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2012年3月日本史95: 【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その17 (796) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その17


1 :
前スレ
その16 http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1306848787/
─────────────────────────────────
次の意見(老教授氏)に関して議論するスレなのだ!
「2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体である「ヤマト」が新設され
それが王権の礎になったってことです。
その母体は、参加時期や規模の差はあるが
北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり
いわば技術、文化、物流の集積地となった纏向が王権化して各地を凌駕したものが
後の大和朝廷だと考えられています。
そこには西日本のありとあらゆるクニの技術とモノが集結しています。
問題はそれだけの勢力を「どこが」主導したかなのです。
それは北部九州かもしれませんし、吉備や畿内かもしれません。
そのあたりは過去に散々議論されていますし、各説一長一短があります。
伊都国主導というのも有力説ですし、また阿讃、東海も一概に否定できません。
ただ、どこかの任意のひとつの勢力が、単独の力で征服や建国を成したとは考えにくいですね」

2 :
すいません、ここ↑は落としてください
【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その17
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1309667396/

3 :
で、どうすんだ?
「考古学板」
【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その17
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1309667396/l50
とこの「日本史板」
【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その17
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1309908664/l50
にスレが立っているが…
先に立ったのは考古学板のものみたいだが、そもそも継続スレは当然同じ板に立てるのが筋だろうし…
邪馬台国ネタでレベルの低下を嫌った人間が考古学板に立てたか
穿った見方をすれば纏向スレがこの板にあるのを嫌った人間が考古学板に立てたか…
どっちにしても一長一短
(邪馬台国は日本史板だと考古学板のローカルルールに明示してあって
 纏向スレで同時代の邪馬台国を完全スルーも事実上無理だろうし)

4 :
とりあえずこっちのスレでネタを振っておくが…
前スレ
>955
>畿内説にしろ九州説にしろ「筑紫がヤマト王権に完全に併呑された時期をいつと捉えるか?」の違いだけだろう。
>マキムクの九州色の薄さから考えて、少なくとも三世紀初めではなく、後半から四世紀にかけてではないか?
>紀で書かれている景行親征がそれだ。
そもそも九州と畿内ヤマト王権の正面切っての(小競り合いではなくて大規模な)衝突は
それこそ後代も後代「磐井の乱」がその嚆矢なんじゃなかったのか?と想像することもあるw
あくまで纏向スレの範疇で考えれば
・3世紀〜4世紀初頭にツクシとヤマトがどのような関係だったか?
・初期の前方後円墳が出現したような地域は「緩やかな連合体(神蔵の甘木あたりが南限?)」に加わっているとして
 それ以外の「非前方後円墳地域」との関わりがどうかどうだったか?
…だろうが少なくとも敵対的であったと見るに足る材料は無いように思う。
(まあ敵対的であったとしたほうが邪馬台国九州説には色々やりやすいと思うがw)
と言うのも「前方後方墳」が結構、前方後円墳の分布と重なっていて(例:那珂SX028・002)
強固な(排他的な)ブロックを形成していたとも思えないのだが
(この辺は「狗奴国=東海説」にも同じ疑義を持っている)
つまりその後も徐々にその影響範囲を伸ばし最初は「緩やか」と言うか互恵的・対等合併みたいな感じだったのが
徐々にヤマト側の締め付けがきつくなっていよいよ九州側がブチ切れたのが「磐井の乱」とw
このスレの諸氏の見解は烏賊に?

5 :
>>3
考古学板ローカルルール
-------------------------------------------------------------------------
○人類の遺跡・遺物に関する学問=考古学、およびその関連分野について語る板です。
○人類史・遺跡に関わらない話題については、より相応しい板があるかもしれません。
 ・・・・・・
 ●邪馬台国など歴史書・古文書(記録)を中心とする話題は ⇒日本史 世界史
-------------------------------------------------------------------------
邪馬台国が中心でなければOK。IDも出るから議論がしやすい。

6 :
この板でいいんじゃないか?
「17」まで重ねてきて今更変える意味が分らない。

7 :
もはや、ここでは以前のスレの質は維持できない。
本来、考古学の立場から纏向の性格、および王権の成立プロセスを学問的に検討するスレ。
まともな考古学の本さえ読まずに、邪馬台国だの記紀だの言ってる奴の駄文は読む気がおきない。

8 :
>>4
> ツクシとヤマトがどのような関係だったか?
土器の動きからみると、
畿内の人間は大陸文物を買い付けに九州に出かけてゆき、九州の人間を通じて手に入れていたのだろう。
九州の人間は大陸文物を輸入・加工し、畿内および他地域の人間に売っていただろう。
互恵的な関係にあったように思える。
> 前方後方墳
前方後方墳をひとつのブロックとして抽出できるのかどうかは疑問。
共通の祭祀形式は墳丘だけでなく、埋葬施設・副葬品・墳丘祭祀を併せて考えるべきだと思うからだ。

9 :
>>7
お前さんは異常な程に記紀が気に入らないだけじゃないか
コンセンサスも得ずに勝手にむこうに立てて
あっちで大人しくやってるならいいが
こっちへ来てわざわざでそんな事言わなくてもいいだろ

10 :
>>7は日本史板に畿内説(と彼自身が何故か思っている)が居るのが我慢ならない人
だから立場を誤魔化してでもどこかに行って欲しいんだろう

11 :
>>4
そもそも倭人伝にある狗奴国との対立が
武力は論外として、同じ交易連合内の主導権争いに近いものなんじゃないかな
つまり同一政党内の派閥争いみたいな物
そういう意味では逆にヤマト交易連合に匹敵する別の交易連合の存在は、今のところ仮説レベルですら存在を考えにくいので
「狗奴国=東海説」は、一番妥当な解釈のように思う
と言っても倭人伝にあるように、魏の黄巾の権威のもとに倭国がついに収まりましたとか
こんなことは例に上げている那珂SX028だけでなく、遺跡や遺物の流れからは到底考えられないが

12 :
>>10
確かにそう言う推理もできると言うか俺もその可能性を半分ぐらいに見ているんだがwww
ただ記紀倭人伝をネタに妄想電波垂れ流す奴が乗り込んでくるのに辟易としている人間がいるのも事実だろうw
あまり決め付けはよろしくないかと…

13 :
>>11
まあ言わんとすることは理解できるが…
ただ現代の常識と言うより古代にも通用したであろう常識から言うと
「兄弟は内に争えど外に侮りを受けるべからず」と言うか…
果たして身内の争いに外部勢力を引き込むと言うのはちょっとどうかと…
まあ追い詰められて余裕がない方はそれをやって援軍の名目でやってきた軍にそのまま蹂躙された
…なんてことは歴史上ままあることとは思うがwww
そこら辺の事情はもう想像するしかないがあと対東海と考えれば
「瀬戸内交易ルートの東のはて」が今度は勢い「対東国」の最前線に位置するわけだが
やはり纏向にそう言う緊張の色が見難いと思ってしまうのも事実w
無論纏向が城塞化する必要はないだろうがwwwww

14 :
まあチラ裏レベルだが自身の見解と言うようなものも書かせてもらうと
先ず最初に立ち位置からはっきりさせておくと
自分は狗奴国=肥後菊池と言う大昔の説を推しているw
(ハイ、この板でドマイナーなのは自覚してますwww)
先ず>>11の言うように
>ヤマト交易連合に匹敵する別の交易連合の存在
と言うのも考え難いし、逆に当時のヤマトがその緩やかな連合体全体に号令をかけ兵力を総動員できたとも思っていない。
(この辺はこのスレの人間なら大抵はコンセンサスとできると思うが)
で、そもそも卑弥呼が魏に狗奴国と相攻撃する状を伝えたのは
あくまで親魏倭王としての資格においてであろうから
別に卑弥呼のいる邪馬台国でなくとも倭国内での揉め事であれば良いわけで…
構図としては
北部九州の連合加盟のクニグニと狗奴国=肥後菊池が衝突。
北部九州の連合加盟のクニグニから卑弥呼に現状打開のために魏に連絡を取ることを要請と…
だから別にヤマトと九州の狗奴国が直接的にぶつかったわけじゃない。
まあ九州の騒乱を遠くに見つつ纏向では巨大古墳が築かれてましたとさ、めでたし、めでたしw
光武だったか何処かで纏向を平和都市とか言ってたと思うが軍事的緊張の色が見えないのも当たり前とwwwwwww

15 :
いや、>14に一票

16 :
狗奴国と称された勢力をどこだと見るかは大変興味深いが
その以前の段階として、ヤマト連合に北部九州が参画していたか同盟していたかが必要となる
北部九州には庄内式などでその仮説の根拠とできるが
肝心の纏向には全くと言っていいほど痕跡がない
交易もしくは同盟に際し北部九州は、一体何を交易品としたのかが3世記の時点ではかなり謎なんだよね
鉄だとすればその取引量は微々たるものだし
食料などはおそらく東海のほうが主だろう
かつての北部九州なら、大陸や半島からの豪華な直輸入品とかだったろうが
弥生時代にこれほどまでの劇的な経済力逆転が果たして起こり得たかどうかの考察は必要だと思う
もちろん東征とか西征とかの武力制圧はありえないというコンセンサスの下に

17 :
続きだが自分としては、纏向創設が2世紀末頃だったとしても
それよりかなり以前から北部九州を除く西日本の有力首長たちによる、合意された交易が相当に広まっていたのではないかとしか考えられない
物理的な輸送方法の問題で、いわゆるバケツリレーになっていただけで
そのバケツリレーの方法の一つが実は高地性集落ではないかと考えている
とすると倭国乱や狗奴国との対立という、魏志倭人伝の記述そのものが果たして正しい捉え方だったのかどうかが疑問となる
商取引のトラブルや距離的な問題、輸送の困難さやもしかしたら居たかもしれない山賊や海賊などのクニに属さないはぐれ者など
そういう治安の問題のようなものを倭国乱と取られたのかもしれないし
商取引における度量衡の統一などで狗奴国と意見統一が出来なかったのが、元より和せずなのかもしれない
とにかく倭人伝だけしか資料がないので、その内容に対する真偽が計れないというのが一番の問題だね

18 :
>>16
> 一体何を交易品としたのかが3世記の時点ではかなり謎なんだよね
> 鉄だとすればその取引量は微々たるものだし
大陸文物でいいんでない?
鉄は現物が出土しないからといってなかったと決めつけられないだろう。
実用工具としては石器がなくなっていくのは確かなのに、
大溝の矢板など木製品の加工が大々的に行なわれていた事実がある。
残らなかったというのはあり得る話だ。
副葬品についてはけっこう多量に出土しているが、
逆に近畿地方にそれらを製造した高度な生産遺構があるかというと、どうなんだろう。
九州で作って畿内へ売りつけたってのは、へんな話かな?

19 :
>>18
大陸ものだとすれば、逆に北部九州にも畿内や吉備などにしても
この時期は減少するんだよね
もしかしたら画文帯を北部九州に輸入させて畿内で使ってたのかもしれないが
それなら纏向にもっと北部九州の痕跡がありそうなもので
そして加工具としての鉄器があったであろうというのは村上を引き合いに出さずとも同意
つまり交易品は「鉄」そのものではなく「北部九州で加工された鉄器」だと見るべきなのかな
まあ鉄器の多寡は村上に沿うとして、ほとんどが日本中で残っていないというのはもちろん同意

20 :
バケツリレーが突然遠隔地交易に発展するには、なんらかの輸送の新技術かインフラ整備が必要なんだな
そして遠隔地交易はもう事実として動かし難い
これを実現したテクノロジーとは何なのかが、ミッシングリンクを繋ぐのかもしれない

21 :
>>19
> この時期は減少するんだよね
この時期って具体的にいつごろのことかな?
列島に流入する中国鏡の製作時期からすると、桓霊の頃に減少して公孫氏の台頭以降増えてくる。
大陸情勢に影響された様子がうかがえるんだが、マキムク成立後は順調に入手できる状況なんじゃないかな。
> 纏向にもっと北部九州の痕跡がありそうなもの
大陸文物欲しさに畿内から九州に買い付けに来るんだから、
九州はわざわざ出向くことはないだろ。

22 :
>>21
>この時期って具体的にいつごろのことかな?
3世紀中頃のまさに倭人伝の時代なんだけど
三角縁の景初4年問題を踏まえても、半世紀ほどタイムラグがあるように思う
>大陸文物欲しさに畿内から九州に買い付けに来る
それが3世紀中頃の北部九州に可能だったのだろうか?
むしろホケノ山での鉄鏃が九州でなく吉備の様式であったことからも
大陸半島との交易が混乱で途絶えた時期の、吉備の「代用品」が使われ、北部九州はいわば連鎖倒産状態だったのかも
そうでないと3世紀後半からの畿内文化の大量侵食の説明がつかないように思う

23 :
>>22
> 3世紀中頃のまさに倭人伝の時代
そういや魏と4回ぐらい通交したって書いてあるね。
> 半世紀ほどタイムラグがあるように思う
説明してもらわないとよくわかんないな。
> ホケノ山での鉄鏃が九州でなく吉備の様式
ソースきぼん
> 大陸半島との交易が混乱で途絶えた時期
それは3世紀なかごろじゃないよね。
> 北部九州はいわば連鎖倒産状態だったのかも
にぎわってたように思うけど
「‥‥古墳時代初め頃になると、博多遺跡群の住居址から多数の鉄器未製品とともに断面が台形をした土管が出土しています。
 これは「羽口」といわれるもので強制的に炉の中に空気を送り込む装置で、
 炉内を弥生時代の炉より高温にすることが可能になりました。
 この羽口を用いた炉のおかげでたくさんの鉄器を作れるようになったのです。
 こうした鍛冶技術は朝鮮半島から直接もたらされたもので、当時の日本では最新の技術でした。」
http://museum.city.fukuoka.jp/je/html/301-310/305/305_03.htm

24 :
あっちはあんなだけど
こっちもこんなだ
マキムクスレ終わってしまったじゃないか
責任者出てこいwwww

25 :
新発見や新発表がない時期はこんなもんだw
世の中それが普通だよ
現在発表されたデータを元にして語れることは、ほぼ語りつくしているからね皆さん

26 :
しかしニュースはある
「縄文晩期最大級のヒスイ制管玉、奈良・秋津遺跡で出土」
http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C93819695E3E1E2E1E08DE3E1E2E5E0E2E3E39180EAE2E2E2;at=ALL
纏向どころか唐古・鍵よりも格段に歴史があり
纏向と同じ時代に再度隆盛を誇った秋津遺跡が、果たしてヤマト連合にどのような影響力を持ち
ひいてはヤマト連合においてどのような役割を果たしたかが
3世紀の鍵の一つかもしれない

27 :
というかメインストリームなんではないかと

28 :
御所市=秋津遺跡か。

29 :
狗奴国は、コノ国
山城国風土記に出てくる許乃国(このくに)のことだ。
狗奴国王とは、許乃国王であり、これは、武埴安彦命のことを言っている。
彼の領国は、こにあたりだったから、。
ちなみに、狗奴国の副官の拘右智卑狗(こうちひこ)とは、
河内彦のことであり、
武埴安彦命の母方や妻の一族である。

30 :
このスレが「考古学板」じゃなくて「日本史板」にある事に意味を持たせるようなネタを一つ
…と言うか以前からの素朴な疑問なんだが
今日、狗奴国の比定地で一番人気は東海で
卑弥呼を日本側の史料に出てくる人物に当てはめた場合、そっちの一番人気は倭迹迹日百襲姫命なんだろうが…
「卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命」とした場合当然お話しとして「狗奴国王卑弥弓呼=武埴安彦命」になると思うが
記紀には武埴安彦命は「山背」から攻めてきたとあるがそれはどういう解釈になるんだ?
あくまで東海の勢力が山背方面経由(東海道ルート)で攻めてきたと言うことか?
それとも東海の勢力が山背の勢力に話しが変わってしまったとか?

31 :
狗奴国の領域に山城を含めてしまえばokでは?

32 :
狗奴国は女王国の南のはずだが。
邪馬台国畿内説だから「南」が「東」の誤りなんだろう。
そこまではまあまあいいとして、狗奴国が山城なら大和の「北」になってしまうんだがwww
これはあんまりだろうとwww
>>30
> このスレが「考古学板」じゃなくて「日本史板」にある事に意味を持たせるようなネタを一つ
> …と言うか以前からの素朴な疑問なんだが

> 今日、狗奴国の比定地で一番人気は東海で
> 卑弥呼を日本側の史料に出てくる人物に当てはめた場合、そっちの一番人気は倭迹迹日百襲姫命なんだろうが…

> 「卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命」とした場合当然お話しとして「狗奴国王卑弥弓呼=武埴安彦命」になると思うが
> 記紀には武埴安彦命は「山背」から攻めてきたとあるがそれはどういう解釈になるんだ?

> あくまで東海の勢力が山背方面経由(東海道ルート)で攻めてきたと言うことか?
> それとも東海の勢力が山背の勢力に話しが変わってしまったとか?



33 :
>>32
やっぱこの板で記紀倭人伝ネタをふるとサイキバのアホがわいてくるのな・・・

34 :
邪馬台国=筑紫、狗奴国=肥後くらいで考えれば丁度いい。
東海を無理やり敵対勢力にする必要もないし。

35 :
いや、どう考えても 邪馬台国=出雲、狗奴国=大和 だろ

36 :
>34はまだしも>35は無い

37 :
>>34なんて20年前なら騙せたけどな。

38 :
【日本人の正義派 シナの手先の反原発共産主義者どもに正義の鉄槌を下す!】
http://www.youtube.com/watch?v=4YIswaRZoT0
※参考映像 ある日の反原発さん達↓
http://www.youtube.com/watch?v=_KkB5dBN1bY
http://www.youtube.com/watch?v=64CGPxi-eAQ
http://www.youtube.com/watch?v=S5PL6lxyiV0

39 :
>>29
>狗奴国はコノ国
狗は「こ」、奴は「の」と読むと、きちんと論証・立証したのかい。
まっとうな手順と手法を度外視した願望妄想かい。

40 :
毛野だろ?違うの?

41 :

狗奴国は濃尾平野。

42 :
>>40
毛野=鬼奴国
紀伊=鬼国
山城=邪馬国
高志=躬臣国
播磨=巴利国
吉備=支惟国
穴門=烏奴国

43 :
いや、もう「空耳アワー」とか「当てはめゴッコ」の類は他の邪馬台国スレでやってくれ

44 :
二上山博物館の邪馬台国シンポジウム行った人いる?
あと、土曜日に早稲田で行われた邪馬台国シンポジウム行った人いますか?
レポよろしく

45 :
石野先生や村上恭通が出るんだよな。
毎年思うが、現役の考古学者ほど、
邪馬台国なんて興味の範疇外ということ。
寂しいことだ。
今年は用があっていけない

46 :
>>45
もう20年ほど前に白石太一郎が
文献と出土品を絡めて考察する複合派と
考古学主体で文献はリップサービス程度の峻別派に分かれると書いていたけど
その最後の複合派が白石さんだったからねえ
佐原さんからモリコーさんあたりまでの人たちが主だね
春成さんや石野さんなどは、マスコミ相手の発言には文献を絡めても論文には一切無いしね

47 :
いや、春成さんは歴博のAMSプロジェクトで悪乗りしたのか、箸墓卑弥呼説を主張するために、学術発表や論文に魏志引用してるけど。
あまりに安易なので、同じ邪馬台国畿内説で箸墓卑弥呼説であるはずの白石さんに、方法論を批判されていたはずだが。

48 :
説話や伝承、てのは、年号的実年代とは無縁に語り継がれてきた物語
であって、特に記紀の崇神から応神より前の記述は
説話的様相が顕著、おそらくは、それがいつの時代の出来事か?
はとうに失われてしまっている。
前後関係もムチャクチャになっていたのだろうと思う。
例えば山片虫番桃が指摘したように、応神東征とは神武の焼き直しであって、
そういった混乱は記紀を比較すると散見される事象である。
例えば、記のヤマトタケルの出雲建の下りは、
紀の出雲振根の弟しと同じ内容で、すでに説話化してしまった史実、
つまりは大和による出雲侵攻が遠い昔の物語で
今となってはいつの時代か分からなくなっているという事態を物語っている。
もっとも説話化したのが国譲り神話で、
恐らくは崇神か景行の頃に行われた大和の侵攻が遠い昔、天孫降臨の前に
位置付けられている。
記紀信者はこのあたりのことを押さえた上で書き込んで欲しい。
安易に史実と捉える馬鹿は無視するしかない。

49 :
〉このあたりを押さえてから書き込んでくれ
いや、それでもここには書き込まんでいいだよ。
どっちにしろスレちだ。
記紀ネタに粘着してる奴は、考古ネタばかりのここが気に食わない、
文献プロパー君の荒らしだろう。

50 :
白石太一郎の考古学に関する論述はよく整理されて論理的なのに、
そこからはみ出すと、とたんにデンパ満開になるのは、
これいかに。

51 :
だから考古学のみを語りたいなら板違いという話。

52 :
>>47
ごめん春成さんじゃなくて近藤さんだったw
ぼけとるわ自分
>>50
それでも村上恭通の論文は相当ショックだったらしく
さらなる検証が必要とだけ言い残して、それ以来あまり邪馬台国について語らなくなったね

53 :
白石の、筑紫からの鉄ルート奪取のために大和王権が成立した、
みたいな、単純で分かり易い説明が、村上論文で成り立たなくなった
ということですか?
で、最近は鉄だけでなく、交易全体を考えることで、
大和王権の成立要因を考察するながれになったと。

54 :
村上の論文だけでなく、寺澤もそうだし石野も北条もなのだが
鉄に限らず奪取という概念で広域王権の発生を説明できないという流れになったんだろう
ここで旧来の文献主体の畿内説は完全に止めを打たれた
同時に北部九州の影響が吉備より東ではほとんど見受けられないことから東遷説が消え
九州内での小規模な広域王権すら確認できないということで
それまであった全ての邪馬台国論が消滅したということだね
ヤマト交易連合がヤマト王権になり、大和朝廷に発展するには
邪馬台国の時代から数百年では足りないし、キングオブキングスであるオオキミが自称でなく
少なくとも西日本を緩い繋がりで機能するようになったのは、継体いや天武天智以降だろうというのが通説になった

55 :
それじゃあ九州王朝説になってしまうだろw
少なくとも四世紀末、高句麗と抗戦してたのは、畿内大和を盟主とした
倭王権だっただろうし、
また少なくとも雄略の頃、五世紀には、
熊本江田船山から埼玉稲荷山までの倭王権が確立してたのは間違いない。

56 :
>継体いや天武天智以降だろうというのが通説になった
またまたご冗談を
それじゃあ全国的な前方後円墳ブームとはなんだったのか?

57 :
またまたご冗談を
それじゃあ全国的な銅鐸ブームとはなんだったのか?

58 :
実際、前方後円墳があるからといって、
その地域がマキムク王権に従属してたことにはならないよね。
むしろ、ある程度政治的に独立してたからこそ、
前方後円墳の祭祀を独自に執り行っていたと言える。
大王のお膝元である奈良盆地に至っても、いくつかの古墳群があって、
豪族連合であったことか推察されるのに、
古墳の形が共通だから政治的にまとまっていた
と結論づけるのは性急に過ぎる。

59 :
>>52-54
村上の本は昔1・2冊借りて読んだ程度だが
かなり断定的なことを避けて俺みたいな素人には概要・結論が分かりにくい印象だなw
まあ要するに鉄の普及も需要側の都合が色々あって
入れ食い確実なエサにはならないと言うお話って事でいいのかな?
まじめな話、もし鉄資源の分配で広範な連合体を築けるのなら
九州にも鉄の分配流通をベースにしたヒエラルキーみたいなものが存在して良いだろうwww
それより鉄の流通をコントロールするのなら当然、半島北部九州(玄界灘周辺・博多湾周辺)を武力制圧と言わずとも
少なくとも「業務提携」ぐらいはしてなきゃならないわけでもうその時点で連合体と言うか
瀬戸内を横断する「通商ネットワーク」みたいなものができているって話で
やや話が本末転倒のような気がしないでもない…
しかし本当に鉄の評価は難しい。
あと「反動」で過小評価に陥る事にも気をつけたいw

60 :
>>46
峻別派と複合派か…
白石が自著の中で伝統的に東大には峻別派、京大には複合派が多いとか書いていたな…
で、その京大の複合派が(理論的支柱を与える形で)作り上げたのがかつての邪馬台国ブームと言えるのだろうか?w
この板で京大の考古学を悪の組織のラスボスに戦っている九州説の連中は
結局その敵が作り上げた土俵の上で戦っていると言う皮肉ないしは笑い話wwww

61 :
鉄と鉄に関する技術と鉄器(とくに武器)は国家統制の最たるところ。
富国強兵の鍵となるものを独占したがるのが人間心理というものだ。
淡路島かどこか、山のてっぺんに鍛冶工房か製鉄工房の遺跡があったが。
あれを見ると、攻撃を受けて用意に奪われないよう防衛対策を講じていた節がある。
推測だが、ひょっとすると護衛の兵士もいくらか配備していたかもしれない。
それほどに鉄と鉄加工技術が大きな鍵を握っていたんじゃないのか。

62 :
>>59
鉄がマキムク開始以降も、九州>畿内、てのは、もう動かし難い事実で、
筑紫の王権は鉄を外交カードに畿内らと交渉していたということだろう。
マキムクでの九州色の薄さを考えても、
筑紫がマキムク王権に参加していたとは考え難い
(参加していれば、もっと鉄が出ている筈)。
おそらくは畿内は西新町で対外交易に参加させてもらっていたが、あくまで
外交の主体は漢委奴国王の流れを汲む、筑紫勢力だったと思う。

63 :
>>61
淡路は纏向と違って、他地域の文化侵入が殆ど無い。
甕も器台も淡路型。庄内型甕は技法すら混入なし。
変わってる。

64 :
そもそも倭人伝と邪馬台国畿内説は食い合わせが悪く、
伊都国王が代々邪馬台国に統属していた筈なのに、
伊都国地域に出現期の前方後円墳がない
(那珂八幡は奴国地域、またこれ以降、前方後円墳祭祀が継続しない)
という問題がある。

65 :
マキムクが仮にどんなに強大な王国だったとしても、
伊都国を支配下にしていない以上、それは邪馬台国ではない。
発掘が進めば進むほど、北九州との断絶が証明されてしまっている。
マキムクが畿内説を決定的に葬り去ってしまったことを認めるべき。

66 :


67 :
夏休みだなw

68 :
阿波とホケノ山は関係あるだろ?
ならもう決定じゃん。

69 :
天皇家の遺跡を掘り返しては、ちゃんとした検証もせず
無理やり邪馬台国とこじつけてるだけなのが畿内説。 
本当に罰当たりもいいとこ。低学歴軍団にまかせるとこうなる。

70 :
>>68
阿波と淡路の違いも特筆すべきこと。
淡路は西瀬戸内海の中心的な役割の一部を担ってもおかしくないのに、
>>63のような状況だし、纏向でも淡路の影響はないに等しい。
ところが阿波は古墳の原型があったと考えられている。
>>1
> そこには西日本のありとあらゆるクニの技術とモノが集結しています。
とは言い切れないのが不思議なところ。
吉備、讃岐、阿波のラインは初期に連合に加わって、
淡路、河内は少し遅れたということがあるのではないだろうか。

71 :
いや、吉備・阿波・淡路のヤマト王権参加が布留0以降で少し遅れるんだと思う。
庄内土器の分布を見ても、河内は早い段階で参加していたと思うが。

72 :
>>68
何が決定なの?

73 :
>>71
> 吉備・阿波・淡路のヤマト王権参加が布留0以降
宮山型特殊器台のある中山大塚古墳が庄内だという話はどうなる?

74 :
以北の国々は遠絶、この遠絶の意味を理解できてない奴らが多いけど、遠は物理的距離が遠いという意味ではなくて、関係が遠いという意味。
遠には疎いと言う意味がある。
遠絶は、疎遠で断絶状態にある、つまり対立・戦闘状態にあると言う意味。
この意味がきちんと理解されてないから妙な説がまかり通って混乱状態が続いてる。

75 :
庄内の編年を絶対年代に当てるのはなかなか難しいよなあ。
石野さんは3世紀初頭からなんだっけ?

76 :
>>74
>遠絶は、疎遠で断絶状態にある、つまり対立・戦闘状態にあると言う意味。
け。
女王国とそれ以北の8カ国勢力は、
その他の傍国21カ国と対立・戦闘状態にあったわけか。
>以北の国々は遠絶、
じゃないんだ。以北の国々以外の「その他の傍国が遠絶」なんだ。
大丈夫か?

77 :
>>76
昔アンタに現在の日本語で知ってる単語が出てきたからって、それを現代の日本語の意味のまま理解してはいけないって忠告したんだけどな。

78 :
>>77
んなことよりも、自分の日本語はだいじょうぶか。
遠絶なんて中国語熟語があるのか。独善我流の創作解釈か。
で・女王国とそれ以北の8カ国勢力は、
その他の傍国21カ国と対立・戦闘状態にあったわけか。
以北の国々以外の「その他の傍国が遠絶」なんだ。
という指摘はスルーか。
かっこつけて逃げることだけはよーく知ってるようだが。

79 :
>>71>>73
河内に限らず、面としての集団だとは考えられないから
中山大塚の被葬者は布留0以前からの参加と見ればいいんじゃないか
大和ですら東南部以外がヤマト連合に参加したと思われるのは相当後の時代だし

80 :
>>79
まったく逆なんだよな、俺の考えは。
弥生後期を通じて、おそらくは交易の利潤を巡って、
地域間競争の高まりがあったんだろう。
弥生以来の拠点集落の首長たちは、
対外的に優位に立てるよう、同盟、連合をしていってた。
見る銅鐸や、広形銅矛、四隅突出型墳丘墓、特殊器台
などの共通の葬送儀礼、つまりは神話を共通にする政治経済ブロックが
弥生後期には形成されていたと見るべき。
その終着点として、終末期から古墳初めにかけて発生した古墳祭祀がある。
特定首長墓の出現、首長霊祭祀の創始。それは数百年続くことになる。

81 :
>>80
自分は>>79だけど、弥生後期にはそれが当てはまるとは思うんだ
ご存知のように地域ごとに墳墓形態が特徴を持ち、その地域ごとに独特の首長霊信仰があったとみられる時代
ただ終末期から古墳黎明期は特にだけど
そのサークルの中から抜け出す集落が出始めて、その点が遠隔地と線でつながろうとし始めたんじゃないかという兆しがあるように思えてならない
それはあなたの言うように、まずはその地域内で優位に立てるように他の地域の文化や技術や交易ルートを取り込み
まさに経済活動として、地域そのものがハイブリッドしていったかのように結果的に見えるといったように
例えば北部九州では大半が前方後円墳を採択するなかで
一部は前方後方墳を選ぶケースもあるよね
これなどは言い方は乱暴だが逆張りのようなまさにギャンブル的要素もあったんじゃないかな
それも含めて旧郡藩の範囲で統一を語れないように見える
大和東南部と中部、そして山城に近い北部(現在の奈良市あたり)などは
前方後円墳体制に移行するのは古墳後期ではないかと思えるし

82 :
見る銅鐸連合が後の邪馬台国になり大和王権に発展していく訳やね

83 :
見る銅鐸とか言ってるけど、後の時代の旗印の原型だった可能性はない?

84 :
>>81
古墳時代以降は、マキムクに巨大王権が誕生、
東海や筑紫、吉備などの連合に楔を打ち込むため、
ヤマト王権が分断政策を取ったんだと思う。
山口組と同じ手口で地域の主導権争いに介入し、その調整役になることで、
自らの権威の伸張を図った。
要は、地域の二から三番手の勢力に肩入れし、
揉めさせることで一枚岩を崩す政策。
室町幕府の奉公衆に近い。

85 :
>>84
豪族や首長たちの関係をで例えるのは言い得て妙だが
地域ごとに○○一家みたいな一枚岩の強固な繋がりはなかったというか、まだ時代が早すぎるんじゃないか?
王権というか権力志向にも個々に温度差があっただろうし
なんというか、一言では説明できないようなグダグダの状態が飛鳥までは続いていたように思う
大仏建立が後の参勤交代に匹敵する支配システムとして機能する時代まで
国内特に地方はカオス状態だったんじゃないかな
これ九州王朝とか○○王朝とかいう誇大妄想jとは違うから、そこは念のため

86 :
>>80
>見る銅鐸や、広形銅矛、四隅突出型墳丘墓、特殊器台
>などの共通の葬送儀礼、つまりは神話を共通にする政治経済ブロックが
>弥生後期には形成されていたと見るべき。
銅鐸・銅矛と、墳丘墓・特殊器台を、並列して憚らないセンスの悪さに驚く。
見る銅鐸、広形銅矛は、葬送儀礼とは殆ど何の関係もない筈だ。(対馬の一部だけは除くが)
恐らく四隅突出型墳丘墓や特殊器台は、銅鐸・銅矛・銅剣等の弥生青銅祭器による祭祀を
拒絶した人々によって、新たに始められた儀礼なのだろう。

87 :
>>84
吉備との関係が濃くなる前に、纏向には何もありませんよ。

88 :
いや、初期マキムクに吉備の影響が本当に強ければ、
石塚、矢塚、東田大塚、勝山の、いわゆるマキムク型前方後円墳に、
特殊器台が使用されてると思うんだよね。
吉備は途中参加でしょ、おそらく。
確かに、銅鐸銅矛は葬送儀礼とは関係ないな。
共通の宗教観、てことで。

89 :
石塚、矢塚、東田大塚、勝山が箸墓より古いかどうか分からんし、たとえ古いとしても
特殊器台を輸送する手段がなっかたので見送られた可能性も考えれば、特殊器台だけで
判断するのは危険だと思う。現に奈良盆地、河内での吉備の土器の出土状況をみれば
早い段階で参加していただろう。

90 :
>>88
中山大塚古墳から宮山型特殊器台が見つかっているのだから、
庄内式期から吉備の影響はあったということ。
箸中古墳群に特殊器台がないのは被葬者の出自によるのではないか。

91 :
>>89
現時点では石塚、矢塚、東田大塚、勝山などより箸中山が先行するという見方は危険だろう
>>90のいう中山大塚にしてもだが
それよりも「箸中山築造時の最初から特殊器台があったのかどうか」がまだ断定できないのだから
(改修時や後の祭祀での設置も現時点では考慮せねばならない)
吉備が纏向初期から参画していたか否かは、まだ結論を出せる段階ではないと思う
それでもすでに弥生後期の河内大和川沿岸においては、特殊器台のような祭祀具ではなくとも
吉備や出雲の土器がそう珍しいものではなかったとは見ていいだろうが

92 :
墓造りの重要性、「王の権威を民衆に知らしめる」を考えれば、
マキムク最初の石塚古墳に特殊器台が無い、ってことは、
もっと重要視されていいと思うが。
吉備から運ぶのに時間がかかった、とか無茶苦茶な理屈だよw

93 :
少なくとも前方後円墳の最初の方は、吉備の葬送儀礼は採用されず、
逆に他地域の影響は多く見られる。
庄内の頃、吉備はヤマト王権には参加していなかった、
もしくは立場は低かったかのどちらかだろう。
更に言えば、吉備が本格的に参画したと思われる箸墓=布留0以降の古墳で、
三角縁が出土するようになるのも意味深だ。
吉備の合流で初めて、ヤマト王権は全国王権になり得たのではないか?
吉備で言えば、箸墓の相似形とされる浦間茶臼山が造られたころだろう。

94 :
中山大塚に特殊器台があることから、庄内式期には吉備の影響があったと思われる。
同時期に特殊器台の祭祀をおこなう墳墓とおこなわない墳墓が併存しているということは、
被葬者とその同族が採用する葬送儀礼の違いが理由だと考えられる。
箸墓に葬られた初代倭王の葬儀の際に墓制を含む葬送儀礼が定型化されたのだろう。

95 :
庄内の初めは吉備の影響、ないでしょ、という話で。
中山大塚自体、布留0とそう時期的に離れていないと思うが。

96 :
>>95
> 庄内の初めは吉備の影響、ないでしょ、という話で。
そんな話あったかな? ・・・以下のレスの
>>71
> 吉備・阿波・淡路のヤマト王権参加が布留0以降
>>88
> いや、初期マキムクに吉備の影響が本当に強ければ、石塚、矢塚、東田大塚、勝山の、
> いわゆるマキムク型前方後円墳に、特殊器台が使用されてると思うんだよね。
> 吉備は途中参加でしょ、おそらく。
>>93
> 少なくとも前方後円墳の最初の方は、吉備の葬送儀礼は採用されず、逆に他地域の影響は多く見られる。
> 庄内の頃、吉備はヤマト王権には参加していなかった、もしくは立場は低かったかのどちらかだろう。
> 更に言えば、吉備が本格的に参画したと思われる箸墓=布留0以降の古墳で、
「箸中古墳群に特殊器台がないことから吉備の参加は布留0以降」
という見方について検討しているつもりだったんだけどね。
まあ、纒向1式の外来系土器のうち吉備系が20%以上あるわけだが。

97 :
いや、そんなこと言えば、外来系では東海の土器が一番だしさ。
庄内初期、マキムク運河が築かれた頃に、
大和川水系首長層(大和+中河内)の一大連合、大規模な経済圏が生まれて、
吉備や東海もそのヤマト王権と交易してただけだと思うが。
楯築以降からの伝統的な流れと、
浦間茶臼山以降ははっきりと相違があると。
マキムク発の前方後円墳を吉備が受け入れたのが箸墓築造の頃ということ。

98 :
>>97
> いや、そんなこと言えば、外来系では東海の土器が一番だしさ。
> 吉備や東海もそのヤマト王権と交易してただけだと思うが。
ワロタ

99 :
>>97
> 大和川水系首長層(大和+中河内)の一大連合、大規模な経済圏が生まれて
なら、その経済圏が誕生した経緯を当該期の中河内の状況から検討するべきだろう。
中河内地域では庄内期初頭に、それまでの拠点集落が消滅し、新興の集落が各所に登場する。
これらの遺跡は、弥生時代後期からの発展によって段階的に形成されたのではなく、
それまでの展開とは無関係な地に突如として出現することに特徴がある。
ここでは外来系土器としては山陰系のほか、吉備、讃岐、阿波系の瀬戸内地域の土器が多いという。
そして当該地域の集落が纒向遺跡を中心とする大和盆地東南部地域への一方通行的な流通に関与したと指摘されている。
また、中田遺跡群の消長は、纒向遺跡の消長と一致しており、
自然集落の消長ではなく、人工的・政治的な突然の出現と消滅を感じさせる。

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