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2013年03月戦国時代395: 戦国時代の動員兵力を語るスレ (617) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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戦国時代の動員兵力を語るスレ


1 :2009/12/03 〜 最終レス :2013/03/07
一国すら統一していない大名が一万人動員したり
一国しか領有していない大名が数万人動員したり
と戦国時代の動員戦力は誇張が激しい時があります。
このスレでは合戦の動員兵力や大名の動員兵力を検証したりしましょう。

・関連スレ
【捏造】兵力や戦果を捏造し過ぎだろ【辺境】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1210524233/
戦国大名の経済力 2
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1235291839/

2 :
一国云々は関係ないだろうに。

3 :
ケチ利家は石高よりかなり低い動員力ですw

4 :
>>1
乙にございます。

5 :
軍記物語の兵数は120%デタラメと思って間違いない
江戸時代になると騎数と全動員数の区別もつかない著者が多い

6 :
明智光秀の家中軍法以外に石高と軍役が明確になってる史料って存在するの?

7 :
>>6
「小田原衆所領役帳」

8 :
旗持ちとか馬の口取りとか戦力になるんかどうか分からん。

9 :
幕末は投入戦力がしょぼい
あれが本当の姿なのかもな
戦国時代は水増ししすぎ

10 :
上杉軍役帳

11 :
>旗持ちとか馬の口取りとか=完全武装で戦場に出て行く戦闘員。
例えば5万石の場合、騎馬武者70+歩兵戦闘員で1000、
それに非戦闘員500で、計1500がMAXと普通言われている。
桶狭間では今川本隊5000に織田2000(全員戦闘員)が突っ込んだが、
戦力は今川3000対織田2000で、状況から織田の楽勝も当然。

12 :
一万石あたり250人から300人
石高は経済力と同時に人口も表す

13 :
東では北条、西では毛利が異常に大軍を動員するイメージがあるわ。

14 :
時代は下るがこういう数字がある。
尾張徳川宗春が大掛かりな鹿狩りと称して(謀反のシミュレーションという噂)
藩内総動員令を出して、侍1万人、百姓町人1万5千人を動員した。
この時代は藩の隅々まで支配が行き届いているから、計2万5千も動員できたと考えられる。
戦国時代なら、豪族・国人を完全支配できている大名は殆どいないから
50万石で2万5千は無理だろう。

15 :
>>13
毛利は10万を動員したって記述がウィキかどっかにあったな。
周りの豪族、宇喜田とか従えての数字だろうね。
一方北条は5万がマックス。石高の割りに少ない感じだね。

16 :
戦国の動員兵力が嘘なら朝鮮の役の数も出鱈目になるな。
幕末の数引き合いに出してる奴アホすぎる。
200年にわたり借金増えて装備にも金が掛かる時代になったのに一緒にするなよ。
第2次大戦じゃ米軍は一度の航空作戦で1700機なんて飛ばしてるが現在そんな数の航空作戦はまず無い。
終戦時の日本でさえ7800機保有してたほど。
今の日本が7800機も軍用機持ってるか?
第2次大戦の時よりも何処の軍も縮小されてる。それと一緒。

17 :
軍役状は上杉は全体的のが残ってるし、北条武田明智と豊臣の小田原朝鮮時のも有名。
西国大名のいい史料ってあるかな?軍制が未発達なせいかあまり見ないけど。

18 :
>>15
北条が5万がマックスって何の史料なのさ?北条領を殆どそのまま引き継いだ家康は関ヶ原の時に
8万前後が出陣して、更に上杉の抑えとして結城秀康の軍が下野に駐屯してたわけだが

19 :
小田原陣の時の北条の動員数は、トータルで8万ほどだな。

20 :
甲斐の武田さんちの80騎持の逍遥軒さんの動因能力はどのくらいかね。

21 :
西国と言えば船岡山合戦の動員人数は多すぎるように思えます。
この戦いはあまり教科書では取り上げられませんが、長引いていたら応仁の乱のような扱いになっていたかも。

22 :
>>16
最近はどこの軍隊も世界系規模になっちゃってるからね

23 :
日向(12万石)の全域を支配してるわけでもない伊東氏が飫肥城を2万の大軍で攻めたのは不思議だ

24 :
戦の前に間者(忍者?)を先発させて3倍くらいに言いふらした。
これも戦術の一つ。
間者「大変だ!上杉が2万で攻めてくるぞ!」
農民「女を隠せ!」
大名「ふむ、総勢1万か?7000で篭城すればやり過ごせるな」
実際は5000だったり

25 :
誰の逸話か忘れたけど
家臣に貝の枚数を予想させて
「実際より多く見えるものだ」みたいなことを言った人がいたよな

26 :
>>25
若い頃の信玄(=武田晴信)じゃなかったっけ?

27 :
日本戦史上もっとも大軍を動員したのは上杉謙信だろうね。
小田原城を囲んで関東を席巻した時は関東中の兵50万が謙信に従ってるし北陸を制圧した時ですら30万の軍を動かした。

28 :
太平記のがおおいぞ

29 :
>>19
小田原の時は15〜60歳の男を徴兵したんだっけ?
あれは極端な例だとしても
通常時はどの程度の年齢の民が徴兵されたんだろう

30 :
戦国時代は時代が下るにしたがって動員数が増えてるね。
もともと兵力に入らなかった農兵や雑兵がいつからか防衛兵力や予備兵力として運用されて、
戦力価値を期待されるようになり、小牧長久手の徳川や秀吉の小田原城包囲の時には総動員体制になったように思う。

31 :
従属勢力って動員には含むの?
それとも単独動員力?じゃないとダメ?

32 :
>>31
何とでも言えるようになるから単独が良いかと…

33 :
徳川家の1600年時の動員を見る際の基準は??
一門+譜代?

34 :
基礎的な動員力と外部勢力を含めた動員力は分けた方が良いかもな。

35 :
んじぁ毛利の6万は嘘っぱちだな。
だいたい中国地方全部足しても280万石もいかないだろ。

36 :
小牧・長久手の合戦の織田信雄と徳川家康の連合軍の兵力が2万足らずという信じがたいほど少ないのは何故だ?
信雄は大国の尾張と伊勢を支配し、家康は今川氏や武田氏の領国を併せるほどの大大名だったのに

37 :
>>36
勝者の徳川が寡兵で大軍破った。すげーみたいにしたのかね。
三国志の曹操VS炎症の官渡の戦い。
兵力差10倍とか言うけど曹操軍には青洲兵30万がいたのに何処いったんだって疑問視されとる。
中国は前の王朝悪く書くこと多いしこういう兵力差捏造が多い。
日本もそういう面はあったとしてもおかしくない。
なんか武田もすんごい過大評価されとるし。
徳川を苦しめた武田が弱いだと立場無いから必要以上に印象操作したんだろう。
第2次大戦のアメリカ軍も日本軍は手強かったって証言してるけどこれも
「日本は強かった。でもそれを倒した俺達はもっと強い」ってことだったしな。

38 :
三方ヶ原も8000でしたよね

39 :
推測するだけだけど、信濃から三河にかけて防衛ラインを築いていたから、実際の指揮兵力が少なかったとか?

40 :
武田の領国を全て手に入れたわけでもないし、上杉、北条にも抑えが必要だから
小牧・長久手に全軍動員できるわけじゃないよ

41 :
本多の500で10万だかをひきつけて時間稼ぎしつつ撃退ってのなんか嘘くさいんだよね。
井伊のは池田討ち取ってるから文句のつけようが無いんだけど。

42 :
うそ臭いと思うのは勝手だが議論をしたいのならきちんとした根拠を示してから書き込め。
感想だけ言われても困る。

43 :
本多の行動については実際のところ、秀吉がその意図を読み取って無視したので、
時間稼ぎという観点からはそれ程、効果はない
それより重要なのは敵の追撃部隊と随時、接触していたということで、これにより
家康は秀吉が何時、来るかということを十分に認識して行動することができた
こっちのほうが単なる時間稼ぎよりも効果は大きい
それに忠勝がいれば、長久手にいるのは本当に家康がといるかという疑念も生じる
この戦では秀吉は殆ど、五里霧中の戦いであったし

44 :
門司城攻防戦といえば1561年が有名ですが1554年にも戦いがあったんですね。
厳島の戦いが1555だからそれ以前になりますが陶との戦いを前に2万も動員できる訳ないと思うのですが。
http://bungo79.hp.infoseek.co.jp/newpage4.nenpiyou.1550.html

45 :
三好之長は永正十七年に二万を率いて上洛しているな。
まあ、半数が京周辺の兵で、あくまでも動員権は細川氏にあったので、
細川澄元がいない中では、あっさり瓦解してしまったが。

46 :
その2万は陶の軍勢だろ
毛利は5千あるかないかだな

47 :
おっと、間違った
でも九州にも味方はいたから2万そこそこ行くんじゃないかな

48 :
ttp://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq22t.html#09399
このサイトによると兵農分離前と後では動員数に大分差がある
兵農分離がしっかりしてない時代や大名ならば大兵力を動員出来てもおかしくはない
そもそも戦国期の動員数は20人に1人とかいう異常な割合のようだ

49 :
織田家ですら10万も動員できたのか
http://sound.jp/unira/nobunaga/n_table.html
なら関ヶ原って規模しょぼくないか?

50 :
なにこの妄想兵数

51 :
つーか戦国期に兵農分離なんて行われていない。
兵農が分離したのは江戸期に入ってから。
よくある「兵農分離したから信長は動員が〜」っていうのは根拠の無い幻想。
単純に畿内の人口が多かったから多く動員できただけ。
信長の動員体制は、他の戦国大名に比べてむしろ遅れている。

52 :
この板でも戦力分析や比較をするときには1万石あたり250人って数値で計算してるけど、
これゼッタイってもんでも無かったみたいだな。
やろうと思ったら500人ぐらいまで行けたんだろう?

53 :
1万石250人は何処からきた数字なんだっけ?豊臣政権の軍役?
なんにしてもあくまで目安にしかならないよな。
信長の甲斐遠征の時に
「遠征なので兵糧がつづくよう人数は少なくすること、但し多いのと変わらぬよう粉骨するように」
みたいな意味の書状が信長公記にあったと思ったけど、状況により必ずしも最大動員でなくても
良い場合もあったようだし。正確な動員数は分りよう無いよ。

54 :
検地もできず自己申告しかないのに正確な石高あたりの動員数を
知る方法は文書以外にないからなあ。

55 :
>>51
根拠のない妄想と看破してるのに自身は根拠出さないって笑い草だな

56 :
なんか多いんだよね
やたらと今までの説は間違いと言いたがる人

57 :
でも朝鮮や関ヶ原大坂みたいな動員って政権が最低限のノルマを指定した数だから
動員数=全兵力ではないよね
戦国時代も銭や現米での支給があったし、合戦になると傭兵を雇い入れた
つまり田畠以外の各産業の収入や毎年の収穫量で兵力も増減する
支配者の采配次第で兵力も変わって来るという事だ
後は攻戦か防戦でも違ってくる
徹底防戦ともなればもはや軍役だとか言っている場合ではなく
女子供や隠居の老人を問わず動ける者は皆武装して防戦にあたる
幕末にもこれらの事例が確認できる
要するに状況次第で変化するものであって石高だけから兵数をはかる事は出来ない

58 :
もしも仮に一戸1人の動員として
50戸=一里
3里=1郷
20郷=1郡
10郡=1国
ぐらいだと1国あたりの最大動員数は3万くらい

59 :
>>51
こういう珍がたまに出るから2chは面白い。
ま、一服の清涼剤と思って許してくだされ。

60 :
兵農分離は豊臣からだな。きっちりわけれたのは江戸時代だが

61 :
システム(決まりごと)上定められた動員数と、実際にかき集められた兵数とを
同列に扱うから混乱するんじゃないかなぁ……
”金”さえあったら、所領石高に無関係(例えば大坂の役の豊臣側)に、
また動員後でも(関ヶ原の黒田如水とか)兵は集まったわけだし
”所領に対して最大限の兵数を決めて計算”は戸籍と徴兵制が整った以後には確実だけど、
それ以前には”あくまで仮定”という前提を忘れちゃいけない気はする

62 :
まあ状況によりけりなのは確かでしょう
昭和に入っても総動員みたいなことをしてるし
ただし石高はそのまま人口をあらわすといっても過言ではないので
石高から動因可能数を割り出すことは見当違いではない

63 :
兵農分離どころかその前段階となる兵農一致したのが織田の時代じゃね?

64 :
>>59
別に珍説でもない気が。
実際問題、織田家に残っている唯一の軍役基準の資料が明智の軍役なんだから、
そこから考えると、100石あたり6人の基準で兵農分離は無理があると思う。
速水融が100石なら70人の人口としていたし。
むしろ兵農分離していたと考えるほうが珍説に思える。
もちろん、全体ではなく一部は分離していたと考えるのが当たり前だが。

65 :
江戸期に入ってから戦役がほとんどないんだから兵農分離が完成したというのはちょっと違うだろ

66 :
>>65
兵農が一致していたのは、村落にかかる「軍役」の存在のため。
軍役は江戸期になって消滅なんかしていない。
兵農分離には、農村が軍役に対して代銭で対応できるほどの経済力の向上と安定、
金銭によって軍夫として雇い入れられる都市の余剰人員の存在、
およびそういった労働者を組織し安定して供給できる業者の存在、
さらにそれらを運用する仕組みの成立、
こういった諸条件が整って、初めて兵農分離とい状態が出現する。
これらの諸条件が成立したのは江戸も徳川家光の時代あたりでようやく。
少なくとも信長の時代には、兵農分離などカケラも存在しない。

67 :
>>66
なるほど

68 :
小荷駄とかの陣夫などの動員は、兵農分離の範疇からは除外するべきだと思うけど
通常、兵農分離の対象とされているのは、侍とか足軽とかの直臣クラスの戦闘員と
自分は考えている

69 :
>>68
陣夫、軍夫がいないと合戦なんて出来ないんだが。
あと足軽が農村から離れて都市居住が始まったのも徳川期。
多少早く取っても豊臣末期。

70 :
江戸期に入って整備される名主・庄屋とか村町の三役クラスには大名の直臣だった家もあったり。
少なくとも戦国期に武士だ農民だなどという区切りは、意識的にはあったかも知れんが明確なもんじゃないわな。

71 :
武器の没収による武装国人層の解体(かつ戦術指揮官職が農民層から別れた)
ということが兵農分離だよね??
いまここで考慮されてる”石高からの動員数推定”って、
あくまでその土地から得られる総戦闘員(足軽含む)になるわけで、
(武器技術の有無に関わらず)人集めて武装させる、って作業に、
現在でいう下級士官の問題(兵農分離)が絡んでくる意味がいまいちわからないのだけど……

72 :
ウミウシ

73 :
>>69
陣夫は江戸期も動員が原則、それも範疇に入れれば兵農分離は存在しない事になる
足軽が農村在住というのは再考する必要があるとおもう
時代・場所によって金銭による雇用、知行を与えているもの、短期、長期など多様な形態がある

74 :
例えば飛騨のような辺境を例に挙げてみる。(検地後40石で1人とする)
・天正14年に金森長近が飛騨一国38000石を拝領。40石で1人として一国挙げても1000人の軍役が不可能。
(1000人で外敵にあたると国がカラになる)
・元禄八年、大垣の戸田氏が検地を実施したところ860石だった。40石で1人として軍役は22人。
以前もどこかで書いたけど、
・飛騨だけで見ると、三木氏とか江馬氏は運動会の騎馬戦程度の規模で戦争していたことになる。
・大大名とされる織田武田上杉は、たかだかこの程度の地域勢力を競り合って支配下におさめようと躍起になった。
支配体系が未編成な戦国期に、ざっくり考えて>>58でもまだ動員量は多いと感じる。

75 :
>>74
> ・大大名とされる織田武田上杉は、たかだかこの程度の地域勢力を競り合って支配下におさめようと躍起になった。
織田武田上杉が飛騨を争ったのは、飛騨がそれぞれの勢力圏がちょうど接する場所に
存在してしまった地理的理由からだと思う。

76 :
飛騨(益田郡・大野郡・吉城郡三郡)は元禄5年の時点で60000石。
38000石から増えた分は全て開墾と言う事になってるが、これの評価次第だね。
実際に開墾したのか、最初の検地の時点で過少に見積もっていたのか。
どちらにしても少ない事には変わりなさそうだが。
戦国時代は6人役をしいたのかもしれない。
当時にしては非農業人口が多い地域だろうし。
コレくらいならなんとか合戦らしい合戦になるんじゃなかろうか。

77 :
やっと軍記物から離れたな。

78 :
下国の飛騨三郡が総動員して千人だとしても、大国の動員力がその十倍あるだろうか?
万単位の兵力がほとんど軍記物の誇張なのかと疑いたくなってきたわ

79 :
>>78
姉川の時、近江の四分の一程度の領主でしかない浅井が八千
しかもこれは横山城の守備兵などを除く主力部隊にすぎない
近江一国でかるく三、四万はあるだろう
浅井の旧領の六割くらいを支配した(四割くらいは丹羽)
長浜領主時代の秀吉が姫路へ侵攻したときの兵力で七千五百くらいだし(黒田勢含む)
近江は最大級の大国だが、周辺の越前、美濃、伊勢、尾張もそこそこ巨大

80 :
長篠の合戦でこういうのもあるぞ
織田3万、徳川8千、武田1万5千が、実は
織田1万2千、徳川4千、武田6千だった。
これなら織田の鉄砲隊が3千ではなく千五百というのも真実と思える。

81 :
>>36
まあそれは理解できるかも
信濃に甲斐は手に入れたばかりで
領内をまとめている途中で
動員などはまだ出来ない状態だったと思う
よって両地区からはの動員は見込めない
それにいくら北条と同盟を成功したとしていても
背後にはそれ相応の手勢を置いておかないといけないからやはり
大兵力をつぎ込めないと思う
三河、遠江の兵中心だったろうね
反対に信雄は防衛戦だから極限まで動員できたかもね

82 :
確か飛騨の動員兵力は2、3000程度
飛騨は、近江を通した交易の中継地に当たり
しかも金山もあった
食料は輸入頼みだが石高よりもはるかに人口が居た

83 :
関ヶ原合戦時の石田一族は関ヶ原本戦とそれに続く佐和山籠城でほぼ最大動員だと
思われるが、関ヶ原に出撃した三成とその父兄(父兄とも三成とは別に領土が与えられていた)
の合計戦力は六千七百、三成の父兄が指揮した佐和山籠城兵二千八百といわれている
併せて九千五百だが、このときの石田一族の支配地、北近江四郡は浅井長政の支配領域
とほぼ一致している

84 :
江間氏などは日本海と琵琶湖を結ぶ商売をやっていたようだ
つまり、単なる中継地にとどまらず中継商売そのものを行っていた
動員された兵は、他国から臨時に集めた傭兵が極めて多かったようだ

85 :
>>84
北近江と飛騨の守護は佐々木京極氏
室町初期の佐々木道誉以来、商工業を積極的に保護してきた家柄だから
飛騨も近江と似たような非農業人口の多い地域だった可能性はあるな

86 :
江馬は越中にも領地があったと思う。
武田が越中の影響力を失ったときに全部失ったかもしれんが

87 :
傭兵家業の人間もいたでしょ

88 :
推論で話がどんどん拡散していくな・・・

89 :
後日談としちゃ水増し人数でもいいけど
実際の戦闘するとなると物見(偵察)の人数認識能力は、必要となるけど
どんなもんだろうね

90 :
SAGE忘れ失礼

91 :
関ヶ原の軍記物なんかは西軍の兵数は東軍の偵察値を載せているんだと思う
だから諸本によって数値のばらつきが大きい

92 :
(街道の通り方はともかく、近江と飛騨は隣接しとらんぞ)
まず>>74訂正。
誤:・元禄八年、大垣の戸田氏が検地を実施したところ860石だった。
正:・元禄八年、大垣の戸田氏が白川郷に検地を実施したところ860石だった。
>>75
目に見えて荒立ってくるのは木曽氏と三木氏の争いの延長からなんだろうけど、
木曽谷は飛騨諸郡と大差あるような地形でもないので動員数に大差があるだろうか。
>>82-87のように動員力を何とか上に見積もりたいなら、
男児は二番目以降婚姻せず、女児は二番目以降間引く合掌造りの風俗に頼って
1戸あたりの動員数は多かったという見方もできなくはない。
それでも飛騨兵3000はもう講談やゲームに毒され無理ありすぎだけれど。

93 :
桶狭間合戦の兵力がいつもありえないと思う。大概は織田約3000に対して今川約25000と。尾張の石高は今川の三ヵ国の
総石高の四分の三に匹敵する。確かに尾張の一部は今川領であるが逆に、三河には織田領が存在し今川が織田を戦力的に
圧倒するとはとても思えない。あの戦いはどちらかの兵力がおかしいと見て間違いない

94 :
今川が25000動員した場合、遠江は武田・駿河以東は北条に獲られて終了。
講談に則って考えても守将がいないからわかりそうなもんですきゅ。

95 :
また軍記物にもどるか

96 :
オレが戻したか。

97 :
かといって性格に動員数がわかる訳でもなし

98 :
軍役状、着到状から正規軍の規模は大体推定できる。一部の大名のみだが

99 :
>>98
軍記物がダメならそこでストップだな

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