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2012年3月日本近代史146: 武市瑞山&土佐勤王党について4 (399)
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武市瑞山&土佐勤王党について4
- 1 :
- 語り合おうぜよ!!
- 2 :
- 土佐勤王党盟約文
堂々たる神州、戎狄の辱しめを受け、古より伝はれる大和魂も今は既に絶えなんと、帝は深く歎き玉ふ。
しかれども久しく治まれる御代の因循委惰といふ俗に習ひて、独りもこの心を振ひ挙げて皇国の禍を攘ふひとなし。
かしこくもわが老公つとに此事を憂ひ玉ひて、有司の人々に言ひ争ひ玉へども、かえってその為めに罪を得玉ひぬ。
かくありがたき御心におはしますを、などこの罪には落入り玉ひぬる。君辱めを受くる時は臣死すと。
いわんや皇国の今にも衽を左にせんとするを他にや見るべき。
彼の大和魂を奮ひ起し、異姓兄弟の結びをなし、一点の私意を挟まず、相謀りて国家興復の萬一に裨補せんとす。
錦旗若し一たび揚らば、団結して水火をも踏むと、爰に神明に誓ひ、上は帝の大御心をやすめ奉り、我が老公の御志を継ぎ、下は萬民の患をも払はんとす。
されば此中に私もて何にかくに争ふものあらば、神の怒り罪玉ふをも待たで、人々寄つどひて腹かき切らせんと、おのれおのれが名を書き記し、おさめ置きぬ。
- 3 :
- くそう上士のせいで・・・
おのれよーどー!?
- 4 :
- 下士と上士の軋轢を必要以上に重大に捉えて
下士は土佐では犬猫以下の扱いだった〜みたいな話を信じてる奴は司馬と坂崎紫欄に騙され過ぎ
自由民権史観ュする坂崎の手に掛かると容堂の維新後の放蕩ですら「封建性の打破」になるんだから恐れ入るw
それはともかく瑞山&土佐勤王党と山内容堂はセットで調べた方がいいと思うがね
- 5 :
- 前スレの続きになるけど
武市先生と樋口真吉って史料上の接点あったっけ?
- 6 :
- >>5
「遣倦録」の冒頭から何度か出てきたりしますやん。
http://books.google.co.jp/books?id=XWYS-rezzRAC&dq=editions%3AGYBFIRdGb9kC&pg=PT176#v=onepage&q&f=false
- 7 :
- >>6
ホントだwどうもすいません。
『武氏』も武市先生のことだよね多分。
雨の日によく武市先生が訪ねて来てるようだ。
1ページ目の有名な『坂龍飛騰』に続く『武楯出風憲』はどういう意味に受け取ったらいいんだろう?
- 8 :
- 武市さんは年長者とよく相談してたらしい。横田氏の本に書いてあった。
直接指揮を採るのは最初だけで途中から割とおまかせモードになってた気がする。
- 9 :
- >>1
乙
>>4
260年もの長い間の激しい差別に晒して今日までなんの謝罪もしてない
(しても山内家のように儀式的)
のだから、そういう認識を持つ人がいてもやむを得ないと思う
少なくとも、そういう歴史ではあった
- 10 :
- >>9
いや当時は人間序列があるのが当たり前の時代だったし階級差があるのはどこの藩も同じ。
長い間の激しい差別って何を指してるんだ?
大体龍馬達郷士だって国民の大多数が農民の時代に代々藩から禄もらってる特権階級だし封建社会への恨みって言われても。
そんな了見だから「井口村刃傷事件が土佐勤王党結成の切欠」みたいな根拠のない俗説を
龍馬記念館の学芸員までまことしやかに吹聴することになるのだよ。
- 11 :
- >>7
>『武楯出風憲』はどういう意味に受け取ったらいいんだろう?
目付役場に出頭って感じだったかと。
ほれ、あの書生論だとかなんとか言われた時の事。
- 12 :
- >>10
龍馬の坂本家も瑞山も島村家も富裕層だもんな。
むしろ経済的に恵まれた暮らしだったからこそ青臭い「書生論」を真面目に実行したりするんだ。
- 13 :
- >>12
普通に考えれば瑞山って馬鹿だもんな。
あんな馬鹿によく200人もの党員が付いて行ったものだ。
政治するには、それしか選択肢が無かったんだろうけど
井の中の蛙、お山の大将に過ぎない武市でも、当時の党員には救世主に見えてたのかな
間崎、平井は本当に惜しかったねぇ。
武市は頭固いし融通利かないから、生きててもこれ以上は何も出来なかっただろうしあそこで死んで正解だけど、この二人は維新後も良い仕事しただろうになぁ
武市じゃなく大石が盟主だったなら死なずに済んだかもしれないのにね。
そもそも武市なんて叔父の思想に洗脳されただけの馬鹿じゃんwwあの人いなかったら自分の思想なんて無かっただろ武市www
- 14 :
- >>13
はいはいクマクマ
前スレに粘着してた腐れ佐藤以蔵オタは
キモいので自分のブログから出て来ないで下さい。
- 15 :
- 勤王党参加理由は人それぞれだろう
身分制や上士めがーと参加したのも居たろうし、血気盛んなで入ったのもいるだろし
全体を纏め上げた器量あるのが武市なんで
武市が頭が固いってのも違うしね
それを言うなら龍馬や西郷や大久保も頭固いし
西南戦争も両方譲れないから起こったんだしね
- 16 :
- http://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/database/onair/02.html
「開運!なんでも鑑定団」に武市さんの手紙&自画像が出てたよ。
武市さんマメだったからか手紙もよく残ってるね。
- 17 :
- >>10
龍馬記念館の学芸員「根拠は無いけど(井口村事件は)土佐勤王党結成に影響してるんじゃないでしょーかねー」
とか言ってたなw
根拠が無いならそんな事言っちゃダメだろw
- 18 :
- 前スレで話題になってた門田為之助だけど「土佐偉人伝」に項があるね。でも短い。
本当に資料があまり残ってなかったのね。
- 19 :
-
1835年(天保五年) 竹村東野、江ノ口村に成美塾を開く。門弟の数は一千余人。同塾は多くの土佐勤王党志士を育成した。
1837年(天保八年) 樋口真吉、筑州柳河の大石神影流大石道場に入門する。
1841年(天保十二年) 土佐三郡の郷分庄屋が中心になり秘密の庄屋同盟を結ぶ。
1842年(天保十三年) 庄屋同盟に触発された吾川郡の領民三百数十名が松山藩領へ逃散する。
1843年(天保十四年) 三月七日、第十二代藩主山内豊資公、吾川郡の集団逃散事件の責任を負い隠退する。
1843年(天保十四年) 同日、山内豊資公長男“豊熈”が第十三代藩主になる。
1844年(天保十五年) 試通馬禁止令に怒った郷士六百名が城下に集結し、不当な階級差別だと藩庁に対して猛抗議を行う。
※[藩庁記録] 是より先、郷士連署して馭初式試乗規定に異議を陳情することあり。
是日、手書を有司に下して慰撫の策を講ぜじむ。紛紜年を越えて尚、決せず。
1848年(嘉永元年) 吉村虎太郎、庄屋職に就任する。
1848年(嘉永元年) 七月、山内豊熈公、三四歳で病没する。
1848年(嘉永元年) 九月六日、山内豊資公次男“豊惇”が第十四代藩主になる。
1848年(嘉永元年) 同年九月十八日、山内豊惇公、二五歳で病没する。
1848年(嘉永元年) 同年十二月、分家の山内容堂、応急措置として条件付きながら第十五代藩主となる。
1850年(嘉永三年) 北添佶磨、庄屋職に就任する。
1853年(嘉永六年) 四月、坂本龍馬 江戸に出て北辰一刀流千葉道場に入門する。
1853年(嘉永六年) 七月、ペリー提督率いる米国艦隊が浦賀沖に来航する。
1854年(嘉永七年) 武市半平太、城下新町田淵に剣術道場を開く。
1854年(安政元年) 十一月、巨大地震と大津波が土佐を襲い、沿岸諸浦が壊滅的被害を受ける。
1856年(安政三年) 武市半平太、江戸に出て鏡心明智流桃井塾士学館に入門する。
1857年(安政四年) 中岡慎太郎、安芸郡北川郷大庄屋見習になる。
1858年(安政五年) 山内容堂公、幕府に隠退届を提出する。
1859年(安政六年) 二月、容堂公の隠退に伴い、山内豊資公末子“豊範”が第十六代藩主になる。
1859年(安政六年) 十月、容堂公、幕府から謹慎を命じられる。
1860年(万延元年) 三月、江戸城桜田門外で大老井伊直弼が暗される。
1860年(万延元年) 七月、武市半平太、岡田以蔵らを伴い、西国へ情勢探索の旅に出る。
1860年(万延元年) 十月、和宮親子内親王の御降嫁が決定される。
1861年(文久元年) 三月、永福寺門前事件が発生。藩庁による捜査は執拗で、事件に関与した軽格側への追及は一月程続く。
1861年(文久元年) 四月、大石弥太郎、江戸から武市半平太に宛て、江戸招請を要請する旨の書簡を送る。
1861年(文久元年) 同月、武市半平太は義甥の小笠原保馬を伴い土佐を出立。諸国探索を終えた六月、江戸に到着する。
1861年(文久元年) 八月、武市半平太、江戸で薩長勤王志士らと三藩連合による勤王運動を約し、土佐勤王党を結成する。
- 20 :
- 司馬遼太郎の影響で風評被害を被った人物といえば田中光顕もそうなんだよな。
葉山の御夢の前から皇后は龍馬の事を知っていた。
一坂太郎が何やら勝手なことを言っていたが
別にあれは田中光顕ら「薩長の肥やしになった土佐閥の恨みのプロパガンダ」と言われるような代物ではない。
- 21 :
- >>19
瑞山の三藩主同時入京提案はあんまり注目されないよね。
というより文久年間の動き自体あんまり注目されてないのか。
ちなみにこの頃交流のあった薩摩の樺山三円はいつの間にか史料から消えて行方不明らしい。
薩摩人はあまり史料残さないとも言われているけれど…。
- 22 :
- 面白そうな催しが。
http://www.kochi-bunkazaidan.or.jp/network/jyunkai/jyunkai2.pdf
11月19日(土)13:00〜 北川村民会館 2階研修室
【武市半平太の手紙を読むA】
講師:高知県立歴史民俗資料館 野本亮
昨年の大河ドラマ『龍馬伝』で坂本龍馬とともに注目を浴びた武市半平太。
彼が妻・冨に送った手紙を熟読しその人柄に迫ります。
【禁門の変における土佐勤王志士】
講師:北川村立中岡慎太郎館 豊田満広
中岡慎太郎、二十三士など東部地区の勤王志士たちの状況認識と行動について
禁門の変前後を事例にお話しします。
- 23 :
- >>22
大河ではカリスマ性のカの字もない悲惨な扱いだったけど注目は浴びたよね…。
まあ以蔵を毒だの暗で利用だのの創作ネタを真に受けてキーキー言ってる腐女子は
例の粘着してた人みたいに何言ってもムダだろうから今更手のひら返さなくてもいいけど。
時に武市さん達や天忠組の目的って結局天皇親政って事になるのかな?
- 24 :
- >>22
去年高知県立歴史民俗資料館でやった「武市半平太の手紙――拝啓 おとみ殿」は良い企画展だった。
またいつかやらないかな。
>>23
天皇親政というか幕府に代わって朝廷中心の政治体制を構築したかったんじゃないか。
挙藩勤王もそのために必要な手段であって目的じゃない。
また土佐一藩の力だけで時勢をどうこうできるとは考えて無かっただろう。
瑞山・龍馬ら土佐の者は調整役が主な役割だったと思うが
三藩主同時入京を提案した時、瑞山は時勢を動かす中心人物だったと言えるかもしれない。
- 25 :
- 攘夷がまず第一でしょう
真木和泉が長州藩単独では攘夷実現は不可能と見て
挙国攘夷に持って行く為考えたよう
討幕も考えていた様
- 26 :
- >>12
日和見してる奴よりそういう真面目な奴の方が好きだね。
日和見してる奴ばかりじゃ世の中変わらん。
- 27 :
- 幕府の対外姿勢を批判する所から幕末の闘争が始まってるんだよね。
弱腰外交の幕府に代わり国難に対応できる新政権樹立が目的だったのではないでしょうか。
ところで間崎哲馬が小南五郎右衛門に頼んで航海術修行を推奨した話って何に載ってるん?
これのお陰で高松太郎、千屋寅之助、望月亀弥太達が勝先生の塾生になれたみたいだけど。
- 28 :
- よう分からんのは山内家でも前藩主の容堂と違って
現藩主の豊範、容堂の実弟の山内兵之助、山内民部らは勤王派に協力的だった事だ
山内なら佐幕>勤王ってわけでもないし
土佐の佐幕派は佐幕派内でまたバリエーションがある
- 29 :
- 窃かに古今宇内の盛衰得失を察するに、一治一乱は勢の止むを得ざるもの也。
而して一張一弛は治国の要務也。非常の難を釈くものは、常道を以て見る可らず。
抑も和漢古今及び西洋各国其国政の張るや、必ず大英断を施し、大危難を経、一朝其の旧弊を除き、始めて其の国の政教の一新を見る可く、国体茲に於てや立つ。
未だ周旋と議論とに終始して国を興し、難を釈くものを聞かざる也。
世上往々議論周旋する者あり。其の言に曰く。『皇国一和以て政教を立つる也。武備充実以て国威を張る也。信義以て外国に交る也』と。
議論愈々密に周旋益々極り、而て未だ其の実効を見ざる也。何となれば是れ言う可くして行う可らざるの理也。
抑も癸丑以来皇国一和、武備充実等紛々たる説あり。
始め三港條約の成りし時、久坂義助なる者「回瀾條義」を著す。其の説に曰く、「今巳に三港定約の成りし上は、広く有志の者を海外に遣わし、西洋の諸学諸芸及工商の術を学ばしめ、大に海陸の軍備を張る可し。斯の如くせざれば、以て国体を立つるに足らず」と。
其後幕府益々妄行、諸藩日々に因循苟安、会て其の効を見ざるに至る。
茲に於て始めて其の言の空論施すに足らざるを知り、壬戌の年に至り義助又「解腕痴言」を著す。
其の説に曰く、「今日 天朝勅諭確々奉ぜざる可らず」と。断然攘夷の説を決して曰く。
「苟くも吾輩節義を以て天下を動かし、一死以て皇恩に報い、一朝不測の難を神州に引受け、百戦の危を経る豪傑其の間に興るに非らざれば、何を以て土崩の患を防ぐに足らん」と。
高杉春風も亦曰く。「今日西洋事情を説き、彼を知るを以て自ら負う者、わずかに西洋の一端を見て、会て古今盛衰の機の由る所を知らず、当時彼の盛強なる、尤も其の本既にあり。
今日吾邦に於て、彼の盛なるを学ばんと欲せば、英佛等の未が盛ならざる時、内戦度々有之し事。又、魯西亜の百戦危難の内より国を起せし事など斟酌し模範とす可し。若し吾が国今日の弊勢を以て、彼の盛強文明巳に治まりたるを坐ながら学ばんと謂はゞ大間違也。
故に曰く。宜く奇変、英達、実行を以て天下を一新す可し」と。
嗚呼。両士既に去る。復た両士に対して今日の事を議する事能わず。
然りと雖も幸に其の言に因て、聊か今日の治論を助くるに足る。今已に歴観せし所の一二を証せん。
- 30 :
- 壬戌の年薩州の壮士英夷を生麦村に斬る。其後英軍鹿児島に入り罪を問う。時論多く、曰く薩州大なりと雖も英国の力を以て攻むるに至りては、決して支う可らずと。
然るに此の一戦に依て士気大に奮い、俗論漸く沮し、因循苟且の弊漸く破れ、所謂攘夷家なる者も先んじて航海練兵の実用を主張するに至り、一藩の国是定りたり。
又長州に於ては、屡々夷船を暴撃し、甲子京師に敗軍し、続て馬関の大敗あり。又追討の兵を四境に受く。
此の時人皆思へらく、防長の滅亡疑いなしと。壹計らん、長州は一国の政事を改革し、兵制を一新し士気大いに奮うは、全く此の一危難に由て也。
又幕府昨年討長の敗軍に人皆思えらく、自今幕府恐るゝに足らずと。何ぞ計らん、幕府の海陸兵制の奮いしは、亦此敗軍の機に由て也。
凡そ機会の間常眼を以て見る可きは難し。斯の如き活動の機、卓識英断並び行う。義助春風の如き非常の士に非ざれば見難き也。
然るに天下今日因循苟旦の弊、猶未だ其の百分一を改むるを見ず。
夫れ世間因循傍観区々として、只人の失策のみ求め、笑ひ坐して天下の機会を失し、甘んじて人の後に落つ。
斯の如き碌々愚弱の徒、固より論ずるに足らず。其他世に所謂有名の藩なる者に至っては此の理を知り、勢を辨ずと雖、未だ其の効なきは何ぞや。
是れ亦恐らくは成敗の間に疑惑し、事に臨で断ずる事能わず、未だ因循苟旦の弊を脱せざる也。
古人曰く断大事者、先忘成敗と。是れ実論也。事機の得失、前証の如く、敗素より憂うるに足らざるあり。勝却て恐る可きあり。若し此の機を知り着眼一定して百敗撓まざる時は、天下万事成らざる稀也。
然るに国に大義あり。公道あり。戦求めて得可らず。只管大義を踏み、公道を行い、一歩も退かざれば已を得ざるの機決、必ず目前に至らん。此れ前件の勢を論ぜざるを得ざる所也。
吾が神州危急存亡今日に至て極れり。
苟も其の国民たる者、壹傍観すべけんや。誠に古人言う所の如く、邑ある者は邑を擲ち、家財ある者は家財を擲ち、勇ある者は勇を振い、智謀ある者は智謀を尽し、一技一芸ある者は其の技芸を尽し、
愚なる者は愚に尽し、光明正大、各々一死以て至誠を尽し、然る後政教立つ可く、武備充実、国威張る可く、信義外蕃に及ぶ可き也。
克く斯の如くすれば壹、皇運挽回の機なからんや。壹復外藩を制するの術なからん哉。満腹の婆心聊か書して知己の忠告を待つと云爾。
時勢論 中岡慎太郎
- 31 :
- >>28
「尊皇」にはそれだけの重みがあるってことかな。
山内民部などは山内家一門にも関わらず討幕論に賛同してたらしい。
そういえば山内豊範は長州藩主の養女と結婚してたね。
政変後泣く泣く離婚させられてたみたいだけどその後はどうなったんだろう?再婚したのか?
武市瑞山といえば志士を糾合した功績ばかり注目されるけど
この辺の人達の助力を引き出し土佐を中央政局に担ぎ出したあたりはもっと評価されていいと思う。
- 32 :
- >>31
>>武市瑞山といえば志士を糾合した功績ばかり注目されるけど
その功績ですら、最近はまともに評価されてる本殆ど見ない気がする
- 33 :
- ・土佐の志士を政治的に覚醒させる導火線の役割
・薩長土連携の先駆け
明治維新と言う結果に直結する武市の歴史的存在意義は、この辺だろう。
「土佐の吉田松陰」と言った所か。
- 34 :
- 瑞山の政治上の実績といえば朝廷復権運動に関する部分じゃね。
龍馬は何で脱藩したんでしょうねー誰に暗されたんでしょうねーいやー大いなる謎ですねー
みたいな話題がループしてるおバカ達の界隈の話等どうでもいい。
- 35 :
- 武市先生、将軍に謁見までしちゃったしね。
そりゃ土佐藩の立場考えれば不敬罪こじつけてでも死刑にしようとするわ。
ところで>>2の盟約文は
大石弥太郎に加え
同じく鹿持雅澄門下で武市の学問の師だった徳永千規も起草に加わってるそうだね。
- 36 :
- >>4
まあ関ヶ原以来の土佐の階級差への反発が皆無だったかといえばそんな事も無い訳で。
被差別意識が創作で強調され過ぎてるきらいはあるがw
例えば瑞山釈放嘆願運動に関しても党員によって対応に差が出たが
野根山23士などは土佐藩上層部への反発心を露わにした集団だった。
安芸郡志士の育ての親である高松順蔵などは容堂からの出仕の話を断り
一方門田為之助は容堂の覚えもよく和歌を下賜されている。
階級に対する意識は地域また個人によって差があったとみるべきだろう。
- 37 :
- 安芸郡て血の気多いの?
- 38 :
- 井口村も血の気多いよね
平井なんざ戦国策士の風があるとか言われているわりには、土佐からの追っ手を中岡や岡田や武市の弟のような、下っ端党員を使って返り討ちにしたり、
長州の家茂暗計画にも、田中らを応援に差し出したりして協力的だったし結構な過激派だよね
まぁ、ホモが上士に斬りされるような土地ですしね
- 39 :
- >>38
板垣退助disってんの?
- 40 :
- >>39
なんで?退助が男色家で元不良だから?
- 41 :
- 例のキモ粘着以蔵オタの荒らしだよw
歴史に興味はないそうなので餌やるなw
スルーしとけ。
- 42 :
- 四与力暗の時武市さんに知らせに来る津和野藩の志士、福羽文三郎ってどんな人ですか?
調べても美静になってからの事しかありません。
武市に知らせに来る事と学習院出仕ぐらいしかわからないです。
- 43 :
- 福岡在住なのに高知県民のフリまでして何がしたかったんだか…
武市さんの名前が出る場所ならどこでも、乙女ゲーのスレにまで出張してきて厨ちゃん丸出しで悪口言い出し
向こうでもすぐ特定されてたよこの岡田以蔵オタの人。
>>31
理想としては朝廷>幕府が正しいんだけど
力関係が幕府>朝廷の現状では幕府の顔色を伺うのが現実的な対応という事で
お偉いさんにとってもこれは悩ましい問題だったんでしょうね。
- 44 :
- 土佐勤王党に直接関係ないが
10月29日の土佐史談会「土佐の偉人十講座」が松岡司の「野中兼山遺族」
行く人いる?
ちなみに来月は谷干城じゃよ。
- 45 :
- 武市さ〜んまってつぁkさぃー
- 46 :
- >>31
瑞山が大久保っぽいと言われるのはその辺の働きを指してるんだろうな。
土佐勤王党の活動というと、本来オマケ要素である筈の天誅しか注目されないのが悲しい所だ。
朝廷復権が主な活動目的だったと思うんだが。
- 47 :
- 天皇と言う言葉を聞いただけで涙するほどの「天皇好き」は
現代では評価されにくかろう。
- 48 :
- さすが武市先生。
そういう人物じゃない奴は信用できない。
幾ら口先が上手くても、口舌の徒に過ぎない。
- 49 :
- 一党意識が強くて協調性のない土佐っぽが団体行動出来てたのも
藩主含め土佐藩上層部に協力者が出来たのも
そんな武市さんの人徳があればこそという側面があるわけよ。
- 50 :
- しかし残念ながら地元以外での一般的な武市先生に対する認識というのはこんなものではないだろーか。
萩市観光協会公式サイトより
一坂太郎のディスカバー維新史〜龍馬立志の萩
http://www.hagishi.com/ishinshi/006.html
一坂ワザと書いてるんじゃないんだよな?w
久坂の「在野の草莽糾合、義挙の外には迚も策これ無き事と〜」の義挙って
伏見義挙の事じゃねーの?あの早とちりプランの。
つーか時期尚早な義挙を決行して何の役に立つというのかね。
一藩勤皇(挙藩勤皇)は目標達成のためクリアすべき必要最低条件じゃね?
- 51 :
- 長州でも土佐でも当時藩論は公武合体だから
草莽義挙で時勢を動かすしかないと見たわけだろう
武市は最終的に暗と言う非常手段で動かしたが
- 52 :
- 武市は一般的な評価は低いよ。
吉村の方が評価高い
萩の祭でも武市だけハブられたようだし
維新まつりでも、武市のイメージ悪いようだし、所詮余所では武市なんてそんなもんだろう
高知以外では評価されずに、四天王の中で一番人気無いしな
- 53 :
- 姉小路暗したのも世間では武市だと思われてるし、武市なんて世間ではカス
- 54 :
- 一般評価とか言われてもw
吉村なんてほとんど知られて無いだろ
初期の龍馬と言える平野国臣なんかもほとんど知られてない
- 55 :
- 吉村虎太郎推しって地元の檮原津野山や天誅組の五條東吉野くらいだろw
高知ですら目先の人気ばかり見てほぼ無視じゃんw
土佐四天王と認知してる人がどれくらいいるんだろうというレベル
迷惑かけられた側の吉野があれだけ天誅組大切にしてるのはすごいと思うけど。
- 56 :
- >>55
吉村は、山口県の萩でも評価高いみたいよ。
武市は藩にこだわって脱藩しなかったから山口的には狭量扱い
久坂の話聞いて脱藩した方が偉いって認識だから
- 57 :
- なぜ例の粘着にいちいち構うかなぁ…
この粘着、大森南朋のスレにまで出没して発狂してたみたいで、
武市の名前が出そうな所に常に貼り付いて機を伺う様がキモイくて
個人的には関わり合いになりたくないもんだから、
こんな奴にいちいち構う人の気が知れん。
- 58 :
- まだ推してくれる所があるだけ良いんじゃないかな
武市はどこが推してくれてるって?ん?
武市みたいに、天誅天誅でまともに功績について語られないテロリスト扱いより良いじゃん
- 59 :
- 龍馬にまで見捨てられ浮浪者になったあげく女も耐えた拷問に泣き喚きながら自白した
岡田以蔵みたいなゴミ野郎の痛いヲタ腐女子が散々論破されても飽きもせず粘着しとるなw
以蔵本人が志士の本分を忘れたクズならオタの人間性までクズときてるw
もう卑怯なマネはしない(キリッとかブログで所信表明してなかったかw
同じ武市門下で天誅を好んだ男でも島村衛吉と岡田以蔵では何故ここまで末路に差が付いたんだろうなー
- 60 :
- >>59
岡田以蔵ねえ…ちょっと他の党員と見比べれば
とても誉めたり同情したり出来る人ではないって分りそうなもんだけど。
wikiも大分修正されたけどアレ見てどう思ってるんだろ?
集団行動してる人達を一人だけ取り上げてそればっか調べても仕方ないのに。
武市さんに関しては地元で定期的に顕彰されてるんじゃない?
「土佐勤王党」って集団に割とスポットライトが当たりだしたのは去年の大河ドラマ以降だと思うけどね。
テレビとかに出してもらえれば縁の品が出てくる党員は他にもいると思うよ。
- 61 :
- 以蔵の事じゃなく武市の話してるんだけど?
で、地元以外でこいつ推してる所あるの?
萩でも土佐四天王の中で唯一狭量扱いでスルーされてる存在なのに?
答えてみろよほらwww
武市なんて評価してるのは地元以外無いって言われたのが悔しくて逆ギレですか?www
- 62 :
- ずっと同じ内容しか書かず行く先々で特定されてる癖にしらばっくれなくていいぞキモ腐w
地元以外で観光客呼べる維新志士なんて龍馬くらいのもんだw
しかし一坂太郎も久坂&吉村と伏見義挙の件、まさか知らないのか
知っててああいう書き方なのか
- 63 :
- 久坂玄瑞といえば、横田先生が「武市半平太と土佐勤王党」で
ボロカスに書いてたようなw
- 64 :
- ボロカスだったか?
むしろ、若さ故に当然の事みたいな書き方じゃなかったか?
- 65 :
- 脱藩時は吉村と似た様な心境だったであろう龍馬も
草莽崛起を実行に移した吉村達が派手に爆死した件に対してはドライな感想残してるんだけどな。
で資金繰りに困っていた事も手伝って挙藩勤王路線に戻った。
- 66 :
- 容堂の事と言い、以蔵の事と言い、武市は人を見る目が無かったな。
これが命取りになった。
- 67 :
- 土佐藩が動かなくても龍馬や中岡は薩長と共に挙兵したろうけどなあ。
土佐藩が薩長側に参戦するのは鳥羽伏見で薩長優勢が見えてからだし。
日和見が薩長に後れを取った原因。
結局武市をして草莽の志士である龍馬と中岡も喪いもっとも痛手が大きかったのは土佐藩だから。
- 68 :
- >>66
以蔵は武市の死因には関係ないだろ
- 69 :
- 以蔵のせいで死んだのは同日斬首になった村田忠三郎・岡本次郎・久松喜代馬
あと拷問死した島村衛吉とか服毒自害した田内衛吉とか
久松なんて武市門下で一緒に剣術修行にも行った仲なのに拷問で売っちゃうんだもんなあ以蔵。
暗の時、田内衛吉に手を踏まれましたーみたいな事まで洗いざらいベラベラ喋ったんだっけw
>>67
容堂は安政の大獄で処分を受けた後、土佐藩主として矢張り親幕で行くべきだと思い直したんじゃないか。
日和見もしてるけど。
瑞山は容堂に負け、容堂は自分の判断に負けたという事かね。
- 70 :
- そりゃ前藩主には勝てない
武市は忠臣だからなあ
武市が長州に生まれてたら違ったろうなあ
容堂は最期まで幕府と薩長で勤王佐幕でゆれてたのに家臣をす判断は早い
- 71 :
- 武市の性格であのヒャッハー藩と上手くやってけるんだろうか
- 72 :
- >>62
残った手紙とか鑑定しても龍馬だけ桁が違うもんねw相場としては
武市さん150万円
西郷さん200万円
徳川家康250万円
龍馬1500万円
前スレに来てた門田為之助子孫の人も貴重な勤王党関係史料を世に出してくれないかな。
土佐勤研究って手つかずの部分が多いよね。党全体を調べたのって平尾道雄と横田達雄くらいじゃない?
- 73 :
- 幕末が龍馬中心の史観になってるからなw
中岡のがむしろ正道だから幕末が分かるんだが
- 74 :
- 義挙にこそ参加しなかったが瑞山は久坂の事を尊敬してたようだ。
在京日記で後日伏見義挙の件を久坂と話し合っているが、
京都鎮撫の朝命の最中に職務として自藩の尊攘激派を粛清した久光だが
長州藩士の働きかけにより寺田屋事件の殉難者が忠義の士として祀られる祭礼を行う事になった。
瑞山の日記の記述は
久光の対応を巡って薩長間で不和が生じ、調停案を相談しているのではないかと横田氏が指摘している。
- 75 :
- 攘夷以前の具体的な課題として朝幕関係や国内体制をどうするかという事への関心が高かったと思われる。
武市先生達の働きは近代中央集権国家の礎になったのだ…。
- 76 :
- と言うより攘夷できる状態=内に尊王が確立した状態。
尊王の確立=外に攘夷できる。
表裏一体の関係。
攘夷が実現したという事は、尊王が確立できた状態でもある。
- 77 :
- >>67
>土佐藩が動かなくても龍馬や中岡は薩長と共に挙兵したろうけどなあ。
中岡や龍馬の浪士隊が挙兵した程度では大局に影響なし。
藩という確固たる後ろ盾がなければ使い捨ての駒にされるだけ。
>土佐藩が薩長側に参戦するのは鳥羽伏見で薩長優勢が見えてからだし。
土佐藩の正規部隊が参戦したときは、新政府軍側がやや優位に戦いを進めていたぐらいの戦況。
戦局の優劣が判明し始めたのは、高松藩兵と土佐藩の砲兵隊が交戦した後、錦旗が揚る前の段階。
土佐藩はこの後、朝廷から鳥羽伏見戦における戦闘を高く評価され、正月十二日に廣利銘の太刀、
肥後大椽貞国銘の刀、金一万五千両、従軍戦没者慰霊金三百両を下賜されている。
>日和見が薩長に後れを取った原因。
土佐軍総督・乾退助、大総督府参謀・武市半平太、大総督府宮御付き・平井収二郎、他勤王党有力幹部を
各公卿の周辺に配置。土佐藩がこの布陣で臨めていれば、戊辰役以降、余裕で中央に食い込む事が出来た。
なにわともあれ、土佐藩の場合、武市半平太を土佐閥組織の中心に据えなければ、まったく統制が利かない。
>結局武市をして草莽の志士である龍馬と中岡も喪いもっとも痛手が大きかったのは土佐藩だから。
人的損失で最も痛かったのは、武市半平太、間崎哲馬、平井収二郎、中岡慎太郎を失った事。
- 78 :
- >>69
岡田以蔵は、よく志士的な節操を喪失したとか、
拷問の場で醜態を曝したと非難される事が多いが、
本人の自白で直接迷惑を被ったのは四人の同志だけで、
肝心な所は吐いてない。此処は一応、評価すべきだろう。
道連れにされた三人の同志は憤懣遣る方なかったろうが…。
- 79 :
- >>76
そういう観念的な議論の前の段階の話。
意外と坂本もそうなんだが海外の話は本人の手紙等に殆ど出てこない。
武市は雄藩連合による朝廷勢力の強化から王政復古へ、坂本は幕政批判が一貫した政論だった。
>>78
岡田は節操を無くし自分から捕縛される事態を招いたのがまず駄目だ。
そのため岡田の自白が勤王党の獄崩壊の端緒となった。評価すべき点じゃないよ。
天誅に積極的だった割に拷問で泣き叫び出すとか、
他人を痛め付けるのは好きでも自分が痛め付けられるのには殊更弱いタイプだろ。
人間的にも嫌悪感しか感じないね。
- 80 :
- >>79
>岡田の自白が勤王党の獄崩壊の端緒となった。
それ以降も、土佐勤王党は崩壊・壊滅していない。
中岡慎太郎が在国土佐勤王党同志へ宛てた手紙
天下の勢かく相成り候ては 各国俗論と相成り致し方もこれなく
何卒同志中此の上は脱走これなき様 精々御慎制願上奉り候
天下挽回再挙なきにあらず 然りながら今暫く時を見るべし
依て沸騰及び脱藩は甚だ無益也
涙をかゝへて沈黙すべし
外に策なし
- 81 :
- 土佐勤王党の獄の死者が、服毒自した田内衛吉と拷問死した島村衛吉以外は
首領・武市の切腹と以蔵ら自白者4名の斬首刑で食い止められたのは、
以蔵らが自白した事によって悪化した状況にもめげずに
固い結束のもと懸命に容疑を否認し続けた武市や他の勤王党員らの獄中闘争によるもの。
犠牲者が少数に留まったからと言って、「以蔵の自白が獄に殆ど影響は無かった」と言うのは結果論。
- 82 :
- 平野國臣。
藩の枠にとらわれず内憂外患に苦しむ「日本國」を救わんとした。
十七歳にして福岡藩江戸邸勤番を命じられ、アヘン戦争を含む世界情勢を耳にし、海外列強の勢力が日本に近づいている世情を敏感に感じ取る。
帰藩後大島に赴任した折、航行する異国船の威嚇ともとれる姿を見るに付け、国家を思う気持ちが昂じていく。
開国後、福岡藩が務める長崎警備に赴任し、警護班の経理を担当した折り、日本に向けられた「列強の思惑」を目の当たりにしたことである。
危機感を抱き、脱藩して「倒幕」を志し、日本を一つにすることを決意する。
「日本國の臣たらん」として「國臣」と改名する。
國臣の倒幕論は「神武不」、雄藩が連合し、大挙して幕府に迫り、「戦わずして倒す」ことを上策とした大構想である。
しかし、この時点では薩摩藩でさえも公武合体によって幕政を改革することを目指していたほどで、藩の勢力争いが続き、統一国家を目指す國臣の大構想はまだ受け入れられなかった。
生野義挙を図るも敗れて投獄され、時を置かずして生起した蛤御門の変の最中に処刑されてしまう。
國臣は明治維新を目の当たりにすることはなかった。しかし、國臣の「神武不」の倒幕論が「大政奉還」となり、統一国家・日本の基となったことは記憶されなければならない。
- 83 :
- >>81
>首領・武市の切腹と以蔵ら自白者4名の斬首刑で食い止められたのは
斬首刑に処された岡田、村田、久松、岡本の四人が、
取調べを受ける際、肝心の核心部を喋らなかったから。
- 84 :
- >>78
肝心な所を吐かなかったのは、記憶が曖昧だったとか、仲間に説得されてとかだから、全然以蔵なんて評価できないよ。
東洋暗にも関わって無かったし
小畑孫三郎なども判決出た三日後に死んだんだろ?
他の党員らが頑張ったから、犠牲を最低限に抑えられたらだけ。
そもそも、身を持ち崩して仲間から見捨てられる結果招いた時点でダメダメ
- 85 :
- >>78
他の同志の説得で後から自白を撤回したけど、以蔵は東洋暗の件も吐いてるよ。
手を踏まれた件とか田内衛吉含め天誅の件で細かい供述もしてる。
「以蔵が武市に尽くした」なんてのは創作の中だけの話。現実にそんな要素は一切無い。
まあ女性も耐えた拷問で泣き喚くような人間なので尋問されるがままにハイハイ答えたんだろうけどw
横田氏の推測では拷問一回目で挫けて
あとは拷問に掛ける必要もなくバンバン自白していったんじゃない?って感じだった。
遊郭楽しいお!もう国事なんてどうでもいいお!な人間性の奴に何期待してるんだか…。
捕縛されるぐらいならと潔く自害した勤王党員もいるというのに。
- 86 :
- 以蔵は東洋暗には関わってないから吐いてないと思ってたけど違ったのか
吐いたのは、京や大阪での暗のみだと思ってたわ
- 87 :
- >>82
http://powerof.net/modules/great/index.php?content_id=16
コピペ元サイトで何故か龍馬が九州の偉人に…
しかし紹介されてる「よくも断じ給えるものかな。予、誓ってこの公のために一命を捨てん」って
『徳川慶喜公伝』が出典の話だけど多分これは作り話じゃないかなw
「大政奉還ダメだったら慶喜ブッそうぜ!」とか言ってたし龍馬。
- 88 :
- >>85
>他の同志の説得で後から自白を撤回したけど、以蔵は東洋暗の件も吐いてるよ。
岡田に対して説得を行った同志の氏名と、岡田の自白内容(東洋暗の件)に関する具体的な典拠をご教示下さい。
- 89 :
- >>88
散々既出だが
つ横田達雄『武市半平太と土佐勤王党』
- 90 :
- >>89
その本は今じゃほとんど手に入らないんだから、読んでない人が居ても仕方なくね?
当然のように言うのはどうよ
- 91 :
- >>90
暇な時にでも図書館で読んだらいいじゃないか。
色々と捗るぞ。
しかし瑞山関係文書の精読と併せて「在京日記」「隈山春秋」「遣倦録」「江月斎日乗」等を
照らし合わせて勤王党研究する人間なんて今後当分現れないだろうなあ。
この時期の日記が残ってる勤王党関係者って他には居ないのかな?
- 92 :
- 東京在住なのでなかなか横田達雄の「武市半平太と土佐勤王党」に目を通す機会が無いんだが、
この本は特にどんな所が良いん?
本の中で事あるごとに出典をキチンと明記している…と言う話は聞いた事あるな。
- 93 :
- 一応今年は高知の歴史系博物館が連携して企画展行ってるけど研究に進展あるのかね。
土佐勤王党研究なんて真面目にやると大変だし金にもならんだろうからなぁ。
せいぜい横田達雄の『武市半平太と土佐勤王党』で以蔵に毒は盛られていなかった事を知りました〜
と前文に書きながら勤王党の獄で以蔵にとって都合の悪い部分をワザと省いて書いた
菊池明の『史伝岡田以蔵』みたいなアホな以蔵オタ御用達の本みたいなのが関の山だw
巻末の参考文献に『再遊筆記 千屋菊次郎孝健日記』 横田達雄(編)は挙げてる癖にな!
そういえば医者でもないのに龍馬の梅毒の件も勝手に診断してたな菊地。
こんなん書いてるの菊地くらいのもんだよw
- 94 :
- >>79
王政復古こそが尊王の確立。
徳川家の私政権では、攘夷できない。
挙国一致の政権を作らねばならないが尊王。
攘夷するにも当然挙国一致を作らなければならない。
これが尊皇攘夷。
攘夷で進めようが尊王で進めようが挙国一致の体制を作らなければならないのは同じ。
- 95 :
- >>93
菊池は歴史に関わるものとして最低だよな
- 96 :
- >>93
>龍馬の梅毒
不鮮明な古写真を指してあーでもないこーでもないと言ってるあたかもフルベッキ写真の様なアレねw
龍馬ファンの需要に応えて書いたんだろうけどもっともらしくそれっぽい事書けば一般人は鵜呑みにするから。
『再遊筆記』に以蔵が出てくるのを指摘したのは横田氏が初だよね、
菊地は『史伝岡田以蔵』でも以蔵が拷問で吐いた形跡は「見つけられなかった」って微妙に責任回避する書き方してた。
「扨、岡以過日拷問之節、様々の事共口外仕、存掛なき人、数々獄入に相成」に始まり
以蔵の拷問→自白→同志の投獄を示す書簡記録は何箇所も出てくるっちゅーの。氏ねよマジで。
こんなのに尽くされました〜なんて武市先生に対して失礼にも程がある。
- 97 :
- >>91
過去スレにあった
中岡慎太郎 海西雑記・行行筆記
上岡胆治 憤余管見録
土方久元 回天実記
島村衛吉 道中記
大石弥太郎 獄中記・戊辰戦争従軍日記
坂本龍馬手帳摘要
田中顕助 丁卯日記
南部興夫 七生日録
伊藤甲之助 時々日記
薩摩藩の関係者の日記の話とかあんまり聞かないね。
- 98 :
- 上士入れると佐々木高行、寺村左膳、寺田左右馬の日記は必須だな
小原与一郎雑記抄や福岡孝弟、吉田東洋、小笠原唯八も活字で読める
- 99 :
- >>97
東大史料編纂所のデータベースで「樺山資之日記」を見る事が出来る。
松岡司『定本坂本龍馬伝』p.140で
池内蔵太・岡田以蔵の名前を削って門田為之助・間崎哲馬と入れ替えたためこの二人が血盟書上位に来ているのではないかと
指摘されていたが出典無し。研究者がみな横田氏の様な書き方してくれると助かるのだが…。
そういや野中兼山遺族講演に行ってきたが勤王党縁の人がまた何か相談してた。
松岡氏は県内各地で古文書教室もやってるそうだ。地元で関心のある人は参加してみたらどうかな。
高知県護国神社のブログに案内があったから貼っておく。
http://blogs.yahoo.co.jp/kochi_gokoku/28019804.html
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