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2012年2月戦国時代55: 大友氏について語ろう2 (703)
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大友氏について語ろう2
- 1 :10/03/08 〜 最終レス :12/02/09
- 前スレ
【宗麟】大友氏について語ろう【義統】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1151859366/
関連スレ
毛利と大友の北九州攻防戦を語ろう
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1172121280/
- 2 :
- この馬鹿殿になんで道雪、紹運、宗茂の三人は仕えてたんだろ……考え方とか
合わな過ぎだろ、豚に真珠だ。
- 3 :
- 道雪や紹運みたいな同紋衆の一族は大半が大友家の分家だからね。
特に紹運は母が宗麟の姉で、妹が義統の正妻で、娘が義乗の正妻って
いう思いっきり大友家の親族だし、吉弘家自体が大友家の為に死ぬのが
生き甲斐って感じの一族だったからなあ。
- 4 :
- >>2
この三人が全て裏切っていたら大友は滅亡していただろうな
それくらい影響力があったと思う
- 5 :
- 裏切る必要もなく大友は滅亡しましたね
宗茂はなにしてた
- 6 :
- >>5
碧蹄館とかで忙しかった
- 7 :
- 豊後のキリシタン大名、大友宗麟
- 8 :
- >>3
宗麟の叔母。
宗麟とは従兄弟に当たる。
- 9 :
- >同紋衆の一族は大半が大友家の分家だからね。
同紋衆で大友の分家じゃない家ってあるの?
一族扱いだがもともと家臣ってこと?
- 10 :
- 臼杵家みたいに元は他紋衆だったのが同紋衆の戸次家(こっちも元は他紋衆だが)
から養子を入れて同紋衆になった家がある。
- 11 :
- 高橋・日田もそうだ。
もともと両氏は、豊後西部・筑後に勢力を張った大蔵氏系。
でも、一万田・吉弘から養子がはいって同紋衆に。
ちなみに大友氏初代の能直の弟の子孫は、他紋衆に分類されている。
- 12 :
- 大友宗麟ファンです
島津に勝ってほしかった
- 13 :
- 今さらだが、大友で2スレ行くとは思ってなかったw
宗麟のあれやこれやの他に、立花も話題にできるなら当然か。
- 14 :
- 宗麟はすごく嫌いだけど宗茂、紹運、道雪は好き
この三人は宗麟より人望もあっただろう
- 15 :
- むしろ宗麟が問題児だから道雪や紹運が放置しておけなかったと思われ。
普通に平凡な将で、力量もなければ各々勝手に動いていたかも
- 16 :
- >>14>>15
無知乙
- 17 :
- 戸次の家督は合議制というか一揆みたいなもんだったのだろうか。
- 18 :
- それに近いかもね。
立花道雪の又従兄弟の鎮秀が、加判衆になっていたり
、戸次の庶流の臼杵・清田が重用されていることから
すれば、そう考えるのが自然。
そもそも大友氏では、戸次も田原、吉弘とともに在国奉公衆に
なっていたので、警戒され、勢力を削がれていた。
そもそも道雪の祖父も四男。
- 19 :
- 別喜右近(簗田広正)の別喜って戸次?
名族の姓だというけど惟任、惟住、原田、戸次ってなんか偏ってないか?
信長が思いついたのがこれだったんだろうか…
- 20 :
- 紹運は宗麟にされたような物だな
無謀な耳川の戦いを仕掛けなければ紹運は長生き出来ただろうに
- 21 :
- >>20
アンチ大友粘着乙
そもそも無知すぎるよ君。
紹運はコンスタンチノとジュスタのために犠牲になったにすぎん。
- 22 :
- 道雪の戦術って単純に精強な兵のゴリ押し?
島津家みたいな釣り野伏せとか必勝の戦術みたいなのなかったの?
それと島津は釣り野伏せ厨なのは九州でも有名だったと思うんだけど、耳川の戦い
みたいになんでこうも簡単に引っかかるの?
「兵力が少ない……釣り野伏せの可能性がある。索敵しろ」ってならないの?
- 23 :
- >>20は別にアンチじゃないだろう
宗麟の愚行が原因で紹運を死に至らしめたのは事実
秀吉や島津にも死を惜しまれた程の人物をむざむざ死なせた責任は重い
- 24 :
- >島津家みたいな釣り野伏せとか必勝の戦術みたいなのなかったの?
>それと島津は釣り野伏せ厨なのは九州でも有名だったと思うんだけど、耳川の戦い
>みたいになんでこうも簡単に引っかかるの?
釣り野伏せの様な伏兵を使う戦術はあっただろうが
島津の様に積極的に使う戦法じゃなかったと思うが
それに敵の兵力や伏兵を見極めるのは歴戦の強者でも難しいモノ
自我の兵力上回ってるのに釣り野伏せを疑って攻め切れず
敵を逃したなんて事になったら叱責ものだろ
- 25 :
- そもそも当時の武士たちが、そこまで戦術にこだわったものだろうか。
ましてや大名自身に陣頭指揮・戦術能力なんて、基本的に求められて
いなかったと思う。
当時の武士にしてみれば、大名に求めるのは、
大兵力を集める政治力、
軍勢ために武器・兵糧その他の物資を供給する経済力、
相手陣営を切り崩す外交・政略、
恩賞を公平に出す信賞必罰の態度だろう。
当時の大名は、平時に全体で演習を行っていたわけじゃないんだから
複雑な戦術を立てても、絵に描いた餅に終わる可能性が高い。
島津の場合は、江戸時代も大名として残り、さらに
様々な政治的な理由があったから、江戸時代に釣野伏せが、
実際以上に持ち上げられたんじゃないか。
- 26 :
- 道雪、紹運、宗茂は宗麟に過ぎたるものだった存在
もっと優秀な大名に仕えていればさらに出世していただろう
- 27 :
- >>22
>道雪の戦術って単純に精強な兵のゴリ押し?
大友氏の場合、開戦前に周囲に根回し、相手を孤立させて
圧倒的大勢で相手をタコ殴りが基本。
やばくなれば、将軍家などに手を回して和睦・停戦。
細かい戦術は発揮しようがない。
それに道雪が、大友全軍を指揮していたわけじゃないよ。
- 28 :
- 道雪と言えば、正奇の軍法っていう正攻法と奇襲を組合せる戦術だね。
耳川以降の秋月との戦いや、龍造寺との筒川の戦いとかだと、
まず正攻法で戦った後、別働隊で奇襲をかけて倒すってのが多い。
- 29 :
- 釣り野伏せなんてほんとにやってたと思ってんのか?
そんなの一次史料にねぇだろ。
- 30 :
- 宗麟の愚行とか何を指してんだ?
宗麟は英傑だし。
義統の愚行のことを宗麟とごちゃ混ぜにしてんだろw
最後は豊臣政権参加しろよ日向国やるから→わしは政治には興味ないきに・・・わしは海外に行きたいきのぅ発言
&
死せる宗麟生ける義弘を走らす
と言うカッコいい死に様。
- 31 :
- >>29
普通に考えたら孫氏の「正を以って合し、奇を以って勝つ」がベースなんだがなw
- 32 :
- 確かに九州6カ国を掌握していた時の宗麟はかなりの名将であっただろう
しかし家臣の妻を横取りしたり、神社、仏閣を破壊したりするなど理解に苦しむ事ばかりしているのもまた事実
それらを総合するとやはり名将とは呼べない、むしろ暴君と言った方が正しい
- 33 :
- あの時代本当に暴君・愚将だったならとっくに家臣もしくは秀吉にられてたと思うが。
- 34 :
- >>32
あのさー、前スレぐらい読もうよ。
- 35 :
- >>32
>>家臣の妻を横取りしたり
これは毛利側の講談まがいの三次資料を根本史料として派生していった根拠ない中傷で一次史料にはない。
>>神社、仏閣を破壊
当時の大友直轄領はほとんどなく、寺社領の没収により、
世俗的権力を持つ寺社の影響力も剥奪していく政策の一環。
またそれと対立するキリシタン保護による南蛮貿易の推進と良港を持つ臼杵への遷都計画の推進。
信長が寺社を弾圧したらマンセーするのに、宗麟がやると暴君とは恐れいったわwww
つうかあまりに未熟かつ無知すぎるな。
- 36 :
- >世俗的権力を持つ寺社の影響力も剥奪していく政策の一環。
大友勢が宗像の社領に攻め入った時は宗像氏貞は大島に逃げたが
博多・宗像近辺で水軍編成出来なかったのか氏貞を攻めきれず
その腹いせに宗像の社殿を焼いたが、1年後には許斐山城奪回戦以外
戦らしい戦を経ずに氏貞は宗像の社領を短期間で回復したが
これは大友・立花勢が宗像の社領を支配する気が無かったのか?
それとも領民に神郡意識があった宗像では他の寺社地の様に行かなかったと見るべきか?
- 37 :
- 宗茂は秀吉によって大名に取り立てられて本当に良かった
馬鹿な義統から独立する事が出来たんだから
- 38 :
- >>37
宗麟が推したと言う説もあるが形としては秀吉の引き抜きだし
大友やその所領を守る為に奮闘したのは立花や高橋だけじゃない
他の大友家臣から見れば面白くない人事だったかも知れんな
- 39 :
- 志賀親次と佐伯惟定は秀吉が宗麟に日向を与えようとした時に、領地を新たに貰う予定だったけど、
宗麟が断って僅かに加増されただけだったからな。
さらに志賀親次は加増された1年後にキリスト教を棄教しなかったから領地を半分にされてるしな。
もともと吉統と仲悪かったけど、宗麟の死後は余計に悪くなっていった。
- 40 :
- >>38
まあそれだけ宗茂の器量が優れていたという事だろう
そう考えたら納得の抜擢だと思うよ
- 41 :
- 家庭内が折り合いよくないから近い血縁を推薦しただけじゃないのか。
- 42 :
- 紹運の甥が次期大友当主だから
宗茂を豊臣直参に取り立ててもらうことで
豊臣政権内での大友の藩屏的な役割を期待しての宗麟の推挙だろう。
- 43 :
- WIKIで立花宗茂見てみたけど、
>夜襲や火計でこれを撃破〜
>積極的に遊撃戦術を使った〜
>更に詐降の計を用いて〜
>鉄砲の速射や奇襲戦を活用し〜
>8百の兵を率いて高策2万2千の兵を夜襲と火計を使い撃破〜
>偽の陣地や營火と伏兵を使って〜
>塹壕を掘り起こして、ここより兵士に鉄砲射撃を行わせた〜
戦術の総合商社じゃないですかw
- 44 :
- >>43
最近立花厨が増えてかなり痛いことになってるな
- 45 :
- 知名度が上がれば確実に人気が出るであろう武将だったからなw
- 46 :
- これが本当なら本多忠勝より遥かに強いのでは……
- 47 :
- >>46
戦術家としては確実に強いだろうけど、個人的な武勇だと剣術と弓術以外は負けそう。
- 48 :
- 眼力とかでも負けそうw
- 49 :
- 宗茂は動揺せんからなあ。胆力勝負だと決着つかない予感w
- 50 :
- 確か小田原攻めで秀吉に紹介された後に、宗茂のところに忠勝がやってきて
語り合ったらしいね。
確か歴史街道に載ってた。
- 51 :
- なにを?
- 52 :
- >>51
秀吉の主催の宗茂と忠勝が酒宴の席で
「余興にそれがしの踊りでも」「ではそれがしも!」
と舞った時に
「ここは鴻門之会ではないわ!」と言われた。
- 53 :
- 小田原にて家康の密命で忠勝が剣舞を秀吉の前で披露。
だんだん秀吉に近づく忠勝をみた宗茂が顔色を変えて剣舞を披露。
たまりかねた景勝が「ここは鴻門の会ではないわ!」と激怒
直江が秀吉に「秋月を戯れに舞わせるのとはわけが違いますぞ」と言うと
秀吉は「堀と蒲生がいるから安心じゃ」と答えたと言う。
- 54 :
- なんか果てしなく格好いいなそれ
凡人が入る余地ないwww
- 55 :
- >>53
すごいオールスターキャストだよなw
- 56 :
- 松永久秀のクリスマス休戦と同じで
ネタかと思ったら事実だったw
- 57 :
- 臼杵鑑速ってあきはやなの?あきすみなの?
ずーっとあきはやと呼んでたんだけど
- 58 :
- どっちでもよいんじゃね。
基本的に当時の人名なんてほとんどわからないから。
書状でかな文字
または
宣教師がローマ字
このどちらで名前を書き記していない場合はわからない。
- 59 :
- 大内義長対宗麟の戦いが見たかったぜ!
- 60 :
- 豊後湾に沈んだ島々を調査すれば、
大友期の繁栄ぶりがわかりそうなのになぁ
大分県民ってそういう地元を盛り上げる気持ちって
あんまりなさそうだよね。
宮崎県同様に小藩分立のせいかな。
- 61 :
- >>60
費用対効果を考えるとどこの県民も
そんな事しないだろ
何億円かかると思ってるんだ
- 62 :
- >>60
んなこたあない。
一応調査はしている。
ただし、地質調査の一環として。
http://www.pandaemonium.net/menu/devil/uryujima.html
そそも大友舘と府内の発掘でかなり、その繁栄は明らかになっているよ。
・庭園の規模・特に池は西日本最大で、大内館よりも大きい。
・他の大名家とは異なり、舘内に生活品の職人が、常駐していた。
・府内の町家跡からも、かなり高価な品が発掘された。
・貿易が、かなり広範囲に行なわれており、中国・朝鮮だけでなく、東南アジアからも
運ばれてきていた。
- 63 :
- 地震前後の時期の府内は誰が統治してたんだ?
中川秀成は岡だから違うしなあ・・・
1593年5月1日に大友改易
1594年に中川秀成が岡城へ
ttp://www.lib.kobe-u.ac.jp/products/nakagawake/kaidai61.html
1596年9月4日閏7月9日に瓜生島が沈んだとされる地震
1597年2月福原長堯が豊後府内大分・速水・玖珠郡内12万石に加増転封
宗麟は丹生島城を作るときに永徳に障壁画を頼んだそうな。
- 64 :
- 志賀親次
豊薩戦争の折、肥後口から豊後に侵入してきた島津義弘軍3万7千の軍を恐れ
内通しようとした父を切腹させ岡城の城主となる。
岡城に攻め入った軍(新納忠元が指揮したと言われている)は3度に渡り撃破され
しかもその内の1戦においては島津得意の釣り野伏せを模した戦法で破られるという屈辱を受けている。
岡城攻略をあきらめた島津軍は稲富新介に5千の兵を与え志賀軍に備え主力を北上さ
せるが、功を焦った稲富は独断で岡城を攻め親次に散々に打ち破られた。
志賀親次はほとんど岡城から出て戦ってたみたいだけどな。
http://www.oct-net.ne.jp/~faulen13/ktsp/oka.html
吉田一祐カワイソ
http://www2.city.usuki.oita.jp/kyouiku/mamoru/saihakken/simokita/kuriyamajousi.htm
佐伯惟定
栂牟礼城には家久の子豊久が攻めてきた
島津からの使者を切り惟定は伊東家からの客将山田匡徳と組み惟定が正将として豊久軍に正面
から当たり注意を引いたところを匡徳が奇将として奇襲をかけるという戦法(立花道雪の正と奇の
軍法を模したと思われる)で島津軍を撃破した。
耳川合戦の翌年7月、島津方与党が佐伯に侵入したのを11歳の惟定が撃退し、。
以後たびたび佐伯諸浦が襲撃されたが、惟定はよく奮戦し防御した。
天正14年11月土持 親信、新名親秀 ら(豊久がいたかは不明)2千余人が佐伯に
出撃、惟定は千八百余の兵で堅田、鬼ケ原にて応戦、島津軍を撃退し、その戦死
者は千人を超え千人塚が建てられた。
以後島津に寝返った柴田紹安の妻子が籠る星河城を落とし人質にとり、紹安を再度
寝返らせ、さらに土持 親信の朝日嶽城を落とした。豊後から撤退中の島津義弘、家久
が梓山を越えて日向に入ろうとしていたところを、佐伯軍が急襲し島津軍を敗走させ、
府内から奪われていた大友家の家宝を取り戻した。(着服したようだが)
大友家改易後は藤堂高虎に仕え、慶長の役での元均との海戦や大阪の役の長宗我
部盛親との戦いに功があり、津祭りでは藤堂家の四天王として扱われている。
佐伯家は大友家が来る前に事実上豊後を支配していた緒方三郎(源義経を九州に招こう
としたので流刑にされた)の子孫と言われる家で、佐伯は豊後から半独立状態だった。
それが、10代惟治の時に因縁つけられて大友家に攻められたり、12代惟教の時に小原
鑑元の乱に連座したとして、佐伯を追われて、その都度何年後かに帰ってきてるっていう
大友家臣団でもっとも大友に含むところがある一族なのだ。
島津に敵対したのも家久が父や祖父の仇だからって印象があるし、奪った家宝の肩衝も
大友家改易後すぐに藤堂高虎に仕えて献上して、さらに高虎から徳川家康に渡ってる。
それゆえかその肩衝は「佐伯肩衝」というそうだw
佐伯惟定は祖母神大明神の末裔というだけあってか
神道に傾倒してたぽいな。
わざわざ加賀から佐伯までキクリヒメの像を取り寄せたり
してたらしい。
義統は豊薩戦争中に府内から逃げてた先でキリシタンになっていながら、
秀吉のキリシタン禁教令がでるやすぐさまキリシタンを弾圧して宣教師を
追放しだして、そのとき宣教師達を匿ったのが親次なんだよなあ。
秀吉に親次が言うことを聞かないと泣きつくと逆に秀吉から叱責される体
たらくだし、義統が秀吉から見限られてたのは確かだろう。
そもそも、朝鮮出兵時に親次が撤退を主張したっていうのも信憑性がない
し、大友改易後、親次が秀吉から日田を貰ってるとこを見ても原因は義統
の側にあると思うんだが
親次は日田1郡の領主→福島正則→小早川秀秋→細川忠興と流転
親次の娘が佐伯惟定の息子の嫁
義統が城を落ち延びる際に側室の心配ばかりするので、救い出しに行ったはいいが
そのあと女の心配ばかりして戦っている家臣を省みないので、怒って出奔した側近いるよな。
確か臼杵形部っていう義統の側近だった人。その後毛利家に仕えたそうな。
- 65 :
- 勢場ケ原の戦いで吉弘氏直が討ち死
耳川の戦いで吉弘鎮信が討ち死
岩屋城戦で高橋紹運が玉砕
石垣原の戦いで吉弘統幸が討ち死
氏直の父である吉弘親信も大内との抗争で討ち死したらしいし
凄い討ち死率だよなこの一族は
石垣原はなあ、わざわざ従兄弟の宗茂のとこを出て徳川家にいた大友義乗
のとこに行こうとしてたら、吉統に出会っちゃって再起を図ろうとしてたから、
正室の子の義乗が徳川家にいるから東軍につくように言ったら、側室とその
子供が毛利に人質に取られてるから西軍につくって言われてアチャーと思い
つつも仕方なく参加して、思いっきり死ぬ気(辞世の句が明らかに死ぬ気)で
戦ってたからなあ。
いや、吉統なんかほっといて義乗のとこに行っとけよって感じなんだが
こういう生き方しか出来なかったんだろうなあ。。
あと吉統の情けないところは、府内から逃げた先の豊前の龍王城で
黒田如水に勧められてキリシタンの洗礼を受けるんだけど、秀吉の
キリシタン追放令で1年もせずにあっさり棄教し家臣たちにも棄教を
命ずるも、志賀親次らの反発を受けて、一計を講じて神道での誓詞
に大友家への忠誠を誓わせることで棄教の証としようとしたら拒否さ
れて逆にキリスト教の方式で忠誠を誓うことを許してしまうは、そのこ
とで秀吉に親次の非難をしたらかえって自分が叱責を受けたという。
そりゃもうなんらかの理由があれば改易させられるわなあ。
龍造寺もそうだけど二代目がぱっとしないよな
そのため暗愚扱いになってて弟の評価は兄より良い
義統は吃音だったみたいだな
秀吉にとっては所詮外様の大友を改易してそこに子飼いを封じる方が大事だったんだよ
当時は交通の要地だったし>豊後
逃亡して取潰しってあるけど朝鮮出兵前から大友家取り潰す気満々なんだがな、秀吉は。
ミスを待ってましたと言わんばかりだし人質名古屋城に連れてこらされてるし
そもそも大友家の当主は、現地で指揮をとったりしないよ。
現地で指揮をとるのは、戦の巧者の重臣。
父親の義鑑も大内の軍勢が、山香あたりに来ても府内を
動かなかったわけだし。
- 66 :
- 1586〜1587年の薩摩軍との戦いで活躍した順番
1、志賀親次・・・島津義弘軍3万5千に僅か千余の兵で勝利を重ねた。
2、高橋紹運・・・岩屋城で玉砕戦を展開し時間を稼いだ。
3、立花統虎・・・↑を引き継ぎ援軍到着まで耐えた後反撃して失地回復する。
4、佐伯惟定・・・栂牟礼城を守り、豊後から撤退中の義弘家久を追撃し追い詰める等。
5、木付鎮直・・・杵築城を守りぬき島津軍の北上を止め、豊前に逃げた義統を助けた。
6、丹生島城の武将・・・宗麟を守り抜いた柴田礼能、吉岡甚吉、武宮武蔵等。
7、吉岡妙林・・・寡兵の鶴崎城で頑強に抵抗し、一度開城するが策略で取り戻した。
8、利光宗魚・・・鶴賀城主、家久軍の攻撃を3度防ぐが、流れ弾を受け戦死。
9、朝倉一玄・・・留守の火縄という策を用い島津軍を撃退する。
10、狭間鎮秀・・・島津と互角の戦いをするが、講和したため反逆者として討たれる。
11、吉弘統幸・・・戸次川に破れ島津軍に追われる大友義統を救出し、豊前まで逃す。
この当時の大友の城主は特殊な境遇で家督を継いだ人が多いしね。
佐伯惟定:耳川で祖父、父等が戦死し10歳で栂牟礼城主になり、
その翌年から島津に与する勢力の襲撃に抗し続けた。
吉弘統幸:耳川で父が戦死し、14歳で筧・屋山城主となり、16歳
の頃に田原親貫の討伐等で活躍した。
吉岡統増:耳川で父が戦死し10歳で鶴崎城主となる。母妙林に鍛えられた。
田北統員:統幸の弟、紹鉄の頼みで田北家に入り紹鉄の乱の後、
12歳で田北家を継ぐ
戸次統常:父鎮連が島津方に内通した疑いで粛清された後、鎧ケ嶽城の城
主となる。戸次川の戦いで戦死。
立花統虎:紹運の長男だったが道雪に乞われて14歳の時立花家の婿養子
となる。ただし7歳の頃に立花家を継いでいた妻から正式に家督
を譲られてはいないらしい。
志賀親次:18歳の頃猫尾城攻めに参加し、その後一度志賀家を継ぐが、
19歳の頃に勝手にキリスト教に入信したことから、家督を返上
する。翌年島津の侵攻に父が内応しようとしたことから、岡城の
指揮権を奪い、島津軍に徹底抗戦を行う。
概ね逆境で鍛えられた連中って感じなんだが、やっぱ志賀親次だけは異
端な感じがするなあ。
- 67 :
- 留守火縄の朝倉一玄 島津家久を破った佐伯惟定
ついに落ちなかった岡城の志賀親次
岩屋城の高橋紹運 不随の立花道雪
その他にも、
一萬田宗慶・鎮実父子
戸次鎮連・統常父子
騙し討ちを成功させた阿南惟秀
強情な朽網宗暦と子の鎮則
穴囲砦に籠り勇敢に戦い島津軍を通さなかった農民
不運の将柴田紹安 戦巧者の利光宗魚 死して主君を守った足立図書
228 :人間七七四年[]:2007/05/25(金) 16:30:55 ID:NqBGFrNy
逐電した臼杵刑部少輔
鶴崎城の婆さん妙林尼と
息子吉岡統増
大砲を改良した武宮鎮元
日出生城主の帆足鑑直と妻鬼御前
夫婦で新納忠元の軍を破った
田原紹忍忘れてた
これに筑紫惟門と 秋月種実入れれば
最強家臣団完成
立花統虎、吉弘統幸、木付鎮直、吉田一祐、柴田(天徳寺)礼能、若林鎮興
田北統員、狭間鎮秀を追加で。
吉岡長増・臼杵鑑続・鑑速も入れてやってくれ。
入田宗和の名がないな。
大友家は武田並に人材が豊富だなあ
入田親実(義鎮の監視係、大友義鑑と共に末っ子塩市丸を擁立しようとするが
二階崩れにて大友家を追われる。その後舅の阿蘇惟豊を頼るも、かかわる事を
恐れた惟豊に斬られる。)
のち島津が大友領内に進行したとき真っ先に寝返ったのは、親実の子宗和で
あった。宗和は父が無実の罪によってされたと信じていたという。
- 68 :
- その優秀な家臣団と肥沃な領土を有した大友家なら最低でも九州統一くらいしたんだよね?
- 69 :
- 結局家中を求め切れなくて自滅しました。
最盛期なら島津なんて敵じゃなかったんだけどな…
- 70 :
- そもそも耳川の戦いに道雪と紹運が参加出来ない時点で日向へ攻め込むのを中止するべきだった
大友の没落はここから始まってしまったのだから
- 71 :
- 宗麟はこれだけの人材、戦力に恵まれながらも最終的には衰退させてしまったから
やはり名君とは呼べないわな
- 72 :
- >>71
だからね義統の時代に入るまでは衰退してねーっつの。
宗麟時代は毛利を撃破して大友家最盛期を現出してんだっての。
- 73 :
- 歴代最高の隆盛を得たのに衰退の原因も作っちまったからなぁ
秀吉を頼って主の地位から従の位置に降りたし名君とは呼びにくい
まぁ、国家最盛期を得たのに国を亡した商の紂王よりはましかも知れんが
- 74 :
- >>衰退の原因
そんなもん作ってねぇぞ。
>>従の位置
はっ?惣無事令が発令したんだからしょうがねぇじゃん。
島津みたいにボロクソに負けてハゲにして家臣の反対を無視して
土下座するのが良いことなのか?
- 75 :
- 久々にスレが動いてるんで覗いて見れば・・・
うわぁ、引用符すらまともに使えない子がいる
だいたいなんでここで島津を引き合いに出すかね?
事有る毎に大内や龍造寺や島津を貶める発言しか出来ない大友厨・・・頭悪いぞ
- 76 :
- >>74
ボロクソに負けても墨衣剃髪で土下座したら許してもらえたでゴザルの巻
(改易されて亡国の主となった義統は墨衣剃髪しても許してもらえなかったが・・・)
武家の命題でもある家名存続どころか本領安堵にも成功したんだから
恥を忍び家臣の反対押し切って土下座した価値はあったと思うがね
>はっ?惣無事令が発令したんだからしょうがねぇじゃん
惣無事令は大名間の領土問題の争いや私闘を禁じるもので
大名が豊臣政権に臣従するのとはまた別の話じゃん
それともなにかい?惣無事令は秀吉が諸侯は全部俺の家臣という宣言だったとでも言うのかい?
- 77 :
- >>75
>>島津を引き合いに出すかね
惣無事の時期なんだから出すの当たり前だろアホか。
>>76
>>墨衣剃髪で土下座したら許してもらえたで
むしろ宗麟がすでに死んでいない時期を出してくるとか
惣無事の時期からすげーずれた時期を持ち出すとか
もう歴史認識がまったくおかしいね。
>>亡国の主となった義統&家の命題でもある家名存続どころか
大身旗本・高家として家名が存続してるのも知らないで書いてるとか笑えるんですけどw
>>大名が豊臣政権に臣従するのとはまた別の話じゃん
はっ?従一位関白として上位権力と大義名分を持つ秀吉が
指示してる時点で、それを守ることは臣従することであり
守らないやつは討伐を受け無理矢理にでも臣従させてやるって言う
二者択一であり、諸侯wおっと間違いたw
諸大名どころか日の本は関白である秀吉の支配下である表明に他ならない。
お前すべての文章でオカシなことを書きまくっててなに言ってんだ?
- 78 :
- 宗茂にとっては大友の没落は幸いだったな
秀吉に見出だされたし
- 79 :
- >>78
いやいや、宗麟が宗茂を
秀吉に取り立ててくれるように
頼んであげてるわけだが。
- 80 :
- >秀吉に取り立ててくれるように
>頼んであげてるわけだが。
あれは事実上の引き抜きで
その説は後付っぽくてイマイチ信用出来ないんだが
第一城に篭もって島津と戦いそれを退け
大友家に忠義を尽くしたのは立花家だけではないのに
何故に推挙したのは宗茂一人だけなの?そこがおかしい
- 81 :
- カルト狂いの精神疾患持ち君主
- 82 :
- んな、お前の妄想を言われてもな。
なにしろ宗麟が秀吉へ
「義を専ら一に、忠誠無二の者でありますれば、ご家人となしたまわりますよう」
と推挙してるわけだし。
義統の義父である紹運の忠死の功績もあるし、そもそも活躍エリアが豊後本国じゃねーし
宗茂を推挙した理由も義を専ら一に、忠誠無二の者だと言ってるわけで。
志賀親次はドン=パウロって言うキリスト教徒で、しかも大友三支族だし。
秀吉自身も豊後で最も信頼できるのは佐伯惟定と志賀親次の二人だけって言ってたし。
豊後の義統の補佐役として両名は期待されてたと思うぞ。
- 83 :
- >>81
お前小説の知識だけしかねーだろw
- 84 :
- 人数的に考えてキリスト教はカルトか?
宗麟は性格的には普通だと思うが…
- 85 :
- 一言も宗麟だとは言ってないけどねw自覚があるのかなw
- 86 :
- 結局>>70に書いてあるように、耳川の戦いに負けたのが全てだな
戦いそのものを回避していれば、最盛期の九州6カ国の守護から本拠地の豊後のみにまで転落する事は無かった
その辺りが宗麟を名君とは思えない原因の一つ
- 87 :
- 耳川ってそんなに重要か?
その前からのgdgdが有ってこその耳川だと思うが
- 88 :
- どっちがどうとは言えないが、
決定的な破綻を招いたといえば耳川なんじゃないか?
耳川が起こらなくても他で破綻していったろうけども、
そのスピードを早めたのは間違いなく耳川だしな
- 89 :
- 宗鱗の戦い方は堅実だし好きだな
名君として見習う人物
- 90 :
- >>89
「耳川の戦いまでは」という条件が付くけどな
- 91 :
- >>86
おいおい耳川には紹運の兄の吉弘鎮信が参加してるのも知らんのか?
紹運や道雪は博多を中核とした北九州防衛をしてるから
日向の戦いなんか参加するわけけねーよ。お前かなり無知だよな。
>>87
まーた毛利のおかげで島津が勝てたからすべて毛利の功績ですかw
大友衰退の本当の原因は加判衆だった吉岡長増、臼杵鑑速が死んで道雪が府内の政治から
筑前防衛のために転出することになり、宗麟も家督を義統に譲って丹生島城へ隠居し、
府内の義統が家中でやたらと敵を作るようになってからだよ。
宣教師の資料に「義統は過度の飲酒癖やそれによる乱行が多い」と記されている。
佐伯惟教・・・そもそも土持氏に妹が嫁いでるため、
島津側へ寝返った土持氏を自陣営に戻したい気持ちがあった。
土持討伐の先陣は惟教と志賀親度。討伐完了後の惟教はそのまま駐屯。
>>88
耳川は決定的に大友を人材不足にしたからねぇ。結局のところ組織は人だよね。
>>89
同意。
>>90
君のために簡易ですまんが大筋の耳川情勢を書いとくよ。
島津の攻撃を大友側はよく防ぎ、日向戦線は大友優位に推移していたため
大友軍を2つの部隊に編成して大挙南下が決定されるが反対者も多かったとされる。
立花道雪らは開戦に時期尚早と強く反対していた。軍配者角隈石宗も反対したとか。
宣教師の石宗への記録には「日本の宗派に精通し、宗麟、義統、すべての家臣から(尊敬を超える)尊崇されている。」
しかし敗軍した場合、常套的に指導者のせいにして臣下は反対だったが押し切ったとするテンプレが必ずあり、
隠居してる宗麟は加判衆の反対を押し切ることは事実上不可能に近いため、これは怪しいものではある。
おそらく今後の田原親賢の思考が宗麟の本当の方針であろうことは間違いない。
斎藤鎮実は「島津と戦っている間に長引けば、龍造寺隆信は必ず蜂起し、
毛利輝元は祖父が筑前で負けたことを晴らそうとこの隙を突いて戦いを挑んでくる。
そうすれば我が大友は三方を敵に囲まれることになる。そうなればどうされるおつもりか」
と宗麟に言ったと言う。
第一軍は総大将の田原親賢が率いる(義統の叔父)
惟教が先陣となり南下し途中、島津家久を撃破したりと快進撃を続ける。
搦手軍第ニ軍は肥後国から矢ケ嶺越えで高千穂へ進軍し兵を率いてくる
志賀親守、朽網鑑康(キリシタンになりたかった老人)、一萬田鑑実。
志賀氏は大友三家の一つ。北志賀家は南郡衆の筆頭であるが
前年に親度が義統と対立し、それにより親度は加判衆から失脚。
義統によって親度ともども父親守も害されそうになるが、このときは宗麟の仲介があって助かったという。
- 92 :
- 総大将田原親賢の方針
(娘が宗麟正室なのを良いことに父の奈多鑑基や兄弟の鎮基が寺社奉行としての権限を私的に利用し
宇佐八幡の領地を横領狼藉して吉岡長増、臼杵鑑速の激怒を買うなど悪名がやたら高いため家中を纏め切れない人物)
決戦などせずほどほどのところで島津と和睦し領地確定させて帰るべし。
宗麟に忠実な男なので、これはおそらく宗麟の意向を汲んでいると思われる。
当時、勝っても被害も甚大なので、できる限り決戦をしないのが普通であり
川中島なども単なる偶発的な遭遇による小競り合いから決戦に拡大したとも言う。
大友軍の高城包囲は五十余日を数える中で、
大友の戦意が低いとイライラする先陣を任された勇将田北鎮周は(もともとこの遠征に反対だったと言う)
援軍の島津義久が四万余が佐土原に到着し本陣を構えると戦に逸り、志賀親守らの到着を待つべきとする
佐伯惟教や角隈石宗らの慎重論に憤慨し、先陣を任されたからには潔く突撃して死んでみせると激怒。
(実際、この戦いに反対だった志賀親守はわざとタラタラ進軍だったと言う。
のちにこの敗戦の責任として軍監の志賀親守の罪を糾弾している)
斎藤鎮実も同調し吉弘鎮信とともに耳川の強行渡河を謀る。そして彼等は討ち死にする。
惟教は誤った考えに基づいて死ぬことばかりを思う輩がいては、戦の作戦もたてらないと嘆息し
惟教はもはや、やむを得ないとして鎮周に続いて突撃。子の佐伯惟真、佐伯鎮忠とともに戦死。
角隈石宗も死の覚悟を決めて自身の書いた兵法書を全て焼き払って死地に飛び込み討ち死に。
初老の身で病身の蒲池鑑盛も筑後から率いてきた直属の兵1千と
島津氏の本営への突入を試みるなど奮戦し、三男統安と共に壮烈な最期をとげた。
叔父新介の補佐を受ける十八歳臼杵統景も討ち死に。
彼等の無謀に協力せずに傍観するものが出るという無秩序な戦いとなり大敗。
3000人近い人数が戦死したが、これの大半は敗走後に
数日来の大雨のため増水した耳川を渡りきれず溺死した者や、
そこを突かれて島津軍の兵士にされたものだという。
一萬田鑑実が殿を引き受けて武功大であったという。
搦手軍については義統による朽網・志賀両氏に対してその遅滞をなじる書状がある。
敗戦の責を追及された親賢は田原本家の親宏の主張で親宏から奪っていた所領を没収される。
奈多八幡宮出身の親賢は耳川の敗戦はキリシタン信仰によるものだと意味不明な開き直りをする。
天正5年から天正6年にかけて宗麟は領国経営に関する文書を発行していない。
さらに敗北後の事態収拾に当主だった義統ではなく隠居していた宗麟が家臣団の要請を受けて出馬していることから
耳川の戦いは宗麟ではなく義統主導によるものだったのではないかと言われている。
またこの戦いで大友要人が多数戦死してしまい、政務や国人への取り次ぎ役である加判衆の定員割れ、
経験豊富な武人の大幅減少により先陣では経験不足な若手主体になってしまい、攻城戦で大苦戦して
立花道雪やその補佐をしていた紹運がその手助けで出陣するハメになるなど大友を支えなければならなくなった。
- 93 :
- >>91
誰が毛利の話なんてしたんだ????
- 94 :
- どうもこのスレには大友マンセー過ぎて
他の大名貶めずにはいられない人がいるんだよなぁ
なんでもうチョット公平な目で見られないんだろう?
そこがこのスレの残念なところだ
- 95 :
- さっきから相手の意見を妄想する奴がいてよく分からないんだが、どこかに最近そんなレスがあったか?
- 96 :
- あったんじゃない?
彼の中ではな…
- 97 :
- ID:lhluEodaのように罵倒するレスしかしない奴には何を言っても無駄だな
- 98 :
- 毛利厨涙目www
- 99 :
- >>97
相手にするな
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