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2013年02月戦国時代305: 織田勝長総合スレ (405)
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織田勝長総合スレ
- 1 :2006/07/01 〜 最終レス :2013/02/01
- このところ、日本史板、戦国板などで何かと話題に上る勝長。
その不自然な厚遇ぶりの理由はどこに?
犬山城主、信忠与力。
義兄である、信雄や信孝よりも明らかに上の扱い。
安土城で、栄華の中での元服とはいえ、兄達のそれとはあまりにも違う華やかさ。
どうしても判明しない生母を考えると、そこまで厚遇する理由が分からない。
そして、武田家での人質時代には、勝頼の秘蔵っ子と言われた逸話まであり。
本能寺の変の時に二条城で亡くなった、この謎の武将について語りましょう。
- 2 :
- 話題に上った事見た事無い
- 3 :
- 天皇家の落胤とかだったのかな
- 4 :
- 慶大の故某教授が残した歴史メモを元に作られた歴史カレンダーには
(いろんなHPや携帯コンテンツの今日は何があった日かもこれが
元になっているものが多い)
本能寺の変の所で、長男信忠「次男」勝長も二条城で自害と
書いてあるらしい。このメモはこの教授が個人的に集めていたもの
らしく、何の根拠があって次男なのかまでは不明。
- 5 :
- 次男なのは、おそらく「織田姓」を名乗らせた息子としての次男なんじゃないか?
他は、養子に出しちゃって別の姓を名乗ってるから(信雄、信孝は信長死後織田姓に戻ってるが)
あと、一つの仮説としてだが、近江國輿地志に「御台出産」の記述があるから、
この御台が生んだ子供が年齢的に見て、勝長なんじゃないかという話が、
濃姫関連の話題の出たところで何度か出ている話だ。
もし、そうだとしたら、信忠は濃姫の養子で濃姫が手元で育てたらしいから
そういう意味での次男なのかも知れない。
- 6 :
- 勝長って信玄が養子にしていたらしいな。それで人質と言っても
実際は一門並みの扱いで大事されていたらしい。
さらに勝頼も養子にして同じように大事にされたという話も。
もしこれらが本当なら、武田父子がなぜ信長の息子を2代に渡って
養子にするほど厚遇したのかも疑問だ罠。
- 7 :
- 美童ゆえの厚遇・・・
信玄父子の寵愛・・・
串刺し親子丼か
- 8 :
- 勝長に美童なんて記述あったか?
- 9 :
- それは普通の事。
今川の家康、織田の氏郷などと同じで。
もし織田の家督を継ぐような状況になった場合、
労せず優秀で信用できる、譜代家が出来上がる事になる。
人質で送られた子は、人質先の家と婚姻関係結んだり、英才教育受けたり、一門同様の扱いを受ける。
- 10 :
- 織田家と敵対してる勝頼の代になっても
対北条の将に抜擢されてなかったか?
- 11 :
- >>7
まぁ北条のところの三郎(のちの景虎)も美童ゆえに、
養子件人質といえどかなり大事にされていたらしいし。
三郎が信玄から与えられた名だとしたら、
勝頼も序列は上の扱いになるし。
- 12 :
- 苗字が織田だったのか津田だったのか分からないし、
実名は勝長といわれているが書状で残っているのは信房だし、
若くして討死した割には子孫があちこちにいるし、
本当に謎が多いな。
- 13 :
- おそらく勝長っていうのは、武田に人質に出てた時代に与えられた名前だと思う。
信長が与えたのは信房だろう。
あと源三郎の名前も与えたのかな。
三郎は織田家の嫡男の名前なんだったよね。
確か父親の信秀も別名が三郎だし、信長もそうだね。
そういや、信忠に三郎の名前は与えたなかったんだっけ?
「源」って字がくっついている事を考えると、嫡男信忠だけど、ある意味嫡男と
同等ってことを言いたかったのかな?
織田で津田っていうのは別におかしくはないし。
津田は織田一族の出自に関わる特別な姓だから。
織田信澄も津田信澄って別姓で表記される事もある。
そういや、信澄の幼名も「坊」だな。
- 14 :
- >>2
俺、三戦板にスレ立てたことあるけど
荒らされて300レスくらいで沈没した。
- 15 :
- そういえば、信長公記で「勝長」で出てくるのは、対面の時までだな。
その後の元服以降だと、織田源三郎か、津田源三郎で出てくる。
あ、御坊殿っていうのもあるか。
とりあえず、織田家中では、織田家での元服後は勝長じゃなく、源三郎ってことになってたんだろう。
そうすると、坊丸は武田と、織田と、両方で元服したのかな?
それとも、織田では元服じゃなく、単に名前を与えて犬山城主にしたってだけか?
- 16 :
- > 1581(年)
> 11(月) 信長の子で人質であった御坊丸(織田勝長)を、信長のもとに送り返し和睦をはかるが、一蹴される。
ttp://www.interq.or.jp/pure/miyatate/chronological-record.htm
- 17 :
- >15
『信長公記』の文中には実名は出てこないぞ。
『信長公記』の記述を信じれば、織田家に戻されたとき「犬山のお坊」と書かれているから、
元服したのは織田家に戻ってからだろう。
- 18 :
- >>17
おぉ、失礼。
そういわれればそうだ。
さっき信長公記の現本現代訳読んでたら小見出しに勝長ってあったからついつい勘違いしちゃったよ
- 19 :
- しかし、御坊殿という記述自体は、源三郎の記述が出てきた以降も使われている箇所があるから
それを持ってして元服が対面以降とはいえない気がするんだが。
- 20 :
- 史板での見解
津田(織田)源三郎勝長の別名は織田信房
織田に戻ってきて元服した時にもらった名前らしいのだが
この房という字は総にもなるそうだ(by広辞苑)
そして女房という言葉でもわかるとおり、常に傍らにいる人とか
置く人という意味を持ち、總とも書く。
こじつけだが、房(総)を上総介の総、源三郎の三郎を三郎信長の
三郎に当てはまるという解釈もできなくはないかなと。
そうなると、信長が生存時に元服した息子達の中で彼だけは
父親の名前を二つも貰ったことになるから、信長公記中にある
返還時の信長の彼に対する厚遇ぶりやかわいがりぶりを加味して
考えると、人質生活への労いもあるだろうが、子煩悩とはいえ
信長にしては少し異常さも感じるね。
(特に織田の膝元でもある尾張犬山に城を即与えたこと)
牛一も嫡男信忠でさえ、さしてあまり書いていないのに勝長の部分は
詳細に書き残しているのも引っかかるなと。書いた当時は高齢だったはず
なのだが、詳細に覚えているということはそれだけ安土での親子対面や
信長の行動が印象深かったのだろうとも考えられる。
そこまで信長が喜び、また厚遇し、戻ってきたばかりにも関わらず
尾張に城を与えることや信忠の与力に付けることを重臣達も意見した
節がないということは、少なからず信雄以上信忠以下もしくは信忠と同等の
立場だったのだろうから、母親も最低限お鍋以上の権限を持っていたような
女性、すなわち御台ということになるだろう?
- 21 :
- でも、それだったら、そんなに大切な息子を
なんで、あんな最前線の城に置いていたのかわからんな。
調略が絡んでいたとはいえ・・・
- 22 :
- 岩村城は、一応、美濃だからじゃないかな?
東濃は、武田の影響力も大きいけど、斉藤家の影響力も大きいからな。
ただ、信長は坊丸を岩村城に養子にやる事に関して、最初は絶対拒否って姿勢だったらしい。
でも、叔母の願いでもあるし、信忠との兼ね合いもあって、離しておきたかったのかも知れない。
信長自身が、跡目争いで苦労しているからね。
そのかわり、武田に人質として渡された時の信長の激怒は、尋常ではなかったという逸話がある。
実際、叔母でさえ磔にされているくらいだしな。
あと、これは個人的な推測だけど、御台出産の記事は上洛戦の最中に成菩提院で、
予想外にあった事らしいので、あまり多くの家臣には知られていなかったのかも知れない。
御台はそれほど人前に出てきていなかっただろうし、打ち掛け着るタイプの小袖なら
少々お腹が大きくても誤摩化せたのかも知れない。
何らかの理由があって、無事に出産するまではあまりおおっぴらにしたくなくて、
上洛時に一緒に連れて行って京都で極秘に出産の予定だったのかも。
実際、出産後しばらくは床上げも出来ない筈だから、出産したのが本当なら
御台はしばらく京にとどまっていた筈だ。
そう考えると、明けて2月に、京で御台の寝所に誰も寄せ付けるなと命令した理由も
その辺りにあると思えなくはない気がする。
実際に、身二つになっていれば、R母がついているから御台が授Rする事はない訳で、
信長が「御台に子供が生まれた」と言わなければ周囲にはよくわからない訳だから。
そして、その頃信忠は既に12〜13歳で、嫡男として内外に広まっている訳だから、
無用な争いは避けたかったのかなとも思う。
推測だけどね。
- 23 :
- 確かにわからん。そのくせご坊が武田へ連れて行かれた時は
顔色を変える程に激高したって逸話もある。
勝手といえば勝手。
それとも、信玄に対して大事な息子を危険覚悟でもそこに
置くぐらいにお前をまだ信用してんだからなという
意味合いがあったとか?・・・ってまさかそんな訳はないよな。
- 24 :
- まさか叔母が裏切るとは思わなかったんじゃないかな?
あと、落城するならするで、密かに脱出させるくらいはするだろうと踏んでいたか。
結局叔母は逆さ磔だし、岩村城開城の為に武田方と交渉した織田掃部もよくわからない理由で
殺されちゃってるし、相当怒っていたのは間違いないと思うけどね。
- 25 :
- 信長が叔母を最初から信用してなくて岩村→武田に行くことになることを
全て予想した謀略だった・・・・とか?
勝長こそ武田に対する最大のスパイだった・・・って小説読みすぎですね。
- 26 :
- 坊丸その頃6歳くらいだよ。
そんな、いくら何でも無理すぎではないだろうか?
- 27 :
- 年齢以前に岩村城の立地の重要性からいって、そんな予想はあり得ないだろ。
釣りで与えられるほど、安易な価値じゃないよ、あの城。
- 28 :
- 勢州軍記にはさ、濃姫には「男子」が生まれなかったってなってるよね?
だったら、「女子」は生まれたのかな?
だとしたら、近江國輿地志の出産記事は「女子誕生」と考えられなくないかな?
出産記事は永禄11年の頃の記事みたいだし、それに当てはまる信長の娘は見当たらないけど……。
だが、勝長の生母が濃姫であると考える方が、勝長の厚遇の説明にはなるか。
- 29 :
- 身内、しかも女が城を抱えて逆心したなら怒りも爆発するだろう。
(織田の血を受けた女が敵将と情を通じて、という複雑な部分もあろう)
勝長が織田に帰還して厚遇されたのは、
人的に優れた部分が認められたのということも憶測されるがな。
ソースは無いけどね。
- 30 :
- あと、疑問なんだけど、永禄11年って、信長の濃姫が結婚してから19年後だよね?
それまで子供出来てなかったのに、夫婦関係があったのかな?
信長が後家を側室にしているのって、子供を産んだ実績のある女性だからっていう
説があるでしょ?
戦国大名なんて、子供いっぱい作らなくちゃいけないし。
生駒の方を愛妾にしたのも、生駒の方が後家で出産経験があるからだよね?
(信忠以前に生駒の方には男子が生まれてるって聞いたけど、この辺よく知らないから
間違ってたら訂正よろしく)
で、信長の子供かどうかはっきり分からなくて庶子扱いの原田直政の妹の子供が
天文23年に生まれてるよね。
生駒の方が愛妾になったのは弘治2年くらいって言われてるでしょ?
武功夜話の記述だから信用は出来ないかも知れないけど、3人年子で生んでるってことは
生駒の方は孕みやすい体質だったとすると、愛妾になって意外とすぐに孕んだと考えられるし、
弘治2年って言うのはあながち間違ってない気もするんだよね。
坂氏の娘も弘治4年に信孝生んでるし、その辺りで愛妾や側室を持ったって推測が出来るよね。
そうすると、どっちにしても、本格的に子づくり始めるの遅くない?
普通、嫁して3年とかいうけど、それよりはゆっくり目だよね。
原田直政の妹は、信長の子かどうか分からないとか言ってるくらいだから、ご愛妾じゃ
なかったのかも知れないよね(いわゆるつまみ食い?お互いに)。
勝長なんかは、その時代の武将としては、別に珍しくない程度の若年で子供作ってるけど
信長はなんで若いうちに子供あまり作ってないんだろ?
(そういえば、信忠も、あまり若いうちに子供作ってないなぁ)
濃姫との間に出来た子供って、永禄11年が最初なのかな?
意外と、若いうちは何度か流産して、熟年になってから無事に出産する女性もいるし、
そういうのが何度かあって、子づくりが遅れたとかなのかな?
いくらなんでも、全然子供出来なかったら、閨房の事って意味の夫婦関係なくなりそうじゃない?
- 31 :
- 信長には、埴原乙殿という庶子がいたという記録が一応あります(信憑性は?だが)
- 32 :
- >>29
人的に優れていても、武田から戻ってきたばかりの人間に
膝元で織田の本拠地でもある尾張に、普通、城まで与えるかな?
- 33 :
- >19
『信長公記』天正十年四月二十一日の記述のことかな?
『信長記』では戻ってきてから元服とはっきり書いてあるね。
- 34 :
- >>33
そうだね、「信長公記」だと、天正10年4月21日の
垂井で御坊殿が信長が安土へ帰る為に休む館を建てておいた話のところだね。
天正10年3月7日には織田源三郎の記述がある。
「信長記」は「甫庵信長記」のことかな?
こっちは創作が多くて歴史資料としては、ちょっと不確実なので、他の一次資料と
比較して、他にも書かれているものであれば、「信長公記」に書かれてなくても
信用してもいいけど、「甫庵信長記」にしか書かれてない事だと、それだけで
事実として扱うのは、ちょっと難しいね。
- 35 :
- >34
『信長公記』天正十年四月二十一日の御坊殿は前後の文章から考えて
別人じゃないかとも思えるけど。
あれは誰か分からないけど垂井の領主を指しているんじゃなかろうかと。
- 36 :
- >>35
そうなのかな?
でも、家康が至る所に館を用意している事を考えると、
あそこに勝長が建てていてもおかしくはないんじゃないかな?
まぁ、あそこの訳は、大体殿注釈本見ても勝長になってるって言うのもあるんだけどね。
ちょっと他の一次資料で、あそこの箇所がより具体的に分かるものがあればいいなぁと思うよ。
館といっても、休憩所みたいなものを簡単に建ててって感じだろうからね。
だからこそ、家康がそういう館でさえ、美しく装飾を施しているのが特筆ものなのでしょう。
「信長公記」読んでると、太田牛一が「ここがポイントだぞ」って思って力を入れて
書いてるところが意外と話題ごとにある気がするんだけど、
そう考えると、やっぱり勝長の対面のシーンは、力を入れて書きたかった事なのかなと思う。
永禄7年には太田牛一は信長から賞されてるし、元亀の時点には馬廻り衆であった訳だから、
信長に近しいところにいた訳で、意外といろんな事を知ってたのかなぁという気がする。
勝長の事も、秀吉が作らせた総見院殿追善記には、書かれるべき箇所に勝長の事が書かれていなくて、
まるでそんな人間いなかったかのように扱われてることからも、秀吉の時代に書いた
「信長公記」に、敢えて書きたかったのかなぁと思わなくはない。
- 37 :
- >>31
乙殿は信正以上に資料が乏しくて、庶子としても信正みたいに身内の娘を妻にしてる訳でもない。
本当に謎だよね。
伝承としては、信貞と被るんで、創作かもという気もしているんだが。
- 38 :
- >>16
ワラタ。女々しい勝頼だな。
織田との決戦の覚悟を固め送還とかの方がカコイイ。
仮に和睦が成った場合、
武田の当主は勝長or信勝どっちになるんだろう?
- 39 :
- >>38
和睦を謀ったというのは推論だけどね。
人質を送り返すのは一般論として「断交」戦闘宣言なわけで。
>武田の当主は勝長or信勝どっちになるんだろう?
信勝だろ。養女とはいえ、正規の婚姻で生まれた子(信長の孫)だから。
御坊丸(勝長)は遠山氏(配下)への養子。
- 40 :
- >>30
何の参考にもならないけど。
源義朝の9人の子のうち、頼朝と希義以外はみんな遊女の子。
- 41 :
- >>28
実は男女の双子だったりしてと妄想。
この時代は、双子、特に男女の組み合わせは前世で心中した
二人の生まれ変わりとして特に忌み嫌われていたから、引き離して
別々に育てるのが慣例だったともいうし。
妄想ついでにこんな感じ
・若→勝長
・姫→氏直許婚(氏直の年齢で見ると合う)慈眼院。
- 42 :
- このスレで「オムロン」と書き込みするとおみくじができます
http://ex13.2ch.net/test/read.cgi/mlb/1149732685/
- 43 :
- >>41の妄想に便乗
天海=光秀ないし明智一族の誰か説を合わせると
慈眼院(天海=明智)−お濃(生母明智氏)−慈眼院(氏直許婚・生母お濃)
みたくお濃を挟んで明智でつながる。こじつけだけど。
そして氏直許婚は勝長と同じように生母が全く不明で埃すら出ない。
許婚で終わったとはいっても政略結婚が決まっていたにも関わらずね。
仮に本当に双子だったとしたら、生母は畜生腹と罵られたらしいから
お濃の面子を立てる意味でも記録を残さなかった可能性もあるんでは?
そして、引き離して育てる習慣から勝長はお家騒動にならないためや、
岩村を手放さないためにも斎藤家と縁もあるし叔母はうるさいしで
断腸の思いで岩村へ置いて、せめて姫だけはとお濃が手元で育てた可能性も
あるのでは?一説にこの許婚は信忠の室ともあるけど、その他の史料などでは
松姫や塩川女以外に室や側室扱いの女性の存在は皆無だから、理由あって安土には
行かず、そのまま岐阜城で暮らしていたのを信忠の室と間違われたのかも
しれない。そしてお濃も娘がいるからと岐阜と安土を往復するような生活で
あまり安土にいついてなかった関係から記録もあまりないのではないかなと。
勝長の話ではないのに長文になってスマソ
- 44 :
- 三笠宮様(昭和天皇陛下の末弟)も双子だったんだよね。
天皇皇后両陛下のお子様でも、畜生腹があるのか……と言った家族の言葉が残ってるらしいし
双子の妹宮の方は尼僧として育ったそうだね。
そんな、近代に入ってまでそんな事があったくらいだからなぁ。
でも、同じ慈眼院って言っても、天海の慈眼院と、慈眼院華渓宗春大姉の慈眼院は別なんだよな。
それに、慈眼院って法名自体は、随分昔から結構あったんだよね。
- 45 :
- 訂正
×家族
○華族
- 46 :
- 素朴ではあるが、実はもって当然の疑問。
勝長が濃姫の子・・・ということがあったとして、
何で家譜やメジャーな史書に明確に記されてないのか?
その事実を隠蔽したい勢力や、都合の悪いこととして
隠蔽されてたとかの(2ちゃんで良く聞くレスw)説明になるわけ?
- 47 :
- >>46
それはその通り
生母がまったく分からないのに、勝長の厚遇が不思議であるという事実や
御台出産の記事が最近になって発見された事実から推測しているだけ。
織田家は信秀以前から、奥向きの事は記録に残さない習わしがあったというのは
織田家の子孫から出てきている話なので、仕方がないかと思ったりもする。
あれだけ有名な信長の側室でさえ、秀吉に関わる生駒(秀吉が生駒に出入りしていたらしい)や
お鍋(北政所の侍女)、慈徳院(娘が秀吉の側室)などの極一部が判明しているだけだから。
信長の生母の土田御前も、諸説あって、実際判然としないみたいだしね(もちろん有力な説はある)。
- 48 :
- 信忠を後継として、完璧に仕立てていたところに、
御台の男児ってことで、跡目争いを恐れたのかもな
もちろん推測だが
- 49 :
- それに、坂氏の娘として判明している筈の信孝の生母にしろ、
どこの坂氏なのかまでは分かっていなかったりもする。
信正が庶長子だって、近年まで判明していなかったくらいだしね。
信貞の生母が分かっているのは、やはり家康と関わりがあったからだろうし。
けっきょく、後の権力者と近しいから分かっているというのは大きいね。
- 50 :
- ここで小野お通が信長と濃姫の娘と言ってみる。
慈眼院も怪しいけど、信長・秀吉・家康から大事にされていたにも関わらず
実は素性不明、下手すると実在も怪しいらしいお通も謎の人物。
どっかのスレでも濃姫とお通の関わり云々って話題が出てたっけ。
信長・秀吉・家康との関わりを考えると、濃姫の娘でもおかしくないと思う。
ただ勝長と双子ってのはちょっと無理っぽいかもしれん。
- 51 :
- >49
>それに、坂氏の娘として判明している筈の信孝の生母にしろ、
>どこの坂氏なのかまでは分かっていなかったりもする。
伊勢鹿伏兎氏の分家らしい。<坂氏
>信正が庶長子だって、近年まで判明していなかったくらいだしね。
百年以上前から分かっているんだから近年とまではいかない気が…。
- 52 :
- >50
>ここで小野お通が信長と濃姫の娘と言ってみる。
>慈眼院も怪しいけど、信長・秀吉・家康から大事にされていたにも関わらず
>実は素性不明、下手すると実在も怪しいらしいお通も謎の人物。
近年の研究でだいぶ素性が分かっているからなぁ。
父親とか誰に嫁いだかも今は明らかだし。
- 53 :
- 於通は諸説があるが美濃の小野正秀女と言われている。
そして享年がはっきりしていて、永眠1616年で58歳。
逆算すると永禄元年(1558年)生まれで信忠とは2歳差と
なるから、成菩提院での平産記述年代とは全く合わない。
自分は双子推測は案外なんじゃね?と思う。
畜生腹と陰口を叩かれる多胎児の生母
忌み嫌われるが故に引き離して育てるため、当の本人達にも
事実を伏せたとも言われる多胎児
忙しい時期でもあったがなぜか勝長以降しばらくは信長に
子供は生まれていない。
そして昔からの強く信じられていることは、例え国家権力であっても
そうそうにやめさすことは難しいともいわれる。
これらを考えると多胎であっても不思議ではないと思うよ。
- 54 :
- >>53>そして昔からの強く信じられていることは、例え国家権力であっても
そうそうにやめさすことは難しいともいわれる。
日本語でplz
- 55 :
- 成菩提院の平産記録を読んでると、その周辺の民は出産があった事だけは知ってるんだよね。
それが誰なのかは分かってなかったかも知れないけど、身分が高い人の出産だったのは
分かってたみたい。
その時の書像が安産信仰の対象になってるみたいだし。
- 56 :
- >>50
お通は謎が多いからこそ、色んな人物との関係が伝えられているんだよ。
不詳なことが多いからこそ、自在な伝承が生まれてくる。
お通が信長息女だなんて、よく考えつくよね。
ある意味想像力豊かだよw
- 57 :
- 寺側では、信長公が御台と一緒に泊まって、予定外に突然出産があったって書いてるから、
寺側としては分かってたのかも知れないけど、民にまでは火事のどさくさで出産は知れたけど
人物特定はされてなかったのかなぁ?
- 58 :
- 臨月で旅にでるものか・・・
また、「地志」にしか記録が無いのはどういうことか。
- 59 :
- 妊娠中に旅と言うか、戦に同行は、秀吉、家康も側室でやってる。
前例として信長がもしそれをしていたら、神仏に関して保守的なこの二人が、
それ以前のタブーを破るという二人らしからぬ事をしててもおかしくはない。
(戦前には女性と接触してはならなくて、妊娠中の女性と接触すると必ず死ぬって言われてた)
問題は、まさしく地誌にしか記録が見つかっていない事なんだよね。
地誌のようなものに、火事の関係で偶然載っただけで、周囲には内緒にしていたのか、
他にも記載してある資料があるけど、見つかっていないのか、
総見院殿追善記のように、勝長が書かれるべき筈の文献に、まるでいなかったかのように
書かれていないというような事から、後世何らかの圧力で抹消されたか(これは出産を
勝長と関係づけた前提の話になるが)、
地誌が作り話なのか……色々考えられる。
あと、もう一つ仮定するなら、この信長と御台の止宿記事が、
上洛戦の時の記事とは限らないという事が、文章解釈として考えられなくもない。
ただ、成菩提院に信長が泊まったという他の文献の記録は、上洛戦のときしかないから
上洛戦の時と考えられているだけ。
上洛時には成菩提院をある程度の定宿にしていたとしたら、他の時かも知れない。
だが、上洛戦が永禄11年9月末で、翌12年の2月には御台が京にいたらしい事は
わかっているので、その辺りの事と考えるのが妥当かというあたりなんじゃないか?
だが、正月明けの再度の上洛は、途中に何度もどこかに泊まるという程のんびりした
ものではないし、この時だとは考え難い。
平産記録に関係ある深沙大王の関係の講式が11月だから、その辺りに何か
考えられるかもという気はするね。
深沙大王関連って、大抵3月じゃね?
成菩提院に残ってる資料とかを調べられたらいいなと思うよ。
- 60 :
- 家康や秀吉が妻妾を帯同しているのは良く知られているけど
(どの程度の月数でかは不明だが、それが原因で?流産してる側室もいる)
信長の場合は今まで聞いたことのないことではありますね。
「地志」は地誌としての地歴・伝承をつづっった書き物、
いわゆる[風土記]のような内容といっていいのかな?
記述の目的、成立時期、執筆者はどういう人物はわかっているの?
今まで注目されていなかったようだけれど、保管状況、
誰が(どの機関が)解読・研究をすすめているのか?
まずその周辺事情から自分は知りたいのだけれど
検索してもヒットが少ない。
脚光を浴びたのはほんとに最近で、研究途上なのだろうか?
成菩提院は由緒ある天台の古刹、でも通常の寺宝公開等はしていないようだね。
近隣の方、成菩提院を訪問して寺史について聞いてほしいw。
- 61 :
- 近江國輿地志は信長の記述があるって話を聞くようになったのが、
自分は2〜3年前だけど、100巻くらいある地誌だね。
単独での出版は大正4年にされてるのかな?
上下巻に分けて出版されてる。
上が1〜48、下が49〜100巻だね。
自分は「大日本地誌大系22、26巻」の中に収蔵されているのを読んだが、
その出版は昭和4〜5年だね。
その後重版されてるかどうかはよく知らない。
信長の記事は、信長の歴史を書いたものじゃなく、成菩提院の歴史を
書いてあるところにある。
禁制礼の一覧とか、収蔵されている仏像や書の作者とかと同列にあった。
- 62 :
- >>61
近江國輿地志という書自体の情報が少ないのに、
「その部分だけ」が2ちゃん内で一人歩きをしているような感があり
少々まどろっこしい思いもあったので、情報はありがたいです。
国会図書館に行って読んでみようかと思います。
100巻もあるのなら、きっと索引の巻はある・・・と思うので。
やはり「地誌」の本分として、古刹の歴史を記述した節の一部分ですか。
文書の性格や成立事情をわきまえてから、前後の文章を読んでみないと。
滋賀って京都の影にかくれてるけど、陰影に富んでいて
歴史の宝庫のような感じがします。でも、なかなか行けませんね。
- 63 :
- >>62
昨日、書き込んでからちょっと調べてみたら、現在は大日本地誌大系39、40巻が
近江國輿地志に該当するようだ。
雄山閣でPOD版を現在も販売しているみたい。
自分が県の図書館で読んだのは古いものだったようだけど、新しいものを借りられるときは
お気をつけて。
国会図書館だと、古い方を置いているかも知れないけど。
- 64 :
- 人質が養子になるケースとしては芦名盛隆もあげられる。
探せば結構あるかもしれない。
- 65 :
- 上杉景虎もその流れだよな。最後に景勝に負けて跡継ぎにはなれなかったけど。
- 66 :
- 結城秀康も似たようなもんかな
- 67 :
-
- 68 :
- 今日、近江國輿地志を借りてきて読んでる。
信長に関する記述や光秀に関する記述、意外と随所にある。
鷹狩りの時泊まった寺の記述とかも、安土城の記述とかもあった。
引用先があるものは明記してある。
成菩提院のところは引用先がなかったから、おそらく寺に残ってるものからだろう。
編纂、成立したのが享保19年に完成となってる藩選地誌だね。
個人的に気になったのは、小倉左近太夫良親の娘の生んだ信長の息子が、信長死後
秀吉に庇護されて羽柴武蔵守になって高野城を築いたってやつ。
これって、信吉の事だよね?
ってことは小倉左近太夫良親の娘ってお鍋の方?
お鍋の方って高畑源十郎の娘じゃなかったっけ?
それとも小倉実澄の父親が小倉左近太夫良親ってこと?
- 69 :
- 小倉左近太夫良親の息子の嫁=義理の娘ってことかな
- 70 :
- やっぱりそういう解釈になるのか。
小倉実澄の父親が小倉左近太夫良親って判明しているんだっけ?
お鍋の夫方の方には興味なくて疎いから、知ってる人いたら教えて下さい。
近江の歴史って、本当に戦国末期のそのままメインストーリーになるんだね。
浅井、朝倉との戦いの時に、信長に滅ぼされた城跡っていうのが
本当にたくさん出てくるね。
信長、秀吉、家康の事は本当に頻繁に出てくる。
もっとも成立年代が江戸時代ってこともあって、徳川家は全てにおいて
良く書かれている気がするけど。
- 71 :
- 信長御台出産の記述は、成菩提院に伝えられてきた事件のひとつで
享保年間に「地誌(地志)」の記事として書き留められたということで良い?
- 72 :
- >>71
おそらくそれでいいんじゃないかな?
成菩提院史っていうのがあるらしいけど、それは非公開なのかな?
そっちにも書いてあるかどうか調べてみたいよね。
- 73 :
- ・信長の御台が出産したという「文献」が「発見」された。
色々な板で、こんな感じの書き込みが多かったですよね。
「発見された」って書かれると、今まで存在の知られていなかった書物が
新規にどこからか出てきたのか? みたいな誤解をするところでした。
このスレの詳しい人のおかげで、どんな種類のものかわかりかけてきたし、
実際にその部分が読めるということがわかって、感謝。
ところで、該当の箇所が世間に流布するきっかけって何だったのだろう?
・戦国史関係無しに地志を読み進めていた人が偶然に着目。
・織田研究者が何か新たな発見を願って、土地の資料を
改めて読み直しているうちに今さらながら注目・・・発表。
・ある程度昔から、知っている人は知っていたけれど、
信長妻妾関連に興味が薄かったために、紹介されることもなかった。
あるとき、何気なくその事を披露したら反響を呼んだ・・・
発見・発表者は誰なのか、気になってしまうなw
- 74 :
- >>73
なぜwで文章を締めたのかの方が漏れは気になる。
何でもかんでもwを付ければいいというものでもなかろう。
発見・発表者までになるかはわからないが、御台出産については井上力が
著書の中で書いているし、滋賀の郷土史家でもある首藤義之も著書の中で
勝長についてかなり詳しく考証していて、近江國輿地志も引用していたと
思う(こっちはウロ覚えだから違ったらスマソ)。両者とも八切並の
トンデモ者と言えばそれまでだが、違う切り口で捉えたとみれば
なかなかおもしろい。(もちろん無理もかなりある)
それから、考証については史板にあった意見に助けを借りることになるが、
結局のところ【】でくくってある部分の意見が妥当といったところかと…。
592 :日本@名無史さん :2006/04/21(金) 15:23:44
お鍋の方こと小倉の本名も不明であくまで高畠氏女でしかないのに
お鍋の方だから本名もお鍋という見方自体が短絡的すぎだったわけで
一度リセットして考える必要があるのは確か
【しかし、歴史学者や研究者はそういうのをなぜか嫌がる傾向に
あるから研究があまり進まないのもまた現実
そんなはずはない、あり得ない、誤って伝わっているだけでしょと
そこで終わらせてしまったら、史学の発展もそこで終わる】
ちなみに信長はお鍋のことを鍋ではなく「小倉」と呼んでいたらしい。
この時代の慣例どおり、縁のあるにちなんでだと思われる。
- 75 :
- >>73
自分は「近江國輿地志」そのものは、意外と前に読んだ事がある。
その時は、浅井朝倉との戦いについての資料を探しての事だった。
信長関連は全部読んだ筈なのに、御台の平産記事には気がつかなかった。
今回改めて読み返してみて、信長と御台が成菩提院へ泊まったというのは
知っていたし、覚えていたのに、その直後にある平産には
目がいっていなかった事が分かった。
興味の持ち方で、全然違うのかも知れないと思ったよ。
- 76 :
- あと、補足するなら、平産記事を見ても、それがすぐに御台と結びつくかどうかっていうのもあると思う。
文章的には結びつくんだが、何しろ、濃姫が子供を産んでいないのは通説で、常識って感じだから
御台が子供を産んだと言われても、濃姫の事は思い浮かばないというのはあるかもしれない。
- 77 :
- >>1-2
この流れに脱帽
- 78 :
- >>74
73ですが、wがさしさわったのならすみません。
ただ、一体誰がその部分に注目し
世間に知らしめる記述を発表したのかなんて疑問をもっているのは、
2ちゃんのスレであまり見かけないし自分くらいか?と思ったもので、
失礼しました。
- 79 :
- >>78
多分、最初は「悲劇の☆お姫様伝説☆」って史板のスレッドで話題に上ったんだと思う。
勝長の生母はお濃説について考証してほしいという書き込みがあった。
それについて、色々話がでている途中で、平産記事がでてきた。
もしかしたら、考証してほしいと書き込んだ人間と、平産記事を書き込んだ人間は一緒で
こういう風に話題に上るようにしてほしかったのかなぁと、最近では思う。
史板に常駐してる人間って、文献名出されると、やっぱりどうしてもまじめに考えて
考証してしまう傾向があるし、武功厨に辟易していたというのもあって、
突っ込んで考えてしまったかなぁと、自分なんかは思う。
ただ、今更ながらに、面白い説だなぁと思うよ。
意外と、残っている史実上からも、色々な話の辻褄があってしまうというのもある。
何故遠山夫人は逆さ磔にまでされたのか?とか、織田掃部が粛正された理由は?とか
勝長が武田から戻ってきてすぐに犬山城主にされた理由は?とか、
秀吉側の文献では、勝長の名前はあまり出てこない(敢えて削除した?)理由とか。
もちろん、矛盾点もあるだろうけど、濃姫が子供を産んでいないのが通説だからと言って、
こういう説を頭ごなしに否定しなくてもいいかも知れない気はする。
実際、勝長が濃姫の子供だったら?と考えて文献を読み返してみると、色々面白かったよ、自分的には。
- 80 :
- 濃姫の子供ってさ、秀勝って可能性はないの?
永禄11年だったら、於次の方があてはまらない?
- 81 :
- 織田信正は村井貞勝の養子になって村井重勝と名乗っていた。(雍州府誌等)
信正の記述は織田信正位牌名によって詳びらかになった。
見性寺が江戸時代火事にまきこまれ現在地に移転してる為、信正の真実が伝え
られているか疑問。
お鍋の方の小倉か高畠かは自分も興味あり。
柳本織田家記録の総見院墓地お鍋の記述には小倉三河守娘とあります。
高畠は高知市にいる子孫の方の記録による。近江八幡市にお鍋の方の子孫が
現在でもいてその方は高畑姓です。で、信吉の子良甫の系統らしい。
坂氏の系統は分からないでしょう。
勝長は池田恒興の娘婿になり犬山城を与えられたことを重視すべきでは。
織田姓ではなく津田姓だからそんなに重視されてないと見るべきでは。
- 82 :
- 織田姓ではない訳ではなく、織田姓も持っていたし、津田姓も別称として持っていた。
津田姓のときは、津田源三郎。
織田姓の場合は、織田信房、織田勝長の二つあるね。
信長公記などで勝長の方が通りがいいが、勝長自身は書状などの署名は信房を使っている。
織田家に戻ってきてから与えられた名前なのかも知れない。
勝長って名前は、武田をイメージさせる名前でもあるし、武田にいた時に与えられた名前の
可能性はないだろうか?
武田にいたとき、既に戦場にでていたようだが、元服前でそう何度も戦場に出るだろうか?
信忠も、奇妙様のままで従軍している例は、確かにあるが。
犬山城主になったのがいつなのかはっきりしないが、天正9年の11月に犬山城の御坊様として
信長に対面しているから、その時には犬山城にいたらしい事が分かる。
犬山城主になったのは、本当に12月とされる元服と同時だったのだろうか?
個人的には、武田で元服まですませていたのではないかと推測している。
その時与えられた名前が勝長ではないだろうか?
織田に戻ってあらためて、元服ではなく、信房の名前を名乗るようにとされたというのは
穿った見方だろうか?
徳川家康も、人質でなくなってから、名前を変えているし、人質時代に与えられた名前は
こだわりなく捨てれたのかも知れない気もするが。
あと、池田恒興の娘婿になった時期はいつなのかにもよるかも知れないね。
- 83 :
- 勝長の「勝」は武田勝頼の「勝」
単純なもんで、ずうっとそう思ってました・・・
- 84 :
- >>80
ウロ覚えだけど確かお次の生母は一説に養眼院という女性ではなかったかな。
そんなような史料が見つかったとか何とかで、また確定ではないけど…。
それにお濃との子だったら養子に出すにしても間違ってもあの頃の羽柴には
やらんだろ。預け先に相応しい家は他にもあったと思われ。
特に柴田なんて息子がいないんだから最適だろ。
>>81
津田は織田と同族の姓で織田に準ずる姓とも言われていて、決して
むやみに使えるような姓ではないよ。言い方を変えればむしろ重視したからこそ
与えられた姓とも言える。同じ津田姓で信長の甥である信澄は
信長に可愛がられ重用されていたし、安土城下には屋敷も与えられていた。
池田の娘婿になったことで犬山城主になったことをなぜ重視する必要が
あるのかよくわからないけど、勝長が織田に戻り、犬山城主となった頃の
池田の拠点は所領こそは犬山にもあっても息子共々摂津に移っている。
娘婿と言っても池田や織田の家譜を見ても勝長の正室ではなかった様子から
勝長を城主にする上で、長いこと織田から離れていたこともあってか
犬山に関係している人間を傍に置いておく必要性の配慮の一環として
側室として池田の娘が選ばれたとも言えるのではないかなと思われ。
池田は出世街道からは遠ざかっていたとはいえ、信長からの信頼は
厚かったようだし、お濃関係者との関わりも深いようにも思えるから
(長男の嫁は道三の娘or孫娘で、次男輝政も後年に齋藤新五の息子を
厚遇で召抱えたりもしている。)
もしかしたら、信忠のように美濃や齋藤縁者で周りを固める腹づもりも
あったのかもしれない。
- 85 :
- 津田姓は徳川でいう松平姓と同じ扱いと見て問題無い?
- 86 :
- >>85
もう少し密接した感じがあるけど、概ねそんな風にとらえていいと思う。
- 87 :
- その割には知名度低いね津田姓、
信長に気に入られた人物は多くても、実際に活躍した人物が少ないせいかな。
織田が天下とってれば徳川御三家みたいにスポット浴びてたかもしれないけど。
- 88 :
- 津田姓っていっても、ほとんど織田姓も持ってるからなぁ
- 89 :
- 織田と津田は本家と分家、云わば武田と逸見のようなものなんジャマイカ?
- 90 :
- 津田は織田に準ずるってよくわからないけど?
織田姓は信長に遠慮したかもしくは、信長が統制したかわからないが嫡流である
津田秀政家(江戸時代旗本)の家譜にも記されている。
信長生存時織田姓を許されていたのは父信秀の代からの三奉行の一つ藤左衛門家の
織田信張のみであろう。
信澄は厚遇されていても津田であって織田ではない。
また藤掛三蔵ももともと織田姓でも遠慮したし、弟信治の家系も柘植姓である。
私が重視すべきといったのがわからないって???
出世から遠ざかってた???あなた信長公記読んだことあるの?
お濃関係者って何?出典をご教示願います。
- 91 :
- 織田の末裔の家にある過去帳にも織田と津田は同格と書かれているそうだ。
ttp://blog.livedoor.jp/inuyamajyou/archives/50160971.html
- 92 :
- 信長は、子供に関しては姓はきちんとさせようとしているね。
ただ、織田と津田の区別かというとちょっと違うと思う。
本能寺時点で元服している子供には、信忠は織田だけど、
信雄は北畠、信孝は神戸って区別してる。
養子政策ともいえるけど、北畠や神戸が実質滅んでも織田に戻していないという事は
信忠と目に見える形で区別を付けたかったのかも知れない。
津田にもしていないとなると、同様の理由からと考えられるから、
やはり、津田もある意味同格に近い、準ずる姓だった可能性は高い。
もちろん、信長以降、秀吉の世になってそれらが変わった可能性はある。
秀吉は何せ、名字も、本姓も、武将に与える為に乱発しまくってるからねぇ。
名前に関しての感覚がちょっと違うのかも知れない。
で、勝長スレなので、勝長について。
勝長に関しては、津田源三郎や勝長が有名だけど、織田信房もあるので
何ともいえない。
ただ、少なくとも、織田も津田も両方、それも別の名前で持っていたようだ。
戻ってきてから死ぬまで半年ちょっとだから、少し資料が少ないが、
半年ちょっとなのに、名前が複数あるというのもね。
>>82が書いているように、勝長が、武田にいたときに元服しててその時の名としたら、
戻ってきて改名したのかも知れない。
勝長が12月に元服したのは、南浦が書いているだけの筈だから、創作の可能性もある。
少なくとも、牛一の方は元服の事を書いていない。
勝長の姓に関しては、まだ研究の余地があると思う。
特に、勝長と信房の二つの名前に関しては、織田と津田との関係も考えながら
研究していくのがいいのではないだろうかと思う。
- 93 :
- 恒興の娘婿説って確定したの?
もしそうなら、あの秀次の室でさえきちんと家譜に載せている
池田家のことだから記録に残していてもよさそうなんだけど。
正室ならもちろんのこと、それでご坊が犬山の城主にまでなれたのなら
尚のことで、信長の息子はうちの婿になった。おかげでかつて所領だった
犬山の城主にもなれて云々とここぞとばかり書き残しそうなものだけど。
江戸に入ると池田家と織田家の力関係は完全に逆転しているから、織田家に
気を使うこともなかっただろうし。
そういえば元助の後妻である塩川家女についても記録を残していないよね。
どちらも側室扱いだったのかもね。
- 94 :
- >>93
確定はしていないと思ったけど、そういう説が有力なんでは?って事みたい。
- 95 :
- 早速(本当早いw)の返事ありがとう。
やっぱりまだ確定ではないよね。
何か犬山城主になったのは池田のおかげみたく書いている人が
いたから気になったもので・・・。
濃姫の関係者の件は元助の先妻の出自が道三の血縁者なのは
子孫の墓石含め記録があるからわかっているからまだ理解できたけど。
- 96 :
- 池田のおかげまでは私も言い切ってません。
織田と津田は同格って子孫の過去帳にはまたは系図なんてものは自分に都合よく書くに決まって
るもんでしょ。
子孫の墓石含め記録があるって言われますけど前にもレスしましたが出典を示し願いたい。
池田履歴略記ですか?墓石はどこのお寺ですか?
元助の後妻って荒木の史料の二条家のことですか?
信忠と相婿って史料のことですか?
二条家には何らそれらしき姫は見当たりませんが?
秀次の室を家譜に載せてるとありますが何故連座しなかったかご教示ねがいますか。
で、どの様に家譜に載せているか教えて下さい。確か致祥院ですよね。
大善院の過去帳では一の台と混同してましたが。
秀吉は本姓も名字も武将に与える為乱発しまくってるからね(爆笑)
最新の論文読んでみてはいかが?秀吉が豊臣姓を与えるには理由があるよ。
乱発って(笑)
- 97 :
- 高飛車な物言いに萎え。
- 98 :
- そんな、顔真っ赤にして必死で書き込んでると想像させるような書き込みしなくても。
織田と津田が同格だと何か都合の悪い事でもありますか?
まぁ、それはそれとして、では、織田信房の名を持っているのはどう思われますか?
- 99 :
- ただの煽りだろ。スルーするがよろしかろうて。
どれも少し調べればわかることばかりだからクレクレ君かもしれんがな。
寛政家譜集すら目を通してない奴にマジレスしても無意味と思われ。
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