2012年09月三国志・戦国168: 袁紹配下の人物達について語ろう (609) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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袁紹配下の人物達について語ろう


1 :2008/05/17 〜 最終レス :2012/10/26
猛将、知将、忠臣、裏切り者等個性豊かな面子が揃った袁紹軍について語ろう。
また袁家一族の者や袁家に縁の深い人物についてもどんどんここで語ってください。

2 :
2

3 :
田豊の扱いがひどすぎるよな

4 :
曹操に降っていればもっと重用されただろうに・・・

5 :
自業自得であろうに。

6 :
晋姫本名なんなんズラ?

7 :
顔良、文醜ってぶっちゃけ大したこと無いよな

8 :
顔良文醜は
袁紹軍団のフンドシ

9 :
ソジュこそ三国時代No1の軍師。

10 :
辛ピは勝ち組。

11 :
辛ピだけ確かに魏でも活躍してるな
信頼も厚い。
勝ち組。

12 :
ただ、官は高くなかったがな

13 :
ちょうこうを忘れてる

14 :
郭図に全てお任せ

15 :
そしてまず挙がらない張導

16 :
張導ってどんな人物?
すごく気になるけど袁家にとって重要な人物なの?

17 :
斬れ!田豊を斬れ!!

18 :
ここまで基禮が挙がらないとは

19 :
>>17
逢起乙。
逢起「審配は義理堅く信用できる人物です。そんな疑惑は嘘っ八でしょう。」
袁紹「お前、審配と同職についてていざこざ起こして恨んでるんじゃなかったの?」
逢起「確かに恨んでますがそれは私的な事です、今は国のことを考えて言っているのです。」
袁紹「田豊に合わせる顔がない。」
逢起「あいつ牢獄の中でざまあみろって手を叩き喜んでましたよ。」

20 :
袁笑

21 :
>>19
ワロス

22 :
疑問に思ってたんだが甄姫と劉氏が冀州城に残ってて曹丕に攫われてったのはいつぐらいなんだ?
袁紹はもう死んでる頃なんだろうか?ていうか冀州城ってどこだ?教えて袁家ファン。

23 :
袁紹の存命中に冀州が陥落するような事態になっていたら、
彼の死後、袁家の残党制圧に5年もかかってないよ。

24 :
あ、そっか冀州城って官渡にはないか。
そうだよね冀州ってついてるもんね。(・ω・`)トチってた。教えてくれてありがとう。
という事は劉氏はそのまま曹操の所か…。
妾5人殺して髪の毛むしり顔に刺繍施すなんて精神状態かなりヤバイと思うんだが
それでも曹操は敵方の夫人の面倒みてやってるのかな?もし殺されてたらカワイソス。

25 :
>>16
袁紹得意の人材の使い捨ての犠牲者のひとり
鉅鹿太守として治水で大きな事績を残した人物
後の董卓討伐で袁紹に協力し、冀州乗っ取りでは韓馥に印綬を譲らせるという
最も大きな功績をあげたにもかかわらず、朝廷(というか董卓)から爵位をうけた
という理由で袁紹に一族皆殺しにされる

26 :
>>24
冀州城ってのはギョウ[業β]のことだね。
魏略に次のようにある。
熙出在幽州、后留侍姑。及[業β]城破、紹妻及后共坐皇堂上。

27 :
何故幽州じゃなくて冀州にいたんだろうか?
冀州は尚の管轄だよな?

28 :
>26
おおそうか!冀州は冀州でも業βの所か。
冀州は地名だと思ってた俺三國志入門1年目。場所ぐらい覚えとかねば…。
漢文はあまりうまく読めないけど連れていかれたという事はわかった。
丁寧にありがとうー。
>27
劉氏は袁尚の実母だからでいいとして、確かに甄姫は何故なんだろ?
姑と一緒にいないといけないしきたりみたいななんかがあるんだろうか。

29 :
袁紹って別に無能じゃないんだよな
本格的に崩壊しだしたのって袁紹死んでからなんだよな

30 :
顔良、文醜はオレの嫁

31 :
>>29
無能じゃないどころか、あの時代最大の英雄であり奸雄
宦官殺戮も董卓を呼び寄せるのも反董卓連合も袁紹が深くかかわってる
漢を終わらせて新しい時代を招きよせたのは袁紹だ

32 :
曹操や劉備、孫権を新時代の英雄とするなら、まさしく旧時代=後漢最後の大物と言えるかもな
そして、その袁紹の敗北が後漢時代の終焉を告げたとも言える

33 :
袁紹の時代を懐かしむ人々が南北朝時代にもたくさんいたらしいし、
内政官としてはかなり優秀だったんじゃなかろうか…。
武官としても、コウソンサンを破ったし。

相手が曹操だし、負けは仕方ないと思う。

34 :
顔良最強説

35 :
ソジュと田豊の仲はどうだったの?

36 :
アーッ

37 :
三国志7をやってるんだが
袁紹って人材が揃っていてラクだな
ゲームの感覚だと武官は猪武者ばかりで役立たず
もっとも使えるのは審配か沮授

38 :
袁紹か・・・・
統治能力やカリスマ性は確かだと思うが・・・・
「優柔不断」ってのがなによりの減点対象か (゚ω゚三゚ω゚)

39 :
息子と高幹に1州づつ与えて後継ぎ決めようとしたり、
ソジュに軍事全権与えたりする壮大な性格は長所であり短所。
さすがに冀州勢に権力与えすぎたので自粛して分割するようにしたが。

40 :
>>33
優秀だったからじゃなくて支持地盤があったからです
典型的な自民党のエリート型武将
支配下の統治も旧態依然の搾取制度ががっちりしているので多少の能力の有無は
それほど問題にならず、むしろ「過去を踏襲すること」に価値があるような政治
紹様を支えるブレインにはさすがに脳なしはいなかったようだが、行政で主導権
を握るには派閥の折衝に強いねばり強い性格の文官でなければ生き残れなかった
何か・・・抽象的だなぁ・・・くそ

41 :
”紹為人政ェ、百姓コ之。河北士女莫不傷怨、市巷揮涙、如或喪親。”
「優秀でなかった」はずの人物の死なのに、これだけ民が嘆き悲しむんですね。
「優秀でなかった」はずの敵の首領なのに、
その死後に曹操陣営からもその統治ぶりを賞賛する声が上がるんですね。
ヘンなの。

42 :
麹義マダー?

43 :
>>40
袁氏の地盤は汝南だな。河北じゃない。
当時最大の権門であったとはいえ、テレビも電話も無い時代に
縁もゆかりも無い土地で >>41 のように慕われるのは、
それなりの理由があると思うよ。
お前さんが言う自民党のエリート世襲議員だって、国替えしたら当選怪しいぜ

44 :
そもそも韓プク騙して土地譲らせるまで土地なしだしな。
そして土地を手に入れても自分よりよほどでかく中央の兵力を横領した公孫王賛がいたんだぜ。
界矯の戦いって赤壁、官渡くらいの大勝利だと思う。

45 :
》44
それで考えると、土地騙しとったり侵略したりしてるのに、
これだけ民の支持えるのってすげぇと俺は思うんだが。
曹操だって、領地の反乱に度々悩まされてたからなぁ。

46 :
大体が勝った方の直前直後の歴史文献っていうのはガセが多いw
ギョー民の統治ぶり明君ぶりも、袁紹を必要以上に貶めないイメージ戦略の一環と
いう解釈もできる
>>45
袁紹の場合は、当時にしてはあの地方で圧倒的な軍事力があったからね
従うしかなかっただろ
その軍事力の何割かでも山賊討伐に使ってれば即明君の仲間入り

47 :
>>46
> ギョー民の統治ぶり明君ぶりも、袁紹を必要以上に貶めないイメージ戦略の一環と
ところが>>41 の引用も袁紹が死んでから200年以上経ってから成立した
後漢書の記述なんだが…

48 :
むしろ負けた方は散々に書かれるのは歴史の常。
張コウ伝でのみ官渡の無理攻めのせいで曹操に降った張コウとかは勝ち組だからよく書かれる。
他の伝では自発的に裏切ってるし。
それに比べ軽装騎兵をきちんと烏巣に送ってる郭図とか、演義での淳于鶏の扱いどうよ?

49 :
袁家に詳しそうな方がいらっしゃるので、わかりましたら、お願いします。
@袁家は、宦官と切っても切れない関係だった。宦官と繋がることで繁栄した
とどこかで見たのですが(中英板だと思います)、これは、どういうことなのでしょうか?
具体例があれば、お願いします。
A@の内容は、どの史書のどこに書いてある内容なのでしょうか。
 よろしくお願いします。

50 :
>>49
後漢後期の話題なので板違いな気もするが、
後漢書、袁安伝の「時中常侍袁赦,隗之宗也」 の事かな?
袁湯(袁紹、袁術の祖父)が罷免され、袁成(袁湯の嫡子で袁紹の父?)が夭折し
袁家が一時的に衰退していた時代に、宦官の中常侍に袁赦という人物がいて、
彼と協力する事で袁隗(袁紹、袁術の叔父)が政界で力を伸ばし、
兄・袁逢(袁術の父)よりも先に三公昇った。
っていう話だな。
この話の事じゃなかったらごめんよ。
但し、
(1)袁赦が失脚した時と思われる際(179年)に袁隗は巻き込まれていない。
(2)袁隗が司徒を勤めている年数がこの当時としては異常に長く
(172年12月〜176年6月と182年4月〜185年2月)
何進と共に党錮の禁で宦官に弾圧された清流派の人々を中央に呼び戻しているのに
宦官にその地位を引き摺り下ろされていない。
(二度の辞任は病による)
(3)黄巾の乱が起こっても罷免されていない。
以上から、宦官とは関係なく単に袁隗という人物が、優れた政治家だった
という可能性もあると思う。
てゆうか、俺には袁家を四世三公の名門にしたのは、
袁隗が「宦官と清流派の間を上手く調整した」からであって、
「宦官と繋がることで繁栄した」というのは違うんじゃないかと思う。
他に何かソースがあるなら、俺も知りたい。

51 :
>>50
50さん、丁寧に背景までありがとうございます。
三つの理由からしても、よほど袁隗の「政治家としての要領が良かった」のか、
「他に何か、他者の口出しを許さないような巨大な権力との癒着があった」のか
と感じました。
50さんの仰るとおり、「宦官と繋がることで繁栄」とは違うようですね。
「調整」だけで、生き残ったなら、相当のやり手だと思いました。
 丁寧に、本当にありがとうございます。おかげさまで、去年からの疑問が解けました。

52 :
書物は改ざんされてる可能性があるから減点方式で評価すると間違うね。
事実を解き明かすことができればよいが、それが無理なら加点方式で評価しないとな。
そうしないと改ざんの被害を被っている郭図なんかはひどいことになる。
実現不可能な策を提案して実施されなかった者より、
採用されて結果として敗北した者の評価が低いのはおかしいと思うな。

53 :
袁氏に関しては「三国志」より「後漢書」のほうが好意的に書いてると思う

54 :
剛直だったり讒言したり自慢気だったりろくな奴がいない

55 :
自分としてはそういうバラバラな人間模様が好きだったりする。
この上司と部下たちの噛み合わなさは他の軍にはないくらいだよね。

56 :
袁キはあの兄と弟じゃ苦労しただろうな。
うまく仲介してたりもするんだが。

57 :
>>53
てゆうか三国志が袁紹一派に対して批判的すぎなんじゃないかと。
おかげで>>38が言っているみたいな「優柔不断」ってイメージが付いちゃったが
本当に優柔不断な奴なら、あのタイミングで宦官皆殺ししたり、
迅速な洛陽脱出したりは出来ないと思うんだがなぁ。
>>48がいう「負けた方は散々に書かれる」例なんだろうな。

58 :
優柔不断なイメージは演義のせいじゃね
正史だと普通に負けてるだけなわけだし

59 :
後継ぎ問題も審配たちの陰謀がもとでこじれたんだしね

60 :
また妻の話を振って悪いんだが劉氏って後妻だよね?
ということは前妻がいるんだろうけど何かそれについて記述みたいなのあった?死別したとか離婚したとか。
袁譚と袁煕はその前妻の子なんだろうか。

61 :
>>60
袁紹の妻のうち名前がわかっているのが、劉氏しかいないはず。
袁尚の字は顕甫で「甫」は長を意味するらしいので、
もしかしたら正室の長子=袁譚と袁煕は異母兄
という事かもしれないね。

62 :
うーんやっぱり前妻の記述はないか。名前ぐらい出てるんじゃないかと思ったんだが…。
でも劉氏の標的になってないところみるともうすでに死んでる気がするんだよなぁ。
一番初めにRなら妾より正室だろう。
へぇー甫ってそんな意味があったのか!というと
正室の長子=袁譚、劉氏(側室)の長子=袁尚。二人は異母兄弟。
って解釈でおk?
そう考えると袁尚が三男でありながら後継者候補に挙がったのは
後妻の長子という名目上、強ち無理矢理な話でもなかったんだな。
>>61教えてくれてありがとー。

63 :
>>62
あー、ちがうちがう
袁尚(顕甫)が正室劉氏の長子で、袁譚(顕思)と袁煕は前妻の子かな〜と。
異論は認める。
そもそも側室37564の件の出展は文学論評である典論だけで
後漢書にも武帝紀にも記載は無いから、信憑性には欠けるとおもうんだ。
それに袁紹より前の世代から、婚姻外交が積極的に行ってきた家で、
側室をおろそかに扱ったりしたら、袁尚の立場が悪くなるかもしれない。
かわいい息子が不利になるような事を劉氏がするかね?

64 :
劉氏とシン氏の会話を見ると、袁煕の母も劉氏か、少なくとも劉氏と袁煕の関係は破綻してないと思うんだよな

65 :
>>63
あっれ、おれもそういうつもりで書いたんだが…。
読み直してみると確かに劉氏が妾であったような書き方で紛らわしかったかな。(´・ω・)ごめん。
素直に前妻の長子=袁譚、
後妻(劉氏)の長子=袁尚って書けばよかったね。
よく考えりゃどっちも妻なんだから正室か…。
うーん確かに実母が妾37564なんて袁尚にとってイメージダウンでしかないし
動機といっても嫉妬のあまりという感情論しか浮かばないな。
袁尚が母のために妾37564を手伝ったとも、
子のためを思って夫に直々に推薦までした劉氏が
自分の私情のみで37564をするような浅はかな女だったとも考えがたい…。
でも典論って曹丕が書いたんだよね?
もし37564が嘘だったとしたらそれはなんのための嘘なんだろう。なんのためにそんな事を書いたんだろう。
今さら袁家のイメージダウンなんて必要ないだろうに…。もしかして甄氏殺害と何か関係があるのかな?深読みしすぎ?
>>64
あの陥落した冀州城で劉氏と甄氏が残っていた時の会話?
あれは小説の創作だと思ってたんだが出典があったりしたらkwsk。
個人的なものだけどあれを見ると袁煕と甄氏との関係も良好であっただけでなく
性格的にも聡明だった印象も受けるな。37564なんて到底してなさそうだ。
でも袁尚の字に甫がついている以上袁煕も劉氏の子というのはどうだろう…?
もし甫が長子という意味でつけられたのではないならわからないけど。
どれもこれも確証を得ないなぁ。憶測だらけでスマソ。(´・ω・)

66 :
建安中、袁紹為中子熙納之。熙出為幽州、后留養姑。(文昭甄皇后伝)
中山郡無極県の名士・甄一族の中でも評判の娘である甄氏を、袁熙に娶らせた。
着実に勢力を固める婚姻外交であることがわかる。
その後、夫は幽州刺史として北方へ単身赴任し、妻は姑の世話のために残った。
だからといって、袁熙が劉氏の実子だったかというとそうとも言い切れないかな。
長子・袁譚は既に青州へ転出しており、父子の仲も良好とは言えない。
弟・袁尚にはその時点で妻がいなかった可能性が高い。
その結果、聡明で慎ましい性格の甄氏が、
袁家の奥を取り仕切る最適任者だったという可能性も考えられる。

67 :
袁譚が父と仲が悪いってどこかに書いてあったかなあ

68 :
ごめん。
「父子の仲も良好とは言えない」のくだりは削除し忘れてた。
「兄・袁譚は既に青州へ転出しており、弟・袁尚にはその時点で妻がいなかった可能性が高い。」
と読み替えて下さいな。

69 :
これは妄想として
甄氏が夫についていかなかったのは、本当は「妊娠していた」または「育児中だったから」なんじゃないのかねえ

70 :
しかし、妾腹の兄と正妻の産んだ弟がいがみ合う・・・
知識に乏しい俺には、袁紹・袁術兄弟の仲が本当に悪かったかわからんが、
そうだとしたら結局親子で同じ事を繰り返してるんだな・・・と悲しくなってくる

71 :
ちょっと待って
袁譚たちが妾腹だってのは確定情報だったか?

72 :
>>69
そ れ だ 。
曹叡の親父は袁煕説ってどっかで見かけて嘘ーんて思ってたけど、
あの時点でもう妊娠していたならガッチリ辻褄が合うし
袁煕が甄氏を妊娠経験者の劉氏の元に置いていったのも頷ける…!
おれもその妄想支持するわ…!なんかドラマチックだよなそれ。
>>71
妾腹の場合庶子の扱いになって後継者候補にはならないんではないだろうか…?
でもとりあえず書物の上では袁譚と袁煕は誰から生まれたのかは不明だったはず。

73 :
あの時代に、今ほど早期に妊娠が判断できたか
まぁ、当時からつわりなんかは知られていたかもしれんけどさ
さすがの曹操父子も、腹が膨らんでいたらわかるだろうし

74 :
>>72
袁尚を後継者にってのは審配たちの陰謀だよ
後漢書袁紹伝によるとね
袁紹は後継者を定めてない

75 :
>>73
あ、そっか…子がいるってバレてたらさすがにその子は絶やされちゃうか…。
そのどこかで見た曹叡の親父は袁煕説では曹丕と甄氏が出会ったのは
曹叡の生まれる6ヶ月前って書いてあってこれは臭いと思ってたんたが…orz
妊娠4ヶ月ぐらいでももう腹膨れてくるみたいだしなぁ。バレるか。
ということはやっぱり>66の説が一番無難な線なのかな。
お世話役なんて嫁に頼らずともいっぱいいただろうと思うんだけど…。
>>74
ごめん、袁紹が認めた云々の後継者候補とかそんな風な深い意味でそれを言ったわけじゃないんだ…。
庶子では名前すらも挙がらない身ではないかと思ってそういう言い方をしただけで。
というか何故そこで袁尚の名が出てきたんだろう。実は安価ミスで>62宛てのツッコミだったりする?
まぁ62もおれだったりするけどww
とりあえず62で言う後継者候補は審配らに担ぎ出された後継者候補って意味でとらえてくれ。
なんだろよく誤解されるような…おれの文読みづらいんだろうか…。
なんだか皆と話してる事がずれてる気がして不安でならない。

76 :
>>75
もちろん、もっと妊娠初期に出会っていたのであれば種違い説も否定できないけどな
あの時代に、月経周期から推測される妊娠時期と出産時期を細かく比較して云々ができたとも思えないし
ただ、あくまで「妊娠を理由に」袁煕と離れていたというのはおかしいかな、というだけでな

77 :
>>75
まあ、妊娠してるの気づかずに嫁にしたはいいが、なんだか腹ボテになってきて曹丕涙目
でも、今更突如嫁をRのも変だし、かといって生まれた子供をRのも変(自分の子供じゃなかったと言っているようなもの)
周囲の名士たちに裏で笑われるからな
で、しかたなく「え?計算合わない?いや、早産だったけど俺の子だよ?」みたいな感じで通すしかなかったのかもしれんよ
逆に自分の子としてしまえば、「まさか自分の種じゃないのを子にはしないよな」って思うだろ
甄氏略奪は孔融が皮肉ってたように当時の名士が白眼視したらしいから、子供のことでもう一悶着あったら恥の上塗りになるからな
それ以外にも、曹操は父が祖父の実子じゃないし、曹操は妻の連れ子とか恩人の子とかを育ててるから、こういうことへの抵抗がそれほどなかった、可能性はある

78 :
明帝の父は袁煕説なんて、どこのガセだよ
と、思っていたけど、甄氏が後に死を賜った事や
曹丕が典論で書いている事をを合わせて考えると、
ありえない話じゃないと思えてきた俺が通りますよ。
>>77
確かに一騒ぎ起こすと、曹丕自身が、
曹操の後継者レースから外れる可能性もあるもんな。

79 :
実際にどっちの種だったかは別にして、袁煕の種だったという説による影響はあっただろうね
讒言があったとはいえ甄氏に死を命じた曹丕も、晩年に箍が外れたような曹叡も、
この説によって少なからず踊らされたんじゃないかな、という気がしてならない

80 :
やっぱり300日規定って理にかなってるんだなw

81 :
曹叡はなぜか自分の廟号を生きているうちに「烈祖」と定めている
祖っていうのはまさしく開祖に贈られる廟号で、魏王国の開祖(曹操)でも魏王朝の開祖(曹丕)でもない曹叡に贈られるのは合わない
なのに、曹叡は自らその号を決めており、これはかなり奇異な印象を受ける
しかし、もしこれが「自分は袁氏王朝の初代なのだ」という秘められた意志表明なのだとすると納得がいく

82 :
>>81
曹丕曹叡親子ってなんだか深いな…
まぁ、かつての友でもあった曹操の息子が自分の孫を育てているなんて
死んだ袁紹も報われた気がするね

83 :
>>82
他の件よりも、廟号問題が一番曹叡の闇を表していると思う
注で言われてるように、自分で死後の廟号を先に決めておくなんてかなりのDQN行為
しかも、「祖」という号に似つかわしくないのにもかかわらずだ
なんでそれをやったのか、周りも強く止めた形跡がなかったのか、納得行く答えは「実は曹氏じゃないことは公然の秘密」しか思いつかない
そうして考えると、曹叡の子が全員世に出ては死に、生まれては死ぬというのが怪しく見えてくるわけで

84 :
曹叡が即位するまで、公の場に出ることが少なかったっていうのも
もしかしたら、曹丕の子かどうか怪しいというレベルではなく、
顔を見たら「これ絶対に曹家の顔じゃねーだろ」っていうくらい
袁煕(もしくは袁紹)に似ていたのかもね。

85 :
>>84
そのときの劉ヨウの曹叡評「始皇帝みたいじゃん」
始皇帝っていうと呂不ry

86 :
久しぶりにおぉー盛り上がってるぅ。
ここの方の意見を取捨選択して自分なりにまとめてみた。
もうなんていうか何そのベタな昼メロっていう話になってしまったんでここ違うだろwとかツッコミ入れてくれ。頼む。
「曹叡は実は業β城落城以前に甄氏の身に宿っていた袁煕の息子であり、それが後になって明るみに出て
曹丕は周りの目もあり、やむを得なく曹叡を子として育てる事になったが
その禍根から甄氏とは不仲になり適当な口実を得た時死を命じた。
自身も真実を知った曹叡は汝南袁氏最後の血筋としてその再興を望み
袁王朝の始祖たらんと号を決め、造宮等皇帝の権力強化を謀る。
だが子は皆不自然とも言える早死にを遂げ己もまた若くして病にかかり早逝してしまう。
(曹叡の出身を知る曹派一族の陰謀によるもの?毒でも盛られたんではなかろうか。)
一睡の夢。曹叡の切望は虚しくここに潰える事となった…。」
みたいな?我ながら妄想もいいところww
でも早すぎる出産、甄氏の死、曹叡の不可解な号決めの理由として
一番有力な線だと思うんだ個人的に。
曹丕がその事実を踏まえた上で何故曹叡を跡継ぎに選んだかはまだ合点がついてないんだけどね…。
自分が後継者として揺るぎない地位を得た後なら廃嫡してもよかったんじゃないだろうか?

87 :
>>86
結局廃嫡できなかった理由
・曹丕の早すぎる死
数え40歳は当時としても短い方だ。曹叡だって20歳を超えたばかり。となると他の子はもっと若い。
しかし当時の魏はまだまだ強いリーダーを必要としている。
曹叡以外の子を選べば、幼い後継者が権臣に制せられ他の有力な皇族(曹植など)に取って代わられる危険がある。
そうなれば魏は短命に終わる。
そこで、実子ではない疑惑はあっても優秀さは知っていた曹叡を選ばざるを得なかった、と。
曹丕が曹叡を皇太子に立てるのは重態に陥り崩御する寸前なので、曹丕はそこまでずっと後継者問題を保留していて、後継者に選んだとは言いがたい状態なんだよね。
また、もう一つちょっと面白い話があった。
曹叡が曹丕の葬列に加わろうとしたら、陳群、曹真、王朗らが「暑いからやめれ」って止めたというんだよね。
孫盛は父の葬儀という孝行の発露を邪魔するとは、魏が短命だったのも当然だ、とまで言ってる。
儒学の素養があり、そういう批判が出るのも分かっていただろう陳群ら遺詔を受けた臣は、どうしてそんなことをしたんだろうか。
明帝紀注世語の「明帝は即位後も引きこもってみんなの前に出てこなかった」と重ねてみると・・・。
「曹丕は実子ではない曹叡を後継ぎとしたものの、遺詔を受けた大臣たちにしてみれば実子ではないことがつまずきになりかねないとの思いがある。
そこで陳群らは落ち着くまで曹叡を臣下に見せず、顔形でいらぬ憶測を呼ばないよう配慮した。
しかし臣下の側では姿を見せない新帝に疑問が生じ、劉ヨウが代表して面会した。
劉ヨウはおそらく真実を悟ったであろうが、空気を読んで皆にこう伝えた。「陛下は始皇帝レベルの逸材ですぞ」と。
聡い臣はそこから「実子ではないという噂は真実だったのか」と読み取り、そうでない臣は優秀な人物であることには安堵し、優秀ならば皆で守り立てようではないか、と結論づけた」
みたいな感じかね。
妄想には違いないんだけどね。こういった裏事情がなかったら、廟号問題の曹叡といい葬送での陳群といい、忠孝の道的にはかなりのDQNになってしまうんだよね。

88 :
しかしいくら事情があろうとは言え、あの曹丕が人の子など生かしておくのかな?
もし本当に袁熙の子なら、甄氏を殺した時に一緒に廃する(or暗Rる)と思う。
明帝は血筋としては曹丕の子で、しかし母を殺された恨みから曹丕を実父ではないと思いたくなったんじゃなかろうか。

89 :
>>88
思いつくままに書いてみる。異論は認める。
・孔融ら名士たちは、曹丕が甄氏を略奪したことを白眼視していた。
 その上で生まれた子供を殺したら「それ見たことか」と信望を失い
 曹丕が曹操の後継者レースから脱落するから殺せなかった。
・幼子をRのもなんかなぁ、と思っている間に曹叡は曹操から溺愛されて
 手を出したら曹操の反感を買って後継者レースから(ry
・親父も死んだ事だし、甄氏を殺した後で理由をつけて暗殺しようと思っていたが、
 甄氏が死んだ翌日が日食になった為、怖くなって諦めた。
・曹丕自身は命はともかく帝位を譲るつもりは無かった(太子として立てなかった)が、
 崩御寸前に、曹叡を見たことも無い臣下が曹丕の意向とは無関係に、
「蜀とか外敵もいるし、長子だから別にいーんじゃね?」という理由で太子に立てられた。
まあ、母を殺された恨みから自身を曹丕の子と認めたくなく
袁煕の子だと「思い込んでいた」「思いたかった」というのは有りだと思う。

90 :
曹操がわざわざ「こいつ後継者ね」って扱うのってのは、単なる溺愛なのかどうなのか
まあこれも色々な方向に妄想できるよね
幼い頃は曹操に連れられて表に顔出していたのに即位前後はヒッキーになっていたようだし、そのあたりの事情も・・・

91 :
すごいなー、ここで皆のレス見るたび
自分はまだまだ勉強不足の考え不足だと思い知らされる思いだよ。(´・ω・)
やっぱり袁家以外の事も偏りなく勉強しなくちゃな…。
>>87
成る程ーこれは説得力ある!>>88の言う事もまだちょっと興味を惹かれるが
これで全て覆われてしまうくらい有力だと思える説だ。
曹丕の葬式に行く事さえ止められた話もそうだったんじゃないかという疑惑と確信を一層そそられる。
そうだよなー親孝行第一のあの時代で暑いから葬式行かなくてよいよなんて
どんな立場にも、しかも上司であり皇太子様相手ときたら尚更言えないよな。
でもそれで曹叡も同意して行かなかったのならまたそれも余計に怪しい…。
やはりバレるんじゃないかという自覚はあったのか…?
>>90
後継者うんぬんから離れた、しかも感情論になってしまうけど
曹叡を曹操が可愛いがったのは袁煕の子であると知った上での行いで
乱世とはいえ非道な目にあわせてしまった旧友袁紹の、袁家へのせめての罪滅ぼしであったとしたら…。
くぅぅ玉ねぎが目にしみるぜぃ…!(つω;`)

92 :
曹操は袁紹の墓に詣でて、声を上げて泣いたというからなぁ。
で、ちょうど曹操が泣いている頃、曹丕は人様の嫁を強奪していた、と…

93 :
>>90
曹操「俺が狙ってた女をハナ差で掠め取った報いを受けろw」

94 :
曹叡といえば実子が全滅していたとはいえ30代の若さで養子を取り、しかも「どこからつれてきたか不明」ってのも謎な行動だな
これも憶測を呼ばずにはいられない

95 :
>>93
孔融(偽)
「かつて秦王政が燕を滅ぼした時、太子丹の愛人を息子に掠め取られてこれを酷く恨んだとか。
 …は?出典ですか?そんなものはございません。
 こたびの公の言動から推測して、古代にも左様な例があったものと考えたまで。」

96 :
>>94
まるで自分の死を予見していたかのようだな…。
どこから連れてきたかわからんって周りの反発強そうだけど
その子はその後どうしたんだ?名前残ってたりする?
また違う疑問が浮かんだので袁家関連で質問。
逢紀が袁尚派について後、人質っぽい形で袁譚の所へ送られてるけど
これは袁尚と審配から見限られたのと同じだよね?
旗揚げ前から袁紹と関わりのあった超古参を何故疎ましく思ったのだろう?
wikiには「袁譚と袁尚どちらにも二股して利益を謀ったか、
融和を謀りそれが露見したか。」みたいな事が書いてあったけど
後者はともかく前者が想像つかない。具体的にどのような利益が自分に出ると踏んだんだ?

97 :
>>96
魏第3代皇帝・曹芳その人ですが…

98 :
袁尚と逢紀の関係がどうだったかはわからないが、
審配と逢紀はもともと仲が悪かったとの記載があるし…。
袁譚・袁尚はどう考えても器が小さかったしねぇ。
ま、袁紹陣営は田豊と沮授以外は不当に汚れ役を課せられているから…。

99 :
袁キはなんで自分も後継者争いに参加しなかったの?

100 :
>>98
まてまて、逢起と審配はその前に逢起が審配を救って和解してる。

101 :
もちろんそれは知ってる。
ただ、それは袁紹の生存中の話。
和解による蜜月が続いていたかどうかは分からないし。
ちょっとしたことで主導権争いが勃発してこじれた可能性はあるんじゃないかな。

102 :
そんな根拠の無いわけわからん可能性で語るな

103 :
有能な人材がいたのに使いこなせなかった袁紹って愚将だな

104 :
主君から絶対の信頼と周りを納得させまとめられる家臣筆頭の人物がいないね。
有能な人材はいるけど超有能な人材はいないのかな。

105 :
ソジュを使いこなせなかったのが最大の問題。
三国志中最高とも言える人材なのに。

106 :
へぇ、そんな評価高いんだ。

107 :
袁紹って蜀のリュウショウみたいだね

108 :
それは言い過ぎじゃないか

109 :
>>97
( Д ) ゚ ゚
そ、そうだったのか…!てっきり曹丕派生の完璧な曹一族血縁かと思ってた…。無知が白日の元に…!
>>98,100,101
やはり審配との関係悪化が原因か…。一番考えられるとしたらそれなんだよな。
一度心を許したとはいえ違う問題を前に意見が食い違い再び仲違いをする可能性がないわけではない。
だけどもっと何か、打算とか政略的な何かが逢紀の裏にはあるような気がするんだけれども…。
抵抗もせず敵陣に一人入るような真似して何も思惑がないのはおかしい気がする。
…何も思いつかないけど。orz
>>99
袁煕は袁紹に君主の器ではないとの評価が下されてるから本人も自覚してたんじゃないかな?
個人的には前妻の長子袁譚、後妻の長子袁尚と仮定して
袁煕はどちらの長子でもなかったから、という説も足して推してみたい。
>>102
どうやら逢紀と審配との関係悪化は憶測だけではないみたいだよ。
審配が袁譚に送った郭図誅殺を求める信書に逢紀も凶臣であるとなじったものがあるらしい。
仲違いしていることは確かだろう。
袁紹は人の使い方が下手だったというより信頼する人を間違えたって方が強いな。
配下も有能だったけど個性が強すぎたというか…性格の問題だった気がする。

110 :
>>100
審配は逢紀に窮地を救ってもらったのに、
後の内紛で逢紀を捨て殺しにしてるよね。
一人の審配好きとしてこのエピソードを知ったときは
複雑な気持ちになった。

111 :
曹芳は曹彰の孫ってことになってるんだっけか
なんとなく、体裁を繕う為の後付けのような気もするが

112 :
>>110
根拠がないんだから捨て殺しなんてほざくな、と102様に怒られるわよ。

113 :
>>111
俺は、皇統を曹操の子孫に戻すために曹彰の孫をつれてきたのかな、と思ってる。

114 :
曹芳の父という説がある曹楷も、また曹芳本人も晋の時代まで生存していたのだから、
本当の親子だったのならもう少し文献が見当たると思うんだけどねえ。

115 :
>>114
燕王曹宇だって元帝の父だけど、いつまで生きてたかわからないんだぜ
幼児の頃に連れて来られたから曹芳自身は実父を知らないんだろうし、曹楷が言わなかったら誰にも分からんことだ

116 :
たしかにそりゃそーだ。
ま、真実は本人のみぞ知るってとこか。

117 :
>>104を見て、オーベルシュタインの「No.2不要論」を思い出した。
こうして鑑みるに、君主がラインハルトレベルの天才でない場合は、
No.2も必要なのかもしれないな。
流れ豚切りでスマン。

118 :
>>104
ソジュがいただろ

119 :
>>118
流れを変えるだけの影響力はなかったよ。
むしろ能力はともかく郭図の方が影響力が高い。
結構進言取り入られてるよね。袁紹とウマが合ったのだろうか?

120 :
俺は104だが、なかなかそういう人はいないけどさ。
結果的にソジュには敵対してくる人を懐柔したり周りを納得させてまとめる能力がなかった事とそういう立場でもなかって事なのかな

121 :
むしろ袁紹陣営に必要な存在って調整役だという気がするが
どうにも終始一枚岩にはほど遠いようだし

122 :
>>119
そもそも沮授や田豊は冀州出身の「豪族」で、
郭図や淳于瓊は袁紹から招かれた「外様の名士」=「賓客」っていう立場の違いがある。
実は官渡大戦の前までは袁紹軍の要職は殆ど豪族が占有していた。
沮授が全軍の指揮権を持っていたのもこの時期。
他にも田豊・審配なんかが州の政治の取りまとめ役になってた。
反面、賓客は官職すら記録されていない有様。
これは袁紹が賓客を信任していなかったわけじゃなくて、
袁紹自身も豪族に圧迫されて君主権力を殆ど持っていなかったからじゃないかと。
(つまり、郭図や淳于瓊に自分の権限を分け与えたくても分け与えられなかった)
それが官渡大戦に前後して豪族が次々と失脚し、賓客が台頭してきている。
(審配は豪族だが失脚を免れている。逢紀の同調があったからだろうか?)
これって赤壁大戦で孫権が魯粛・呂蒙らとやったような、
「君主権力を取り戻すための戦い」でもあったんじゃないかなーと。
だから袁紹が郭図の進言を容れたのは、
豪族から君主権力を奪還しようという意思の表れじゃないかな。

123 :
>>122
出身地調べ直して本当だSUGEEEEと思った。
成る程ー出身の観点から考えた事はなかったな。
官渡の戦いは賓客臣下と袁紹との結託によって冀州豪族の追い込みも兼ねて進んでいったということか。
しかし冀州乗っ取りに協力したとはいえ、豪族であるだけでそんなに権限があるものなのか…。
君主なのに権限がないとはなんだか情けないな。袁紹も悔しかっただろうに。(´・ω・)
そう考えると界橋の戦いでの袁紹のムキになってるような奮戦ぶりも
もしかしたら田豊への反発の表れだったんだろうか?ww
この説聞いてたら「遅れてきた反抗期説」を思い出したよ。
これまたどこが出典なのかわからないんだけど皆が好き勝手進言して好き勝手実行しちゃうから
鬱憤が蓄まってた袁紹がグレて一番やっちゃいけない時に反抗して開戦したという…。
それはないwwとか思ってたけどその説と合わせて考えると意外と外れてないかもね。

124 :
>>123
そういう勢力は意外と多いよ。
たとえば劉表や孫権なんかもそう。
実権は有力地元豪族が握っていて、君主はその神輿にすぎない。
どの勢力も後継者問題で揉めた共通点を持つんだが、
特に袁紹と劉表は「本拠地にいた弟(袁尚・劉j)」を「有力豪族(審配・蔡瑁)」が支持して、
「前線にいた兄(袁譚・劉g)」を「賓客(郭図・劉備)」が支持した……と、
内部分裂に至った経緯まで一緒w
また、これは三勢力共に共通するんだが、
「曹操との戦い」に消極策を唱えた者は、
「曹操に降ってもある程度の地位を確保できる人間」だったのも興味深い。
(実際に降伏に導いた蔡瑁なんかはどんどん出世していったし)

125 :
サイボウは赤壁でもかなり重要なポジションにいたような

126 :
>>122
これはつまり袁紹には「自前の兵やカネ」(兵糧や領地などを含む広い意味での財政的な根拠)がなかったということなんだよな
上司と部下という形を取るから分かりにくいけど、審配たちは企業でいえばスポンサー、株主のような側面もあるんだよ
だから最初は袁紹は冀州豪族の意向にはなかなか背けない
次第に独自の勢力を築いていってそのスポンサー無しでもやっていけるようになって初めて袁紹が主導権を握れるわけだ
で、袁紹が独自に築いた勢力の基盤というと、厳しい統治で豪族を従わせた(だから評判が悪い)青州であり、青州の主袁譚なんだよな、多分
だから、袁紹が青州を押さえる袁譚を後継にしたがるのも、冀州豪族が袁譚を嫌って袁尚を立てるのも当然の流れだし、袁譚に「賓客」が多く従ったのも当然

127 :
沮授は漢の奮武将軍、淳于瓊は漢の西園八校尉の一人、
すなわち両人とも名士であり袁紹と同じく漢の臣。
他の群臣と同一視はおかしいと思う。

128 :
>>126
袁譚が官渡大戦に参戦しているところからも、
袁紹が官渡大戦を機会に君主権力を取り戻そうとしていた様子が伺えるな。
冀州豪族に反撃を食らわせるという意味では官渡は絶好のタイミングだったし、
新たに軍権を握った郭図・淳于瓊の戦略は案外いい線いってたので、
>>123が言うような「やっちゃいけないときに反抗した」わけではないと思う。

129 :
>>127
田豊・審配も別駕従事っていう官職に就いてる漢の臣だぞ。
ていうか袁紹が皇帝を名乗ってない以上、袁紹の部下の殆どは漢の臣だよw

130 :
>>129
別駕従事は州に置かれる役職だと思うんだ。
一方の二人は中央の役職だから格が違うと思うんだけど。

131 :
高幹って全然話題にならないよね。
三兄弟ばかり注目されて・・・

132 :
>>130
確かに沮授の役職の高さは異常。
雑号将軍って、他の勢力だったら君主が就いてる官爵だし。
しかも全軍の指揮権も持っている。
たぶん、冀州豪族で最も有力だったのが沮授だったんだろうな。
淳于瓊の佐軍校尉の方は袁紹配下になる前だからなあ。
袁紹軍配下〜官渡前にどんな官職を与えられたか書いてないんだよね。
ただ、沮授が軍権を剥奪された後に郭図と共に都督に任じられている。

133 :
でも曹操が恐れていたのは高幹の方だよね。
ただ一匹狼的行動に走っちゃったからな…。

134 :
>>127
西園八校尉って実権は蹇磧が握っていたとはいえ、
上中下軍校尉の3人と、後の5人は立場が違うんじゃね?
曹操だってこの頃は袁紹のパシリみたいなもんだろ?

135 :
>>134
まーね、横一線ではなかっただろうね。
それでも沮授以外の面々よりは扱いが違ったんではないのかなぁ?

136 :
どうも淳于瓊は青州人っぽいんだよな。
青州に淳于って地名があったり、他の淳于姓に青州人が多かったり。
青州人の名士となると袁紹にとっては結構重要な存在だし、
西園八校尉の件を抜きにしても賓客の中でも重用されてたと思う。
後は韓馥に冀州を譲らせた郭図(彼は予州潁川の人)。
この二人が賓客組の主要人物だろう。

137 :
前漢の淳于長と血のつながりあるのかな?

138 :
思いて学ざればまんまじゃねーか。

139 :
>>138
誰に言ってんの?

140 :
>>138
どういう意味?

141 :
わざわざageて論語を引用するからには深い意味があるに違いない。

142 :
個人ブログだろ?
失礼だが俺も大分影響受けてんなと感じた。
もちろん意見が似てるからと言って引用したと言う根拠になりえないのは分かっているので
引用したとは言わんが。

143 :
影響受けてたとして、それがなんだというのだろうか
それより後漢書を読む限り、後継者は袁譚で袁紹自身も衆目も一致していたのに、どうして「袁譚は嫌われて外に出された」って言われることが多いんだろうか?
始皇帝と扶蘇あたりの例と混同してるのか?

144 :
ちょっと調べて拝見してきた。
まんまって程まんまじゃなくない?
影響受けてる感は否めないけど影響受けるのは別に悪い事じゃないと思うし。
自分も聞いて納得した事全部鵜呑みにして口にしてしまうタイプだし
ちょっと怖い雰囲気だったので口挟んだ空気読めない奴でごめんでも反省はしてない。
自己中な本音を言うとここの人の意見って皆分かりやすくて
勉強になるから引用くさくてもなんでももっと色んな事聞きたいお。
取り敢えず逢紀って袁紹お気にの古参だけど冀州豪族だったのかどうなのかについて意見プリーズ。
審配を擁護したって話から自分は逢紀は冀州出身だったと思う。
>>143
やっぱり袁尚を偏愛していたって記述が強く格差があるように印象づけてるんだろうね。
業βは本拠だし可愛がってる奴は手元に置いておくだろ、とか考えがちなのでは。簡単に考えて。
おれも袁譚は袁紹に重要視されてないのかと思ってたけど色々話聞くとそうでもないんだよな。
袁譚、袁煕、袁尚、高幹と袁紹は平等に子供を可愛がりすぎてる感がある。
乱世なのにそこまで我が子への情が深いのも珍しいよなー。そしてそれが命取りでもあった。

145 :
>>143
影響なんてどころじゃねーし
さも自分が考えた考察のように書き込んでるのが気に入らねーんだよ

146 :
>>145
管理人乙

147 :
個人的には袁紹軍の冀州豪族と外様の勢力争いだ、君主権がどうだって話はすんなり受け入れられないんだよな。
そもそも誰が冀州豪族なの証拠はあるのって話と、その豪族って具体的にどんなもの(財力、兵力)なのかという疑問がある。
俺が無知なだけなのかも知れないが。
>>124
劉表はとりあえず措くとして、孫権んとこの、有力な地元豪族って誰よ?
孫権は創業者でないってとこに特筆すべきところはあるとは思う(でもイコール君主権が弱いとは思わない)が。

148 :
>>147
まあ審配は明らかだよね
かなりの財力を持ってたみたいだし、ギョウでの抵抗の主力だったという点から軍事力も相当なものだったと思う

149 :
なるほど。抵抗の主力=地元での軍事力保持って見方は出来る気がする。
ただ本人の性格もあるだろうけど、その審配は袁家に殉じてる。
となると袁紹の君主権vs冀州豪族の構図が見えにくくなる気もする。
田豊や沮授はどんなんもんだったんだろう。
仮に強い権力を持つ豪族だったと、君主権がそれに押されてたとしたら、
慎重論を唱えて遠ざけられたり殺されたり、
そしてその結果他の人士の反逆を巻き起こしていなかったりが不自然にも思う。
当該のブログも読んでみたけど、まだまだ試案のようにも思えた。
青州の兵士=青州兵みたい扱い解釈も「そうなのか?」と思ったし、
郭図はいつまでお客さんなんだとも思ったw

150 :
>>149
袁家に殉じた、と捉えるべきじゃなあないと俺は思う
敢えて言うなら、審配は「冀州豪族の楽園としての袁氏軍閥」を死守するために戦ったんだと思う
だから、冀州豪族の勢力を削ってきた豫州その他の名士(賓客)組とは基本仲が悪い

151 :
>>147
私は124さんではありませんが、
呉郡の4姓と呼ばれた顧(顧雍)・陸(陸遜)・朱(朱桓)・張(張温)の4氏、
他にも徐(孫権の妻・徐夫人)・呉(孫権の母・呉夫人)氏など…
挙げていけばキリがないですよ。
スレ違いなので話を膨らますつもりはありませんが。

152 :
>>151
確かにスレ違いなので気が引けるが、君主権力と豪族権力の話の一環ということで。
呉書見聞というサイトによると、「呉の四姓」というのは「孫呉の四姓」でも「呉郡の四姓」でもなく、
「呉郡の呉県の四姓」という分析がなされてて非常に興味深く読んだ。
呉県の名門四姓がどれくらいの規模の豪族なのか、孫呉政権に対してどの程度権力を持ちうるものなのか、
その四姓の登用、出世の仕方などを見ても、出自による特別な権力を持っていたかは疑問。
それと徐氏と呉氏は、孫堅の旗揚げ時からの臣下であり外戚であり、
権力を持っていたとしてもそれは古参であり外戚であるからじゃないのだろうか?
豪族ってそんなに簡単に自分の土地から離れるんだろうか。
張昭も、兵の募集を提案した時に潘濬から危険視された歩シツも北方の人間。
あとやっぱり、俺が不勉強なのかも知れないが、豪族というのがどういう定義かよく分からん。
例えば、周瑜は名門であって、豪族なのは魯粛の方じゃないか、とか。
河間の田銀・蘇伯とか南陽の婁圭とか酒泉の黄華みたいな、地元においては在庁官人よりも財も動員力もある(ありそうな)のが豪族であって、
いわゆる名士たちを片っ端から豪族扱いするのは違う気もする。
例えば、呉の四姓に呉郡太守を拒否し得るような力はあったんだろうか。
むしろ、名士=知識人としての権威&知識人ネットワークという点での、財力ではなく人的交流や名声による権力獲得の方がありそうで、
顧雍なんかの重みというのは豪族出身(ホント?)だからじゃなくて、本人の才覚や性格や名声によるところが大きいのではないだろうか。
袁紹の話で言えば、冀州という一括りの仕方も疑問。
郡や県の単位での結びつきはありそうだろうけど、州単位での連帯がどんなものなのか分からない。
例えば潁川ネットワークみたいな言い方はまだ受け入れられるけど、
豫州ネットワークとか豫州派閥みたいなという言い方をされると「うそくせー」と思ってしまう。
なんか取り留めもなく書き散らかした文章で申し訳ないけど・・・

153 :
沮授は結構財産あったみたいね。
大戦の前に一族に分けてるし。

154 :
いまさらだけどつっこみさせてくれ
>>136
>後は韓馥に冀州を譲らせた郭図(彼は予州潁川の人)。
その当時未だ渤海太守の袁紹に冀州奪取の進言したのは逢紀で
それに関して韓馥に冀州譲渡を説得しにいったのは高幹と荀ェで
郭図は帝奉戴の案を進言したのではなかっただろうか
(もっとも帝奉戴案は沮授だという記述もあるらしいが)
KYですまん

155 :
>>136>>154
冀州の譲渡に奔走したのは、後に袁紹に族滅される張導だったと思うのだが

156 :
>>149
>田豊や沮授はどんなんもんだったんだろう。
どっかのサイトで見たことだから反論されても答えようがないんだが、
沮氏の当主である沮授が死んだあとも冀州における沮氏の影響力は揺らいでないから、
沮氏自体が地元の有力豪族だと考えられると聞いた事がある。

157 :
久しぶりに質問投下といきますかー。
袁買という人物について。
彼は庶子なのだろうかそれとも袁尚の兄の子なのだろうか。
田豊が劉備と同調して曹操の背後を突くべしと進言した際に
袁紹が「赤子が病気だから」と言って兵を出さなかった時のその子が袁買だとも言われていますが…。
最後袁煕袁尚に従ってって一緒に殺されたようなので
自分としては袁買は袁尚の兄の子、つまり袁煕の子ではないかと思う。

158 :
最後袁煕袁尚に従ってって一緒に殺されたら息子ってのは安易すぎないか?

159 :
いや、劉氏の側女抹殺の時に袁尚も協力して一族郎党殺してるから
その時に庶子なら殺されてるかなーと。
後継者争いに巻き込まれず無事な立場といったら袁煕の息子ぐらいではないだろうか。
この側女皆殺しも前のレスにあった通り本当にあったかどうか信憑性が薄いんだけどね。

160 :
袁紹って何の病気だったんだろうな
袁術も血を吐いて死んでるが、遺伝病でもあったんだろうか

161 :
憤死

162 :
血を吐く病気といえば、結核、肺がん、胃がん、消化管潰瘍あたりが有名だが
あの時代に吐血と喀血はちゃんと区別されてたんだろうか
この違いによってだいぶ変わってくるんだが

163 :
吉川版の顔良、文醜はパワフルだよな。
顔良→魏続・宋憲瞬殺、徐晃すら撃退
文醜→張遼を追い詰め、助けに入った徐晃にも一歩も引かず
   さらに関羽とも数十合打ち合うが力及ばず討死
まあ関羽持ち上げるためにだいぶ誇張されてるんだろうけど。

164 :
水島新司の描く山田のライバルみたいなもんか

165 :
袁煕ってなんで兄じゃなくて弟についたん?

166 :
>>165
兄に付いたら一生風下に立つことになる
弟に付いたら弟に対して兄という関係を上手く使って権力を握ったりいい目を見るチャンスが生まれる

167 :
ナルホド納得。そういわれてみればそうだなぁ…

168 :
袁尚派ではなく、狭義の
袁煕派で有名どころっている?
全然聞いたことないけど…

169 :
>>168
袁煕

170 :
いちおう焦触と張南が該当する様な

171 :
派っていうよりただの部下な気が。
なんで兄弟で一人だけ後継者として支持されなかったんだろう。
最初袁譚が曹操に攻められた時
袁煕に援軍を求めなかったのも不思議だなー。
袁尚に頼むくらいならそっちに頼んだほうがマシだろうに。
まさか軍隊を持ってないなんてことはないよな?

172 :
袁紹の長男は劉備と仲がよかった…
彼が後継ぎだったら歴史は変わっていたよ

173 :
>>172
いや、袁譚に劉備と付き合えるだけの器量があったかどうか・・
劉備の足掛かりにはなれどどのみち袁家の明るい未来は望めないだろう。

兄弟喧嘩を早くに鎮められれば確かにまだ天下統一は先になったんだろうけどな・・。

174 :
袁譚がお家騒動を治められるほどの器量があったら
劉備も早々と逃げ出さなくなってよりたかられそうだ

175 :
>>171
袁煕は幽州刺史、烏丸や遼東公孫氏の抑えとして重要な役割。
ある程度の戦力は有していたと考えるべきだろう。
ただ、なにせ幽州は遠すぎる。
袁譚が袁煕の到着まで曹操の猛攻を防げるか否かという考えに立つと、
袁尚にすがるのも仕方ないと思う。

176 :
唐突だが、呉で例えると二宮の変で孫和孫覇残して孫権が死んじゃったようなもんか。
やっぱ親父が片を付けてやらないとな。
ただ上手くやらないと病巣を片付けるつもりが臓器を傷つけちゃいましたという事になりかねんが。

177 :
よく曹叡=袁熙の息子説が流れるが、やっぱりそれはないんじゃないか?
袁熙は幽州に行ってて、甄姫は義母に仕えて冀州に残ってるわけだから。

178 :
じゃあ袁氏の他の人の胤とか

179 :
何故そこで袁術サイドが出てくるww
しかし、夫の不在中に別の人とか。
それなら袁煕が不在だったのに産むのが早かったのも納得できる…
…あり得ないけどな。そんな昼メロみたいの。
結局確証はないわけだし。

180 :
むしろ、甄姫は子育てのために義母に付き従った説を

181 :
>>177
袁煕の子ではないという証明ではあっても、
曹丕の子であるという証明にはならないわけで…
とにかく吉本の乱(218年)以前から曹叡が武徳侯だったという記述と
15歳(数え年)で武徳侯になったという明帝紀の記述の二つから、
曹叡は204年(以前)の生まれという事になる。
改元した場合の数え歳の数え方が良くわからないんだけど、
裴松之が「明帝が建安十年(205年)生まれなら、(享)年三十六にはならない」
と書いているのでたぶん計算上は204年生まれで合っているんだと思う。
でも、ギョウ陥落が204年の8月なわけで…あれ?となる。

182 :
曹叡の年齢にまつわるは、どうしても明帝紀の「三十六」と矛盾する
曹丕の子供だと考えようとすると
ここでヒント:曹嵩、曹真、何アン、秦朗

183 :
なにが言いたいのかさっぱりわかりません

184 :
>>182
他人の子を我が子のように育てたり養子にすることとはレベルが違う気がするが。
それに、こんなスキャンダラスな話を完全に隠せるものかなぁ。
蜀漢や呉が放っておかないよ。
陳寿の時代は無理だとしても、その次の世代以降くらいなら大騒ぎしても問題なさそうだし。

185 :
なんか甄氏が生母自体誤りだったとかそんな気までしてきたわ
それか袁煕の甄氏ひっさらう以前に甄氏の嫁を曹丕が持っていて混同されたとか

186 :
そういや、袁紹が官渡の後、屈辱から病気で死んだっていうのが定説だけど、
元から病気になっていて、焦って決戦に出て負け、そのまま死んだって可能性はないの?
別に裏づけもなく思いつきなんだが。

187 :
病気のため戦を焦った説は俺も考えたな。質問もしたんだけども病気の症状から考えて
急激なストレス増加による急性胃潰瘍等の可能性が高いだとか言われた気がした。
その当時はそれで納得したんだけど、どこでいつの話だったかいのう…。

188 :
顔良・文醜・沮授・田豊をもっと上手く融合させて使ってれば、
天下も獲れたよ。

189 :
顔文なんて小物どうでもいい
キク義を粛清したほうが問題だ
そこまで増長していたんだろうか

190 :
してた

191 :
しかしあの戦いでの麹義の活躍は異常すぎる。
増長してもやむなしって感じにも思えるが、
呉の孫権が甘寧・潘璋に対してしたみたいに、悪行を無視して殺さないって選択はできなかったんだろうか。

192 :
できなかった

193 :
何故か悪業を許してでも才を生かしてやるというと
器がでかい気がしてあたかも良い君主であるような印象がつくが
そんな奴らも含めて軍団をまとめる事ができるカリスマを持つ奴は本当にほんの一握りであって、
袁紹はそこらへんちゃんと弁えていたんではなかろうか。俺としてはその方がただ寛容な奴より賢君として目に映るなぁ。
ただでさえ冀州派閥が幅をきかせている袁紹陣内、更に力のある奴がのさばってしまっては君主地位の完璧な失墜も同じ。
能力があろうと不和を招く以上斬るしかなかったんだろう。意外と袁紹の態勢はそのぐらい切羽詰まっていたんじゃないかな。
曹操が許攸切ったのと同じ理由も含まれていたとも思うけどね。

194 :
甘寧・潘璋が麹義ほどの戦果をあげて軍に対する影響力を持っていたかどうかの違いはあるんじゃなかろうか

195 :
200年当時の君主権力なんてどこまで行ってもたかが知れてるだろ

196 :
郭図が

197 :
死んだ

198 :
その時袁譚は

199 :
袁煕の

200 :
(  ゚Дメ) 200

201 :
を持って

202 :
沮授を

203 :
東公公主の方は曹丕と甄氏の間の子供だけどね。

麹義は惜しすぎる人材だった、あと田豊も。二人とも官渡に関係ない上に殺されているし。
それから公孫讃って演義と違って正史の方だとかなり強力な勢力だったんだね。
なんでこの程度の奴を倒すのに10年近くかかっているのか?曹操なら同じぐらいの奴ならもっと簡単に滅ぼせたのに・・・・
と思っていました。しばらく公孫讃雑魚説を信じていて、袁招も雑魚相手に苦戦した凡庸な人物だと思っていました。


204 :
ま、それでも袁紹にやられるくらいだからその程度

205 :
袁紹にやられた公孫讃にさらにやられた劉虞の立場は・・・・・

206 :
麹義>公孫サン>袁紹

207 :
顔良文醜田豊沮授がいて兵力も圧倒してたのに負けたとかカス過ぎる

208 :
顔と文は田豊と並べられる武将じゃないだろ

209 :
田豊は武将なのか

210 :
(  ゚Дメ) 210

211 :
界橋でもあわやの事態を田豊によって救われている。単純に同数における軍事力なら公孫讃
の方がはるかに強い。経済力と人数に勝る袁紹が田豊・沮授の案にそって長期持久戦で公孫讃を
追い詰める作戦を立ててジワリジワリ敵を弱らせてから最後に止めを刺した。
曹操に対しても同じように長期持久戦を取るよう訴えた田豊らの案は通らず
短期決戦の曹操の好む土俵に自ら入って行った。
あせらず田豊の言うとおりにしておけばよかったのに・・・・・

212 :
そして田豊の発言力がますます増していくわけだ

213 :
田豊がすっごい良い軍師だったようには思えないけどねぇ…。主に性格の面で。
袁紹がもし田豊らの意見をほいほい聞いてたら
それはそれで君主の面目が立たないような気がする。
で、田豊も調子乗ってノリノリのヤル気満々で一人進言しまくって
他の謀臣の反感を更に買う&モチベ下げまくるという悪影響もありそうだ。

214 :
田豊と郭嘉を見る後世の目には
「あいつがいればなあ」補正がかかっている

215 :
田豊は病気とかじゃないんだからそれは違うだろ。
周喩とカクカだんあ

216 :
途中で切れててよくわからんが袁紹に殺されたから病気で死ぬとは勝手が違うって事か。
だけど死んだは死んだんだし補正がかかってるのは間違いない。
むしろ殺されたということで余計に可哀想に見られてる。
悲劇の軍師というあだ名がそれを証明しているよ。
まぁそりゃ可哀想っちゃ可哀想なんだけどやっぱり全面的に非の打ち所のない軍師であったとは言い切れないな。

217 :
田豊、郭嘉、法正、周喩は死後補正がかかっているね。
でも曹操と戦う場合、田豊・沮授の長期持久戦の策の方が理にかなっていると思う。
公孫サンの時だって短期決戦の策で攻めていたら多分逆に負けていたでしょうね。
界橋の後もあわやの場面が何度もあったしね。

218 :
袁紹自身の体調とかも考えないとなぁ

219 :
補給のしっかりした大兵団の袁紹軍にとってじわりじわりと距離を詰めて
プレッシャーを与え相手に綻びを生じさせる長期戦の構えはかなり強力。
田豊の言う通り何をせずともこうして対陣していれば曹操とてやむなく撤退せざるを得なかっただろう。
それは袁紹だって短期決戦よりそっちの方がいいと考えたはず。
しかし採用しなかった理由とは何か、と考えると
一重に田豊の付き合い下手によるものだろう。
冀州豪閥だからというだけでは納得できない程上司にも他の軍師にも嫌われてしまっている。
その結果対派閥はできるし讒言は受けるし、冀州豪閥の力を抑えたいと考えていた袁紹も讒言を鵜呑みにしてしまう。
荀イクが田豊の性格を取り上げて批判したように田豊の剛直な性格は軍師にとって致命的な欠点だったんだろう。
あれだけの先見性を持っていながら自分の発言による害を考えられなかったのは大変惜しかったな。
ところで界境での田豊ってあわやの場面を助ける活躍したっけ?
献策によって公孫サン討伐には貢献したけど
袁紹本隊が囲まれた時は隠れろ!ってまんま進言して
逆に袁紹に意地張らせちゃったエピソードしか知らないんだが…。
あれも法正みたいに君主の面子を立てつつ隠れさせられなかったのかねぇ。

220 :
>>179
胤(たね)
某従弟のことじゃないよ

221 :
荀ケの袁家の将評価ってどれくらい信用できるんだろうなぁ。
あれはあんまりにも当たりすぎで、後世の偽作を疑ってしまう。
偽作でなくても、外れた言葉の削除くらいはされているんだろうか。

222 :
偽作だよ多分

223 :
与えられた権限から鑑みるに、
ソジュに対するジュンイクの評がないのが不自然だけど、
皆はどう解釈してる?

224 :
あったことない

225 :
弟への嫉妬であの酷評

226 :
>>223
予言外したからカットされたとかw

227 :
>>218
後継者問題とかねぇ・・・曹操の下でも、そのネタで死を賜わった智謀の士が何人いたことやら。
>>219
田豊がカク文和並の振る舞いだったらねぇ・・・・

228 :
そろそろ麹義。
界橋の戦は三国史上でもっとも大規模な戦いといえるくらい。
その勝利した軍を率いてた麹義は将としてだけみれば
最も優秀な人物じゃないかな。
袁紹の地盤じゃ自分よりヒーローなのを生かしとくわけにもいかなかったんだろうが
対曹操で使えれば歴史は変わっていたかもなー

229 :
俺の知り合いに麹義ヲタがいて、アレクサンドロスやハンニバルでも
麹義には勝てないと言い張っている。
「金床とハンマー」は両翼の騎兵にやはり両翼に弩兵をあてて敗走させることにより、
その効果を打ち消されるんだとか。。

230 :
>>229
ちょっとわかりにくい文だな。両翼に弩兵を置いて敵の騎兵を敗走させて
騎兵による包囲を防ぐってことかな?

231 :
公孫サンは滅ぼすのに10年近くかかったぐらい強大な存在であった。
191年〜199年までかかっている。
同時期曹操は191年に黒山賊討伐から始まり青州黄巾賊・陶謙・袁術・張繍・呂布・李確・劉備と並み居る強豪を
下している。それだけ公孫サンの実力が演義で言われているよりも大きかったという事。


232 :
袁紹191年〜199年=ほぼ全て公孫サン戦(孔融はただの雑魚)
曹操191年〜199年=黒山賊・青州黄巾賊・陶謙・袁術・張繍・呂布・李確(配下の武将が暗殺)・劉備と戦い倒す
そして、200年に両者が衝突するわけだが袁紹に比べて曹操の方が倒した相手が多いが袁紹は実質的に公孫サンしか倒していない。
もし公孫サンが早めに降伏していたら曹操は一巻の終わりであった。曹操は公孫サンに足を向けて眠る事は出来ないはず。
それから200年から207年まで8年かけて袁紹の勢力を滅ぼしているが赤壁までは曹操は20年戦っていると仮定して前半が上で上げた
群雄たちで残り後半は袁紹勢力との戦いである。
ここから思ったのだが黄河以北を制覇するのってこれほどまで大事業何だなと。公孫サンを滅ぼすのに10年かかった袁紹と袁紹を滅ぼすのに
8年かかった曹操。黄河以南の勢力だったらここまで苦労する事は無かったでしょう。
陶謙とか李確とかが単独で戦って袁紹や曹操に攻められてここまで手こずらせることはないでしょう。地の利?それとも勢力の差?
公孫サンですら呂布の勢力以上の気がしてならないのだが。

233 :
公孫サンは曹操と直接絡んでないから注目されにくいだけで、
実際は南の呂布とタメをはるくらい台風の目になった一大勢力だよね。
河北は小豪族が群雄割拠していて、そいつらを味方に付けたから公孫サンは強かった。
ただ、>>232は袁紹の過小評価で、初平〜興平期の曹操は袁紹軍の一司令官として働いてる。
黒山賊を掃討したのもほとんどが袁紹の功績。孔融、田楷も言うほど弱敵ではないし。
曹操が袁紹から完全独立したのは建安以降なので、それ以前の比較は注意を要すると思うよ。
ちなみにこのレスに出てきた曹操、呂布、公孫サンって
3人とも奮武将軍になったことがある。プラス沮授、程イクね。
こいつらは似たり寄ったりグループと認識されてたらしい。

234 :
公孫瓚は演義と光栄のゲーム、更に演義ベースの漫画のせいで単なる雑魚になり下がっているきらいがある。
袁紹を今川義元だとすると公孫瓚は北条氏康に相当すると思う。だからかなりの強豪。
そして、曹操が信長。イメージとしてはこう置き換えられる。
今川義元も桶狭間とかじゃなくて北条と完全決着を付けて北条の領土を得てから信長と戦えば袁紹ぐらいの
勢力になれただろうに・・・・といつも思ってしまう。
話を戻すと公孫瓚の部下にろくな奴がいなかったのが痛すぎる。まあ劉備たちがずっと配下に居たところで
どうにかなるというわけでもないが・・・・・
曹操と同盟を結んで挟撃するしか生き残る道はないがそれは無理っぽいしなぁ。袁術のせいで・・・・

235 :
今川の体力じゃ北条との決着など不可能
そもそも尾張攻めも信長の影響が大きくなりそれを排除しないといけない段階であったからだ
袁紹と比較できるわけもない

236 :
>>235
スレ違いだし、今川、織田の評価も怪しいし。

237 :
袁紹が主人公の演義がもしあったら麹義は
カンウ、チョウヒ、カコウエン、(将として
チョウウン(危ないところを救う
諸葛リョウ(攻城、野戦兵器の活用
+ソン策(戦術、勢い
+曹操(手に入れた領土
+呂布(あえない最後
全部の役割にないます。w


238 :
麹義は涼州(たぶん金城郡)出身で、冀州に流れて韓馥の部将になり、
韓馥を裏切って袁紹に就き、界橋の戦いで殊勲を挙げ、
さらに幽州に遠征して公孫サンを追い詰めてる。
かなり動きの大きい武将だよな。
『三国志』全体を見ても、これだけ動きのある武将はそんなに多くない。

239 :
>>238
法正なら要所を改変すればそのままいけそう。

240 :
※ただし顔良に限る

241 :
単純な距離でいえば許靖なんかも負けてないね

242 :
ここは一気に来て一気にいなくなるなww
麹義か…。かなり強かった印象あるけど実は負けなしというわけじゃないんだよね?
公孫サンの籠城に一年も付き合わされて
結局どうしようもなくて退いたら散々にやられる…。
退却の時もうちょい良い退き方はなかったんだろうか。
素人考えだが、例えば追撃戦に相手が使うのは大体馬だろうから
馬防柵を布き弩兵を構えて迎撃…とか。
攻撃の時弩兵を使った戦法だったんだからこのぐらいの備えはできたんではないか?
それともしても突破されたか、備えもできずに退却しなきゃならない理由があったのか…。
この敗戦の真相こそ麹義を評価する最後の判断材料では?

243 :
俺、ソジュだけど質問ある?

244 :
>>243
字は?

245 :
>>244
沮授

246 :
あざなを書けよww

247 :
クソワロタwww

248 :
沮授wwww
そういやさ、官渡で烏巣燃やされた時
救援しようって進言した張コウがなんで本陣攻めに回されたんだ?
郭図にも張コウにもマイナスな配置だと思うんだけど。

249 :
テンパったんじゃないかい?

250 :
田豊ってどうよ?w

251 :
>>248
張コウは実は本陣攻めにまわされたのではなく、
普通に裏切る気だったので敵本陣に向かい投降したなんていうのはどうだ。
うん無理がありすぎるな。

252 :
サイ巨業マダー?

253 :
えんしょう息臭い

254 :
高覧はどのぐらい凄かったんだろう

255 :
文醜って字を見ただけで顔にぶつぶつができてそうなイメージあるんだか

256 :
>>232
あの光武帝劉秀が華北を納めて力をつけるのに物凄い頑張ったぐらいだからな。
・・・あれぐらい優秀な主従が居れば、袁紹も皇帝になれたんだろうけど、残念ながら『主』がちょっと器が足りなかった。

257 :
>>233
何を基準に「曹操は袁紹の一司令官だった」「完全独立するのは建安以後」としているのだろうか。
挙兵時の曹操の資本は独自ルート、その後も兵や軍糧の補給などは袁紹から受けず。
袁紹と韓馥の劉虞擁立計画を拒絶。
曹操の東郡太守任命を袁紹は上奏しているが、これは曹操が黒山から東郡を防衛したので当然だろう。
そして、曹操の州牧即位は独自の動き。
明らかに部下ではないと思う。

258 :
>>248
張コウが烏巣の奪還を成功させたら、烏巣の守備隊長を任命した人間の無能さが際立っちゃうじゃないか。
策は採用する、でも手柄はやらない・・・と言う・・・う〜む、後継者問題がこじれかけていたとしても、袁紹もそこまで小物じゃないよなぁ?

259 :
>>258
いくらなんでもそれは無いと思うわ

260 :
>>251
wikiかなんかに張コウの降伏時期に諸説あったね。
烏巣が落ちたから降伏したのか本陣攻めか失敗したから降伏したのかって。
烏巣が燃やされて救援もままならなくなりそうだとなると
負けを見越して鼻から降伏しに行ったっていうのもあながち間違ってないかもしれない。
>>258
際立つもなにもくそみそにされて帰ってきた時点ですでに面目丸つぶれな気が…。
本陣攻めに回してまで手柄をたてさせたくなかった理由がわかんないな。
第二の麹義を生まれさせないため?極度の郭図贔屓?
どれも納得いかんなぁ…。

261 :
>>256
191年〜207年までの曹操の赤壁以前の戦い17年間のうち8年間は袁招との戦い。曹操の赤壁以前の戦いの半分は袁招戦だったわけで
他の群雄全て滅ぼすのと袁招倒すのと同じ時間か。
劉秀は劉備や劉邦と違ってほとんど非の打ち所のない君主。三国志の時代に居たら曹操は多分勝てない。漢楚の時に居たら項羽は
手も足も出ない。敵がちょっと弱かったのもあるけどね。新の大失政とかね。

262 :
袁紹はもっと早くに死んでるし、
群雄の数ではなく領土の大きさで考えるべきなんじゃないか?

263 :
>>257
それ書いたの俺だけど一から説明するのめんどい。
史料の行間読んで察してくれ。

264 :
>>257
あ、通説ではそうだよね、とは言っとく。
それは否定しないので。

265 :
君主と部下の認定をするのにどんな基準を用いてるのかキ訊きたかったんだがね。

266 :
男は黙って顔良

267 :
>>257
曹操は袁紹によって東郡太守にしてもらってるし
以降ピンチになると袁紹は「家族の保護は任せろ!」って言ってきたり
(無論曹操は「まだ大丈夫」と断ってる)
袁紹に〜太守にしてもらった奴は事実上袁紹の配下だよね
いくら手柄立てたからって態々袁紹が上奏するなんて理由ある?
手柄挙げた人物を上奏するのは大抵上司の仕事なのだよ
他にも一杯袁紹に任命された太守とかいる
こいつら皆、袁紹の部下扱い
曹操は袁紹の戦略に口出しが出来る立場だった
実際、袁紹と韓馥の企みに曹操も口出しできたようにね
そして袁紹を袁術が同盟で包囲して逼迫すると曹操は袁紹に会いに行って、それから撃破に乗り出す
このように曹操は何かする時袁紹にお伺いを立ててる事とかが
袁紹の部下曹操という話の元になってる

268 :
>>267
家族の保護って…体のいい人質だろう。
そして曹操は家族に「自分に何かあったら張バクを頼れ」と言ってる。
官位のことで上奏してもらったら部下扱いだとは全く思わないし、
もしそうだとしても曹操の州牧就任の説明がつかない。
州牧就任をもって袁紹からの独立とするならまだ分かる。

269 :
>>257>>265
部下とは書いてないよ。
>挙兵時の曹操の資本は独自ルート
これは違う。当時の曹操は資力がなかったから張バクや衛茲に依存していた。
>その後も兵や軍糧の補給などは袁紹から受けず。
これも違う。東郡防衛戦の時、袁紹本軍から朱霊が付けられている。
荀イクや郭嘉が袁紹の元から曹操陣営に入ったのを、
同陣営内での横滑りの人事異動と考えてる人もいる。
>袁紹と韓馥の劉虞擁立計画を拒絶。
これも違う。もちろん魏書には曹操が計画に反対した手紙が掲載されているが、
実際には、献帝ではない別の皇帝から官位を受け取っている。>東郡太守、エン州牧
献帝が直々に任命したエン州刺史を、武力追放さえしている。
>曹操の東郡太守任命を袁紹は上奏しているが
袁紹の上奏文を受け取ったのは誰?献帝ではない、別の誰かだ。
曹操は袁紹と同じサイドにいたんだよ。
>これは曹操が黒山から東郡を防衛したので当然だろう。
東郡防衛の功績が認められて太守になったんじゃない。
東郡太守になるために東郡入りしたんだよ。
で、どっちにしても東郡太守に推挙したのは袁紹。
>そして、曹操の州牧即位は独自の動き。
曹操はエン州牧に2回就任している。
初回の任命は袁紹の上表によると陳琳が明記している。
二回目は献帝による正規の任命。これは李カクの斡旋によるもの。
以上は、全然通説なんかじゃない。
俺の史料の裏読みに過ぎないんだから、支持されないとしても全く当たり前。
ただ、部下だとか部下じゃないとか、俺が言ってないことに反論されても…ってのはある。

270 :
>>269
乙!おもしろいです!
やっぱり当時傑出した群雄は袁紹だったてことすっか
河北を支配下におけば、天下に近いんだろうな

271 :
確かに部下とは書いてないよね。
いじわるのつもりでわざとやったんだw
「一司令官」「独立」というのがちょっとよく分からない書き方だったので。挙兵時の「独自ルート」というのは当然「張バクと衛茲」「揚州の兵」のこと。
朱霊などの人的交流の話は承知してるし反論もある。
だがいま携帯からなのでまた後ほど。
で、「一司令官」と「独立」について説明をお願いしたい。
「同盟していたが解消」ならまだ分かるんだけど。

272 :
揚州の丹陽兵は途中で反乱起こして結局曹操は袁紹に間借りするはめに陥ってるよ

273 :
反乱のあとにもう一度募兵してるし、間借りの根拠が分からない。
むしろ間借りの相手は張バクだ。

274 :
単純に袁紹がいたのが河内
曹操が戻ったのも河内
張バクは河内にいない

275 :
ああ、間借りの意味を勘違いした。
兵が反乱起こしたので袁紹に間借りするはめになったという言い回しで混乱してしまった。
でもこの言い方って変だろ。
前半と後半につながらないよ。
曹操は最初は酸棗にいて、徐栄に負けたあとに揚州で募兵して帰還(途中で反乱され、予州でやり直し)。
酸棗の諸将と意見が合わなくなっていたので今度は河内(孟津?)に駐屯。
河内太守は王匡で、補給面は韓馥担当(多分)。
やはり「兵が集まらなくて袁紹に間借り」というのは正確じゃないと思う。

276 :
>>275
再度の募兵で集まったのは1000だけだろ
もし曹操が当初の5000を失わなけりゃ、まだ酸棗で発言権も保てただろうけど
衛茲を失い、5000の兵から1000に目減りした曹操の話は誰も聞かない
だから「兵がいなくなって間借り」なんだよ

277 :
当初の兵だってほとんど張バクと衛茲の兵じゃないのかね?

278 :
曹氏の財力なら、一家で持てる兵としては相当な数が揃えられたはず
曹洪は曹操の家よりも財産を持っていたと言われており、おそらくだが曹操の私兵もかなり曹洪の財力が入ってたんじゃないだろうか
だから評判の悪い曹洪も高位に就いていたし、魏に時代にも皇太后が弁護したりする
財産出させて後はポイ、なんてかなり酷い行為だからな

279 :
>>277
そうでもない
一応武帝紀注の世語の記述をそのままに信じるなら曹操の自前+衛茲の家財で集めた兵が5000
張バクの兵は当初の5000には入ってないことになる
その後、董卓を追撃する時に張バクがさらに自分のところから兵を分けて衛茲と一緒に付けてくれたんだけどここで大敗
ここで曹操は張バクからの軍事に関する信頼と友人の衛茲を同時に失ったと言うことになる

280 :
>>276
間借りってのは袁紹に寄り添うことで発言力を得ようとしたってこと?
それとも発言力を得るための兵を袁紹に借りたってこと?
>>277
曹氏の財産の全てを曹操が好きに出来たのかね?
親父とも仲悪そうだし。

281 :
>>280
むしろ曹嵩家の財産を勝手に使ったから仲が悪くなったのかも

282 :
>>280
張バクに無視されて以降曹操の政治的発言が袁紹に対して行われている事から推察するに
曹操は袁紹に寄り添う事で、袁紹を通じて全体に自分の意見を通そうとしていた風に見える
まああくまでここは推測に過ぎないけどな
ただ少なくとも曹操は兵を失って張バクに無視されて以降、張バクに何も言おうとしてない
個人的な交友はともかく、政治的には張バクとここでかなり深い溝が出来てる
そんな曹操が頼れる先って言ったら若い頃から個人的交友のある袁紹だろう?

283 :
>>282
面白いな。
それに加えて張バクと袁紹の不和は董卓討伐の頃に端を発するものだとされているから、
自分の支援を離れて袁紹のバックアップで東郡太守・エン州牧となり
エン州に地歩を築いていく曹操に、陳留太守張バクは呂布伝に記されている以上に
無心ではいられなかったはずで、呂布を引き込んでのエン州蜂起に筋の通った理由が付くことになる。
また、この時期袁紹は劉虞を皇帝として擁立しているから(劉虞は拒否したが)、
袁紹が署した官位を形式上上表した相手は劉虞の可能性は十分あるだろう。
ただ、この時期の軍閥の「一司令官」と「完全独立」の間にはかなり大きな隔たりがある。
完全独立するほどの勢力もなく、支援も受けるが、自前の閥を持ち相当程度独自の判断で戦略を決定する、
この時期袁紹や公孫サンなどに派遣された刺史や太守らはそのくらいの自由度があり、
場合によっては去就の判断もした。東郡太守から献帝奉戴までの曹操もその部類で、
波はあるが徐々に独立性を強めていった、というところだと思うよ。

284 :


285 :
袁紹って優柔不断なバカだから

286 :
>>283
呂布を引き入れたのは張超だろ

287 :
>>283
曹操が、陳留の名士の辺譲を殺した事と…
袁紹の「張バク殺害命令」が重なったから、
張バクはビクビクしていたんじゃねぇ?

288 :
>>287
時期的には7年くらいズレがあるぞ

289 :
後漢書だと建安年間に殺されたことになってるけど、
陳琳の檄文だと呂布の乱が起きた原因みたいに書かれてんだよな。
後漢書のほうが凡ミスしてるだけだと思うが。

290 :
>>285
『河北を平定して足がかりとし、関中を平定して天下に覇を唱える』
やっている事自体は、途中までは光武帝劉秀と変わらないんだが・・・・

・・・・やっぱり、役者が違うって言うことだよなぁ。
・・・・部下も含めて。

291 :
それは負けた側だから結果的にそう見えてるだけだよ。
もし曹操の方が官渡で負けてたら、主君も部下もけなされてただろうな。
ちょ、張遼とかwwだれそれwザコいwwwって言われたと思うよ。

292 :
袁紹って実際のところ、幽州はどの程度支配していたのだろう?
代郡・上谷郡あたりの閻柔・閻志兄弟、漁陽北部の鮮于輔、漁陽南部の王松なんかは
半独立というか、間接統治しか出来なかったんじゃなかろうか?
(また逆に言えば公孫サンの幽州での支配領域も大したことない?)
右北平・遼西なんかはノータッチにも思える。

293 :
>>292
元々漢の幽州支配がかなり怪しい
いくつかの中心都市を除いては無いも同然だし
公孫サンの最期に篭った城って冀州にあったりしてそんなに奥地までは踏み込めてないね

294 :
漢末は海経由で行ける遼東・楽浪なんかはまだ勢力圏で
直線距離は近いけど烏丸の脅威がある遼西・右北平なんかの方はむしろ捨ててたとかかな。

295 :
>>292
官渡の後に袁紹から討伐を受けたのって、その辺の勢力だったりしないよな?
文面だけ見ると、単なる反乱の鎮圧みたいだけど…

296 :
部下だけ見ると蜀や呉とも互角の存在じゃないか

297 :
このスレを読んで、袁紹軍団や自身が決して曹操に劣るものではないことがよくわかった。
それを踏まえて、次のことはどういう背景があったのか教えてぅださい
・長安から献帝が逃げてきたとき、擁立するのに消極的だったこと
その一方で、朝廷から任ぜられる官位に執着したのはなぜ?
・子供が病気という理由で、劉備に援軍を送らず、曹操を叩くチャンスを逃してしまったこと

298 :
前段については、袁紹は献帝を皇帝として認めないスタンスを取っています。
董卓によって正当な手続を踏まずに擁立されたという認識ですね。
ですから、皇族の血を引き人望のあった劉虞を担ごうと画策したわけでしょう。
四世三公の名士ですから、漢を否定する意識は全くなかったのではないでしょうか。

299 :
領域と人材で国といえるレベルだよ

300 :
子供の病気というのは、本音じゃないんじゃないかな?
本気で戦う気なら、
子供の病気を理由に出兵しないということはありえない。
先にも後にもない話だ。
むしろほかに、口にするのがはばかられる別の理由があって、
子供の病気はあくまで口実だったということも、
なくはないという気はする。
裏づけのない思いつきだから、信じないでね。

301 :
けど、出兵を取り止めたってのは事実なのかな?
袁紹はこの時、かなり黄河の内側まで押し込まれてた筈なんだけど、
曹操が徐州鎮圧に向かってから黄河まで押し戻してるんだよな。
曹操の徐州遠征が建安5年、袁紹の白馬攻勢が同じ年2月だから取り止めてる暇がない。
田豊を美化する為の作り話なんじゃないか。

302 :
>>301
>袁紹はこの時、かなり黄河の内側まで押し込まれてた筈
そんな話どこにあるっけ?

303 :
>>302
劉備裏切る直前まで黎楊まで進軍しとるよ?

304 :
いい人材を多数抱えながら使いこなせず後継者も決められず、つくづく愚将だな

305 :
曹操自身が黎陽に進駐した他、于禁が延津、魏チュウが河内に駐留してるね。
曹操の徐州遠征が董承誅殺後の建安5年1月と思うので、
だとしたら曹操が劉備と昌霸を鎮圧してる間に袁紹軍が2月に黄河を渡ってて、
曹操が戻ってきて白馬を救援したのが4月。
きっちり曹操の留守を袁紹は突いてる。
河内は不明だけど、黎陽と延津は白馬の戦いの時、既に袁紹軍の手に落ちてた。

306 :
実質袁紹が曹操の天下取りにおける最大のターニングポイントだったのに評価低いよね

307 :
正史なんかを精読すると面白い事がたくさん見つかるな

308 :
例えばどういう事?
一気に盛り上がって一気に過疎る
このスレに話の種プリーズ。

309 :
袁紹は背が低かったとか。

310 :
マジか初耳だ。容姿が良い、とかそんな描写があったから
てっきりでかいのかと思ってた。
ちなみに何尺ぐらいか書いてあった?

311 :
57m550t

312 :
何尺かまでは分からんけど、鄭渾伝注の漢紀に、兄の鄭泰の言葉で
「袁紹は洛陽生まれのぼんぼんで、体長は婦人なみ」って書いてるよ。
これは鄭泰が保身のために反董卓軍の欠点を指摘するという場面なんだけど、
董卓は袁紹とも直に会っていて嘘がつけない部分なので、たぶん本当。

313 :
「体長婦人」は「体は婦人に長ける」かな。
にしても、女性よりちょっとマシくらいって意味なので、大差ないけど。
いまの感覚でいうと160cm未満って感じじゃないかな。

314 :
成る程な。文章のみだと根拠のない悪口だが
実際に董卓が袁紹を見た事があるのがミソか。
これは面白い情報を得た。やっぱり正史は一度読んどくべきかな。
返り点がないと漢文読めないけど…。
しかし>>313の160未満はちょっと言い過ぎな気がする。女でも大体160はあるだろう。
それより少し大きいなら165ないし160後半が妥当、ではないだろうか?
160未満だと曹操のチビ助レベルになってしまうし、
それだと婦人よかマシ程度の表現では済まないだろう。
165ぐらいなら他にも結構いるような気もしないでもないが…。
まぁ悪口だからそこら辺は気にしないんだろうな。

315 :
現代人と同じ平均身長ではないだろうよ

316 :
三国の有名どころでモブを思い浮かぶ限り。
誰か補完頼む
曹操軍・・・李典 楽進 荀ケ 賈ク ケ艾 于禁 郭嘉 鐘会 徐庶 曹植 
      曹彰 曹洪 田豫 満寵 程c 荀攸 陳羣 劉曄 朱霊 史渙 郭淮 韓浩
呉軍・・・魯粛 陸抗 朱然 徐盛 韓当 程普 董襲 張昭 張紘 諸葛瑾
     朱桓 虞翻 顧雍 周魴 朱治 士燮 祖茂 丁奉 潘璋 賀斉 朱治
蜀軍・・・王平 関興 張苞 馬謖 法正 馬良 夏侯覇 廖化 劉禅 伊籍 糜竺 費?
     劉封 士仁 張嶷 張南 陳式 馬岱 馬忠 糜芳 李平 黄権 孫乾 楊儀 蒋?
袁紹軍・・・田豊 沮授 顔良 文醜 郭図 袁譚 袁煕 袁尚 審配
その他・・・袁術 李儒 黄祖 孟達 張魯 劉表 馬騰 韓スイ
これくらいか?

317 :
華麗なる誤爆

318 :
165くらいだと普通の背丈なので、鄭泰も別に言わないと思うよ。
それに曹操の身長は不明で、
とくに記述されてないから低かったのではと推測されてるだけ。

319 :
曹操は平均的な身長で、あえて記述する必要がなかった可能性もあるのか。

320 :
ところで唐突だけど、麹義の勝手な、傲慢な振舞いって実際にはなんなんだろう?
審配の一族が、あらくれ者をかくまっても不問だったような袁紹が、
激怒して処刑するなんてなにかあったとしか。
麹義は韓馥に反乱して袁紹についた人だから、
袁紹にも反乱しようとして、先手を打たれて殺されたとかだろうか?

321 :
勿論書かれていない
麹義は袁紹の係累以外で大規模な別軍を任された記録がある数少ない人物
増長したとしたらその絡みで、袁紹の命令を受け付けず反独立的に行動したり部下を任命しようとしたり
高位を要求したりしたとかその辺の事が考えられるだろうか

322 :
麹義は涼州の出身だから、
要するに審配ら冀州豪族のシマを荒らして絞められたってことじゃないか。
審配は在地豪族だから何やってもいいの。

323 :
袁紹、確かに英傑だけど嫉妬深い性格が栄華を止めた。
思えばその性格も少年青年時代を曹操と過ごした時に形成された気がする。
自分は生粋の御曹司、頭脳明晰。何もかも恵まれた環境。
そこに現れたのが、賎しい生まれながらも卓越した聡明さと実力ではい上がって来た曹操。
優等生で生きてきた袁紹にとっては、衝撃だったろうな。

324 :
袁紹の生い立ちは曹操より恵まれてないよ

325 :
曹操の爺ちゃんは宦官だけど、そこらの宦官じゃ話にならないほどの大物。
その爺ちゃんに名士連中は取りたてられてるわけで、コネは強い。
袁紹は母親が裨女クラスっぽいので、かなりアレ。
あと二人の年齢差を考えれば、人格形成には影響してないと思う。

326 :
そんなことくらい少し考えればわかるもんなんだがなw
>>323は漫画の読みすぎ。

327 :
蒼天航路の袁紹が実像に近いんじゃね?

328 :
曹操の家が霊帝の皇后と縁続きだったことも忘れちゃいけない
その皇后一家が失脚するまでは外戚の端くれだった

329 :
賄賂三公とばかり言われる曹嵩だって、司隸校尉から九卿・太尉とまっとうな官歴で出世している要人だから、
桓霊期の曹氏はかなり羽振りの良い一族だったと伺えるね。
まあ累代三公の袁氏や楊氏には一段落ちるが。

330 :
孝廉という出世ルートに初めから乗っている袁術や曹操に比べて、
袁紹はただ郎官になっただけと、一段低い位置からスタートを余儀なくされている。
(勿論袁氏でなければ郎になんてなれなかっただろうが)
それが袁術と肩を並べて洛陽に強勢を誇る高官になるには、かなりの努力を必要としたらしい。
六年間の服喪もその一貫だろうし、二次党錮の最中に危険を冒して党人を救出するということもやった。
そのようにして汝南と洛陽を往復しながら信望を築き、若手名士の代表格にまで上り詰めた。
中軍校尉として霊帝直属になりながら、何進の腹心として招聘されるなど引っ張りだこ。
董卓討伐辺りまでなら、曹操よりもヒロイックな経歴の持ち主だね。

331 :
決断力に欠けるけどな

332 :
>>331
どこが?

333 :
袁術と逆の立場なら天下取れてた

334 :
白馬陣に包囲されても自ら剣を抜いて戦ったんだから肝っ玉は相当据わってる。
蜂蜜飲みたいのバカ弟とは格が違う。

335 :
そして田豊胃痛がするの巻
いや、あそこの袁紹かっこいいけど田豊の立場からするとなあw
>>330
それだけやっといて、最後は手が届くことなく
ってのがなんとも切なくていいな
>>333
逆の立場だったらどうだろう
案外こじんまりと纏まっちゃった気がする

336 :
後継ぎ決めず死んで混乱招いた馬鹿

337 :
跡継ぎ決めずって言ったら切りがないからなぁ。
オスマントルコなんかだと皇帝が死んだあと
息子たちが殺し合いをするのが恒例なわけだし。
あんまり重要ポイントじゃないかもね。

338 :
オスマンで恒例だとなぜ重要じゃなくなるんだ?

339 :
>>323
わざわざageたのにフルボッコ…カワイソスw

340 :
晩年は孫権と似てるね。

341 :
まーでもだいたいは相続権持ちで有能な奴か、専断狙いの重臣・豪族が味方についた奴が
勝つんだから後嗣決定云々自体にはさほど効果があるわけではなかろう
袁紹がコイツに決めたといったからといって官渡後の状況が大逆転はしないような。
跡継ぎ云々自体というよりは、跡継ぎを決められるような体勢になっていない(君主権
が弱いとか豪族間の利害を調整できていないとかの問題を解決できていない)ことに
問題があるんだろう。

342 :
袁紹の息子が袁紹なら解決

343 :
結局 曹操に叩きのめされるわけか

344 :
>>341
後継者を決定し、待遇を差別化すれば、臣下はその後継者の許に集結する。
冀州を擁する袁氏は、202年に袁紹が死んでも分裂しなければ
曹操に対し五分以上の戦いができる。

345 :
日本で言えば大友宗麟か
名家と地盤、優秀な家臣に支えられて席巻するが、
晩年の病弱からくる家中統率の拙劣さが目立ってからは没落

346 :
袁家の地盤なんて袁術ですら簡単に背かれる程度の物だろ

347 :
まあ、>>341が妥当な落としどころだろうな。
そもそも継嗣を決めてないって言っても、
袁紹が生きてるうちに袁尚が公的に候補に挙がったことすらないしな。
>>346 袁家に限らず地盤なんてみんなその程度のもん。
日教組が自民に日和ったり、日歯連や医師会が民主に日和ったりしてるだろ。
結局はその時々で勢力のある方に付くんだよ。

348 :
>>347
この当時の権力闘争は権力中枢から地理的に遠ざかった時点で負けなんだよ。
袁譚は周知の通り青州に出され、袁尚はギョウに残ったと考えられる。
だから袁尚はギョウの留守を預かって命令系統を手中にしていた逢紀・審配によって
担ぎ出され、冀州牧の印綬と官僚機構をそっくり手に入れることができた。
袁譚は青州刺史分の権力しか確保出来なかった。
同じく袁紹に付いて外征に従事していた有力者郭図もまた、新体制から弾き出されて
袁譚を擁するしかなかった。
袁譚と袁煕を刺史として外に出した時点で袁紹の腹はほぼ決まってた。
少なくとも当時にはそう見える。にも拘らず、袁尚に権力を集中させる手続き
(袁譚を失脚させるか、Rか)を完了させずに死んでしまった。これが袁紹の失敗。

349 :
冀州に権力中枢があるというのが思い込みだと思うよ。

350 :
>>348
後漢書とは全く逆だね
袁紹は後継ぎを決めなかったけど、周囲は袁譚を望んだのに審配たちが袁尚を立てるという遺言を偽造までしたとなってるから

351 :
>>350
別に逆ではない。袁譚に人望があっても、袁尚派にそういうゴリ押しが出来るのが「首都」を抑える利点。
冀州牧・大将軍の印綬と節を確保すれば、袁紹が掌握していた軍と州へ命令を下す「正当な理由」を所有できる。
文書命令と官僚組織によって運営される中華の官制ではこれが圧倒的な力を持つ。

352 :
馬鹿とか言うな
文句は殺した曹操に言え

353 :
そうそうw

354 :
そういや、袁譚が大将軍位を弟に譲った時、
自分は車騎将軍を自号してるけど、これ父親と同じ号なんだよな。
何か思う所があったのだろうか。

355 :
蜀の許慈は、許攸と同郡だけど同族だったりしないかな。
劉備が河北から連れてきたとか。

356 :
許靖と一緒に交州から来たって書いてある

357 :
http://www.geocities.jp/aydahn42df5/kaikyo.html
袁紹と公孫サンって小物だったんだな

358 :
>そこで下馬し鐙をはずしたところを、二千の騎兵に襲撃されたのである。もはや呆れ返るほかはない。
>麹義が気付かなければ、袁紹は戦場の屍と化していたであろう。そうした危機意識を持っていなかった彼は、やはり名門を傘に来た凡人であったといわざるを得ない。
>まさに袁紹も、十年もしないうちに歴史の舞台から姿を消すこととなる。
袁紹は小物

359 :
別に逆ではない。袁譚に人望があっても、袁尚派にそういうゴリ押しが出来るのが「首都」を抑える利点。
冀州牧・大将軍の印綬と節を確保すれば、袁紹が掌握していた軍と州へ命令を下す「正当な理由」を所有できる。
文書命令と官僚組織によって運営される中華の官制ではこれが圧倒的な力を持つ。

360 :
蛆虫

361 :
岡田有希子って
今の芸能界で名前を出すのは
タブーなんですか?

362 :
>>357
えー

363 :
なんだただのアクセス乞食か
内容はスッカスカだしバカだなぁこいつ

364 :
>>363
ふーん
じゃあ具体的に反論してみろよ

365 :
363じゃないが、
>>357は演義ベースなので創作中の事件を真面目に批評するのも反論するのも無意味。
シャーロキアン的な遊びだとするなら良いけど。

366 :
正史に基づいていなければ戦略戦術においてこれほど深く的確な考察はできない
そんなサイトに嫉妬するのは分からなくもないが、希望的観測による中傷はやめたほうがいい
http://www.geocities.jp/aydahn42df5/kenkyu.html

367 :
そうそうw
水戸黄門で「なんで水戸光圀が薩摩なんかにお忍びで行けるの?」
みたいなアホなことw

368 :
>>366
本当に本人なのかね
じゃあ突っ込み。
界橋の戦いのどこに趙雲がいたって記述があんのよとか
なんで麹義が戦死してんのよとか
鐙の記述が後漢末にあったら大発見だよとか
袁紹がのっぱらで休息したと思ってんのかとか
袁紹直々の反撃で食い止めてるんだよとか

369 :
後漢書も読まずに後漢末史語って人を見下すなよとか
書庫の三国志関係の中で歴史考察の資料になるのはちくま三国志だけじゃんとか

370 :
本人確定でもないのに言い過ぎた。すまん。
そのサイトの記述自体は別に構わないよ。
管理人がどういうつもりで書いてるのかわからないし。

371 :
>>366
あ、マジで正史基準とか言ってるんだ?
虎牢関が正史に名前を出すのは唐代に入ってから
虎牢という地名自体は周の武王にちなんでのものとされてるけどね
まあ、つまり正史三国志に「虎牢関」での戦争は記録されてないんだ
んで、これでどうやって正史を元にした考察などとおっしゃるのかね?

372 :
Lv0:レッドクリフで三国志を語る
Lv1:三国志演義を読んで歴史に詳しくなったと思う
Lv2:詳しく知りもせずに正史マンセー
Lv3:正史を読んで賢くなった気分に
Lv4:逆に正史厨をカッコ悪く思えてくる


・(越えられない壁)


Lv5:演義・正史・その他すべてを理解し愛す

373 :
演義は好きだけど、演義を元に考察されても……と思う俺がいる
創作と分かった上で思考遊びするなら、それはそれで楽しいんだけどね
>>366に関しては、三国時代合戦考察と書いている事や、サイト名なんかを見るに
史実と勘違いして恥を晒しているようにしか見えない
演義における軍事を考察するのは、作中の内容でいいんじゃないかと思う立場からするとね
軍事以外だったら、論ずる余地は色々とあると思うのだけれど

374 :
演義の影響で常識的になってるけど、実は創作という箇所を探すのは楽しかったな
もちろん演義のあら探しというわけじゃないけど

375 :
逆に史実なのに創作扱いされてるという例も。
wikipediaだったか、李儒が架空の人物扱いされてて笑った。

376 :
このスレ的に言うと蒋義渠とか。

377 :
逢紀って田豊を讒言したことだけで何かと嫌われがちだよな

378 :
逢紀の讒言って具体的にそれくらいしかないよな。
なんか他にあったっけ?

379 :
「逢紀は向こうみずで後先考えない」
筍ケはこう痛烈に批判してる。

380 :
高幹と郭援の出番はまだかああああああ!

381 :
高幹はなぜ某SLGで人望が0/16という酷いパラなのか
(董卓・呂布ですら1/16なのに0って)

382 :
自分ほとんど素人なんだけど
袁紹が劉虞を擁立したのっていつ頃なの?
武帝紀だけを読んでると反董卓連合軍が戦ってる真っ最中のように見えるんだけど

383 :
それでいいよ

384 :
とすると袁紹は仲間割れでグダグダな連合軍をまとめたくてそんなことをやったんだろうか

385 :
袁紹が連合を纏め上げたくて、そうした可能性はあると思う
一応盟主のはずなのに、
劉岱(檄文を作った橋瑁をRあたり、反董卓連合でも強権を振るうだけの力があったようだ)に妻子を預けなければならなかったり
自称将軍で、結局太守としての扱いしか受けてなかったり、
袁紹よりも権威のある袁術(後将軍位は洒落にならない)が孫堅を連れてやってきたりと
コントロール不能になるのも無理も無い印象
特に袁術が致命的だ
この時代の雑号ではない将軍位の権威ってのは相当強力で、後に袁紹、曹操らも李カク政権に膝を屈して官位を受けている程
袁術という四方将軍が連合に来たというのは、盟主を上回る権威、名声を持つ者が来た事に等しい
実権では劉岱などの別の参画者の方が上で、名声でも上回る相手(しかも孫堅という武力つき)が来た以上、
袁紹が連合に対する影響力を保持するには、劉虞を擁立して、劉虞 対 劉協という状況を作るしかなかったんだろう

386 :
というかそもそも董卓を否定する以上、董卓が擁立した皇帝も否定するのがスジだろ

387 :
元上司の何進の倅を廃して
皇帝になった(ならされた)のが劉協だから
本心はどうあれ立場的にはアンチ劉協にならざるを
えなかったんじゃないかと思ってた
どうだろ?

388 :
>>386
袁術と曹操の立場はそうではなくて、君側の奸を除くというスタンス。
だから劉協の否認は、必須条件になってない。
第一、それを言うと曹操を敵視した劉備も献帝を否認しなければならなくなる。

389 :
公孫康は息子たちにひどいことしたよね

390 :
周瑜に似てるよね
成り上がりの奴にジェラシー抱いてる

391 :
君側の奸を除くって本当に便利な言葉だよな

392 :
袁紹も結局献帝を認めて右将軍の官位貰うんだが、
これは政治的敗北なのだろうか?

393 :
当初の計画に失敗したことは認めてるんだから、その意味では敗北なんだろう。
しかし今後の逆転を期してのことであれば、そこが終着点ではないだろう。

394 :
中華サイトだとほとんどの所で、沮授の字が「公与」って書いてあるんだけど
ソースが何なのか誰か知らない?

395 :
その場に書いてなければその時点で無視していいと思うよ。
第一、字なんかどうでもいい。詮索する価値なし。

396 :
調べてみたところ、テレビドラマ「三国演義」および小説「三国神話」において沮授の字は公与だった
正史や演義の原文調べても見つからなかったから、どうせ読み間違いだとは思うけど
向こうではさも当然のように広まっているようだ。

397 :
沮授って曹操の知り合いらしいけど、いつ逢ったんだろ

398 :
>第一、字なんかどうでもいい。詮索する価値なし。
世間的には「三国志なんかどうでもいい」だろうけどなぁ

399 :
>>397
若かりし頃の曹操は袁紹の武将だから、そのころに会ったんじゃない?

400 :
ツコツ阻止

401 :
捕らえられたあと沮授が曹操に仕えていたらどうなっていたんだろう

402 :
袁尚派が弱体化して素直に袁譚が後継に落ち着くかもね

403 :
沮授の生死が兄弟の不和に影響を与えるとはあまり思えないな。
審配によると、袁譚は養子に行ったのに実家の家督に未練があったわけで、
袁譚で一本化というのはまずありえない。

404 :
>>403
むしろ袁譚を推す声の方が強かったけど審配らが袁紹の遺言偽造して袁尚を後継にねじ込んだと後漢書に明記されてるよ

405 :
どうなんだろうねぇ。
審配が袁譚に送った手紙には
・ 袁紹・袁譚が叔父・甥と呼び合うようになっていたのは周知の事実。
・ 服喪の際に適用された礼の度合いも袁譚と袁尚では差があった。
とあって、これだと袁紹存命中から養子として家を出ていた事になる。
これでは周囲がいかに袁譚を待望しても実家を継ぐのは筋違い。
また審配がわざわざ遺書を偽造しなくても自然と袁尚が後を継ぐだろう。
さらに袁譚は母親に嫌われていたようで、家族の中で彼だけが孤立してたっぽい。
元長男という以外全ての面で袁譚が後を継ぐ可能性は無くなっていたのでは?

406 :
勢力を継ぐのは家督相続とはまた別だからねえ
無関係でもないとはいえ
劉表の場合爵位は劉キが継いでいるけど勢力は劉ソウが継いでいるように、勢力の引き継ぎと父の爵位その他の相続は不可分というわけでもないから

407 :
袁譚万歳

408 :
袁譚はむしろ有能だったからこそ荒れ果てた青州の統治を任されたんじゃ?

409 :
袁譚は青州の武力制圧の面では成功したみたいだが、
統治の面ではあんまりよくなかったらしい。
有能な王脩以外では、微妙な人材を好んだりしたって記録が残ってる。
まあ青州自体がカオスな状況だから、しょうがない面もありそうだが。
しかしやっぱり衆目には、武力的な功績のある袁譚が望まれたってことなのかね。
ただでさえ袁紹が二回負けてる状況だし。

410 :
袁紹=コルド
袁尚=フリーザ
袁譚=クウラ

411 :
しかし官渡って持久戦なら勝てたの?
なんかむしろ、曹操の勢いがすごいのと、
帝が付いてるってことで、持久戦に持ち込めば逆転される気がする。
っていうか官渡も許攸さえいなけりゃ勝ててそうだし。
なんか正史含めていろんな文章で、沮授と田豊が何でも正しくて、それを採用しなかった袁紹がアホ、
みたいな結論ありきで書かれてる気がしないでもない。

412 :
大局的には袁紹側がイニシャチブを握った状態で戦が進んでいて
曹操側は兵糧に事欠く有様だった訳だから、沮授が何をもって持久戦を主張したのか
ちょっと分からない。普通、侵攻する側のほうが兵站の問題が起きやすいことを考えると
自領地なのに兵糧が切れかかってる官渡での曹操軍は相当苦しい状況だったはず。
曹操が超人的な粘りを見せていたとはいえ、許攸の裏切りという偶発的な出来事がなければ
曹操側が勝つのは不可能に近かったのではないかと思う。
沮授や田豊の却下された案は
そもそも実行に移されていないわけだからその案で成功したとは限らないけど、
袁紹が却下して負けたという結論から「沮授や田豊は正しかった」という論の飛躍を招いているのかも。
ただ袁紹自身の資質が一体どの程度あったのか実像が見えにくい。
正史は魏晋を正統としている以上、袁紹を中立の立場で評価してないだろうけど
蜀や呉のように自身の歴史を残していないから、比較して客観性を高めることも出来ない。


413 :
荀ケの許攸は必ず裏切るだろうとか、郭嘉の預言じみた発言とか明らかに後付けくさい
からな、袁紹陣営の面々をあの手この手で愚か者扱いしてる。
献策を採用されなかった田豊・沮授を不自然に持ち上げるのもその手段の一つ。

414 :
司馬氏を正当化するために曹爽一派をこれでもかと矮小化してるあたり、中立の立場で
評価してるなんて絶対ありえんからな。漢→魏→晋と禅譲してる以上、その過程での逆賊
でしかない袁氏勢力が過小評価されるのは当然っちゃ当然。
董卓の暴虐なんかも曹操との違いを際立たせるために誇張されてるだろうし。
まあ、後世に書かれて、袁紹を結構良く書いてる後漢書が正しいかと言われると分からんが

415 :
少なくとも印象操作は盛んに行われているね。
郭嘉の予見を超えた予言もそうだけど
見てきたように敵国の家臣の言葉を出して君主を批判させたり
「残虐」などの言葉で飾って実際に行った事実を誇張させたり
「〜を恐れて進軍しなかった」などと書いておきながら
進軍していないなら起こらないはずの戦が起きているとか
こういう書き方は一概に全部嘘だとは言えないにしろ
出来るだけ「何時、何処で、何が起こった」という部分を抜き出して読めば
より中立的な見方は出来ると思う。

416 :
田豊と沮授が割と高評価なのは後出しの伝聞を結果だけで評価してるからだろうね
「張良、陳平に匹敵する」なんて言っちゃってる孫盛の評価もあてにならん
仮に張良が袁紹配下なら官渡の戦いが始まる前にウソ隠居してるわ

417 :
>>416
張良なら官渡を勝利させてると思う。
そもそも田豊や沮授がなぜあそこまで官渡戦に反対したのか。
曹操は袁紹が公孫サンとやりあってる間に
呂布、袁術、張?と中原勢力を平らげて上り調子に力を付けつつあった。
無論まだまだ敵や問題は多かったが、
献帝は抱えているし、曹操自体の手腕が優れているのも戦績から分かる。
袁紹が傍観していられるような状態ではないだろう。
また袁紹は統一を目指していて、その年齢はすでに若くない。
曹操の勢力が減衰することを期待して待っていたら袁紹の貴重な時間が失われていく。
河北に割拠するだけで満足するなら、地固めして次代に渡せばいいんだろうけど。
こういうことを考えたら、袁紹は公孫サンを下したらすぐにでも
河を渡りたかっただろうし、官渡の時期ですら曹操に時間を与えすぎたくらい。
その上で曹操が食料の問題を抱えている最中に攻め込もうとしたわけで
タイミングとして特におかしな部分は見当たらない。
田豊らが許攸の裏切りでも見通していて、発言しているならともかく
そうでもなさそうなのに反対する理由が分からない。

418 :
その官渡直前に、田豊が曹操攻めを進言してるのが気になるな。
いわゆる子供の看病事件なんだけど。
そのちょっと後でいきなり持久戦進言に切り替えたのも、何の狙いがあるのやら。
そのよくわからない部分まで、「田豊は賢者だからそっちのほうが正しかった」ってなってるのはちょっと後付けすぎる感じもある。

419 :
誰かが書いてた気がするけど、そこらへんの時系列は
200年1月 董承の暗殺計画発覚、処刑。
       曹操、劉備討伐を決意
ここで曹操や郭嘉が「袁紹は出てこないから劉備を先に討つ」と言って
袁紹側の田豊も「今がチャンスだから打って出るべき」と進言してる
ここで袁紹は子供の病気を理由に出なかったはずなんだけど
200年2月 袁紹、郭図らを白馬に派兵し劉延を攻撃。自らは黎陽から黄河を渡ろうとする。
200年4月 曹操、劉備らを下し白馬を救援
ちゃんと袁紹は攻撃していて、曹操が袁紹に対峙出来たのは4月だから隙はついていたことになる。
田豊が考える攻撃規模と袁紹が行った攻撃規模が違うことに嘆いた可能性もあるけど
小手先の攻撃でもないし、本隊が渡る前に先遣隊出すのもおかしくないし、
その後ちゃんと本隊も黄河を渡ったし田豊は一体どこが不満だったんだろう。

420 :
そもそも、そのエピソード自体袁紹を優柔不断で優秀な参謀の献策を聞き入れられない
度量の小さい男と演出するために創作されたとしか思えん。
実際の袁紹の行動と矛盾してるし、田豊がその後正反対な持久戦を進言するという訳
分からんことになってる。袁紹より田豊の方が一貫性のない馬鹿に見える。

421 :
多分創作なんだろう。
烏巣救援もそうだけど、袁紹がちゃんと手を打ってる
(ここでは最速の軽騎兵を送り込み、それでも間に合わずに陥落したわけだが)
にも関わらず、状況に迅速に対応できない将というイメージを創作している。
比較的魏晋に囚われていないといわれる後漢書が子供の病気エピソード載せるところを見ても
後漢書も袁紹勢力に中立な立場とは言えない。
そもそも田豊も沮授も持久戦を主張したか怪しいと思う。
公孫?と曹操では状況が全く違うし、直前には同盟を持ちかけた張?が早々に帰順する始末だし
(これは賈?じゃなくても、この状況下では曹操について当然だけど)
これ以上待っていても袁紹側がより有利になるシナリオが思いつかない。


422 :
ツイッターで烏巣奇襲についてjomiが延々と議論してたな
なかなか面白かった

423 :
ここの住人がコーエー三国志的に袁紹軍を評価するならどんくらいになる?
参考までに教えてほしい。

424 :
>>423
統率=防御力
武力=攻撃力と武勇
知力=外交と計略
政治=内政
魅力=人望と名声
こういう基準でやると
    統率 武力 知力 政治 魅力
袁紹  84  73  85  87  95
袁譚  54  78  22  14  60
袁熙  52  50  58  52  46
袁尚  43  52  42  43  71
高幹  81  62  75  67  58
沮授  75  51  94  80  68
田豊  32  31  93  70  37
逢紀  22  38  90  52  28
郭図  68  49  74  70  49
審配  89  70  73  76  26
麹義  83  96  70  32  33

425 :

       おはようございますw
      
今沖田w
    
    
              (v=ФωФ)ρ
         ( ,_´ゞ`)⌒ ̄ ⌒⌒〜    
   〜⌒ ⌒ ̄⌒ ⌒ ̄ ⌒⌒〜          川メ´,_」`川
                   \    /⌒ ⌒ ̄⌒ ⌒ ̄ ⌒⌒〜
    ――      l   ‐┼― ‐┼― _l_ヾ
       ー―  ト―  | ⌒  rー、    | |
   ―‐―       l    / ー  _ノ  / J
       
          | ̄ ̄|  ーヽ-〃 ヽ_ノ   ‐┼―
          |二二|   _ヽ  γ、ノ`ヽ   | ⌒
          |__|  (_ ,   lノ ヽ_ノ   / ー‐


426 :
>>422
曹操軍が官渡に押し込められていたわけじゃなく、戦況は圧倒的不利ではなかったということかな?
ツイッターやらないから議論全体が分かりづらい
袁紹軍再評価みたいなのを見るときいつも疑問なんだけど
終始押されてたらしい曹操に内通者や裏切り者が出ず、押されている割に崩れもせず耐えてるのに
それに対して兵糧庫が落ちたといっても、将の才があるなら秩序だった撤退をするべき袁紹は
裏切り続出、撤退も何もない総崩れ(そもそも勝ちつつあるはずなのに許攸が裏切ること自体重大問題だと思う)
っていう事実があるのに、そこには触れないよね。
この違いに対する説明がない限り、将器に決定的な差があったとしか思えない。

427 :
三戦の蛆虫ども
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \
( ゚∀゚)ワハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

428 :
>>426
・袁紹の兵力はもともと曹操と五分かやや劣るぐらい
・袁紹が有利になったのは黄河を渡ってからエン州の豪族が大量に寝返りうったから
・兵力が劣る袁紹が南下したのは、劉備の反乱で主力が徐州に向いている隙を突いて
・寝返りの理由は袁紹軍有利と見たからと、事前に内応を取り付けていたの二説あり
・寝返りで兵をごそっと引きぬかれてエン州をほとんど制圧されて戦線を維持できなくなった曹操は大幅に後退するしか無かった
・終始袁紹が押していたし、烏巣が陥落するまで袁紹の判断は一つも間違っていない
・烏巣にまつわる一連の袁紹の判断が的確だったことと、曹操の勝ち目が薄かったことの論証
・「なぜ落ちただけで袁紹軍が総崩れになるほど烏巣は重要なのか?張コウが寝返った理由が分からない」という疑問に対し、烏巣の重要度に対する議論
 烏巣より淳于瓊の存在が大きかったという説と、袁紹軍も忠誠心が低い部隊ばかりだったから動揺して総崩れになったと言う説が出たところで時間切れ
jomiとむじんのガチ討論という珍しい組み合わせ。主に議論してたのはむじんともう1人だけど

429 :
>>428
分かりやすくまとめてくれてありがとう
ただこれ、前半は何を根拠に言ってるんだろう
兵力差が10対1ほど大きくなかったというのはよく聞くけど、5分以下って初めて聞くし
エン州豪族が寝返ったなんてどの資料から読み取ったのか知りたい
それに、烏巣前後が尻切れトンボだな
そもそも総崩れするほど大切な兵糧陣地の場所を曹操に知られてる時点で判断云々以前の問題
肝心な烏巣陥落後の流れには触れてないし
袁紹を再評価したいあまり実際以上に贔屓してる気がするなぁ

430 :
>>424
それだと参謀陣の郭図派がバカすぎだろ
そんなに差があったら袁紹の側近として肩を並べることさえ出来んわ

431 :
>>426
内通者や裏切り者が出てないんじゃなく、実際に裏切った奴は史書上で抹殺されてるだけだよ
現にエン州も豫州もすぐに勢力図塗り替わってる
これは裏切った者も相当数いたことを示している
戦後の手紙発見した光武帝パクリエピソードからは曹操陣営にも袁紹と仲良くしてた奴らが複数いたことが分かる

432 :
田豊を中心としたキ州派閥は胡散臭いよね。
案外、曹操と裏で通じてたりして。完全に妄想だけど。

433 :
審配が好き。
郭図は嫌い。
田豊は悲惨。


434 :
>>429
その議論は知らないけど多分、後漢の人口統計じゃないかな
俺も人口統計みるたびに袁紹>曹操という兵力比は疑問に思ってたんだ
しかも、袁紹の本拠地である冀州って黄巾の乱で一番荒れたところじゃないか
どっからそんなに人を集めてきたんだ?

435 :
>>429
五分五分以下っていうのは曹操が黄河北岸に手を伸ばし、かつ劉備が裏切る前を想定してるんじゃないかな
黄河沿いでの曹操と袁紹の戦いは、当初曹操が攻勢しかけている
その時点では曹操が国力優勢だったということだろう
それが明らかに袁紹優勢になるのが劉備反乱とその後の各地での曹操側からの離反だということではないかと

436 :
ログはないのかな?
実際に見てみないとわからん。

437 :
官渡の戦い前後で最も忠心厚く戦功成した袁紹配下の将が劉備であったのは面白い事実だなあ。

438 :
>>436
http://togetter.com/li/198438

439 :
官渡と第四次北伐のシチュエーションに、張コウの因果を感じる。

440 :
むじんさんが以前に劉備は一貫して袁紹派だの言ってるの見たことがあったけども
まったく賛同できないな。
>>434
>しかも、袁紹の本拠地である冀州って黄巾の乱で一番荒れたところじゃないか
それを言うならエン州なんて曹操と呂布の争いで酷いことに

441 :
>>440
少なくとも徐州を治めて以降は、袁譚を孝廉に推挙したり、呂布に追われたら曹操、曹操に追われたら劉表と当時の袁紹派に身を寄せたりしてる。
袁紹も劉備が徐州を治める事を容認したとあるし、劉備が袁紹派であったという主張はおかしくないと思うが。

442 :
つうか、
「野心から曹操を裏切り明らかに無理のある徐州での独立を目論んだ」
「裏切りを続けながら何故か人望厚く行く先々で受け入れられた」
と言われるよりは、
「袁紹派として後方支援の為に曹操から離れて徐州を奪った」
「袁紹派として曹操、袁紹、劉表の元に身を寄せた」
と言われる方が、俺は納得できるけどなあ。

443 :
劉備をしたたかな奴と思うか、運と徳で生き残った奴と思うかで分かれるのかもね。
しかし、何の展望もなく徐州奪うほど馬鹿とは思えんし、やはり袁紹との連携はあったと
考える方が自然だと思うけどな。袁紹派と言えるかは断定できんが。

444 :
>>441
曹操と劉表を袁紹派と見てしまうところが勘違いの始まりじゃないの?
そもそも袁紹派ってなによと。
利害一致の派閥?何かのイデオロギーによる紐帯?
じゃあ公孫サンの下にいた劉備があの陶謙の後を継いだあとに袁紹派になるのはどんな理由?
劉備が孔融を領青州刺史に推薦したのは問題ないの?と。
>>442
>「野心から曹操を裏切り明らかに無理のある徐州での独立を目論んだ」
無理のある独立じゃなく、袁曹開戦の間隙を縫ってわけで。
黄河北岸まで進出してたのに、取って返した曹操が異常なのであって。

445 :
>>444
普通に利害の一致じゃない?袁紹を中心に結びついてるから袁紹派、で問題ないと思うよ。
孔融については劉備の推挙と袁譚の青州派遣の時期がよく解らんので保留。
ただ田楷の存在をスルーして孔融を推した以上、少なくとも公孫サンと袂を分かったという傍証にはなるかと。
劉備の鞍替えについては私見だけど、少なくとも地理的にも時流的にも二袁のどちらかにつかないと徐州を保つのは困難だろう。
で、徐州人士が袁術を嫌ってる以上、袁紹派に与するしかないんじゃないか?

446 :
あーでも暫く間を置いてから調べ直したいね。
今の状態だと「資料から劉備=袁紹派説が導き出される」じゃなく「劉備=袁紹派説を導き出す為に資料を恣意的に見る」になりそう。

447 :
>>444
あ、あと曹操が官渡の前に劉備を潰すのは異常でも何ともないと思うよ。
これから袁紹と事を構えるってのに背後にいる劉備を放置するだなんて出来っこないんだから。
黙ってりゃ時間と共に徐州人士が劉備に与する危険は高まる。曹操はリスクを犯してでも劉備を早期に叩く必要があった。
本当に異常なのは壊滅の危険を重々承知の上で曹操と対立した劉備の方だと思う。
結果、劉備は劉岱・馬忠を撃退して曹操の本隊を引きずり出し、そのため曹操は黎陽に手が回らなくなって袁紹の渡河を許している。

448 :
>>447
あ…
×馬忠
○王忠

449 :
>>447
>あ、あと曹操が官渡の前に劉備を潰すのは異常でも何ともないと思うよ。
曹操自ら劉備討伐に向かうというのが思い切った決断でしょ。
だからこそ劉備は戦いもせずに逃げてるんだし。
>>445
>ただ田楷の存在をスルーして孔融を推した以上、少なくとも公孫サンと袂を分かったという傍証にはなるかと。
これは当然、田楷が青州から引いた後の話だと思うけどね。
じゃないと孔融が袁・公孫の二軍を相手にしなければならなくなってしまう。

450 :
>>447
>本当に異常なのは壊滅の危険を重々承知の上で曹操と対立した劉備の方だと思う。
袁紹派というのが利害の一致による打算的連合ならば
壊滅の危険を冒してまで曹操と対立するのは矛盾するんじゃないの?

451 :
>>449
後に史書に「袁紹は攻めてこないから劉備を先に叩く」とか
「子供が病気で〜」とか隙を突かれたことを誤魔化そうとしてるところを見ると
確かに思い切りすぎた決断だったんだろうな
ところで今の議論って
曹袁の戦いの間隙をぬったとはいえ、曹操に対立して無理に独立しようとした劉備の決断が異常なのか
(もしかするとここに劉備と袁紹の間に交わされた何らかの約定がある?)
目前の袁紹との戦いに比べれば小さいはずの劉備にわざわざ総大将が出陣した曹操の決断が異常なのか
そういう話ってこと?

452 :
袁紹との全面対決を前に放置しておけるほどちっぽけな存在じゃないよ劉備は。
生半可な兵力でどうにかなる相手じゃないのは王忠らを追い返した事でも明らか。
だからこそ曹操は対袁紹戦線を後退させるリスクを負ってでも自ら乗り出して早期に劉備を叩いたんだろう。

453 :
当初は王忠らの派遣で済まそうとした
つまりは自ら出張るには決断が必要だったわけだ

454 :
曹操も劉備も袁紹も傑出した英雄だったでいいじゃない。袁紹には運と寿命がなかったが。

455 :
曹操が劉備討伐に向かった事で、黄河北岸で袁紹と対峙するつもりだった曹操は大幅なプランの変更を迫られた訳だ。
袁紹が劉備を歓待した理由が解るな。先手を取られた筈が、劉備のおかげで取り返せたんだから。
その後、休む間もなく延津の戦闘に加わったり、二度に渡って曹操の後方を攪乱したりと忙しく動き回ってる。
袁紹にとっても使える駒だっただろう。麹義や呂布と違って素行もそう悪くないだろうしなw

456 :
そこらへんの袁紹と劉備の関係をうやむやにして、劉備の人徳のおかげで歓待された
みたいな感じで解釈してる三国志本って結構多いよな。しかもそういう時だけ袁紹にも
それなりに人を見る目があったとか、都合のいい評価してる。
乱世で何のメリットもないような奴を迎え入れるとか、本気で言ってるなら正気を疑う。

457 :
そういや曹操が黄河を越えて黎陽に進軍したのって何が目的なんだろ?
どうも河を背にした防衛線って想像できなくて。曹操側から先手を取って袁紹に攻めるつもりだった?

458 :
>>457
だと思うよ
河内でも黄河超えて袁紹側とやりあってるでしょ
曹操が先に黄河の北側に向かってるんだよ

459 :
となると、当時曹操が袁紹の戦力を上回ってたって話も、あながち的外れではないか。
攻めいる側の兵力や兵站を曹操が計算していない訳がない。

460 :
もしかして、袁紹ってかなり戦上手?

461 :
北方の雄・公孫サンを討ち果たし曹操を滅亡寸前まで追い詰めた袁紹が戦下手はないだろう。
官渡についは劉備が徐州を抑えた事で一時的にパワーバランスが崩れた事も影響していると思うが。

462 :
しかし公孫サンとの優劣を逆転させたという界橋で、
延々と麹義ばっかり活躍してるのが気になるな。
麹義が優れた武将なのは間違いないだろうけど、
引用されてる英雄紀がちょっと脚色してる面もあるんじゃないか。
と思ったけどかなり具体的な記述なんだよな。
でも兵法とか知らんから戦術について検討できん。

463 :
>>462
あんまり袁紹ageしたくないから、公孫サンとの戦いでは麹義が頑張ったから勝ったんだよーって事にしたかったのかも。

464 :
しかし袁紹配下では数少ない、活躍がはっきり明記されてる武将だしな。実際かなりの功績があったんだろうとは思う。
麹義に比べたら、顔醜なんて実際はどこまで評価されてたもんだか分かりゃしない。

465 :
口先だけは達者な孔融に評価されてることを、あの孔融の弁のネタにされるほどの勇将
だったととらえるべきか、はたまた孔融(笑)ととらえるべきか>顔・文

466 :
白馬延津の戦いは曹操にとって負けに等しい結果だったから、乏しい戦果を誇大に見せる必要があったのかもな。
仮に両者が優れた武将であったとしても、討たれた事で大勢に影響したようにも見えないし、そこまでの人物でもなかったんだろ。
孔融の評価も「袁紹には勇猛な武将が幾人もいますよ。○○とか顔良とか××とか文醜とか…」程度のものだったんじゃね?

467 :
勇猛にして果断なる袁紹閣下が志半ばにして倒れたのは残念でなりません。

468 :
野生の熊が冷蔵庫を開けて喰う珍事にTV,新聞マスコミで話題に。
何の事わ無い、ムツゴロウが飼ってた熊を野に捨てただけだった。
TVでムツゴロウが家で熊を飼っていたのを見た人も多いでしょう、その熊です。
こんな非常識な事が出来るのがムツゴロウ。
飼えぬなら飼うな、死ぬまで飼え そんな言葉はムツゴロウには無縁。
近所の鼻つまみ者それが北海道のムツゴロウ!

469 :
麹義は公孫サンが易京に篭るきっかけになった鮑丘の戦いを指揮しているんだけど、
そのことにはあまり言及されないね
公孫サンとの戦いの最高司令官だったのに

470 :
そんなこと言ったら劉和のことなんて誰も言及しないぞ

471 :
劉和は三国志11でも普通の文官だったなぁ。
統率21武力16じゃ公孫瓚にはとても勝てない。
更にいうと寿命も史実より減らされている謎。見落としなのかな。
なんだか過大過小スレみたいな物言いになってごめんね。

472 :
>>465
孔融が口先だけとは失礼な。
彼は黄巾30万(数の多寡はさておいて)を二度凌ぎきったり、退廃した青州の一角に城邑を打ち立てたり、公孫度の精鋭を夜襲で破った男だぞ。
そりゃ確かに孔融の治世は芳しくなかったかも知れないが、そもそも孔融って董卓に青州にシベリア送りされたも同然の状態だったし、孔融なんてちょちょいのちょいな大勢力の袁紹・公孫サンが青州に部下を派遣して青州を治めさせてたし…。
そもそも、その記述からして趙翼の資料で「んなわけあるかい」と批判されてなかったっけ?

473 :
後漢書などでは孔融が大守としてちゃんと働いてる記述あるのに
クソミソにけなしてる九州春秋ばかり引き合いに出して無能扱いされてるよね、何故か

474 :
>>473
そう!巷の面々は曹操の都合の良い処ばかり挙げて季漢や、それに連なる面々を誹謗する!
大体、孔融が青州を恢復出来なかった事を非難する連中は曹操が同じく中原の国力を恢復出来なかった事を忘れている(時間も、収入も足りないのだ)。
太守一人が大勢力の薫陶を受けた刺史に兵力云々で敵う筈も無く、青州自体が荒野となって久しかった事を覚えていないんだ。
つまり孔融は兵をして領土を拡大する事も出来ないし、拡大出来なきゃ収入が頭打ちになって復興も侭ならない事も判らない。
後に青州全土を治めバックには冀州があった袁譚ですら青州の復旧は困難だったんだ。北海国のみの孔融に可能な筈が無い

475 :
言いたいことは分かるが、過疎ってるとはいえさすがにスレ違いだろ。
まあ、俺も職場の上司が吉川三国志や三国志関連の雑学本を読みかじったくらいで
三国志通ぶって、曹操をべた褒めするために袁紹を引き合いに出してこき下ろすのを
聞いたりするとイラっとするけどさ。
ああいう人達って敗者は不当に評価されがちって考えないのかね。

476 :
そういう人は、実際のところ曹操と袁紹を語りたいんじゃなくて
「身分は低いが才能と努力で頭角を表した少数を率いる英雄が、身分が高いことに奢って才を磨くことを怠った
大勢力の長を鮮やかに打ち負かす」
っていう庶民のカタルシスを満たし、人生訓に溢れた典型的物語に2人を当てはめてるだけだろうと思う
日本でいうところの義経と平家や信長と義元あたりもそんな感じだね
こういう話は架空の話でも胸がすっとするものだから、いくら袁紹が再評価される流れになっても
一般的には袁紹は優柔不断で人の話を聞かない傲慢なボンボンで在り続けるだろうな
袁紹が好きな人間としては寂しい話だけど

まあ実際の官渡で教訓にすべきところがあるとすれば、用意周到に油断なく作戦を実行していても
些細なきっかけや時勢(つまるところ運)の転がり方で取り返しが付かない失敗を起こしてしまう
逆に言えば、どんなに負けが込んでも負けきらずに粘って生き残れば
逆転できる機会を掴める可能性があるってことかなw

477 :
並みの主君なら普通に敗北か内部分裂かしていたところだった。
曹操や部下たちの粘り強さっていうか執念も恐ろしい。

478 :
曹操だって名門といえば名門だよな

479 :
曹操は名門だし、父ちゃんや爺ちゃんは漢のトップクラスの権力者だし、金持ちだし、
劉備や孫策あたりからすれば恵まれすぎてる立場だよ。

480 :
>>475
そういうオッサンは「リーダーに必要な資質」だの「成功する人間」だのビジネス書に
ありがちなテーマの本を普段から読んでるから、歴史人物の評価も勝者=理想像
敗者=無能者みたいなテンプレ的な評価を疑いもなく受け入れる。
袁紹なんて格好のネタだろうさ。
ぶっちゃけ、勝者の短所とか敗者の長所とかどうでもいいんだろ。
折り合い悪くなる覚悟で、「愛人とイチャついてる隙を突かれて、息子と有能な護衛
を死なせて、嫁と離縁されるのもリーダーに必要な資質ですか?」とか聞いてみたら?w

481 :
>>477
その粘り強さの凄さを示すためには、袁紹軍が強いという前提がないと、ただの烏合の衆
にピンチでした(笑)になっちまうと思うんだよね。
ただでさえ袁紹なんぞ大したことないみたいなこと言ってあの様だから。

482 :
何故か歴史を語る時って、勝つ側は勝つべくして勝ち、負ける側は負けるべくして負けた、ってことにしたがるよね。
歴史家とかも含めてなんだけどさ。
有田中井手合戦や桶狭間合戦なんて単なるまぐれ勝ちだろ。

483 :
>>481
だからこその大軍なんだと思う。袁紹自身の能力は酷いけど、兵力が10倍もあるから押されるんだと言い訳出来る。

勝者が勝つべくして勝った、という話ばかりになるのは
資料が勝者側が書いたものしか残りにくく
その上勝者側が自分達が優れていたことを宣伝するためにちょっとづつ筆を曲げるからだろう。
資料から読めば勝者が勝つべくして勝ったとしか読めないし、それ以上になると推測の域になってしまう
まだ日本の戦国時代あたりなら時々未発見の一次資料が出てきたりするから変わることもあるけど


484 :
兵力10倍差あるなんて出鱈目だろうが、仮に本当だったとしても戦力差があることは
承知の上でのあの発言だろうに、それを言い訳にしちゃあ駄目だろ。
自分から大口叩いて見誤ったと認めるようなもんだ。

485 :
おかげで勝者曹操に負けた呂布と敗者袁紹に負けた公孫サンの評価も演義や
ゲーム・漫画の描写もあいまって、呂布軍>>>>>公孫サン軍くらいの差が
あると一般的には思われてる感があるな。

486 :
酷いのになると追いつめられたのすら計算の内で、曹操や郭嘉は最初から戦を俯瞰して操っていた
と言い出すんだからもう手に負えない。
それを考察本やNHKとかですらやるんだから誤解をますます広げてる。
兵力差は上のほうで色々言われてるけど、10倍は有り得ない。
公孫サンは劉備補正でそこそこ良い扱いになってる気がしてたけど
本来とはかけ離れた小勢力みたいにされてるな
呂布はなんであんなに馬鹿だけど凄い奴になっていったのか分からないw
演義じゃフォロー無しで性格最悪だったはずだし
実際袁紹の元で異民族に大勝したくらいしか目立った戦績なかったような気がするんだけど。
ところで同じ板内でいつの間にか
袁紹って無能なの?
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1322454748/
ってスレが出来てるな、すぐ過疎りそうな気がするけど

487 :
まあ無能じゃなかったって結論はすぐ出るだろうし過疎らない理由がないな

488 :
官渡は袁紹の大敗、捕虜も一杯、死者も一杯!みたいな書かれ方するけど嘘だよね
袁紹が失ったものは張コウ率いる精鋭、淳于瓊と愉快な仲間たち+守ってた兵糧、そこに送った援軍
そして武名くらいなもんでいくら曹操が追撃戦やったとしてもそこまで大勝利は収められないでしょ
張コウの投降ですらしばらく信じられなかったというくらい、烏巣を落とした後の曹操は余裕ない
んでこの失ったものリストを見てわかることは、
袁紹は回復に年単位の時間が掛る損害は出してるが
その意味するところはすぐに遠征ができなくなった、というだけの話で
大敗でもなんでもなかった
翌年の倉亭はそんな遠征できる状態ではないけどまだまだ大丈夫だった状態から
強引に遠征に充てる兵を引き抜いてのものだからちょっとしたことで各地が反乱する
そしてあっさり流されるけど倉亭は曹操の支配領域の内側で、黄河の南側
つまり官渡に引き続いて曹操はサックリと袁紹の渡河を許してるという…
倉亭は反乱なければ袁紹に踏み潰されてもおかしくないよ
下手すりゃ一戦も交えずに反乱鎮圧に戻っただけの戦いを勝利!に書き換えちゃったのかもな

489 :
張コウの裏切りの理由を押し付けられ、出れば負け軍師とか言われてる郭図が
袁紹の次くらいに損な役回りだね。

490 :
倉亭は袁紹自身は出陣していないんじゃないか
領内の反乱鎮圧に忙しかった時期で
そのさなかにわざわざ倉亭に行くことは難しいし大したメリットもない
一応袁紹が生きていれば回復可能な損害とはいえ、大損害を被ったのは確かで
対岸を保持していてもすぐには攻めるあてがない
官渡の結果黄河南岸の保持に成功した曹操が、僅かに残った袁紹の拠点を取り返し
袁紹は回収出来るだけの兵を退かせて残存部隊に組み込んだ
いわば最初から結果が分かっている戦い、というか官渡に付随した戦いだと思う

491 :
>>488-490
「反乱」がただの反乱ならそういう見方でもいいのだが、
武帝紀によると多数の城が曹操に投降したとあって、
袁紹伝にある反乱者とは曹操への投降者であることがある程度推測される。
この場合、反乱鎮圧のために戻った、というのも、反乱鎮圧に忙しくて倉亭に行かなかった。
というのもあまり適当ではないかと思う。
むしろその反乱鎮圧こそが倉亭の戦いなのではないかな?
渡河点を確保しておこうとする袁紹の鎮定部隊を
曹操が阻止するというものが倉亭でそれ程大規模でない戦いを起した小競り合いというのが、
事実に近い倉亭であると俺は考える。

492 :
>>491
倉亭で破れてから袁紹はギョウに帰ったみたいだから倉亭にいたんだろうね。
ただこの戦いは「曹操が袁紹軍を破って、袁紹はギョウに帰って兵をまとめた」としか記述ないし
戦いの実態を掴むのは無理だろうな。
反乱については「冀州の城の多くが背いて、それを袁紹が平定した」とあるから
鎮圧したのは冀州の反乱勢力だと思う。
倉亭の付近は反乱というより、曹操の勝利で津程度しか袁紹が保持出来なくなっていたのではないだろうか。
袁紹がまだ津を保持できるものならしようとしたということは
>>488が言うとおり、官渡の負けは壊滅的というほどではなく
袁紹の目論見としては近いうちに戦力を回復して官渡第二戦をやろうとしていたのかもしれない。

493 :
>>492
武帝紀では官渡の後にひっそりと「冀州諸郡多舉城邑降者」とあって、
冀州の諸郡の城が多く曹操に投降したことがわかる。
これが即ち袁紹が平定した反乱である、とはどこにも書かれてないが、
「袁紹が平定した反乱は反乱ではなく、離反して曹操についた諸郡のこと」
と解釈するのが妥当では?と思う。

494 :
>>493
袁紹伝で「冀州城邑多叛 紹複?定之」
となってるから袁紹が冀州の反乱を鎮圧してるし、曹操に降ったとは書かれていない。
勿論、日和見だから勝った側である曹操を支持して反乱したのだろうけど
肝心の曹操が「紹之未破也」こんなことを言って
反乱を利用するとか追撃のために河を渡ることをせずに劉備に矛先を向けたわけで
反乱鎮圧は曹操vs袁紹とは違うと思ったんだけど
ここらへんは言葉の違いかもしれないからこのくらいにしておくよ。


495 :
>>494
曹操が袁紹に大勝利を収めたことは三国志武帝紀のハイライトと言ってもいいシーン。
その後、曹操は実際は何度も袁紹のみならずその子供達にまで侵攻を阻止されて、
譚と尚が喧嘩するまでほっとくしかできなかった。
官渡は曹操の神格化ポイントだし、折角降った冀州諸城がまた袁紹に攻略されたとなると、
格好が付かないので袁紹は反乱者を鎮圧した、という形に捻じ曲がったのだと俺は考えてる。
反乱を利用してと言うけれど、袁紹は間違いなく遠征軍(とその兵糧)を失ってるのだから、
近場の冀州はともかく、他の州へはしばらく動けない。
・官渡は曹操の大勝利とすることで曹操神話を構築する。
・袁紹から曹操に冀州の城が多数降伏したが、袁紹死後の国境線は黄河を挟んで北と南。
つまり袁家と曹操間の国境は官渡の戦い開始時よりも更に南下している。
開始前、曹操は黎陽を確保していたが、袁紹死後、黎陽には何故か袁譚がいる。
・袁紹が平定したのは国境線の南下から考えると曹操に離反した諸城の可能性が高い。
総合すると曹操は自分に袁紹から降って来た冀州の諸城を見捨てて、汝南の確保に走った。
だが曹操を事実上の皇帝とする三国志では投降者を見捨てるダメなところは覆い隠され、
それぞれが「曹操に降った城があった」「袁紹は反乱を鎮圧した」という分離した記述になった。
官渡の戦いは初期の曹操打倒という目標こそ果たせなかったものの、国境は南下し、
曹操は袁紹にじわじわと押されていた、ということが言えると思う。
ただし袁紹も官渡で失った張コウ率いる重装歩兵の喪失は痛手だったし兵糧も足りなくなってるので、
曹操領へ侵攻して全土制圧とかはできないため決め手に欠くという煮え切らない状況。

496 :
>>495
年跨いでしまったけど
官渡の戦いを200年のそれの範囲でしか捉えてないからそちらが言ってることが
半分くらいしか理解出来てなかったと思う
前哨戦前夜、曹操が攻撃を仕掛ける側に立っていた頃からの動きで見ると
河北岸に勢力圏を伸ばしつつギョウを脅かそうかとしていた曹操
ここがスタートラインで
官渡の戦いで曹操が「大勝利」したにも関わらず
その直後の勢力圏は河北岸が袁紹勢力に塗り変わってしまっている上
倉亭のような河南岸すら袁紹の支配下と言える状態になって
大局的に見れば曹操は敗北したことになってしまっている
その後倉亭を取り返すことで曹操としては官渡前のスタートラインに戻そうとしているが
冀州の投降に応えることが出来ず、相当期間曹操は河を渡ることに成功せず
という曹操にとって不都合な現実をなるべく隠すための苦肉の策が分離した記述と理解したらいいのだろうか
確かにあれほど華々しく劇的な勝利であるはずの官渡の戦いの結果が
「袁紹の領土を獲得出来ました」どころか「元の領土をちょっと切り取られました」では格好が付かない
無意識に「袁紹が官渡で曹操を打倒出来なかったのは大失敗」という感覚があったけど
実際は戦前の曹操の自信から見ればどっちに転んでもおかしくなかった官渡を
曹操が討てて当たり前、と思わせるほど自分のペースに持ち込んだ袁紹は凄いよな
ってこんなに袁紹持ち上げて大丈夫か不安だわw

497 :
「曹操神話」を構築するためには最大の敵対者である「袁紹に勝利した」というハクが必要だしね。
官渡をその「勝利」と位置付けて最大限に事実だが不正確な記述を積み重ねることで、
精々が痛み分けもしくは袁紹の戦術的敗北・戦略的勝利くらいの状況だったものを、
袁紹の戦術的大敗・戦略的崩壊にまで演出してしまう史家の曲筆は恐ろしいもんだ。

498 :
曹操側としては
「領土は少し削られたが、張コウ、高覧といった将とその兵、袁紹の奔走の友であった許攸を手に入れ
更に沮授や淳于瓊(顔良・文醜)といった袁紹の腹心を削ぐことで袁紹勢力の弱体化に成功したから
プラスマイナスでいえば十分プラスだ」
と言えなくもない
実際後がないほど押し込まれた状況を振り返ればめざましすぎる曹操の活躍といえる
しかしそれを大勢に納得させるためにはなるべく早く袁紹領に攻め込んで勝利をあげなければ
「袁紹を弱体とするのに十分な打撃が与えられていないのではないか」という疑いを持たれる
そう考えると仕方ないとはいえ袁紹の死は最悪の時期だな
曹操側が「官渡で負けたから袁紹勢力は弱体化した」と言える範囲内で死んでしまった
息子たちが相争いながら8年も粘ったって事実も知られてない
あとどうでもいいけど「曹操はチビ」って最近あっちこっちで見聞きするけど
「女よりちょっと高いくらい」って貶されてる袁紹も十分チビだよな
曹操も横に袁紹がいてくれればコンプレックス持たなくてすんで良かったんじゃないかw

499 :
後継者を定められずに死んだのがマイナスとかよく言われてるが、仮に曹操より袁紹が
10歳年上だったとしても、曹操でいうなら潼関あたりで病死するくらいの年齢でしかない
だよな>袁紹
曹操がそんな時期にいきなり死んできっちり後継者が定まるかといったら、怪しいもんだろ。
最悪の時期に死んだから、難癖つけられて貶められてるのが不憫でならない。
死期くらい見越していなければとか、とんでもない事言ってる本を読んだことあるが、健康
診断や検査があるわけでもないのに、無理に決まってんだろとw
現代でさえ急死なんてよくあることだし、寿命なんぞ誰にも分からんわ。

500 :
潼関のあたりだと、まだ曹丕と曹植が後継者の座を争ってる段階ではなかっただろうか
曹操があそこで死んでたら魏でも内紛が起きただろうな
そもそも、後継者が十分に執政出来るまで親が生きてないと
後継者が1人だったとしても臣下が放っておかないと思う
魏も結局、曹丕と曹叡が相次いで早世したことが弱体化を招いた要因だ
死期を見越せっていうのも酷いな
それに死期が5年前くらいに悟れるならともかく
半年前くらいじゃ悟っても死に向けて布石が打ち切れないで結局同じだろう

501 :
どんな発言・行動をしてもまず欠点に繋げられるのが負け組の宿命だからな。
結果が分かっているぶん、安心して貶められるというわけだ。
>>499のいう死期がどうたらとかいう暴論も袁紹だから何言ってもいいみたいな調子
で書いたんだろうよ。

502 :
今ちょっと確かめてみたら、曹操の後継者問題に一応の決着がついたのが
曹丕が太子になった217年。
その後も曹丕は曹操の命で曹仁救援に向かう曹植を酔い潰して手柄を立てる機会を潰すとかやってるし
決して後継者問題は完全解決していない。
袁紹を本初元年146年生まれ、202年死亡とすると享年56歳。
曹操は155年生まれだから56歳の時は211年(つまり潼関の年)でまだ後継者決めてるどころじゃない。
曹操が211年に死んでたら、それこそ曹丕派と曹植派の争いは表面化してどうなってたか分からない。
つまり曹操が後継者問題を起こさなかったのは、単純に長生きしたからだろう。
それなのに袁紹のみに「後継者を決めなかった」と非難するのはアンフェアだな。

503 :
孫権なんて長生きして後継者も決めてたのに、自分から混乱招くようなことしたからな。
袁紹よりよっぽど叩かれるべきだろうに、自国の歴史書があったのと演義のおかげで
世間一般での評価はまあまあいいからね。
晩年の暗愚さを指摘してても、若い時は名君だったのにとかフォローが入るから
袁紹ほど欠点を際立たせた表現にはならないこと多いし。

504 :
張コウの裏切りについて
よく言われてるのは郭図の讒言と、烏巣救援を却下された上で官渡攻略を命じられたからという理由。
しかし讒言については張コウ伝にあるだけで内容も不明、
烏巣救援は張コウの主張全体は認められなかったが、歩兵部隊では間に合わないからという
尤もな理由で軽騎兵は送られている。
それにもし自分の意見と違う行動を命じられたから裏切ったというのであれば部下として失格ではないか。
「歩兵を烏巣に向かわせる選択が正しかったことを証明するために官渡を攻撃しない」など
反抗期の中学生じゃあるまいし、そんな人物だったら将としてその後も活躍できるはずがない。
また官渡の状況としては烏巣が落ちた後も袁紹軍は崩れたわけでなく変わらず官渡の攻略を続けさせている。
兵糧は心もとなくなったが、攻撃をすぐやめて逃げないといけないほどではなかった。
張コウと高覧が裏切ったことで一気に総崩れになったわけで、すぐに裏切らなければならないほど
戦況が切羽詰まっていたとは思えない。
大して不利ではない状況でより立場の悪い曹操軍に寝返らざるを得ない事情、
上で議論されてたように、官渡が彼らの行為によってひっくり返った後も
袁紹の死さえなければ相変わらず曹操にとっては苦しい状況が続くにも関わらず
何故彼らは裏切ったんだろうか。

505 :
とりあえず思いついたのはこの2つ
曹操軍のど真ん中に孤立したと張コウが判断した
元々張コウは韓馥の引き立てで出世した男で
その恩人を儒教文化における最悪の死に方である自殺に追い込んだ袁紹を憎んでいた
常々一矢報いたいと考えており官渡での裏切りが最良と判断した
少なくとも張コウが裏切れば袁紹の短期決戦という目論見は完全に崩壊する
まあ、張コウが袁紹を恨んでいたという史的根拠は何一つ無いというか
韓馥の引き立てで出世した事と袁紹によって韓馥が自殺に追い遣られた事しか史実はないんで俺の妄想だがな

506 :
張?が献策を受け入れられないくらいで裏切るような奴なら、司馬懿の無茶な追撃命令
に大人しく従って死ぬ輩とも思えん。
本当に何で裏切ったんだろう?郭図の讒言ってのはかなり疑わしいし、よほどの事情
があったんだろうかね。

507 :
まだ情勢が流動的で裏切ったことによって勢力図そのものが書き換わる時期と
一つの裏切りは一つの戦争での勝敗でしかない時期では裏切りに対する価値観も変わるだろうさ

508 :
>>505
「孤立したと判断したから」でいいんじゃね?
目の前の城はなかなか落ちないし、烏巣も陥落してしまった。
いずれ全軍総崩れになるだろう。敵中にいる自分も危ない。
そう思ったら、不安になるだろうよ。

509 :
>>505,508
「孤立したと判断した」なら、なぜ退却しないで裏切るという選択肢を取ったのか気になってる。
于禁のように、地理的にも孤立し援軍も期待できない状態なら降伏するのも道理だけど
官渡の場合、後ろには士気が多少下がっているだろうとはいえ袁紹の本隊もいるし
烏巣が落ちた後も袁紹が官渡城攻撃続行を命じているところをみれば
少なくとも後方の状況はさして切迫していない。
「不利になりそうな雰囲気だから離反する」では張コウが本当に何も考えていないか士気が低すぎではないか。
張コウの兵が少なくなっていたとしても、袁紹に救援要請を出すことも出来ただろうに
彼は退却や救援要請をしたのだろうか?
そしてしたとすれば何故烏巣の救援でも手落ちのない袁紹が彼らが裏切る前に救う手立てを取らなかったのか。
張コウの個人的な復讐というのは、証拠はないに等しいけどそういう理由なら
曹操にあっさりと投降したように見える状況は納得できるなと思う。

510 :
>>509
戦場の霧って言葉が表すとおり、戦場では情報が錯綜してるからね。
判断しようにもまともな情報がなくて、焦って誤報を元におかしな判断をすることはよくある。
烏巣陥落の混乱の中で誤報が飛び交う中で、「退却は無理」と判断したんじゃないか?

511 :
>>510
それは最もなんだけど、張コウが真剣に退却と投降を天秤にかけた様子が
見られないから素直に頷けない。
張コウの名誉を考えたら投降せざるを得ない状態になっていた事を張コウ伝だけででも書いていいはずだし
張コウが投降せざるを得ないほど曹操軍が上手に張コウ軍を脅かしたという自覚があれば
それこそ大勝利の過程として書き残すのではないだろうか。
ところが張コウの裏切りについては
退却路を塞がれ投降せざるを得なかった状態だったとも
曹操軍が張コウ軍を打ち破り投降を促したとも書かずに
「郭図が讒言したから」とまるで元から投降するつもりだったように書かれている。
武帝紀では「淳于瓊が討たれたから」とこれも全くあっさりしている。
忠誠心をどこまで求めればいいかは色々だろうけれど
淳于瓊のように持ち場で捕縛されるまで戦ったり、沮授のように崩れて捕まるまで前線に留まったりした将にくらべ
張コウはまったく粘った形跡が見えない。
自分は「郭図の讒言」が実際にはなかったとしても全くのデタラメで書いているのではなく
張コウが普通なら考えられないほどあっさりと投降したか
(本人にその気がなくても袁紹を裏切ったととられるくらいに)
理由は残せないにしても彼なりの袁紹を裏切る理由というのがあって
それを讒言のせいにしたのではないかと思うんだが。

512 :
張合β
張合α

513 :
>>511
「淳于瓊が討たれたから」でいいと思うけどな。
郭図と議論した時に「淳于瓊が捕らえられたら、我々もみな捕虜になってしまう」と言っているし。
淳于瓊が討たれたら全軍壊滅するという認識を持っていた張コウが、
実際に淳于瓊が討たれたから、袁紹軍の敗北を悟って投降って線でいいんじゃない?

514 :
>>513
うーん、確かに曹洪のおかげで官渡城が落ちず逆に淳于瓊が倒されて張コウが動揺したんだろうけど
兵糧が急に0になった訳でもないだろうに「淳于瓊がやられたから投降しよう」というのも
見極めが早い言えばいいのか忠誠心に乏しいと言えばいいのか。
曹洪ほど粘れというのも無理な話なんだろうけど。
それに、烏巣が落ちた後も袁紹は変わらず官渡を攻め落とそうとしていたようだけど
それほど戦場が離れていないのに、何故張コウと決定的に認識がずれてしまったのだろう。
張コウの危機感が分かるような戦況であれば、彼らが崩れれば自分の身が危ないほどの場所にいる袁紹は
救援を送るなり退却を指示するなりするくらい、そこまでの袁紹の決断から言えば出来たと思うんだが。
実際総崩れになったあとほぼ単騎で逃げるようなはめになったわけだし。

515 :
>>514
実際に曹洪に苦戦している張コウと、本営にいる袁紹じゃ認識は違うでしょ?
それに官渡の張コウに敗報が届いてるなら、本営だって届いているし、
テンヤワンヤで冷静かつ迅速な対処は難しいんじゃない?
要は張コウも袁紹もあまりの急展開にいっぱいいっぱいだったと。

516 :
>>515
一般人ならともかく、刻々と変化する戦況に対応すべき将(大将も含め)ならば
淳于瓊が討たれたから、官渡が落ちないからといってみすみす混乱するのは能力に問題がないか?
もともと淳于瓊の重要性は張コウも袁紹も認識していることであり
張コウ伝を信じれば烏巣に救援を送る段階で「もしも曹操が淳于瓊を破ったら」と予想までしているのに
「もし烏巣が落ちたらどう行動するか」も考えずに攻撃を続け、敗報に触れて混乱して投降
なんていうことなら張コウがお粗末すぎてまともな将だったのかも疑いたくなる。
それなら張コウ伝で彼が言ったとおり「淳于瓊が討たれたら捕まる(投降する)」という
離反する考えを半分持ちつつ官渡城の攻略に当たっていたと考えたほうがまだ将として納得できる。
もしアクシデントだとするなら、退却するつもりだったのに兵が動揺のあまり我先に曹操側に離反を始めるばかりか
「投降してくれないなら首を貰って行く」という類の脅しを側近にされて個人で退却するわけにもいかず
仕方なく投降したのかもしれないけれど
それほど士気の低い者しか練兵できていない張コウか、その兵を与えたのが袁紹であれば袁紹かの
見通しの甘さが問題になるし(淳于瓊が攻撃されたことは分かった後の出兵なのでなおさら)
誰も悪くないには出来そうにない。


517 :
>>516
つまりはっきりと「誰が悪かった」と書けない人物が悪かったと言うことだ
袁紹が悪かったならそう書けばいい、もう滅んでいるんだし
しかし魏で栄達した張コウが悪かったとは書きづらい
それゆえに曖昧になっている

518 :
実は曹操に内通してて、郭図にすっぱ抜かれ(史書では讒言され)たんで
投降しました…なんて事はありえないか

519 :
なるほど、だから間に合うわけない歩兵部隊を援軍に行かせようとしたわけかw
まあ、真実は分かりっこないが、曖昧にしておきたい何かがあるのは間違いないな。

520 :
>>519
歩兵を援軍に行かせよう、じゃなくて
軽騎のみの援軍ではなく混成部隊の援軍出すべきという意見だな
軽騎のみってのは当座凌ぎとしてはそれしかないが
結局軽騎ですら間に合わない速度で烏巣が落ちてるので
張コウが落城速度まで完全に計算して「落ちてても普通に打ち破れる部隊を送るべき」
という判断したのかもしれないし

521 :
>>520
曹操の卓越した戦闘能力のせいで、軽騎兵すら背後に迫りながら間に合わなかったんだから
混成部隊が烏巣に着いた頃には
淳于瓊が死に、兵糧は焼かれ、曹操は引き上げているという状態で無駄足になっていると思う。
それに淳于瓊も健闘して、勝つか負けるかは紙一重の状態だったので
(側近が袁紹の援軍が迫っているから逃げようというくらいには)
軽騎兵が間に合っておれば曹操は引き上げざるを得なかった可能性が高いから
「落ちるから混成部隊を」はあまりに淳于瓊の能力を見くびっているか慎重論に過ぎる気がする。
袁紹も「烏巣が落ちたら」は考えただろうから(淳于瓊が攻撃さてたとき息子とも今後を話し合ってるし)
彼にとっては「万一烏巣が落ちても、当座の兵糧と兵で官渡を落とす」方針だったかもしれない。
淳于瓊の兵がいなくなるのは痛いけど、騎兵じゃ城攻めには役立たないし。
そう考えたら歩兵を率いている張コウこそがキーパーソンだし、彼も自覚があったとすれば
裏切るとしたらあの時点はベストタイミングなんだよな。

522 :
>>499-503
それはまあ病死なんだしせめて死の直前に文書に書いておけってことだろう。
劉表はグダりかけたけど病死の直前にしっかり劉jを指名したから、長子の劉gが追い出されたわけだし。
まあ劉表のそれも劉j派の根回しがしっかりしていたのも背景にあるわけだが。
袁紹の場合両派の根回しが袁譚派不利ながら拮抗していたし、
文章で書いていたとしても、審配あたりの存在が不穏すぎるかな。

523 :
>>522
根回しという点では袁譚優位だったが審配が遺言捏造した、って流れじゃん
審配ブッ頃しておくしか手はなかったな

524 :
後継者指名については取り掛かってはいたものの中途半端で死んだような感じだな。
遺言捏造なんかが出てくる時点で根回しが十分出来てなかったんだろうし。
官渡前後で後継者の地固めをしようとしたんだろうけど寿命が来てしまったんじゃないか。
曹操でさえ、曹彰が曹操死後印綬がどこか聞いて不穏な雰囲気があったりしたから
立太子や文章に残せば即後継者が定まるっていうようなものじゃないんだろう。

525 :
固めようとした形跡ってどの辺に書かれてる?
よく言われる「袁尚以外を刺史にした」ってところだけなんじゃ。

526 :
今までも何度か後継者の議論見たけど
臣下がそれぞれどちらを後継者にしたいかはっきりしてる割に
袁紹の意思がどこにあったか、何をしようとしたかはっきりしたことはなかった気がする
沮授が長男に決めるように言った時も
まだ兄弟の資質を見るために競わせたいみたいなこと言ったらしいし
袁煕や袁買は後継者レースから外れてたことが分かるくらいで袁譚か袁尚かははっきりしない
まだ死なないと思ってたら死んだのか昏睡したきり死んだのか
虫の息で指名はしたものの握りつぶされたのかね?

527 :
複数の書に「指定しなかった」と明記されている以上、やっぱり指名されていなかった可能性が高いんじゃないだろうか。
よほど握り潰しがうまくいかないとこうはいかないが、両派閥ともお互いを監視していただろうし、
握りつぶされていたならそういう話が一節くらい紛れ込むはず。それこそ審配の遺言捏造が後漢書に書かれたみたいに。

528 :
>>527
複数の同時代の書籍に記載されたならともかく
どれかが先行史料として存在してる場合、
他史に採用されちゃってる可能性もあるので
クロスチェックがあんまり機能しない

529 :
さすがにそんなことを言ったらどんな書物も信用ならなくなるぞ。
現時点では、握り潰しも推測できるかなってだけで、
それ以上は史書の域から外れてしまうのでは。

530 :
ふと思うんだけど、麹義って実は反乱でも起こそうとしてたのかな。
麹義自身が命令を無視したり、残党が公孫瓚からの支援まで受けて抵抗したって話が出てるのがなんかきな臭い。
袁紹軍って主君すら主導権争いをするような物騒な軍団だし、
袁紹自身もそこまで地盤固めができてなさそうだから、大功がある麹義が取って変わることも充分できそうなんだよな。
麹義にはかつての主君だった韓馥をいきなり裏切った前科があるのも更に怪しい。
とはいえ裏切るならもっといいタイミングがありそうだから、やっぱ違うんだろうか。

531 :
袁紹派閥というといつも思うんだけど、
田豊、沮授、郭図、審配、許攸、逢紀の人間関係を
完璧に把握して暗誦できる(誰がどいつを憎んでるとか)
バリバリの袁紹オタっているの?
審配が回り全部敵視してた以外何回読んでも忘れる…

532 :
袁氏家譜だと袁尚の家系は続いてるけど袁譚や袁煕の子孫はいないのかな?

533 :
>>532
新唐書宰相世系表によれば袁煕の子孫が残っていたとされている

534 :
>>533情報ありがとう

535 :
あげ

536 :
袁氏家譜の系図見ると十一世袁尚の後は長男閔が継いでるけどそのあとずっと次男
ばっかり継いでるのは何故だろう
長男はついじゃいけないという家訓でもあったのかな?

537 :
袁氏家譜の系図kwsk

538 :
>>537自分は知恵袋で
魏文昭皇后、甄氏と袁熙の子に関して
からとんでみた
中国のサイトからだとほとんど繋がらない

539 :
袁紹
袁譚 袁煕 袁尚
田豊 郭図 逢紀 許攸
沮授 沮鵠
審配 審栄
辛評 辛毘 辛敞 辛明
麹義 顔良 文醜
張郃 高覧
淳于瓊 呂威曠 韓莒子 趙叡 眭元進
高幹 高柔
呂曠 呂翔
張 馬延
焦触 張南
郭援 牽招 韓猛 尹楷 蘇由 蒋奇 周昴 蒋義渠 王門 眭固 季雍
荀ェ 陳琳 王修 崔琰 田疇 田続 李孚 閻柔 盧植 陳震
丘力居 楼班 蹋頓
朱霊 董昭

540 :
曹操軍に比べて名将は案外少ないな

541 :
そりゃ最終的に曹操に負けて滅んだからな
資料が曹操軍側から見たものしかないのに
袁紹軍の将を名将に書くわけがない
おかげで対黒山賊や公孫サン戦でも?義くらいしか活躍した武将が分からない
顔良文醜も名声だけで実績が残ってないし

542 :
荀或 荀攸 郭嘉 趙雲
袁紹見限り組

543 :
演義だとどうか自信ないけど
正史なら趙雲と荀攸は袁紹に召されたこともなければ
「袁紹ではなく劉備や曹操に仕える」といったはっきりした意思表示もしてないから
見限ったとは言えないんじゃないか?

544 :
クンニ大好きでいっぱい×02奉仕していかせてくれる人。
挿入も自己中じゃなく最後まで優しくしてくれる人
平日休みの20代〜30代まで^-^

545 :
袁煕は甄氏とどんな夫婦生活してたんだろうな
パコったのかな

546 :
亭主元気で留守がいい

547 :
袁紹が華北を統一してたら配下達の評価もまた変わってくるんだろうな
顔良が張遼みたいなポジションにいたりして

548 :
袁紹の寿命がもうちょっと長ければ
曹操と再戦して評価が変わるということはあったと思う
官渡の敗戦が袁紹にとって大きな痛手なのは間違いないが、
自領土で戦争したわけじゃないから勢力が減じたわけではないし、求心力低下からの反乱も平らげてた
将の喪失は痛いけど、曹操が袁紹死後まで河を渡れなかったところを見ると
袁紹自体が脅威+将の力も回復できる範囲だったように思う
今は田豊と沮授以外は問題だらけみたいに書かれているけど
袁紹も配下も同じ失敗を繰り返すような無能じゃないから
再戦して、曹操を押し切れなくても優勢勝ちのように持って行けてから死んだら
そして息子達の問題をある程度でも解決出来る時間があれば、最終的に滅んでも
もうちょっとマシな扱いにはなったと思う
っていうか、息子の問題が解決してたら曹操の華北統一が怪しくなりそうだけど
決定的に兄弟が分裂するまで何回か押し返されてるし

549 :
結果的には敗者だけど、敗者には不思議な魅力があるもんだなぁ。このレベルとなれば尚更だw
炎症好きになってきたお!

550 :
今川義元に通じる魅力か

551 :
>>550
袁紹に失礼
今川義元は一回の敗戦で全てを失った
袁紹は官渡の敗戦後も曹操より大きな勢力を保ち、諸反乱を鎮圧するなどしている

552 :
袁紹と義元はいずれもそれぞれ曹操と信長という一代の英雄の飛躍を華々しく描くために
演義や講談の中で同じような役目を負わされているからな
名門で旧時代を象徴する敵役として新時代の英雄に倒される、そういう形として共通したものがある
物語は物語として面白いし、名前を知られるいい機会でもあるけど
その中から少しでも敗将やその勢力を
色眼鏡で見ずに掘り下げて知ろうとしてくれる人が増えるといいなあと思う

553 :
>>551
両者の実際の状況は相当違うから比較してもあまり意味は無いと思うし
全てを失った、というなら
氏真に一応は権力が委譲出来て
あの乱世で、大名としては無理だったけど高家として幕末まで血をつなぐことに成功した
義元、氏真親子のほうが
突然の戦死でもないのに権力を渡す息子を決めていなくて
息子達が揉めた挙句滅亡した袁紹とその息子達より優れているとも言えてしまう

554 :
袁術のことだけどここくらいでしか書けなさそうだからここで書く
袁術が勝手に部下に官職を与えまくったようによく言われるけど
むしろ袁紹のほうが勝手に官職与えてたんじゃないの?
袁紹はずっと献帝を否定しているのに対して
袁術は献帝を擁する李傕と同盟結んでいるし
まあ馬日磾の事件があるけど…

555 :
>>554
袁紹からすれば袁術が勝手だし、袁術からすれば袁紹が勝手

556 :
>>555
どっちも勝手
袁紹は劉虞を勝手に皇帝と見立てて官位ばら撒くし
袁術は馬日テイが節持ってることをいいことに官位ばら撒いた

557 :
あRほど。そもそも献帝の権限が正しいっていうのも、献帝を利用する曹操が後に大勢力になったから認められていることか
献帝こそ後漢の皇帝で正統っていう先入観持ってたけどそれじゃダメだな
ある程度の人臣を納得させられれば、それ自体が正当な権限ってことになるんだろうね
袁紹が後で献帝を欲しがったり、後に起こる鼎立もそういう背景がありそうだ
逆に失敗して認めてもらえなかったのが袁術の帝位即位なのかな

558 :
袁術と孫権どこで差がついた

559 :
袁術は反董卓の姿勢を示すときも、董卓暗殺後に袁紹、曹操陣営がピンチに陥っているときも
チャンスを活かすのにやや腰が重い気がする
策謀は結構上手いし、本拠地陥落したのに別の土地で速攻復活とかとんでもないところもあるんだけど
それに袁術にとって唯一無二のエース孫堅があんなにあっさり死んだのは大きな誤算だろう
だからその血と能力を継いでいる孫策も袁術側から見れば問題ない待遇をしてるんだけど
孫策側から見れば手柄と引き換えの報奨を反故にされたわけで、結局独立されてしまう
袁術自体はどうなんだと思うくらい戦下手なところがあるから
孫堅が死ななければ、もしくは孫策と心中する気でがっちり組んでおけば結末は変わったかも

560 :
袁術が俺の帝位あげると言ったら、それを受けて袁紹は袁譚を遣わせてるんだよな
しかも曹操がそれに対して劉備と朱霊なんていう一流武将を送り込んで阻止させている
意外と袁術の帝位って当時ではそれなりに正統性があった?
それとも単なる物資や兵力狙いだろうか

561 :
袁術は二袁の争いに負けて(主に曹操に、だが)、独立した群雄としての力はなくなったが
袁紹と組まれて二袁が1つになればその影響は大きい
袁紹との全面対決を目前に控えた曹操にとって
北で袁紹と雌雄を決している最中に、旧袁術領が袁術の調略で叛いたら最悪の二面戦になる
全力で合流を阻止しようとするのは当然
それから、袁紹の動きとして袁術を救援しようとしたのは事実だが
帝位を受けることについては「内心」の動きとしてしか書かれておらず「表明」してない
袁紹とすれば、曹操を倒して献帝を手に入れようと動き始めた時期に
わざわざ正統性でも影響力でも数段落ちる袁術の帝位を欲しがる必要もないと思う


562 :
曹操は不穏勢力叩き潰しまわっていたけどその一環か
「内心」と「表明」の違いなどとても参考になります
そういえば袁紹が劉虞の子劉和をやたら援助していたけど
劉和擁立を狙っていた線はあるんだろうか
献帝を欲しがったのはその劉和が死んだからって思ったんだけど
でもやっぱり劉和は、袁紹に従う一武将に過ぎないように見える
劉虞が亡くなってからの袁紹は、皇帝擁立について諦めたんだろうか

563 :
劉虞には帝位こそ蹴られたものの、関係が破綻したわけじゃないし
公孫サンと対決している袁紹にとって
「公孫サンに殺された、徳も血筋も高い劉虞の息子」を援助することで自分の正当性を主張できる
公孫サンは劉虞を殺したことで天下の信望を失っているわけだし、利用しない手はない
帝位につけたい気持ちがなかったかは分からないけど、帝位目当てじゃなくとも援助する理由は十分にある
袁紹が献帝を積極的に手に入れようとしなかった理由は
「一度劉虞を立てようとして失敗したから(次は自力で皇帝を名乗ろうとした)」とか
「董卓の立てた献帝を認めたくなかったから」
と言われてるのを何度か目にして、そういう面もあるかもしれないけれど
曹操が献帝を手に入れるまでの間
袁紹も公孫サンと滅ぶか滅ぼすかの戦いをしていたわけで
黄河を挟んだ先にいる献帝を、
旧董卓の残党から取り上げるために軍事力も使うことも想定して
手に入れる行動を起こすには余裕(とそれを行うだけの信頼のおける部下)がなかったから
態度がはっきりしなかったんじゃないかとも思う
まあ、結局膝下に近い位置にいた曹操が楊奉騙して労せずゲットだから
結果からみれば無茶してでも部下に河を渡らせて献帝確保を狙う手もあったんじゃないの、となるが
袁紹の行ったことを見ていたら、至極真っ当な手というか最善手に近い手をほぼ打ち続けているのに
最終的な結果がいつも袁紹を裏切っていると思う
宦官虐殺の時からすでに、詰めが甘いだけでない「天命がついてない」感じがすごくする

564 :
>>563
ないだろ
曹操は南から洛陽目指せる位置にいるが袁紹が西に進んでくと
敵対勢力の支配領域ど真ん中突っ切るハメに陥って成功確率なんて全くと言っていい程望めない

565 :
>>564
普通に考えてそう思ってるよ
だから袁紹が内心でいくら献帝を欲しがっても、官渡までは実行できる力がなかった
でも、臣下との話し合いの中で「出来るのにあえて献帝保護しなかった」とも読める
書かれ方になっているから
まだ同盟決裂してない曹操領通ってでも確保できるあてがあったのか
ただの机上の空論(もしくは長期的な見通しを話し合っただけ)なのか
これ言い始めたらキリがないけど、disるために会話が改ざんもしくは捏造されてるのか
あんまり自信がない

566 :
そもそも献帝奉戴のメリット自体が、考え直すといまいちよくわからない
曹操が大勢力になったのって単に周囲の勢力を倒し、袁紹を倒したからだろ?
別に献帝がいたから大きくなれたわけじゃないはず
一方で袁紹臣下が話していたように、献帝や周囲の意向によって行動を阻害される可能性もあったんじゃないか
それに曹操は献帝を奉戴してむしろ、董承のクーデター未遂のような今まで無関係だった権力闘争に巻き込まれているし
孫権討伐や禅譲のあたりでは役立ったかもしれんが、少なくとも対袁紹戦ではそこまで献帝のメリットは大きくなかったように感じる
袁紹の命じた官職の正当性が若干薄れた程度じゃないのか。それも離反者がいたかわからない程度で実害は特に大きくない

567 :
連レスで悪いけど曹操にとってはメリットは大きそうだな
でも袁紹にとってはメリットはあんまり大きくないんじゃないか
情勢や勢力をあえて無視して同列と仮定し、
「奉戴しなかったから愚か」とするのは歴史書のトリックなのかなぁと思った

568 :
>>567
曹操が献帝奉戴する前の袁紹と曹操の法的な属性って反董卓連合で蜂起した反乱勢力のままだから
出来るなら何らかの正当性のある力の根拠を手に入れたいというのは事実だろう
奉戴しなかったから愚かというのは史書のレトリックだけど
当時最も奉戴をしたかったのは曹操と袁紹のチームではあると思う

569 :
曹操が献帝を奉戴したことで
周辺に与えたインパクトはプラスにしろマイナスにしろ非常に大きいと思う
それまでは献帝をまともに政治的利用出来ていない旧董卓勢を良いことに
献帝の威光だけを利用して官位を実質自称したり、日和見決め込んでた諸勢力に
「正統な官位の為に曹操の元に臣従するか」「曹操を認めず逆賊となるか」
二択を迫る状況を作った
ただ、官渡でも戦況次第で官軍のはずの曹操から袁紹に乗り換えた地方勢力がかなりの数いることからも
正統性は重要ではあるが、強い勢力に日和るのを止められるほどの力はない
だから袁紹は官渡でいちばんの対抗勢力である曹操を倒し、満を持して献帝を奉戴する腹積もりだったのかもしれない
だから献帝がいようといまいと戦況が変わるほどにはメリットもデメリットもなかったと思う
でも、勝てなかったから「やっぱり逆賊だった、献帝奉戴出来たのにしなかったからだ」と言われるんじゃないかな

570 :
でも二択に乗った勢力ってあるのかな。張楊を殺した楊醜とか?
張繍は曹操に滅ぼされる前に降っただけに見えるし。あのままだと後の張楊の二の舞だっただろうし
袁術が皇帝を名乗ったり、劉表が皇帝の儀式をしたりと群雄に与えたインパクトが見えるのは確かだけど、大勢力はそこまで影響受けてなさそう

571 :
大勢力って言っても、献帝奉戴以降曹操が袁紹戦を控えて注意すべき勢力は
袁術や劉表、張繍を除けば馬騰くらいじゃないの?
馬騰は献帝と一緒に曹操の元に来た鍾ヨウの説得で曹操に臣従してる
でも確かに呂布はイレギュラーすぎる動きをしたし
劉備は根無し草とはいえどちらとも言い難い立場で乗り切ってる
公孫サンについてはどういう態度だったかさえ分からないな
二択っていうのは大げさな表現すぎた、撤回するよ

572 :
ちょっと大袈裟過ぎるかなぁ、くらいのがスレは盛り上がる気がするなw
エンショウって天にとことんソッポ向かれてる気がする。

573 :
名門に生まれた運だけと語る人がいる一方で、
万策尽くしても報われず不運だと語る人がいる。評価の別れ方がおもしろいね
しかしそこらの袁紹評って、「○○って提言されて否定した。優柔不断だから。」
「優秀な人を左遷した。優柔不断だから。」って感じにかなり無茶してる場合があるよな
そもそも否定という意思を明確に表明しているのに。どの辺が不断なのか

574 :
>>573
優柔不断っていうのはどっちかというと太子を決めながら死に際に別の子を呼び出すような行為の方が当てはまるんじゃないかと思うな

575 :
ああ、なるほど確かにその場面では優柔不断だな
しかしそこを指して優柔不断と言っていたものが
伝達のうちに献言採用の部分とかいろんな場面でも「優柔不断」というイメージが先行して
後付けで「優柔不断だからこうした」と説明されているのはあるだろうと思う
例えば「持久戦論を退けた」って話なのに「優柔不断だから持久戦論を退けた」っていう意味不明な論理になっているのを見ることも多いもので

576 :
跡継ぎを決めずに死んだことに「優柔不断」と言われるのは当然仕方ないんだけど
三国志も後漢書も印象操作してるからな
そりゃ曹操の「打倒袁紹!」→逆に押し込まれる→「もう嫌、帰りたい」→臣下「死ぬ気で頑張れ!」
に結果として負けたんだから
かなりイメージダウンさせとかないと駄目だったのかもしれないけど
ホント曹操は弱音吐いても失望したりせずに支えてくれる部下がいて
無茶して死の危険を招いても身を挺して守ってくれる身内がいるんだから恵まれてるよ

577 :
でもその曹操だって身内の裏切り約束が山ほどあったという
身辺警護の徐他すら裏切る始末。許褚が感づくという運がなければ普通に死んでた可能性大
ただ重臣が軒並み必死に貢献してくれたのは大きいだろうね

578 :
袁紹は官渡戦でも勝手に官位ばらまいていたみたい
李通に征南将軍の印綬を届けたりしている。断られているが
これを見る限りやっぱ袁紹は曹操を討伐して、誰か(献帝、大穴で劉表か劉備)擁立して追認するのを狙っていたんだろうな
結局劉虞の頃からほとんど方針変えてないのね

579 :
官位ばら撒きはどの勢力もやってる
後漢の臣として、また長年染み付いている後漢の統治システムを借用して臣下や領土をコントロールしているということ
本物の皇帝の官位がより良いに決まってるけど
自分が皇帝を擁立していない限り、皇帝擁立勢力の下につくという形になるから
袁紹をはじめ、皇帝擁立勢力に負けないと思っている勢力は「本物の官位」は受け取る気がない
また群雄は実質独立勢力だけど、表向きはあくまで漢臣なんだから
皇帝の擁立者という実質上の権力者になるのと、勝手に皇帝を名乗ることの間には大きな差がある
袁紹のみならずどの群雄も、この差が分かっていたから皇帝を名乗らない
それと、官渡前に耿苞が袁紹に王朝交代を勧めて斬られるという事件が起こっている
もちろん「逆賊袁紹」を印象付けたい目的かもしれないけど
袁紹に皇帝を名乗りたい意図があって、それを耿苞が汲み取って言った可能性もある
本心ではあるが受け入れられそうもないから「余計なことを言うな」と斬ったとも取れる
あと、劉虞をたてようとしたのは、董卓政権を認めない立場から献帝を否定した上で
名ばかり盟主な上後漢の自称じゃない官位をもらっている袁術まで出てきた状態を打開する目的があったと思う
(失敗した上、公孫サンが董卓から官位もらって袁紹を攻撃しだして大ピンチになった)
官渡で献帝を取ろうとしたのは献帝の権威を認めた上で天下にリーチかけるためだから意味合いが違う

580 :
違った、官渡前に献帝擁立した曹操から官位受けてたな確か
官位名が何だったかちょっと今調べられないけど
曹操より官位下でブチ切れてたっけ
あの頃には献帝を認める立場になってたと思う

581 :
大尉だな。大将軍の曹操より下らしい
んで曹操は袁紹がこわいから自ら大将軍を譲って司空・車騎将軍になった
袁紹は使持節を貰って、同時に督幽青并領冀州牧にされてる

582 :
袁紹領を得た後の曹操の行動を見れば
袁紹の統治が本当に良かったのかちょっと疑問があるな
「使豪強擅恣,親戚兼併,下民貧弱,代出租賦,衒鬻家財,不足應命」
つまり「豪強は好き放題、親戚は兼併(土地財産などを奪う)させ、民は貧しく、租賦は肩代わりさせられ、家財を売っても足りなかった」と書かれている
更に曹操は徴税を一年延期している。まあ曹操側の出した令だから割引きも必要だろうけどね
もしかしたら袁紹の統治だけではなく、鄴での籠城のことも指しているかもしれん
豊かな都市だったはずなのに、曹操の水攻めで餓死者多数になっているし
審配軍による強引な接収や住民の窮状も容易に想像できる

583 :
>>582
?は袁紹死亡の前後に大飢饉が起こってるし袁紹の統治の善し悪しだけではないだろう

584 :
>>539
しかし一時期大勢力を誇っていたとは思えないくらい人材不足に感じるのは俺だけなのか?

585 :
記録が残ってないだけだ

586 :
それ何茂・王摩とか抜けてる人が結構いる

587 :
>>585
当時の曹操陣営とそれほど差を感じない
しかし、問題は官渡の前後で中軸がごっそり失われて
残ったのは讒言で同僚を追い落とそうとする佞臣ばかりで
幅を利かせている所だろう
仮に袁紹が長らえたとしても、陣容を整えるのは用意ではない
曹操の赤壁での敗北と大きく異なる点はそこ

588 :
官渡後に監軍になった孟岱のように、それなりに重要そうな人も数行だけの登場だったりするからな
袁紹陣営は想像以上に史書から省かれているのかもしれない
まあ公孫瓚陣営よりは詳しいけど

589 :
袁譚 郭図 辛評 辛毘 王修
袁煕 焦触 張南
袁尚 逢紀 審配 審栄 高幹 郭援 牽招 呂曠 呂翔 馬延 張 尹楷 沮鵠 蘇由 李孚
>>539から兄弟ごとの配下を抜き出してみたけど、こうして見ると袁尚配下がぶっちぎりで多いな

590 :
袁紹は炎症になって炎上したんだろ?
そうなる前に誰か援助しろよな。

591 :
袁紹って上世代はもちろん同世代の親族の将がいないよな
曹操は同世代の親族やそれに近い将が夏侯惇・夏侯淵・曹仁・曹洪・曹純と優秀なのが五人も揃っているのに
袁紹はどちらかというと傍流で、しかも自身の勝手で董卓に一族を殺されたからだろうか
息子の対立も同世代の親族がいないからって直感で感じた
まあ呉では孫静がいたのに孫ロの反乱未遂とかあったしそうでもないか

592 :
>>591
そりゃたかだか四代前にやっと三公に就けた程度の歴史の浅い名門だからな
しかも本流でないとなればなお更のこと
漢創業の名臣の子孫であり、同じく漢創業の名臣であり、後に宰相位についた子孫の
養子の子となった曹操とは一族の質量が違うのも当然だろ

593 :
曹操の家が本当に古いのかわからんだろ。曹参の子孫というのも疑わしいし
曹操が本流かどうかもわからない
ただ曹操に同世代の親族の勇将が従ったのはこの時代でも珍しいことだと思う
他の群雄はだいたい同世代の親族武将なんて出てこないし
親族武将は息子やそれに近い世代ばかり

董卓の牛輔、劉表の劉磐、劉焉の劉範・劉誕、時代がやや違うが劉璋の劉循、劉備の劉封など
逆に同世代や同世代であろう人は董卓の董旻、公孫瓚の公孫越、張魯の張衛など
孫策孫権に従った孫河・孫賁・孫輔・呉景は世代がよくわからないので保留
ってあれ?思ったよりそんなに例は少なくないか
そもそも書かれていないだけで親族が従っていた例もあるんだろうな
自分で書いてなんだが本当に珍しいことなのか不安になってきた

594 :
更に調べたら袁紹の同族に袁紹の従弟で済陰太守の袁叙。袁紹の一族で魏郡太守の袁春卿って人のがいるのね
他に袁術が強かったころに揚州刺史にされたが殺された袁遺とかもいる
袁叙は袁術系かもしれんが、袁紹にもちゃんと息子系以外の同族はいたんだな

595 :
袁渙は袁一族の者じゃないの?

596 :
袁術から曹操に遣えた人で袁紹とはあんまり関係ないじゃん

597 :
>>595
陳国袁氏なので同祖ではあるが汝南袁氏の袁紹たちとは系統が違う

598 :
袁一族は袁隗の一族の滅亡でほとんど死んでるんだろうか

599 :
洛陽に一族総出で出仕してるならそうなんだろうな

600 :
略奪を好まない袁紹と、青州兵使って屯田政策やるまで略奪ヒャッハーな曹操。色々対照的だよなこの二人
しかし略奪をした呂布を追い出し、麹義と略奪でもめた一方で、曹操の略奪は黙認しているあたりやっぱ袁紹にとって曹操は重要な武将だったんだろうな
まあ曹操が手元にいたらいつものパターンで対立してたかもしれないけど

601 :
あっと麹義は略奪とか関係ないなごめんなさい

602 :
>>600
略奪の必要がないくらい肥沃の地を謀略で騙し取った袁紹
黄巾の乱で荒れ果てた地を鮑信らに迎えられて就任した曹操
確かに対照的だな

603 :
しかし豊かな南陽を持っていたのに略奪していたっぽい袁術って一体…

604 :
>>603
だから滅んだんだよ

605 :
袁紹が貧しい南の州を得ていたらどう統治したんだろう
放置の政策や冀州から補填する政策なら、評判も落ちていたのかも

606 :
>>603
孫堅の軍は結構規模でかいからそれを支えるためには税金だけじゃ足りなかったんだろ
そして南陽ってのは商業の中心地だったから、戦乱で景気悪くなると一気にダメになる

607 :
荀ケの嘘くさい袁紹配下評だけど、見直してみればその人の人間性ばかり叩いていて、肝心の個人の能力についてはあんまり触れていないんだな
せいぜい顔良文醜を、兵を率いるタマじゃないみたいに叩いたくらいか。「みんな有能で強い」みたいな孔融の言葉を完全には否定できていないね
無能ならさっさと「分不相応の無能だ」と言ってしまえばよかったのに、
そう言わないってことは逆に、荀ケが袁紹幕僚の能力は認めていると考えることもできそう
まあ人間性がダメなら能力があってもダメだけどさ

608 :
>>607
支離滅裂。
最後の一文が解ってるなら、孔融の言葉を完全に否定できてることに気づけ

609 :2012/10/26
ごめんなさいもうちょっとしっかりまとめます
孔融→荀ケでまとめまることにする
「袁紹は領土広いし兵士が強い」→「兵は多いけど法令が緩く整っていない」
「田豊と許攸には智計の士だ」→「田豊は剛直で上に逆らう、許攸は貪欲で収まらない」
「審配と逢紀が後ろのことをやってるんだから、許攸の家の人が法を犯せば、許攸はなにかしでかすだろう」
「審配と逢紀は尽忠の臣だ」→「審配は専だけど無謀、逢紀は果だけど自分のためだけ」
「顔良と文醜は三軍に冠する勇将だ」→「顔良と文醜は一夫の勇、一戦で捕らえられる」
うーん、なんかやっぱり個人的にはもやもやする文章だなぁ
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