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2012年1月1期戦国時代4: 天正10年の武田攻めを語るスレ 3 (872) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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天正10年の武田攻めを語るスレ 3


1 :11/03/29 〜 最終レス :12/01/06
2万の軍勢を率いて新府城を出陣した武田勝頼が1ヶ月後には
わずか40人とともに山中を彷徨うことになった、日本史上でも
稀に見る裏切り劇について語ろう。
【初代スレ】
天正10年の武田攻めを語るスレ
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1192166319/
【前スレ】
天正10年の武田攻めを語るスレ 2
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1296903576/

2 :


3 :
まだやるの?

4 :
天正10年にはもう無理だろう。

5 :
荒らされて終わりだったからもうちょっと見てみたいな
情勢無視で織田勢フルボッコ厨とか萎えるもんばっかだったし
初期の人たち帰ってこないべか

6 :
勝頼本陣での軍議は区々として纏まらなかった。
足軽大将の城織部正が進言した。
「まず二万人のうち5千人をそれがしと横田甚五郎にお預け下されなば、一番合戦を
つかまつってごいす。また五千人を小山田八左衛門と初鹿野伝右衛門にお預け下され、
二番合戦をやらせ給うべし。
残る一万余人は小山田部衛尉、真田安房守、小幡上総介に指図させ、御旗本集とひとつに
なり九死一生の戦をなされませ。平場の合戦なれば、味方一人にて上方勢十人をあしらい
申しますれば、一応は切り崩しまする。御最期の合戦をば見事になされてのち、すみやかに
御生害あって然るべしと存じてごいす」

7 :
誤:小山田部衛尉
正:小山田兵衛尉

8 :
隔てなき法をぞ頼む身は田野の
あしたの露と消え果つるとも
「湖衣姫・北条夫人」募集 武田勝頼公まつり 山梨
2011.2.26 02:11
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110226/ymn11022602110002-n1.htm
戦国武将、武田勝頼が自刃した武田家終焉(しゅうえん)の地の甲州市(旧大和村)で4月24日に開かれる「第46回甲州市ふるさと武田勝頼公まつり」
の実行委員会が、「勝頼公軍団」として武者や女武者に扮(ふん)する出演者を募集している。
甲冑(かっちゅう)姿の武者、着物に身を包んだ姫らの姿が戦国ロマンを彷彿(ほうふつ)とさせるまつりで勝頼一族の霊を慰め、遺徳をしのぶ。

9 :
滅亡の原因は長篠だろうな。長篠の総大将が滅亡に導いたな。

10 :
最後の決戦をIF小説化する作家はいないものか

11 :
いるよ

12 :
>>10
「戦国武陣侠」とかいろいろ。

13 :
>>5
デタラメばっかり書いてきて
ことごとく論破されて涙目の織田厨哀れだったよなw

14 :
タイトル忘れたが勝頼がちょっとだけ早死にして信勝が土壇場で武田を継ぐって小説が最近あったな

15 :
「大逆転!信勝が征く」じゃなかった?

16 :
少し以前に信繁が実は生きていた!ってな話もあった気がする

17 :
「士は子孫のために死す」と申す。
勝頼に殉じた土屋昌恒の嫡男は家康によって取り立てられ、二万石の大名にまで出世した。
土屋昌恒の死は無駄死にではなかった。後に、土屋家は老中を輩出するなど栄えた。
天目山での土屋昌恒の最期には諸説あるが、「士は子孫のために死す」とは、まさに土屋昌恒の為にあるような言葉だ。
なお、ドラマに何十回も描かれた赤穂浪士の吉良邸討ち入りの際の土屋家の判断は、どのドラマを見てもお見事としか言いようがない。
私は子供のころ、ドラマで赤穂浪士を見るたびに、てっきり土屋家は三河譜代の徳川の家臣だろうと勝手に思い込んでいた。
土屋惣蔵昌恒の子孫と知ったのは昭和末期だった(恥)

18 :
やっぱ家風ってのはあるんだろね

19 :
組織としてまとまってると2万でも織田の大群を相手に地の利を生かして戦える
戦う前に組織自体が崩壊してたように感じるね

20 :
調略は武田のお家芸だったのに織田にやられっぱなし
真田幸隆が死んだのが痛かったな

21 :
元は猪突猛進って感じじゃなかったっけ?
真田が配下になるまではそんな感じだったような

22 :
諏訪・高遠はうまいこと調略利用して攻略したやん。あれはまだ真田が配下になる前

23 :
そもそも調略は有利な勢力が行うパターンが多いから
武田が織田をやるのは無理だろうね

24 :
勝頼初期の明智城とかは?

25 :
>>24
明智城は勝頼が囲んで織田の救援が遅かったから降伏したんじゃね?

26 :
信長が家康に高遠城の対応に関しての手紙を読んだ事あるけど
降伏を受け入れない提案をしてその場合武田家がどうなるかという
内容を記していたがこれが先を完全に読み切っているのに驚いた。
史実はその通りになってる。こういう相手と戦わなければならなかった
勝頼は気の毒だ。

27 :
一生懸命、信濃と駿河取ったのに、戦わずに失うなんて信玄カワイソス。

28 :
飯羽間右衛門が勝頼に内応して城内で謀反を起こしたため、明智城は勝頼の手中に落ちた。

29 :
調略は有利な勢力が行う例と、一地域・城を追い詰めて内部崩壊したとこを調略する例、
調略される側が、宗家争い家督争いとか内部に問題が生じてる時に行う例が多いな。

30 :
武田信玄と勝頼―文書にみる戦国大名の実像 (岩波新書) [新書]
鴨川 達夫 (著)
ttp://www.amazon.co.jp/dp/4004310652
この本を読めば、現存する史料 (戦国大名が発給した文書はその最たるもの) で判
断する限り、武田家も、他の大名家も、武田家の家督は信玄から勝頼に継承され
た、という以外の認識はしていない、という「当たり前のこと」が分かります。
ttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1459809284

31 :
人間崩れが起きたのは朝倉と勝頼ぐらいかな
朝倉も信長にやられてるw
朝倉の裏切りは毎年の戦で疲弊して不満が高まって内部崩壊
勝頼と似てる

32 :
裏崩れ

33 :
織田家も信長と信忠死んだら部下がやりたい放題だしなぁ
武士=忠義みたいなイメージを持ちすぎじゃね?
まだ戦国時代なんだから

34 :
合戦負けてからも徹底抗戦だと離反が相次いじゃうよね
大友とかもそんな感じだが秀吉間に合っちゃった
信長は降伏できない感たっぷりだから起きやすいんだろう

35 :
>>31
柴田勝家
蘆名義広

36 :
朝倉は一国の大名だが、武田は四ヶ国。
義景は寺で切腹できたが、勝頼は山中で飢えと疲労で討ち死に。
武田滅亡の方が派手だな。

37 :
>>30
勝頼は確かに陣代じゃない。
しかし、『甲陽軍鑑』をもとにした多くの小説、ドラマ、映画の影響により、「勝頼は陣代だった」ということを信じ切っている人たちが今でも大半だと思う。
極めつけは映画『影武者』。勝頼が陣代だったという設定により、面白い映画となった。
ちなみに映画『影武者』で信玄の影武者が「動くな!」というシーンが名場面となり、年末の民放各局の番組で何度も流されていた(懐かしいなぁ・・・)。

38 :
>「勝頼は嫡男信勝が当主なるまでの代理」というのは、
>甲陽軍艦にそのように記載されていること「のみ」を根拠にしています。
>甲陽軍艦は、歴史家が信頼できる史料と認めるものではないので、
>歴史家の立場からは「勝頼は信勝の陣代説」なるものは『存在しない』ことになります。
ttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1459809284

39 :
強すぎる大将
「例式四郎、左馬助信豊聊爾故、無紋に城へ責め登り候、まことに恐怖候の処、不思議に乗り崩し候」
〜〜〜四郎勝頼は左馬介信豊と先頭に立って城へ攻めかけ、北条新三郎、清水、笠原、
狩野介などを悉く討ち取ったが、味方には一人の死傷者もなかった。
四郎勝頼は、攻撃の総大将であるにも拘らず、軍勢の先頭に立って攻め込んだのは、
無謀であり思慮なき行動である。恐れを知らぬということは幸いなものだ、
思いがけなく勝利を得ているのだから〜〜〜信玄

40 :
http://www.youtube.com/watch?v=IlfdVpJ7AKI

41 :
保科正之を養育した穴山信君の正室が大河ドラマ江に出るかも?

42 :
国力
駿河>信濃>甲斐
甲斐にこだわったのが失敗

43 :
こだわったというか武田家は甲斐守護だし

44 :
>>42
石高で言えば、信濃40万石・甲斐25万石・駿河15万石(・上野50万石)だけどな
金山や海運があるから一律には比べられんけど

45 :
何気に勝頼時代が最大版図なんだよな
勝頼は必要以上に貶められすぎ
まぁ長篠以降の精細の無さは異常だけど

46 :
>>45
でもそれが維持出来ないとあんまり意味ないような気も。。。。
武将としては一流だったのだからお兄ちゃんが生きてれば自分の器内で
さぞかし活躍が出来たろうに。
勝頼は外交センスの無さと戦略の拙さが大名としては致命的欠陥。

47 :
>>46
信繁のように称えられたかもね
勝頼本人は義信と対立してたわけでも無さそうだし

48 :
2011年04月25日(月)
献花や舞奉納し武田勝頼を供養
甲州・景徳院で「慰霊法要」
http://www.sannichi.co.jp/local/news/2011/04/25/10.html
 武田勝頼の菩提(ぼだい)寺「景徳院」(甲州市大和町田野)で24日、
勝頼と武田家臣を供養する「慰霊法要」が行われた。
 同寺には勝頼と家臣の墓があり、法要は例年、大和地区の一大イベント「武田勝頼公まつり」に合わせて実施してきた。
今年は東日本大震災を受けて祭りは中止して、法要だけとした。
 檀家だんからが参加して勝頼の墓に献花。この後、地元・大和中の女子生徒ら10人が「巫女の舞」を奉納した。
同寺の平山金吾総代長は「祭りは中止になったが、法要は例年通り実施できて良かった。地域の伝統は絶やさないようにしたい」と話していた。

49 :
地元民は勝頼公裏切っておきながらw

50 :
新府城の留守を預かる北条夫人が、韮崎の武田八幡に詣で、必死の祈りを込めて、
願文を納めたのは二月十九日のことである。
うやまって申し。
祈願のこと。
南無帰命頂礼八幡大菩薩、
この国の本主として武田の太郎と号せしより此かた、代々護り給ふ、
ここに不慮の逆臣出きたって国家を悩ます。
よって、勝頼運を天道にまかせ、命を軽んして敵陣にむかう。
しかりといへども、士卒利を得ざる間、その心まちまちたり。
なんぞ木曽義昌若干の神慮をむなしくし、
身の父母を捨てて、奇兵を起こす。これ自らの母を害するなり。
なかんずく勝頼累代重恩の輩、逆臣と心を一つにしてまちまちに覆さんとする。
万民の悩乱、仏法の妨げならずや。
そもそも、勝頼いかでか悪心ならんや。
思いの焔天にあがり、瞋恚なお深からん。
われもここにして相共に悲しむ。
涙らんかんたり。
神慮天命まことあらば、五逆十逆たるたぐい、諸天かりそめにも加護あらじ。
この時に至って神心。私なく渇仰胆に銘ず。かなしきかな。
神慮まことあらば、運命この時にいたるとも、
願わくば霊神力をあわせて、
勝つ事を勝頼一しに告げしめたまい、
仇を四方に退けん。
兵乱却って命を開き、寿命重遠子孫繁昌の事。
右の大願成就ならば、勝頼、われと共に社檀みがきたて回廊建立の事。
敬って申し。
天正十年二月十九日
みなもと勝頼うち

51 :
北条夫人だけでも離縁して逃がしてやるべきだったな
そうすれば勝頼も上杉領まで逃げ切れたかも知れないのに

52 :
滅亡は長篠での敗戦より家臣の寝返りが直接の原因か

53 :
武田勝頼-貞姫-宮原晴克-宮原義辰-宮原義真

54 :
謙信が生きている内に同盟して徳川だけでも叩いておくべきだったな

55 :
>>54
それは無理、家康は謙信と同盟済み。信長のように国境を接していないので極めて良好な間柄
勝頼がつけ込む隙がない。

56 :
>>55
甲越相三国で和睦が出来れば多少は違った展開になるかもなんだがなあ。
天正四年に足利義昭が例によって勝頼・氏政・謙信の三者の和睦を画策しているんだけど、
(このころすでに謙信は本願寺と和睦し、信長と手切れしている)
「勝頼との和睦は上意に応じる用意があるが、氏政をそれに加えるのはたとえ自分が滅亡しようが
将軍家から勘当されようが断固拒否」というのが謙信側のスタンスで、結局実現しなかった。
ただ、少なくとも勝頼とは和睦の余地があると謙信は考えていたみたい。

57 :
そりゃあ対織田という利害は一致してるからな。
ただ甲越同盟が果たされかどうかはまた別の話し。

58 :
後出しで考えれば対織田自体貧乏くじな分けで
上杉からみれば織田と組んだまま武田本願寺攻めるほうが良かったわけだよな

59 :
>>58
北陸で所領接してきてるから無理じゃねえの?
南進がちっとも成果上がらない状況では、織田と先端を開くのは大義名分的にも実利的にも良かったかと

60 :
あれま、実は武田義信は生きていた。
武田信玄はこうなることを予期して義信を死んだことにしておいた。
正統な武田の棟梁。武田家は見事にまとまりました。

61 :
それじゃあ家臣に示しがつかないでしょ…
IFとしては面白いかもしれんけどありえないわ

62 :
勝頼期を描いた映画
「影武者」説明不要に近い名作
ただし、勝頼陣代説。
勝頼期も描いたドラマ
「おんな風林火山」 http://www.youtube.com/watch?v=_gr2U6s8Vdo
ただし、ドラマの基本コンセプトは恋愛&低視聴率
☆長篠の戦いや高遠城攻防戦や天目山あり(確か)
☆武田家滅亡後の本能寺の変あり(松姫と織田信忠絡みで)
☆武田の人質となる織田勝長(織田信房)が登場する珍しいドラマ
☆長篠の戦い直後に躑躅ヶ崎館で武田家の女性たちが「織田は卑怯にも鉄砲を使い」とか言っていたのが妙に面白かった

63 :
武田頼政が救うお

64 :
【鈴木保奈美】おんな風林火山【石立鉄男】
http://logsoku.com/thread/namidame.2ch.net/nhkdrama/1170333860/
21 : 日曜8時の名無しさん : 2007/02/04(日) 17:33:15.47 ID:chexJ/te [1回発言]
岡田が穴山夫人で比企理恵が木曾夫人だろ
穴山が武田を裏切った時の岡田の演技は神だと思った
26 : 日曜8時の名無しさん : 2007/02/05(月) 11:51:20.05 ID:vv1tpMob [1回発言]
歴史好きの友人が凄い凄いと見ることを勧めていたがなかなか機会がなかった。
見られるものなら見たいな。
長篠設楽原の戦で、鉄砲構えてる織田の竹矢来をよじ登って腹に銃口当てられて
撃ちまくられてるだ武田軍とか、よれよれになって裏の土間から帰ってくる
美木良介の勝頼とか、会いたいといって女の足で出かけていって「あそこが
信忠様の本陣でございます」とあっさり副将の本陣の裏を突いてしまう豪脚の
ヒロインとか、たしかに想像を超える場面の連続でのけぞった覚えが。
40 : 日曜8時の名無しさん : : 2007/02/10(土) 00:15:33.47 ID:VEvTrteX [1回発言]
本能寺の変で信忠が死ぬシーンが描かれてるのってこれぐらいじゃないの。
たいていの作品では信忠はスルーされてるし。
115 : 日曜8時の名無しさん : : 2007/04/13(金) 23:11:43.44 ID:a2sqTeas [1回発言]
そうそう穴山信君の裏切りのシーンもちゃんと出ていた。
116 : 日曜8時の名無しさん : : 2007/04/13(金) 23:46:23.81 ID:ckuj6ULk [1回発言]
本能寺後、穴山信君が土民に襲われてされるシーンもあったよね。

65 :
信長は二月末から三月初旬にかけ、信忠と連名の書状を武田の重臣たちに送り、
内応すれば過大な恩賞を与えると調略を行っていた。
武田の諸将は信長の甘言を信じ込み、勝頼に背いて滅亡させたが、
自らも後を追うこととなった。

66 :
http://www.youtube.com/watch?v=IlfdVpJ7AKI
リメイク希望

67 :
仁科盛信が信忠からの使いの僧を惨したってマジか?
へうげでやってたけど

68 :
惨じゃなくて鼻を削いで信忠の陣に帰した

69 :
鼻無し坊主はいつまで生きたの?

70 :
私が「おんな風林火山」を見たのは平成3年(1991年)頃の夕方の再放送(生放送のときは見ていない)、当時はビデオデッキの時代。
「武田家滅亡を描く『貴重なドラマ』」になるとは予想だにせず録画しなかった。。。
もうCSでしか見れないそうなので、是非ともリメイクして欲しい。
「歴女(笑)」が好む武将に武田勝頼が含まれているので、それなりの視聴率は取れると思うのだが。

71 :
ごめん、鼻じゃなくて耳だった。
新田次郎さんの小説「武田勝頼」でも耳だった記憶あり。
「信忠は盛信に降伏を勧告したが、盛信は勧告を拒否。降伏の使いに来た僧侶の耳をそぎ落として追い払ったとされる。」
これが史料に残っているのか?逸話なのか?は知らんけど。

72 :
>65
実際真っ先に裏切った輩は最低限の厚遇は受けてると思うけど…

73 :
木曽とか穴山とかはね。
日和見して動かなかった連中は、動かなくていいと言われてたのに滅ぼされてるよね

74 :
そりゃどっち付かずよりはっきりと裏切りの意思を示す方が信長の心象は良いに決まってる

75 :
穴山の死は因果応報としか言いようがないな

76 :
穴山氏は嫡男早でお家断絶
木曾は1600年に改易

77 :
>>76
ただ、それは徳川の陰謀とか見方とは関係ないような・・・
わずかに梅雪には謀説もあるが。

78 :
>>76
木曾も断絶だと武田って真田ぐらいしかいないの?

79 :
>>78
武田旧臣って意味なら、土屋・向井・依田らがいる
旗本でいいなら信玄血筋で竜芳系や盛信系、上杉の信清系とか

80 :
>>76
穴山も木曽もざまあだなw
天目山で勝頼に殉じた土屋昌恒の嫡男は大名に出世
高遠城で散った仁科盛信の嫡男は徳川の旗本となる

81 :
>>76
木曽は信長に降ってその後豊臣期に転封だっけ?
木曽を離れるとか悲惨すぎるな

82 :
>>79
まあ、依田もとっとと改易されているけどね。改易された時期は木曾と
同じぐらいだし。
>>81
木曾は与力大名ですらなく家康の臣下で、家康の転封に伴う転封だからねい。
まあ、しょうがない。

83 :
>>74
小山田は判断遅らせたせいで信長の心証を悪くしたよね

84 :
武田の旧臣で武田滅亡後に処刑された奴は
「こんなことなら新府城で戦えば良かった」って思っただろうね

85 :
355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 22:36:17.70 ID:6ng6Ybi2
天正十年
織田の甲州征伐によって武田家は滅亡寸前に追い込まれていた。
窮地に陥った武田勝頼に真田昌幸が申して曰く
「私の所持している上州我妻の岩櫃城へ一旦お移りください。まず安心でありましょう。
 そのわけは内藤修理亮は同国箕輪に居住し、武田左馬之介信豊は信州小諸に在城しています。 
 それ故是より路次の便りよく、我妻の城地は要害が勝れてよく、軍兵三千は籠ることができます。
 弾丸硝石をしっかりと用意し、兵糧を多く蓄えたなば、どれほどの大軍が攻めようとも
 昌幸が沼田に在城し、信州戸石には両人の小倅を以て守らせ、私の謀によって御籠城されれば、
中々落ちる城ではございません。
 二三年のうちに敵方の変化を見計らった上で交付に御旗を入れられるのがよろしいでしょう。
 まず一度御城を明け渡し、私の謀に従って岩櫃に御籠城なされるように。」
この意見に修理と左馬之介も同意したため勝頼は岩櫃入りを決断し
昌幸と修理に各々の城へと戻って籠城の準備を始めるよう命じた。
すでに各地でる落人狩りが始まり、道中の糧秣の確保にも苦労する有様であったが
昌幸は妻や一族を引き連れて岩櫃を目指した。
途中信州小諸で昌幸を迎えるべく甲州を目指していた湯本・鎌原・横谷・西久保・和田・恩田・金子といった
沼田の侍たち出会うことができ
昌幸は岩櫃城へと入って籠城の手配を始めた。
が、そこに勝頼父子が岩櫃ではなく岩殿城へと向かった末に裏切られ
天目山で死したという知らせが入り、昌幸は歯噛みして残念がった。

86 :
木曽は信長に下らなきゃそもそも勝頼より早く滅んだだろうから
裏切りが間違っていたわけじゃないだろう
まあ裏切るならもっと早くして秋山を挟撃とかしたら
もっと待遇良かっただろうけど

87 :
>>86
木曾はどんなに多く見積もってもせいぜい1万石以下の所領の安堵に
過ぎないからなぁ。もし武田が続くのなら、同じ所領でも親族衆
扱いされるのでずっとマシということも言えただろうに…

88 :
表裏比興の真田を頼るとかないわ。

89 :
武田が滅亡したからああなったんだよ

90 :
木曽は千葉県旭市に飛ばされたから馬鹿

91 :
木曽や穴山の末路は哀れだが、本能寺で信長が死ぬのは予想不能だろ

92 :
木曾はそもそも外様みたいなもんだし

93 :
>>80
高遠で散った方の小山田系も、真田の家老だしな。

94 :
>>92
木曾も真田もド付きの外様だけど、木曾は親族衆でもある。
真田より格上。ただ、幸隆、昌幸が上野攻略で勢力伸ばしていた
真田と違って、織田と直接やりあうハメになる木曾谷じゃ
勢力伸ばしようがなかったから、所領は真田より狭いけどね。

95 :
>>87
穴山はわからんが、木曽は武田に味方した状態では生き残れないから
真っ先に潰されるよりはいい選択をしたはず

96 :
木曽義昌は本能寺のドサクサで信濃を統一しようとしてたらしいからな。

97 :
身の程知らずだなw

98 :
小笠原「木曽が松本平で大きな顔するとか許されざるよ」
まあ武田攻めにおける木曽の功績が大きかったのはわかるが流石に
過分だったし本能寺後にこうなるのは止む無し

99 :
>>96
滝川一益と森長可から手に入れた信州の豪族の人質を利用しようとしていたんだよな。
なんかせこいなあ

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