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2012年3月戦国時代72: ■ 明応の政変 ■ (771) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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■ 明応の政変 ■


1 :
明応の政変によって室町幕府が瓦解した事を戦国時代の始期とする説が現在、有力になっています。
日本史上重要な出来事なのに、何故か知名度が低い、細川政元の足利将軍廃立事件を語りましょう。

2 :
教科書では完全に無視されている。

3 :
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%BF%9C%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89
とりあえずwiki。
詳しく解説しているサイトはないかね。

4 :
教科書では完全に無視される事変の一つだね。
そのせいか大学入試には出ることが多い(京大入試などたまに出題される)から勉強しないとダメだが。

5 :
足利茶々丸の討伐がこの政変と綿密に関わってるとみられてますね。

6 :
同じ明応二年だからね。
中央の動乱に連動したものと見られているようだ。

7 :

明応政変以後の、畿内の政治史区分
政元政権期 1493−1507
高国政権期 1508−1531
晴元政権期 1531−1550
三好・松永政権期 1550−1568
正確には、高国政権は義稙が将軍の前期と義晴が将軍の後期に分けた方が良いのかも。

8 :
明応二年の政変で畿内を追われた前将軍義材について面白い記事があります。
  公方越中国正光寺ニ御座、近国皆以奉随了、能登守護畠山大夫参申、越前国朝倉参申、
  越後国上杉参申、加賀国守護トカセ参申、
                                                「雑事記」明応二年七月二十六日条
義材は当初、反政元派大同盟ともいえるこの北陸で復権の機会を伺ったようです。
それに対して政元は本願寺と連携して永正三年の北陸一向一揆(1503年)を引き起こして牽制します。
ちなみにこの時期の朝倉氏は三代貞景の代で、政変後は一貫して義材派として行動、
度々京都を伺った義材に対し、軍勢1500余を一年半に渡って逗留させたりしてたです。

9 :
余談ですが永正三年の北陸一向一揆のとき、一向一揆20万対朝倉宗滴1万2000といわれる(ぉ、
かの有名な九頭竜川合戦があったわけです。

10 :
実際って10倍水増しくらいでよろしい?

11 :
20万と言われてるがやっぱ大げさなのかね

12 :
史料における軍勢の数ほどあてにならないものはないっすね。
この永正三年の一向一揆の規模について史料を元に検証しようと思ったのですが、
打った長文消しちゃったのでやめます。
ただ富樫介が討たれた長享二年加賀一向一揆では、加越だけで20万と「蔭涼軒日録」にあります。
永正三年の一向一揆は、それよりはるかに大規模なものだったことから察すると、
20万じゃまだまだものたりないぜ的数だったことになります。

13 :
魔法半将軍バロス

14 :

実際、明応の政変までは、室町幕府は応仁の乱以前とほとんど変わらずに機能しているからな。

15 :
明応の政変が、非常に重大な事件であったのは認める
でも戦国時代=戦乱の時代でとらえると、応仁の乱からの方がしっくりくる
足利幕府は曲がりなりにもあるわけだし
個人的な考えなですけど

16 :
何故教科書で取り上げられないのだろうか?
天皇関係の出来事でもないし。

17 :
現行の教科書に何が載ってて何が載ってないか、知らないからなんともいえないけど、
そもそも明応の政変が戦国時代の始まりだー
と言い出した学者って誰?

18 :
>>15
戦国時代以前の室町時代もわりと戦乱の時代だったりするんだよね

19 :
応仁の乱終わった後は、足利幕府の畿内への支配力は、強化されてる。
将軍義向の近江親征や伊勢・大和・河内への出兵計画、義材の河内出陣etc
将軍は親衛隊;奉公衆を応仁の乱後に完全に掌握し将軍の指揮下に置き畿内
における最大の軍事力を目指している。それに守護大名は乱の最中から在国
を始めており、洛中には例の細川政元とその一門、それに管領の畠山政長ぐ
らいしか居ない。畿内の大名は六角氏と畠山氏ぐらいでその2家を足利将軍
がしきりに攻撃している。そのかわり幕府の全国レベルの支配力は無くなっ
てるけど・・・義向・義材両将軍は幕権回復のため将軍親裁と奉公衆の軍事
力強化で対応し、畿内に関してはある程度成功してる。応仁の乱後に畿内に
奉公衆に単独で対抗できる軍事力を持った大名は、細川政元ぐらい。そのた
めなのかな?義向・義材両将軍の御親征に協力的でなかったのは。

20 :
>>19
たしかその頃の討伐に、
次は越前朝倉か?美濃土岐か?
と真剣に検討される位、将軍家の力は回復してたのは事実だね。

21 :
>>15
下剋上的な側面から言ってるんじゃないの?

22 :
>>21
その通りですな。
ただし下の細川が上の将軍家を滅ぼして代わりに上に立った
わけではなく、将軍家の間で別の神輿を担いだという形だから、
「下剋上」じゃなくて「主君押し込め」と呼んだほうがいい、
という説はある。

23 :
>>22
細川政元が明応の政変で目指していたのは、
室町幕府の乗っ取り「京兆専制」なのか、それとも・・・
室町幕府から独立した「戦国大名」なのか、論争がありますね。
政元がなしえた事は、足利将軍家の集権化と軍事力強化を横から断ち切った事でしょうね。
この政変で奉公衆は完全に崩壊し足利将軍家の軍事的基盤は無くなります。
政局面から言えば、応仁の乱よりこの件の方が重要かもしれませんね、応仁の乱は守護大名
(地方封建領主)が2派に割れて争い共倒れになっただけで、将軍家に直接軍事的対決をもたらす
性格のものではなかった。イギリスのばら戦争やフランスの百年戦争と同じ性格かもしれま
せん。英・仏のチューダー家とヴァロワ家による集権化もこれらの戦後に進みました。
私の仮説ですが、将軍義向が長命なら細川政元はどうなっていたんでしょうね。
明応の政変では、日野富子が義材憎しで政元に協力したんでしょうけど、義向
が将軍ならそんな事はしないはずですので足利義教の時のように赤松家に暗させ
るんですかね?足利将軍家と細川京兆家の関係はかなり微妙というか、むしろ
陰湿に対立してるのかもしれませんね、応仁の乱以前から。
畿内の領国化を目指す政元には足利将軍家も畠山家も一門の阿波守護家も奈良
の寺社勢力も打倒する対象と言えるかも知れません。

24 :
最近の研究では義尚を義向って書くのが定説なのか?

25 :
>>24
ナイス ツッコミ!義尚ですね。失礼致しました。よしなお君です。

26 :
ひさだと思ってた

27 :
>>25
よしひさです・・・たびたび間違えてしまい申し訳ないです。
たしか陣中でお酒の飲みすぎで死んじゃった将軍ですね、昼夜逆転の生活を
していたとか、甘いものが好きだったとか、公家の娘にストーカーまがいの
事したとか変な人ですね。
足利一門には「鬱の遺伝子がばらまかれてた」との事ですが、
義尚もそうなんでしょうね。25歳で死ぬのは早すぎですね、あと10年生きて
れば将軍権力の集権化や幕府の支配領域の回復も進んだ可能性もあると思う
んですが?

28 :
細川政元の室町幕府乗っ取り説(京兆専制)→今谷明
細川政元の室町幕府からの独立説(戦国大名)→末柄豊
どちらが事実に近いのでしょうか?
政元が自分で将軍になるつもりは無いんでしょうけど。
管領畠山政長の専横に対する反感はかなりあったんでしょうね。政長は、他の在国の守護大名にも嫌われてたと言う話を聞いたことあります。

29 :
細川政元の力の源泉は、幕府内の地位や権限ではなく
丹波・摂津両国を支配している事にあると考えてもよいのでしょうか?
この両国は、幕府所在地の山城を西から囲むように隣接し、交通の要所
でもあり何かあればすぐに洛中に軍勢を入れられる。また勝元の代から
山城領国化工作を開始しています。元々畠山氏の力が強かった山城は、
南山城国一揆で畠山氏を追放します。これも政元の陰謀ぽいです。
細川京兆家は、応仁の乱終結後も将軍家の意向に囚われずに
(伊勢氏とは協力しつつ)山城の領国化を行う方針であり、同時に丹波
摂津両国の維持に全力を注ぐ政策を取っている。
讃岐も京兆家は、領有維持の姿勢であり現地の反乱や阿波から侵入に軍勢を
送り軍事的対決をしている。
ただし土佐の支配は現地の守護代(細川一門)に委ねている。

30 :
将軍義材が第2次近江親征を行っている時に、丹後と越前への親征の噂が
出ていた。その時に将軍義材は、丹後の守護一色氏に対し親征中止の条件と
して押領した奉公衆の領地返還とともに再度在京する事を求めた。
この事が、在京した守護大名を刺激したと言われている。なぜなら守護大名
は在国しても必ずしも立場が強化された訳ではなく、守護代に実権を奪われ
ていたり被官(家臣)・国人たちの反抗や下克上が始まっていたからだ。細川
政元も丹波・摂津両国の守護代(内衆)と国人の処遇・処罰について対立があ
ったと言われている。このように将軍義材が在国要求を一色氏にした事に守
護大名は敏感に反応し細川政元の将軍廃立(明応の政変)に賛同した可能性が
強い。彼ら在国した守護大名にとって幕権回復が畿内にとどまらない可能性
を見出し政元に解決を託したとも言えなくもない。また将軍義教・義政は、
守護代の人事にも口出ししており、このことで守護代クラスも幕権回復に反
対した可能性がある。将軍権力が回復したら実権を握りつつある守護代も再
度幕府に押さえつけられると考えた可能性もある。したがって細川政元の将
軍廃立に有効な反対がなかったのはこの為ではないかと思われる。

31 :
間違いを修正します。
在京した守護大名を刺激したと言われている。
    ↑
    を
在国した守護大名を刺激したと言われている。
に直します。失礼いたしました。

32 :
再度、間違いを修正いたします。
このように将軍義材が在国要求を一色氏にした事に
      を
このように将軍義材が在京要求を一色氏にした事に
に直します。失礼いたしました。

33 :
>>31 >>32は、>>30の修正です。あしからず。

34 :
末柄豊は、細川政元が将軍義尚の第一次近江親征に協力しなかったと記述し
ているが、他の資料では政元は協力した事になっている。京兆家の軍勢は奉
公衆と一緒に出陣しているし、政元は六角氏を追撃しその後近江に守護にも
任命されてる。義尚と政元の間には特に何もない。1479年に政元が丹波に拉
致された時、内衆と細川一門の一部が細川勝之を還俗させ擁立しようとした
事件でも、幕府は事態を静観しており特に勝之に肩入れしていない。京兆家
の家督分裂の危機が他家同様に存在したのに将軍義尚と大御所義政はそれを
利用することはなかった。義尚・義政と政元の間には特に対立点はないよう
に思える。

35 :
 

36 :
 

37 :
名前を変えて将軍職に復帰ってのが面倒だな。改名した意図はなんだろ?

38 :
大川栄作 から 大川栄策ミタイナコト。

39 :
>>37
義材→義尹→義稙のことかな?
義尹改名が明応七年(1498)とすると、周防に落ちていたころ
義稙改名が永正十年(1508)とすると、そのころは高国、義興で安定してたころ
前者は期するものがあるとしても、後者はよくわからないね

40 :
>>39
永正10年(1513←だよね?)3月に、義稙は高国らの専恣を怒って近江甲賀に出奔してる。
4月に高国と義興がもう背きませんっていう誓書を提出して、5月に義稙は帰京。
ここら辺で思うところがあったんじゃないかな?

41 :
そういや等持院の木像は、どの名義で作られてるんだろ? 最初の義材?

42 :
義稙か恵林院じゃないですかね、行ったことないのでわかりませんが
>>40
ううう、申し訳ありません、間違えました
その流れで11月改名ですね

43 :
>>41-42
義稙の名義みたい。
ttp://homepage1.nifty.com/heiankyo/rekishi/reki11.html

44 :
この事件って教科書に載ってる?

45 :
>>37
石原真理絵みたいなもんか

46 :
この事件について学べる書物を教えて下され。

47 :
実隆公記あたりがいいんじゃね?
あとは大乗院寺社雑事記かな

48 :
>>44
載ってない。実況中継とかいう参考書にも無いね。
教科書に載ってないから京大とかが入試で出すんだろうな
日本史用語辞典にはさすがにあるけど。

49 :
そんな馬鹿な・・・
これほどの重大事件がなぜ載ってないの?
はっきり言って、例えば川中島合戦だの大坂の乱なんぞとは
比較にならないほど歴史的重要度が高いんだが。

50 :
大坂はまあ、一つの時代の終わりだからいいんじゃね。
しかし時代の転換点たる明応の政変が載らないのはおかしい。

51 :
室町時代って随分と軽視されるよね

52 :
( ^ω^)それは、禿げ上がるほど同位

53 :
室町時代の、特にこの時期は、対立というか勢力の構図が
ほんとにわかりにくいってのが一因でもあると思う。
畠山義就(基家)にしても、最初は細川京兆と対峙してたのに。。。
って感じだし。
明応の政変で室町「幕府」の機構はほぼ瓦解した(というのがスレでの定説)
んだけど、
やっぱり事件のインパクトとして、京一面が焼け野原になった
応仁の乱の方が、取り上げやすいし、
ここで室町幕府の凋落が明らかになった、
ってした方が教えやすいんだろうな。

54 :
明応の政変くらいならまだまだじゃね?
南北朝や応仁文明の乱はもっとごちゃごちゃしてね?
というか、室町時代はいつもごちゃごちゃしてね?
安土桃山時代がえらいスッキリしてて物足りなくなるくらいじゃね?
そこがイイ!と思わね?

55 :
何で"明応の政変”は有名じゃないのかね?不思議だね。
この政変は、日本史のターニングポイントだよ。"本能寺の変”もあれだけ
語られるのだからこちらも語られてもおかしくない。
織田信長は、戦国時代を終わらせた人物だとすれば、細川政元は、戦国時代
を始めた人物。対照的だけど同じ程度のキーパーソン。中国の三国志なら
細川政元は"司馬い”並みの人物。クーデターで政権乗っ取った。特に
将軍の親衛隊「奉公衆」と皇帝の親衛隊「禁軍」を崩壊させたのは同じで
中央権力の直属の武力部隊をやっつけた事で実質的な政権を獲得した。
ただ政元と司馬いの違いは、政権獲得後、元将軍や敵対勢力からの巻き返し
や反撃があったが政元は敵対勢力からの反撃に負けてしまい。結局養子を
乱立させたため内紛で自滅。その点、司馬氏のほうが色んな反撃を撃退、
新王朝「晋」の成立に向かった。

56 :
教科書には一応出てるよ。太字じゃないけど

57 :
太字じゃないのか・・・
本気で呆れた。

58 :
学会で高名な学者が新しい論文でも出さないと盛り上がらないね。

59 :
自民党をぶっ壊した政治家→小泉純一郎
室町幕府をぶっ壊した大名→細川政元
魏王朝をぶっ壊した武将→司馬い

60 :
将軍義尚の第一次近江親征の後は、美濃と越前への親征の計画もあり
美濃の土岐氏や斉藤氏と越前の朝倉氏は、近江の六角氏と提携し足利幕府と
対決姿勢を強めた。もし第一次近江親征が成功し六角氏を完全に滅ぼせた
なら足利幕府は、畿内の幕府への集権化だけでなく中部地方への幕権回復
の可能性も。土岐氏と朝倉氏が手をくみ幕府と対峙したら足利将軍家自体が
戦国大名化したかも。将軍義尚も義材もやたら畿内で親征してる。ある意味
これは将軍の戦国大名化を意味してるのか?そうなると将軍の戦国大名化
を細川政元が“明応の政変”により阻止したことになる。また将軍親衛隊の
「奉公衆」が軍事力として畿内・中部地方の大名にはかなり強力に意識され
始められいたという事だろう。

61 :
関東はすでに戦国時代に入ってまつ。
足利持氏\(^^@)/万歳\(^^@)/
戦国時代はくじ引きで足利義教が将軍になった時に開始されますた。
よってもっとも重要な事件は【でっち上げのくじ】です。

62 :
関東では、鎌倉公方が関東管領を暗してから戦国時代に突入。時代的には
関東のほうが先に戦国時代に入ってます。しかし京都の将軍様は義教は暗
されただけで別に戦国時代にはなってない。義政の時代でも親政を行い諸大名
を統制している。ただし「文政の政変」で大名への抑えは効かなくなってる
けど、この政変で一時的に手を組んだ細川勝元と山名宗全は後に対立を激化
応仁の乱へ。ただし応仁の乱の最中でも奉公衆の働きもあり将軍家は直接攻撃の
大衆にはなってない。東軍の頭にされてるけど西軍が降伏する時も簡単に許して
大名が国許に帰ることを許可してる。そのせいで守護の在京制度くずれ畿内以外
の大名へのコントロールは効かなくなってる。

63 :
頼られた神保氏萌え。

64 :
神保みたいな氏素性が微妙な奴を頼るとは将軍家も墜ちたものだ。

65 :
神保氏は畠山氏の歴代の被官で宿老にもなってる。従って本拠地はないはず。
斉藤氏・遊佐氏も同じ。
土肥氏・椎名氏は越中の国人。
応仁の乱の13年前、足利義教が暗された後に遊佐氏が神保氏の京都の
屋敷を攻撃、神保氏父子は死亡、屋敷は炎上、洛中は大騒ぎになった。
また同じく土肥氏・椎名氏も攻撃されて京都から逃亡、三管領家の一つの
畠山氏の内訌の始まりである。
義教時代に畠山持国は総領の地位を追われ異母弟の持永に取って代わられた。
義教死亡後、持国が総領に復帰、しかし子供がナカナカ生まれないため
別の弟の持富の子の弥三郎を持国が跡取りに指名、しかし後に持国に実子
義就が生まれた。実子に相続させたい持国が弥三郎を廃嫡する為、弥三郎派
の神保氏・椎名氏・土肥氏を遊佐氏に攻撃させ、京で市街戦に。
まるでバクダットやね

66 :
神保氏は弥三郎・政長派だけじゃなく
義就派の内衆に神保国久もいるように、両派に分裂している。
遊佐氏も両派に分かれてるし、本当にややこしくて混乱する。

67 :
足利義稙は本当に流転の人生だね。
周囲の権力構造もそうなのだが、本人の資質もそれに拍車をかけてるような。

68 :
幕府に公然と反旗を翻した結城合戦
もしくは関東を混迷の渦に巻き込み二度と旧体制に戻る事のなかった管領管領足利成氏の鎌倉放棄の古河城移転が戦国の幕開けではないかと。
それか義政の弟の掘越公方が関東入部できない時点。
早雲がキッカケを作ったのを初めとするのは微妙。
つかなんで掘越公方が関東に入れなかったんだろう?今川が紛争中だったのか、扇谷上杉が関東に入れなかったのか?(旗下の太田氏や大森氏や三浦氏が反対?)
成氏の三島侵攻もあったが、あの時は山内上杉の長尾軍が古河城を落城させて牽制してるが相模守護の扇谷上杉は三島まで見て見ぬフリでもして素通りさせたのか?

69 :
何年か忘れたが、義稙は暗者と斬り合いをしてるね。
手傷を負いながら撃退してるようだが。

70 :
義輝じゃなくて?

71 :
義教じゃなくて?

72 :
義勝じゃないのは確か。

73 :
1509年(永正6)の10月の事件
近江の足利義澄が送った刺客で、義稙の同朋衆が手引して忍び込んだとか。

74 :
ワザと灯りをつけず、騒がずに暗闇で撃退したってやつだっけ。

75 :
公家化してしまったかと思いきや、さすがは将軍だな。

76 :
義植はヘタレというイメージが強かったんだが、
それは偏見だったよw
将軍様tueeeee

77 :
義稙より義植のほうが強い

78 :
義稙は不屈の人だよ
義晴も細川晴元も同じだけど、諦めることを知らない

79 :
本人はともかく周りが許さないんだろう。
家臣団は殿の出世に賭けていた。
鎌倉公方vs関東管領の時も互いに本人には実権がないしヤル気も???
鎌倉公方の実権は、奉公衆に
関東管領の実権は、執事の長尾家や太田家に移行しているので
本人が止めたいのに回りに引き回されて暗&合戦に

80 :
>>73
>1509年(永正6)の10月の事件
      ↑
この時期になると「奉公衆」が明応の政変で崩壊しボディガードもままならない
のが実態。やっぱ親衛隊が居ないのはこの時代ムリな事。
足利将軍は、明応の政変後は細川・三好・松永の都合でされたり追放されたり
ばっかり。しまいには織田が出てくるわけだが。
奉公衆は5000人〜10000人の兵力だが、まとまりはあるし畿内でコレだけの
軍勢を集められるのは細川政元ぐらいか?畠山は分裂してるから数千人ぐらい?
六角氏は将軍親征でに逃げ出してるし色んな意味で貴重な軍隊だったと思う。
奉公衆の基幹構成員(約300人)の半分が三河・美濃・尾張・近江の4カ国に所領を
持つ御家人。御今の兄も奉公衆です。将軍御料地もこの4カ国に多く
足利幕府の基盤はこの地域にあるということか。

81 :
>>80
奉行衆は国元に代官を置いて、自分達は常に上洛してたの?
江戸時代の旗本みたいな感じで。

82 :
>>81
横レスだけど、奉行衆(奉行人)と奉公衆は別物。
奉公衆は守護家一門子弟、御家人・国人が主体。軍事的基盤。
奉行衆は、飯尾・松田・斉藤・諏訪などの官僚群。
元々は軍勢催促を行えない、純粋な行政官僚。このころはどうなのかは、忘れたけど。

83 :
>>79
当初義材を支援したのは、政長との兼ね合いで、畠山尚順、神保、
これに朝倉が加わり越中〜越前
六角、政元に敗れて落ちていったのが周防
そして義稙を大内義興が擁して上洛
この一連の流れは、各氏の思惑も大きいだろうけど
義稙の思いによるところも大きいと思うが

84 :
>>82
良くご存知ですね!勉強になりました。
奉行衆と奉公衆は、あんまり仲良くないです。応仁の乱後に義政は、義尚に
代替わりする時に奉行衆を掌握したまま大御所に退いた。
義尚は奉公衆を掌握したが将軍として制約があり、義尚は奉公衆と強固な
関係を結んだ。そのため奉公衆と奉行衆が分裂状態になり、1485年に両者は
参賀の順次争いから抗争となる。この確執では奉行人全員の出家と、奉公衆
による奉行人布施英基父子の害に発展する。
この分裂した状態を克服するために、義尚は近江六角氏の討伐を利用した。
この出陣に伴い、実務的な奉行人らを含め、幕府の主要な機構が義尚ととも
に近江に移動して、実際の政務は義尚の掌握する事になった。
この第1次近江出陣は、将軍の権力基盤強化につながる。
義尚と奉公衆の繋がりはさらに強固なものとなり、義尚政権は奉公集が創造
した政権との評価を受けている。

85 :
義材にせよ義稙にせよ執念深いね。なんとしてでも将軍に返咲きたいんだろ。
義材については、明応の政変の時にされてもおかしくないし
実際、日野富子に毒されかけたが、上原元秀邸に隔離されてしまう。
その後義材は逃げ出して越中の神保長誠を頼り、紀伊に逃げ出した畠山尚順
と提携して政元や新将軍義高と対決する。
その後の神保長誠は大した事してないが、畠山尚順の方は紀伊から反撃に出て
河内や大和・摂津で細川政元やその配下の武将と数度の合戦に及んでいる。
大和では、畠山基家派の国人と畠山尚順は国人の戦いが続いているし
河内では基家が畠山尚順との戦いに負けて戦死している。
ちなみに基家は義就の子であり、彼の死後跡を継ぎ、明応の政変に便乗して
政長の自刃と畠山総州家の家督、河内の守護職を手に入れた。
基家は、京兆家の傘下に入り畠山尾州家の畠山尚順と戦う事に
応仁の乱の原因となった畠山家の分裂は、3世代にわたり続いているし、
また細川京兆家に利用され畠山家の凋落に拍車をかけている。

86 :
しかしろくな実権があるかも疑わしい権力に魅力があるのかね?

87 :
>>85
細かいことだけど、神保長誠は義材を放生津に迎えてしばらくして、中風を患ってしまっている。
子の慶宗を、義材と共に大内氏の元に赴かせてるらしいし、
直接的な軍事行動を起こさなかった、って程度の評価じゃなかろうか。
あと、話はずれるけど、南大和って不思議なところだな。
後南朝の影響があったり、幕府権力に背いたものが拠ってたり・・・

88 :
>>87
十津川郷もな・・・

89 :
応仁の乱以降の将軍はかならずしも実権がない訳ではない。(>>19より)
幕府の支配地域の縮小が見られるが畿内での将軍権力は大名の在国が一般化
したことと将軍親征で逆に強化されてる。義尚政権では将軍権力は向上している。
また、明応の政変以後の将軍は完全に細川・三好・松永の傀儡になった。という
説と、幕府は権力も支配地域も縮小しながら細川・三好・松永とは別個の存在である。
という説があり、論争になっている。
将軍親衛隊である奉公衆も明応の政変以降は、縮小されながらも続いている。
五番衆と言われているように5個の部隊で編成され人数も5千人から一万人
程度いたが、政変以後は人数は縮小する。(半分?三分の一?もっと縮小?)
名称は奉公衆から「詰衆」に変わり、詰衆の御家人は細川・三好・松永らの被官
に所領の侵食を脅かされながら何とか存在している有様であった。
将軍への求心力は低下し、義晴が京都から追放されても詰衆は追従する事無く
京都に留まりかつての将軍権力の面影はない。
ちなみに北条早雲こと伊勢新九郎盛時は奉公衆のメンバーです。

90 :
>>87
神保長誠は、所詮畠山の家臣の国人の1人にすぎず、畠山政長・尚順親子に
頼まれて義材をかくまっただけに過ぎない。神保長誠と畠山尚順は、イーブン
な関係じゃなくて上下関係。畠山尚順の方がぜんぜん大物。
軍隊の動員数もぜんぜん桁違い。畠山尚順は細川政元に追い落とされたとは
いっても3カ国の守護をかねる大大名。明応の政変後も細川家と戦い続ける
ことが出来た有力者。神保長誠じゃ小物で細川家とは戦争できません。
河内は畠山基英が抑えてるが、紀伊は尚順がおさえてる。大和は両者入り乱れで
よく分からないがほぼ折半か?南大和は、紀伊に近いため尚順側の勢力下に
あり、細川&将軍義高から見れば敵地。細川家の武将が何回か侵攻してる。
尚順も紀伊から大和に進出してくるし大和は細川家と畠山家の決戦場になっている。

91 :
>>90
書き方が悪かったかな。
国人じゃなく、神保氏は畠山家内衆ですね。
弥三郎擁立時の寛正内訌の詳細を参照されたし。
神保氏は同時期なら越中・紀伊守護代なんで、
義材=尚順方の軍事的行動の消極性に原因があるのかなぁとも思ってみたり。
そもそも、この頃の情勢を16世紀以降の戦国大名同様に見ていいのかなぁ。

92 :
>そもそも、この頃の情勢を16世紀以降の戦国大名同様に見ていいのかなぁ。
                 ↑
87さんは、もしかして学者さん?それともその卵?
いま学会ではその辺の論争&学説はどうなってるの?教えて欲しい。
自分的には、この質問には、ヤッパリ細川政元が戦国大名か守護大名かの
判断により回答が違うのでは。
それと近畿では荘園領主や寺社勢力など既得権者の存在が大きいし
惣村の独立性自治性が高まっているので、上からの押えが効き難い。
いまでも関西の会社は部長クラスの力が強く社長と話してもダメと言う
ことが多いよ。阪神球団だってよくもめてるしwww
小林一三と五島慶太は全然経営手法違う、五島は強盗慶太、まるで戦国大名
みたいにM&Aやってる。小林の乗っ取り劇は聞いたことナイ。
関東や中部地方の方が惣村の組織化がやり易かったのでは?
後北条が関東であんなに短期間で巨大化したのは既に近畿の大名たちが
始めようとしたけど抵抗が大きくてナカナカ実現できないダイレクトな一円
支配方式が関東ではスムースに導入できたためとの話を聞いた事がある。
御北条の家臣が病気になった農民のために夜中にクスリを持ってきたとか
税金を安くしたとか公共事業をやって米の収穫を上げたとか言う話がある。
ある種の初期段階の福祉行政国家?なのか戦国大名は。
近畿の大名もそのような意識は持っていたのかも知れないが惣村の独立性や
国人のハネッカエリで上からの統合が失敗したのかもね。それが軍事的に
多数の兵力を動員できない理由か?

93 :
>>92
タマゴの方ですw
この辺は、ちょっと神保氏に興味があってかじっただけでして。
理解不足は許してくだされ。
細川政元の勢力を、中央政権としてみるのか、
それとも畿内近国の守護大名としてみるのかによっても違うと思います。
政元の勢力を、戦国大名的に理解するのはあまり聞きません。
室町幕府自体への理解も近年変化してきているようですし、その関係からも考えられると思います。
>ある種の初期段階の福祉行政国家
この辺は「公」っていう論理で戦国末期は見通されているようです。
戦国末期の後北条氏はその研究が盛んなので、いろいろ本が出ていますね。
惣村についてはかなり勉強不足です(;´Д`)
ただ、惣村にしても上部に何らかの権力が存在しています。
畿内の場合、公家・寺社の影響力が依然として大きかった可能性もあります。
東国は・・・どうなんでしょうね?よくわかんないです。
突然戦国時代に突入したわけじゃなかろうし・・・

94 :
なぜ関西の惣村の自治性独立性が高まったかを
民俗学をかじったおいらが真面目に学術的に説明しとく。
西日本は基本的に年齢階梯制っていう社会構造で村落が形成されてたのよ。
村落内のメンバーは平等。年齢ごとに役割を担っていく。
一定年齢に達すると、若者宿や娘宿ってとこに入って、成人すると家を持つ。
ここで成人になるときに、村落のメンバーとして宮座(寺社での寄合に出席する)の構成員になる。
で、年取ると、宮座のなかで村ごとに人数はことなるけど役につく。そして引退するってのが西日本の村落。
この社会は、基本的に全員平等なわけ。だから、寄り合いなのでみんなで話し合い村落構成員全体の同意などが
重要となるし 外部からの強制力も行使しにくい。垂直統合的な権力機構は作りにくい。
対して、東日本は、親方子方制なのね。親方の家、有力者の家とそこに隷属する子方で社会が構成されてる。
神社の祭祀なんかも、有力者の家が世襲したり、いくつかの有力な家で持ち回りでやる。
この親方子方制の社会だと、不浄とされる仕事は子方にやらせれば終わるし、
戦争になれば手下に動員をかけやすい。だから関西系の伊勢家がなぜか関東で急にデカクなるわけよ。
伊勢家が持っていたダイレクトな一円支配体制が関東でスコーンと当てはまり
垂直統合的な権力機構に出来上がったのでは?東の方が関西より守護家残ってんじゃん?

95 :
>>94
詳しいな。

96 :
政元は確かに傑物だけど、えらく変わった人だよね
周りの評価はどうだったんだろ?

97 :
>>94
たしかに近畿では守護大名が一円支配方式を導入したがったけどなかなか
上手くいかなかったようですね。畠山氏ナンカは、山城で応仁の乱やその後の
戦乱を利用して一円支配を開始しようとしたところ将軍家・細川京兆家の
反発もあり土民が惣村単位で武装蜂起。両畠山家は、山城から追い出されました。
この話は有名ですよね。“山城の国一揆”というやつです。
この時の山城の国人はほとんど細川政元に仕えている状態で応仁の乱
以降の東軍の動員令が効いてる感じ。
この後にこの国一揆も分裂して大和の国人に攻め込まれたりして崩壊。
国人層と土民層の利害対立?それとも国人同士の離合集散?
山城の守護代にも細川家の内衆が就任して上から細川家の支配が強まります。
洛中の検断権も細川京兆家が吸収、山城は細川家の領国体制化の始まり。
しかし早い段階で細川京兆家の跡継ぎ問題で内紛が激化、政元もされてしまい
細川家による恒常的な領国支配も出来なくなった。

98 :
この事件を分かりやすく解説した本とかないかな?
高価な専門書じゃなくて。

99 :
室町時代にはよくある権力闘争の一つ
観応の擾乱から南北朝合体までのごたごたにくらべりゃ
対立図式はかなりシンプル

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