荀イクを配下にしなかったから
- 272 :
- >>261
宛(南陽郡)から上庸(新城)までは200`〜250`くらいの距離。ただ司馬懿が一度
皇帝のいる洛陽〜長安(魏皇帝長安へ遠征途上)はへ出て許可を取り付けてから上庸
へ向かうと800`1カ月以上かかることになるわけですね?
- 273 :
- 普通に能力がなかったから
- 274 :
-
( ´∀` )<曹操患者さん、もう涙を拭きなよ
/ , ヽ あんたら心の中では曹操閣下の正軍師様きどりなんだろ
 ̄_|,..i'"':, ̄ ̄ ̄ ̄
|\`、: i'、
\ \`_',..-i
\.!_,..-┘
- 275 :
- 才覚は劣り、天運も恵まれたとは云えず、天下を統べる意思も欠いてては
天下を取れるわけがない
- 276 :
- こんな感じ?
【徐州時代・・劉備絶頂期】
荀氏・鍾氏と並ぶ、頴川郡名士の実力者、陳氏の陳羣からも協力を得て
曹操、袁紹と並ぶ次代の覇者候補として見られていた。
劉備が人生で唯一輝いていた時期。
【流浪時代・・使い捨ての傭兵】
覇者レースからは転がり落ちたが、使い捨ての傭兵としては利用価値あり。
呂布・曹操・袁紹など覇者を目指す群雄は
劉備を傭兵にして利用する。
中原のレースが、官渡の戦いで決着したため、中原では用済みになる。
粗大ゴミとして辺境に捨てられる。
【荊州時代・・荊州名士、魯粛の犬】
粗大ゴミとして荊州からも捨てられて、危うく長坂で焼却処分されそうになる。
魯粛に拾われ、天下三分のために利用される。
荊州名士も自分の保身のために劉備を利用。
忠犬ポチ公として、忠実に活躍し、見事蜀をゲット。
ワンワン!
【蜀時代・・身の程を知る】
漢中をゲット。益州・荊州以来の新参者におだてられ
調子にのって漢中王を名乗り、飼い主の呉にも噛みつく。
しつけのために呉が劉備をフルボッコ。
荊州を奪われ関羽、張飛を失い
夷陵でも直接タコ殴り。旗揚げ以来の家臣を皆殺しされ
誰が劉備の飼い主かを理解させる。
そして劉備は、関羽、張飛など旗揚げ以来
自分を信じてきた人々を裏切ってしまったこと
人生で何も成し遂げられなかったことを思い知りながら
失意のうちに亡くなったのであった。
最後はやけっぱちで孔明に
「おめーが矢面に立って皇帝やりゃいいじゃねえかよ(泣」
と神輿に担がれて全てを失った恨みつらみを述べてます。
- 277 :
- >>276
「判官贔屓」なる語の意味がよくわかったw
- 278 :
- http://www17.big.jp/~kamokiti/sangoku/index.cgi
ゲーム人数が少ないので宜しくです(TT)
- 279 :
- 孔明と出会うまでは国(州)を奪うようなことをしなかったではないか
孔明なくして天下統一はありえず、もっと早く孔明と出会ってたらもしかしたら。。
- 280 :
- そもそも三国時代に天下統一なんて出来た人物居なかったじゃないの。
なんで劉備だけなん?
- 281 :
- とりあえず劉備について考えたらいいやん
- 282 :
- 曹操の天下統一を阻止したのは、間違いなく劉備(孔明)。
- 283 :
- 周瑜だろ
- 284 :
- じゃあ魯粛で
- 285 :
-
曹操の奴がやる気がないんだもの・・・・
- 286 :
- 鶏肋
- 287 :
- 劉備は詰めが甘いと思う
覇者の器じゃなかった
- 288 :
- 項羽・呂布「漢が滅んで良かったわ。」
- 289 :
- 劉備が流氷死後すぐに逃亡するか曹操の軍門に下っていればその後の無益な戦争はなかった
- 290 :
- 劉備は小沢だからしょうがない
天下統一よりも平和な世界よりも、政局を混沌とさせることが大事
- 291 :
-
冠羽の事を頑固者みたいに言うが劉備や諸葛亮のほうが頑迷さでは遥かに上だな。
- 292 :
- 何故統一できなかったかと考えるほどの
チャンスが一度でもあったのか?
- 293 :
- バカ、ここで作ってやるんだよ
- 294 :
- ~~~
- 295 :
- >>290
>天下統一よりも平和な世界よりも
こんなもん民衆だって望んでないんだから当然だろ、よほどの底辺なら別だが
- 296 :
- それ現代に対するツッコミ?
三国志の時代に対するツッコミ?
- 297 :
- 平和な世界は望んでるだろ、普通
- 298 :
- なんか孔明より徐庶を軍師のままの方が良かった気がするな
- 299 :
- あんまり使いたくない言葉だが、
それこそゲーム脳って奴じゃねえか?
- 300 :
- 孔明を軍師と称している時点で言わずもがなじゃねえか?
- 301 :
- せめて法政が長生きしていれば、それか韓信(もしくは関羽に韓信の霊が乗り移る)や陳平のような人物がいれば天下を取れたかも
- 302 :
- 関羽さんって実は張飛よりもやっかいなヤツだったんじゃね?
- 303 :
- 韓信や陳平など人物がいれば…ってのもゲーム脳レベル
- 304 :
- 劉備が天下統一するには蜀漢の人口を爆発的に増やすか魏・呉の人口が激減するかの二択だよなw
- 305 :
- 人口が増えても蜀にその人口を養うだけの食の確保ができるかな?
まぁ人口よりも、敵国の内部の腐敗と政治の混乱が必須だと考えるけどね
大国が滅ぶのは、外患より内憂
項羽は戦術家で政略に疎い点を突かれて情勢をひっくり返されたが
政戦両略に通じる曹操相手に項羽のときのような逆転劇は見込み薄いだろう
それこそ、戦場で曹操をRくらいの出来事が起こらんことには無理
袁曹の戦いが終結した時点で、曹操存命中に曹操以外の勢力が天下を盗ることってのは
関ヶ原の戦い終結後、真田が天下を盗る方法を語るに等しい
- 306 :
- >>305せめて赤壁で曹操を討ち取っていれば、話は変わったかもしれませんね
- 307 :
- 劉備が立ち上がったきっかけが黄巾賊や十常侍のときだったから
その後の曹操や孫権の平定ぶりを考慮した場合に両者を
打ち破る必要性があったのかどうかも疑問
- 308 :
- >>304
呉みたいに不服住民を討伐して中央集権化を進めればある程度は増える
- 309 :
- >>306
赤壁で曹操が死んでたら、魏は袁家と同じく兄弟の跡目争いによる内部分裂が起こる
可能性が高そうだね
そうなれば劉備にもチャンスが・・・と考えられなくもないが
曹操の死による混乱を周瑜が見逃すはずもなく、孫呉が天下統一って流れになる算段が有力
赤壁あたりで曹操を討ち取れてたとしても、劉備の天下統一は甚だ難しいように思える
- 310 :
- なんせ地盤が荊州の一部だけで、軍閥としても今一の劉備では。
赤壁の敗戦による曹操の圧力低下でやっと荊州取り程度の力しかないのが当時。
赤壁激突前に荊州全土を完全掌握出来てたら、司隷進攻の芽はあったかもしれんが。
- 311 :
- 荊州益州領有してさらに呉の揚州を合わせても
国力で魏に負けてるのよね
- 312 :
- 士一族と早めに組んでも…大したことないか
- 313 :
- >>311
でも、蜀に本拠を置いた頃の劉備は漢中戦といい
関羽の荊州侵攻といい、寡兵で魏を圧倒してるからな。
魏の兵力が多ければ、兵力差で押し込めるとは言いがたいかもよ。
- 314 :
- >>309それでも史実みたいにジリ貧になるよりかマシな展開になると思う
- 315 :
- 劉備の存在意義が対曹操だからなー
曹操が倒れたら、蜀取りも出来たかどうか
しかし、曹操が赤壁で倒れていたらって魅力的な妄想だな
妄想でいいなら、劉備にとって一番いい形の曹操の死に様は、潼関の戦いで馬超に討ち取られた、だろうけど
荊州問題はあるが、蜀制圧可能
- 316 :
- 官渡以後で曹操が死にそうな戦い
・烏丸攻め
・赤壁の戦い
・潼関の戦い
劉備と戦った漢中攻めは流石にないな……
- 317 :
- 曹操も戦上手だったが、
司馬懿と陸遜もまたドR
彼らが世に出る前にどうにかしないと無理
- 318 :
- >>317
曹操と異なり、司馬懿と陸遜は勢力のトップって訳じゃないから、無力化する方法はないわけでもない
できすぎる家臣は何かと危うい存在
演義でのはなしだが、策を用いて司馬懿を前線から遠ざけるなんて話しもあるくらいだしな
- 319 :
- その2人、劉備が欲しがる名士でもあるから、どうおべっか取るか?
ここでも関羽がネックになりうるw
あと、『もう1つの三国志』とか読んでると、
劉備が広い領土を手にしたとして、異民族対策上手くできるのかなぁ…
- 320 :
- 劉備が天下を取れなかった理由な…
・故郷を基盤に出来なかったから
・場所場所で人間関係をいちいちリセットしてたから
・若い頃にサボってたから
・野心丸出しだったから
・遠縁とはいえさんざやらかして傾いてる組織の縁者だったから
- 321 :
- >>318
司馬懿と陸遜は卓上の駒みたいなもんだしな。
権力でどうとでも押し込める。
機嫌損ねると何をしでかすか分からない規格外の豪傑関羽のような
危険性がないのはメリットとも言えるが。
劉備には関羽を配下として扱えるほどの器がなかったんじゃ・・・
- 322 :
- 劉備の人生ってあれが完成形だったんだと思うや。
劉備の能力がもう少し上だったら、おそらくもっと諸侯に警戒されていたんじゃないかな。
仮にその時の劉備の能力が劉秀並みでも、最初期の劉備の状況を打開するのは難しいと思う。
劉備の人的魅力がもう少しあっても、これまた諸侯に警戒されていただろうし。
もし劉備が劉表の死後に荊州とってたら、その後にはたして益州入りができたのだろうか…。劉璋もそんな不義の輩を受け入れるほど馬鹿ではないと思う。
長文・駄文ゴメンナサイなんだけど、言いたいことは一行目の通り。
ツッコミどころ満載のレスだけど、まぁ見逃してちょうだい。
- 323 :
- 司馬懿と陸遜は用いた方が良いと思う
ただ、出世させすぎると、やっぱり前者はクーデターを起こし、
後者は政争巻き込まれて憤死するのかなw
関羽も御せない劉備は天下取れる器じゃない
- 324 :
- 関羽が後世、伝説の豪傑として名を馳せる事になった功績が
曹操軍に属していた頃ってのもなんだか皮肉な話。
- 325 :
- 諸葛亮の荊州乗っとり策などの部下の献言を何度か退け、間違った選択をしたこと。
ホウトウに説得され益州を奪い、曹操を撃退しこれからというとき、その前後に重臣がばたばたと死んだこと。
- 326 :
- 戦争とかに向くタイプじゃないよね劉備って?
- 327 :
- 数ある中でも最後まで残った名うての傭兵集団・爪牙だったよ>劉備軍
- 328 :
- 地力のある軍閥ではないが、戦闘能力は並より高い軍団。
それが荊州奪取前の劉備たち。
荊州奪取で漸く地方軍閥の仲間入りして、益州・漢中掌握でやっと地力がつき
漢朝消滅で帝を称する事が出来たが、如何せんその前後に中核の将軍たちが次々に死亡(もっとも大体高齢だったから世代交代は何れにせよ間近だったが)
そしてカリスマ性で軍団を維持してきた劉備本人にタイムリミット、って所か。
徐州で傭兵部隊から確固たる軍閥に脱皮できてたら、多少は様相も違ってたかもしれないが。
- 329 :
- そもそも色々やらかして国民から愛想つかされた=徳を失った王朝の復興を
旗印にしてる時点で反主流派だよね。
光武帝と同じことやろうとしたんだろうけど、もはや豪族でもなかったしな。
ちなみに劉備が天下統一してたら、前漢、中漢、後漢って区分になったんだろうかw
- 330 :
- ああ、確かに劉備が天下統一レースに加わるなら、徐州時代だろうなー
それ以後〜荊州四郡まで、客将・傭兵扱いだった訳で
- 331 :
- 徐州時代に呂布の裏切りがなかったら違った展開になったのかね。
- 332 :
- 徐州は守りに向いてないから
曹操が南下してきたらやっぱりどうしようもなかったんじゃない?
袁紹がもっと積極的ならなあ
- 333 :
- 徐州が守りに向いてないなんてこたーない
孫呉からすりゃ守りにくいだろうが、劉備が本拠地にする分にはなんら問題ない
元は、大国であった楚の北部だぞ
言っとくが、陶謙の頃に曹操の侵攻を少なくとも2回は防いでいるからな
- 334 :
- あれは防いだといえるのかどうか。
まあ一州対一州の規模なら縦深も山河の険もあるし守り難いわけじゃないだろうね。
曹操は勝利を重ねながら、後退を重ねる陶謙を捕捉仕切れずに諦めるしかなかった。
守るならエン州の方が難しいだろう。
- 335 :
- というより、劉備はよくもまあ徐州を引き受けたよな
南から袁術、西から曹操に現在進行形で攻撃されている
半分無理ゲー
- 336 :
- でも曹操のエン州失陥の直後だよ。
袁術だってまだ淮南近辺に毛が生えた程度の勢力しかなくて、
揚州各地へ兵を送っていて徐州へは本格的には手を出せていない。
徐州は二年間大きな戦もなく、その間袁術に攻撃を掛けるところまで纏め上げている。
そのあとが劉備人生の最大の失敗の一つだが。
- 337 :
- 皆、本当の劉備の人生のターニングポイントは徐州な訳だな。
徐州に派遣されて、上手く陶謙の譲渡を受けて早期に徐州の地盤固めを成し遂げてたら
少なくとも当面は対袁術に傾注出来てたわな。
無論後ろ盾として袁紹あたりにバックアップを頼むのが必須だけど、聊か徐州掌握にもたついた感はある。
やっぱ戦略的見地を持ったブレーンが居なかったからだろか。
- 338 :
- いやいや。そもそもね。どこの馬の骨か知らん奴が突然やってきて国主ですって
言って在地の豪族が素直に従うわけがw
一応正式な任命受けて任地入りした劉表や劉鴛でさえ掌握には相当苦労してるし
蔡氏や東州兵の武力の後押しなしでは不可能だったと思う。
流れ者の分際で、官位や職歴もなく兵力もない状態で徐州に来たんだから難しいでしょ。
仁者で徐州の人皆慕った・・・なんてことさら書いてることがあやしい。
実際曹操が攻めて来たら、ころっとそっちについちゃってるんだからw
札付きの呂布を受け入れたのだって、その武力を徐州掌握のために利用したかったからって
ほうがすんなり納得できる。
結論としては徐州時代に天下に名乗りを上げるには実績、名声ともに不足。
その後曹操陣営に入り官位と実績(?)と箔をつけたから「客将」として通用したわけでね。
俺はやはり箔を付けた後の新野時代、曹操が袁氏を滅亡させるまでの期間がターニングポイント
だったと思うな。劉表陣営において政略を駆使してキャスティングボードを握る地位を占め
その時点での曹操との敵対、孫氏との和睦、同盟を成し遂げて、劉表一族を内部からあぼんで
国主へ、という道以外に可能性が高い道が思いつかん。
- 339 :
- たしか徐州に入った時に平原相称してたんだっけ?しかも正式でない公孫サンの勝手に授けた官職。
公的権威はねーわ、只の派遣された傭兵部隊だわ、これで一国取るのは難しいか…。
- 340 :
- うむ。後漢の統治はいわゆる「郡県制」であり、それより大きな範囲である「州」にはもともと独立性はないんだよね。
郡太守には行政権も警察権もあるけど、州刺史は各郡の巡察使のようなもので
禄も実は郡太守と同じ二千石程度だから両者に明確な上下はない。
例外的にもっと力の強い「州牧」が任命されることはあるけど、州の「太守」という立場からはほど遠い。
だから実は陶謙自身がきちんと徐州を掌握していたかどうかは疑わしい。
反董卓連合軍を結成したときに刺史として徐州軍の旗頭にはなったけど戦争終了後、盟主として
立てられたかはわかんないよね。徐州が一本にまとまってないからこそ曹操来襲で簡単に万歳しちゃったと。
荊州侵攻時の曹操軍と比べるとはるかに兵力、武威ともに劣るのに。
- 341 :
- >>338
徐州の大豪族であり、陶謙の側近中の側近だった糜竺・陳父子の支援で
劉備は徐州牧になってるわけだが。
それから袁紹と手を結び、曹操へ使者を送って献帝から鎮東将軍の名号を正式に拝命し、
後顧の憂いなく袁術攻撃に入った。ここまで、順風満帆。
それが呂布を迎え入れていたために全部おじゃん。
袁術攻撃までに二年かかった理由としてはいくつか想定できるが、
・元々陶謙が徐州全域を支配していなかった可能性(東部には臧覇がいた)
・曹操の屠城で下ヒ周辺が壊滅し、再建に手間取る。
・袁紹・曹操と結ぶまでに時間が掛かった。
などがあるだろう。
- 342 :
- >>340
監察権が支配権に演化していくのは後漢初期から晋代までの時代の趨勢だから掌握はある程度はしていたと思うよ。
- 343 :
- 陶謙が徐州全域を支配していたかどうかというのは、
刺史の制度としての強制力の強さ云々の問題よりも
陶謙自前の武力が州全体を支配するにたる規模だったかという
問題の方が大きいだろう。
- 344 :
- 盧植門下の頃に名を上げてたら全然違った結果になったと思うよ
その代わり関張は傍らに居ないだろうけど
- 345 :
- 天下の侠者と交流があった群雄は多いから同じだろ
- 346 :
- >>344
それでも群雄割拠に入ったときに三十歳そこそこだぜ。
勉学教養で身を立てて、乱世になっていきなり軍閥を持てるような歳ではない。
誰かの下に付くのが精一杯だろう。
劉備が若くして小軍閥の長となり、短期間で武功を挙げて頭角を現したのは、
血の気の多い若者や侠客の間に交友を広げて「私属」を形成していたからだ。
- 347 :
- 私属というのは奴隷を指す歴史用語なわけだが。
- 348 :
- ごめん、勘違いだった。
劉備は「其の屬」を率いた、だ。
- 349 :
- 劉備に五湖十六国時代の人物、謝玄が部下にいれば何とかなったのかも
- 350 :
- >>344
田豫とかと勢力築いて北方に割拠するんかね?
- 351 :
- >>349
謝安ならまだしも、謝玄ではなんともならんて
劉備の天下に必要だった人材は、後方を任せられる人材でしょ
曹操にとっての荀ケ、孫策・孫権にとっての二張、袁紹にとっての田豊
混乱期に単なる軍閥から群雄となり勢力を伸ばせたのはこれら後方を支える人材がいたから
徐州時代の劉備には陳羣や陳珪・陳登親子がいたが、劉備自身が彼らを活用できなかったため
後に諸葛亮の加入まで単なる傭兵集団的な軍閥から脱却できず、勢力を築けなかった
それが最後まで響いている
- 352 :
- >>351
後方というかむしろロングプランが立てられる人間で、中原で生き残ることを考えると加えて謀略にも長けてると望ましい感じだと思う。
劉備は大局視が微妙な感じだから。
つか孫策・孫権で言うなら二張より周瑜・魯粛が必要。
>徐州時代の劉備には陳羣や陳珪・陳登親子がいたが
この3人じゃ無理でしょ。
制度設計タイプと謀略家と司令官タイプだし。
劉備や中原劉備政権(仮)が出来たら要を担える人材だけれど、
初期劉備最大の短所はすぐ物事を放り出したり、大局視が出来ないところにあるんだから。
- 353 :
- 下から二行目の「劉備や」は校正中の消し忘れだから無視してw
- 354 :
- 結局は支配地等でチャンスは幾度か(徐州や荊州)あっても
劉備自身が人を得ないか、いても使いこなせず後手後手に回って間に合わなかったのが原因でFA?
- 355 :
- >>354
むしろそこら辺で勢力を築けないで逃げられたから,最後まで生き残った気がするけど。
変に徐州なんかに居座っていたら,袁紹か曹操に滅ぼされるか吸収されるかしてたのでは。
- 356 :
- 劉備は一応、曹操の評でも準曹操格だし、
軍事面では大局的な視点の完全な欠如を除けば欠点が少ないから、
それを補う荀イク・魯粛タイプが早期に得られれば雄飛の可能性はあると思うよ。
まぁ、でも当時の徐州は確かに場所が悪い気もするけどね。
煬帝が京杭大運河を築いた後なら悪くない場所なんだけど。
後方確保のために南方進出したくなるけど、九江には袁術がいて、
丹陽には既に孫策が入ってるんだよな。
劉備が呂布を斬って曹操につき出していれば、曹操が南陽攻めて、袁紹が地盤固めしている最中に、
曹操の与党のふりをして曹操の手駒使って袁術倒して九江郡取り込む手が使えるんだけどね。
この時期だと劉備は袁紹と曹操の間で風見鶏やってもなんの問題もないし。
それでも荀イク格の人間が補佐に居ないと曹操が東向いたらアウトだろうけど。
まぁ、荀イク格が居れば三つ巴位には持ってけるんじゃないか?
- 357 :
- 徐州では戦略をたてる軍師がいなかったし、
曹操、孫策に挟まれて窮屈、袁紹、袁術、呂布らもいて場所が悪かったと思う。
軍師を得て荊州、益州で勢力を伸ばすというのは真っ当な戦略だと思うけど、時既に遅し。
曹操「劉備はわしと同等だが、計略を考え付くのが少し遅い」
司馬徽「臥龍、主を得るとも、惜しむらくは時を得ず」
敗因はこの評通りじゃないかと。
それでも蜀の皇帝にまでなったのは偉業。
滅亡へのターニングポイントは呉と和を保てなかったこと。
徐庶、ホウ統、法正、馬良、黄権らが長く仕えていたら違う展開になってかもしれないけど、
どの道魏と呉が健在でいる限り天下統一は無理ゲーだったんじゃないか。
- 358 :
- 地の利でチャンスだった時は人がおらず、次に地の利を得て人も来たのに既に時期を逸していた。
ならば劉備にとって天の時とは何時だったんだろか。
- 359 :
- 計略を考え付く時
- 360 :
- 曹操は天の時を得る
孫権は地の利を得る
劉備は人の和を得たり
- 361 :
- 陳群の劉備への指摘は正しいけど
じゃあ陳群に従っていれば劉備は飛躍できたのかといわれると大いに怪しいな
回りまわって袁家に天下が転がり込んでいただけという気もする
- 362 :
- 正しいかね。
一年どころか数ヶ月で状況が変転した190年代に、
二年間外からの大規模な攻撃がなく地盤固めに専念できた徐州は
かなり恵まれた戦略条件にあったはずだが。
194年徐州というのは周囲が不慮の損害や別の敵に手一杯という幸運の時機だった。
ただ、196年に「不慮の損害」が劉備に巡ってきただけで。
- 363 :
- そこだよなー
何で受け入れちゃったんだろ
某小説のように、王朝の守護者という評判に
劉備か徐州士大夫層が骨抜きにされてしまったのか?
- 364 :
- 呂布で失敗したのがトラウマになって、劉表の元で自分が呂布と同じような立場になったときに「絶対裏切ったりしない」と言い張ってまた失敗したのかな
- 365 :
- 劉備が五湖十六国時代の劉裕のような性質だったら、何とかなったのかもしれません
- 366 :
- 諸葛亮は政治家だからな
本物の軍師は法正で
法正の死と同時に蜀の快進撃も終る
つまり戦略家がいないっての諸葛亮の不運
- 367 :
- 戦略家というか軍略家な
政治と戦略はほとんど同じだから
- 368 :
- 40過ぎて無職
- 369 :
- 劉備は正規採用されてないだけで無職じゃねーってw
肩書きだけなら30代で左将軍のエリートだぞw
- 370 :
- 出世スピードすごいよね
優秀な人だったんだね
- 371 :
- そう。無能じゃないし、お人よしでもない。
ただ、地盤も無ければ武力以外の人材も無くて登場は黄巾直後でも
漢末群雄の中では事実上のスタート遅れになってしまった人。
- 372 :
- いや黄巾後に起家っていうのが相当の後発組なんだよ。
他の群雄の殆どは、
・黄巾以前からの朝廷高官または世に知られた名士
・動乱後に地盤を築いた群雄の跡を継いだ子弟
・董卓一派の部曲などで朝廷の実権を者
だから。
無位無官から始めて、黄巾の乱から5年ほどで県令まで昇って、
動乱の中を渡り歩きながらさらに5年で国相、刺史、牧。
さらに2年で正式に鎮東将軍を拝命っていうんだから。
これを支えた「武勇と信望」という評価は並大抵のものじゃない。
- 373 :
- 鎮東将軍に上奏したのは曹操だけどな
- 374 :
- 司空の推挙による献帝よりの拝命。
- 375 :
- 考えてみると劉備に公的権威与えちゃったのって曹操なんだよな。
県尉(県令じゃなかったと主)はとりあえず朝廷からの任命だけど、微官だし、
平原国の相は公孫瓚の勝手な任命だし、徐州の牧も現任が勅許も受けずに官を私物化して
譲り渡したもの。でも豫洲牧と左将軍は正真正銘の任命だからね。
懐柔しようとしてわざわざ将来の敵に箔つけちゃったわけだ。
関羽の寿亭候もそうだけど、曹操って結構迂闊な人?
- 376 :
- 曹操は張繍の件をみても分かるようにかなり迂闊な所があるが、その件は大して迂闊じゃない。
当時の情勢がそう簡単に漢朝廷に従う状況なら別だったが、
実際はどこも軍事力の方を見て日和見してるからな。
- 377 :
- 曹操だって人の子ですから万能であっても全能ではないのよね
- 378 :
- >>376
献帝を擁した直後、袁紹へも含めて官位をばら撒きまくってるからね。
献帝=曹操を同一勢力とアピールする誇示でもあり、切実な懐柔策でもあり。
そのうちの一人を取り込み損ねて大敵になってしまった、ってだけで、
196年当時の劉備への待遇自体は、そんなに特筆すべきものでもない。
その後、対呂布・袁術戦線で劉備の価値がさらに上がっていって、
地位と箔を与え続けるはめになってしまったことが仇になったが、
他に有力者がいなければどうしようもないわけだし。
- 379 :
- NHK総合→dボタン→NHKデータオンライン→双方向クイズ天下統一
- 380 :
- 劉秀<なんだ、天下統一できなかったの?情けない奴だなぁ。
そんなやつが俺を意識した諡号とかやめてくれない?
- 381 :
- 光武はそんなこといわない!
- 382 :
- >>381
案外、三国志ばかりもてはやされてるのを知れば、光武帝とて皮肉の一つも言いそうだがwww
- 383 :
- 部下いじりが好きだった光武帝のこと、
あの世で昭烈をいじり倒しておられよう。
- 384 :
- >>383
優しいし、冗談や皮肉好きだしね。光武帝。
いくら過疎スレとはいえスレタイとはずれてるのでちと個人的見解を
劉備が天下統一できなかった原因・・・やっぱり年齢と領土かなぁ
@かなり難があるが徐州をなんとか守り抜いて曹操の台頭を防いでいれば
A劉表死亡後に荊州を奪っていれば
B孫権ばりに長生きして魏延の北伐案をやってみる
でも天下統一を劉備がしても、なんか劉邦の晩年をなぞりそうだと思うのは俺だけ?
- 385 :
- C周瑜の劉備奉戴策に劉備・孫権共に乗る
ってのはどうかな?実現性が低いのはわかってるけど
戦力的には他のifより可能性があるのでは・・・
- 386 :
- いや周瑜の策は呉の奥深くで飼い殺しってもので、奉戴しようってものじゃない。
良くて、呉帝孫権の下で一兵も持たない驃騎か車騎将軍ってところだろう。
- 387 :
- 周瑜の策は献帝と曹操の関係のように
劉備を祭り上げて実権は孫権が執るって
ものじゃないか?
確か「宮殿を築き、美女を与え・・・」みたいな事が
書いてあったと思ったが。
- 388 :
- 曹操の下でじっと反乱の機をずーっと伺うてのはどうだろ
司馬懿のようにそれはもう辛抱強く・・・
(´・ω・`)無理っぽいか
- 389 :
- >>384
その中じゃ、徐州堅守以外は手遅れでどうにもならない
袁曹戦争は、いわば天下分け目の関ヶ原
曹操が袁家を滅ぼし、河北を制覇した時点で、
他の勢力では曹操の天下統一を阻めても、曹操の天下を奪うことは不可能
それほどに勢力差がひらく
- 390 :
- >>387
あーごめん、そうかも。
原文「宮室」か。
少なくとも諸王を名乗らせるくらいの計画になるね。
- 391 :
- C荊益を完全に保全した上で、魏を防ぎつつ交州を固め揚州を制圧し、然るのち北伐する
ってのがあるが、劉備にとっては完全に時間切れだな。
劉備生前ならやはり>>384の@
同時期は曹操の人生最大の苦境の時代で、袁紹・袁術も全盛期を迎えていない。
徐州を押さえつつ当面の主敵の袁術を撃退してから、
袁紹と組んで曹操に成り代わり河・江間を独占するもよし、
公孫サンを支援して東西対決に持ち込むこともできる。
楽な道とは言えないにしても選択肢が豊富にある。
- 392 :
- 私も現実的なセンでは>>384の@しかないと思う。
徐州失った直接的な原因って袁術でも曹操でもなく呂布だから
呂布を迎え入れず、自力で袁術を撃退できれば官途に徐州太守として
介入できたかもしれないね。
- 393 :
- その徐州維持が難しいんだけどな・・・・
曹袁のどちらと結んでも、どちらかと敵対するので相応の戦力は必須。
又、どちらも徐州を狙っているので、実際の援護自体も望み薄だろう。
呂布を迎えたのは、そんな状況で少しでも戦力が欲しかったからか。
とりあえず、呂布の裏切りを乗り越えるのが第一段階だろうな。
そして、田予や陳登みたいな優秀な人材を、どれだけ使いこなせるか。
- 394 :
- 曹袁が決定的に対立するのは199年。
史実の劉備は徐州牧になった直後に袁紹と誼を結び、
曹操=献帝からは正式に官位を貰うわけだから、三者は小康状態でいける。
199年までに袁術を破って淮北から青州の河水南岸までを制圧すれば
曹操と同格以上の兵力を有することになる。
まあ、そこから天下を狙うには、どちらかに従属しているのでは駄目で、
袁紹と組みつつも手薄な許都を単独襲撃して献帝を掻っ攫うとか、
曹操と組んで袁紹を撃退した直後に疲弊した曹操を襲撃して
献帝を掻っ攫うとかしないと駄目だけど。
呂布は事故みたいなもんなんで、これは「上手くしのいだ」とするしかない。
それから田豫はもういないし、当時は若いので有力者ってほどでもない。
- 395 :
- >>394
いろいろキビシイけど人材的なものが一番きついな・・・
- 396 :
- 曹魏で中核を占める有力者の多くが曹操に仕えたのは
実は196年の皇帝奉戴以降だから、
対応が早ければ人材は挽回できるんだろうけどね。
それは同時に、袁氏のような人脈名望がない劉備が中原で
天下を狙うには皇帝を担ぐことが必須条件ってことでもある。
- 397 :
- >>393
難しくとも、どんなにうまく立ち回れたとしても時間切れが目に見える
ほかの不可能な選択肢に比べればマシ
>>395
将に関張、軍師に内は陳羣、外に陳登がいる
駒不足ではあるが、当時の曹操も駒は不足がちだから隔絶たる差ではないよ
- 398 :
- 徐州が維持できなかった理由は君主論を読めば分かる
- 399 :
- たとえもし劉備が徐州を維持できたとして曹操の拡大を抑えられても天下は無理だろ
まず曹操が拡大できなかったのなら袁紹や袁術がはびこってるだろうし大小含め曹操に掃除されるはずの雑魚勢力が中原にうようよしてる
そんな状態で劉備が天下とれるわけない
曹操みたいに斬新な作戦も能力もないから袁紹の天下に順調に進むなか一人「漢室復興()」を唱えて史実のように消え去る
- 400 :
- 曹操って何か斬新な作戦とってたっけか。
民屯も背景に「豪族の私兵と墾田の構造」があるから斬新と言う程ではないし、部下の発案だしな。
劉備の徐州時代まで行っちゃうと雑魚はほとんど残ってないような。
- 401 :
- >>399
あのな、徐州時代でダメなら、そもそもが天下統一なんて不可能なの
他の時期じゃもはや状況を覆す時間がないの
消去法なのよ、消去法
微かな可能性だが仮に天下統一できるとしたら徐州時代でしか残ってないの
そもそも、そんなこと言い出したら、劉備は天下統一なんてできないで終了よ?
- 402 :
- 徐州を得た時に,豫州をそのまま維持できなかったのだろうか?
その上で,陳羣のような潁川、汝南の人材をかき集めれば,
曹操や袁紹にも人材面では負けないだろう。
当時の兵力じゃ難しいか。
- 403 :
- >>402
「できた」「できなかった」のはなしなら「できなかった」
当時、徐州の将兵の掌握をままならぬまま、領土欲から袁術に挑み
留守の隙を突かれて呂布の台頭を許す結果となった。
劉備は、陳羣の諌めに従って、まずは徐州の将兵の掌握と人民の慰撫に勤めるべきだったと思う
何かとネタにされる曹豹だが、徐州時代の劉備にとって重要人物
彼から忠誠をえられなかった事が最大の失策であり、ターニングポイントといえる
- 404 :
-
そもそもただの小説だから
- 405 :
- >>403
それと同等以上の失敗をしたのが、エン州を失ったときの曹操だけどね。
なにせ何進に招聘されたこともある地元有力名士の辺譲をないがしろに扱って
同じく地元有力名士の張バクの乱を呼び込んだわけだから。
劉備と曹操の差は、(結果から見れば)曹操には驚異的な軍事的粘り強さがあり、
当時の劉備には無かったことだろう。
それ以上の中原情勢として、
曹操がエン州を回復する二年という長期間、外にはエン州に本格侵攻する大勢力が無く、
不利な横槍がほとんど入らなかったことがある。
しかし、劉備が徐州を失った196年は袁術の最盛期近くに辺り、
曹操も献帝を抑えてエン州・豫州西部・司隷東部に支配を伸ばす大勢力になりつつあった。
この二者の影響を劉備(と、それから勿論呂布も)受けざるを得なく、
徐州が独立的に安定する機会は結局二度と訪れなかった。
- 406 :
- >>405
同等の失敗には違いないが、本拠地を失陥して徐州を失った劉備軍と異なり
たった3城まで追い込まれても、本拠地を死守した曹操軍との差は大きい
また、困難な状況において、死力を尽くして抗った曹操と
あきらめて軍門に降った劉備の差も大きい
劉備を粘り強い人と考えている人も多いようだが
その事績から見ると自分の命以外のものは、割とあきらめのよい人と見受けられる
この点が天下争奪戦において、
曹操に対して十歩も百歩も後塵を拝する結果になったと考える
- 407 :
- >>406
劉備は三城どころか一郡確保したよ。広陵という。
呂布の反乱だけならある程度踏ん張れた。
しかし、反乱が起きたのは袁術との対陣中。
劉備はまず、袁術に破れて主戦力を失い、
広陵に逃れたものの至近に袁術の揚州がある状況ではこれを維持できず、
呂布に降伏するはめになった。
人となりの面では、曹操は諦めが悪くて粘り強く、劉備が諦めが良い、というのは同意するけど、
徐州を失った原因はそれだけではない。
- 408 :
- >>402
豫州牧っていっても実権は劉備になかった
- 409 :
- 曹操と袁術の間で上手く立ち回れれば良かったんだろうけど、外交面での劉備のスタンスは
どんな感じだったんですかね
豫州は完全に領土争いの渦中、徐州は曹操と袁術が狙っており、呂布は拠り所を求めて徘徊
曹呂袁の少なくとも2勢力と、何らかの盟約を結んでおきたかった所じゃないかな
そういう意味では、袁術と交戦した時点で厳しい状況になった感はある
- 410 :
- 劉備は徐州牧になった直後に袁紹と誼を結び、
曹操=献帝からは正式に官位を貰う。
袁術と和解するのはまず無理。袁術は揚州に陣取った時点で、
徐州を狙って陶謙と小競り合いをしていた。
淮南から中原を狙う限りは必争の土地となる。
- 411 :
- >>403
「できなかった」とする結論は分かるけど,
陳羣は豫州潁川郡の人で,豫州刺史としての劉備に召されたわけだから,
彼は劉備の徐州行きそのものを止めたのじゃないか。
- 412 :
- 俺は409じゃないが、410聞く限りでは劉備は
対袁術に集中できる環境にあったっぽいね。
袁術撃退後、曹操と組んで官途に勝つor
袁紹に与して跡目争いで上手く立ち回る
事ができれば天下の目はあるんじゃないか?
- 413 :
- 積極的な天下狙いとは言えないが、
徐州一州を以って袁紹に附いて曹操を潰し、
そのあと袁紹が死んで、縁故のある袁譚に与して上手く立ち回れば、
結構機会があるかもね。
なにしろ袁譚に附くだろう人間としては、将軍・州牧クラスというのは
抜きん出た格を持つ。
- 414 :
- 呂布を利用して対袁術の共同戦線でも張れればな・・・・
袁術に手一杯の所を呂布にやられたので、呂布をどうするかが大きな課題だと思う
袁紹は遠いし、曹操も劉備に援軍送るだけの余裕は無し
- 415 :
- でも呂布の謀臣の陳宮が、もう曹操に下るくらいなら死ぬって覚悟でいるからなあ。
そもそも袁紹・曹操に反して、交戦中に袁術と結ぼうとしていた勢力の残党だから、
袁術に傾斜するのは避けられないんじゃないか。
庇護したこと自体が失敗。
で、なんでわざわざ劉備が呂布を迎えたかというと、
朝廷(献帝)を守護した者という触れ込みがあったからだと思うんだよね。
だから袁紹・袁術・張バクと転々としつつも歓待されたし、
朝廷も東帰の際に呂布に助けを求めている。
めんどくさい状況だわな。
- 416 :
- いっそ呂布に袁術攻めを任せてみたらどうだろう?
元々袁術から追い出された身だし、案外気張って上手くやってくれるんじゃね?
- 417 :
- >>416
呂布の勢力だけで対等に戦える相手かと言えば、そうでも無い気がする
戦場は徐州になるわけで、劉備だけ高みの見物とは行かない
呂布に劉備の盾となるメリットも少ないし、戦争のドサクサで呂布に徐州を
乗っ取られる気がするぜ・・・・
- 418 :
- 本拠地に危険人物を置くわけにはいかないから前線に出すというのは割と常套手段。
しかし、呂布の手勢だけで袁術と戦えるはずがないので、
少数で放り出せば、そのまま袁術に駆け込まれる危険があり、
十分な戦力を与えれば、やっぱりそれを手土産に袁術に駆け込まれる危険があるという。
陳宮辺りは徐州を獲れないのならそれを薦めそうだしね。
- 419 :
- 刘备と武田信玄とは宅男型君様
曹操と信长とは远征型君様
- 420 :
- > 劉備が天下統一できなかった最大の原因
劉備に天下を統一できる才能(器)と意思と天祐がなかったことだな
- 421 :
- そうだな。
そして武皇帝司馬炎は五百年に一人の器と天佑の持ち主よ。
- 422 :
- 劉備は独り立ちするのが遅いからなあ
徐州時代にどれだけできるかIFが難しい
何せ、徐州以後は完全に反曹操という名で売っていた訳だし
>>421
司馬一族は本当に乱世の統一者という感じがしないなあ
イメージで言えば王奔に近い
武将じゃなくて政治家がそのまま皇帝に成り上がった感じ
武将として実績がある司馬懿ですらそのイメージが強い
- 423 :
- >>422
単に演義のイメージに囚われているだけじゃね?
それに重臣から禅譲(簒奪)は三国に近い後世に似た例があるぞ
王奔なんぞに準えるより、隋の文帝の方が遥かに近い実績
北周の高官(上柱国・大司馬)から帝位の禅譲を受けて隋を建国
南朝を併呑して天下統一を果たした創始者
司馬氏の三代の行いを1〜2代(父親から国公を受け継いでるから)で成し遂げた感じか
文の諡号を贈られてはいるがまごうことなき征服者
西魏(北周)の宇文一族、東魏(北斉)の高一族でもいいけど
こっちは天下統一しとらんけどね
武将じゃなければ乱世の統一者ではないって考えも可笑しいけどな
最初に乱世の天下統一を果たした秦の始皇帝は、戦場に立たずに統一を果たしたのだから
- 424 :
- >>423
多分、戦争の勝利者というより政治的勝利者というイメージが強いんだろう
始皇帝に例えるとすれば、その正当性という点で違和感がある感じ
魏建国最大の功労者は曹氏であり、それと比較した司馬氏が小さく見えるのは事実
更に言えば、天下を競う呉蜀との勢力差が司馬懿の時代で末期的状態だった
これが、魏のワンサイドゲーム=司馬氏のいいトコ獲りという印象を強くしたはず
実際の呉蜀滅亡時期は曹氏全盛なので、全ては結果論から来る偏見だろうけどね
- 425 :
- >>424
>実際の呉蜀滅亡時期は曹氏全盛
意味が分からん
- 426 :
- >魏建国最大の功労者は曹氏であり、それと比較した司馬氏が小さく見えるのは事実
これもわからん。
皇帝家自身を建国の功労者とか言うかあ?
司馬氏はそもそも魏の建国当時には直接の功労は無い(司馬氏は諸卿の高官だが)
立場だったし。
- 427 :
- >実際の呉蜀滅亡時期は曹氏全盛
ってどういう意味?
- 428 :
- 版図が最大規模だからといって、ワンサイドゲームなるとは限らない
寧ろ、国家として安定した勢力を倒すのは難しい
版図が大きいだけで天下統一が成るのなら曹操時代に天下は治まっていただろう
当時最弱と謳われる南宋は、当時最強と謳われた金の侵攻を防ぎきる
そして、当時最強と謳われた元ですら滅ぼすのに長い年月を要した
南宋側に内憂がなければ滅ぼすこと適わなかった可能性すらある
三国統一も、魏(晋)が強国だからではなく、呉や蜀の方に問題を抱えてたからと云う点が大きい
そして、魏に発生した問題を最小限に抑えたのは司馬氏の力なのは間違いない
まぁ、なんにせよ、覇王でなければ統一者に非ず的な考え方が可笑しい
- 429 :
- >>428
○国家として安定した勢力を倒すのは難しい
つまり「スレタイ的に」言うなら魏呉が安定してたから天下はムリってことだな
ま、言い得て妙だな。安定していない国は滅び行く運命だ罠。崩れていけば壊される。
(ヽ'ω`)いまの日本も。。。
- 430 :
- >>429
内憂外患により国は滅ぶけど、今の時代、外部からの征服は滅多にないだろう
そして、内憂も、そもそも民衆蜂起が起こりにくい日本はしぶとく存続する気がするぞ
政治家の腐敗程度では国が滅ぶほどの内憂とはいえないしな、独裁専横に発展するなら話は別だが
それでも食べるに困る自体にならんかぎり安泰だよ
- 431 :
- という事はもし蜀が安定していて魏と語が不安定だった場合、蜀が天下を取れる可能性も在るの?
>>421簒奪者の孫その上暴君(天下を統一しても60年で乱世に戻した)しかもその天下は祖父や父親が下地を引いていて殆ど雑魚しか居ない状態
司馬炎の状況立場ならば、野望を持った劉禅や他の無能な武将でも同じ事は出来る
司馬一族は曹操一族が纏めかけていた天下を政治的に簒奪し天下を取った謀反人というイメージしかない
- 432 :
- >>78
そこまでしてもらって裏切る劉備ってかなり人間的に腐ってるよなw
- 433 :
- >>431
イメージするのは君の自由だ。
- 434 :
- >>431
もし孔明の北伐時に高貴郷公殺害のような事件があれば
北伐成功の可能性はグンと広がったと思う。
ただ外患があると中が固まってしまうので、そんな事件はまず起きない。
というジレンマ
- 435 :
- >>431
> 簒奪者の孫
この一言で、知識がたかがしれてる事がわかる
偏った情報で勝手にイメージするよりもまずは広く見識を深める方が先ですよ
- 436 :
- >司馬一族は曹操一族が纏めかけていた天下を政治的に簒奪し天下を取った謀反人というイメージしかない
非常に微妙なところだね。
司馬懿があっさり隠棲して、曹爽が専横を続けた場合、「曹氏の天下統一」は成立したのだろうか。
曹爽があしざまに言われるほどの馬鹿殿様とも思わないが、
司馬三氏の対呉蜀防御や国力増強と同等以上の貢献が出来た「イメージ」は俺には無いなあ。
- 437 :
- >>436恐らくその場合だと時間がかかっても普通に、「曹氏の天下統一」となったと思う
>>435偏った情報も何も司馬一族は簒奪者であることは事実だし、見解を広めたとしても功績を見て個人的には糞一族としかイメージしかない
- 438 :
- 司馬炎の祖父の司馬懿は簒奪してないから>>431二行目は嘘
司馬氏が存在しない場合、魏呉蜀のどれが先に自壊を始めるかなんて予測不可能だぞ
曹叡時代までは、魏はとても蜀や呉に攻め込んで勝てるかもしれないと言えるような国力は無かった。
蜀呉の同時侵攻に数的に対抗できず、あの満寵がびびって後退を進言する程度の力でしかない。
- 439 :
- っていうか司馬氏の簒奪ってのは「曹氏の寒門や皇族、元勲重視の政治がいやだ!」っていう風潮の中で起こったものだから
司馬氏が居なければ曹氏の天下が安定ってことはないんだよ。単に司馬氏以外の名門が担ぎ出されるだけ
曹氏は初期の初期の時点で、陳群の七品官法を受け入れなきゃならないほどに名門士大夫に対して妥協の姿勢をみせてるから
司馬氏がいなければ法治主義と曹氏閥の人間で朝廷を運営できるような体力は元々ないの
けっきょく司馬氏も曹氏を打倒してその座についても、曹氏と同じように名門士大夫との政治バランスをとり続けなければならなかったし
その意味で司馬炎までのは曹氏の徹を踏まずに政治的なバランサーとしては優秀な人間だった。
- 440 :
- 劉備が天下を取れなかったのは明らかに自立が遅過ぎたからだと思うんだけど、それ以前に劉備が最初から天下を望んでたように見えない。
少なくとも孔明とR荊州から追い出されるまでは、一武将として生涯を終えるつもりだったように見える。
- 441 :
- 九品な。
それに、陳羣の時点では漢の地方行政と中央官僚推薦が癒着する察挙制よりずっとマシな
中央集権よりの制度だった。
それがやがて時間をかけて骨抜きにされるわけだが。
そもそも分裂時代から統一した王朝が、皇帝中心の専制体制として完成するには建国からも長い時間が掛かるもので、
形は違うが、漢も統一とは名ばかりの郡国制から武帝の即位まで60年かけている。
魏は抵抗勢力を排除して帝権を安定させる前に曹丕・曹叡が早死にして、「名士」勢に乗っ取られただけ。
- 442 :
- あっと。
とはいえ、>>439に基本的には反対しているわけではないが。
機関としての「皇帝」の権力が安定しない古代中国国家では、
有能でなくてもいいからある程度まともな成人皇帝が即位し続けるってことが
王朝安定の重要な要素になる。
幼帝が即位したり、先帝に嫡男がいないと、それだけで国家の危機が到来する。
古代には皇帝権力(皇太后なども含む)以外に重石になる安定的な制度というものが無いから、
皇帝が不安定だと、王朝の帰趨は制度ではなく臣下同士の政争如何に左右されてしまう。
漢はその賽を振るような闘争を幾つか乗り越えた。魏は一発目で駄目だった。それだけといえばそれだけ。
- 443 :
- >>442
魏は皇太后に権力を持たせなかったから、幼帝が即位するとほぼ即座に「臣下同士の政争」が勃発する危機が発生するシステムだからな
皇太后や外戚に権力が権力を持ちえた漢の制度は、皇帝の系統を生き延びさせるためには有益だった
- 444 :
- >>443
悪名高い宦官も皇帝家存続という観点から見れば非常に優秀なんだよなあ
悪辣なのも居るから手放しで褒められるものじゃないけど
>>438
>>431が偏ってるのは俺も同意するが
曹真の蜀遠征を無視するのはどうかと思うの
- 445 :
- >>441
いやでも九品官制度の採用試験管である中正って、その土地の出身者が派遣されるシステムだからなぁ…
それまでの孝廉は群太守によって任命されてて、群太守はその土地の出身者を当てないというのが基本システムだった
九品が中央集権よりの制度かは疑問符がつくな
採用時点で郷品が定められるシステムだし、九品官は十頃(以下階級事に五頃ずつ増える)耕作地が与えられるコトを考えるとな
陳寔の孫という名士中の名士であり、同時に唐の律令制の雛形である魏律令を作った陳羣らしい法律といえばそうなんだが>九品官法
まあ、州大中正を設置して完全に名士利権を確保した司馬懿よりは魏皇帝よりの人間だったとはいえるんだけど
肉刑論の下りみても明帝は陳羣・鍾ヨウを援護できてないし、どれだけ曹氏が長生きすれば名士を潰して帝権を安定させられるのかちょっと見えてこないな
- 446 :
- >>440
徐州の自立は遅いと云うほどでもない
天下を望んでいた訳ではないとは、陳寿の記述からも読み取れるが
一武将として生涯を終えようとしていたとするには、若い頃から野心が強過ぎるように思う
- 447 :
- 結果的に漢が滅びているからと言って、野心家の誰しもが漢氏に取って代わることを狙っていたわけでもないだろうからね。
漢を再生させてその中で最大の栄達を図るのだって十分大それた野心だ。
朝廷を牛耳る宰相とまで行かずとも、第二位、三位の驃騎・車騎将軍とか。
官渡前に袁紹に与した頃の劉備は、勝てばそのくらいは狙える距離にいた。
- 448 :
- 能力や野心や仁徳がホントはどんだけあるのか、ホントは何がしたかったのか、調べれば調べるほど解らなくなる。
劉備って三国志でもダントツに面白い人物だと思うわ。
- 449 :
- 歴史人が三国志特集だったけど
中途半端に演技批判してたな
劉備が劉表の食客レベルから蜀の皇帝まで這い上がったのはたしかに凄いと思う
でも世の大勢は曹操についてる訳で劉備の行為は中国王朝の弱体化を招いただけでは?
結果として戦乱が長引いて人口減少から異民族引き入れて五胡十六国時代招いた遠因になってるわけだし
- 450 :
- >>449確かにそういう見解もある、でも自分が思うには曹操が天下を取っても司馬一族が簒奪すると思う
その場合恐らく曹叡時代に司馬一族は裏切り曹一族の天下を簒奪すると思う
>>438曹丕・曹叡までは忠臣だったがそれ以降は自分司馬慰とその一族はクーデターを起こして簒奪している
異民族引き入れて五胡十六国時代招いた原因は司馬一族が原因だと思う
- 451 :
- 三国時代がどうなったところで中国史の大きな流れは変えられんと思うが。
- 452 :
- >>450
異民族引き入れたのは後漢時代の匈奴とか、曹操の時代の烏丸・テイとか、司馬氏の時代以前の方がずっと多いくらいでしょ
抑えきれなかったという意味では司馬氏の責任も大きいが、引き入れたという点は司馬氏ばかりを責められない
- 453 :
- 後漢末は戦乱で中国の人口が減りすぎ
異民族の受け入れを推奨する←曹操
受け入れたものの、差別は当然あった
(蛮族などというように人ではなく中国中央から見れば虫などに近い存在で人ではない。すなわち蛮)
中国を統一に成功した司馬氏。
周公旦と太公望の話にもあるように
曹氏は「外部の人間を重用し、権力を与えたため簒奪された」
ならば「内部の(要は親族の)人間を重用し、権力を親族で握ればいい」
親族に権力を与えすぎて争いが激化(親族みんな王)→兵士が必要だけど人口足りない→卑賤の異民族が傭兵として使われるようになる
→親族間の争いが単なる神輿になり、それを担いだそれぞれの異民族の争いに
→神輿が変化→五胡十六国時代へ
移民を受け入れなければどうなっていたか
人口が減りすぎて外敵に対抗できない。生産性も悪化したまま。結局はそのうち混乱と戦乱に突入したと思われる。
。・゚・(ノ∀`)・゚・。 自国の国力の低下と移民受け入れ問題・・・まるでどこぞの国のようじゃないか。どっちに転がってもRる。
- 454 :
- >>450
陳寿の編纂を信じるならば、クーデターを計画していたのは曹爽
司馬仲達は先んじて鎮圧しただけ
曹芳・曹髦は、司馬師・昭を除こうと画策して失敗
事の経緯を知れば、司馬兄弟にのみ非を唱えられない
司馬兄弟の行いは、主君が主君として義務を果たしていなかったからこその反撃
主君が主君足れば、司馬兄弟が天下を望んでいなかった可能性すらある
- 455 :
- >>449
歴史を俯瞰的に見てよいのなら、
三国鼎立こそが華南に中華文明が300年近く疎開する自力を育てたことになる。
魏が早期に統一を成し遂げていたら、疲弊した中原の回復のために
華南の力が長期間吸い取られることになるわけで(後漢後期はそうして経済不安が全国に拡散した)、
統一王朝が磐石なら良いが、もしそれでも異民族に負けた場合、
中華文明はそこで途絶えてしまった可能性が高い。
当然、周辺諸国への影響、日本の古墳時代以降の文化も存在しないことになる。
ま、だから「歴史にifはタブー」なんだけどね。
- 456 :
- >>454
そりゃないだろう。
陳寿は晋臣として「公式発表された事実」を書き留めただけ。
曹爽との抗争は、よく言っても互角の勢力争い。
二帝への対処は魏臣としては大逆不道の行いだ。
幼帝として即位して、まだ二十歳前後だった皇帝二人に、どんな悪行や義務不履行があったというのか。
不品行程度で天子かつ皇帝を除く権限など臣下にはなく、
曹髦の決起に至っては公式のやりとりなど当時誰も信じていなかったことが
裴松之注から見て取れる。
- 457 :
- >>452なるほど、異民族を引き入れたのは曹操時代からですか、
それでも統一しても異民族の台頭を抑えきれず戦乱に引き戻した司馬一族の責任が一番重い
- 458 :
- 「王、アンタ天下取っちゃいなよ!」って司馬氏の王族そそのかして中原大混乱を作った連中の中には陸遜の子孫とかいるんだが
- 459 :
- つか前漢末に6000万いた人口が三国時代だと1000万いくかどうかってレベルだし、
色々末期だったんだろう。
- 460 :
- >>459
その辺の数字、晋代に入ると跳ね上がるから
単に各勢力、把握できていない人口層が多かった可能性があるよ
- 461 :
- >>460
戸籍調査のできない民がウヨウヨしてる方がむしろ問題だと思うが。
本当の人口が3000万として、豪族の私有民が皇帝達の私有民の倍以上いるわけだし。
まぁその後、春秋戦国のクローンかってくらい似た変遷を歩むからそうなんだろうけど。
- 462 :
- 乱世の混乱期だぜ?
問題がないはずがないし、流民だって沢山いただろう
人口把握をしっかりやってろって言う方がムチャブリだと思う
- 463 :
- 曹操って基本内政に関してこれといって業績が書かれてないもんだからな
目先の軍事優先で、長期的な人口回復策とか考えてないと思うわ。異民族を内地に入れたのもその一貫だろう
だからこそ後漢末の戦いで勝者になれたんだと思うが
- 464 :
- >>463
むしろ数少ない内政の業績が書かれている人物に入る
- 465 :
- 例えば何よ?屯田とかいわないよな?
- 466 :
- >>465
調べもせずになにを熱くなってるんだ。おちつけよ。
wikiあたりで曹操の項目から 政治家として の部分でも読んでくれ
君主として何を採用してこういうことを改革したって残ってるのは少ないだろ
敵を討って強かっただの人望があったとか存命のうちは民はよく尽くしたとか
漠然としたものしかあまり聞かないからな。三国時代は。
屯田制の採用は当時の状態を考えると画期的というより必然ではあるが
まあ三国時代で政治的に見るところは九品官人法(曹丕・陳羣)ぐらいだと個人的には思う。
- 467 :
- ああ言い方が悪かったね。というか二行目の軍事優先で、って部分から察して欲しかった部分はあるけど
俺が言ってる内政って、民政に関してだから
曹操がやった政治は基本兵制改革と法整備であって、戦乱で荒れた農村を回復させる為の何かをした記述がない
軍屯や強制移住、州の再編成なんかは前者だろう?若いときの実績もR祠邪教を取り締まる等、刑法に寄ってるし
曹操は抜本的な国力回復の為に免税や開墾、灌漑などを指示した形跡がない
冀州が袁紹の統治を懐かしんだ〜みたいなのはとりわけ袁紹の統治が優れていたというよりは
曹操の税収が厳しかったんじゃないかと俺は思ってる。淮南だっていつ荒れたものやら
- 468 :
- 民屯
- 469 :
- 曹操が酷吏・法家寄りの為政者だったことは確かだな。
曹操の寛治というと、冀州支配直後の租税免除くらいしか思いつかない。
これも政略的度合いが強いものだろう。
まあ袁術の南陽や淮南の統治ぶりまで曹操に肩代わりさせて
なかったことにするのはやりすぎだろうが。
二者の搾取は別個に存在するとするべきだろう。
- 470 :
- ただ、寛治というものは統一がなってから、それでなくとも新王朝が立って安定してからの課題であって、
曹操の時代に曹操が民衆を労わる政治をすべきだった、というのも違うだろう。
中原が統一されている、自衛のために郷里単位で武装しなくとも良い、
という現実に救われた民衆は限りないだろうし、
屯田政策などは豪族の中間搾取を排除しての流民の帰化に大きく貢献しているわけだ。
まあ、屯田民への負荷はかなり厳しいものだったようだが。
- 471 :
- 劉備が天下を取れなかった原因スレなのに
いつの間にか曹操叩きスレに変わってるな
まぁ、劉備が天下を取れる可能性を語る自体、語れることが少ないから
別の話題に摩り替えないと書き込むこともないんだろうけど
- 472 :
- この流れが曹操叩きに見えるなら自分の日本語能力か精神を疑ったほうがいい。
- 473 :
- 個人的な極論なのだが
劉備も曹操も孫権も覇者としての器はあったが広大な中国を統一できる器ではなかったのだと思う。
- 474 :
- そりゃ極論というより結果論だねえ。
- 475 :
- >>474
まあ結果でしか歴史は判断できないからな・・・
ちょっとした一文から想像力逞しく夢の世界に行くのもいるみたいだが
- 476 :
- 個人的には、どうしてその極論に到達したのかをもっと突っ込んで語って欲しい
まあ、突っかかってくる人が居るから難しいのかもしれんけど
>>473だけでは、>>474のコメント以上は何も言えない
- 477 :
- >>476
スマン。書こうとは思ったんだけどスレチな方向にどんどん流れてるからね。
それに確かに突っかかる人もいるだろう。
説明するといろいろ長くなるからあんまり言えないけど少しだけ
不満はいつの時代もつきものだけど、それら不満を何らかの方法で抑え(軍力や慈悲、思想でも何でもいいから不満を上回ればいい)、
同じ国民としての「ある程度の」中華全体の意識統一が果たせなければ
広大な中国で天下統一はムリだと考えてるんだ
孫子の言ったとされる「国家は民あってこそであり、民の減少は国家の存亡に関わる事。そして死んだ命は生き返らない。」なんてのがあるけどね
さて、
○黄巾の乱という国家が傾くほどの騒動をおこした民の大多数が後漢に良い君主を今更求めたろうか。 劉備
○才能あるものに報いるのは良いが、才能のない民にはなにがあったのか 曹操
○昔ながらの豪族制を続けて民にはなにがあったのか 孫権
黄巾という乱があった以上、民の心が分裂した状態で、これらを強烈な武力なりで押さえるだけの器量が必要ではなかったのか
ある程度押えられただけの器量ゆえに覇者。そして完全に押さえつけるような者が現れなかったゆえに五胡十六国時代に続くのではないのだろうか
- 478 :
- ちょっと微妙だな。
当時の「世論」「民意」を握っていたのは、中間層である豪族および知識人だよ。
本当の無力な一般庶民は、戦乱の時代であればこそ、良く世話してくれる豪族らに靡く。
だから覇者はまず豪族や知識人達の支持を得ることに腐心する。
それと平行して、自らが直轄統治する戸籍民を増やそうとするし、
天下平定後には豪族や軍閥の力をそぎ落として強力に中央集権を進めようとする。
光武帝の治世がその典型だ。
さて、信望高い劉氏としては、当時劉虞・劉表があり、
曹操の唯才は一般庶民階級まで敷衍できるほど大げさな話ではなく、
孫権が豪族を厚遇したとするなら、最も天下に近い信望を得たのは彼だったことになる。
これでは少々、史実と異なるよね。
- 479 :
- 劉曄が自分の立場を危惧したように、
当時、豪族大姓にとっても劉氏は利用価値があり、
ゆえに曹魏政権下で彼は処世に苦慮した。
一方劉備は、別に劉氏だからという理由で信望を得たのではなく、
「武勇と信望」で曹魏に対する一方の旗頭となるまで伸し上がった人物が、
劉姓の正統性を利用して皇帝を名乗ったもの。
陳王寵の例を加えてみても、「劉氏である」ということ、それ自体は
マイナスに働くようなものではなかった。
- 480 :
- >>478-479
孫呉政権(というより江南)の後進性はよく指摘されることだから、
そのツッコミは少し意地が悪くはないかい?
ただ、劉備が劉氏というより反曹操の側面が強いことと
当時の世論が知識人・豪族層だったことには同意する
- 481 :
- 昔ながらの豪族政権はむしろ魏だが。
曹操が、いや曹操に限らず民屯的なことを行った全勢力が豪族と同じレベルの搾取をするようになったから、
後漢末みたいに豪族から税金すらとれない状況からは脱しただけ。
といっても公田内では漢でも従来から行われてきたレベルの税だから曹操が殊の外圧政を敷いた訳ではない。
曹操が勝ち残った理由はそれを大々的にやった事。
流民の植民と農具家畜の貸し付けは前漢代からあり、兵戸制は前漢の五営や後漢の黎陽営を祖型とする世襲兵士なので、
実はここ二十年くらい色んなフィクションで宣伝されているような程オリジナリティのあるものではないし、
発案が部下二人から出ていることからも分かるように、当時の状況に置かれれば、まともな指導者なら採用するレベルの話ではある。
まぁ、先例を組み合わせてのフル稼働といったところで、これをもっとも有効に機能させたことは褒められてよい。
人材は後漢中期の袁・楊二氏時代から続く豫州・三河地域による支配がそのまんま人脈として続いて祖型を為してる。
陳平のことを挙げて才能優先をうたうのは、梁冀や宦官と癒着していた節のある後漢後期の三公胡廣が既にやっている。
正直無邪気に曹操の求賢令を額面通り受けとるのは難しい。
実際には九品官人法までは公正性などは後回しだったとみる方が恐らくは正しいだろう。
呉は豪族制から六朝貴族制に片足突っ込んでて諸将の独立性がヤバい。
史実の劉備が漢室のことまで考えて行動していたとは思えん。
- 482 :
- 実際どうだったかなんて判らんが、そうなのかもね。
でも知識人や有力者の戦争の流れよりも農民の反乱→民族の戦争という長い長い流れと混乱のほうが重要だと思うのよ
あくまで中国史の流れ的になるけどね。
てかスレチにどんどん流れるから書きこむべきではなかった・・・
- 483 :
- いいんでないの。当時の社会情勢や反乱動向を知ることは、
劉備に限らず後漢末の群雄が「統一できなかった」大きな手がかりになる。
んでも、黄巾のような「農民の反乱」が、
小作人を持たない「中農」や半ば以上小作人である「小農」といった
一般農民に率いられたものだとは考えがたいんだよな。
豪族らの主な収入はまさに農業であるわけで。
黄巾は官吏や王国を攻撃したが、
反乱の景気付けに悪徳無法な大地主が血祭りに上げられた、
なんて話は確か殆ど無かったはずだから。
- 484 :
- >>482
ああ、そういう視点で言っていたのね
それに気がつかなかったのは俺の不明だ。ごめん
その視点なら>>477の劉備・孫権の評は多少納得できる
>>483
黄巾の乱って後期はともかく当初はかなり政治的な反乱なんだよなあ
- 485 :
- >>483
権謀や才覚で曹操に敵わなかったから治めた国は小さかったって
陳寿も編纂してることだし、社会情勢のせいにする必要はないと思うよ
- 486 :
- 「劉備に限らず」って言ってるのに。
- 487 :
- 切れた。
曹操が天下を統一したのなら、社会情勢のせいには一切できないけどね。
誰にも出来ないのだから「原因」の一端、あるいは「最大」のものになりえるわけだ。
- 488 :
- 裏切りばっか繰り返してたから罰が当たったんだろ
- 489 :
- 最後の方は旗揚げ時からの家臣である関羽がもう言うこと聞かなくなってるしね
実際のところ劉備に人望があって人が集まったんじゃなくて駆け込み寺だっただけじゃね?
- 490 :
- >>489
kwsk
言うこと聞かなくなってるなんて事を伺わせる記述あったっけか?
- 491 :
- 関羽に対して魏に深く攻め込むな、くらいは言ってたような。
- 492 :
- >>491
そんな話し正史にあったっけ?
まぁ、関羽にとって荊州内なら魏の深くじゃなかったんじゃね?w
- 493 :
- 原因は性格だな
大人の風ありとはいうが、肝心なところで我を通すのが失敗の要因
あと追い込まれるとこらえ性がない
あくまで曹操との比較でそう思うだけで、まぁ陳寿の評のとおりじゃなかろうか
- 494 :
- 天はなぜ、劉備のほかに猛徳を世にだしたのかッ!
- 495 :
- 劉備がいなければ多くの人々が無駄に死なずに済んだというのが正しいと思うw
- 496 :
- いや,孫権が諦めてくれればそれでよかったのではないかと。
- 497 :
- 官渡の戦いで大勢は決してたんだよね
帝も確保してるんだから諸侯が曹操に敵対する=朝敵なわけで
劉備のいう正義って何?
- 498 :
- >>497
ということは董卓に敵対した曹操は朝敵だな。
- 499 :
- 劉備の正義っていうか、曹操に組したくない奴らに大義名分与えたのが劉備じゃないのか
諸葛孔明が仕掛け人とされることも多いが
- 500 :
- >>498
董卓軍の元から献帝が逃げ出していなければ、
闘争中の献帝を曹操が救出して奉じていなければ、そうだったかもな
>>497
朝廷から戴いた官位を送り返して、無断で漢中王を僭称できるくらい正義の人
- 501 :
- ただの結果論じゃないか。
反董卓連合軍時点の曹操が朝敵だったことに変わりないし、
劉備は魏を正統とする史観からみた場合の朝敵ということでしかない。
現実の魏晋以降の史家が持ってきた史観はそこまで単純でも一方的でもないけど。
だから「三国」志が正史の一つに数えられる。
- 502 :
- そもそも正義なんて自分の主張を個人的に正当化したものであって絶対的なものじゃない。
朝敵という見方でさえ放伐や君側のカン(漢字出ねー)という正義が主張出来るんだから。
後はその主張にどれだけの賛同者がいてくれるかだ。そういう意味では後年劉備は正義として多くの人に認められているな。
- 503 :
- 劉備末期の呉侵攻に反対した武将や文官は少なくとも劉備の大義名分をよく理解していた
劉備をそそのかしたり積極的に付き従った武将や文官は利を求めて劉備についただけの奸臣
ここまで言うと言い過ぎかもしれないが概ねの色分けはできそう
- 504 :
- 劉備の大義名分=漢による天下奪回 のためには荊州奪還こそが必須だったという方が、よく言われる話だけど。
- 505 :
- >>504
劉備の大義名分=漢朝の再興、かもしれないが
劉備≠漢、だ
献帝健在の内に漢から独立しておいて、漢を名乗るはおこがましい
- 506 :
- >>505
残念ながらそれは当たらんな。
後漢は成立の過程の問題から、有力な皇族が独立して漢を名乗ることを正統性論争だけでは抑止できない。
実力と前漢皇族であること以外に前漢を継いだことの正統性がない系統だから。
- 507 :
- >>506
あー成る程、劉備は(自称?)劉勝の子孫なんだもんな。引き継ぐなら当然前漢か。
- 508 :
- >>507
違う違う。
後漢が前漢を継いだ論理と、蜀が前漢を継いだ論理は全く同じだから、
後漢は蜀を責めることは出来ないし、後漢を継いだ魏も蜀を越える正統性がある訳ではない。
何しろ光武帝は前漢最後の皇帝である孺子嬰も、旧主である更始帝も健在のうちに即位し、
王族クラスで自分より遥かに大きな勢力を持つ劉永も敗死させて、自勢力のパトロンの劉楊を暗殺している。
後漢や後漢を継いだ魏は、血統の正統性によって劉備を責めることは出来ないし、
勢力の趨勢によっても劉備の不当を訴える事は出来ない(劉永の件が即位後なので抵触する)。
訴えたら後漢やそれを継いだ魏の正統性が揺らいでしまう。
光武帝がやったように、実力で敵をねじ伏せる以外にない。
もちろん逆に、蜀も「簒奪」疑惑以外で魏を責めることは出来ない。
むしろこういった理由で、三国が正統性論争から自由だからこそ、三国で文通が行われたりしたんだろう。
正統性論争があれば、名士や人材評論の盛んだった後漢末の空気を知ってる各国知識人は、
交流を絶たざるを得なかっただろうね。
- 509 :
- 肝腎な所を誤記してしまった。
× 蜀が前漢を継いだ論理
○ 蜀が後漢を継いだ論理
後漢の正統性がごらんの通り皇族内での血統の皇帝への近さによるものではない為、
劉備は大手を振って後漢を継ぐと主張出来る訳よ。
- 510 :
- 皇帝位云々はおいといて劉一族として見ればいい
本流の家が力を失ったから力を持ってる庶流の家が
本流に変わって劉氏の棟梁となっただけ
袁昭は嫡出ではないが袁家の棟梁となり
陸遜も庶流だが陸氏の棟梁となった
当時は一族の誰かが栄達すれば一門皆栄える時代だから
優れていれば血縁の近さなんてのはあまり関係ない
劉備がむしろ織りするほど貧しいのに学問することが出来たのは
本家の棟梁が目を掛けて学費を出したからだしね
話がずれたけど、そういう事は当時は普通に行われていることで
劉氏に限っては400年も皇帝として君臨していたので庶流の数が馬鹿みたいに多いだけ
- 511 :
- 一般の豪族に、一族全体の棟梁だの宗家だのを世襲する概念は無いよ。
せいぜい、ある家が持つ爵位や大きな土地を嫡子が継ぐかどうかってだけだが、
それとは本質的には関わり無く、その時々の高官や名望家が一族全体の有力者として振舞うだけ。
前漢-後漢-蜀漢の「王朝交替」はこれとは違い、乱世でなければ名分が立たないもの。
- 512 :
- >>510
悪いけど皇帝位についてはそんな宗族内の出来事と同列視できない事情がある。
秦漢の皇帝位の扱いの違いとして、秦では皇帝を「天そのもの」としていたものを
前漢では「天から与えられた爵位の一つ」として祭祀上取り扱っている。
皇帝位の継承は当然爵位継承の手順に準ずることになり、本来であれば嫡男など
正統性の順番で継承され、自分より正統な後継者が全て死没している場合のみ継承が許される。
皇帝や皇后の意見が「太子」選定に影響することはあり得るが、臣下たる皇族が自発でそれを正すのは無理。
子がなければ本来は断絶することになる。
もちろんそうなると臣下が宙ぶらりんになるので、皇后など内朝の意見を参考に継承者を捜すことになるが。
あとあなたが挙げている例も誤謬が多い。
陸遜が陸氏の宗族を率いたのは本筋の陸績があまりにも年少だったため。
若年時は陸績の方が名声を博している。
袁昭が袁紹の事なら、一族の根拠地で割拠した袁術の方を宗族の長と見る場合が多い。
劉備の例はそもそも宗族の長の「就任の」話とは全く関係がない。
タク郡劉氏は魏内で劉備とは別個に存続している。
- 513 :
- 皇帝が崩御した時に嫡子がなく、遠縁から招く場合は、養子の体裁となるね。
だから新帝は血筋上はゆかりも無い皇太后
(つまり先帝の正妻。本来の嫡子を産んだかどうかも問題ではない)を
母として仰ぐ。
- 514 :
- age
- 515 :
- 曹操、孫権、劉璋に囲まれてる荊州じゃ最初から詰みだろ
- 516 :
- ゲームだと兵站の概念がほぼないから厳しいけど
歴史上だと旧劉表の幕僚や兵卒物資を半分でも組み込めたら
南下してきた曹操と充分対抗出来たはずなんだよ
持久戦に持ち込めば守る側が有利だし魏は結構小中規模の反乱が曹操の代は起きてるから
- 517 :
- >>516
ゲームじゃないと言うのなら,当事者の意識も考慮しないといけないのでは。
劉表の死後,政権幹部は一致して劉jを擁立し,即座に降伏を決定させた。
そして劉備は,この流れに全く関与させてもらえなかった。
少なくとも彼等に,劉備に荊州を譲ってまで曹操と戦う気があったとは思えない。
しかも曹操が来る最中なのに,どうやって劉備が半分も取り込めるの?
- 518 :
- >>515
曹操が南下する以前に劉表を謀殺して荊州を上手いこと奪い取れたのならやりようはあるさ
荊州を奪えず仕舞いでも何とかなったのだから
- 519 :
- >>518
まあ荊州を奪うことだけ考えればそれでもいいけど,
本当に乗っ取ってしまったら,その後劉璋には警戒されるから,
益州奪取は逆に難しくなるのでは。
それに,乗っ取りの最中に孫権に攻め込まれそうな気がするけど。
- 520 :
- >>30
劉璋を病死に見える毒物で毒Rればよかったね。
出迎えたときに食事会があったのかは分からないが。
まあ、そんなこといったら歴史上のこういう場面はみんな毒殺で片付くことになるけどw
- 521 :
- うまく毒殺しても劉ジュンが後を継ぐだけ
陶謙の徐州とは違って益州は完全に王国化していて、「はい劉備様どうぞ」とはならない
うまく譲ってもらった徐州ですら曹豹のような輩がいるのだから、
やはり戦って完全に屈服させない事には戦後の安定した統治は無理だろ
- 522 :
- 「劉備が天下統一できなかった最大の原因」は同時代に曹操がいたことだな。
- 523 :
- 曹操いなかったら袁紹で決まりじゃないか
- 524 :
- まあそうか。
じゃ、張飛がいなくて義弟は関羽だけだった場合、色々と有利だったかも。
いや、そんな事言ったら呂布さえいなければって話にもなるし。
まあ真面目に考えると、学問が嫌いだからあまり故事とか兵法とかを知っていなかったのが原因とも言えるかな。
まあ劉邦も似たようなもんだけど。
- 525 :
- 劉邦と劉備の違う点
劉邦は自分の考えずに配下の進言を受け入れる
劉備は自分の考えと配下の進言が食い違うと自分の考えを押し通す
この点の違いが結果を変えた
- 526 :
- >>524,>>525
そこは本当に無学なためにちゃんと自覚していた劉邦と,
一応は学問を修めたために中途半端に自信があった劉備の違いではないか。
- 527 :
- 劉備が流転した原因は劉備の能力不足としか
馬良とか法政とか得てからは一気に駆け上ったわけで
- 528 :
- 重臣でもない単なる一食客に過ぎない劉備が
劉表が死んだ直後に荊州乗っ取りなんて話にならんだろう。
- 529 :
- >>522-524
袁紹は、あの病死が普通に寿命なら死後に息子が争うから十分勝ち目があるだろう
袁紹が生きていたとしても、派閥争いがひどく、足の引っ張り合いで隙はかなり多そう
曹操に対する漢中での勝利、荊州での関羽侵攻で首都移転を考えていたことを思うと、
当時は、国力は大きなファクターになりえないだろう
- 530 :
- 天哉!漢室豈運數已盡乎?
昭烈帝早崩,諸葛武侯早薨,否則勝負亦未可知也!
- 531 :
- 竹中半兵衛
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1149961905/
- 532 :
- 耳がデカすぎたからだな
- 533 :
- >>522
曹操が天下統一できなかった最大の原因もまた、同時代に劉備がいたためなんだよな。
- 534 :
- >>529
袁紹が202年ごろに死んで跡目争いで分裂するなら袁氏は無理だが、
そうでないならほぼ決まりだろう。
200年代前半に大軍で南下されたら、劉表も孫権も勝ち目はない。
特に孫権は、赤壁時代に輪を掛けて求心力が足りない。
揚州を纏めて大戦をするのは無理。
- 535 :
- >>533
劉備は遠因であって、本命は孫呉が降伏勧告に応じなかったから
孫呉が降伏勧告に応じないなら、劉備がいてもいなくても天下統一は厳しい
劉備がいなけりゃ100年早く南北朝時代に突入してただけじゃね?
- 536 :
- 劉備がいなければ孫権は荊州勢力と繋がることができないから、
赤壁まで到達すらできない。揚州に封じ込められて手詰まり。
益州を曹操から防いだのも劉備。
- 537 :
- >>536
魯粛が劉gを取り込めば江夏郡を抑えられるから,迎撃することはできる。
劉gを利用すれば,劉備と同様に荊州中南部を得ることも不可能じゃない。
ただ劉璋側が迎えに来てくれないから,そこから益州を奪うのは困難だろうけど。
- 538 :
- たられば、なんてするものじゃないよなーとか思いながら保守
- 539 :
- >>537
取り込めれば、ね。
劉表と孫権は長年の仇敵同士。
だから魯粛は因縁の薄い客将の劉備と交渉した。
なにより劉gに劉備と同等の武勇と信望は無い。
史実で荊州人士を取り込みながら並行して行われた
一年以上の荊州・汝南戦役を、劉gをパートナーとして完遂できるか?
という課題はまずクリアできない。
勿論、荊州人が曹操の下から南へ逃れてきた現象には、
劉gの存在は大きな影響があっただろうが、
あくまで副であって主にはなれない。
- 540 :
- 今更間違いに気づいたw
×荊州・汝南戦役
○荊州・淮南戦役
- 541 :
- >>539
劉表側にとっての孫権は東方の敵勢力であって仇ではないから,
孫権側から劉g、劉jと連絡を取ることに支障はない。
実際に魯粛は劉表の弔問目的で荊州に向かっている。
劉備がいないとして,劉jが降伏して劉gが浮いた状態なら,
魯粛は劉gと交渉するだろうし,劉gにも他に頼る相手はいない。
もちろん,劉備抜きではその後が厳しいのは貴説のとおりだけど。
- 542 :
- 劉gにとっては降伏するのが最有力選択肢。
劉備無し、江夏戦力のみでは、孫権支配下に完全に組み込まれることになる。
戦歴や野心の有無、孫堅の死の事情から見て、
屈従の危険を踏んでまで曹操に抵抗する理由は無い。
- 543 :
- >>542
当時の劉gにとって最大の敵は劉jとその一派であって,孫権ではない。
事実上劉備の傀儡に甘んじた劉gが,孫権には従えないとも考えにくい。
(年長の劉備はともかく若造の孫権には…という可能性はあるけど。)
孫権側だって,黄祖ならともかく劉gを仇扱いすることはないだろう。
というより,劉gが貴説のとおりに判断するのなら,
劉備が長坂で蹴散らされた時点で曹操に降伏するのではないか。
揚州6郡を支配していた孫権側でさえ降伏論が主流だったのだから。
- 544 :
- 地盤の無い劉備は劉gを必要とする。彼と組めば、荊州での一定の権力・権威の分与が期待できる。
地盤と人材のある孫権が劉gを必要とするのは江夏の通過時だけ。あとは邪魔な存在でしかない。
将としての価値も無い劉gは、荊州での地位を貰えず、揚州に引っ込まされる可能性が高い。
しかも、曹操と対立する孫権政権が長続きする保証は無い。
劉j一派が曹操陣営で大きな地位を占めるなら、そちらへの降伏は劉gにとって危険だが、
現実にはそうではない。
劉jに及ばないにしてもそれなりに厚遇されて、離れたところで後漢の臣として安楽な人生を送れる。
仮になんらかの事故で曹操が滅んでも、権力争いに首を突っ込まなければ安定度は高い。
>劉備が長坂で蹴散らされた時点で
しかし、その時には関羽が夏口に到着しており、劉備もすぐに続いて到着したわけだ。
孫権との同盟の見込み大という土産を持って。
降伏に傾く時間は無かった。
- 545 :
- 荊州支配に荊州勢とのつながりが必ず必要なモノか?
孫呉は、赤壁の戦いのあと、荊州の東部を支配下に治めているぞ?
赤壁で曹魏軍を追い返せば、反抗するだけの勢力を持たない荊州なんて
支配できないわけがないと思うが?
- 546 :
- 曹操の脅威が無ければ、必要というほどではないね。
しかし、荊州が北と東の両面から圧迫を受ける状況では、
荊州の人心をいかに速やかに掴むかが重要な鍵になる。
でないと曹操がまた侵攻して来たときに総崩れになりかねない。
当時の荊州には、揚州の盾となって強大な敵と戦う理由が無いから。
孫呉は209年、215年、219年と段階的に支配を広げ、222-223年の危機を
武力で排除することでようやく荊州支配を定着させた。
- 547 :
- >>544
孫堅が元長沙太守だったとはいえ,ずっと劉表と争っていた孫権側にとって,
劉gは荊州の人心を集めるための神輿として必要だろう。
その意味では,劉備と孫権にとっての劉gの価値に違いはない。
劉j一派は曹操から刺史、九卿以下の大官を与えられている。
丞相府の官属でないから実権はなかったとしても,扱いは決して悪くない。
- 548 :
- 「悪くない」地位を捨てる危険を冒してまで、劉gに害を及ぼす意味があるのかという話。
劉表の嗣子という地位は曹操に降伏した時点で消滅しているのに。
遺臣達はなおさら、劉兄弟と離れたところで独立して自分の安楽なり出世のために行動していく。
>人心を集めるための神輿として必要だろう。
自分の旧臣と新たな蜀閥で体制を固めた劉備蜀漢政権下で、
劉璋・劉循親子はどうなったか。御輿といってもよくて飼い殺しでしかない。
蜀を取った劉備にも、揚州の孫権にも、自前の権威と兵力と人材が十分にあるからね。
戦力として役に立たないのに「御輿」に担がれて独立されかねない若者に対し、
孫権は、たとえば荊州刺史のような権威を与えるだろうか。否だろう。
貧弱な地盤で孫権と曹操に抗して荊州を維持しなければならない劉備にとって、
劉gの価値はずっと大きい。だから当初の政軍分割統治的なものが成立する。
- 549 :
- >>547
>劉gは荊州の人心を集めるための神輿として必要だろう。
この前提がおかしいって
そんなものなくても孫呉は赤壁直後に荊州東部を支配下に置いている
劉備がいなければ、南部も支配下に治めていただろう事は疑う余地もない
なにしろ荊州に孫呉の侵攻を食い止めるだけのまとまった勢力がないのだから
また、関羽を討ち取った後も、特に荊州の大物と連携した様子もなく荊州をキッチリ支配している
- 550 :
- >>548
荊州支配者としての劉jの降伏を受け入れた曹操にとって,劉jと敵対する劉gは敵になる。
それで曹操側も劉gを攻めたから,曹操側が江夏郡北部を支配した結果があるのだろう。
史書には奪った記録が見当たらないから,赤壁で敗れる前だった可能性が高い。
あと,神輿なんだから担がれるだけなのは当たり前。劉gに文句を言う力なんてない。
あなたが何を根拠に「政軍分割統治的なもの」を想定するのかは分からないけど,
劉備だって劉gには何もさせていない。というより,夏口から動かした形跡すらない。
劉gの墓は夏口近辺にあったとされるのだから。
孫権だって長年荊州と戦ってきたのだから,荊州人には敵視されている。
人心掌握のために劉表の遺児を利用したいのは劉備と同じだろう。
なぜ必要以上に区別する必要があるのだろうか。
- 551 :
- >>549
孫権側が劉備側に全く頼らずに奪ったのは長沙郡北部だけ。
これは長沙にいた黄忠が劉備に従った以上動かしようがない。
長沙郡南部、桂陽郡、零陵郡、武陵郡は劉備側が独自に奪って,
江夏郡南部、南郡、臨江(宜都)郡は劉備側と協力して奪ったということだろう。
劉備側抜きでは赤壁はともかく,江陵まで奪えるとは限らない。
江陵を抑えないと荊州南部は孤立しないから,奪うのにも苦労することになる。
>>550でも触れたとおり,孫権側は荊州人にとって久しく敵対勢力だった。
いないのならともかく,担げる神輿があるのに使わない手はない。
劉備ですら利用した孫権側が,劉gを利用しないとは考えにくい。
- 552 :
- >劉jと敵対する劉gは敵になる。
そりゃ有り得ないわ。ナンセンスの極み
荊州が「劉表の後継者が受け継ぐべき土地」では有り得なくなった時点で、
劉兄弟の政治的利害は消滅している。
個人的な怨恨は残った可能性はあるが、
よりにもよって荊州の地図を塗り替え、
さらに劉氏の影響力を完全否定したい側の曹操が、
劉jの立場と利害を慮って劉gを攻撃してやる価値はゼロ。害しかない。
曹操が江夏を攻撃したのは、江夏が降伏していなかったからに過ぎない。
- 553 :
- >劉備ですら利用した孫権側が,劉gを利用しないとは考えにくい。
利用はするかもね。本当に利用するだけ。劉循が奉車中郎将になった立場以下。
劉gには劉備のような兵力も実績もないから。本当に、孫権の実力の上に載せられる御輿にしかならない。
荊州に留まったら曹操との争奪戦の最前線。揚州に引っ込まされれば因縁から窮屈な思いをする。
しかも、劉g自身も孫権陣営も、どう考えても不利な側。
負ければ命も危ないうえに、自由も権限もないから自分で立場を切り開くこともままならない。
それなら、曹操に下った方がはるかにまし。
羅憲が呉に啖呵を切ったのと同じ理屈。
- 554 :
- >>552
旧支配者の影響力を完全に排除するなんて,できるわけないだろう。
そんなの江東での孫策、孫権や益州での劉備を見るだけでも明白なのに,
更に強大な袁氏を相手にしていた曹操が分からないはずがない。
(統一に成功した西晋ですら,蜀漢や孫呉の旧支配地に配慮したのに。)
というより,劉jは荊州を代表(する立場を称)して降伏した。
降伏した者の立場はある程度認められるものだから,
曹操が劉jの降伏を認めたことは,降伏までの劉jの荊州支配を認めたということだ。
だから,最初から曹操の味方でもない限り,劉jの敵は曹操の敵になる。
ナンセンスでも何でもなく,それが降伏を受け入れた側の責務だ。
あなたの言う羅憲だって,そのおかげで曹魏に助けられたのではないか。
>>553
孫権側が劉gを利用するだけだろうということはそのとおりなのだけど,
なぜ「劉備も劉gを利用しただけ」という事実に目を背けるのか。
- 555 :
- 念のため補足。
>降伏した者の立場はある程度認められるものだから,
これはあくまでも後漢王朝を前提とした各群雄同士での話であって,
別王朝を称していた三国時代の話ではないから。
別王朝だと劉禅や孫皓がやった(やらされた)ように,
「勝手に皇帝を名乗っていた賊が身の程を弁えて降伏した」になる。
- 556 :
- 劉jは青州刺史として飛ばされている。
荊州において、曹操は劉j個人の影響力を必要としなかった。
劉gなど何をいわんや。
曹操陣営にとってはそれが単純な事実。
- 557 :
- >>556
そりゃあ降伏者を旧支配地には置かないだろう。劉備という先例もあるのだから。
それに,劉備や孫権が劉gを利用する云々は荊州を得るために必要なことであって,
現に降伏して州を差し出した劉j(や益州での劉璋)とは一緒にできない。
劉jの影響力は荊州を挙げて降伏したことでそれなりに発揮されている。
そして,曹操も名目とはいえ州刺史を与えることでそれを認めている。
全く認めていなかったのなら,劉jに官位を与える必要はないのだから。
- 558 :
- で、その劉jの「荊州での役割」は、降伏で終わった。
だから
>劉jと敵対する劉gは敵になる。
>それで曹操側も劉gを攻めたから,
は有り得ない。
曹操の荊州支配は劉jの個人的影響力などとは関係なく進展する。
降伏者を厚遇するというのは、拡大勢力の有効な常套手段であって、
勿論、帰趨に迷う人間を決断させる効果があっただろうが、
「御輿」の類とは関係ない。
- 559 :
- >それに,劉備や孫権が劉gを利用する云々は荊州を得るために必要なことであって,
>人心を集めるための神輿として必要だろう。
矛盾を整合してくれ
- 560 :
- >>558
劉jが荊州を支配していたことは,「州を挙げた降伏」を受け入れた曹操によって認められた。
(それが事実か否かはともかく,彼等はそう見なした。)
江夏に拠る劉gは,劉jと対立してその降伏に加わらなかった。
この時点での劉gは,曹操から見れば降伏したはずの荊州内で勝手な行動をとる輩。
個別に降伏してくれば別だが,そうでなければ曹操にとっての敵だろう。
その後の荊州支配はまた別の話。
>>559
滞在していたとはいえ客将に過ぎない劉備や州外勢力の孫権にとって,
荊州で人心を得るためには劉gを神輿として利用する必要があるということ。
書き方が悪かったかもしれないけど,少なくとも矛盾はしていないと思うが。
- 561 :
- >>560
つまり曹操は自分の荊州支配の権威と利害に基づいて、降伏しない劉gを攻めた
(>曹操が江夏を攻撃したのは、江夏が降伏していなかったからに過ぎない)
だけで、
>劉jと敵対する劉gは敵になる。
>それで曹操側も劉gを攻めたから,
は撤回するわけだね。
>荊州で人心を得るためには劉gを神輿として利用する必要があるということ。
ならいいや。人心を得るための御輿説を放棄したのかと思ったもんだから。
少し前に戻って、
>あなたが何を根拠に「政軍分割統治的なもの」を想定するのかは分からないけど,
この時代、刺史/牧の職は重いよ。少なくとも劉備や孫権の規模の群雄にとっては。
軍閥の頭目自身がなるか、遠方に派遣した者に任じて半独立的な権限を与えるかだ。
でなければ、孫権や揚州刺史を長らく置かなかったりする。
地方軍閥に刺史に任じられて権限が無かった例は無い。
劉備は荊州刺史を劉gに任せて、南方討伐に自ら出陣している。
これが「政軍分割統治的なもの」の根拠。
刺史たる者が劉備の傀儡御輿だったのなら、むしろそちらの方に根拠が必要だと思うな。
- 562 :
- >>561
劉jが降伏した時に劉gが敵対していたということが,
降伏によって曹操に引き継がれたと言っているのだけど。
もとより仮説だから正しいとは限らないけど,撤回するつもりはない。
劉備が荊州刺史を劉gに任せた?正気か?
どう見たって人心掌握のための傀儡として担いだ以外の何物でもないだろう。
>>550で書いたとおりだ。
私みたいな素人の主張は聞けないというのなら,
「彼は戦後ただちに名義上劉gを荊州の刺史として奉じ」(植村清二『諸葛孔明』)
「名目的には劉gを荊州の支配者に擁立することができました。」(渡邉義浩『諸葛亮孔明』)
少なくとも私は寡聞にして,劉gが実権を有していたなんていう話を聞いたことがない。
あるのならぜひ御教授願いたい。
- 563 :
- だから、この時代の刺史が名目だけのものだった例がないと言ってるんだが。
専門家の言葉って、後漢刺史の専論でもない部分の言葉尻を奉ってどうすんのよ。
>劉jが降伏した時に劉gが敵対していたということが,
>降伏によって曹操に引き継がれたと言っているのだけど。
これ、仮説云々の前に、どういう政治状況だか想像できないんだよね。
劉gが曹操に降伏しなかったのは、かつて劉jと敵対していたからか? 否。
曹操が夏口を攻めたのは、劉gがかつて劉jと敵対していたからか? 否。
曹操と劉gは何を引き継いだわけ?
- 564 :
- >>563
え?劉jの青州刺史が名目だけじゃなかったとでも?
青州って徐州と同様,臧霸や孫観に委ねなければ統治すらできなかったのに。
>曹操と劉gは何を引き継いだわけ?
そりゃあ散々言っているように,劉jと劉gの敵対関係だ。
劉jが曹操に受け入れられた直後に,劉gが顔を出せるはずがないだろう。
劉j等が荊州を去ることが劉gに伝わる頃には,孫劉連合は成立している。
(まあこれはループし続けるんだろうな。)
で,一番の問題なのだが,
>専門家の言葉って、後漢刺史の専論でもない部分の言葉尻を奉ってどうすんのよ。
ここまで言えるのだったら,普通はその専論なり自論なりを示すものなのだが,
まさか何も言えないのか?正直恥ずかしくないのか?
- 565 :
- 州規模以内の群雄にとっての州刺史の価値をしたはずなんだけどね。
青州統治に臧覇の力が必要だったから刺史がお飾りだったという理屈もないけど。
>孫劉連合は成立している。
ループだねえ。
劉gに積極的意思があったかはしらないが、
劉gが降伏しなかったのは連合が成立したためであり、曹操が夏口に攻め込んだのは劉gが降伏しなかったためだから。
曹操・劉g、どちらの動機にも劉jの存在は二番以下に落ち込んでいる。
刺史についての論は多数出ているけど、特に後漢魏刺史の地方権力について知りたいなら、
「後漢時代における刺史の行政官化再考」「後漢・魏における地方鎮撫に関する一考察」などお勧め。
後漢の刺史が皇帝の使者としての性格をもって権威を強め、政治のみならず、緊急時には
反乱鎮圧権限を得て郡兵を統率した過程が
そこでは刺史は、謁者・御史中丞・中郎将と言った皇帝側近に類する者と看做されていることわかる。
州規模に勢力を広げた後漢末の群雄たちがこぞって刺史・牧を名乗り、勢力圏外に有力者を送る際に
刺史を名乗らせた理由はこれらを読むとよく判る。
一州未満の勢力にとって、刺史の地位がどれだけ重大で、貴重で、ゆるがせに出来ないものだったか。
傀儡なんぞに放り投げて済むものだったか。
- 566 :
- >>565
やればできるじゃないか。とは言え,せめて>>563で出していればよかったのにね。
何で著者名を伏せて論文名だけ書くなんてバカな真似ができるのだろうか。
引用の仕方すら知らないのか?とりあえず植松氏と竹園氏に謝れ。
植松氏については正直存じ上げなかったから,御教示いただき感謝する。
しかし,竹園氏のその論考はあなたの主張には何の役にも立たない。
だって竹園氏は劉jや劉gには全く触れていないから,
後漢後期、末期の一般論がどうであろうと,群雄割拠期の劉jや劉g個人にそのまま適用できるわけないだろう。
そもそも,曹操が劉jを青州刺史にした理由なんて簡単に想像できる。
一州を挙げて降伏した者に対して地位的にそれなりの配慮はするけど,実権は与えないということだ。
劉備が劉gを荊州刺史に「表」した理由なんてそれこそ露骨だ。
劉表の遺児が健在なのに,客将風情が前面に出て嫌悪されるのを防ぐためだ。
で,そろそろ,
>少なくとも私は寡聞にして,劉gが実権を有していたなんていう話を聞いたことがない。
に対する具体的な反論をいただきたいのだが。
- 567 :
- アホくさ。
こんな辺鄙な場所で、なんでそんな無礼な上から目線で引用の仕方をご教授いただかなきゃならんのか。
- 568 :
- 最後に言い捨てる。
無論、劉g個人の権限を究明した「専論」など無いだろうね。
>理由なんて簡単に想像できる。
その豊かな想像力を駆使すればいいだけだよ。
劉備が江南を平定し終えるまで生きていたかどうかも不明で、
のちの蜀に影響力を残せなかった劉gの荊州刺史としての実権の有無が記録されていないのは仕方の無いこと。
ならば刺史と群雄の一般傾向から演繹し推定するしかない。
夏口と兵一万を領有していた劉gが、群雄にとって貴重な州刺史職に就いて、実権が無いという状態が自然かどうか。
俺は寡聞にして、劉gが実権を有さない傀儡御輿だったという記述を見たことがない。
まず劉gが無力柔弱な青年だったという先入観からはいるのを辞めるだけでいいと思うがね。
じゃあ、バイバイ。
- 569 :
- あっと、劉gの兵は劉備に奪われたに決まってるだろとか言うのは辞めてくれよと念のため。
じゃあ、劉備が江南平定し、周瑜が曹仁を攻める間、
荊揚の連絡点である夏口は誰がどんな兵力で守っていたのか。
- 570 :
- スレタイと関係のないたらればをウダウダと語ってる時点でアホくさいだろw
- 571 :
- >>568
「専論」?私はあなた自身の主張の根拠を聞いているのですが。
答えられないのはともかく,自分で涙目逃走を暴露しちゃだめだろ。
>>570
劉gの実力評価は,劉備が孫権抜きで荊州から飛躍できるかの鍵だとは思うけどね。
いや私がスレから逸れた話題を続けたのは確かだからお詫びする。
- 572 :
- ではスレタイに戻って。
曹操や孫権が勝手にコケてくれるのを期待するわけにはいかないから,
劉備としては徐州を何とか維持していくしかないのだろうか。
- 573 :
- 鳳統を田舎の県令かなんかにしたときはほんとバカなんだなとか思ったw
- 574 :
- 結構地方〜中央を渡り歩き、各有力者の幕下に入ってるから在野人士との接し方や見る目は養われてたと思うんだが
諸葛亮あたりを除くと能力如何より地元の有力人士を重く用いがちなのが劉備。
言うまでもなく、地力がない根無し草の勢力しかなかったから
地元無視だとやっていけなかったからだろうが。
- 575 :
- 劉備は徐州時代にも部下の扱いで失敗してるし言われてるほど人望あるとも思えんな
あくまで曹操から追い立てられてる奴らの駆け込み部屋でしかないんじゃないの?
- 576 :
- >>573
周瑜の死後にようやく帰属したような奴の処遇としては変ではないと思う。
- 577 :
- 諸葛亮の同門っていうのは演技だけ?
- 578 :
- >>576
鳳統の顔見て判断してなかったw?
- 579 :
- 曹操 ?統の進言を素直に受け入れる
劉備 地方役人扱い
曹操の人材マニアっぷりw
- 580 :
- 孫権も顔でダメ出ししたよねw
- 581 :
- >>580
顔よりも、周瑜と比べてどうだ?って問いに対する答えが
気に入らなかった方が強かったんじゃね?
- 582 :
- それは演義なのか史実なのか
- 583 :
- 劉禅って劉備に似ちゃったの?
- 584 :
- 劉備に似たらかなりの曲者になるから母親似なんじゃね?
- 585 :
- 原因は人材的に既得権にうるさい一群のさらに一部しか獲得できなかったことです。
曹操さんのやり方にはついて行けんわーという曹操基準で求められる成績よりやや下の人たち、
曹操さんに既得権を保証してもらえない人たちが中心なのです。曹操さんがあってはじめて劉備さんの勢力があるのです。
- 586 :
- 地方の役人wwとか言う奴多いが
彼が就いた職はイメージほど軽い職では無いよ
- 587 :
- >>586
能力に対して相対的に低いって意味じゃないの?
伏龍鳳雛と言われた一方を県令なんだし
首相レベルの能力があるのに鳥取県知事みたいな
鳥取県知事が軽い職ではないけど能力に見合ってないでしょ
- 588 :
- 首相よりは首長の方が権限の及ぶ範囲は大きかったりw
- 589 :
- 結局、孫権とちゃんと共同しなかったからだろ、リュウビと孫権がたばになってようやくソウソウの
半分の国力だというだろ、結局どっちかが倒れれば終わりだろ
- 590 :
- 北伐に呉を無理矢理巻き込むってやり方は大雑把過ぎたな
- 591 :
- まぁねぇ、基本自分の領域確保出来たらそれでおkの呉からしたら
特に北伐にメリットは全く無いではないが、そもそも呉の実態の江南豪族集合体の目的は自らの保全だから、積極的になる謂れなんか無くてあわよくば領土が殖えたら嬉しいな程度。
北伐出来たらメリットだらけの蜀ばかり都合良く旨いシナリオに乗らなくてはならない理由が無い。
北からの圧力さえ無ければどうだっていいんだから。
- 592 :
- 関羽の暴走が痛かったね
荊州さえ持ち続けてれば北伐で魏を荊州方面から牽制することが独力で可能だったのに
- 593 :
- どうせなら関羽と劉備が同時に軍事行動起こせてたら、多少マシか?な所だがね。
でも例え史実通り関羽の最初だけ快進撃があっても、劉備の魏進攻の方が遅れ気味になったら余り同時軍事行動をしてたとしても史実での結末と大差無かったかもしれない。
無論劉備関羽が同時に北伐をしても、呉が同調したかは怪しい。
大体呉は北より荊州の方が欲しいんだしな。
関羽は軍事行動の事前に劉備に連絡や許可をそもそもしたり貰ったりしてた上だっけか?
許可得た上での突出なら、結果的ながら荊州失陥の責の一端は劉備にもあるといえるが。
やはり関羽自重(対魏呉)があの時点での最善策だろうねえ。
- 594 :
- >>551
>孫権側が劉備側に全く頼らずに奪ったのは長沙郡北部だけ。
>これは長沙にいた黄忠が劉備に従った以上動かしようがない。
>長沙郡南部、桂陽郡、零陵郡、武陵郡は劉備側が独自に奪って,
>江夏郡南部、南郡、臨江(宜都)郡は劉備側と協力して奪ったということだろう。
これは違うな。長沙郡南部、桂陽郡、零陵郡、武陵郡は劉備側が呉に兵を借りて奪った。
呉も南郡方面は劉備から関羽張飛を借りたからお互い様だが。
しかし荊南があっさり落とせたのは周瑜が南郡で曹仁相手にがっぷり四つで戦ってた為
荊南の親魏派の太守達にとっては後詰めが全く期待できなかったから。
その点含めて赤壁の頃から劉備は呉に大きな借りを作っているから
劉備が完全に荊州を呉に返さない限りは、蜀は常に呉に負い目がある立場。
- 595 :
- >>585
言いたいことはわかるがしかし個人的にこういう考え方はあまり好きじゃない
- 596 :
- 袁紹が負けた時点でもう曹操の勝利は目に見えてたのに
わざわざ呉を炊きつけて中国の争乱を長引かせた結果、周辺異民族の流入を招き
以後の五胡十六国時代を招いたという意味で劉備は国賊
- 597 :
- 敵対勢力を実力で全て叩き潰してこそ真の覇者。
惰弱な言い訳など見苦しいだけだな。
劉備にも孫権にも敗北している曹操の勝利なんて見えてなかったよ。
- 598 :
- 既に異民族は十分に流入してただろ
晋の扱い方が純粋に無能なだけ
それまでの中国史上も異民族の流入と傭兵としての利用は珍しくない
- 599 :
- 蜀如きに?統を失うから
- 600 :
- 荊州も?統か孔明か法正を関羽のお目付け役にしてれば失陥してなかっただろうね
- 601 :
- >>596
そんな紆余曲折な難癖をつけなくても
漢から賜った左将軍の印を送り返して漢中王を僭称
独立している時点で逆賊なのは間違いない
- 602 :
- 結局、曹操に正統たる実力が足らなかったから
劉氏というだけの劉備にも正統権を許しちゃったんだよな。
三国時代って色々と完璧なものが欠けてる時代。
- 603 :
- あげ
- 604 :
- 人事の問題だろうな
織田信長ほどの実力登用制度を採用していたら
あらゆる人材が曹操陣営に集まったんだろうが
曹操も結局は身内ひいきで有能な人材を抱えきれなかった
彼らが他の陣営にうつる事によって三国県立が成り立ってたんだよ
- 605 :
- 三国時代は豪族時代でもあるから、やはり純粋な能力主義は厳しかったのかね
ただ、曹操側から流出した人材もあるが、その逆も少なくないはず
長江が無ければ・・・・・・
- 606 :
- ドコモ アウー 祖父版 まさに世は三国時代よ
- 607 :
- 初期のメンツと後から来た連中、さらに学者のコネでやってきた連中が
お互いに蹴落としあいを始めるからな
人間の間に優劣と上下関係があるってのは儒教の国家の欠点なんだよな
アメリカなんかだと神の下に人類平等ってルールだから
新人と古株が平等に競争するから
- 608 :
- 中華の範囲が曖昧だから
- 609 :
- 劉備はあらゆる面で曹操に劣っていたから
- 610 :
- 死神が天下取ったらそっちのほうがおかしい罠
- 611 :
- 劉備は孫権にも負けている
- 612 :
- 恩人の呂布を殺したからだろう
- 613 :
- 長い間本拠地を持たずに遊牧民族さながらに転戦しすぎたからだろ
- 614 :
- 結局劉備が一番輝かしかった時って曹操と組んで徐州治めてた時だよね?
- 615 :
- 益州と荊州の一部を保持して漢中王を名乗った頃じゃね
- 616 :
- そもそも劉備に天下取りの野心なんてあったんかな。
- 617 :
- 劉備が天下をとりたいというよりは
劉備配下が劉備を掲げて天下を望む事で団結していたんじゃないかと感じる
劉備自身は漢への思いはあったとしてもそこに執着していたようにはあまり思えない
- 618 :
- 一生義勇軍で居たいとも思ってないだろ
というか劉備は何がしたかったんだ?
- 619 :
- 安喜県尉を与えられるまでは多分純粋にいっちょ一旗揚げたい位なもんだったろう。
以後はあちらこちらと群雄の客分兼傭兵隊長な生活をする内にスレて、とにかく生き残ったもん勝ちな生き方に。よくいえばしぶとく悪くいえば義理は掻き捨て。
でもそうしていても生き残ってきたのは、決して劉備が無能な所か相当な力量を持っていたからこそ。また毎度嫌われず群雄に拾って貰ってるのもその証左でもあり魅力もあったと言える。
天下への志は荊州時代から漢中王を称した間位じゃないかなあ。
- 620 :
- なんか加藤の乱みたいなもんだな・・・
持ち上げられて浮かれて決起したものの足元すくわれて失脚
- 621 :
- >>618
乱世を思うがままに生き抜いたが、後世の史書家が無理矢理
天下への野心を持つ君主に押し上げた、とかじゃね。
英雄の名を弄ぶのは結局インテリ達だし。
- 622 :
- 押し上げて君主になれるもんなの?
- 623 :
- 赤壁以降の急激な膨張がバブル期に多角経営してその後倒産していった会社にだぶるね
関羽が暴走して死んだのも古参、荊州閥、蜀閥の争いの結果に見えるし
- 624 :
- 曹操暗殺計画だろうな
アレで曹操に狙われる立場になったし
- 625 :
- >>623
(株)関帝 は年を増すごとに会社が巨大化していく中国屈指の化け物会社になったけどなw
(株)三国演義 も安定の売り上げで毎年の黒字更新。
(有)三国志は今厳しい経営状況になっている…。
- 626 :
- 陳羣のいうことを聞いとかなかったから。そのせいで名士たちは劉備を見限った
- 627 :
- 劉備に賭けた奴ってコンプガチャにはまって騙された奴ら的な・・・
- 628 :
- 晩年では劉備は凶悪だからね〜
- 629 :
- なんか晩年の劉備って尊大になってるよね
呉攻撃に孔明も趙雲も参加してないってのはそういう事なんでしょ?
- 630 :
- 曹操が刈り取った後の落穂ひろいって感じじゃないかな
- 631 :
- >>629
もう張飛もいないんだから丞相領司隷校尉の諸葛亮を蜀に置いて内乱や魏の攻撃に備えないといけないってことじゃないですかね
- 632 :
- 荊州失った時点でもう蜀が中国統一の可能性はなくなったんだよな
あえて北伐する意味があったのかね?
- 633 :
- >>632
しないと年月がたてば必ずやられると言ってただろうが
- 634 :
- 逆に引きこんで叩く方法もあったと思うけどね
- 635 :
- 逆に友好関係築いていたら
やられなかったと思うんだけど?
- 636 :
- 仲良くは無理。言うまでもなく魏は漢の禅譲を受けて皇位の正当性を得ていて
蜀は前漢の皇族の血を引く血統と劉備が即位時に献帝が死んだから皇位に即く
(生きてるのに諡号まで贈って、生存が知れても撤回した形跡も無い)
という全く対立する根拠で国を成立させているので、国家の名分が両立出来ない。
だから蜀と魏に関しては仲良くは元より不可能。
但し大義名分も何も無いのに皇帝を称した呉はむしろ「漢の宝祚を承けて皇位に即く」という前提が無いので
どちらとも両立出来る。いってみれば半ば外国みたいな立ち位置だから。
蜀領内に魏を引き込んで叩くのは一回は出来るし成功するかも知れないが、一度叩かれたら最後次回はかなり先でしかも蜀が潰せる目算が立った時が来るまで魏は来寇しない。
勿論全軍上げて攻めて来る訳が無いから、蜀領内に入った兵力と武将によってその魏が敗戦した場合の影響度も異なる。
また蜀領内は魏来寇によりかなりの高確率で大きく荒廃するので(中国の戦争は他国領内では徹底的に掠奪しまくりがデフォ)
引き込み作戦後の蜀の復興は相当大変な事になる。
北伐と引き込み作戦のそれぞれのメリット・デメリットの度合いの問題だね。
- 637 :
- 諸葛亮じゃなくて司馬懿を登用してれば・・・
- 638 :
- そのためには荀イクを登用して、穎州閥を味方にしないと…
そもそも劉備にそんなチャンスあったんだろか。
- 639 :
- >>632
仮にも豫州刺史だったのだから穎川に縁はあるし,実際に陳群を登用している。
荀ケ本人は無理でも穎川出身者経由で河内司馬氏との伝手は得られたのではないか。
- 640 :
- 曹操に対してですら出仕を嫌がったのに劉備如きに使えるだろうか?
- 641 :
- 蜀は半年内に司馬懿に乗っ取られる
- 642 :
- やっぱ無理っす
- 643 :
- 魏の領土の侵略は容易、呉の大都市は容易に陥落
蜀の巴郡(重慶)は攻略が困難
by大日本帝国陸軍
- 644 :
- 重慶は補給も充実してたしな
- 645 :
- 人口80万だし
- 646 :
- 関羽が孫権と姻戚になってれば歴史は変わったかもしれない
- 647 :
- 湖賊の氏素性も分からない奴と婚籍になったら
呂蒙みたいに血を全身から吐くか
陸遜みたいに憤死するわ
- 648 :
- >>633
潘濬か陸凱の伝だと守りを固めていれば容易に維持出来たみたいな記述があったような。
- 649 :
- >>647
氏素性が分からないヤツと婚姻関係になった程度で
そんな様とは。随分な御坊ちゃまだのうw
- 650 :
- 関羽じゃなく馬超に北伐やらしゃよかったかもな
- 651 :
- 諸葛亮じゃなく司馬懿を配下に
カクと荀イクも配下に
- 652 :
- 豫州で召し抱えた陳グンや袁カンあたりもそのまま連れて行ければ。
- 653 :
-
曹操と一大決戦をしなかったこと。
蜀に入っても、所詮じり貧なんだから、漢中戦後一気に関羽と共に、乾坤一擲の大決戦を挑むべきだだった。
- 654 :
- 劉備が曹操と孫権に勝てる要素がないからな
- 655 :
- そもそも劉備が天下統一するチャンスなんてあったか?
小勢で曹操に逆らい続けてたってただけで
そこそこの力持った時には結構歳だし曹操の勢力も肥大化してて逆転なんて無理じゃね
あったとすれば漢中落としたあと関羽とが北上した時に
呉が本気で協力して魏に攻撃かけて
劉備もさらに攻め入って・・ってくらいじゃないか
それでも勝てたかどうかと言えば怪しい
- 656 :
- 漢中落としても防衛線の長安にも達してないし
ファビョって呉に戦争仕掛けるし
無理ゲー
- 657 :
- 関羽が全て悪いな
- 658 :
- 劉備は徐州時代に呂布を相手にしたのが間違い
徐州は戦国時代の魯国相当なので袁術と孔融を攻略できれば
天下統一の可能性があっただろう。
- 659 :
- ゲーム脳w
- 660 :
- 三都賦なんてもんがあったあたり三者とも「もうこれでいいや。」
だったじゃねーの?
曹操、劉備、孫権。誰が上であり下であった時代でもないだろ。
三国オタの中では違うのかもしれないが。
- 661 :
- >>655
漢中戦後から関羽の敗北まではあった
呉の攻撃すらあと数ヶ月あれば防げてた可能性すらある
その一瞬を見切ったあの時が間違いなく孫権の全盛期
- 662 :
- 孫某は所詮瓜売りのガキの子だからなあ
日銭稼ぎの目暗だったのが最大の誤算
しかも呂蒙は空巣以外は負け運子持ち
張遼に指先一つで木端微塵
そのまま押し上げてりゃ曹操ももうちょい早くおっ死んでたかもしれん
チャンスは逃がすわ60年間の暴政するわでこれなら赤壁前に降伏してりゃよかったのにね
孫某にゃ肥溜掬いがお似合いだm9(^Д^)
- 663 :
- 呂布の配下って何気に有能なの揃ってるんだよなぁ
徐州時代の劉備がもし呂布を心服させて使いこなしてればあるいは・・・
- 664 :
- 結果論から言うと呉に荊州を奪わせる隙を与えたのがまずかった
もう少し荊州を固めれば呉は北伐に参加せざるを得ない状況になっただろう
- 665 :
- 呉を怒らした関羽が悪い
- 666 :
- 劉備はインドの方を攻めればよかったんだよ
- 667 :
- 慧眼や戦術能力に関しては劉邦より上だったと思うけど、
劉邦より運がない、劉邦より自我が強すぎ、劉邦より聞く耳がなかった
- 668 :
- 天子奉戴できてない時点で矛盾的存在
- 669 :
- 秦サクッと落としてる劉邦の方が軍事能力も上だよ
- 670 :
- 劉邦の軍事的能力って過小評価されてるよね
秦を攻略したのも、叛乱を鎮圧したのも劉邦自身なのに
- 671 :
- やはり冒頓単于にフルボッコにされたからじゃね
劉邦の能力というより取り巻きが優秀だったと
- 672 :
- >>671
だとしたらなんで陸遜にフルボッコにされた劉備より下に見られるんだろう
- 673 :
- 劉邦なら陸遜と戦わないだろうな
- 674 :
- 陸遜ってハッキリ言って曹操司馬懿と同ランクの超人だろあれ
- 675 :
- 何気に呉って人材が厚いよな
- 676 :
- 呉は軍制が私兵ありきじゃなければもうちょっと上手く立ち回れただろうにな
- 677 :
- 俺も劉邦>劉備だと思うわ
まがりなりにもあの項羽と持久戦に持ち込めたってだけで凄い
- 678 :
- 劉邦は気前がいい以外取り柄のないアホとか史書に散々ボロクソに書かれてる
ちょっと過小評価されすぎ
- 679 :
- 劉備は曹操・孫策〜孫権に比べると一歩遅れてるんだよな
- 680 :
- 劉邦も劉備も劉秀と比べるとなぁ。
- 681 :
- >>680
大義名分に乏しい即位を実力で正当化するくらい戦に強かったからな
- 682 :
- 劉備に呂后みたいな強い女がいなかったな
孫権は大奥して女の戦いしてるし、曹操は卞氏という良妻賢母がいるし
- 683 :
- 劉秀は功臣粛清とかと無縁だからなぁ
どこまで人間ができてるんだという
「俺は民の役に立つようなことは何もしていない」とか
謙遜にしても劉秀だと嫌味に聞こえない
今時の「私は子ども手当やりました」、「これは私が作った市民会館です」
みたいなカス政治家ばっかり見てると劉秀ってもはや神にしか見えない
- 684 :
- >>678
士大夫にとっての理想像に歪められてるんだよな、劉邦
仕事では自分たちのやることに口出ししなくて
自分たちに気前よく褒美は沢山だしてくれて
オツムは自分たちより馬鹿っていう
- 685 :
- >>684
むしろ、
皇帝という最高権力者に対する批判の目が原点だと思うんだが。
美談や英雄譚として採用できたはずなのに、そうはしなかった司馬遷の姿勢の辺りがそう感じる
まあ、士大夫の理想像によってゆがめられているという論述があるんなら
俺がバカなので教えてほしいけど
- 686 :
- これは本当なの?
本当なら恥ずかしい事だね。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/joke/1331190435/101-200
- 687 :
- >>683
なんて言うか部下が謀反起こしても指先一つで討伐とか自信に満ちてそうだよな>劉秀
- 688 :
- 劉秀は完璧すぎてドラマにならないのは皮肉だな
- 689 :
- いつの間に劉秀と比べられちゃってる〜〜〜
- 690 :
- そういえば演義で高祖の故事は所々に出て来るが
光武帝に関する記述は殆どないな。
明代では不人気だったのかな?
- 691 :
- 後漢の創業者は劉秀なのになぁ
- 692 :
- >>691
中興はしたけど創業は高祖だからね
- 693 :
- 創業者ってまるで松下幸之助みたいに思ってしまったじゃないか
- 694 :
- 劉備って結局自分の判断で戦って勝ったことあるのか?
- 695 :
- >>694
夏侯惇たちに勝ってるよね
- 696 :
- 荊州の失いは早晩のことだ……街亭の失いによって亮の進軍路線が制限されたことも原因のひとつ、実は姜の方が原因もある、彼は国の経済と政治全く分からん、戦ばかりしてた……
- 697 :
- >>696
街亭になってる時点で「劉備が天下統一」はどう転んでも不可能
- 698 :
- まず劉備軍が天下を統一するには
司馬を味方にするべきだった
- 699 :
- 司馬懿?
対呉戦に打って付けかも
- 700 :
- そう言う星の元に生まれてない人間に対して天下を取れなかった原因を探すのも
滑稽ではあるけどいまさらでもあるか
もし天下が取れる人間なら陳登や陳羣それに田豫を失ったりしないしな
- 701 :
- 劉備たまらん曹操にさっさとケツの穴を献上してたら天下統一できた
- 702 :
- 運
人材
ここぞという時に非情になりきれないところ
- 703 :
- 非情になれなかったせいで大局を逃したような事なんてあった?
- 704 :
- 陳登を部下として扱う器量はなかったようだな
英雄として認めちゃってるくらいだから
演義などの影響でイマイチ光当たってないけど、凄い奴だもんな
- 705 :
- 女どもが弱いから旦那も弱い
劉備にあげまん妻がいればよかった
- 706 :
- おい、後漢・三国時代の人間より非合理的思考の奴が来たぞ
- 707 :
- 劉備が後漢再興を真剣に考えていれば、私情に駆られて呉に攻めこむ事はなかった。
結局は、迫る寿命と私憤により、戦略を棄てたんだから、仕方がない。
- 708 :
- 蜀って結局劉邦以外中央統一したこと無いよな?
劉邦の時は項羽が勝手に彭城に帰ったから軍事的空白が生まれてただけだし
やはり蜀から北伐するなら長安の攻略がネックだよな
- 709 :
- ば関羽に荊州任せたのが失敗
- 710 :
- だから最初は孔明つけてたじゃんか
そこまで人材不足(士大夫のね)だったのが原因
髀肉之嘆とか遅すぎだからw
何歳まで爪牙(傭兵)気分なんだよ
- 711 :
- 結局劉備は、俺様一番で関羽二番、からなかなか脱却できなかった二流
対呉戦が復讐だけじゃないのは勿論だけど、基本的に武人気質というか脳筋だわ
- 712 :
- はげど
- 713 :
- 答えは単純明快
早く死んだから
- 714 :
- 充分長生きだろ
- 715 :
- 孫権よりは早死だな
- 716 :
- 仮に白帝城で死ななかったとしたらどうなの?
諸葛亮を粛清?
- 717 :
- >>716
なんで諸葛亮を粛清?
孔明は呉との和睦を望んでたよ
- 718 :
- 劉備は諸葛亮を牽制してた説の人は結構いるよ
- 719 :
- 厖統と法政が早死にしなければ面白くなりそうだったのにね。
- 720 :
- なら、郭嘉や周瑜もな
- 721 :
- 曹操が呂布と、袁紹が公孫サンと、それぞれ戦いの中で流れ矢とかで戦死していたら
- 722 :
- 劉備はただの武将で終わってた
彼らがかかわらないと劉備は成り立たない
- 723 :
- 曹操も袁紹も最前線で自ら戦うようなキャラじゃないと思うんだが
- 724 :
- 劉備があれだけの求心力を獲得できたのは強大な曹操と対立してこそ
- 725 :
- 只でさえ、孫呉に及ばない劉備が曹操いなかったら
そこらのsラ
- 726 :
- まぁ当時は侠客というsラ美化思想もあったようで、
だからこそ劉備(そして関羽張飛)みたいなのは全国に知れ渡る
といっても、貴族制確立(九品官人法)の前夜でもあったので、文>武の差はある
曹操あっての劉備って考えられてるけど、
劉備あっての曹操とはさすがに考えにくい、ということに尽きるかな、大枠では
- 727 :
- 曹操の天下統一を阻止したとは言えるかな?
- 728 :
- それは周瑜の功績だな
- 729 :
- 周瑜がやったのは阻止というより一時的に遅らせただけだろ
そのあと劉備が蜀に入って漢中とってはじめて阻止成立じゃね
- 730 :
- いんやぁ
そりゃ赤壁の戦いを過小評価しすぎだな
あれは曹操の野心を打ち砕いた戦争だし
- 731 :
- 野心というより
疫病が出たため曹操軍は撤退したんだけど
- 732 :
- というには、その後汚名晴らそうと頑張ってるけどな
- 733 :
- 疫病で撤退ってだけのわりにはその後もちょっと放置し過ぎ
- 734 :
- 曹操はとりあえず帰順した軍閥を諸侯にしていたら、劉備が北伐したときに味方する諸侯もいるかもしれない。
曹操なんて軒並み戦って潰しているし。
- 735 :
- 曹操は、あの時代に政教分離を目指したのが、唯一の功績。
- 736 :
- うむ
中国って近代化進んでないって言われるけど、
むしろ大昔から近代なんだと思うな
諸子百家や竹林の七賢、儒教からの美の開放なんかルネッサンスじゃん
- 737 :
- 微妙に脱線してるな
- 738 :
- 楚王 呂布
燕王 袁紹
淮南王 袁術
関中王 韓遂
・・・・・・
- 739 :
- 袁紹の支配地は大部分が趙でしょ
燕は強いて言うなら公孫サン
張繍を韓王に比するのは無理かw
孔融は青州刺史だったから斉王でもいいけど
- 740 :
- 藤林丈司
- 741 :
- >>737
曹操を善玉にしたいがために儒教を悪者にするのは
蒼天なんたらの悪影響に過ぎないからな
- 742 :
- 現実論者と思えば曹操は善玉
- 743 :
- 信長人気をみても、日本人には曹操を好意的に受け入れる素地はあるけどね。
- 744 :
- 徐州の虐殺魔
- 745 :
- 信長人気なんて無いと思うけどなぁ
あんな奴が会社の上司とかなったら最悪でしょw
- 746 :
- 卞氏や甄氏のような立派な女をめとれなかった
- 747 :
- ベンキ
- 748 :
- >>746
エロアピールがハンパない肉便器娶れば天下取れる。
これなら苦労はないなあ。
- 749 :
- 劉備の妻が雑魚だからな
- 750 :
- 妻が良いか悪いかなんて関係ないだろ。
- 751 :
- アゲマンがいないより、いたことにこしたことないだろ
- 752 :
- 曹沖を幼くしてなくした曹操。
自分がアゲマンに恵まれてるなんて思ったこともなかったろうな。
- 753 :
- なになに女たちの三国志フラグ?
- 754 :
- >>1
大義と人情を混同し過ぎて、覚悟が出来ていなかったから。
- 755 :
- 関羽と張飛に国を任せたこと。
- 756 :
- 人の話しを聞かなかったこと
- 757 :
- sラはsラらしく、さっさと荊州と蜀を乗っ取ればいいものを、
かっこつけてグダグタしたから。
- 758 :
- 曹操「この時代の英雄は余と君だけだ」
嘘っぱちか?
- 759 :
- それは
「俺がこの時代の主役で、お前はアンチ俺としてしか機能しないがその代表格だ」
という意味の牽制の詩的表現
- 760 :
- それはそれで随分なビッグマウスこいたもんだな。曹操も。
所詮は北中国を制圧しただけに過ぎないのに。
曹操、劉備、孫権の誰もが横並びだっただけに。
- 761 :
- 当時は実質的に、北中国≒中原とその周囲獲ったら全土統一に近かったけどな
蜀〜漢中は左遷の地、呉は開拓途上の蛮族の地
ただ、タイミング的にビッグマウスであることは明白(そもそもがそういう意味もこもったエピだが)
- 762 :
- >>750
春秋戦国時代の諸侯見てみろ
女に足を引っ張られたりする連中の意外と多いこと多いこと
アゲマン探しは大事だ
- 763 :
- 華北制圧しただけとか現代の基準で考えるなよ。
今は華南が発展して人口も分散してるから
領土の広さだけで呉蜀も十分すげーじゃんってなりがちだが、
当時の呉蜀は人が住んでなくて役に立たない未開拓地が大部分。
それらを差し引いて考えると華北を制圧して統一気取りになるのもわかる。
- 764 :
- 三者横並びと言っちゃうのは、ゲームとか漫画とかしか知らないんじゃないだろうか
あれでは未開拓とか人口についてのイメージがわかないよ、人物の魅力にフィーチャーしすぎ
ついでに、曹操〜魏領土内や境界線でも蛮族反乱など多くて手を焼き続けていた
書籍でもキチンと突っ込んでないのあるし…三国志コンテンツの粗製濫造は問題だわ
「もう1つの三国志」って本が読みやすくまとまってるからオススメ
- 765 :
- あの時代を三国時代と呼ぶのが一般的なので三者横並び、かと。
三国志人気が上がりすぎたため曹操に対しても評価の甘い本が多い。
- 766 :
- >あの時代を三国時代と呼ぶのが一般的なので
から
>三者横並び
の部分、論理になってない
というか、順序としてもなってない
>三国志人気が上がりすぎたため曹操に対しても評価の甘い本が多い
ここもどこからどうツッコんだら…
三人皇帝が並立していたから三国志
物語や歴史として地続きだし、人物もおおよそ共通だから、後漢後期も含めて(広義・一般的な意味での)三国志
もうレスしない方が良いよ?恥の上塗り
- 767 :
- 三国志という名前だけみれば横並びな呼称が定着したのは
漢族が東晋や南朝みたいな華南の一部しか保持できなかった
王朝の正当性を仮託したためで国力の均衡を意味してるわけではない
- 768 :
- >>762
アゲマンがいたら劉備を多少コントロール出来たでしょう
でも劉備は女に恵まれなさすぎだからね
いかにワンマン社長的な王朝だったか
- 769 :
- >>766
その手の個人論も見飽きたな。
三国オタはお前さんのように自分の世界感を押し付ける自己陶酔型な人間が多い。
- 770 :
- >>769
ほんと引っ込んでた方が良い
何が個人論だ
>>765みたいなことは書く必然性がまるで無いよ
- 771 :
- めんどくさ
まあ、確かに引っ込んだほうが良さそうだな
個人論応酬のドツボに嵌るのもみっともない
- 772 :
- そもそも、曹操・劉備・孫権が三者横並びなんて馬鹿げてるし
孫堅・孫策無視ですか?
馬鹿馬鹿しい
- 773 :
- 馬鹿には触らんで良いよ
- 774 :
- こんな過疎板で何やってるんだこいつらはw
バカ丸出し
- 775 :
- じゃあ何でお前はここに来たんだ?
- 776 :
- 馬鹿の戦い(223〜227)
- 777 :
- 777でも劉備の統一は無理ゲー
- 778 :
- まーそもそも
三国になったのは曹操が死んだ後なので
- 779 :
- 所詮は北中国を制圧しただけに過ぎないのに
曹操、劉備、孫権の誰もが横並びだっただけに
あの時代を三国時代と呼ぶのが一般的なので三者横並び
( ゚д゚)ポカーン
- 780 :
- >>779
スルーしとけよ
蒸し返すつもりか?
- 781 :
- じゃあ、公孫氏を入れて四国志にしよう
- 782 :
- あ、士氏も入れて五国志にしようか
- 783 :
- 劉備は孫権の妹と末永くやってればよかったのに
- 784 :
- 袁氏・・・
- 785 :
- >>780
別にいいんじゃない?
燃料不足なこの板なら蒸し返されるのも一ヵ月後くらいだろw
- 786 :
- 横並びじゃないから蒸し返しても続かないな・・・
- 787 :
- >>781
燕はもうちょっと話題になってもいいと思うけど
荊州争奪戦に参加できなくて地味すぎるのが難点
あと士氏って帝or王になっていたっけ?
- 788 :
- 曹操に比べると人材の層が薄いのでは
とくに軍師、いい行政官がいなかった。
- 789 :
- それ定番過ぎておもんない
- 790 :
- 劉邦「負け続けて穴に逃げ込んだ奴が統一なんて出来る訳ねーだろwww」
- 791 :
- 人口の多い地域を確保出来なかった時点で劉備・孫氏にチャンスはほぼ無くなるわな
- 792 :
- それより前の時点でのチャンスについて考えたいな
- 793 :
- 領主にへこへこ頭下げてる時点でダメぽ
- 794 :
- 長坂の戦いで劉備についてきたという十数万人の民って、結局どうなったの?
- 795 :
- 美味しく頂きました。
- 796 :
- † †
(_O|・|O)
/ィ从从', }
| |(|゚ ヮ゚ノ,''
| ノ † ヽ、 韓国人を利用しなかったから
ヽ/ ゚ 3゚)〜
〜( ゚ 3゚)__ノヽ
ノヽ、_,ノ ヽヽ
- 797 :
- あんなヒトモドキ使ったら、法則発動して史書に名前すら載らない運命を辿っちまうわ。
- 798 :
- 劉備は諸葛亮がやったみたいに北の騎馬民族との結びつきを強めるべきだった
- 799 :
- 一応馬超引き入れ&優遇はやった
上奏文での席次トップだぞ
- 800 :
- タッチで蘇る水墨画風の三国志の世界へ
http://www.4gamer.net/games/188/G018820/20121016049/
- 801 :
- 劉備は親父の馬騰の頃から浅からぬ仲だったしな
五虎大将の中では格が違うよね
関羽のアホは理解できてなかったみたいだけど
- 802 :
- 相手の家柄に額づくとかカッコ悪いね。
- 803 :
- 呂蒙「だよね」
- 804 :2012/10/24
- 呂蒙さん、七穴噴血しながら「だよね」なんて言ってる場合じゃ無いっス。
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