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2013年01月心と宗教2: 阿含宗という宗教220 (336) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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阿含宗という宗教220


1 :2013/01/05 〜 最終レス :2013/01/16
このスレッドは阿含宗批判が目的です。
霊感商法、霊視商法をするカルト宗教・阿含宗の宗教詐欺を世に知らしめるためのスレッドです。
議論スレ:「阿含宗と桐山氏について」(したらば)
  http://jbbs.livedoor.jp/internet/3419/
議論スレ:「agama@chs-1」
  http://jbbs.livedoor.jp/internet/6441/
【阿含宗考察掲示板】
ttp://www48.atpages.jp/~agama01/cgi-bin/board/index.html
阿含宗と桐山氏について ー第六十章ー仮説スレッド
http://thebbs.fc2.com/292918!/?l=50
考察資料の総合案内「agama考察室」
  http://agama.zouri.jp/index.htm
テーマ別の阿含宗批判「agama galage」
  http://agon.konjiki.jp/
過去ログ倉庫:「阿含宗という宗教」
  http://souko.digi2.jp/
過去ログ倉庫:ザビビ「阿含宗と桐山氏について」
  http://agama.ehoh.net/kakoindexthebbs.html
阿含経の分析や研究に 「agama 研究室」(アーガマ 研究室)
  http://agon.genin.jp/
退会について考えたり相談できるサイト 「agon secession club」 略称ASC
  http://agama.22web.net/

2 :
前スレ219
>585
>アングリマーラの事例は、具体的でしょう?
いいえ、題材としては具体的だが、それをあなたが解釈したような内容だとすると
その「表現」は十分でなく、不足であり、具体的でない、抽象的だと述べたのです。
アングリマーラ経の経典記述はあくまでも何千年にも地獄で苦しむであろう
その行為の果報を現在に受けているだけです。
あなたが言うように現世で十年石をぶつけられるだけで何千年の報いは解消されて
しまうのだという表現がない。
この悪業の報いは帳消しにできるのだというはっきりした表現が絶対に必要なんです。
どうしてかわかりますか?

3 :
>585
>アングリマーラの事例は、具体的でしょう?
あなたも釈尊は常識外れを説いたと書いている。
誰もが当たり前に理解できる常識ではない。非常識を説いた。
ならばそこのところをはっきり示さねばなりません。
たしかにこの翻訳表現は、下手をするとあなたのなしたように拡大解釈もされる恐れもあります。
しかし拡大解釈はしてはならないのだが。
非常識な教えなら拡大解釈なのかどうなのか曖昧な表現をするのではなく
(何千年にも及ぶ報いの苦しみが今既に受け始まっているというのであれば
あの経典表現はちっとも曖昧ではないのだが)はっきりと報いはこれで解消されて
しまうのだから耐えよと表現をより具体的にしなければならない。

4 :
>585
>アングリマーラの事例は、具体的でしょう?
覆水盆に還らず。これが誰もが理解して否定し得ない常識です。
ならば999人も殺して何千年も地獄で報いの苦しみを受けるはずの人がたった十年の
迫害に対する辛抱で帳消しにできてしまうという教えは、まさに覆水盆に還るがごときです。
ならばその理由を細々と説明せねば理解してもらえません。
ほら、他の善行為によって相殺される原理なのだよ。おやおや、阿闍世王などは
父親殺しても如来の前で懺悔しただけで報いは軽減されてしまうのだよと。
普通に懺悔してもそうはならないが、如来は便利なんだから活用しなさいと説く。
理由を理解する以前に帳消しになることをはっきり明文化して示さねばならない。
そうしなけりゃ誰も常識を超えられないではないか?

5 :
>585
>釈尊は、アングリマーラの業報・苦果は、多生において長い期間受けねばならない
>と、説いています。これを禁固1千年の刑だとしましょう。
>それが仏道を修することにより、現世だけの禁固10年で済んだわけです。
>ね、禁固990年分を、消滅させてしまったわけです。
そう、そういうあなたが書いた「表現」こそが具体的な表現なんです。
だから釈尊もそういう表現をせねば説得できないのです。
千年の禁固の九百九十年が消滅するという具体的な表現を聞いて、皆この非常識な
教えに初めて驚き、理由も聞いて初めて理解できるのです。
人によって、これって拡大解釈に過ぎないのではないか?自信ないなあなんて
表現では通用しない。
釈尊は自分の教えを正しく理解してもらうために弟子に質問を促した上で
私は全てを説き尽くしたと満足してこの世を離れたのです。
こんな大切なことがこれっぽっちの表現に終わるはずがない。
つまりそんな非常識は説かなかったのです。

6 :
>585
>釈尊は、アングリマーラの業報・苦果は、多生において長い期間受けねばならない
>と、説いています。これを禁固1千年の刑だとしましょう。
>それが仏道を修することにより、現世だけの禁固10年で済んだわけです。
>ね、禁固990年分を、消滅させてしまったわけです。
釈尊の経典を読んで気が付くのは、同じことをくどくどと何度も説いてしつこいということです。
また言葉巧みに具体的に比喩を交えて、これでもかと言わんばかりに話の聞き手に
対して理解を促す。
あなたが九百九十年の消滅ですよなんて添えるように。
だから本当に常識を超えた救いを説くのならば、そういう一番大切なところを
さらっと省略して説いて、言いたいことの残りは察しておくれやす、皆まで言わせんといて、
なんて変な京都人みたいな表現は絶対にしまへんのや。

7 :
>>1
乙!です

8 :
レス219
>585 :神も仏も名無しさん:2013/01/05(土) 10:00:58.78 ID:Zcj2svrG
>それが仏道を修することにより、現世だけの禁固10年で済んだわけです。
そのようにどこに書いてあるのですか。
あなたは書いていないことを勝手に読んでいる。
釈尊は、今受けている苦難は、地獄に落ちる数千年分の苦の一部だと
説いている。
それをあなたは、まとめて受けたと勝手な読み方をしているだけです。
ましてや、業の報いを減らしたかのような事は釈尊は一言も言っていない。
他の信者さんたちは、準シュダオンさんは毎度、批判側の指摘ばかりでなく、
経典の記述をまったく無視しているのがおわかりでしょう。
彼が無視している点は二点あります。

9 :
1.大量殺人の業の報いが血を流しただけでどうして終わるのだ?
業の報いは釈尊はそのまま来ると説いている。
仏道修行で消えるとか軽減されるなんて嘘です。
アングリマーラの経典でもそんなことは一切説かれていない。
経典に一言もないのに準シュダオンさんはあるかのように嘘を書いている。
阿含経には業の報い(悪因縁)を消すなんて教法はありません。
解脱者である大目連も業の報いによって殺された。
業の報いは消えないとはっきりと大目連は述べており、
これをサーリプッタもその場で認めた。
釈尊の二大弟子と呼ばれる二人が、業の報いは消えないと述べたのですよ。
もちろん釈尊も業の報いを帳消しにするなどと説いたことは一度もありません。
業の報いは輪廻を通じてでも必ず「本人にそのまま返る」と説いている。
では、アングリマーラの業の報いの残りはどこに行ったのか?
仏教に業の報いを帳消しにする教法や修行があると主張したいなら、
まずその阿含経を示しなさい。
準シュダオンさんは示せないから、まるで書いてあるかのように
適当に口先で誤魔化しているのです。

10 :
2.因縁解脱したのなら、解脱の後にどうして業の報いを受けるのか?
アングリマーラが血だらけになったのは解脱した後です(スレ219の475)。
業の報いを帳消しにすること、つまり因縁解脱が解脱なら、
解脱した後に業の報いを受けるのはおかしい。
大目連も解脱した後に異教徒に殺されている。
大目連は解脱者、仏陀です。
しかし、生きている限り、業の報いからは逃れられなかったと
本人が述べている。
「我本造る所の行極めて深重たり、要(かな)らず報いを索受して、終に避くべからず。」
(『國訳一切経 阿含部 8』292頁)
大目連すらも業の報いを必ず受けて、避けることができないと言っているのに、
大量殺人をしたアングリマーラだけが業の報いを帳消しにしてもらい、
血を流しただけで済むなんてあり得ますか。
釈尊もまた、行為の報いを受けているから、入滅の三ヶ月前に大病を患い、
死ぬような苦しみと闘い、さらにキノコが原因で苦しみながら亡くなった。
これらの事実を見れば、業の報いを消滅させるのが解脱だなんて成り立たない。

11 :
>585 :神も仏も名無しさん:2013/01/05(土) 10:00:58.78 ID:Zcj2svrG
>1、古くは煩悩の火が吹き消された状態の安らぎで、悟りの境地いう。
>2、すべての束縛から解脱することを涅槃という。
>3、生命の火が吹き消されたということで入滅、死去をいう。
恒例の国語の時間です。
準シュダオンさんの読解力では上記の三つが別物に見えるらしい。
「山田さんは父親であり、息子であり、夫である」という記述を、
山田さんが三人いると準シュダオンさんは解釈するそうです。
他の信者さんたちは上記をどのように解釈しますか。
1〜3は涅槃という一つのことを別な切り口や表現をしただけです。
まず信者さんたちにしっかりと見てほしいのは、どこにも因縁解脱に
相当する言葉も概念もない点です。
因縁を切ること、業を切ること、カルマから解脱することなどの
表記やそのように解釈できる言葉も概念もありません。
まず1ですが、これがもっとも簡単でもっとも明瞭な表記です。
だから、涅槃と同義語である解脱の定義は次のようになっています。
「仏教では煩悩(ぼんのう)から解放されて自由な心境となることをいう.」(岩波仏教辞典)
両者の意味するところが、まったく同じであることをまず理解してください。
涅槃や解脱とは煩悩から解放されること、煩悩が消えた状態です。
どこにも因縁解脱、カルマ解脱などありません。

12 :
>585 :神も仏も名無しさん:2013/01/05(土) 10:00:58.78 ID:Zcj2svrG
>2、すべての束縛から解脱することを涅槃という。
準シュダオンさんは束縛を、業の報い(悪因縁)などと勝手に解釈しているが、
阿含経や仏教辞典のどこにそんな解釈があるのだ?
仏教の束縛とは何か、信者さんたちは思い当たりませんか。
応説経に、「結縛」というのが出てくる。
「縛・・・煩悩(ぼんのう)を表す術語の一つ」(岩波仏教辞典)
実は、先に引用した解脱の説明にも、その前に次のように書いてある。
「束縛から解き放す意.仏教では煩悩(ぼんのう)から解放されて
自由な心境となることをいう.」(岩波仏教辞典)
この記述を読めば、
「束縛から解き放つ」=「煩悩から解放される」
であることは明かです。
上記の2の「束縛」とは煩悩のことであり、1と同じ意味です。

13 :
>585 :神も仏も名無しさん:2013/01/05(土) 10:00:58.78 ID:Zcj2svrG
>3、生命の火が吹き消されたということで入滅、死去をいう。
これは解脱者が死亡した時の状態を表現しただけです。
信者さんたちも知っている無余依涅槃です。
生きている時の解脱は、まだ輪廻の世界にいるのだから業の報いを受けるが、
亡くなれば、六道から脱出して、二度と生まれ変わることはないから、
「生命の火が吹き消された」になる。
無余依涅槃とは解脱ですから、解脱とは煩悩から解放された状態です。
無余依涅槃を得るためには、原則として生きている間に涅槃に到達する必要がある。
だから、3は1や2と同じ意味です。
3は解脱の内の亡くなる時のこと、つまり無余依涅槃を指しているにすぎない。
上記のこの説明のどこにカルマ解脱があるのですか。
業の報いが帳消しになるなど一言もない。
そもそも業の報いの話すら出てこない。
影も形もないのに、準シュダオンさんの目には、2〜3に業解脱や
因縁解脱が見えるらしい。
私は何度も読んでも、どこにも因縁解脱なんて片鱗も読めない。

14 :
>585 :神も仏も名無しさん:2013/01/05(土) 10:00:58.78 ID:Zcj2svrG
>まぁ、2と3をレスすると因縁滅の桐山論を肯定するはめになるからよね。
1〜3は同じ意味であり、切り口が違うだけだから、1のみを私はいつも引用するのです。
準シュダオンさんみたいに一つで説明されても理解できず、
三つの切り口で説明されるとさらなる誤解をする人もいる。
「山田さんは父親であり、息子であり、夫である」が何をたとえているのか、
準シュダオンさんは相変わらず分からないでしょう?
1から3の説明はほぼ「1=2=3」なのに、準シュダオンさんは
涅槃とは「1+2+3」であると解釈した。
しかも、1〜3のどこにも因縁解脱、業解脱など言葉も概念もないのに
準シュダオンさんはこれらから因縁解脱と読めるそうだ。
今回の指摘は、涅槃の問題ですらなく、準シュダオンさんの読解力が最低であり、
あるがままの文章は見えず、ありもしない文章が読めることを示しただけです。

15 :
>585 :神も仏も名無しさん:2013/01/05(土) 10:00:58.78 ID:Zcj2svrG
>まぁ、2と3をレスすると因縁滅の桐山論を肯定するはめになるからよね。
信者さんたちに着目してほしいのは、準シュダオンさんの低い国語力だけでなく、
「書いていない言葉や概念を読んでいる」点です。
1〜3には因縁解脱などカケラも出てこないのに、準シュダオンさんは
まるで因縁解脱の証拠を見つけたかのようなデカイ態度です。
これは信者さんたちも同じですよ。
桐山さんの講義した阿含経にはどこにも因縁解脱など言葉も概念も出てこない。
出てくるのはひたすら漏尽解脱(煩悩解脱)です。
読んでいる応説経も三供養品も、どちらも漏尽解脱しか出てこない。
でも、信者さんたちは釈尊が因縁解脱を説いたと信じている。
準シュダオンさんほどには知性が低くないと思うなら、阿含経に出て来たこと
がない因縁解脱を阿含経にあると信じている自分に疑問を持ってください。

16 :
>>1さん、ユビキタスさん、
スレ立てありがとうございます。

17 :
 
深山浄苑
http://www.city.hikari.yamaguchi.jp/shikumi/koukyou/othercit/sonota.html#miyama
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1451517119

18 :
経典によると阿羅漢は仏陀(如来)が備え持つ十号(種)の内の一つで
阿羅漢=仏陀(如来)ではなく阿羅漢+残りの九種を備えてえて仏陀(如来)ね
阿羅漢の一種だけで=仏陀は桐山管長の直説でしょ。

19 :
>あなたが言うように現世で十年石をぶつけられるだけで何千年の報いは解消されて
>しまうのだという表現がない。
>この悪業の報いは帳消しにできるのだというはっきりした表現が絶対に必要なんです。
>どうしてかわかりますか?
あなた、仏教辞典があるんでしょ?アングリマーラを調べてみなさいよ。
アングリマーラは悟りを得た、とされてるのですよ。悪業を帳消しにしなければ
悟りを得て解脱することは出来ないでしょう。
一つの経典だけでなしに、辞典などとも突き合わせて総合的な判断をすべきですよ。

20 :
深山くんはまだ悪あがきをしてるようだw哀れだね。
では悟りのイロハを、イ解脱、ロ滅、ハ涅槃、辞典で復習しましょう。
イ、「解脱」とは、1、煩悩から解放された自由な心境。
         4、インドでは輪廻からの解脱を意味する。
ロ、「滅}とは, 3,苦悩が消滅して、
         2、業のはたらきが停止した悟りの境地。
ハ、「涅槃」とは、1、煩悩の火が吹き消された状態の安らぎ悟りの境地。
         3、すべての束縛から解脱することを解脱という。
         4、生命の火が吹き消されたということで入滅、死去をいう。
と、いうことです。番号は、1煩悩、2業・業力 3業報苦果 4輪廻滅という
意味です。深山くんは、1の煩悩しか知らない、だから35点、落第です。

21 :
ユビキタスくんは、真理に気づくのに遅すぎるということはない。
早く深山くんの呪いから解放されて、前に進むことだ。
呪いにかかっていると、モッガラーナに来世がないことまで忘れてしまうw。
煩悩→業→苦、という循環は、苦で終了するわけではないよ。
苦→煩悩→業、という具合に、無明が無くなるまで循環する。
だから、苦を残したまま煩悩を断つことはできない。あるいは、
深山教では、「苦」の定義を間違えてるかも知れない。
憂、愁、悩、悲、などは仏教では心苦、苦と定義されている。
辞典で確かめて深山くんに教えてあげなさい。あんたが教える番だよ。
だから、憂いや悲しみを抱えたままで、平安な境地なんてのはあり得ないね。

22 :
>>19
>あなた、仏教辞典があるんでしょ?アングリマーラを調べてみなさいよ。
辞典というものはまず第一に経典記述をもとにまとめられ、アビダルマなど後世の
論書も参考にされる。経典と論書の内容に微妙な差がある場合は、時代を分けて
断り書きをして、経典記述と別に提示します。
経典にも原始経典と大乗経典とは分けてそれぞれ示され、混同は避けさせています。
我々が根拠にすべきは原始経典の記述です。
アングリマーラ経(中部経典の第86経)あったればこそ後の論にも展開するのであり
アングリマーラ経の経典記述こそ指標にすべきなのに、どうしてあなたは読まないのか?

23 :
>>19
>アングリマーラは悟りを得た、とされてるのですよ。悪業を帳消しにしなければ
>悟りを得て解脱することは出来ないでしょう。
前スレの何を読んでいるのか?
私も深山さんもアングリマーラ経(中部経典第86経央掘摩経)の現代語訳を
示してあげた。再度要約するにあたり、あなたに倣って番号も時代順に付番しましょう。
@アングリマーラは梵行の完成をみて阿羅漢の解脱を得たことを認証された。
Aその後托鉢に出たアングリマーラは石をぶつけられ血を流しボロボロになった。
Bそれを見て釈尊は「おまえのなした行為の果報を今受けているのだ。耐えよ」と激励した。

24 :
>>20
>番号は、1煩悩、2業・業力 3業報苦果 4輪廻滅という意味です。
勝手な拡張解釈。
>煩悩→業→苦、という循環は、苦で終了するわけではないよ。
>苦→煩悩→業、という具合に、無明が無くなるまで循環する。
苦を滅するのではなく苦の原因である我執を滅することで煩悩・業が滅し
果である苦も滅するのです。四諦を正しく読むとそうなる。桐山四諦論は誤り。
.

25 :
>>21
>だから、苦を残したまま煩悩を断つことはできない。
苦を切って煩悩を無くすのではない。それでは本末転倒。
苦の原因である我執を滅することで煩悩・業が滅し、果である苦も滅するのです。
桐山教は苦の原因を悪因縁(悪い星)にすり替えた。これはダマシであり詐欺です。
苦の原因は我執であり煩悩なのです。これを滅することが釈尊の教えです。
.

26 :
>>19
>アングリマーラは悟りを得た、とされてるのですよ。悪業を帳消しにしなければ
>悟りを得て解脱することは出来ないでしょう。
ほら?@→A→Bの時代順を見てみなさい。
あなたの言う悪業を帳消しにしないと解脱を得られないとの主張を中部経典第86経は
完全に否定しているではないか?

27 :
>>21
>呪いにかかっていると、モッガラーナに来世がないことまで忘れてしまうw。
モッガラーナに来世がないのは煩悩が一切なくなる涅槃に入ったからです。
悪業が帳消しになったからではない。
>だから、憂いや悲しみを抱えたままで、平安な境地なんてのはあり得ないね。
アングリマーラにはいくら石をぶつけられて痛い、苦痛だからといって
憂いも悲しみも怒りも怨みもありませんよ。

28 :
>>21
>だから、憂いや悲しみを抱えたままで、平安な境地なんてのはあり得ないね。
あなたも手塚治虫の漫画「ブッダ」をお読みですよね。
ダイバダッタはブッダを殺そうと爪に毒をしのばせ、引っ掻いて毒殺しようとする。
しかしその毒が途中でダイバダッタに回り、ダイバダッタは死に絶える。
ダイバダッタは臨終の際、ブッダに告げる。
「私はあなたになりたかった。あなたが憎かった」
ブッダはダイバダッタに声を掛ける。
「おまえの敵はおまえの心だったのだ」

29 :
>>21
>だから、憂いや悲しみを抱えたままで、平安な境地なんてのはあり得ないね。
手塚ブッダ、手塚ダイバダッタにしても、このダイバダッタのこの煩悩がなくなれば、
如何に心が平安になるかわかるでしょう?
平安とは快楽ではないんですよ。
囚われがなくなれば心は落ち着いている。たとえ外界に不遇な事があろうと。

30 :
>>21
>だから、憂いや悲しみを抱えたままで、平安な境地なんてのはあり得ないね。
芥川竜之介の杜子春の話もしましたよね?
杜子春は仙人になることを諦めた時点で、何も得られず元の平凡な世知辛くもある
生活に逆戻りだが、それを喜んで受け入れた。
杜子春は囚われを捨てただけでそれ自体心の平安を少し得たと言える。
私にはあなたが心の平安に一番程遠いのがよくわかる。
あなたに自覚がなくても、傍目から見て気の毒なくらい苦しさが見て取れる。

31 :
>>18 :神も仏も名無しさん:2013/01/06(日) 08:12:10.04 ID:DniM6/yq
>阿羅漢の一種だけで=仏陀は桐山管長の直説でしょ。
仏の十号を十種類の仏だと思っているようですね。
解脱者を十種類の称号で呼んだのです。
だから、「如来=応供=阿羅漢=正遍知・・・・=仏」です。
桐山さんが唱えた説ではなく、これが仏教の常識です。
大乗仏教が後に、解脱した弟子たちを卑しめるために、阿羅漢を一ランク下に
置いたことを取り上げているだけで、桐山さんの説ではありません。
桐山さんをまるで何かの発見者のように錯覚しているようだが、
大半が他人のパクリで、桐山さんの新発見なんて一つもない。
桐山さんの新発見と称する物は、たとえば三福道とか、
仙尼経の異陰など、すべて嘘です。

32 :
>>20 :神も仏も名無しさん:2013/01/06(日) 09:58:17.95 ID:W5IeVpvI
>では悟りのイロハを、イ解脱、ロ滅、ハ涅槃、辞典で復習しましょう。
信者さんたちはよく準シュダオンさんの文章を読んで、
何を誤魔化している見抜くことで正しい仏教を理解してください。
アゴン宗の良い所は、アゴン宗のインチキを見分けると、
正しい仏教が理解できるようになることです。
準シュダオンさんのすり替えに気がつきましたか。
実際は「解脱=滅=涅槃」なのに、まるで別物であるかのように書いている。
釈尊は一つの概念を様々な表現を用いた。
特に、解脱と涅槃は釈尊の発明ではなく、当時のインド宗教で
使われていた言葉をそのまま採用し、内容を変えたのです。
解脱・・・仏教では煩悩(ぼんのう)から解放されて自由な心境となることをいう.
滅・・・涅槃(ねはん)は<滅>と漢訳されることがある
涅槃・・・古くは煩悩(ぼんのう)の火が吹き消された状態の安らぎ,悟りの境地をいう.
(岩波仏教辞典)
ごらんのように、解脱、滅、涅槃は全部同じ意味です。
それをまるで別物であるかのように準シュダオンさんは見せかけようと必死です。
どうしてわかりますか。
どこを探しても、因縁解脱(業解脱)などないからです。
それを何とか詭弁で因縁解脱があるかのように見せかけたいのです。

33 :
>>20 :神も仏も名無しさん:2013/01/06(日) 09:58:17.95 ID:W5IeVpvI
>イ、「解脱」とは、1、煩悩から解放された自由な心境。
         4、インドでは輪廻からの解脱を意味する。
信者の皆さんごらんください。
どこに因縁解脱があるのですか。
準シュダオンさんですら、解脱が因縁解脱だと根拠を示せないのです。
仏教辞典には因縁解脱なんてないからです。
解脱とは煩悩から解放されること、これ以外には意味がありません。
インドでは輪廻から解脱することを解脱と言った。
そして、釈尊はその方法として、煩悩から解放されることで解脱すると
説いたのです。
煩悩から解放されることで輪廻から解脱と説いたことが
仏教の最大のウリであり、オリジナルです。

34 :
>>20 :神も仏も名無しさん:2013/01/06(日) 09:58:17.95 ID:W5IeVpvI
>ロ、「滅}とは, 3,苦悩が消滅して、
>         2、業のはたらきが停止した悟りの境地。
信者さんたちは、「業のはたらきが停止」と聞いて、
業解脱(因縁解脱)だ、カルマ解脱のことだと思いませんでしたか。
それは錯覚であり、準シュダオンさんの誤魔化しです。
なぜなら、仏教の業には信者さんたちが信じているような、
悪因縁(業の報い)などという意味はない。
業・・・原語の基本的意味は,<なすこと><なすもの><なす力>などで,
<作用><行為><行為対象><祭祀>などを表す語としてインド思想一般で広く用いられた.
(岩波仏教辞典)
これが業の意味で、簡単にいうなら、行為です。
どこにもアゴン宗のいうような意味はないことに驚いてください。
身口意の三業とは、体により行為、話す行為、心に思うことを指す。
「業のはたらきが停止した悟りの境地」とは、これらの身口意の行為が
停止したという意味です。
煩悩とは身口意の三業に現れる。
煩悩そのものが出てくるのではなく、煩悩は身口意の三業に現れるのです。
煩悩を切るとは、身口意の三業に現れた煩悩を断ちきることから、
「業のはたらきの停止」と表現したのです。
どこにもアゴン宗の言うような、業の報いの停止なんて意味はありません。

35 :
>>20 :神も仏も名無しさん:2013/01/06(日) 09:58:17.95 ID:W5IeVpvI
>ハ、「涅槃」とは、1、煩悩の火が吹き消された状態の安らぎ悟りの境地。
>         3、すべての束縛から解脱することを解脱という。
>         4、生命の火が吹き消されたということで入滅、死去をい
涅槃については>>11以降ですでに説明しました。
準シュダオンさんが私の指摘をまったく無視している点に着目してください。
なぜなら、反論できないからです。
同じ説明を繰り返しましょう。
上記3の束縛とは煩悩のことで、煩悩からの解放ですから1と同じ。
上記4の生命の火が消えるのを涅槃というのは、無余依涅槃のことで、
無余依涅槃とは、生きている間に煩悩を断ちきって解脱することが前提です。
煩悩が消滅して輪廻をしないから、生命の火は消えている。
つまり、いずれも涅槃とは煩悩を断ちきることです。
どこにもアゴン宗のいうような、業の報いを切るなんてありません。

36 :
>>21 :神も仏も名無しさん:2013/01/06(日) 10:10:09.08 ID:W5IeVpvI
>煩悩→業→苦、という循環は、苦で終了するわけではないよ。
>苦→煩悩→業、という具合に、無明が無くなるまで循環する。
信者さんたちは上記の準シュダオンさんのインチキ教義を理解することで、
本当の仏教を学びましょう。
「煩悩→業→苦」という教法は仏教にはあるが、「苦→煩悩→業」などありません。
信者さんたちの中には、両方とも阿含経にあるかのように錯覚しませんでしたか。
それなのです。
嘘つきたちはこういうすり替えをする。
信者さんたちに気をつけてほしいのは、準シュダオンさんだけでなく、
桐山さんも、本当の仏教を示し、その後に自分のオカルト説を
付け加えて、本物であるかのように見せかけることです。
これは桐山さんの本などには随所に見られるから、気をつけてください。
自説を正当化するための小手先の誤魔化しです。
つまり、桐山さんも準シュダオンさんの文章は、そのままは読むのではなく、
まずどんな嘘やインチキや誤魔化しやすり替えが入っているのかと
疑ってかかることです。
彼らは嘘がなんともない。

37 :
>>21 :神も仏も名無しさん:2013/01/06(日) 10:10:09.08 ID:W5IeVpvI
>煩悩→業→苦、という循環は、苦で終了するわけではないよ。
>苦→煩悩→業、という具合に、無明が無くなるまで循環する。
仏教には「苦→煩悩→業」などありませんが、「煩悩→業→苦」はあります。
煩悩が行為(業)となって現れ、苦を受けるという意味です。
これは>>34で説明したとおりです。
欲望という煩悩がそのまま出てくるのではなく、身口意の行為(業)の中に現れてくる。
桐山ゲイカは性欲という煩悩を、E川さんに「今夜にでも」と誘うという行為(業)に出した。
E川さんを愛人にするという行為(業)の結果が、八十歳代にして愛人に訴えられ、
エロ教祖として全国に知れ渡るという苦を受けた。
ごらんのように、「煩悩→業→苦」そのままです。
つまり、釈尊は苦の元は煩悩であり、煩悩をなくせば苦はなくなると説いた。
桐山さんが性欲という煩悩に囚われなければ、エロ教祖として恥をかくこともなかった。
だから、煩悩を減らし、なくしなさいと説いているのです。
どこにも悪因縁を切れば苦がなくなるなどという教法はありません。

38 :
>仏の十号を十種類の仏だと思っているようですね。
>解脱者を十種類の称号で呼んだのです。
頭に血が昇っているんでしょうか?w
10号=十種類の仏がいる文章に読めるとこがおかしいですね。
如来=十の称号は
阿羅漢=十の称号になるわけないでしょう。
阿羅漢であっても智恵が優れていたり神通が優れていたり
舎利仏や目蓮のようにどちらかに偏るバラつきがありますから
まだ精進の入り口なんですがねw

39 :
>>21 :神も仏も名無しさん:2013/01/06(日) 10:10:09.08 ID:W5IeVpvI
>煩悩→業→苦、という循環は、苦で終了するわけではないよ。
>苦→煩悩→業、という具合に、無明が無くなるまで循環する。
仏教には「苦→煩悩→業」などないことは、
今、議論しているアグリマーラや大目連を見れば十分です。
アングリマーラは石をぶつけられ血だらけになり、「苦」が生じたが、
彼は新たに煩悩に囚われることなく、その煩悩に基づく行為もしなかった。
大目連は異教徒に強打され、「苦」が生じたが、その苦から煩悩を
生じることはなく、煩悩がないのだから、それに基づく行為(業)もなかった。
苦があれば煩悩が生じるなんて、桐山さんや準シュダオンさんは
まさにそうだろうが、解脱者たちは違うのです。
桐山さんや準シュダオンさんみたいに煩悩が大好きで、煩悩が好物で、
欲望や執着のままに生きている人たちには理解できないし、理解したくない。
煩悩を減らせなんて一番彼らが嫌うことだからです。
だから、桐山さんも準シュダオンさんも、必死に、煩悩を捨てるという教法を
矮小化して、無視しようとしている。
こういう彼らの煩悩を無明というのです。

40 :
>>19 :神も仏も名無しさん:2013/01/06(日) 09:44:41.19 ID:W5IeVpvI
>悪業を帳消しにしなければ
>悟りを得て解脱することは出来ないでしょう。
準シュダオンさんは何度説明されても理解できない。
信者さんたちは準シュダオンさんのような決めつけではなく、
批判側が引用した現実の阿含経を良くみることです。
アングリマーラは解脱した後に、石を投げられたのです。
悪業が帳消しになどなっていない。
大目連は解脱した後に異教徒に襲われて殺された。
そしてはっきりと彼はこれは自分の業の報いであると述べている。
悪業の報いを帳消しにしなければ解脱できないというなら、
アングリマーラも大目連も解脱していないことになる。
だが、二人とも解脱者、仏陀です。
なによりも、信者さんたちに気がついてほしいのは、
悪業の報いを帳消しにしなければ解脱できないなどという教法は
阿含経どころか、どんな仏教にも存在しないことです。
アゴン宗など一部の新興宗教の珍説であって、大乗仏教ですら、そんな教法はありません。
信者さんたちが信じている因縁解脱なんて桐山さんの作り話、
オカルト、嘘、インチキにすぎない。

41 :
>>38 :神も仏も名無しさん:2013/01/06(日) 13:34:56.81 ID:DniM6/yq
>如来=十の称号は
>阿羅漢=十の称号になるわけないでしょう。
「山田さんは父親であり、息子であり、夫である」を
山田さんの三号と呼んでいるのと同じです。
山田さんという同一人物の属性を述べているにすぎない。
仏の十号も同様で、解脱者の様々な特性の呼び名です。
大乗仏教が、仏弟子たちを卑しめるために、わざわざ阿羅漢を
一つ下の位に位置づけた。
もちろん、これは嘘で、釈尊も仏弟子たちも同じ解脱者であり、
阿羅漢であり、仏です。
釈尊時代もすでに釈尊が独覚であることから、特別扱いし、
他の阿羅漢をその下と見る風潮はあった。
弟子たちが釈尊を尊重し、自分より上とみなし、特別扱いするのは当たり前です。
だが、教義から言うなら、解脱者たちは全員が阿羅漢です。
桐山さんはさも自分の発見であるかのように臭わせているが、
彼のオリジナルの指摘ではありません。

42 :
阿羅漢は供養に値する人の意味で
阿羅漢≠如来でなく如来≒阿羅漢が正しく
試験で阿羅漢=如来が正しいか
如来=阿羅漢が正しいかで二択が出て
阿羅漢=如来に○印したら不正解になりますよ。
______________________
如来の十号
一号、供養に値する人、阿羅漢
二号、完全に悟った人、等正覚
三号、明行を具えた人、明行足
四号、最善の世に逝く人、善逝
五号、世間を解するも人、世間解
六号、最高に優れた人、無上士
七号、衆生を導く人、調御丈夫
八号、天人を教えるも人、天人師
九号、真理に目覚めた人、仏陀
十号、世で最も尊い人、世尊

43 :
>>42
お〜い、生半可〜。
応供がないぞ〜www

44 :
>お〜い、生半可〜。
>応供がないぞ〜www
プッW
阿羅漢=応供・福田が含まれてますが

45 :
>>42 :神も仏も名無しさん:2013/01/06(日) 14:00:03.69 ID:DniM6/yq
>阿羅漢は供養に値する人の意味で
>阿羅漢≠如来でなく如来≒阿羅漢が正しく
「=」で結んだのが気に入らないというなら撤回しましょう。
十号はすべての解脱者の特性を現しているという意味で「=」で結んだ。
「山田さんは父親だ」というのを「山田=父親」と表現したのです。
もちろん、父親とは山田さんのみを表す、なんて意味ではありません。
たとえば、応供、供養に値する人とは、実は解脱者だけでなく、
出家した比丘はすべて供養に値する人です。
つまり、応供とは如来の一つの特性で、十号はすべての解脱者に当てはまる属性です。
しかし、「如来≒阿羅漢」というのは桐山さんが指摘した大乗仏教の
考えそのまんまではありませんか。
釈尊が如来と阿羅漢を区別しているとは知りませんでした。
経典を示してください。

46 :
如来ってのは略語だわな <真如の法を説くためにこの世に来た> 
つまり最も先覚者である。 
釈尊の指導を受け後から仏陀になった阿羅漢達は
自己を如来とは称せ無かった。
阿羅漢達は釈尊に遠慮したのではない、そもそも位が違うのである。
ではその如来位のAAA各付けを誰がしたのでしょうか?

47 :
>>43
アラハンの音写が阿羅漢、してその漢訳の意味が応供ですからね。
時に確認の質問なんだが、あなたが書いていることは、桐山さんは如来も阿羅漢を
混同していると批判したいわけですか?

48 :
大蔵経典を調べても阿羅漢は如来という文章は見つかりませんけど。
如来(釈尊)と阿羅漢弟子と区別してあるようですね。
別譯雜阿含經  
念汝當念佛諸功徳憶佛十號 如來 應供 正遍知 明行足 善逝 世間解 無上士 
調御丈夫 天人師 佛世尊 是名念佛云何念法如來所説勝妙之法等同慶善現在得

49 :
阿羅漢は如来と同等の悟りを得た者という話なら別でしょうね

50 :
>>42の>九の真理に目覚めた人、仏陀は私の間違いで
阿羅漢は仏陀であっているでしょう。
しかし如来は釈尊そのものを経典では指すようですね。

51 :
>>50
桐山アゴン宗批判、あるいは擁護と何か関係ありますか?
大してなければ私はレスを付けるのをやめたい。

52 :
>>46 :神も仏も名無しさん:2013/01/06(日) 15:10:08.83 ID:3roU0OWv
>阿羅漢達は釈尊に遠慮したのではない、そもそも位が違うのである。
阿含経のどこにこういう指摘があるのでしょうか。
私は反論しているのではなく、質問しているのです。
釈尊が如来という言葉について詳しい定義をしているのを読んだことがない。
「オレ様は如来、オマイ等は阿羅漢、格が違う」なんて読んだことがない。
また釈尊の教法を読んでいても、そのような厳密な定義をする人とは思えない。
なのに、どうして如来と阿羅漢が違うと言えるのですか。
阿羅漢など十号についても、明瞭な区別を付けた例とか、
ランク付けをした話なんて見たことがないから、質問しているのです。
必要なことは釈尊本人がそのような区別をしているかどうかです。
ありませんよね。
十号は強調したい内容を別な表現で何度も繰り返す、というそれだけのことで、
どれも解脱者くらいの意味です。

53 :
>>48 :神も仏も名無しさん:2013/01/06(日) 15:17:27.25 ID:DniM6/yq
>念汝當念佛諸功徳憶佛十號 如來 應供 正遍知 明行足 善逝 世間解 無上士 
>調御丈夫 天人師 佛世尊 是名念佛云何念法如來所説勝妙之法等同慶善現在得
仏の十号そのまんまですよね。
如来が阿羅漢だとはないと言うが、この記述では、十号が対等に並んでいるのだから、
解脱者をこのように十種類の名称で並べたと見るのが普通ではありませんか。
それでこの経典をどう読めば、「如来≒阿羅漢」と読めるのですか。
「阿羅漢+残りの九種を備えてえて仏陀」(>>18)には読めません。
上記の引用だけで言うなら、如来も応供(阿羅漢)も区別しているように見えません。
解脱者たちを如来と言おうが、阿羅漢と言おうが同じに見えます。
阿含経でよくあることで、同じ内容をくり返し説明しているだけです。
>>51のユビキタスさんの指摘と関連しているのだが、
私があなたにレスをつけているのは、一つ気になることがあるからです。
48さんはまさか、応供(阿羅漢)と如来は違うから、桐山さんの「応供の如来」
という表現はおかしくないと言いたいのではありませんよね?
48さんはそんな意図はないと思うのだが、そこが気になってレスをつけているのです。
ぜひ、「そんな意図はない」と否定してください。
また、そのような意図がなければ、ユビキタスさんの指摘どおり、
スレの主旨から外れますので、議論はこれで終わりにしたいと思います。

54 :
阿含経では釈尊の次に出る如来は如来等正覚者彌勒といっていますから
お経では生徒が先生と同じ教養を身につけた如来(先生)と阿羅漢(生徒)の呼称は先生と生徒の区別だね

55 :
バウッダのP37〜P41を読む限り、
如来は釈尊だけでなくジャイナ教でも使用されていた。
釈尊の別称として100以上あり、その内の最も著名なものを10だけ
数えあげて、これを「仏の十号」と名づける例が、かなり古くから行われている。
と書いてあるから、同じ一人の覚者を指した言葉ではないですか。

56 :
>>53
>如来が阿羅漢だとはないと言うが
教養があるようですが話を反対に摺り変えしないでねw
血が昇ってるようですから頭を冷やしたほうがいいですよ。
>>42
阿羅漢≠如来でなく如来≒阿羅漢が正しく
試験で阿羅漢=如来が正しいか
如来=阿羅漢が正しいかで二択が出て
阿羅漢=如来に○印したら不正解になりますよ。

57 :
記号を付け間違えたかな?
阿羅漢<如来=×
如来<阿羅漢=○

58 :
>>56
それが桐山擁護や批判にどんな意味があるのか?
明確にしてから論じれば。
.

59 :
すごく簡単に言えば
1+1=3の間違いを1+1=4が正しいんだとではいかんかなと

60 :
>>59
それで ??
桐山さんとどう関係があるかだ。
.

61 :
桐山さんが阿羅漢が如来だと言ってるなら不正解で
阿羅漢は如来の十号の一つで仏陀だと言ってるなら正解じゃないの

62 :
>>61
わかりました。あなたの阿羅漢数@来であり完璧なイコールには相当しないのだと
いう主張はわかりました。
桐山さんが間違っているのかいないのかもそれにかかっているということもわかりました。
ならば、この阿羅漢如来論はもう終わりにしましょう。
どちらにしてもアゴン宗批判にも擁護にも重要なテーマとはなり得ないと判断したからです。
あなたのことを生半可と暴言を吐いたことは謝罪しますが、あなたもスレ趣旨を
よく理解してください。

63 :
>仏教には「苦→煩悩→業」などありませんが、「煩悩→業→苦」はあります。
>煩悩が行為(業)となって現れ、苦を受けるという意味です。
ユビキタスくんは、深山くんのここ↑をよく考えるようにね。多くの学者先生は、
煩悩→業→苦、を説明して、だから煩悩を滅すれば苦も滅する、と説明して終わり
にしています。しかし、釈尊は12因縁で、7感受→8渇愛、と説いているのです。
苦から煩悩が生じると説いているのですが、これを説明してる学者さんは、いるの
ですかね?
激しい咽喉の渇き(苦)が水を欲するを例えて渇愛(煩悩)という、との解説はよ
く目にします。そういう煩悩を無くせば苦もなくなる、とかね。
しかし、自分の頭で考えてみなさいよ。咽喉の渇きをそのままにして、水が欲しい
という欲望を、捨てることが出来ますか?
学者先生方は、水を欲しがらねば咽喉の渇きは消える、そのように説明します。
しかし、それは無理です。
咽喉の渇きを消す法はないのか?そこから阿含仏教はスタートします。
そして、それは可能だとします。
釈尊はキノコを食べて腹痛を起こしましたが、その苦から煩悩を起こしません。
凡人ならば、激しい腹痛から煩悩を起こすのです、この先病気になったら医療費が
大変だな、などと考えてケチケチの煩悩を起こす、とかね。
これが、7感受→8渇愛、の縁起ですね。

64 :
>>63
>しかし、釈尊は12因縁で、7感受→8渇愛、と説いているのです。
>苦から煩悩が生じると説いているのですが、これを説明してる学者さんは、いるの
>ですかね?

どうして感受→渇愛が苦から煩悩が生まれた話になるのか?
名色、六処、受は人間の感覚器官により外界からの刺激を感受作用を表している。
これ自体に苦も煩悩もない。
受の後の愛→取こそが煩悩が活躍するシーンなのだが、それは喉の渇きを癒す為に
潤す貪りを愛と表現した。
喉の渇きは苦ではなく、煩悩の働きの表現です。
単なる感受作用から煩悩を以て拡大増幅して貪り取り入れることを表します。

65 :
>>56 :神も仏も名無しさん:2013/01/06(日) 16:39:26.88 ID:DniM6/yq
>教養があるようですが話を反対に摺り変えしないでねw
話をすり替えてなどいません。
あなたのわかりにくい文章と表現を理解しろというほうが無理です。
あなたの主張には根拠がないと指摘したのです。
「阿羅漢<如来」「如来<阿羅漢」がどちらであるかを質問したのではなく、
何を主張しているのかよくわからないから、元となった文章、つまり
阿含経のどこに書いてあるのかと質問したのです。
「如来≒阿羅漢」と、如来と阿羅漢が別物であるかのようにあなたは書いたが、
実は阿含経の根拠などない。
私から指摘されてから、あわてて検索したのでしょう?
だが、探せなかった。
あなたが引用した阿含経のどこに「如来≒阿羅漢」とあるのだ?
どう読んでも、解脱者の名称、属性として対等に並んでおり、
釈尊は両者は違うなんて説明はしていない。
あなたの主張がなんであるか、私は未だに理解できないが、
いずれにしろ、根拠がありません。

66 :
>>63
>しかし、釈尊は12因縁で、7感受→8渇愛、と説いているのです。
>苦から煩悩が生じると説いているのですが、これを説明してる学者さんは、いるの
>ですかね?

喉の渇きを潤すが如き激しい貪りを渇愛と表現した。
喉の渇きではなく貪りにウエイトがかかっている。
外界からの刺激を感受するにあたって、貪りの煩悩が働いているのです。
この貪りはもともと人間に備わったものであり、外界の刺激で喉のか渇きという
一種の外傷の被害が生じて苦が生じたなんて話ではない。

67 :
>>61 :神も仏も名無しさん:2013/01/06(日) 17:53:24.36 ID:DniM6/yq
>桐山さんが阿羅漢が如来だと言ってるなら不正解で
>阿羅漢は如来の十号の一つで仏陀だと言ってるなら正解じゃないの
やはりスレ違いですね。
アゴン宗では如来と仏陀の区別はつけていません。
ですから、あなたの配点からすると、桐山さんは不正解です。
だが、アゴン宗批判にもならない。
なぜなら、その主張の根拠を示せないからです。
あなたが根拠を示して桐山さんの過ちを指摘したのなら、
多くの読者は納得するだろうが、>>48が根拠では批判側すら納得しない。
岩波仏教辞典の「如来」には次のような説明がある。
「初期の仏典では語義説明がされていない」
つまり、阿含経では如来は厳密には定義されていないのです。
定義もされていないのに、○○とは違うなどと主張しても意味がない。
阿含経の根拠を示してほしいと言われても、あなたは何も出せない。
結局、擁護でもなければ、批判にもならない。
スレ違いです。

68 :
>>63
>しかし、釈尊は12因縁で、7感受→8渇愛、と説いているのです。
>苦から煩悩が生じると説いているのですが、これを説明してる学者さんは、いるの
>ですかね?

無明の煩悩から始まり、渇愛の煩悩も介在する十二縁起の話を出すならば
その煩悩から苦が生じる苦とは何かと言えば、最後の老死です。
しかし老死の苦の前に生がある。
すなわちこの世に生まれてくるということです。

69 :
>>63
>しかし、釈尊は12因縁で、7感受→8渇愛、と説いているのです。
>苦から煩悩が生じると説いているのですが、これを説明してる学者さんは、いるの
>ですかね?

私たちがオギャーと産まれてきたのは実は無明から始まり感覚機能と愛着煩悩も
介在して生存を選び取る因果作用を説明したのです。
四苦八苦のとりわけ四苦。生老病死という苦はどうして生じたのかを説明したのです。
煩悩があるから老化の苦が生じたのではなく、まず誕生が生じたのです。

70 :
>>63
>しかし、釈尊は12因縁で、7感受→8渇愛、と説いているのです。
>苦から煩悩が生じると説いているのですが、これを説明してる学者さんは、いるの
>ですかね?

あなたは不思議に思ったことありませんか?
四苦八苦の四苦、すなわち生老病死だが老病死が苦なのはわかるが、どうして生苦、
生を苦にしてしまうのか?老病死は生があるからには当たり前に起こる話であり
この苦は避けられない。だから生まれてくること自体が苦なんです。

71 :
>>63
>しかし、釈尊は12因縁で、7感受→8渇愛、と説いているのです。
>苦から煩悩が生じると説いているのですが、これを説明してる学者さんは、いるの
>ですかね?

無明や愛着の煩悩があるからこの世に生が生じたことを示すのが十二縁起です。
だからまず四苦八苦をテーマに掲げたその苦は前世から煩悩あることによって
またしてもこの世に生を選び取ってしまったからだと説明している。
ならばその根本解決とは生まれてこなくなることです。

72 :
>>63
>しかし、釈尊は12因縁で、7感受→8渇愛、と説いているのです。
>苦から煩悩が生じると説いているのですが、これを説明してる学者さんは、いるの
>ですかね?

なぜなら生まれてくる限り老病死の苦は必ずつきまとうからです。
この苦をなくそうと思ったら次には生まれて来ないことです。
今はもはや生まれて来てしまっているのだから老病死の苦は避けられない。
ならば次は生まれて来ない、これしか根本解決はありません。

73 :
>>63
>しかし、釈尊は12因縁で、7感受→8渇愛、と説いているのです。
>苦から煩悩が生じると説いているのですが、これを説明してる学者さんは、いるの
>ですかね?

ところが桐山因縁解脱って、生はそのまま受けながら、ガンなどの病苦は避けたいな、
事故死などは避けたいなという話であり、こんな都合のよい御利益は釈尊の
十二縁起と何も関係なく、十二因縁を根拠に因縁解脱なんて話が成り立たないのです。

74 :
>>63
>しかし、自分の頭で考えてみなさいよ。咽喉の渇きをそのままにして、水が欲しい
>という欲望を、捨てることが出来ますか?
ここに最近人気もある壇蜜みたいな若い女性がいます。
これが名色。これをあなたの六処の感覚器官を経て感受作用として刺激が入ってきた。
それをあなたは喉の渇きを潤すがごとき激しい貪りの愛着煩悩で抱きたいと思い、
抱いた(取)
これって性欲の苦はやっちまって解消せねば解決しない話ですか。
おっと「やる」なんて放送カットだよ、好楽さん。(今日の笑点参照)

75 :
補足:今日の笑点
お題は元気な爺さんに扮した回答者が婆さんに扮した司会者歌丸に対して
声をかけ、歌丸が「年齢を考えなさい」と返されて、また返すというもの。
好楽「婆さん、子どもを作ろう」
歌丸「年齢を考えなさい」
好楽「じゃあ他の女を探してやろう」
他の落語家「やろうはまずいんじゃない。放送カットだよ」

76 :
>>63
>しかし、自分の頭で考えてみなさいよ。咽喉の渇きをそのままにして、水が欲しい
>という欲望を、捨てることが出来ますか?
つまりあなたは渇愛という言葉、喉の渇きについて、これを単に激しい貪りの比喩表現
とはせずに、喉の炎症は薬によって鎮痛治療せねば健全な仕事も出来ぬではないか
という話にすり替えただけなんですな。

77 :
突然ですが、失礼いたします。
以前掲示板で話題が出ていましたが、阿含宗初の高額初護摩札(10万円のジュンテイ尊初護摩札)や
管長メッセージや守護霊授与に関する資料をUPしたHPを作成しました。
http://agon.ojaru.jp/ 阿含宗関連資料P
メニューのPから各項目へ入ってご覧いただけるようになっています。
また今年の法施である恵比寿大黒天などの法施は資料が入り次第UPします。
(現在はまだ入荷してないのでUPできません)
とりあえず資料Pなので詳しい解説や批判内容はほとんど書いていません。
後に折を見て自分も意見を掲示板で書いて行けたら、と思っています。
皆様の考察と検証の一助になりますことを祈って、合掌。

78 :
 お詫びです。
 スレが立たない、という投稿があったので、代わりにトライをしたら、スレが立ったのですが、
操作のミスで、219のままだったのと、既に220が出来ている事に気がつきませんでした。
 どうも、私のミスでみなさまにご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。
ですから、新しく出来た219は無視して下さい。

79 :
>>65
刷り替えてたじゃん
阿羅漢は如来であると言ったと
阿含経だろうと阿羅漢と如来は区別してないから
弟子達も如来での記述していいと言ってるようなもんだね。
誰の言葉か判別つかん思考じゃん
わざわざ経典でタタギャター(先生)とアルハットの呼称の違い教示する必要ないでしょう。

80 :
>>77
追記
今朝新しいPを追加。
今年の京都護摩についてのちらしや法施のチラシ画像らをUP。
一部まだ教団自体で公開してない物以外は載っています。
如何に阿含宗が釣り商法なのかを垣間見る機会です。
どうぞご覧ください。

81 :
パーリ仏典
http://www.bukkyouoshie.com/suta/
経典学習の際の注意〜原始仏教原理主義になってはならない
注意が必要なのは、経典に書いてある文言を絶対視してしまうことです。
経典に書いてあることを正確に理解することは学習上、必要ではありますが、
経典に書いてあることを絶対視過ぎると、これは誤りになります。
原始仏教原理主義になってはならない
しかし経典に忠実になりすぎると、いわゆる「原理主義」となって排他性が出てきます。
「そんなこと経典に書いていないじゃないか」とか、何事も経典を参照して正確性を求めます。これが原理主義です。
文字化された経典学習だけでは仏教は体得できない
仏教徒は、理屈や理論で学び実践するだけではありません。理
屈や理論の向こうにあるものに基づいて実践していくものであると思っています。
頭でっかちで、理屈や理論に偏重し、知らぬ間に偏狭性な心になるような原理主義にはなってはならないでしょう。
http://www.bukkyouoshie.com/suta/kyoutencyuui.html

82 :
 
京都深山   http://www.youtube.com/watch?v=hwXgPirlfcc

83 :
>81 :神も仏も名無しさん:2013/01/07(月) 06:18:55.13 ID:x63g/SIW
>経典学習の際の注意〜原始仏教原理主義になってはならない
桐山さんは、釈迦金口の教えが阿含経にしかないと主張している。
桐山さんは、阿含経を標榜しているのだからその原典たる阿含経に
照らして桐山矛盾を批判している。
ここは、原点・原典主義である桐山さんを批判する場所ですから、
批判側へのあなたの非難は当たりません。
>文字化された経典学習だけでは仏教は体得できない
仏教徒は、理屈や理論で学び実践するだけではありません。
これもスレを理解していない証拠です。
批判側の立場は、釈尊信仰という信者目線で批判していない。
ここは信仰掲示板ではなく、あくまでも桐山アゴン宗の批判板です。

84 :
>>74 :ユビキタス ◆AFU2rOqH7nac :2013/01/06(日) 20:08:27.87 ID:+4NjpsmX
>ここに最近人気もある壇蜜みたいな若い女性がいます。
壇蜜さんを最近テレビで見ましたが、人気があるんでしょうか?
私にはどこがいいのかさっぱりわからない。貪りの愛着煩悩もまだしっかりあるのに。
あの女性には何のエロスも感じない。何故かアラフォーの方に魅力を感じますね。歳なんでしょうw
>>73
>ところが桐山因縁解脱って、生はそのまま受けながら、ガンなどの病苦は避けたいな、
>事故死などは避けたいなという話であり、こんな都合のよい御利益は釈尊の
>十二縁起と何も関係なく、十二因縁を根拠に因縁解脱なんて話が成り立たないのです。
我執がプンプンしてますね。煩悩全開です。
自分に都合のよいことばかりの追求です。諸法が無我なのに、その反対の追求です。
そして、十二因縁のどこをどう読めば「苦から煩悩が生じる」なんてタワケが出てくるのか?
釈尊に弓を向けてどうするんでしょう。
.

85 :
>81 :神も仏も名無しさん:2013/01/07(月) 06:18:55.13 ID:x63g/SIW
>理屈や理論の向こうにあるものに基づいて実践していくものであると思っています。
頭でっかちで、理屈や理論に偏重し、知らぬ間に偏狭性な心になるような原理主義にはなってはならないでしょう。
このような目線で主張していること自体、桐山擁護に関係するようです。
桐山さんは、「学者物知り後回し」などと言って実践こそ信仰修行だと、
述べていましたから、桐山説の匂いがプンプンしています。
その「理屈や理論の向こうにあるものに基づいて」とは、何があるのですか?
桐山さんの実践とは他者が確認しようのないモノばかりです。
釈尊の基本的思想を「理屈や理論」でコネ回しているのは誰あろう擁護側です。
阿含経では、釈尊は「師に握り拳はない」と書かれているのですから、
阿含経に記された範囲の実践をすれば桐山さんもアゴン宗も批判されない。
しかし桐山さんは偏重どころか都合で拡大解釈し、経典ねつ造までしています。
阿含経には、「因縁解脱」も「三福道」も無いのだから仏教ではなく外道です。

86 :
>>79 :神も仏も名無しさん:2013/01/07(月) 01:01:30.31 ID:x63g/SIW
同じ事を書きます。
あなたは>>18で、桐山さんが阿羅漢と如来との区別をつけないのは間違いだと
指摘したらしい(よくわからないが、たぶんそういう意味でしょう)。
それが事実なら、桐山批判の一つとなる。
だから、批判側は歓迎なのです。
だが、根拠となる経典としてあなたは十号を示しただけで、
両者が別物であるということは示せなかった(>>48)。
そうなると、十号の記述をどう読むかという国語の解釈の問題であって、
あなたの解釈がそのまま阿含経にあるわけではない。
一つの概念を様々な表記をすることは阿含経では珍しくないからです。
たとえば煩悩は毒、障、結、縛、纏、魔、火など様々な表現があるが、
だからといってこれらの言葉に上下関係があるのではなく、
一つの言葉を当時の人たちが知る様々な言葉で置き換えたにすぎない。
桐山批判なら大いに歓迎したいが、あなたの書いた内容では
根拠に乏しく信者への説得力がありません。
解釈を問うと、ここにいる準シュダオンさんのように、
「束縛」を業の報い(悪因縁)などと解釈する愚か者も出てくる(>>20)。
したがって、新たに阿含経の根拠や学者の解釈を示してもらわないかぎり、
スレの主旨からいって、ここでの議論は終了です。

87 :
>>78 :無関係な人間です ◆/r5j5C8KiI :2013/01/06(日) 21:30:35.69 ID:XTiclyUe
いつもスレ立てにご協力いただきましてありがとうございます。
このまま漂流させてスレ落ちにしてしまうという手と、そうでなくても
スレが立たずに困っているのだから、有効利用するという手もあります。
たとえば、この220の後の221として使い、
さらに次にスレを立てる時は221とせず、222とするという手です。
いずれ倉庫に格納され、あのスレ(219)を221番目に入れるだけですから、
さしたる問題ではありません。
219の2に「番号が219から221に変わった」と書き入れておくという手です。
また、スレ落ちしないように、たまに書き込んでおく必要があるかもしれせん。
他の方の意見はいかがでしょうか。

88 :
>また、スレ落ちしないように、たまに書き込んでおく必要があるかもしれせん。
他の方の意見はいかがでしょうか。

賛成します、無関係さんの折角のスレ立てを大事にしたい思いです。
>1 スレ立て感謝します。

89 :
>>86
経典に違いがあるのか私が質問した後に区別の表記が無いのは
あなたもそれで知ったようですね。
最初から知っていたら経典の記述を教えてほしいとはいわない。
あなたのの言い分では500羅漢像も500如来像でいいんじゃないの。
経典では呼称の区別として先(如来)と徒(阿羅漢)の違いを幼児でも判るのを
いちいち解説してるほうがおかしい。

90 :
>>89 :神も仏も名無しさん:2013/01/07(月) 12:39:59.70 ID:2YpfDuYQ
>経典に違いがあるのか私が質問した後に区別の表記が無いのは
>あなたもそれで知ったようですね。
相変わらず一度読んでも意味がよくわからない文章です。
私は如来と阿羅漢の区別なんて今までも今もつけていません。
あなたは違うと主張しているらしいが、根拠が示されていない。
ですから、議論はそこまでです。
読者からスレ違いだという苦情が出る前に、お引き取りください。

91 :
>>87
>また、スレ落ちしないように、たまに書き込んでおく必要があるかもしれせん。
>他の方の意見はいかがでしょうか。
無関係さんが善意の間違いで立てたスレを次の221スレとして有効活用することに賛成です。
しかし最終的にそれを決めるのは当スレが500ログあたりになってきて、そろそろ
残りが不安になってきた時でよいと思います。
すなわちスレ落ちせずに無傷で残っていた場合です。

92 :
>>90
あなたは如来と阿羅漢の格の違いは無いといいたいそれだけ
だが阿含経典で如来と言えば釈尊だとも認めたくないらしい

93 :
>>87
>また、スレ落ちしないように、たまに書き込んでおく必要があるかもしれせん。
>他の方の意見はいかがでしょうか。
落ちないように保守するのも大切かもしれませんが、無理に保守せずとも
落ちたら落ちたで仕方ない。まあ最初から削除依頼はしないというだけですね。
保守ならよいが、最近ヂミズさんも見かけませんが、違反スレみたいな荒らしに
埋められてしまったら、それも程度問題ですが、その時に協議しましょう。

94 :
>>77 >>80:天照 ◆MO30b8Jwoo :2013/01/06(日) 20:56:00.81 ID:/MRPkLfp
>如何に阿含宗が釣り商法なのかを垣間見る機会です。どうぞご覧ください。
資料ありがとうございます、久々に見ましたが、一言で言えば「おぞましい」限りです。
嘗ては私もその釣り餌に飛びついた一人なので生意気は申せないが、法施の数々が余りにも
おぞましく、ご利益のオンパレードです。
さらには管長メッセージは常の通り、どこかの新装開店と同様にただ看板メニューを
東伝ブータン仏教に挿げ替えて星祭りを敢行するそうで、その内容は、「法脈、秘伝秘法、
新法号、神秘、霊力、特製祈念」等々の羅列、何度も掲示されていますが再度噛みしめたい。
(ヒンドゥー教と叙情詩 中村元選集−111頁)
『例えばある種の修行者・バラモンがたは、信者から与えられた施しの
 食物を食べて〔生活しながら〕次のような卑しい術、邪悪な生活手段に
 よって生活を営んでいます。すなわち、四肢の特徴により、前兆により、
 自然現象の異変により、夢見により、身体の特徴により、鼠に噛まれた
 衣服によるなどの諸種の運命判断、また火を焚く護摩の術〔用法の異なる
 種々の〕杓子を用いる護摩の術、もみがら・ぬか・脱穀した穀物・凝R・
 油を備える護摩の術・種子などを口から火の中に吐き出して行う護摩の術、
 〔右膝からとった〕血をささげる護摩の術、また〔指の関節などの〕身体を
 見て呪文を唱えて行う運命判断、家を建てる土地の相の判断、畑の判断、
 山犬の鳴き声による占いの判断、悪霊祓いの呪術、地の中の宝や金鉱を
 みつけるために占う術、蛇呪文、鳥や烏の鳴き声による運命判断、これからの
 人の生きられる寿命の予知、矢から身をまもる呪文、 動物の鳴き声による
 運命判断〔などを生活手段としている〕。 しかしこのような卑しい術を
 行なわないのが、また修行僧の戒めの一つです。−後略−』
 

95 :
>>81 :神も仏も名無しさん:2013/01/07(月) 06:18:55.13 ID:x63g/SIW
>文字化された経典学習だけでは仏教は体得できない
仏教徒は、理屈や理論で学び実践するだけではありません。
理屈や理論の向こうにあるものに基づいて実践していくものであると思っています。
批判するうえでは経典や学説を参考しなければならない。
アゴン宗が阿含経経典の範疇で実践修行を教導するなら良し。
だが、上記主張は阿含経における実践とは何かを知らないようです。
仏教は、「漏盡解脱」を修行目的として説かれています。
煩悩を統御し、できるだけ減らすこと、新たな欲を抑え、滅することです。
しかしアゴン宗桐山さんは、http://agon.ojaru.jp/ 阿含宗関連資料Pを
見る限り、信者に多くの欲を植え付けるような扇動をしている。
それが、「理屈や理論の向こうにあるものに基づいて実践」では無い筈です。

96 :
 寛大なご対応に感謝申し上げます。
 では、おおせの通りにさせていただきます。どうも、このたびは失礼をしました。

97 :
ヤバイ、欲を煽られたぁ
信者でない私も欲しくなってきた

98 :
>>95
>上記主張は阿含経における実践とは何かを知らないようです。
>仏教は、「漏盡解脱」を修行目的として説かれています。
>煩悩を統御し、できるだけ減らすこと、新たな欲を抑え、滅することです。
  ↑
浄土の坊さんでも誰でも知ってるいる慢心の説教ですか
阿含経における実践の基本は大乗にもチベットにもありますがw
チベットでは上座、大乗、金剛乗の三つ形態で一つで最初に上座(小乗)から
学びますが。

99 :
北伝の阿含経も南伝のパーリ三蔵もジャイナの思想が混入してるのが歴史学上の事実ともなっています。

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