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2012年2月戦国時代54: 武田厨と織田厨が争うスレ (503)
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武田厨と織田厨が争うスレ
- 1 :11/06/27 〜 最終レス :12/02/09
- ここでやれ
- 2 :
- や
る
や
つ
は
、
只
の
阿
呆
で
す
か
ら
w
- 3 :
- どっちも嫌いだし
- 4 :
- だがスレと同じくらい低俗
- 5 :
- クソスレ立てるなアスペルガーだが
- 6 :
- お前が言うな
- 7 :
- 武田厨織田厨×
意見のあわない貴地害達○
- 8 :
- 武田信玄って甲信と東海と関東だけで人生を終えた人なに過大評価されすぎてる
- 9 :
- 結局盆地から外に出られなかった人
- 10 :
- 実際のところ武家が天下を支配する覇業の地は関東だったけどな。
- 11 :
- ここでやれ
- 12 :
- >>10
それに気付かない信長ってバカだよな
- 13 :
- >>8
そう考えると今川氏真って凄いよね。
東海、関東、関西に出没した戦国大名なわけだし。
- 14 :
- >>13
関東や関西にいた時はもう大名の地位ない時期だろ…
- 15 :
- >>14
でも8によるとそこが重要だよ。
上杉謙信や織田信長は上洛してるのに、武田信玄は一度も上洛してないよね。
武田信玄<上杉謙信、織田信長<<<<<今川氏真w
- 16 :
- つまり全国を旅した旅人が最強なのか
- 17 :
- 秀吉は北は会津
南は薩摩まで巡回してるな
秀吉の家臣に至っては北奥羽〜土佐〜朝鮮まで。
- 18 :
- 高山右近こそワールドクラスの逸材。
信長なんて地方勢力の親分にすぎない。
- 19 :
- よく桶狭間がなかったら武田なんて山猿の中小勢力で終わってたって理屈聞くんだけど
なんか納得出来ないんだよね
武田厨なら論破できる?
- 20 :
- 盛り上がらないからネタ振りかぁー。
- 21 :
- 武田は織田と比べて勢力拡張が遅すぎ
52歳で100万石って
- 22 :
- 凄いマニアでもないし、詳しくもないですが信玄が好きな一般人が質問します。
信玄は四方六方敵だらけの国で、謙信は後ろに日本海があって四方六方敵だらけの国ではありませんが、スタートラインは同じ場所で良いのですか?
信玄の隣国は今川や北条など強大な国がありますが、謙信の隣国で強大な国ってどこがありますか?それは、今川や北条程の強大な国ですか?
信玄の家臣と謙信の家臣で全国的に知られてる人数はどちらが多いですか?
- 23 :
- 伊達
- 24 :
- >>22
スタートラインは同じでは無いと思うよ。
謙信は兄、叔父、部下、主君みな敵という状況に近いし。
謙信の隣国は、蘆名、山内上杉でかなり強敵かと。
あと祖父は越中で戦死している。
信玄の家臣と謙信の家臣で全国的に知られてる人数はどちらが多いかというと、
信玄じゃないかな。
徳川家臣は元武田家が多いから。
保科や板垣なんて幕末の有名人でもあるしね。
- 25 :
- >>22
信玄家督相続時は今川や諏訪等、隣国ほぼ全てと同盟関係だよ。敵は北条のみだよ。
家督相続後、方針転換して同盟国の諏訪を攻め滅ぼし、北条とは和睦して信濃侵略開始。
- 26 :
- 徳川すら倒せない雑魚田信玄が浅井朝倉本願寺斎藤を滅ぼした信長と
同列になるか
- 27 :
- 釣りがヒド過ぎるからスレ終了でいいかも。
そもそもこのスレタイでは何を議論する場なのかわからん
- 28 :
- 信玄は甲斐一国の国主からスタートしてるじゃん
織田信長が今川義元に攻め込まれた状態の尾張統一から始めなきゃならなかったのと比べれば恵まれすぎ
- 29 :
- 濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない。
- 30 :
- 斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。
父から信長が与えられた名古屋城の税だけでそんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除の謀略に引っかかっての無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
- 31 :
- それは反動する力が多分に残されていたからであり、その原因はまず永正の乱〜天文の乱に求められる
竹俣、色部、本庄宗家らが、上杉房能を討った長尾為景に対し、叛旗を翻した
為景は中条らと力を合わせ、彼らの拠る竹俣城、平林城、本庄城を瞬く間に落としていったが
討ち果たすまでには到らなかった
この際、一度降伏した筈の竹俣&本庄宗家は関東管領・上杉顕定の大軍を越後へ呼び、再び反抗する
当初は上田長尾まで関東管領に味方したので、為景も越後から逃げ出すしかなかった
関東管領の旗色が悪くなると、上田長尾は為景方へと乗り換えたので、上杉顕定を討ち果たす事には成功した
が、依然として揚北衆&上田長尾らは健在で、後に上条の乱において為景を打倒してしまう
その上条の乱でも、上条定憲が繰り返し兵を挙げ、その度に為景は勝利するも、上条をさず(せず?)、
結局上条はすぐに復活してしまう
そして定憲は三度目ともなる「打倒為景」の檄を越後全土に飛ばした
為景は堪らず、北条毛利&安田毛利に辞を低くして破格の条件を提示し、なんとか味方に引き込む
しかし揚北衆連合や上田長尾はじめ、大多数の越後豪族は上条方へつき、
次第に追い詰められた為景は敗北>隠居>死去
府中長尾家に恨み骨髄の豪族達は勢力を盛り返し、その為景の葬儀は武装で行われた
上条はじめ上杉一門と上杉の元被官達、それに味方した有力な越後豪族達
彼等は府中長尾家に対しては、勝利者という意識を残したまま、屹立した存在を維持し続けた
叩き潰されてもおらず、勢力も温存されたので、府中長尾に従う意識も当然、希薄
晴景時代には春日山への出仕を拒み、景虎時代には第三次川中島の時点でさえ派兵に応えない
そんな連中を政権内に取り込む課題は、かなりの難題だった
>ヒント・苦労のベクトル。
こんな状態なので、政権を確立させ、浸透するまでも長き道のり
しかも景虎が家督を継ぐにあたって、上杉定実は長尾に大きな借りを作っており
上条の乱で長尾を破った上杉からの影響がさらに増し、二重支配の状態からスタートしなければならなかった
つまり長尾と敵対し、勝利した豪族達だけでなく、上杉一門からも干渉を受けた景虎政治の実態は、
晴信以上に外部から強い干渉を受けている
第三次川中島の時点では、色部&本庄宗家に軍役を負わせられる立場でも無い
- 32 :
- 自分の考えを簡潔にまとめる文章力が求められる
- 33 :
- 実は信長好きだろ?w
- 34 :
- 将軍義晴から白傘袋や毛氈鞍覆を必死に貰い守護代の地位で立場を必死につなぎとめていたが
享禄・天文の乱で義晴が京から追放されるや上条定憲が上田長尾と揚北衆や葦名に敗北し父が隠匿に追い込まれ翌年死去。
幼年の謙信は謀反を恐れて甲冑姿で警戒中の葬儀をでた後は出家させられる。
操り人形として兄が守護に擁立される始末。兄より20歳以上離れた謙信への守護代変更も守護がより操り易いと考えての事。
さらに三国同盟で背後を固めた北条や武田の猛攻。
謙信は家督を継ぐまでにも、何度も追い詰められ、その命を危険に晒してきた。
叛乱が相次ぎ兄の命により周囲が敵だらけの栃尾の小城を本拠にして、
景虎を若輩と侮って襲いくる近隣の豪族達これを撃退する存在でしかなかった。
家督を継いだ後も、為景の残した借財を背負わされ上条の乱で敗北した府中長尾という家柄にも苦しまされた、という話がまず有る。
(為景は年間300貫の赤字を出していたつまり府中長尾家が没落する一要因を生み出している)
支配者から引き摺り下ろされた父親が亡くなった際、その葬儀を行うにも、
どの勢力が、いつ襲撃してくるかも分からない状況。七つの子供さえ甲冑を身に付けて参列するほど異常な有様だった
つまり族滅の可能性が有ったくらい、出身の家柄は没落しきっていた本拠地でクーデターが起こり、城内は阿鼻叫喚の地獄絵図
そのクーデターを起こした黒田秀忠は父親の元寵臣 。
一説によると謙信の兄二人が城内で惨され、若い謙信も命を狙われ、される所だった。
これだけの事件を起こした黒田の処分は、春日山への出仕停止、府内追放〜といった軽過ぎる処分で、
府中長尾は追討出来る実力を持ち合わせていなかった。若き日の信玄、氏康、義元、義景そして政宗の本拠地はこんな有様だったろうか。
謙信が春日山城主になった頃は、上条の乱で勝利した上杉派の力が強く幽閉の身から開放された
上杉定実、為景に叛いた上田長尾親子、大熊政秀&朝秀親子など彼ら大部分の戦国領主達は、独自に文書を発給出来ている。
謙信初期の政務は、長尾景虎が発給する認可だけではなく、別に上杉家の認可をも必要とされており、その貧弱な政治体制を受け継ぐしかなかった。
こういった二重支配を強いられた立場が、そのまま長尾景虎が最初に背負わされたスタートライン
それは信長、氏康、義元、義景とは比較にならないほど後方に位置している。
上杉定実の死〜栃尾本庄&直江&大熊ら三重臣からなる体制など、ここで謙信が隠棲した原因は上杉派vs長尾派が対立した
新体制の歪みでありきっかけは上野下平の領地争いで、謙信が裁定を下し一応は決着
しかし上野と関係が深い栃尾本庄が暗躍し、府中から派遣された僧を説得するなどして謙信の下した裁定を反故にしてしまった(これに大熊が激怒)
裁定権を否定された領主は存在価値が薄い。よって謙信は、以後は皆で相談して決めるように〜と当然の対応をして隠棲。
家臣の説得で戻った後は、重臣、奉行衆を次々に組み換え、新しい人材を組み込んでさらに新しい体制を構築している
守護代の府内長尾や栖吉長尾、三条長尾、上田長尾は実力がほとんど一緒。
そんな中、争う事無く越後をまとめあげるために二度目の上洛。相伴衆に任命され、裏書御免・塗輿御免の御内書を与えられる。
これは長尾権力では越後を治められなかった父同様に幕府権力にすがり上位権力者になろうとすることであり国人達を取り込む苦肉の策。
府内長尾の権力は脆弱で将軍義輝によりそれによって守護上杉氏の領地であった越後府中も支配下にする
こうやってあまり疲弊させることなく越後を統一していくって様はなかなか見事。
- 35 :
-
謙信が上田長尾を屈服させ、揚北本庄が混乱している頃 北条氏康は上野北部の沼田城に北条孫次郎を配置
関宿も手に入れ、里見も佐竹も降伏寸前 北条による関東制覇は目前だった
晴信は村上を追い出して北信濃攻略に着手 残された北信の小豪族らを放っておけば
易々と武田に吸収されて飯山にまで攻め込んでくる勢い この強大化した北条と武田が協力し合って北上中
青苧交易というのは国内の魚沼&揚北〜小千谷〜柏崎など越後における支配が広範囲に安定していないと流通できない
魚沼&揚北の山間部で青苧を収穫、これら越後の南北から中越の小千谷で荷を集積し、柏崎港まで運び、北前船で上方へ送るという流れ
魚沼を支配しているのは上田長尾氏、揚北は揚北衆、小千谷(稗生城)は上田長尾寄りの平子氏
柏崎港の周辺は上条の乱で上杉方についた宇佐美&柿崎、家中が混乱していた越後毛利氏、
そして何と言っても最大の敵、上条氏が隣接しているという不安定地域。1473年から38年間にも渡って青苧出荷が途絶えた
大乱を経て、ようやく為景が越後を掌握した短い期間(大永4年〜同8年)
青苧座を束ねる三条西家が再三催促しているにも関わらず、交易が下火になっている
為景は上田長尾との関係が改善していたこの時期、国を富ます政策を等閑にし、
越中東部守護代を兼任し、父の能景が騙し討ちを受けた一向宗や神保討伐で越中遠征に没頭。
この遠征に駆り出され、疲弊し切った越後豪族達の不満は高まり、上田長尾を含む殆どの豪族は上条方へと付き、
為景は四面楚歌に陥る。府中長尾に勝利した上田長尾親子は春日山に居座り、実権を握ったと見られている
幾ら青苧を育む土地があったとして、それを交易するには越後全体の安定が必要。それは国内の内情を鑑みると非常に厳しい条件だった
当時の越後は雪国の気候に適した作物の品種改良がなかった事などから二毛作も厳しく、
39万石程度というあの国土の広さにしては考えられないくらい貧困な石高でありながら、海運業の発展や青苧・越後布の奨励、
さらに伊勢商人の掌握などで度重なる戦でも決して財政難にはならなかった程の経済のスペシャリストである謙信
直江津&柏崎〜能登〜越前若狭経由の海運を活発にし、その安定に尽力してる
為景の頃は京の三条西家から青苧の催促をされるほど、交易が下火になっていた
しかし謙信は青苧はじめ数々の特産物を奨励し、大赤字だった財政を建て直した
摂津・天王寺の青苧座も中央商人に頼らず、越後から派遣した地方商人が活躍できるよう
二度の上洛で三条西家と相談、協力を取り付け、神余などの代官も置いた
当時、日本の着物は殆どが麻であり、この大部分を越後が引き受けたと言われている
一説には船頭前だけで年間六万貫もの巨利を得たといわれる謙信
為景時代に大破した大橋や焼失した城下町、街道、宿送制度などを次々に整備
これらの富は下越(揚北)にまで到り、領内全体を潤した
謙信によって数々の夫役、橋賃、諸税が撤廃&禁止され、領民は勿論、旅人や商人達を喜ばせた
謙信自身も関東、北陸、京〜摂津を飛び回り北信濃へは村上義清に任せた根知城〜塩の道を経て、互いに助け合った
- 36 :
- 強圧的な態度でムリヤリ国を纏めた甲斐守護家と国人衆との間は悪化の一途。 甲斐府中は呉越同舟で牽制し合う状況。
しかも、甲斐は山国であるため、越後の半分の石高(20万石)でしかなく、金山などはまだ後世に誇るほど歳出が見込めた訳でもなく
信玄の家督相続当時は甲斐は飢饉が数年前から猛威をふるうまっただ中で高緯度のため冷夏が発生し
飢饉が慢性化し、河川氾濫で田畑は災害にたびたび見舞われ信玄が家督を継いだ時には数年間連続の飢饉により、甲斐の国状は悲惨この上がありません。
信虎はこれらに有効な手立てをうつ所か今川などの外圧もあり戦闘につぐ戦闘。ただでさえ、基盤の脆い甲斐の国政は破綻しています。
信玄の場合、これらを解決する為には豊かな土地の“略奪”が急務であり、国人衆もそれを求めます。
しかし、経済は破綻している武田家ですから、それを為す侵略は困難を極めたはずです。
しなければ、父と同様に追放の憂き目にあいます。父の偏愛を受けた優秀な弟がいますからその危機は尚更です。
また、このような経路を辿ったため、重臣・国人衆の干渉は非常に強いのです。
しかも、村上に負け続けた時にはその危機が更に深まりました(権臣が死んだのは良かったが)貧しい甲斐は侵略だけでは食べていけません。
信玄はのちに信玄堤と呼ばれる堤防を築いたりして創意工夫の上、新田開発に努めます。
(信玄に始まる甲州流防河法・甲州流河除法は幕府の関東郡代として関東全域開発をした伊奈忠次に受け継がれる。北条の関東開発はデタラメです)
後世に代表するような土木技術が甲斐で発達したのは当然といえば当然。 普通にやっていてはお米を採れる環境ではないからです。
地方豪族達との軋轢、家督就任当時の国状において謙信に劣る訳ではありません。
- 37 :
- メガトン級大こぴぺ祭りwwwwwwwww
ってところか
- 38 :
- なるほど。信長がこんな恵まれているとは、知らなかった。
- 39 :
- まあ甲斐の信虎追放は完全に晴信を利用した豪族たちの下克上だよな。
傀儡だった信玄が国人合議体制を自分が主導権を握り運営できるようになった転機とも言うべき
村上に敗北して甘粕や板垣らが戦死して以来
武田軍は不敗になったしな。
- 40 :
- 終わったのか
読まれると思ってるんだろうなあ
- 41 :
- 俺は読んだし面白かったよ
>39万石程度というあの国土の広さにしては考えられないくらい貧困な石高でありながら
上杉って金山で潤ってたんじゃないの?
それって景勝の時代?
- 42 :
- 奇特な人もいたもんだ
太閤検地の頃は金山は未開拓じゃないか
- 43 :
- >>34
訂正
×上条定憲が上田長尾と揚北衆や葦名に敗北し
○上条定憲が上田長尾や揚北衆や葦名を味方に引き込んで挙兵。父の為景が敗北し隠匿に追い込まれ翌年死去。
謙信は商売のために京へ行ったり戦乱続きで荒廃した越後でインフラ投資をして
通行料無料の橋を作ったり、鉱山開発したりと破綻していた越後経済を立て直した経済政策通だよ。
しかも永禄前期は毎年のように越後や甲斐が天候不順で相次ぐ不作などで大変だったのに。
高根金山・猿田金山(岩船郡朝日村の鳴海山にあった(本庄城(村上城)から北東20キロ地点)、
ぶどう金山(岩船郡山北町東部?) などが採掘場であったようだ。
前の2つは本庄繁長の領地にあるが、永禄十一年(1568)、謙信に反抗したため没収、以後は上杉が直轄していたと思われる。
当時の越後はまだ田んぼで稲作が主産業ではなく塩田労働者の方が多かった。
平地の集落より才浜と呼ばれた砂丘地帯の集落の方が圧倒的に人口が多く
管領細川政元の越後下向に従った冷泉為広の越後下向日記にも才浜の説明に
「里、海人多 塩ヤク」と記され塩業地帯が主産業だった。
また海上交易と金山収入もあり、農繁期が出兵の足かせになることはまったくない。
謙信が支配した直江津、柏崎 竹俣の三条 色部の岩舟。謙信は船頭前だけで年間四万貫も稼いでる
さらに其々の荷には青苧役などの税をかけてるから莫大な収入
二度の上洛で藤原北家の支配だった青苧座を越後青苧座に独立させたのが一番大きい
しこたま儲けた謙信は斉藤に命じて五年間の租税免除・夫役御免を行ってる
越後豪族が持つ港も交易が盛んになり、色部の正月なんて鰊だアワビだ数の子だ山海の珍味が山盛り
彼らが操る北国船は牛馬で行う交易の数百倍の荷を扱えた
陸路では塩、蝋、木材、紙を売らせ、春日山府中には商家が建ち並んだ
為景時代に越後から逃げた商人を呼び戻し、彼ら商人への優遇措置、治安維持を謙信自身が制札を下し蔵田に施行させている
この蔵田という大商人を謙信は春日山城代に命じるなど重用している
>>北陸遠征で領土を拡大し家臣に分け与えたとか
畠山尚順から為景が任じられて以来の越中東部新河郡守護代を兼ねる謙信は
天正4年末に越中において領主のいない闕所地を直轄領とし、
放生津と伏木浜を港湾自由都市にし、放生津は特に楽市化し町人の諸役を三ヵ年免除
津料、渡役も免除し都市の振興保護政策を推進している。
これを越後の港湾都市府内と柏崎の直轄化を放生津で行い
越中を越後同様に豊かにする政策だと市村氏は論じてる。
また七尾城で幼主を擁して独裁してる長続連親子を除くことは
永禄9年2月17日に野洲郡矢島御所で覚慶は足利義秋と名乗って還俗した際に
三管領家の河内国畠山高政・関東管領の上杉輝虎・能登守護の畠山義綱と
約束した室町幕府復興のための約定の履行である。
能登に遊佐の補佐で上条政繁(上杉本の公式には能登畠山出身で謙信の養子)を配置。
七尾城落城させた謙信は畠山義隆の後室(京の三条の娘)と
その子の畠山義春(上杉本の公式)を養子に迎えて、
北陸の治安維持のために越後諸将を配置して帰っているだけ。
織田側の主張では畠山の幼君は籠城中に伝染病にかかり死んだと捏造してんだよね。
- 44 :
- ただ焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた)
信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。
1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。
良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。
ちなみに1567年信長が岐阜城を落したのと同時期に
宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と
毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと依頼しているほどの戦略的な軍事物資。
信秀が死ぬ2年前の1549年に信長が近江の国友村に高級品の火縄銃500丁を注文しており、
道三との正徳寺会見でその鉄砲を大量所持していて道三が驚いたとの記述があるが、
希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのだろうか・・・
もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富は突出していてとてつもないものだったろう。
- 45 :
- さすがに読む気しない
- 46 :
- 縦読みっす
- 47 :
- 要約すると
・謙信は商売のため上洛した。
・青苧役に税金をかけた。
・その他は優遇した。
・硝石は貴重。
・尾張経済は異常。
- 48 :
- 一生懸命こぴぺしたのにたったの五行でまとめられちゃって
- 49 :
- w
- 50 :
- 15世紀に硝石と火薬の製造法が日本に伝来してるし
ポルトガル人のモンスーン文書に硝石を日本へ売り払う文言は一文字も無いっていう
- 51 :
- なにその文書?
- 52 :
- >>47
なるほど
信長と武田の名前すらなくてワロタ
- 53 :
- 義龍が長寿だったら信長は尾張一国統一出来たかすら疑問の田舎雑魚大名w
- 54 :
- 義龍は義輝から信長よりも武勇を評価されていて治部大輔や相判衆になってるし
道三の強力な後見に頼って
いい加減なうつけ統治だった信長が
斎藤利治から道三の美濃国譲り状を貰うや
義龍は尾張の反信長勢力を煽って信長を圧倒し戦いを優位に進めてるからな。
- 55 :
- タラレバ付けるんだったら何とでも言えるだろ。
まあ田舎大名が確定してる風林ナントカの人よりマシだろw
- 56 :
- まず武田家は家臣が優秀だったため信玄は何もしていないのに強くなっちゃった
だけの無能大名(笑)
それに比べて信長は楽市楽座やらいろんなことを積極に領地に入れていったから
あれほどまで繁栄したんだよ!喧嘩両成敗だかなんか知らないけれどそんなこと
を決める暇がある大名は珍しウィ(笑)
- 57 :
- >>56
頭がかれてるね君。
- 58 :
- 俺も>>56と同様に織田>武田だと思うのだが。
- 59 :
- 同意しかねるので
まずは君の主張する楽市と楽座の概念について説明してくれよ。
続いて積極的に領地に入れていったとする主張の裏付けを求める。
なんら説明や根拠提示が無いまま主張されても同意はできない。
- 60 :
- 糞コテに何を求めてんだお前は
- 61 :
- 恥脳
- 62 :
- お前らもう一回小学校の歴史の教科書見てみろよ!楽市楽座載ってるぞ!
それに信長公記にも楽市楽座載ってるぞ。
- 63 :
- 実際、太閤記や甲陽軍鑑にも信長の楽市楽座載ってますww。
あっ武田さん家は農業中心で商業は専門外でしたねすみません〜ww
- 64 :
- 武田は意外と何もしていないww
それに野心丸見えで上洛しようとしたのに途中で病死とかww
いわゆる運にも見放された男www(爆)
- 65 :
- コテ外して自演してるつもりなのかこのアホは
- 66 :
- バレたwww
てか今きずいたwwwおせ〜〜〜〜ww
- 67 :
- >>62 >>63
甲陽軍艦のどこにのってるかおせーて
信長公記にもろくな記述なかったと思うが
- 68 :
- ID:01XWNSDw=アスペルガーだが
下記のスレで大暴れ中!
織田信長最大の功績は何か
ttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1281668105/
- 69 :
- >>67
甲陽軍艦どころか信長公記にも載ってないよw
- 70 :
- とにかくggrks!へ(^*^)ノwww
- 71 :
- まあ俺が言いたいのは信長かっこよすってことだよ!以上(笑)
- 72 :
- 普通に考えて人が死ぬのは病死が普通だろ?
信玄はその普通の死に方をしたのに、信長は家臣に裏切られて自滅
この時点で人生を全うしたのは信玄の方
農業なくして人は生きていけない
どこぞの馬鹿は農業を馬鹿にした書き込みをしてたけど、お前は何を食べてるんだ?
自分一人で生きていけるって勘違いしてカッコいいと思ってるキモい奴だろう
江戸時代の士農工商の意味を小学生の教科書をちゃんと読んでから発言しな
- 73 :
- 農業が当時の社会の基本であることは
信長の野望で勉強済みだろお前ら
- 74 :
- しかしもうこの時代になると農業だけでは生きていけなくなったことも事実だ!
昔からある農業に力をいれて発展して行くのもいいが貿易という新しい世界を目指
していく信長は信玄に勝っていると思われる。
どーだ!(*´∀`*)
- 75 :
- >>74
また妄想か・・・織田厨って夢見がちな腐女子そっくり。
- 76 :
- 武田厨は保守的な考えでちっとも外を見ないで頑固(笑)だよな〜ww
もっと柔軟な考えを持とう(@^▽^@)
- 77 :
- >>75
妄想ではない、ロマンと野望だ
- 78 :
- >>76
柔軟に考えると武田信玄の甲府幕府は1582年に成立する。
- 79 :
- ならば織田信長の安室幕府は1582年に成立するはずだった(笑)
- 80 :
- 信長の暗室幕府は評判悪すぎたよ。森長可以外は皆出奔したもんね。
- 81 :
- それでも歴史に名をのこしている信長ってww
- 82 :
- 後北条家臣の末裔(北条滅亡後は百姓)だけど
織田が偉い、武田が偉いとやり合ってる暇有ったら
現実の世界で偉くなるように努力してみては如何だろう?
秀吉は許さない
- 83 :
- 武田厨には悪いとわ思うがそろそろ織田が最強だということを認め
たらどうかね?それともまだ抵抗する気か?(^0^)/
- 84 :
- はいはい埼京線は最強
- 85 :
- 武田弘光vs織田non
- 86 :
- 織田厨あまりにも厨房すぎてまともな議論が成立しない
- 87 :
- こんなところでまともな議論をしようと思っている時点で負け犬
- 88 :
- >>87
無知の織田厨必死乙w
- 89 :
- >>河田は嫡男が世襲してるんだが。夭折したがな
お前さ、河田には養子がいるのも知らんのかwww
そもそも岩鶴丸以外にも2人の実子と2人の養子がいたとも言われてる。
江戸時代には河田一族で本家分家争いまで起きてる。 ちなみに岩鶴丸の跡を継いだのは従弟で養子の源七郎。
だが世襲してないから古志長尾氏の栖吉衆を引き継ぐことはなかった。
天正5年12月杉家家中名字尽において鯵坂長実は越中国扱いとなっており
能登国には上条政繁・直江景綱・長沢光国・平子房長らが派遣衆として能登国衆と名を連ねている。
そのために鯵坂長実は天正5年には能登国から元々の任地であった越中新庄城へ戻っており七尾城にはいなかったとされる。
(天正6年謙信死去してまもなく鯵坂長実が能登国衆から血判状を取っているのがわかる)
御館の乱では景虎派と思われる越後小千谷の国人だった平子和泉守が城代だった
能登甲山城を景勝側の鯵坂長実が攻撃しているのがわかる。
もちろん鯵坂長実の親類縁者も子孫も地位の世襲などを感じさせるものは何もない。
中条へ養子に入った吉江景泰は祖父・父・兄・祖父の兄弟の息子達と共に越中魚津城で玉砕したが
(祖父はこの時に孫で中条入りした景泰に景勝に貰った領地の一部を譲渡する約束をしてる)
子の中条三盛10歳が残されており、のち景勝の会津入りにも従っているわけだが
これは越中魚津城において一族の大半が景勝のために玉砕したのを哀れんで特例で存続が許されただけ。
そもそも上杉家の家法ではどんな重臣であっても15歳に満たない後継者は領地を没収し、
成人された後に継げるかどうか政治的判断される。
しかし特別な功績を挙げた場合のみ恩情が加えられる制度で働かない重臣や国人は衰退するようになっている。
例えば天正三年の「謙信軍役帳」において譜代・旗本の三条城主山吉豊守は序列はかなり低いものの景勝に次ぐ軍役を背負わされている。
35歳で死去した彼には子が無く13歳の弟しかいなかったものの叔父景久の後見を条件に
山吉豊守の多年の軍功と謙信への忠節から特別に先祖伝来の領地半分と三条城を没収されたものの家名存続のご恩を得られた。
ちなみに三条城には神余親綱が城主として治めることになった。
信長にはこんな制度もないだろうが。 それなのに信長が中央集権を目指したとかありえねーから。
謙信は信玄による本庄の乱が勃発するまで在地国人家臣らを信用し人質すら取らずにいたが
本庄の乱をきっかけに親しい者達からも人質を取り在地国人豪族を完全に統制下においたから
それ以降は家臣の謀反が無くなり版図の支配も安定している。
そして天正3年に府内長尾の定書の署判者に
従来の斉藤朝信(将軍により謙信が相判衆任命により参加)・竹俣慶綱(魚津城の戦いで討死する)に加えて新発田長敦が署名している。
これはついに謙信政権に阿賀北の戦国領主が参加したことを意味し、越後統一が完成されたことを意味する。
越後の内紛の真っ只中において北信濃から信玄が北上し、氏康が上野を奪い取って越後を窺う最悪な状況より
越後を指導してついに越後をまとめあげたのだ。そして彼らはのち景勝権力を支えていく領主達なのであった。
晩年まで謀反だらけの信長では勝ち目は無いだろうね。
- 90 :
- さすがに長いわw
- 91 :
- こういうレス見るたびまとめる力って大事だなって思うわ
- 92 :
- よし、理解した。
・信長にはこんな制度もないだろうが。 それなのに信長が中央集権を目指したとかありえねーから。
・晩年まで謀反だらけの信長では勝ち目は無いだろうね。(謙信に対して)
以上。
- 93 :
- 明智光秀なんて時期を読めなかった哀将なんだよ(笑)
謀反なんてただの家臣の思いつきで成功しただけだからすぐに秀吉に討たれたんだ(笑)
ホントだったら信長は天下統一を果たしていたはずだ!
- 94 :
- まぁ本能寺の件がなければ信長が天下統一していただろうがそれだけの話
- 95 :
- >>94
信長のやり方では
安国寺が指摘したように
どっちにしろ結局は
謀反でされ自滅していたから無理
- 96 :
- >>91
それコピペだし、その前の文章がコピペされてないから
冒頭からイミフになってる。
- 97 :
- 信長厨の俺が言うのもなんなんだが最終的に信長迷走しまくったもんな〜(笑)
でも信長が最強だというところは譲らん(笑)
- 98 :
- 自分を神と主張し始めて新興宗教の生きる御本尊を名乗るあたり確かに最強のキチガイだよな信長って…
- 99 :
- そういやあ戦国大名って調子乗ると自分が神だっ!っていうよね(笑)
例 織田信長(第六天魔王?)上杉謙信(毘沙門天)武田信玄(武田神社(笑))
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