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2012年1月2期戦国時代29: 【軍神 上杉謙信 毘沙門天 越後の龍】 (398)
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31: 戦国最強カップル 信玄(♂)&謙信(♀) (752)
32: ☆上杉謙信が生涯不犯を貫いた理由☆ (650)
33: 過小評価が逆転して過大評価になってしまった武将達 (333)
35: 【毘沙門天】戦国最強武将決定戦【風林火山】 (57)
【軍神 上杉謙信 毘沙門天 越後の龍】
1 :06/07/14 〜 最終レス :12/01/21 上杉景勝・上杉景虎・長尾晴景・長尾政景・長尾景信・長尾景連 上条政繁・直江実綱・直江信綱・直江兼続・柿崎景家・斉藤朝信 小島貞興・中条藤資・河田長親・北条高広・北条景広・本庄秀綱 本庄繁長・安田長秀・安田顕元・村上国清・高梨政頼・大熊朝秀 吉江景資・水原親憲・竹俣慶綱・温井景隆・藤田信吉・山吉豊守 遊佐続光・黒川清実・加地春綱・志駄春義・新津勝資・鮎川清長 小国頼久・新発田重家・宇佐美定満・山本寺定長・長景連など。
2 : なんていうか 重複ていうか
3 : 織田家家臣団のその後を語り明かすスレ!! http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152601585/ このスレ立てた人と同じ人のような気がする。
4 : 越後の虎とも聞く。
5 : 他にも・・・。 色部顕長・色部勝長・色部光長・色部長実・色部憲長・甘粕景継 柿崎晴家・柿崎憲家・春日元忠・神余親綱・北条高定・黒田秀忠 甘粕景持・甘粕長重・岩井信能・大石綱元・鮎川盛長・新居長重 島津忠直・上条定憲・須田満親・本庄実乃・村上義清・村上国清 荒川長実・安田能元・泉沢久秀・板屋光胤・市川房綱・飯沼頼清 秋山定綱・新発田綱貞・新発田長敦・前田利益・安田景元
6 : >>4 龍じゃあなかったっけ??無学ですんまそ。
7 : >>3 ドキッ(ーー;)・・・・実は同じです。いっぱい出してすんまそ。 謙信の方が好きなもんで(^_^)宜しくお願いしまっ(^◇^)
8 : >>2 とにかくすんまそ。許したって下さい。 いろいろ勉強したいんですわ(^_^)
9 : 皆さんは家臣団で最強は誰だと思いますか??
10 : 武田と比べて、上杉家臣団は目立たないね。
11 : >>9 単純に戦の強さなのか、総合的になのか
12 : >>10 織田と武田に比べたら確かに見劣りするけど 川中島等で引き分けやったって事は・・・。実は 同じぐらい優秀やったんやと思うんやけどなぁ。 謀略には、とても弱そうなイメージがあるけどな。 一応、織田もぶちのめしたし(>_<)
13 : >>11 べたに武力と統率力で一人ずつお願いします!
14 : >>1 >>5 小笠原長時は家臣と違うのですか?
15 : 柿崎景家 川中島合戦(永禄4年)の先鋒、内藤修理隊を一蹴し 武田の備えを突破する。思慮が足りないが、越後最強。
16 : >>14 小笠原長時は信濃守護職、信濃源氏。 信玄に信濃を追われて越後→京都→芦名へ亡命生活 のちに息子が信濃複料。
17 : >>16 ありがとうございます。ちなみに上杉憲政の家臣達や (長野業正・上泉??)太田資正などは?
18 : 上杉謙信公は、逃げて、戦を進めるのが得意
19 : 太田資正は関東の盟友だが、家臣(被官)ではない。 厳密に言うと、越後の国人領主も被官関係ではないが、越後衆は謙信に誓詞を提出した 配下の者たち。「手飼之者たち」(直臣)は直江・河田・鰺沢・吉江あたり。 長野(その配下の上泉)・太田・佐竹・宇都宮ほか関東衆は 関東管領の指揮下で、従属的な同盟軍(御味方)にすぎない。 謙信が関東から兵を引くと北条に寝返るのが大半で、一貫した同盟軍は太田と里見くらい。
20 : >>18 油断させて相手が調子に乗って来たところで 「キャン」っていわせるって事ですか? 島津家と一緒という事ですか??
21 : >>19 そうですか・・・。全員が家臣やったら武田と比べても 見劣りせーへんのにね・・・。あと山上道及も家臣なの ですか(・o・)??
22 : 謙信の家臣ではない。
23 : >>22 では景勝の家臣ですか?
24 : 関東勢は、いっそ上杉に被官しちゃえば、 現代まで続いたかもしんなのに。 なまじ北条に被官しちゃうから、 小田原攻めで全滅。
25 : 12 戦闘力なら謙信軍団のが高いような気がする。 川中島4では兵数13000対20000(かずに諸説あり)で差がハッキリしてる不利な状況でも謙信は勝算あると思っていたのだろうと思う。 それだけ将兵の質の違いに自信あったんでないでしょうか。 実際、奪った首の数は数の少ない謙信方のが多い。
26 : 上杉謙信が戦上手だったことを示す戦略について教えてください
27 : >>26 「戦上手だった」ということなら「戦略」よりも「戦術」だと思うが、 軍記書では「軍勢を縦横に分けて、謙信みずから陣立てをした」と伝わっている。 つまり、総大将の指揮権で部隊編成し、その際に主従が別れ別れになることも あったらしい。武将の率いる一隊単位で陣立てがなされていた当時では、通常は 考えられない部隊編成で、近世的な兵種別の陣構えも可能だったかもしれない。 しかし、伝わっている軍記書はずべて江戸時代の兵学者の創作と思われ、 謙信もふつうの陣立てをしていたことが軍令書などからは伺える。 史実では謙信も負け戦をしているし、70戦したとされる大半は攻城戦。 城下に火をかけ、敵を降参させたのが確証のある史実ではないか。
28 : そうですよ
29 : 柿崎の知謀を考慮すると甘粕景持が最強だと思う。信長の野望に出てないから余り有名でないけど。確か上杉四天王の一人。ちなみに甘粕景継とは別人ですよ。
30 : 川中島で武田の別働隊を一人で食い止めてた偉い人ですか? 何故かあまり本などで名前を見ないんだけど…。 景持と景継の違いを教えてほしい
31 : >>20 そうですよ。
32 : >>30 甘粕景持って武田軍の別動隊の追撃を自分の部隊だけで食い止めたって すげーなぁ。上杉家の他の武将達も上杉謙信が自ら殿を務めたと勘違い してたらしいから謙信級の神業をしたんやな(゜o゜)
33 : 謙信公が松永久秀級の野心家やったら歴史は大きく変わってそう やけどな。まぁそれじゃあ謙信の魅力半減やけどな(>_<)人間味 を感じるところがええもんな(^_^.)
34 : 武田信玄は毛利元就とか松永久秀と同じ匂いがするから あんまりやわ。確かに領国経営も素晴らしいものがある けど・・・。なんかうさん臭いイメージが強すぎるから やっぱり謙信公じゃろ(^◇^)
35 : >>29 柿崎は「天と地と」で武力馬鹿のイメージを植えつけられたけど、思慮分別のない人物ってわけじゃないよ。 当時としては珍しく部隊を黒一色で揃え、味方の同士討ちや混乱を防いだりしていた。 これが江戸時代になると『越後の黒備え』として創作されるようになった。 また、名政治家でもあって領民達からも慕われていたよ。詳しくは柿崎スレを参照しる!
36 : >>35 なるほど。これで上杉家臣団の能力が、また1歩武田・織田家臣団の 能力に近づきましたな(;一_一)ちょっと上杉家臣団は過少評価され すぎやわ。滅亡した武田・北条より下な訳がないやん。
37 : 謙信の家臣団ということでは、越後国人衆よりも政権後期の直臣たちのほうが 忠誠心もあるし、合戦の能力もすぐれていたよ。 河田長親・鰺坂長実・吉江一族(吉江景資・中条景泰ら)=近江出身 山甫国清(信濃村上氏)・須田満親(信濃衆)上条政繁(畠山氏養子) とくに河田は武勇政務にすぐれ、若くして奉行人になり古志長尾を継承。 織田信長から近江に領地を与えると誘われるが、拒否して柴田勝家軍の侵攻を阻む。 一級史料とされる「信長公記」にもその活躍ぶりが散見される。 吉江一族は本能寺の変の翌日まで越中魚津城を死守して玉砕、籠城は50日に及んだ。 武田氏でいえば高天神城と高遠城の戦いに該当する魚津城攻防戦が上杉氏の命脈を 保ったといえる。玉砕するときは耳に穴をあけ、それぞれが名前を書いた札を縛ったという。
38 : 河田長親は越中を治めきれなかったイメージしかないんだけど・・・・・・・
39 : 上杉謙信とこは、信濃衆とか近江スカウト組とか、 新参者の方が働き者だべな。
40 : >>39 信用されていたんやろうけど新参者が前線に配備されるのは 仕方がない事やったんやろな。みんなの予想以上に活躍したん やろうけど。まぁ武田家みたいにみっともない終わり方をせんで よかったですわ(^_^)
41 : いや、信濃衆はやる気マンマンで謙信はマンドクセ・・・・・で、付き合ってただけだから。
42 : >>41 マンドクセ・・・・では付き合いしてないでしょ。 武田信玄と何回も戦う方がマンドクセでしょ(;一_一)
43 : >>38 普段の越中では無くて織田家・椎名家・神保家・畠山家・一向一揆衆 との戦いに明け暮れていた時の越中ですから。想像しただけでも・・・。 えらいこっちゃですよ。織田家だけでも、しんどいですよ。降参も 裏切りもせずに、なおかつ占領されずに守り抜いていただけでも賞賛 されると思いますが。
44 : >>43 補足ですが、さらにその後も謙信が死去して「御館の乱」が起きてます。 上杉家自体がホンマにえらいこっちゃな状況ですよ。
45 : 「信長公記」にある河田長親の記事 天正6年 4月、信長公は上杉輝虎の死亡を受けて越中への進出を考え、 神保に佐々権左衛門を添え、飛騨国司姉小路頼綱に命じてかれらを飛騨から越中へ入国させたのであった。 9月14日には、越中で斎藤新五が行動を開始していた。 越中では太田保の津毛城に敵方上杉勢の椎名小四郎と河田豊前守長親が軍勢を入れていたが、 尾張・美濃勢近付くの報を耳にしてたちどころに退散してしまった。 労せず津毛を手にした斎藤新五は神保長住勢を城に入れ置き、 みずからは三里ほど進んだ場所に陣を構えて各所へ出陣を繰り返していった。 10月4日、斎藤新五は越中国太田保の本郷に陣を構え 、ここから河田長親・椎名小四郎の籠る今和泉の城下まで押し寄せて放火を働いた。 そして未明に軍勢を返そうとしたところ、敵方が兵を出して追尾してきた。 この動きを見た斎藤新五は節所を選んで軍勢を退かせてゆき、 月岡野という地に至ったところで軍勢を立て備えて一戦に及んだ。 そして見事敵勢を追い崩し、首数百六十を討ち取る勝利を挙げたのであった。 勝ちに乗じた斎藤勢はそののちも勢いを休めず駆けまわり、各所の土豪たちから人質を取り固めていった。 そして人質を神保長住に引き渡したのち帰陣の途についたのであった。
46 : 天正9年 馬揃の後の3月6日、神保長住・佐々成政及び越中国衆が上国の途についた。 これにより加賀・越前・越中三ヶ国の大名衆が馬揃のために在京することとなったが、ここで変事が起こった。 敵方の河田豊前がこの隙に兵を催し、郷の刀を作ることで知られる松倉という地に籠り、 さらに才略をもって越後より上杉景勝を大将に招いて一軍を形成したのである。 そして3月9日に佐々成政が人数を入れ置いていた小出城Pを包囲したのだった。 そして3月24日になり、佐々成政は神通川・六道寺川を越えて越中中郡のうちの中田という地へ入った。 すると上方の軍勢が参着したと知った敵勢の上杉景勝・河田備前は同日卯刻に陣払いをはじめ、 小出表から兵を引き上げていった。その退陣の火の手を三里ほど先に見た佐々勢はただちに 常願寺川・小出川を越えて追撃にかかったが、すでに敵勢は全軍撤退を終えており戦果は挙がらなかっし。 5月24日には越中松倉の地に籠っていた河田豊前が病死した。 ひとたび信長公の憎悪を受けた者は、自然と果てゆく定めであるかのようであった。
47 : 個人的に地元の斎藤朝信が好きなんだけど(家が元家来の土豪と言われるんで笑) あの人については最近まで何者かよく知らなかったんだがなかなか凄かったんだね。 朝信の城の支城の野呂一伯?てのがどんな人だったんか最近気になります。 誰かおしえてorz
48 : 「信長公記」に河田長親の記事がこんだけ出てくるということは、 織田方にとって余程目障りだったのか。
49 : >>48 間違いなくそうゆう事ですね。小物は出てきませんよね。 相手にされるだけの人物だったという事ですね。謙信の 片腕と言われてるぐらいですもんね。
50 : そうだったのか。いつも反乱で越中失い越後に落ち延び、越中を取り返すとそのたびにまた城主に任命されるだけの武将だと思ってた。 ごめんよ河田長親
51 : ただし、椎名小四郎(長尾景直=椎名から長尾藤景の養子に)が織田に離反した のが失策といえば失策の河田長親君。謙信の死にさいしては出家し、御館の乱では 最初は叔父の河田重親が景虎方に付いたこともあり様子見をしていたが、彼が景勝方に付く ことで形勢が決定的に。ということは、謙信の後継指名はやはりどちらでも なかった(定説)ということに? 形だけとはいえ古志長尾家を継承してるんだから、 景虎派になってるのがふつうの成り行きのはずだし。
52 : 激戦となった川中島4回戦での上杉家各将の行動、活躍を 教えてくだされ。
53 : 大将クラスだけでも 討死(武田信繁・諸角虎定・山本勘助・初鹿野忠次) 負傷(武田信玄・武田義信) やっぱり謙信最強やな(^_^.)
54 : このスレは上の方にあるけどFLYp3Vo1のコピペ来てませんね >>53 上杉には上杉の 武田には武田の良い所がある ライバルが素晴らしければ上杉もまた輝くというもの どちらか一方を意図的にくさす発言は良くない
55 : 三好や織田政権を嫌っていた、幕府、堺商人、公家、朝廷とその息のかかった伊賀甲賀土豪だての情報収集力。 上杉の諜報機関といわれる軒猿、だがこのネーミングもいかにも江戸創作じみている、と仮定すれば、諜報機関名さえ漏れ伝わらないというところに情報管理能力が体現されている。。 というのはいかが?
56 : 甲陽軍鑑だかでは、第四次川中島で謙信は、ひそかに八幡原へ本隊を動かす際に、 そのことを武田方に知られないように、屈強の武者100人ほどを集めて、 本陣の様子を探りに来る武田方の草の者を根こそぎに切り倒させて、 ついに武田に情報を漏らさなかったそうだ。 まあ仮にそれが事実だとしても、 そのメンバーは普通に考えればその場で選りすぐったのだろうが、 あえて拡大解釈すれば、謙信の下には精鋭の防諜特殊部隊が存在した、 というような素敵な想像のネタにはなる。
57 : 当時の春日山城下は、有数の商業都市だったので、 大量の商人が集まっていた。 商人たちは、当然ながら他家にも鉄砲やら織物やら茶器やらを納入しているので、 他大名の事情にも通じていた。 こういった商人たちのもつ情報を集めたものが、 上杉家の諜報網だったのじゃないかな。 現代でもCIAとかの情報の大半は世界にちらばるセールスマン経由だし、 ユダヤ商人ネットワークの上にモサドがあったりする。
58 : 上杉家は関が原の折、西軍について戦いましたが 一族や家臣の中で誰も東軍には付かなかったのですか? 真田家のように・・・・。
59 : 西軍に付いたとか東軍に付いたとか、 上杉家が西軍の旗頭ですな。地理的に関が原には行かなかったものの。 関が原の戦いというのは、そもそも景勝vs家康の戦いですもん。
60 : こんな糞スレ早く潰そうぜ
61 : なにこの臭いスレ
62 : >>60 >>61 氏ね。
63 : >>60-61 クズだな
64 : もともと、上杉討伐名目で家康が北上してきたのじゃないかと。
65 : 必 直江状ですな(^_^.)
66 : 直江状は捏造らしいけどね
67 : >>59 徳川との手切れ後に藤田信吉とあともう一人誰かが国抜けしてたはず。 もっとも生きて出られたのは藤田だけだったようだが。
68 : 何で秀吉は上杉家に飛び地を与えたのかな? 越後に加えて会津と庄内与えておけば強力な家康の抑えになりそうなのに 飛び地を繋ぐ為に最上領に侵攻したんでしょ? 余程秀吉に脅威と見られてたのかな?
69 : >藤田信吉 こいつは家康に利用されてることに気づかなかったのか?
70 : >>68 庄内は本庄繁長が武藤の跡目問題で揉めた経緯があるから 無理に動かせなかったんじゃないか。
71 : 上杉景勝・上杉景虎・長尾晴景・長尾政景・長尾景信・長尾景連 上条政繁・直江実綱・直江信綱・直江兼続・柿崎景家・斉藤朝信 小島貞興・中条藤資・河田長親・北条高広・北条景広・本庄秀綱 本庄繁長・安田長秀・安田顕元・村上国清・高梨政頼・大熊朝秀 吉江景資・水原親憲・竹俣慶綱・温井景隆・藤田信吉・山吉豊守 遊佐続光・黒川清実・加地春綱・志駄春義・新津勝資・鮎川清長 小国頼久・新発田重家・宇佐美定満・山本寺定長・長景連など。
72 : >>68 何で上杉にそこまでしてやらねばならない?
73 : 【謙信最強は創作】 謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。 武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が 上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。 臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。 ※謙信自身が敗北を認めている書状↓ 晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、 併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より 取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、 房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、 とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、 早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと のひ候てきうしくちおしく候(中略) かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々 いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと 心ほそく候、 永禄七年三月十三日 虎(花王) [三洲寺社古文書] 【上杉家の歴史】 上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。 奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。 1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。 諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。 原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。 だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。 この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。 上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。 これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。 長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。 臼井城攻撃に失敗した謙信は 信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた 上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。 謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。 謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。 しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。 つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである 本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、 信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。 新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。 景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。
74 : どうでもいいと言われても、「越後の龍」「越後の虎」 両方あるのがなんか気持ち悪い。 上杉謙信ファンの集いでどっちかに決めてほしいな。 「越後の龍」× Google = 872件 「越後の竜」× Google = 625件 「越後の虎」× Google = 51,900件 「越後の寅」× Google = 177件 虎か。
75 : 越後の寅だと映画の寅さんって感じがするな。越後の寅さん。
76 : 寅年生まれでないの?
77 : 戦国ファン全般でアンケートすると越後の龍が人気あるんで無いかな 甲斐の虎信玄とセットで認識されてると思う
78 : おおおおーーーーーーー! 2ch、謙信公ファンの漏れがきましたよー! >>75 そりはねぇ、日本を代表する寅さんと謙信公がイメージ的に似ているからかも。
79 : >>66 直江状て捏造なん?
80 : >>76 寅年生まれだよ だから幼名は虎千代→景虎と改名 実母の名前が不明なんだが虎千代の母という事で虎御前と呼ばれてる 新潟県(特に上越市近郊)でアンケートを取ったら間違いなく『越後の虎』がダントツのトップになるだろうね
81 : それがどうしたの
82 : ググると越後の虎千代ってのも越後の虎に入っちゃうからそのせいもあり多いんでない?
83 : 武田信玄は巳年か さしずめ越後の虎、甲斐の蝮といった図式か
84 : 「越後の龍、甲斐の虎」が一般的に広まってるからもう変えるの無理だ
85 : 謙信って、信玄が虎ってイメージだから龍にされた感じだよね。 名前は景虎なんだから、越後の虎のはずなのに。
86 : 本人が懸かり龍の牙旗を使っていたからだろ。 ┏━┓ ┃龍┃ ┣━┛
87 : 越後の狐 甲斐の狸
88 : うん。
89 : ┏━┓ ┃屁┃ ┣━┛ 上杉謙信: 武田信玄と対立している。 これは信玄が茶の湯に使う砂糖が手に入らず困っているときに, 塩を送りつけ信玄が激怒したためだと言う。
90 : 茶の湯って砂糖使うの? 砂糖って戦国時代にあったっけか
91 : 謙信は何ゆえ結婚しなかったの?
92 : ┏━┓ ┃〇┃ ┣━┛
93 : ┏━┓ ┃ω┃ ┣━┛
94 : ┏━┓ ┃d┃ ┣━┛
95 : 何か楽しそうだな ┏━┓ ┃ф┃ ┣━┛
96 : 藤木久志『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社、1995年)を要約すると、 上杉謙信は関東に12回出兵していて、その内の10回は、 晩秋に出かけて年を超し、春か夏に帰る冬春型(長期越冬型)が多い。 明らかに戦いには季節性がある。 冬場の働き口などどこにもなく、まして飢饉・凶作の続いた戦国の村々に とって、農閑期・端境期の戦場はたった一つの「口減らし」の場。 農閑期になると、謙信は戦争を正当化し、越後の人々を率いて雪の国境を 超えた。収穫を終えたばかりの雪もない関東では、かりに補給が絶えても 何とか食いつなぎ、乱取りもそこそこの稼ぎになった。
97 : でも出兵は最長でも4ヶ月持たない 平均2ヶ月
98 : 結局このスレは何ですか? ┏━┓ ┃f┃ ┣━┛
99 : 明日検診の命日?
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