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2012年1月2期日本史41: 継体天皇について執拗に語ろう 古墳2基目 (606)
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継体天皇について執拗に語ろう 古墳2基目
- 1 :11/10/18 〜 最終レス :12/01/18
- 前スレ↓
継体天皇について執拗に語ろう
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286422874/
謎が謎を呼ぶ大王、継体天皇専用スレッドです。
応神五世孫って本当?息長氏なの?
なぜ何度も王宮を移したの?
そもそも出身は越前?近江?それとも河内?
なぜ任那四県を百済に割譲したの?
磐井が乱を起こしたわけは?
どの崩年が正しいのさ?
阿蘇ピンク石ってよく聞くけど?
安閑宣化と欽明の二朝並立説ってどうよ?
他にもいろいろ論点はあるけど、気軽に討論してね!
ただし学問板住人らしく分別あるレスを心がけましょう。
マルチやスレチやコピペはスルーで宜しう。
では、どうぞ。
- 2 :
- 現時点で前スレは986
全て埋まってから書き込みましょう
- 3 :
- >>1
何度も王都を移動させたのは、継体天皇に限ったことじゃないよw
- 4 :
- でも記紀による限り、5,6世紀の大王の多くが一代一宮だろう?
だからこそ、「○○宮御宇天皇」という呼称も成り立った訳だし。
- 5 :
- 五世紀までは将来天皇家になる資格のある王のようなものが日本の各地にいただろうな。
しかし、六世紀になるとはっきりといまの天皇家が超越的な姿をあらわしてくる。
天皇でいえば継体天皇ぐらいからだな。
しかしこの時代はまだ内乱続きだから天皇権が安定したというわけではない。
- 6 :
- 嫁さん尾張の女。
- 7 :
- >>5
いや、天皇を神格化して一系に絞ったのは天智・天武あたりじゃないか?
それ以前、例えば蘇我氏なども天皇になる権利を持った王だった
- 8 :
- >>1さん
乙です!
みんな、スレ立てしてくれた人にお礼くらい言えよ!
卑しくも学術板の住人だろ!
プライドくらい持てよ!
- 9 :
- また糞スレ立てんな、カス
- 10 :
- >8
いやあ照れます
ありがとさんです
>9
2chらしい謝意の表現だと曲解しておきます
ボクのような歴史のド素人でも取っ付きやすい
興味深い話題だと思いますよ
正統な継承なのか新王朝なのか
全くの新朝なのか旧勢力の巻き返しなのか
考えてるとワクワクしてきますね……
ではどうぞ
- 11 :
- 古代は有力豪族の輪番制だった大王の地位が
継体ぐらいの頃にはすでに、現天皇家の血統に
固化してしまっていたのではないだろうか?
- 12 :
- 応仁5代の孫と言う表現が、後代の朝廷による王統断絶のための保険のように思う。
5世王にまで即位の可能性を残しておけば、天災疫病争乱怖いものなしだから。
- 13 :
- >>11
輪番制ではなく、祭政両統制な。
律令体制の時でも、その形跡が残っていたよ、
太政官と神祇官の祭政二元体制。
中臣氏はその両方を掌握し、太政官を握るものが藤原氏を名乗り
神祇官を握ったほうが大中臣氏を名乗った。
これは、中臣氏が、ヤマト王家を参考にしたと思われる。
ヤマト王朝初期も、祭政の二元体制で
尾張氏の先祖が祭祀を掌握し、天皇家の先祖が政治を掌握した。
しかしながら、途中、天皇家の先祖が尾張氏から祭祀の継承も奪おうとしたので
倭国大乱が起こった。ちょうど、欠史八代のあたり。
- 14 :
- 権威と権力がわかれていたってことはあるだろうな。
天皇は政治的権威、それ以上に宗教的権威だった。
なんといっても神主の親玉だからな。
天智天皇と天武天皇は例外的に中国的皇帝に近い人だったけどな。
- 15 :
- その倭寇大乱を起こしたのが、
ミマツ彦(孝昭天皇)のだろう?
- 16 :
- >>1 過去スレも貼ろう
継体天皇は
http://mentai.2ch.net/history/kako/980/980907202.html
継体天皇って先代達と血つながってんの?
http://mentai.2ch.net/history/kako/997/997471414.html
●継体天皇の生立ちについて考察すれ!(第二部)●
http://mentai.2ch.net/history/kako/1005/10059/1005968505.html
【即位1500年記念】 継体天皇の謎 【応神五世孫】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1182189737/
【珍説開陳】継体天皇に関する真実【定説打破】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1220494008/
- 17 :
- ミマツ彦の妃は、倭王だった天忍男命の王女の世襲足姫命で、
その間に産まれた長男の天足彦国押人命に
正当な倭王の祭祀を継承させようとしたとか。
つまり、母系継承。
それに対して、天忍男命の男系の親族が激怒し、倭国大乱が起こった。
怒ったのは、建斗米命あたりか?
彼は天戸目命の嫡子。
- 18 :
- >>16 1つ抜けてたw
【磐井の乱】継体天皇の憂鬱【辛亥の変】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1243695024/
- 19 :
- 継体は大王の女系の子孫で、大王の外戚で、大王の娘を后にした。これは確実。
父系の子孫かどうかはわからない。応神の実在自体が怪しい。
- 20 :
- とりあえず、
・オホト王は越前・近江一帯に勢力を持つ地方豪族。
・オホト王の母方の先祖はイクムネリヒコ大王(垂仁)。
・オホト王の父方の家系はオシサカオオナカツヒメ(允恭后)を出した前王家の外戚。
・ワカタケル大王(武、雄略)の死後、倭王権は実質空位状態の混迷状態。
もう、これで十分だろ。
つまり、
母方で4世紀頃の三輪王権の流れをくむ、近江・北陸の地方豪族のオッサンが、
河内王権との外戚関係を理由に、ワカタケル死後の大王位に推挙されたということ。
応神5世の孫?
んなわけねーよw
- 21 :
- 推測の域を出ない場合、文献を重んじるしかないね。
怪しい部分だけを重視し、きちんと
「五世の孫」と書いてある部分を軽視するのは恣意的だ。
同一文献の取捨選択の権利がいったい誰にあるというのか?
- 22 :
- 母系の血統は機能しないはずだよ。
それに外戚の血縁者など、それこそ無数にいただろ。
武列の死後、武烈の系譜の三世王、四世王がいないのは不自然だから
恐らくいたのだろう、だから継体はそれら武烈の系譜の王族を
滅ぼして王になったはずだ、という主張をした者がいたが
それなら外戚の系譜を引く者など、継体のほかに
星の数ほどいたはずで、そのなかで継体に王位継承が求められた、
というのは、彼が王族である場合以上に不自然ではないか。
やはり遠くとも継体が武烈の男系の系譜に
かろうじていた人物と捉えたほうが自然だ。
「母系相続があったはずだ」という発想は
継体が王家の男系であった、という発想以上に不合理なものだ。
その前提を崩した議論は説得力がない。
- 23 :
- 継体非男系論が奇異なのは
継体の男系相続を不合理だと主張しながら
(彼らが)男系の系譜を相続していないとする継体が
王位を継承することになった不合理を問わないことである。
- 24 :
- 日本語で
- 25 :
- 倭王武以前だって、男系の世襲王権が確立していたわけではないだろう。
4世紀の三輪王権だって、記紀の系譜どおり男系父子相続だったわけではない。
ミマキ、イクメ、オシロワケはともかく、ワカタラシやタラシナカツは架空の王だし、
大和地方の古墳群からも、複数の王家の存在が想定できる。
そのあとの河内王権にいたっては、明らかに別系統の王権。
河内王権内部だって、讃・珍の系統と済・興・武の系統は異なる家系と考えられる。
仮に大空位時代にオケ・ヲケの播磨王家があったとしても、これまた別の家系だろう。
要するに、継体以前の大王なんて、有力豪族の回り持ちだったってこと。
- 26 :
- オホド王は母方の縁者だが
そうした血縁とか関係なく大王になった
その可能性を>>22-23が勝手に無視してることは分かった
- 27 :
-
たしかに五世の孫では誤魔化しにくいなw
うそだと周りの豪族が納得しないだろ?
劉備玄徳は何世ってことになってたっけ?
- 28 :
- >>25
おまえの論には、何の説得力もないよw
持ち回りなら、普通に持ち回りだったと書くわw
- 29 :
- >>27
5世程度ではごまかしがきかない。
ちなみに有力候補は継体だけではない。
仲哀天皇の6世孫も有力候補だった。
でも、応神天皇の5世孫の継体が選ばれた。
- 30 :
- 倭彦王だな。
仲哀天皇の5世孫だな。
でも、家系の近さから言ったら、継体のほうが
応神天皇の5世孫だから近い罠。
- 31 :
- >>27
家系図なんて勝者が勝手に書き換えられるものなのに
今の天皇家は神代から直系相続されてきたと思ってる?
兄である宣化天皇に男子があったのに前王権の血を女系で引く
欽明の系統に皇統が移ったのもそれを裏付ける
- 32 :
- 継体天皇が即位しても、近江や越前の豪族たちは
ヤマト王朝の中央政界に進出できてないんだよなw
相変わらず、大伴氏とか物部氏のような
ヤマト王朝の中央政界の豪族たちが実権を握っている。
完全に担がれ。
こんな状態で新王朝説なんて無理ありすぎだろうw
>>31
おまえの論理はむちゃくちゃだなw
- 33 :
- >>31
直系相続されてきてないだろう?全然。
少なくとも、皇室の系図を見る限り
皇祖ニニギ命自体が、父親の天忍穂耳命の跡目を継承できていない。
天忍穂耳命の跡目を継承できたのは、長男の天火明命のほうだろう。
二男のニニギ命のほうは、九州高千穂に飛ばされたんだから、
ヤマト王朝の完全な傍系一族。
しかも、ニニギ命の男系子孫の中でも、現在の皇室は傍系一族。
ワカミケヌ命(神武天皇)は、ニニギ命の男系子孫の中でも傍系の出身。
ヤマト王朝の傍系の傍系の四男坊だよね、ワカミケヌ命は。
また、ワカミケヌ命(神武天皇)の男系子孫の中でも
現在の皇室の系譜は傍系の系譜。
特に注目されるのは、ミマツ彦(孝昭天皇)の子供で誰が本来の嫡流だったか。
どうみても、長男の天足彦。
ただし、彼はもともとヤマト王朝の宗家だった尾張氏の先祖の養子にしようとして
ミマツ彦は自分の跡目には、二男の倭足彦のほうを継承させたんだろう?
- 34 :
- >>27-30>>32-33
何らかの事情があるのかもしれないからレスを分けるのは仕方ないかもしれない
でもそれをいいことに>>30みたいな自演するのは見苦しいぞ
- 35 :
- 後世に足利尊氏が征夷大将軍になったのと似てるかも
足利家が源氏だから将軍になったわけじゃなくて
権力を握ったのが源氏の血縁だったというだけ
源氏じゃなきゃダメって意識は少なくとも徳川時代ほどはなかっただろう
- 36 :
- >>32
逆に継体が本当の王族だったら一族郎党全員天皇の実の子孫なんだから
大和に一緒に連れてきて重要なポジションにつけただろ
継体が地方王だったからこそ手白香皇女への種付け馬扱いされてぽいされ
大和から遠い摂津に葬られたんだよ
手白香皇女の墓は大和にあるからね
- 37 :
-
>>31ー>>32
おまえの論理はむちゃくちゃだなw
- 38 :
- >>35
征夷大将軍の歴史
大伴氏→坂上氏→文屋氏→源氏→藤原氏(摂家将軍)→皇族(宮将軍)→
護良親王→足利氏→コ川氏
この板の人間なら当然だと思うが鎌倉時代以前は征夷大将軍が源氏でない時代のほうが長かった
征夷大将軍が源氏だなんて徳川家康が捏造家系図作ってから始まったこと
- 39 :
- >>35
それと継体即位は何の関係もない
- 40 :
- >>35
河内源氏の宗家が鎌倉三代で滅んだ後、河内源氏の宗家的存在が足利氏であることは
衆目の一致するところで、北条氏もしきりに婚姻関係を結んで警戒しつつも敬意を持って処遇していた。
北条氏の政権が行き詰れば武士の統領としてかつがれるのは血統からして当然。
- 41 :
- 天下構想のさらに背後に、一種の信仰として用意されていたのが「源平交替思想」という伝統的な歴史観であった。
源氏と平家が交替して天下を取るという単純な史観であるが、武士のあいだではこれは『太平記』の頃から信じられていた思想であった。
清盛の平家、頼朝の源氏以来、北条は平家、足利は源氏であったから、次は伊勢平氏の早雲が天下を取るのは当然だという理屈になる。
彼がとくに北条を名のることにしたのも、この平氏のつながりが基礎にあったことはいうまでもなかろう。
この理論によれば、藤原氏の裔である上杉家など取るに足りない敵なのであって、早雲はことさらにそのことを家臣たちに聞かせて励ましていたという。
素朴な理論だがこれも一種の世界観なのである。
この思想はのちに信長や家康にまで引きつがれて行くのであるが、その際、誰よりも彼ら自身の行動がこの思想に縛られていたのである。
信長は平氏らしく、家康は源氏らしく自分自身の行動を枠づけていた。
そういう枠組みがなければ彼ら自身の決意が揺らぐのであり、そういう不安な時代が南北朝以来ふたたび武士たちのうえに忍び寄っていたのである。
- 42 :
- >>38
徳川氏の場合は、源氏長者の地位がほしかったら
源氏だということにしたんだろう?
本来の家系は、陰陽道の名家だった鴨氏の末裔。
その先は、大田根子までつながる。
豊臣秀吉のほうは、近衛家の養子かなんかになって、藤原氏長者になっているし。
征夷大将軍=源氏ではないけど、足利家が天下を取るのに
清和源氏・河内流の最大勢力だったことは大きく影響しているだろう。
鎌倉幕府以降、河内源氏の家系の意味が増大していたから。
とくに、鎌倉幕府の経緯が、三代で源家が断絶、外戚の北条家が政権を掌握したから
打倒、北条家とする場合には、
河内源氏が旗頭にはうってつけだったわけで。
- 43 :
- 神功皇后、継体天皇、天武天皇
いずれの皇位継承に関しても
尾張氏の支援が大きく関係している。
尾張氏は、ヤマト王朝の始祖のアマテル(火明命)の嫡流の子孫であり
天孫の氏長者ともいえる家系だから。
政治的には、とっくに、ヤマトトトヒモモソ媛命の時に
神武皇統が倭王になっていたけど
あいかわらず、祭祀の継承からみたら、尾張氏こそが天孫の嫡流だったんだろう。
でも、最後の天武天皇が、それを葬り去ろうとした。
- 44 :
- 天孫につながる始祖については、言ったもん勝ちみたいなとこがあるからな。
権威づけのためのでっち上げなんだろうが、実力が担保されると本当になってしまう。
その程度のものだ。
古代史族の家系がどこからきているかという話しは、話し半分でいんじゃね。
- 45 :
- >>41
早雲って北条を名乗ってたの?
- 46 :
-
「継体天皇とうすずみ桜」
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page836.html
- 47 :
- >>44
でっちあげと主張するのは飽きたよ。
実力通りで家系を創作するのなら
記紀などで、藤原氏はもっと名家の家系にしただろうに。
藤原氏の先祖の記述を見たら、中堅クラスの出自だよ。
大伴氏、蘇我氏、物部氏などよりも、圧倒的に格下扱い。
記紀を編纂した時代、藤原氏の権力がすごかったが
記紀の内容で見たら、藤原氏の先祖たちは微妙。
藤原氏に有利な記述だといったら、大化の改新の解釈ぐらい。
記紀編纂時は、律令体制導入にすすんでいたが、
少なくとも、大化の改新の時は、蘇我氏が律令体制導入派でリベラル派
中臣氏が反律令体制導入派で守旧派。
それが、記紀では、なんとなく、中臣鎌足のほうが改革派みたいな論調になっている。
でも、よく読めば、どうみても、蘇我氏が改革派、中臣氏が保守派。
- 48 :
- 尾張氏というのは、中央政界では殆ど存在感がない。
でも、中央政界で皇位継承争いが激しくなると
かならず、それに介入し、重要な役割を示す。
三種の神器の天叢雲剣も、本物を保持していたのは、尾張氏。
神武皇統が保持していたのは、そのレプリカ。
- 49 :
- >>47
藤原氏は先祖の出自より、天皇家と姻戚関係をがっちりつくってタイアップすることに興味があったんだろう。
- 50 :
- てか、藤原氏が最盛期となるのは、もっと後代。
記紀編集のころは、大したものじゃない。
鎌足が有名になった程度。
- 51 :
- >>47
鎌足は藤原氏の祖だろ
鎌足以前の系図なんてあるのか?
- 52 :
- >>42
足利尊氏は源氏だったから旗頭になれて天下を取りやすい立場にいたことは確かだが
源氏だったから将軍の座が転がり込んだわけではない
もし別の人物が天下を取ってれば尊氏は将軍になって幕府を開くことはなかった
それと同様に継体帝も自ら実力をつけなければ大王の座が転がり込んでくるとは考えにくい立場で
その実力を築くのにもしかしたら皇統があってそれが間接的に役立ったという可能性はあるが
それでは皇統が直接的要因になったという意味にはならない
- 53 :
- >>51
中臣氏は、祭祀を取り仕切る家系で、中流貴族。
中臣鎌足の父親は、中臣御食子。
飛鳥時代の政治家。
中臣氏は鹿島神宮とも関係が深い。
彼らの本家筋が鹿島神宮の大宮司家になっている。
鎌足の家は、その傍系。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02109.htm
- 54 :
- 日本書紀、神代紀によると、中臣氏の先祖は天兒屋命。
藤原氏の先祖には記述がない。藤原氏の先祖は中臣鎌足なので。
- 55 :
- 中臣氏は、祭祀を仕切る家柄だったから
政治よりも宗教関係に近い家柄だった。
だからこそ、外来宗教の仏教に反対した。
しかしながら、のちにその方針を変え、仏教も認めるようになる。
また、中臣鎌足は家系的には神祇官になるはずだったけど、
それを辞退し、政治のほうに進出していく。
結局、中臣鎌足の子孫が藤原氏を名乗り政治の世界を掌握し
弟の中臣国足の子孫が大中臣氏として神祇官を掌握する。
- 56 :
- 蘇我氏の天下になってからは、蘇我氏がしょって立つイデオロギーが仏教だから、いつまでもこれに抵抗していられない事情がある。
そこで形としてはやむなく受け入れたのだろうが、これは天皇家のしたたかさの最初の証明だったといえる。
神道の親玉が仏教を受け入れたんだからな。
- 57 :
- 何度も言うが、倭国では祭祀と政治が分かれ、並立していた。
中臣氏というのは、祭祀を仕切る重要な家系で
実際の政治のほうからは遠い家系だった。
それを変えたのが、中臣鎌足。
一方、祭祀のほうでも中臣氏は神祇伯を握り続けた。
結局、兄の鎌足の男系子孫が藤原氏として太政官を掌握
弟の国足の男系子孫が大中臣氏として、これまで通り神祇官を掌握した。
ちなみに、この鎌足、国足の何代か前に分かれた一族に
鹿島神宮の大宮司家になった中臣氏がおり、
そちらのほうが、中臣氏本来の嫡流。
また、中臣氏の先祖で、モモソ媛命、崇神天皇時代に活躍した人物に
梨津臣命というのがいるが、
彼は、西暦240年代ぐらいに中国の洛陽に外交官として派遣されている。
中国の史書の魏書には、倭国の大夫の難升米として、記述されている。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02109.htm
- 58 :
- 神祇官の家系だったが中臣氏が
太政官と神祇官の両方を掌握
兄の家系が太政官を掌握し藤原氏を名乗り
弟の家系が神祇官を掌握し大中臣氏を名乗ったが。。。
これと似たようなことが、ヤマト王権の創成期にもあり
その時は、官僚ではなく、トップの王自体が
祭祀を行う形式上の倭王と、実際の政治を行う男弟があり、
兄の火明命の家系が祭祀を、
弟のニニギ命の家系が政治を行い、一族で祭政を分担していた。
中臣氏も、それを参考に、祭政の両方を
最高位の官僚として掌握したように思う。
- 59 :
- >>56
そのころになると日本の国としてもそろそろ仏教が必要になってきた。
東アジアの情勢をみると日本はいつまでもまとまりのない国のままではいられない。
東アジアのどの国もがそうであるように、中央集権国家を成立させなければこれらの国からの脅威をまぬがれない。
しかし、それぞれの部族がそれぞれの神様を持っているようでは、中央からの威令は行われないから、この際、
部族信仰を超えた普遍宗教である仏教を興隆させることにしよう。
こういうきわめて政治的な理由で、仏教の本格的な受け入れが始まったんだと思う。
これが聖徳太子の時代だ。
- 60 :
- >>59
中央集権体制がどうかは、それは解釈の違い。
大陸諸国から見れば、島国である日本は、幕末まで連邦制国家だよ。
仏教の導入は、先祖の祭祀を重視する神道から
家系ではなく教義や信仰で普遍的に縛る仏教のほうが
ヤマト朝廷には好都合だったんだろうね。
それまでは、占いとかで政治きめたりしていたしねw
また、仏教の導入で、天皇家と尾張氏の関係も微妙になったと思うね。
尾張氏が天皇家よりも優越に立てるのは、
家系上の祭祀の面も大きかったと思うから。
でも、仏教思想では、家系とか祭祀とか関係ないしな。
- 61 :
- >大陸諸国から見れば、島国である日本は、幕末まで連邦制国家だよ。
それはないな
- 62 :
- 古く継体天皇のときに北九州の各地に屯倉を置いたという記事が書記にある。
このころこそ、日本というものはまだ統一国家とはいえないけどね。
北九州にこうした施設を設けるのは、一種の国境意識ではないだろうか。
何で国意識ができるかといえば朝鮮、中国の状況だ。
たとえば新羅に法興王という王様が出て国家組織を整えた、それも原始的な形で境域を張るんではなくて、
ちゃんとした中国的理念による中央集権国家らしい、ということになれば、
いやでも国意識ができてくる。
聖徳太子時代はこうした前史をふまえての国家をつくりあげようとしている。
- 63 :
- >>62
そういう話には興味がないね。
そんなこといったら、戦国時代、南北朝時代だって、
京都朝廷に、足利幕府が存在していたが
各地で諸侯たちが独立的な行動に出いていた。
- 64 :
- >>62
モモソ媛命(卑弥呼)、三巻入彦(崇神天皇)の時代も
伊都国に、一大率を設置して、諸国(九州諸国)を監視していたって
魏志倭人伝に登場するだろう。
こういうことは昔からだろう。
- 65 :
- >>64
邪馬台国とヤマト王権は何の関係も無いよ。
邪馬台国=ヤマト王権ならば、なんで記紀は、ヤマト王権の九州制圧を景行〜神功皇太后の時代としているんだ?
- 66 :
- 仏教よりも儒教の方が早くから入ってきている。
しかし儒教はつきつめると天皇制とは相容れない。
天皇制は世襲だ。
儒教思想は帝王に徳がなければ世襲を許さない。
ところが聖徳太子の時代になると憲法にしても冠位にしても基本的に儒教だ。
推古朝の政治は儒教の政治だったと思う。
- 67 :
- >>65
>邪馬台国=ヤマト王権ならば、なんで記紀は、ヤマト王権の九州制圧を景行〜神功皇太后の時代としているんだ?
そんなことしてないぞ。
記紀を読めばわかるけど、何度も統一、分裂を繰り返している。
景行天皇の時に九州へ遠征しているが、その後、また、仲哀天皇・神功皇后の時も
九州へ遠征している。
また、その後、継体天皇の時も、九州の磐井が反乱し、また遠征だ。
定期的に遠征してる。
そもそも、ワカミケヌこと神武天皇は九州の日向の知事の家系だし。
文献が豊富な時代なんかでも、いついつ九州制圧したかなんて議論
無意味だろうがw
制圧しても、また反乱がおこって、、あた制圧、その繰り返しだ。
古代でも、その繰り返しが起こっていたなんて、誰でもわかる。
- 68 :
- 邪馬台国=ヤマト国であり、
狗奴国=許乃国、
投馬国=出雲国
卑弥呼(モモソ媛命)の死の直前に戦った相手は
狗奴国(許乃国)の王の卑弥弓呼(彦命=武埴安彦命)であり、
その副官の拘右智卑狗(河内彦)。
武埴安彦命の母方と妃が、河内彦の娘たちだった。
- 69 :
- 倭人伝を記紀の神話・伝説に安易に結びつけて妄想するのはキモイ
- 70 :
- すれ違いになっているが、
纏向遺跡って邪馬台国という論調が強くなっているんだよね。
- 71 :
- 邪馬台国畿内説には同意だが、記紀神話を安易にあてはめる必要はない。
崇神=ミマキが実在だとしても4世紀の人物だしな。
- 72 :
- >>71
その説は、だいぶん前の説でしょう。
いまだと、3世紀から4世紀と幅を持たせた説になっている。
- 73 :
- 早く武烈が悪く書かれている理由を教えて。
- 74 :
- >>70
北九州産の土器がろくに出土しないのにね。
- 75 :
- >>74
遠いからじゃないの?
でも北九州からのものも
普通に出土されるしな。
- 76 :
- ._a 、
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継体天皇=男大迹大王(507-531年在位)
- 77 :
- AAあったのかよww
- 78 :
- <天皇系図>
1神武天皇─2綏靖天皇─3安寧天皇─4懿徳天皇─5孝昭天皇─6孝安天皇─7孝霊天皇─8孝元天皇┐
┌──────────────────────────────────────────┘
└9開化天皇─10崇神天皇─11垂仁天皇─12景行天皇┬日本武尊─14仲哀天皇─┐
└13成務天皇 │
┌──────────────────-────────────────┘
└.15応神天皇┬16仁徳天皇┬17履中天皇─市辺押磐皇子┬24仁賢天皇─25武烈天皇
│. ├18反正天皇┌20安康天皇 └23顕宗天皇
│. └19允恭天皇┴21雄略天皇─22清寧天皇
└─稚野毛二派皇子─意富富杼王──乎非王──彦主人王──26継体天皇─┐
┌───────────────────────────────────────.┘
│┌27安閑天皇┌30敏達天皇─押坂彦人大兄皇子─┬34舒明天皇┬38天智天皇┬41持統天皇
└┼28宣化天皇├31用明天皇─厩戸皇子(聖徳太子)│ └40天武天皇.├43元明天皇
└29欽明天皇┼33推古天皇 │.. ┌35皇極天皇 ├39弘文天皇
. └32崇峻天皇 └茅渟王┼37斉明天皇 └志貴皇子┐
. └36孝徳天皇 . │
┌───────────────────────────────────────┘
└49光仁天皇─50桓武天皇────(略)───今上天皇
- 79 :
- >>14
それでも天武は神社の整備などをして、宗教的権威も大事にしていた。
- 80 :
- >>38
源氏でなければ征夷大将軍になれないという決まりはなかったが
(平氏を名乗る信長が希望すれば、朝廷は将軍宣下するはずだった)
源氏のほうが望ましい、という雰囲気は濃厚にあった。
- 81 :
- >>80
徳川家康に関しては、源氏長者の地位がほしかったと言われている。
これがあると、源氏を名乗る多くの豪族たちの任官の世話をする権利を得られる。
古代から、氏族制度、部族制度では、その氏族のトップである氏上が
同族の地位などを保証するみたいな慣習があった。
それが、律令制度の移行後、朝廷の管理のもと
氏長者制度へ発展していく。
それぞれの氏族の貴族の朝廷での任官を
その氏族の氏長者が世話をするのだ。
とくに、藤原氏、源氏、平氏、橘氏の四氏が勢力が強く、源平藤橘といわれた。
やがて、中世に進むにあたって、藤原氏と源氏の二大勢力に集約され、
この二氏の氏長者を得たものの力が大きくなった。
- 82 :
- そして、近世、
豊臣秀吉は近衛家の養子になって藤原氏長者
徳川家康は源氏長者を得るに至る。
日本社会では、京都朝廷から官位を得ることは権威になり、政治的に有利だ。
日本の豪族たちには、自分の出自を藤原氏や源氏と名乗るものが多く
朝廷でも、この二氏を出自とする貴族が多かった。
当然、この二氏の氏長者の地位を得れば、それらの多くの豪族、貴族たちの
朝廷での任官を管理することができるわけだ。
秀吉も家康も、当然、それに目を付けた。
- 83 :
- 興味があるのは太子と馬子との関係。
馬子は政治的権力をにぎって実際政治をやっている。
太子はちょっと政治的中枢から離れて斑鳩宮に住んだりして、いわば精神的権威として立っている。
そうすると馬子は覇道、太子は王道を行なっているわけで、二人は分業関係にあるような気がする。
そして太子の歩んだ道は、後世の天皇の道になるような気がする。
権力でなく権威で生きていくスタイルだ。
天智天皇や天武天皇のような人は、日本史の中でも例外的な、中国皇帝に近い人だけどね。
そうすると聖徳太子のあり方というのが、日本の天皇のあり方のモデルとして、崇められたというような一面もあるような気がする。
そういえば、8世紀初めごろ太子信仰というものがあった。
ああした偶像化も一役かっていそうだな。
- 84 :
- >>83
それ以前からあったこと。
というか、権威と権力の分化は、欧州なんかでも
権威としてのローマ教皇、
権力としての皇帝・国王って分かれていただろう?
また、権威と権力のそれぞれの中でも、権威と権力が分かれている。
つまり、相対的なものだ。
たとえば、徳川時代、京都朝廷は権威、徳川幕府は権力だが
京都朝廷内では、天皇は権威、摂家は権力
徳川幕府内では、征夷大将軍は権威、大老・老中は権力だろう?
同じように、ヤマト朝廷内では、天皇家は権威、
大伴氏・物部氏・蘇我氏などは権力かもしれんが
倭国全体では、ヤマト朝廷は権力、高尾張旧王家(尾張氏)は権威だったんだろう?
- 85 :
- >>84
>それ以前からあったこと。
日本での話をしてるんであって、欧州とかは関係ない。
例をあげるんなら日本では太子、馬子以前で、誰と誰の例があると具体的に言ってくれよ。
>ヤマト朝廷は権力、高尾張旧王家(尾張氏)は権威だったんだろう?
それはないな
- 86 :
- >>85
ヤマトトトヒモモソ媛命(卑弥呼)、三巻入彦(崇神天皇)
- 87 :
- >>86
ヤマトトトヒモモソ媛命(卑弥呼)、三巻入彦(崇神天皇)
斎王のような役割をしていただけかもしれんし、はっきりしないことが多すぎる。
ヤマトトトヒモモソ媛命=卑弥呼というのも一つの説であってはっきりしないしな
したがって具体例としてあげるには説得力がなさすぎる
- 88 :
- 宮廷人には皇太子摂政という形式の方が政治がやりやすい、という知恵があったと思う。
日本ではこの伝統が強いな。
後醍醐天皇に対する大塔宮、足利尊氏に対する直義、というように副官みたいのがついて、
その副官の方が実際の政治を動かしたケースはいくらでもある。
そういえば中大兄皇子自身が天智天皇になると、大海人皇子が動き出す。
若いときは自分でやる。
自分が象徴的地位に立つと人にまかせる。
一種の隠居だな。
これは日本人の体質にあるシステムだ。
- 89 :
- >>88
なぜ聖徳太子は権威だったのに中大兄は権力になったか、という問題がそれで説明つきそうだな。
中大兄は蘇我氏を倒した。
そして鎌足を蘇我氏の地位につけなかった。
もしつけていれば、聖徳太子が権威でその下に権力の馬子がいたように、
自分が権威になって、その下に鎌足を権力にするという図式が成立する。
ところが中大兄は天皇家の安泰を計って、その関係を成立させまいとしたわけで、
そうなると自分みずから権力をとらなければならない。
そうすると、孝徳天皇を立ててその下に自分がつく方が自然な形になる。
これで首尾がととのったというわけだ。
- 90 :
- 蘇我氏を倒した主役は、中大兄皇子ではなくて、
軽皇子(孝徳天皇)という説が強いけどな。
中大兄や中臣鎌足は脇役。
あと、蘇我氏を過大評価しすぎ。
それって、ちまたにあるトンデモ歴史読み物の読みすぎだ。
お前らの頭で考えたのではない。
歴史読み物(学術書ではない)の受け売りだよ。
- 91 :
- >>90
>>89のようなことが書いてある歴史読み物とやらを具体的にあげてみろよ。
何ページに>>89のようなことが書いてあるかも忘れずにな。
>>89は俺の思い付きを書いたまでだ。
同じこと考えてた人に興味があるからな。
- 92 :
- >>88
>足利尊氏に対する直義
軍事担当が尊氏で、政治担当が直義、みたいなジャンル別住み分けはあったと思う。
- 93 :
- >>92
政治も軍事も含めて、直義は味方の世論をつねに攻撃的で積極的な方向に導くことを任務としていたように見えるけどね。
- 94 :
- 蘇我氏を過大評価する奴は読みが甘い。
- 95 :
- 宗教としてのタブーはなかったのかな
聖職者は俗世(政治)に関わってはいけないとか
- 96 :
- 古代においては、祭政一致ですから。
「政」を「まつりごと」と訓ずるのもそのため。
- 97 :
- 古代において神権をつかさどる巫女王と、俗権をつかさどる男王がいたのは、
倭人伝の記事や記紀の伝承からも理解できるが、伝承の固有名詞は信用できない。
モモソヒメとか神話とか説話上の人物で、とうてい実在の人物とは思えない。
三輪山のヘビの神様としたとか、ヘビの正体知って箸で陰部突いて死んだとか、
どう考えても作り話だろ。
あのあたりの系図も不自然な父子相続ばっかりで、ミマキと世代が合わないし。
- 98 :
- 4世紀
ミマキイリヒコ大王→イクメイリヒコ(イクムネリヒコ)大王
オシロワケ大王=倭王旨(百済から七支刀を下賜された王)
5世紀
ホムタワケ=オオササギ?=倭王讃→イザホワケ=倭王讃→ミズハワケ=倭王珍
オアザヅマノワクゴノスクネ=倭王済→アナホ=倭王興→オオハツセノワカタケル=倭王武
6世紀
オホト王=継体大王→実名不明=欽明大王
- 99 :
- >>98
おまえ、もしかして韓国人かw?
ミマキイリヒコは3世紀だな。
というか、古代の天皇の実年代なんて絶対にわからない。
でも、纏向遺跡が西暦2〜3世紀の遺跡で邪馬台国の首都ならば
ミマキイリヒコは西暦3世紀の人物な。
そうなることによって、大幅に土器編年時代による区分にも
狂いが生じる。
百済も新羅も、倭国の属国だな。
倭王は、百済や新羅などを軍事的に支配する官位を
中国に求めていたぐらいだから。
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