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2012年1月2期言語学128: 未然形は複数あるのにいずれも単体で使うことがない (130) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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未然形は複数あるのにいずれも単体で使うことがない


1 :10/11/20 〜 最終レス :11/09/08


2 :
書こう 行こう 有ろう 定まらない
kak ou, yuk ou, ar ou, sadamr anai

3 :
sagamar anai--- これ 正

4 :
さがまらない

5 :
>>1 そうか知ら?

6 :
あっち行こ?

7 :
このスレの人たちは
動詞の「活用」という考え方自体が
カナに縛られた発想であることにいつ気づくのだろう。

8 :
接辞と捉えようが活用と捉えようが何も変わらないような。

9 :
接辞ととらえたら未然形という枠自体が存在しないわけだが。

10 :
接辞と見なして体系立てたところで、同レベルだろって言ってんの。

11 :
age

12 :
エイジ

13 :
age

14 :
エイジ

15 :
未然形は 未来形と 推量形と 否定形と 3分割し 未然形は 抹消.
未来形に 対応して 現在形と 過去形を 登場させる べき です。
国文法は 4段とか 5段とか に とらわれ すぎて いる。
推量は[だろう]だから habuita hoo ga ii kamo.

16 :
終止形 は 現在形だと 思うが 何が 終わる と いう のか 国語学者は 感覚が 変だ。
国文法は 徹底的に 再検討する 段階に ある。
弾む の はず を 語幹 と 称し、一方 hazum を 基本形と roma 字派わ 主張する。変化しない のわ hazum だ。   

17 :
漢字交じりかな がき でわ 動詞について 基本的な 解明が 不可能だった。

18 :
>>15
kokubunpoo no okasina tokoro
http//toxa.cocolog-nifty.com/phnetika/2005/07/post-1814.h

19 :
国文法 を googleyo

20 :
これらのうち、まず「未然形」には、すべて「未然」的な意味の助動詞が
接する。未然的な意味とは、「まだそうなっていない」ということであり、
「ず・む・まし・じ」などは、「未然的な意味」だけでは十分に分化を果た
し得ないことがらの、さらなる細分化 (再分化) の役割を果たしている。「まだそうなっ
ていない」ということは、実際には存在しないことがらであるから、ことがらを想定して
捉えている。「花、咲かず」といえば、「花が咲く」ということがらは存在しない。だから
いったん、「花が咲く」ということが想像的に思い浮かべられなければならない。否定と
いうのは、助動詞的な意味の中で最も重要な事柄で、人間の言語には何らかの形で必ず存
在しなければならない働きである。また、「咲かむ」というのは、判断の内容としてみれ
ば肯定的だが、「まだそうなっていない」ことがらの想像的な思い浮かべが必要な点では、
「ず」と同様である。「まし」は「反実仮想」と呼ばれて、成立不可能なことがらの思い浮
かべであるが、もちろん想像的である。こんな助動詞が「未然形」に接するものとして集
まっているので、「未然形」とは
「名は体を表す」適切なネーミング
である。……また、「受け
身」や「使役」の助動詞は未然形に
付くと言われるが、「咲かせる」 (現
代語) などは全体で一種の動詞と捉
えた方がよく、右の表からは省いて
いる。
 二十世紀の著名な哲学者に、J・P・サルトルがいる。サルトルは人間の持つ否定作用
に着目した。既述のように、否定には想像力が必要である。否定も想像もなければ、われ
われはただ「ある」ことを、べったりと追認するだけであって、自由も投企もあり得ない。
サルトルは、第二次大戦前に京都の日仏学館への就職を考えたことがあるそうである。来
日しても日本古代語を学んだかどうかはわからないが、否定「ず」と想像「む」が同一の
言語形式 (未然形) を共有する言語の存在を知ったなら、とても喜んだに違いない。

21 :
>>20 「ず」と「む」「まし」とは範列的 (paradigmatic) ではなく、統語的 (syntagmatic) である。
 片かどにても、いかが思ひの外にをかしからざらむ (源氏・帚木)
 わづらはしげに思ひまとはす気色見えましかば、かくもあくがらさざらまし (同)
「ず」の前で行われる「想像的な思い浮かべ」と、「ず」自体について、「む」「まし」の前で行われる「想像的な思い浮かべ」とは、同じなのか違うのか。
同じだとすれば、同じ想定が 2 度行われるというのはおかしくないか。
違うとすれば、「をかしから」「あくがらさ」と「ざら」とは、ともに「未然形」でも「未然」の意味が違うのか。

22 :
>>20 「頭を殴られる」「花を色よく咲かせる」の「頭を」「色よく」は、「殴られる」「咲かせる」全体に関わるのではなく、「未然形」とされる「殴ら」「咲か」 (正確には「殴 r-」「咲 k-」) にだけ関わっている。
このことを根拠として、受身や使役の形式は語 (助動詞) と規定されている。

23 :
>>21
「ず」を前提にすれば、もう>20は成立しないだろうね。
だが、「ず」自体が複合的な助動詞であって、
このことは、「ぬ」と「ず」でアクセントの振る舞いが全く異なる(京阪式の場合)でもわかる。
おそらく、「ぬ」系の助動詞が本体で、これが後天的に「す(為)」を従えて活用を獲得したのだろう。
つまり「ず」が「あり(有)」を従えてザル型活用を獲得するその前に、
「す」を従えた前史があったことになる。
ここまで想定すると、最古の否定助動詞は「*ぬ」または「*に」ということになり、
これは「む」とパラダイム的と考えてよいのではないかとも思う。
未然形なるものは、とどのつまり、「ず」と「む」の説明さえ出来れば話は終わるので、
これだけでよいといえる。俺自身は未然形に何がしかの意味を付与することには批判的だが。
>>22
それは橋本文法を善意に解釈しすぎなんじゃないの?
自動詞/他動詞の屈折的変化と、れる・られる/せる・させるの膠着的接続は、連続するものであることは明らかだし、
アクセントの上でも、後者は明らかに独立した地位を持たない。

24 :
>>23
> 未然形なるものは、とどのつまり、「ず」と「む」の説明さえ出来れば話は終わるので
接続助詞「ば」、終助詞「ばや」「なむ」も「未然形」の後に付く。
なお、「かくもあくがらさざらまし」の場合、「かくもあくがらす」という事柄は、もうそうなっており、実際に存在する。
> 自動詞/他動詞の屈折的変化と、れる・られる/せる・させるの膠着的接続は、連続するものであることは明らかだし
共時的には連続しない。
「当たる」と「当てられる」、「回す」と「回らせる」は、それぞれ明確に異なる表現だ。

25 :
>>24
俺は、「ば」と「ばや」は、手前に「む」が挟まっている時代があったと考えるので、これは「む」におそらく解消される。
(古い時代の濁音には、軽い鼻音(入り渡り)が挟まっていたことは常識に属する)
残るは「なむ」だけだが、これも「ぬ(否定)」との関連性が疑わしい。
(否定を含む複合表現が、希望などの積極的推量に変わることは不思議でない。本州中部の「まい」などが典型的)
「ぬ」と「む」は、完全にパラダイム的かどうかはともかくとして、最古の段階では対概念だった可能性がある。
>>24は、明確に通時分析の話だと言っているじゃないか。
「「ず」を前提にすれば、成立しない」。つまりはるか昔の言語を、それも通時的に推測するとという話。
現代の日本語の話など、全くしていない。文献時代以前の話だ。
そもそも、特に形容詞形活用を得た現代日本語共通語の動詞否定は、
未然形などという枠などとうの昔に消し去っている。
さらに関西に行くと、「へん」という未然形とは事実上関係の無くなった助動詞が使われる。
(「へん」の接続は、実は未然形とは全く関係がない。「はせぬ」が縮約して、雲散霧消した。
接続についてはいくつか考え方があるが、アクセントを分析すると、明確な連用形であることがわかる)
通時分析をすると、「当たる」と「当たらる」の区別はどんどん怪しくなるぞ。
今でも、翻訳によるヴォイス峻別の洗礼を受けていない口頭語の方言では、
東京でも「行かす」のような、よくわからない表現が存在する。
「彼を行かした。」でも使役だが、「彼を行かさせた。」とも言える。これは一体どういうことなのだろうね。

26 :
>>25
> >>24は、明確に通時分析の話だと言っているじゃないか。
> 「「ず」を前提にすれば、成立しない」。つまりはるか昔の言語を、それも通時的に推測するとという話。
文献時代にはもう「ず」があったのだから、「成立しない」で終わっている。他は無用。
> 通時分析をすると、「当たる」と「当たらる」の区別はどんどん怪しくなるぞ。
「当てらる」の誤りだと思うが、平安時代には区別されていた。
 虎山のほとりにかかり来る獣は、阿修羅の食とせよと当てられたり (宇津保・巻一)
これを「当たりたり」に置き換えることはできなかっただろう。
> 今でも、翻訳によるヴォイス峻別の洗礼を受けていない口頭語の方言では、
> 東京でも「行かす」のような、よくわからない表現が存在する。
> 「彼を行かした。」でも使役だが、「彼を行かさせた。」とも言える。これは一体どういうことなのだろうね。
後代の変化だと思う。これも平安時代には「散らし」「行かせ」と区別されていた。

27 :
>16
>国文法は 徹底的に 再検討する 段階に ある。
まだこんなことを言ってるからだめ。
日本語教育ではこんなことやっていない。


28 :
>>21
> 「ず」の前で行われる「想像的な思い浮かべ」と、「ず」自体について、「む」「まし」の前で行われる「想像的な思い浮かべ」とは、同じなのか違うのか。
> 同じだとすれば、同じ想定が 2 度行われるというのはおかしくないか。
> 違うとすれば、「をかしから」「あくがらさ」と「ざら」とは、ともに「未然形」でも「未然」の意味が違うのか。
横からだが、同じ想定を2度行うのでもなければ、未然の意味を無理に変える必要も無い。
「〜かくもあくがらさざらまし。」の場合、「「「かくもあくがらす」という想定の否定」という想定」と、
想定が入れ篭式になっており、全く同じ想定を繰り返すわけではない。
なお、「あくがらす」というのは実際に起こっていることだが、「『かくも』あくがらす」というのは
「かくも=こんな感じに」が示すようにあくまで想定であり、実際に起こっている「あくがらす」とは100%同一じゃない。

29 :
>>28
・「未然」の意味は 1 つである。
・同じ想定を繰り返すのではない。
同じ「未然」が、同一節の中の異なる構文位置に現れて、異なる想定を表すということか。
しかし、「[[想定 (未然)] 想定 (未然)]」という構造は自包的 (self-embedding) であり、矛盾している。
「未然形」という概念を放棄し、「想定」のような働きは、唯一節末の「む」「まし」 (正確には「-a む〜-む」「-a まし〜-まし」) そのものが担っていると考えたほうがよい。
そうすれば、受身・使役の形式に先行する「未然形」を特別扱いする必要もなくなる (「未然形」自体が存在しない)
 おはせましかば、我らは下らざらまし (源氏・玉鬘)
「下 r-」は実際に起こっている「下 r-」と 100% 同一である。

30 :
>>28
> 「〜かくもあくがらさざらまし。」の場合、「「「かくもあくがらす」という想定の否定」という想定」と、
> 想定が入れ篭式になっており
解釈の方は「という」を使って引用節をなしているから、同じ種類の「想定」が 2 度現れてもよい。
しかし、元の文は単一の節である。

31 :


32 :
亀。
>>29
> しかし、「[[想定 (未然)] 想定 (未然)]」という構造は自包的 (self-embedding) であり、矛盾している。
「想定の(否定の)想定」は構造的に全然矛盾していないよ。未然を強調して訳せば、こうなるから↓
「「こんなに気持ちが離される」(であろう)ことはなかった」(であろう)」のに」
普通の訳文では「であろう」は抜けるが、ついていてもクドいけど意味は通じる。
仮に「想定の想定」がダメなら、「計画の想定」という言葉もダメになる。
>>30
> 解釈の方は「という」を使って引用節をなしているから、同じ種類の「想定」が 2 度現れてもよい。
そう、「想定」という分類の意味は同じ。ただし具体的な内容が異なる(自分が言ったのはその意味)。

33 :
>>32
> 「「こんなに気持ちが離される」(であろう)ことはなかった」(であろう)」のに」
「するだろうこと」とは言えるが、「*するだろうことはない」とは言えない。否定の左に想定はない。
「であろうのに」全体が「まし」に対応する解釈だ。「まし」が想定であって、「まし」の左に想定はない。
> 仮に「想定の想定」がダメなら、「計画の想定」という言葉もダメになる。
「計画」と「想定」とは名前が違う以上、どこか違うんだろう。だから自包的にならない。

34 :
否定の左に想定はないってどういうこと?
もし◯◯ない。 とは言えないの?

35 :
「もし○○ない。」とは言えないんじゃないか。

36 :
もしかしなくても行かない。

37 :
「もし」は文末の「-ない」によって否定されてるのか?

38 :
もしかしたら否定されない。

39 :
>>38 同じだよ。「もし」は文末の「-ない」によって否定されてない。
だいたい「?もしかしたら否定されない。」なんて言えるのか。

40 :
もしかしたら言えない。

41 :
「?もしかしたら言えない。」とは言えない。

42 :
?とは言えないんだからつまり言えるってことか。

43 :
>>42
> ?とは言えないんだから
これ読めないだろ。だからこういう解釈はダメ。

44 :
はてなマークじゃないのか?

45 :
疑問符だろうw

46 :
はてなって読んでるが?

47 :
クェスチョン・マークは?
と、読み方が定まらない。つまり読めない。
屁理屈はいい加減にしてどっか行け。

48 :
>>34に答えないのがいけないんだろ。

49 :
>>33
> 「するだろうこと」とは言えるが、「*するだろうことはない」とは言えない。否定の左に想定はない。
不自然でも文全体で意味が通じるかどうかという話だよ。無理矢理「未然」を強調してるから、
こんな風に言わないのは承知の上でござるよ。
> 「計画」と「想定」とは名前が違う以上、どこか違うんだろう。だから自包的にならない。
じゃ、「計画の計画<計画することを計画する」はどう想う?
「今はまだ夏休みだけど、次の正月に来年の計画を立てておくことにしようかな。」てな場合。
自分は全く自包的でないと想うんだけど。

50 :
>>47は日本が読めないらしい。

51 :
>>48 「*もし○○ない。」とは言えないと言ってるじゃないか。
>>49 ひどく不自然な説明で頑張る必要があるのか。
>>50 2 つに定まっている。

52 :
?の読み方なんてそんなにあるだろうか?

53 :
>>49
> じゃ、「計画の計画<計画することを計画する」はどう想う?
「計画」が何かの文法カテゴリだったら、ダメだと思う。

54 :
>>48 「*もし○○ない。」とは言えないと言ってるじゃないか。
そっちじゃないだろ。一行目の条件だ。

55 :
>>52 上に 4 つもあった。
>>54 否定の作用域に「想定」の機能は入らないということだと、理解できないものかね。

56 :
「否定の左に想定はない」にそんな意味はない。

57 :
あると思えばいいんだよw
文法機能のスコープ (作用域) は必ず左方にあるんだから。

58 :
で そ
す う
か な
? ん

59 :
うん。縦書きの本でも左スコープ、右ヘッド (主要部)。

60 :
グッチースコープと名付けよう。

61 :
>>16
「じゃあ、私がこれをやる。」の「やる」は、強いて言えば未来形だよね?

62 :
>>61 そのとおり。話者自身が決める未来だから、語用的に意志表明と解される。

63 :
「弾む」の語幹を「はず」から「hazum」にしようっていう議論は、
開音節の日本語では余り意味無いような気がする。
もしかして日本語が開音節なのは平仮名のせいじゃないかと思ったんだ。
でも文字が口語にそんな影響を及ぼすなんてあるわけ無いか。
と思って調べたらこんなサイトが。
ここの(3の項目に、動詞の語幹について面白い事が書いてある。
http://www.asahi-net.or.jp/~va4h-nsn/syllable.htm
ここを見たら語幹hazum説も頷ける希ガス

64 :
>>1 日本語族の琉球語には未然形をそのまま使う文があるらしいぞ。
 どういう用法なのかは知らんが。

65 :
頂けないから"頂いたら過去だろう”はダメだと思う。

66 :
仮設自由デブ意味不明

67 :
おナラ、モグラ、フクラはぎ、など動詞を名詞化する用法があるな。

68 :
「おなら」はおそらく「おならし」の「し」が落ちたもの。
動詞の未然形としては「ふくれ」「ふくらさ」しかない。
「もぐら」「ふくら」の「-a」は化石的な接辞で、未然形とは別物だろう。

69 :
「おなら」についてはその通り。もとは女房言葉。
「もぐら」は「<むくらもち<うぐろもち」。「墳(うぐろも)つ」は土を高く盛ること。
おそらく「もぐる」の影響を受けて現在の形になったけど、「もぐる」は直接の語源じゃない。
「ふくらはぎ」は江戸以降の言葉。「ふっくらした脛」等の解釈が一般的だが、
それまで広く使われていた「こぶら/こむら」が音韻転換し「ふくれる」の影響を受けて変成した可能性もある。

70 :
動詞未然形には「ふくらま」「ふくらまさ」もあるな。
形態素 /*hukur-/ を立てたいところだが、/*hukur-e-/ の /*-e-/ が何かわからなくなるので、できない。
「もぐら」「ふくら」もやはり 1 形態素と見ておくほかない。

71 :
>>69 フクラはぎはフックラはぎだったのか。

72 :
「ふくら/ふくらか (なり)」は、「ふくよか/ふくやか (なり)」とほぼ同義とされているから、
歴史的には「ふく」+「ら(か)」と分析すべきものだろう。
動詞未然形からは遠ざかって行く。

73 :
>>72 ナウ>ナワはどうかな?

74 :
>>25
いろは歌の「む」ってどうなんだろう?
なんかこれって成立時代が新しいとかまことしやかに言われるけど、本当にそうなんだろうか?

75 :
>>74 今様というスタイルが新しい。11 世紀以降のもの。
当時はハ行転呼や「む」>「ん」の変化が相当進んでいたはずだが、「にほへと(゙)」「つねならむ」と作られていることから、
あらたまった発音ではまだ niΦoΦe~do, tunenaramu も行われていたことがわかる。
助詞の「は」などは慣習で決まっていたようだが、それ以外は「仮名遣い」という概念がなかった。

76 :
今様と言ったって、この場合字数は決まっているのだから単に五七か七五かって話じゃないかな?
最初に いろはうた で五音あるし。

77 :
> 最初に いろはうた で五音あるし。
なんじゃそれはwww
47 文字を 1 回ずつ使うのがミソなのに、頭にそんなものを付けたら、「い」「ろ」「は」「う」「た」の 5 文字が 2 回になってしまうだろw
「いろはうた いろはにほへど」って何のことだよw

78 :
>>77
だから元々字数が決まってる以上、スタイルで古い新しいはわからない。
いろはうたと言えばいろは歌でしょ、さねさしって何? 地名?

79 :
決まっているのは字数だけだから、どんなスタイルをとってもよい。
いろは歌より前に行われていた「あめつち」のように、ただ単語を羅列してもよい。
(「あめつち」は「え <e>」と「江 <je>」を区別する 48 文字だった)
七五調 4 句という今様スタイルが選択されているということは、字数と関係なく、それが新しいことを意味する。

80 :
>>79
>決まっているのは字数だけだから、どんなスタイルをとってもよい。
それでは歌にならない。
息継ぎを考えると12音4句しかない。

81 :
> それでは歌にならない。
必ずしも歌にしなくてよい。「あめつち」は歌ではなかった (「あめつちの歌」というのは通称)
どうしても歌にしたいということなら、平安中期以前の人に選択できたスタイルは、五七調の長歌だった。
源為憲『口遊(くちずさみ)』 (970 年) に紹介されている「たゐにの歌」は五七調だ。

82 :
>>64
文じゃなく単語だが、沖縄方言では
フィーチャサー「消防士=火(フィー)+消す(チャスン)」
チラアラヤー 「洗面器=面(チラ)+洗う(アラユン)」
ってな例がふんだんにあるらしい。
>>73
築く(つく)→塚(つか)
伝つ(つつ)→蔦(つた)
などもそうかも。

83 :
>>81
>どうしても歌にしたいということなら、平安中期以前の人に選択できたスタイルは、五七調の長歌だった。
歌にそんな制約はない、そういう類型が成立してからそういう制約ができる。
水泳競技にスタイルはあるけど、それ以外では溺れて泳げないなんてことはないのだ。

84 :
「歌」: 「スタイルに従って泳ぐ」、「言葉」: 「ともかく泳ぐ」、という関係ね。
歌とはある制約に従って言葉を使うこと。
いろは歌がそんなに古いものなら、七五調の歌が残っていない時代に、47 文字を 1 回ずつ、七五調で詠んだことになる。
七五調の歌が一般的になった時代に、そのスタイルを使って、47 文字を 1 回ずつ詠み込んでみたと考えるのと、どちらが合理的か。

85 :
>「歌」: 「スタイルに従って泳ぐ」、「言葉」: 「ともかく泳ぐ」、という関係ね。
>歌とはある制約に従って言葉を使うこと。
全然違うね。
言葉を書にのせるものが文字で、言葉を音にのせるものが歌だ。

86 :
一定の制約に従わないと、言葉は音に乗らない。
いろは歌や「あめつち」の場合の「文字」というのは、当時の日本語に存在した音節を指している。
拗音・促音・撥音といった特殊拍は未発達だったと思われる。表記法もなかった。
さらに清濁の別を文脈に任せて表記しないなら、音節数=仮名文字数となるわけだ。
今様というスタイルが成立してから、そのスタイルで 47 文字を 1 回ずつ読み込む工夫をした、と考えた方が合理的であることは微動だにしない。

87 :
>>82
> ってな例がふんだんにあるらしい。
ふんだんにはない。英語の -er から。戦後の語。

88 :
一般的でないのなら、ルーツに近いものだと考えるのが合理的。
作られてすぐ流行したと考える方がそれこそ今の商業的な考えだろう。
新しい事を言うにはそれだけの力が必要なので、時期を待たなければいけない。
その時に忘れていては元も子もないので、考えたときに書いておいた方がいいだろう。
たとえばコペルニクスの地動説のように死ぬまで言えなかったような事であれば、
成立した時期と発表された時期は全然違う訳だし、むしろ本人は墓まで持っていったのに、
後になって誰かが持ち上げた為にブームが起きて、当時は理解されなかった作品まで
掘り起こされて神様扱いされるなんてのは今でもよくある話だろう。

89 :
今様についての記述で古いのは清少納言や紫式部のコメント。
現存最古のいろは歌は 1079 年のもの。
「勅撰今様集」ともいえる『梁塵秘抄』の成立は 1180 年頃。
いろいろな仮定を重ねるより、いろは歌は 11 世紀に入って出来たと考えた方が合理的であることは揺るがない。
ウィリアム・オヴ・オッカムの剃刀だよ。

90 :
>>89
何が仮定なのさ?
むしろその100年の差はなんだ?

91 :
メンバーが分裂してるって、当時のファンとしても心が痛いよ。
もうどうにもならないのかな・・・・?

92 :
>>87
戦前から使われていたと思うが。

93 :
>>91
誤爆ですか?

94 :
赤ら顔のらは何なんだ?

95 :
赤らむの語幹+顔

96 :
>>90
> 何が仮定なのさ?
・スタイル草創期の作品が残っている (まだ作品数が少ない)
・遊戯歌が草創期のスタイルを使った (よく出来てるねと多くの人に感心してもらいにくい)
・人伝・口コミが主な流通手段だった時代に、いったん埋もれた作品が復活した。
今様が広く知られるようになってから誰かがいろは歌を作った、と考えれば、上のようなありそうにない
(絶対ありえないわけではないが) 仮定を重ねる必要がない。完勝。
> むしろその100年の差はなんだ?
10 世紀末〜11 世紀初頭から流行し始め、11 世紀後半には一般的だったが、
俗謡が貴族文化の 1 つと認められるまでに、さらに 100 年を要したということ。
『中右記』1094 年 1 月 3 日条には、殿上で今様を朗詠したとある。

97 :
>>96
草創期というのはそっちが言い出した話であって、そんな仮定無くたって一向にかまわない。
今作れる歌は昔でも作れる、作れない理由があれば別だけどそんなものは提示されていない。
今様なんて知らない人でも、三、四、五の繰り返しのリズムを思いつくことは可能だろう。
他人の真似しかできない人はそもそも新しい歌なんて作れない。
>俗謡が貴族文化の 1 つと認められるまでに、さらに 100 年を要したということ。
それこそ仮定だ。
おたくという言葉ができる前からおたくは居るだろう。

98 :
>>97
> 草創期というのはそっちが言い出した話であって
>>88 が言い出した話。
歌でなければならないというのもそっちが言い出した話。
「あめつち」は歌ではなかった。仮定でなく事実。
> 今作れる歌は昔でも作れる、作れない理由があれば別だけどそんなものは提示されていない。
昔の歌と今の歌とが同じでないという事実が、理由がなくても昔は作れなかったことを示している。
事実、事実、事実。
> 他人の真似しかできない人はそもそも新しい歌なんて作れない。
すべての人が他人の真似しかできない。しかし完璧に真似することもできない。
違ってしまった所を「新しい」と称する。
「あめつち」も、「あめ・つち・ほし・そら、やま・かは・みね・たに…」と、単語を 4 個ずつ並べるスタイルは、
「天地玄黄」で始まる『千字文』の模倣だった。
> それこそ仮定だ。
今様が貴族の間でも流行していたという記述は少なくないのに、『梁塵秘抄』より前の実作は
いろは歌を除いて、1 首も残っていない。
事実、事実、事実。

99 :
>>92 なかったと思う。本土から入った事物は、ヤマトグチで「ショーボーシ」「センメンキ」と呼ばれていたはず。

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