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2012年3月日本史46: 河内源氏を語る (560)
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河内源氏を語る
- 1 :
- ムツノカミ、カイニンサレタヨ、ショボーン・・・
λ......................トボトボ
- 2 :
- 壷井八幡宮
- 3 :
- 頼朝も尊氏も家康も河内源氏。
- 4 :
- 家康も?
- 5 :
- 我は八幡太郎三十七代が後胤 旭八幡 源尊義なり!
- 6 :
- >>4
新田氏だからね。
- 7 :
- 世良田頼氏の嫁は足利義氏の娘
- 8 :
- 吉良も?
- 9 :
- 河内源氏って強いの?
- 10 :
- 俺、河内源氏が街を破壊しつつ原発の方に歩いていくのを見たぜ!
- 11 :
- >>9
強いよ。源氏といえば河内源氏だもんね。
- 12 :
- >>11
なるほど
- 13 :
- 河内源氏(笑)
- 14 :
- >>11
枕草子の源頼光は、清和源氏出身の河内源氏で、拠点にしていたのが、兵庫県川西市。
頼光のお供の源綱は、嵯峨源氏の光源氏のひ孫。
俺は、その子孫です。
- 15 :
- >>11
綱の子孫で松浦氏諸流の本家次男なので、リアル桃太郎、吉備津彦のお供の大彦命の奥州安倍氏・・鳥海三郎の子孫でもあります。
竹取物語の阿倍御主人と同じ大彦命繋がりで阿倍氏の血も入ってますね。
- 16 :
- 安倍元総理と共通の祖先、琵琶法師の唄、源平合戦の壇ノ浦の合戦の章・・所業無常の鐘の音〜の松浦太郎(安倍)高俊も祖先なので、源氏、源義経の話とも繋がりますね。
- 17 :
- >>14
幕末はどこで何をしてた家なの?
あと頼光は河内源氏じゃなくて、摂津源氏か多田源氏ね。
- 18 :
- >>17
昔、ウィキペディア辺りで、見つけた時、川西辺りの河内源氏辺りと掲載されてたので、てっきり河内と思ってましたが・・
摂津源氏辺りでしたか、教えていただき、ありがとうございます。
幕末は知りませんが、家の氏祖自体は、江戸初期の長崎出島で長崎代官の片腕と語られてるそうです。
なだいなだ - Wikipedia
著者: なだいなだ
Amazon.co.jp
夢をみた海賊(チャイルド本社)。角川書店 1978.6
猫と海賊(偕成社、絵:小幡堅)。出版年月 1995年
に出てくる、島谷市左衛門親子だそうですね。
この著書で、父:島谷市左衛門定重が松浦氏出身と記載されてるそうです。
- 19 :
-
「長崎県大百科事典」
・島谷市左衛門 しまや いちざえもん ?〜一六九〇(元禄三)
泉州堺の人。江戸時代前期の探検家。オランダ人カスパル・スハルベルヘンによって遠近法
測量術を伝えられた長崎奉行所与力・樋口清右衛門から「規矩元法」の伝授を受け、島谷流
航海術に優れる。一六六九年(寛文九)末次平蔵の命で唐船を模した船を造り江戸に回航した。
一六七五年(延宝三)幕命を受けて代官・伊奈忠易らを乗せて伊豆下田を出港し、小笠原諸島
を調査・探検し珍獣、奇木を持ち帰り将軍に献上した。
・末次平蔵政直 すえつぐへいぞうまさなお 長崎代官を務めた朱印船貿易家。
・末次船絵馬 現在は長崎市歴史民族資料館に寄託。
・スハンベルヘン 出島商館外科医。
・航海術
島谷市左衛門定重は一六七〇年(寛文十)『オランダ系航海術』を著した。
- 20 :
- 江戸中期の蝦夷地巡検随員に任命されて北海道を測量した最上徳内も島谷一族です。
行動の人・最上徳内、城山来る。
http://park19.wakwak.com/~hotaru1/mogamitokunai.html
最上徳内
http://umi-no-hon.officeblue.jp/emag/data/mori-senzou01.html
明治の島谷一族出身の有力者
島谷汽船鞄谷武次(社長)
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_03/shishi_05-02/shishi_05-02-04-04-08.htm
因みに、戦時中の家の爺さんは、広島出身の満州帰りで、淡路島で漁師と成ったので、俺は、元漁夫の次男。
- 21 :
- 江戸時代前期の能役者シテ方。島谷吉兵衛【しまや-きちべえ】
http://kotobank.jp/word/%E5%B3%B6%E8%B0%B7%E5%90%89%E5%85%B5%E8%A1%9B
今の芸能界では、エイベックスの松浦社長の島谷ひとみに松浦あやや、ZARDの坂井泉水(本名:蒲池幸子) 松田聖子(本名:蒲池法子)松田聖子の元亭主の神田正輝も松浦氏出身の氏族。
- 22 :
- 最上徳内の歴史に出てくる、今に続く、島屋総家一族につてい・・
神戸市文書館 灘の酒造業
「島屋佐右衛門家声録」 (『金世交通史料集』七 吉川弘文館 昭和49年
http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/syuzo/syuzo.html
- 23 :
- 「姓氏家系大辞典 第二巻」
・島谷 シマヤ シマタニ
泉州の名族にこの氏あり。河盛仁平の女婿を島谷安三郎という。
また銀座由緒書に「平銀見役、島谷八之助、島谷八次郎」等見え、また伊勢、志摩にも存す。
- 24 :
- 安倍晋三は腐臭。
- 25 :
-
- 26 :
- >>6
家康は自称だけどね
家康の先祖が河内源氏の得川氏の娘に
入り婿したことになっている
- 27 :
- >>9
河内源氏の鎌倉悪源太と鎮西八郎は強い
>>10
もう勘弁してくれ
- 28 :
- 新田遠江又五郎経政が居る (元弘3年8月熊谷直経軍忠状・熊谷家文書)。彦五郎・又五郎は田島氏の諱名であろう。
この経政は、南北朝内乱初期に、陸奥南部で親類の相馬氏と共に活動する新田左馬亮経政である(相馬文書)。
また「新田左馬亮経政代田島小四郎」(相馬文書)という記述から、経政の代官として田島小四郎なる人物が派遣されている。
代官には普通一族の者がなる場合が多いから、この史料は経政か田島氏であることを裏書するものである。
ところがこの経政は、史料上では建武2年(1336)に姿を消し、暦応元年から岩松頼有が伊予国守護、その後備後国守護として活躍する。
岩松氏惣領家は岩松経家が建武2年に中先代(北条時行)の乱で戦死してから、岩松三郎直(正木文書22)国が跡を継いで活躍する。そのように考えると、
この岩松頼有は岩松経政(田島系)の出家した姿か、あるいはその後継者である可能性が強いが、
それを確定する史料がない。
『新田町史』
- 29 :
- 河内源氏は義家の子孫が栄えたが、摂津源氏で中世近世の有力な家は?
- 30 :
- 河内姓に河内源氏はいないの?
- 31 :
- >>30
大河内氏→松平氏=徳川家
- 32 :
- ノーマル河内は関係ないのですね。
ありがとうございます。
- 33 :
- 自称頼政の子孫ね
実際はどうだか
- 34 :
- 松平は河内源氏吉良氏の家臣かな
- 35 :
- >>31
新田→得川→松平
- 36 :
- 新田から得川が分家するも断絶
三河の土豪松平が得川を僣称
- 37 :
- >>29
あまり知らないね
多田の領地に残った直系子孫の多田院御家人達が再び日の目を見るのは幕末
- 38 :
- 太田道灌の太田氏>駿河守広綱(頼政末子)流、
美濃守護土岐氏>伊豆守国房(頼光長男頼国六男)流くらい?
国房は義家と合戦になったらしいね。
その子の出羽守光国は、義忠暗事件で為義と共に義綱の追討に当たってる。
- 39 :
- 太田氏や大河内氏は皇族将軍についてきた京武者が鎌倉で生き延びる為に有力御家人の家臣になったってとこかな。
頼政流かはともかく、頼光流というのは十分可能性あると思う。
話は変わるが為義と共に斬られた義朝の弟って子供いなかったの?
- 40 :
- >>39
斬られなかった鎮西八郎為朝には子供が出来ていてもよさそうだが、
だとしてもその後一緒に斬られたか。
- 41 :
- >>38
摂津源氏では、国房流の美濃源氏は勢力あったらしくちょろちょろ登場するね。
光国長男の光信は鳥羽院四天王のひとりで為義と合戦しかけてる。偽義親退治の逸話も。
弟の保元・平治の乱で活躍した光保は、義朝より官位が上ですな。
光信の子、出羽判官光長は頼政養子の兼綱らと共に以仁王追捕の検非違使だったが、
美濃で反乱を起こして義仲と入京、伯耆守に任じられた後、法住寺合戦で行綱らと共に
義仲と戦って敗れ斬首になってる。この間兄の伊賀守光基はなにしてたのかしらん。
- 42 :
- >>39
頼賢の息子や為朝の息子は八条院に仕えたらしい。
八条院が女院になったのは平治以降だからそれなりに生きていた模様。
- 43 :
- 流刑ですんだ為朝流はともかく頼賢も子孫いたのか
年齢的には妥当だが幼児すら斬った信西がさなかったのは意外
- 44 :
- >>42 >>43
八条院の蔵人になった行家と一緒に令旨伝えてもよさそうなもんだけど、その頃には死んでたのかな?
- 45 :
- >>41
光基、光長は「源氏揃の巻」で最初に名が挙がってる。
この時点で実際に最も動員力のあった源氏て誰なのかな?。
頼政はじめとする京武者の動員力はたいしたことないよね。
美濃や近江の源氏は流人の頼朝よりよっぽど力あったんだろうけど、都に近かったこともあって早々に掃討されちゃったが。
甲斐源氏あたり?。あとは官位も含め「勢力」でいうと新田足利、佐竹あたりか?。
- 46 :
- 源大夫判官季貞
豪族ではないな
- 47 :
- >>46
季貞は平家方だよね?
>>45 の源氏は頼朝より動員力あったろうね。頼朝も土佐に流刑になってたら目なかったぽい。
その場合、関東では平家寄りの新田佐竹や、義広もいて反平家方は瓦解?。義仲との関係も微妙。
源広綱は関東武士団と繋がりなさそうだし千葉常胤が頼隆を担ぎ出す?
義仲と平家の戦いが続くことになるか、富士川を甲斐源氏単独で勝利したとすると後白河は武田信義を引き上げ、
政治力ゼロの義経も利用して対抗か?
- 48 :
- >>47
なんで土佐なのさ
- 49 :
- >>29, >>38
明智光秀て土岐氏流だったような
>>47
佐竹も平家方だろ。
頼朝の後ろ盾なきゃ義経は率いる兵ないよ。
頼朝の替わりに担ぎ出されたとしても関東から平家の影響力排除できたらポイされそうだな。
甲斐源氏に合流して頭角現してくるシナリオか?
- 50 :
- >>48
頼朝の同母弟希義が土佐に流刑になっていたからじゃね?
この兄弟の流刑先(伊豆、土佐)が逆になっていた可能性があったかも。
- 51 :
- >>45
挙兵を期待されたのは、「源氏」だけだったのかな?
円城寺の一部や南都も平氏と戦ったし、
八条院領を管理する非源氏系武士団にも令旨が行ったと見る向きがある。
(小山氏など)
- 52 :
- >>47
広綱と血縁的に近い有綱は頼朝の挙兵直前まで伊豆にいたらしい。
しかし危険が迫って奥州に逃亡。
有綱の祖父頼政が長期間伊豆知行国主だった為、
伊豆の豪族の中には頼政一族と
私的な主従関係を結んでいた者もいた模様。
その関係で有綱が伊豆にいたと思われる。
また、頼政は下総の下河辺氏(下河辺荘も八条院領)とも主従関係を結んでいたらしい。
鎌倉幕府並みの組織化はできなかっただろうが、
頼政派が坂東で割拠できる可能性があったかも知れない。
- 53 :
- >>47 >>49
勲功第一頼朝、第二義仲、第三行家 → 第一義仲、第二信義、第三行家になって信義も受領したか。
しかし信義には頼朝ほどの政治力も野心も無さそうだから義仲は史実より存えたろうけど、
京は平家に奪還されたかもね。その後はどうなるかわからん。
史実より僅差の兵力での義仲と信義傘下の義経との合戦とかあったかも。
- 54 :
- >>52
頼政派では富士川→佐竹成敗後ポイされそう。>>47 >>49 の流れぢゃね?
うまく坂東武士団手懐けたとすると広綱、有綱らで伊豆、駿河、武蔵あたり受領して
平家、義仲、甲斐源氏と四すくみ状態か。義経は史実と逆に有綱の武将になってる。
- 55 :
- 新田義重にも兵が集まってると妄想してみる。
- 56 :
- >>55
義重は自立していた、とあるけどどうするつもりだったんだろ?
義重は清盛婿の所領を管理していたし、
甲斐源氏と頼朝の挙兵直後の状況を都にご注進している。
- 57 :
- 元々義重の主な敵は藤姓足利氏でこの時足利忠綱は源氏方勢力の多かった上野国府まで攻めこんでいる。
義仲と足利に挟まれてうまく身動きできなかったのでは
- 58 :
- >>45
八条院に仕えていて行家の甥だからといって
行動を共にする必然性はなかったんじゃないかな?
元々為義系は政治方向バラバラだし。
八条院領を預かる武士の中にも藤姓足利氏みたいに平家寄りがいた。
蜂起計画は八条院グループ内でも以仁王近辺のごく一部のみにしか
当初の計画は知らされなかったのではないだろうか?
機密重視を考えて知らされなかった可能性もあるだろう。
- 59 :
- 足利忠綱は令旨が届かなかったのにキレて平家側に走ったんぢゃなかったっけ?
- 60 :
- 源季貞
清和源氏でありながら平家に組みし、同族に弓ひいた男
- 61 :
- >>59
「吾妻鏡」にはそう書いてあるけど、実際はもっと欲得まみれだったかも。
忠綱は宇治川渡河のあと平家に恩賞をねだってそれが同族の反感を買ったりしている。
その頃は平家官軍、以仁王と頼政は反逆者だから官軍について恩賞を貰おう位の思惑だったんじゃないかな?
本領では下野では小山氏、上野では新田氏との抗争を抱えていたから頼朝についたその後の行動は彼ら逆をついただけかも?
もしくは、藤姓足利氏が元々平家寄りだったから小山が頼朝を結果として選択したとか。
- 62 :
- >>60
清和源氏に同族だから協力するという発想があるのか?
源氏の敵は平氏という認識が当時からあったのだろうか?
平忠盛の烏帽子親は源義家の息子の源義忠だった。
志田義広が志田荘を立荘するにあたっては美福門院に近かった
池禅尼や当時常陸介だった平頼盛の斡旋があった。
同族の誼よりも自分の利害関係が優先される世の中で、
血縁的に遠い同族が味方としてがっちり組むという発想自体無かったのではないだろうか?
補足だが、
従来源平の対立が勃発の一つの要素として見られていた平治の乱は実は院近臣は天皇親政派の
政治抗争が乱の大きな要因であって平清盛は当初中立勢力で源義朝を従えていた藤原信頼は
清盛が敵に回るとは考えていなかったと見られているし
今まで「源平合戦」と捉えられていたものが現在は「治承寿永の乱」と称されるようになり
「源平」という氏族同士の戦いという面だけでは捉えられなくなってきている。
- 63 :
- ただし季貞はその義忠の系統だった気もするけど、利害優先ですな。
多くの関東武士団からして平氏てことになってる。
- 64 :
- 基本的に
「源家」 対 「平家」 の戦いかな
あとはそれぞれの利害対立。
- 65 :
- >>64
その源家って誰を指すの?
頼朝?義仲?
頼政?
武田信義?
山本義経?源光長?
それとも他源氏?
- 66 :
- 義忠流は義忠暗後母方の実家の平忠盛の保護を受けているから家臣になってもおかしくない
- 67 :
- >>65
>>64 は「基本的に」と断ってる。
頼朝あるいは義家嫡流を自認する義朝の一族でしょ。
>>55 >>56
義重んとこには令旨来なかったの?
(または頼朝・甲斐源氏の挙兵後に来た?)
挙兵の状況ご注進するくらいなら
行家(?)斬って報告した方がポイント高そうだけど。
そうはしなかったとすると単に日和ってた
or/and >>56 のような状況だった可能性の方が高そう。
吾妻鏡の「自立の志あり」てどうなのかね。
- 68 :
- >>67
なるほど。
ただ結果的には頼朝が平家を滅ぼしたけど、
挙兵直後は挙兵した源氏全体の盟主じゃないよね。
義仲は言うに及ばず、武田信義や安田義定は同盟関係。
畿内は頼朝の意向に従ったわけでもなさそうだし。
(「玉葉」を読むと近江源氏は武田信義とはつながりがあったようだが)
結果を見ると源家対平家だが経過をみるとそう言い切れなさそう。
初期挙兵勢力のうち九州、四国(希義以外)、寺社(熊野は微妙だが)は明らかに源氏とは無関係。
- 69 :
- >>68の内容は>>64に対する感想です。
- 70 :
- >>67
どこかの本のうろ覚えの記憶だが
令旨は八条院領の住人で平家寄りでない武士や
頼政に個人的繋がりのある武士を中心に配られたのではないかとの見解がある。
その見解に従うと、平重盛に従っていた新田義重は令旨配布リストから除外されていた可能性もあるのではないだろうか?
- 71 :
- 平安時代は、清和源氏対桓武平氏だろう。正し、末期の清盛の時代には、平氏側近が嵯峨源氏の松浦氏が安倍氏水軍として組みしたがったが、源氏にも、桓武平氏の流れを組む伊勢平氏が清和源氏に組み従ってたりで、勢力争いが複雑化してたようだね。
だから、後の鎌倉幕府以降の、武士時代には、出身問わない形を取ったからな‥。
- 72 :
- だから、戦国武将の縁組みも複雑化しルーツ桓武平氏なのに源氏と成ってる武将が結構居たようだしね。
例、桓武平氏の平良兼→永井氏=大江氏→長州毛利氏。
大友氏は、藤原氏だけど、戦いや勢力争いで源氏方を取り込んで行き、大友氏さえ、頼朝の母筋の島津氏に取り込まれりと‥
- 73 :
- >>71
平安時代は清和源氏対桓武平氏
意味がわからん。
武家棟梁が成立するのは義朝、清盛以降だし。(元木説の受け売りだけど)
保元以前に源氏と平家の対立があった?
- 74 :
- それと嵯峨源氏と清和源氏を同系統扱いするのもどうかな?
あくまでも臣籍降下するときに「源」姓を賜ったという共通項を持つに過ぎない。
その嵯峨源氏と清和源氏を同一視する論理はずっと公卿を排出し続けた村上源氏と、
受領止まりで穢れを産む武士と蔑まされた清和源氏を同一視するのに等しい。
- 75 :
- >>71
>後の鎌倉幕府以降の、武士時代には、出身問わない形を取ったからな
あなたがどのような意味合いでこの文章を書かれたのかわかりませんが
鎌倉幕府においては出身というか父方の経歴というのが重要視されていました。
例えば、御家人が「滝口」に推挙されるばあい、その御家人の父方の直系の祖先に
「滝口」経験者がいたかどうかが審査されましたし、
任官される場合も父方の先祖のその官位の任官前例が調べられていたようです。
このような事を見ても、少なくとも鎌倉幕府においては
出身が問われないということは無かったのではないかと思われます。
>>74
少なくとも鎌倉時代においては「源氏」の氏長者は公家で家格の高い「村上源氏」で
清和源氏ではないですね。
平安鎌倉期における家格では 村上源氏>>>>>>清和源氏ですね。
- 76 :
- >>72
大友氏さえ、頼朝の母筋の島津氏に取り込まれりと‥
母筋って比企尼‐丹後内侍?
だったら藤原氏だよ。
系図では比企掃部允藤原遠宗は、京武者藤原遠義の弟遠光の孫となっているので、大友氏とは極近い同族。
- 77 :
- >>72
毛利は確かに大江広元の子孫を称しているけど、平氏とは関係ないのでは。
大江は氏(姓)で毛利は名字。広元の姓は先祖から大江。大江広元の名乗りは源頼朝同様姓+諱。
毛利元就(名字+諱)の公的名乗りは大江元就(姓+諱)。
何で大江姓の毛利の出地があなたが主張する平姓永井になるんですか?
- 78 :
- >>73
> 武家棟梁が成立するのは義朝、清盛以降だし。(元木説の受け売りだけど)
もっと古い世代の学者である安田元久氏なんかも、武家棟梁の成立は義朝以降と言ってるよ。
> 保元以前に源氏と平家の対立があった?
平忠常の乱の追討使の座を巡って源頼信と平直方が争っているけど、あれはポスト争いだからね。
しかもその両者は後に姻戚関係を結んでいるし。
- 79 :
- >>47, >>52 - >>55
> 頼朝も土佐に流刑になってたら目なかったぽい。
> その場合、関東では平家寄りの新田佐竹や、義広もいて反平家方は瓦解?。
挙がってる平家方源氏(?)では、反平家方を「瓦解」させるまでは行かないような。
義重からすると、義広は足利忠綱と組んでるし佐竹と新田も仇敵だよね。
ただ頼朝がいないと野木宮合戦も起こらなかったかもしれんので
義広・忠綱(+行家)ラインが義仲と結んで(少なくとも北関東では)主導件握ったかも。
で、孤立してる義重は武田とは近いようなので、こちらと結んで義仲・義広に抵抗か。
行家は頼政一党方に付くかな?そもそも義広・忠綱ラインが成立したかもわからんが。
- 80 :
- 志田義広はよく平家時代生きていられたな
- 81 :
- 「平家にあらずんば人にあらず」という状況にはなったが、
粛清されたのは義朝の一派(藤原信頼方)でしょ。
都の権力争いとは無縁だったろうが義広はむしろ反義朝派だろうし、
義朝と近かった新田義重さえ平家に近づいて生きてる。
- 82 :
- そのまま京武者になるのあきらめ田舎の在庁官人になって年貢納めてたらOK
- 83 :
- >>56 >>70
そもそも「ご注進」といっても、義重は頼朝挙兵時京に居ったのを頼朝討たす為に清盛が国許に戻したんぢゃなかった?
(結局兵は集めても動かなかったようだが報告はしたと)
そんなんで、令旨の配布先になるとはおもえない。
甥の足利義兼には、八条院は荘園主で蔵人も勤めたから声かけそうだけど。
で、その令旨伝えてた行家、こんとき頼政に取り立てられこちらも八条院の蔵人になったそうだが
当時罪人か何かじゃないの。んなことして八条院や頼政は怪しまれなかったのかな?
配布先にだけ伝えてた?
- 84 :
- 「源氏」は「Mス・カン」
http://s1.shard.jp/rabbit1/0204/46/305.html
「元王朝」もまた、「源王朝」だった。
( http://park.geocities.jp/jpcdebate/0203/p033.html )
- 85 :
- >>84
名字の由来
http://office-maeta.jp/office/contents/060828.htm
■ 嵯峨源氏の起り
桓武天皇の次の嵯峨天皇は皇子と皇女を合わせて32人の臣籍降下を行ったが、これら全てに「源」の名字を与えた。
これが嵯峨源氏の始まりであるが、ではどうして源という名字を与えたか?
それは中国の北魏の太武帝が同族の河西王の子「賀」を西平侯に任じた時に、「卿(あなた)と朕(わたし)とは家系の源が同じである。
そこで今より源を氏とせよ」と言って源姓を与えたのに倣った。
佐賀源氏を遠祖する名字: 渡辺(摂津国西成郡渡辺村)・松浦(九州肥前)・宇久・五島(長崎五島列島福江島)
- 86 :
- 鮮卑拓跋部の北魏の漢化政策の際に、鮮卑諸氏に漢人風の姓を与えた時に、宗室の諸家に与えられた
姓(と言うよりも本当は氏」だろうが)の一つが「源」だ。これは、皇帝家が「元」氏を称したのと
関連し、多分音が近い(音通かどうか調べていないが)のも、この字が選択された理由だろう。
しかし、父系制氏族社会で、しかも氏族外婚制の鮮卑族で、「百世通婚せず」と言われた
分出した各姓の関係と、日本の一応父系制氏族社会では有るが、異母兄妹婚をも許容するような
社会での「源氏」の位置付けは違う。
- 87 :
- 河内源氏の嫡流の壷井家は続いてるみたいだね。壷井八幡宮の鳥居に名前掘ってあったよ
- 88 :
- 兵庫川西の猪名川は摂津源氏の本家、落人の里、皮剥の集りですが、
- 89 :
- >>88
多田源氏の末裔達は多田神社で同族会をつくってますので、はい。
- 90 :
- 親平家の義忠流源氏
- 91 :
- >>88
あのな、無知な捏造する前に、時代のギャップをどう説明するか、又、ソース揚げて
時代遍歴とターゲットと捏造したいターゲットのクロスポイントを、しっかり煮詰めてからレスれよW
そんな、バレバレなアホらしい捏造、相手にされないけどねW
B層集落のB落とは、将門の乱の時代に渡来していた、高句麗帰化の西宮神社の氏子や巫女の傀儡子の集落がB落の起源とされている。
即ち、B層とは、各神社の氏子と巫女を指している。
宮司や新主は、平民より上武家よりしたの立場の人。
その下の層は、おのずと知れる訳だ。
源氏と平氏が現れた時代は
桓武天皇(かんむてんのう、天平9年(737年) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))は、日本の第50代天皇(在位:天応元年4月3日(781年4月30日) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))と
嵯峨天皇(さがてんのう、延暦5年9月7日(786年10月3日) - 承和9年7月15日(842年8月24日))は、日本の第52代天皇(在位:大同4年4月1日(809年5月8日) - 弘仁14年4月16日(823年5月29日))。
平将門の生年は9世紀終わり頃から10世紀初めとされるが、正確な生年は不詳である。一説には討ち取られた年齢が38歳(満37歳)とされる事から、903年とする[2]。884年頃とする説もある[3]。
- 92 :
- 嵯峨天皇、 源氏長者が、(源)融〔嵯峨源氏へ〕 、兄が(源)信〔嵯峨源氏へ〕
嵯峨天皇の嫡子が、仁明天皇・・
嫡子が・・文徳天皇、清和天皇、貞純親王、(源)経基〔清和源氏へ〕
弟が・・光孝天皇、宇多天皇、敦実親王、(源)雅信〔宇多源氏へ〕
だから、嵯峨源氏は、孫。
清和と宇多は、曾曾曾曾孫。
嵯峨源氏、光源氏モデル融は、枕草子の渡辺綱や松浦氏の祖。
八幡太郎の義家が頼朝と義経の祖←後、頼朝死後の末代は、平貞盛を祖とする伊勢平氏、北條政子の命により暗され頼朝末代は、滅亡。
賀茂二郎の義綱が新田と足利の祖←足利は、新田と仲違えし、新田は、楠木と共に足利に破れ、足利幕府の祖。
徳川幕府の家康も、賀茂二郎の義綱の末裔。
嵯峨天皇の弟筋、桓武平氏は、桓武天皇の第6皇子、葛原親王。
桓武天皇─葛原親王─高見王─【平】高望王─国香─貞盛
平氏始祖の【平】高望王は、曾孫。
将門の系譜
桓武天皇─葛原親王─高見王─【平】高望王─良将─【相馬】将門
清盛の系譜
桓武天皇─葛原親王─高見王─【平】高望王─国香─貞盛─維衡─正度─正衡─正盛─忠盛─清盛
鎌倉幕府、北條政子の系譜
桓武天皇─葛原親王─高見王─【平】高望王─国香─貞盛─維将─維時─直方─聖範─時直─【北条】時家─時方─時政─【源】頼朝室入り、頼朝の妻:政子
- 93 :
- 清和源氏 > 摂津源氏の時代は、家祖:源頼光
摂津源氏は、もっぱら京で活動する武士であり、公家の日常に奉公する機会も多く、武はもとより文や和歌に長じた。
源頼光は、満仲伝来の本拠地を相続したが、その後武家源氏の主流は、頼光の弟の頼信にはじまり東国へ勢力を扶植し、武家の棟梁となった河内源氏のものとなり、子孫が繁栄した。
後の征夷大将軍は、源氏ではもっぱら河内源氏の流れから出ている。
摂津源氏で名の残る武士は、源頼光以外では、源仲政と、その子で、平治の乱の後、唯一生き残った源氏の長老の源頼政だろう。
頼政は、摂津国の渡辺津(現・大阪市中央区)を本拠地とする滝口武者である嵯峨源氏の渡辺氏を郎党とする。彼は父の仲政と同じく馬場を号した。
「朝家の守護」と称された満仲、頼光の流れを汲む摂津源氏は、代々、大内守護(宮中護衛。近衛部隊の前身のようなもの)の任に就いた。
多田を基盤とする系統で名前が残っているのは、鹿ケ谷での謀議を密告したとされる多田行綱(源行綱)。
行綱は源平合戦では源義経軍の一翼の多田源氏棟梁として活躍。
そのため、後に源頼朝から疎まれ、多田の所領を没収される。
摂津源氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%B4%A5%E6%BA%90%E6%B0%8F
- 94 :
- 摂津が開発され、集落形成は、清盛の時代以降。
忍=傀儡子が仕えたのは、武家源氏や平氏だから、その膝元の皮革売りの傀儡子の集落=情報交換場所が在って普通だろう。
人里離れた忍の郷は、拠点=隠れ家。
- 95 :
- 傀儡子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%80%E5%84%A1%E5%AD%90
- 96 :
- 要するに、忍びとは、アルカイダと似た組織だったって事。
今は、戦勝国アメリカの工作員なだけ。
経団連らも、生き残る為に、渋々追従してきたが、日本経団連に成ってからは、似非ユダヤ追随で開き直った的組織。
トップが、東電などの官僚天下り組織だしね。
- 97 :
- 高句麗からの傭兵=傀儡子=忍
- 98 :
- 皇族>公家>僧侶・宮司>武家
- 99 :
- >>98
織田信長の時代までな・・
信長以降武家に僧兵悉く打たれてからは、皇族>公家>武家>僧侶・宮司
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