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2012年3月海外芸能人151: ■チャック・ノリスはスレを立てない。 (121) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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■チャック・ノリスはスレを立てない。


1 :
スレが彼に興味を持って自ら立ってしまう為だ。
■オフィシャル・ウェブサイト
http://www.chucknorris.com/
■オフィシャル・フェイスブック
http://www.facebook.com/officialchucknorrispage
■オフィシャル・ツイッター
http://mobile.twitter.com/chucknorris
■オフィシャル・ブログ
http://chucknorrisnews.blogspot.com/
■KICKSTART KIDS(キックスタート)公式ウェブサイト
http://www.kick-start.org/
■UFAF United Fighting Arts Federation(ユナイテッド・ファイティング・アーツ)公式ウェブサイト
http://www.ufaf.org/
■World Combat League(ワールド・コンバット・リーグ)公式ウェブサイト
http://wcl.com/
■Chuck Norris Facts(チャック・ノリス・ファクト)公式ウェブサイト
http://www.chucknorrisfacts.com/
■allcinema Movie & DVD Database(オールシネマ 映画&DVDデータベース)
http://www.allcinema.net/prog/show_p.php?num_p=17177
■The Internet Movie Database(ザ・インターネット・ムービー・データベース)
http://www.imdb.com/name/nm0001569/
■LEGEND OF CHUCK NORRIS(レジェンド・オブ・チャック・ノリス)ファンサイト
http://www.geocities.jp/legendofchucknorris/
■Action Star Network(アクション・スター・ネットワーク)ファンサイト
http://asn.client.jp/

2 :
        / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
        | チャック・ノリスは2ゲットを取らない、彼のレスが2ゲットになるからだ。
    \  \
          ̄ ̄ ̄|/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
      \ ∧ ∧
        (゚Д゚∩
       ⊂/  ,ノ
 ̄  ̄   「 _  |〜 ウ  ̄  ̄  ̄
       ∪ ヽ l   オ
       /  ∪  \
  /       :    オ
     /    || .   オ  \
     /     | :   オ  \
    /       .
           | .   オ
           | | : .
           |:  .
           || .
            .
            |
           | | : .

3 :
チャック・ノリスはレスを読まない。彼は、ただ彼の欲する情報が得られるまでスレッドを睨み続けるのだ。

4 :
ひろゆきがヒゲを生やしたのはチャック・ノリスに憧れているから。

5 :
A「ここだけの話、チャック・ノリスとビョルン・アンドレセンの区別がつかない」 B「ホントだ、似てる(笑)」 C「似すぎててドン引きするわ」
ttp://shindanmaker.com/172998

6 :
チャック・ノリスP アイドル紹介
http://www.nicovideo.jp/watch/sm16363643
これは世界に通用する動画だ

7 :
■Chuck Norris 初の看板男はやはり男の中の男だ
今月のメディアモンのバナーは看板娘ならぬ初の看板男だ。そして選ばれたのはアクション映画の雄、チャック・ノリス。
チャック・ノリスというと、何だか嘲笑の標的みたいな印象が俺の中にはずっとあった。どんくさいルックス、ワンパターンの演技、主演作は全てジャンルもの。しかもB級作品ばっかり。
去年の夏のことだが、会社の昼休みに食堂でNHKニュースを見ていたら、ブッシュ前大統領が80歳の誕生日記念にスカイダイビングする話題が取り上げられた。
補助役として一緒にパラシュート降下したのが誰あろうチャック・ノリスその人で、彼の場違いなヒゲヅラが画面に大写しになり、おかしくて思わず飯粒が鼻の穴から飛び出そうになったものだ。
また、先頃公開された『ドッジボール』の中では、審判役で実に笑いのツボにはまるカメオ出演をしていた。
ところが先週、面白半分にチャック・ノリスの自伝”Against All Odds”を読んでみたところ、彼に対するイメージが一転した。
そう、“あらゆる逆境に立ち向かい”困難を乗り越えるチャック・ノリスの生き様に、俺は久しぶりに猛烈な感動を覚えてしまったのだ。
アメリカではベストセラーになったこの自伝本。和訳本は果たして発売されるのであろうか。可能性はかなり低い。ならば俺がこのブログで少しでも紹介しておく。メディアモン連続企画『男の中の男』をチェキラー!
h ttp://blog.l ivedoor.jp/mediamon/archives/26885705.html
※hとlのあとに半角スペースが空けてある。ライブドアのブログはリンクの張りつけが出来ないため。

8 :
■CHUCK NORRIS 男の中の男の物語 1
チャック・ノリスの本名はカルロス・ノリス。空軍在籍時についたあだ名”チャック”を、そのまま芸名にしてしまった。
そんなわけで、本来は空軍入隊するまでをカルロスと呼ぶべきだが、カルロス・サンタナと間違える奴が必ずいるので、生まれた時から彼のことをチャックと呼ぶことにする。
ノリス姓はアイルランド系の名前である。父側の祖父がアイルランド移民で、チェロキー・インディアンの女性をめとり13人の子供を産ませた。そのうちの一人がチャックの父、レイ・ノリスだった。レイは18歳の時に、16歳のウィルマと結婚した。
チャックが生まれたのは1940年3月10日、場所はオクラホマ州ライアンだった。その時、母ウィルマは18歳。入院一週間後にようやく産まれたチャックは、呼吸困難に苦しみ、肌はどす黒い紫色をしていた。
父親のレイは、そんなチャックを一目見て気を失い、その場に倒れこんでしまった。
医者も看護婦も気弱なパパのことなんか構っちゃいられない。とにかく赤ちゃんを救うんだ!酸素吸入等の様々な処置を施し、何とかチャックは息を吹き返した。
しかし赤ちゃんチャックは、まともにミルクも飲めないような虚弱体質で、誰もが生き延びることはできないと思った。だが母ウィルマの献身的な努力により、チャックの体調は好転し、すくすくと育ち始める。

9 :
チャックが2歳の時、父の転職のために、ノリス家はオクラホマからカリフォルニアへと引越した。
実にチャックが12歳になるまで、そんな移動生活が続いたのだった。
‘Had there not been mom’s spiritual and practical stability, we would have established no roots at all.
Her love was glue that kept us together. And provided us with a sense of security, no matter where we moved, how often we packed and moved again.’
「母の精神的かつ現実的な支えがなかったら、家族は根無し草になってしまっていただろう。
どこに移動しようとも、そしてまた荷物をまとめて何度移動しようとも、母の愛は家族をつなぎとめ、安心感を与えてくれた。」
さて、ノリス家がカリフォルニアに移って間もなく、チャックの弟が誕生した。母ウィルマはジミーと名づけたかったが、父レイは好物のビールの名前にあやかり、ウィーランドと名づける。
母の抗議もむなしく、ビールの名前は弟の出生届けに記載されてしまうのだった。

10 :
その後、第二次世界大戦が勃発し、父は徴兵されてナチスと戦うためにドイツへと派遣されてしまう。
残された母、チャック、ウィーランドの3人は、祖母の住むオクラホマへと戻る。
それは貧乏極まりない毎日で、4人はほったて小屋のひとつ部屋で寝た。
ある日、父の“M.I.A.”を知らせる電報が家族に入った。つまり「戦地にて行方不明」を示す軍隊用語”MISSING IN ACTION”である。
そう、後のチャック・ノリスの代表作のタイトルにもなる不吉な言葉なのだった。
家族は、父が無事に帰郷することをひたすら神に祈るしかなかった。
それから3ヶ月後、父が戦地で瓦礫に埋まっているのを発見されたとの通報が届いた。脚を撃たれて動けなかったのだ。
治療と回復のために、父レイは更に2ヶ月間帰郷することができなかった。その2ヶ月間というもの、チャックは忠犬ハチ公のようにひたすらバス停で待ちつづけた。
もういい加減待ちくたびれた頃、ついに父が軍服姿で帰ってきた。
だが、家族の喜びはつかの間だった。
父の酒癖が手もつけられないほど悪化していたのだ。

11 :
*********
ノリス家を支え根無し草”establishing no roots”になるのを妨げたのが母の愛だったが、アメリカ人にとっての”Roots”「根」とは一体何を示すのだろう。それは生き方の基盤を成す信仰心の拠り所である。その意味で連中にのって宗教の存在は大きい。
日本人が特に宗教を持っていないことを知ると、どこに「根」があるのか欧米人は不思議でならないようだ。
一昔前までは集団主義の帰属意識がそれにあたったのだろうが、エセ個人主義のまかり通る現在では、日本人の「根」を感じるのは難しい。
「根」がしっかりと張った上に形成された個人主義なら、博愛精神に則った利他主義も発達するはずだ。
h ttp://blog.l ivedoor.jp/mediamon/archives/26978893.html

12 :
■Chuck Norris 男の中の男の物語 2
チャックの少年時代に大きな困難をもたらした人物、それは他ならぬ父レイ・ノリスだった。
もちろん父との良い思い出もある。休日に肩車をされてオクラホマからテキサスに流れるレッド川へ行って、1日中二人きりで釣とお喋りに興じたものだ。
しかし釣り上げた魚を持って帰宅しても、父はすぐに近所の飲み屋へと行き、夜遅く泥酔して帰ってくるのが常だった。
ある日、父が飲み代欲しさに、母ウィルマからなけなしの5ドルを取り上げようとした。
「だめよ。このお金は子供達の食費に必要なのよ」
「パンチを食らわされる前に、とっととその5ドルをよこしやがれ」
拳を振るい威嚇する父に対し、小柄な母は決してひるまなかった。
「やってごらんなさい。その代わりあんたが寝入った時にフライパンで殴りしてやるからね」
結局5ドルを取り上げられず、父は憤然と家を出て行くのだった。
父はしらふの時はおとなしかったが、しらふでいる時間もどんどん短くなっていった。
酒が入ると、父はちょっとしたことでも荒れ狂うようになった。二日酔いの時に蛇口から水が流れる音がするだけで、誰かれ構わず当り散らした。
母が父を落ち着かせる間、チャックと弟ウィーランドは寝室に逃げ込むのだった。
母は優しいばかりではなかった。例えば躾は母の役目で、チャックと弟がひどい悪さをした時の体罰は容赦なかった。
父は母の体罰を非難しつつも、最後は折れてしまい、ビールを飲みに出かけるのだった。
結局のところ、母と違って父は問題を直視できず、楽な道を歩くタイプだったのだ。
チャックが6歳の時、再びノリス家はカリフォルニアへ引っ越し、父は海軍の造船所で働き、チャックは地元の小学校へ上がった。
学校でのチャックは、極端に恥ずかしがり屋で内に閉じこもってばかりいた。
クラスで先生が何か質問しても、ただ首を横に振るのが精一杯だった。
チャックにとって、皆の前で恥ずかしい思いをするよりも、悪い点数を取ったほうがましだったのだ。

13 :
2年後、弟ウィーランドの持病の喘息が悪化し、気候の良いアリゾナ州に引っ越すことになった。
地元の学校の3年生に進学したが、そこでは殆どの生徒が原住民、つまりインディアンの子だった。
チャックは新入りで、しかもクラスでたった一人の金髪に青い目の生徒だった。
大柄なインディアンの子ボビーからチャックは目をつけられ、いじめが始まった。
チャックは毎日、学校から家までボビーに追いかけられることになった。
家の隣にあるガソリン・スタンドのオーナー、ジャックが見かねてチャックにこう言った。
"Son, it's time you fought this boy."
"He is too big."
"It doesn't matter. You can't run from fear forever. It's time to stand up for yourself."
「おい、そろそろあの子と闘ったらどうだ」
「大きすぎるよ」
「そんなの関係ない。怖いからって逃げてばかりはいられないんだ。立ち上がって自分のために闘うんだ」
そこでボビーに闘いを挑んだ。砂まみれになって地面でもみ合い、ボビーの指をつかむと思いきり反り返らせた。
「痛い!降参するからやめてくれよ」ボビーは泣き叫んだ。
それからボビーはチャックを追いまわすのを止め、ふたりは良い友達になった。
恐怖とは正面から立ち向かうことで克服できると、チャックはその時に初めて学んだのだ。

14 :
アリゾナの生活はウィーランドの喘息を治すどころか、かえって悪化させた。
そこで一家はオクラホマへ引越し、父はトラックドライバーの職を得、母は間借りしているレストランでウェイトレスとして働いた。
ある晩、父が酔っ払って帰ってきてこう家族に告げた。「荷物をまとめろ。今から引っ越すぞ」
そして母の制止もきかず、父は酔っ払い運転で、オクラホマ州内の次の移動地へと車を走らせるのだった。
父は素面になるとおとなしくなり、二度と飲酒はしないと誓うのだが、その誓いが守られることは一度もなかった。
母はチャックとウィーランドにこう言い聞かせた。いつか神様がきっと助けてくれるから、その時まで辛抱して。
しかし、少年チャックには信じがたい話だった。
*****
"It's time you fought this boy." 「そろそろ闘う時だ」この構文は必ず過去形が使われる。そう、チャックはとっくの昔にいじめっ子と戦っておくべきだったのだ。
恐怖に打ち勝てるかで人間の真価が問われる考え方は、スターウォーズやバットマンの新作のテーマと通じるところがあり興味深い。
h ttp://blog.l ivedoor.jp/mediamon/archives/27007274.html

15 :
■Chuck Norris 男の中の男の物語 3
チャック少年の日課は、学校帰りに道沿いに転がる空ボトルを拾い、酒屋へ売って小銭を稼ぐことだった。時には鉄屑も拾って専門業者に売ることもあった。そして稼いだお金は家計を助けるために全て母に渡した。
そんな少年時代のチャックの最大の楽しみといえば、土曜の午後に2本立映画を観ることだった。
特に好きだったのは、ジョン・ウェイン等が主役の西部劇だった。映画の中のカウボーイ達は、正しい行いとは何かをチャックに教えてくれた。チャックにとって、母と祖母と映画のカウボーイ達だけが人生の手本だった。
そして映画館を出るたびに、カウボーイのような大人になろうと心に決めるのだった。
どんなに危険な目に遭うと分かっていても、正義と友情のために人助けをするカウボーイ。
チャックが後に俳優になってからの、自分のキャラクター作りのヒントになったのは間違いない。
それとは対照的に、父レイは反面教師と言えた。チャックは絶対に父のようにはなりたくなかった。
一方、母ウィルマは、父の欠点を補って余りあるほど素晴らしい人物だった。
どんなに辛い生活でも、母は決して悲観的になることも落ち込むこともなかった。彼女には強い信仰心があった。
洗濯屋の仕事からヘトヘトになって帰宅しても、母は決して愚痴をこぼさず、人生のありがたさをチャックと弟ウィーランドに教えるのだった。
チャックにとって、人生で最も良い影響を与えてくれたのが母だった。

16 :
“She believed in determination and patience. The determination to succeed whatever you choose to do in your life, and the patience to stick with it until the goal is reached.”
「母は決心と忍耐の大切さを知っていた。決心さえあれば、人生でどんな道を選んでも成功することができるし、忍耐さえあれば、目標が達成されるまで粘り強く頑張ることができる。」
チャックが10歳の時、母は彼とウィーランドを連れて、父の出稼ぎ先のカリフォルニアへ移った。
あいも変わらず貧しい生活だったが、近所に住む日本人夫婦、ヨシとトニのハマ夫妻が親身になって色々と協力してくれた。
例えば、ノリス家が食事もままならないのを知ると、ハマ婦人が買い物帰りに家にわざわざ立ち寄り、「間違って食べ物を買い過ぎたの。
余分な食べ物をもらってくれる」と、あたかも自分達がお願いするかのように振る舞ってくれた。
また、母が同じ服を着たきりなのに気付くと、ハマ婦人は「この青い服と茶色の服とどちらにするか迷っているのよ。
あなただったらどちらが欲しい」と母に訊き、「青いのが素敵ね」と母が答えると、「じゃあ、青いのもらってね」と服を置いていくのだった。
母、チャック、ウィーランドの3人は、家の近くのバプティスト教会に通い続けた。
母は週給15ドルのうちの1割を必ず教会へ寄付した。食費もままならないノリス家の窮状を知った牧師が何度も訪問し、丁重に寄付を断った。
「ノリスさん。主はあなたのお気持ちを十分に理解されています。お金は一切要りませんよ。」
母は感謝しながらも、それからも必ず給料の1割を寄付することを怠らなかった。

17 :
チャックが11歳の時、母が三度目の妊娠をし、仕事がすることができなくなってしまった。
父は相変わらず飲んだくれてばかりおり、禁酒する気配はまったくなかった。
いつも真夜中に帰宅しては、家族にワインを買いに行かせるのだった。チャックの目から見た父は、ただ家を出入りするだけの放浪者、いやむしろアル中のジプシーだった。
ノリス家の屋根裏部屋は、何百本もの酒の空ボトルで散らかり放題だった。チャックにとって、ひとつひとつのボトルがノリス家の苦悩を象徴しているように思えた。
父が酔っ払って帰っても、チャック少年はただベッドの中で神に祈るしかできなかった。
ノリス家の収入源がなくなり、ついに福祉施設に行って生活保護を受けることになった。
それでも母は与えられた情況で精一杯がんばってくれた。チャックとウィーランドに服や玩具は買えなくても、ひもじい思いだけはさせなかった。
やがて三男アーロンが誕生し、それから10ヶ月後に母は仕事に復帰した。午後3時から深夜までのシフト労働だった。
ベイビーシッターを雇うゆとりがないので、チャックは学校が終ると真っ直ぐに帰宅し、アーロンの面倒を見た。
アーロンをロッキングチェアで揺らして寝かしつけするのだが、母が夜の12時半に帰宅するまで、そのまま一緒に寝てしまうことが度々あった。

18 :
ある晩、父が酔っ払い運転でお年寄りの女性をはねしてしまった。父は逮捕され6ヶ月間服役する判決を受けた。
週末に母に連れられ刑務所で服役中の父に面会すると、労働している父は健康そうに見えた。出所しても、これに懲りて父はもう二度と酒に手を出さないだろうとチャックは期待した。
だが半年後に出所した父が真っ直ぐに向かったのは、やはり飲み屋だった。
チャックが15歳の時、カリフォルニア州内の少し大きな家に移り住んだ。
父は以前より酒びたりになり、母に対する暴力も激しくなった。
ある晩、両親の寝室で母が殴られ泣き出す声が聞こえ、チャックは思わず寝室へ飛び込んだ。
「それ以上ママに暴力を振るったら、俺が相手してやる」
父は酔いすぎて意識が朦朧としており、喧嘩するには至らなかった。
翌日、チャックは母と問題について語り合った。これ以上父との生活を続けても一向に改善されない。おもいきって離婚しよう。
そして翌年、両親は離婚した。チャック16歳、ウィーランド12歳、アーロン4歳の時だった。

19 :
その後、母は職場でジョージという名の男性に、お互い好きになった。
ジョージは真の意味での紳士で、いつも母を優しく扱ってくれた。
ある晩、チャックは母にこう訊かれた。「チャック、話があるの。ジョージに結婚を申し込まれたんだけど、先ずあなたの気持ちを聞いておきたいの」
チャックは母をひしと抱きしめてこう答えた。「ママ、ジョージとなら再婚に大賛成だよ」
母とジョージはその後すぐに結婚した。義父との新生活は、しばらくは慣れないで居心地の悪い思いをしたが、結果的にはジョージはチャックにとって最高の父親となるのだった。
******
“I Believe in determination and patience ”「決心と忍耐の大切さを知る」
“Believe in”の後によく来る言葉として、”Love”と”God”がある。愛や神が本当に存在すると信じるかどうかを問う。
“I believe you”は、単に言ってることを信じるだけが、”I believe in you”は、その人の価値を認めることになる。
h ttp://blog.l ivedoor.jp/mediamon/archives/27151088.html#comments

20 :
■Chuck Norris 男の中の男の物語 4
思春期という多感な年頃を、ジョージのような信頼できる父親の元で過ごすことができ、チャックは本当に幸せを感じていた。
しかし、ある日チャックが高校から帰宅した時に、思いもしない事件が起きた。
離婚したはずの父レイが居間に腰掛けており、寝室から母の鳴き声が聞こえたのだ。
レイはチャックに言った。「俺がジョージをつまみ出してやる。お前に俺が止められるもんか」
しかしチャックとしては、決してジョージのような紳士を傷つけるわけにはいかなかった。
チャックはレイを玄関から前庭に追い出すと向かい合った。これまでは怖くて立ち向かえなかった父だが、今こそ決着をつける時だった。
父はため息をつくと「お前とは喧嘩しないよ」と言い、車に乗って立ち去った。
チャックはこの日ある教訓を得た。
“True courage is not the absence of fear, but the control of it.”
「真の勇気とは、恐怖を感じないことではない。恐怖に向かい合うことだ」

21 :
その事件の後、チャックはもう一度だけ実父と会う機会があった。彼が空軍を除隊した後、父の行きつけの飲み屋に行き、自分が結婚しており妻が妊娠していることを父に告げたのだ。
しかし父はただ「よかったな」と一言返したきりだった。その日を最後にチャックは父には会っていない。
さて、義父ジョージの勧めで、チャックは何かスポーツに取り組むことにした。そこでフットボールを始めてみた。特にうまくはならなかったが、競技の楽しみというものを覚えることができた。
同様に勉強も得意ではなかったが、何とかがんばってそれなりの成績を得た。
新しい家族の絆のおかげで、チャックは学業に専念することができたし、母もゆっくりできる環境になった。義父ジョージは母と同じ価値観を共有しており、チャックにとっても良き人生の手本となった。
チャックは17歳になると、仲のよい従兄弟と友人と一緒に海軍への入隊を希望したが、未成年のために保護者の同意書が必要だった。
母は頑なにこう言った。「就職するのは、きちんと高校を卒業してからよ。その代わり、卒業した後は何でも自分の好きなことをしていいわよ」
チャックは悔しかったが、海軍入隊を断念し高校生活を続けることにした。
高校卒業前に、海軍に入隊したらどんな人生が彼を待っていたのだろうか。母が入隊同意書にサインしなかった時はがっかりしたが、もちろん後で感謝することになる。

22 :
その後、家族の引越しと共に、チャックも転校することになった。チャックは新しいクラスでも相変わらず無口の恥ずかしがり屋で、間違った答えを言おうものなら、顔が真っ赤になるほどだった。
チャックは、同じ高校に通うダイアンという可愛らしい女の子のことが好きになってしまった。だが、チャックは恥ずかしくて話しかけることすらできず悶々としていた。
ある日、チャックがバイトしている雑貨屋へダイアンが買い物に来てしまった。チャックは慌てて知らない振りを装ったが、ダイアンの方から彼に近寄ってきて、商品の置き場所を訊いてきた。
それから二人は会話を始め、チャックはダイアンのことが本格的に好きになってしまった。
数週間後、チャックは勇気を振り絞ってダイアンをデートに誘った。それから二人は恋人同士になり、高校卒業までずっと付き合うことになった。
ダイアンと付き合っている間も、チャックは放課後のバイトをずっと続け、自分の車を買うために貯金をした。
そして、ようやく中古のダッジ車を買うことができたが、あまりにもかっこ悪い車なので学校からずっと離れた場所に駐車していた。
ジョージがそのことに気付き、自分のフォードをチャックに譲り、代わりにダッジで通勤してくれた。彼は本当に素晴らしい義父だった。

23 :
チャックの高校卒業後の目標は警察官になることだった。悪い連中と戦うイメージに惹かれたのだ。空軍に入隊して警務隊で勤務すれば、警察官に必要な技能が身につくと知った。
1958年の夏、18歳のチャックはアメリカ空軍に入隊し、テキサスの新隊員教育部隊へと送られた。
本名カルロス・ノリスである彼が、チャックと呼ばれ出したのは実はこの時からだった。
教育隊の上官から彼はこう言われたのだ。「カルロスなんて、スペイン語みたいな名前だな。英語では何にあたるんだ。」
「だいたいチャールズが近いです」「よし、それじゃあお前をチャックと呼ぼう」その後、俳優として大成する今日まで彼はずっとチャックのあだ名で通っている。
空軍兵士になるための教育訓練を受け、チャックは心身ともに鍛えられながら次第に自分に自身を持ち始めていった。
テキサスでの訓練中、チャックはダイアンに手紙で結婚を申し込んだ。彼女から送られてきた手紙の返事は“イエス”だった。

24 :
4ヶ月の教育訓練後、チャックはカリフォルニアへ戻り、ダイアンと教会で簡素な結婚式を挙げた。チャックは空軍の制服を着込み、ダイアンは豪華な花嫁衣裳を身にまとった。
チャックは18歳。ダイアンはやっと17歳になったばかりだった。
二人はチャックの任地であるアリゾナの空軍基地の近くへ引っ越した。住まいはトイレもないトレイラーだった。
空軍に入隊して1年後、チャックに韓国勤務が命じられた。結婚していようと軍隊での移動命令は絶対に逆らうことができない。
チャックはダイアンをアメリカに残し、何も知らないアジアの国へ渡ることになった。彼の心の中で将来への不安が広がった。
その時は知るよしもなかったが、韓国赴任はチャックの後の人生に大きな影響を与えることになる。
チャックが韓国へ赴任された時は、鮮戦争は終っていたが、南北に分裂された朝鮮半島の緊張たるや尋常ではなかった。
韓国はチャックにとって始め見る外国だったが、先ず余りの貧しさに彼は衝撃を受けた。チャックも確かに貧しい少年時代を過ごしたが、食べ物に困ることはなかった。
ところが当時の韓国には、食うや食わずの状態で何とか生存しているような人達が大勢いた。しかも状況が改善される見込みもなかった。
チャックはアメリカ国民である幸せを改めて感じた。そして、国から与えられる色んな恩恵を当たり前に思っていたのは間違いだったの気付くのだった。

25 :
韓国での軍隊生活の余暇の過ごし方として、酒を飲むか、勉強するか、格闘技を習うかの3種類の方法が一般的だった。も勉強も不得意なチャックは、格闘技を習うことにした。
唯一柔道を少し知っていたので、基地の柔道クラブに入会した。除隊して警察官になった時に役に立つのではと思ったのだ。
ところが稽古を始めて2週間後、ぶざまにも受身に失敗して鎖骨を折ってしまった。
仕方ないので、折れた方の腕を吊って近くの村をブラブラしていたところ、キェーと掛け声がし、そちらの方を見やった。
そこには白いパジャマのような服を着て、ぴょんぴょん飛び跳ねる韓国人の一団がいた。
どうやら何らかの格闘技のようだったが、その動きの余りの凄さにチャックは唖然として立ちすくんだ。
1時間以上もぼーっと眺めた後、基地に戻って柔道コーチの韓国人に訊いてみた。「あんなの見たことがありません。
いったい何と言う格闘技なんですか。」
めったに笑わないコーチはニヤリとして言った。「それは韓国式空手で、タンスー道というんだよ。手と足を武器に闘うんだ」
「鎖骨が治ったら、自分も習えますか」チャックは訊いた。
コーチは破顔一笑して言った。「いいよ。師範に紹介してあげよう」酒

26 :
○コーチは破顔一笑して言った。「いいよ。師範に紹介してあげよう」
×コーチは破顔一笑して言った。「いいよ。師範に紹介してあげよう」酒

27 :
翌日、柔道コーチはタンスー道の師範、ミスター・シンのもとへチャックを連れて行った。
ミスター・シンは、どうせアメリカ人なんかタンスー道の過酷な訓練についてこられないと思ったようだが、柔道コーチの顔を立てるためにチャックの入門を許可した。
道場で学ぶ子弟は20人ほどいて、殆どが黒帯を持っていた。韓国式の訓練では、黒帯も素人の白帯も一緒に同じ方法で学ぶ。
チャックは片手を吊りながら、訓練に参加し、一日5時間の訓練を月曜から土曜まで続けた。
訓練が始まる前のストレッチから既に拷問に近かった。訓練は午後5時に始まり、毎時5分間の休憩があるだけだった。
最初の20分はその場で突きを繰り出すウォーミングアップ。次の40分で受けの練習。次の1時間で各種蹴りの練習。そして残り3時間かけてパートナーと組み手を行なった。
チャックが吊り手をしているからといって、容赦する者は誰もいなかった。チャックはもともと運動神経が決して良いほうではなかったものの、どんどん回りの動きについていけるようになっていった。
肩が治った時から、タンスー道の訓練が休みの日曜日も柔道の訓練に参加した。
身体の節々が痛み、眠れない夜が続いた。とても過酷な訓練の毎日だったが、チャックはこう思った。
“If I can stick with this, I can stick with anything.”
「これに耐えられれば、何にでも耐えられる」

28 :
チャックには黒帯を取るなどの目標は特になく、いつか警察官になった時に格闘技が役に立つのではとの思いから毎日の厳しいを耐えた。
そんなチャックを見て、他の韓国人訓練生達も徐々に打ち解けるようになっていった。
まさか自分が8年後に空手の世界チャンピオンになるなんて、チャックは夢想だにしなかった。
******
“True courage is the control of fear.” 真の勇気とは、敢えて恐怖の根源と向かい合い、己の恐怖心を抑え込むことで生まれる。格闘家に必須の哲学である。
“Stick with it.” 続ける。転じて、頑張る。”Stick to it.”と同じ。
h ttp://blog.l ivedoor.jp/mediamon/archives/27247214.html

29 :
■Chuck Norris 男の中の男の物語 5
韓国の格闘技、タンスー道の訓練では、板やブロックを素手で砕くことができるように、拳を徹底的に鍛える。硬い物質を砕くぐらいの手なら、敵に相当のダメージを与えることができるという理屈である。
そこでチャックも拳を鍛えるために、どこへ行くにも平らな石を持って回り、歩きながらでもそれを叩き続けた。
チャックがタンスー道の訓練を始めて3ヶ月が経った頃、師範のミスター・シンが、村の人達の前でデモンストレーションを行なうと師弟達に告げた。
組手の展示はうまい具合に終了し、最後にミスター・シンが瓦を8枚重ねた。
彼は師弟達を見渡すと、チャックを指差していった。「お前が叩き壊せ」
チャックの心臓が早まった。彼はまだ拳で何も砕いたことがなかったのだ。しかし、その場で断れば村民の前でミスター・シンの面目が失われる。
彼は重ねた瓦の上で拳を構え、上級者のやり方を思いだしながら、思いきって拳を突き降ろした。
ボキッと手首から嫌な音がした。瓦を全て砕いた代償として、チャックの手首も折れてしまったのだ。
それでもミスター・シンは満足そうな表情だった。そう、これが実践で直に学んでいく韓国式の教育だったのだ。
手首の怪我が治ると、チャックの自信も回復してきた。彼は自分の人生で始めて何かひとつのものに打ち込んで、途中であきらめることなく最後までやり遂げた。

30 :
“I was training both my body and my mind and as a result of my discipline learning, I was developing a much better self-image.
As I became more proficient in martial arts, I carried myself differently, standing more erectly, walking and talking with air of assurance.”
「格闘技で心と身体を鍛錬し、規律を学んだ結果、より良い自己イメージを築くことができた。
そして、より格闘技に精通することにより、以前とは違う振る舞いができるようになった。背筋がきちんと伸び、歩く時も喋る時も自信を醸し出すことができたのだ。」
それからもチャックはタンスー道の訓練に邁進し、自信がどんどん漲っていく自分を感じた。その頃、中隊長から優秀空軍隊員にも選ばれた。

31 :
チャックがタンスー道の訓練を始めて1年が過ぎた頃、ミスター・シンから黒帯昇段試験を受験するように言われた。
寒さの厳しい冬の日に、チャックはソウルの受験会場へと赴いた。
道着に着替えると、他の受験者と一緒に板が剥き出しになった床の上にあぐらをかいて待機した。
最初は他の参加者の受験の様子を観察していたが、だんだん寒さに体も心も痺れ集中力がなくなっていった。
3時間も待った頃、ようやくチャックの名が呼ばれて立ちあがろうとしたが、長時間同じ姿勢でいたために脚がよろめいた。
試験官の場所まで歩いて行くと、一礼して黒帯取得のための受験科目である”型”を始めた。
対戦相手がいるのを想定し、次々に技を繰り出して見せるのだ。
チャックは何度も繰り返し型を練習したはずなのに、頭が突然真っ白になり次の技が思い出せなくなった。寒さと緊張のために集中力が欠けてしまったのだ。
彼は試験官に正直に告白した。「型を思い出せません」
チャックは自分の待機場所に戻ると、他の受験生の試験が終わるまで更に4時間座って待った。失格したとは分かっていても、中座すれば試験官に対し大変失礼に当るのだ。
自分を腹立たしく思いながら、チャックは寒さに震えて待ちつづけた。それは、彼のそれまでの人生で最も長い4時間だった。

32 :
ミスター・シンは、チャックの黒帯受験失格のことについては何も言わずに、更に厳しい訓練計画を立てた。
師範がチャックに黒帯試験を再受験してもよいと言うまで、更に3ヶ月を要した。
その3ヶ月間というもの、チャックは試験官のどんな要望にも応えられるよう型のイメージ・トレーニングを積んだ。
いよいよ黒帯昇段の再受験の日、チャックが名前を呼ばれた時、彼は準備万端だった。型を終え、板割りを実演し、黒帯相手に自由組手をやった。全てが心で思い描いた通りにうまくいった。
数週間後、ミスター・シンが笑顔でこう言った。「チャック、黒帯試験に合格したぞ」
彼はチャックに一礼すると、韓国語で”チャック・ノリス”と書かれた真新しい黒帯を渡してくれた。また、黒帯所有者であることを示す銀色のバッジもチャックにくれた。
このバッジの効果は絶大で、ある晩、村の物騒な若い衆がチャックを囲んだ時も、襟のバッジを見て一目散に逃げ出したくらいだ。まるでスーパーマンの衣装を着たクラーク・ケントのような気分だった。
黒帯取得により、チャックの人生観もまた変わった。大きな困難にチャレンジし、自分の力でそれを乗り越えることができたのだ。
空軍に入隊したおかげで、チャックは格闘技を学ぶ機会に恵まれた。その後、格闘技のおかげで彼は人生を学ぶ機会に恵まれるのだった。

33 :
********
“discipline”  自己を律すること。格闘技を学ぶ最大の理由である。
“disciple”と変化すると、規律を学ぶ「師弟」の意味になるから面白い。
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34 :
■Chuck Norris 男の中の男の物語 6
アメリカの軍隊に入隊した経験がない者は、軍に所属する家族がどれだけの犠牲を強いられているか理解することは難しいだろう。
そもそも軍隊生活とは、最も恵まれた条件下においてでさえ過酷なものだ。若い新婚夫婦であろうと、否応なしに大陸間を隔てた長距離を長い期間に渡って離れ離れにさせられる。
新妻ダイアンと離れたまま、長期の韓国勤務をようやく終えたチャックは、カリフォルニアの空軍基地に再配属されることになった。
新しい任務に就く前に1ヶ月の休暇をもらうと、ようやくダイアンに会えることになった。
ダイアンは一足早くロサンゼルスに小さな家を借り、チャックの帰郷を待っていた。
チャックは、韓国から東京経由の航空機に乗りサンフランシスコ空港へ到着した。
空港からダイアンに電話したかったが、彼のポケットの中には9セントしかなく、通り掛かりの人にコレクトコールに最低必要な10セント硬貨と交換してもらった。
ダイアンに電話するとロサンゼルスへの家路を急いだ。妻との再会の時だった。

35 :
しかし、ダイアンと良好な形で結婚生活を再開するのは、想像したよりも遥かに難儀な仕事だった。
二人とも若くして結婚し、すぐに長いこと離れ離れになってしまったため、お互いが変わってしまっていたのだ。
チャックは韓国勤務の間、定期的に手紙でダイアンと連絡を取っていたが、身体が離れていただけでなく、実は心も遠くなっていたのだ。
それでも何とか結婚生活を続けようと二人で決心し、お互いのことを改めて知る努力をした。
韓国でタンスー道の訓練を受けたおかげで、チャックはそれに必要な忍耐力を養っていた。
アメリカに戻ってからも、タンスー道の訓練は続けた。拳を鍛えるため、家の近く大木を通り過ぎるたびに拳で数発打ちつけた。
たまたま目撃した人は、チャックが木にパンチしているのを見て頭がおかしいと思ったことだろう。

36 :
1960年代初頭、日本の空手の人気がアメリカでも浸透してきたが、空軍基地にはまだ空手クラブがなかった。そこでチャックは柔道クラブに入り、軍の全米トーナメントにも出場した。
チャックはタンスー道の練習を一人で続けた。ある日、彼が蹴りを繰り出すのを見て、兵士が2人、教えて欲しいと言ってきた。
そこでチャックは、軍隊規則に則り正式に申請して空手道場を開いたが良いと判断した。
タンスー道と言っても誰も知らないので、空手教室の名目で教室を開くことにした。
説明会を講堂で開き、実演とスピーチをすることになった。実演の方は心配なかったが、スピーチはとても心配だった。
チャックは21歳になっていたが、大勢の前で喋ることを考えただけでも恐ろしかったのだ。
彼はスピーチの内容をメモすると懸命に暗記した。テープレコーダーに自分のスピーチを録音し、何時間も自分のスピーチを再生しながら、それに合わせて繰り返し喋った。

37 :
説明会の当日、200人以上の兵士とその家族が講堂に集まった。チャックは勇気を振り絞り、マイクに向かいスピーチを始めたが、緊張の余りその時に何をしゃべったのか全く記憶していない。
しかし、一旦格闘技の実技を始めると不安な気持ちは吹き飛び、それを見た観衆も拍手喝采した。
チャックが開いた空手クラブは大成功だった。練習生は全て空軍の体力テストで目覚しい成果を見せたほどだった。
チャックはネバダに派遣され、全米選りすぐりの兵士と共に10週間の戦闘訓練を受けたこともある。
4時間は座学で、もう4時間は柔道、空手、ナイフ戦闘、柔術等を訓練した。格闘技に精通したチャックは優秀学生に選ばれた。
チャックは結局4年間の軍隊生活を送ったが、それは貴重な体験だった。彼は未熟な自分を鍛えてくれたアメリカ空軍に今でも感謝している。
除隊後は、そもそも空軍入隊の目的だった警察官への道を模索した。チャックはロサンゼルス警察へ入りたいと思ったが、当時募集している人員数は極端に少なく、彼は採用されなかった。
ダイアンは妊娠8ヶ月で、何とか新しい就職口を見つけなければいけなかった。義父ジョージの口利きで、彼が勤める軍用機製造会社で事務職の仕事口を見付けた。それは給与管理の仕事だった。
そして2ヶ月後、息子マイケルが誕生した。デスクワークは得意ではなかったが、少ないながら家族を支えられる安定した収入があり、とてもありがたいことだった。

38 :
“Sometimes you have to do whatever you can, while searching for something better.”
「より良い結果を得るためには、時には拒まずに何でもしなければいけない」
ロサンゼルス警察への就職を諦めたくはなかったが、次の採用まで6ヶ月かかると聞かされた。チャックにとって、この時期は人生の大きな回り道と思えたが、後で振り返ると必要な準備期間だったのだ。
会社の給料が少なかったので、仕事の後、両親の自宅の裏庭で空手教室を始めることにした。最初の生徒は、19歳のウィーランドと9歳のアーロンの弟二人だけだった。
3人が空手の練習をしているとの噂が徐々に広がり、人前でデモンストレーションを実演することになった。
小さなアーロンが大人相手に丁々発止する姿が観衆に多いに受けたが、5、6回目の実演をやる頃、アーロンはもう嫌だと言ってオイオイ泣き出した。それでもチャックは何とか説得してアーロンに協力してもらった。
観衆の反応から感じたのは、チャックが思った以上に空手に興味を持つ人が多いということだ。それにも係わらず、空手教室はアメリカではまだまだ珍しかった。

39 :
チャックは、ダイアンの理解を得て警察入りを一時延期し、ロサンゼルス郊外で空手道場を開くことにした。義父ジョージが名義人になりスタジオを借りることができた。
床にマットを敷き、壁に鏡をかけ、スタジオの隅に机を置いて事務所とした。家族全員で壁の塗装をし、「チャック・ノリス 空手道場」と手書きした看板を表にかけた。
チャックの空手道場のおかげで、スタジオの前の道は渋滞を引き起こすようになった。車が通過するたびに減速し、中を覗いていくからだ。通行人も興味を持ち、中にはそのまま入会する者もいた。
月謝は10ドルで週3回練習に参加できることにした。最初の生徒数は10名だった。
会社の仕事を午前8時から午後5時まで通常通り勤務し、急いで家に帰って夕食を飲み込むと、空手道場へ急ぎ午後6時から10時まで教えるのだ。
そんな生活がずっと続いたため、チャックは疲労困憊した。ダイアンとチャックは、いつか生徒数が増えて会社を辞められる日を夢見ていた。
空手教室を始めて1年後、生徒数は30人になり、月謝も月15ドルに値上げした。会社の給与以外に月450ドルの収入を得ていたのだ。だが、チャックの目標は生徒数60人だった。
空手を教えれば教えるほど、講師が自分に向いた職であることを実感した。
ダイアンと話し合い、警察官になる計画は中止し、彼はフルタイムの格闘技講師の道を目指すことにした。

40 :
チャックが24歳になる1964年には、数人のアシスタント講師を雇うまでに空手教室は大きくなっていた。チャックは心身ともに疲労困憊し、ついに会社を辞めることにした。
それを機に第2の空手道場を開くことにしたが、より多くの生徒を集めるには何らかの宣伝が必要であると感じた。
彼に広告を載せるほどの資金はなく、いろいろと思案した結果、空手トーナメントで優勝すれば空手専門紙や地元新聞に名前が載り、空手教室の名が知れ渡って生徒数が増えるはずだと踏んだ。
そこでチャックは空手トーナメントに参加することを決意するが、その結果は全くの予想外だった。
***********
“searching for something better” 「より良いものを探す」
この場合の”searching”には自分の心が本当に欲するものを探すニュアンスがある。
“Soul Searching”は、自分探しの心の旅である。
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41 :
Chuck Norris 男の中の男の物語 7
1964年、チャック・ノリスはソルトレイク・シティーで開催される空手トーナメントに出場することを決意する。
空手という激しく肉体を酷使する競技において、24歳で初のトーナメント参加は若干遅いと言えた。
同じくトーナメントに出場する道場の生徒を3人連れ、ロサンゼルスからソルトレイクへと車を走らせた。道中、吹雪で立ち往生することもあり、なんと合計で16時間もかかってしまった。
ようやく会場に到着したのは、トーナメントが始まる僅か2時間前のことだった。
チャックの参加するクラスは、中量級の黒帯クラスだった。初心者、中段者の各クラスに出場する生徒達と一緒に、彼は早速ウォーミングアップを開始した。
当時の空手の公式試合は素手と素足で戦い、胴体へのコンタクトは許されたが、顔へのコンタクトは許されなかった。それでも試合中にアクシデントは起きる。
チャックは生涯で試合中に鼻を3回折り、身体の数カ所を骨折し、数え切れないほどの傷を負った。試合中は大量のアドレナリンが体内を迸るため痛みを感じることはないが、翌朝の苦痛たるや格別なものだった。

42 :
さて、試合会場でチャックの名が呼ばれ、第1試合の相手と戦った。正式競技のルールに慣れていない彼は、戸惑いながらもなんとか対戦相手を破った。
そして、その直後に行なわれた第2戦でも、何とか勝ち進むことができた。
しかし第3戦目では、チャックの2試合をじっくり観察していたハワイの有名な格闘家に、たったの突き一発であっさりと破れてしまった。
トーナメントの結果は、3人の生徒がそれぞれのクラスで優勝し、チャックだけが敗退した。
帰りの車中、生徒達がトロフィーを握りしめ嬉嬉として試合を振り返る中、チャックはやりきれない思いを抱いていた。彼は二度と同じようには負けないと心に誓うのだった。
空手道場に戻ると、自分の敗因を研究しながら猛稽古を実施した。あまりにも負けた自分に腹が立っていたこともあり、戻って最初の練習日には3キロ近く痩せた。
次にチャックが参加した空手トーナメントは、カリフォルニア・ロングビーチで開かれる国際大会で、3000人以上が参加する世界最大のアマチュア空手の大会だった。
チャックは覚悟を決めて中量級で戦ったが、これまたあっさりと途中敗退してしまった。
それでもチャックはあきらめず、自分の欠点を鍛えるべく更に激しく稽古を続けた。技を出すタイミング、相手との間合い、試合中の心理状態。
それに加え、回転後ろ蹴りなどの韓国で覚えた得意技にも更に磨きをかけた。

43 :
1964年5月、ノリス家に次男のエリックが誕生した。チャックは喜びに溢れながらも、病院からまっすぐに道場へ向かい直ぐに練習に専念した。チャックの頭の中は、空手トーナメントで優勝したい執着心でいっぱいだった。
それから数日後、ロサンゼルスで開かれるオールスター空手トーナメントに出場した。
いよいよ最終戦まで勝ち進んだチャックを待っていたのは、日本スタイルの屈強な空手家、ロン・マチーニだった。
試合が始まり、二人は用心深く近づいた。たったひとつの不用意な動きが優勝を逃す結果となる。両者得点できないまま試合中盤まで進んだ。突如、相手がフェイントの蹴りを入れ、予期せぬ突きを繰り出した。
チャックは防御しようとしたが既に遅すぎた。敵の間合いは完璧だった。拳がみぞおちに食い込むのを感じた。
4人いる審判のうちの3人が白旗を横に突き出した。相手が技ありを取ったのだ。
試合が再開し、相手は守りの体勢に入った。そのまま最後までリードを保つつもりだ。時間だけがどんどん進む。チャックが時計を見やると試合終了まで残り15秒しかなかった。
彼は思い切って素早い攻撃技を繰り出した。相手の道着を掴むと、足払いから素早く脇に突きを入れ、続けざまに首に手刀を叩き込んだ。その瞬間にブザーが鳴り、試合終了となった。
審判4人全員が赤旗を頭上高く差し上げた。チャックは一本勝ちしたのだ。
彼はとうとう空手トーナメントでの優勝を実現させた。それはまさに人生で最高に嬉しい瞬間だった。

44 :
“The satisfaction of knowing that I finally won the tournament increased my confidence, and motivated me to continue competing.”
「ようやくトーナメントで優勝できた喜びで自信が増し、選手として競技を続ける原動力となった」
チャックは続いてカリフォルニア州空手トーナメントに参加した。今回は、黒帯から白帯までの様々なクラスの生徒を12人引き連れて行った。
チャックは得意の後ろ回し蹴りで中量級の優勝を決めたが、残念ながら体重無差別の総合優勝は果たせなかった。
この大会でノリス空手道場の生徒は、12人のうち11人までがそれぞれのクラスで優勝するという圧倒的な強さを見せた。
通常、トーナメントの最初の試合は、開会式で並んだ時に隣に立っている者と対戦することになる。
それからというもの、ノリス空手道場の道着を着た生徒から、次第に誰もが遠ざかって並ぶようになっていった。

45 :
年が明けた65年も、チャックはいくつかのトーナメントに参加した。サンノゼでの国際大会では、再びロン・マチーニを破り総合優勝に輝いた。
翌66年の国際大会では中量級で優勝したが、総合決勝戦で重量級の長身の選手に敗れてしまった。
チャックの決め技である後ろ回し蹴りはすっかり有名になってしまい、対戦相手がそれを予測できるようになってきたのだ。
彼は自分の技の種類を増やす必要があると感じた。そこで、空手講師をやっている友人達から技を教えてもらうことにした。
日本人空手家からは、手と足をコンビネーションで繰り出す技を伝授してもらった。空手仲間はトーナメントで対戦相手になるにも係わらず、皆が親切に自分の技の知識を教えてくれた。
おかげでチャックの技も多彩になり、対戦相手が彼の次の技を予測することは殆ど不可能になった。

46 :
新進気鋭の空手家、ジョー・ルイスからチャックの元へ電話が入った。空手道場を訪れて一緒に練習したいと言うのだ。
「いいとも、いつでも道場に来てくれ」とチャックはジョーに答えた。
ジョーは海兵隊所属時に沖縄に駐在していた時、たった7ヶ月で黒帯を取った男だ。しかも、経験が2年も満たない内にある空手トーナメントで優勝している。
ジョーと道場で練習試合を始めた頃はチャックも楽に勝てたが、2ヶ月もするとだんだん難しくなっていった。
チャックは、いつかジョーと対戦するのではないかという嫌な予感を覚えたが、それはまさに的中した。
67年、ニューヨークでの全米トップ・トーナメントでのことだった。
そのトーナメントでは、全米から10人のトップ選手が集まり、総当り戦で一番多く得点した選手が優勝するという方式だった。そして、ジョーもその10人の中に含まれていた。
チャックとジョーは予想通り無敗で勝ち進み、いよいよ対決する場面を迎えた。まさしく、この一戦に優勝がかかっていた。
ジョーの動きはとても素早く、動物的な勘で相手の弱点を見つける能力を持っていた。ジョーを倒すには最初から猛攻撃をかけるしかなかった。チャックの体調は絶好調で、動きも切れ味鋭かったが、この試合は楽ではないことも承知していた。
お互いに礼をすると、すかさずジョーが得意の横蹴りで襲ってきた。ジョーに1点が与えられる。チャックも即座に反撃し、裏拳で1点を返した。
それからどちらも点が取れない状態が続き、3回延長したものの、やはり両者ともそれ以上の点を上げることができなかった。
判定の結果、攻撃的な試合スタイルが評価され、チャックが優勝した。
ジョー・ルイスは、その後何度も優勝をかけて戦う宿命のライバルとなった。
*******
写真はジョー・ルイス(左)と我らがチャック・ノリス(右)
重量級のジョーは見るからに強そうだ。しかもかっこいい。
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47 :
■Chuck Norris 男の中の男の物語 8
1967年、ニューヨーク・マジソンスクエアガーデン(MSG)で全米空手大会が開催され、アメリカ中から何百人と言う格闘家が集結した。
チャックは、大会前日にニューヨークに到着し、早々にベッドに就いて寝ることにした。経験上、たっぷり睡眠を取ると、試合当日にリラックスできることを知っていたのだ。
翌日、爽やかな気分で目覚めると、彼は試合会場へ向かった。
MSGに到着すると他のトーナメント参加選手があちこちで談笑していたが、チャックはひとり黙ってロッカールームに入った。
彼はバッグから洗濯したばかりの道着を取り出して着替えた。チャックの好みの道着は、肩と袖と股の部分がゆるやかで、体の一部みたいにしっくりしている。
突きと蹴りを放つと、道着がムチのようにうなるのを感じる。
チャックは深呼吸をすると心を落ち着かせた。緊張やストレスは無駄にエネルギーを消費する。戦いの前は、完全にリラックスした状態になる必要があった。
トーナメントでは、軽量級と中量級と重量級がそれぞれ別の場所で戦い、最後は各クラスの優勝者が総合優勝をかけて戦うことになっていた。
チャックは他の選手がウォーミングアップするのをじっくり観察した。試合前の緊張時には、誰もが得意の側の手や足を使いがちになる。また、動き方で負傷箇所も分かった。
試合では、誰がどんな技で点を取るかを観察した。勝者だけでなく、敗者もじっくりと観察した。将来の対戦相手になる可能性があるからだ。
観察する相手と自分が戦う様子を想像し、相手の得意技と弱点をイメージするのだ。自分の技をどう相手が防御するかも考える。また、どう相手の体力を消耗させるかも考える。
大事なのは、トーナメントで集中するのは次の試合であり、決して優勝戦ではないということだった。

48 :
In competition, as in attempting any goal in life, it is necessary to keep a big picture mentally. But the focus must be on the next step, the immediate goal at hand.
「人生の目標と同じで、競技に勝つためには心の中で大きな戦略を立てなければいけない。しかし気持ちを集中するべきなのは、すぐ次に段階である目の前の目標だ」
チャックが中量級で最もマークしていたのは、最強格闘家の一人である全日本チャンピオン、ナカムラ・ヒロシだった。
ナカムラが相手を次々に破る様子を観察した。体は小さいががっしりした体型で、動きは滑らかで洗練されており同じパターンだった。得意技は電光石火の早さで繰り出す前蹴りと突きのコンビネーションだ。
ナカムラもチャックの試合を仔細に観察していた。しかし、チャックは自分が有利であることを知っていた。彼は韓国式空手と共に日本式空手も熟知していたが、ナカムラは韓国式を良く知らないはずだった。
チャックとナカムラは、それぞれのグループで順当に勝ち進み、いよいよ二人が中量級の決勝戦で対決することになった。
試合開始は夕食後だったので、チャックは軽く腹ごしらえするためにレストランへ向かった。
食事前にレストランのトイレに入ると、そこにナカムラその人がいた。
チャックは彼に言った。「お互いに頑張りましょう。ミスター・ナカムラ」
「君の方が勝つよ」彼はぶっきらぼうに答えた。チャックは、その悲観的な態度に驚いた。
「いえいえ、あなたこそ勝つチャンス十分ですよ。ずっと試合を見ていましたが、あなたも凄いですよ」そう口では言いながらも、チャックは結局のところ自分が勝つことを知っていた。なぜなら心の中で既にナカムラに勝つ様子が思い描けていたからだ。

49 :
夕食後、MSGに戻ると再び道着に着替えた。トーナメントのルールは1試合2分間で、より多くの点数を取った選手が勝つことになっていた。
チャックとナカムラの名前の呼ばれる場内放送が響き渡り、二人はマットへ足を踏み入れた。何千人もの観衆の叫び声が会場に鳴り響いた。誰もが素晴らしい試合を期待していた。
チャックは深呼吸して自分を落ち着かせた。緊張していては動きが緩慢になる。リラックスするとそれぞれの筋肉が協調して動いてくれるのだ。
試合が始まると、予想した通りナカムラは得意の前蹴りで攻めてきた。ただし思ったよりも遥かに早いスピードだった。チャックは防御しながら左にステップし、ナカムラの腹に突きをきめて1点を獲得した。
次も前蹴りと突きの連続攻撃だと予測したが、まさにその通りだった。チャックは次々に防御すると、突きを返して更に1点を取った。
当時、日本式の空手はあまり変則技やフェイントを多用せず、狙った通りの攻撃をストレートに繰り出していた。ナカムラもフェイントに慣れていないと読み、チャックは腹と見せかけての頭にシフトするフェイントキックで更に1点を獲得した。
結局、12対1の圧倒的な得点差でチャックが中量級の優勝を果たした。
チャックは軽量級優勝者との試合でも順調に勝ち、次はいよいよ重量級との対戦だった。そして、相手は誰あろうジョー・ルイスだった。
ジョーはトーナメント中、ずっとリラックスした状態を保って勝ち進んでいた。
二人は向き合うと一礼をし、審判の「はじめ!」の掛け声で互いに猛攻をかけた。
ジョーが飛びかかってきて得意の横蹴りをチャックの脇にきめ、1点を獲得した。
その後もジョーの激しい攻撃が続く中、チャックはかろうじて1点を返して同点とした。
そして、試合が終了する間際にジョーの顔面に裏拳をきめた。
チャックは1点差で総合優勝を果たしたのだ。彼は全米グランドチャンピオン・トロフィーを授与された。
朝8時から13人の強豪選手を相手に11時間かけて戦ったチャックは、さすがにへとへとに疲れてしまい、勝利を祝うどころの気分ではなかった。ただただ熱いシャワーを浴びて、深い眠りにつきたかった。

50 :
しかし、チャックが会場を去ろうとしたその時、お祝いにやってきたのは世界的に有名な格闘家であるブルース・リーだった。
チャックは、ブルース・リーの64年の国際大会での物凄い試合を見ていたし、テレビシリーズ『グリーン・ホーネット』での俳優としての活躍も知っていたが、実際に本人と会うのは初めてだった。
ブルースは、チャックの格闘技能を最大級に評価してくれた。決勝戦の最後の瞬間に、ジョー・ルイスから勝利をもぎ取るといった偉業も褒めてくれた。
二人はしばらく和気あいあいと語り合い、同じホテルに宿泊していると分かると一緒に歩いてホテルに向かった。その間ずっと、格闘技やその哲学について二人は語りあった。
チャックもすっかり話に夢中になり、エレベーターがブルースの部屋のある階に着いても、つい一緒に出てしまった。
既に真夜中だというのに、二人はホテルの廊下で互いに技を披露しながら、格闘技についてずっと大声で語り合った。
チャックがふと時計を見た時、もう朝の4時だった。なんと廊下で4時間も話し込んでいたのだ。しかし、エネルギーに満ち溢れたブルースといると、それもほんの20分にしか感じなかった。
ホテルの他の宿泊者にしてみれば、頭のおかしい二人組が夜中に廊下でずっと暴れていたようなものだ。誰もフロントに電話しなかったのは奇跡的だとチャックは思った。

51 :
それから間もなく、ブルース・リーがチャックをカリフォルニアの自宅に招待し、裏庭にある練習場に連れて行った。
ブルースはいろんな練習道具を持っていた。自分で作ったと思しい手足のついた木製のダミー人形に、プロテクターやボクシング・グローブもあった。
二人は週に2回、3、4時間一緒に練習することになった。ブルースはチャックにカンフー技を教え、代わりにチャックはハイキックに代表されるテコンドー技をブルースに教えた。
ブルースは実戦的ではないとして、腰の高さ以上の蹴りは使わない主義だったが、チャックが高い位置での回転回し蹴りを披露すると非常に興味深げだった。
6ヶ月もするとブルースはハイキックをマスターし、自分の技に組み込んでしまった。

52 :
ブルース・リーは格闘技に関してはとにかく有能で博識だった。いかなる見地から見ても、世界最強の一人だった。格闘技が現在の活況を呈したのも全てブルースのおかげだ。
彼は日常生活で繰り返す退屈なことも、全て訓練に変えてしまった。一体いつゆっくりした時間を持てたのか、チャックは不思議でならなかった。
二人が良い友人になると、ブルースが自分の夢を語りだした。
「チャック、俺は映画スターになりたいんだよ。今やっていることは、全てその目標の準備なんだ」
ブルースは、既にいろんな有名人に格闘技を教えていた。NBAバスケット選手カリーム・アブドゥル・ジャバール。映画スターのジェームス・コバーン、リー・マーヴィン、スティーヴ・マックイーンなど。それらの弟子達がブルースに映画に出るよう勧めていたのだ。
ブルースはスタント・コーディネーターとしては既に映画に係わっていたが、決して裏方では満足しなかった。彼は映画の主役になりたかったのだ。
ブルースのように原動力溢れる人間なら、間違いなく大スターになるだろうとチャックも確信した。
*********
ついにブルース・リー登場。天井の電灯を破壊するあの超ハイキックも、実はチャックが伝授したのか。もともと腰の高さ以上の蹴りをしなかったという事実も、ブルース・リーの派手なイメージからすれば意外である。
そういえば、昔映画で観た『グリーン・ホーネット』3本立ての格闘シーンは確かに地味だった。
h ttp://blog.l ivedoor.jp/mediamon/archives/27562536.html

53 :
神スレあげ

54 :
なう

55 :
この人とスティーヴン・セガールさんてアメリカではどっちが上なの?

56 :
【チャックノリス、セガール実力均衡派】
 ・チャック・ノリスとスティーブン・セガールは、かつて戦いに突入した。そのイベントは現在、ビッグバンとして知られている
 ・チャック・ノリスとスティーブン・セガールが決闘で拳と拳を交わしたその時、世界は終わりを迎える
【チャックノリス圧勝派】
 ・チャック・ノリスは、これまでスティーブン・セガールを打ちのめした唯一の男だ
 ・スティーブン・セガールは、彼自身の夢の中でさえチャック・ノリスを打ち負かすことができなかった!
 ・スティーブン・セガールは、チャック・ノリスを破るためには増援が必要だと思い知り、彼はジェファーソン・パリッシュ警察に加わった。しかし、それでさえ十分ではなかった
 ・スティーブン・セガールは一角(ひとかど)の顔を持つ男だ、しかし、チャック・ノリスを悩ますことがあれば、彼は面目のない男となるだろう...

57 :
>>55
野球に例えれば
ニューヨーク・ヤンキースがチャック・ノリス、横浜ベイスターズがスティーヴン・セガール
サッカーならレアル・マドリードがチャック・ノリス
セガールは、鳥栖フューチャーズってとこだろ

58 :
Chuck Norris 男の中の男の物語 9
1967年10月12日、チャックは再びインターナショナルズ大会に出場することになった。前年は中量級で優勝したものの、総合優勝は逃している。今度はもちろん全ての優勝を頂くつもりだった。
ただし、今回は生涯でおそらく最も厳しいトーナメントになると予想された。午前8時に第一試合を開始し、午後6時までぶっ通しで11人と戦い抜き、チャックは中量級の勝者となった。重量級の勝者との試合に勝てば、グランド・チャンピオンになれる。
弟のウィーランドは重量級で出場したが第3位に甘んじてしまった。ジョー・ルイスに負けたのだ。
そしてチャックが総合戦で迎えた重量級の優勝者は案の定、ジョーだった。
過去2回の対戦と違い、チャックもジョーも慎重に試合を運んだ。その結果、試合時間が終了するまでどちらも点を獲得できなかった。延長試合では1点でも先に得点した方がグランド・チャンピオンとなる。
延長試合が始まり、チャックの連続攻撃を、ジョーは全て見事に防御してみせた。そこでチャックは攻撃の手を緩めて一気に力を抜いて見せた。
そしてジョーが油断したのを見るや、チャックは飛びかかって素早い突きでジョーの顔面を捉えた。1点を獲得。チャックは、インターナショナルズ・グランド・チャンピオンとなったのだ。
道場の生徒達が駆け寄り、チャックをお神輿で担ぎ上げて歓喜の中を練り歩いた。
3回連続でチャックに負けたジョーは終始浮かない顔だった。負けたショックがよほど堪えたのだ。滅多に負けないジョーとしては、敗戦がどうしても我慢できなかったのだ。
1967年は、チャックにとって空手選手として目覚しい年だった。30以上ものトーナメントに出場し無敗を記録した。そして、“ブラックベルト”誌では世界最強格闘家として取り上げられた。
しかしチャックは、そろそろ競技に出場するのは止めて、道場の師範に専念しようと思っていた。自身も空手家であるボブ・ウォールというビジネス・パートナーもできた。ボブの商才とチャックの知名度で、道場の経営は順調だった。
しかし、インターナショナルズの主催者エド・パーカーが、翌年の大会にもう一度参加して2年連続優勝したら、チャック・ノリスの名を殿堂入りさせると言ってきた。
そこで彼は引退の予定を1年延期することにした。

59 :
インターナショナルズに向けた予行として、テキサスで開かれたトーナメントに参加した。
最終戦に残った参加者の一人、フレッド・レンは攻撃的な選手で、防御には特に気をつけなければいけなかった。思った通り、試合は荒っぽくなった。
試合序盤でチャックがフェイントの蹴りを入れたところ、フレッドの強烈な突きが顔面を襲ってきた。瞬間的に寸止めにしてくれと思ったが、次の瞬間チャックは大の字に倒れ、鼻が折れていた。
チャックが鼻から大量に出血しているのを見て審判の一人が駆け寄り、チャックの鼻を掴んで引っ張った。ボキっという音と共に、苦痛が駆け巡った。しかしそのおかげで、鼻が真っ直ぐになり試合が再開された。
当時のテキサスでは、コンタクトで減点はされなかったため、フレッドは1点を獲得した。
このままではフレッドにまたやられる。チャックは迫ってくるフレッドの腹に拳をぶちこんだ。フレッドは体を折り曲げてぜいぜい喘ぐ。空手家として最も恥ずかしい行為だった。
チャックに1点が与えられた。試合再開後、もう一度腹に突きをくれると、フレッドはがっくりと膝をついた。試合終了。
最終戦の相手は、またしてもジョー・ルイスだった。ジョーには二度と同じ方法では勝てない。
試合が始まってもお互いが注意深くなり、序盤ではどちらも点を上げられなかった。
ジョーの得意技の横蹴りがきたので、チャックは腰を落として急所に寸止めで蹴り返したが、得点にならなかった。
またこう着状態になったところ、ジョーが素早く接近しチャックの道着を掴むと、袖をビリビリと破きながら彼をぐるぐる振り回し、横腹に突きを入れ得点した。終了ベルが鳴る直前だった。
試合に負けたチャックはジョーにおめでとうと言った。それまで硬かったジョーの態度は一変し、その後二人の関係は雪解けした。

60 :
テキサスから帰ったチャックの折れた鼻は容赦なく痛んだ。翌日の朝、まだ幼児のエリックが父親のチャックの帰宅に大喜びし、ベッドによじ登りぴょんぴょん飛び跳ねた。
チャックは頭痛で目を閉じていたのだが、エリックがバランスを崩して頭からチャックの鼻に落下した。
彼の鼻は再び折れ、とてつもない痛みが襲った。鼻は2日連続で矯正しなければいけなくなった。
もうひとつメリーランドのトーナメントにも、インターナショナルズの肩慣らしとして参加した。初戦では黒帯を取ったばかりの無名の若者と試合することになった。
彼はチャックと対戦すると知ると極度に緊張し、吐き気を催しトイレへ駆け込んだ。気の毒に思ったチャックは、帰ってきた彼の肩に手を回し「だいじょうぶだよ」と声をかけた。
試合が始まっても、チャックは何とか相手を安心させようと考えた。その結果、チャックは若者に負けてしまった。
もう二度と自信過剰にはなるまいと、チャックは自分に誓うのだった。
1968年インターナショナルズ大会の直前、ブルース・リーから電話が入った。
彼はディーン・マーティン主演の『サイレンサー破壊部隊』のスタント・コーディネーターの契約を取ったばかりだった。
「君にぴったりの役があるんだよ」ブルースは言った。「ボディーガード役で、ディーン・マーティンと戦うんだ。台詞も一言あるよ。どうだい、やってみるかい?」
「やってみよう」演技とはどんなものかも知らずにチャックは答えた。とりあえず試してみようと思ったのだ。
映画撮影の日は、インターナショナルズの翌日だった。

61 :
インターナショナルズ大会当日、チャックは総合戦の相手をジョー・ルイスと予想していた。しかしジョーは予選試合で相手を負傷させたために失格してしまった。
その代わりに総合戦は、全米ランキング3位のテキサスの選手スキッパー・モリスと対決することになった。
スキッパーは童顔だが、190cm近い長身の実に手強い選手だった。彼はチャックの道場にときどき顔を出す良い友達でもあった。チャックはスキッパーを過去に5度破っているが、どの試合もきわどくて安心はできない相手だった。
試合前にロッカールームで、チャックはスキッパーにこう言った。
「実は明日、映画の撮影があるんだ。できれば顔のコンタクトは遠慮してくれないか。青あざ作って映画に出たくないんだよ」他の選手にはこんなお願いはできなかったが、スキッパーはとても仲の良い相手なので気にならなかった。
スキッパーは笑って「いいよ。貸しができたな」と言った。
試合開始後、蹴りの得意なスキッパーが放つ回し蹴りをチャックは防御したが、続けざまに繰り出され左目にヒットした裏拳は予測できなかった。黒あざができるのは間違いなかった。
3点リードしたスキッパーは、逃げ回って時間稼ぎをした。
チャックは「男らしくかかってこい」と叫んだ。スキッパーの顔が紅潮した。
チャックは足を止めたスキッパーに連続攻撃を加え、4点を獲得して勝利した。
チャックの名がインターナショナルズで殿堂入りしたものの、翌日、映画のセットでメイクさんから1時間かけて青あざを消してもらわなければいけなかった。

62 :
チャックは映画のセットを訪れるのは始めてだった。撮影現場は巨大な箱で天井は物凄く高かったし、眩しいほどの照明で、ワイヤーがあちこちに張り巡らされていた。
大勢のスタッフがあちこちを忙しく走り回っていた。こんな混乱状態でどうやって映画を撮影するのだろうとチャックは思った。
やがて監督がやってきて、撮影が始まった。
チャックはどうやって映画を撮るのか知らなかった。カメラが回り、役者が演技を始めるといった学芸会のようなものを想像していたが、それは大間違いだった。
実際にはそれぞれのシーンに何時間もかけて撮影するのだ。ライティングが再調整され、カメラの角度を変えられ、俳優が指示を受けて配置につく。
チャックのデビューの台詞は一言だけだった。ディーン・マーティンがナイトクラブに足を踏み入れると、チャックが前をさえぎり「よろしいですか。ヘルムさん」と言って、銃を受け取るしぐさをする。
それまでの数週間、チャックは浴室の鏡に向かって、繰り返しこの台詞を練習をしていた。
カメラが回り始め、ディーンが近寄ってくると、チャックは喉が締め付けられるような気分がした。体が硬直し、声がボソボソと出た。チャックは、これで俳優の仕事もなくなったと思った。一言だけの台詞すらまともに言えない。
幸い監督はチャックの台詞などどうでもよく、格闘シーンに移った。
ディーン本人が最初のシーンだけ撮り、残りは空手家のマイク・ストーンが入れ替わる段取りだった。
最初のシーンで、チャックは後ろ回し蹴りをディーンの頭にいれることになっていた。
ディーンがどれくらいしゃがむかを聞いて、なるべくギリギリで蹴りをかわそうと思った。
監督の掛け声がし、チャックは完璧な後ろ回し蹴りを放った。ところが、ディーンがしゃがむのを忘れてしまった。蹴りがディーンの肩を捉え、セットのあちらまでぶっとばした。

63 :
監督は青くなったが、ディーンは気を悪くせず、大丈夫だからもう一回やろうと言った。
次は念のために高い位置で蹴ることにしたら、ディーンは逆に床に伏せるくらい低く腰を落とした。チャックの脚はディーンの頭から1メートル以上もの宙をとんだ。
格闘の中身は代役のマイク・ストーンがやり、最後にディーンが戻ってきて、空手グランド・チャンピオンのチャックをボコボコにした。
チャックは大いに映画撮影を楽しんだが、立て続けにやりたいとは思わなかった。
自分の演技にも満足できなかったが、結局自分は俳優ではないと彼は思った。彼は格闘技の師範だった。空手道場を繁栄させて、生徒の教育に力を注ぐのが生涯の仕事だった。
後で道場が危機に瀕しなかったら、チャックは今でも空手を教えていただろう。
1968年末、チャックの空手選手としての引退は、またしても引き伸ばされた。ニューヨークで開かれる世界プロフェッショナル・ミドルウェイト選手権で戦って欲しいとプロモーターに依頼されたのだ。
相手はルイ・デガルド、彼とは過去にトーナメントで対戦し一戦一敗だった。
プロ空手のルールは3ラウンド3分制で、プロボクシングに似ていた。
1ラウンド目で、ルイは回転後ろ蹴りでチャックの顎の骨を砕き、ガクッとひざまずかせた。だがアドレナリンが異常に噴出していたため、チャックは痛みを感じることはなく、試合を続けた。
チャックは柔道技でルイの足を払って倒し、拳を振り下ろそうとしたところ、足がルイの腕に乗り骨を折ってしまった。
二人は試合を最後まで続け、判定でチャックが勝利した。
一緒に病院に担ぎ込まれた後、チャックはワイヤーで顎をつなぎとめられ、ルイは腕にギブスをはめられた。病院を出る時には、二人に空手チャンピオンという風情は全くなかった。
プロ空手選手権を奪取したのは嬉しかったが、空手選手としての喜びは、目標に向かって進むことだとチャックは感じた。
トーナメントに始めて出場した頃の小さな勝利も、プロ選手権に勝ったのと負けず劣らず嬉しかったことを思い出していた。
“More and more I was coming to realize that the rewarding part of life is the journey, not the destination.”
「だんだんと気付かされたのは、人生の充実した部分というのは目的ではなくて、その過程だということだ」

64 :
ベトナム戦争が激烈を極めている頃、二人の弟、ウィーランドとアーロンが陸軍に入隊した。
元兵士であるチャックも、弟二人の国に仕えたい気持ちを理解できなくもなかった。アーロンは韓国に派遣され、ウィーランドはベトナムへ送られた。
ウィーランドがベトナムへ発つ前、チャックは彼を抱きしめて「無事に帰ってくれ」と言った。
1970年、チャックがトーナメントの審判を務めていた時、場内放送が聞こえた。
「チャック・ノリスさん。緊急の電話がかかっています」
事務所へ急ぎ電話を取ると、義母が泣きながら言った。「ウィーランドがベトナムで死んだのよ」
チャックは、10人の空手チャンピオンから同時に腹を蹴られた以上のショックを感じた。
彼は電話を切るとよろめきながらスローモーションのように歩いた。長い間、心身共にまともに機能しなかった。
ショックから抜けられず、弟ウィーランドのことが頭から離れなかった。もう会うことはないと思うと、どうしようもなく人前で泣けてしまった。
1970年6月3日、27歳でウィーランドはこの世を去った。
三男のアーロンは、軍から許可をもらい韓国から緊急帰国した。軍は葬式のために、ウィーランドの亡骸をベトナムから送ってくれた。
チャックは、この辛い現実を母が受けとめられるように配慮した。息子が帰ってきたものの、声を聞くことも、笑顔も見ることもできないのだ。
今でもチャックはウィーランドのことをよく思い出す。いつの日か、天国でしっかりと抱きしめてやろうと彼は思うのだった。
http://blog.livedoor.jp/mediamon/archives/27690283.html

65 :
■Chuck Norris 男の中の男の物語 10
チャックが、空手家ボブ・ウォールを道場経営のパートナーとして迎えたのは1967年のことだった。
それ以降、チャックの名師範ぶりとボブの管理能力で、3つに増えた道場は大いに繁盛した。
1970年、空手道場ビジネスが絶好調な頃、大手企業が買収のオファーを出してきた。買収後は、全米に100以上の『チャック・ノリス道場』を開くという計画だった。
ボブとチャックは話し合った結果、オファーを受けることにした。100以上の道場の収益の2%は、3つの道場の収益100%よりも遥かに大きいはずだと踏んだのだ。
ボブとチャックは、買収に際し6万ドルの報酬を得た。また月収として3千ドルを別途支給され、チャックは引き続き道場の稽古に携わり、ボブは営業計画を立てた。
まさに願ったり叶ったりの状況だった。経営そのものは他人に任せ、自分達は生徒の指導に専念できる。つまり収入を得ながら、好きなことができるのだ。
ダイアンとチャックは大金の小切手を受け取ると、まずロサンゼルス郊外の家と、金色のキャデラックを購入した。チャックは30歳にして大金を手に入れ、とても満ち足りた気分だった。
しかし諺にあるように“悪銭身につかず”の真の意味を、チャックは直ぐに思い知らされるのだった。
“Most of us are tempted to think that when things are not going well in personal relationships, the material things will make up for the emotional lacking.
But getting more or nicer staff rarely improves a struggling relationship.”
「人間関係がうまくいかない時、購買欲を満たすことにより、精神的な渇望も満たされると我々は思いがちだ。しかし、買う物の量や質はどうであれ、物を得ることにより危機に瀕した人間関係を改善できることはまずあり得ない」

66 :
チャックとダイアンも例外ではなかった。1972年、二人は性格の不一致を感じていた。夫婦関係が冷えていることがだんだん明白になってきた。
二人は頻繁に口論するようになり、結婚生活に関する全てが不満に思えた。
ついに二人は別居することになり、ダイアンが息子二人を連れて行ってしまった。
家族がいなくなるとチャックは絶望的な気分になり、深く落ち込んでしまった。何をしても毎日の空虚さは埋めようがなかった。自分の家族がいなくなってしまったのだ。
チャックは孤独でみじめだった。しかし、彼は自らを勇気付け、人生を前へと進める決意をする。
それから4ヵ月後のある朝、チャックはブルース・リーから電話をもらった。
香港で撮った2本の映画が興行的に大成功したらしい。ブルースが監督する次の映画『ドラゴンへの道』に出演してくれないかという依頼だった。
「君に俺の対戦相手になってもらいたいんだ。ローマ闘技場で戦うんだよ」ブルースの声は興奮で昂ぶっていた。「二人の闘士が命を賭けて戦うんだ。自分達で戦いの振り付けができるってとこがいいんだよ。もちろん君との戦いが映画のハイライトだ」
「そりゃ凄い。それで、どっちが勝つの?」
「もちろん俺さ」ブルースは笑って言った。「俺が主役だからね」
「君が世界空手チャンピオンに勝つと言うのかい?」
「いや違う」ブルースは言った。「世界空手チャンピオンをすんだ」
チャックは笑って、映画出演を承諾した

67 :
彼はヨーロッパに行くのは始めてだったので、ビジネス・パートナーのボブ・ウォールに同行してもらった。
ローマのレオナルド・ダ・ヴィンチ空港に到着した時、ブルース・リーとカメラ班が、チャック達が飛行機から降りてくるところを撮影していた。空港到着シーンを映画の一場面に使うつもりらしい。
ブルースは一緒にタラップを降りてきたボブも映画に出演するように取り計らった。
ブルースとは2年ぶりに会ったが、いつもながら親しみに溢れていた。人目もはばからずチャックに抱きつくと、待機した車に案内した。
ブルースはチャックに、もっと手強そうな相手に変身して欲しいと要求した。チャック74キロ、ブルース66キロ。チャックにあと10キロ近く太って欲しいと言う。
幸いチャックは新陳代謝の遅い体をしており、運動しないで好きなものを食べれば1週間以内に5キロ以上は簡単に太ることができた。
「そりゃいいや。会社経費を使って一週間食べ放題といこう」
チャックとボブは次の2週間、典型的な観光客の毎日を過ごし、ぶらぶらと名所巡りをした。
チャックは、パスタとアイスクリームの美味しいレストランを見つけると、殆ど毎晩のようにそこで食べまくった。彼は見る見るうちに太りだし、撮影開始の日には見事に要求どおりの体型になった。
チャックはブルースと一緒に、対決シーンを撮る闘技場へ下見に行った。
アリーナへ続くトンネルにブルースと立つと、とても奇妙な感じに襲われた。ローマ皇帝の娯楽のために、かつてここで死を賭けた決闘が定期的に行なわれていたと思うと、彼は畏怖の念を覚えずにいられなかった。
闘技場は想像したよりも遥かに巨大で息を呑むような建物だった。二人はアリーナ内の何世紀も風雨にさらされた石に座り、対決シーンをどうするかについて語り始めた。
ブルースは色んなカメラ・アングルの案を出した。彼は二人を対決するローマ闘士のように撮りたかった。
ブルースはチャックにどんなアクションがやりたいか訊いた。チャックは、自分が面白いと思う技を出して見せ、ブルースがその防御を考えた。その後、ブルースが攻撃に転じ、チャックが防御する。そうして対決シーンを考えるのに、まる一日が費やされた。

68 :
映画のクライマックスである決闘シーンは、撮影に3日かかった。
難しい挑戦ではあったが、チャックはとても楽しんだ。監督としては新人ながら、ブルースはカメラマンに次々に指示を与えていた。
幸い、ブルースはチャックの役をそれほど悪人には描かなかった。決闘の末にブルースが彼をした後、厳かに道着と帯をかけてくれるのだ。
ブルースが言ったように、二人の対決シーンが映画のクライマックスだった。
今日にいたるまで、格闘技の生徒に好きな映画の対決シーンは何かと尋ねると、その殆どが『ドラゴンへの道』のブルース・リーとチャック・ノリスの対決シーンだと答えるのだ。
映画撮影は無事終了し、チャックとボブはアメリカへ帰り、空手道場師範の生活に戻った。
ローマで撮った映画のことなど殆ど忘れかけた頃、『ドラゴンへの道』が一斉に全国の映画館で公開された。
なるほどブルース・リーは観客にうける映画の方程式を見つけていた。この映画を観ようと全世界で人々が映画館に到した。『ドラゴンへの道』は、たったの24万ドルの製作費で作られたが、世界中で8,000万ドルの収益を上げた。
同じ頃、チャックはダイアンともう一度結婚生活をやり直す決意をした。がんばって夫婦関係を改善させて、より良い夫と父になろうと勤めた。自堕落な父のようにはならず、エリックとマイケルの二人の息子と良好な関係を持ちたいと彼は真剣に望んだ。
彼は意識的に家庭を最優先にするようにした。子供達が参加するスポーツの観戦も欠かさずするようにした。
チャックと子供達は、人目をはばかることなく抱きしめあうほどの仲となった。

69 :
チャックは、父がオクラホマで自動車事故のために死んだとの知らせを受けた。
韓国で陸軍勤務する弟アーロンに電報を打った。彼は休暇を取り、オクラホマの葬式に向かって、チャックと合流した。
チャックとアーロンは、その時初めて父が癌に苦しんでいたことを知った。喉と顎の一部が切除され、気管にチューブを挿入して何とか呼吸していたらしい。
事故で父は車から外に投げ出され、喉のチューブが外れたのだ。死因は窒息死だった。事故現場にいた誰も、道に落ちていたチューブが父の呼吸に必要だとは思わなかったのだ。
チャックとアーロンにとって、父の死は辛いことだった。たとえアーロンが5歳の時に父と離れ離れになったとはいえ、やはり父には違いないのだ。
父はなんて空虚な人生を送ったのだろうと、チャックは改めて思った。そして彼は心の中で誓った、自分は息子達からは絶対に離れまいと。
葬式が終わると、チャックはカリフォルニアへ、アーロンは韓国へそれぞれ戻った。帰りの飛行機の中で、二人の心は様々な思いで満たされていた。
http://blog.livedoor.jp/mediamon/archives/27778941.html#

70 :
■Chuck Norris 男の中の男の物語 11
ある日、道場の稽古を始めようとした矢先に電話が鳴り、チャックは受話器を取った。
「もしもし、スティーヴ・マックイーンといいます。息子のチャドに個人稽古を受けさせたいのですが」
誰かがからかっているのだろうと思いながらも、チャックは声の主に、翌日道場に来るように伝えた。来ないと恥ずかしい思いをするので、誰にもこの電話のことは言わなかった。
次の日、約束の時間が来た時、バイクの轟音が近づいてきた。そして、窓の側に立っていた生徒が叫んだ。「スティーヴ・マックイーンがバイクでやってきたぞ!」
バイカーウェアを着た本物のスティーヴ・マックイーンが道場に入ってきた。彼の横には7歳くらいの男の子チャドが、父親とそっくりの格好をして立っていた。二人ともヘルメットを脇に抱えていた。
スティーヴは自己紹介すると、さっそく用件を切り出した。チャドが学校で喧嘩に捲きこまれたので、護身術を身につけさせたいというのだ。
チャックはチャドに話しかけ覚悟の程を確かめた。なかなかしっかりした少年だと分かると、個人稽古を引き受けることにした。
チャドは物覚えが早く、空手の基礎動作をすぐに憶えた。父親のスティ―ヴ・マックイーンも数回やって来て、チャドの稽古振りを見学した。
ある日、スティ―ヴが自分も個人稽古を受けたいとチャックに申し出た。
もともと運動神経が良いこともあり、スティ―ヴもすぐに上達した。彼は一旦こうすると決意したら、妥協せずにとことんやるタイプだった。
訓練上で唯一の問題点は、スティーヴの身体が柔軟性に欠ける点で、そのためにハイキックも困難だった。
いろいろと解決法を試みたが、ある日、良いアイデアが浮かんだ。

71 :
スティーヴの妻、女優のアリ・マクグローに頼んで、スティーヴとチャックはビバリーヒルズのエアロビクス教室に連れていってもらった。教室でストレッチ訓練を受けるためだ。
インストラクターが、スティーヴとチャックにピンクとブルーのレオタードを渡した。チャックはすかさずブルーを掴み、スティーヴにピンクを譲った。二人はロッカールームに入りレオタードに着替えたが、鏡に映るその姿は余りにも滑稽だった。
「俺はこんな格好で人前に出ないぞ」スティーヴは言った。
「長年やっているような振りをすれば大丈夫。誰も気づかないさ」チャックは言った。
「しかたないな」とスティーヴは言って、ピンクのレオタード姿でロッカールームから出た。
その途端、チャックはドアを閉めて鍵をかけた。スティーヴはドアをガンガン叩いたが、チャックは中に入れなかった。女性達がスティーヴを見てひとしきり笑い転げた後は、自分が出ても注目されないだろうとチャックは考えたのだ。
外の笑い声が静まった頃、チャックはロッカールームを出た。彼の考えは正しかった。誰もチャックのことを見ていなかったのだ。ただし、スティーヴだけは違った。チャックを睨みつけるその眼光は余りにも鋭かった。
数日かけてエアロビ教室で柔軟性を増した頃、スティーヴとチャックは良い友達になった。
空手の稽古が終わってからも、世間話をする仲となった。
ある日、スティーヴがこう尋ねてきた。「チャック、誰かが君のことを有名人だとかスターだとかいう理由で好意をもったらどう思う」
「その人と一緒にいて楽しかったら、どんな動機でも気にならないよ。そんな心配しても自分が辛い思いをするだけだからね」
スティーヴは恐らく、チャックに対し他の友人より親しく接していたが、それでも心の奥の繊細な部分にバリアを張っているのが感じられた。どんなに仲良くなっても二人の会話は、レースやバイクや格闘技に終始してしまうのだ。
ただしお互いの子供達には対しては面倒見がよく、スティーヴはチャックの二人の息子を高原に連れて行き、道路で乗らないことを条件に、ダートバイクの乗り方を教えてくれたりした。

72 :
チャックは道場の師範に専念しながら、経営はオーナー会社がうまく遣り繰りしてくれているものと思っていた。
しかし残念ながらそれは間違っていた。実際には道場の経営はガタガタだったのだ。道場の数こそ確かに増えたが、オーナー会社は道場が接客業であることを理解していなかった。つまり人間相手である以上、経営上の決定は即座になされなければいけないのだ。
パートナーのボブと一緒に、チャックはオーナー会社に道場運営のまずさを抗議したが、真剣に聞いてもらうことはなかった。
ボブはついに嫌気がさし、道場の持株を全て売り払って不動産業に転向してしまった。
1973年、オーナー会社は営業的に苦しくなり、100万ドル以上もの損失を出していた。
道場経営の権利が別のオーナーに売却されたが、こちらは売上を上げるよりも、資産の売却の方に興味を持っていた。
このままでは道場は数ヵ月後に倒産すると言われた。チャックに法的責任はなかったが、「チャック・ノリス道場」と名づけられた道場に倒産してもらいたくなかった。
チャックは新しいオーナーに負債はいくらなのか訊いた。なんと14万ドルだった。1973には目が飛び出るような金額だ。
オーナーは、チャックが負債を引き受けてくれたら、残った7つの道場を全部所有できるといった。
チャックはこの条件を引き受けることにしたが、契約書の条項を良く確認せずにサインしてしまったことが後で判明する。
チャックの計画はこうだった。5つの道場をひとつ2万5千ドルで売れば、12万5千ドルが手に入る。残りの負債を払うために、2つの道場を残して「チャック・ノリス道場」として維持しようと考えた。
売却したい5つの道場を運営する師範達に連絡を入れ、道場購入の意思を各人に確かめてみた。全員が空手道場のオーナーになれるチャンスだと乗り気になり、頭金5千ドルで、残りは月々500ドルの返済の条件に同意した。
チャックは道場の新オーナー5人から毎月受け取る2500ドルを分割し、債権者に返済することにした。
全てはうまくいったと思った矢先、前のオーナーに12万ドルの税の未払い分のあることが判明した。
国税庁から通達が届いた。最低金額1万2千ドルを支払わなければ、道場を全て没収するという内容だった。

73 :
弁護士を雇う余裕がなかったので、友人のビジネスマンにアドバイスを求めた。
「倒産した方がいいよ。そんな大きな額の税金の支払いなんて無理だ」
チャックは一文無しだったが、倒産だけはできなかった。彼は残りの2つの道場を売却し、1万ドルを手に入れた。
義父のジョージから千ドル借金して1万1千ドル。国税庁の最低要求額まであと1千ドルだった。
ボブ・ウォールに問題を話したところ、彼は現金を持っていなかったが、クレジット・カード限度額ギリギリの千ドルを借金してチャックに渡してくれた。
ジョージとボブから借りたお金をどうやって返せばよいか分からなかったが、チャックは何としてでも全額返済しようと決意した。
チャックは売却した道場から立ち退かなくてはならず、友人のラリーが、軽トラックと2人の従業員を連れて手伝いにやってきてくれた。
チャックが机四つをひとつ100ドルずつで売りたいと言ったところ、ラリーは心当たりがあると言って机4台を持って行った。
2時間後、ラリーは400ドル持って帰ってきた。
「すごいや、ラリー!誰が買ってくれたんだい?」
「ちょうど机を四つばかし欲しいって奴がいたんだよ」ラリーはさり気なく答えた。
数ヵ月後、ラリーの経営する鉄工所をチャックが訪ねた時、ぶらぶら歩き回りながらふと見上げると、屋根裏部屋に例の机が四つ置かれていた。
自分を助けるためにラリー自身が机を買ってくれたことにチャックは気付いた。ラリー自身、決して楽な商売をしてはいないというのにも係わらずである。
ボブやラリーの行為は正に真の友情と呼ぶべきだろう。チャックはこのことを決して忘れまいと思った。
チャックは残りふたつの道場と新車のキャデラックを、債権者への返済のために売った。
予期しなかった税金の問題が持ち上がったことを債権者へ説明し、もう少し時間が欲しいとお願いした。その代わり、かならず全額返済すると約束して納得してもらった。
家族の収入のために、チャックはセミナーで発表したり、個人稽古を引き受けたりした。
その時は分からなかったが、道場を売り個人稽古中心になったのが人生の転換期となる。これがなければ、映画界へ進出することはなかったであろう

74 :
その時は分からなかったが、道場を売り個人稽古中心になったのが人生の転換期となる。これがなければ、映画界へ進出することはなかったであろう。だからといって決して楽になった訳ではない。むしろ楽からは程遠かった。
チャックは一文なしだったが、家だけは売るまいとがんばった。しかし家庭の日常的な支払いでさえ困難な状況になっており、あとどれくらいもつか分からなかった。
この苦しい間、ダイアンはひたすらチャックに協力してくれた。皮肉なことに、道場を売却してリッチな暮らしをしていた時よりも、生活に苦しい時の方が二人はチームとして互いを頼りにした。豊かさよりも困難が夫婦二人をより結びつけたのだ。
空手道場を救うためにがんばり抜いた4年間は、二人にとって結婚生活で一番結びつきの深い時期だった。
One night, I asked Dian. “What’s the worst thing to happen?”
“We have to start over again.”
“Is that really so bad? When you look around and see the problems other people face, ours seem miniscule.”
Dian agreed.
ある晩、チャックはダイアンに尋ねた。「最悪の事態になったらどうしよう」
「また最初からやり直しね」
「そんなにひどいことでもないよ。世の中の困っている人達が直面する問題を考えたら、僕達の問題なんてちっぽけだよ」
ダイアンも彼に同意した

75 :
それから驚くべきことが起こる。テレビの人気番組『トゥナイト・ショー』のプロデューサーから電話がかかってきたのだ。チャックの道場の生徒で、全米最年少で黒帯を取った9歳のフィル・ペイリーについて知りたいという。
チャックは番組に招かれ、空手のデモンストレーションを披露し、インタビューを受けた。
司会のジョニー・カーソンは、とても空手に詳しくて的を射た質問をしてくれた。おかげで、チャックは真の空手エキスパートという印象をテレビで与えることができた。
番組を観たビル・マーという有名なビジネスオーナーから、翌日電話があった。ビルの息子が空手を習っていて、チャックに会いたいらしかった。空手道場の買取りも検討したいとビルは言った。
チャックはどういう意図か良く分からなかったが、とにかくビルに来てもらった。
訪ねてきた時、ビルはこう訊いた。「なぜみんな空手に興味があるんだろう」
「空手を習いたいと思う人は、もっと自分に自信を持ちたいんです。空手の生徒は自分を高められると信じています」チャックは答えた。
ビルは興味を持ったようだったが、他の道場も見てみたいと言って去っていった。
2ヵ月後、再びビルから電話が鳴り、チャックの道場が他の道場よりも優れているので、彼の空手道場を買い取り、師範と教授法をそのまま取り入れたいと言った。
契約後、弟アーロンともう一人の黒帯が、新しく開校になったビルの道場に勤めることになった。5年も運営を続けた頃、ビル・マー空手道場はもっとも成功した道場となる。
ビルから貰う小切手で、チャックとダイアンは負債から脱し、まともな生活に戻ることができた。
自分の道場を失うことになったが、チャックは債権者達に期限内に全額返済を果たすことができた。
借金返済まで長く辛い過程だったが、最後は努力した甲斐があった。
大きな肩の荷が下りて、チャックはようやく新たな挑戦に向かう時を迎える。
http://blog.livedoor.jp/mediamon/archives/27882123.html
※“その時は分からなかったが、道場を売り個人稽古中心になったのが人生の転換期となる。これがなければ、映画界へ進出することはなかったであろう。だからといって決して楽になった訳ではない。むしろ楽からは程遠かった。”
この部分が重複してしました。

76 :
※“その時は分からなかったが、道場を売り個人稽古中心になったのが人生の転換期となる。これがなければ、映画界へ進出することはなかったであろう。だからといって決して楽になった訳ではない。むしろ楽からは程遠かった。”
この部分が重複してしまいました。

77 :
■Chuck Norris 男の中の男の物語 12
1973年の夏、チャックの元に、香港で映画を撮っているブルース・リーから久しぶりに電話があった。ロサンゼルスに1泊の予定で帰国するという。そこで、久しぶりに一緒に夕食でも取ろうという話になった。
チャックはわくわくした気分で、ボブと一緒に待ち合わせ場所であるチャイナタウンの有名なレストランへ赴いた。
ブルースは相変わらず元気いっぱいの様子だったが、会話がしばらく進むと、彼がロサンゼルスに戻って来た本当の理由をチャックに語ってくれた。
ブルースは香港で映画を撮っている最中に、特にこれといった理由もないのに、何度も意識が無くなってしまったそうだ。
香港の医者では原因が特定できないため、ブルースはロサンゼルスの有名な病院で診察を受けることにしたのだ。
「突然目の前が真っ暗になるんだよ」ブルースは腹立たしそうに言った。「俺の体は18歳なみの健康体だって医者は言うんだけどね」
確かにブルースはいつもながら引き締まって力強い体をしており、至極健康そうだった。32歳としては完璧な健康状態に思えた。
チャックは不思議に思って訊いた。「そんなに健康なのに、一体何が原因だと医者は言ってるんだい?」
ブルースはもぐもぐと食べながら言った。「多分、過労によるストレスだよ。働き過ぎってことさ。今に始まったことじゃないけどね」
ブルースは話題を変え、熱狂的な評価を得ている彼の新しい映画『燃えよドラゴン』について語りだした。
「この映画はビッグになるぞ。いくつかの映画会社から、もう新しい映画のオファーをもらっているんだ。金額の記入されていない小切手を送ってきて、好きな額を書き込めと言うんだよ。信じられるかい?」
チャックはブルースがいつかスーパースターになるという確信を持っていたが、まさかその後すぐに伝説になってしまうとは夢にも思っていなかった。

78 :
ブルースが香港へ戻ってから4日後、彼が倒れて亡くなってしまったという衝撃的なニュースが流れた。チャックはとても信じられなかった。あの生き生きとして輝きに満ちた、健康の塊のようなブルースを見たばかりだというのに。一体なぜ…。
ブルースの死に関するニュースが、次から次へと報道された。あるニュースでは、ブルースの身体からマリワナが検出されて薬物中毒の疑いがあると報じ、別のニュースでは彼のステロイドの実験が死に至る原因だったのだろうと報じた。
さらに、ある報道ではブルースは東洋に伝わる暗拳でし屋に抹されたのだと報じた。それらの殆どがばかげた推測に過ぎなかった。
香港の検死官が正式に発表したブルースの死因は、蜂に刺されると死んでしまう人が稀にいるように、彼が服用していた頭痛薬の成分が神経系を悪い風に刺激したということだった。
ブルースはシアトルに埋葬された。中国人コミュニティーとの深いつながりから香港でも葬式が営まれ、2万人の悲しむファンが参列した。
チャックは、サンフランシスコで開かれたもうひとつの葬式に参列した。ボブ・ウォール、スティーヴ・マックイーン、ジェームス・コバーンと一緒にロサンゼルスから飛行機で葬式に訪れた。ブルースの弟子の一人、ジェームス・コバーンは実に感動的な追悼の辞を読んだ。
ロサンゼルスに返る飛行機の中では誰もが押し黙ったままだった。
チャックは、ブルースの死の意味を考えた。確かに彼は、世界で最も有名な格闘家になったし、映画スターになる目標も達成した。
しかし、だからどうしたというのだ。彼は素晴らしい妻と二人の幼い子供を残して、この世を去ってしまったのだ。
ブルースの死により、チャックは人の命とはいかに脆いかを改めて感じた。
彼は自分の人生に対し、その時その時だけを生きるのではなく、永遠に意味を持つような生き方をしたいと思った。

79 :
1974年、ブルース・リーの死に影響されたこともあり、34歳のチャックは正式に空手選手を引退した。6度防衛した現役の世界中量級チャンピオンのまま引退したのだ。
対戦相手と向かい合う時の刺激を感じられないと思うと寂しくもあった。
生活が落ち着いて、トーナメントのための準備もしなくてよくなったが、無職になるのは辛かった。残りの人生で一体何をすれば良いのか。
ある晩、チャックがスティーヴ・マックイーンと夕食を共にしている時、彼がドキリとするような質問をした。「チャック、これからどうするんだい?空手道場は全て売り渡したし、試合もしていないし」
「まだ分からないよ」チャックはこう答えるしかなかった。
「俳優になったらどうだい」スティーヴが言った。
「冗談だろ!いったいどうして俺が俳優になれるというんだい?」
スティーヴはチャックの心を読むかのようにじっと目を見つめて言った。「俳優になるのは簡単だ。難しいのは俳優で成功することだ。俳優は画面の中での存在感が重要なんだ。
君にはその存在感ってやつがある。ただカメラの前でそれが出せるかどうかは別の話だ。だけど、やってみなきゃ分からないだろう?ぜひやってみるべきだよ」
それから数ヶ月、チャックは空手を教えながらも、スティーヴのその言葉がどうしても脳裏から離れずにいた。
チャックが俳優の実生活について少し調査をしてみたところ、当時1万6千人の俳優がハリウッドにおり、殆どが平均3千ドルで食うや食わずの生活を余儀なくされていた。
稽古中にそのことをスティーヴに言ってみると、彼はニタリと笑って言った。

80 :
“Remember that philosophy of yours that you always stressed to students?
Set goals, visualize results of the goals, and then be determined to succeed by overcoming any obstacles in a way.
You’ve been preaching that to me for 2 years. And now you are saying there is something you can’t do?”
「君の哲学は何だった?生徒にいつも言っていたことだよ。目標を立て、目標を達成する姿を思い浮かべ、本当に達成するためにどんな障害も乗り越える決意をする。
君がこの2年間ずっと俺にそんな説教してきたんだぞ。それなのに自分じゃできないって言うのかい?」
「できないって言ってないよ。ただ可能性はものすごく低い」チャックは答えた。「わかったよ。とりあえず全力でやってみるよ」
「そうくると思った」とスティーヴ。
車で帰宅する途中、チャックはこう思った。養う妻と子供を抱えながら、全く経験のない仕事に就こうとしている34歳の自分は何て無謀なんだろう。
翌日、チャックが近くの演技教室を覗いてみたところ、授業料の高さに驚いてしまった。しかし彼は空軍を円満退職しているので、政府が授業料の一部を負担してくれる制度を利用することができた。
電話帳で調べたら、有名な演技指導者エステル・ハーマンの教室が、この優遇制度を採用していると知り、彼の教室に入ることにした。
そこは1日に6時間から8時間かけて教えるフルタイムの教室だった。
発声法、文章解釈、舞台上の動き。演技。他の殆どの生徒が高校か大学、または他の教室で既に演技を習っていた。チャックはまったくの素人でしかも最年長だった。
まるで白帯に逆戻りしたような気分だった。しかし彼はできるだけ演技を学ぶ決意をした。
最初のレッスンで、講師のエステルがチャックに夫婦喧嘩の場面を読むように言った。チャックは恐怖でガチガチに震えた。
レッスンの後、エステルがチャックに言った。「君は運動選手とは思えないくらい堅苦しいね」
「あんなに怖い思いをするとは思いませんでした。演技がどんなものか全く知らないんです」チャックは正直に答えた。

81 :
エステルの教室では、生徒が演技をした後、他の生徒がそれを評価する方法を取っていた。
チャックはいつも、他の生徒に対し前向きな評価をすることにしていた。それから改善点を挙げ、最後にまた良い部分を強調する。他の生徒の演技が間違っているとは決して言わなかった。どんな演技でも、絶対に間違いということはあり得ないからだ。
ある日、チャックがある場面の演技をし、自分でもまずまずだと思っていた。いつも通り、エステルがひとりの生徒を指しチャックの演技を評価させた。なぜかその生徒はチャックの演技をぼろぼろに非難した。
「あんたは俺が会った中で最低の演技の持ち主だ。よく俳優になりたいなんて思うよな」
チャックは人前で辛辣なことを言われ、怒りで血が沸き立つのを覚えた。
「よくもそんなことが言えるよな!」チャックはその生徒に言い返した。「俺とあんたもこの教室に同じくらいしかいないじゃないか。大した経験もないくせに。俺はエステルからは批判されてもいいが、あんたの批判なんか聞きたくない!」
チャックは教室を猛然と出ると、二度と戻ることはなかった。

82 :
仕方なくチャックは、テレビや映画の脇役のオーディションを受けることにした。オーディションを初めて受けるために会場入りしたチャックは、他に40人もの希望者がいるのを知って驚いた。そのうちの何人かの俳優は顔を見たことがあった。
この中でどうして彼に役にありつけるチャンスがあるのか。言うまでもなくダメだった。
格闘技の師範としては、生徒に対しいつも前向きであるように教えてきたが、俳優の卵としては、いつか演技ができるだけでもありがたいといった状況だった。
チャックはもともと静かで内向的な性格だったが、強い信念を持っていた。彼は自分と同じようなタイプのキャラクターを演じたいと思った。つまり、空手の能力を不正と戦うために使うようなキャラクラー。
よし、自分の役作りの考えは固まった。後はどうやってそのチャンスを作るかだ。
ブルース・リーの死後、映画プロデューサー達は格闘技映画はもはや儲からないと考えていた。つまりチャックが向こうから声がかかるのを待っていたら、いつまでかかるか分からなかった。彼は自分のアイデアで映画を作るしかないと本気で思った。
後で振り返ると、そんな大胆な考えにチャック自身ただただ驚くのみだった。何千人もの映画プロデューサーやライターがハリウッドで競合しているというのに、素人が自分のアイデアで映画を作ろうというのだ。まったく馬鹿げた考えだった。
しかし行動に移してみなければ、できるかどうかなんて分からない。
そこで、チャックは自分の映画のアイデアを完成させるべく、行動に移すことにした。
ttp://blog.l ivedoor.jp/mediamon/archives/27961570.html
※リンク先であるアドレスlivedoorの部分が投稿に際し引っかかるため、lとiの間を半角スペース空けました

83 :
■Chuck Norris 男の中の男の物語 13
チャックは、プロの試合に出なくなった後も、空手の個人稽古を続けていた。生徒に教えること以外にも、自分の体のコンディションを最善に保つためにも稽古は重要だった。
ある日の稽古の後、チャックは黒帯生徒数人を前にして、空手アクションを盛り込んだ映画を作る考えのあることを話した。
するとある生徒が、“ブラック・タイガー”というベトナム戦争の特殊部隊の話が良いのではないかと提案してくれた。彼は既にタイトルも“Good Guys Wear Black” (いい奴らは黒を着る)と決めていた。
そこでチャックは、その生徒と数日かけて映画のストーリーラインを練り、主人公ジョン・T・ブッカーのキャラクターを形作った。友人を一人ずつされる元ベトナム従軍兵が事件の真相を解明する話だ。
しかし二人とも脚本というものを読んだことがなかったので、チャックの友人のジョー・フレーリーという脚本家に、売れたら料金を支払うという条件で脚本を書いてもらった。
ジョーは短いシナリオを書くと、早速チャックに送り返してきた。それを読んだチャックは、これはものになるぞと本気で感じた。

84 :
チャックは次のステップへ進むことにしたが、そこが最も難しかった。即ち、投資家を募って、映画制作費を出してもらうという段階だった。
チャックの世界空手チャンピオンという肩書きは、彼に数多くのチャンスをもたらしはしたが、同時にいとも簡単にチャンスを逃がす理由にもなった。彼が訪問したプロデューサー達は、空手映画は終ったと口を揃えてチャックに告げたのだった。
チャックは、何人ものプロデューサーに立て続けに会ったが、彼らは例外なくチャックのことを、格闘技で闘うことしかできない運動選手だと偏見を抱いていた。
彼にそのような出演作が既に3本あったがために、きちんと演技できるということを説得することがかえって難しかった。
チャックは、空手の師範としての自分を過去に何度となく売ってきたが、自分を俳優として売った経験がなかった。彼はプロデューサー達が納得するためのカードを持ち合わせていなかったのだ。
面会でプロデューサー達が一様に訊いてくる質問が、なぜこの映画が売れると思うのか、だった。チャックは口ごもりながらも何とかプロデューサー達を納得させようとしたが、どうしても説得力のある答えが出せないでいた。
映画俳優になるにあたって、いくつかの障害はあると想像していたが、ここまで難しいとは思っていなかった。チャックの映画の案は次から次に断られてしまい、やる気こそ残っていたが、すっかり気落ちしてしまい、焦る気持ちも最高潮に高まった。
他の職業もそうだが、映画業界にも仕事をもらうための最良の方法というのがある。大学で演劇を学ぶとか、演技学校に通うとか、映画作家の元で見習いをして、映画業界で働きながらチャンスを窺うとか。
また、オファーされる俳優の仕事をへたに何でも引き受けてしまうと、その後のキャリアに不利に働くどころか、致命的ですらある。
チャックのまだ始めてもいない俳優人生は、既に絶対的な危機にさらされていた。

85 :
中国人映画監督のウェイ・ローが、チャックに”Yellow Faced Tiger”『黄色い顔の虎』という映画に出ないかと言うオファーをくれた。サンフランシスコで撮影され、アジアでしか公開されないと言う。
チャックにとって、そんなことはどうでもよかった。とにかく金が必要だったのだ。
撮影現場につくと、チャックはサンフランシスコのマフィアのボス役を演じるため、葉巻を吸うように言われた。タバコは一切吸わないと言ったが監督に聞いてもらえなかった。
映画には当然、空手での対決シーンがあった。撮影を終えて小切手をもらい、またいつもの空手アクションの出演作が増えただけだった。
サンフランシスコに滞在したある晩、チャックとダイアンは子供達を映画に連れて行くことにした。新聞の映画欄を見ると、”Student Teachers”『生徒先生』という映画の広告があった。
それはちょうど2年前、チャックがある独立系のプロデューサーに呼ばれて、公園で主演二人を相手に空手の稽古をするシーンを撮影した映画だった。
その時にチャックがプロデューサーから聞いた映画の内容は、学校の従来の教え方に疑問を抱く二人の教師が既成の枠を打ち破り、新しい学習環境を作りだすという、実にまともそうな映画だった。
チャックは、息子二人と弟のアーロン、そして生徒20人ほどを引き連れ映画撮影現場に行き、芝生の上で主役二人を相手に稽古シーンを撮影したのだ。それっきり全く音沙汰がなくて、彼はその映画のことをすっかり忘れていた。
それが2年経った今、サンフランシスコで劇場公開されていたのだ。もしかしたら、子供達がスクリーンに映っているかもしれない。チャックは子供達を連れて、その映画を観にいこうとダイアンに言った。チャック自身もどんな映画が完成しているのか興味があった。

86 :
劇場は街の荒れ果てた地区にあった。
「こんな場所にある映画館には入りたくないわ」とダイアンが言った。
「心配要らないよ。自分達のでるシーンを見たら、さっさと出よう」とチャックは答えた。
ダイアンはしぶしぶ承諾した。
映画館の外見もひどかったが、中の様子はさらにひどかった。
壁と床がボロボロで、椅子も汚らしかった。良からぬことが中で行なわれていることが人目で分かった。観客はわずか数名だけだった。
チャックと家族は、座って映画が始まるのを待った。
タイトルが現れた次のシーンは、全裸の女性がベッドに横たわる場面だった。
ダイアンとチャックは、子供達の目を手でふさいだ。
「さっさと出ましょう」ダイアンは言った。
「もうこれ以上はひどくならないから、もう少しいてみよう」チャックは言う。
ところがふたを開けてみると、その映画はハードな・シーンの連続で、チャックとダイアンは子供達の目をふさぎっぱなしだった。
やっと自分の登場シーンが出てきたと思ったら、チャックの顔がこれでもかというくらいスクリーンに大写しになってしまい、彼はうんざりしてしまった。
1976年、別の独立系映画会社に呼ばれ、チャックは”Breaker, Breaker”『ブレーカー、ブレーカー』という映画を撮ることになった。
トラック運転手の話で、CB無線を使って互いに協力し合い、街の悪徳保安官に立ち向かう話だ。タイトルの『ブレーカー、ブレーカー』は無線で助けを求めるCB無線の合図のことだった。
『ブレーカー、ブレーカー』で俳優として本当にブレークするかもしれないとチャックは期待した。それと同時に、主役を演じて1万ドルを手にできるというのが魅力だった。
本当に金が必要だったのだ。彼は空手の個人稽古とセミナーで、ようやく月々の出費分を捻出していた。

87 :
チャックは、一応『ブレーカー、ブレーカー』の主役だったが、宣伝では殆ど彼の名前は出なかった。
ロサンゼルスでは劇場公開されなかったため、チャックはサンフランシスコまでわざわざ映画を観に行った。月曜の夜だったが、他にたった2人しか客がいなかった。
ろくに宣伝もされなかったので、映画の主役デビューだというのに喜びがなかった。
『ブレーカー、ブレーカー』の劇場公開1週目の興行収入は惨憺たるものだった。
ところが、凄い空手ファイトシーンがあると口コミで次第に広がり、だんだん入場者数が増えだした。最終的には、映画はなかなかの成績を収めた。
しかし、チャックの名が殆ど語られることがなかったため、彼の俳優のキャリアのためにはなんの足しにもならなかった。
チャックはその後の3年間ずっと、”いい奴らは黒を着る“の脚本を持ってハリウッドの映画製作会社を回るのだった。
http://blog.l ivedoor.jp/mediamon/archives/28434672.html

88 :
■Chuck Norris 男の中の男の物語 14
チャックは、“いい奴らは黒を着る“の脚本を3年かけて持って回っても、なかなかどの映画プロデューサーにも採用されないので、ある日、知り合いの会計士に相談してみた。
その会計士の顧客にアラン・ブドーという映画プロデューサーがいるらしく、会ってみたらどうかと提案してくれた。
アラン・ブドーの電話番号をもらったチャックは、意気揚々の気分で連絡を取ろうとしたが、そのプロデューサーがまだ20代であると知り気が抜けてしまった。そんな若者に投資を募ったり、映画を作ったりできるはずがないのだ。
数ヵ月後、友人のラリーの鉄工所に遊びに行った際、チャックは彼の脚本がどのプロデューサーにも読んでもらえないと告白した。その時、ふとアラン・ブドーのことを思い出し、ラリーにどうにかできないか相談してみた。
「俺が電話してみるよ」ラリーはアランの秘書に電話し、友人の脚本をボスに読んで欲しいと頼んだ。
「それなら、脚本を送ってください」と秘書が答える。
「嫌だね。うまく利用されるだけだ。君のボスと食事がしたい。そこでなら脚本を渡すよ」
「無理です」秘書は強情に言う。
ラリーもしぶとく言う。「ボスに訊いてみろよ。世界空手チャンピオンのチャック・ノリスを知ってるかと」
秘書がようやくアランに電話を回した。
「誰に私のことを聞いたのですか」とアランの声が言った。

89 :
アランは翌日の晩に、ハリウッドにあるメキシコ料理店での会合をアレンジした。チャック、ダイアン、ラリーが、アランとその妻に会いに行った。
20代のアランは年齢よりもさらに若く見えたが、話してみると、とてもしっかりした人物で、チャック達とすぐに意気投合した。
アランは既に2本の低予算の独立系映画を制作しており、そのうちの1本はヘンリー・フォンダ主演のものだった。
食事も終わり、レストランの請求書が回されるとチャックが素早く取った。しかし、そこに書かれてある料金は目の玉が飛び出しそうな額だった。
チャックはそんな金額を払うほどの現金を持ち合わせていなかったし、クレジットカードも持っていなかった。ラリーにトイレに来るよう仕草で伝えると彼に言った。
「ラリー、料金を払うだけの持ち合わせがないよ」チャックは半狂乱で言った。「あのプロデューサーにはいいとこを見せないといけない。君はいくら持ってる?」
ラリーは財布の中身を全て取り出し、チャックの手のひらの上に乗せた。それでようやく請求書の金額を賄えて、ついでにチップも少し払えるくらいだった。
帰りは家までアランに送ってもらったが、余りにも楽しい夕べを一緒に過ごしたので、チャックは肝心の脚本を渡すのを忘れていた。
「今日は楽しかったです。お休みなさい」とチャック。
「どうも、だけど脚本はどうなったの」とアラン。
「ああ、そうそう脚本ですね」チャックはすぐに家に入ると、脚本を手に取ってきて、アランに渡した。「時間があったら読んでもらって、感想を教えてください」
「読みますとも」アランが確約した。「夕食をご馳走さま」
4時間後、真夜中にチャックの自宅の電話が鳴った。アラン・ブドーからだった。「脚本を読みましたが素晴らしいですね。ぜひ私に制作させてください。今度、投資家達に説明します」
チャックは大興奮して、その晩は全然眠れなかった。

90 :
そんなチャックの興奮をよそに、アランは投資家達に映画の価値を納得させられずにいた。
投資家達は、ロサンゼルス郊外の医者や弁護士といった富裕層で、誰もチャック・ノリスの名前を聞いたことがなかった。「どこの馬の骨だか分からん奴に、何百万ドルも賭ける訳にはいかない」というのがその理由だった。
アランからチャックに謝りの電話があった。
チャックは言った。「アラン、もう一度、投資家の説明会を開いてくれますか。私が行って説得してみます」
アランは説明会の開催を約束し、その通り実行してくれた。それは、投資家達が大金を投入したある映画の試写会の後だった。
説明会の前日、チャックは一体どうやって投資家達を説得しようかと思案しながらベッドに就いた。
そして数時間後、目が覚めたら答えが浮かんでいた。
当日の夕方、アランの事務所に行くと、十数人の投資家達が待っていた。
彼らが投資した映画の試写会の直後だったにもかかわらず、喜んでいるのか心配しているのか表情からはうかがえなかった。
チャックは、映画の粗筋を説明し、自分の空手の経歴についても話した。
投資家達が感心を持ち始めたのを感じると、用意した決めの台詞をぶつけた。
「空手映画に投資することについて、さぞご心配かと思いますが、それは私のことをよくご存知でないからです。全米には私のことを良く知っている空手家が4百万人います。
私は6年間、無敗の空手チャンピオンでした。私はもう試合に出ないので、私のファンが私の空手を見られるのは、もはや映画しかないのです。
全米の空手家の半分が仮に映画を観に来たとして、百万ドルの投資で6百万ドルの収益となります。皆さんは大金を手に入れることができますよ」
それこそが正に投資家の聞きたい台詞だった。彼らは納得し、映画の制作費に必要な額を投資してくれることになった。

91 :
数日後、チャックはアランと彼のパートナー、マイケル・リーオンに会い、映画の主演料として4万ドルをもらう話を聞かされた。
チャックは余りの大金にはっと息を呑んだが、「よろしいですよ」とクールに言った。
「もしこの映画が成功したら、あと2本一緒に作りましょう」とアランに言われた。
「いいですとも」震えるチャック。
家に帰って、主演料の額をダイアンに伝えると「嘘でしょう!」の返事。
「嘘じゃないよ。やったんだ!」
チャック一家は無一文の貧乏家族だったが、4万ドルが手に入るビッグ・ニュースを祝うため、その日は外食した。
http://blog.l ivedoor.jp/mediamon/archives/28525190.html

92 :
■Chuck Norris 男の中の男の物語 15
『いい奴らは黒を着る』(邦題:暗黒人指令)が劇場公開されると、チャックは友人のスティーヴ・マックイーンの感想を聞くために、思い切って彼を映画館に連れて行った。
映画を観終った後、二人で食事をした。
「なかなかいいじゃないか」スティ−ヴはチャックに言った。「ただ少しだけアドバイスしておこう。君は映画の中で、観客が既に分かっていることをわざわざ口で説明している。
映画というのは視覚的なものだ。だから観客が知っている事実を、君が台詞で繰り返すべきではない。次の映画では、他の役者に必要な筋書きを喋らせて、君はここぞという重要な時にだけ口を開くんだ。
そうしたら観客は君の台詞を憶えるよ。ただただ意味もなく台詞を喋っているだけじゃ、誰の記憶に残らないんだ」
スティーヴはその例として、彼の『ブレット』を挙げた。ロバート・ヴォーンと絡む場面の撮影で、スティーヴは自分の台詞が長過ぎると感じた。
そこで彼は、監督に頼んで台詞を大幅に短くしてもらい、次の一言に変えた。「お前は自分の側の道を歩け。俺は俺の側を歩く」
「誰もがあの台詞を憶えているんだ」スティーヴが言った。「君が映画でやるべきこともまさにそれだよ。脚本をじっくり読んで、台詞が気に入らなかったら監督に頼んで、できるだけ台詞を少なくして皆の記憶に残るようにするんだ。
例えば、クリント・イーストウッドの「さあ、やってみろ。俺の日にしてくれ」があるが、みんなあの台詞を知っている。歌詞にもなったし、レーガン大統領もスピーチに取りいれた。
それと、映画のキャラクターに成りきるんだ。誰もが自分の性格にいろんな面を持っている。軽くて人間的な面と、重くて攻撃的な面の両方を引き出すんだ。そうすることにより、映画のキャラクターは、君にとっても観客にとっても説得力のあるものになる。
本物のスターとは、観客が感情移入できる俳優を言うんだ」
スティーヴのその励ましの言葉は、チャックにとって大きな意味を持っていた。
事実チャックは何年にも渡り、その言葉を忠実に守ろうと努めた。そして、結果的にはスティーヴの言った通りだった。

93 :
『いい奴らは黒を着る』は、どの映画会社も成功するとは思わなかったので、プロデューサーは、思い切って自分達で配給ルートを開拓することにした。
必要な資金を借入れし、町の小さな映画館を1〜2週間借り切って映画を上映することにした。
チャックは小さな町から町へと宣伝旅行をしなければいけなくなった。
学校でインタビューを受け、地元のテレビや新聞の取材に応じた。映画のことを聞きたい人なら誰でも相手にした。
テキサスから始まり、オクラホマ、テネシー、その他アメリカ中部を回った。
1日あたり10から20ものインタビューをこなす日が2,3週間ほど続き、チャックは30秒から3分のどんな長さでも映画の説明をすることができるようになっていた。
毎晩上映後は、弟アーロンと黒帯生徒達が劇場主から売上げを回収していた。劇場にお金を支払って借りていたので、映画上映による売上げはチャック達のものだったのだ。
殆どの映画評論家は、チャックは俳優なんかではなく、早く空手教室に戻るべきだと酷評した。
チャックは自分がベストを尽くして演技したと思っていたので、それを読んで非常に傷ついた。
彼はスティーヴ・マックイ―ンに聞いた。「なんで評論家達はあんな風に書くんだろう。俺は別にアカデミー賞を取ろうとしているわけじゃないんだ。ただ観客が喜ぶような映画を作りたいだけなのに」
スティーヴは笑って言った。「いいかい、肝心なことは君の映画が儲かる限り、君はずっと働けるってことだよ。
もし世界最高の評価を得ても、映画の興行が駄目だったら君は無職だ。観客のことさえ心配さえしてればいいよ。もし観客が君の映画を好きだったら、君には長い俳優生活が待っている」
スティーヴは正しかった。評論家の手厳しい映画評にかかわらず、「いい奴らは黒を着る」は上映された町で非常にうまくいっていた。
そこで、プロデューサーのアラン・ブドーが、チャックのための次の脚本を準備しようと言いだした。

94 :
チャックは、パット・ジョンソンという脚本家志望の黒帯空手家に脚本を依頼した。
「君は元空手チャンピオンなんだから、プロ空手家の話にしよう」
彼が書いた「フォース・オブ・ワン」という脚本は、マット・ローガンという空手チャンピオンが、街を支配する王と戦う話だった。そして、ギャングのリーダーはビル・ウォレスという空手家だった。
ビルとのクライマックスの対決は、サンディエゴの試合会場で撮影された。
何百というエキストラが参加したのだが、その中に30人ほどのガラの悪いメキシコ系がいた。
ビルとチャックが戦っている時に、彼らは色んな物をリングに投げ込んだ。そのために何回も撮影が中断された。
わざとやっていること明白だったので、誰も何も言えなかった。もちろん警察を呼ぶこともできたが、ますます面倒くさい事態になる。
チャックは監督に撮影を休止するように言い、話をしにグループの中に行った。数人が銃やナイフを持っているのが見えた。
グループの数人が『ドラゴンへの道』を観ており、チャックとブルース・リーの闘技場での闘いに関する質問をしてきた。チャックは監督が心配そうに見守る中、それら質問に答えた。
グループの一人が、映画に本当の喧嘩が必要だったら、いつでもやってやると言った。
チャックはグループに言った。「ありがとう。その必要はないよ。ただ、ものを投げ込むのをやめてくれるかい」
グループは協力することを約束し、映画はその後何のトラブルもなく撮影を終えた。

95 :
『フォース・オブ・ワン』の映画が完成したらしたで、またしてもプロデューサーは、配給ができないという問題に直面した。
そこで、『いい奴らは黒を着る』と全く同じ方法で上映することにした。つまり配給も宣伝も全部自分達でやるのだ。
チャックは、前作とまったく同じ宣伝活動の旅に出ることになった。
前回と同じマスコミに合うので、物事が少し物事がスムーズに進み、評論家達も少しは好意的な記事を書いた。チャックはあちらからこちらへと弾かれるピンポン玉のような気分だった。『いい奴らは黒を着る』がまだ上映中の地方もあったからだ。
チャックは、『フォース・オブ・ワン』の宣伝でこちらにいけば、『いい奴ら』の宣伝であちらにいくという具合だった。
だんだんチャックは、どちらの映画の宣伝を自分がしているのか分からなくなってきた。実に9ヶ月間も二つの映画の宣伝活動で全米を回っていたのだ。
チャックは、マスコミ相手に映画の宣伝をする以外に、学校や公民館で空手の実演も行なった。
田舎町では何の問題もなかったが、都会の学校では挑戦者がたびたび現れた。
最後の宣伝地だったニューヨークでは、女子学校で何千人もの女学生を前に実技をした。
少なくとも、女性ばかりだったので挑戦者が現れる心配がなかった。
道着に着替えて、簡単に映画の紹介をして、パフォーマンスを実演した。その後、女学生達がステージを囲み、チャックに握手を求め始めた。
『フォース・オブ・ワン』は、2千万ドルを稼ぎ、『いい奴らは黒を着る』は1千8百万円を稼いだ。どんな予想よりも遥かに大きな額だった。
チャックのギャラも、『いい奴らは黒を着る』の4万ドルから『フォース・オブ・ワン』では12万5千ドルへとアップした。
最初、アランの映画会社は事務所ひとつと一人の秘書がいるきりだったが、二本の映画が成功して従業員が50人に増えた。
3作目の「オクタゴン」を作る頃には、従業員は100人に増え、ハリウッドで最も大きな独立系映画会社になった。
チャックの出た最初の3作は、最終的に全世界で1億ドルを稼いだ。
映画会社は、1千6百万円の資本金により“アメリカン・シネマ”の社名で上場した。チャックは会社の繁栄にかかわった一人として喜ばしい気持ちだった。

96 :
アランの上司のマイケル・リーオンが、チャック主演の映画は今後一切撮らないようにという命令を下した。空手映画は終わったのだと。
アランは副社長のデビット・ミラーと一緒に、チャック主演でまた映画を撮るよう主張した。
デビットはマイケルに対し、チャックで映画を作らないことは「大きな間違いです」と言った。
マイケルは自分の意思決定を尊重し、デビットを解雇した。結局、チャックの契約は更新されず、その後すぐにアランも会社を去った。
皮肉にも会社はその後、大きな制作費のかかった映画を3本作るが、全部興行的に失敗する。
アメリカン・シネマは財務的な危機に陥り、最終的には倒産してしまう。
チャックは、マイケル・リーオンとは友達だと思っていたが、映画業界では必要な時だけが友達で、それ以外は他人になってしまうということを知った。
ttp://blog.l ivedoor.jp/mediamon/archives/28624860.html

97 :
Chuck Norris 男の中の男の物語 16
アメリカン・シネマ社との契約は更新できなかったものの、幸いチャックの元には、別の映画会社、アブコ・エンバシー社から『香港コネクション』という映画のオファーが舞い込んだ。
その後、コロンビア映画『バイオニック・マーダラー』、MGMの『地獄の復讐』と続き、チャックは俳優として快進撃を続ける。
さらに、『テキサSWAT』『野獣走査線』『デルタ・フォース』と続くが、何と言っても決定打となったのは、大ヒット・シリーズ『地獄のヒーロー』だった。
チャックは長年に渡り密かな夢を抱いていた。それはベトナムで死んだ弟ウィーランドに捧げる映画を作ることだった。
ある日、映画監督のランス・フールが、ベトナムに残されたアメリカ人捕虜について描いた脚本をチャックに持ってきた。
チャックは、ウィーランドのためだけではなく、あの悲惨なベトナム戦争で行方不明になった2千人もの米軍兵士のために、ぜひこの映画を作りたいと思った。
ランスとチャックの二人は熱心に映画会社を口説いて回ったが、ハリウッドの誰もそんな脚本に関心を示さなかった。
80年代初頭と言えば、イランで1年以上も拘束されたアメリカ市民のニュースがトップ扱いだった。その後、ロナルド・レーガンが大統領就任してイランのアメリカ市民が解放され、国民の気分は幾分上向いていた。
しかし、アメリカの兵士が外国で囚われるような映画はもう誰も観たくなかった。少なくとも、それが当時のハリウッドの主流の考え方だった。

98 :
チャック達は映画会社を回り、その映画はベトナムで戦った兵士を讃えるだけではなく、興行的にも大成功間違いなしだと説得した。
ついにキャノン映画が、戦争中に行方不明になった兵士を指す『ミッシング・イン・アクション』(邦題:地獄のヒーロー)というタイトルで、映画制作に同意した。
チャック演じるジェームス・ブラドック大佐が、誰も助けに行かないベトナムのアメリカ捕虜兵を救出する話だ。
物語のクライマックスでは、ジェームス・ブラドックが、サイゴンの法廷に乗り込み、ベトナムに米兵の捕虜はもういないと主張する関係者の目の前で、たった今救出したばかりの米兵を見せつける。
チャックは完成した映画を確認するため、ハリウッドの試写会ではなく、一般の映画館に公開初日『地獄のヒーロー』を観に行った。いつものように彼は、プロの評論家の意見よりも観客の反応が知りたかったのだ。
ブラドックがクライマックスで、いまだに米兵達がベトナムで捕らえられていることを証明した時、観客全員が総立ちで拍手喝采した。
その歓声を聞いてチャックは、自分達がそれまでに映画に注いだ努力が報われるような思いがした。

99 :
チャックが俳優人生の中で、最も心が張り裂けるような思いで撮ったのは、『地獄のヒーロー2』の中のシーンだった。
再びブラドックは、死んだとされる米兵捕虜を救出に向かう。しかし自分が捕らえられ拷問を受けることになる。アメリカ人捕虜が目の前でされそうになるのを見て、ブラドックはベトナム人が有利になる嘘の供述書にサインする。
しかし捕虜は命を救われることなく、ブラドックの目の前で生きたまま焼きされてしまうのだ。
それはチャックの俳優としての生涯で最も難しいシーンとなった。
しかも2日連続で撮り終えなければいけなかった。1日目は兵士が焼かれるシーンを撮り、2日目はチャックがそれを見た時の表情を撮影する。
チャックは、ただシーンに反応するのではなく、内側から感情を汲み上げなくてはいけなかった。それだけの感情を汲み出すには方法はただひとつだった。
チャックは撮影班に言った。「この撮影は1回きりだ。1回のテイクで撮り終えてくれ」
カメラが回ると、チャックはベトナムにいた弟ウィーランドのことを思った。部下を先導し、罠を警告したばっかりにベトコンに惨された弟。それから、ウィーランドが無言で帰宅し埋葬される日をチャックは思い出した。
その結果、映画に必要な悲しい感情を吹き込むことができた。しかし同時に、彼はもう二度とこんなことはやるまいと心の中で誓った。
『地獄のヒーロー』は、公開1週目で600万ドルの興行成績を残し、当時としては記録的な大ヒット作となった。また、チャックのそれまでの主演作と違い、好意的な映画評が多数書かれた。
しかしチャックにとっての最高の賛辞は、ベトナム帰還兵の父を持つある女性の言葉だった。「父が泣いたのを生まれて初めて見ました」
チャックは、ベトナムで死んだ弟ウィーランドと、その他数多くのベトナム戦死者の霊を慰めることができたのなら本当に嬉しいと思った。
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