2012年1月2期日本史53: なぜ織田家は徳川家になれなかったか (82)
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なぜ織田家は徳川家になれなかったか
- 1 :11/10/11 〜 最終レス :12/01/18
- 一時は日本の頂点の寸前まで来たのに。
なんで?
- 2 :
- 秀吉のせい
- 3 :
- うつけだから
- 4 :
- 急進的すぎたから守旧勢力の総反撃で倒された。
- 5 :
- やることが杜撰だから
- 6 :
- 織田信長は全国統一する前だったろ
家康なんて秀吉が統一してくれてたから
遺児の秀頼一人せば天下が転がり込んだ
家康がようやく秀頼をせたのは70歳の時
信長も70歳ぐらいまでは生きないとね
- 7 :
- 徳川家は今川家ぐらいしか敵に廻さなかったから
織田家が朝倉家も武田家も足利家も浅井家も六角家も斎藤家も留めを刺して戦国時代の怨恨を被ってくれた
残る北条家四国九州東北は秀吉がまとめてくれたし織田家の柴田なども秀吉が消した
三成との争いはあったものの秀吉から政権を委譲する形になったし
戦国大名の残党はうまく徳川家に吸収された
ひとつ家康にとって後味が悪いのは大阪の陣を戦にしてしまったことだろう
大阪城にも戦国人の残党がたくさん入り込んでしまった
- 8 :
- まあ人対人でやってきたけど
統治機構を作るような組織人では無かったという事だろう
(一足飛びに自身を崇めさせようとした行動がそれを証明してる)
- 9 :
- 徳川家は家康以外に家康以上の軍隊を動かせるものが1人もいなかった
織田家は信長以外に信長以上の軍隊を動かせる者がいた
信長の命令で光秀が軍隊を動かしたから誰も怪しまなかったんだろうけど
信長が軍隊を限界以上に部下に与えたことが織田家の強さでもあったんだろうけど
- 10 :
- どっかで読んだが信長はすごい、しょっぱい味付けを好んだんだってな。光秀が反旗を翻さなくても高血圧で脳梗塞や脳卒中で長生きは出来なかったかもって。
高血圧だったから短気で家来達を怒鳴りつけたりしちゃったりしたんだって。
でも長生きしてたら、家康もどおなるか分からなかったと思う。
- 11 :
- 何故名古屋人は田舎臭く、頭が悪い猿なのか?
「歴史上一貫して支配者は西三河から来ている。尾張土着が田舎臭く馬鹿なのはあたりまえw」
■尾張の歴史■
◆平安時代◆
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。
■藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
■藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼
◆鎌倉時代◆
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。
◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国幡豆郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国幡豆郡一色、尾張守護、地頭職)が支配する。
■藤原季兼→藤原季範→女子→(足利義康(初代足利氏)室)→義兼→義氏→泰氏→斯波家氏(初代斯波氏)
■藤原季兼→藤原季範→女子→(足利義康(初代足利氏)室)→義兼→義氏→吉良長氏(初代吉良氏)→今川国氏(初代今川氏)
■藤原李兼→藤原李範→女子→(足利義康(初代足利氏)室)→義兼→義氏→泰氏→一色公深(初代一色氏)
◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国加茂郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。
◆現代◆
・トヨタグループのパシリとなる。
- 12 :
- 嫁よりも蘭丸のほうが気持ちよかったから。
- 13 :
- 二代目への継承の仕方が鍵だったのでは?
信長は家督は継承できたが、権威付けはできなかった。
- 14 :
- 継承の出来・不出来というか
同時死亡は流石に想定外だろう
徳川で例えれば、秀忠を後継者にした後に
家康・秀忠が同時に死んでいたら織田家同様に内紛が起こっていただろう
- 15 :
- 織田が下賎な馬の骨だから
- 16 :
- っていうか親子二代が敗死したこと自体もう求心力なんか無くなるんだよ
織田みたいな弱いヤツにはだれもついていかない
つまり徳川より弱いのが織田
- 17 :
- >>14
まあ、それにつきるわな。
自分が死んだ場合の事は想定していたけどさすがの信長も同時死亡
は全く予想してなかったと思う。
信長自身家督争いで苦労したから息子には同じ轍を踏ませまいとして
跡継ぎとそれ以外の息子を明確に区別したけどそれが結果裏目に出たし。
- 18 :
- 譜代を大事にしなかったから
裏切らなくそこそこ優秀な佐久間あたりを重要視して身辺(近畿)に置いておけば本能寺の変は起きなかった
- 19 :
- 佐久間・林辺りを少領事務方で温存しておけたら、
荒木や明智が動く理由も減るかもね
- 20 :
- 家康に跡取りの信康をさせた祟りだろ
だから自分と長男がやられたあと部下の秀吉に
三男をされている。因果はめぐるか…
- 21 :
- 家門がキュウリの輪切りでダサいから
- 22 :
- 天下取ってたら
今程人気ないだろうな〜
- 23 :
- 家が違うからだろ
織田が徳川になる理由がわからんわ
- 24 :
- *徳川家康は双子らしいけど本当なのかな?
*徳川家康は本物は途中で戦死して、途中でその双子と入れ替わったとか?
*徳川家康は入れ墨をしていたのかな?
誰か答えをお願いします
- 25 :
- >>20
信康害が信長の命令だったというのは江戸時代成立の史料にしか出てこないよ
同時代の史料では信長の関与が描かれていない
家康の家臣は正室築山殿までしているが家康はこの家臣を処罰しておらず
築山殿害は家康の命令だったらしいことと考え合わせると
三男秀忠を得た家康が不仲でうっとおしくなった正室と長男を害した可能性も
東照大権現様の息子しの罪を信長になすりつけた可能性大
- 26 :
- やっぱり質素な飯くって健康に気を使わなくちゃ最後に勝てないのか・・
- 27 :
- >>26
家康も晩年は歯がなかったらしいけどね
- 28 :
- 長男死亡
二男北畠
三男神戸
- 29 :
- >>28
息子も兄弟もまだまだ居たのに、どいつもこいつも凡愚ばっかし
- 30 :
- 重臣の柴田、羽柴、池田、丹羽、滝川らが
誰を信長の後継者とするかで争ったからでしょ
- 31 :
- どんなにラッキーが続いたとして信長は結局は誰かに滅ぼされていたと思う。
織田よりはるかに巨大な豊臣家でさえ関東方に滅ぼされた。
織田右大臣家が存続していても結局は関東方が総結集すれば簡単に滅ぼされた。
たまたま偶然で武田や上杉の内紛に乗じただけで、現実は個別撃破すらしていない。撃破できる実力すら足りなかった。
- 32 :
- >>30
後継者が決まっていなかったのと、後継者の後見役の座を巡る争いがあったからってことか?
普通に信忠が二代天下様になるとは思われていなかったの?
- 33 :
- やっぱり信長って天才が凄すぎたからじゃあ無い。
そろそろ政策においても限界だった気がするし。
信長も自分の子供達がかわいいから周りの連中【秀吉など】を始末
するだろうし当然家康も滅ぼすだろうし。関東東北が残っているから挟み撃ちに出来るからね。
でも信忠以外はお馬鹿だから。無理だろうね。
- 34 :
- 信長が生きていたら家康は滅ぼされてるだろうな
武田も滅して北条も傘下に入った
水野と同様に用済みになっている
- 35 :
- 信長が天下統一してたら戦国期に天皇制度も廃止されて
明治には大統領制に移行していただろうな
- 36 :
- 信長は朝廷には友好的だったよ
- 37 :
- >>35
信長に統一は無理
まして天皇家に手を出す力なんかない
- 38 :
- >>31
豊臣がほろんだのは
徳川方がそれ以上に巨大だったから
本能寺前織田家より巨大な勢力は存在しない
上杉は滅亡寸前、毛利も押され、長宗我部も攻められる寸前だった
東国では北条、伊達ら諸大名が信長に頭を下げてきている
天下は織田の物になる寸前だった
- 39 :
- 重臣に背かれた時点で信長自体が終わってるんだがな。
- 40 :
- 佐久間信盛を追放して
柴田勝家とかいうのをありがたく筆頭家老にしておいたから
- 41 :
- 天下をとれなかったことを理解しない馬鹿が未だにいること自体不思議。
かりに天下をとっても維持できないよ。
- 42 :
- >>35
信長は自身の意向で天皇を新しく出し、
それを前例にして自身が天皇になろうとしていたよ。
信長は自身が天皇の血を引いているとしていたから。
- 43 :
- >>42
さすがにそれはない。
だいたい、信長は都に常駐する気がなかったし。
- 44 :
- 500年後の日本でその家康より人気があるんだから、それが信長の偉業を証明してるんじゃないか?
- 45 :
- それなら忠臣蔵は江戸時代屈指の偉業だな
義経は清盛や頼朝より偉人だな
- 46 :
- >>44
実は近年までそうでもなかったと思う。
教育的には家康が、庶民的には成り上がった秀吉のが
人気があったと思う。
「信長の野望」から信長が浸透してきたような気が。
あと早く倒れたせいで、豊臣潰しの家康や、老いてご乱行の
秀吉に対してマイナス点が少ないのもよかったかも。
- 47 :
- 人気と偉業の区別がつかないってどんだけw 芸能人じゃあるまいし。
高見盛は横綱ですか?
巨人は今年の日本一ですか?
- 48 :
- 日本人の精神に影響を与えてるんだから、偉業だろ?お前は機械かなんかか?
- 49 :
- 信長一人に限らない件
- 50 :
- 負け犬の遠吠えも48までくると哀れになってきた
>>48
はいはいそだね
ぼくちゃんよくかんがえたえらい
- 51 :
- >>46
近年のうなぎのぼりの信長人気は大河ドラマでイケメン俳優が信長役をするという
良い描かれ方にあるような気がするが・・・
秀吉は確かに好きな歴史上の人物で上位に来ることが多く、
信長より上だった時期も長かった気がするが(今は信長が上だろう)
家康が上位に来るのは見たことがない。
やっぱり、豊臣家を滅ぼす際の狸親父ぶりがどうも暗く、粘着質すぎて、
あまり好まれない。
家康が手にした三傑最大の栄華と、好き嫌いには関係ない。
- 52 :
- >>38
戦国大名の帰参などまったく信用度のないもの。降伏の意思もどこまで信じていいかわからない。
館内や陣中で斬りつけてくる者もあり。毒もあり。戦場でいつのまにか攻められていることもしばしば。
奥州や関東の反北条勢力を手なづけたというのも信長にとって都合のよい解釈。
四国は光秀謀反の遠因となったように、いろいろと難しい面が多々あった。
毛利家はもともと九州に色気があった。ただ九州侵攻を東進政策のため封じていただけ。
もし織田と毛利が手を組んで九州に雪崩れこんだところ、織田が乱戦で討ち取られる、
あるいはそのように巧妙なワナを演出することも可能。室町殿を抱えている毛利家としては
そのぐらいの手は打てた。
どっちにしろ朝廷や将軍家に疎まれた信長があと5年も生きながらえる可能性はかなり低かった。
- 53 :
- >>52
それを言い出したら徳川家康が征夷大将軍になった時だって
ほとんどの大名たちは「心から臣従」なんてしてなかっただろうけどな
そのために江戸幕府は一番信用のおける血族である親藩や代々の家臣譜代を重用
外様を350年間警戒し、幕府中枢の重要な職務につけないよう冷遇し続けた
- 54 :
- >>51
家康人気ってのは、あくまで教育上の話。
俺の親世代の話だが、模範的な人物として家康が人気があったそうだ。
でも豊臣を滅ぼす、鎖国、天皇や公家への圧迫、苗字禁止とか
暗い話が多いわな、この人。
- 55 :
- 自分が子供時分には秀吉は人気があったなあ(キムタクと同じ年)。
それが最近は何故なのかよくわからんがあまり秀吉はよく描かれないよな。
- 56 :
- 何がって朝鮮出兵だろう
秀吉を落としてかわりにあがったのが信長
てことは?
- 57 :
- >>56
朝鮮出兵以外でも大河「利家とまつ」では同僚利家を蹴落として恩賞を漁るセコイ秀吉、
「江」では市や淀に横恋慕するキモ爺、江を参謀にしないと政治ができない無能と
近年は変な描かれ方が多い。
同じ秀吉晩年を描いていても「独眼竜政宗」の秀吉の貫禄といったら凄かったけどな。
信長は秀吉ほどではないしろ、もともとある程度人気はあった。
小泉元首相が好きな歴史上人物としてあげてたし。
むしろ、近年は家康を良い人に描く大河が増えた気が。
それでもあまり上位にこないがな。
- 58 :
- 朝鮮人大好き小泉と創価連合の時代から信長人気が高まった。
つまりそういうことだ。
- 59 :
- 司馬遼太郎の小説の影響もある
- 60 :
- もともと、大日本帝国政府=薩長明治政府による、強烈な「徳川前政権sage」があっただけだろう。
薩長政府には、非常に儒教的な発想があって、前政権を貶さずにはいられないところがある。
国体の上で「皇祖皇宗」で一つにまとめなければいけないのに、東照宮が出てきては、宗教政策的に本当に困る。
ただ、薩長政府の宣撫はかなり上手で、
本来の「前政権の根拠地」だった江戸と東海地方からは、ほぼ完璧なガス抜き・遺恨忘却に成功していて、
東北の会津や、巡り巡って外様の仙台や盛岡などが身代わりになるという、訳の分からない状態になっているので、
「前政権sage」の企図が、ハッキリ見えてこない。だからあまり自覚されず、家康の不人気という話におさまっている。
これが、「三河人が現政権に恨み骨髄」だとしたら、分かり易かったんだけどね。
- 61 :
- 長州らがネガティブキャンペーンを行ったという
証拠や文献があるわけ?
豊臣家をほろぼしたいきさつもすべて捏造だったとか?
- 62 :
- 秀吉は秀次の一族を皆しにしたが、
家康は築山殿と信康はしてもその子孫はちゃんと面倒を見て
養女として嫁に出したりしてる。
秀吉も秀次をしたとしても、その息子や娘を養子にして政略
結婚の道具にしていたらもっと豊臣系大名の結束を固められた
のにと思う。
- 63 :
- >>62
秀長が長生きしてくれたなら…
- 64 :
- >>62
養子豊臣秀勝の娘豊臣完子は庇護しているだろ?
信康の娘は織田信長の孫娘でもあり、
家康は粗略に扱えなかったというのもある。
- 65 :
- 1582年の本能寺直前の織田家臣団と1600年頃の徳川家臣団ってどっちが強力かしらね。
- 66 :
- 主君をす織田家臣
主君を守る徳川家臣
明らかだろ
- 67 :
- >>66
明智光秀もあちこち主君を代えて渡り歩いてたから
純粋なたたき上げ織田家臣じゃないだろ
いうならば「外様」
家康は先祖代々松平家に仕える三河武士だけを信用して
他の主君に仕えたことがある者は「外様」と呼んで冷遇し
幕府中枢の役職にはつけないなど350年間冷遇し続けた
- 68 :
- 織田が裏切られたという事実を認めたくないのはよくわかるよw
- 69 :
- >>61
根拠なんてないよ
俺の好きな江戸時代や家康が評価低いのは
薩長のせいだと妄想してるだけ
- 70 :
- 「鳴かぬならしてしまえ不如帰」と「鳴くまで待とう不如帰」の違い
- 71 :
- >>67
今川家臣とか武田家臣とか
冷遇どころか優遇されてるだろ。
- 72 :
- 柳沢吉保も旧・武田家臣の裔だろ?
旧・北条家臣も旗本に組み込んだだろ?
- 73 :
- 光秀が
- 74 :
- >67
四天王のうちでも徳川最強の精鋭を率いた井伊直政は三河武士じゃないよ
家康が三河一国を平定したあと三河と駿河の間くらいにある家から仕官した
松代の真田家からも幕閣はでてるし
- 75 :
- 堅固な家臣団を作れなかった信長の力量不足
- 76 :
- 信長は譜代家臣ともいえる
佐久間を追放してるからな
- 77 :
- 尾張人が軽薄なんだろう
- 78 :
- 「尾州は西国のおわり 三州は東国のはじまり」といわれておる
- 79 :
- いまでも三河の人間はけんかが強いんだろうか
- 80 :
- ただ支那の儒教では、どうしても科学で負けてしまう。
中国や朝鮮がいかに西洋に弱かったかが分かろう。
日本は伊藤政権以降、世の中が次々に合理的科学主義になってきている。
日本は基礎的には儒学の国であって、儒教の国ではない。
儒教の国ならば日本は、西洋の植民地になってている。
神道という基礎の上に、仏教があり、儒学という日本独自の学問があったからこそ、今も日本は経済大国なのだろう。
- 81 :
- 儒教の国ならば日本は、西洋の植民地になってている→なっている。
儒学とは簡単なもので、
女性は男性に従え。
上の人間に対しては、失礼のなきようになど、しごく当たり前の事が言われており、
心身を健康にする方法など、
様々な儒学問があり、昭和や平成の今も儒学は衰える事はない。社会人男性優位の日本だからこそ、日本は経済大国なのだ。
- 82 :12/01/18
- >>81
儒教を藩校の教科書にしていた江戸時代は経済衰退しただろ。
大富豪を輩出した商人や庄屋などの裕福農民たちが通った寺子屋では
そのような教科書は使われてなかった。
明治以降に儒教の思想はないよ。
ちなみに儒教に女は男に従えといった内容を指す言葉もない。
唐代以降、妻は夫に尽くすべしという内容が加わったが
そもそも儒教開始者の孔子は独身妻なしだしな。
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