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2012年1月2期日本史14: 【移配】蝦夷と俘囚の歴史【別所】 (217) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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【移配】蝦夷と俘囚の歴史【別所】


1 :11/12/10 〜 最終レス :12/01/19
蝦夷と俘囚の歴史について語るスレ
関連スレ
アテルイ
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1313686445/l50
サンカ
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1284268365/l50
陸奥♪奥州安倍氏と奥州藤原氏を語るスレ♪出羽
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1298970085/l50
南部氏(・><・)巻之七
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1318063994/l50

2 :
俘囚の前に
佐伯も入れとけ

3 :
荒らさずに、真面目に論議したいな。

4 :
アンチ東北厨が暴れてるからな。

5 :
つうかチョンだろ

6 :
思うところ。
〇別所の数が多すぎる。確かに、後世僧の修行の場としての別所もできたろう。
〇初期の別所はなるほど、山河自然に院内を形成している。
〇しかし平安後期に俘囚の東北帰還事業もあった。全部が戻ったわけではなかろうが。
〇菊池は別所と「長吏曲輪」の関係を明確していない。
初期には別所がその淵源だとしていたけど、
賤視されている別所は畿内、特に和歌山だけ。
〇ただし曲輪の形質的特徴が東日本的だと、
小浜の半世紀近く前に指摘している。
いろいろ謎は多いな。

7 :
新地は?

8 :
新地は新開地ってだけでしょう。
確かに、地になっている新地も少なくないけど。
尼崎のカンナミ新地って一種の無法風俗地帯だけど、
たぶんかつての尼崎別所のあとかな……。
戦後は、曲輪の別所起源説をひっこめたとされている菊池だけど、
曲輪の民家が北向きで光線を避ける構造なのは、縄文以来の
伝統かもしれないなんて書いている。
別所地名は各地にあるけど、見下されているところはほぼない。
世が乱れると別所の人たちも新天地を求めて流出したろうし。

9 :
毛人谷城(えびたにじょう)
http://www.geocities.jp/kitamejirou/new_page_176.htm
毛人谷城址(大阪府全志より)
本地は古来石川郡に属し、毛人谷(ゑびたに)村と称す。字地に谷川といへるあり。
村名の毛人は蝦夷ならん、景行天皇以来蝦夷の俘となりしもの、又は其の内附を請ひし者を諸国に分ち居らしめしことあり、
地名に依りて考ふるに、此の地或は上古蝦夷人の居住せしことありて、此の地名を為せしにはあらざるか。
毛人谷城の址は西方高地にあり。城は楠正成の設けし城塞中の一にして、富田氏の兵の據りし所なり。今は雑木林となる。

10 :
いいところに気がついたね!
あと、伏尾ってのが池田にある。
「不死王」が語源なんて言うけど、俗説。
「俘囚」の古語から来ているのでは?
伏尾の南側の山はもともと「佐伯山」、現五月山。
その西側の地名が「木部」で、もともとは「きのへ」と呼んだらしい。

11 :
菊池の説もいまいちまとまってない。
別所→長吏曲輪ではなさそうだけど、
別所の人たちは鎌倉期にそこを脱して、
芸能関係や雑色に落ち着いたのか?
鎌倉幕府は義経追悼の機動公安舞台としてその雑色を
使役し、それが戦国期を経て各地の警吏関係と雑役、移動工芸や
遊芸人……ともかく非農耕非常民になったってことかな。
それが時代の安定期に定着するとき、農耕地を割り当てられずに
山番川番、川原の細工師や牛馬処理、荒地での畑作などになったと
言うことなんだろうか。

12 :
西日本ではその形質などの差から後世まで賤視されたかも知れないけど、
東日本ではしだいに農化定住したろう。
実は将門の乱が、最後の原住民反乱じゃないかな。

13 :
俘囚軍が武士の淵源ってのは、喜田貞吉以来いろんな人が述べているな。

14 :
東北人=白人

15 :
東北人=土人

16 :
要するにアイヌなんでしょうか?

17 :
アイヌとアングロサクソンは兄弟

18 :
まじめに。
縄文人→アイヌってのはそうだろうけど、
縄文人も地域性があって一枚岩じゃない。
関東と東北でもやや違いがあったかも知れない。
関東人も
東北人もアイヌも俘囚も、縄文人を共通の祖先にするだろうけど。
東日本=アイヌではないだろう。

19 :
東日本とひとくくりにすることはもちろんできない。
関東は東北にいるアイヌを征伐するための一大前線基地だった。
ここが武士の本場となり、征夷大将軍が関東に拠点をもったのはそのため。

20 :
日本武尊の東国制覇ってどの程度まで史実の反映なのか興味あるな。
時代は何時?
熊襲建や出雲建と戦った日本武尊とは別人で、初期大和朝廷の複数の人の事跡を1人の人物の事跡として統合したものだよね。
古事記では房総半島が東征の東端で、そこからのちの東山道を西に引き返しているけど、
日本書紀ではそれより遥かに北の多賀城くらいまで到達してるよね。
そうなると四道将軍・建沼河命との関係は?
また、草薙剣が活躍した地である焼津が、古事記では相模国、
日本書紀では駿河国となっているのも興味深い。
取り方によっては、昔はのちの律令制施行以降の国境とは違った国境だったものかもしれないことを示唆しているようにも見えるよね。

21 :
>関東は東北にいるアイヌを征伐するための
平安時代はまた゜「アイヌ」としての民族性は確立していなかっただろう。
東大の有名な自然人類学者の埴原和郎は、
関東農民と北東北の原住民が「別の文化」を歩みだしたの、
鎌倉以降だろうと言ってる。
古くは喜田貞吉も似たことを言ってた。
征夷大将軍についてはそうだ。
「征夷」、すなわち先住民族侵攻の「最前線」、
まさに将軍前線司令部たる「幕府」を鎌倉に置いたのは
大義名分上、そこから東が「敵地」と言う意味だし。

22 :
> 征夷大将軍についてはそうだ。
> 「征夷」、すなわち先住民族侵攻の「最前線」、
> まさに将軍前線司令部たる「幕府」を鎌倉に置いたのは
> 大義名分上、そこから東が「敵地」と言う意味だし。
奥州藤原氏は別に後白河政権に(清盛政権にもだが)反抗していたわけじゃない。
だから後白河法皇は征夷大将軍職を欲しがる頼朝にそれを許さなかった。
これには頼朝も焦ったことだろう。
勝手に奥州藤原氏を朝敵認定して攻めてしまったら、後三年役の時の先祖・源義家の二の舞になってしまうではないかと。
面白いことに頼朝は自身の先祖の中で、最も華のある武将として人口には膾炙している義家を殆んど自己の武家棟梁としての権威付けに利用していない。
その理由は、義家は後三年役に於いてやはり朝廷の覚えめでたかった清原氏を勝手に「朝敵」として攻め滅ぼし、
それが朝廷からは正当な官吏(陸奥守)としての職務を大きく逸脱したとみなされて、陸奥守を罷免され、その後の清和源氏凋落の原因を作ったことに起因しているだろう。
頼朝が自身の権威付けに専ら利用したのは義家の父・頼義の故事来歴なのだ。

23 :
菊池説に戻ると、別所と長吏曲輪の関係がいまいちわからんなあ。
誰か説明してほしい。

24 :
チョンの妄想っておもしれーな
白人がチョンの捕虜になるわけねーだろ

25 :
昭和二十年代に阪大が全国的に計測した結果、
西日本でも長吏曲輪だけが例外的に中・長頭だと言う結果を、
菊池は大正年間に見抜いていた。
その慧眼には恐れ入る。
たとえば、平安期に降伏した東日本の俘囚は、
一応別所や軍団に廃された。
ただ平安末の動乱期に帰るべきものは東北に戻ったろう。
しかし別所・院内には多少の俘囚が残存し、家庭を築く。
そこへ東北の戦乱や飢饉で流出した、和人化原住民が流入、
縄文色の強い集落を形成した。
その一部が濃化せず近在権力者の走り回り=雑色になった、
と考えることも出来るかな。

26 :
土人が白人の捕虜になったんだから何の不思議でもないのだが
南北アメリカ大陸と同じ現象

27 :
南北アメリカ大陸と違って全員されなくて良かったな

28 :
縄文白人

29 :
縄文土人

30 :
近畿だけが別所を卑しんでいた、特に和歌山では長吏曲輪と同一視されてたと
菊池は書くが、そんな例は知らんなあ。
「別所」にどこか差別的なニュアンスあるのはそうだろう。

31 :
386 :本当にあった怖い名無し:2009/02/24(火) 12:37:09 ID:ue2uvIga0
てかネットでしか言えんがオレが関西の出身だからわかるんだけど、じゃない人の顔は見た瞬間にすぐわかる。
関西のってアイヌ並に濃い人が多いから薄い顔の人が来たらかなりかなり警戒してしまう。なぜかわからないけど

32 :
>>31
民じゃない奴のほうが圧倒的に多いんだから、しょっちゅう警戒しまくらなければならなくなるだろ
ホラ話なのはバカでもチョンでも分かる話だ

33 :
九州南部や沖縄から移住してきたやつのほうが濃い。
民の顔はまあ東北人ぐらいの感じだ。

34 :
>>33
ソースだせ

35 :
>>34
オレソースだ。>>31と一緒。

36 :
差別を根本的に解消するためにも、別所と曲輪の関係を
あきらかにしないと。
平野小剣や、多分松本治一郎も認めていたと思う。
が……平安時代の別所と、中世以降の長吏曲輪の関係が
どうも判らん。

37 :
>>35
そうか
じゃあ身分証明書付きで実名を晒せ

38 :
俘囚移配地としての別所も、南北朝頃までに一部を除いて解体されたろう。
東北へ帰還した蝦夷子孫もいたろうし、そのころは東北地方がほぼ和人化し、
俘囚子孫も東国民衆もさほど差はなかったはずだ。
まして戦国期の混乱で、五百年近く前の先祖なんてわからなくなっていたう。
ただ、現在でも地域によって短頭、中頭の差が歴然とあり、顔立ちでも
「関西顔」「関東顔」「九州の顔立ち」などと言われるぐらい地域差が残る。
戦国時代前後など、一目見ただけで出身地方が判るほど差があったと思われる。

39 :
俘囚起源説のもとになっているのは、
昭和二十年代の有名な小浜基次の頭長幅指数についての全国的な
調査だな。
早くに菊池や鳥居も指摘していたけど、
短頭が主流の近畿・瀬戸内地区で
曲輪だけが中頭=東北・裏日本型なんだ。
けれども別所=曲輪となっている例は決めて少ない。
ここんとこをどう解決するかなんだよなあ。
そして東へ、中・長頭地域へ行くほど、人権問題は少なくなってくる。

40 :
コーカサスから西へ移住した集団がギリシア文明を築き、
東へ進んだ人々が縄文文明を築いた。

41 :
蘇我に負けた物部一族がになったんでないのか?
当時徹底して弾圧しただろうし、仏教への帰依も遅かったはずだ
地域的に一致しそうな気がするが詳しくは知らん
負けた物部は東北に逃げたようだし、再起を図ったのも居たようだ
物部→武士(もののふ)だし軍事と神事担当だったしな
物部は畿内の先住民だが

42 :
物部氏→中臣氏→藤原氏→近衛家 復活しとるよw

43 :
藤原氏は物部系かもしれないが違う一族だろ
氏神は鹿島神宮だし
かつての物部氏の拠点は河内だが、そこと違う山城が拠点になってる
復活という感じではない
あと秋田物部文書には本家筋は秋田に逃げたと書いてあるな

44 :
東北はアングロ・サクソンかな。

45 :
橋下ってどちらかというと貧相な顔だけどね

46 :
>>44
普通にインディアンだろ
イヌイットってアイヌだよな

47 :
アジアのゲルマン

48 :
アジアのアフリカン

49 :
藤原氏は中臣ってことになっているけど、
鹿島系。物部と中臣は同族と言うより、
物部技術部族の末端だろう。
けど鎌足の出自は謎。
なんで河内中臣の氏神たる牧岡神社ではなく、
春日なんかを祭っているかとか……
ただ、別所とはあんまし関係ないじゃろけ。

50 :
『物部』ってのは「鉄資源探索、製鉄、武器製造、その輸送、そしてそれらの祭祀」に関わる幾つかの部族で構成された連合部族。
物部「氏」を、ニギハヤヒだけを祖神とする1つの氏族と単純に見ていたのでは理解できない点をあまりに多く含んでいる。
「物部」は、実際には総合商社のようなもの見ておいた方が実態にかなっている(まさしく物部「連」の名が示す通りだ)。
その物部「連」を構成していた中の1つが、金屋児神(天児屋根命)を奉じる製鉄関連部族である天児屋鉄山というグループ(のちの中臣氏)。
播磨から吉備東部にかけての地がその本拠地だった。
守屋大連が滅んで以降の物部本宗筋は、しばらくは行方を眩まして雌伏の時を過ごさざるを得なかった。
その点、『大鏡』に鎌足の生地は常陸・鹿島とあるのは示唆的である。
鹿島は『物部連』を構成する氏族の内、上述した「鉄資源探索」を職掌としたシャーマン部族の地(の1つ)である。
彼らは雷神であるタケミカヅチを奉じる部族であった(雷神は鉄資源探索の神そのものである)。
物部主流筋はほとぼりが冷めるまで、この同じ「物部連」構成員である常陸鹿島の製鉄部族に匿われていたのだろう。
やがて雌伏の時を経て復活してきたのが「物部」鎌足である。

51 :
俘囚と朝廷とどうやって意思疎通したんだろう。多分、軍団で動員された
東国農民が通訳したんだと思う。
鎌倉頃までの関東は、今の沖縄と同じように、
住民同士は縄文的な日常語使い、
国司等についてはなんとか大和言葉で話していたかもしんない。
俘囚と和人とは言葉が違ったから、
別所から亡命しても故国に帰れるはずもなかった。
だかせ染ま場で定住、子孫を増やしたとも考えられる。

52 :
支配者言語の大和言葉聴いた事があるのかよw今じゃ天皇家ですら日本語だw

53 :
小沢さん今度こそ絶対に首相になってくれ

54 :
正月はいいな
朝から酒飲んでも誰にも文句言われないし
最高だよ

55 :
>>51
出雲方言と東北方言が似ている
それがヒントだろうな

56 :
>>51.55
8世紀に編まれた万葉集にはすでに関東訛りで歌われた東歌が収録されている。
また、稲荷山古墳と、そこから発掘された鉄剣の銘文によって、関東は遅くとも
5世紀には大和王権に服属したことが分かっている。
その少し前の倭の五王、河内王朝の時代、大和は各地へと盛んに遠征し、
海を渡って高句麗とも戦っている。
古墳時代の5世紀と鎌倉時代の13世紀では、この間800年ほどの時間差がある。
鎌倉時代まで訳の分からぬ縄文語を喋っていたなどいうのは妄想。

57 :
五世紀段階で北関東に和人系豪族が進出したのは確かだろう。
奈良時代の万葉種は、編者の修正、翻訳がかなりはいっていると思われる。
支配階級はともかく、庶民レベルでは
多分鎌倉ぐらいまで原住民語が残っていなかったか?
または沖縄みたいな「二重言語」と言うか、
うちうちでは続縄文語的な現地語、公的には
相当なまった和人語使うなど。

58 :
>>56
では
なぜ出雲方言と東北方言が似ているのか?
妄想以外で答えてくれ

59 :
日本語は縄文後が発展した物だ
大和言葉の方が方言
その証拠は言語の広がり方、畿内から無理矢理ひろがっており九州も違う
独特のアクセントは大和に移ってから広まっていると考えられる
大和言葉の方が遅いのは確実
日本語のアクセントの分布
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Japanese_pitch_accent_map-ja.png

60 :
>>59
んなわけないだろ
青森弁や沖縄語なんかアクセント云々じゃなくほとんどだれも理解できないだろうが

61 :
縄文人は一番最初に駆逐されたっぽいね。
朝鮮半島から長州や北部九州経由で関東まで弥生人が入って、
そのあと支配者になった大和朝廷はどこから来たんだろう…?ムー大陸?!

62 :
>>60
日本語と大和言葉は違うぞw
本来は支配層の限られた言語が大和言葉。ギャル語みたいな囲い込み言語だ。これも朝廷から武家に権力が移行する中消えて行く。その古語を少し残した領域は一部にあるがな

63 :
>>62
日本語と縄文語の違いのほうが明らかに大きい。
優れた大和文明のほうに引っ張られてそっちに乗り換えた。
しかしアクセントだけは抜けなかったんだろう。

64 :
>日本語と大和言葉は違うぞw
ここは東北人の劣等感をガス抜きするために立てられたわけではありません。

65 :
>>64
筑紫や日向も無アクセントだけど
奈良県南部も防火壁の様に関東系アクセントが残っているし
大和言葉より今の関西弁の方がアクセントが簡単になっている
大和言葉の発祥は筑紫でも日向でもなく畿内だろう
別所の人たちのアクセントはどう?
キツメの気がするんだけど

66 :
>>61
朝鮮半島も経由地

67 :
たとえば中世以降、関東や東北から畿内へ入った人々は
言葉はもちろん、その容貌から簡単に東国出身とわかったろう。
その人たちが定住出る場所は限られていたし、
通婚圏も似たような境遇の集落に限られていたはず。
こうして数百年の間、中頭と言う形質的特徴が
特定小規模集落で保たれてきた、ち考えられないか?

68 :
関東や九州なんかだとはっきりわかるのは言葉ぐらいだし、
定住していくうちに同化していっただろう。
東北の場合は食肉という風習があったから同化し得ない。

69 :
>>67-68
俘囚とは戦争捕虜みたいな物だが
俘囚の地域配置
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7880.html
俘囚は畿内を避けて配置されてるが明白だ
これは危険勢力だから当然の事
都の側に集落を作り押し込めるなんて有り得ない政策だな
この図から分かる事は、俘囚が多く移住した場所は大和朝廷に逆らう勢力が多い不安定な場所だということ
おそらく大和朝廷は戦力として使ったのだろう
俘囚とをつなげる妄想はなにか根拠が有るのかな?
地名の語呂合わせだけかwww

70 :
が一番多いのは九州じゃなかったっけ?

71 :
危険勢力を、大和朝廷に逆らう勢力が多い不安定な場所に置くのは有り得ない政策だろう。
もっと前から大和朝廷の全国制覇は始まっているので
安定した場所から順番に配置をしていったと考えるのが妥当。
山陽や畿内は◆=六国史時代の配置が多い。
大和や紀伊はそれより前から安定していたのだから
それ以前にもうすでにかなり配置が進んでいたのだろう。

72 :
あの、俘囚は帰順したエミシの戦士だぞ
女子供を奴隷用に連れて来たわけでは無い
分かってるのかなあ・・・
俘囚を畿内に連れてきて奴隷扱いしたら、せっかくの帰順が台無しだろ
俘囚は逃亡、せっかくの和平の台無しになる
アルテイは処刑されたが坂上田村麻呂は奴隷にするために連れて来たのではないはずだ
もちろん処刑にも強く反対している
>>71
>山陽や畿内は◆=六国史時代の配置が多い。
と言われても数の比較も出来ないな

73 :
>>72 ミス
誤 アルテイ
正 アテルイ

74 :
俘囚と東北への移民の面白い資料
http://www.asyura2.com/0403/bd34/msg/655.html
大和朝廷は俘囚の何十倍も移民を東北に送り込んでいる
その中には、没官奴や女卑もいる
つまり東北から連れてきた俘囚を賤民として扱う経済的政治的理由は無いと言える
その証拠に640人というかなりの数の俘囚を「防人」に移配したともある

75 :
プレ俘囚的な存在に「佐伯部」というものがある。
『日本書紀』の景行天皇五十一年秋条に、
日本武尊が東国平定の過程で捕虜にした蝦夷を、まず神宮(伊勢神宮)に献上したのだが、
そこで蝦夷たちは昼夜を問わず騒ぎたてるので、たまらず倭姫命はその蝦夷たちを大和の朝廷に進上してしまう。
大和では蝦夷たちは三輪山山麓に置かれたのだが、
その地でも蝦夷たちは三輪山の木々を勝手に伐採したり、近隣の住民を脅したりしたので、
景行天皇により「蝦夷たちを中央に置いてはいけない。畿外に置くべし。」との命が出て、
彼ら蝦夷は、分散されてそれぞれ播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波の五ヶ国に置かれることとなった。
これを「佐伯部」という。
他にも仁徳天皇条に、天皇が可愛がっていた鹿を蝦夷がそれと知らずに狩って、天皇に献上してしまう等のことがあったため、
「蝦夷を皇居の近くに住まわしてはならない」とのお達しが出たりした。
俘囚が畿内に置かれなかったのだとしたら、それは上述した「前例」のためかも知れない。

76 :
俘囚は鉱山労働のほかに、やはり軍事力としてつかったんじゃないかな。
移住は家族単位が多かったと思う。
家族を人質にして、警備任務に使う。
または使いやすい俘囚を編成して、
SSウクライナ師団みたいに使う。
別所と長吏曲輪(極力差別的な言葉を避けるためにこれを使う)の
関係で一番ひっかかってるのは
既出の、昭和二十年代の小浜基次の全国的調査。
西日本、特に畿内において曲輪の頭長幅指数は
東北・裏日本型だったことだ。曲輪のそとはすべて
畿内型と言うか短頭なのに。
最近また武士の起源が俘囚だって言う喜田以来の論が
再評価受けている。長吏曲輪と武士の関係も気にかかってる。

77 :
軍事力もあったろうし奴隷もあっただろうけど
一番の目的は一斉蜂起を防ぐためにその土地から分離すること。
逆に和人を送り込んで国としてその土地をヤマト王国の一部に組み込むと。

78 :
つか手に負えないと9世紀末頃に、俘囚を奥羽に帰還させろと命令が出てる訳だから
俘囚が住んでた場所が有ったとしても
そこに住み続けていたら命令違反が明白な訳で、役人も必死で追い出しただろうし
そんな集落が有ったとしても無人になったと考えられるのだが
なぜずっと住み続けられたと考えてるの?

79 :
全国で俘囚が争乱を起こした原因は、内国人・俘囚の両者間の文化摩擦が1つと、
奥羽で蝦夷を帰服させる際に国が約束した米などの俘囚料の支給が途中から実施されなくなり、それが俘囚たちにとっては「約束違反」と写ったから。

80 :
それと俘囚の奥羽への「帰還事業」だけど、これはたぶん実施はされていないよ。
国がそういう方針を発表したというだけで(こういうことはよくある)。
帰還にまつわる文献が全く残っていないからね。
それに上で誰かも述べていたように蝦夷を投降させて空にした地には、主に関東から柵戸や鎮兵を入植させているので、俘囚には帰る故郷なんて無くなっていた。

81 :
>>80
もしかして
朝廷のお膝元でも実施されてないと言い切ってる?
周辺国ならまだしも河内その他は宮殿からも見えそうだぞ
それに俘囚は傭兵としてどこでも行けるよ
兵の需要が激増していたからな、武士の台頭が始まった時代
まあ野党になった者も居ただろうな

82 :
関連スレ
【妖怪】 土蜘蛛 【国巣】
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1325574407/l50

83 :
>>81
>朝廷のお膝元
ってどこ?畿内のこと?
そもそも朝廷は先に述べた「佐伯部」でのかつての経験から、俘囚の畿内への移配はなかったと俺は思っている。
9世紀の蝦夷による騒擾事件の記録を見ても畿内で起こった事件などない。
延暦24(805)年の播磨国、
天安2(858)年の近江国での事件が、俘囚が畿内近国で起こした数少ない騒擾事件記録。
あとはみな上総、下総、下野、甲斐など東国で起こったものがほとんどだ。
俘囚を畿内に移配したという記録を知っているのなら、俘囚の奥羽帰還事業にまつわる記録と併せて是非教えてくれ。

84 :
確かに東北に「浮浪人」を大量移住させたけど、
きちんと納税している良民を送り込むはずもない。
たぶん関東の半和人化した原住民を一種の屯田兵として
おくったんだと思う。形質的には俘囚と対してかわらなかった。
関東が比較的
早く服属し、俘囚も「将門の乱」除けば朝廷を震撼させるほどの
大争乱起こさなかったのは、一応懐柔策が成功したからでない?
他スレでもあったけど、服属した俘囚が狩猟の腕前をいかし
俘囚軍となり、やがては初期の武士になったと思う。

85 :
まあ、狩猟が本業ではないにしても
戊辰戦争の時に、ミニエー銃を運用しきれていたのは
銃をイノシシやクマに対する護身用として常用していた
山間部の住民だからな。
剣術なんかよりも、山間民の銃のほうが有効だった。
9世紀頃でも、飛び道具を使い馴れしているのは
やはり山間部に封じられた俘囚なんだろうな。

86 :
>>83
いやいや
俘囚と別所と被差別を関連付けてる発言が多いから
それに対して疑問を発しただけ
俘囚→移配→別所→被差別
この流れがこのスレの主流ぽかったし
でも畿内でそれは無いんじゃね? がオレの考え

87 :
疑問1
野蛮な敵の捕虜を、政権の重要地点の側に連れて来ないはず
これはアルカイダの捕虜をワシントンやニューヨークに連れてきたようなもんだから
疑問2
仮に畿内に俘囚の集落が有ったとしても、送還命令が出てるだから畿内には残らなかったはず
天皇の命令が有ったのに収容所が残ってるという事だから、ずでに天皇に実権が無かった事を意味する
これらは無いだろ
つまり畿内に多い被差別を俘囚の集落だと言う説の信憑性には
かなり疑問がある

88 :
昭和42年調査による被差別の状況(『被差別の歴史』原田伴彦著:大阪市立大学名誉教授、佐賀県出身、1983年没)
▽地区数
近畿地方27%
中国地方22%
関東地方10%
中部地方10%
▽人口数
近畿地方50%
九州地方12%
中国地方12%
四国地方12%
関東地方5%
中部地方5%

89 :
地区数 上位10地区
福岡615地区
愛媛463地区
広島426地区
岡山373地区
兵庫341地区
長野333地区
埼玉263地区
群馬262地区
富山233地区
三重193地区
北海道0、山形0、秋田1、青森0、岩手0、宮城0、福島8
東京20、埼玉263、神奈川31、栃木104、群馬262、茨城57、千葉39
山梨23、長野333、静岡52、愛知35、岐阜21、福井6、石川47、富山233、新潟59
三重193、和歌山111、大阪105、奈良77、滋賀67、京都147、兵庫341
岡山373、広島426、山口154、島根147、鳥取97
香川48、愛媛463、高知69、徳島86
福岡615、佐賀20、長崎62、熊本45、鹿児島54、大分71、宮崎9、沖縄0

90 :
菊池も戦後、別所起源説をなんとなくひっこめている。
ただやはり長吏曲輪多いのは、上の表でも判るように短頭&下戸地域。
畿内型古墳の多い地域でもある。
そして曲輪の人々の形質的特徴は、東北・裏日本型とされる
中・長頭なんだ。ここらが謎だ。

91 :
Ainuanは東の白人
Europeanは西の白人

92 :
>>89
地区と別所は一致してるの?

93 :
していないな。
9〜11世紀頃の俘囚地区=別所は、17世紀以降のそれとは立地が全然違う。
洪水で溢れて危険な低湿地には、俘囚地区が存在しない。
>>75の佐伯部が住まわされたのは、三輪山の丘陵=山之辺であって
大和川=低湿地側ではない。
当時の三輪山は、森林資源が豊富であったのだろう。
樹木伐採をするということは、鋳造・鍛冶でもやらせていたのだろうか?
それが予想外な事態になって、再配置したのであろう。

94 :
うん。とんど一致していない。菊池は和歌山に一致する「稀有な例」があると
言ってる。
だから連続性は考えられない。
しかし形質と一部風習?が一致している。
そして畿内から遠ざかるほど曲輪は少なくなる。
沖縄と東北には事実上存在しない。
東北にあるのは、江戸以降政策上で移住させられたところらしい。

95 :
別所は、谷戸の地形が多くあり
武士団の本拠地になったのであろう。
徳川氏のルーツの加茂郡も谷戸の地形。

96 :
>>87
アルカイダとは違って、少数で大量戮できるわけじゃないから。
上にある景行天皇五十一年秋条でも伊勢神宮や三輪山に
蝦夷がいたという記録が普通に残っている。
監視しやすいところに分散収容しておくのが最も安全。
送還命令が出たということは間違いなく居たということ。
送還命令が出たのはよほど問題を起こした連中だけじゃないかな。

97 :
形質でいえば、花背,大原,八瀬なんてのは低顔=中・長頭らしいのだ。
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/geo/1324549185/137
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/geo/1324549185/141
このへんは谷戸の地形であり、被差別ではない。
大原あたりは、源氏物語の横川僧都の一族(源信がモデル)が住んでいた地域とされる。
源信は、浄土経典の研究で知られ、俘囚の長の清原氏の係累だといわれている。
横川や八瀬は、最澄が比叡山を作る時に使役した鬼の本拠地であるといわれる。
八瀬童子の伝承にも、鬼の子孫であることが伝えられている。
俘囚の長が武士の棟梁となり、率いていた「鬼」が武士団を形成したとしても不自然ではない。
八瀬童子は、武装して後醍醐天皇の亡命脱出の手助けをした史実がある。
山間地の住民は、刀狩りの対象外となっており、大型獣からの護身用に銃刀を保有しつづけた。
平安後期の北面の武士も、俘囚の長に率いられた「鬼」が多くいたのではないだろうか?

98 :
清和源氏、桓武平氏
武家の棟梁はおもいっきり貴族。
だいたい俘囚なんて弱いから負けたんだし使い物にはならない。

99 :
「負けた」から「使い物にならない」っていうのは全然違うなあ。それじゃあ英軍のグルカ兵や、北米仏領のインディアン兵はどうなる?
8世紀後半から始まった38年戦争では、蝦夷は自軍の何倍もの兵を要する大和朝廷軍を相手に幾度も大勝利を飾っている。
ただ、生産力や物質の補給能力の違いにより、徐々に疲弊して最終的に大和朝廷軍に投降したというだけ。
逆に言えば物質補給能力のある大和朝廷側によって傭兵化されれば、これほど心強い戦力もなかっただろうということ。
まさにグルカと同じだよ。

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