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2012年2月日本近代史174: 京都守護職会津藩9代目藩主・松平容保 (425) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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原爆投下は、正しかった (351)

京都守護職会津藩9代目藩主・松平容保


1 :10/10/01 〜 最終レス :12/01/07
忠誠霊神

2 :
また会津観光史学がクソスレたてやがった
会津マンセーのスレッドたてると会津若松市から幾らもらえるの?
星からいくら小遣いもらえるんだ?
ちなみに松平容保wスレは重複だからてめえの手で削除依頼だしてこい

3 :
観光史学で美化されてるだけ。実は功名に駆られた無能な殿。
家臣の意見は聞かないし、民の事は無視するし
無駄にやる気満々で、戦地拡大。最後は領民に三行半突き付けられる。
終いにゃ明治政府に華族にしてもらって、日光で宮司。
安泰だな(笑)

4 :
膨大な家臣を犠牲に戦争までしたのに、腹を斬らない武士道精神無き藩主

5 :
容保の養子になった喜徳こそ悲劇として扱われるべき
散々一蓮托生で苦労かけた挙句、実子が出来れば用済みでポイ捨て扱い

6 :
なんだかんだで天寿を全うした人。

7 :
京都サポーター200人が“無言の抗議” 
今のチームに反発力を期待するのは難しい。京都はホームで0―3の完敗。まるで見せ場のない内容に、
試合後は約200人のサポーターがスタンドに居座って無言の抗議を続けるなど、後味の悪さを残した。
 次の試合まで約2週間空くとはいえ、勝ち点15のチームに残り9試合は決して多くない。
秋田監督は「開始直後に失点して、ゲームプランが崩れた。課題?守備も攻撃も両方」と険しい表情を浮かべた。 【試合結果】
http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2010/10/03/08.html

8 :
>>6
会津観光史学黙れよw
こいつら臭えからすぐわかるんだよw

9 :
Jリーグへの道、Jリーグ準加盟申請〜JFLで4位以内に入る事。
今年もJリーグへの登竜門、JFL昇格へ向けた地域決勝が始まる!
中国リーグ:レノファ山口が優勝 → 地域決勝進出決定
九州リーグは残り2試合でボルカ鹿児島が2位
福島ユナイテッドはシーズン2位
ボルカ鹿児島と福島ユナイテッドは第46回全国社会人サッカー選手権に出場が決定
ここで1位・2位までが地域決勝に出場できる、福島と鹿児島は決勝まであたらない
この3クラブが同時にJFLに来る可能性は残されている!
来年3クラブまとめてJFLにくればJリーグより盛り上がる!
J2には水戸や佐賀(鳥栖)や小倉(北九州)や大垣(岐阜)もいるぞ!
>>7 ついでに京(京都)も来年はJ2だぞ!多分w

10 :
第46回全国社会人サッカー選手権決勝の会場と日時が判明!
10/20 下関陸上競技場(長州) 13:00キックオフ!
この決勝の舞台でボルカ鹿児島(薩摩)VS福島ユナイテッド(会津)を見てみたい!
薩長に会津の底力を見せてやれ!
絶対に負けられない戦いが、ここにはある!

11 :
スポーツも戊辰になる会津観光史学洗脳者は、中国人や韓国人と同じメンタルだな。
時代が交錯してるキチガイ。ビョーキだね。

12 :
●佐幕側
彦根
1963年花の生涯(井伊直弼)
江戸
1974年勝海舟(勝海舟)
1998年徳川慶喜(徳川慶喜)
2008年篤姫(天璋院)
会津
1980年獅子の時代(平沼銑次)
京都
2004年新選組!(近藤勇)
●新政府側
土佐
1968年竜馬がゆく(坂本龍馬)
2010年龍馬伝(坂本龍馬)
長州
1977年花神(大村益次郎)
薩摩
1980年獅子の時代(苅谷嘉顕)
1990年翔ぶが如く(西郷隆盛)
2008年篤姫(天璋院)
1963年彦根(佐幕)→1968年土佐(倒幕)→1974年江戸(佐幕)→1977年長州(倒幕)→1980年会津薩摩(佐幕)→1990年薩摩(倒幕)→
1998年江戸(佐幕)→2004年京都(佐幕)→2008年江戸薩摩(佐幕)→2010年土佐(倒幕)
次の幕末ものはどちらだろう?それにしても倒幕側というか薩摩と土佐が贔屓されすぎ

13 :
花神(高杉晋作・大村益次郎)が視聴率でこけたので、以後維新もの自体に疑問符が付いた。
篤姫→坂本龍馬・岩崎弥太郎で成功すれば、長州系作品を再挑戦することになるだろう。

14 :
保守

15 :
>>13
長州の人はいいとこで死ぬ人と余りにも活動期間が長い人のどちらかだからな
ちょうど良さそうな木戸だと思いっきり地味になりそうだし
まあNHKは幕末、明治を跨ぐ人はセット、衣装の関係であまりやりたくなさそう

16 :
龍馬暗命令したのコイツ?
佐々木只三郎の兄がそれっぽいこと言い残してたけど

17 :
元会津藩公用人(藩の外交官、京都駐在)の手代木直衛門証言「手代木直衛門伝」で語られている事は、
・坂本龍馬暗実行犯は、私の実弟、佐々木只三郎(見廻組与頭(指揮官))である
・動機は、坂本が薩長連合を推進したこと、また坂本が土佐の藩論を公武合体から倒幕に転換させたこと
・命令は某諸侯が行った
・佐々木が二人を同行させ、坂本の隠れ家を襲撃して犯行に及んだ
・某諸侯とは会津藩主松平容保公、ではなくて桑名藩主松平定敬公のことである
 定敬公は容保公の実弟なので、私は容保公のために今まで暗命令者を隠匿していたのだ
ついでに言うと、見廻組は京都守護職松平容保の配下にあり、京都所司代松平定敬の配下ではない。
元見廻組隊士の今井信郎の証言によると
・当日、先輩隊士の渡辺吉太郎に龍馬を斬りに行くといわれ、同行した
・佐々木只三郎、桂早之助、渡辺吉太郎、高橋安次郎、土肥仲蔵、桜井大三郎、そして自分(今井信郎)が現場へ向かった
・動機は知らない。ただ御指図があった。御指図とは重職者からの命令であり、見廻組は京都守護職に属していたので松平容保公のことだと思う
今井信郎の妻の証言によると
・今井は龍馬暗の日に右手を怪我して帰ってきた。また暗の褒美として京都守護職松平容保公から書状を賜った

18 :
会津松平は、徳川が降伏しているのに
戦争に躍起になり、新政府が恭順を求めているのに
東北・北越で同盟を画策し、藩内で徹底交戦を通達した。
その為、板垣率いる薩摩・土佐の軍勢に討伐された。
その時、会津藩の圧政に苦しんだ領民が、新政府側に付き、藩に対し、一揆を起こした。
北越戦争に勝利した長州藩は、会津の戦う姿勢に感銘し
会津敗戦の後に、救済措置を敷いた。
しかし、会津領民の一揆が凄まじく、長州藩提案の猪苗代藩への移動を
会津側が蹴り、斗南藩へ逃げるように移動した。
斗南藩への封じは2年で終わった。
会津松平家は、東京にて謹慎。謹慎も2年で終わり
会津松平は明治政府により、華族となり
日光で宮司となった。子息は長州の女性と結婚した。

19 :
>>17
見廻組に定敬が指図ってのは変な話だな
会桑兄弟2人の意向じゃないのか?
手代木が元主君の名誉の為庇ってる印象を受ける

20 :
当時若干二十歳の定敬にそんな力も考えも無かったと思うが

21 :
松平容保は、自分だけは生き残ってからに
武士道どころか、薩長に処刑されなくて感謝しないといけない。
家老は切腹して死んでいった…
無能将軍松平

22 :
>>21将軍ではない(笑)

23 :
>>17
>「手代木直衛門伝」
私家版で3冊しか出てない割に雑誌では割と引用されてるんだな
『手代木翁死に先たつこと数日、人に語りて曰く坂本をしたるは実弟只三郎なり、
当時坂本は薩長の連合を謀り、又土佐の藩論を覆して討幕に一致せしめたるを以て、
深く幕府の嫌忌を買ひたり、此時只三郎見廻組頭として在京せしが、
某諸侯の命を受け、壮士二人を率い、蛸薬師なる坂本の隠家を襲ひ之を斬したりと。
蓋し某諸侯とは所司代桑名侯を指したるなり、桑名候は会津候の実弟なりしを以て、
手代木氏は之が累を及ぼすを憚り、終生此事を口にせざりしならん』
これか、しかし
>蓋し某諸侯とは所司代桑名侯を指したるなり
と本人が某諸侯とぼかしているのに指定してある根拠が不明だ

24 :
★手代木直右衛門
佐々木只三郎の実兄。別姓だが、父の実兄手代木又吉勝富に子がなかったため養子に入る。
文政9年3月9日、会津藩士・佐々木源八泰通の長男として若松城下(福島県)に生まれる。
嘉永6年28歳のときから藩主松平容保の側近として仕え、
文久3年からは京都守護職となった藩主のもと京都会津藩公用人として所司代や町奉行を配下に収め、
見廻組や新撰組を指揮して京都の治安維持に当たる。
元治元年(1864年)6月には池田屋事件で取締りにあたる。
龍馬暗後に関与した上で維新後高知県の役人もしてたんだからふてぇ奴だ
清河八郎の暗を佐々木只三郎に命じたのもコイツだな

25 :
>>21
島津と毛利は徳川のおかげで生き残れたんだろw
それに、武士はお家の存続が至上であって、戦に負けたぐらいで主君が切腹してどうする?

26 :
>>25
それだと、会津松平は新政府のお陰で存続できたとも言えるのでは・・・・・・
まぁ切腹はなぁ。降伏だし。

27 :
暗大好きだな会津
龍馬ってされる前に容保にも会ってるんだろ?
新撰組に捕縛を辞めさせる約束をして油断させた訳だ
卑怯なり松平容保

28 :
>>25
それは違うぞ。
>島津と毛利は徳川のおかげで生き残れたんだろw
島津は関ヶ原後に全面戦争するつもりで待機していた。
家康の方が攻めずに政治決着に持ち込んだだけ。あの時、島津の領地は何も減らされていません。
毛利は家康から断絶を命じられたが、家康に味方した吉川が決死の説得で存続した。
毛利本領はすべて召し上げられている。吉川に与えられる土地に毛利が入り、吉川は毛利の家臣であり続けた。
だから、徳川のおかげではないね。
>武士はお家の存続が至上であって、戦に負けたぐらいで主君が切腹してどうする?
違いますw。
戦国時代を例に取れば解るが、主君の切腹と引き替えにお家存続(息子に継がせる)させるのが負けた側の常套手段です。
この伝統は幕末まで続いており、切腹こそしないが現当主隠居するかわりにお家存続を願います。
例:鳥羽伏見で負けた松平容保は隠居し、その養子が新藩主となって謝罪の態度を取る。
  ただし、会津藩はその後も戦い続けているので隠居だけでは済まないのは明白ですね

29 :
>>28違うのはオマエさんだよ。
違う時代の話をしてるオマエさんだよ。

30 :
>>29
は?何をバカか事言っているのかな?
>違う時代の話をしてるオマエさんだよ
戦国と江戸時代は近世で同じ時代ですよw
しかも戦国の次の時代こそ江戸時代であり、江戸時代に合戦は無かった。
幕末に起こった戊辰戦争が、前例である戦国時代の合戦慣例を引きずっているのは当たり前ですw。
なにしろ日本人は前例が好きだからね。
例1:第二次長州征伐は関ヶ原合戦を真似たものである
   幕府閣僚の記録にそうあるw。だから基本は外様大名に戦わせ、徳川直轄軍は出さなかったでしょw。
例2:武力倒幕の当初の基本方針は、鎌倉幕府討幕戦からのパクリ(最終的には採用されなかった)
   岩倉具視が大久保利通と調整していた戦略。薩長が京都で挙兵し、幕府軍を迎え撃つ一方で、東国大名に江戸に攻め込んで貰う(アテにしてたのが仙台藩)。
   仙台藩に江戸を攻めて貰うという案は、すでに文久年間に真木和泉守が論文にまとめて広く世間に訴えた。
   薩長が楠木正成に、仙台が新田義貞に該当しているのは明白。
 このように戊辰戦争は過去の先例からヒントを得たものが多く、当然戦争に関しては戦国時代の慣例の影響が大だよw。

31 :
>>30どうした、オマエ(笑)
違う時期の話をして笑われて狂ったか?(笑)

32 :
戦国時代と江戸時代は同じ時代ですっ キリッ
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

33 :
http://beebee2see.appspot.com/i/azuY04CUAgw.jpg

34 :
明治以前は子供出来なくて明治になってから二人の側室(田代佐久、川村名賀)に続々と子供が出来た状況を見ると慶喜に似ているね
ただ子供のその後を見ると田代佐久が圧倒的に勝っていて川村名賀の子供は恒雄が孤立奮闘している

35 :
会津観光史学で美化されてるだけで
実際は全然なんだよな。だから観光史学で美化してんだろうがw
そこまでして美化して何がしたいのやら…。

36 :
会津士魂とは、時代を超えた武士の魂ではない
ただのハッタリだな(失笑)
ただの保身のチキンよりもこの国の行く末を憂
えていた分まだ三島由紀夫のほうが個人的には
立派で理解出来る。
所詮、観光史学の連中は自分で自分を褒めてあ
げたい痛い人々なのだろう。

37 :
観光史学観光史学言ってる人間も痛々しいけどね。
山県有朋は赤根武人の追贈運動の時、ほぼ決まりかけてたのを強引にひっくり返した経歴があるが、
容保が孝明天皇から複数賜ったご宸翰の件でもかなり必死になってるよね…
「みんな勝手だし、お前を頼りにしてるお」というだけの内容だから人に見せなかったと思うんだが、
文久3年時点の「堂上以下暴論、不正の処置増長」とかいう一節に随分こだわったもんだね

38 :
孝明天皇は、弱兵会津藩士に取り囲まれて
さぞかし心細い思いをなされたに違いない。
チキンじゃ何も守れないしお労しい限りで
ある。

39 :
龍馬、中岡暗の真犯人というのは間違いない

40 :
>>31-32
時代の連続性を説明したつもりだったのだが…
バカには理解できなかったか…

41 :
軍事奉行として、この戦いに参加した神保修理は、敵に倍する兵力を持ちながら、圧倒的な銃火器の前に、為す術を知らぬ味方に、慄然となった

42 :
容保も、政治の最高責任者である大統領は国民の入札で撰ばれるメリケンの例は亡き彦根侯から聞いて知っていた。

43 :
>>37実際に観光史学だし。言う奴が痛々しいんじゃなくて
言われた方が、痛い所衝かれて、痛いのでは?
で、何故、会津のスレで、例に長州を出すのかな?
君が、会津観光史学が作りあげた、対長州に洗脳されてるからでは?
会津観光史学洗脳者は、絶対に、対長州を例にするんだよ。
話の内容とか関係なくね。それは、会津系作家や商工会が、対長州を唱えるからだよ。
解り易いんだよ、会津観光史学洗脳者は。

44 :
>>40自分の馬鹿を他人になすり付けるの良くないと思うよ。

45 :
>>42だから?

46 :
容保にとって、孝明天皇の崩御は、厚い信頼関係に支えられていた公武一和の柱を失うことであり、この瞬間、奈落の底に突き落とされる思いだったに違いない。
それは、正に時代の分岐点であった。

47 :
「会津観光史学批判派」とやらが歴史学の立場から中立的で多角的な視点から評価を下す性格なら支持したい。
けど、中には論調が単なる会津への誹謗中傷というレベルを抜け出せてないやつもいるしねぇ・・・。
互いに観光行政のあり方に対する議論をしてるのか会津史研究のあり方に対する議論をしてるのかかもあやふや。
学術書じゃなくトンデモ本からとってつけたような知識で、互いに言い争っても、そりゃ埒が明かないだろと。
当たり前だが、漫画じゃ無いんだから良い悪いで括れるわけ無いし、会津や薩長だけみても何も理解できやしない。
極端に解釈したがるこの風潮はどうにかならんものかと。

48 :
会津史学じだいが誹謗ありきだからなあ

49 :
時の流れがあまりに早過ぎる。あまりにものう

50 :
>>47元々会津観光史学が恨み節に基づいてる村興しなんだが…。
2ちゃんねるでも論破されてファビょってるのは会津贔屓だよ?
会津贔屓が論破された会津観光史学を立て直そうと
正当性を唱えましたか?
オマエ、中立気取りの会津贔屓だろ?

51 :
松平容保の京都守護職時代の資料ってあんまり無いんか?
色々策謀があった筈だが

52 :
ご家老梶原さまの命により、神保修理、野村左兵衛、秋月悌次郎らと一緒に焼き捨てました

53 :
>>50中立きどるよ。俯瞰して歴史を見ることは重要だし。会津藩に関心なきゃ反応しない。「贔屓」と見る見ないはご勝手に。
>>51学術論文などでよく引用される史料は『会津藩庁記録』『七年史』『京都守護職始末』などが有名だね。
他に大阪経済大の家近良樹博士が『稽徴録』を翻刻・解説してる。この人は『幕末政治と倒幕運動』という本で、
京坂を拠点とする「一会桑政権」の関わった熾烈な幕末政争と幕府崩壊メカニズムを的確に明している。
けど、観光史学だ長州が国賊だなんだというお国自慢的或いは単なる誹謗中傷的な「議論?」
で一喜一憂するよりかはそうした評価されてる論文をバンバン読んでったほうが有意義でしょ。
っていっても「会津観光史学」と何故か色分け・カテゴライズされるんだろうな〜「敵」じゃない、安心しろとwww
この調子じゃ「仕事で会津にいった」といっても罵られそうでビクビクしてる(というか別のスレで本当に罵られた)。

54 :
>>53
おお、ありがとう

55 :
幕府の手先会津は、朝廷の監視という任務も負っていたはずだ。
戊辰戦争前は、幕府のため、その後は、実は、孝明天皇のために
戦争を続けたという都合の良い解釈をする節操のない会津厨がい
た。
孝明天皇の本音は異人嫌いだったので攘夷だったはずだが会津
は、攘夷派の連中を弾圧して欧米諸国との不平等条約締結を推
進するのに一翼を担った。
たしかに、文献に残されている文言が第一級資料であることは、
間違いない。
しかし、当時は時代背景も動乱の時期であったのでどこからが本
音でどこまでが建前で書かれたものか解釈が分かれると思う。い
ずれにせよ位相というかそれぞれの立場から一方のみの解釈では
ご都合主義は、免れず俯瞰して歴史を見ることは大事であるが・・・
さすがに仕事で会津で行っただけで観光史学の回し者と思う奴は
いないだろうが、観光史学の連中(あえて言うが)は、今でも薩
長の対する敵愾心が日常生活に反映されいる節がネット上でも垣
間見れるぞ。

56 :
だから、会津は観光史学による美化なんだって。
しかも特定の地域を中傷してる。
だから叩かれるようになったんだよ。
韓国みたいだってね。会津を賛美してるのは
時代劇や小説や小説家が書いた自称研究本しか読んでない輩なの。

57 :
根本的原因が「差別」にあるってみんな気が付いているか?
江戸時代は士農工商という差別公認の時代。
武士は農民を、農民は職人、商人を見下す事で満足して自分の地位に納得していた。
実はそれ以外にも、東国人は西国人を、西国人は東国人を、近畿京都は東西地方を差別していた。ごく自然にね。
今だって、大阪と東京はなんとなく対立しているというのと同じ。
これが戊辰戦争や明治維新で顕著に表面化したに過ぎない。
元々の差別に加え、東国は賊軍だ、いや西国人こそ賊軍だと公然と差別する理由がくっついただけでしょ。
会津の観光史学は、これにくっついてるだけさw。
観光史学が厄介なのは、こうした差別を増長させている事にある。
曰く「西国人は天皇を蔑ろにして私腹を肥やした」とかね。
そりゃ西国人は怒るだろう。そして煽り返すのさ「東国人こそ賊ではないか」と。
現代でだぜw
現代人の何人が、天皇崇拝してるよ?w
官軍だの賊軍だのにこだわっている人には、天皇が死去した際に殉死する覚悟もないだろうw。
あったら昭和天皇の時に自者が続出してたはずだしなw。
これは、明治維新の問題ではなく現代の問題で歴史とは切り離すべき問題でもある。
結局のところ、東西の差別を「形を変える事で公然と行う」為の理由づけでしかないが、そうした差別を一般の人に蔓延させ増長させている。
薩長ら西国の方は、太平洋戦争の敗戦後、左翼系思想の蔓延で「軍国的だ」の一言で、薩長英雄史観が滅亡させられていったのに対し、
会津は、観光史学という形で残ったんだよ差別の公然と行う方法が。
そこが問題なんだよ。

58 :
星亮一みたいな輩のせいでまともな研究者も変な目で見られる

59 :
そもそも、星亮一って小説家だろ。

60 :
実際、>>53の挙げてる文献って超重要文献だし、一般人でも何とか読める。
星亮一ですら家近さんたちの研究を読んで、会津藩の国元の頽廃、
外交や防備の拙劣さを指摘したりしてるんだよね。
それと郷土史家は郷土偏愛の傾向があるから、結論は眉唾だが、
狭いエリアで色んな記録を(お蔵や老人とかから)発掘してくるから意外と馬鹿にできないよ。
少なくとも>>53的なの視点から議論を始められない人は、会津を論じても意味がない
>>55
前記の家近先生は、一会桑を「孝明天皇の攘夷意思の代弁者」と見てるんだけどね。
禁門の変の際の行動を見るに、孝明天皇は明らかに長州への強硬論、つまり会津的な立場を支持したと思える。

61 :
>>52みたいな噂があるけど
容保の京都守護職時の史料が妙に少ないんだっけ?
清河暗は手代木の指令でこれは容保じゃないよな
龍馬は怪しいが

62 :
一会桑が孝明天皇の攘夷意思の代弁者なの?
詭弁というかなんか後付けした言い訳がましいものを感じるね。
もし、そうであるならば攘夷を標榜していた尊王攘夷派である
長州やその他の脱藩浪士と対立することはなかったはず。
長州藩は幕府から攘夷の決行の許しを得て外国船を砲撃しており
反対に壊滅的な打撃を受けている。 それゆえ禁門の変の際は、
一会桑は、攘夷の意思はなくもちろん長州ももうなかった。
欧米列強の圧倒的な軍事力の前になす術がなかった点において
は双方同じだが、その後の欧米列強に対する対応に幕府側に非
があったように感じられる。つまり、長州を説得させることを
が出来なかったことである。すでに不平等条約を結んだ結果、
幕府の無力化が露呈していて治安や物価上昇などで世の中は混
乱して幕府に反発する人々は士族以外にも多数いた。
最終的には、幕府も攘夷であるならば、弾圧でなく幕府が富国
強兵のプロセスを明確に長州に示す必要があり、それで十分で
あったはずだ。
それと孝明天皇には、実際問題として軍事力はなく朝廷は常に
時代の勝者に利用されていた面は否定できないので意思決定の
最終責任者は幕府であると思うのだが。

63 :
この時期の一会桑と幕府は
だいぶ政治的に距離があったと
思われ。乙

64 :
だいぶ政治的に距離があったとは、具体的にどうで
あったのか説明してくれないか。
あくまでも幕府の方針が最優先であり、一会桑も最
終的には、これに従うのであり、孝明天皇の意を汲
むことはあっても政治的な代弁者といえるかは別問
題だと思うのだが。

65 :
横浜鎖港問題・異国船討ち払い令についての孝明天皇・徳川家茂・一会桑の対応を考えてみよう。
元々将軍家茂は対外的な条約を優先し、一旦開国したものを再鎖国することへは消極的であった。
だが孝明天皇は家茂を京都に呼びつけた。
一会桑も孝明天皇を支持した。
異国船討ち払い令は家茂が抵抗したものの、徳川幕府の命令として裁可された。
鎖港問題では家茂は責任が取れないと反発し、将軍辞任を主張するに至った。
再鎖国の方向へ孝明天皇と一会桑が議論を進め、幕府の開国方針と対立していたというのが、
孝明天皇と徳川家茂が生存していた頃の政治状況であった。
(両名が相次いで突然死ぬと、一会桑は一転して幕府を背景に開国派に鞍替えする。
彼らの方針が一貫していたと考えていると政局を取り違えるので、気をつけよう。)

66 :
横浜鎖港問題での慶喜の態度のどこまでが水戸の遺伝子で、
どこからが薩摩との主導権争いなのか、いまいち判然としないね。
若かったから、イライラして酔っぱらっただけかも知れないしw
ただ、会津藩が第二次征長戦まで、
江戸の幕権派官僚の強硬派から煙たがられていたのは確か。

67 :
左寄りの宮路君みたいな言論の自由を脅かす御用学者
と某観光史学の教祖様は、都合のいいときだけ天皇を
利用するんだよね
鳥羽伏見の戦い直前期は、慶喜公が将軍職にあったわ
けだし会津も本音はあわよくば権力を握ろうとしてた
だけじゃないの?公家社会ではなく武家社会なんだか
らなんで都合がいいときだけ天皇を持ち出してくるの
かな
禁門の変で薩摩の援軍が来るまでは、長州に対して劣
勢に立たさてれいたし、攘夷派の志士たちを弾圧しま
くったんで恭順の意を示したところで身の危険を感じ
るよね会津は?
長州は、もちろんのこと土佐はとくに板垣退助が会津
攻めを強硬に主張したように土佐の志士たちにかなり
の恨みをかっていたようだからね
武家社会なんだから戦争に負ければそれで終わり
因果関係のはっきりしないものを都合よく推論で穴埋
めするのは確実な証拠がない限り認められないよ
ましてや歴史的事実以外の当事者の本音なんかは知る由
もないだろう
小説じゃないいんだから主観的な思い入れだけで歴史家
が歴史を作るのにはいささか抵抗感がある

68 :
同じ一橋を担ぐとしても、薩摩、土佐、越前、宇和島は一橋を議長とする公議政体を掲げた。
他方、会桑は幕府絶対主義を掲げ、外様大名を排除する態度をとりましたため、評判が悪く、
よって旧一橋派だった薩土に会桑が討伐される形になりまいた

69 :
会津は天皇から信任されていたことに感謝して
厳しい財政を工面して京都に赴任していた
と聞きましたがこれは創作なのでしょうか?

70 :
会津の国許(西郷頼母ら)は最初から容保の守護職就任には大反対で
度々辞任を進言しては、容保から不興を買っていました。
容保自身、数度辞職願いを出していますが、その当時は孝明天皇と徳川慶喜の直属武力として
有用とされたため、この両名から激しく慰留され、守護職を続けています。
状況が変わったのが孝明天皇の死と大政奉還で、この時以降、それまでの強健姿勢で
土佐藩士などを中心に激しく嫌悪されていた会桑は、雄藩連合に支持基盤を移そうとしていた徳川慶喜にとっても
余計者として厄介扱いされるようになります。また、朝廷も明治天皇に代わり、会桑ではなく薩長を支持する人間が中心となります。
しかし、この頃から会桑は、逆に京都の職権に執着を見せるようになります。
尾張の徳川慶勝による辞任帰国勧告を無視したのが、結果的には命取りとなり
会桑は、薩長だけでなく京都の雄藩連合の共通の敵対者として、王政復古時には彼らによって朝廷から排除され、
鳥羽伏見の戦いでは、彼ら雄藩連合と交戦し、明確に交戦相手とされます。
会津は引くべきところを引かず、幕府を巻き込んで袋叩きにあった、そして幕府を崩壊させた。
あまり評価は出来ません。

71 :
天下の名君

72 :
>>69京都守護職の話ですね。京都守護職は、当初、会津ではなく
福井に話が来てたそうですよ。それを福井が辞退したので
会津に話が来たようです。才覚ある会津の家臣は反対したそうです。
つまり、会津観光史学が主張してる「天皇に信頼のある
勤勉な会津に白羽の矢が立った」というのは誇張ですね。
会津松平の京都赴任は、会津領民を圧迫し、会津戦争で
会津領民は、薩摩・土佐の軍勢に加担し、藩に一揆まで起こしました。
つまりあなたの質問は、話半分と考えていいです。

73 :
もはやNGワード「会津観光史学」だな…
旅行でよっぽど嫌な思いでもしたんだろうか
一会桑とも尊攘派と見なされた藩の中から選ばれたのは確か
おそらくそれまでの幕府の主流的な立場ではない

74 :
会津藩が捕縛害した尊王攘夷派が土佐藩出身者に多かったというのが、後の状況を悪くした。
徳川慶喜が土佐藩を公武合体論で取り込むに当たって、土佐藩にとっては
藩関係者の害を重ねた会津・桑名の存在は許せないものだった。
朝廷内で山内容堂が公武合体論と徳川慶喜擁護の論陣を張れば張るほど、
その土佐藩が主張する会津桑名排除論は公武合体派の中で動かしがたいものとなった。
京都の諸侯と会津・桑名は相容れないものと化してしまっていた。
徳川慶喜の立場を考えるなら、この時点で会津と桑名は身を引くべきだった。

75 :
>>73
> 旅行でよっぽど嫌な思いでもしたんだろうか
得意の妄想だね。

76 :
>>73
リアルでもネットでもあまりにデタラメな主張をするからです
確かに会津の観光関連はぼったくりばっかだけどさ

77 :
会津藩,斗南へ
明治新政府から会津藩再興の沙汰があったのは前年(明治二年)の九月で、
陸奥の地に三万石を与える、というものだった。
現在の青森県の三戸、上北、下北の三郡と岩手県の金田一周辺である。
会津在住の藩士たちは、この知らせに仰天した。
地元では猪苗代を希望する人が多かったが、
陸奥移住は強制であり、会津側から希望を述べる状況ではなかった。

78 :
>>77会津観光史学乙。会津藩の斗南藩行きは、会津藩で決めた事だろ。
猪苗代藩行きを薦めてたのは長州藩じゃないか。
領民に一揆起こされて猪苗代藩にもいられないから
会津藩士の山川が斗南藩行きに決めたんだろ。

79 :
山川の自伝には、旧会津藩首脳で協議を重ねた末に、山川らの決断で
猪苗代を廃し斗南立藩が決定されたという記述があります。
強制されたというのは、後の斗南での苦境を誇張するために伝説として作り上げ、
後に小説家が更に誇張して被害者デマとして仕立て上げたもので、原典には根拠が確認できません。
星亮一の主張に根拠がないのは、あなたも分かっているでしょうに。

80 :
>>79
> 星亮一の主張に根拠がないのは、あなたも分かっているでしょうに。
本当な。和解と敵対がコロコロ変わるのに、よく★なんかの会に入ったり
本を買ったりしてるよな。会津観光史学洗脳者って
やっぱ考える力とか無いのかね?普通オカシイと思うよな?

81 :
斗南藩にうつったものには苦しい中でも寛大な処置の為に奔走した長州の前原に感謝して
後の前原の萩の乱に同調した義士もいたからね。会津藩士がみんな頭でっかちだったわけではない。

82 :
>>77-78
分かりやすいマッチポンプだな。
いつもの手口だが。

83 :
残る選択肢もあったのに斗南に付いていくこと自体
義理堅い証拠だよなあ。

84 :
>>83ポジティブだね(笑)

85 :
>>81西郷とか神保とか小数な。

86 :
松平容保って維新後はずっと宮司として過ごしたと思われてるけど
割とすぐ都内の屋敷に移り住んで悠々自適な余生だよな
宮司は実質何年くらいしてたん?

87 :
しかも華族になって名誉回復。息子は長州の女と結婚だろ?
何なんだ?会津観光史学って?ホロン部の日本支部か?

88 :
>>74
>徳川慶喜の立場を考えるなら、この時点で会津と桑名は身を引くべきだった。
 慶喜は大政奉還した事で、幕府サイドの人間にとって「徳川将軍の権威のすべてを敵に売った罪人」以外の何者でもない
存在に成り下がったんだから、大政奉還以後は「慶喜に批判的に行動する事が、将軍家のため」という論理になる。
 元々、大政奉還時、朝廷を握った討幕勢力が、幕府サイドに対して徳川の領土の半分を朝廷に差し出す事を要求した。
 いきなり徳川の領土の半分を差し出したら、多くの幕臣がリストラされて家族ぐるみで放り出される事になるから、幕臣たちは
下層の兵士から老中まで揃って、慶喜と大政奉還の推進者達を激しく憎んだ。
 江戸の町民も農民も、慶喜の事を「徳川を売った奴」と見なして、大政奉還に大反対だった。
 容保は、幕府サイドの人間達の大政奉還推進者達に対する怒りに押されて、大政奉還に反対する立場を取っただけじゃん。
 (定敬の方は、もともと勝気な性格だったから、黙って敵対者の言いなりになる事に耐えられなかった模様)

89 :
>>88
おーい、容保は大政奉還に反対なんてしてないお!
逆に「大政奉還は大英断だ!」と大歓迎しとるがなw
ソース:京都守護職始末
それと鳥羽伏見直前の時期は、まだ徳川も会津も朝敵じゃないからね。

90 :
慶応4年(1868年)2月27日、松平容保(34歳)は会津藩士に徹底抗戦を通告。
西郷頼母は恭順を勧めるが、容保はじめ藩士たちから猛反発され徹底抗戦へ。
慶応4年(1868年)5月1日、白河城陥落。西郷頼母は再び恭順を勧めるが
会津藩士の多くが聞き入れず徹底抗戦を主張。頼母は登城差し止めとなる。
慶応4年(1868年)8月26日、西郷頼母は西軍と砲火を交えている評議中
「この窮地に陥ったのは余の献策をいれないためだ」と厳しく批判。
そのため「西郷斬るべし」の声が起こり容保の命で伝令され
息子吉十郎と共に城を出る。その後は榎本武揚の軍に投じて函館で戦った。

91 :
>>89
その本にそう書かれているのは知っている。
しかし、松平容保が大政奉還を歓迎したという記述は、他史料と整合性がない。
徳川慶喜公伝・復古記では、松平容保が大政奉還に反発し、再三撤回を求めた記事がある。
京都守護職始末のその部分は、後世の擁護目的の糊塗なのではないかと思われる。

92 :
会津の史料はそういうフィルターかかってるのが多いから嫌なんだよ
容保とか特に
龍馬暗指令について容保側近の手代木が晩年の口伝で
「某諸侯の指示だった」と言い残していたが(『手代木直右衛門伝』東大の図書館で閲覧可)
手代木が某とぼかしているにも関わらずこの本では何故か
「諸侯とは定敬のことである」と無根拠に指定している
「定本坂本龍馬」松岡司著ではこの件に加え、
手代木が龍馬暗犯についての話題を異様に避けていた事に触れ、
松平容保から暗指令が出た線が濃厚ではないかと推測している

93 :
★先生と戊辰研の人って「虐と戮と人肉食(の研究)」が好きだね−。
事あるごとに虐。一人しても虐、10人でも虐、100人でも虐w。
ホムペの自作小説とか見てみたけど、虐と戮の単語が踊っているw。
これからも戊辰戦争の”虐と戮”の研究だけをがんばって行くのだろうなー。

94 :
で、それを見たクルクルパーが鵜呑みにするわけか。

95 :
そして、そのクルクルバーは叫ぶのである
「薩長による会津大虐が起こったのだ!(根拠;★本か戊辰研究会発表)」とw
戊辰研は研究機関だから、嘘は言わないのだとw。

96 :
ある意味で、司馬遼太郎や早乙女貢(両者共に作家を名乗り、研究家とは名乗らなかった)よりタチ悪いw

97 :
>>88
辞官納地を薩摩派が主張してたのは確かだが、公議政体派の容堂と春嶽が粘り抜いて
結局とりあえず皆集まった後で考えようぜってとこまで行ってたやん。
まぁ幕権主義者には公議政体論自体が許し難いだろうが。
あとその町民農民の反応って何の資料?

98 :
>>97
>あとその町民農民の反応って何の資料?
『幕末維新 消された歴史』(安藤優一郎/日本経済新聞出版社) p.257〜258
「 当時の江戸っ子には「徳川様のご治世」を謳歌するものさえまだ相当残っており、田舎者に天下をとられたのを
 くやしがり、庶民の声をよく伝えるお湯屋などでは、女でもよく
  「こんなばかくせえ世の中がいつまでもつづいてたまるもんけえ、どうせ徳川さまがいまにまたお帰りになるに
  きまってらァな」
  などといったもので、それをきくとあっちこっちで「そうよ、そうよ」とあいづちをうつ。
 (山川菊栄『おんな二代の記』平凡社東洋文庫203、1972年) 
           〜 中略 〜
  江戸は二百六十年余の長きにわたり、将軍のお膝元だった。その誇りを持ちつづけた江戸っ子にとってみれば、
 江戸城が明治天皇の皇居となり、薩長出身者が徳川家に代わって政権の座に就いた事実を、そう簡単には受け入れ
 られなかったのは、よくよく考えてみれば自然な感情だろう。この頃は、江戸城開城から十年も経過していなかった。
  江戸っ子から東京市民に変身させられた鬱憤が、このような湯屋での会話につながった。徳川家の再登板を期待して
 いるような、明治政府にとっては黙視できない会話も繰り広げられていた。」

99 :
大阪城で慶喜がトンズラした時の容保&定敬達の態度はどうだったの?

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