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2012年1月1期戦国時代51: 龍造寺氏と、たまには鍋島氏を語るスレ (350)
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龍造寺氏と、たまには鍋島氏を語るスレ
- 1 :10/04/20 〜 最終レス :12/01/05
- 落ちたので立てました。
龍造寺氏について語りましょう。
- 2 :
- 九州で下克上らしい下克上を唯一やったのが龍造寺。
- 3 :
- 苗字がかっこいい。
- 4 :
- 肥前国佐嘉郡小津郷竜造寺村が発祥
この村に竜造寺って寺があったらしい。
- 5 :
- 竜造寺村って今だと何市に属しているの?
- 6 :
- 確か佐賀城の南で現在の地名は本庄町の末次辺りって聞いたけど。
- 7 :
- 隆信が大友と戦ったのは佐嘉城周辺なのになぜ今山合戦と云われるんだろか
今山なんか局地戦に過ぎないと思うんだけど
- 8 :
- >>7
鍋島信生の武功マンセーのため
- 9 :
- 大友の敵将を討取ったのは龍造寺四天王の一人だった成松信勝だよね
- 10 :
- テレ玉見れる人は今すぐ見てくれ。龍造寺隆信特集あいてるw
- 11 :
- なんかスレタイトルよくないな
前スレの方が分かり易くて良かったのに
【肥前】龍造寺氏を語るスレ【佐賀】
- 12 :
- 有馬に負けた割に
島原半島方面は
秀吉に
だいぶ
安堵されたよな
- 13 :
-
龍造寺>>>>龍造寺四天王>>>>>>>>>>>鍋島
- 14 :
- 大友が佐嘉を包囲した時、龍造寺勢は5千人と云われているけど必死の覚悟だったんだろうな
この当時は納富、福地、小河、鍋島、安住、江副、百武、副島、徳島、野田、高岸、石井、
鴨打、成松、小林、土肥、西村などが譜代の家臣だったらしい。
結果は今山合戦で龍造寺勢が勝利を得て大友氏と和睦した。
- 15 :
- >>4
徐福伝説でこの地で竜頭船を造ったのが地名由来じゃなかったか?
- 16 :
- >>15
もう少し詳しく教えてほしい
- 17 :
- >>16
スマン、覚え間違いだった。徐福伝説ではなく大和武尊伝説。戦前の小学校の国定教科書に記載されたそうだ。
記紀の川上尊討伐の話で、大和武尊は多布施川の川沿いの小津江川を遡る江中の島に龍艇を泊め、この島を龍造島と名付けた。
(天皇の乗船する船首には龍の頭の彫刻があり大和武尊も天皇の代理として許されてた)それが現在の佐賀城付近
西に上陸して仮の御殿を建てた地が本所(佐賀市本庄)。龍艇を留めた場所が堀江大明神付近。
小舟に乗り換え上流に進み上陸した場所には蠣殻が沢山あり踏み去られた場所がカキフサ(鍋島町蠣久)
川上尊が親族を集め宴会の際に女装した大和武尊が刺そうとした時、「待て!」と叫んだ場所が(大和町真手)
その後、地元の人達が建福寺に川上尊を祀った
討伐後、大和武尊は南下し森で休憩をとり、15才だった記念にこの場所を十五と(嘉瀬町十五)
残党討伐は弟彦が行ったがその陣屋があった場所が(小城町彦島)
弟彦を川上に乙の明神として崇めたが後に淀姫神社を建てる時、峰の頂上に移した
- 18 :
- >>17
サンクス
「栄の国」の云われ程度の知識しかない。
- 19 :
- その後、日本武尊の供養として行基が開山したのが龍造寺。以前は佐賀西高付近にあったが、
龍造寺八幡宮と共に移転したのが高寺(正式名称が龍造寺)
- 20 :
- 全盛期の龍造寺(お寺ね)はでかかったのかな?
- 21 :
- 高寺に常陸筑波山の龍造寺の寺僧が来て住んだことから起こったものであると
いう説もあるらしいね
- 22 :
- 龍造寺八幡宮はもともと村中城内にあったが鍋島が佐賀城として拡張した時に
現在の場所へ移転してる
- 23 :
- いずれにしても龍造寺氏が表舞台に出てきたのは家兼の時代からだろ。
- 24 :
- 隆信が「残虐非道」と云われているがこれは間違ってる。
よく云われるのが、恩義を忘れて蒲地鎮並を騙し打ちにしたとか、
赤星統家の子供を磔にしたなどだが下克上の時代としては当り前の事と思う。
懲罰された武将
馬場頼周 少弐冬尚と計り龍造寺一族(6名)を害した張本人
土橋栄益 鑑兼を推して少弐氏へ内応した(19城将に囲まれ隆信筑後へ逃亡)
小田鎮光 隆信の娘と婚姻したが今山合戦で大友に味方した
高木鑑房 少弐氏武将として最後まで抵抗した
蒲地鎮並 隆信の娘と婚姻したがその後も島津へ内通した
赤星統家 再々の佐賀城呼出しに理由をつけて応じない。
隆信は戦った相手でも降伏した者は許すが、裏切り行為は徹底的に根絶やしにする考えだったんだろ。
しかし他の戦国大名みたいに親兄弟を害するような行為は一切していないし
一時少弐方へ内応した叔父鑑兼(家晴の父)さえも許して水ヶ江龍造寺家を相続させている。
- 25 :
- 龍造寺氏の居城「村中城」遺構見つかる。
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1635836.article.html
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1636781.article.html
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/172051
これを機に龍造寺氏を再認識してほしいな。
- 26 :
- 村中城は要害というより内政の拠点の意味合いが濃かった?
- 27 :
- >>26
当時の平城なんて犬夜叉に出てくるような屋敷を武装化した程度でしょ
- 28 :
- 当時の平城でもそれなりに攻めにくい城はなかったのかな?
- 29 :
- 「佐嘉龍造寺の城、四方の総構を築き、牛島敵繰の土手の松を植う。其役成富甲斐守なり」
天正4年に補強したらしいけど、これによると城外に砦を作ってみたいだね。
- 30 :
- 出丸みたいなもんかな。
- 31 :
- >>12
筑後を取られたからかわりに島原半島方面をもらった
>>26
当時どこが歩けるか地元民しかわからない深田、湿地に囲まれてたら、十分
要害だと思う。
- 32 :
- 実際に城一つを攻め落とすのって大変だったろね。
城に近づくまでに地の利を生かした城方の伏兵がどこから攻撃して来るか不安だよね。
それに守る側は決死の覚悟だろうし、攻める側も相当の犠牲の覚悟が必要だったと思うな。
- 33 :
- 籠城が必ずしも決死の覚悟だったとは限らんよ。全員死ぬまで戦う籠城なんて
そんなになかったんだから。例えば大友が佐嘉を囲んだときも、大軍に慢心し
てただけじゃなくてそのうち降伏してくるはず、っていう油断もあっただろう。
- 34 :
- 大友が佐嘉城を囲ったのが3月で今山決戦が8月だから6ヶ月間睨み合っていたんだね。
それまでに巨勢あたりで小競り合いはやってたらしいけど。
- 35 :
- 今山合戦に決戦なんて表現は不相応では?
- 36 :
- まぁ状況は依然として暗いもんだったからね。
- 37 :
- 確かに決戦と云ったのは間違いだった。
今山で戦ったのは龍造寺も大友もごく一部の軍勢だった訳だからね。
- 38 :
- われらの広辞苑さんによれば、「勝敗を決める戦い」らしいから、
認識次第だな。
軍勢の一部しか戦ってないから決戦とはいえないってことはない。
今山の戦いが勝敗の決め手になったと考えるなら決戦と言えるし、
今山の後も包囲は続いて結局戦前と同じ龍造寺の大友への従属で終
わったという新説(?)に従うなら決戦と言うのはどうかと思う。
- 39 :
- 今山合戦以来、大友は佐嘉の龍造寺に手も足も出せなかったのは事実。
宗麟から隆信に対して度々書状が届いていたが適当にあしらい領地拡大を図っている。
隆信は宗麟と和睦したのは元亀元年10月だがすぐさま大友に加勢した肥前の豪族達の
掃討作戦に出て東肥前19城将は神代、横岳氏を除いて1年で平定したし、抵抗してた神代、
横岳氏さえ数年後には降伏してる。
その間宗麟がやったことは横岳氏に武器、ひょう量を援助したくらいであった。
- 40 :
- ひょう量
- 41 :
- !
- 42 :
- 田代まさしさんが龍造寺の末裔というのは本当の話?佐賀のどの辺の出身?
- 43 :
- 田代ってんなら田代出身なんだろ
- 44 :
- 隆信は今山後に宗麟に降伏したと数年前の佐賀新聞に載ってたよ
普通に考えたらそうだよな
- 45 :
- 普通に考えて偉大なる宗麟公が隆信を降伏させたは当たり前だよね
1573年までには西肥前の隆信を虐めていた諸将は偉大なる宗麟公の庇護下にいる隆信に伏しているし、同じく隆信を虐めた北肥前にも隆信は何度も攻撃加えてる
1574年には偉大なる宗麟公の庇護下にいる隆信は北肥前も平定したけど、偉大なる宗麟公の名を騙る不届き者が隆信追討令を発しても筑後諸将は当然の如く誰も動かなかったし
1575年には偉大なる宗麟公の庇護下にいる隆信は南肥前に執拗に攻撃を加えているし、筑後諸将も偉大なる宗麟公の庇護下にいる隆信の傘下に治まりつつあったし
1576年には偉大なる宗麟公の庇護下にいる隆信が肥前・筑後諸将の過半をその傘下に組み込んだしね
偉大なる宗麟公の武威は西海に轟きまくりだよね
- 46 :
- 鉄砲の数は
大友 > 龍造寺
ではなかったか?
- 47 :
- 龍造寺の鉄砲は8000丁って噂だが
大友は更に上をいくのか?
しかも耳川の段階で既にフランキ砲もあるし
硝石の関係で鉄砲のフル運用は出来ないにしても凄くないか?
だって秀吉の九州征伐時でも10000丁って話だし
九州連合軍とか作ってれば天下統一出来そうだ。
- 48 :
- 今山のあと、降伏までどれくらい期間あったっけ?
>>47
貿易港へのアクセスを比べれば、大友の方(府内、博多)が多く持ってても
おかしくはないと思う。
- 49 :
- >>48
今山合戦が8月19日夜半より20日早朝で、
午後には宗麟に加担した小田鎮光の多久城を落している。
和睦交渉は9月下旬より始まり10月1日成立、
同月3日に高良山の宗麟は豊後へ引き揚げている。
- 50 :
- 隆信は何でキリシタンを庇護しなかったんだ?
九州にいてキリシタン弾圧するとかアホだろ
それでどうやって鉄砲とか手に入れたんだ?
- 51 :
- 坊さんあがりだから、まあしょうがないかと。
苗字も龍造寺だし。
- 52 :
- 苗字は関係ないんじゃないかなあ
- 53 :
- 宗麟は佐嘉城攻めを2回行なっている
1回目は永禄12(1569)年
隆信は佐嘉城奪還のち周辺、東肥前の反隆信派を平定して少弐氏が滅亡すると
こんどは西肥前へと勢力を拡大していった。
こうした動きに肥前守護(名目上だが)の宗麟が軍勢を繰り出し佐嘉城攻めを開始した。
その為それまで隆信に従属していた肥前の諸将までが宗麟に味方した為に人質を出し
無条件降伏している。
一方宗麟の方も和議を急いでいたらしいが、この頃筑前へ毛利勢が攻入っている。
2回目が元亀元(1570)年
毛利が尼子との合戦で中国へ軍勢を退いたので再度佐嘉城攻めを開始した。
そして今山合戦だが、隆信の勝利で宗麟に加勢した軍勢は全て地元へ逃げ帰っている。
残ったのは宗麟の直属軍勢のみとなった訳だが、隆信の方から和議の申し出があり
宗麟も喜んだことだろう。
- 54 :
- 田代て地区は市内にあるの?
- 55 :
- 龍造寺と鍋島は意図的に親類になってるてあまり知られてないのかな?
- 56 :
- 今山の前後で戸次鑑連と戦ったんだっけ?
- 57 :
- >>56
前哨戦として4月23日に戸次鑑連と隆信が正面衝突した。
隆信勢は先陣が信昌(直茂)、小川信友、第2陣が納富信景、殿軍が自ら隆信で総勢1500人
場所は鑑連勢(2000人)が布陣してた巨勢から若宮あたりと云う。
状況を云えば、先陣が攻め口へ突入して優位に進めていたが、突然に鑑連本隊(1000人)が
隆信の本隊(500人)へ突入してきた。信昌は本陣の隆信危急の報を受け、直ちに救援に向い
この時信昌と鑑連が直接対決を演じ、双方引き分けとなったが鑑連の作戦勝ちと云えるだろう。
鑑連は足が悪く六尺四角の手興に乗っていたらしい。
- 58 :
- >>50
隆信が敵とする大名(大友・有馬・大村氏など)がたまたまキリシタンであって
直接イエズス会は弾圧してないと思うけど。
大村純忠を平定した時に、隆信に対して家臣が大村領のキリシタンを排除するように
進言したが隆信は「今しばらくは、キリシタンたちに対して、さもない風を装い、
伴天連たちにも表向きには鄭重に対処せよ」と云ったとイエズス会の記録にある。
鉄砲の入手はマカオから日本に来るポルトガルの定航船で、その為にも表立って
キリシタン弾圧はしなかっただろね。
- 59 :
- >>54
あるよ。
>>55
戦国時代の縁組って全て意図的だと思うけど。
- 60 :
- 今山合戦を大まかに現代佐賀の地理に当てはめて考えると。
・大和―神埼―諸富―川副(ほぼ水軍)のラインで大友が佐賀を囲う
・大和―小城のラインで肥前国人衆が佐賀を囲う
・大友筑前衆は三瀬を背に嘉瀬川の東川上に着陣(大和―神埼)
・大友豊後衆は犬童川を前面に着陣(神埼―諸富)
・筑後国人衆は筑後川下流域に分散して着陣(諸富―川副)
・肥前国人衆は嘉瀬川を前面に出して嘉瀬川の東側に着陣(大和―小城)
・大友豊後衆の備はかなり分厚く最前面が巨勢と境原の中間ぐらい? 最後方の総大将宗麟は久留米高良山に着陣
・戦域は大まかに嘉瀬川―城原川間の佐賀平野
・一番の係争地は一番突き出た部分の巨勢川一帯から、諸富―川副・筑後川最下流域
・大友の主戦は筑前衆か? 佐賀若宮辺りまで攻勢をかけたり、一部が豊後衆の前面(巨勢辺りか?)に陣を移したりと大規模に展開している
・筑後衆は包囲線や兵站線の維持確保担当? 水軍衆の動員で撃ち合いもしていて、佐賀側との交戦も多い
・豊後衆は数による前線の押し上げ担当か?
・肥前衆はかなり遠巻きに佐賀を囲って戦闘にはあまり参加せず
・そうして1570年4月〜8月まで競り合いが続くが決着つかず
8月20日に大友側は(大和―小城)嘉瀬川の戦線、肥前衆も川越えさせて前面に押し出し、総攻撃を掛けようとするも失敗(鍋島によると大和今山に派遣された親貞が討ち取られたため)。
そうして隆信が小城方面に攻勢を掛けた結果、肥前衆が撤退し嘉瀬川一帯(大和―小城)の包囲線が崩壊。
これをみた筑後衆も陣払いをし、結果として包囲が完全に解け、ほどなく講和。
と佐賀平野を南北に流れる幾つかの川で自然と戦線が構築され、今山合戦は川を挟んでの進退が争点で。
4ヶ月にも渡る臨戦状態での長期対陣により、大友側が攻勢限界点へ達したのが終結の主因だったんじゃないのかなと。
- 61 :
- >>57
サンクス
戸次勢がえらく少なく感じるけど、単独じゃそんなものだったの?
他の軍勢は応援に来なかったのかな
>>58
でも有馬や大友が龍造寺に鉄砲とか売らないようポルトガルに働きかけたり
しなかったのかしら
>>59
肥前衆は積極的じゃ無かったんだね
これは龍造寺に対する遠慮と捉えるべき?
大友への警戒?
- 62 :
- >それでどうやって鉄砲とか手に入れたんだ?
単純にイエズス会が火縄銃関係の流通を握れてなかっただけだと思うよ。
種子島に持ち込んだのだってイエズス会と関わってる人とは限らない。いわゆ
る冒険商人たちにとっては、仮にイエズス会が銃や火薬の供給を禁じる相手が
いたら、絶好の売り先になる。
本願寺だって銃で有名じゃない。銃そのものは国内生産地で賄えたとしても、
火薬は明らかに海外からの輸入でしょう?
フロイス日本史を信じるなら、龍造寺家には戦術を知ってる西洋人が加担して
た可能性まで妄想したくなるね。
- 63 :
- >>57
あれ?俺が持ってる郷土史には、
隆信本隊は居城の大手、高尾口に出陣。鍋島直茂、信景が先陣として大友軍の先陣、田尻鑑種と交戦。
この時戸次鑑連(2000)が隆信本隊に奇襲。直茂は納富に自分が救援に赴くから納富にこの場を死守してくれと言ったが
倉町信吉は直茂に「今、急に軍を分けると後陣にいる味方の軍勢は先手の兵が敗れたと疑うだろう。
このまま一同で鬨の声を上げ切り込むべき」と進言、
直茂も之に賛同、総勢一斉に進撃し、この奇智に戸次鐘連は家臣に助けられ敗走と書いてあるけどね
- 64 :
- 典拠となった書名は明示したほうがいいのでは。
論拠が確認できたほうがいいし。
いちいち書名確認するのもめんどうかな。
- 65 :
- 龍造寺はなんで化け猫が取り沙汰される訳?龍造寺と鍋島家は親類で続いてるのに?
- 66 :
- 傍流が本家を乗っ取ればそりゃ不穏でしょ。
- 67 :
- 次男が家を継いだら長男の息子が恨む可能性は無いか?
まして本家が残ってるのに分家が主流になったら?
隆信の曾孫は自分が龍造寺の正統な跡継ぎだと主張して騒いだ。
それを題材にした創作が流行った。
- 68 :
- >>64
いや〜おもいっきり地元の名前で〇〇史、多分所有してる処が地元の小学校と佐賀市立図書館だけのような本だから
地元で持ってるのはもう俺ぐらいだろう、だから特定されるのもイヤだから勘弁な。
ただ、地元がこの合戦の地だよ
- 69 :
- そうかな〜?鍋島家は優秀だったんでしょう?だから龍造寺家は補佐になったんじゃないの?鍋島に任せます〜て。化け猫騒動になるほど対立してたの?
- 70 :
- >>69
龍造寺高房の死に様が凄くて、江戸屋敷で妻をし、自分も毒を飲んで自害しようとしたがなかなかず、
毒の回りを早くするため馬に乗って町中を走り回って死んだ。
その後、真夜中になると白装束を纏った隆房の怨霊が馬に乗り佐賀城下を走り回ったとか。
こんな狂気の様見せられたら講談等の格好のネタになるだろうよ
- 71 :
- 江戸城で自したんだ〜。自じゃなくてされてたら?もともと、龍造寺家を内紛させて潰しにかかってたなんて説あった気がするけど?違ったらすいません!
- 72 :
- >肥前衆は積極的じゃ無かったんだね
>これは龍造寺に対する遠慮と捉えるべき?
>大友への警戒?
6/13には佐賀北高の更に北辺りで鍋島が神代と銃撃戦して鍋島が敗退したらしいので
戦った国人は戦ってるし、国人なんて全くもって一枚岩じゃないから政治的な配慮は自分には判断しかねるんだけど
地勢からの推察で良いのなら
東肥前の国人衆は嘉瀬川を越えたくても越えられ無かったんじゃないのかなと
・佐賀平野の表層地質は粘土質で、当時嘉瀬川の河辺は殆ど沼地の様な状態
・嘉瀬川は川幅が大きく、また佐嘉城までに大きな川がない
・佐嘉城近辺の城はクリーク・堀が多く、それを防衛陣地として活用する
この事から渡河に危険が伴うので東肥前の国人衆は積極攻勢に出る事が無かったんじゃないのかなと思ってる
- 73 :
- 間違えた
東じゃなくて西の国人ね
- 74 :
- >佐賀北高の更に北辺り
北の口、長瀬村の南無道具留利
- 75 :
- >>63
九州治乱記を元ネタにしてるんだが、そちらの郷土史は何が元ネタだろうか。
- 76 :
- >>75
参考文献の項には関連しそうな物では
佐賀郡誌(佐賀郡教育会)佐賀県史(佐賀県史編纂委員会)佐賀市史(佐賀市役所)
佐賀県郷土教育資料集(佐賀県学務課)肥前叢書(肥前史談会)肥前国史(森錦洲)下村生運実録(第3子、下村利充)
- 77 :
- 県郡市史などは全て転載だから元となる資料があると思うけどね
例えば佐賀だったら「直茂公譜」とか「北肥戦誌」など
- 78 :
- >>77
>>63は「九州軍記の一節を記す〜」と書かれてるから、九州軍記から転載された物だろう
- 79 :
- >>78
サンクス
- 80 :
- >>50
天正時代頃の龍造寺城付近の地図に南蛮寺と記載箇所があるから領内でもキリスト布教は許されたはず
- 81 :
- >>69
一部(もともと龍造寺の傍流で、鍋島に変わっても厚遇が約束されたのだろう)
は「任せます〜」に同意したらしいが、伯庵は隆信の直系を自認してて、「本
来なら自分が大名になるはずだった」「乗っ取られた」と主張した。
だけど少数派で、他の龍造寺一族は鍋島(現状)を支持した。
>>71
伯庵は龍造寺の正統な後継者だと主張してたから、鍋島を潰そうとしたわけ
じゃない。理想は穏当に鍋島の地位を返上させるつもりだった。
自直前はただ恨みで動いてたかもしれないけどね。
- 82 :
- >理想は穏当に鍋島の地位を返上させるつもりだった。
鍋島側がウンと言っても、幕府が認めないでしょ。
- 83 :
- >>60
佐嘉城の隆信が決めた守備体系を云えば
東口大手方面へ鍋島信房、信昌兄弟と小川信安の部隊
北方川上口方面は龍造寺家就と納富信景、広橋一祐軒の部隊
有馬義純を主力とする西肥前勢には龍造寺信周と龍造寺鑑兼の部隊
南の海岸から来る敵には龍造寺長信と龍造寺長信の部隊
しかし総勢5000人では6万の大友軍には勝ち目はなく四面楚歌の様相
大友親貞が今山に布陣し、佐嘉城総攻撃が8月20日との情報が城内に伝わると、
隆信は武将を集めて軍議を開いた。
「成松信勝の報告によれば、大友勢は明日を期して城攻めを始めるらしい。
そこで篭城死守するか、先んじて討って出るかの戦法は二つのみ、
皆の意見を聞きたい」と切り出した。
- 84 :
- 総勢8万で内佐嘉城を囲んでたのは3万じゃなかった?
他は筑後にいたんじゃないの
- 85 :
- 肥陽軍記では総勢6万、九州治乱記には総勢8万(包囲軍3万)と記してあるね。
今山合戦当日に隆信軍が隈部親永、城親冬などを生捕ってるから肥後勢は今山に
布陣していたんだろうね。それから筑後の五條鎮定も同様に生捕りされてるね。
田尻鑑種の水軍を除いて、肥後・筑後勢は殆ど豊州三老の指揮下に入って最前線に
いたんじゃないかな。
筑後に残っていたのは高良山の宗麟を警護する旗本程度だったと思うけど。
- 86 :
- 佐賀は龍造寺の子孫だらけ?
- 87 :
- >>59 田代地区には田代姓があるかな? どういった所?
- 88 :
- レス内容から察するに鍋島氏の子孫やその家臣の子孫などゆかりある人々がレスしてる気がする…
- 89 :
- >>87
佐賀城の東付近。佐賀市外地からちょっと外れた普通の住宅地。どういった所ってどのようなレス期待してるのだ?
田代家は竜造寺嫡流、村中竜造寺第17代当主、龍造寺胤久の出。
田代まさしは祖父、父親、本人も佐賀市出身
無論、ただの偶然かもしれんよ
- 90 :
- >>82
幕府が認めるかどうかと本人の理想は関係ないだろう?
むしろ幕府が認めないから理想が理想でしかないんだよ。
- 91 :
- 佐賀城より西方へ1kmほど離れた付近が西田代町で本行寺などがある。
本行寺は与賀龍造寺家の菩提寺で宗家14代の胤家の墓がある。そのほかにも江藤新平
成富茂安などの墓もある。
この付近は与賀龍造寺家の住いだった西の館があったと云われている。
西田代町は国道の為南北に分断されているが一歩奥へ入れば閑静な住宅地。
- 92 :
- 大村純忠の小説読んでたら、有馬仙岩が東肥前を攻めた際
龍造寺勢が迎撃の構えを見せているのを知って引き返したって書いてたがこれマジ?
- 93 :
- 有馬仙岩(晴純)と云えば晴信の祖父だよね。
天文14(1545)年
有馬仙岩は少弐冬尚の要請にて東肥前19城将と共に龍造寺水ヶ江城を攻め、
家兼を筑後へ追い払ったが、二ヵ月後に逆襲を受け撤退してるがこのことだろうか。
- 94 :
- その田代家はまだ、市内にあるのでしょうか?田代家は鍋島家の家臣でどういった扱いだったとか分からないですか?
- 95 :
- >>93
いやもっと前だと思う
- 96 :
- フジテレビの田代なんとかという女子アナは先祖がここの出身ではなかったか。
- 97 :
- 昨日、陸上の日本選手権に江里口って選手が出てたな
やっぱり縁者なのかな?
- 98 :
- 田代地区、西田代地区は代々、武家が多く住んでいた地区なんですか?
その辺りには、縁者の方々が今でも住んでいらっしゃる?もう、それらしき面影は残していない景色でしょうか?
- 99 :
- >>98
佐嘉城下古図
ttp://www.mapshop.co.jp/cgi-bin/mapshop/shop/prod_view.pl?_PIDList=M99901JS0605
佐嘉城西方堀端(地図では下方)のすぐ下に小さな堀がある場所が本行寺で西田代周辺となる。
今では本行寺を除いて面影は残っていないと思う。
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