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2012年1月2期日本近代史4: 戊辰戦争・旧幕府軍勝利の可能性について (528) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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戊辰戦争・旧幕府軍勝利の可能性について


1 :10/09/28 〜 最終レス :12/01/19
これは意外とありえると思う

2 :
北越戦争開始時までならチャンスはあったと思う。

3 :
鳥羽伏見の戦いが起きた時点で慶喜の計画は台無し、おまけにでかい口叩く会桑があっさり負けた時点でいろんな意味で逆転不可能

4 :
>>2
榎本艦隊が新潟に無事到着して制海権を確保して、
河井継之助が西郷率いる増援軍勝つか冬まで持ち堪えるかしかないな。
いずれにしても相当ハードル高い。
そもそも無事に新潟に到着できるかが物凄く怪しいw

5 :
それ以前に、
榎本は徳川処分が終わり、自分が何をしても徳川家に迷惑が掛からない段階で蝦夷に向かっている。
新潟を守るなら、それ以前に江戸を脱走しなければならないが、脱走したらその責任を徳川家がとってお家断絶が有り得る訳だが。
それで榎本の武士道や正義感は問題視されないのか?

6 :
>>5
歴史を捻じ曲げて金儲けする会津観光史学の倫理観は問題視されないの?
おまえの事だ

7 :
せめて白河城ぐらいは防衛しきれないとお話にならないと思う。
兵力では優越してたんだしさ。

8 :
また会津観光史学がクソスレたてやがった。
ここも監視下におく。

9 :
>>6
おいおい、俺は会津を叩く側だよ
会津ヲタが良く叫ぶ「榎本海軍が奥羽越後に来ていたら、会津は負けなかった」という暴論に対し、
「徳川処分が終わる前に、徳川海軍が戦争を始めたら徳川家断絶将軍慶喜は処刑になる。そんな事を幕臣の榎本がするわけねぇよ」と言いたかったんだ。
第一、榎本が会津や長岡を助けなけりゃならん理由もない。ただ、蝦夷開拓は静岡に行けなくなった幕臣を救済するという理由があった。結果的に函舘戦争になったがな。
早い話が、徳川と会津を一緒にするな。会津みたいに怨念と意地だけで戦争してた訳じゃないよ。と言いたい訳だ。

10 :
今の榎本スレの惨状を見たら会津厨と榎本好き(大鳥好きも)は相容れないのはわかるだろ

11 :
榎本スレ荒らしてるのは、どう考えてもアンチ会津だろ?
キチガイみたいに発狂してたじゃねえか

12 :
吉外みたいなのは、会津が好きな人たちだったような気がする。
彼らに任せると、鳥羽伏見の緒戦の敗北も当事者ではなく徳川慶喜の数日後の撤退のせいにされてしまう。
歴史を語るものにとって、会津愛好者は悪例だろう。

13 :
そもそも王政復古後の新政府のメンバーは
親慶喜派が多数派なんだから戦わないのが
ベストだわな

14 :
>>11
あれはどうみてもいつもの成りすまし君だろ
その他も病院絡みの事ばっかじゃねーか

15 :
「天皇の世紀(9)」を読んでいるが、ちょうど鳥羽伏見の戦いのところで面白い。
薩長軍がぎりぎりの綱渡りを勝ち抜き、自然と天下の大勢を味方につけた事がよくわかる。
このスレにいる人にはお薦めなので、ほんの少しだけ紹介しよう。
・・・(中略)・・・
 戦闘は、正月三、四、五、六日と続いた。局部的には、幕府軍側が反撃に成功し、陣地を夜中保持したが、
大勢は今や京軍の作戦行動が広範囲の機動力で全面的に圧迫を加え、一日毎に敵の後退を促した。
 伏見の戦闘は、第二日には中書島、堀川右岸の郊外に出て、撃退に成功した京軍が追撃を怠った隙に、
会津軍は淀に退いて、戦闘の中心は鳥羽方面に移り、幕府軍が退いて防備した富ノ森の攻防に集中せられた。
これは代表的な戦闘となって、彼我の運命を大きく決定した。
「午前七時頃、鳥羽本道隊は昨日伏見から転身してきた新手の篠原藤十郎(国幹)の三番隊と大山弥助(巌)の二番隊とを前軍とし、
少距離をとって、五番、六番隊、一番砲隊、長(州)第三中隊の順序で前進し、外城二番隊は横大路に止まり、予備隊となった。
横大路を通過した三番隊は、村端れに出るや、前方六百メートルの富ノ森の敵陣地から砲火を受ける。
直ちに本道の左側に散開、前進したが、この地は前日(大)坂軍の槍隊や抜刀隊の潜伏、突撃を受けた所だから、
予めこれに備えて、左側やや前方に約一分隊(二十名)ほどを出し、側面援護に任じた。
かくて敵前二百メートルくらいまで敵火をおかして前進したが、激烈な鉄砲火を受けるので、ついに三番隊も停止し、銃火を開いた。
 続く二番砲隊も村端れに出るや、横隊となって前進、三番隊の近くまで弾雨の中を進んだが、
三番隊の停止を見て二番砲隊もややその後方畑地に陣地を占領し、酒樽台場に向かって砲撃をはじめた。」(大山柏「戊辰役戦史」)

16 :
 酒樽陣地は、酒造用のたるを徴発し、畳、木材その他で、この地に胸哨陣地を築いたものである。
「最初から陣地にある敵砲四門から射撃して来るので苦戦し、最初は伏臥射撃(原注・用済み砲手は直ちに伏臥する)で砲火を集中したが、
中々制圧できない。本隊の先頭に在った小銃五番隊は本道の右に、更にその右翼の狭小なる地域に無理に六番隊と長第三中隊が割り込み、
一番砲は二番砲の右に並んで砲車間隔なく密列して陣地についた。しかし敵は甚だ頑強で、十余門の放火をもってしてもこの不完全台場を破れない。
ややもすれば、かえって躍動出撃を受ける気配すらある。ここにおいて大山隊長は、その小荷駄の二十ドイム臼砲を取り寄せ、射撃を命じた。
 三番隊が停止して射撃を開始するや、秘かに突撃の機を窺っておった会(会津)軍槍隊の一軍は『時至れり』と突然草叢中より踊り出で、
三番隊の左側援護隊に喊声を挙げて突込んで来た。だが三番隊には備えがあった。援護隊の連中は狙撃兵若干名のほかはいずれも腕に覚えの剣士ばかりだった。
突撃を受けるや『何を!』とばかり立向かい、忽ち格闘となった。傍らの狙撃兵が小銃でお手伝いするので、忽ち会兵勇士はバタバタ斃され、
ついに突撃は成功しなかった。」
 近代的銃砲戦と、古風な軍記物のような一騎打ちの白兵戦との混り合いであった。
「会兵は新手を入替えて突撃を反復したが、その都度迎撃され、流石武勇を誇る槍隊も歯が立たない。
実は前々日からの戦闘で強豪を多数失い、その質が低下していた。しれぶ会藩最強の別撰組主力はこの日伏見街道に在り、
僅かに一小部しか参加せず、これも数回の突撃で死傷者が続出したからこそ、突撃が成功しなかったのである。
一方、薩兵も前日に懲り備えを立ててあったので、柳の下の鰌はもう取れなかった。
 今度は手を替え、四、五名ずつで三番隊の後方を隠蔽匍匐して、二番砲隊の左側へ躍り込んだ。
二番砲隊はその時、山砲とその後方の二十ドイム臼砲とを併せ撃っておったので手一杯のところへ躍り込まれた。
だが二番砲隊随一の豪のもの伍長川上万助は手を負傷しておったが、会兵の突進を見るや、手槍を取って立ち向かった。
流石は梅田流槍術の達人、『チェストー』と薩人独特の掛声もろとも、先頭の会兵をただ一突きに突伏せた。
次に来た一名は川上の後方から伊東強右衛門が小銃で撃ち倒し、続いて来るものは、川上がまたも渡り合い、『エーイ』と突き出す手練の一突き、
敵は受け損じて胸板を貫かれた。残りの人も斃されて砲隊は事なきを得た。これは戦闘の間における些細な小闘に過ぎないが、
この教訓は砲隊にその両翼警戒を痛感せしめ、本役以降、砲隊には砲護兵と称する歩兵一分隊ぐらいを専属せしめることとなった。」
 二番砲隊はこの騒ぎで動揺したが、直ちに立直って、二十ドイム臼砲の威力を発揮し、出撃せんとする敵を散乱せしめて陣地に封じ込めた。
しかし戦況はうごかず、午前七時から始めて、正午になっても発展しない。

17 :
「わが(薩軍)右翼では敵の抵抗は割合弱いが、その地は桂川の流域で処々に水溜りが在り、容易に前進できない。
かつ、ここは淀北端の納所(地名)に在る敵の第二線陣地(距離約六百メートル)から砲撃を受けるので、
これも前進の妨げとなっている。また遥か東南のの伏見街道にも断続的銃砲声が聞こえる。
また横大路におった予備の外城二番隊は、会兵の潜伏、白兵突撃を見、三番隊の左側を援護する如く、
密集隊形で三番隊の左翼後方に進み、敵の白兵突撃に備えながら、正面敵陣地の右翼を攻撃した。
 二番砲隊は景気よく射撃した結果、砲側の弾薬を使用し尽し、横大路まで前進しておった小荷駄の予備弾薬をもって補充したが、
これも刻々減って来る。大山隊長はついに意を決し、抜刀して『砲を捨て、銃をとれ!』の号令を下したため、
砲隊は忽ちにして小銃隊に早替りした。続いて『散開前へ』で、歩兵線を乗越え、敵の銃砲火中を一意前進し、
ついにそのまま敵の陣地へ突込んだ。砲隊の小銃前進を見た両隣の小銃隊は、共に天下無敵を誇る篠原三番隊と野津五番隊、
何でこれを見逃そう。『砲隊に遅れては小銃隊の名折れ、われ遅れじ』と突進したから、期せずして前線の総攻撃を誘発し、
さしも頑強に抵抗した幕、会兵も(前夜野営の際)みずから破壊した不完全台場では持久し得ず、
この突撃に遇って脆くも敗れ、納所の第二線陣地へ敗退した。」(大山柏「戊辰役戦史」)
 富ノ森は、かくして薩軍の手に落ちた。三番隊長篠原国幹は後の西南戦争の勇将、五番隊の野津道貫は日露戦役の軍司令官、
大山巌は満州軍の総司令官で、共に元帥と成った人々である。
「この富ノ森へ二番砲隊が小銃突撃する少し前、大山隊長は右耳を撃ち貫かれ、今日の止血包帯の意で手拭をもって頬冠りした。
かくして頬冠りのまま陣地へ突入したのが、他隊の人々には何ゆえか判らなかったので、当時『弥助どんの頬冠り斬込み』
と言ってもてはやされた。」
 富ノ森を占領して、部隊を整備した後に、薄弱となった敵の小銃火をあびながら、前進し、地域が狭いため自然に密集しつつ、
淀の北端の納所の敵陣地に突込んだ。敵は陣地を放棄して退却し、午後二時には、淀の前線を確保して、なお攻撃前進を続けた。
富ノ森の抵抗を破ったので、道が開けたのである。

18 :
鳥羽伏見の戦いは本来勝てる戦い。
幕軍は、洋式歩兵 5個連隊、伝習1個大隊他に撒兵隊等もおり、薩長軍を圧倒していた。
敗因として幕府側の慢心と指揮命令系統が確立されていないのと総指揮官の問題。
最低限、臨戦態勢を持って望めばあのような負け方は無かったでしょう。
私なりに考えると、伏見の奉行所周辺の要地を事前に押さえるか、押えられてしまったら伏見市街地は放棄し、鳥羽方面に集中させればと思います。
「幕府歩兵隊」著者の野口武彦氏が書いた「鳥羽伏見の戦い : 幕府の命運を決した四日間」
と言う本が出ているので私もまだ読んでませんが、読むといいかと思います。

19 :
また会津観光史学の妄想か

20 :
>>18
>敗因として幕府側の慢心と指揮命令系統が確立されていないのと総指揮官の問題。
>最低限、臨戦態勢を持って望めばあのような負け方は無かったでしょう。
鳥羽伏見の戦いにおいて、旧幕府軍の戦術は前近代の立ち遅れたものでした。
優勢な火力を所持していながら、見通しの利く場所での無為な密集突撃で部隊指揮官もろとも消滅してしまったのですから。
旧幕府軍を勝利させるなら、
1.人数上の優勢を生かすために進路を分散させる
2.臨戦態勢で進軍する
3.命令を混乱させただけだった瀧川・竹中は更迭する
4.突撃戦法は無意味なので、これを指導したフランス軍将校も更迭する
これだけのことが、事前に必要でした。

21 :
タイトルは「鳥羽伏見の戦い 幕府軍勝利の可能性について」
にしといた方が良かったんだろうなあ。

22 :
>20
>見通しの利く場所での無為な密集突撃で部隊指揮官もろとも消滅してしまったのですから
これについては当時いたしたかなかったのでは?
南北戦争でも同様の問題はありましたしね。
密集戦法でも良いが、優勢な戦力を先鋒・中備・後詰と的確に配置し連続攻撃していれば突破できたはず。
戦国時代の武将に統帥させても勝てたのでは?
当時は戦術の過渡期でもあり、操典に忠実にやるよりも、士気の高い武士に洋式銃持たせ戦闘レベルは適当に戦わせた方が有効という見方もできる。
討幕軍や幕府脱走軍も徴寡歩兵隊除けばそんな戦い方している。
当時幕府には、歩兵役になるうる士気の高い武士が少なかったのも問題ですが。

23 :
会津観光史学に洗脳されるとここまで妄想が酷くなるのか

24 :
>>23
成りすまし君理解出来ないからって観光史学呼ばわりするのはマヌケだよ

25 :
>>22
>密集戦法でも良いが、優勢な戦力を先鋒・中備・後詰と的確に配置し連続攻撃していれば突破できたはず。
それにしては、前線司令官は全滅した上に部隊は四散し、連続攻撃しようにも続かなかったのですが。
旧幕府陸軍が当時引き連れていた兵数では、密集戦法は無理だったのだと結論付けざるを得ません。
砲支援のない単純な密集突撃は、ライフル銃登場前の、銃の射程と威力が増す以前の戦法で、
これを採用したフランス軍将校は、以後の本国の戦闘でも敗北を喫しています。
彼らは敗北を見て改めない、無能な人間であったと私は思います。
彼らの指導には誤りがありました。

26 :
>25
鳥羽側の薩長側戦力はせいぜい2千、しかも恒久陣地を構築している訳でもく充分な砲が有った訳でもない。
幕府側の戦力は当初どおりでも5千以上、但し上洛途上での戦闘を想定していない指揮系統が別な3梯団に別れていた。
兵数不足というよりも、全体統制されない各部隊が狭い地積に集中して混乱したという構図。
近代も、中世も関係なく、鳥羽方面の指揮官を決め先鋒・中備・後詰と振り分けるだけで良かった。
当時、幕府に限らずきちんとした散兵戦法とれる部隊があったのか?
幕府以外は洋式調練も小隊どまり、また洋式教練不十分な武士に洋式銃持たせただけなので、結果的に散兵的戦いに成ったというのが実情では。
 

27 :
>>26
>しかも恒久陣地を構築している訳でもく充分な砲が有った訳でもない。
砲支援も無く前進した旧幕府歩兵の稚拙さをレトリックでごまかそうとしても、それは無駄というものです。
>幕府側の戦力は当初どおりでも5千以上、但し上洛途上での戦闘を想定していない指揮系統が別な3梯団に別れていた。
>兵数不足というよりも、全体統制されない各部隊が狭い地積に集中して混乱したという構図。
>近代も、中世も関係なく、鳥羽方面の指揮官を決め先鋒・中備・後詰と振り分けるだけで良かった。
兵士を集めているだけで、砲支援も無く、一日中突撃を行い部隊もろとも消えていった旧幕府軍現場指揮官は、馬鹿そのものですね。
>当時、幕府に限らずきちんとした散兵戦法とれる部隊があったのか?
>幕府以外は洋式調練も小隊どまり、また洋式教練不十分な武士に洋式銃持たせただけなので、結果的に散兵的戦いに成ったというのが実情では。
長州勢は押し出し候節は銃隊は駆足並にて押し来り
発泡の矢頃に至り候えば太鼓打ち止め直に散兵と相成り
銘々物陰を撰びて手早く身を隠し顔ばかり出し発泡致し
匍て進み寄り候
(小倉城陥落時 加賀藩士高嶺清八・岡田助三郎報告)
これを見る限り、薩長側に散兵戦術があり、旧幕府軍には前近代的な密集突撃戦術があったようです。
洋式教練不十分な兵士とは、旧幕府軍及びフランス軍顧問団の側ではないかと思われます。

28 :
小倉戦争の大敗北で、戊辰も負ける。
戦争での勝利の要素に民衆が官軍側に支持というのもある。
抑圧的で異国との不平等条約に弱腰な幕府より薩長という世論。
関西〜関東まで、官軍に商人、民衆は援助し応援した。
あと、大村益次郎がいるので、勝ち目はない。

29 :
>>27
幕府も歩兵隊は散兵戦術使えたのでは。
伏見でも、突撃してるのは会津や新撰組ばっかだったような。
歩兵隊は指揮官が不用意に前線に出て撃たれまくってるね。
>>22
伏見戦での官軍の戦法を見ると、十分な厚みがある部隊は前列は銃剣を装着し、
後ろの段列が射撃を担当する。
十分な厚みのない部隊では、敵の突撃を受けたらさっさと足止めして撤退する。
たとえば新撰組の永倉が、手薄な側面から迂回突撃したが後者の方法でスカされて撤退してる。
まぁ完全に効果がない訳ではないが、犠牲が大きすぎるんだな。
死体を乗り越えて遮二無二突撃しろって、言うのは簡単だが……

30 :


31 :
散兵戦術をするのは幕府軍には無理。
武士は士気が低く、江戸周辺のちんぴらごろつきを集めて作った集団に、
幕府の為に戦えといったら、指揮官から離れて戦ってくれるわけがない。
長州の場合は、士気が高く一人になっても戦える兵士だったから、散兵戦術ができただけ。
また十分な練度が必要、長州は四境戦争前から調練していたわけで、
それを一朝一夕でやれというのは無理。
つまり幕府軍は密集突撃をしないと軍が維持できず、そのまま離散してしまうという事です。
軍を軍として維持するのはとても大変なんですよ。
つまり戦術としてそれしか選べなかったのです。
そしてそれを選べば負けるしかない、つまりどうあっても歴史は覆らないという事です。

32 :
バックがフランスじゃ勝ち目なしだろ

33 :
ナポレオン三世(仏第二帝政)1970年崩壊→イギリスへ亡命(実体は英の傀儡政権)
小栗信者は馬鹿過ぎで旧幕府系も勝ち目なんか無い。

34 :
>>33
1870年でした。

35 :
幕府軍の兵力は薩長を上回っていたというが
本当に戦う気があったの会津や桑名など極一部だけだったから実質的な兵力差は余りになかったんだよな
その上で戦術、指揮能力等も薩長以下なんだから勝てる分けない

36 :
浜田藩や小倉藩や松山藩も必死で戦ったのになあ

37 :
長州征伐なら、肥後藩も頑張ってたような……
いくら援軍要請しても誰も来ないからブチ切れて帰っちゃったとか

38 :
鳥羽・伏見の戦いだが、開戦直前時の朝廷の命令は
「会津・桑名は罷免間もないので上洛を認めない」
「大軍を連れての慶喜上洛は人心が動揺するので見合わせるように」
だったんだよね。
朝廷はあと一歩で軟化して、「徳川慶喜は会津・桑名以外の軍なら連れて武装上洛して良い」
になる可能性があった。
会津・桑名は尾張・越前ら小御所の諸侯に警戒されていたので、薩長は会桑を名目に旧幕府軍の行動に制限を加えようとした。
会津・桑名(含新撰組・見廻組)を鳥羽・伏見の戦いに参加させてはいけなかったのではないか。
先発隊は別の藩にやらせておけば、薩長軍が戦いを仕掛ける口実がなかったのではないか。

39 :
>>38
会桑は当然だが、「大軍を連れての慶喜上洛は人心が動揺するので見合わせるように」と言われているのだから、軍隊を連れて行くのは駄目だろw。
朝廷からはさらに「普段と同じように上洛せよ」と言われている。供連れは構わないが、その供が鎧着てちゃ駄目だ。鉄砲持っているなどもってのほか。
ごく普通の大名行列だったら戦にはならなかったろう。

40 :
会津・桑名は当時朝廷を押さえていた諸侯から復帰を警戒されていたので、
彼らの軍を上洛させるのでは、諸侯の旧幕府への賛同は得にくい。
旧幕府軍は、別の藩兵を使うべきであったのではないか。
旧幕府贔屓の人が言うように、旧幕府軍は兵力で圧倒的に優位だったという主張があるなら、
尚のこと会津・桑名は後詰であるべきだろう。
また、他藩の兵や幕府歩兵の後備が動かせる状況ではなかったというなら、
圧倒的優位という口上は看板倒れで、徳川慶喜の逃亡も責められない。

41 :
他藩兵というのであれば、二条城に水戸藩兵が入り、京都警備に薩長に交じって土佐兵、尾張兵がいる。
薩長はともかく、土佐と尾張は幕府軍から”味方”と思われていた。また、大津に幕府軍先鋒を担ってきた彦根部隊が布陣していた。
そういう意味では、旧幕府軍は潜在的味方を考えると別にわざわざ会桑を上洛させる必要は全くない。
武装した徳川兵も不用。尾張徳川兵がすでに京都にいるし、幕府政治総裁職の春嶽率いる越前福井兵も親徳川の山内容堂の土佐兵もいたのだから。
彼らが、なぜ薩長に味方したかと言えば、第一日目にあっという間に徳川が負け、錦旗が出てしまったから。出る前までは、味方だったよ。

42 :
「味方」という言葉を都合よく使い分けているようだが、
小御所に詰めていた諸侯にとって、土佐藩士らを多数捕縛害し、御所を過去に押さえていた会津・桑名は「味方」ではない。
また、大政奉還後の彦根藩は、朝廷の命令が旧幕府より優先されるとして行動していた。
会津・桑名主力という行軍形態は、一番当時の京都へ行軍させてはならない、最低の選択だった。

43 :
会桑を京都へ行かさなくても、徳川兵が武装して京都へ進軍すりゃ同じ結果だと思うけどねw
普通に大名行列作って行けば良いだけでしょうにw。
そもそも、戦争を目的に京都へ兵を出せば会桑がいなくても阻止されますよw

44 :
戦闘を意図したにしては、昼下がりに鳥羽・伏見に到着してから
街道に関を作っていた薩摩軍との交渉が決裂したと看做して、夕暮れに行軍を再開しても、
一切戦闘隊形を作らなかったという粗忽ぶり。
それくらいなら、戦闘員なんて送らずに大名行列で京都へ向かった方がマシ。
鳥羽・伏見における旧幕府軍は、何か勘違いしていたとしか思えない。

45 :
1.鳥羽伏見直前期、「会桑に何の罪があって、彼らのみを帰国させるのか?彼らも上洛して然るべき」と論難し、
  薩長をタジタジにさせた論客が土佐藩山内容堂公だという事実。
2.会津桑名がした土佐人の多くが、土佐脱藩の下級武士郷士の尊攘派。
  その土佐尊攘派の最大派閥、土佐勤王党は山内容堂自身が弾圧壊滅させている事実。
3.薩長に同調して挙兵しそうな土佐上士指揮官クラスの板垣退助らは、山内容堂自身が「国元へ帰っておとなしくしていろ」と命じ、
  鳥羽伏見の戦い時、京都にいない事実。
以上の事実により、土佐藩が会津桑名を嫌っているとは限りません。
まぁ一部土佐藩士の中に会津桑名を嫌っているヤツはいるだろうけれどもw

46 :
色々書いてはいるが、全て山内容堂一人の行動じゃないか。
実際この時期の記録を見ると、容堂の姿勢に土佐藩邸が嘆息したというものもあり、
容堂を土佐藩内に返せという意見も記録されている。
容堂が一人、土佐藩で浮いていたんだよ。

47 :
容堂一人というが、土佐藩を代表しかつ土佐藩政に与える影響も大。
参政後藤象二郎も容堂の支援無しには何一つ行動を起こせない。
そういう意味では、土佐藩=容堂であり、よって土佐藩が会津桑名が来たら敵対するとは限らない。

48 :
土佐藩がどう動いても歴史はかわらんよ。
粛清対象に土佐が入るだけ。

49 :
土佐藩が藩を挙げて公武合体に進んでいたなら、まだ慶喜にも勝ち目はあったかもしれないよ。
しかし当時の記録を見る限り大政奉還の頃には、幕府側の史料で土佐は悉く倒幕に靡きなどと書かれているので、
慶喜側の接近策は容堂一人にしか効かず、土佐藩は討幕路線一辺倒だったのだと分かる。
坂本龍馬暗も、会津藩の意図していた土佐と薩長との連絡役を潰すという効果ではなく、
身内を幕府勢力にされたことによって、土佐藩を薩長へに接近させる結果を生んだ。
大政奉還をしないのなら幕府は政権として突っ張れたし、
会津桑名が大政奉還絶対反対路線でまぜっかえさなければ、妥協の余地もあった。
幕府側の不一致が、旧幕府勢力が徹底的に敗北するまで追い込まれた原因でしょうね。

50 :
>>49
それは微妙な意見だな
>幕府側の史料で土佐は悉く倒幕に靡きなどと書かれているので
鳥羽伏見直前の段階では、逆に幕府側から味方だと思われていたよ。
王政復古に協力した土佐藩だが、鳥羽伏見では佐幕派からかなり期待されていた。
事実、会津藩先鋒の林隊が土佐隊と接触した際、土佐兵は「自分達の警備以外の地域を通るなら構わない」と返答し、
会津林隊は土佐兵を迂回し、命じ政府軍警戒線の遙か後方の薩摩藩邸を焼き討ちしているw。
土佐が討幕路線一辺倒なら、あり得ない事だぞw。
>身内を幕府勢力にされたことによって、土佐藩を薩長へに接近させる結果を生んだ
まだこだわってんのかよ。
会津桑名がした土佐人ってな、何度も言うように土佐脱藩郷士や下級脱藩士ばかりだってのw。
土佐勤王党をぶっ潰した上士の後藤象二郎や山内容堂にとって痛くも痒くもないの。
ただし板垣退助は上士だが激烈な倒幕派だから、こいつ等が会桑を嫌っていただけでしょうにw。
第一、土佐が武力討幕一辺倒なら大政奉還なんて建白する訳ねーだろw。

51 :
>鳥羽伏見直前の段階では、逆に幕府側から味方だと思われていたよ。
>王政復古に協力した土佐藩だが、鳥羽伏見では佐幕派からかなり期待されていた。
>事実、会津藩先鋒の林隊が土佐隊と接触した際、土佐兵は「自分達の警備以外の地域を通るなら構わない」と返答し、
>会津林隊は土佐兵を迂回し、命じ政府軍警戒線の遙か後方の薩摩藩邸を焼き討ちしているw。
>土佐が討幕路線一辺倒なら、あり得ない事だぞw。
後方に回ってみたが味方も続かず指示も来ず、改めて伝令を出したら、「戦力が足りないので帰還せよ」だったので
何もせず引き返した、と会津側の証言には、指示を出した幕府側への恨み言と一緒に載っています。
何が焼き討ちしたですか。嘘をつくからあなたの証言は信じられないのです。

52 :
大体あなたの味方認定は、
会津に都合のいいように、勝手に他人の言行を盗んで会津の功績にした挙句、
龍馬暗や神保切腹強要など、会津の恥部へは
味方なんだからあいつらのせいだ、容保サマは清廉潔白です、と押し通すだけで、
味方に認定されても、ちっとも喜べません。
大目付の永井に龍馬暗の罪をなすりつけようとしたり、
山内容堂や後藤象二郎が龍馬暗の真犯人だと言い張ってみたり、
神保切腹は徳川慶喜のせいだといってみたり、迷惑この上ありません。
しかもその場その場の言い逃れで全体として整合性がなく、会津を庇うだけで混乱を作ろうと画策する。

53 :
え?おまいらどこでそんなに歴史勉強してるの?
ウィキ?

54 :
>>47
当時はそこまでの影響はないよ。
他藩と繋がっている志士連中のほうが発言力は強い。
土佐がいなくても維新はなってしまうんだよ。残念な事にね。
そしてそれがわからないわけじゃないから、結局は迎合せざるをえない。

55 :
大政奉還前の時期でも土佐藩の上士は9割が佐幕派
一方郷士以下はほぼ勤王家
ソースは佐々木高行の日記

56 :
佐賀と福岡に山口の尻を襲わせれば勝てた

57 :
会桑が失脚しそうだったから武装上洛煽ったとか
そんな単純な問題じゃねーの?

58 :
>>13
禿同!
慶喜は、大阪城で待ちながら、尾張藩や越前藩、土佐藩の多数派工作を見守っておればよかった。
何も正月早々から戦争はじめることは無かった。
岩倉を含めた公家連中は、徳川との戦争回避に躍起になっており、慶喜の議定就任と
新政府参加を認める立場、また、皇族議定が、新政府での下級藩士の活発な活動や
発言の多さを批判する意見書を提出し、岩倉を批判し出した。
その結果、下級藩士がメインの参与と大名や公卿、皇族中心の議定の会議は別々に開かれる様になり、
参与会議は下院、議定会議は上院、と言われ始める状態にまでになっていた
まだ新政府に参加していない、阿波藩、福岡藩、熊本藩が御所からの軍隊引揚を薩長側に要求するし出した。
これらの事から見て。幕府側が薩摩のテロ活動による挑発に乗ってしまったのが、最大のミスだろうな。
西郷も、徳川家との戦争は3月か4月ぐらいだと考えていた。
慶喜も4月まで開戦を引っ張ってストーンウォール号(甲鉄艦)を入手してから
開戦すればよかったのにな、甲鉄艦が手に入れば、徳島沖海戦はでは、薩長の艦船を
全部沈める事できたであろうに。
甲鉄艦を含めた大阪湾の徳川海軍は、薩長側の広島藩の広島城かその城下を艦砲射撃で
焼払う事もできたであろうに。

59 :
無理。
鋼鉄艦の砲門数知ってていっているのか?
ちなみに四カ国艦隊のときは200門くらいあるからな、
それでも艦砲射撃では長州側の砲撃を止めれず海兵隊が上陸して砲門壊してまわったくらい。

60 :
>無理。 鋼鉄艦の砲門数知ってていっているのか?
ストーンウォール号の凄いところはな、速度と船体の丈夫さなんだよ!
鋼鉄の船体で敵船に体当たりして、ジャンジャン沈める。
>艦砲射撃では長州側の砲撃を止めれず
長州の対艦砲撃は、薩英戦争の時とは違い、全然当らなかった。
あと判っていない様だけど、薩摩は長州と違い、藩上げての対幕府戦争に
賛成している訳では無いからな、国許では対徳川戦には反対の意見が強い。
ついでに機関砲も付いているので、敵艦の乗員をバタバタせる。

61 :
(修正)
ストーンウォール号の凄いところはな、速度と船体の丈夫さなんだよ!
鋼鉄の船体で敵船に体当たりして、ジャンジャン沈める。
ついでに機関砲も付いているので、敵艦の乗員をバタバタせる。

62 :
>>60
だから艦砲射撃で城下を焼き払うとか無理っていってんの。
ちなみに馬関戦争の時の長州の砲はがんがん当たっているよ。
英国の旗艦はマストも折れて、艦長以下士官が数人傷されているし、
死傷者も連合艦隊のほうが多い。
ちなみに連合艦隊は17隻もいるからな。幕府海軍にこれだけの規模があったのか?
ちなみに幕府海軍は幕長戦のときに、長州海軍に追い回されてなにもできなかったからw

63 :
幕府海軍は、全部で12隻です、ストーンウォール号を幕府が入手すれば13隻。
榎本艦隊は、7隻で出航しましたが、小型船舶や古い船は見捨てて出港しました。
榎本艦隊7隻には、3千人の旧幕府歩兵が乗船しています。
ちなみに長州藩を攻撃した4カ国連合艦隊は17隻の軍艦には5千人の兵隊(水兵・乗組員も含め)が乗船しています。

64 :
幕府海軍は、長州藩海軍相手にそんなに戦っていない。
むしろ補給艦としての役割を負っている。
薩摩海軍を当初海上戦闘を負担させる予定が、参戦しなかったために
幕府海軍が、その代わりをしている。

65 :

結果論だけど、徳川慶喜は、戊辰戦争なんてやらずに
越前、高知、尾張の3藩に議定会議の多数派工作を任せて置けばよかったんだ。
大政奉還や王政復古のクーデターの時点で江戸に帰る、という慶喜の選択肢が有ってもよい。

66 :
徳川家の新政府入りできても、これまでと程遠い扱いを受けることが確定な会桑が暴徒と化してるからな
あの時点の一会桑は一橋と会桑に相容れないものがある

67 :
>>65
いや、あのな…
慶喜は戊辰戦争なぞ望んでいなかったし、開戦する気もなかったよ。
単に朝廷から上洛して謝罪しろと言われていたから、そうしようと思っていただけ。
実際、そうしたならば明治政府に参与として参加できると福井土佐尾張藩から聞いてたし。
そうさせなかったのは、会桑そして幕臣の主戦派でしょ。
彼らは「上さま(慶喜)を刺ししてでも、戦争する」と息巻き、老中板倉をして「もう抑えがたき」と言わせた。
結局、慶喜は上洛の共連れとして上洛を許可したが、戦えとは命じていない。あくまでも慶喜上洛の御共だったんだよ。
彼らは慶喜に無断で勝手に開戦し、戊辰戦争を勃発させ、そして勝手に負けた。
そして今、会津の研究家は叫ぶのさ「軍隊を京都へ送っておきながら、最後まで戦わなかった無能将軍」とね。
会津の記録だけを信じ、慶喜の記録は「真実を告白していない」と頭から信じていない。
そういうことさ。

68 :
>>67
慶喜は、幕朝戦争を回避したかったであろうが、対薩摩藩限定の戦闘ならそうでもないぞ。
討薩表なんて物を書いているんだし。
ただまさか、鳥羽伏見で薩摩・長州藩と戦闘になるとは思っても見なかったらしい。
慶喜は、京都御所や在京藩邸を拠点に京の中で薩長と市街戦になると思っていた。
鳥羽伏見では幕府軍は、弾を込めずに整列縦隊のまま突っ立っていたら、
いきなり薩摩軍から砲撃と一斉射撃を喰らい、初っ端から大打撃を被った。
明治政府の参与じゃなくて議定じゃなかったけ?慶喜に約束されていたポストは、
しかも福井・土佐・尾張の三藩は、皇族議定に総裁を関白に変更し副関白(副総裁)に
慶喜を任命するように根回しをしていた。
これは、
皇族議定が、新政府の参与に任命された下級藩士や下級廷臣の活発な活動や
発言の多さを批判する意見書を議定会議に提出し、岩倉を批判し出した事に
目をつけた山内豊信の作戦だった。豊信は、王政復古のクーデター以前の慶喜
の摂政任官計画を復活させようと、薩長や岩倉に批判的な皇族議定に的を絞り、
慶喜を議定よりも上位のポストにつけて三職会議を事実上の諸侯会議に改変し、
その首班に任命させようとした。また明治天皇の外戚である議定の中山忠能ですら
動揺しており、慶喜と妥協する可能性があった。
それに、まだ新政府に参加していない阿波藩、福岡藩、熊本藩などが薩長に
御所の占領状態を解除するように申し入れていた。
諸藩には、強引に徳川家を新政府から追い出した薩長に対しても
良くは思ってはおらす、薩長はこちらでも孤立気味。
小御所会議の時点では、薩長は政治的に大して有利でもないんだよ。

69 :
>>68
少し勘違いしているな、薩長に完全に主導権をとられるのが嫌で、
自分らも参加させろってのが諸藩のスタンス。
幕府はその為のコマだよ。
そして福岡熊本の両藩が薩長と敵対する事はありえん。

70 :
>>69
福岡熊本の両藩が薩長に敵対する事は無くても、味方にもなっていない。
それに王政復古のクーデター以降でも鳥羽伏見の戦い以前までは、
関東、東北、東海中部地方のほとんどは、幕府寄りの藩ばかりで、
しかも大政奉還以後に慶喜に東帰(江戸への帰還)を求めているし、
諸藩は朝廷からの官位を返上している。
しかも、朝廷の諸藩への上洛要請は幕府の顔を立てて断っている藩ばかり。
畿内11〜13藩程度が、幕府から離れて朝廷に近づいている。
また、中国地方と九州で尊王藩が出てきている程度。
慶喜が大阪城を放棄する前は、幕府に反抗する藩はそう大勢は居ない。
阿波藩、福岡藩、熊本藩は、御所の占領状態を解除の申し入れ書を文章に
して新政府に提出したが、本来新政府に参加していないこの三藩の書面を
受け取る必要は無かった。しかし文章を受け取り新政府内で検討した後に
返答すると応えている。
やはりこの時点この薩長軍撤退申し入れ文章を受け取ったのは、薩長の
新政府内での立場の弱さの表れだ。討幕派の多い参与会議ならともかく、
何気に徳川シンパの多い議定会議でこの三藩の薩長軍撤退申し入れ文章
が議題になれば、批判されるのは薩摩藩や岩倉となる。案外この三藩の
薩長軍撤退申し入れ文章は、慶喜が中立藩に手を回して書かせて新政府
への圧力として提出させたのかも知れない。
三藩の中に徳川シンパの阿波藩が入っているのも少し解せない。

71 :
>>70
いやすぐに味方になっているんだが。
福岡藩なんで、長州征伐の頃から長州と繋がっている藩だぞ。
熊本藩は長州征伐で幕府があまりにへタレだったから、幕府見捨てて、
新政府にいち早く近づいた藩。
さらに東海道の諸藩は尾張の言いなりだから、尾張が新政府についている以上、
東海の諸藩も幕府の味方ではない。あくまで尾張の味方で、尾張は幕府を見限っている。
新政府内での立場強化である程度は動いているだけ。

72 :
>>68
何度か交渉した末に、埒が明かないから突破だか圧力かけようとしただかして強襲されたんじゃなかったか。
まぁ突破っつっても行軍隊形のままだったみたいだけど。
これはケーキちゃんがどうとかではなく、現場の最高指揮官が何考えてたのか謎なレベルだが。

73 :
>>71
福岡藩と熊本藩が、完全に討幕藩に成るのは、鳥羽伏見の戦いに負けて
大阪城を慶喜が放棄したてからだろう。王政復古のクーデター以降も
阿波藩、福岡藩、熊本藩の三藩は一応中立と言うスタンスで御所の軍事
管制下での小御所会議の継続を非難している。
特に福岡藩は、慶応年間に藩主黒田長溥が、藩内の尊皇派志士を弾圧し
佐幕色を強めている時期。同時に薩摩藩と長州藩、幕府の間に立って
仲介を務めるなどの中立的な政治活動をしている。
また、この当時の熊本藩主の細川韶邦は、尊皇攘夷にはには消極的な人物で、
1862年に肥後勤王党が分裂したのを契機として藩論を尊王論に統一した。
1866年長州藩の高杉晋作が小倉藩を攻撃したとき、小倉藩側に与して戦って
いる。しかし隣国の薩摩藩などの動向が気にかかることもあって、戦って敗
れた直後、即座に撤退している。
尾張藩は一応新政府に参加しているけど、戊辰戦争までは徳川シンパとして
新政府内でも活動している。特に尾張藩は内部で佐幕派と勤王派の対立が激
しく、徳川慶勝もそう簡単に舵を切ることができない状態。尾張藩が佐幕派
と成るのは青松葉事件を経てからで、東海道諸藩の動向もそれに連動している。
ただし、駿府城に幕府陸軍の大軍が入城すれば、東海道諸藩はそれにも反応する。
>>72
確かにそんな感じですね。
下鳥羽付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と大目付の滝川具挙の押し問答から
軍事的衝突が突然起こり、鳥羽での砲声が聞こえると伏見でも戦端が開かれた。
鳥羽方面では、3日夕方には、突然砲撃を開始した。鳥羽方面の司令官だった滝川具挙の近くに着弾し
乗馬していた滝川を乗せたまま後方に逃げ出した。また、最初の薩摩の一斉射撃で
弾丸を装填していない整列縦隊の幕府歩兵隊がなぎ倒され、総崩れに成ったらしい。
事実上、鳥羽での緒戦は幕府軍の惨敗で、薩摩側の死傷者は初日はゼロだった。
伏見方面では、3日の早朝から伏見奉行所を包囲する形で薩摩藩兵が布陣し、
夕方の鳥羽方面からの砲声にあわせて薩摩軍が伏見奉行所への砲撃を開始した。
伏見方面の幕府軍の司令官は、竹中重固で、彼は戦闘開始直前には、強行突破
の決意を固めて奉行所内で地図を広げて、どこから突破しようか検討中だったらしい。
伏見の桃山中腹の薩摩の砲兵陣地から、伏見奉行所へ砲撃が開始されると、
奉行所の門が開かれ、刀や槍を持った会津藩兵や新撰組が飛び出して来た。
それをめがけて薩摩藩兵が一斉射撃を開始する。

74 :
>>73
福岡藩の事は乙丑の変の事を言っているのだろうが、あれは長州びいきだったのを、
幕府からとがめられて、やり過ごす為に、代わりに切腹させたようなものだぞ。
処刑させても、長州と裏で繋がっていた反。
藩主もその後継者も長州よりの立場なのは変わってない。
中立的な政治活動じゃねーよ。薩長同盟の仲立ちとかもしてる藩だよここは。
本人も有名な勤皇家。内戦になる戦争には反対派であっただけで、幕府よりじゃねーよ。
熊本は尊王に統一したんなら普通に新政府派だろなにをいっているんだ?
薩長よりってほどではないが、新政府や福井や尾張なども含めた雄藩連合政権に傾注していた藩。
幕府は当然見限っている。
実際小倉戦線では熊本藩以外戦わなかった、幕府はへタレで戦わず、
援軍もよこさなかったため、熊本藩は激高して帰った。
尾張にしても対立激しくっていったって、速攻で佐幕派を処刑して、
新政府に忠誠を尽くした藩。そもそも尾張が親幕府とかないわあ。
そこは代々宗家と中悪いんだよ。
さらにチョイ前に御三卿からの養子がゴミで、尾張にすむ武士層の支持を失っており、
慶勝は宗家からの養子ではなくて、支藩からの養子でそもそも幕府とは対立している。
派閥としても、慶勝本人がふいご党などの幕府のお目付け派閥を嫌っていたからな。
尾張が幕府の為に動いたって何を根拠に?
つか都合のいいように解釈しすぎ。

75 :
>これはケーキちゃんがどうとかではなく、
>現場の最高指揮官が何考えてたのか謎なレベルだが。
慶喜は京への進軍のみを認めたが、幕臣たちは、慶喜には黙って薩摩限定の先制攻撃を仕掛けるつもりだった。
大河内正質、竹中重固、滝川具挙、窪田、塚原あたりが、鳥羽伏見を強行突破した後に
在京薩摩藩邸を攻撃して京市内の薩摩軍を叩く構想があった。
また、土佐藩もそれに同調する計画だった。
この計画は、そもそも幕臣ではなく、大垣藩士の井田五蔵が討薩の戦略を老中に進言して始まった物。
京の薩摩藩邸と薩摩藩部隊を先制攻撃し、そのスキに幕府軍の別働隊が御所を占拠して明治天皇の身柄を拘束。
天皇を大阪城に移して西南諸藩の反幕諸藩を征伐する(第三次長州征伐)、と言う計画だった。
ただし、鳥羽伏見では、まだ戦闘にはならないと思い、幕府軍は戦闘体制に入らなかった。
そこを逆に薩長に先制攻撃され、幕府軍はボロ負けした。
>幕府からとがめられて、やり過ごす為に、代わりに切腹させたようなものだぞ
それ立派な、幕府サイドの行動ですから。
>政府や福井や尾張なども含めた雄藩連合政権に傾注していた藩
雄藩連合政権=薩長政権ではないから。
徳川宗家(大政奉還後は、江戸徳川家)が雄藩連合に加わる政権構想がある。
土佐、福井、尾張等はその線。
>尾張が幕府の為に動いたって何を根拠に?
新政府の議定会議では、土佐、福井と組んで慶喜の議定就任工作をしている。

76 :
>それ立派な、幕府サイドの行動ですから。
その裏で長州の為に朝廷工作してるんですよ。
幕府サイドでもなんでもない。そもそも藩主が長州よりなんだから。
>徳川宗家(大政奉還後は、江戸徳川家)が雄藩連合に加わる政権構想がある。
これは別に幕府よりな構想でもなんでもない。
新政府に徳川家を参加させるかどうかという程度の事。
幕府を一つの藩として扱う構想で、幕府のお偉方は反対派。
また当然幕府の領地は大幅に取り上げるのが前提である。
>新政府の議定会議では、土佐、福井と組んで慶喜の議定就任工作をしている。
だからそれは幕府の為じゃないだろうがw
雄藩連合構想を目的として動いているだけで、佐幕派じゃねーよw
幕府を静岡藩60万石として、新政府に参与させるくらいは認めている。

77 :
>そもそも藩主が長州よりなんだから。
じゃ〜何で長州征伐で小倉藩に味方すんのよ?
それに王政復古のクーデター以後に薩長による御所の軍事占領を批判する文章を朝廷に提出するんだよ?
>新政府に徳川家を参加させるかどうかという程度の事。
1867年12月の時点での小御所会議では、薩長はそれに猛反対。
岩倉は揺れ始めているし、中山忠能と皇族議定は、徳川との戦争にビビッて認め始めている。
>また当然幕府の領地は大幅に取り上げるのが前提である。
当初徳川宗家天領400万石のうち200万石を新政府が召し上げる計画だったが、
それは、土佐、尾張、福井の三藩が議定会議で多数派工作し、阻止している。
特に皇族議定が賛成に回っている。対幕府戦争に自信の無い中山、岩倉あたりも動揺黙認状態。
>幕府を静岡藩60万石として、新政府に参与させるくらいは認めている。
尾張藩は、当初の新政府が徳川宗家天領400万石のうち200万石を新政府が徴収する案を
批判し、撤回に動いている。国元の尾張藩自体が、佐幕派と尊皇討幕派に分裂している。
青松葉事件まで、佐幕派、討幕派どちらが有利ともいえない状態。
徳川慶勝は国元の事情を考えて中立的だが、実際には徳川サイドで動いている。
鳥羽伏見の戦いで慶喜が大阪城を放棄した後は、完全に新政府サイドになるが。

78 :
何を持って何サイドとするかで議論が噛み合ってないな
薩長のような武力で徳川宗家を完全に滅ぼすほどの主張はしてないからといって
江戸幕府全盛期のような徳川将軍家の専制政治を、尾張も容堂も求めてはいないよ

79 :
幕府専制派vs公議政体派vs倒幕派って感じだな。あの頃は。

80 :
高杉晋作さえしておけばよかったのに

81 :
高杉晋作か村田蔵六か桂小五郎の内、一人でもしとけば違ったのにな。

82 :
逆に、久坂玄瑞が生き延びる歴史になってしまったりして。

83 :
>>79
慶喜は、大政奉還直前まで慶応の軍制改革などを行い幕府専制派だったけど、
土佐藩からの建白書や説得で公議政体派に鞍替えし、政権を手放した。
薩長の討幕計画が、土佐藩からカナリ詳しく慶喜に報告された。
その為に慶喜は、大政奉還を行い薩長の討幕計画の大義名分を奪う事にした。

84 :
よく抗戦派が「大坂で篭城すれば勝てる」とか「江戸で抗戦すれば勝てる」とか
言ってるの見るけどそれって勝利条件が「薩長の撃破」ならいいけど
「徳川政権の維持」だったらこれを考慮するとかなり厳しいのでは?
 つ 市街戦が発生した場合の経済的損失(復興工事、被災者の救済etc・・)
仮に江戸で市街戦が発生した場合・・
1.当然賠償請求される薩長
2.1の支払い能力を超えた分を不良債権として被る幕府
3.2の何割かは押し付けられるであろう親藩、譜代藩(特に徹底抗戦主張した会桑)
4.1〜3の幕府、藩に金を貸してる商人
1〜4のどこまで破産するだろう・・?

85 :
長州って長州征伐を戦うだけで財政は破綻しなかったのか?
戊辰戦争を起こす財源ってどこから捻出したんだろう?

86 :
>>85
撫育金からの出費。
7代目藩主毛利重就の頃、一般会計の再建とは別に、検地とかで浮かした金を元手に
特別会計として、撫育方っつー少数精鋭の部署を作り、産業振興やインフラ整備に加えて
業者への貸付などの利殖を行わせた。
そこで得た利潤は全て撫育方に収められ、更なる産業振興やインフラ整備に充てられた。
これの一般会計との切り離しは徹底してて、数代後の藩主んとき、台風被害の復興のために
撫育方から出金しましょうっつった重臣が、藩主の怒りをかって御役御免だか謹慎だかさせられた事もある。
んで、この撫育方は代々守られ、普請やら災害復興やらの止むを得ない時だけ出費されてきた。
それに加えて幕末に起用された村田清風の天保の改革により、一般会計の改善とともに
撫育金の利殖も大車輪で行われた。
この代々貯め込んできた金が、村田蔵六による軍制改革のときに盛大に使われることになる。
この撫育金のその後だが、明治初期の時点で約100万両が残っていたとされ、廃藩置県の折に内70万両が
明治政府に対し贈与されている。
あと、長州藩江戸藩邸には、昔々から他藩からの贈答品やら何やらを売り払って貯め込んできた古金もあったらしいw

87 :
>>86
一方で幕府は、家斉の浪費や松平定信の重商主義否定政策なんかで
資金が尽きていたことを考えると、やはり金は戦の変数項だなぁと感じるね

88 :
サンクス

89 :
小笠原長行って致命的ミスをしたのに
なぜかあまり叩かれないよな

90 :
マイナーだからだろ
あの人の逃げっぷりは桂小五郎を超えてるよ

91 :
逃げるべき時に逃げるならまだ分かるけどなw
そして逃げたこと自体よりも、小倉口の幕軍を完膚なきまでに自滅させたのがすげぇ。

92 :
小笠原壱岐守って小倉藩の小笠原とはどういった関係なの?

93 :
唐津は江戸時代初期の小倉の分家ですけど、唐津の方は全国を鉢植え大名として流浪しているから、
すっかり独立した存在ですよ。

94 :
>>86
その撫育金を兵制改革に支出させたのが桂=木戸だよな。
そういう伝統だからと出し渋っていたのを、
今使わんでどうする、ここで撫育金を軍備増強に使わなけりゃ
戦争に負けて敵にまるごと取られるだけだぞっつー正論で。
結果、武器の充実・訓練の徹底・士気の高さで幕長戦争勝利。

95 :
長州を倒した暁には、長州から奪った撫育金を支給するぞ〜
って鼓舞すれば勝てたかもw

96 :
>>95
どうかなぁ。将来の金よりいま金が欲しいって藩のが多そうw

97 :
そもそも長州征伐が成功したら権威回復の為にに暴走を幕府がすることを危惧してるしな
難癖付けられて次の標的にされたらかなわん。なんで熊本はやる気があったんだろう

98 :
http://www.asahi.com/culture/update/0205/TKY201102050167_01.html
http://www.asahi.com/culture/update/0205/TKY201102050167_01.html
戊辰戦争でプロイセンに提携持ちかけ 会津・庄内両藩
2011年2月5日21時0分
戊辰戦争での薩摩・長州を中心とした新政府軍との対決を目前に、
会津・庄内両藩がプロイセン(ドイツ)との提携を模索していたことが
東京大史料編纂(へんさん)所の箱石大・准教授らの研究で明らかになった。
ドイツの文書館で確認した資料は、両藩が北海道などの領地の譲渡を提案したが、
宰相ビスマルクは戦争への中立などを理由に断ったことを伝えていた。
ドイツの国立軍事文書館の資料で、10年ほど前にドイツ側の研究者が存在を紹介したが、詳細が不明だった。
箱石さんらの調査で確認されたのは、1868年の文書3点。
いずれも、ボン大のペーター・ァー名誉教授に依頼し解読、日本語に翻訳した。
(1)7月31日付で駐日代理公使のフォン・ブラントがビスマルクへあてたもの。
「会津・庄内の大名から北海道、または日本海側の領地を売却したいと内々の相談を受けた。
ミカドの政府も財政が苦しく南の諸島を売却せざるをえない模様」として判断を仰いでいる。
(2)10月8日付で宰相からフォン・ローン海相あて。
「他国の不信、ねたみをかうことになる」と却下の考えを示し、海相の意向を尋ねている。
(3)10月18日付で、海相から宰相への返事。
この年は5月に江戸城が明け渡され、7月初めに上野で新政府軍と彰義隊との戦いが決着。
戦争の舞台が東北へ移る緊迫した時期の交渉。両藩は武器入手のルートや資金の確保を目指したとみられるが、
ブラントは「北日本が有利になれば、この申し出は大変重要な意味を帯びる」とも記しており、政治的な狙いも込められていたようだ。

99 :
>>98
会津は京都を舞台に長州と激しく対立、庄内藩は江戸警備を担当して
薩摩藩邸を襲撃したことがあり、両藩は同盟関係にあった。
北海道の領地は北方警備強化のために1859年に幕府が東北の有力6藩に与えた。
会津藩は根室や紋別を、庄内藩は留萌や天塩を領有していた。
箱石さんは「敗者の歴史は忘れ去られ、この交渉も日本にはまったく記録がない。
会津と庄内は土地を提供することでプロイセンを味方につけようとしたのだろう。
戦争が長引けば明治維新に違う展開があったかもしれない」。
明治維新を研究する東京大の保谷徹教授は「会津・庄内両藩がよくぞここまで国際活動を展開させたなと驚いた。
歴史にはまだまだ知らないことがたくさんあり、その答えが海外に眠っていることを示しているのだろう」と話している。
(渡辺延志)

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