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2012年09月戦国時代145: 【家親】備中三村氏について語ろう【元親】 (501)
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【家親】備中三村氏について語ろう【元親】
- 1 :2007/06/25 〜 最終レス :2012/10/03
- 悲運の家親意地の元親、熱烈なファンもいるだろ?
岡山の戦国史スレに書きすぎた気もするので独立させた。
質問があれば分かる範囲答える。全国的にはいまいちマイナーな
三村氏だが、みんなで語っていこう。
- 2 :
- うん、俺ファン。
明善寺の合戦では宇喜多勢の4倍の軍勢を動かして敗北したがな
- 3 :
- ずれんでくれっ、三村氏系図、清和源氏で新羅三郎義光の出、
源義光―義清―清光―遠光―長清―長経――長時―親時―親屯―能実―親家┐
<三村氏祖> |
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘
| ┌元祐<庄為資養子>
└時親―┬宗親―┬家親―┼元親――勝法師丸
| | ├元範
| | ├実親
| | ├女[上月隆徳室]
| ├親頼 ├女[楢崎元兼室]
| | ├女[石川久式室]
| ├政親 ├忠秀
| | └阿西入道
| |
| └親成―┬親宣―┬角助
| ├親亮 └斎院
├為親――貞親├親威
| ├親良―┬親安――(以下歴代)
| | ├清庵
| └元高 |
└親房――親重――親当├伊右衛門
└親義
- 4 :
- 少しずれてるけど分からなくはない
- 5 :
- 源義光―義清―清光―遠光―長清―長経―長時―親時―親屯―能実―親家┐
<三村氏祖> │
┌――――――――――――――――――――――――――――――――┘
| ┌元祐<庄為資養子>
└時親―┬宗親―┬家親―┼元親――勝法師丸
| | ├元範
| | ├実親
| | ├女[上月隆徳室]
| ├親頼 ├女[楢崎元兼室]
| | ├女[石川久式室]
| ├政親 ├忠秀
| | └阿西入道
| └親成―┬親宣―┬角助
| ├親亮 └斎院
├為親――貞親 ├親威
| ├親良―┬親安――(以下歴代)
| | ├清庵
| └元高 ├伊右衛門
└親房――親重――親当 └親義
- 6 :
- 備中兵乱記には三村元親だけでなく、その弟三村元範や、 三村実親の死に際についても詳しく書かれてる。
興味のある人は岡山在住なら図書館で見るか、
買うか出来るだろう。
- 7 :
- 親成にも裏切るだけの事情があっただろうが・・甥を最後まで守ってやってほしかった。
- 8 :
- >>7
あまり三村家については詳しくないのだが…
真田みたいに、二つに分かれてどちらかが生き残るとかそういうのでは無いの?
- 9 :
- >>8 横から悪いが、三村一族は宇喜多家に対して尋常ではない
恨みがあった。先代家親が直家により暗殺されたためである。
三村一族は毛利方についていたのだが、その宇喜多家が
毛利家臣となり、もはや恨みを晴らす機会がなくなった。
しかしこれを聞いた織田信長は、これを理由に三村を毛利から
離反させようと考えた。三村当主元親は父の仇を討たんと
この誘いに賛同したのだが、先代家親の弟三村親成だけが
反対した。しかし受け入れてもらえず、身の危険を感じた
親成は三村家を去って、毛利方に翻ったのであった。
説明下手ですまぬ
- 10 :
- そうだった…去年松山城詣でしたのに忘れていた…
- 11 :
- 他スレで俺が書いたやつのコピペ
三村勝法師は三村元親の子で三村家親の孫でわずか8歳であったが、三村一族の篭もる
備中松山城が宇喜多直家、小早川隆景らの軍勢により落城したため、石川久式に連れられ
落ち延びていたが、いつしか石川とも逸れ、ついに1人となった。
「備前軍記」「宇喜多・小早川和睦して備中を攻め三村元親切腹する事」
…先に落ちて行った勝法師も、途中で伊賀左衛門尉に遭遇してとらわれの身となった。
空は当時わずか八歳であったが、生まれつき大層聡明であった。
伊賀左衛門尉は「暫しの暑さ凌ぎに」と、勝法師に扇を与えたが、その扇には、
夢の世に幻の未の生まれきて露に宿かる宵の稲妻
という古歌一首が記されていた。
これを読んだ勝法師は涙を流し、「自分は城内で自害して果てるべき身でありながら、
ここまで生きながらえ、かえってこの憂目をみることよ」と悔やみ、
また彼の見張りの侍どもに、「その方どもの中には、三村の旧臣で降参した者もあるが、
今では余を見て見ぬ振りをしている。まるで畜生にも劣る振る舞いではないか」
と物語ったが、その態度たるや大の大人にもまさる堂々たるものであると、
見張りの者は顔を見合わせて驚き入った。
「僅か八歳にしてこの態度、とても尋常な児とは思えませぬ」
と隆景のもとへ告げたから、やがて井山の宝福寺で首を刎られた。
しかしそのとき勝法師は少しも騒がず見事な最後であったという。
以上だが、なんという早熟な八歳であろうか。慈悲深い小早川隆景が斬れ、と
命じたぐらいであるから、成長してれば大変な人物になったかもしれぬ。
- 12 :
- >>11
たまに勝法師丸が生きていたら…と思うことがある。
まあ毛利は元親を切腹させてるわけだし、生かせてもらえなかったのは分かるが…
- 13 :
- >>3よく知らんが阿西入道って川西(河西)氏のことではないの?
家親の娘の一人(系図には無い)が讃岐の由佐秀盛に嫁いで、後に三村一族の川西之秀が落ち延びたとか。
三村家は親の代から毛利家と同盟を続けた一方、親族関係では昔から児島・四国方面の細川・三好系と関係が深いっぽい
(近いところでは家親の正室が阿波三好氏)から、1570年代前半は毛利と三好の対立した時期で微妙な立場だったんだろうね。
三好家から援軍は来なかったものの、滅亡後には之秀以外にも親族が讃岐阿波に落ち延びて行ったらしい。
- 14 :
- 天正の備中兵乱ごろの主要城主
三村
松山城(高梁) 三村元親
国吉城(高梁) 三村政親
楪城(新見) 三村元範
鬼身城(総社) 上田実親
美袋城(総社) 三村忠秀
荒平山城(総社) 川西之秀
金黒山城(井原) 三村為親
猿掛城(矢掛) 三村兵部?
佐井田城(真庭) 三村兵部丞(左京?)
矢倉城(吉備中央) 田中直重 三村家臣。
幸山城(総社) 石川久式
鬼邑山城(総社) 三宅徳久 上野隆徳の妹婿。
常山城(玉野) 上野隆徳
湊山城(倉敷) 山田源次郎 上野家臣。
毛利
成羽城(高梁) 三村親成 毛利方の城に出奔。
穴田城(高梁) 赤木忠房 三村家に属していたが親成とともに毛利方に寝返り。
月田城(真庭) 楢崎元兼 家親の娘婿だが毛利方に。弟の豊景は猿掛城を攻撃。
伊與部山城(総社) 明石兵部小輔 三村家臣?
野山城(吉備中央) 野山益朝 当初は三村方だが交戦せず本領安堵。
高松城(岡山) 清水宗治 石川家を裏切り毛利方に。
長良山城(総社) 禰屋七朗兵衛 石川家臣。幸山城の留守を任されるが寝返る。
経山城(総社) 中島元行
丸山城(真庭) 庄勝資 為資の孫。一族の植木秀資らと共に佐井田城を攻略。
塩城山城(新見) 多治部景春 三村元範を討取る。
- 15 :
- レス数は大したことないが、地味に凄いスレだな
- 16 :
- 確かに地味に凄いスレですな
- 17 :
- 6
良かったら、元範、実親の死に際について教えてくれ。かいつまんででも良いから。お願い。
- 18 :
- >>13
今日、図書館行って川西之秀について調べてきた。
中国兵乱記巻の二、「備中国荒平山城主川西三郎左右衛門の事」の項を一部
参照してみる。
『城主川西三郎左右衛門之秀は三村元親の親類であった…』
『川西は「某は数代にわたる三村の親類であり小早川に味方は出来ぬ…」と…』
『川西は讃岐の由佐左京の元へ落ちていった…』
これ見ると、「数代にわたる三村の親戚」と言っていることから、
元親弟の阿西入道とは別人な気がする。
ほかにも資料探したのだがこれしかなかった。おそらく川西之秀について言及されているのは
中国兵乱記だけと思われる。
詳しい人いたら補足頼む。
- 19 :
- >>17 遅れてすまん。まず元親弟の三村元範の死に際から。
中国兵乱記巻の二、「備中国の三村持ちの城城を明け退いた事」参照。
『天正三年(1575)正月五日には、芸州勢は新見の城へ押し寄せた。
城主三村宮内少輔元範は、元親公の舎弟であった。楪城は名城であって、
元範は落城するとは思ってもいなかったが、譜代の郎党富屋大炊介・曽袮内蔵・
八田主馬に中島元行が謀反を勧めたところ、
「籠城の諸勢の命を助け、その知行地を間違いなく宛がって下さるなら、
元範に腹を切らせよう」と申してきた…』
これで謀反成立したわけだ。この後、郎党七十騎ばかりが城を出て、小早川配下の
宍戸備前守の元へ去ったと言う。
備中兵乱記巻の上、「新見の楪城落ちたこと」参照。
『郎党多数が敵に寝返り、正月八日城攻めを始めるも、元範は少しも屈せず、
「おのおの方、我に忠義を尽くそうと思う者は、今この時ぞ」
と言うと、勇士七十騎ばかりが出て入って、城を攻める芸州勢と戦ったが、
多勢に無勢。元範の郎党は勇戦するも傷つき、その大半が討たれてしまい、
残る兵は十人ばかりとなってしまった。
- 20 :
- この後、伊勢入道という男が獅子奮迅の働きをして寄せ手の芸州軍を苦しめるも、
ついにその入道も討たれ、元範の目の前まで敵兵が迫ってきた。
備中兵乱記巻の上、「新見の楪城落ちたこと」参照。
『…寄せ手は我先に攻め寄って来た。元範は近づいてきた兵を一人切り伏せ、
三人に手傷を負わせ、隙をみて切腹しようとしていたところ、遠矢に射た敵の
矢が咽輪の外れに当たり、倒れたところを備後の住人東江平内に討たれた。
なんとも痛ましいことであった』
この時、後日談としてある話が伝わっている。
『元範は籠城中ある夢を見た。翌日、八日の早朝(落城当日)、元範は近習の者にその夢を話した。
「今朝、明け方に自分の首を自分が実験してる夢を見た。不思議な夢である。
聖人に夢はないと言うが、自分は聖人ではない」
と言いつつも、少々気になるとみえて、禅僧らにも夢について尋ねられた。
その上で、これは戯れだと言い、
「どうなろうと、生きながらえるのも長くはあるまい」
と大笑いし、家臣を集め、最後の酒宴を開いたのであった…』
『さて、元範の首は毛利輝元のもとへ送られた。しかし輝元は元範の首を鬼身城に籠城する
弟の実親の元に送った。これは、実親の悲しみにつけ込み、籠城してる敵を弱気にさせ、
実親に力を落とさせんためであった。
やがて、元範の首が鬼身城近くまで送られてきた時、実親は、
「兄元範も存命の時は勝れた武将であり、孝悌の道を尽くしていた。
死んだ今となっては、せめて弔ってあげたいものだ」
と言い、花光寺の下で使者を追い返し、壮大な葬式を執り行ったという』
長くなりすぎたが元範の死に際の様子を、中国兵乱記、備前軍記、備中兵乱記の
一部を元にして書いた。長くなりすぎたのと訳し方が下手なのはご了承を…
- 21 :
- >>11
凄い8歳だな。
- 22 :
- ageる
- 23 :
- >>9
質問ですが、元親死後の三村親成についてですが
毛利傘下で成羽城主だったのは理解できますが、その後寄食した
水野勝成と娘を結婚させ、勝成が福山藩主になった際家臣になった
と言われてますが家親の弟にしては活動時期が長すぎる気がするのですが(信長
の野望では1580年代に死ぬ設定になっている)
また福山藩の家臣云々では親成の死亡年が1609年と推定されてますが、これでは
勝成の福山移封以前に死去したことになり矛盾が生じます。
このあたり詳しい人いらっしゃいませんか?
- 24 :
- 宇喜多直家信者さん、どうもありがとうございました。こんなに詳しく書いていただいているのに見るのが遅れてすみません。
自分は直家、松永弾正みたいな武将も嫌いじゃないんですが、やはり元範、実親兄弟のような生き様の武将が好きですね。
- 25 :
- このスレ地味にすごいな
- 26 :
- >>23
まず水野勝成が浪人してた間加藤清正とか佐々成政に仕えたとされてるが、
どれも長続きせず、備中成羽城主の三村親成の元に身を寄せたとされる。
親成は勝成が気に入り、自分の養女(元は兄三村家親の娘)を娶らせた。
しかしあろうことか勝成は親成の侍女に手を付け、慶長3年(1598)勝俊を生ませた。
この後勝成は徳川家康の仲介の元、父親と和解、茶坊主を斬り三村家を逐電する。
大坂の役での功により出世し郡山6万石を与えられ、元和5年(1619)には
備中・備後福山10万石を与えられることになった。
前置きが長すぎたが、この時勝成は家老として浪人時代世話になった三村親成を
家老職にすえたという。
しかし三村親成は1609年死去しているはずであるから、矛盾が生じる。
だが、三村親成が召抱えられていることは複数資料より明らか。
この疑問を解決するべく考えてみたんだが、
子の三村親宣も家老職務めているから混乱したのではないか?
というのしか思いつかんかった。
あるいは、福山藩のかつての恩人に対する慈悲深さを示すための捏造か?
しかしこれはさすがに考えにくいと思う。
やはり子の親宣と間違えたのではないか。どちらも名乗りは紀伊守である。
しかしこれは、あくまでも個人的な意見なので正しいかどうかは分からん。
なお親成の生年は、兄元親の生年が1517年なので1520年頃と推定すると、
1609年死去時にはちょうど90歳ということになります。
これならありえる範囲内と思われます。
結論分からず長々と申し訳ない。
「高梁史」とか参照
- 27 :
- >>23
親成は系図によっては家親の甥とされてるものもある。父親(家親の弟)の名前は親頼とか長親とかあってはっきりしない。
この場合は元親の従兄弟なので平均寿命的には自然になる。
もちろん家親の弟として、家親と年が離れていたとも考えられるし、年が近くても長寿過ぎるわけではない。
福山藩の方は>>26と同じく混同したため?ウィキペディアでは長男でなく次男親良が家老職を継いだとあるし
親の遺産は親宣が継いで親良は亡き親の縁で水野勝成に仕官したとか?
- 28 :
- >>27
「高梁史」見ると親成は家親弟の親頼の子と推定してるな。ただ根拠が分からん。
ちなみに親成が家親の弟とされる資料は、
備前軍記の、「家親公弟三村孫兵衛殿…」ぐらいしかない。
確か長男の親宣は、松山攻め以降成羽親宣と名乗ってる事ぐらいしか知られん。
次男の親良が家を継いでいるから亡くなっていたのかもしれん。
>>26は親宣じゃなく親良だったな。すまん
- 29 :
- >>26−27
丁寧な返事ありがとうございます。
ある程度の状況がわかり納得できました。
親成系が元親以後、実質三村家の本筋と
思われるのに情報が少ないですね。
- 30 :
- >>29
親成子孫は親成を「親重」と伝え、嫡流筋は岡山県倉敷市勇崎に住まうという。
分流は福山や京都・大阪・兵庫など。
福山の系統以外は、いずれの系統も「武士は二君にまみえず」という家訓が伝わっているという。
- 31 :
- >>30
補足しとくと、倉敷へは同じく小笠原家子孫の係累である赤澤氏を頼って移住したそうな。
- 32 :
- >>30 >>31
補足の補足だが、曹洞宗馬乗山海徳寺に三村氏の菩提寺があるよな。
この海徳寺は、三村氏に頼られた赤澤久助が開いたという。
- 33 :
- このスレほど勉強になるスレはないですな。
- 34 :
- >>32
海徳寺は菩提寺ではなく、親成曾孫で水野福山藩家老の三村親澄の位牌があるだけらしい。
親成流三村氏の菩提寺は飽くまで福山城北の龍興寺で、親澄の墓もそこにある。
親成の子親良・孫親安の墓も然り。
ただし、親成の墓は龍興寺にはないらしい。
この辺は結構謎かもしれない。
- 35 :
- >>32
海徳寺は菩提寺ではなく、親成曾孫で水野福山藩家老の三村親澄の位牌があるだけらしい。
親成流三村氏の菩提寺は飽くまで福山城北の龍興寺で、親澄の墓もそこにある。
親成の子親良・孫親安の墓も然り。
ただし、親成の墓は龍興寺にはないらしい。
この辺は結構謎かもしれない。
- 36 :
- すんません。2回もカキコしてしもうた。。
- 37 :
- >>34
元禄11年(1698)福山水野藩は断絶し、三村親澄は備中玉島に住んだといわれている。
今も残る曹洞宗馬乗山海徳寺には、親澄以降の三村氏の菩提寺がある。
あと、備後福山の慈雲山龍興寺に三村親成、親良、親安、親澄の位牌があるらしい。
ただ曹洞宗馬乗山海徳寺にも親澄の位牌はあるという。
親成の墓は、あると言われていた備中成羽源樹寺にもないようだ。
結局どこにあるのかは分からん。確かに謎である。
ちなみに、福山龍興寺の三村親成には、
「源樹院殿天勝宗運大居士 三村紀伊守親重 慶長十四年十月十九日」
と、あるようだ。
市史参照
- 38 :
- なんか繰り返したようになってしまった。すまぬ。
- 39 :
- >>37
ホント親成は謎だらけの人物だ。
でも、何百年も前の人物だし、分からんことだらけなのも仕方がない。
ここは謙虚になって、推測を楽しむべき…かな。
ちなみに親澄は「水野落家後備中勇崎牢人(=浪人)」とあり、
その子は「平内」「藤七」「孫太夫」としか名乗りをあげていないことから、
親澄は完全に帰農したものと思われる。
でも、平内は浅野家に、孫太夫は安部家に出仕したとある。
藤七の系統が勇崎で地主のようなことをしていたため、
この系統が親成流の嫡宗とみなされているようだ。
でも、親澄の弟親興は京都で水野家分流に改めて仕えたみたい。
親澄とは喧嘩したとも伝わっているらしいが、よう分からん。
- 40 :
- >>39
藩士として生き残ったのは四国の系統だけらしい。親興の系統は断絶したのだろうか。
曹洞宗馬乗山海徳寺には親澄以降の位牌があるらしいが、真実は不明。
「戦国宇喜多一族」見ると、…親澄―藤七―藤八…とあるな。これが嫡流か。
あと、親成ほどの武将の墓地が不明というのは確かに不思議。謎多き家である。
- 41 :
- >>40
海徳寺は昨日書いたように正式な菩提寺ではないらしい。
その理由は藤七以降は苗字帯刀を許されていなかったからではないかという。
海徳寺って格の高い寺なんかな?
ただ、備中三村氏の係累として地元ではさすがに特別扱いされてみたい。
それと、江戸後期には、安部福山藩に仕える同じく親成流三村氏が、
系図を売ってくれと勇崎まで来たらしい。
お伴連れの立派な武士だったそうな。
飽くまで伝承だけどな。
- 42 :
- スレ汚して申し訳ないのだが、かの大石内蔵助が城明け渡しの立ち会いをした備中松山藩は三村家とは一切関係ないのですか?
- 43 :
- >>42
ないと思う。
ただし、後世の板倉家備中松山藩には三村家親の子孫が活躍している。
三島中洲(毅)といい、賢かったみたい。
この人もやっぱり倉敷の人だ。
- 44 :
- 岡山では、三村氏の子孫を語る人は結構いるよな。
- 45 :
- >>44
そおなの?
- 46 :
- 自演臭いスレだな
- 47 :
- じゃ、さげとこう
- 48 :
- 間違えた
- 49 :
- つっか、おじさん酔った
- 50 :
- あげ
- 51 :
- ふむ。
- 52 :
- 糞スレ晒しage
- 53 :
- なんだこの流れ。
>>43
調べたら、三島中洲は鬼身城主で家親4男の、
上田実親の系統らしい。
鬼身城落城の時、実親は確か20だから、遺児がいてもおかしくはないな。
「吉備郡司」など参照
- 54 :
- >>17
実親の死に際について書くの忘れてた。ネタ投下兼ねて書くか。
実親は元親の弟で、鬼身城主の上田家に養子として入っていた。
『備中兵乱記』「山田の鬼身城が没落した事」
『正月二十三日、芸州勢は鬼身城へ押し寄せ、七重八重に取り囲んで鹿垣を結い、
昼夜四十日間にわたって息もつかせぬほどに攻め戦った。
この時、明石与次郎という家臣が大敵に驚いたのか、芸州勢と結託し攻め入る気配を見せたため、
城中に動揺が走った。実親はこれを見て、
「もはや制することは出来ない。この上、時がたてばさらに明石と同じく
芸州勢に内通するものが出るだろう。自分が一命を捨て万人の命を助けねばならぬ」
と思い、敵方に使者を立てその旨を伝えた』
中国兵乱記には、この時実親義祖父上田近江守が孫の実親の腹を斬らすので、
自分と城兵の命は助けてくれ、と懇願したと見える。
『齢八十に及んでも命を惜しみ、孫の若い実親に腹を斬らせようという上田近江守の
心根を憎まないものはなかった』と書かれている。
『…実親は兄元親に遺書を記し、その他にも別れの手紙を書いた。
正月二十九日辰の刻(午前八時)遺言として、実親は検使に向かい、
「このたびのことは、毛利家に別心あってのことではない。宇喜多和泉守に対し
深い鬱憤があったため、織田信長の廻文にまかせ、細川真之・三好左京大夫らの
助力を持って本意を遂げようとしたのである。
しかし運足りず、このような結果となった。このことを隆景卿へ伝えて欲しい」
と語った…』
- 55 :
- 『…自害の為本丸に上がった実親は諸兵士に対し、
「この度の各々方の粉骨の働きはあの世までも忘れない。武運が開けた際には
恩賞を与えるつもりであったが、今となっては仕方ない。他家に仕えて俸禄を
受けるのもよいであろう」
と声をかけ、周りに近習の者達を集め、
「長い間よく仕えてくれ、この度もよく戦ってくれたが、その功に報いることが
出来なかった」
と、お詫びの言葉を述べた。
実親は一礼して西へ向かい、手を合わせ、
「南無西方極楽教主の如来、亡き父の為に腹を斬るのであり、どうぞ父の元へ
渡り迎えたまえ」
と声高に念仏を唱え、大脇差を抜いて左の脇腹に突き立て腹を十文字に切ったところで、
古老の荒木右京之進という者が首を打ち落とした。
実親はいまだ二十歳、春の花もつぼみのまま散ったことで悲しまぬものはなかった。
この時、生年十六になる藤若という小者が主君の死に様を見て、涙を流していたが、
「お供をするものは一人もいないのか」
といい、敵陣に駆け込み敵の将二三人ばかりに手傷を負わせ、本丸の実親の
死骸に寄りかかり、腹を掻き切って果てた。
誰一人として藤若の心底を思わないことはなかった…』
備中兵乱記の著者は不明だが、作者はこの話に感動したのか、かなりの文字数を
使っている。それにしても、三村兄弟は最後、皆父上の元へ参ると言ってるのがいい。
『備中兵乱記』『中国兵乱記』(訳してある方)『陰徳太平記』参照。長文すまぬ。
- 56 :
- >>55
いやはや勉強になりまする
- 57 :
- 最後の城となった常山城も悲惨だったね
戦に負けるというのは本当この世の地獄だな〜。
三村氏は時流が読めないというより、運がなかった印象
- 58 :
- >>56
ありがたい。
>>57
上野高徳か。勝ち目がないなか籠城して戦った。
最後は、一族家臣妻子(妻は三村家親の娘)と共に自害。
- 59 :
- >>57
>>58
本になってる?聞いたことあるかも
- 60 :
- 鶴姫が自らも武装して討死した話、自分は『女甲冑録』で読んだよ。
他にも書籍はたくさん出てるはず。
- 61 :
- >>59
ttp://www1.harenet.ne.jp/〜tuta22/kogima/tuneyama.htm
ここなんか参考になるかも
これ関連の書籍は読んだ事ないから、面白い読み物があったら読んでみたいな
- 62 :
- >>59
軍記物なら「備前軍記」「中国兵乱記」「備中兵乱記」「常山軍記」とか。
このうち、常山軍記以外は山陽新聞社の現代語訳がある。
考証本なら、「備前児島と常山城」という上月氏についても書かれた本がある。
どれも岡山県内の図書館ならあると思う。
- 63 :
- 三村一族はもっと評価されていい。
- 64 :
- 勝法師丸は元親が14、5歳の時の子かー。
- 65 :
- >>64
俺は精通が14歳だったな。
当時は結婚自体が早かったし、姉さん女房なら十分にありうるのか!?
- 66 :
- >>65
十分ありえます…が…
元親って何年生まれ?
- 67 :
- >>66
元親は従来天文22年(1553)生まれで、天正3年(1575)23歳で死去とされていましたが、
上月隆徳に嫁いだ妹(鶴姫)が33歳で死去(備中兵乱記など)とされているので、
元親の生年を見直す考えも出ている。
ソースは分からんが、最近は生年不評か、天文15年(1546)生まれ30歳で死去とする事が多いようです。
ただこれでも、鶴姫を元親の妹とする備中兵乱記と矛盾が生じる…
あるいは備中兵乱記が間違っているのだろうか。
- 68 :
- 詳しいですなあ。
- 69 :
- けっこう家親が年取ってからの子なんですね
それに対して息子は…いやはや…
- 70 :
- 備中松山城に行ったら三村マンセーだった…
- 71 :
- 俺は小四で精通して十四では出しまくりだったから、元親の気持ちはよくわかる。
確か正室は三好?
- 72 :
- 昔とある歴史サイトの掲示板で、三村氏の子孫の人がいて、
三村家親が宇喜多直家に合戦の最中に、暗殺者によって殺されたことに
激怒しているのを見たな。
- 73 :
- 家親が殺されず1590年前後まで生きてたら岡山の歴史は大きく変わっていただろうな
- 74 :
- >>73
こねんことーして しょうがねーのー岡山は
ハヨ-シネェヤ! ヒィ \ノ||:| | |::|\瀬戸大橋 /
∧岡∧ ∧_∧ \:|___|_|::|‖\ . / 岡山ッテ??
<丶`∀´> (´Д`;) \__:::::|‖‖\ . / 津山30人殺しダヨ
( つ (つ つ \|::|::|‖‖‖\ . / ∧_∧ ∧_∧
汚い言葉遣い . ..\:|‖‖‖‖\./ ( ・∀・) (・∀・ )
イネ!! ウルセェ,アンゴゥガ!! ∧∧∧∧ ( つ (
∧岡∧ ∧岡∧ <大都会 > / ̄旦~ ̄旦~ ̄/
<丶`Д´> <`Д´ > < > ∧_∧ ∧_∧ /
( ○ 凸 ) < 岡 >(.岡山;)(. ;)
───────────── < 山 >────────────
日本 ヽ( )/ ホモが集まる < 予 県 > . ∧____∧
三大奇祭 ( * ) 西大寺会陽 < > . /::::::::::::::::::..ヽ、 OHKのマスコット
..∧_∧ ノ ゝ (はだかまつり) ..< 感 > .. /、-''" ̄~"'''-、l OH!くん
(ヽ( )ノ) .. ∧_∧ < の > | ● , ● ..l
ヽ ̄∧_∧/ (ヽ( )ノ) ..< !!!! > ... 'l 人 / 糸冬
(ヽ( )ノ) ヽ ̄ l  ̄ ./ ...< > . \___ _/ 製作著作 OHK
ヽ ̄ l  ̄ ./ | . . | ∨∨∨∨\
∧|_∧ | ∪ ; 丿 / 人 アヒャ!! \~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(ヽ( )ノ) ∧_∧ / ノ桃ヽ、 \ ∧_∧ ∧_∧
ヽ ̄ l  ̄ ./ (ヽ(::::::::::::::::)ノ ./ ( ゚∀゚ ) \ (::::::::::::::)(:::::::::::::::
| . . | ヽ:: ̄ー ̄./ / (ヽ、人/). \(::::::::::::::)(::::
…ってならなかったかもね。
- 75 :
- >>74
流れおかしい…
- 76 :
- >>74
日本三大一覧
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%89%E5%A4%A7%E4%B8%80%E8%A6%A7
では三大奇祭
御柱祭(諏訪市)、なまはげ(男鹿市)、吉田の火祭り(富士吉田市)
となってるんだが?
- 77 :
- >>74
何だこの流れ、スレ荒らすな。
関係ないが、三村元親は細川幽斎と仲が良かったらしい。
松山城籠城の際、細川幽斎が元親に「八雲集」を届けたことが備中兵乱記に見える。
また自害する際、幽斎に一首送っている。
「一度は都の月と思ひしに我待つ夏の雲にかくるゝ」「備中兵乱記」参照。
- 78 :
- age
- 79 :
- >>72
いたいた、そんな人
三村親成って名乗ってた?
- 80 :
- そういえば、三村家親だか親成って水野勝成の舅じゃなかったか?
- 81 :
- >>80
>>23->>30のあたり参照して下され。
- 82 :
- 意外と三村氏って本になってると思うんだが…
- 83 :
- 本かよ!
- 84 :
- 本とかよ!
- 85 :
- >>82
不覚にも題名忘れたが、三村家親の生涯を書いた小説があった。
5年前ぐらいに図書館で読んだんだが、今もあるかな?
あと三村元親とか上田実親の奮戦を描いた本もある。
しかし、三村氏を研究したとかいう本は見たことがない・・・
- 86 :
- 誰か三村氏を研究して本にしてたもれ
- 87 :
- マイナーだが頑張った三村氏のスレage
- 88 :
- >>83-84
三村マサカズかよっ!
- 89 :
- 備中兵乱はもう少し評価されてもいいよな
- 90 :
- >>89
名族三村氏最後の光だしな・・・
関係ないが、成羽町史から三村家親の記した書状を見つけた。
長くなるので止めておくが。
- 91 :
- >>90
長くなっても桶
- 92 :
- 五月十九日附 禰屋七郎兵衛外一名宛 三村家親状
今度は至龍口城、敵及行既二三丸迄伐入候處、薬師寺殿、與七郎殿、
以御粉骨被代退、剩可然衆數人被討捕之由、一味中面目之至、大慶不過之候、
最前之衆御油断、不粉候、外聞不可然候、仍岡權右衞門、此方へ被罷越、
一昨十七日歸路候、直に可被参旨候、津山南御知行、御公物員敷、萬艘可被相證之條、
自某も別に使は添可申候迚、於旨趣は申明候問、御爾所迄可申之覚之儀、
無左と御請被成を、掟可被申、内證と聞へ候、於員敷之樣體は、被仰理堅固御請被成候て可然候。
直々も此旨申候、猶以御被露専一候。急候て具に不申入候、恐々謹言。
家親
五月十九日
禰屋七郎兵衛殿、土屋四郎左衛門殿
- 93 :
- 今度は至龍口城、敵及行既二三丸迄伐入候處、薬師寺殿、與七郎殿、
以御粉骨被代退、剩可然衆數人被討捕之由、一味中面目之至、大慶不過之候、
最前之衆御油断、不粉候、外聞不可然候、仍岡權右衞門、此方へ被罷越、
一昨十七日歸路候、直に可被参旨候、津山南御知行、御公物員敷、萬艘可被相證之條、
自某も別に使は添可申候迚、於旨趣は申明候問、御爾所迄可申之覚之儀、
無左と御請被成を、掟可被申、内證と聞へ候、於員敷之樣體は、被仰理堅固御請被成候て可然候。
直々も此旨申候、猶以御被露専一候。急候て具に不申入候、恐々謹言。
家親
- 94 :
- >>93
何なんだ、おい。
とりあえず、何年の文書か分からんので今は備前軍記とか見て年を推定してる。
- 95 :
- 中国兵乱記にある、永禄四年五月と永禄七年七月の二回の龍の口城合戦のどちらか関係でしょうね。
永禄四年は備中から加勢で祢屋与七郎・薬師寺弥五郎が龍の口城に籠城し、城主のさっ所治部が計略で討ち取られた後
浦上勢六千が包囲攻撃したけど、備中勢の後詰九千余騎との野戦に敗れて撤退。この時は岡権右衛門はまだ浦上方に名前がある。
永禄七年は祢屋与七郎・薬師寺弥五郎・土屋四郎左衛門ら千二百余騎が守る龍の口城を浦上勢(大将は直家?)一万余騎で包囲し
備中からは三村家親七千余騎石川久智八千余騎穂田元祐七千余騎が三手に分かれて後詰めするが、
初戦では裏切りもあって石川勢が壊走し、二度目で何とか城に兵糧を運び入れることに成功して備中に退いたとか。
その後はよく分からんが、明禅寺合戦で三村勢が龍ノ口山の麓を進んでるし明禅寺崩れまで三村方が維持してた?
- 96 :
- ふむふむ。子孫として出来る範囲で情報提供させて頂きます。
- 97 :
- >>95
永禄四年の龍ノ口城落城には、「備前軍記」には宇喜多直家の策謀とあるが、
「中国兵乱記」には三村方の謀略により落城、とあるのはどういうことか?
どちらも〓所元常が討たれているが、意味分からん…
>>96
やはり、三村親成の系統ですか?
- 98 :
- >>97
そうです。
でも昔色んな掲示板で三村親成って名乗ってた人ではないですよ。
IDかわるんで俺もコテハンにしようかな。
- 99 :
- >>98
ちなみに備後の人?
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