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元冦の軍事分析 2


1 :11/11/01 〜 最終レス :12/04/24
モンゴル帝国が2度にわたって鎌倉日本に大敗した元寇を軍事的に考察しましょう。

2 :
文永の役では
@新機軸の撹乱兵器てつはう等に見る技術力の差
A編成・統率力の差
 (日本:御家人達が各家ごとに散らばった編成、指揮系統確立せず
  元:指揮系統の確立した組織的な編成)
が勝敗を分けたんだっけか
結局は神風だけど

3 :
北条時宗っていうクソドラマみたいなストーリーだな

4 :
>>2
アホの60年代の思想学者みたいなこと言ってないでまともな史料読みなさい。
大まかには上陸初日に準備の整わない日本側とやりあったにもかかわらず、モンゴル側の損害多数、日が経つにつれて不利になるのは明白だから元軍指揮官の判断で即日撤退。
という流れ。
実際この時応戦に出たのは地元九州の武士だけで、本州からの主力は全く関わっていない。台風はこの時は無い。
個人的には即日撤退した歴戦の指揮官の判断は評価できると考えている。高麗は立場もあってか撤退に強行に反対したんだけどな。

5 :
当時の帆船で朝鮮半島から九州まで何日くらい
かかったのですかね

6 :
文永役は、威力偵察なので占領地確保の有無は、
作戦目的とは特段関係無い。
抵抗が極端に少なければ占拠しただろうけど。

7 :
まーた始まったw

8 :
威力偵察も棄民も全くのデタラメというソース
「朕、宋と日本とを討たんと欲するのみ。今、朕、爾の国の猶お一家のごときを視る。
爾が国、若し難あれば、朕、安んぞ敢えて救わざらんや。朕、不庭の国を征するに、
爾が国の出師し助戦すること、亦た其の分なり。爾、帰りて王に語り、戦艦一千艘、
米三、四千石を載すべきを造れ」
(高麗史・巻102・列伝15・李蔵用・1268年5月29日条)

9 :
文永は少なくとも大宰府ぐらいは落として交渉、停戦、地元勢力も引き込んだ戦力補強後に再戦、と移るつもりだったんだろうなぁ。
その手法は大陸ではともかく日本相手では全く通じなかったと思うのだが…
しかもよりにもよって鎌倉時代。グラつきはじめていたとはいえ、日本全国の武士を動員、支援できる体制が固まっていたわけで、たとえ数倍が上陸していても勝てたとは思えない。
弘安が棄民というか反対勢力弱体化のためという説は中国史の他の例を見ても近い例があり、朝鮮戦争の人民志願軍などと通じるものを感じている。
これはまだ検証の余地があるなように思うな。
南宋の兵隊だから北周りでない危険な直行ルートを取らせたというのもあながち間違いではないと思う。

10 :
十万の旧南宋兵が高麗国内を通過したら、
成り行きによっちゃ、そのまま居座りかねないからな。
早めに征旅につかせるに限る。

11 :
>>9
同意!
幕府が領地問題でグラつき始めていたからこそ、逆に守護や御家人は
領地没収を恐れて、文字通り一所懸命で戦ったろうしな。

12 :
>>9
でも、問題はその反抗勢力弱体化説唱える奴の大半が
そっから「元は全然本気じゃなかった!」とか「全部フビライの狙い通り!武士プギャー」って話を飛躍させまくってる点なんだよね。
まあ日本の中世史関係者は軍事に疎い奴ばっかだからしゃーないが。
なら、朝鮮戦争の中国軍はあの米軍相手に手抜くようなマヌケだったんかいと。

13 :
まぁねぇ。
大規模な軍事作戦の評価ってのは時々の政治的背景も考慮しないといけないのに、それがわからないと話にならない。
元は本気じゃなかった、なんていうやつはゲームのやりすぎかなにかだろうな。
とりあえず元としては、政治的観点からは本国の安定第一と考えていた面は否めないと思う。
軍事的勝利のみを目指して、南宋兵みたいな爆弾勢力を本国に置いて信頼の置ける主力を日本向けに動員したら、例え勝ったとしても本国が危ないだろうw
このあたりは政治と軍事のバランスを見て現実問題としての全力を注いだらああいう作戦になった、というあたりでみておいてよいかなと。
机上の編制では、これで勝てる!と思ったとしてもおかしくないほど集めたわけだし。
しかし弘安でこそホントの意味での事前偵察と作戦への反映をすべきだったんじゃないかと思うw
現地に着いたら想定外の石塁で奇襲上陸不能になってました。どうしましょう。
というのはあまりにも杜撰すぎるわな。この点ばかりは手抜きと見られてもしょうがない気がする。

14 :
まあ、防塁の上から戦闘のプロ集団が上陸時を狙って片っ端から
射してくる時点で、精鋭集めようが歴戦の名将に任せようが無理ゲー臭いけどなw

15 :
なんで石塁のあるところに上陸しようとしたのかねぇ。
瀬戸内に入り込むか、山陰沿岸目指せば、上陸は容易なのになぁ。

16 :
一部が長門に上陸したという説もあるけども、やはり基本的には大宰府を落とすことが最優先目標だったために博多付近への上陸にこだわったんだろうなぁ。
あんな長期間待てるぐらいならどこへでも行けた訳だが。
流れを見ると、江南軍と合流して一気に強襲すれば石塁でも突破できると読んでいたのだろうけども。
そもそも全体の連携不足で江南軍の到着が遅れたりと、大兵力による戦略的奇襲の価値が全く無くなっていたのが痛い。
初手の段階で全軍全力で攻撃可能であればあるいはと思わなくも無い。
時間をかけすぎて、攻撃場所を選んだり、戦力を集中できるという、攻撃側最大のポテンシャルを自ら失ったことは明らかな失策だな。
弘安の役にははるばる関東の武者まで参加できているような状況では、勝機は全く無かったわな…
純軍事的に考えると、江南軍を朝鮮〜壱岐対馬まで来させてから準備、軍勢を整えることは出来なかったんだろうかね。
港湾施設の問題もあるかもしれんが、洋上待機できるような食料資材に余裕があるならそのぐらい出来そうなもんだが。
やはりこのあたりは>10の言うような内情があるように思うんだがな。

17 :
歴史学者様(笑)は元高麗の目標が太宰府だった事にあまりふれない

18 :
石塁から上陸失敗したから、志賀島から陸伝いで攻めようとしたんだろ。
でも、逆に志賀島に武士が攻め込んできて、元軍は遁走

19 :
どうも壱岐なんかまで下がって再度陣営を立て直すようなこともやってるみたいだなぁ。
志賀島もあくまでも泊地として確保したかったのかもしれないけど。陸伝いで攻めるにもあの地形じゃどうしようもなさそうだしなぁ…
日本側はそのあたりも含めて読んでいたのかねぇ。
昔からの疑問なんだけど、随分とたくさんの船が、九州にたどり着く前、洋上に点在している状態で台風食らったんじゃないのかね。
出発が遅れたせいでわけもわからず洋上で沈むことになった船がずいぶんといそうだなぁと…

20 :
全体に三々五々のグダグダになってるが、そもそも最初の作戦計画ってどんなんだったんだろうな?
1・東路軍は1281年5月31日までに壱岐対馬を制圧、休養、停泊地として同地を確保すること。
2・東路軍は続いて、北九州博多付近の沿岸部に上陸を行い、同年6月15日までに停泊地と橋頭堡を確保、持久すること。不可能な場合は壱岐対馬を停泊地とし、江南軍を待つこと。
3・江南軍先遣隊は、先行する東路軍が確保した停泊地に対し、同年6月15日までに到着、九州上陸後は速やかに橋頭堡の維持拡大に努めること。
4・江南軍後続隊は、編成が完了次第、寧波を出航し、増援として北九州に上陸し、大宰府の制圧作戦を行うこと。
5・増援の戦力については、状況に応じ、順次後続部隊を編成派遣し対応すること。又、投降日本人勢力の懐柔、戦力化に努めること。
こんな段取りだろうかな…だとすると1は成功、2でコケて3は遅れるわで以降グダグダという感じではないか。

21 :
>>15
瀬戸内や山陰沿岸じゃあ上陸は容易でも、陸に上がった後で四方八方から攻められる。
と、なると、やっぱり、大宰府を落として拠点とする攻略法しか選択肢がないような。

22 :
瀬戸内の島を占拠して要塞化すればいいだろう。
関門峡の近くで手頃な島はないものか。

23 :
どうやって無事に瀬戸内まで行けるんだ?
行ったとしても、補給路を自ら遮断するようなもんだぞ?
史実通り、兵糧不足、疫病蔓延、全滅の道を歩むだろうな。

24 :
救援が期待できるから立てこもるんでしょう?
どうやって救援を依頼するのかと

25 :
大宰府は古来から大陸との窓口になっていたから、大陸の連中も大宰府までの道行きはわかるだろう。
だがそこから先は殆どわかるまい。
いきなり山陰などに上陸したって右も左もわからぬ土地で右往左往するばかり。

26 :
そもそも日本に対してはどの程度の認識だったんだろうな。
小さい島国でちょっと兵隊派遣して実力を示せば屈服するだろうとかそんなかんじか?
いくら世界最強の時代だからといって、渡洋攻撃自体がかなり難しいのに、相当見くびらないとこんな計画は出来ないとおもうけどな。
第二回だって何年も経ってるのに、第一回と同じパターンで増援をつけたら行けると考えてたろうけど、
的確な位置に築かれた石塁にしてもそうだが、敵に備えて極めて高度な対抗戦略を立てて実行、それを維持できる国が相手だぞ。
対日戦では国が傾くほど力を注がないとまともな戦いにもならない、とは思いもよらなかったのでは。
しっかし石塁のことって果たして元は情報を得ていなかったんだろうかね。日本は南宋とも経済的なつながりはあったわけでしょ、それとなく情報はもれ伝わってたと思うんだけどなぁ。

27 :
防塁は過大評価だと思うのは自分だけ?元軍と日本軍が防塁で戦ったのは一日だけ。
で、防塁のない志賀島や鷹島でも、元軍は日本軍に駆逐されてる。

28 :
元軍の副司令官・劉複亨が負傷したのは鳥飼潟の戦闘で敗走している時、というレスが前にあったがどうなんだろう?
>>
元軍の劉復亨って博多から撤退する日本軍を追撃中に水城付近で少弐景資に射られたとされてるじゃん。
でも、少弐氏関連の史料では射られた場所が百道原ってことになってるんだよね。
〔少弐系譜〕
景資、資能三男、初名三郎左衛門、後號豊前守、弘安四年於筑前百路原射蒙古大将
〔武藤系圖〕
(景資傳)弘安蒙古出来時、蒙古大将百道原射留ラル
〔筑紫系圖〕
弘安四年蒙古襲来之時、忠功一門、劉相公討捕、身丈七尺乗黒馬
成立したのが元寇の随分後だったり、文永の役と弘安の役を混同してたりで史料としては弱いんだけど、
他の一次史料から日本軍が鳥飼で元軍を撃破した戦闘に少弐景資が加わっていたと考えられるのなら、
話は別だよね。
劉復亨は元軍が鳥飼から撤退中に百道原で追撃する少弐景資によって射られた。

29 :
うろ覚えだが、倒したのは少弐景資自身じゃなかったとおもうけどな。
配下の武将が上級者の馬を借りて射に出て倒したと読んだ記憶がある。
まぁ部下の手柄は長の手柄なんだろうけども。また資料探してみる。
石塁
まぁ志賀島なんかは限定的な戦場だからどうかわからないけど、石塁の有無に関わらずそもそも待ち構えている状態に上陸するなんてこと自体が無謀だったんだろうな。

30 :
文永の役は蒙古軍の圧勝
『元史』
巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國
「至元十一年冬十月、入其国敗之、而官軍不整、又矢尽惟虜掠四境而帰」
卷一百五十二 列傳第三十九 劉通伝
「十年,遷征東左副都元帥,統軍四萬、戰船九百,征日本,與倭兵十萬遇,戰敗之」
『高麗史』
巻一百四 列伝十七 金方慶伝「分道而進、所過當。倭兵突至衝中軍、長劍交左右。方慶如植不少却、拔一?矢、弱゚大喝、倭辟易而走。之亮忻卞李唐公金天祿申奕等力戰、倭兵大敗、伏屍如麻。」

31 :
都合のいいとこだけ引っ張ってくるなよw
上陸戦で有利に戦闘を進めながら、なぜ撤退を決めたのか。
戦術的勝利は得られても戦略的に負けていれば圧勝とは言えない。
そのことを元も理解していたのは記録からも明らか。
ああ、金方慶だけは理解できてなかったようだがw

32 :
そもそも戦術的に勝利したかすら怪しい

33 :
日本軍が勝ったという史料を出せよ。

34 :
日本が勝った史料?
それこそ元史高麗史を読めよw

35 :
『元史』『高麗史』読めば、蒙古軍の圧勝ぶりがわかるなw

36 :
本気で言ってるの?それともゲーム脳なの?
蒙古軍が圧勝とか、運動会の玉入れみたいなこと言ってんじゃねぇよw

37 :
>>36
文永の役は蒙古軍の圧勝。
『元史』
巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國
「至元十一年冬十月、入其国敗之、而官軍不整、又矢尽惟虜掠四境而帰」
卷一百五十二 列傳第三十九 劉通伝
「十年,遷征東左副都元帥,統軍四萬、戰船九百,征日本,與倭兵十萬遇,戰敗之」

38 :
あほか。話にならん。

39 :
『高麗史』金方慶伝
倭兵大敗、伏屍如麻、忽敦曰、蒙人雖習戦、何以加此。諸軍与戦、及暮乃解。
方慶、謂忽敦茶丘曰、兵法千里懸軍、其鋒不可当。我師雖少、已入敵境。人自為戦、即孟明焚船、准陰背水。請復戦。
忽敦曰、兵法小敵之堅、大敵之擒、策疲乏之兵、敵日滋之衆、非完計也、不若回軍。
欧亨 中流矢、先登舟、遂引兵還。会夜大風雨、戦艦觸岩崖多敗

40 :
今でも台湾沖航空戦の大本営発表を
一次史料だといって信じちゃうタイプ?

41 :
特に高麗史を読んで蒙古軍圧勝と読み解くなんてどう考えても困難だと思うけどな。
まさか正面戦闘しか見てないとかじゃないよな。全部読めば、蒙古側が不利を悟って撤退した、という流れが書いてるだろ。
数分の一しかない日本勢相手に決戦に引き込まれてたった一日で継戦力を喪失した蒙古軍のどこが圧勝なんだよ。戦争は何人したかじゃないぞ。
金方慶が撤退に反対したことからも判るように、予定に反して帰らざるを得ない状況に追い込まれた事実はどう説明するんだ。

42 :
たとえば、勝利したとしてその果実を利用できなければ敗北と同じだよなw
勝ったのに利用できないって、敗北より悪いかw

43 :
危険な夜間の三々五々の退却を選んだというのも、そのタイミングでなければまともに撤退できなかったという判断だったんじゃないか。
偵察にせよ圧勝にせよ予定通りなら朝を待って粛々と牽制しながら引き上げればよいだけの話だとおもうんだがな。
こういう話は、行間が読めないというか、文字だけ追って圧勝だと一人納得する人間には判らないかな。

44 :
上記の史料では日本軍に勝ったという戦闘場所が書いてないよな。対馬、壱岐、松浦党との戦闘のことかもしれん。
『元史』洪茶丘伝には戦果を島を抜いたことしか書いてない。
「八月,授東征右副都元帥,與都元帥忽敦等領舟師二萬,渡海征日本,拔對馬、一岐、宜蠻等島」
九州で勝利していたら、記述があるはずだと思うが。確かに、10月5日〜19日までの島や松浦党との戦闘は
元軍が圧倒的だった。ようするに文永の役の大半の期間は、元の将兵は戦勝気分を味わっていたはずだ。
しかし、博多湾から上陸してみると、日本軍の主力と衝突し、壊滅はしなかったが、相当な劣勢となった。
だからこそ、戦闘に参加した日本側の武士竹崎季長の『蒙古襲来絵詞』や福田兼重の申状でも日本軍の勝利が
確認されるのではないか?
福田兼重申状
「右、昨年十月廿日異賊等襲来渡于寄来畢早良郡之間、各可相向当所蒙仰之間、令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山徒等、令懸落百路原」
日本軍の勝利によって、元軍では『高麗史』金方慶伝に記載されいている戦況の不利ともとれる議論になったのではないか?
「方慶、謂忽敦茶丘曰、兵法千里懸軍、其鋒不可当。我師雖少、已入敵境。人自為戦、即孟明焚船、准陰背水。請復戦。
忽敦曰、兵法小敵之堅、大敵之擒、策疲乏之兵、敵日滋之衆、非完計也、不若回軍。」
ようするに、博多湾から上陸した後の鳥飼潟の戦闘で日本軍が勝利したことを元側は意図的に無視した可能性があるのでは?
でないと、「倭兵大敗、伏屍如麻」の後の記述に、急に戦局の不利ともとれる議論が行われるのは不可解。


45 :
威力偵察だから大成功でしょ

46 :
>>37
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/koukurigaisi/kokuri-king12-nakagawa.htm
三国史記・高句麗中川王
魏將尉遲楷名犯長陵諱將兵來伐。王簡精騎五千、戰於梁貊之谷。敗之。斬首八千餘級。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/koukurigaisi/kokuri-king19-dantoku.htm
三国史記・高句麗高広開土王
三年秋七月、百濟來侵、王率精騎五千、逆撃敗之。餘寇夜走。
四年秋八月、王與百濟戰於水之上。大敗之。虜獲八千餘級。
「戦・・敗之」は単なる定型文に過ぎないわけだが
しかも同じ高麗史に書いてある劉復亨が射倒され、総司令官の忽敦が戦闘継続を断念して撤退を主張、
主戦派の金方慶が「焚船」「背水の陣」の故事を持ち出すくだりを無視して
「蒙古軍の圧勝」を主張するとはお笑いだなw

47 :
>>45
168 名無しさん (2010/07/02(金) 18:50:58 ID:26SMAwUoBI)
「文永の役威力偵察説」を唱える連中って、根拠として侵攻に先んじて威力偵察を行うのは
モンゴル軍の常套手段だって言うじゃん。
でも、現実のモンゴル軍は、数年かけて準備した数万人規模の威力偵察を行い、
その数年後に改めて侵攻し直すなんてアホみたいに非効率的な作戦を、常套手段どころか
一度もやったことないわけ。
じゃあ、「モンゴル軍の常套手段である威力偵察」ってのは一体何かっていうと、
モンゴル軍の部隊編成では本隊のおよそ70マイル(約113キロ)先んじて威力偵察部隊が侵攻。
この威力偵察部隊が敵と接触すると、相手が弱ければそのまま撃破し、強ければ偽装退却して
本隊の所まで敵を誘導し、包囲殲滅するってのを常套手段としてたわけ。
要するに「モンゴル軍の常套手段である威力偵察」ってのは戦術レベルの話なの。
日本史研究者って呆れるほど軍事オンチの連中だから、戦術レベルの話である威力偵察を、
文永の役みたいな作戦レベルの話とゴッチャにしてるんだよ。

48 :
>>45
>>8

49 :
スレの流れ面白いw
軍事オンチが的確に迎撃されて敗走させられてる。この流れも
「威力偵察だから圧勝」
とか言うのかなw

50 :
というかこの流れ見てやっと理解できたわ。
日本の歴史関連は本書いてるような奴も、ネット上で色々書いてる奴も
軍事的な背景やセオリーも物理的な常識もまるで無視して
史料の単なる意訳のみに目が向いてるから、「文永は威力偵察」だの
「日本に騎馬武者は存在しなかった」だのけったいな説が横行するんだな。
まあそれでも一次史料読んでる手合いは幾分マシっちゃあマシか。
最近(つってももう十年以上だがw)は信野暮の感覚で軍事作戦語るゲーム脳も多いからな。
まあ、こんなんだからフィクションでも日本の戦記モノはお粗末な内容のものが多いのも頷ける。

51 :
それに、マッカーサーと天皇が並んだ写真は日本人にアメ公への劣等感を植え付ける為にはものすごく効果的だったよな
日本で一番えらい人がマッカーサーの隣では単なるみすぼらしいジジイなんだから
一方でマッカーサーがちょっと天皇褒めたら
「神様仏様マッカーサー様」
つまり、天皇ってのは日本人を簡単に操れるリモコンなんだよ
日本と戦争したきゃ天皇けなせば勝手にファビョってくれる
日本無茶苦茶に叩いても最後に天皇さえ褒めれば簡単にケツ穴まで渡してくれる
そんな弱点をいつまでも後生大事に保っててもしょうがない
とっとと廃止した方がいい

52 :
誤爆wてつはう乙w

53 :
・君主は国家を象徴的に具現し国民統合を容易にする。×
⇒天皇陛下が国家を治めているわけではない。○
 (天皇の意思に関わらずマッカーサーに勝手に象徴にされただけ) 
・君主制は政治家の権力欲を制御する。×
⇒政治家の権力欲を増進させる。 ○
 (麻生一族(財閥)なんて皇族と政略結婚してる)
・君主制は外交の連続性を保つ。×
⇒現在の日本は君主制ではない。○
・君主は重要な政治的調整力の役割を果たす。×
⇒ただのお飾りです。○
・君主制は義務をわきまえた官僚の効率よい行政の優れた基盤となる。×
⇒君主制なんて前時代のものであり、例え君主制であったとしても、官僚は腐敗する。○
・君主制下の軍隊は将校団を中心とし自然な団結と忠誠心を保持しやすい。×
⇒誰も天皇陛下個人の為に戦うわけではないので団結や忠誠心なんて皆無。○
・君主は長い歴史と文化的伝統に支えられて国民の情緒と道徳と文化の支柱となる。×
⇒長い期間、平民から税収を搾取し自己保身の為に、都合の良い文化を作り上げた。○

54 :
なんだ最近はチョンコも軍板にくるようになったんか

55 :
どっちかっていうと高麗軍だなw

56 :
ああ、なるほどw
だから大勝利なのかw
だれが上手いこといえとwww

57 :
死者を祀り神様にするのは、昔は自然な形では存在した。
菅原道真公。崇徳天皇とか。
しかし、明治の現人神の天皇制樹立以降、軽々な人間神化や
人間神社の濫用が始まった。
乃木希典の次は海軍が競うように東郷平八郎の東郷神社とかね。
明治維新以来、古代より受け継がれた日本固有の伝統にない本来無い
仕掛けが 人間の都合で急に突貫工事で次々と工作され、「靖国で会おう」
とお互いに自発的に   言葉を掛け合い「天皇陛下万歳!!!」と突っ込んで
くに至る   迄もニワカ教義の国家神道で洗脳し、そのプレハブ細工
みたいな即製で出来上がった屓目にも日本の宗教文化の抽出とも言いよう
もない教えのために重火器の十字砲火の中を塊になって突っ込んでいった
国民一人ひとりの姿やその魂は、どういう道理でもって元のそれぞれの
産土の神の懐に安らかに還っていけるというのか?  
ニワカ教義の国家神道によって、どうやって各み魂が救われるというのか?   
近代国家以降で、ここまでも伝統ある国の風土や精神文化の根元まで
重機で踏み入って根底からグチャグチャにした国家なんてないだろう。  
   
古来からの産土の神たちの怒りは尋常じゃないね。  

58 :
万世一系なんてインチキ。
都合良く系図書いてるだけ。遺伝子は父親母親半々づつ。
先祖は母親側にも繋がっていく。
桓武天皇の母親は朝鮮人。天皇の先祖は朝鮮人にも繋がっていく。
要は先祖なんて何万何十万もいるってこと。
都合のよい先祖だけ取り上げて、自分は○○の子孫ですってナンセンス。
血なんて一代ごとに2分の1づつになる。何十代も続けば最初の先祖の
血などほとんど入っていないことになる。
要は血筋など馬鹿げたもの。
いずれにしても、天皇制などというバカな制度は即廃止すべきだ。

59 :
予備戦力が尽きれば勝敗が決するのは戦場の常。
だから攻撃側は十分な余裕を持たないと何も出来ないのよ。
それを見越して蒙古軍は数万もの兵力を上陸させたんだろ。その手法は間違ってない。
しかしその駒を一日であらかた使い切って、圧勝です。
なんてほざくのはゲーム脳の最たるものだな。翌日以降どうするつもりだったんだよ。それこそ船燃やして玉砕か?
威力偵察言ってるやつって、それに乗じて短期間に戦力を集中投入するべき予備兵力はどこにあるのか考えてみろ。
今日はこのぐらいにして数年後にまた来ます。ってそれ、相手を利するだけだからw
歴戦の蒙古軍はそんなバカだったのかよw。

60 :
天皇カルトとGHQが呼んでいたことだけは
覚えておいたがいい。
その天皇カルトをGHQは利用したがね。
只の人間や、只の人間の家系を尊ぶなど
時代錯誤であり、人が人として、この世に生まれさせられた
意味を否定する、迷信でしかない。
そんなものは、ゴミ箱に捨て去り、
人の心の平安は、別次元に求められるべきであるのは
当然のことだ。
天皇という存在が、近代になって
日本人に与えたものは、
「惨禍」でしか無かった筈だ。
取り巻きは別だろうが、
大多数の日本人にとってはね。
今後は天皇とか不合理な権威を、やたらに持ち上げる社会にしてはならない。
先祖も天から降りた神ではなく、単に覇権者の末裔が権威の御輿化しただけ。

61 :
実際の国民の本音はここの低能ネトウヨみたいな天皇マンセー
が総意じゃない筈なのに、マスゴミが天皇が被災地ったって
だけの事で大変な苦労して頑張ってらっしゃるみたいな報道ひたすら
繰り替えして、ここのネトウヨもどきの連中が「陛下ご夫妻には頭が
下がる。一方菅は・・・」って喚くのがマジでむかつくわw
被災地訪問ごときの何がそんなに重労働なんだってのw アホどもw
同じ被災地回ってる菅はボロクソ叩いてアホかw お前らのやってる
事は池田先生崇めてる草加となんら変わらんぞキチガイどもw

62 :
うはw
高麗兵ワンサカw
そうかー圧勝いってるやつは高麗兵だったのね。納得。
金方慶も明らかに軍事オンチだったし。
誰か菊池武房殿呼んできてよww

63 :
日本が未だ抱える歴史教育や政治上の問題点は
@皇国史観、明治に突如出現した捏造宗教・国家神道の未清算
A万世一系という固定化した妄想により歴史のリアリズムの軽視が強化され
 日本固有の文化や伝統を破壊
B明治〜昭和政府の国家神道という天壌無窮のゴリ押し教義の強制や
 洗脳によって、戦争の道具のように扱われた戦死者、戦病死者、
 民間罹災民や死者に対する魂の救済と全国民への洗脳前の精神状態、
 つまり素朴な豊葦原瑞穂の国の国民として有していた自然な精神文化
 への原状回復
て所です。
これらが解決しないと、日本の未来はありません。

64 :
威力偵察厨か?荒らしてるのは。話誤魔化そうとしてんじゃねーよ。
スレチだ消えろ。

65 :
>>63
誰かさんのせいで、一気にクソスレ化したな。政治思想板でも行ってきたらいいのに。
君の気持ち悪い思想なら、みんな構ってくれると思うよ。

66 :
しっかし、軍事板に元寇を扱うスレがあってよかったわ。
だいぶ勉強になった。

67 :
だから
西洋の王族の猿真似と明治期の新発明の国家神道スタイルに京都時代までの1000年来の
仏教文化が前提の真言宗の両部神道と天台宗の山王神道だったのを改竄した奇天烈なのを
なんちゃって伝統文化として血税で存続する、文化資産としての価値がネーから
京都時代のスタイルにルネッサンスして戻すなら
天皇制を100%否定するもんじゃないってわけさw
近代天皇制が浅はかで見ちゃいられんということだ!www

68 :
誰も読んでねえから、違う板行けよ。元寇に関係ねえレスすんな。

69 :
■リメンバー・ルキタニア
1915年第一次世界大戦中に、イギリス貨客船ルキタニア号が、当時交戦国であったドイツのUボートの攻撃で
撃沈させられ、乗客乗組員1198名死亡、内アメリカ人128名が含まれていた。ここでも「リメンバー・ルキタ
ニア」が米国民に反独感情を燃やす言葉となった。当時モンロー宣言の孤立政策をとっていたアメリカが参戦す
るきっかけになった。ルキタニア号はイギリスの武器や弾薬を搭載し、ドイツの攻撃宣言海域を護衛艦なしにあ
えて航行していたという。しかもドイツは、ルキタニア号向けに攻撃を警告していたという。
■リメンバー・パールハーバー
1941年12月7日、日本海軍が真珠湾を攻撃した。開戦したかった大統領が開戦反対派議員(議員の80%
が対日戦に反対していた)を押さえ込むために過去に習って使った言葉。第二次世界大戦参戦時の言葉。
■リメンバー・トンキンワン
1965年、トンキン湾で米国の駆逐艦が攻撃を受けた(らしい)。大統領はこの攻撃を北ベトナム政府による
攻撃と判断し、これを名目に北爆を開始した。ベトナム戦争北爆開始時の言葉。
■リメンバー・911
2001年9月11日、テロリストに乗っ取られた旅客機が世界貿易センタービル及び国防省に突っ込んだ。こ
のテロ攻撃はアルカイダによるものとしてアフガンへの派兵とイラクへの攻撃を行った。アフガン対テロ戦争及
びイラク戦争開戦時の言葉。

70 :
あれ?ここって元寇スレだよね?
なんか気持ち悪いのが湧いてるんだけど

71 :
■リメンバー・ロスアラモス
当時メキシコ領だったテキサス内にあったアラモ砦に、親米派住民支援のため来援したテネシー及びアラバマ
民兵が立て篭もった。メキシコのサンタアナ将軍の軍隊がアラモ砦を攻撃し彼らは全滅した。その報復戦を行
う際にヒューストン将軍が叫んだ言葉。テキサス戦争開戦時の言葉。
■リメンバー・フォートサムター
サウスカロライナ州チャールストンにあった海上砦がサムター砦。1861年、サウスカロライナ州が連邦を
脱退し、続いて南部9州が脱退して南部連合政府を結成した。連邦政府はこれを承認せず、サムター砦からの
退去を拒否した。1861年4月、南軍が強制排除を実施した。これを引き金で南北戦争が勃発した。南北戦
争開戦時の言葉。
■リメンバー・メイン
1899年11月、USSメイン号がハバナで謎の爆沈を起こした。この爆発はスペインのテロ攻撃と米国政
府は判断し、スペインに宣戦布告した。事件自身は未だ霧の中で、メイン号は調査されることなく海没処分さ
れた。その米西戦争開戦時の言葉。

72 :
>>30>>48で散々に撃破された高麗軍が
恥ずかしいレスを早いとこ流してしまおうと必死になってるんだろ

73 :
天皇カルトとGHQが呼んでいたことだけは
覚えておいたがいい。
その天皇カルトをGHQは利用したがね。
只の人間や、只の人間の家系を尊ぶなど
時代錯誤であり、人が人として、この世に生まれさせられた
意味を否定する、迷信でしかない。
そんなものは、ゴミ箱に捨て去り、
人の心の平安は、別次元に求められるべきであるのは
当然のことだ。
天皇という存在が、近代になって
日本人に与えたものは、
「惨禍」でしか無かった筈だ。
取り巻きは別だろうが、
大多数の日本人にとってはね。
今後は天皇とか不合理な権威を、やたらに持ち上げる社会にしてはならない。
先祖も天から降りた神ではなく、単に覇権者の末裔が権威の御輿化しただけ。

74 :
>>72
これで鎌倉幕府軍ディスってるのがチョンかブサヨであることがハッキリしたなw

75 :
所詮高麗軍はこの程度。
千年経とうが万年経とうが変わりなしw

76 :
くどくどネチネチと何がしたいんだよ。

77 :
恥隠しじゃないの?
スレ違いのことを延々書いて。
彼は天皇陛下の御恩寵を受けえぬ立場らから仕方ないんだろうけど。

78 :
■リメンバー・ルキタニア
1915年第一次世界大戦中に、イギリス貨客船ルキタニア号が、当時交戦国であったドイツのUボートの攻撃で
撃沈させられ、乗客乗組員1198名死亡、内アメリカ人128名が含まれていた。ここでも「リメンバー・ルキタ
ニア」が米国民に反独感情を燃やす言葉となった。当時モンロー宣言の孤立政策をとっていたアメリカが参戦す
るきっかけになった。ルキタニア号はイギリスの武器や弾薬を搭載し、ドイツの攻撃宣言海域を護衛艦なしにあ
えて航行していたという。しかもドイツは、ルキタニア号向けに攻撃を警告していたという。
■リメンバー・パールハーバー
1941年12月7日、日本海軍が真珠湾を攻撃した。開戦したかった大統領が開戦反対派議員(議員の80%
が対日戦に反対していた)を押さえ込むために過去に習って使った言葉。第二次世界大戦参戦時の言葉。
■リメンバー・トンキンワン
1965年、トンキン湾で米国の駆逐艦が攻撃を受けた(らしい)。大統領はこの攻撃を北ベトナム政府による
攻撃と判断し、これを名目に北爆を開始した。ベトナム戦争北爆開始時の言葉。
■リメンバー・911
2001年9月11日、テロリストに乗っ取られた旅客機が世界貿易センタービル及び国防省に突っ込んだ。こ
のテロ攻撃はアルカイダによるものとしてアフガンへの派兵とイラクへの攻撃を行った。アフガン対テロ戦争及
びイラク戦争開戦時の言葉。

79 :
おちゃめな武烈天皇豆知識
500年9月 妊婦の腹を割いて胎児を見るという行為に及ぶ。
この年以降、人の生爪を剥して山芋を掘らせる、
人を木に登らせ、その木を倒してす、
池の樋から人を流して矛で刺する、
人を木に登らせて弓で射する、
など猟奇性を帯びた愚行を行ったとされる。
また女性を裸にして目の前で馬の交尾を見せて、陰部が濡れた者をし、そうでないものを官婢(女奴隷)とするといった異常な行動をしている。
また、天下の飢えを忘れ日夜問わず宮人と酒食に溺れた。
ソース・『日本書紀』

80 :
戦争は引き際が肝心。
金方慶は文永でも弘安でもそれを理解できず無能無策をさらけ出した。
同じことをここでもやってるやつがいる。

81 :
蒙古は暴風雨で負けましたが、倭猿は津波で死にました(笑)

82 :
通用しない戦法を無為に繰り返しても無駄だな。
軍板住民は低脳には冷たいぞ。他の板で身を立てなさい。

83 :
あれか?
こいつは「ノモンハンは実は日本の勝利」とか本気で言っちゃうタイプの人か?

84 :
今度は日本史板にバカが湧いたみたい
>>83
なわけないじゃん。
むしろWW2日本軍は現地軍のゲリラにぼこられまくった雑魚とか本気で言い出すタイプ。

85 :
>>44
その件に関して以前、高麗伝のもっと詳しい史料上げてた奴がいたんだが
確か対馬じゃなくて福岡での戦闘を勝利として扱った内容だった気がする。
でも、仮に福岡平野の戦闘が元軍の圧勝だったなら
尚更元軍の行動が不可解なんだよな。
本当に圧勝だったならせめて橋頭堡築いて、暫くは
そこを足掛かりに活動しそうなものだし、威力偵察なら
すぐに第二陣を派遣するはずだし、秀吉の唐入りのような
食糧問題や疫病があったような記述も特にない。(弘安は疫病があったみたいだが)
ましてや、棄民とやらが目的ならむしろワザと強行させるだろ。

86 :
強いていうなら元軍の副将が射られた事による士気の低下を恐れての撤退か?

87 :
どっちにしろ、あのままだと元軍の全滅は必至だったんだから
それを見越して早期に撤退を決意した元軍の総大将は個人的にはなかなかの名将だとは思うがね。

88 :
ただ、日本側も大勝したって訳じゃないんだよな……。戦後処理もうまくいかなかったし……

89 :
文永は引き際はうまかったと思う。
それにしても蒙古軍がもっと強力で、日本側が片っ端から死んで、どうにかやっと撃退したという流れならかえって土地問題が解決して安定したかも知れないと思うんだがなw
そりゃぁ討ち死には名誉だって恩賞の必要もあるだろうけど、そもそも増えすぎた武士の食い扶持の増やしようが無くて不安定になってた面が大きいんだろうし・・・

90 :
>>66
2chで勉強になったとか本気か?
どんな板のどんなスレのどのレスでも、基本どこの馬の骨とも知れない人間が書いてる事なんだから
自分で学んだ知識のオマケ位に考えていないと痛い目見るぞ

91 :
マンネルヘイムもそうだが、未だそれなりの戦力を持っていても戦略的に不利の時に名将は力を発揮すると思う。
そういう意味では忽敦も見事だな。
戦い半ば、前線で勝てる可能性があればあと少しと勝ちに賭けたくなるのは兵も将も同じだろう。
それを抑えて撤退を決断して実施させた手腕は並ではなかったと俺は思う。

92 :
『蒙古襲来絵詞』や『福田兼重申状』などから戦闘に参加した武士も文永の役は日本側の戦術的勝利って認識なんだよな。
他の少弐景資や大友頼康の書状などからも、元軍に敗退したという認識が全くないことがわかる。
結局、両陣営が勝利を主張してるんだが、元側の強行撤退や『高麗史』記載の司令官の軍議や元軍の進撃が全く進まなかった
という状況から総合的に判断すると、武士側の主張の方が事実に近い気がするんだよな。
『元史』の「官軍整わなかったから、四境の日本人を略奪して帰った」というのも、日本軍との戦闘であまり戦果がなかったから
戦果の水増し目的とも受け取れる。

93 :
でもさ、そこから、日本武士最強説はいくらなんでも飛躍しすぎだろ。

94 :
>>85
金方慶伝の「三郎浦」とはどこかというのがポイントだよな。
金方慶伝「一岐島に至るに、倭兵は岸上に陳ず。(朴)之亮及び方慶の婿趙卞、之を逐う。
倭、降らんことを請うも、後に来り戦う。(洪)茶丘と之亮・卞と千余級を斬し、船を三郎浦に捨て
道を分ちて、進み、す所は過当なり。…」
素直に読めば、壱岐の日本軍が反撃したから、洪茶丘・朴之亮らが船から降りて「三郎浦」に船を捨て壱岐の日本兵に
応戦したということだと思うが。もし、これが壱岐の戦いのことを言っているなら、間違いなく「倭兵大敗、伏屍如麻」
とは壱岐の戦闘のことを言っているということになる。
問題は、これが壱岐の戦闘であるなら、すぐあとの記述に例の忽敦と金方慶との軍議があることと、三浦周行氏著の『鎌倉時代史』で
「三郎浦の三郎は早良にして、同郡沿岸即ち百道原の沿海地区ならんといふ」としているところ。三浦氏によれば、「倭兵大敗、伏屍如麻」
とは、九州上陸後ということになる。
「至一岐島、倭兵陳於岸上、之亨及方慶婿趙卞遂之、倭請降、後来戦、茶丘與之亨卞、
撃千余級、捨船三郎浦、分道而進、所過當、倭兵突至中軍、長剣交左右、方慶如植不少却、
抜一?矢、励声大喝、倭辟易而走、之亨忻卞李唐公金天祿申奕等力戦、倭兵大敗、伏屍如麻、忽敦曰、
蒙人雖習戦、何以加此、諸軍與戦、及暮乃解、方慶謂忽敦茶丘曰、兵法千里懸軍、其鋒
不可當、我師雖少、已入敵境、人自為戦、即孟明焚船淮陰背水也、請復戦、忽敦曰、兵法
小敵之堅、大敵之擒、策披乏乃兵、敵日時之衆、非完計也、不若回軍、復亨中流矢、先
登船、遂引兵還、會夜大風雨、戦艦触岩多敗、?堕水死、到合浦、」

95 :
>>93
少なくともこのスレじゃ誰もそんな事は言ってない。
>>94
壱岐〜福岡の戦闘を全部ひとまとめにして
「一連の戦闘を総合すればウリ達の大勝利ニダ」って事にしてるとか?w
壱岐の戦闘と福岡の戦闘を別々に詳細に記述してる部分が見つかればいいんだが。

96 :
教科書では日本軍大苦戦って書かれてるけど、
実際には苦戦したのは最初だけで、
集団戦法とかに適応してからは日本武士団は相当善戦したらしいね。

97 :
壱岐の平景隆が元軍と戦ったのが「庄ノ三郎城」。『高麗史』の「三郎浦」と関係があるのかどうかだよなぁ。
「三郎浦」が壱岐のことを言っているなら、『高麗史』は意図的に福岡の戦闘の記述をスルーしていたということにもなり、
『元史』洪茶丘の記述に「八月,授東征右副都元帥,與都元帥忽敦等領舟師二萬,渡海征日本,拔對馬、一岐、宜蠻等島」と福岡の戦闘に
触れていないことから、『元史』日本伝も福岡の戦闘をスルーして「入其国敗之」と勝利宣言した疑惑が湧いてくる。

98 :
よく言われる名乗りをあげて一騎打ちはてんで出鱈目な説だけど
だからといって、武士達の戦術が集団戦だったかと言われるとそれも違うような気がする。
日本の武士達は例えるのは難しいけど、戦略レベルだと
大将の指示通りに動くけど、実際の戦場では
今で言えば曹長クラスの武将達が各自で判断して作戦行動してたんじゃないかと思う。
でもこれが非効率だというのは早計な話で、戦力を分散せざるを得ない時なんかはかなり強いんじゃないかな。

99 :
ここの連中と歴史学者である戦争の日本史「蒙古襲来」の著者の新井と別の事を言ってる
お前らアニメ漫画みたいなもんでそだった脳みそには妄想が調度良いわ
僕の考えたさいきょうのさむらい(笑)の披露会ですか?
職安行け職安

100 :
そいつの本読んだことないが、何と書いてあった?
まあバカ田大学卒の研究なんてたかがしれてるだろうけど

101 :
なんかまた変なのがいるなぁ。
本の主張なんて人によってバラバラだよ。お前その一冊しか読んでないからわかんないんだろうけど。
60、70年代なんか左巻きの大学教授様が思想中心で「武士は役立たず、全部神風がやった」と好き放題書きなぐって、そのわけのわからん主張も今だ残ってるんだぞ。
一次資料を見て良く考えろ。
他も言ってるが、ここじゃ日本の武士最強なんて誰もいってないからね。元が弱いとも言ってないし。
さて、当時の日本の武士の戦法って、98の言うような側面が強いと思う。
べつに集団戦をやってないわけじゃないが、竹崎みたいに勝手な行動をとるものが多く出たのは、軍功を評価するシステムが家や一族の活躍にあったからだしな。
その評価システムを変えなきゃ純粋な意味での集団戦術への移行は出来ない。しかしべつに日本では必要の無かった時代だし、地形の制約も大きい。
ただ、このあたりの戦闘様式の差は、お互い様にやっかいな相手だったろうと思う。常道、定石が通じないのは両軍とも同じで、日本側のあわてぶりばかりを取り上げても片手落ちだ。

102 :
やはり、『高麗史』の「倭兵大敗、伏屍如麻」とは壱岐の戦闘のことを言っているのでは?
そもそも、忽敦と金方慶との軍議も博多上陸後とするのもおかしくないか?
なぜなら、忽敦は「敵が日ごとに増している。(これ以上戦っても)完全な計とは言えない。撤退するしかない」
と言っているが、博多上陸後に行われた戦闘はたった一日のはず。壱岐にいて大宰府に日本軍が集結しているという
情報を伝え聞いた忽敦が、この集結した日本軍と相対することに不安を覚えて、このような発言をしたのでは?
そして、軍議が終わった後の記述が、「劉複亨が流矢にあたる」となっている。つまり、その後も金方慶の主張が通り、
撤退せずに戦闘を継続した。
この「劉複亨が流矢にあたる」という戦闘が博多上陸後のことを言っているのでは?
だからこそ、忽敦などが不安を覚えつつ戦闘を継続してみたものの、不安は的中して
集結していた日本軍が強力だったため、あっさり引いた。
これなら、なぜ元軍があまりにもあっさり引いたのかという疑問も解決する気がするが。

103 :
でもそれだと金方慶はそのとき、「船を焼いて背水の陣で戦う」ことを提案したことになるでしょ。
壱岐はたしかに損害から見ると蒙古側も苦戦したとはいえ、そういった局面に立たされたとは思えないんだがな。
日増しに増えている、というのも壱岐対馬、そして博多と増えていっている、という意味にも取れる。
結局、これらは制限ある文章にまとめるときに、あくまである程度、全体の流れを総括してわかりやすく纏めた文章であって、これがここだ、とはっきりと分けていないんではないか。
だから一言一句をあまり突っ込んでも不毛な議論になりかねないとおもう。

104 :
>103
金方慶はまず、「千里の県軍、其の蜂当たるべからず」と兵法を引いて、本国から遠くまでやってきた軍はかえって士気が高まるという
自説の補強のために「背水の陣」の覚悟で乾坤一擲の勝負を促したものであって、実際に船を焼こうとするものではないと思う。
『高麗史』の表でも、文永の役での戦場が「壱岐」しか記述がなかったり、どうも高麗側には「壱岐」が文永の役で重き戦場に位置づけられていた
という印象があるんだよなぁ。
『高麗史』巻八十七 表巻第二「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人」
それに軍議の後に劉複亨が流れ矢に当たるという記述から、軍議の後に戦闘が継続したように思えてならない。
それと「復亨中流矢、先登船、遂引兵還」の「先に船に登る」とはなんのことを言っているんだろうか。

105 :
それは負傷したので軍議に参加せずに先に自分の船に下がった、という意味だと思うんだけどな。
諸々が壱岐の軍議だとすると、征東左副都元帥という立場の劉復亨の主張が全く載っていないのが気になる。

106 :
>>105
ああ、本当だな。「先登船」の主語は劉複亨しかないなぁ。
『高麗史』の記述法が壱岐から始まって、間がわかりにくいからどこの戦闘か
見当がつけにくいんだよな。
それに軍議の後にいきなり「劉複亨、流矢にあたる」だもんなぁ。
>諸々が壱岐の軍議だとすると、征東左副都元帥という立場の劉復亨の主張が全く載っていないのが気になる。
確かにそれはあるな。洪茶丘は一言も発してないが一応名前は出てるしな。
「捨船三郎浦、分道而進」ここが博多上陸のことをいっているのだろうか。
金方慶伝「一岐島に至るに、倭兵は岸上に陳ず。(朴)之亮及び方慶の婿趙卞、之を逐う。
倭、降らんことを請うも、後に来り戦う。(洪)茶丘と之亮・卞と千余級を斬し、船を三郎浦に捨て
道を分ちて、進み、す所は過当なり。…」
この書き方だと、壱岐で追撃するのに、船を捨て道を分って追撃したと読めるんだよなぁ。結局、どこからが北九州の戦闘のことを
言ってるのかわかりづらい。

107 :
そこで八幡愚童訓ですよ!

108 :
うーん。
たしかに日本側は壱岐対馬博多を別々に捉えてるし、対馬と壱岐は限定的な戦闘であり、戦局の決定力足り得ないと考えているから眼が向きづらいかもしれんが、
連戦してきた蒙古軍にとって、文永の主戦場は壱岐であって、博多は全体ではおまけぐらいにしか考えていなかったのかもしれないなぁ。
壱岐での苦戦が博多での撤退に繋がったという考えもありうるかもしれん。もしいきなり博多に来て一日戦っただけじゃ以後の戦いの予想なんかつけられないものな。

109 :
壱岐で思わぬ抵抗にあった。この時点で軍の意見は2つに割れていた。
そして、次に向かった博多では壱岐よりも更に質と量で勝る敵が迎え撃ってきた。
これはマズいとして、早期に撤退を決めたということか。
確かに流れとしては自然だな。
結局のところ箱崎の出火云々は元軍は関係ないのかな?
改めて時系列を整理してみる必要がありそう

110 :
『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶伝
「一岐島に至るに、倭兵は岸上に陳ず。(朴)之亮及び方慶の婿趙卞、之を逐う。
倭、降らんことを請うも、後に来り戦う。(洪)茶丘と之亮・卞と千余級を斬し、船を三郎浦に捨て
道を分ちて、進み、す所は過当なり。倭兵、突き至りて中軍を衝き、長剣左右に交わる。方慶、植つが如く
少しも却かず、一(口高)矢を抜き、励声大喝するに、倭辟易して走る。之亮、忻、卞、李唐公、金天祿、申奕等
力戦し、倭兵大いに敗れ、伏屍すること麻の如し。忽敦曰く、「蒙人、戦いに習うと雖も、何を以てか此れに加えん。
諸軍、与に戦え」と。暮に及びて、乃ち解く。方慶、忽敦・茶丘に謂いて曰く、「兵法に、「千里の県軍、其の鋒当たる
べからず」とあり。我が師少なしと雖も、復た戦わん」と。忽敦、曰く、「兵法に「小敵の堅は、大敵の擒なり」と。
疲乏の兵策して、日ごと増すの衆に敵するは、完計に非ざるなり。軍を回すに若かず」と。
(劉)復亨、流矢に中る。先に舟に登り、遂に兵を引きて還る。」
「至一岐島、倭兵陳於岸上、之亨及方慶婿趙卞遂之、倭請降、後来戦、茶丘與之亨卞、
撃千余級、捨船三郎浦、分道而進、所過當、倭兵突至中軍、長剣交左右、方慶如植不少却、
抜一?矢、励声大喝、倭辟易而走、之亨忻卞李唐公金天祿申奕等力戦、倭兵大敗、伏屍如麻、忽敦曰、
蒙人雖習戦、何以加此、諸軍與戦、及暮乃解、方慶謂忽敦茶丘曰、兵法千里懸軍、其鋒
不可當、我師雖少、已入敵境、人自為戦、即孟明焚船淮陰背水也、請復戦、忽敦曰、兵法
小敵之堅、大敵之擒、策披乏乃兵、敵日時之衆、非完計也、不若回軍、復亨中流矢、先
登船、遂引兵還、會夜大風雨、戦艦触岩多敗、?堕水死、到合浦、」

111 :
見た感じ壱岐の島での戦闘っぽいが、福岡での戦いに関する記述は無いんかな?

112 :
>>110
どう見ても日本側が惨敗してるなこれ。
>>111
福岡の部分は後に来たりの部分の後だよ。
劉の件は戦闘中に負傷したから先に船に戻ってたってこと

113 :
また例の人の自演か

114 :
>>99
お前さ、その新井って奴は「蒙古軍がフランキ砲を使った」
と書いてある江戸時代の文献を無批判に引用してるようなキチガイだぞ
まあ、お前のレベルに合ってる本だとは思うよw

115 :
>>113
反論出来ないから自演扱いか

116 :
あと八幡蒙古記は神様が出てきて云々以外の記述に関しては
これ以上博多の戦闘に関して詳しく書いた史料はないからね。
そこに確かに名乗りをあげて一騎打ちを挑んでは討ち取られていく武士達が書かれてるから

117 :
八幡愚童訓ってのは宗教書で、八幡の神威を示す逸話として蒙古襲来を扱ってるんだぞ
全く信用ならない資料とは言わないが、立場上武士の奮戦をあまり書こうとしないであろうことは
素人目にもわかると思うが。詳しく書いてあるから正しい!という理論についてはお笑いとしか言えんw

118 :
>>117
自分にとって都合の悪い史料をそんな風に断じるのは良くないぞ

119 :
別の宗教の信者が、さらに別の宗教を貶めることは良くあることさw

120 :
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1212055328/19-55

121 :
>>118
そっちこそ自分にとって都合の良い資料を妄信してるだけなんじゃないの?
元寇に関しては不正確で断片的な資料しか残されていないわけだから、
資料の解釈には慎重にならないといけない

122 :
そろそろ流れを整理しようぜ。まず戦前の極東アジアの国際情勢とそれぞれの国内情勢から

123 :
鎌倉武士が最強だったとか、逆に鎌倉武士弱すぎ惨敗だったとか、
そういう極端な結論に結び付けたがる人ほど
結論ありきで史料の取捨選択をするという好例

124 :
それよりまず、元寇について記述ある史料片っ端からあげてくれ。
一つ一つ吟味しないと時系列も整理できないよ

125 :
うぃきからだが大体これでいいだろう。
元朝側資料
* 『元史』
* 『元高麗紀事』
高麗側資料
* 『高麗史』
* 『高麗史節要』
* (『東国通鑑』*江戸時代に朝鮮半島通史として盛んに利用された)
日本側資料
* 『深心院関白記』
* 『吉続記』(吉田経長日記)
* 『勘仲記』(勘解由小路兼仲日記)
* 『調伏異朝怨敵抄』(宗性)
* 『金剛仏子叡尊感身学正記』(叡尊自伝)
* 『一代要記』
* 『蒙古襲来絵詞』
* 『八幡愚童訓』
* 『関東評定衆伝』
* 『鎌倉年代記』
* 『帝王編年記』
* 『師守記』

126 :
トン。
んじゃ、百聞は一見に如かずということで
一つ一つ自分で読んでみるわ。

127 :
>114
フランキwひどいなww
史料から読み取れるのは南宋軍の回回砲までだろう…個人的には初期の手銃なども持ち込んだのではないかと思ってるけどねw

128 :
これか。
「炸裂する火薬兵器、ふりそそぐ毒矢。巨大軍隊モンゴル軍に打ちのめされた日本の武者たちの恐怖の念は、全土を神仏頼りの祈祷列島へと変えていく。幕府はこの危機にいかに対処したのか。合戦死傷者のその後までを追う。」
やな予感がするなww
あとよく言われる「毒矢」というのもたしかに日本側史料にはあるけど、どうも中国軍事史を見てもそれらしいのはないんだよねぇ。本当なのかなぁ。

129 :
>>119
信者獲得と勢力拡大の為に、元軍の対馬での蛮行をでっち上げた日蓮上人を誹るのは止めて下さい

130 :
■リメンバー・ロスアラモス
当時メキシコ領だったテキサス内にあったアラモ砦に、親米派住民支援のため来援したテネシー及びアラバマ
民兵が立て篭もった。メキシコのサンタアナ将軍の軍隊がアラモ砦を攻撃し彼らは全滅した。その報復戦を行
う際にヒューストン将軍が叫んだ言葉。テキサス戦争開戦時の言葉。
■リメンバー・フォートサムター
サウスカロライナ州チャールストンにあった海上砦がサムター砦。1861年、サウスカロライナ州が連邦を
脱退し、続いて南部9州が脱退して南部連合政府を結成した。連邦政府はこれを承認せず、サムター砦からの
退去を拒否した。1861年4月、南軍が強制排除を実施した。これを引き金で南北戦争が勃発した。南北戦
争開戦時の言葉。
■リメンバー・メイン
1899年11月、USSメイン号がハバナで謎の爆沈を起こした。この爆発はスペインのテロ攻撃と米国政
府は判断し、スペインに宣戦布告した。事件自身は未だ霧の中で、メイン号は調査されることなく海没処分さ
れた。その米西戦争開戦時の言葉。

131 :
>>112
>>福岡の部分は後に来たりの部分の後だよ
根拠は?普通に読めば、壱岐に至ると、日本兵は岸上に陳ず。之亮及び方慶の婿趙卞、之を追う。
壱岐の日本人、降伏することを請うも、後で軍勢を挙げて攻めてきて戦う。
としか、読めんぞ。

132 :
三郎浦云々ってのが九州上陸後だと言いたいんじゃね?

133 :
俺の母校の玉川大の元寇関連のページみてこい
お前らの妄想が元軍に大敗する武士みてぇになるからな(笑)
妄想だけで史料も読まずに語ってるんじゃねぇよ中卒

134 :
ttp://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/genkou/
ttp://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/genkou/kouan.html
……もしかして、これの事か? もしこのページの事であるのなら
とりあえず真実お前が大学に通っていたとしても碌に勉強しなかったか、全く別分野の事に口出してるのは分かった。
小学校の教科書と資料集とほぼ同じ程度の情報量じゃねーか。ホントに概要だけだぞこれ
違ったのなら悪かったが、
そもそも局所的な戦術的敗退と戦略的な敗北は別モノって言ってんだろ
本格的な上陸を二度とも許さなかった時点で何人死のうが大敗はねーよ

135 :
『八幡愚童訓』ってどんだけ信頼性があるんだ?
@元寇の数十年後に書かれた
A作者は石清水八幡の神官で戦闘を見たわけではない
B宗教書で、史書として書いたわけではなく八幡神の尊信の普及を目的として作成
でしょ。どう考えても、信頼に足る史料だとは思えないんだが。

136 :
>>133
これだからFラン文系は・・・

137 :
>>135
ちょうど70年代に左翼学者が強制連行でっち上げた本書くようなもんか

138 :
正直元寇に関しては資料が断片的過ぎて、八幡愚童訓も一応参考程度にせざるを得ないという現状があるが、大幅に差っ引いて見る必要がある史料ではある。
蒙古、日本の両方の史料で合致する部分を基本にして、それ以外は精査していくべきなんだが、限定した局面の勝った負けたというのは印象によるところも大きいので、結論を出すには難しいというか、合理性に欠けるな。
個人的に、史料として見逃しがたくお勧めするのはやはり「蒙古襲来絵詞」だ。
絵ばかりが注目されるが、本文こそしっかり読んでおかないと絵の後世の錯綜部分や真意が見えないので、ちゃんと読まないと意味を捉えそこなうので注意だね。
公文書ではないし、個人体験ではあるが、二度の元寇に直接参戦して負傷もし、首もあげた竹崎季長の直接監修によるというのは極めて稀で貴重なものだと思う。
季長、晩年の監修ではあるようだが、朱書きによる訂正、たとえば河野道有の家の場面では妻戸の絵の上に朱書きで「道有の家に妻戸はない。絵師の書き間違い」というような当事者しか知りえない生々しさが満載だ。
また晩年ということで精神的にも落ち着いていたのか、改めて自身を誇るためだけに書かせたのではないというのもよくわかる。
全体を見れば、自分の人生を振り返っての、助けてくれた人への感謝にあふれている。私的な体験ではあるが、過度に自分を飾り立てない、かなり実直な史料という印象がある。
とにかく未見の方には精読をお勧めする。
て、なんか書評みたいだな。
元寇をこれから知りたい、調べたいという方もいるかと思うので、参考までに。とにかく言わば読みやすい入門書でもあり、重要史料でもあるので、読んで損はない。

139 :
>>137
そんな物を有り難がる奴のレベルが知れますな。

140 :
>>138
「蒙古襲来絵詞」を手軽(廉価)で読める本ってあるかな?

141 :
ぐぐれよ
図書館の美術コーナーにもあるだろ

142 :
まぁ、中身まではわからないからね。自分も買って損をした本もあるしw
廉価で、ということなので、一応最初は
日本の美術NO414絵巻蒙古襲来絵詞 太田彩
を薦める。
とりあえずの概要がわかるのと、巻末に全文の釈分が載っているので、便利。
特に、元寇そのものの個人の分析、見解は最小限にしてあって、あくまでも絵詞の分析に主眼がおかれているので、資料性も高いよ。
ただ、図版がモノクロで小さいが多いなど、価格面での限界もある。
興味がわいたら、他に日本の絵巻を集成したような大判ハードカバーのシリーズ(タイトル忘れた)があって、それをじっくり読むと自分だけの発見もあるはず。
高額だが、図書館などにあると思う。

143 :
小舟に乗ってでかい船に夜間奇襲かけてたのは本当みたいだし、
戦術はかなり柔軟だったのは間違いないだろうね。
外人には武士は正々堂々なんて通じないとすぐ学んだんだろう。

144 :
平家物語を読んでもわかるが、古くから武士って必ずしも正々堂々となんてしてないんだ。
もっと古い世代は源平の合戦を非難したりもしてるが、あの時代以降のひとつの考えとしては何が何でも勝てばこそだったんだよ。
命乞いで助命される→隙を見て助けてもらった相手を害とか、義経の漕ぎ手皆しの件とかも有名だしね。
だから蒙古がきたときに、蒙古に対しては別に合戦の礼儀作法などは何も行った形跡は無い。
蒙古側からはたしか、上陸時に頭を下げて日本側を拝んだとか話があったように思うが…
名乗りだってあくまで日本側に対してであるし、少数で駆けるのだって戦功をあせってのことだ(当然戦術的には失策だが礼を果たさんという意味ではない)。

145 :
>日本側を拝んだ
意味がよく分からないんだが、どういう事?

146 :
ごめんはっきり覚えてないw
壱岐か対馬で上陸時の合戦の前に蒙古軍が三度礼をした、ような記録があったと思う。
日本側の礼?といえば鏑矢が言われるけど、これも基本的には味方への合図の意味が大きかったと思うんだがなぁ。
合戦文化の相違で両軍共々いろいろと面食らったのは確かだろうが、鏑矢も名乗りも相手に意味が通じると思ってやった、なんてことは一切無いと思う。

147 :
・君主は国家を象徴的に具現し国民統合を容易にする。×
⇒天皇陛下が国家を治めているわけではない。○
 (天皇の意思に関わらずマッカーサーに勝手に象徴にされただけ) 
・君主制は政治家の権力欲を制御する。×
⇒政治家の権力欲を増進させる。 ○
 (麻生一族(財閥)なんて皇族と政略結婚してる)
・君主制は外交の連続性を保つ。×
⇒現在の日本は君主制ではない。○
・君主は重要な政治的調整力の役割を果たす。×
⇒ただのお飾りです。○
・君主制は義務をわきまえた官僚の効率よい行政の優れた基盤となる。×
⇒君主制なんて前時代のものであり、例え君主制であったとしても、官僚は腐敗する。○
・君主制下の軍隊は将校団を中心とし自然な団結と忠誠心を保持しやすい。×
⇒誰も天皇陛下個人の為に戦うわけではないので団結や忠誠心なんて皆無。○
・君主は長い歴史と文化的伝統に支えられて国民の情緒と道徳と文化の支柱となる。×
⇒長い期間、平民から税収を搾取し自己保身の為に、都合の良い文化を作り上げた。○

148 :
>>98
日本の武士は分隊行動できる近代用兵の集団だった(ドヤァ

149 :
博多の町で、主にCQBで戦ったんじゃない?
んで、優秀な日本刀を持って小勢でも積極的に戦える日本勢が圧倒したと。

150 :
博多の町で戦闘があれば、町に被害が出たはずでは?
博多の町に被害が出たというのは、当時の文書類などからは確認されない

151 :
文永の役はあまりに短期間で終わったため、実体が掴みにくいなよな。
『高麗史』や『元史』、『蒙古襲来絵詞』、『八幡ノ蒙古記』『文書類』を読んでみたけど
戦闘の内容が詳しく書かれているのは『八幡ノ蒙古記』>『蒙古襲来絵詞』>『高麗史』>『文書類』『元史』
かな。
でも、『八幡ノ蒙古記』はあまりにも詳細すぎて、一応当時、箱崎にいた著者だということを勘案しても
どこまでが本当かわからんのだよな。戦闘に参加していない著者がどうして
「山田か若者五六人、蒙古に、おひたてられ、赤坂
をくたりて、のけ兜になりて、にくる処に
蒙古三人、もみにもみてそ、おひかけたる、
されとも、とくにけ延し事、一町あまり
なりしかは、蒙古ちからなく、せめての事
にや、尻をかきあけて、此方へむかひてそ、を
とりける、この時、山田の逃武者とも、口をし」
とか戦闘の細かいところまで知っているのか疑問。
本人たちの裏付けをとったとか?劉復亨を倒すシーンだって
あまりにも軍記物語のような細かい描写になっていて胡散臭さを
感じさせる。
『蒙古襲来絵詞』は竹崎本人が、細かいとこまで絵詞が間違っているところに
注釈をいれるなど、より当時をリアルに描写しようとする姿勢が認められるのだが
『八幡ノ蒙古記』はどうも軍記物語っぽい内容でリアリティーが若干薄い気がする。

152 :
実際のところはわからないけど、口伝や聞き書き、ちょっとした書き付けを集成した可能性もあるので、創作と決め付けて考えるのも難しいよ。
現在残っている史料のほうがはるかに少ないわけで、当時は各人が様々な形で記録を残していただろうから、その一端とも言える。
まあ多くは人づての怪しい話なんじゃないかと思うけどね。根拠がなかったかどうかは結論が出ないことだから難しいな。
事実と照らし合わせて、ありえない部分は削れても、それ以外はもうわからないね。
蒙古襲来絵詞も細部は描写の限界はあるが、蒙古軍の船が嵐にあったせいでアンカーケーブルのリールが吹き飛んでしまった船なども描写されていたり面白いな。
当時は高麗軍の軍装も当時は現物かその細部の記録が残っていて、それを基にしているのは間違いないと思う。高麗兵の兜の裾から垂れる謎の紐輪などは創作では思いつかないよ。

153 :
個々の史料だけを見て判断するんじゃ無く、複数の史料の記述を見て多角的に判断しないとダメだよな

154 :
4万近い軍勢で押し寄せながら、現地守備隊を相手にわずか半日の戦いで継戦能力を喪失。
大宰府攻略どころか橋頭堡の維持すら出来ず、戦闘継続を断念して夜陰に乗じて撤退したという
のは客観的事実。

155 :
>>153
ただ、元寇はその史料が少ないんだよなぁ。本来なら、参考史料程度の「八幡ノ蒙古記」に
頼り切っているぐらいだからな

156 :
博多湾や玄海灘の海底に遺物が、大量にあるはずなんだがなぁ

157 :
博多湾や玄海灘の海底に、遺物が大量にあるはずなんだがなぁ

158 :
こないだ何か出てこなかったっけ?

159 :
http://www.nagasaki-np.co.jp/kiji/20111020/01.shtml
これだな
誰か金持ちが資金援助したら色々掘り当てられるんじゃね

160 :
つか過去に探していろいろ出てるんだがな。
銅鑼とかてつはうとか印とか。
結局、どうやったって腐食に弱いものは出ないし、そこが問題なんだな。

161 :
鷹島に上陸した後、日本軍が元軍の軍船を相当焼き払ったらしいけど
この見つかったのは台風でやられたやつか日本軍にやられたやつか
どっちだろう?
鷹島に近いし、日本軍にやられた奴じゃないこれ?

162 :
>>150
主戦場は博多の西、のちの福岡城のさらに西。
元軍は博多の町に到達できず。
今の赤坂、桜坂近辺は激戦地。
明治あたりまで蒙古の人魂が出ると言われていた場所。

163 :
赤坂、桜坂じゃどっちも福岡城周辺だし
>福岡城のさらに西 という記述と矛盾してるよ
そもそも当時福岡城ないけど
主戦場は西新、祖原周辺

164 :
から鳥飼、赤坂のあたりまで
いわゆる博多は含まれない

165 :
能古島に一旦停泊して上陸したと考えるなら姪浜・百道浜付近から来るのは地図見れば分かるし
取り敢えずの目標であろう大宰府へ向かうのに博多方面へ迂回する必要が無いからな

166 :
NHKで発見された元軍艦船の検証の話をやってるが、全滅しても構わない使い捨ての南宋兵を奴隷船まがいの船に乗せて遠征w
こりゃ勝てるわ。勝因は敵失大だな。

167 :
弘安の役で日本軍と交戦してたのはもっぱら蒙漢・高麗軍だけどね
南宋兵の江南軍は日本にたどり着いてからほとんど戦闘に参加しないまま台風を迎えてる

168 :
台風が来なければ南宋兵が、どれくらい活躍できたのかな。
というか、江南軍は日本に到着して、1か月近く何もしてないよね。
戦闘力でいえば、蒙古兵を多く含む東路軍の方が強そうだけど。

169 :
最近知ったんだけど、元寇防塁での戦闘は一回だけだったんだな。
なんか、日本軍が防塁で籠って防ぎながら台風が来たと思ってたから意外だ。
初回の防塁での戦闘以外は全部日本軍から攻めかかってる。

170 :
定期ほす

171 :
■国難は全て関東人が引き起こし、中四国九州が尻ぬぐいさせられている■
@1274年と1281年の蒙古来襲
→鎌倉に幕府
→関東の指導者が、軽率なことに、蒙古からの国書に返書せず、蒙古の使者を
 切り捨てるなどして、蒙古を怒らせたため発生。
→中四国九州の御家人が防衛に当たり、神風が吹き、国難を乗り越えた。
A1853年の黒船来航
→江戸に幕府
→関東の指導者が、鎖国を長引かせ、米国を怒らせたため発生。
→中四国九州出身の、元勲(薩長)が日本を救った。
B1945年の日本の敗戦
→東京に首都
→近衛文麿(東京出身)と東條英機(東京出身)という無能な首相が、日本を敗戦に導いた。
→中四国九州(広島と長崎)への原爆投下で降伏。日本の滅亡は回避された。
国難は全て、関東に政治中枢があった時代に発生しているが、「がめつい」と
よく言われる関西人は、保身を最優先させるため、大勢力のくせに貢献しない。
その結果、毎回、中四国九州が犠牲になっている。

172 :
>>171
■関東や関西に首都があると国難を招き、結局は中四国九州が犠牲になる■
歴史上の国難(元寇、黒船来航、太平洋戦争)は、全て、関東人の短気で、
喧嘩早く日本人らしくない性格によって、引き起こされている。
中四国九州では、国防への意識が比較的強いため、それが裏目に出て、
広島(軍都)と長崎(造船所)が、原爆攻撃された。
首相など有力政治家の輩出は、中四国九州に多く、関東や関西に少ない。
つまり関東や関西のような、政治的人材が不毛の地に政治の中枢が
置かれていると、国難を招き、結局最後は、中四国九州が犠牲になるのだ。
関東人や関西人は、普段は偉そうにしているが、いざという時、役に立たない。
首都は、中四国九州のどこかに、一日も早く遷都すべきだ。
歴代首相の人数
北海道 1
東北  4
関東 13
中部  9
関西  6
中国 16
四国  4
九州  9
合計 62
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5237.html

173 :
仮想敵国に首都近付けてどうすんだ
ヤマサクラでも蹂躙される想定なんだからあきらめろ

174 :
wikiでは赤坂の戦いで菊池武房が百騎ばかりで元軍主力を撃破したとあるけど、
たった百騎で三万以上の元軍を麁原山まで追い落とすなんてありえることなの?
「百騎」とは菊池の手勢のみで、その他の武士団も戦いに参加していたとか?
日本軍の急襲に驚いた元軍がひとまず戦線を後退させたというのも考えられるけど

175 :
侍が百騎でその配下の兵は数に入ってないんでしょ
三万以上ってのは元軍の総数で実際その戦いに参加した兵力がどれくらいかも分からないし

176 :
赤坂で元軍が戦って後退したのは間違いないが、元軍全軍が赤坂にいたわけではないのだろう。
元軍は赤坂で進軍を止めて、陣を布いている。全軍なら陣を布かず、一気に博多に攻めかかっても
おかしくなかった。
たぶん、上陸した先鋒隊が赤坂で陣を布いたところを菊池に蹴散らされて、上陸中の元軍と麁原で合流したんだろう。

177 :
それに赤坂で撃破されたのが元軍全軍なら、追撃する日本軍の前に
麁原で物々しく陣を張って待ち構える元軍の説明もつかなくなるしね。
敗走しながら陣を布くなんてできないからね。つまりは、赤坂で撃破された元軍
以外の元軍が存在した=赤坂で蹴散らされたのは元軍の全軍ではなかったということになる。

178 :
日本の記述で『百騎』とあるのは、馬上武士の数だけで、郎党の数は入れてない(明確に数えようがない)
とは言え、槍持ちなど最低でもその三倍は居たのは確実だ。
一方で元軍の場合、平均して20%は補給などの非戦闘要員。
途海兵力だったことを鑑みれば、戦闘員の数はもっと少なかったろう。

179 :
というか戦闘は各地で行われてたんちゃうん?

180 :
軍板住人的には棄民説ってどうなん?

181 :
個人的には威力偵察説も棄民説も杉山先生の
「偉大なモンゴル帝国がジャップ如きに負けるわけないニダ」
って言い訳にしか見えない。

182 :
どうみても戦略的戦術的に敗北してますがな

183 :
日本軍は元軍と違っ一騎打ちしかしなくて集団戦法をやらないし火薬も知らないから弱いという固定観念があるからな(丸きり嘘でもないが)
元軍が負けたのは軍事上以外の理由だと思ってしまうのも自然といえば自然か
てか「神風」という概念だって武士の活躍を認めたくない貴族が生んだ物だし

184 :
>>180
敗残兵処理が目的で軍事行動起こすだなんてアホな歴史学者にありがちな戯言だと思ってる。

185 :
余剰人員の処理とすれば台風こなくて無事?に敗走して帰還しちゃってたらどうすんだろ

186 :
ていうか台風ですら想定内だったってんなら、むしろもう少し時期ずらして来るよな

187 :
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1316863687/601-700
世界史板では
弘安の役は棄民が目的の南宋兵在庫処分セールだった
という見解で一致してるぞ。ぶったまげたわw

188 :
ただ、国家の鎮護護持に役立たない人員を投棄するって行動自体には合理性があるからなあ。
最近でも中越戦争はケ小平が対立する南方軍閥の力をぐために始めたって論もあるし、
日本でも徳川幕府が出来てすぐのころは浪人対策に苦慮してる。
明治初期の征韓論だってそういう面はあったし。

189 :
秀吉の朝鮮征伐とかな
まあそういう例があるからって元寇もそうだと言い切る気は無いが

190 :
>>187
世界史板住人なんて基本的に二十年くらい前のトンデモ本とかを
未だに有り難がってるアホばっかだから。
>>188
南宋滅亡〜弘安の役が僅か二年だからねえ。しかも大船団とあれだけの兵糧用意してるし。
南宋を滅ぼしたら余剰戦力の問題が生じたから急遽日本に棄民したと考えるより
南宋の次は日本を攻めるって計画が既に予定にあって
丁度滅ぼしたばかりの南宋の兵力を利用したって考えた方が自然だと思うな。
そもそも棄民説が正しいなら即座にフビライが一度は廃止した部署を復活させてまで
第三次遠征の計画を立て始めたって行動に矛盾が生じる。

191 :
世界史板のスレは見てないが
棄民目的の侵略といっても、わざと負け戦をさせて南宋兵をすというか、日本を植民地にして南宋人を日本に移すという発想はなかったんだろうか

192 :
経済的な面で見ても棄民説は妥当な説。
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1320895948/591-592

193 :
単純に
獲得した兵力を使って更に土地確保するのに失敗しただけじゃん
占領→そこの兵力で次の土地を占領

194 :
彼らに職をあたえ、歩兵とともに出征させ、沈めよう。
そう考えた人間がいても何ら不思議は無い。
もちろん、ソースなど無い。
しかし、状況から考えれば十分にありえる話であろうかと思う(`・ω・´)キリッ
         ____
        /_ノ  ヽ、_\
 ミ ミ ミ  o゚((●)) ((●))゚o      ミ ミ ミ   <だっておwww
/⌒)⌒)⌒. ::::::⌒(__人__)⌒:::\   /⌒)⌒)⌒)   
| / / /     |r┬-|    | (⌒)/ / / //       
| :::::::::::(⌒)    | |  |   /  ゝ  :::::::::::/      
|     ノ     | |  |   \  /  )  /
ヽ    /     `ー’´      ヽ /    /
 |    |   l||l 从人 l||l      l||l 从人 l||l  バンバン
 ヽ    -一””””~~``’ー?、   -一”””’ー-、
  ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) )  (⌒_(⌒)⌒)⌒))

195 :
いや、本当に棄民説が正しいと思えてきたぞ
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1320895948/595

196 :
>中統砂の代わりに5倍の価値を持つ至元砂を発行し、インフレを防いだ。
最初に>この兌換禁止は中統砂を暴落させた。
って言ってたよね防げてないじゃんもう完全に事後だよ事後
>ただ同然の万札で本来5万円の中統砂を5千円で買い戻し、さらに儲けた。
>ユダヤ顔負けの凄まじい商人であると思う。
インフレ起こしてデノミしただけで凄まじい商人であるってなにこの人

197 :
>>195
ちゃんと内容を理解して引用してるか?

198 :
なんか、結果論からMMRばりに強引に棄民目的に
結びつけてるだけの気がするのは俺がバカだからかな?
ていうか、元って弘安の役で南宋の兵力沢山失ったせいで
割と難儀するようになったんじゃなかったっけ?

199 :
ごちゃごちゃ抜かしてないで向こうのスレで反論してみろやネトウヨ

200 :
モンゴルが本気なら日本滅んでたな

201 :
棄民説が真実ならフビライは南宋兵がクーデター起こしたり
さっさと日本から撤退してあんま死ななかった場合の事とか考えてたのかな?
史実では鎌倉武士が無双してくれたおかげで元軍皆しだったけど
こんなワンサイドゲームになるケースなんて稀だし。

202 :
>>199
向こうのスレでネトウヨは完全論破されたからな

203 :
あと棄民説唱えてる杉山先生はモンゴルを残虐な民族扱いすんなみたいな事言ってるが
仮に棄民説が正しかったとしたら、フビライはわざと兵士と将軍死なせて
ウハウハな思いをしようとした最低の屑野郎って事になるよな

204 :
ていうか、敗残兵処理した結果が海防の低下を招いて
倭寇をはじめとする海域の治安悪化に繋がってるんだが
これもフビライの計画通りなのかえ?

205 :
>>202
ここがID出ないところで良かったな脳膜炎w

206 :
そんなんに巻き込まれて壊滅的被害受けた対馬悲惨だな
国内で難癖つけて処刑しとけよ
虐得意だろが

207 :
最近上がった物証だと、>>166のNHKのクローズアップ現代で取り上げてたとおり、元軍の船舶は
侵略目的の兵員輸送船とは思えないくらい、兵員を劣悪な環境に置いていたってのが判明しているが、
日本軍に負けなくても、往復の航海で元南宋の兵員は疫病その他の要因で全滅して、棄民の目的達成には
なったような気がする。
だから>>201のような心配は不要だったろうな。
後、帰順した兵士の処遇として、戦争で戦死のさせるのと、難癖をつけての処刑するのではどっちがマシかは
考えもの。処刑の場合、情報が行渡るからかえって反乱の芽になる可能性がある。
戦争で死んでくれれば情報も人間も政府以外には禄に入らない。

208 :
ソースはNHK(笑)

209 :
>>207
劣悪な環境になったのは上陸に失敗して何カ月も海上にとどまる事になったからなんだが

210 :
弘安の役はまず東路軍が各地で撃破される(この時点で本土上陸は絶望的)
その後、江南軍が平戸に到着し東路軍と合流し
再び本土への上陸を試みるんだけど
その際に松浦党はじめとする水軍に襲撃されて失敗
結局、鷹島や平戸島周辺の島々に布陣した状態で台風を迎えるわけだが
この時江南軍と東路軍が松浦党に襲われて上陸断念してから
台風がくるまでの間のおよそ1ヶ月くらい何の記録も無いんだよな。
一体日本も元も何してたんだろ?
>>207
最初からそんな劣悪な環境なら尚更指揮官ぶっしてクーデターなんて流れになると思うが。

211 :
同じ余剰兵力削減目的でも元寇棄民説なんかよりは
秀吉の唐入りは諸大名の軍事力を削減するためだった説のがまだ説得力あるよな。

212 :
てか棄民のために大量の船を建造するって金の無駄だろ
消耗させるだけなら陸路でベトナム方面に送りゃいい

213 :
>>209
それが船の構造が蚕棚に目一杯人員を詰め込む奴隷船型で、短期航海ならともかく、あれで日本まで海渡った後、陸兵として
交戦せよなんて要求出来そうにない代物だったんだがな。
>>210
水兵としての経験がある兵士が纏まって乗ってれば反乱もいいかもしれんが、航海術を身に付けた兵士が加わらなかったら
ただの洋上集団自になるぞ、それ。

214 :
敗戦するや否やマッカーサーに取り入り必死に命乞い。
「悪いのは東条らです〜!私は何も悪くありません〜!」と
天皇家の財産目録をちらつかせながらマッカーサーのケツ舐め舐め土下座。
「お助けいただけるんでしたら沖縄は25年でも50年でもいやそれ以上でも
 
どうぞご自由にお使いください〜!」と文字通りの売国提案。
世紀のクズ、売国奴。

215 :
その番組では「大軍を運ばなきゃいけないから」奴隷船の「ような」
寝床を作る必要があったの「かも」しれないとしか言ってないな。

216 :
>>213
船の寝台が蚕棚状って当たり前だろ今の客船だってそうだろうが
てか奴隷船には寝台なんてなくて貨物船の床に直寝か最悪ずっと立ちっぱなしだ
航海術を持ってないのは指揮してるモンゴル人のほうなんだが

217 :
棄民と言っても南宋兵が全員犬死することを期待してたわけではなく、日本を植民地にしてそこに厄介払いしようと思ってたんじゃないだろうか

218 :
それは単なる屯田兵だろ

219 :
>>217
明治政府の北海道開拓みたいなもんか?

220 :
というか満蒙開拓団みたいな

221 :
或いはアメリカの西部開拓時代みたいな?

222 :
ここにも来てたのか。棄民説。日本史板で散々論破されてるのに
と言うか2つスレがあるがどっちが本スレなんだ

223 :
>>195
見てきたけど、棄民説唱えてるのがネトウヨ連呼のおかしなヤツで袋だたきにあってたw

224 :
>>223
今度は「文永の役は黄金の噂を聞いて攻めたら日本が予想以上にショボくてやる気失せて帰った」なんて珍説唱えてるわw

225 :
それマジで言ってるなら頭が心配だな

226 :
よっぽど日本軍が弱かったことにしたいのか・・・

227 :
侵略し支配下に置いた旧敵国の軍隊を新たな侵略の尖兵として使うなんてのは古今東西どこでもやっていた
事なんだが。
自分らの正規軍は温存できるし旧敵国軍なら使い捨てて損耗しても惜しくないという面があるのはもちろんだ
ろうが、それを「棄民」などと呼ぶのは聞いた事がない。
明らかに、日本がモンゴルの侵略軍に完勝したという歴史的事実を認めたくないイデオロギー的に偏向した自
称「歴史学者」が「モンゴルが本気ではなかった」と主張するためにひねり出した珍妙な説。
それにしても「夜になったから『橋頭堡』放棄して船に戻った説」、「威力偵察説」、そして今度は「棄民説」か。
よくもここまで噴飯物のたわけた話を恥ずかしげも無く展開できるものだ。
しかもそれが「歴史学者」の学説として通用しちまうんだから救いようがないね。

228 :
まあ当時の船舶の技術水準で、日本みたいな人口密度の高い国を制圧できるほどの兵力を送るのは無理だよね

229 :
人口=そのまま国力となる時代なら尚更ね

230 :
渡海→上陸→占領なら古墳時代の日本でもやってるぞ
元が情けないだけ

231 :
>>227
杉山の本は図書館でパラパラと斜め読みした程度だけど
威力偵察説を唱えてる時点で軍事の知識はからっきしだと分かるな

232 :
威力偵察だったとしても、威力偵察で得られた情報を元に主力が侵攻して勝利できなかったんだから負けは負けだよねと

233 :
威力偵察なら敵が弱体なら一気に押し潰すだろ
「元軍は勝ったが威力偵察だから撤退した」
って意味分からん
威力偵察って何だか知らない奴の妄言だな

234 :
そもそも威力偵察というのは戦術レベルでやるものであり
文永の役は鎌倉側と戦闘した四万の軍の後ろに更に控えてた軍がいない以上
「威力偵察」という言葉は当てはまらない。
そもそもクドゥンと金の会話からしても、威力偵察をしたわけではないのは明らか。

235 :
左巻変更の「歴史学者」がいかに軍事知識皆無かがしれるよなw

236 :
本職と軍ヲタを除けば歴史学者に限らず大半の職業の人は軍事の知識無いと思う・・・

237 :
それは言い訳にならない
専門家でないにしても「威力偵察」なんて単語を使う前に
その意味を調べることくらいできたはずだよね

238 :
まあそれもそうだよな
しかし、戦後日本の「軍事は考えるだけでも悪」という風潮は根強い物があったしな・・・

239 :
最低限の軍事的常識すら無い奴に歴史を語る資格などないよ。
上陸し橋頭堡を築いた優勢な軍勢が、夜になったからといって折角築いた橋頭堡を捨てて船に戻る事
など「絶対に無い ! !」
こんなの軍事常識の基礎も基礎、ちょっと考えれば素人だって道理は判る。
それ以前に元や高麗といった相手方の資料を見れば、この辺の真相は一目瞭然に判る筈。
歴史学者を名乗る連中がその程度の事すらしていなかったのか、あるいは知っていながらあえて無視
していたのか。
いずれにしろこいつらに歴史学者を名乗る資格は無い。

240 :
歴史家が知るべきなのは戦争の目的や社会への影響であって戦術レベルの軍事知識は不要だろ
軍事知識がないのに軍事面から説明しようとする奴が馬鹿なのであって
おとなしく古文書を見比べたり遺跡を調べてる分には軍事の知識は必要ない

241 :
今の軍事知識は不要でも
調べる時代の軍事知識は必要だろ
昔の武器見て頓珍漢なこと言う羽目になるぞ

242 :
日本刀は飾りだった(キリッとかねw

243 :
歩兵はいつの時代も装備重量をどう削るか
行軍の負担をどう減らすか頭悩ませてるというのに

244 :
軍事知識が不要なんて馬鹿なこと言ってるから元寇や文禄・慶長の役の研究が
悲惨なことになってるんじゃないか。

245 :
Mスハーン時代の1223年に行われたカリカ河の戦いみたいなもんかね

246 :
あの時も直後のブルガル攻めに失敗したから撤退してるわけだからね。
何故か威力偵察厨の中にはカルカ河の戦い引き合いにだして
文永の役の撤退は予定通りとか抜かすアホがいるけど。

247 :
細かい戦闘の推移なんていわゆる歴史学者の調べる事じゃないし
もちろん武器や城塞を専門にしてるなら別だがほとんどの学者はそうじゃないだろ
戦術と戦略手段と目的の区別がついてないのはダメだが

248 :
>>247
歴史学者って歴史を調べることが仕事じゃないの?
戦闘の推移も歴史に含まれると思うけど
含まれないなら誰が担当するんだ?

249 :
というより、軍事的な知識が無いと事の真相がわからないような場面で
素人丸出しなてきとーな解釈して珍説抜かすことに問題があるわけでしょ。

250 :
>>248
それは軍事史専門の人間がやればよろしい
歴史学者が皆軍事に詳しくなる必要はない

251 :
>>250
それなら「歴史学者」は軍事的展開について語るな!!

252 :
人間の歴史ってのはイコール戦争の歴史なんだから、「歴史学者」なんてのは存在意義すら
ないことになっちまうな。

253 :
>>252
ちょっと軍事板に偏した歴史観かと…アナール学派以降、歴史≒政治史の構造も、民俗・経済・気象などとの学際的研究で変貌してますし
(時代区分・意識での重要性は否定しません、出来ませんが)
元寇と離れた話題ですが

254 :
>>253
此処は「元寇スレ」ですからね。
「元寇」=「モンゴル帝国の対日軍事行動」を語るのに最低限の軍事常識すら無くて語れるわけはないし、
それすら無い「歴史学者」は元寇、特に蒙古側の戦略や戦術についてなど決して語るべきではない。
それが無いから「夜になったから船に戻った説」だの「威力偵察説」だの「棄民説」だのといった噴飯物の
妄想説が「歴史学者」の唱える学説として恥ずかしげも無く展開されるんですよ。

255 :
本来は軍事史的判断からの突っ込みが入って学説が修正されていくべきだけど
日本ではそれがないのが問題かねえ

256 :
>>254
だね
だから左巻きは馬鹿だと言われるんだw

257 :
欧米の大学には、軍事学だの戦史だのがちゃんとあるけれど、日本だと防衛大学でしか扱わない。
そして防衛大学で教える軍事史は、どうしても現代の戦争に影響を与えた、近年のものに成らざるを得ない。
よって日本の歴史学者の考察は、戦国時代であっても、戦闘以外も含めた包括的なものになってしまう。
そもそも日本の合戦は、ハンニバルやナポレオンのような、戦術・戦闘にだけ注目していては語れない。
大抵は政治・経済や謀略といった背景が一体となって絡んでくる。

258 :
戦前の参謀本部が一応昔の日本の戦史をまとめてたようだが適当だったらしいな

259 :
元寇の場合は普通に戦って勝ちましたって感じで
特に戦術的に語る部分は無いからな。

260 :
“普通に”ではない。
「こんな時こそ、まずお家が大事」と引きこもった者もいれば、領主が元軍を迎え討ちに出かけた隙に、手薄になったと火事場泥棒に攻め込んだ馬鹿者さえ居た。
そんな足の引っ張り合いをしててよく勝てたと、むしろ誉めて良いくらいだよ。

261 :
確かに、帰属意識が家単位で国家意識や民族意識なんて存在しなかった時代に、よく対外戦争に勝てたよなと

262 :
鎌倉幕府が九州の御家人達への支配力を強めるのはむしろ元寇終わった後だしな

263 :
元が切り崩し・取り込み工作をしてから攻めてきたら危なかった?

264 :
武力侵攻よりも政治的な取り込み策をやった方が良かったかもね
中共が台湾にやってるみたいな

265 :
>>263
それをやらなかったから元は本気じゃなかった(キリッ
って言う人もたまにいるお。

266 :
でも実際取り込むには接点がなさすぎて難しいかな

267 :
そもそも国交がなかったみたいだからねぇ

268 :
そもそも社会基盤のシステムがあまりに違いすぎて取り込むとかまず無理。
仮に取り込んだとしても名越のクーデターや二月騒動の
時宗の対応の早さ見ると、速攻で鎮圧されて終わりだと思う。
それより、日本史板に自称「ネトウヨニートと違って仕事が忙しい」棄民君が帰ってきたようだw

269 :
そういうけど、結局棄民君とやらに反論できずに
レッテル貼りとトンJンな論点逸らしするばかりじゃないか

270 :
こっちはオチスレ状態だから
棄民説の主戦場は日本史板
【文永】元寇【弘安の役】
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1320895948/

271 :
うん、だから向こうのスレでは論点逸らしとレッテル貼りばかりでまるで反論出来てないじゃないか

272 :
じゃあ棄民が正しいってことで

273 :
ド田舎でやる気無くした説と威力偵察くんはまず船の中でのクドゥンと金のやり取りを
棄民君は弘安の役の後フビライがすぐさま第三次遠征の指示を送り
最晩年まで日本遠征に拘り続けた理由と
弘安の役後に貴重な水軍失ったせいで海防上での治安が悪化した件と
貴重な水軍失ったせいでベトナムのチャンパを海路から攻めるのに失敗して
北ベトナムの陳朝にまで独立される遠因作った件について反論して貰わないとな。

274 :
平行してやっても意味無いからオチに留めて必要ならあっちに移動で

275 :
う〜む。
このスレを読んでいると、どうやっても
「元軍は新型兵器と完成度の高い布陣と攻撃方法で、古臭い日本の武士を戮」
             ↓
「日本の武士団は蹂躙されて風前の灯」
             ↓
「そこに台風の時機到来。圧勝だった元軍は全滅し、いきなり日本の勝利となりました。」
という構図は見えてこない。
なぜだ。
どうやったら、上記のような説になるのか。どのように資料を解釈すれば、上記の説が正しいと立証できるのだろうか。
実際は日本の武士団は、元軍相手に善戦しており、手こずった元軍が退却したというのが真実ならば
一体何故に上記のような説が主流とされているのか?

276 :
>>275
戦前まで「神風」が信仰されてたからじゃね?

277 :
日本側の史料は八幡蒙古記のみを全て真実だとして捉えて
蒙古襲来絵詞や福田文書などは全て恩賞目当てに嘘八百でっち上げたものとして
高麗伝の壱岐や対馬での戦闘記録を九州本土の烏飼潟での戦闘記録として読み
元史での前後の文脈無視して之を破るや四方を略奪して帰るの文字だけを読んで
武士達は当時は名乗りをあげて一騎打ちをしてたと盲目的に信じ込んで
大鎧や日本刀や和弓や当時の馬の知識が一切無い状態で尚且つ
当時の日本は世界的に見て生産力も人口も少なく特産品も何も無い
攻める価値すら湧かない小さなド田舎国家という偏見を持った上で
歴史を解釈すれば何ら問題なく教科書通りの説に行き着くよ。

278 :
>>275
何でって、
・防衛戦なので武士に恩賞を用意できなかった当時の幕府
・自分らの祈願のおかげで神風が吹いたということにしたかった朝廷
・そういう神話に弱かった当時の民衆
・とりあえず日本をdisりたかった戦後左翼
のみなさんの提供でお送りしました

279 :
>267
その接点を求めて使者を送ったら斬りされたんだよっ!
だいたい南宋を孤立化させようと、絡め手から攻めたのに、そっちに注力したんじゃ本末転倒だい……かと言って放っといても沽券にかかわるし。
くっそぉ〜何でこう、日本人って空気が読めないかな? 朝貢国の一員になれば、ヨーロッパからアラブにまで跨る世界帝国の一員として、貿易でウハウハだったのに。

280 :
なにもこの手の「日本の軍隊は弱い」って論調に持っていこうとするのは
「元寇」だけに限らないよね。
「文禄・慶長の役」なんて、対して戦局に影響を与えなかった「朝鮮水軍」なんかが
異様なほど持ち上げられているし(教科書にも載ってる)。
特に慶長の役なんて作戦目標を史実の「全羅道・忠清道の明・朝鮮軍の撃滅(達成)」から「朝鮮半島南部の
占領」が目標と捏造してまで、日本側の作戦目標を失敗させたという印象を持たせようとしてる。
結局、慶長の役は秀吉の死によって終焉を迎えたわけだが、教科書なんかでは日本軍が苦戦したから失敗した
みたいなことが書かれているが、実際は1月に蔚山城の戦いで日本軍が大勝してから秀吉の死の8月まで戦闘らしい
戦闘もなく、日本軍の大半が日本本土で帰還し休養して、次の作戦に備えていた。
「日本の軍隊は弱い」って論調をつくりあげるために、無垢な子供たちにこういう洗脳教育を推し進めようとする
歴史学者には本当に怒りしか湧かないよ。

281 :
李舜臣を実態以上に持ち上げたのは朝鮮人じゃなくて日本海軍だったりする
陸主海従だった時代に海軍力の重要性を訴えるためだが
「神風」という概念も元々は公家が武士の活躍を認めたくなくて持ち出したものだし、戦前は皇国史観的な文脈で重視されていた
なんか戦前日本を必至で否定してる立場の左翼って一般人以上に戦前の呪縛から逃れられて無い気がするw

282 :
>>280
スレチを承知でつっこむが蔚山戦役の後にも三路の戦いとか起こってるぞ

283 :
>>282
三路は秀吉が死んでからだよ。

284 :
>>282
訂正
三路は秀吉が死んだ後だよ。

285 :
>>281
そりゃ最前線に立ってる人間がいくら頑張っても上に立つボンクラ共のせいで全て台無し
っていう根本的な部分が太平洋戦争中と今のブサヨ政治家が蔓延る世の中とでまるで変わってませんし。
鎌倉幕府の時宗さん達はそんなボンクラ共と違って凄く優秀だったのに。

286 :
>>278
弘安の役では実際に台風が来て元軍に損害を与えているし
宗教的権威に対しては武人も一般人と同じかむしろより弱いくらいだったでしょ

287 :
台風来るのおせーよ

288 :
江南軍の上陸作戦直前に来たんだからタイミングは完璧だろ

289 :
江南軍と合流してから台風来るまでのちょっとの間、上陸を試みて失敗してなかったか?

290 :
江南軍と東路軍の鷹島上陸作戦成功直後に台風が来たんだから、タイミング的には
遅いよ。
おかげで元軍10万以上の兵士は、台風後にも鷹島にいたんだから。

291 :
蒙古襲来絵詞を見てみると、元軍が用意した盾を和弓から放たれた矢が貫通してる。
大陸では盾として有効だったかもれないが、和弓では防げなかったところをみると
やっぱり、通説の「先進的な蒙古軍に圧倒された武士団」というのは有り得ないね。

292 :
そんなこと言うとまた誇張ガー捏造ガーって騒ぐバカが湧くよw

293 :
>>273
今度は人口と国力の相関関係否定し始めましたよ彼。

294 :
NHK大河ドラマの北条時宗。あの文永の役・弘安の役の描かれ方はどうなのだろうか?

295 :
>>294
まず、戦闘場所からしておかしいよね。
史実の文永では博多の町で戦闘が行われたことなんてなかったけど、なぜか博多の町で
戦闘してるし、左副元帥劉復亨がなぜか博多の町に面した海岸で射倒されてるし。
弘安の役なんて、実際は存在しない石築地で戦闘やっちゃってる上に、史実の志賀島の戦いや
壱岐島の戦い、鷹島の戦いはなかったことになってるし。

296 :
まあ赤マフラーとか台風にあった元軍助ける鎌倉武士とかに比べりゃ大したミスじゃないさw

297 :
あのドラマのてつはうは脅威の威力だったな

298 :
全く時代考証も考えられずに製作した適当な演出だったという事?

299 :
大河は人間ドラマ優先で考証適当なのはいつもの事

300 :
家や職場の近所(福岡市中央区大濠と赤坂・警固)でマンションを建設してると
5〜8m地下から結構な人骨が出てきたんだそうだ。
警察に通報すると、警察と歴史資料館の調査が終わるまで
下手をすると一年以上工事が止まるので、骨に日本酒ぶっかけて手を合わせて
そのまま工事を続けたんだそうな。
元寇の頃のもんかねぇ?

301 :
の抗争じゃないのか?

302 :
元寇の頃の人骨だったのかもね。

303 :
法を改正しないと遺跡や事件が闇に葬られる一方だな

304 :
俺の土地では中世の石垣(城跡)が見つかって史跡指定されて、
開発もなにも出来なくなったからな。
法満山とその周辺の山持ちです。

305 :
ウィキペの元寇の記事もかつてに比べて大分充実してきたな。
一騎打ちはやってなかったということにもちゃんと言及してるし。
でも結局の所、どの史料でも武将側の完全勝利としてる弘安の役は兎も角
文永の役は各史料によって食い違いがあってよくわからんな。
蒙古襲来絵詞、福田文書などをはじめとする実際に参戦した武士当人達の記録
→赤坂および烏飼潟の戦いで特に苦戦もなく元軍を撃破。
日蓮や八幡蒙古記など宗教関連の書物
→武士側の完全敗北。八幡蒙古記はかなり詳細な戦闘経過を書いてる。
高麗史→高麗軍の活躍ぶりを記述。但しメインは対馬と壱岐での戦闘で九州の戦闘には殆ど触れず。
元史→武士達を破るも「官制が整わず矢が尽き」かなり切羽詰まった内容の軍議の末撤退。

306 :
>>305
あっという間に矢が尽き制が整わない(統制を失った?)って、大ピンチじゃない?
「いやあ、矢のストック全部海に落としちゃいまして…てへ♪」
なんて愉快な事故でもあったならともかく、そうでないなら
「何でも良いから全員逃げろ!!」クラスの大敗を喫した、あるいはそれに匹敵する
障害にぶち当たったとしか…

307 :
そこで威力偵察説の出番ですよ!

308 :
威力偵察説でも「制整わず」は不味いんじゃ?
用意した矢(≒予定していた継戦能力)を使い果たしても上陸したかどうかで
部下たちはパニック状態ですじゃ、帰ってできる報告は「日本強すぎ」だけだろうし。

309 :
対馬と壱岐で調子こいて虐やってたら
矢を使い果たしちゃいました(>ω・)てへぺろ☆

310 :
文永の役で蒙古軍が動員した兵は6万5千くらい。適当に弓兵は半分としても3万2500人。
一人10本撃ったら、それだけで30万本を超える矢が消費されるのか。

311 :
実質的な戦闘員は蒙漢人が二万五千と高麗人が五千だったはず

312 :
矢が一本100グラムとしても、1万本なら1トンの荷物になる。
30万本なら30トン、相当な大荷物だ。しかもググってみたら、モンゴル弓兵は60本くらいの矢を携帯するとのこと。
>>311氏のおっしゃる人数で蒙漢人の半数が弓兵、残りが槍兵とかとしても12500人の弓兵に60本の矢を支給するには、
75トンの矢を準備しておかねばならない。しかもこれが、下手したら1回の戦闘で消費される。
「矢が尽きる」のはむしろ当然かも知れない。

313 :
大陸でのモンゴル軍の主力は言わずとしれた弓騎兵だが
どうやって矢を補給していたのか。
騎馬隊の後からついていく家族が現地の資材で作ってたのか?

314 :
待て。現代弓道の矢の重さは概ね20〜30グラムだぞ。いくら戦闘用でも
100gは重くないか? と言うことで25グラムで計算すると>>312の1/3になるから
1回の戦闘で消費する矢の重量は25トン……十二分に多いな。

315 :
御免。1/4で18.75トンだ。

316 :
船なら重さは大した問題にならなそうだが
携行していた矢だけのことに思えてならない

317 :
現代弓道の矢は競技用だからね。
戦国時代の矢は70gくらいあったし、イングランドのロングボウ部隊が
使ってた矢もそれくらいあったのを考えると約60トンの矢が必要だな。
文永の役で元の艦隊は900隻とされてるから一隻辺り66kgの矢を積んでた計算になるな。
仮にこの数字の2〜3倍の数の矢を積んだとしても
船一隻辺り2〜3人増える程度の重量だから十分運べると思うぞ

318 :
>>317
逆に考えると侵攻軍は「60トン×補給までの想定戦闘回数」の矢を持参する必要があると。
文永の役でモンゴル軍が戦闘したのは4〜5回で良いのかな?それで矢が尽きた、かつ、輸送力の問題で
「それ以上持って来られなかった」ではないとしたら、蒙古軍は4〜5回の戦闘で日本を征服するか
最低でも現地で矢を作れる程度の橋頭堡を確保できるという見通しでいたのか? ちょっと見通し甘すぎない?

319 :
東夷の蛮族と思って舐めていたとしか

320 :
威力偵察目的だったんなら尚更、対馬や壱岐で道草食ってる場合じゃねえだろうしなあ。

321 :
そもそも本当に一人当たり60本の矢を
「1日の戦闘で」使い果たすなんて事あんのかな?

322 :
おそらくそこまでの全力戦闘をやらかしたのは、九州上陸以降のみだろうと思う。
例えば対馬での日本側兵力は百余騎というから、1000人を超えることはないだろう。
それに対して数十万本の矢を消費したとは考えにくい。
だが、そう考えると「持参した矢が少なすぎないか?」という問題はさらに増す。全力戦闘
2〜3回で九州を落とせると考えていたのか?

323 :
数会戦で玄界灘周りを落として半島からドシドシ輸送って事で良いんでない?

324 :
>>322
当初の元軍の目標は太宰府だったから多分そこまで落として
拠点を確保した後、高麗から随時補給を受ける予定だったんじゃ?

325 :
ところで日本人と朝鮮人以外の(歴史を知ってる)人はどう思ってるの?
モンゴル帝国やKAMIKAZEの知名度はバカにできないと思うんだが

326 :
ベトナムに観光旅行に行ったとき、ガイドさんから
「日本人はモンゴルに勝つため神の力を借りたが、ベトナム人は人間の力だけでやり遂げた」
と言われたな。

327 :
>>325
日本側が実力で勝利したことを理解してる人と
神風神話に騙されてるバカが半分ずつって感じだな。

328 :
>>322
正直、赤坂や烏飼潟の戦いですら小競り合いくらいの印象しかないんだよなあ。
そもそもこの一連の九州の戦闘はどっちが勝ったのかすら結局わからないし。

329 :
>>328
そうなると「矢が尽きた」という記述自体を疑わねばならないかな。
太宰府まで進軍するつもりで準備したけど、小競り合い3〜4回やったら
撃ち尽くしましたじゃ、あまりにも間抜けだ。

330 :
撤退の責任を回避するための嘘かもしれないよね
近代だって弾がなくなったら
「よく戦った撤退や降伏しても仕方ない」
ってことになる慣例があるわけで。

331 :
侵略側が撤退して目標達成できて無いんだから元側の負けでしょ?
個々の戦闘を見ても文永では上陸後の進軍を阻まれて、更に上陸後の陣地まで撤退するハメになってる。
2万以上を率いてて3人の元帥のうち一人が負傷する程の敗戦を小競り合いとは言えないんじゃない?
弘安なんかは軍船は夜明けまで夜襲を受けてるし、その後は陸と海から攻められて占領した島を放棄してる。
その後も島に攻め入られては苦戦して放棄したあげく、台風を受けて兵を見捨てて逃げ出してる。
見捨てられた兵も全滅させられてるし、どれも小競り合いとは言えない

332 :
>>330
矢は足りていたのに負けたのだとしたら、日本側兵力がよほど多かったのかなぁ
元史では日本側兵力を10万と書いてるが、これまた敗戦の言い訳のために水増しした可能性があるな
文永の役での元軍は、水夫とかを除いた戦闘員が2万強だから、日本側に3倍の6万とか居れば余裕で撃破できたと思うが(兵員の質はほぼ同等として)
確か当時の日本の人口が600万かそこらだったと思うからまあ無理な数字ではないか(近代戦みたいに国民を根こそぎ動員できる体制だったのかは知らんが)
承久の乱での動員兵力はもっと多いみたいだし

333 :
元の指揮官は、
「こいつら撃破しても、次の戦闘に耐える物資はない。なら、今戦っても損害を受けるだけ無駄」
と判断したのでは? 船に(物理的には)積んである矢も(戦略的には)尽きたも同然と。

334 :
侍と郎党しか動員できないよ
一回目は西国の武士だけだったし

335 :
今日本史板のスレみたらパフォーマンスコンクールなる言葉が出てたが
軍事用語でこんな言葉聞いたことないぞよ。
>>332
総大将の少弐の手勢ですら500騎で
他の菊池、白石、福田といった主な将達の手勢が100騎程度
(竹崎に至っては主従僅か5騎)だから1騎=従者含めて5人としても
日本側はどう多めに見積もっても5000〜8000程度にしかならないと思う。
鎌倉に蒙古襲来の報が伝わったのは、元が撤退した後だし。
弘安の時は鎌倉から北条の一門も現地に派遣されてたし
かなり前から元軍が攻めてくる情報を手に入れてたから
それなりの規模(数万程度?)は参戦してると思うけどね。

336 :
そりゃ軍事用語じゃないだろ

337 :
鎌倉側が「楽勝!」と感じていたら
次に備えて、水際防御を強化したりしないのでは?
モンゴル側が「矢さえあれば楽勝!」と感じていたら
次回侵略時に増員などしないのでは?

338 :
そりゃまあ双方共に被害を出したのは確かだわな。

339 :
楽勝で叩きのめした相手が再挑戦してくると言う情報を得たとき
「あいつら相手なら楽勝」と侮るのは間抜けな指揮官。
「惨敗したにも関わらず来る以上、対策を整えてくるはず」と考えて
さらに相手の上を行く対策を整えるのが真面目な指揮官。

340 :
一度目が勝てたからって、相当な無能集団じゃない限り次に備えないって事は無いだろう。
警戒して防壁築くのも増援呼ぶのも当然じゃない?

341 :
東部ヨーロッパまで脅かした元軍が、相当な痛手を被った〜惨敗したとは
武士団の戦力、個々の戦闘力は相当に高いレベルにあったという事でよろしいか。

342 :
さすがに海バリアが無ければ併合されてたと思う
元軍が馬を持ち込めなかったから勝てた

343 :
海上輸送力の低さ、山がちな地形あたりが日本の勝因だろう

344 :
1241年のバトゥの征西軍が1274年に襲ってきたわけじゃない

345 :
陸路でつながってたら文永の役・弘安の役と分かれずにだらだら増援が来て押し切られてた可能性あるな

346 :
しかし元寇の頃の海上輸送力を基準に「着上陸侵攻なんて無理だから陸自不要」とか言う人が多くて困ったもんだ

347 :
そもそも仮に陸続きなら、日本はもっと大陸風な文化になってたわけで
その場合、武士という職業軍人の階級が生まれたかどうかすら怪しい。

348 :
>>342
元軍って騎兵中心なんですか?

349 :
>>348
モンゴルがどういう国か調べるところから初めようか

350 :
>>342
馬持ち込んでも機動できるスペースを確保できなければ
死ぬだけだよ

351 :
>>349
元王朝の話ですが?もう一度聞きますが元軍って騎兵中心なんですか?

352 :
>>351
征服王朝だから一応本国ではモンゴル騎兵が主力かな?
日本に攻めてきた連中は寄せ集めもいいところ

353 :
こんな過疎スレで釣りですかw

354 :
釣りっぽいね。

355 :
全員馬名人な遊牧民騎兵ってどれくらいの数居たの?

356 :
>>353
日本史板には釣りだかガチだかわかんねえ奴が何人かいるぞw

357 :
パフォーマンスコンクールさんは釣りか本気かよくわからん。

358 :
彼をはじめ大方は多分釣りじゃなくてガチだと思う。
わざわざ釣り目的で、深夜だの昼過ぎだのにあんな
長文レスを何レスにも渡ってするとか正気の沙汰と思えない。

359 :
>>339, >>340 どの
じゃあ何で最初の襲来の前に準備しておかなかったのか?
事前には、国内事情がいろいろあっただろうが、
事後には、次に備える事が出来た訳でありまする。

360 :
確かにコンクールさんの文量は物凄いな。
あれだけ書かれても説得力がないから困るけどw

361 :
>>359
だって国書無視しただけであんな大軍で攻めてくるとか思わなかったですしお寿司。
実際、一回目の時は対馬から命からがら逃げ延びた
住人たちの報告で初めて元が攻めてきたことを知って
急遽太宰府に徴収かけてるような状況だったからね。
鎌倉に元が攻めてきた知らせが届いたのは元が引き上げた後だったしw
武士側が文永の役で学んだ教訓は、元側の戦術や装備よりも
むしろ、異国警護番役をはじめ有事に備えていち早く
軍を集めて迎え撃つ体制を整えることの重要さだったていう。

362 :
そりゃあ外交使節を切り捨てればモンゴルだって怒髪天突くだろう。
攻めて来るのも当たり前。

363 :
文永の役前に使者切り捨て?一体何のことですだそりゃ?

364 :
弘安の役に関して言えば、使者を斬って挑発してなければ、準備期間を十分取った上で攻めてこられて困ったかもね
そしたら台風の時期も外れるし

365 :
そうだね弘安の役はすぐ台風が来て終わったからね。

366 :
すぐと言っても台風来るまで2ヶ月近く戦ってるけどな

367 :
冬の日本海渡ろうぜー

368 :
文永にしろ、弘安にしろ、対馬と壱岐が悲惨な事になったのだけは事実なんだな?

369 :
>>366
文永の役での見切りの早さに比べ、弘安の役ではよくぞ2ヶ月も粘ったものだ。

370 :
>>357
史料をよく読み込んでるのはいいが、そっから先が独自解釈過ぎるんだよな。
一体「誰かが突撃してる間他は見てるだけ」とかどっからそんな発想出てきたんだか。

371 :
「てつはう」は、元寇以後日本の戦場でも導入されたのかな?
調達は輸入に頼るだろうが。

372 :
鉄砲伝来まで日本では火薬兵器は使われてないんでね?
俺が知らないだけかも知れんが

373 :
応仁の乱や応永の乱の時には、
銅銃は使用されていたはずだが?

374 :
石火矢

375 :
種子島への鉄砲伝来以前から、手銃などが細々と流入していたらしい。

376 :
>>370
不定期に出てきては支離滅裂な自説を並び立ててくれる。
なまじ史料を引用して長レスするから一見正しいことを言ってるかのように錯覚してしまう

377 :
というか、武士の戦い方は一部隊だけが突っ込んで
他は証人として全員見てるだけというコンクールパフォーマンスとやらが本当なら
当時の合戦の主流だった楯突戦なんてわざわざする必要が無いんじゃ・・・。

378 :
弘安の役は気象を利用した遅延戦術をしてたわけだから神風ではないだろう、本当のところは。

379 :
手榴弾的な投擲爆弾兵器が戦国時代に使われたやつでは、石山戦争で本願寺側に付いた
毛利軍の村上水軍が織田信長の水軍を一度は壊滅させた兵器の一つの炮烙火矢が
手榴弾的な爆弾兵器の日本での使用例だけどね。
織田信長軍が大砲付き戦艦を持ってくるまで優位を誇ったが。

380 :
>>379
>手榴弾的な爆弾兵器
擲弾みたいなやつか

381 :
>>378
そもそも台風くる以前に攻め倦ねて洋上をプカプカしてたんだから
どっちにしろ、敗退は時間の問題だったでしょ。

382 :
最近、元寇関連の記事見てると凄いな。
電波飛ばしまくってるブログがいっぱいあるわあるわ。

383 :
>>382
比較的新しいところでも電波だったりするの?

384 :
>>382
フビライは通交を求めただけなのに日本の対応のせいで戦争になった云々
威力偵察、棄民、フビライは日本なんて眼中無い云々
アジアの人達のおかげで日本は救われた、元軍の実態は寄せ集め云々
などなど色々あるな。
日本の元に対する対応は別に当時の基準では非常識でも何でもない
というか一回攻められるまでは、使者を丁重におもてなしした上で
国にお帰り頂いてるんだからむしろ紳士的なくらい。
威力偵察と棄民と眼中に無い云々は元史や高麗伝読めばそんな発想はまず出てこない。
アジアの人達の反抗云々に関しては
南宋の攻略に手こずったのが二回目の侵攻を遅らせたというならまだわかるが
ベトナムへの侵攻が始まったのは文永どころか弘安より更に後の出来事だし
三別抄なんて殆ど瞬レベルの出来事。
元軍は寄せ集め云々というが、そもそも文永での高麗人の比率は低いし
弘安ではその寄せ集めとやらの南宋人とは殆ど戦闘していない。
この手のブログは「一部の史料を恣意的に取り上げたネトウヨが云々」
言うくせに自分達は一次史料を一切提示せずに、勝手な妄想や
軍事音痴な三流大の教授が書いたトンデモ歴史本をソースにしてる奴が殆ど。
実に困ったもんだ。

385 :
>>383
俺が最近見た所だと
「文永の役は高麗の国力と軍事力を削るため。そんな事情を無視して日本側視点でしか見ないからネトウヨは困る」
みたいな珍説書いてるサイトを見たわ。
もし本当に高麗の軍事力削るのが目的なら
金が「背水の陣の故事にならって頑張ろうぜ。先陣は俺がやる。」
って言った時点でクドゥンは引き止めずに「どうぞどうぞ。」ってやる筈だよなw
ましてや高麗の王様は日本攻めるのにやる気満々やったやんけとw

386 :
ツイッターとかブログとかって電波飛ばす為にあるんじゃん

387 :
それ言い出したら2ちゃんはどないなんねんって話だがw

388 :
ネトウヨが〜とか言ってるあたりその人らも最初は2chで電波飛ばしてたんじゃね

389 :
元寇スレは数年前からコンクールくんと棄民くんが住み着いて電波飛ばしてるよ。
コンクールくんは元々は威力偵察くんだったんだけど
威力偵察説がほぼ否定されたし、文永の役で元軍が予想以上に苦戦してたのが
明らかになったから今度はコンクールパフォーマンスなる珍説で
武士たちが一騎打ちとは違うがやはり稚拙な戦い方をしていたと主張したいようだ。

390 :
コンクールさんの説に従うならそんな戦い方をしていた武士たちに
蹴散らされた元軍って何って話だけどね。

391 :
コンクールさんによると蹴散らされたのは日本側らしい。ソースは八幡蒙古記。

392 :
てことは楽勝過ぎて面白くないから帰ったのかな元軍は

393 :
あの史料の珍妙な解釈の仕方は鈴木眞哉に通じるものがあるな。

394 :
しかし文永の役において、元軍は「お前本当に日本攻め落とすための軍か?」と
問い詰めたくなるくらい短期間で戦闘能力を失って(原因は保留)撤退したんだろ?
どう整合するんだ?
案1 日本側が信じられないほど稚拙な戦い方をしても撃退できるほど元軍が弱かった
案2 日本征服の為の戦力全部、九州上陸戦で使い切ってしまった。この場合、九州では
   一日に百万本の矢を放つような、とんでもない大攻勢が見られたはず。
案3 九州上陸の時点で、日本軍以外の要因によって戦闘力を大きく失っていた。この要因としては
   物資が海に沈んでしまった、食糧が腐った、疫病が発生したなどが考えられる。
案4 元が投入した兵力は、これまで考えられてきたものより、かなり小さい。

395 :
元側は本当は先に南宋を落してから十分な兵力を持って日本に侵攻したかったのだが、
高麗が元をせかして兵力不足ながら高麗兵中心で侵攻したんじゃなかったっけ?

396 :
>>394
案X 元軍の戦い方は広大な後背地を利用した機動戦術がメインだったが
海上から橋頭堡確保→戦線を押し広げるというやり方は不得手だった
というのはどうだ?

397 :
単純に日本の国力を読み違えていたんだろ

398 :
>>395
文永の役の編成は四万のうち
蒙漢人(詳細は不明だが華北の混成軍ぽい)が二万六千と
高麗軍が九千人で残りが水夫及び非戦闘員って高麗史に書かれてたから
別に高麗人が中心ってわけでもないお。
>>397
四万って数は他の地域への侵攻軍と比べても決して少なくはないけどね。

399 :
やっぱり当時の航海水準じゃ継続的な補給活動を期待できなかったのが敗因かねぇ

400 :
補給程度じゃどうにもならんだろう
同規模の増援を第三波、第四波、第五波ってどんどん追加していけるくらいじゃないと

401 :
>>398
だが「兵4万と船900艘を与える。日本征服の先遣隊として太宰府を落とし、橋頭堡とせよ」と
命じられて、「兵が足りません」などの文句を言わずに、行ってきますと言う度胸有る?
やはり出発時点では日本を侮っていたんじゃないか? 九州まで来た時点で
「俺の聞いてた日本と違う」と気が付いて、この戦力じゃ無理だと撤退を決意したと。

402 :
>>397
こういうことだな
http://www.youtube.com/watch?v=0t71cexWzvM&

403 :
>>398
じゃあ4万で日本征服できるかと言うとできないだろ
問題は他の地域に何万送ったかではなく相手の能力に応じて必要な数を送ったでしょ
対南宋戦では一か所での戦闘で10万(最大で20万越え)とか動員してるし
中央アジアとかロシアみたいな過疎地を征服するならともかく農耕地帯を征服するのに
全軍合わせて四万というのはそんなに多いほうかね

404 :
4万で日本全土を占領できるとは思ってなかっただろうが、北九州ぐらいは占領できると思ってたんじゃないだろうか
着上陸戦闘の要領がまるで分かってなかったのか、単にナメてたのか

405 :
文永は征服というより小国に対して服属を強いる示威行動のつもりだったんじゃないの?

406 :
クドゥンの小堅は云々ってやり取り見てると
やっぱし日本側の兵力を過小評価してた部分はあるんじゃない?
文永の役の前の使者は結局太宰府周辺の情報しか持ち帰れ無かったからね。
示威行為や懲罰目的というとやや語弊があるが、元は当初は九州北部を武力制圧した上で
日本を半ば従属させて有利な交易関係を結ぶつもりだったんじゃない?

407 :
弘安はまさに防御戦の様相だったしな。
石塁で防御線を張る日本軍と攻撃する元軍とで。
仮に元軍が使った陣天雷(手投げ爆弾兵器)を石塁破壊や防御線を張る
日本軍への手榴弾的な攻撃兵器に使ったり、火砲や銃的な兵器を持ち込んだら
それこそ文永以上にピンチになったはずだ。
もっとも弘安の日本攻撃兵団がモンゴル軍とは言え大半が南宋軍と高麗軍で
モンゴル系は指揮官や将校クラスのわずかなもんだった。
金を滅ぼすでさえ苦戦していた。

408 :
>>407
石塁での戦闘というのは具体的にどの程度行われたんだ?
史料ではどうなっている?

409 :
>>405
侵攻規模の小ささから見るとそれもありえそうではあるが、元側の記録にある軍議の内容を見る限りはもっと切迫した状況で撤退したようだがなぁ
服属を強いる示威行動なら、「このぐらい暴れとけばもういいだろ」と適当なところで引き上げるだろう
それに結局のところ服属させられなかったんだから、戦略目的の未達成という点では変わらないわけで
むしろ、なまじ日本に衝撃を与えて次の侵攻への備えや動員をさせちゃったんだから文永は完全に失敗だったと思うがなぁ
弘安の役の時の陣容で、文永の時みたいに日本側の備えが十分でない状態で侵攻してたら勝てたかも知れんが

410 :
>>407
当時の火薬兵器は威嚇以上のものじゃないだろ
モンゴル軍は投石機を使ってたが、
橋頭堡を築けるか築けないかという状況で
投石機を揚陸して使い物になるかどうか・・・
というか当時の投石機って城にぶつかってから、
現地の資材で作るものだったような

411 :
そういやトレバシェット持ち込んで無かったから元は本気じゃなかった説もあるな

412 :
>>407
弘安の役の戦闘経過を少しでも知ってるなら
間違ってもそんな認識は持たないと思うがなw
日本軍が石塁に篭ってひたすら陣地死守に専念してたならわかるが
実際には小舟で斬り込んだり壱岐島に突撃したりと
積極的に攻勢をかけてたのが日本軍で、
後退を繰り返して守勢にまわってたのが元軍じゃん

413 :
>>407
大半が高麗軍と南宋軍って・・・
高麗軍は東路軍四万のうちの一万人程度に過ぎないし、
南宋軍はほとんど戦闘に参加してないぞ
ちょっと基礎的な勉強からやり直すべきじゃないか?

414 :
元軍がちょっと乗り込めば日本はびびってすぐ降伏するってのが元側の設定だったとしか思えん

415 :
高麗の言うことを真に受けるから・・・

416 :
朝鮮と組むとまける

417 :
少なくとも国外窓口の太宰府までは
情報を持っていたはずなのに
なぜ日本を見くびってしまったのか
遊牧民族の生活習慣からみると
日本人は弱兵に見えるのだろうか

418 :
単純に武士のようなプロの戦闘集団と戦った経験が無かったからじゃ?
同じようにプロの戦闘集団のマムルークは遥か西だしね。

419 :
この国、牧草地が見当たらないからほとんど馬を持っていないに違いないとか

420 :
仮に日本武士が弱兵でも元軍は結局は戦術的勝利の積み重ねが戦略的敗北を
覆すことは無いってパターンにはまるとしか思えん

421 :
モンゴルはこのやり方で重ねて世界征服直前までいきましたし。おすし

422 :
そもそも元史で日本遠征に関連する記述がかなりアバウト
(特に実際の作戦遂行の経緯)な以上、元にとっては
勝っても負けてもどうでもよかった戦いには違いあるまい。
やはり高麗や南宋の勢力削減説が妥当だろう

423 :
水軍が壊滅したせいで直後のベトナム遠征が失敗したり
倭寇発生の原因になったりしたわけじゃん。
大陸国家モンゴルに海についてのセンスが致命的に無かっただけかもしれんが

424 :
モンゴルの兵は船酔いになってたんじゃ?

425 :
>>422
ああ、あの中国王朝史の中でもっとも評価の高いといわれる「元史」ね。

426 :
>>422
元史は基本的にアバウトな事しか書いてないでしょうが

427 :
仮に日本の軍人が中国もしくは朝鮮半島並の水準
だったとしたら征服可能だったろうか。
彼らの設定では中原より離れるほど野蛮な蛮族なんだろ

428 :
日本の政府は非武装で
民間が武装してて
武装した民間に撃退された
使者はどんな目で日本を見たのだろうか

429 :
どこの兵隊も武装した百姓だろ

430 :
兵役に出て最大数年の兵と
子供のころから訓練してる兵の違いってことかな

431 :
>>429
源平から元冠にかけては家人が歩兵やってる。
一応訓練くらいはやってるよw

432 :
>>429
そのへんどうにも勘違いしてる人が多い気がするね
半農半武って言っても別に現代人が想像するような百姓じゃないぞ
一部の没落した家を除いて基本的に武士は地主階級であって地元の名士的存在と考えていい
戦国時代になると一部素性の知れない浪人も動員されるようになったけど
それでも主力はそれなりに身分のある家から主従関係を通じて動員された人達

433 :
向こうのスレでパフォーマンスコンクールくんが自画自賛し始めたぞw

434 :
見てきたwwww

435 :
>>422
「記述がアバウト → 勝っても負けてもどうでもよかった戦い」ってのはどういう論理展開だ ?
2度までも大軍を送り膨大な損害を出しながら、何の利益も無かった戦いが「 勝っても負けてもどうでも
よかった戦い」だってのかよ。
多くを記さないのはそれがまさしく「膨大な損害を出しながら、何の利益も無かった」彼らにとって多くを
語りたくない負け戦だったからだと何故素直に考えられないんだ ?
この論理は初めに「元寇は元にとって勝っても負けてもどうでもよかった戦い」という大前提が有る。
その上で大損害を合理化するため「高麗や南宋の勢力削減の為」という珍説を導入し、それを補強する
「証拠」として「元側の記述がアバウト」なんてどこが証拠なのか意味不明の話まで持ち出すんだな。

436 :
>>435 俺の言いたかったことを代弁してくれてありがとう

437 :
コンクールくんって本当に書き込む時間が不規則だよな。
文章が特徴的だから一発で本人とわかるし

438 :
日本史板のスレ。
なんかわけわからんことになってるな

439 :
元寇第一弾の史料不足はどうにもならんからね

440 :
何万あれば元は日本征服できたんだ?

441 :
日本側の準備が整っていない文永の時点で弘安並の兵力を揃える事ができればとりあえず九州ぐらいは占領できたんじゃないか?

442 :
どちらかというと船の数の方が重要な気がする

443 :
>>432
主力は訓練された百姓に決まってるだろ
人口ピラミッド考えれば絶対数が圧倒的に足りないのに一体どっから持ってくんだよ
兵士=武士が成り立つわけねーだろ

444 :
>>443
中国だと一定の戸数ごとに兵士を出す家を決めて足りない分は傭兵で補ってたりとかしてたし
その時代の兵制によるだろ

445 :
>>443
どんだけ常識ないんだよ
でも世間の認識なんてこんなレベルなんだろうな
一昔前は可愛そうなお百姓さんが無理やり戦に駆り出され・・
なんて嘘の歴史観が平気でまかり通っていたからな

446 :
3000動員したら地侍2500以上必要になるなw
地侍って畑から採れるの?

447 :
戦国期の動員、とくに長期に及ぶものは主従関係によるものだから庶民を動員しようがない
総動員令の発動は稀な上に殆ど実効性が無かった
また江戸時代の具体例として徳川宗春の総動員令発動時を見ると
鷹狩名目での藩内の一時的動員が武士1万、その他1.5万
江戸時代の強固な支配体制+地侍の多くが武士でなくなり農村に帰っていた状態でその比率
また北条は瞬間風速250万石の領国を有していたが
秀吉侵攻に際して老若男女総動員令を発動するも5万人が精一杯だった

448 :
>>447
戦国時代の動員目安は、一万石あたり200-250人とされるから妥当な数字だね
足軽が主力になる前の鎌倉期はもっと少ないだろうが

449 :
鎌倉時代の武家人口がどのぐらいか知らんが、仮に総人口(600万ぐらい)の数%だとして、
そのうち戦闘に耐えるのが4、5人に1人だとすると、庶民を動員せず武士だけでも全国で数万人ぐらいは動員できる計算になるのか

450 :
>>449
それほとんど若い男総動員じゃねーか

451 :
>>450
武士階級からのみ戦える人員を根こそぎ動員する訳だから、全国の総人口から見れば1%以下だぞ

452 :
全国から総動員しても数万じゃ
元・高麗連合軍十数万に征服されかねんな

453 :
決戦なら練度や兵站で勝てそうだが
百年戦争するつもりでピストン輸送されたらヤバい気もする
船が沈んでよかったね
もっともそんなことしたらさすがの元も財政破綻しそうだが

454 :
>>453
大陸志向と海洋志向の両立をめざすのと
戦力の逐次投入
よくない

455 :
>>452
何回も撃退されて本格的上陸できず
数ヶ月海上をただよってりゃそりゃ台風来る罠

456 :
>>452
頼朝の奥州攻め時の兵力は公称28万だぞ。
話半分だろうが、それなら元軍の公称兵力も話半分で考えるべきだろう。

457 :
それをいうなら日本側も半分にしないと不公平だろ

458 :
半分にしても14万って文脈だろ

459 :
そうかごめん

460 :
ただ、元寇の時に実際に交戦した日本側の兵力は元側より明らかに少なかっただろうけどね。
特に文永の役なんて、総大将の少弐ですら手勢が500騎(従者含めて2000人前後?)で
竹崎みたいに主従で僅か数人〜十数人みたいなのもいたのを考えると
どう考えても総勢でも1万いかないと思うな。

461 :
>>460
少弐だけで5分の一ってことはないだろう
(そんな九州内で圧倒的な動員力だったらもっと領地持ってるはず)
もうちょっと多いが元軍の半数は超えないと見る

462 :
少弐氏は豊前筑前肥前三カ国の守護だぞ、そのくらいあって当然。
直轄兵力だけでなく、任国の中小武士団も配下として統括指揮してたんだし。

463 :
菊池や白石といった地元の有力者が100騎(従者入れて400人程度?)
だったのを考えても参戦兵力は少なかっただろうね。

464 :
従者入れて最大でも10000てところだろうね

465 :
異民族との総力戦なんて全く考慮してない軍制だからな

466 :
恩賞が土地だから異民族との戦闘は何ら利益にならないし

467 :
直接の利益にならないのは異民族との戦闘だからじゃなくて防衛戦だからでしょ
あと防衛戦は恩賞として与えられた土地を守る事につながり消極的利益はある
のと戦死した者の領地を相続したりと反射的利益を受けた者もいただろ

468 :
あの当時侵攻軍は存在するだけで病死とかでどんどん消耗してくからな。長期になればなるほど不利だろ。
歴戦の蒙古軍ならそれを理解してるだろ。

469 :
海上に長期間居るのがどれだけ大変か分かってなかったんじゃ?
陸上なら敵地に月単位で居ても別にそこまで大変じゃないし

470 :
しかし弘安の最後が鷹島に兵10万置き去りにして逃亡ってなんだよ
さすがにひどすぎると帰国後処分されたらしいが

471 :
幕府と交渉して撤退させてもらう道はあったのだろうか

472 :
あるわきゃないだろJK

473 :
大陸の野戦でも、ボロ負けしたら雑兵は置き去りじゃないのかな
同じ感覚で逃げられる人だけさっさと逃げた、とか

474 :
いや嵐で船団が壊滅した後江南軍上層部は残った船の中からとくに頑丈そうな船を選んで乗ったり
南宋人ら兵士を下船させモンゴル人ら将校を回収して撤退してるから兵士置き去りは計画的犯行

475 :
計画的犯行なら尚更、部下見捨てた将校が罰せられて
逆に自分の部下を無事に連れ帰った将校がお咎め無しだった理由がわかりません。
再提出

476 :
>>475
部下見捨てた将校が罰せられたのは皇帝に撤退時の状況(>>475)がバレてからなんだけど
それまでは部下見捨てた将校もお咎め無しだった

477 :
>>475)×
>>474)○

478 :
[ロストウォーズ〜鋼の大戦争〜]第3サーバー「挟撃戦」が4月18日(水)15時より始動!記念イベントも同時開催

ブラウザゲーム「ロストウォーズ」(http://www.rrgame.jp/war/)の新サーバー[挟撃戦] (http://x3.war.rrgame.jp)を4月18日(水)15:00にオープンし、そしてリリースを記念して限定賞品
が獲得できるイベントも開催することを掲載します。

■新サーバー[挟撃戦]オープン、リリース記念イベント開催
リリースを記念して限定賞品が獲得できるイベントを用意しております。

イベントその1: 定番初心者ボーナス!
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イベントその5:史上最大軍団称号争奪イベントを期間限定開催!
新サーバー[挟撃戦]限定イベントその1:定番初心者ボーナス!
■イベント期間:プレイ初期
■対象者:[挟撃戦]サーバー
■イベント内容:毎日ログインするだけで、初心者限定の賞品が貰える。
■賞品内容:ゲーム開始と同時に、一定時間を過ぎると初心者ギフトパックが現れます。
■賞品配布期間:ゲーム開始した後現れます。
■賞品配布場所:ゲーム画面の左上にあるギフトバックで受け取ってください。
※オンライン時のみカウントを行い、ログアウト後は再ログイン時から再開されます。
※詳しくはサイトまで!http://www.rrgame.jp/war/

▼PC版 「ロストウォーズ 〜鋼の大戦争〜」のURL
http://www.rrgame.jp/war

▼IPAD版 「Lost Wars ?HD」のURL
http://itunes.apple.com/jp/app/lost-wars-hd/id509454308?mt=8

479 :
日本人って昔から優秀すぎる。
他の民族なんか旧人に見えるな。
世界の民族の中で一番進化してるんじゃないか?
今の人類より優れた新人類が誕生するとしたら間違いなく日本からだろうな。

480 :
スレとの整合性は?

481 :
世界最大の帝国を築いたモンゴルでも日本にしてみればこの程度ってこった。
珍ギスもアレクさん?もナポレなんとかも日本の戦国時代に生まれてれば
しょっぱく滅ぼされる戦国大名で終わってただろうよw
日本人が世界と比べて劣ってるのは原始的特長の色濃い体格だけだ。

482 :
内陸国の軍隊を海上で迎え撃って撃退しただけなのに
そこまで自画自賛しても…

483 :
海岸近くではあるが陸戦が多かったんだけど
元軍得意の馬を多数持って来れなかったのは確からしいが
かといって全くなかったわけでもないようだし
>>479,481はホメゴロシのような気はしますけどね

484 :
軍ヲタなら両軍の単純な強弱比較じゃなくて侵攻側の海上輸送力の不足とかそういう分析をするだろ
ベトナムやアフガンがアメリカやソ連より強かったなんて言う奴は居ないだろうし

485 :
矢の性能が違うし、接近戦になっても日本刀で大陸のチャチな剣なんかもろとも一刀両断できる。
馬多数持ってきたって山が多いから動きが制限されてモンゴルなんて朝飯前で撃退よ。

486 :
矢の性能ってそんなに違うか?
歴史群像かなんかの検証では日本とモンゴルの弓は
互角ないし日本側がやや優勢くらいだったが

487 :
矢は大して変わらんだろ。遊牧民にとって弓矢は生活の糧だ
木がない代わりに動物の骨や腱をつかえるから馬鹿にできない
むしろ毒矢は卑怯とかいってた日本の方がぬるい

488 :
そもそも元側は毒矢使ってない説があるんだが

489 :
弘安の役は防塁と台風のおかげとして文永の役の日本側のどこがそんなに強かったのか分からない
職業軍人である武士と農民兵の練度の違いといっても徒歩戦では練度より物量のが大事だし
騎馬武者がそんな広くもない福岡平野を駆け周り騎射で元軍を撃退したというのはちょっと

490 :
>>489
弾薬不足とか指揮が低かったとかそんなんだろ多分
人数比で見れば元側が数倍以上確保してたんだから、もし質が対等でなおかつその戦力が発揮できる状態だったら日本が負けてただろ

491 :
>>486
基本的に人力で引くんだから性能自体に大差は無い。
強い弓を引くには大きな腕力が要る。
張力が同じ場合、重い矢は威力が大きいが射程は短く、軽い矢は威力は小さいが射程長くなる。
条件を無視して威力だの射程だの比べたって大した意味は無い。
ただ傾向として張力が同じならはモンゴル式の短弓は速射性に優れ、日本の長弓はより威力のある矢を
射やすいという傾向はあるだろう。

492 :
矢→日本の鎧に効かない
刀剣→日本刀を受ければ折れるほど脆い
馬→平地が少なくて展開し辛い。
気候→高温多湿で体が慣れない。
仮に地続きでもこれでモンゴルが日本攻略できると?

493 :
>>489
防塁での戦闘は一回だけだよ。

494 :
>>492
>馬→平地が少なくて展開し辛い。
>気候→高温多湿で体が慣れない。
元は高温多湿で山がちな華南まで征服してる

495 :
日本の矢は丈夫な竹を使い、しかも炙って矯めているから、
ただの木製の他国の矢と比べて、個体差が少なく重心のバランスがよく
軽いので、弓とも相俟って結果的に飛距離が長く命中精度にも優れる。
これに幼年期から日々鍛錬してきた武士の腕が加わるから、徴募兵の支那・
高麗兵はもとより、遊牧民の蒙古兵と比べても個人レベルでは優秀だった
のは間違いないね。

496 :
遊牧民の弓は動物の骨と皮を使ったコンポジットボウだよ。
和弓と比較してどうだったかは知らんが

497 :
>>492
矢→日本の鎧に効かない
それは距離によるでしょ郎党なんかは兜も付けてないのもいるし
刀剣→日本刀を受ければ折れるほど脆い
蒙古襲来絵詞では元兵が実際に使っている武器は弓か槍で
全員が腰に提げてはいるが剣を使ってるシーンはなかったような
馬→平地が少なくて展開し辛い。
それは日本側にも言える事

498 :
元側は大草原があるから平地でもっとも力を発揮できる馬の運用方法で、
日本側は山が多い地形で有効な馬の運用方法だったんでしょ
騎射が可能な技量があったのは双方同じなんで、後は得意な地形だったかどうかで比べれば
当然防衛側のが有利なんじゃね?
あと矢が鎧に効くかどうかは、距離もだけど鏃の重さと矢の長さも関係してくる。

499 :
ハリネズミみたいになりながら
つっこんでくるからびびったってカキコがあったような気がする

500 :
つうか日本側は防衛戦争で防衛に成功したんだから勝ちだろ。
元や高麗は侵略戦争仕掛けて占領どころか有利な条約を締結出来てないんだから大敗だろ。

501 :
うん、それはもう知ってる。
このスレのテーマは元はどうやったら日本に勝てたかって話。

502 :
>>501
バクチだが高麗の日本海側に艦隊と上陸部隊集めて越前、加賀に大規模上陸し天皇を保護擁立し畿内制圧。

503 :
>>501
文永のせいで日本側の動員体制が整えられちゃったんだから、文永をやらずに南宋の降伏を待って弘安の時の陣容で第一撃をやればけっこういけたんじゃないかなぁと
確か文永の時の日本側兵力は数千程度しか居なかったはずだし、こちらが十万以上で石塁も無しなら勝てただろ多分
とはいえ北九州は制圧できてもその後どうするかという問題もあるが

504 :
>>502
当時の船では無理

505 :
十万もあれば北九州といわず九州全土かそれ以上の地域を制圧できるだろ
当時の九州の人口は80万ぐらいだし
まあそうするとこんどは兵糧の問題が出てくるが

506 :
>>505
むしろそれが一番の問題
当時の九州なんて人口過疎地でまともに大軍は展開できない
弘安での元の動員兵力は現地の実情を把握しない暴挙に近い

507 :
長細い列島の端から攻めるってのがしんどいな
どれだけ強くてもヘイスティングみたいな決戦一発で終了にはなり得ない

508 :
>>506
そのための墾田兵だったんじゃないか?
大陸からの補給もあるはずだし不可能ではないでしょ
>>507
そこは気長に九州から順々に取って行くしかないだろう
対南宋戦だって一度の会戦ですぐけりがついたわけじゃないし

509 :
幕府の息のかかった勢力を追っ払ったらすぐに混乱なく、現地の生産力を損ねることなく
統治・徴税できる体勢を整えておく必要がありそうだけど
事前の内応工作とかないよね

510 :
言葉も通じない異民族じゃ厳しいな
せめて壱岐対馬の日本人を恭順させて
交渉役にするぐらいの準備が無いと
いうまでもなく実際の守護は抵抗の末玉砕してる

511 :12/04/24
×抵抗の末玉砕
○一蹴されて全滅
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