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2012年4月主義・主張50: ☆★☆三島由紀夫の主義・主張★☆★ (528) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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☆★☆三島由紀夫の主義・主張★☆★


1 :10/09/10 〜 最終レス :12/04/25
文学者でありながら最後は憂国士として華々しく散った三島由紀夫の主義・主張。
檄文
http://www.geocities.jp/kyoketu/61052.html
演説文
http://www.geocities.jp/kyoketu/61051.html
dat落ちした前スレ
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/shugi/1258439789/

2 :
二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変へはしたが、今もあひかはらずしぶとく生き永らへてゐる。
生き永らへてゐるどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまつた。それは戦後民主主義と
そこから生ずる偽善といふおそるべきバチルスである。
こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終はるだらう、と考へてゐた私はずいぶん甘かつた。おどろくべき
ことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、
文化ですら。
私は昭和二十年から三十二年ごろまで、大人しい芸術至上主義者だと思はれてゐた。私はただ冷笑してゐたのだ。
或る種のひよわな青年は、抵抗の方法として冷笑しか知らないのである。そのうちに私は、自分の冷笑・
自分のシニシズムに対してこそ戦はなければならない、と感じるやうになつた。
三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より

3 :
(中略)
この二十五年間、思想的節操を保つたといふ自負は多少あるけれども、そのこと自体は大して自慢にならない。(中略)
それよりも気にかかるのは、私が果たして「約束」を果たして来たか、といふことである。否定により、
批判により、私は何事かを約束して来た筈だ。政治家ではないから実際的利益を与へて約束を果たすわけではないが、
政治家の与へうるよりも、もつともつと大きな、もつともつと重要な約束を、私はまだ果たしてゐないといふ
思ひに日夜責められるのである。その約束を果たすためなら文学なんかどうでもいい、といふ考へが時折頭をかすめる。
これも「男の意地」であらうが、それほど否定してきた戦後民主主義の時代二十五年間を、否定しながら
そこから利得を得、のうのうと暮らして来たといふことは、私の久しい心の傷になつてゐる。
三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より

4 :
個人的な問題に戻ると、この二十五年間、私のやつてきたことは、ずいぶん奇矯な企てであつた。まだそれは
ほとんど十分に理解されてゐない。もともと理解を求めてはじめたことではないから、それはそれでいいが、
私は何とか、私の肉体と精神を等価のものとすることによつて、その実践によつて、文学に対する近代主義的
盲信を根底から破壊してやらうと思つて来たのである。(中略)
二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望が
いかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。これだけの
エネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。
三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より

5 :
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。
このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、
その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が
極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。
三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より

6 :
われわれ楯の会は自衛隊によつて育てられ、いはば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に
報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で
準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、またわれわれも心から自衛隊を愛し、もはや
隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかつた男の涙を知った。
ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。
このことには一点の疑ひもない。われわれにとつて自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の気を
呼吸できる唯一の場所であつた。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの挙に
出たのは何故であるか。たとへ強弁と言はれようとも自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
三島由紀夫「檄」より

7 :
われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして
末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、
自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただ
ごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みしながら見てゐなければならなかつた。
われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるを夢見た。
しかも法理論的には自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の
法的解釈によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を
なして来ているのを見た。もつとも名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。
三島由紀夫「檄」より

8 :
自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけてきた。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、
警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。
われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目覚める時こそ日本が目覚める時だと信じた。
自衛隊が自ら目覚めることなしに、この眠れる日本が目覚めることはないのを信じた。憲法改正によつて、
自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる
責務はない、と信じた。
三島由紀夫「檄」より

9 :
四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念はひとへに
自衛隊が目覚める時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。
憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の
前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。
政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の
本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」
ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲がつた大本を正すといふ使命のため、われわれは少数乍(なが)ら
訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。
三島由紀夫「檄」より

10 :
しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起こつたか。総理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、圧倒的な
警察力の下に不発に終わつた。その状況を新宿で見て、私は「これで憲法は変らない」と痛恨した。
その日に何が起こつたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の
反応を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。
治安出動は不要になつた。政府は政体護持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、
国の根本問題に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。これで左派勢力には憲法護持のアメ玉をしやぶらせ
つづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、
実をとる! 政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は
気づかない筈はない。そこで、ふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまつた。
三島由紀夫「檄」より

11 :
銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日といふ日は、自衛隊にとつては悲劇の日だつた。創立以来
二十年に亘つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は
政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の
可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生児であつた
自衛隊は「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。
われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が
残つてゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であらう。
男であれば男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、
決然起ち上がるのが男であり武士である。
三島由紀夫「檄」より

12 :
われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な
命令に対する男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを
正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだつた。
われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に
与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。
シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、
軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に
操られ、党利党略に利用されることではない。
三島由紀夫「檄」より

13 :
この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。
武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。
繊維交渉に当たつては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる
核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、
抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。
沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か?アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを
喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの
傭兵として終るであらう。
三島由紀夫「檄」より

14 :
われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけにはいかぬ。
しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。
日本を日本の真姿に、戻してそこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。
生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。
それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。
これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、
共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、
この挙に出たのである。
三島由紀夫「檄」より

15 :
日本はみかけの安定の下に、一日一日魂のとりかへしのつかぬ癌症状をあらはしてゐるのに、手をこまぬいて
ゐなければならなかつた。もつともわれわれの行動が必要なときに、状況はわれわれに味方しなかつたのである。
(中略)
日本が堕落の淵に沈んでも、諸君こそは、武士の魂を学び、武士の錬成を受けた、最後の日本の若者である。
諸君が理想を放棄するとき、日本は滅びるのだ。
私は諸君に、男子たるの自負を教へようと、それのみ考へてきた。
一度楯の会に属したものは、日本男児といふ言葉が何を意味するか、終生忘れないでほしい、と念願した。
青春に於て得たものこそ終生の宝である。決してこれを放棄してはならない。
三島由紀夫
昭和45年11月、楯の会会員への遺言「楯の会会員たりし諸君へ」より

16 :
……たしかに二・二六事件の挫折によつて、何か偉大な神が死んだのだつた。当時十一歳の少年であつた私には、
それはおぼろげに感じられただけだつたが、二十歳の多感な年齢に敗戦に際会したとき、私はその折の神の死の
怖ろしい残酷な実感が、十一歳の少年時代に直感したものと、密接につながつてゐるらしいのを感じた。
…それをニ・ニ六事件の陰画とすれば、少年時代から私のうちに育まれた陽画は、蹶起将校たちの英雄的形姿であつた。
その純粋無垢、その勇敢、その若さ、その死、すべてが神話的英雄の原型に叶つてをり、かれらの挫折と死とが、
かれらを言葉の真の意味におけるヒーローにしてゐた。
三島由紀夫「二・二六事件と私」より

17 :
(中略)かくも永く私を支配してきた真のヒーローたちの霊を慰め、その汚辱を雪ぎ、その復権を試みよう
といふ思ひは、たしかに私の裡に底流してゐた。しかし、その糸を手繰つてゆくと、私はどうしても天皇の
「人間宣言」に引つかからざるをえなかつた。
昭和の歴史は敗戦によつて完全に前期後期に分けられたが、そこを連続して生きてきた私には、自分の連続性の
根拠と、論理的一貫性の根拠を、どうしても探り出さなければならない欲求が生まれてきてゐた。これは
文士たると否とを問はず、生の自然な欲求と思はれる。そのとき、どうしても引つかかるのは、「象徴」として
天皇を規定した新憲法よりも、天皇御自身の、この「人間宣言」であり、この疑問はおのづから、二・二六事件まで、
一すぢの影を投げ、影を辿つて「英霊の声」を書かずにはゐられない地点へ、私自身を追ひ込んだ。自ら
「美学」と称するのも滑稽だが、私は私のエステティックを掘り下げるにつれ、その底に天皇制の岩盤が
わだかまつてゐることを知らねばならなかつた。それをいつまでも回避してゐるわけには行かぬのである。
三島由紀夫「二・二六事件と私」より

18 :
ニ・ニ六事件を肯定するか否定するか、といふ質問をされたら、私は躊躇なく肯定する立場に立つ者であることは、
前々から明らかにしてゐるが、その判断は、日本の知識人においては、象徴的な意味を持つてゐる。すなはち、
自由主義者も社会民主主義者も社会主義者も、いや、国家社会主義者ですら、「ニ・ニ六事件の否定」といふ
ところに、自分たちの免罪符を求めてゐるからである。この事件を肯定したら、まことに厄介なことになるのだ。
現在只今の政治事象についてすら、孤立した判断を下しつづけなければならぬ役割を負ふからである。
もつとも通俗的普遍的なニ・ニ六事件観は、今にいたるまで、次のやうなジャーナリストの一行に要約される。
「ニ・ニ六事件によつて軍部ファッショへの道がひらかれ、日本は暗い谷間の時代に入りました」
三島由紀夫「二・二六事件について」より

19 :
二・二六事件は昭和史上最大の政治事件であるのみでない。昭和史上最大の「精神と政治の衝突」事件であつた
のである。そして精神が敗れ、政治理念が勝つた。幕末以来つづいてきた「政治における精神的なるもの」の
底流は、ここに最もラディカルな昂揚を示し、そして根絶やしにされたのである。
勝つたのは、一時的に西欧的立憲君主政体であり、つづいて、これを利用した国家社会主義(多くの転向者を
含むところの)と軍国主義とのアマルガムであつた。私は皇道派と統制派の対立などといふ、言ひ古されたことを
言つてゐるのではない。血みどろの日本主義の刀折れ矢尽きた最期が、私の目に映る二・二六事件の姿であり、
北一輝の死は、このつひにコミットしえなかつた絶対否定主義の思想家の、巻添へにされた、アイロニカルな
死にすぎなかつた。
三島由紀夫「二・二六事件について」より

20 :
二・二六事件を非難する者は、怨み深い戦時軍閥への怒りを、二・二六事件なるスケイプ・ゴートへ向けてゐるのだ。
軍縮会議以来の軟弱な外交政策の責任者、英米崇拝者であり天皇の信頼を一身に受けてゐた腰抜け自由主義者
幣原喜重郎の罪過は忘れられてゐる。この人こそ、昭和史上最大の「弱者の悪」を演じた人である。
又、世界恐慌以来の金融政策・経済政策の相次ぐ失敗と破綻は看過されてゐる。誰がその責任をとつたのか。
政党政治は腐敗し、選挙干渉は常態であり、農村は疲弊し、貧富の差は甚だしく、一人として、一死以て国を
救はうとする大勇の政治家はなかつた。
戦争に負けるまで、さういふ政治家が一人もあらはれなかつたことこそ、二・二六事件の正しさを裏書きしてゐる。
青年が正義感を爆発させなかつたらどうかしてゐる。
三島由紀夫「二・二六事件について」より

21 :
しかも、戦後に発掘された資料が明らかにしたところであるが、このやうな青年のやむにやまれぬ魂の奔騰、
正義感の爆発は、つひに、国の最高の正義の容認するところとならなかつた。魂の交流はむざんに絶たれた。
もつとも悲劇的なのは、この断絶が、死にいたるまで、青年将校たちに知られなかつたことである。そして
この錯誤悲劇のトラーギッシュ・イロニーは、奉勅命令下達問題において頂点に達する。奉勅命令は握り
つぶされてゐたのだつた。二・二六事件は、戦術的に幾多のあやまりを犯してゐる。その最大のあやまりは、
宮城包囲を敢へてしなかつたことである。北一輝がもし参加してゐたら、あくまでこれを敢行させたであらうし、
左翼の革命理論から云へば、これはほとんど信じがたいほどの幼稚なあやまりである。しかしここにこそ、
女子供を一人も殺さなかつた義軍の、もろい清純な美しさが溢れてゐる。この「あやまり」によつて、
二・二六事件はいつまでも美しく、その精神的価値を永遠に歴史に刻印してゐる。皮肉なことに、戦後
二・二六事件の受刑者を大赦したのは、天皇ではなくて、この事件を民主主義的改革と認めた米占領軍であつた。
三島由紀夫「二・二六事件について」より

22 :
桜田門外の変は、徳川幕府の権威失墜の一大転機であつた。十八列士のうち、ただ一人の薩摩藩士としてこれに
加はり、自ら井伊大老の首級をあげ、重傷を負うて自刃した有村次左衛門は、そのとき二十三歳だつた。(中略)
維新の若者といへば、もちろん中にはクヅもゐたらうが、純潔無比、おのれの信ずる行動には命を賭け、
国家変革の情熱に燃えた日本人らしい日本人といふイメージがうかぶ。かれらはまづ日本人であつた。
そこへ行くと、国家変革の情熱には燃えてゐるかもしれないが、全学連の諸君は、まつたく日本人らしく思はれない。
かれらの言葉づかひは、全然大和言葉ではない。又、あのタオルの覆面姿には、青年のいさぎよさは何も感じられず、
コソ泥か、よく言つても、大掃除の手つだひにゆくやうである。あんなものをカッコイイと思つてゐる青年は、
すでに日本人らしい美意識を失つてゐる。いはゆる「解放区」の中は、紙屑だらけで、不潔をきはめ、
神州清潔の民はとてもあんな解放区に住めたものではないから、きつと外国人を住まはせるための地域を
解放区といふのであらう。
三島由紀夫「維新の若者」より

23 :
私は、ごく簡単に言つて、青年に求められるものは「高い道義性」の一語に尽きると思ふ。さう言ふと、
バカに古めかしいやうだが、道義といふのは、青年の愚直な盲目的な純粋性なしにば、この世に姿を現はすことは
ないのである。老人の道義性などといふのは大抵真っ赤なニセモノである。
私がいつも思ひ出すのは、二・二六事件で処刑された青年将校の一人、栗原中尉のことである。(中略)
中尉の部下だつた人から直接きいた話であるが、あるとき演習があつて、小休止の際、中尉の部下の一上等兵が、
一種のアルコール中毒で、耐へられずに酒屋へとび込んでコップ酒をあふつてゐた。そこへ通りかかつた大隊長に
詰問され、所属と姓名を名乗らされたが、その晩帰営すると、大隊長は一言も講評を言はず、全員の前で、
その兵の名をあげて、いきなり重営倉三日を宣告した。
中尉は部下に、その兵の演習の汗に濡れたシャツを取り換へさせるやう、営倉は寒いから暖かい衣類を持つて
行かせるやうに命じた。それからなほ三日つづいた演習のあひだ、部下たちは中尉の顔色の悪いのを気づかつた。
存分の働きはしてゐたが、いかにも顔色がすぐれなかつた。
三島由紀夫「現代青年論」より

24 :
あとで従兵の口から真相がわかつたが、上等兵の重営倉の三晩のあひだ、中尉は一睡もせず、軍服のまま、
香を焚いて、板の間に端座して、夜を徹してゐたのださうである。
釈放後この話をきいた兵は、涙を流して、栗原中尉のためなら命をささげようと誓ひ、事実、この兵は
二・二六事件に欣然と参加したさうだ。
青年のみが実現できる高い道義性とは、かういふことを言ふのである。第一、老人では、いくらその気があつても、
三日も完全徹夜をした上で走り回つてゐたら、引つくりかへつてしまふであらう。
二・二六事件が右寄りの話で面白くないといふのなら、左翼の革命運動も、青年がこれに携はる以上、高い
道義性の実現なしには、本当に人心を把握できないと私は信ずる。チェ・ゲバラは革命家の禁欲主義を唱へ、
強姦の罪を犯した愛する部下を涙をのんで射殺したが、これはゲバラが革命の道義性をいかに重んじたかの
証左であつて、毛沢東の「軍事六篇」もこの点をやかましく言つてゐる。
三島由紀夫「現代青年論」より

25 :
…一学生の万引き事件、日大紛争における暴力団はだしの残虐なリンチ事件、……これらは学生による政治活動から、
道義性が崩壊してゆくいちじるしい事例である。あとには目的のためには手段をえらばない革命戦術が
残つてゐるだけである。一見、平和戦術をとつてゐる一派も、それ自体が戦術であることが見えすいてゐて、
何ら高い道義性を感じさせることはない。
ここまで青年を荒廃させたのは、大人の罪、大人の責任だ、といふのが、今通りのいい議論だが、私はさう考へない。
青年の荒廃は青年自身の責任であつて、それを自らの責任として引き受ける青年の態度だけが、道義性の
源泉になるのである。
三島由紀夫「現代青年論」より

26 :
絶望を語ることはたやすい。しかし希望を語ることは危険である。わけてもその希望が
一つ一つ裏切られてゆくやうな状況裡に、たえず希望を語ることは、後世に対して、
自尊心と羞恥心を賭けることだと云つてもよい。
決して後悔しないといふことは、何はともあれ、男性に通有の論理的特質に照らして、
男性的な美徳である。
三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より

27 :
事実(ファクト)が一歩一歩われらを死へ追ひつめるとき、人間の弱さと強さの弁別は混乱する。
弱さとはそのファクトから目をそむけ、ファクトを認めまいとすることなのか? 
もしさうだとすれば、強さとはファクトを容認した諦念に他ならぬことになり、単なる
ファクトを宿命にまで持ち上げてしまふことになる。私には、事態が最悪の状況に
立ち至つたとき、人間に残されたものは想像力による抵抗だけであり、それこそは
「最後の楽天主義」の英雄的根拠だと思はれる。そのとき単なる希望も一つの行為になり、
つひには実在となる。なぜなら、悔恨を勘定に入れる余地のない希望とは、人間精神の
最後の自由の証左だからだ。
三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より

28 :
このごろ世間でよく言はれることは、「あれほど苦しんだことを忘れて、軍国主義の過去を美化する風潮が
危険である」といふ、判コで捺したやうな、したりげな非難である。
しかし人間性に、忘却と、それに伴ふ過去の美化がなかつたとしたら、人間はどうして生に耐へることができるであらう。
忘却と美化とは、いはば、相矛盾する関係にある。
完全に忘却したら、過去そのものがなくなり、記憶喪失症にかかることになるのだから、従つて過去の美化も
ないわけであり、過去の美化がありうることは、忘却が完全でないことにもなる。
人間は大体、辛いことは忘れ、楽しいことは思ひ出すやうにできてゐる。この点からは、忘却と美化は
相互補償関係にある。美化できるやうな要素だけをおぼえてゐるわけで、美化できない部分だけをしつかり
おぼえてゐることは反生理的である。人の耐へうるところではない。
三島由紀夫「忘却と美化」より

29 :
私は、この非難に答へるのに、二つの答を用意してゐる。
一つは、忘れるどころか、「忘れねばこそ思ひ出さず候」で、人は二十年間、自分なりの戦争体験の中にある
栄光と美の要素を、人に言はずに守りつづけてきたのが、今やつと発言の機会を得たのに、邪魔をするな、
といふ答である。
この答の裏には、いひしれぬ永い悲しみが秘し隠されてゐるが、この答の表は、むやみとラディカルである。
従つて、この答を敢てせぬ人のためには、第二の答がある。
すなはち、現代の世相のすべての欠陥が、いやでも応でも、過去の諸価値の再認識を要求してゐるのであつて、
その欠陥が今や大きく露出してきたからこそ、過去の諸価値の再認識の必要も増大してきたのであつて、
それこそ未来への批評的建設なのである、と。
三島由紀夫「忘却と美化」より

30 :
剣道は柔道とともに、体力が必要であることはむろんであるが、柔道は一見強さうな人は実際に強いけれど、
剣道は見ただけでは分らず、合せてみてはじめて非常に強かつたりする“技のおもしろさ”がある。それに
スピードと鋭さがあるので僕の性にあつてゐる。また剣道は、男性的なスポーツで、そのなかには日本人の
闘争本能をうまく洗練させた一見美的なかたちがある。
西洋にもフェンシングといふ闘争本能を美化した格技があるが、本来、人間はこの闘争本能を抑圧したりすると
ねちつこくいぢわるになるが、闘争本能は闘争本能、美的なものに対する感受性はさういふものと、それぞれ
二つながら自己のなかで伸したいといふ気持があるものです。
三島由紀夫「文武両道」より

31 :
さらに剣道には伝統といふものがある。稽古着にしたつて、いまわれわれが着てるものは、幕末の頃から
すこしも変つてゐない。また独特の礼儀作法があつて、スポーツといふよりか、何か祖先の記憶につながる――
たとへば相手の面をポーンと打つとき、その瞬間にさういふ記憶がよみがへるやうな感じがする。これが
テニスなんかだと、自分の祖先のスポーツといふ気はしない。
だから剣道ほど精神的に外来思想とうまく合はない格技はないでせう。たとへば、共産主義とか、あるひは
ほかの思想でもいいが、西洋思想と剣道をうまくくつつけようとしてもうまくくつつかない。共産党員で剣道を
やつてゐる者があるかも知れないが、その人は自分の中ですごい“ギャップ”を感じることでせう。
僕は自分なりに小さい頃から日本の古典文学が非常に好きでしたし、さういふ意味で、剣道をやつてゐても
自分の思想との矛盾は感じない。
三島由紀夫「文武両道」より

32 :
戦後、インテリ層の中で、「これで新らしい時代がきたんだ、これからはなんでも頭の勝負でやるんだ……」
といふ時代があつた。その頃僕は、僕を可愛がつてくれた故岸田国士先生に「これから文武両道の時代だ……」
といつてまはりの人に笑はれたことがある。当時、先生のまはりにゐた人達にしてみれば、新らしい時代が
きたといふのに、なんで古めかしいことをいふと思つたのでせう。
元来、男は女よりバランスのくづれやすいものだと僕は思つてゐる。女は身体の真中に子宮があつて、
そのまはりにいろんな内蔵が安定してゐて、そのバランスは大地にしつかりと結びついてゐる。男は、いつも
バランスをとつてゐないと壊れやすく極めて危険な動物です。したがつてバランスをとるといふ考へからいけば、
いつも自分と反対のものを自分の中にとり入れなければいけない。(私はさういふ意味で文武両道といふ言葉を
もち出した)。さうすると、軍人は文学を知らなければならないし、文士は武道も、といふやうになる。
実はそれが全人間的といふ姿の一つの理想である。
三島由紀夫「文武両道」より

33 :
その点、むかしの軍人は漢学の教養もあり、語学などのレベルも高かつた。私はいま二・二六事件の将校のことを
研究してゐますが、当時の将校は実に高い教養の持主が多かつたと思ふ。
末松太平といふ方の「私の昭和史」(みすず書房刊)なんかみると、実にすばらしい文章で、いまどきの
かけ出しの作家などはちよつと足元にも及ばない。ああいふ立派な文章を書くには、よほどの教養が身に
つかなければ書けないものです。また、文士も、漢学を学び武道に励むといつた工合で、全人間的ないろいろな
教養を身につけてゐた。
ところが大正に入り昭和になつてくると、この傾向はだんだんやせ細つてきてバランスが崩れ片輪になつてきた。
そして大東亜戦争の頃の日本人の人間像といふものは、一見非常に立派なやうですが、実際はバラバラであつた。
近代社会の毒を受けたかたちの人間が多かつた時代です。つまり先にいつた文武両道的な――自分に欠けたものを
いつも補ひたい気持、さういふ気持がなくなつてゐたのです。
最近はさらにかういふ考へ方がなくなつてゐる。また余裕もないだらう。
三島由紀夫「文武両道」より

34 :
…しかし、僕は思ふのだが本を読むにしても本当に読む気があれば必ず読めるものだ。とかくいまは無理をする
といふことを一般に避けるやうになつてきてゐる。
そこで、またバランスのことにもどるが、一般に美といふ観点からも“バランス”は大事である。古いギリシャ人の
考へは、人間といふものは、神様がその言動や価値といふものをハカリでちやんと計つてゐて、一人一人の
人間の中の特性が、あまりきはだちすぎてゐると、神の領域にせまつてくる、として神様はピシャつと押へる。
すべての面で、このやうに一人一人の人間を神様はじつとみてゐるといふのですね。
…このやうな考へ方は、当時ポリス(都市国家)といふ小さな社会で均衡を保つた政治生活をおくる必要から
生れたものと思ふが、なかなかおもしろい考へ方です。人間が知育偏重になれば知識だけが上がり、体育偏重に
なれば体力だけがぐつと上がる。――これはバランスがくづれるもとで、神様はこのことを、蔭でみてゐて罰する。
だから理想的に美しい人間像といふのは、あくまで精神と肉体のバランスのとれた、文武両道にひいでたもので
なければないといふわけです。
三島由紀夫「文武両道」より

35 :
松陰はやはり、日本の根本的な問題、そして忙しい人たちが気がつかない問題、しかし、これをはづれたら
日本が日本でなくなるやうな問題、それだけを考へつめてゐたんだと思ふんです。
わたくしは、精神といふものは、いますぐ役に立たんもんだといふことを申し上げました。
わたくしは、自分の書いたものや、いつたものが、いますぐ役に立つたら、かへつてはづかしいといふふうに
考へてをります。ですから、たとへばけふ申し上げたことが、あるひはみなさんのお心のどつかにとまつて、
それが十年後、二十年後に役に立つていただければ、それはありがたいけれども、あつ、三島のいつたことは
おもしろい、ぢや、けふ会社で利用して、つかつてみようかといふやうなことは、わたくしは申し上げたくもないし、
申し上げる立場にもゐないと思ふんです。わたくしは、その、ぢや日本の精神ていふのはなんだ。日本が
日本であるものはなんだ。これをはづれたら、もう日本でなくなつちやふもんはなんだと。それだけを
考へていきたいです。
三島由紀夫「現代日本の思想と行動」より

36 :
(中略)
そして、いま非常な情報化社会がありますから、精神といふものはテレビに写らない。そしてテレビに写るのは
ノボリや、プラカードや、人の顔です。それからステートメントです。そして人間はみんなステートメント
やることによつて、なにかしたやうな気持になつてゐるんです。わたくしは、そこまでいけば、どんなことを
やつたところで、目に見えない精神にかなはないんぢやないかといふふうに思つてゐるんです。
昔のやうに爆弾三勇士、あるひは特攻隊、ああいふやうなものがあつたときに、はじめてこれはすごい、
これはテレビにも写らなかつた、なにも出なかつたが、これはすごいといふ一点があると思ふんですが、
いまテレビに写つてるものは、どんなものが出てこようが、結局、情報化社会のなかでとかし込まれて、また
忘れられ、笑はれ、そして人間の精神体系になにものも加へないままで消えていくんぢやないか。
三島由紀夫「現代日本の思想と行動」より

37 :
わたくしは、政治自体も非常にさういふ点で危険な場所にゐると思ひますのは、政治もあらゆる場合に
ステートメントだけになつていく。そのステートメントが情報化社会のなかで、非常なスピードで溶解されて、
ちやうどあたかも塵埃処理のやうに、早くこれをすべて始末しなければ東京中が塵埃でうづまつてしまふ。
紙くずでうづまつてしまふ。それで情報化社会といふものは過剰な情報をどんどん処理してゐるんです。
この東京といふもの、日本といふものは、近代化すればするほど巨大な塵埃焼却炉みたいになつてくる。
そのなかで人間はなにをすべきかといふことについて、わたくしはなんとか考へていきたいと思ふんです…
三島由紀夫「現代日本の思想と行動」より

38 :
言ひ古されたことだが、一歩日本の外に出ると、多かれ少かれ、日本人は愛国者になる。先ごろハンブルクの
港見物をしてゐたら、灰色にかすむ港口から、巨大な黒い貨物船が、船尾に日の丸の旗をひるがへして、
威風堂々と入つて来るのを見た。私は感激措くあたはず、夢中でハンカチをふりまはしたが、日本船からは
別に応答もなく、まはりのドイツ人からうろんな目でながめられるにとどまつた。これは実に単純な感情で、
とやかう分析できるものではない。もちろん貨物船が巨大であつたことも大いに私を満足させたのであつて、
それがちつぽけな貧相な船であつたとしたら、私のハンカチのふり方も、多少内輪になつたことであらう。
また、北ヨーロッパの陰鬱な空の下では、日の丸の鮮かさは無類であつて、日本人の素朴な明るい心情が、
そこから光りを放つてゐるやうだつた。
三島由紀夫「日本人の誇り」より

39 :
それでは私もその「素朴な明るい」日本人の一人かといふと、はなはだ疑はしい。私はひねくれ者のヘソ曲りで
あるし、私の心情は時折明るさから程遠い。それは私が好んでひねくれてゐるのであり、好んで心情を暗くして
ゐるのである。これにもいろいろ複雑な事情があるが、小説家が外部世界の鏡にならうとすれば、そんなに
いつも「素朴で明るい」人間であるわけには行かない。しかし異国の港にひるがへる日の丸の旗を見ると、
「ああ、おれもいざとなればあそこへ帰れるのだな」といふ安心感を持つことができる。いくらインテリぶつたつて、
いくら芸術家ぶつたつて、いくら世界苦(ヴエルトシユメルツ)にさいなまれてゐるふりをしたつて、結局、
いつかは、あの明るさ、単純さ、素朴さと清明へ帰ることができるんだな、と考へる。
三島由紀夫「日本人の誇り」より

40 :
いざとなればそこへ帰れるといふ安心感は、私の思想から徹底性を失はせてゐるかもしれない。しかしそんなことは
どうでもよいことだ。私は巣を持たない鳥であるよりも、巣を持つた鳥であるはうがよい。第一、どうあがいた
ところで、小説家として私の使つてゐる言葉は、日本語といふ歴然たる「巣鳥の言葉」である。
「いざとなればそこへ帰れる」といふことは、同時に、帰らない自由をも意味する。ここが大切なところだ。
帰る時期は各人の自由なのであつて、「いざとなれば帰れる」といふ安心感があればこそ、一生帰らない日本人が
ゐるのもふしぎはない。私はこの安心感を大切にするのと同じぐらゐに、帰る時期と、帰る意思の自由とを
大切にする。人に言はれて帰るのはイヤだし、まして人のマネをして帰つたり、人に気兼ねして帰るのもイヤだ。
すべての「日本へ帰れ」といふ叫びは、余計なお節介といふべきであり、私はあらゆる文化政策的な見地を嫌悪する。
日本人が「ドイツへ帰れ」と言はれたつて、はじめから無理なのであつて、どうせ帰るところは日本しかないのである。
三島由紀夫「日本人の誇り」より

41 :
私は十一世紀に源氏物語のやうな小説が書かれたことを、日本人として誇りに思ふ。中世の能楽を誇りに思ふ。
それから武士道のもつとも純粋な部分を誇りに思ふ。日露戦争当時の日本軍人の高潔な心情と、今次大戦の
特攻隊を誇りに思ふ。すべての日本人の繊細優美な感受性と、勇敢な気性との、たぐひ稀な結合を誇りに思ふ。
この相反する二つのものが、かくもみごとに一つの人格に統合された民族は稀である。……
しかし、右のやうな選択は、あくまで私個人の選択であつて、日本人の誇りの内容が命令され、統一され、
押しつけられることを私は好まない。実のところ、一国の文化の特質といふものは、最善の部分にも最悪の
部分にも、同じ割合であらはれるものであつて、犯罪その他の暗黒面においてすら、この繊細な感受性と
勇敢な気性との結合が、往々にして見られるのだ。
三島由紀夫「日本人の誇り」より

42 :
われわれの誇りとするところのものの構成要素は、しばしば、われわれの恥とするところのものの構成要素と
同じなのである。きはめて自意識の強い国民である日本人が、恥と誇りとの間をヒステリックに往復するのは、
理由のないことではない。だからまた、私は、日本人の感情に溺れやすい気質、熱狂的な気質を誇りに思ふ。
決して自己に満足しないたえざる焦燥と、その焦燥に負けない楽天性とを誇りに思ふ。日本人がノイローゼに
かかりにくいことを誇りに思ふ。どこかになほ、ノーブル・サベッジ(高貴なる野蛮人)の面影を残してゐることを
誇りに思ふ。そして、たえず劣等感に責められるほどに鋭敏なその自意識を誇りに思ふ。
そしてこれらことごとくを日本人の恥と思ふ日本人がゐても、そんなことは一向に構はないのである。
三島由紀夫「日本人の誇り」より

43 :
Q――つぎに東南アジアについてちよつと聞きます。インドも中共との交戦の経験を持つ国ですが、
東南アジアと日本との最大の相違点は、中共の脅威を感じてゐるのと感じてゐない点にあると思ひますが。
三島由紀夫:中共と国境を接してゐるといふ感じは、とても日本ではわからない。
もし日本と中共とのあひだに国境があつて向かう側に大砲が並んでたら、いまのんびりしてゐる連中でも
すこしはきりつとするでせう。まあ海でへだてられてゐますからね。
もつともいまぢや、海なんてものはたいして役に立たないんだけれど。ただ「見ぬもの清し」でせうな。
三島由紀夫「インドの印象」より

44 :
Q――日本人が中共をこはがらないのは一種の幻想的な“大平感”なんだらうけれど、日本にさういつた幻想が
あることも、また一つの現実ぢやないでせうか。
三島由紀夫:たしかにさうですね。幻想(イリュージョン)といへどもなにかの現実的条件によつて保たれてゐる。
ぼく自身は、日本にも中共の脅威はある、と感じてゐます。これは絶対に「事実(ファクト)」です。
しかし、日本人が中共に脅威を感じないといふことは「現実」です。「現実」とはぼくに言はせれば、
事実とイリュージョンとの合金です。
「現実」をささへてゐる条件は、いはくいひがたしで、恐らく何万といふ条件があるでせう。
海もあるし、長い中国との交流の歴史もあるし……。
ものを考へようとするとき、片方の「現実」を「事実」だけでぶちこはさうとしてもダメです。
幻想をくだくには幻想をもつてしなくつちや。ですからもし、ぼくが政治家だつたら……。
Q――「中共はこはくない」といふ幻想は、どうやつてくだきますか?
三島由紀夫:「中共はこはい」といふファクトではなく幻想をもつてですよ。
三島由紀夫「インドの印象」より

45 :
戦後日本の歴史が一つとぎれてしまつた。そのとぎれたところに自衛隊の問題があり、警察の問題があり、
またいろいろ複雑な言ふにいはれない、日本人として誠に情けない状態があらゆる面に発生してきました。
(中略)
大体戦後の民主主義といふものは、アメリカといふ成金の新しい国から来たものでありますから、アメリカは
アメリカとしての歴史はもちろん持つてはをりますが、彼らが大切にしてゐる古い歴史といふのはせいぜい
十八世紀です。アメリカに行くと、これは非常に古い家である、十八世紀だなどとよくいはれる。
彼らはどんなにさぐつて見ても十八世紀以前に遡つてアメリカの歴史を語ることができない。
それより古い頃にはインディアンがゐたんで、インディアンの方がよつぽど歴史上における誇りもあるし、
自信もあるはずです。これが白人に駆逐されてしまつた。
白人であるアメリカ人といふものは、人の家にどかどか入つて来て、平和に暮らしてゐた人間を追ひ散らして、
新しい国を建てた。それが移民の国アメリカです。
三島由紀夫「私の聞いて欲しいこと」より

46 :
さういふ国の人に、日本のやうな古い歴史、文化を持つた国の伝統と連続性の力といふものは判らない。
彼らにどう説明して聞かしても判らない。それは無理はないです。何となれば彼らの感覚にはそんな古い
歴史といふものがないのですから……古いといふと十八世紀を思つてゐる人間にいくらいつても判らない。
判つて貰はうとすることが所詮無理なんでせう。
まあ、日本がアメリカに占領されたといふことは国の運命で仕方がないかも知れませんけれども、一番
根本なところが彼らに判らなかつたことは日本にとつても不幸だつたのでせう。それはわれわれだけが判つて
ゐるのであつて、国といふものは、永遠に連続性がなければ本当の国ではないと思ひます。
そしてとに角今は空間といふものがここに広がつてゐる。この空間に対して時間があるわけです。
三島由紀夫「私の聞いて欲しいこと」より

47 :
今のこの世界の情勢といふものはハッキリいひますと「空間と時間」との戦ひだと思ひます。
(中略)
しかしながらその国際的な争ひは、あくまで空間をとり合つてゐるわけです。
ところがこの地球上の空間を占めてゐる国の中にも一方では反戦、自由、平和といつてゐる人達がをります。
この人達は歴史や伝統などといふものはいらんのだ。歴史や伝統があるから、この空間の方々に国といふものが
出来て、その国同士が喧嘩をしなければならんのだ。われわれは世界中一つの人類としての一員ではないか。
われわれは国などといふものは全部やめて、「自由とフリーと、そして楽しい平和の時代を造るんだ」
と叫んでゐる。彼らには時間といふ観念がない。
空間でもつて完全に空間をとらうといふ考へ方においては、彼らもまた彼らの敵と同じなのです。
それでは、今日の人類を一体何が繋いできたのかといふことを論議し、つきつめてゆくと、結局最後には
「時間」の問題に突き当たらざるを得ない。
三島由紀夫「私の聞いて欲しいこと」より

48 :
(中略)
今ソビエトで一番の悪口は何だと思ひますか。ソビエトで人を罵倒する一番きたない言葉、それをいはれただけで
人が怒り心頭に発する言葉は何だと思ひますか……私はロシア語を知りませんから、ロシア語ではいへませんが、
「非愛国者だ」といふことださうです。さうすると一体これはどういふことなのかと不思議になります。
その伝統を破壊し、連続性を破壊してゐる共産圏においてすら、現在は歴史の連続性といふものを信じなければ
「愛国」といふ観念は出て来てないことに気付き、その観念のないところには共産国家といへどもその存立は
危ぶまれるといふことを気付いたに違ひない。
ですからこの「縦の軸」すなはち「時間」はその中にかくされてゐるんで、如何に人類が現在の平和を
かち得たとしても、このかくされてゐる「縦の軸」がなければ平和は維持できない。
それが現在の国家像であると考へられていいんです。
三島由紀夫「私の聞いて欲しいこと」より

49 :
ことに日本では敗戦の結果、この「縦の軸」といふのが非常に軽んじられてきてしまつた。
日本は、この縦の軸などはどうでもいいんだが、経済が繁栄すればよろしい、そして未来社会に向つて、
日本といふ国なんか無くなつても良い。みんな楽しくのんびり暮して戦争もやらず、外国が入つて来たら、
手を挙げて降参すればいいんだ。日本の連続なんかどうなつてもいいんではないか、歴史や文化などは
いらんではないか、滅びるものは全部滅びても良いではないか、と考へる向きが非常に強い。
さういふ考へでは将来日本人の幸せといふものは、全く考へられないといふことを、この一事をもつてしても、
共産国家が既に明白に証明してゐると私は思ひます。
(中略)
共産主義国家が、国家意思を持つてゐて、日本のやうな、佐藤首相が自らの手で国家を守るといつてゐるこの国に、
国家意思がないとは一体どういふことだらうか。
さういふことになるのは今の日本の根本が危ふくなつてゐるからです。根本はここにあるのです。
三島由紀夫「私の聞いて欲しいこと」より

50 :
昨今の中国における文化大革命は、本質的には政治革命である。百家争鳴の時代から今日にいたる変遷の間に、
時々刻々に変貌する政治権力の恣意によつて学問芸術の自律性が犯されたことは、隣邦にあつて文筆に
携はる者として、座視するに忍びざるものがある。
この政治革命の現象面にとらはれて、芸術家としての態度決定を故意に留保するが如きは、われわれの
とるところではない。われわれは左右いづれのイデオロギー的立場をも超えて、ここに学問芸術の自由の圧殺に
抗議し、中国の学問芸術が(その古典研究をも含めて)本来の自律性を恢復するためのあらゆる努力に対して、
支持を表明する者である。
われわれは、学問芸術の原理を、いかなる形態、いかなる種類の政治権力とも異範疇のものと見なすことを、
ここに改めて確認し、あらゆる「文学報国」的思想、またはこれと異形同質なるいはゆる「政治と文学」理論、
すなはち、学問芸術を終局的には政治権力の具とするが如き思考方法に一致して反対する。
三島由紀夫「文化大革命に関する声明」昭和42年3月1日
(共同執筆・川端康成、石川淳、安部公房)

51 :
前略
「蓮田善明とその死」感激と興奮を以て読み了へました。毎月、これを拝読するたびに魂を振起されるやうな
気がいたしました。この御作品のおかげで、戦後二十数年を隔てて、蓮田氏と小生との結縁が確められ
固められた気がいたしました。御文章を通じて蓮田氏の声が小生に語りかけて来ました。蓮田氏と同年にいたり、
なほべんべんと生きてゐるのが恥ずかしくなりました。一体、小生の忘恩は、数十年後に我身に罪を報いて
来るやうであります。今では小生は、嘘もかくしもなく、蓮田氏の立派な最期を羨むほかに、なす術を知りません。
しかし蓮田氏も現在の小生と同じ、苦いものを胸中に蓄へて生きてゐたとは思ひたくありません。時代に
憤つてゐても氏にはもう一つ、信ずべき時代の像があつたのでした。そしてその信ずべき像のはうへのめり
込んで行けたのでした。
三島由紀夫
昭和42年11月8日、小高根二郎への書簡より

52 :
「予はかかる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思ふ。……然うして死ぬことが今日の
自分の文化だと知つてゐる」(「大津皇子論」)
この蓮田氏の書いた数行は、今も私の心にこびりついて離れない。死ぬことが文化だ、といふ考への、或る時代の
青年の心を襲つた稲妻のやうな美しさから、今日なほ私がのがれることができないのは、多分、自分が
そのやうにして「文化」を創る人間になり得なかつたといふ千年の憾(うら)みに拠る。
氏が二度目の応召で、事実上、小高根氏のいはゆる「賜死」の旅へ旅立つたとき、のこる私に何か大事なものを
託して行つた筈だが、不明な私は永いこと何を託されたかがわからなかつた。
三島由紀夫「『蓮田善明とその死』序文」より

53 :
(中略)
それがわかつてきたのは、四十歳に近く、氏の享年に徐々に近づくにつれてである。私はまづ氏が何に対して
あんなに怒つてゐたかがわかつてきた。あれは日本の知識人に対する怒りだつた。最大の「内部の敵」に対する
怒りだつた。
戦時中も現在も日本近代知識人の性格がほとんど不変なのは愕くべきことであり、その怯懦、その冷笑、
その客観主義、その根なし草的な共通心情、その不誠実、その事大主義、その抵抗の身ぶり、その独善、
その非行動性、その多弁、その食言、……それらが戦時における偽善に修飾されたとき、どのような腐敗を放ち、
どのように文化の本質を毒したか、蓮田氏はつぶさに見て、自分の少年のやうな非妥協のやさしさがとらへた
文化のために、憤りにかられてゐたのである。
三島由紀夫「『蓮田善明とその死』序文」より

54 :
非小説家の文壇への御戦に、私はいつも胸のすくものを感じてをります。そしてこれほど健康な「自明の理」が
今更力説されねばならぬ日本文壇の頽廃を併せ考へます。貴下の御説がユニークなものであるといふ一事ほど、
日本文学の悲しむべき現状を象徴してゐるものがございませうか。大前提が欠けて小前提ばかり発達してゐる
哀れな国状です。大前提を言ひ出す人は白眼で見られるのです。小前提ばかりバカの一つおぼえでくりかへして
ゐれば身の安全が保てるのです。(中略)
実に美を罵倒し、日本の伝統をののしり、舌を犬のやうにふるはせる芸当を心得、「歯ぎしり」といふ奴を
ハミングの代りに用ひ、それはそれは賑やかで、しかもしんみりした、何が何だかわからない、西洋料理と
中華料理をまぜこぜにしたやうな西欧人文主義的・レアリズム的・サルトル的・ドストエフスキー的・万能薬
ヒューマニズム宣伝的、あやしげなものであります。
三島由紀夫
昭和22年11月4日、林房雄への書簡より

55 :
(中略)今日「群像」十一月号が届き、高見、中島、豊島氏が僕を寄つてたかつてやつつけてゐる大人げない
継子いぢめの光景を見(この速記はもつと猛烈だつたさうですが)、鬱勃たる闘志を湧かせました。(中略)
「生きるために必要な、といふギリギリのところで已(や)むに已まれず生み出される文学」とは何でせうか。
今までの日本の告白小説家のやうな泣きっ面を、――男子としてあるまじき泣きっ面を――小説のなかで存分に
演じてみせることが、即ち「生きるための文学」であるといふ、さういふ滑稽なプリミティーブな考へ方に
僕は耐へられません。僕にはわづかながら遠いサムラヒの血が、それも剛直な水戸ッ子の血が流れてゐます。
僕の文学は、腹を狼に喰ひ裂かれながら声一つあげなかつたといふスパルタの少年に倣ひたいのです。その
少年の莞爾(くわんじ)とした微笑に似た長閑(のどか)な閑文学(とみえるもの)に僕は生命を賭けます。
僕は「狼来(きた)りぬ」といふあの臆病な子供になりたくありません。
三島由紀夫
昭和22年11月4日、林房雄への書簡より

56 :
もつとよい比喩がここにございます。我子の死に会つて数分後に舞台へかけつけなければならなかつた喜劇俳優が、
その時示した絶妙の技、さういふものにこそ僕は憧れるのです。(文学を芝居にたとへるなんて、旧文壇の人に
とつてはおそらく冒涜的な言動でせうが、文学といふものに対する自堕落な信念はそろそろ清算してよい時では
ないでせうか。僕は最後のところ、いつもギリシャ悲劇を考へます。作者が一言の思想の表白もさし控へた
純粋な技術と形式の精神がそこにあります。ギリシャ的単純さが最後の目標です。勿論これは志賀直哉氏の
単純さとは全く別個のものです)。
話をあとに戻りまして、ではその時、その喜劇俳優にとつて、喜劇といふ芸術は何ものでせうか。
逃避でせうか。自嘲でせうか。僕には彼の悲しみの唯一無二の表現形式として喜劇があるのだと考へられます。
彼は悲しみを決して涙としてあらはしてはならなかつたのです。それを笑ひとして示さねばならなかつたのです。
三島由紀夫
昭和22年11月4日、林房雄への書簡より

57 :
文学における永遠不朽な「情痴」の主題、僕はそれをこの「笑ひ」だと考へます。「戯作」と云つても同じこと
でございませう。もちろん僕としてもヒューマン・ドキュメントを書きうるゲエテ的作家の幸福を考へます。
しかしメリメのやうな「自己を語らない作家」の最も不幸な幸福をも考へます。作品の世界に凡(あら)ゆる
「日曜日」を託けて、永遠にウィークデイの累積をしか持たなかつた作家のおそるべき幸福を考へます。それを
高見順氏などは、ウヰークデイの匂ひのしない文学はディレッタンティズムだと仰言るのです。
日曜日は僕にとつて逃避の場所ではありません。そこにこそ僕は生涯を賭け、ギリギリ決着の「生活」を賭けて
ゐるのです。それこそ僕の唯一無二の喜劇の舞台なのです。僕はそこを掃除し、つやぶきんをかけ、花を飾り、
恋人を迎へ、おしやべりをし、……といふ比喩は甚だ皮相的ですが、その日曜日に、僕は自分の悪と不徳と
非情と侮蔑と残忍と犯罪とのあらゆる装ひを期待するのです。
三島由紀夫
昭和22年11月4日、林房雄への書簡より

58 :
あらゆる種類の仮面のなかで、「素顔」といふ仮面を僕はいちばん信用いたしません。
僕はかうして、僕の生にとつて必然的であつた作品からそのあらゆる窮屈な必然性をぬがせてやつて、
くつろがせてやるのです。僕は作家の歯ギシリなどといふものを書斎の外へ洩らすことを好みません。僕の
作品はそれでも尚、僕の本質的な生活だと思はれるのですが……
尤もこんなことは口で言つてもはじまらないことでございます。作品で証明する他はありません。
しかし僕は決してひるみません。負けません。書き続けて、御期待にそむかぬ人間になることをお誓ひします。
三島由紀夫
昭和22年11月4日、林房雄への書簡より

59 :
美しい日本語を守りたいと思ひます。日本語を土足でふみにじる新進作家諸賢に憎悪を抱きます。
三島由紀夫
昭和22年11月26日、林房雄への書簡より
夜ばかりを愛して来た人間は、昼間の花園に出ると目がくらむのです。恋人の唇かと思つて花に接吻します。
恋人の囁きかと思つて蜜蜂に返事をします。
この間新潮に「戦艦大和」を書いた細川といふ人にある場所で会つて、その原文の、門外不出の原稿を見せて
もらひ驚倒しました。小林秀雄氏がこれを読まれて、細川氏の勤め先へかけつけられたさうですが、日本人が
うたつた最も偉大な叙事詩ともいへます。
(中略)日本人のテルモピレエの戦の細述です。人間の「目」のおそろしさを感じます。事によつたら
「心」より神に近いのは目かもしれない、人間が神からさづかつたのは、肉体とか精神とかではなく、
「目」だけかもしれない、と思はれて来るのです。
三島由紀夫
昭和23年2月21日、林房雄への書簡より

60 :
小生はたつた一つの的を何とか最上の瞬間に射当てようと、弓を引いてゐるやうな気がします。これは小生の
手に負へぬ強弓で、弓を引きしぼる腕がともすると耐へきれずに落ちさうになります。しかし引きしぼつて、
待つて待つて、これぞといふ瞬間に放さなければ、矢は思ふ方向へ飛んで行かないことも確実なのです。
三島由紀夫
昭和44年3月3日、林房雄への書簡より
全学連が静かになつて、又日本は眠りかけてゐるやうな気がします。本質的なことはなほざりにされ、
又「仮面の日本」がつづくうちに、素顔を忘れてしまふだらう、と思ふと、いささか焦燥の感なきを得ません。
いくら年をとつても心は傷つき易く、矜りも傷つき易く、それだけにロマンティケルなのでせう。しかし日本は
いよいよロマンティシズムから遠のいてゆく感があります。
三島由紀夫
昭和45年3月6日、林房雄への書簡より

61 :
>>59のエピソードをもう詳しく知りたいのですが、よろしくお願いします。

62 :
>>61
昭和22年11月26日付の方は、
「美しい日本語を守りたいと思ひます。日本語を土足でふみにじる新進作家諸賢に憎悪を抱きます。
何も若いもの同志だからとて肩を組まねばならない理由はありますまい。」
と続き、新進作家K氏(共産主義者)が、三島由紀夫が政治的関心を示さないことを憫笑していることに、
三島が怒ってる記述です。(当時の新進作家はコミュニズム、共産思想が優勢状態だったようです)
昭和23年2月21日付けのは、前後を補足すると、
「「太陽と薔薇」は、たのしい小説と申し上げるのみで言葉がありません。夜ばかりを愛して来た人間は、
昼間の花園に出ると目がくらむのです。恋人の唇かと思つて花に接吻します。恋人の囁きかと思つて蜜蜂に返事をします。
かういふたのしいあまりの思ひすごしで私はこの長編を読んでしまつたやうです。」
と、林房雄の小説を褒める内容のものです。
表現が美しい文章だったので、取り上げてみました。

63 :
お葉書うれしくありがたく拝見いたしました。(中略)
久々のお便りに愚痴もいかゞかと存じますが、東京のあわたゞしい生活の中で、高い精神を見失ふまいと努めることは、
プールの飛込台の上で星を眺めてゐるやうなものです。といふと妙なたとへですが、星に気をとられてゐては、
美しいフォームでとびこむことができず、足もとは乱れ、そして星なぞに目もくれない人々におくれをとることに
なるのです。夕刻のプールの周辺に集まつた観客たちは、選手の目に映る星の光など見てくれません。
たゞかれらの目に美しくみえるフォームでとびこんでくれることを要求するのです。
『私が第一行を起すのは絶体絶命のあきらめの果てである。つまり、よいものが書きたいとの思ひを、あきらめて
棄ててかかるのである』川端康成氏にかつてこのやうな烈しい告白を云はせたものが何であるかだんだん
わかつてまゐりました。しかも川端氏のやうなこの一言が云へる境地に、一体達することができるかしら、と
たへず不安に見舞はれます。
三島由紀夫
昭和23年3月23日、伊東静雄ヘの書簡より

64 :
東京では印象批評が滅び去りました。たとへば中里恒子や北畠八穂のやうな美しい女流作家が不遇です。
川端康成氏が評壇から完全に黙殺され、日夏耿之介氏はますます「枯坐」して化石してしまひさうです。
横光利一氏の死に対してあらゆる非礼と冒涜がつづけられてゐます。私の愛するものがそろひもそろつて
このやうに踏み躙られてゐる場所でどうしてのびのびと呼吸をすることなどできませう。
斎田君も今の東京で仕事をすれば苦しむことがわかつてゐます。美しいものが美しい故に死刑に処せられるのです。
三島由紀夫
昭和23年3月23日、伊東静雄ヘの書簡より

65 :
(中略)
ギロチンへみちびく民衆は笑はない民衆です。おそろしくシリアスな、ニイチェ的笑ひとおそろしく無縁の民衆です。
共産党系の雑誌や新聞に出てゐる漫画は笑ひを凍らせます。かれらはデスマスクをかぶつた民衆です。
美の死刑執行人であるといふ自負すらもちえない精神です。
銀蠅が芥箱から出てきてそこらをとびまはつてゐます。ブンブンといひて夜もねられず、といふところでせうが
――かれらは「海」とは無縁の精神です。蠅は海のまへで引返します。かれらは翼をもたないくせに翅(はね)を
翼だと思つてゐるのです。(中略)
――たゞ一意専念、あの未知の国から一条の光をこの地上へもたらせば私の仕事はすみます。
どうぞ時々お暇な折に励ましの御言葉をいたゞきたうございます。詩人に対し要求することは罪であると知りつゝ、
敢て(「要求」とは失礼ながら)お願ひいたす次第でございます。
三島由紀夫
昭和23年3月23日、伊東静雄ヘの書簡より

66 :
【自尊心】病的な愛国者にならないためには?【キープ】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/asia/1284789307/l50

67 :
僕は今この時代に大見得切つて、「共産党に兜を脱がせるだけのものを持て」などゝ無理な注文は出しません。
時勢の流れの一面は明らかに彼らに利があり、彼等はそのドグマを改める由もないからです。しかし我々の任務は
共産党を「怖がらせる」に足るものを持つことです。彼等に地団太ふませ、口角泡を飛ばさせ、
「反動的だ! 貴族的だ!」と怒号させ、しかもその興奮によつて彼等自らの低さを露呈させることです。
正面切つて彼等の敵たる強さと矜持を持つことです。ひるまないことです。逃げないことです。怖れないことです。
そして彼等に心底から「怖い」と思はせることです。
(中略)貴族主義といふ言葉から説明してかゝらねばなりません。
学習院の人々に貴族主義を云ふとすこぶる誤解されやすく、それはともすれば今までの学習院をそのまゝそつくり
是認する独善主義の別語とされる惧れなしとしません。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日、神崎陽への書簡より

68 :
(中略)
明治以来、「華族」とは政治的特権を背景にもつた政治的な名称であり、文化的意義は頗る稀薄にしかもつて
をりません。新華族が簇生(そうせい)した所以です。――貴族主義とはプロレタリア文化に対抗すると同じ
強さを以てブルジョア文化(アメリカニズム)に対抗するといふことを知つていたゞきたい。この意味で
政治的意味の貴族主義は無意味です。なぜなら世界史の趨勢はアリストクラシイの再来を絶対に希みえず、
現今までわづかに残された政治的特権も過去の特権の余映にすぎぬといふ理由が第一、もう一つは、ブルジョア文化が
今では貴族社会一般を風靡し、単に華族を集めてみても貴族主義は達成されぬといふ理由が第二です。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日、神崎陽への書簡より

69 :
――それでは文化的貴族主義とは何でせうか。それは歴史的意味と精神的意味と二つをもつてゐます。
…後者はあらゆる時代に超然とし、凡俗の政治に関らず、醇乎たる美を守るといふエリートの意識です。
(これは芸術からいふので、倫理的には道徳を守るエリートたりともある人はいふでせう)
…しかもその効果は美的標準に於て最高のものであらねばならぬ点で明らかに貴族主義的です。向上の意識、
「上部構造」の意識、フリードリヒ・ニイチェが貴族主義とよばれる所以です。
第二に、唯美主義は本質的に反時代性をもつといふ点で貴族的です。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日付、神崎陽への書簡より

70 :
われらの外部を規制する凡ゆる社会的政治的経済的条件がたとへ最高最善理想的なものに達したとしても、
絶対的なる「美」からみればあくまでも相対的なものであり、相対的なものが絶対的なものを規制しようとする時、
それは必ず悪い効果を生じます。いかによき政治が美を擁護するにしろ、必ずその政治の中の他の因子が美を
傷つけることは、当然のことで仕方ないことです。したがってあらゆる時代に於て美を守る意識は反時代性をもち、
極派からはいつでも反動的と思はれます。すなはち、彼らのいはゆる反動的なるがゆゑに貴族主義的です。
――「中庸」といふ志那クラシックのいかにも睡つたやうなこの言葉がやうやう僕には激しい激越な意味を以て
思ひかへされて来ました。中庸を守るとは洞ヶ峠のことではありません。いはゆる微温的態度のことではありません。
元気のない聖人気取ではありません。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日、神崎陽への書簡より

71 :
「中庸」の思想こそ真に青年の血を湧かせる思想なのです。それは荊棘の道です。苦難と迫害の道です。
漢籍に長ずるときく山梨院長が、戦時中の輔仁会で翻訳劇を上演しようとした僕の意図を抹殺し、戦争終るや
「モンテ・カルロの乾盃」を手もなく容認するやうな態度を、人々はいはゆる「中庸」の道だと思つてゐます。
これは思はざるの甚だしきものです。これこそいはゆる論語よみの論語知らずです。
右顧左顧して世間の機嫌をうかゞひもつとも「穏当な」道を選ぶといふ思想こそ、孔子が中庸といふ言葉で
あらはしたものと全く反対の思想です。
中庸といふこと、守るといふこと、これこそ真の長い苦しい勇気の要る道です。
このやうな時代に、美を守ることの勇気、過去の日本精神の枠、東洋文化の本質を保守するに要する勇気、
これこそ真の男らしい勇気といはねばなりません。
学習院は反動的といふ攻撃の矢面に立ち、真の美、真の文化を叫びつゞけねばなりません。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日、神崎陽への書簡より

72 :
(中略)
君は大東亜戦争を何と考へてゐられますか。
僕らはあの戦争の中で育ち、その意味であの戦争を僕らは生涯(いや子孫代々)否定することはできません。
あの戦争が間違ひだつたのどうのといふことでなしに、人間の成長と形成の「過程」として否定したくもできない
一個の内面的事実なのです。我々が以て恥とすべきは戦争に協力したとか、戦争目的に盲目であつたとか、
為政者にだまされたといふことよりも、あの戦争から「我々が何も得て来なかつた」といふことではないでせうか。
何らわれらにプラスするものを得てこなかつたといふ痛切な恥ではないでせうか。この点は僕も省みて面を
赤くせぬわけにはゆきません。
しかし今日の輔仁会、といふよりはその背後にある昨今の学習院学生の気風にこれに対する反省がみられるでせうか。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日、神崎陽への書簡より

73 :
東京へ出ました序でに学習院へ立寄り、はじめて焼跡を見てたゞならぬ感慨がごさいました。萌え立つ緑のなかに
赤煉瓦の礎石のみ鮮やかに残つて、近眼の目には、遠くの緑の光にまばゆく立ち働らいてゐる人々が懐しい
後輩たちかと映り、近寄つてみると、それが見知らぬ兵隊たちであつた寂しさ。(中略)
中等科の校舎の中には、見知らぬ人々が往来し、事務室もザワザワして、昔のやうに温かく私を迎へては
くれぬやうに思はれました。「ふるさとは蠅まで人を刺しにけり」それほどでもありませんが、無暗に腹が立つて、
何ものへともしれず憤りを抱きながら門を出ました。
ふしぎな私の冷酷。昔、共に学んだ友人たちには、具体的に逢つてどうといふ感激もないのに、たゞ会はずにゐると
漠たる悲しみと孤独の感じに苛まれるのを如何ともなす術がございません。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年7月3日、清水文雄への書簡より

74 :
そしてそれは却つてなまじひに顔見知りでない後輩たちを、電車のなかに見出す場合、懐しさに胸がドキドキして、
用もないのに話しかけたくなり、しかも我ながら馬鹿らしい含羞で、話しかけることもできずにじつと見つめて
ゐるやうな時、私のなかに私の少年時代が俄かに蘇るやうな気がします。こんな初々しい清らかな興奮をどんなに
長い間忘れてゐたことでせう。新宿駅で私は汚ない作業服とキャハンを穿いた後輩を発見しました。彼は私が
彼の先輩であることもしらず、私を不思議さうに見てゐましたが、その目は学習院の学生によくある澄んだ、
のんびりした目付で、口は少しポカンと開いてゐました。私は所用で大塚まで行くので、車内で、目白駅に下りた
その小後輩を見送つたわけですが、彼は、そこで我勝ちに下りた乗客たちとは似てもつかない、実にオットリした、
少したよりない、少し眠さうな歩き方で、階段の方へゆつくり歩いて行きました。何故かそれを見ると、私は
ふと涙がこぼれさうになりました。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年7月3日、清水文雄への書簡より

75 :
ああした人種、ああした歩き方、あれがいつまでこの世に存続して行けるであらうか。私たちもその一員であつた、
閑雅なあまり頭のよくない、努力を知らない、明るい、呑気な、どこともしれず、生活からにじみ出た気品の
そなはつた学習院の学生たち、あの制服、あの挙止、そしてあの歩き方、そのすべてが象徴してゐたある美しいもの、
それ自身頽落を予感されてゐたもの(私の十数年の学習院生活はその予感のなかにのみ過ごされました。)が、
今や鶯色の汚れた作業服を刑罰のやうに着せられ、靴は埃にまみれ、トボトボと不安気に歩いてゆくのを見て、
私が目頭を熱くしたのも道理でございます。帰途学習院へ寄つてみて、あの焼跡を見、後輩たちをみて、
相似た感慨に搏たれました。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年7月3日、清水文雄への書簡より

76 :
(中略)かうした終末感を私は、徒らな感傷や、信念の不足からして感ずるのではございません。ある漠たる直感、
夢想そのもののなかに胚胎する覚醒の危険、凡て夢見るが故に覚めねばならない運命を感ずるのでございます。
現実に立脚した精神がわれわれの夢想の精神より更に弱体なものとみえる今日、われわれの夢想も亦凋落の決心を
必要とします。昼を咲きつづける昼顔の仄かな花弁は、昼の烈しい光のために日々に荒され傷つけられます。
何ものも神の夢想に耐へるほど強靭であることは出来ません。
しかし人の夢想の極限に耐へえた人は、その烈しさ極まる目覚めの失墜にも耐へうるであらうと思ひます。
ただ朝をのみ時めいた朝顔とはちがって、あの長い烈しい昼間をよく耐へた昼顔の夢想は、その後に来る長い
夜の烈しさにも耐へるでありませう。私共は今日ほど私共の生の強さと死の強さを感じることはございません。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年7月3日、清水文雄への書簡より

77 :
私共は遺書を書くといふやうな簡単な心境ではなく、私たちの文学の力が、現在の刻々に、(たとへそれが
喪失の意味にせよ)、ある強烈な意味を与へつづけることを信じて仕事をしてまゐりたいと思ひます。
その意味が刻みつけられた私共の時間は、永遠に去つてかへりませんが、地上に建てた摩天の記念碑よりも、
海底に深く沈めた一枚の碑の方が、何千万年後の人々の目には触れやすいものであることを信じます。
私共が一度持つた時間に与へた文学の意味が、それが過去に組入れられた瞬間から、絶対不可侵の不滅性を
もつものであると思はれます。
項日(けいじつ)、生じつかな名声は邪魔であるが、真の名声はますます必要であることを感じて来ました。
文学作品を本文とするなら、名声はその註釈、脚註に相当します。本文が死語に化した場合、この難解な
ロゼッタ・ストーンを解読しうるものは、たえず更新される註釈のみでございませう。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年7月3日、清水文雄への書簡より

78 :
あれより二週間病床に臥り、つい御返事がおくれしままにかくの如き事態となりました。
玉音の放送に感涙を催ほし、わが文学史の伝統護持の使命こそ我らに与へられたる使命なることを確信しました。
気高く、美しく、優美に生き且つ書くことこそ神意であります。ただ黙して行ずるのみ。
今後の重且つ大なる時代のため、御奮闘切に祈上げます。
たわやめぶりを みがきにみがかむ
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年8月16日、清水文雄への葉書より

79 :
大神々社への参籠は八月下旬と決め、その後、広島へ一寸伺ひ、そのあと、汽車で、(飛行機はイヤなので)、
熊本八代へゆき、神風連のことをしらべたい、などと、夏のをはりの旅をいろいろと計画してをります。いづれ、
間近になつて旅程がはつきりいたしましたら、御連絡申上げます。
「英霊の声」は文壇では冷たいあしらひで、かれらの右顧左眄(うこさべん)ぶりがよく見えます。
天皇の神聖は、伊藤博文の憲法にはじまるといふ亀井勝一郎説を、山本健吉氏まで信じてゐるのは情けないことです。
それで一そう神風連に興味を持ちました。神風連には、一番本質的な何かがある、と予感してゐます。
三島由紀夫
昭和41年6月10日、清水文雄への書簡より

80 :
「豊饒の海」は終りつつありますが、「これが終つたら……」といふ言葉を、家族にも出版社にも、禁句にさせてゐます。
小生にとつては、これが終ることが世界の終りに他ならないからです。カンボジアのバイヨン大寺院のことを、
かつて「癩王のテラス」といふ芝居に書きましたが、この小説こそ私にとつてのバイヨンでした。書いたあとで、
一知半解の連中から、とやかく批評されることに小生は耐へられません。又、他の連中の好加減な小説と、
一ト並べされることにも耐へられません。いはば増上慢の限りでありませうが……。
それはさうと、昨今の政治情勢は、小生がもし二十五歳であつて、政治的関心があつたら、気が狂ふだらう、
と思はれます。偽善、欺瞞の甚だしきもの。そしてこの見かけの平和の裡に、癌症状は着々進行し、失ったら
二度と取り返しのつかぬ「日本」は、無視され軽んぜられ、蹂躙され、一日一日影が薄くなつてゆきます。
三島由紀夫
昭和45年11月17日、清水文雄への書簡より

81 :
戦後の「日本」が、小生には、可哀想な若い未亡人のやうに思はれてゐました。良人といふ権威に去られ、よるべなく
身をひそめて生きてゐる未亡人のやうに。下品な比喩ですが、彼女はまだ若かつたから、日本の男が誰か一人立上れば、
彼女をもう一度女にしてやることができたのでした。しかし、口さきばかり巧い、彼女の財産を狙ふ男ばかり
周囲にあらはれ、つひに誰一人、彼女を再び女にしてやる男が現はれることなく、彼女は年を取つてゆきます。
彼女が老いてゆく、衰へてゆく、皺だらけになつてゆく、私にはとてもそれが見てゐられません。
このごろ外人に会ふたびに、すぐ「日本はどうなつて行くのだ?日本はなくなつてしまふではないか」と心配さうに
訊かれます。日本人から同じことを訊かれたことはたえてありません。「これでいいぢゃないか、結構ぢゃないか、
角を立てずに、まあまあ」さういふのが利口な大人のやることで、日本中が利口な大人になつてしまひました。
三島由紀夫
昭和45年11月17日、清水文雄への書簡より

82 :
スウェーデンはロシアに敗れて百五十年、つひに国民精神を回復することなく、いやらしい、富んだ、
文化的創造力の皆無な、偽善の国になりました。
この間もベトナム残虐行為査問会(ストックホルム)で、繃帯をした汚ないベトナム農民が証言台に立ち、
犬をつれた、いい洋服の中年のスウェーデン人たちがこれを傾聴してゐるのに、違和感を感じる、と書いてゐる人が
ゐましたが、日本が歩みつつある道は、正に、「犬を連れた、いい洋服の中年男で、外国の反戦運動に手を貸す
『良心的』な男」の道です。
どの社会分野にも、責任観念の旺盛な日本人はなくなり、デレッとし、ダラッとしてゐます。
三島由紀夫
昭和45年11月17日、清水文雄への書簡より

83 :
天地の混沌がわかたれてのちも懸橋はひとつ残つた。さうしてその懸橋は永くつづいて日本民族の上に永遠に
跨(またが)つてゐる。これが神(かん)ながらの道である。こと程さ様に神ながらの道は、日本人の
「いのち」の力が必然的に齎(もたら)した「まこと」の展開である。(中略)
神ながらの道に於ては神の世界への進出は、飛躍を伴はぬのである。そして地上の発展そのものがすでに神の
世界への「向上」となつてゐるのである。かるが故に「神ながらの道」は地上と高天原との懸橋であり得るのである。
神ながらの道の根本理念であるところの「まことごゝろ」は人間本然のものでありながら日本人に於て最も
顕著に見られる。それは豊葦原之邦(とよあしはらのくに)の創造の精神である。この「土」の創造は一点の
私心もない純粋な「まことごゝろ」を以てなされた。
平岡公威(三島由紀夫)16歳「惟神(かんながら)之道」より

84 :
「まことごゝろ」は又、古事記を貫ぬき万葉を貫ぬく精神である。鏡――天照大神(あまてらすおほみかみ)に
依つて象徴せられた精神である。すべての向上の土台たり得べき、強固にして美くしい「信ずる心」であり
「道を践(ふ)む心」である。虚心のうちにあはされた澎湃(はうはい)たる積極的なる心である。かゝる
積極と消極との融合がかもしだしたたぐひない「まことごゝろ」は、又わが国独特の愛国主義をつくり出した。
それは「忠」であつた。忠は積極のきはまりの白熱した宗教的心情であると同時に、虚心に通ずる消極の
きはまりであつた。
かゝる「忠」の精神が「神ながらの道」をよびだし、又「神ながらの道」が忠をよびだすのである。かくて
神ながらの道はすべての道のうちで最も雄大な、且つ最も純粋な宗教思想であり国家精神であつて、かくの如く
宗教と国家との合一した例は、わが国に於てはじめて見られるのである。
平岡公威(三島由紀夫)16歳「惟神(かんながら)之道」より

85 :
――国家儀礼と申せば、この間新(日)響へゆきましたら、たゞ戦歿勇士に祈念といへばよいものを、
ラウド・スピーカアが、やれ「聖戦完遂の前に一億一心の誓を示して」どうのこうのと御託宣をならべるので、
ヒヤリとしたところへ、「祈念」といふ号令、トタンにオーケストラが「海ゆかば」を演奏、――まるで
浅草あたりの場末の芝居小屋の時局便乗劇そのまゝにて、冒涜も甚だしく、憤懣にたへませんでした。
国家儀礼の強要は、結局、儀式いや祭事といふものへの伝統的な日本固有の感覚をズタズタにふみにじり、
本末を顛倒し、挙句の果ては国家精神を型式化する謀略としか思へません。主旨がよい、となればテもなく
是認されるこの頃のゆき方、これは芸術にとつてもつとも危険なことではありますまいか。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年9月25日、徳川義恭への書簡より

86 :
今度の学制改革で来年か、さ来年、私も兵隊になるでせうが、それまで、日本の文学のために戦ひぬかねば
ならぬことが沢山あります。
去年の戦果に、国外国内もうこれで大丈夫と皆が思つてゐた時、学校へ講演に来られた保田與重郎氏は、
これからが大事、これからが一番危険な時期だと云はれましたが、今にしてしみじみそれがわかります。
文学を護るとは、護国の大業です。文学者大会だなんだ、時局文学生産文学だ、と文学者がウロウロ・ソハソハ、
鼠のやうにうろついてゐる時ではありません。この際、貴方下の御決心をうかゞひ、大へんうれしうございました。
たゞ、かういふ言葉の意味もお弁へ下さい。鹿子木博士の言葉、「今日大切なことは、億兆一心といふ事であり
総親和といふ事ではない。陛下が詔書の中でお示しあそばされてゐる億兆一心とは、億兆一心とは、億兆の者が
一つの心、国体の精神によつて一つになる事也」(ラウド・スピーカアのお題目も亦、億兆一心といふことばを
形式化し、冒涜するものでせう)。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年9月25日、徳川義恭への書簡より

87 :
大島正満博士の「修学院の秋」といふ文章を読んだことがありますか。塩原太助の馬を舞台に観てふきだした
アメリカ少年が、秋たけなはの修学院を周遊して、ふと拾つた一葉の紅葉に、日本の秋――日本の荘厳な美の
真髄を悟るといふ美しい記録文で、今に忘れられません。
アメリカ人が六代目の鏡獅子を本当に味解しようとする努力、――と云ふより大国民としての余裕を持つてゐたら
戦争は起らなかつた。文化への不遜な態度こそ、戦争の諸でありませう。日本の高邁な文化を冒涜する国民は
必ず神の怒りにふれるのです。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年1月6日、三谷信への葉書より

88 :
けふで丸五日間、丸つきり空襲がありません。不気味な不安。そのなかにも駘蕩たる春の日は窓辺まで
押しよせて来てゐます。(中略)
大学から、「肺浸潤でも何でもかまはんから出て来い」といつ呼出しがあるかわかりません。さうなつたら
さうなつた時のことです。
僕はこれから「悲劇に耐へる」というより、「悲劇を支へる」精神を錬磨してゆかなければ、と思ひます。
古代ギリシャ人にその範を仰がずとも、身近な巣林子の元禄時代は、我々に文芸復興が何であるかを、赤裸々に
教へてくれます。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年3月3日、三谷信への葉書より

89 :
佐藤春夫氏が近く疎開されるので、林さんと、大垣といふ陸軍曹長の詩人と、伊東静雄のお弟子の庄野といふ
海軍少尉と僕と四人でウィスキーを携へてお別れに行きました。
僕は短冊に佐藤氏の殉情詩集のなかにある詩「きぬぎぬ」の一節
「みかへりてつくしをみなのいひけるはあづまをとこのうすなさけかな」
といふのを書いていたゞき、嬉しうございました。僕は自分でその日の先生を、
「春衣やゝくつろげて師も酔ひませる」「澪ごとに載せゆく花のわかれ哉」
とうたひました。本当に美しい晩でした。佐藤春夫氏はたしかに第一流の文豪であると思ひます。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年4月7日、三谷信への葉書より

90 :
ルーズベルトが死にましたね、日本時間の十三日の金曜日に。新聞は良き敵将を失つて哀悼の意を表す、といふ
態度に出てゐて、結構だと思ひます。阿南大将が二年程前、アメリカの国旗をふみにじつて行進する日本軍を
写した劇映画をみて、「これでは国が危い。徳義の戦ひをやつてゐるのを忘れたのか」と嘆かれたさうですが、
この挿話をきいて、頗る阿南大将を尊敬しはじめました。軍人でかういふ立派な見識をもつてゐられることは
実にありがたいことです。今は亡き帝大国家主義憲法学の泰斗上杉慎吉博士が大正十三年に著はした「日米衝突の
必至と国民の覚悟」なる警世の大文章をよみ、その史眼の卓越、見識の高邁に深く搏たれました。(中略)
――今日偶然地下鉄新橋駅で稲田さん(今海軍中尉です)にあひました。沖縄で、特攻隊と共に敵艦へ
肉迫したのださうです。「くはしく話して下さい」と云つたら「いやだ、ネタにされるから」とにげられました。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年4月14日、三谷信への葉書より

91 :
君と共に将来は、日本の文化を背負つて立つ意気込みですが、君が御奉公をすましてかへつてこられるまでに、
僕が地固めをしておく心算です。僕は僕だけの解釈で、特攻隊を、古代の再生でなしに、近代の殲滅――
すなはち日本の文化層が、永く克服しようとしてなしえなかつた「近代」、あの尨大な、モニュメンタールな、
カントの、エヂソンの、アメリカの、あの端倪すべからざる「近代」の超克でなくてその殺傷(これは超克よりは
一段と高い烈しい美しい意味で)だと思つてゐます。
「近代人」は特攻隊によつてはじめて「現代」といふか、本当の「われわれの時代」の曙光をつかみえた、
今まで近代の私生児であつた知識層がはじめて歴史的な嫡子になつた。それは皆特攻隊のおかげであると思ひます。
日本の全文化層、世界の全文化人が特攻隊の前に拝跪し感謝の祈りをさゝげるべき理由はそこにあるので、今更、
神話の再現だなどと生ぬるいたゝへ様をしてゐる時ではない。全く身近の問題だと思ひます。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年4月21日、三谷信への葉書より

92 :
御葉書拝見。何はあれ、このやうな大変に際会して、しかも君とそれについて手紙のやりとりの出来るやうな
事態を、誰が予想し得たでせう。想像するだに、時代の異常さに想ひ到らずにはゐられません。かゝる事態は、
その型式や態様の如何はしばらく措き、夙に想像し得たところでした。今は何も語りたくありません。
これから勉強もし、文学もコツコツ落着いてやつて行きたいと思ひます。自分一個のうちにだけでも、最大の
美しい秩序を築き上げたいと思ひます。戦後の文学、芸術の復興と、その秩序づけに及ばず乍ら全力をつくして
貢献したいと思ひます。(中略)
すべては時代が、我々を我々の当面の責務に追ひやります。僕は少なくとも僕の廿代を、文化的再建の努力に
捧げたいと思つています。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年8月22日、三谷信への書簡より

93 :
君のゐる戦後の軽井沢が見せた変化よりも、ずつと激しい変化が東京の街にあります。
一寸用があつて尾張町へ出ましたら、その人通りの激しさは戦前と少しも変りません。と云つても日本人が
物を買へるやうな店はたゞ一軒もないのです。進駐軍人気といふか、たゞもう妙な人気で、カーキ色やモンペ姿の
貧弱な汚ない日本人が右往左往してゐるのです。(中略)
――東京が「世界の大東京」だとか、何とか云つて大見得を切つてゐた時はいつしか、それが汚いアバタの
地図になつて了つたのと同様、乙にすまして馴れない絹靴下にハイヒールを穿いたり、頭をテカテカ光らせて
レディ・メードの背広で夜毎に押し出した連中の化けの皮が見事にはげ、女は自堕落なうす汚いモンペ姿、
男は工員がへりらしいカーキ色の菜葉服姿で、彼等の痴鈍、醜悪、無智の本性を惜しげもなく、いやむしろ
快よげに、発揮してゐるのです。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年10月5日、三谷信への書簡より

94 :
進駐軍からの煙草漁りに眉をひそめて「日本人も堕落した」と慨嘆する人がありますが、これは些か見当外れな嘆息で、
現在の彼等の醜状は、彼等に何ものをもプラスせぬと共に、何ものをも彼等からマイナスしません。日本人は
何といふ下劣な卑賤な、しかし愛すべき国民でせうね!
僕は総じてこの妖精のやうな刻々変様する東京に甚だ愛着を感じてゐます。これは僕がたゞ東京で生れたから
といふだけではありますまい。祖母の先祖は旗本で江戸に永くをりましたから、亡くなつた祖母からきいた、
江戸―東京、明治―大正の東京の移りかはり、(おそらく祖母が生きてゐた頃は、東京はこれで一応完成して少くとも
二、三十年は目に立つ変化もないと思はれたのでしたが)それに加へて、僕がこの短い二十年に経験して来た
東京の変転、それが定めなく、うつろひやすいものであると思へば思ふほど、僕は東京を愛するやうになります。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年10月5日、三谷信への書簡より

95 :
東京を愛する人は、あるひは知つてか知らずか、その流転の美しさを愛するのではないでせうか。
歴史と時には不変と変様の二態があり、不変は変様によつてその刻々の意味を与へられ、変様は不変に
基礎づけられてはじめて変様たり得ます。日本で云へば、東京と田園、それが変様と不変でせう。
僕のやうな「せつかち」は、山野の不変を歌ふ余裕と胸懐に乏しく、ここにゐて終始変様に向ひ、それに耐へ、
この変様を、歌ひ疲れるほど歌つてゐる外はありません。我々の目は変様のかゞやきをとらへた。流れる目こそ
流されない目であり、変様に遊ぶ目こそ不変の目です。僕はこのやうに自負して自ら慰めてゐます。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年10月5日、三谷信への書簡より

96 :
最初の特攻隊が比島に向つて出撃した。我々は近代的悲壮趣味の氾濫を巷に見、あるひは楽天的な神話引用の
讃美を街頭に聞いた。我々が逸早く直覚し祈つたものは何であつたか。我々には彼等の勲功を讃美する代りに、
彼等と共に祈願する術しか知らなかつた。彼等を対象とする代りに、彼等の傍に立たうとのみ努めた。
真の同時代人たるものゝ、それは権利であると思はれた。
特攻隊は一回にしては済まなかつた。それは二次、三次とくりかへされた。この時インテリゲンツの胸にのみ
真率な囁(ささや)きがあつたのを我々は知つてゐる。「一度ならよい。二度三度とつゞいては耐へられない。
もう止めてくれ」と。我々が久しくその臭から脱却すべく努力を続けて来た古風な幼拙なヒューマニズムが
こゝへ来て擡頭したのは何故であらうか。我々はこれを重要な瞬間と考へる。人間の本能的な好悪の感情に、
ヒューマニズムがある尤もらしい口実を与へるものにすぎないなら、それは倫理学の末裔と等しく、
無意味にして有害でさへあるであらう。
平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より

97 :
しかし一切の価値判断を超越して、人間性の峻烈な発作を促す動力因は正統に存在せねばならない。
誤解してはならない。国家の最高目的に対する客観的批判ではなく、その最高目的と人間性の発動に矛盾を
生ずる時、既に道義はなく、道徳は失はれることを云はんとするのである。人間性の発動は、戦争努力と同じ
強さを以て執拗に維持され、その外見上の「弱さ」を脱却せねばならない。この良き意思を欠く国民の前には
報いが落ちるであらう。即ち耐ふべきものを敢て耐ふることを止め、それと妥協し狎(な)れその深き義務より
卑怯に遁(のが)れんとする者には報いが到来するであらう。
我々が中世の究極に幾重にも折り畳まれた末世の幻影を見たのは、昭和廿年の初春であつた。人々は特攻隊に
対して早くもその生と死の(いみじくも夙に若林中隊長が警告した如き)現在の最も痛切喫緊な問題から
目を覆ひ、国家の勝利(否もはや個人的利己的に考へられたる勝利、最も悪質の仮面をかぶれる勝利願望)を
声高に叫び、彼等の敬虔なる祈願を捨てゝ、冒涜の語を放ち出した。
平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より

98 :
彼等は戦術と称して神の座と称号を奪つた。彼等は特攻隊の精神をジャアナリズムによつて様式化して安堵し、
その効能を疑ひ、恰(あた)かも将棋の駒を動かすやうに特攻隊数千を動かす処の新戦術を、いとも明朗に
謳歌したのである。沖縄死守を失敗に終らしめたのはこの種の道義的弛緩、人間性の義務の不履行であつた。
我々は自らに憤り、又世人に憤つたのである。しかしこの唯一無二の機会をすら真の根本的反省にまで
持ち来らすに至らなかつた。
軈(やが)て本土決戦が云々され、はじめて特攻隊は日常化されんとした。凡ての失望をありあまるほど
もちながら、自己への失望のみをもたない人々が、かゝる哀切な問題に直面したことには一片の皮肉がある。
我々は現在現存の刹那々々に我々をして態度決定せしめる生と死の問題に対して尚目覚むるところがなかつた。
もし我々に死が訪れたならそれは無生物の死であつたであらう。
平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より

99 :
(中略)
沖縄の失陥によつて、その後の末世の極限を思はしむる大空襲のさなかで、我々がはじめて身近く考へ
目賭(もくと)したのは「神国」の二字であつた。我々には神国といふ空前絶後の一理念が明確に把握され
つゝあるが如く直感されたのである。危機の意識がたゞその意識のみを意味するものなら、それは何者をも
招来せぬであらう。たゞ幸ひにも、人間の意識とは、その輪廓以外にあるものを朧ろげに知ることをも包含する
のである。意識内容はむしろネガティヴであり、意識なる作用そのものがポジティヴであると説明して
よからうと思はれる。それは又、人間性の本質的な霊的な叡智――神である。(中略)
我々が切なる祈願の裏に「神国」を意識しつゝあつた頃、戦争終結の交渉は進められてあり、人類史上その
惨禍たとふるものなき原子爆弾は広島市に投弾されソヴィエト政府は戦を宣するに至つた。かくて八月十五日
正午、異例なるかな、聖上御親(おんみづか)ら玉音をラヂオに響かし給うたのである。
平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より

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