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2012年3月戦国時代33: 戦国ちょっと悪い話30 (317)
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戦国ちょっと悪い話30
- 1 :
- 戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう
戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください
前スレ
戦国ちょっと悪い話29
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1321170836/
姉妹スレ
戦国ちょっといい話29
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1317824861/
鎌倉・室町 ちょっといい話・悪い話
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/
このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
- 2 :
- 天正壬午の乱の時の水野さんってどういう立場だったの?
徳川家の家臣だったのそれとも
織田家における家康みたいな立場だったの?
- 3 :
- ∧ ∧
( ´・ω・) >>1 大儀であった!好きなものを取るがよい
( ∪ ∪ ただし、自己責任じゃ!何があっても与り知らんぞ!
と__)__)
,ハiヽ.. ┌─┐ ┌───┐ ∞ (・ω・)
ノ"・,,'' ヽミ /. ̄ ̄.\ │狙撃願│ ∈||∋ (( ))
(。,,/ ) ヽミ〜 ∪⌒∪⌒∪ └───┘ || (_)_)
百段 平蜘蛛 稲富狙撃依頼券 蜻蛉切のトンボ 秋田木像
(長可付き) (火薬入り) (成功率13%) (プライスレス)(木像守の役職付き)
┌┬┬┬┬┐ /\ __ ┌───┐
│§§§§│ / \. <ニニニ||=== <´゚ノ `,>《. │GO! │
└┴┴┴┴┘ .(_ 人 _) Φ ` ̄ ̄(∞). └───┘
利家のそろばん 季節外れの大桃 小豆長光 義姫の手料理 八丈島へのチケット
(利家憑依で守銭奴化) (献上品だお) (短い) (毒見禁止) (片道)
←──≪ ┌───┐ ∠二二二ア ┌───┐
←──≪ <ニニニ||===. │ 山内 │ │ 酒 │| ├───┤
←──≪ └───┘ ヽ┴┴┴ ′ └───┘
三本の矢 怪刀痣丸 山内相撲招待券 備前の酒 直江書状
(お兄ちゃん早すぎる) (眼病注意) (一両具足とドスコイ!!) (直家寄贈) (閻魔様によろしく)
- 4 :
- >>3
全部死亡フラグwww
- 5 :
- >>1乙
>>3
これはひどすぎるwww
- 6 :
- >>1
乙
- 7 :
- >>1乙
>>3
稲富さんの狙撃成功率はもっと高くていいはず
本番じゃなければ
- 8 :
- >>1乙
>>3
・・・とりあえずソロバンを貰って行くよ、命は助かりそうだから
ああでも、嫁さんに貯金箱を投げつけられるのか・・・
- 9 :
- >>1乙
>>8
拙者は八丈島チケで・・長生きは出来るだろ
- 10 :
- >>1乙
>>3
では書状を持っていきましょう
某この書状を届けたら故郷で隠棲するんだ…
- 11 :
- ∧_∧
( ´・ω・) みなさん、お茶が入りましたよ・・・・。
( つ旦O
と松)永) 旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦旦
- 12 :
- 小豆長光でいいわ。
- 13 :
- 何年も前のAAに反応しすぎだろw
- 14 :
- 中野修理康実は九戸政実の実弟だが、九戸の乱の際は南部信直に味方し、その家を存続させた。
だがやはり兄弟を討たれたことに思うことはあったのだろう、信直を恨む様子が折々に見え、そんな吉兵衛に信直も警戒していた。
さて、この中野修理は大男で怪力の持ち主だった。彼は唐竹の中に鉄棒を仕込んだ五寸回りの狩り杖をつねに持ち歩いており
三戸城の石垣を組む時、三十人でも引けないような大きな石が落ちてくるのを
その狩り杖で押さえたという逸話があった。
ある冬の事、信直が三戸にて冬雪の上にて追鳥をして気晴らしをしていた。
信直はかんじきを履いて雪の上を自由に歩いていたが、大男だった中野は雪を踏つぶし、歩くのも難儀しているようだった。
その様子に信直は
「御身はいつも鬼のようだが、こう雪が深くては我には駆けつけられないだろう?」
この言葉に中野は言い返した。
「さてさておかしな事をおっしゃる。御前を手取りにするのは、わが心のままですぞ」
「ほほう、さればわれに追い付いてみよ!」
駆け出す信直、中野は自慢の狩り杖を持ち直し、それを信直のかんじきに当てた。
雪の中にこける信直。中野は
「堪忍せぬぞ!」
とトドメを――刺さなかった。理由は分からない(書いてない)
こうしてこの場は何事もなく終わったが、信直はさらに中野を警戒するようになり、いつか討ってやろうと折を窺っていたが
結局機会が来ることはなかったという。
- 15 :
- >>14
>こうしてこの場は何事もなく終わったが
絶対死人が何人か出てるだろwwww
- 16 :
- http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1008.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3909.html
このあたりで出ている人だが、お安、後に秀の前と呼ばれる女性についてまとめてみたいと思う。
お安は龍造寺胤栄の娘であり、後に龍造寺隆信の養女である。
父の胤栄は水ヶ江龍造寺家当主だったが、病死してしまう。
胤栄の妻は隆信に再嫁し龍造寺家を統合することとなったが、彼女は前の夫を忘れず隆信と不仲であった。
これを憂えた家老小河信安がまだ幼い娘に刃を押し当て、未亡人を諭したのは既に語られているところだが、
(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3909.html)
その娘こそ、まさしくこのお安なのである。
お安は美しく成長し、蓮池城城主の小田鎮光のもとに嫁ぐことになる。
この鎮光の父小田政光は、龍造寺隆信によって見しにされて戦死しており、
蓮池城は龍造寺隆信によって占拠、鎮光は筑後に落ち延びたという過去を持っていた。
隆信はそんな鎮光を要衝蓮池城にはおいておけないと考えたのか、
蓮池城を弟長信に渡し、鎮光はお安と共に多久の梶峰城へと移ることとなってしまった。
父祖伝来の地を失った鎮光はこれを恨み、大友宗麟が龍造寺家を包囲したときはそれに呼応して龍造寺家を攻めた。
しかし大友の龍造寺包囲網は瓦解、鎮光はお安を隆信のもとへと戻し自身は筑後へと落ち延びていった。
隆信はお安を使い、鎮光宛てに書状を出させた、改めて詫びるのであれば裏切りを許してやるというのである。
義父の言葉を信じ佐嘉にやってきた鎮光は、そこで隆信により皆しにあってしまう。
お安は隆信に謀略の道具として使われたのであった。
鎮光の死後、お安は自害しようとしたが果たせず、次は松浦党の波多氏へ嫁ぐこととなった。
この時からお安は秀の前と呼ばれるようになったという。
秀の前が嫁いだ波多鎮は子がおらず、隆信の孫を養子に受け入れることになった。
さらに九州征伐の折には遅参を豊臣秀吉に咎められ、鍋島直茂のとりなしにより改易を逃れ、以降龍造寺家に従属することとなった。
波多鎮は朝鮮出兵のときも遅参や軍令違反を犯し、秀吉の不興を買ってしまったという。
一方で秀の前もその美貌からか秀吉に目を付けられていた。
秀吉から、名護屋城へ出向くように使者が送られ、やむなく秀の前は名護屋城へと赴いた。
秀の前は秀吉に対して不服従の意思を示す為に、わざと懐剣を落として見せたというが、それが災いして大いに秀吉の不興を買ってしまった。
これらにより波多氏は取り潰し、鎮は常陸へと流されることとなった。
秀の前は佐嘉へと戻り、妙安尼と名乗って仏道に入った。
その後寛永元年(1624)まで生き、79歳で生涯を終えたという。
生涯翻弄され続けた武家の女のちょっと悪い話
ところでまとめブログは龍造寺隆信のところにある小河信安の話とかは本人のところに移した方がいいと思うんだ
- 17 :
- 秀吉から見たら脅す気かこやつ、になるからそりゃ不興買うわな
権力者の我侭への意思表示は難しいとは言え
- 18 :
- ところで姓と名の間に入る「の」なんですけど、
いつから無くなったのでしょうか? みなもと「の」よりとも みたいなやつ
鎌倉ぐらいからなの?お教えくだされ
- 19 :
- 源ノ頼朝や平ノ清盛の「ノ」って、源ノ朝臣頼朝、や平ノ朝臣清盛、の「朝臣」を略したもの。
なので三傑も朝廷では「平ノ朝臣信長」「豊臣ノ朝臣秀吉」「源ノ朝臣家康」となる。
これは源平藤橘などの「姓」につくもので、織田、羽柴、徳川といった「苗字」には付けない。
- 20 :
- 本姓と苗字でググったほうがいい
正直説明が長くなってしまう
- 21 :
- ありがとうございます
早速ググってきます
- 22 :
- つまり豊臣の秀吉が正しいって事だろ
- 23 :
- 日本の歴史の面白いとこはどれほどの実力者でも朝臣、つまり朝廷秩序の傘下ってことなんだよね
秩序の源泉そのものには誰もなろうとしないのが面白い
- 24 :
- 足利義満とかも源朝臣?
まあ信長の上総介みたいなもんか
- 25 :
- >>24
二行目はぜんぜん違う
朝臣は姓、上総介は官途名
信長の氏と姓でいうなら平朝臣
足利義昭の官職で言うなら、信長同様にいろいろ歴任してるからアレだけど、
例えば右大臣とか内大臣が相当する
- 26 :
- 上総介は官途じゃなくて受領だろw
- 27 :
- 確かにw
- 28 :
- 初カキコついでに、今日の読売のコラムに乗っていた話を一つ。
岡山藩の名君・池田光政は、父親がフキ畑で討ち死にしたため、生涯フキを食べなかった。
あるとき、儒者の熊沢蕃山が軽口を叩いた。
「殿はお幸せですなあ。水田で最後を迎えていたならば、米を召し上がれませぬ。」
これに光政、「うん・・・」 と答え、そのまま黙り込んでしまった。
軽口叩いたつもりがとんでもない地雷を踏んでしまったと、蕃山は深く嘆いた。
しかし、wikiを軽く覗いたら親父さん病死って・・・あるぇー?
命にまつわる話題を軽々しくいった儒者の悪い話
- 29 :
- 欸冬(フキ)畑で討たれたと伝わるは祖父の恒興だな
- 30 :
- http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4354.html
確かに畑で討たれたようだ>恒興
- 31 :
- 揚げ足取るようだけど祖父は輝政ですがな
- 32 :
- っていうかなんで「革新」のグラだと抜刀してるんだろ?
- 33 :
- 主の危機に駆けつけない馬廻
天正10年(1582年)6月2日、織田信長の宿泊する京の本能寺を突如として明智光秀の大軍勢が囲んだ。世に言う「本能寺の変」である。
その当時、主の一大事に京に泊まっていた信長の馬廻たちも大急ぎで本能寺、あるいは二条御所に馳せ参じて主と運命を共にした。
しかし、そんな中で主の危機を聞いても駆けつける気が全く無い馬廻の一門が京にいた。
かつて斎藤家の家老として名を馳せ、斎藤滅亡後も信長に抗い続けた日根野弘就とその一族である。
やはり織田家に対して思うところ有りながら仕えていたのか、日根野一門は誰一人として本能寺や二条御所には入らなかった。
本能寺の変を完全に無視した形となった弘就はそのまま近畿に潜伏し、明智光秀が近畿を制した時点で美濃の武将と連絡をとって
去就を相談するなどきな臭い行動を取っていたが、そうこうしている内に羽柴秀吉が光秀を倒してしまったので秀吉に従うことにしたという。
- 34 :
- まあ譜代の家臣じゃないし、心中する義理はないわな・・・
- 35 :
- 破滅の神に愛された男だが討ち死にの危機だけは全て紙一重で回避してる。
- 36 :
- それいったら心中した馬廻や側近には譜代でないものたちはたくさんいたぞ
- 37 :
- 譜代や一門でも裏切る奴は裏切るしなぁ。なんとも言えん
- 38 :
- 有楽斎の悪口はそこまでだ
- 39 :
- ??「譜代や一門が裏切らないとか都市伝説ですぞ、長慶様」
- 40 :
- V
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- 41 :
- むしろ一門にしてから裏切っちゃう人もいますしね!
- 42 :
- 『早々の
書状、ありがとう。嬉しいです。
昨夜は飲み会の幹事をやったので、後先考えず
酒
飲んでしまい、
気分が悪くて参っています。
でも今朝は鷹狩りに
出かけるので、(汗を流して)
夕方には気分良く戻るつもりです。
まだ頭がフラフラしてて、
いい加減な返信で申し訳ないが、
とりあえず報告した方が良いと思い、お手紙します。 かしこ
牟宇(次女)へ 政宗より』
(さう々々の文、御嬉しく候。夕は取りはやしのため、身をすて、さけのみ申し候て、かいきもおもり、
めいはく申し候。されども、けさ鷹野へまいる事に候て、し合よく晩は、かへり申すべく候。
心ふら々々と候て、あら々々返事申し候。何事も又々文ならでと、筆にのこし申し候。)
え?「読み難い?」「普通に書け?」
二日酔いで、まだベロベロなのに娘へ手紙↓書いた人に言って下さいよ・・・
ttp://i.imgur.com/E6HNE.jpg
参考までに、まともな状態で同じく子供(長男・秀宗)あてに書いた手紙↓
ttp://i.imgur.com/HWYd1.jpg
こんなんで「夕方には治るから!」とか書いても、かえって心配させるだけだと思うのだが。
- 43 :
- 正真正銘のただの酔っ払いや
- 44 :
- こういう五月雨式に書くの、酔ってたからじゃなくて、女性宛だからだと思うんだが
どうなのその辺。洒脱でいいと思うんだけど
- 45 :
- 酒が脱けてなかったのか、
洒脱だったのか
- 46 :
- 洒落ということで酒の話にオチをつけては
- 47 :
- この人はホント自筆の手紙好きだな。やたらあちこちで見つかるし。
筆まめなのか今でいうメール中毒なのか。
- 48 :
- 手紙が電話やメール代わりの時代だからそれなりの数を書いてるのは当たり前ちゃ当たり前
残っているかまとめられてるかの違いはあるけど
- 49 :
- いや、エライ人は祐筆使うだろ、普通
- 50 :
- 公文書はともかく私文書は祐筆使わないケースも結構多いような
- 51 :
- 鮭さまな手紙なんか祐筆なんか使えないなw
- 52 :
- なんで?
- 53 :
- >>51
内容のせいかは置いておくとしてw
鮭さまが祐筆使うのって最晩年だけだよな。
- 54 :
- >>52
最上義光
とGoogleに入力すれば、
最上義光 シスコン
が出てくるから、それでググる
- 55 :
- 調べたら真っ先にニコニコ大百科とアンサイクロペディアが出てきたんだが
まさかとは思うけどこれらを参考にしろ、とは言わないよな
- 56 :
- >>55
いや、それでいいんだ
- 57 :
- ここもその二つと大差ないしな
- 58 :
- それは違う。あっちは記事という形だから固定だがこちらは情報が流動的
あからさまなコピペとかだと突っ込まれるしな
- 59 :
- アンサイクロペディアは記事によっちゃあネタになってないでただの誹謗中傷レベルの文章になってたりするしなぁ〜
- 60 :
- ウヨサヨ系と関係のある歴史人物なんて面白くもないネタでメチャクチャだしな
- 61 :
- まあアンクロとかニコ百科とかのネタ供給先だわな、こっちは。
- 62 :
- そんなアンクロに史実を列挙されちゃう鬼武蔵ってやっぱすげぇよな
- 63 :
- 逸話だから史実とは限らない
- 64 :
- 関ヶ原の結果、伊予20万石を領した加藤嘉明であったが、伊予の首府である松前城には、
非常に辟易していた。
松前城は東南北の三方は山から遠く、城のまわりは底深き沼地。西は九州に続く青海原。
まさに攻めるに難し、日本第一の城郭と語られていたのであるが、嘉明はこう思った
「なんだこの城は!?海に近いが風が強い日には砂が天に舞上がり砂まみれになり、
波は堤防を越え高波に船も転覆してしまう。
だいたいこの城は波音がうるさい!うるさすぎる!!
もっと静かないい場所に引っ越そう!」
とまあ、波の騒音に耐えかね、領内を巡り新城建築の候補地を探し始めた。
高山という場所は松前城から近いが土地が歪んでいる。
長山、高山、尾崎と見て回ったが、どうも一長一短だ。
…と、ここに温泉宮(現在の道後温泉あたり)の西南のあたり、原田広野の中に山があり、
これは勝山と呼ばれていた、
広地にして水清く、八方に開けた場所である。
南には5,6町隔てて石手川の流れ清く、また南方2,3里隔てたところには加藤家直轄領である
施梨山、西に15,6町隔てた場所には江戸山。
三津の浜までは山が続き、北は御幸寺の山遠く、東は道石手山、湯の山嶺数里続き、湯月の古城を
去ること20町。
素晴らしい地だと確信した。
慶長8年(1603)嘉明はここに、五重の天守を始めとした大規模な築城を始めた。
そして勝山の地名を改め、「松山」と名付けた。
伊予の新たな首府・松山の威容が今まさに出現しようとしていた…
が、この松山城完成を前に、加藤嘉明は寛永4年(1627)、会津40万石に転封となってしまったのである。
とまあそんなこんなで、騒音公害から始まった、伊予松山築上の顛末である。
(伊予郡郷里俚諺集)
- 65 :
- 愛媛から青森ワロス
着るものに困りそう
波音とか電車の音ってなれるよね
線路のそばに住んでた時は割と簡単になれた
- 66 :
- 福島だって
- 67 :
- 輝元「気持ちはわかる」
- 68 :
- 加藤嘉明の会津転封について藤堂高虎関係で過去に出た話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-301.html(いい話)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-839.html(悪い話)
藤堂高虎の真意やいかに
- 69 :
- まあ会津が要地中の要地の一つなのは間違いなく、それを任せられるというのは
相当の信頼があったと考えるべきではあるな。
あと会津転封を嫌がるというのは、蒲生氏郷の話が下敷きになっているのだろうけど、
アレは政治の中心が京大阪だったところから来るわけで、嘉明の時代はすでに江戸が
天下の中心になっている以上、距離的にも近く悪い話じゃないわな。しかも石高倍増だし。
客観的には栄転と言い切っていいと思う。
- 70 :
- 次が保科なのを考えても悪地じゃないな
- 71 :
- でも青森と間違える人がいるぐらいだからなぁ…
- 72 :
- 現代西日本人にとってすら、青森も福島も、十把一絡げの東北の僻地という程度の認識でしかない。
ましてや戦国期の畿内・東海の人にとっては・・・
- 73 :
- 瀬戸内の要衝のほうがはるかに重要だからなぁ。
- 74 :
- おっと南部さん、相馬さんの悪口はそこまでだ
- 75 :
- >>72
東北人にとっては四国・中国地方も同じ感じだけどね
- 76 :
- >>72>>75
なんでも地理的要因のせいにするのは良くない
青森と福島の区別がつかないなんて現代日本では無教養なだけ
- 77 :
- 米がとれないところなんて人が住む処じゃないっつー扱いでしょう
室町幕府でさえ、畿内と瀬戸内〜明までの交易路抑えとけば良してな感じだし
- 78 :
- >>77
でさえというか、それは極端な分権思想が先にあった室町幕府が特殊なのであってw
それ以前は鎌倉幕府も朝廷も日本全国を視野に入れて政策も行い政権運営もしている。
- 79 :
- 荘園が乱立してた平安後期から、朝廷と幕府の力関係があやふやだった鎌倉前期、
守護の力が大きくなった鎌倉後期とかを考えると
>日本全国を視野に入れて政策も行い政権運営
こんなものは行政改革の初期に取り上げられた理念やお題目でしかない
地方の勢力が中央の法を骨抜きにしたために結局は「勝手にしろ」と放置される
- 80 :
- 日本って朝廷っていう強力な権威があるのになんで中央集権が根付かなかったんだろうな
- 81 :
- イタリアってローマ法王っていう強力な権威があるのに
なんで中央集権が根付かなかったんだろうな、ですね分かります。
- 82 :
- アメリカがアフガンを制圧したと言っても
統治は到底不可能なのと同じ
- 83 :
- >>80
朝廷の人たちが血を嫌がるから
- 84 :
- >>80
権力と実力がなければしょうがない
- 85 :
- 何この流れ
マジレスしちゃいけないのか?
- 86 :
- 俺はいつでも本気だぜ!
- 87 :
- 主の仇
大関高増の罠(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4087.html)の後の話。
那須資晴の公認有っての事とは言えあまりにも大田原三兄弟の陰謀によって
理不尽な死に方をした千本資俊の家臣の中には当然の事ながら不満を持っていた者たちが居た。
千本家臣である月次行安に仕える竹原隆業もそんな中の一人である。
ある日、ついに竹原隆業は主の月次行安に「主の仇を取りましょう」と相談を持ちかけたのであった。
しかし、三兄弟の行いがどうであれ他ならぬ那須資晴の裁定であるので逆らった所で詮なき事である。
月次行安は竹原の計画を聞き出すだけ聞き出すと謀反の兆しありとして首を刎ねて那須資晴に献上した。
月次の行動は主君からは賞賛されたが千本の領民からは憎しみを買ってしまったという。
- 88 :
- 架空の話乙
- 89 :
- 栃木県の地名って本に書いてあった
- 90 :
- 「月次」を「つきなみ」と読めたら地元民
- 91 :
- 地元民ではないが読めると思うぞ
- 92 :
- 読み方は全然月並みじゃないと思う
- 93 :
- 2点
- 94 :
- でも
92>>>林家木久蔵だな
- 95 :
- いやいや。
- 96 :
- 天正10年(1582)12月2日、羽柴秀吉は和平を一方的に放棄し柴田勝豊の近江長浜城を攻略。
ここに秀吉と柴田勝家との対立は決定的となり、事態は賤ヶ岳の戦いへと進んでいく。
さて、そんな状況の中の、12月14日付、羽柴秀吉の書状
『前に姫路から取り寄せた材木船のことだが、その方の手の者に任せているのにまだ届かないではないか!
沙汰の限りとはこの事である!早々に申し付けてすぐに届けさせよ!
また前の馬屋の連中に取り寄せさせたかすがいも、まだ届かないではないか!お前は一体何をやっているのか!?
これもまた緊急に届けさせるように!
恐々謹言
筑前守 秀吉(花押)
十二月十四日
小西弥九郎(行長) 殿』
戦争を始めたものの秀吉方も物資の輸送が上手くいっていなかったようで、
その怒りやいら立ちを小西行長にぶつけた書状である。
(壱岐文書)
- 97 :
- 九州征伐が終わった後くらいだったらそのまま追放されてたかもしれんな
- 98 :
- 上杉征伐に向かっていた最中のことである。下野国小山で石田三成挙兵の報告をうけた徳川家康は
決戦に備えて三男の秀忠に中山道を西上する様に命じた。サポート役に大久保忠隣や牧野康成、榊原康政
お目付け役として本多正信も帯同したこの部隊は進軍の途上、三成方の真田昌幸が籠る上田城を攻撃した。その際、
窮地に陥った味方を救おうと、忠隣配下の杉浦文勝と康成配下の贄掃部が命令が無いまま兵を動かしたのだが、正信はこれを
「いかに味方を救う為とはいえ、命令も無いのに兵を動かすは軍法違反である。両名に厳しい処罰を与えるべきじゃ。」
と主張した。結果として文勝は切腹し、これに反論した康成は秀忠軍から外された。武功派の忠隣らと、さしたる戦功もなく智謀で出世した
正信とはもともと馬が合わず、この一件がきっかけで不仲が表面化したという。さらに戦後、正信が家康の後継者として二男の結城秀康を推薦したのに対し、
忠隣が秀忠を推した事などもあり、両者の溝はより一層深まっていったという。
- 99 :
- 行長って奉行面でもダメな子だったのか?
なんで出世したんだ?
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