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2012年09月日本史7: ♪邪馬台国ドンと来い♪116 (1001) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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♪邪馬台国ドンと来い♪116


1 :2012/09/08 〜 最終レス :Over
どうぞ!

2 :
1000 日本@名無史さん ▼ New!2012/09/08(土) 07:14:42.08 [0回目]
>>994
大切なのは当時何があったかで
それに比べれば魏志倭人伝も何説もたんなるゴミ

「何か」ではなく邪馬台国の話をしましょう!

3 :
不弥国、投馬国、邪馬台国は連続しているか、あるいはそれほど離れて
いないという考えにも妥当性がある。

4 :
投馬国にかんしては、フミ国及び邪馬台国とはかなり離れていますよ。
邪馬台国は佐賀県小城市甘木。
フミ国は佐賀県小城市不二町
投馬国は、小城市小城町の大江から南へ有明海を通って二十日の宮崎県西都市です。

5 :
弥生時代末期の北部九州、博多。
漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)の奴国も、跡継ぎを巡る「大乱」により卑弥呼(アマテラス)の
邪馬台国に国を譲る。これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と交戦状態になり、和国は分裂。卑弥呼はその最中に急死する。
【分裂した「和」国】
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向 ・→神武東征≡瀬戸内海⊇≡「大和」
....................隅国(鹿児島)
卑弥呼の跡を継いだ筑紫邪馬台国♀女王「台与」は日向投馬国王♂を婿として迎えた後、薩摩隅国(隼人)との三つ巴で
肥後狗奴国 (後の熊襲)を滅ぼし、「和」国を再統一する。
その頃、中国大陸は五胡十六国の内乱状態となり、その戦乱に巻き込まれるリスクを減じ、国内統一に専念するため、
神武は男系祖先の本拠地である投馬国(日向)から船出し、首都を博多から大和へ東遷。「大王」に即位し、「大和」朝廷を樹立した。
※記紀が投馬国の祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の伯母・卑弥呼(アマテラス)をその姉としたのは、
(投馬国王と台与の子孫である)大王家の系図操作。漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は建国の功績を消され出雲に祀られる。

6 :
-大和朝廷における、♂投馬国(日向)系大王と♀邪馬台国(筑紫)系大王の(それぞれの男系が途絶えたことによる)政権交代
【前期古墳】…イリ三輪(銅鏡)王朝(神武〜仲哀)=♂投馬(日向)系大王
【中期古墳】…ワケ河内(鉄剣騎馬)王朝(応神〜武烈)=♀邪馬台(筑紫)系大王(朝鮮半島支配強化で王権強大化)
【後期古墳】…近江王朝(※継体〜天智〜桓武〜現在)=♂投馬(日向)系大王

-継体・安閑・宣化=日向系大王→継体の大王即位が筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫君磐井の乱」を誘発
-欽明〜皇極(斉明)=筑紫系大王(筑紫系大臣蘇我氏による日向系皇族大弾圧)→「乙巳の変」へ
-天智〜弘文=日向系大王、「白村江の戦い」惨敗で朝鮮半島権益を完全喪失→「壬申の乱」へ
-天武〜考謙(称徳)=筑紫系「天皇」、両系和解の記紀編纂(日向系イリ三輪王朝の活躍>筑紫系ワケ河内王朝の活躍)
-光仁・桓武〜現代=日向系天皇、筑紫系天皇の平城京から本拠地・琵琶湖近くの平安京に遷都
一白
大王…「天皇」には「大王」という文字が隠されている。

7 :
大王はおおきみの漢字表記にすぎないよ
おおきみは隋書にあるとおり、あほけみと同じ
べつに大君でもよい

8 :
投馬国は出雲国
トウマ→トゥマ→(イ)トゥモ→いずも
あほけみのように古語は「おお」が「あほ」とより鼻にぬける音で発音されるよう
「たまう」が「たまふ」と書かれたのもそのためだろう
頭音(イ)が省略されたのはシナ人特有の略しのため
あるいはシナ人に認識できなかったか
阿修羅は修羅、阿弥陀は弥陀、と略されるのは、呉下の阿蒙(阿蒙とは呂蒙のこと)のように
阿〜とは〜ちゃんという意味があり、また頭音に気持ちを表現するために阿をくっつける習慣による
よって記述の際に避ける場合がある。
一闡提も、イッチャンティカの音訳だが、たいていの場合、闡提と書く。イが感嘆詞のごとき扱いにされるためだ
よって、いずももズモと略された可能性がある。イズモかアズモか正式な発音は知らんが
鼻にぬける音が多かっただろう和語で、シナ人には聞き取れない程度のものだったのかもしれない。

9 :
邪馬台国までの旅程を推理していく際、一番気を付けなくてはならないのは、
現在と三世紀の地形地理が大きく変化していることだ。
末盧国と比定されている唐津から、博多近辺とされている伊都国、奴国への
行程が陸行500里、100里となっているが、唐津から博多までの地形は、
今よりもっと内陸に海が侵蝕していた当時のことを
推測するに、何故、水行にしなかったのかと思う。
この事は、伊都国、奴国は博多近辺ではなかったことを証明していると
考えるのがまっとうではないかと推理する。
記述通りに陸行したと考えると、陸行し易い道に沿って
、今の唐津街道を記述の南東に向かい、その行き着く先の伊都国、奴国は
佐賀平野の佐賀市近辺であると比定するのが妥当だと思う。

10 :
>>9
当然だろうね。倭人伝は伊都国から放射式で書いている。つまり伊都国からすぐに南水行
が始まるんだ。怡土から水行するならば末盧国から伊都国へは陸行ではなく水行するのが
当然。伊都国が佐賀付近ならば、そこから放射式に書かれていることは良く理解できる。

11 :
マツラが博多で、下関を横断して大分の港がイト、ナ、フミかもしれんな
下関の海流の不定なのを避けて、安定的な港があった大分周りに陸行したのだろう

12 :
マツロ国が唐津だという証明は無い。他の可能性も考えろよ。あとがゴロっと
かわりまっせ。

13 :
>>9
>今の唐津街道を記述の南東に向かい
>>9に前面的にほぼ賛同。しかし、上記の一点のみに問題がある。
唐津街道沿いに唐津から佐賀市にある千餘戸の伊都國に到る行程途中に、国が一つも無いことである。
千餘戸の国が多久と小城に少なくとも一ヶ国はあるべきなのに、その記載がない。
すなわち、ルートは唐津街道沿いではないと言う事である。
ではルートは何処であろう。
現国道323号である。
玉島川をさかのぼり、観音峠を越え、嘉瀬川を下り、佐賀市大和町に出るルートである。
玉島川中流の七山の先が厳しい谷道であるが、これは「草木茂盛 行不見前人」に相応しい道である。
このルートで佐賀平野に出るところの佐賀市大和町には、
惣座遺跡があり、これは伊都國の城郭として相応しい遺跡である。

14 :
>>12
>マツロ国が唐津だという証明は無い。
渡海行程の文をよく読め。
末盧國の上陸地点は、鏡山と現松浦川東岸の付近となる。
此処に3世紀には古松浦湾があり、その南岸には中原遺跡がある。
この中原遺跡が末盧國の港である。
「松浦川」の名は、虹の松原の「松」林の南にある「浦」に流れ込む「川」からきているものと思われる。

15 :
>>13
>千餘戸の国が多久と小城に少なくとも一ヶ国はあるべきなのに、その記載がない。
説得力あるね。
263はよく通るが、323は経験ないな。
「百聞は一見に如かず」  一度走ってみよう。

16 :
最近の邪馬台国関係のスレでは、説得力のあるものが少なくなったな。

17 :
もしかしたら、対海国は北対馬で、一大国は南対馬かもしれん
昔は今より海水面が高かったからそれぞれほぼ方形の島で、その間はワニが並ぶように小岩が海面上に並んでいただろうから「瀚海」と呼ぶにふさわしい
もしそうなら末盧国は壱岐島で、その後の「東南陸行五百里到伊都國」は「東南の陸を500里行くと伊都国に至る」ということになるだろう

18 :
>>13
惣座遺跡は、肥前国庁があったところとなっている。
要衝の地ということで、一大率が置かれていた伊都国と対比できるかもしれない。
ということで、伊都国の中心部を惣座遺跡にすることは妥当と思うが、
そのために、変な道を通るよりも、むしろ小城市まで含めて伊都国でもいいと思う。

19 :
>千餘戸の国が多久と小城に少なくとも一ヶ国はあるべきなのに、その記載がない。
国と集落とを混同しているな。国というのは、いくつもの集落を合わせたものなんだよ。
邪馬台国七万戸、投馬国五万戸などが一つの集落のはずがないだろ。

20 :
>マツロ国が唐津だという証明は無い。他の可能性も考えろよ。
で、どこに可能性がある?

21 :
>>18
>小城市まで含めて伊都国でもいいと思う。
伊都國は千餘戸5000余人の小さな国である。
小城だけで千戸5000人以上の国が成立できる。
又、多久にも千戸5000人以上の国が成立できる。
伊都國が一万戸50000人の国であるのなら、
多久・小城・大和町・(江北・大町・白石・武雄)を含めた地域が伊都國であったと言える。

22 :
>>21
ひょっとして今の人口で換算している?

23 :
>>19
其餘旁國を見れば、集落のようなものじゃないの。

24 :
>>23
日本にはいくつ集落があるんだ。
集落の数だけ国があるのかい。

25 :
>>14>>20
だったら証明してみろ。「思われる」では証明ではない。

26 :
>>9
唐津から伊都国を佐賀市あたりとするのでは500里をこえすぎてしまうのでは。
呼子からならあうが、そうすると、呼子から唐津まで陸行するのか、ちょくせつ船で唐津の港によればということになる。

27 :
末蘆は松浦、松原
伊都は伊都県主の伊都
奴は、那津官家の奴
でいんじゃね?

28 :
ttp://www.iris.dti.ne.jp/~min30-3/kodaisi/nabatakeitatuki.jpg
これでよくね?

29 :
江戸時代に整備された旧街道、唐津海道や長崎街道の名前があがっているが、これを弥生時代まで
さかのぼるのはいささか無理があると思う
とりあえず、古官道として整備されたものがあったのであげておく
ttp://bell.jp/pancho/k_diary-2/images/image-5/1118-20.jpg
この七道駅路が延喜式の10世紀のものであるが、この道路は当然、当時の勢力拠点をつないでいたはずの
ものであろう、特に大宰府官道は大路として整備されている
ttp://www.qsr.mlit.go.jp/kitakyu/history/kandou/goki.html
この中に、北九州近くに到津(いとうつ)がある、これが伊都国ではなかろうか
あと、もう一つ。
海洋の民の神である宗像三女神にイチキシマなる女神がいるが
これをまつる宮島厳島神社は、伊都伎島とも書くと言う、この伊都伎とは斎らしく、神聖なという意味だそうだ。
宗像周辺は飛鳥時代九州で唯一の神郡として認められていたそうで、大和政権にとって大切な場所であった
ことは疑いない。ここが伊都国の可能性もある。
名前でどこか決めるのは難しいとわかったよ
倭人伝で当時を解明するには参考にすべき記紀の地名は判明している部分が少なすぎると思う
よって、倭人伝は明史同様あまり役に立たない書。

30 :
>>26
唐津で超えすぎてしまうのが呼子ならあうとは意味不明だな。
>>29
>倭人伝は明史同様あまり役に立たない書。
地名にこだわるからだ。役に立たないのは君の頭。

31 :
古代の道というのは、まるで新幹線でも走らせるようなまっすぐな道なんだよな。
何といっても、目印になるものが全くないから、ちょっとでも道を誤ると遭難してしまう。
星だけが頼り。北斗信仰と密接な関係があるのはそのため。
まっすぐに進むためなら、猿が掛けたような神橋や断崖絶壁を綱一本で上り下りなんてコースも当たり前。
従って、その道を通れるのは修業を積んだ天狗のみ。
神武を道案内した猿田彦の子孫だろう。
邪馬台国へ続く道も、今のように地形を考慮したものにはなっていないと考えたほうがいい。

32 :
倭人伝には信憑性の高い部分と信憑性の低い部分があり、
前者は【倭国内の記述】政治状況や戸数、衣食住&冠婚葬祭の習慣
後者は【倭国に至るまでの距離・方角】である。
これらを区別しないから今までの無意味な論争の繰り返しとなってきた。
長安洛陽を含む中原を支配する曹【魏】にとって倭は孫【呉】を挟み撃ちにできる位置(東南)になければならないため、
倭国に至るまでの距離や方角を鵜呑みにすると遥か南の台湾やフィリピンに達してしまうのである。
(帯方郡から)邪馬台国へは海行十日陸行一月、投馬国へは南水行二十日なら、倭が孫【呉】を挟撃できるわけで、
そこから朝貢があったことが、公孫氏を滅ぼした曹魏臣下だった司馬氏の功績を称えることになるのである。

33 :
>邪馬台国へは海行十日陸行一月、投馬国へは南水行二十日なら、倭が孫【呉】を挟撃できるわけで、
>そこから朝貢があったことが、公孫氏を滅ぼした曹魏臣下だった司馬氏の功績を称えることになるのである
くだらん。沖縄にでも朝貢させればすむことだ。

34 :
>>32
魏から見て呉の背後の海上に倭国が位置していなければならなかったんだろうな

35 :
>>32
うむ。倭の国内情報は信用できるが、位置情報は鵜呑みに出来ないことは確かだね。
魏→呉←倭 が一直線であってほしいという希望的観測が、倭国の位置を南に狂わせたのだろう

36 :
国家血統偽装だろw
その国家の血統は重要な要素。民俗描写にしろ位置誘導にしろ南で在る必要があった。だがな韓国並のホラ吹きが呉に通用為るにはそれ成りの情報じゃ無いとな

37 :
呉という国が滅亡してから書かれた倭人伝が、呉を意識しているはずがない。

38 :
位置を南に大きく狂わせたということは南九州が妥当という解釈かな。
畿内であれば九州からやや北上するので。

39 :
>>26
>唐津から伊都国を佐賀市あたりとするのでは500里をこえすぎてしまうのでは。
伊都國は、佐賀県庁の付近でなく、佐賀市大和町の惣座遺跡です。
末盧國は唐津市南部の中原遺跡(現在内陸地)です。
両地点間距離は500里約35kmです。
(唐津街道ルートでも、国道232号ルートでも)

40 :
>>32
>(帯方郡から)邪馬台国へは海(水)行十日陸行一月、
>投馬国へは南水行二十日なら、倭が孫【呉】を挟撃できるわけで、
>そこから朝貢があったことが、公孫氏を滅ぼした曹魏臣下だった司馬氏の功績を称えることになるのである。
そのとおり。
水行十日=万餘里
陸行一月=千餘里
水行二十日=二万餘里

41 :
>>35
>魏→呉←倭 が一直線であってほしいという希望的観測が、倭国の位置を南に狂わせたのだろう
帯方郡から南に万二千餘里(約750km)の女王國は、大陸の呉の位置にあたる。

42 :
一大國からはどちらの方位でもかまいません
「マツロ」という地名もその他の地名も必要ありません
九州北岸あたりならどこでもお好きなところに船を着けてください
所詮 ONE OF THEM です。

43 :
>>42
>九州北岸あたりならどこでもお好きなところに船を着けてください
間違いである。
3回の渡海記事を注意深く読め。
3回南へ渡海しているのが読めるだろ。
まず、   「始度一海千餘里」至對海國
對海國では「乘船南北市糴」
次いで、  「又南渡一海千餘里」至一大國
一大國では「亦南北市糴」
最後に   「又渡一海千餘里」至末盧國
3回目の南への千餘里の渡海で、一大國壱岐から末盧國即ち唐津南部現在の内陸部(古松浦湾南岸)に着く。

44 :

所詮 ONE OF THEM の解釈
チェリーピッキングしてるだけ


45 :
>帯方郡から南に万二千餘里(約750km)の女王國
朝鮮半島の南は乍東すなわち東へ進む。
万二千里から南へ進まない部分は差し引かなければいけないだろう。

46 :
>>9
九州説によれば、歩きの方が早いんじゃないの?
佐賀から熊本まで水行10日もかかるんだろwww

47 :
>>45
「自郡至女王國萬二千餘里」
を単純に引用しているだけ。
「倭人在帶方東南大海之中」
については、配慮されていないようだ。

48 :
佐賀大和から佐賀市内までの領域は広い。
佐賀市内は海と思っていたが、1400年以上の神社があり、
一部は陸地のところもあったと思われる。
奴国が肥前国、佐賀県全域を示す国とすると、
やはり、中心域はのちに肥前国庁を置くところではないかと思う。
道なりの距離で考えると、伊都国は現状の小城と佐賀大和の間くらいになる。
そこで、個人的には伊都国を小城に、奴国を佐賀大和と考える。

49 :
三世紀頃の道は獣道に毛が生えた程度だろうから、
長旅は水行の選択が優先されるはず。だから奴国(博多方面)に向かうに
水行ではなく陸行は非現実的。即ち、奴国は博多方面ではないと推定される。
今の唐津街道の原型道路を東南に有明海方面に陸行するのが
素直な読み方ではないか。
佐賀市付近に奴国があり、今より陸地に浸食された不彌國から水行で
有明海沿岸にそって邪馬台国に向かう旅程が無理の無い解釈に
思う。(尚、一里は600−700メートル説を信じている。)

50 :
>>48
>伊都国を小城に、奴国を佐賀大和と考える。
これでは、伊都國の東南が奴國とならない。
末盧國中原遺跡から伊都國佐賀大和惣座遺跡の道のりは約37kmであるから、
伊都國は佐賀大和惣座遺跡とし、その東南(南南東)7kmにある佐賀城内が奴國となる。
佐賀城内は、背振山系山麓を除くと佐賀平野唯一の台地になっており、城郭適地である。
佐賀城建設の時に遺跡は破壊されたであろうが、佐賀城内では弥生遺物が発見されている。
四千餘戸の不彌國(唐津)と千餘戸の伊都國の間には、国の記載がない。
千餘戸の伊都國を小城とするならば、多久に千餘戸の国が記載されているべきである。
故に、陸行五百里のルートを唐津街道とすることは成り立たない。
伊都國を佐賀大和惣座遺跡とすると、陸行五百里のルートは途中に国がありそうもない国道232号になる。

51 :
>>46
熊本はけっこうでかいよ
それに「水行○日」の距離はだいたい確定している
卑弥呼の使者が6月に帯方郡に行き、そこから2400km離れた洛陽に12月に着いてる

52 :
>>50
佐賀城周辺が奴国であることは異存はない。
ただし、旧大和町も佐賀城周辺の集落と一体だと考えている。
弥生遺跡の中心部は大和町であり、一の宮の淀姫神社と、
佐賀城の近くにある与賀神社は上社、下社の関係をもつ。
また、肥前国庁の近くの嘉瀬川から分離する多布施川は、
佐賀城付近にいくための水路である。
おそらくは、大和町のほうが最初の集落であり、
湿地帯から水が引いて海は引いてくるに従って、
大和から佐賀城側に開拓が進んだという経緯があるものと思われる。
ただし、当時はすでに湿地帯であって、一部には乾いた陸地もあっただろう。
佐賀城付近にも古い神社などがあるからである。
大和と佐賀城の間に位置する、高木瀬の方には縄文貝塚もある。

53 :
基本的に、弥生遺跡はこの時代の倭の各国とは無関係だと思う
魏志の韓伝の記述と倭人伝の記述とを比較すると、馬韓や弁韓、辰韓が農業を基礎とする農耕社会なのに対して
倭国は漁業を基礎とする社会であって、漁民を中心とする社会としか読めない
仮に弥生遺跡で農業をやってた人がこの時代にいたとしても、実験的なものだったと思う

54 :
末盧国から東南陸行五百里の伊都国を佐賀平野に求めると、佐賀平野には
少なくとも、伊都国、奴国、不弥国の三つの国があったことになる。
ただ、弥生最大級の環濠集落である吉野ヶ里遺跡を無視するわけには
いかないから、これがどこなのかも大きな問題になる。
新井白石以来の弥奴国というわけには行かないと思うが。

55 :
>>51
http://www.benricho.org/map_distance/
これで測ってみたらソウルから洛陽まで1350kmしかないよ。
180で割ると水行1日あたり7.5kmになって、水行10日が75km、20日が150kmになる計算だ。

56 :
>>55
直線距離で測れば確かに1350kmだな
ソウル市中心部の汝矣島から漢江を下って海に出て、威海から山東半島に沿って黄河の河口に行き
そこから黄河を遡って支流から洛河に入って洛陽市の王城大道に架かる王城大橋までで1608kmだった
>>51のいう2400kmってのはもしかすると北朝鮮西岸から遼東半島を回るコースかもしれんが、そんな遠回りする理由はないだろう
1608kmを180で割って、水行1日あたり9km弱と見るのが妥当だと思う

57 :
そもそも帯方郡がソウルだったというのも数ある説にすぎず、遺跡などからはむしろ北朝鮮の黄海北道鳳山郡沙里院にある唐土城だという説のほうが有力。
だから1600kmというのは長すぎであって、1500km弱とみて、水行1日あたり8km程度と見るべきだと思う。
それはそうと>>55のサイト便利だな。個人的にいろいろ利用させてもらうよw

58 :
まだ帯方郡はソウルだと思っているのか。
ここの奴らには学習能力というものがないのか。

59 :
屯有〈遼中〉
提奚<盖平>
<楽浪(今遼陽界公孫氏之所置也)>
<楽浪(今遼陽以西之地與段末柸連結)>
<樂浪城(此乃東部樂浪今遼陽海城界)>

60 :
<帶方(今安東縣附近地)>
<帶方>(<屯有>卽<遼中>以南之地)

61 :
>>54
>弥生最大級の環濠集落である吉野ヶ里遺跡を無視するわけにはいかない
吉野ヶ里付近の地名:メタ:米多 目達原 筑志米多國 米田郷 倭面土國
吉野ヶ里遺跡は、2C初頭には帥升の都(城郭)であった。
2Cの倭國乱になると、吉野ヶ里城郭は邪馬壹國投馬國連合軍に破れ、
そこに連合軍側の不彌國が置かれる。
この頃2世紀前期に吉野ヶ里遺跡はその規模を縮小したのである。
帥升王統國の城郭は、吉野ヶ里遺跡から惣座遺跡に遷都。
しかし、帥升王統國は惣座城郭から末盧國を窓口に楽浪郡と接触を続ける。
又、倭奴国の後継である奴國が分国として新開地である佐賀平野の佐賀城内に城郭を置き、
佐賀平野の大部分を支配下にする。
帥升王統国は惣座遺跡周辺の千餘戸に縮小する。
魏は後漢に倣い惣座の帥升王統の小国を倭都國として扱うが、
女王國の支配下にあるため伊都國と名称変更したのである。

62 :
プータロー多いなw

63 :
>三世紀頃の道は獣道に毛が生えた程度だろうから
人類がいなくなるとたった一年でも植物が繁茂してとても人がすんでいたとは思えなくなるそうだ
福島がよい例。
しかし逆に言えば、人の行き来があるところは自然と道となる

64 :
>>51
くっそ遅いな水行
マツロから奴国まで歩いたのはそっちのほうが速いからで説明できるな!

65 :
>>62
邪馬台国なんて引退したじいさんしか興味ないだろ、JK!

66 :
>>64
韓伝の済州島への行程はもっと遅いよ
泗沘からの海路約250kmが「海行三月」だから、1日当たり2キロ半しか進まない

67 :
耽羅国とは台湾である、たぶん。
泗沘とはどこかといえば、
泗[沘]水(禮成江)
とあり、禮成江とは開城の西を流れる川であるから、
泗もその辺りである。
これまでの通説は完全に間違っているのである。

68 :
南北の海岸線が千里あって、東西の海岸線が数百里なんだから、東西に長い済南島じゃないと話が合わない

69 :
すまん済南島じゃなくて済州島

70 :
まったくここには変な奴が多いなw
耽羅島は南北に長い島である。
台湾は南北に長いが、済州島は東西に長い。


71 :
隋書百済伝によると耽羅国は南北千余里、東西数百里と書かれている
南北の国境線が千里以上あって東西の国境線が数百里しかないんだから東西に長いに決まってる

72 :
これが南千余里、東西北数百里だったら南が長い台形だって分かりやすいんだがな

73 :
「南北が長い」のと「南北に長い」のとでは大違いだな。
原文の「南北」は主語だから「南北が長い」としか読めん。

74 :
済州島の記事と台湾の記事が混同しただけでは

75 :
台湾は東西が300kmちょっとで北が100km、南はわずか10kmちょっとしかない
耽羅島は南北ともに千余里なんだから明らかに形が違う

76 :
原文
?「其國□□ 東西二千里 南北千餘里」高麗
?「其國□□ 東西四百五十里 南北九百餘里」百濟
?「□□□□ 南北千餘里 東西數百里」耽羅
?「其國境□ 東西五月行 南北三月行」俀
正解   
○「其國境長 東西二千里 南北千餘里」高麗
○「其國境長 東西四百五十里 南北九百餘里」百濟
○「其國境長 南北千餘里 東西數百里」耽羅
○「其國境長 東西五月行 南北三月行」俀
誤解
○「其國境間 東西二千里 南北千餘里」高麗
○「其國境間 東西四百五十里 南北九百餘里」百濟
○「其國境間 南北千餘里 東西數百里」耽羅
○「其國境間 東西五月行 南北三月行」俀

77 :
○「其國境長 南北千餘里 東西數百里」耽羅
○「其國境間 南北千餘里 東西數百里」耽羅
どちらであっても南北が長い、南北に長い、としか解せないのだがw

78 :
>>77
「南北が長い」と「南北に長い」じゃ正反対だろw

79 :
其國境長 南北千餘里
これは、その国の国境の長さは、南北が千余里である、という意味である。
南北が千余里である、ということは、南から北に引いた国境線の長さが千余里である、ということである。

80 :
>>78
ヨコだけど何で正反対なの?

81 :
>>80
>>71

82 :
>>79
「南から北に」だったら「自南至北」じゃね?

83 :
>>79
済州島に国境なんてあるか?

84 :
>>83
島国だから海岸線が国境だろ

85 :
たてたてよこよこまるかいてちょん!

86 :
「国境の長さは、南と北は千餘里、東と西は數百里」といえば、
その国は横(東西)に長い国である。しかし、
「国境の長さは、南北千餘里、東西數百里」といえば、
その国は縦(南北)に長い国である。
不動産屋が「南北100m、東西50mの土地です」と言えば、
それは縦(南北)100m、横(東西)50mの土地である。

87 :
>>83
>>84
其の國境ではない
其の國の境である。
国境の概念のある時代ではない。
正解 「其國 境長」
誤解 「其 國境長」
正解
○「其國 境長 東西二千里 南北千餘里」高麗
○「其國 境長 東西四百五十里 南北九百餘里」百濟
○「其國 境長 南北千餘里 東西數百里」耽羅
○「其國 境長 東西五月行 南北三月行」俀
誤解
○「其 國境長 東西二千里 南北千餘里」高麗
○「其 國境長 東西四百五十里 南北九百餘里」百濟
○「其 國境長 南北千餘里 東西數百里」耽羅
○「其 國境長 東西五月行 南北三月行」俀

88 :
其の国とどこの境だ?

89 :
>>88
隣国と接しているから国境がある。
隣国が無い国ではその勢力の及ぶところと及ばないところの境界。
其の国と其の国でないところの境界。
領海と公海の境界のようなもの。

90 :
済州島は日本固有の領土です。

91 :
耽羅國は、日本にも朝貢しているし。
耽羅國は、日本や百済に属する前は?
耽羅國は、地図上の位置的にみて半島南岸の倭の一部であったのだろう。

92 :
>>86
現代日本ではそうかもしれんがそれでは説明のつかん部分があまりに多いんだが
高麗の形が東西に長いってのは明らかに変だろ

93 :
>>92
「其國境長 東西二千里 南北千餘里」高麗
「其地 東西二千里 南北一千餘里 」『魏書』高句麗伝
文章が似ているから、上の高麗は高句麗のことだと思うが。
高麗のことはまったく知らないから返答のしようがない。
Wikiを見れば高麗の版図の図が出ているが、Wikiは信用できない。

94 :
「其國境長 南北千餘里 東西數百里」耽羅
「其地 東西二千里 南北一千餘里 」『魏書』高句麗伝
耽羅と高句麗を比較すると、縦長と横長の違いはあるが、
耽羅は高句麗の約半分のべらぼうに大きな島だ。
とすると耽羅は済州島ではありえない。台湾だ。

95 :
>>94
>耽羅は高句麗の約半分のべらぼうに大きな島だ。
東西、南北それぞれが約1/2であれば面積は約1/4だな。それでもかなり大きいことは大きい。
しかし、高句麗は方4千里の韓に比べれば小さいな。面積だと約1/8しかない。

96 :
ということは、耽羅は韓の約1/32ということになる。韓の大きさを現在の韓国とほぼ同じとすると、
台湾はその1/32とするには大きすぎるな。

97 :
古地図を見ても朝鮮半島はべらぼうな大きさで描かれている。
それが中国側の認識だったのだろう。
因みに韓とは今の朝鮮半島全体を指しているのであって、
今の韓国を指しているのではない。
とにかく耽羅とは台湾のことである。間違いない。

98 :
混一疆理歴代国都之図は朝鮮の地図だから、朝鮮半島が大きくなるのは
当然といえば当然。当たり前に書くような民族性はない。

99 :
1402年に李氏朝鮮で作られた地図(Wiki)
中国より遙かに日本の事情に通じていたはずの、
しかも1402年の李氏朝鮮で作られた地図でさえ、
日本の位置が倭人伝の記載通りの位置で、
しかも南北に延びた形で描かれているのだから、
九州説に勝ち目はない。
邪馬台国とは、どう考えても、大和である。

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