2012年1月2期日本史38: 南北朝時代を研究するスレ (63) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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南北朝時代を研究するスレ


1 :11/05/21 〜 最終レス :12/01/18
南朝北朝

2 :
西朝東朝

3 :
南朝鮮北朝鮮

4 :
アンサイクロペディアで南北朝時代の項目に
足利尊氏と北畠親房が天竜寺で密会して脚本を練ってた茶番劇と書かれてて爆笑したw

5 :
南朝の公家は誰も日記付けてなかったのか?

6 :
湮滅

7 :
>>5
阿野家以外室町朝廷で生き残れなかったんだから無理だ
関係ないが土岐頼員って密告後どうなったんだ?
後醍醐から見たら憎い裏切り者だし、幕府からしても前科持ちで信頼できない
元弘の乱で幕府、建武新政で後醍醐派に粛清されて当然の立場だと思うが
縁戚の斎藤一族は岳父利行が鎌倉で吐血死、その息子は直義派として師直残党による暗、従兄弟は 六波羅で大量自決のようだが

8 :
義教の時に編まれた『新続古今集』には、
南朝の歌合で詠まれたものも「よみ人しらず」で入っているとか。
日記はともかく、和歌資料はちゃんとチェックしていたみたいだな。

9 :
南朝の和歌は花山院長親あたりが持ち込んだんだろう

10 :
10

11 :
楠木正成

12 :
新田義貞

13 :
足利尊氏

14 :
足利直義

15 :
北畠顕家

16 :
護良親王

17 :
高師直

18 :
高師泰

19 :
赤松円心

20 :
今川貞世

21 :
u

22 :
てy

23 :
後醍醐天皇

24 :
後醍醐天皇が兵庫の福厳寺に泊まられて置きながら、
わざわざ薬仙寺から水をとりよせたか?
ご利益とかの理由ではなく、
福厳寺で頭が痛くなったことを、
何かを盛られたと考えたようです。
そしてわざわざ薬仙寺より水を取り寄せたのが真実です。福厳寺は鎌倉幕府の菩提寺建長寺の関連で大覚という坊さんの流れで、後醍醐天皇は信用していなかった節があります。
鎌倉幕府は後鳥羽・後醍醐と二人の天皇を隠岐に
流していますが、
後鳥羽天皇が毎夜夢見て果たせないまま崩御された
「帰京」を後醍醐天皇は僅か一年余で実現されたのでしたね。
かって皇位にあった身で流人生活を送ったのはこの他、
淳仁天皇、崇徳上皇、土御門上皇、順徳上皇ですが、
配流地から脱出したのは後醍醐天皇だけですものね。
すざましいまでの執念の天皇です。
倒幕を掲げる後醍醐天皇が鎌倉方の密命を受けた使者
によって毒を盛られると考えられたとおもわれます。
臨済宗南禅寺派の福厳寺は後醍醐天皇の史跡
として有名です。また神戸の港の歴史におい
ても重要な地位をしめます。境内には塔頭二ヶ寺、
起雲庵、常牧庵がありましたが、明治後合併廃
寺されましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲
庵と言う事になりました。また和田〔和田岬〕
にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在は福
厳寺に合併されています。

25 :
二条師基

26 :
四条隆資

27 :
北畠顕能

28 :
南北朝研究って、ほとんど前期(建武〜観応)に偏ってるよな

29 :
後南朝

30 :
後亀山天皇(?〜1424)
いいかげん生年確定させろや!

31 :
たぶん1350年でいいのでは
明治神宮で見た天皇表でもそうなってた

32 :
>23 :おさかなくわえた名無しさん[sage]:2008/03/06(木) 12:21:49 ID:JuOKz+XA
> あの歌はだな、弟の後亀山天皇に譲位する兄・長慶天皇が詠まれた歌だ。
> (「わが君は〜」で始まる似たフレーズの歌は長慶天皇の時代以前からあったが、
> それをアレンジして「君が代は」のフレーズで詠んだのが長慶天皇)
> 天皇が天皇に、あるいは兄が弟に贈った歌だから「君が御代」と敬語にする必要は無いわけ。
> また、「君が世」でなく、「君が代」なのは、長慶天皇が興味あったのは、後亀山天皇の「治世」ではなく、
> 「在位期間」だったから。
国歌「君が代」について、この話の出典を知ってる人いる?
実は昔、似たような話をNHKの本で読んだ気がするんだな・・・

33 :
>それをアレンジして「君が代は」のフレーズで詠んだ
長慶天皇は歌人だし、そんなセコイことしない

34 :
>>30-31
系図纂要が1347年5月11日生としているのは、南朝編年記略が出典っぽい。
この手の俗書は扱いづらいし、後世に与えた影響を考えると本当に罪深いわ。

35 :
そもそも長慶が1343年生というのは正しいのか?
後村上16歳の時に生まれた皇子ということになるが

36 :
熊沢天皇がアップを始めました

37 :
>>5
宗良親王が編纂した「新葉和歌集」みたいに
南朝の記録が残ってるものもあるな(日記ではないが)。
南北朝時代の一次史料、「園太暦」は北朝の公家、洞院公賢の手によるものだが、
何度も南朝との交渉役となり、かなり南朝のことが記されている。

38 :
>>35 山階宮晃親王は伏見宮邦家親王が満13才の時の子だから、それ考えると十分あり得る。
北陸宮も以仁王14才の時の子だし

39 :
>>38
生物学的に可能かどうかということは別にして
南朝の天皇・皇族たちの年齢ははっきりしないのが多いがな
長慶天皇の母親の出自も諸説あって系譜が定かでない

40 :
長慶・後亀山の母と推定される嘉喜門院のことだね。
従来、嘉喜門院を阿野実為の女とする村田正志の説が有力だけど、
世代を考慮すると、この説がまず成立しないことは明らかなんだな。
阿野実廉(1288年生) ― 季継 ― 実為 ― 嘉喜門院 ― 長慶(1343年生)
1世代平均=13.75年になってしまう

41 :
近所の工事現場で土の中から大きな甕が発見されて
中から南北朝時代に流通してた北宋銭が大量に発見されたらしい・・・

42 :
13才、14才なら元服してるんだから子がいても不思議ないと思う。

43 :
吉野山近傍が宮居と成った理由。
此処吉野山が天皇が坐す宮居に相応しい強力な神霊結界のカゴメカゴメの中心部(加護の中)のため。
吉野山(皇祖高祖神の坐す霊山)を中心にいわゆる「太陽の道」の東に天照大神の滝原宮と伊雑宮。西に淡路島の伊弉諾尊(夕日の神格)の先山。(古代よりの不文律のデフォルト)
始めセイマン、ドウマンのカゴメ結界の加護の中
天武天皇が吉野山に向かったのも同様な理由

44 :
>>40
阿野実為は阿野廉子(後村上母)の甥で、後村上天皇の従兄弟。
後村上と同年代説があり、嘉喜門院の父とは言い難い説がある。

45 :
阿野家は南朝一筋を貫いたイメージがあるだろうが、
実為の子の公為はさっさと北朝に行ってるんだよな。

46 :
「藤氏一揆」
関白 近衛経忠
坂東管領 小山朝郷
なんかカコイイ!

47 :
経忠は南朝では関白になってない

48 :
構想段階で終わってしまったからね。
近衛を中心に、小山、白河ら北関東〜南奥州に多い藤原氏系武士を糾合して天下の実権を掌握しようとしたもの。
或いは、南朝とも北朝とも違う、第三の勢力を経忠は志向したとも言われる。

49 :
天皇なしで第3勢力は難しいと思う。そもそもそんな構想が本当にあったのか疑わしいよ。
小山が白河結城同様一揆を組織して中立勢力になろうとしたことを親房が
被害妄想的に拡大解釈だけしたような気がするがな。
この件で疑われた興良親王や新田義興は気の毒としか言いようがないな。

50 :
興良も後年何を血迷ったか、賀名生行宮焼いちゃってるけど

51 :
>>49
北畠親房は興良に対しては冷淡な印象を受ける。
小山が北朝に応じて身柄を拘束されると、「軽率な振る舞いの結果だから、
いまさら惜しくもない」みたいなことを述べているとのこと。
宗良や懐良などは別としても、名前すら伝わらない皇子・孫たちのなかには
使い捨ての消耗品同然の扱いの者もいたようだし

52 :
宇津峰宮が来たから、興良親王はポイしたんだろ

53 :
新田四天王とか三木一草とかあるのに
足利四天王はない
無理やり想定するとしたら
やはり今川、斯波、仁木あたりになるんだろうか

54 :
>>45
合一後、とっとと北朝に出仕したってこと?

55 :
合一前のこと
補任によれば、公為は1382年に北朝で公卿に列している。
しかも元左中将とあるから、相当早くから京都にいたはず。
実為が家の存続を図って、子を京都に帰したのかも知れん

56 :
>>55
公為は南朝での補任じゃなかったか。

57 :
南朝一筋で分裂しなかったために南朝公家で唯一、合一後も生き残れた(厳密には経忠流近衛→花山院もいますが)と聞いてたんだがやっぱり分裂してたのか

58 :
なんで菊池武重は処刑されなかった?

59 :
>>56
公卿補任は北朝の補任しか載せていない(正平一統時を除く)

60 :
ヴぃ

61 :
ヴぁ

62 :
後南朝のその後を研究するスレ
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1326459104/

63 :12/01/18
1365年の南朝左大臣って誰?
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