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戦国ちょっといい話30


1 :11/12/11 〜 最終レス :12/02/10
戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう
戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっといい話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1317824861/
姉妹スレ
戦国ちょっと悪い話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1321170836/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/

2 :
あ薔荼悲畳紗織か
あ薔荼悲畳紗織か
あ薔荼悲畳紗織か
本当にh抜かねらや和末亜ぬやわー。呂な日ぬたに雪見様基地機だに言わん波やぬ針、和マヌやわ。
?leはスク阿智眉夏阿智味ゃらっつぁsな玉置生君か巻きやす湯近間か幕マカ様話チアな湯な比喩てぬそな粉屋な。
巻き右間側沼かいまな体にゃ街化しは山に釜釜釜は可否ら味様様に間は酒屋あや位ユアや草や可否アラ玉さ並木間釜様方マサ隊ユアや穴藤間様に打ち返される。
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愛がなら浜な沙汰は姉ライや高谷伽耶。新たの白湯쀒נב효효효효효っら픂퐆푶픂풒픞표やな。でもちょっとトゥルリンゲていてもブワジュギ〜
ぬら彩奈棚しまさタサ裏や鮎なさやさならアラleは沙汰またさやな白湯'çaõ白湯穴や否熱美優沼アヤあり得な島さへありタラ荒尾や生は馬•嗎。
原油話庵は兄エア他沙汰し、はリオ無はアラ日は金原荒谷暢気久皮膚さ八幡は逢たは場に棚あり荒畑は差は間様かなあ谷田八幡的たえ。觧?
また硬い粥ぬんん無鮎泡アマ泡川かを乾き、話なユダヤな罠間様やSIM絢爛たる鬨=田畑腹たる多羅について舞まあ身釜か湯屋にかやかも又マカや何もかもハマスやな。

3 :
で、あるか

4 :
真珠湾攻撃は日米合作の八百長戦争
http://s1.shard.jp/deer/0202/8/183_2.html
日本は、戦争から相撲・野球まで何でも八百長。
問題は、生まれた時から八百長を「正義」と教えられて大人になる多くの、
「気持ちの悪い」日本人がいることだ。
もちろん、こいつらは、天皇・徳川一族の下部組織の者たちで、
多くは、伊賀・甲賀などの多くの流派に分かれた現代版忍者部隊だ。
(仮説を含む)
( http://park.geocities.jp/jpcdebate/0203/p033.html )

5 :
「名将言行録」には、あくまでも徳川家康の打倒を目指していた石田三成は茶人の万代屋宗安
を使者として友好関係にあった大名達に挙兵計画を伝えたとある。その際、計画の露見を防ぐ為に
宗安を追放したと見せかけて会津の上杉景勝のもとに派遣し、次に景勝にも追放された事にして常陸の佐竹義宣の
もとに送り込んだという。そして、佐和山に戻ってきた宗安に、かつて宗安から購入した茶器の唐来肩衝を渡し、
「これを持ち帰って、私が討ち死にしたら朝夕茶を点てて追悼して欲しい。もし私が志を遂げる事が出来た時は
 また買い戻そう。」
と語ったという。 実は敗北を覚悟してたかもしれない、三成の逸話である。
どっちに書くか迷いましたがこっちに。

6 :
慶長5年(1600)10月、最上義光はついに宿願である庄内平定を開始。
三男の清水大蔵太夫義親、並びに舎弟である楯岡豊前守満茂を大将として5千の軍勢を差し向けた。
この軍、山形を出発すると月山の獄を越え、狩川を夜の間に渡り、酒田の城へと押し寄せた。
この頃酒田の城には上杉家より、川村兵蔵、志田修理と言う者が置かれていたが、最上軍の接近を聞くと
「さらば勝負を決せん!」
と、即座に城を出て最上川の岸に陣を取った。
最上軍の先陣もその対岸に進み、これを渡ろうとしたが、そこは水深も深く、音に聞こえた凄まじい急流であり、
また一町ほど下れば海になるという場所で、一向に渡るすべが見つからなかった。
暫く船を探しているところに、十町(約1q)ほど川上より、14,5艘の船団が現れた
「今度の御先駆け、下次右衛門である!!」
声高に名乗る。そう、新たに最上に臣従した、下次右衛門の部隊であった。
これに最上軍の者共大いに喜び、続々とこの船に打ち乗り、太刀を真向に差しひるがえし、喚き叫んで
攻め寄せた。
しかし敵もこの事は想定している。川村・志田は堤の上に伏せ置いていた数百丁の鉄砲を入れ替え入れ替え
射撃した。これに最上勢多数討たれ、進みかねているところに、下次右衛門の家臣、戸井半左衛門という者、
前に敵がいるとも思えぬ風情で叫んだ。
「これは何という怯えた者たちか!?ただひと揉みに、揉み崩せ!!」
これにて士卒の気色を励まし、自らは真っ先に馳せ向かうと後ろの者たちも『戸井を討たすな!』『半左衛門を討たすな!!』
と、下家の組子五百余人、喚き叫んで駆け入った!
さてこの時、大将の清水義親は未だ対岸にあった。彼は眼前の戦況を見て心騒ぐ
「私がここにいるというのに、先駆けの味方を目の前で討たせるなどあってはならない!もし水に溺れるなら
溺れても良い!なんとしてもここを渡るぞ!!」
義親は馬を最上川に乗り入れる。この大将の姿に、従う者たちも我先にと川に乗り入れ渡り始めた。
本来なら船なくして渡りがたき場所であるのに、一騎の剛気には毀れぬ物はないとはこの事であろうか、
程無く向こう岸へと駆け上がった。その姿は治承の古の、宇治川合戦での足利又太郎もこれにはいかで勝るべきか、
というほどのものであった。
ここに川村兵蔵、志田修理も、これでは多勢に無勢、もはや叶うまじと、酒田の城へ撤退したが、これに
下次右衛門は城際まで追い打ちをかけ、百余人の頚を取った。
庄内平定戦、最上川合戦についての挿話である。
(最上出羽守義光物語)

7 :
佐々成政にまつわる、地元の伝承。
天正11年(1583年)4月。賤ヶ岳で羽柴軍と柴田郡が激突していた頃。
成政は兵を越後に向け、糸魚川付近の数城を攻め落とした。
「このまま春日山まで攻め上がろう」、成政は意気込んだ。
だが、簡単に物事は進まないのが常。
成政の越中不在に乗じて、弓之庄城主・土肥政繁が越中で挙兵し、
佐々方の数城を陥れたとの報が入ってきたのである。
成政は急遽兵を越中にとって返し、弓之庄城を大軍で包囲した。
この際成政は、「通説」では土肥軍の士気を下げるために、
政繁の次男・平助を城から見せる距離で磔刑に処したという。
この行為に対する後世の評価はすこぶる悪い。
wikipediaにもあるように、作家の海音寺潮五郎は
「このような残虐な手口に頼るようでは人心掌握に長けた秀吉に対抗するのは無理」と手厳しい。
ところが、富山県にはこの磔刑の続きとなるお話が存在する。
天正13年(1585年)、秀吉に降伏した成政は
新川郡を除く越中所領をすべて召し上げられた。
この時、新川郡のほぼ中心に位置する弓之庄城に入った成政は、
入城以来、一人である墓所に頻繁に通ったという。
そう、2年前に弓之庄城を包囲した際に磔にした平助の墓である。
天下分け目の賤ヶ岳合戦が繰り広げられているその時。
「自分は本国さえ手中に収めきれていない」。
そうした焦りが当時の成政に、磔刑を決意させたのかもしれない
時は戦国とはいえ、残酷な仕打ちを行ったことを悔やんでいた成政は、
その後大坂に行くまで、何度も手を合わせに平助の墓に花を手向けたという。

8 :
ヤンキーが捨て猫を拾ったらいい人扱いみたいな・・・

9 :
政治的手段としての磔
個人の意向としての墓参り
全く別の次元のものだからなあ
そもそも磔が政治的手段として成功してたかはあれだけど

10 :
焦って処刑した事を後悔したのかな

11 :
高坂昌信はある時、同僚の曽根昌世に品行の良し悪しと大将の優劣について問われた事があった。
その際、昌信は織田信長を例に挙げ
「あの男は粗野だが、人の目利きは上手で有能な家臣を取り立てている。扇や鼻紙は忘れても、刀や脇差は忘れない
 タイプだ。その点、行儀は良いが家臣の陶晴賢に国を乗っ取られた大内義隆は信長とは全く逆だ。」
と話した。これに真田昌幸は
「では、信長の領地の治め方はどうでしょうか?」
と尋ねると
「有能な家臣に大国を与えている為に非常に危うい。もし信長がば、そうした家臣たちが長男の信忠を
 破るだろう。ただ、信忠や次男の信雄も優秀であるから、信長がうまく対処しておけば問題なく国は治まるだろう。」
と語ったという。 高坂弾正の信長に対する評価がわかる逸話である。

12 :
>>11
信雄が・・・優秀・・・だと?

13 :
ノブオは戦下手だけど、領地経営ってどんな感じだったっけ?

14 :
信雄は、尾張・伊勢、伊賀統治時代の検地では、後の太閤検地以上に詳細に行われていて、
支配の浸透という意味では非常に強力だったと評価されている。
内政という面では優秀といっても良かったんじゃないかな?

15 :
ほー内政は優秀だったんだな
もしも信雄が家康の元領地を引き受けていたら、どうなっていたんだろうか

16 :
戦国を生き残っただけでも優秀
って山名豊国さんが言ってました

17 :
でも豊国さんも氏真さんも天寿をまっとうしてるだけでも立派だよな〜

18 :
馬鎧というものがある、文字通り馬につける鎧だが
実用以外にも装飾の目的もあったとされる
さて、「大坂冬の陣図屏風」には馬鎧が多く描かれているが、
その中には「赤地に白玉」というものがあったりする
いまで言う、「デコトラ」か「痛車」というべきこの馬
敵も近付き難かったかもしれない

19 :
立派なデコトラに乗っていたおっさんがこれまた立派な絵が体に書いてあったな
武将で刺青を入れていた人はいるのかな

20 :
>>19
刺青は火消し、職人などの所謂、『工』の文化でしょうね。
侠客はどこに当たる存在だったのかはわからないが、
武家で刺青は聞いたことない

21 :
金さん・・・

22 :
戦国時代の刺青って史料が極端に少ないんだっけ?
倭寇が刺青してたとか、薩摩兵が腕に名前と年とを彫り込んでだとか
それくらいしか聞いたことない

23 :
罪人に刺青は江戸から?

24 :
>>22
年って毎年変わるでしょ
毎年彫り直してたのか?

25 :
毎年、正の字に棒を加えていったんだよ!!!!
ってか、生年を彫ってたんじゃね?

26 :
火消しが刺青してたのは現場で顔が判らない死に方したときに個別認識できるようにするためとかまとめコメにあった気がする(見つけられなかった

27 :
>>23
江戸時代よりは前。
罪人にその印として入れ墨をするのは中国由来じゃなかったかな?
聖徳太子の頃には有ったような

28 :
中国だと有名どころは孫ピンとか黥布あたりか
あと忘れたけど中国の史書で倭人の説明で刺青してるとかっての無かったっけ?
このころのは呪術的な意味合いが強かったんだろうけど

29 :
つ「魏志倭人伝」
男子無大小、皆黥面文身。
あと、「魏略」には
自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也
倭人は呉の太伯(刺青をしたと言われる)の子孫を称して、水中の怪物の害を避けるために刺青を彫ったとか

30 :
Wiki読んでみたけど、
幕末ころになると武士のなかにも町人からの影響で、
刺青を彫る者が出てきたみたいで、
小見川藩の内田正容は一万石の大名ながら刺青していて、
幕府から隠居を命じられたとある。
遠山景元(金さんモデル)は若い頃に放蕩生活(家庭環境が複雑だったらしい)していたようで、
その時期に侠客と交わりがあって桜吹雪を入れたとする説があるらしい

31 :
しゃれこうべだか女の生首じゃなかったっけ?

32 :
薩摩兵なら首級の数に応じて×マーク彫っててもおかしく無いな
しかし歳はともかく名前とか変わったらどうすんだろ
あと名前に一と正の字が使われてる奴はややこしくなるな

33 :
昔トリビアの泉で、江戸時代の数え方は「正」じゃなくて「玉」だったとか
一→ニ→三→王→玉

34 :
さらっと調べてみたら、薩摩の刺青は陰徳太平記の話みたいね
ネットから引っ張ってきたので恐縮なんだが
天正15年4月16日、豊臣秀長が三原弾正忠らが立てこもる高城を攻めた
薩摩勢は島津歳久の子三郎兵衛忠親で迎え撃ったが敗北
『島津勢先陣の内島津歳久の子三郎兵衞忠親を始めとして、五百餘り計たれけるに
皆二の腕に何氏何某、行年何十歳、何月何日討死と黙して在りけるとかや』
ttp://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/8767/1/irezumi26.pdf
豊臣軍が攻めてきて、決死を覚悟して名前と歳と討ち死にの日を彫った――ってニュアンスみたいね
陰徳太平記だから後世の潤色の可能性も高いけど
とりあえず、薩摩隼人マジ戦闘民族

35 :
あ、ミス
× 何月何日討死と黙して在りけるとかや
○ 何月何日討死と黥(げい)して在りけるとかや

36 :
九州武士は島津に限らず末期の大友もマジキチレベルだからなぁ、特に奥方達
降伏して酒宴で油断させて伏兵と追撃とか
息子の憂いを断つために赤子をして自宅に火をつけたり

37 :
海外からの攻撃が一番直撃してきた地域というのも、
九州武士の気質に影響しているのかな?

38 :
>>31
桜吹雪、骸骨、女の生首と諸説あるみたいだよ

39 :
九州武士でも日向は魔にボコボコにされて大友に燃やされるイメージしかないな
あと完全に空気な肥前有馬

40 :
妙林尼と甲斐宗運か

41 :
ところでクリンゴンと薩摩の人間どっちが凶暴なの?w

42 :
肥後も冴えないよな
鎌倉以来の雄菊池は滅ぶし
阿蘇・相良も二流

43 :
今じゃ九州は任侠の国だけどな

44 :
九州でも、北と南を一緒にしちゃいけない
別世界だよ

45 :
>>42
阿蘇は諏訪みたいな神官だし、領土欲みたいなのはガツガツしてなかったかなと。

46 :
>>45
菊池潰したの阿蘇氏じゃなかった?

47 :
>>39
有馬氏は、お家存亡をかけた沖田畷の戦いにおける奮闘が
島津家久の存在感でかすんでるのが痛いなぁ
前線に鉄砲隊を並べてクマー軍団をよく防いでいたんだが

48 :
>>44
北は朝鮮とつながり、
南は沖縄と繋がってると

49 :
戦国九州人ってこういう↓イメージしかない
      ./       ;ヽ
      l  _,,,,,,,,_,;;;;i 
      l l''|~___;;、_y__ lミ;l 
      ゙l;| | `'",;_,i`'"|;i | 
     ,r''i ヽ, '~rーj`c=/
   ,/  ヽ  ヽ`ー"/:: `ヽ
  /     ゙ヽ   ̄、:::::  ゙l, ホント 戦場は地獄タイ(バイ・ゴワス.etc)! フゥハハハーハァー
 |;/"⌒ヽ,  \  ヽ:   _l_        ri                   ri
 l l    ヽr‐─ヽ_|_⊂////;`ゞ--―─-r| |                   / |
 ゙l゙l,     l,|`゙゙゙''―ll___l,,l,|,iノ二二二二│`""""""""""""|二;;二二;;二二二i≡二三三l
 | ヽ     ヽ   _|_  _       "l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |二;;二二;;二=''''''''''' ̄ノ
 /"ヽ     'j_/ヽヽ, ̄ ,,,/"''''''''''''⊃r‐l'二二二T ̄ ̄ ̄  [i゙''''''''''''''''"゙゙゙ ̄`"
/  ヽ    ー──''''''""(;;)   `゙,j"  |  | |

50 :
戦国時代はみんな過酷だと思うけど
九州はなんか異色みたい…なんでだろう 風土の差?

51 :
残ってる軍記物とかのせいってのが大きいんだろうけど地理的なこともあるのかな
なんか合戦の雰囲気なんかに大陸の匂いを感じる

52 :
地理的に独自の風土は形成されやすいかも。
武の地関東、上方関西からも遠いんだよなw
航空技術が発展するまでは、
文化の受入、外敵の侵入どちらにしても玄関口だったから。
古くは支那、新羅、元にいつも警戒していなければならないし、
戦国時代にはキリシタン大名のメッカみたいなとこあるし、
保守的な精神と急進的な精神がごちゃ混ぜな土地柄かもしれんw

53 :
逆言うと、大陸や南方から新しい文物が入ってくるし、大陸に略奪に行くことも交易に行くこともできるってのもあるよね

54 :
>>47
島津に泣きついて助けてもらったのに
秀吉が来たらさっと手のひら返しした有馬さん
武功を誇るならその寝返り振りもセットで誇らないとねw

55 :
有馬と言えば大村や松浦や後藤やあのあたりとごたごたしていたイメージが

56 :
有馬記念の有馬って、九州の有馬でしたかな?

57 :
レースの開催開始時に、当時の日本中央競馬会理事長であった有馬頼寧が中山競馬場で大レースを
と計画したから。

58 :
久留米藩の殿様の家の当主だから九州の有馬ではあるけど、
摂津有馬氏であって肥前の有馬氏とは別系統なのね

59 :
本多正純「まったく有馬は…」

60 :
競馬とはぜんぜん関係有馬せん
なんちゃってw

61 :
>>60
【審議チュウ】
          チュウ
         +  ゚  ・ +
          ゚∧,,∧∧  ゚
  チュウ      (* ゚(   )       チュウ
.+  ゚  ・ +  l っと  ヽ  .+  ゚  ・ +
  ゚∧_ ∧∧  ゚ と__(__(^)(^)   ∧∧ _∧
  (*´・(   )            (   )・`*)
   l っと  ヽ           /   つと l
   と__(__(^)(^)          (^)(^)_)_つ

62 :
九州の名護屋城の布陣とかそうそうなもんだなぁ。
唐入りの絵図とか資料とかもっとあったらいいのに。
海外遠征とか初めてだろうし、違う民族の武将農民風景とかいろいろ。

63 :
>>54
表裏比興「どこの家もやってんだから誇ることでもないだろう、常識的に考えて(AA略」

64 :
>>54
それ真田昌幸レベルが評価基準だから
有馬さんは凡骨

65 :
簡単そうなことを難なくこなすのが肝心だって
えーと名前忘れたけど戦国時代の偉人が言ってた

66 :
>>46
大友

67 :
主君、宇喜多秀家の怒りをかってされそうになった花房助兵衛職之は、
家康の仲裁でお預けとなった佐竹義宣の領地から、友人に手紙を送った。
「このあいだ御状をいただきましたが、片便につきお知らせが遅くなってしまいました。
 拙者は思いがけずこちら(常陸)に罷り下り、遠国に住むことになりました。
 罷り退くことになった事の次第はきっとお聞き及びでしょう。
 これ以上生きても仕方のない身ではありますが、是非もありません。
 しかしながら、上様が御慈悲で少々堪忍料を仰せ付けられ、かたじけなき次第です。
 
 ああ、今一度お目にかかりたい!(哀々今一度懸御目度念願迄候)
 御事が親しい仲と思し召されてご連絡をくださったのは本当にありがたい。
 できたら、隆景様にお取り成しをお頼みしたいと思っております。
 
 道三(曲直瀬玄朔、秀次事件で連座して佐竹に預けられた)もこちらに逗留しています。
 拙者が居住しているのはいかにも人通りの絶えた山中ですので、
 折につけ道三と行き来して、寂しく語り合っています。どうかお察しください。
 せがれ(職則)も連れてきており、一緒にいます。ご承知おきを。
 それではまた。恐惶謹言
 
  広家様へ      花房助兵衛尉入道 道恵より」(吉川家文書)
秀吉に悪態をつき、秀家に果敢に諫言し、後には家康にも噛み付いた助兵衛さんだって
虚しかったり人恋しかったり友への懐かしさに胸震わせることもあるんだね。

68 :
>>67の余談ですが。
助兵衛さんは黒田長政とも仲が良かったようで、
同文書を見る限りでも、長政から広家宛の自筆書状に
「花助兵と談合します。私のところでは人が多いから、夜に助兵のところに来てください」
てな感じで登場している。時期が不明なのが惜しい。
このメンツでいったい何の密談をしてたのか激しく気になる。
豊臣政権下で築かれた武将同士の横のつながりって面白そうだ。

69 :
>67
また「広家様」か
名前を書くのさして珍しくないのか
それとも広家だけの現象なのか、どっちだ

70 :
>>69
珍しくないよ
口に出して呼ぶのは憚られるが
書状ならOKって感覚なのかな

71 :
諱って文書や書類用の呼び名なん?

72 :
書状に諱を使うのは、現代でいう欧米でファーストネームを呼ぶような、親しみを込めた表現。
当然ある程度以上親しい人でないと、使うのははばかられるし、逆にある程度以上親しいのに
諱を使わないのは、ちょっと空々しいと取られる。
書状も出す人それぞれで、色々と空気を読んだ表現を使わないといけないのだ。

73 :
広家って吉川広家の事か
>>68は助兵衛がまだ上方にいる時期って事だろうから1595年以前かな?
文禄と慶長の間くらい?

74 :
鎌倉に浄土宗『大長寺』というお寺があるが、この寺の名前は元々『大頂寺』と言う
というのも、この寺を建立したのは北条綱成であり
寺の名前は、綱成の妻の戒名『大頂院殿』から来ている つまり、綱成の妻の墓なのだ
それなのに何で名前が変わったかと言うと、原因は家康である
家康がこの寺を訪れとても気に入り
「山号が『亀鏡山』なら『大長寺』が似合う」と言って、寄進状に『大長寺』と書いたことから
寺名が改まったと伝わっている
ここまでなら、またいつもの家康のネーミングセンスの悪い話になるが
家康はこの寺がそうとう気に入ったらしく、かなり多くの寄付があったり
境内には家康お手植えの銀杏があったとかいう話もある
また、家康が鷹狩りの際に、門前で杖を振り回して、杖にさされた土地を
大長寺に与えたと言われ、以後その農地は「家康お杖先の田」と呼ばれ
戦後の農地改革まで、その土地は大長寺の土地であったという

75 :
>>66
阿蘇氏が先に菊池乗っ取ってなかった?(大友はそれをさらにのっとった

76 :
能運が正嫡なしに二十歳ちょっとで戦傷のせいで1505年に死去したから菊池の嫡流は断絶したからなあ。
大友、相良、阿蘇の三氏が小川町の守山で会談した結果らしい(菊池政隆がいたが追っ払われた)>阿蘇惟長(菊池武経)の菊池相続
で、惟長相続に賛成した菊池家臣の面子が大友義長の次男を推戴するって起誓文を作成してたらしいね。
菊池の家督に旨みが無いのを悟り、ブチ切れて阿蘇に帰った惟長の後に大友がショートリリーフとして菊池武包を起用した後の大友義長次男にして最後の菊池家当主が菊池義武。
まあ肥後守護に欲出してみたはいいものの、実際は大友の支配下にあったのに気付いて帰ったのが阿蘇惟長だから、野心無かったってのはどうかなー?

77 :
政宗景勝輝元あたりは他家の書状に諱でほいほい登場するけど
親しみやすかった…のか?

78 :
政宗が諱で呼ばれてると、きっと傾いてたんだなと思う
景勝が諱で呼ばれてると、そうか気を引きたいのかと思う
輝元が諱で呼ばれてると、ああ舐められてたんだなと思う
長政が諱で呼ばれてると、だからどこの長政だよと思う
家康の諱が彫られてると、秀頼逃げて、超逃げて

79 :
清韓はアンコウが食べたかっただけという新説がある
国家鮟鱇と書こうとして、めんどくさくて魚へんをはずしてしまった
ソースは2ちゃんねる

80 :
どっちにしろ、「家」と避諱してないからアウトじゃね

81 :
戦国時代にアンコウなんか食うのか?w
あんな変なさばき方する魚はもっと平和な時代でないと
調理法が発展しないような

82 :
>>81
吊るし切りをしてたかは知らんが食ってたよ

83 :
敵将を挑発するのにつかってそうだな

84 :
料理の包丁捌きは武士の嗜みの1つで、室町後期に流派が確立するんだっけ

85 :
やっぱり、方広寺のあの事件は、鮟鱇を食べようとした清韓和尚を
南禅寺から追い出そうとした、崇伝の陰謀だった、と考えるのが妥当かな
豊臣家を挑発したのはオマケ

86 :
寛永9年(1632)12月、加藤家に代わって肥後54万石を授かった細川忠利が、熊本城に入った。
20日には父の細川三斎も熊本にやって来て、大広間で祝いの酒宴が盛大に行なわれ、三斎が祝辞を述べた。
「……以上!しかし、めでたい。そうじゃ、誰か謡(うたい)をやらぬか?」
「では、中村靱負を。」呼びかけに応じた忠利が、金春流の免許を持つ中村靱負を指名した。
「いや、靱負は要らぬ。伯耆よ、仕れ。『四海波』じゃ。」三斎はこれを断ると、志水伯耆守清久を呼んだ。
清久は幽斎の代から細川家に仕えるも三斎と仲違いして出奔、加藤清正に仕えたが、関が原の戦いの際に
大友義統が挙兵すると、清正に願い出て旧友たちを救うべく石垣原合戦に参加、その事を知った三斎が
清正に頼んで細川家に帰参させたという、今日の場にふさわしい男だった。
「………………」
だが、永禄末年に19歳にして三好勢と槍を合わせたという清久の謡は、老齢からか、それとも祝いの席での
思わぬ名誉による感動からか、その声はかすれがちであり、満座の空気は沈んだ。
再び三斎が呼びかけた。
「お主ら、何をしておる。伯耆が謡っているのだ、みな唱和せぬか。」
「!……不調法を致しました、父上。やるぞ、皆の者!」
「「「四海波静かにて 国も治まる時つ風 枝をならさぬ御世なれや……」」」
『高砂』の一節を細川家一同で謡いあげ、家中の結束を見た三斎は、機嫌良く隠居所の八代に帰って行った。
(旦夕覚書より)

87 :
いつ三斎が嫌味を言い出すのかと思ったら、本当にいい話だった。

88 :
いつ生首が転がるのかと思って読んでいたら、ここはいい話スレだった。

89 :
三歳様の逸話なのに良い話だった。

90 :
こんなのボク達のアイドルである三斎様じゃない!!

91 :
後日談がちょっと悪い話にあったりしないのかな?

92 :
返ると植木が派手に壊されている。1首できました

93 :
ほう

94 :
いい話なのに反応がひどいw

95 :
>>94
三斎様の日頃の人徳だなw

96 :
前、酒田に行った時に聞いた話を
最上義光から、とある商人へのプレゼント
1608年当時、庄内地方は最上義光の領土であった。
義光は庄内の港町である酒田を訪れ、酒田商人の一人、池田惣左衛門にあるものをプレゼントした。
「惣左衛門、お主には「鐙屋」の屋号を授ける」
「ははー!」
鐙とは馬に乗るための道具であり、当時の馬というのは武具である。
つまり武具にまつわるものを与えられるのは大変名誉なことであったと言える。
その武具名が付いた屋号を商人に与えるのだから、この惣左衛門は、よほど義光に信頼されていたのだろう。
この後、池田惣左衛門は鐙屋惣左衛門と名乗るようになる。
鐙屋は近世には廻船問屋として、町の自治衆である三十六人衆に名を連ねるほどになり、
さらに、井原西鶴の『日本永代蔵』に紹介されるほどの繁栄ぶりを築く商人へと成長することとなる。
豪商「鐙屋」の誕生に関わった義光の良い?話

97 :
鮭ネタいらね

98 :
>>96
元々何屋だったんだろう
何がきっかけで屋号を授けたんだ?

99 :
ところでさ、山形は左遷先ってイメージがあるけど幕府の人間にどんなのがきても大丈夫じゃね?と思えるぐらい元が安定してたのかな?

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