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2013年04月昔34: 29歳にしてR歴20年の私の話。 (206)
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29歳にしてR歴20年の私の話。 (206)
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29歳にしてR歴20年の私の話。
- 1 :2012/02/03 〜 最終レス :2013/04/07
- ふと思い出した昔の話。ぼちぼち書きます。
- 2 :
- ゆっくり書きます。
夜は書けないかも。すみません。
- 3 :
- 私は物心ついた頃からおばあちゃんと暮らしてた。
アルバムを見る限りでは、多分二歳位から。
おばあちゃんの家は古い長屋で、6畳×2と狭い台所があって、
そこで母方の祖母、母の兄(当時20代半ば位?)と三人暮らしだった。
- 4 :
- 母は当時20歳位で、水商売(普通にラウンジとか)で働いてて、別に暮らしてた。
祖母は食堂を営んでいて、朝早くから、夜は23時過ぎまで帰らなかった。
叔父は、余り家に居なかった。
- 5 :
- 幼少時の私は、幼稚園に行き、皆が14時頃に帰った後も、ホームクラス(延長保育)で18時まで過ごした。
18時頃になると、祖母の店のお客さん(日替わり)が迎えに来てくれ、祖母の食堂に帰った。
そこで夕飯を食べ、また家に送ってもらい、祖母が帰るまでの間、一人で過ごした。
祖母の家は風呂が無かったので、徒歩一分くらいの銭湯に毎日行った。
顔見知りの銭湯だったので小さい私が一人でいっても、入れてくれた。
でも、常連のおばちゃんたちが、
「毎日一人で来てるけど、あんな小さいのに一人で綺麗に洗えてるのか。
汚い。」
と言ってたのを私は知っている。
- 6 :
- Rの話が聞きたくて、「R」で検索したら、出ました
期待してます
- 7 :
- 物心ついた頃からそういう生活だったので、寂しいとかは無かった。
父親がいないのも不思議に思った事も無かった。
後から知ったが、父とは私が1歳の頃、離婚したらしい。
この頃、唯一の楽しみは木曜日だった。
木曜日は母が休みだったので、母のマンションに泊まる事が出来た。
その時は、普段絶対に食べられない、ビーフシチューやハンバーグを食べられた。
母の隣で寝られるのも幸せだった。
- 8 :
- >>6
ありがとう。期待に添えるかはわかりませんが頑張り?ます
しかし嬉しい事ばかりじゃなかった。
知らない男に抱かれる母を何度も見た。
物心ついた頃から小学校3年までの間に、4人、相手が変わった。
隣の布団でしてた時は泣きそうだった。
悲しくて、男の時計や財布を隠した。
唯一出来る反抗だった。
- 9 :
- 小学校3年のある日、母がまた違う男を連れて来た。
しかし今までとは違う。
おばあちゃんに紹介したり、私にその男を「パパ」と呼ばせようとした。
母は当時27歳、パパは24歳。
- 10 :
- 気が付くと私は、初めて母と暮らす様になっていた。
パパも一緒に。
パパは最初は優しかった。パパが大好きだった。
再婚に大賛成だった。パパと母のRは一度も見なかった。
だけど一緒に暮らす様になって、パパは変貌した。
テストで50点以下を取ると、教科書丸暗記するまで何日も寝かせてくれなかった。
お行儀が悪いと茶碗や皿が飛んできた。
怖かった。
そんな生活が一年もたたないうちに、母のお腹に妹が宿った。
- 11 :
- 母は仕事を辞め、私は一緒に過ごすのが幸せだった。
今思えば、あの時が一番幸せだった。
一緒にシュークリームを焼いたり、初めて参観日に来てくれたり。
その10ヶ月が一番幸せだった。
10ヶ月後、母が産気付いて、入院した。
病院の外で、祖母とパパが、
母の入院中、私(ミカとします)をどちらの家で見るか
の話し合いをしてた。
祖母が「ミカはどうしたい?」と聞いたので
私は迷わず「おばあちゃんちがいい」
と言った。
そして、その日、着替えなどを取りに一旦、パパと
帰宅。
家に帰った瞬間、パパの形相が変わった。
- 12 :
- 「何故、おばあちゃんちがいいと言った」
と、パパにぶたれた。
何度もぶたれた。私は気を失った。
ずっと怖かったパパだけど、そこまで殴られた事が無かったので
私は震えあがった。
目が覚めてから、おばあちゃんに電話し
「パパと一緒がいい」と、泣く泣く言った。
その夜、妹が産まれた。
- 13 :
- パパはその日から仕事に行かなくなった。
私に、母を装って会社に電話させた。
「主人は体調が悪いので休みます」的な。
そして、一日中ゲームしてた。
妹が産まれた次の日の夜
私がお風呂に入っていると、パパが入って来た。
驚いたけど、怖かったので何も言えなかった。
パパは上機嫌で、湯船に入ってきた。
- 14 :
- しばらくして、パパが言った。
「ミカ、パパのおRをパクって咥えてみて」
その当時、小学4年だった私は、はっきりどういう事かわからないけど
恥ずかしい、エッチな事だと思った。
でもやはり怖かったので言われるがまま、咥えた。
その日は、何度か咥えさせられたが、それ以上は要求されなかった。
- 15 :
- その行為は、母が入院中、ずっと続いた。
恥ずかしいのと、言ったら殺されるんじゃないかと思い、誰にも言えなかった。
母が退院した。
相変わらずそれは続く。いつからかは覚えてないが、段々と
キチンとしたRをさせられる様になっていた。
AVを見せられ、
「この女の人みたいに舐めるんだ」と言われた事もあった。
妹が産まれて以来、パパは仕事に行かなくなった。
代わりに母が、昼は事務、夜はスナックで働いて、私たちは生活をした。
妹の保育所の送り迎えは私がした。
ご飯も私が作って食べさせた。
生活は貧しく、米しか無い時はふりかけで食べた。
米も無い時はモヤシやピーマンを食べた。
パパは一日中ゲームをしてた。
途中、私にコーヒーを淹れさせる。
薄かったり濃いかったりすると、投げつけられ、作りなおさせられた。
毎日の様にマッサージをした。
1時間や2時間とさせられるので、指がパンパンだった。
1〜2日に一度、Rを強要される。
決まって母や妹が居ない昼間だった。
文化住宅だったうちには当然風呂はなく、
2〜3日に一度しか銭湯に行かないパパのそれの
匂いや味に吐きそうになりながら、涙目でしてた。
- 16 :
- 因みに何故、小学生の私が昼間家に居たかというと
学校に行くとパパに怒られたからだ。
週2〜3日は休んだ。
学校に行ったある日、パパと2人きりの時間を減らしたかった私は
寄り道をして、遅く帰った。
当然、母の見てないところで殴られた。
次から、学校の門まで迎えに来る様になった。
友達の間で
「あいつは父親とデキてる」
という噂が流れ、ますます学校に行きにくくなった。
母はそんな事情を知らないので、休む私に
「お前もあいつ(パパ)と一緒でボンクラだ。Rばいいのに。」
と言った。死のうと手首を切った。
(Rなかったけど)
- 17 :
- 家に食べるものが無いので、おばあちゃんちに行こうとする母と妹。
「一緒に行きたい!!」と言いたかった。
言えなかった。
背中ごしに睨むパパが居た。
母は、「怠けモノ同士、家に居たらいい」と言った。
スマホで書くん疲れる。
誰か見てる?
- 18 :
- 壮絶な人生ですね
Rの時は、イクまでしてたってことですか?
口に出された場合は、どうしてましたか?
- 19 :
- ≫18
最後までです。飲み込むのを要求された時は飲みました。
それ以外はテイッシュに出してました。
小学校5年の頃から、パパと母はパチンコにハマった。
土日になると、1歳の妹と、パチンコ屋の駐車場で一日中待った。
パチンコ屋のカップラーメンやハンバーガーの自販機でお腹を満たした。
入口に立ってたら、おばちゃんやおっちゃんが、ヤクルトやチョコレートをくれた。
1〜2時間に一回、様子を見に母が来る。
勝ってる時は、千円とか、お小遣いをくれた
妹が不憫に思った私は、そのお金で、近くのガレージセールに行き
妹のオモチャや椅子を買った。
パチンコは私が中学に入るまで続いた。
- 20 :
- 住む家もだんだんランクダウンし、私は小中合わせて7回、転校した。
もうこの何年かは、最悪な事ばかりだった。
兎に角、父は6年もの間、停職に付かず、ゲームとパチンコだけをして過ごした。
私はずっとRをし続けた。
Rもした。
中学に入る頃には、私の身体に触る様になった。
胸を揉んだり、舐めたりした。
アソコも触ったり舐めたりした。
もう、この頃には私はどうでもいいやと思ってた。
- 21 :
- しかし、人生を諦めかけた私にある出来事が起こる!!
厨二の冬、私は幼馴染と六年ぶりに再開する。
一つ上の男の子。小学校3年の時のファーストキスの相手。
母の友達の息子だった彼は、親の都合で施設で暮らす事になり、会えなくなった。
でも彼の母親が、玉の輿婚をしたので、また引き取られ一緒に暮らすようになったのだ。
そして、再開。
幼い頃から芽生えていた恋心、ここで暴走
再開から間もなく、私たちは付き合う事になった。
- 22 :
- 王子様の登場ですね
Rとありますが、その当時で何カップあったんですか?
- 23 :
- 友達の家に行くといい、母にも手伝ってもらい
彼と何度かデートしました。
クリスマスにタイタニックを見に行き、キスをした。
その時、私はパパの事も忘れられる位幸せでした。
しかし彼と付き合いだして二ヶ月ほどたったある日
私が彼に宛てて書いた手紙がパパに見つかった。
パパは気が狂った様に、怒り、泣き、私を初めて犯しました。
私はRでしたが、さほど痛みはなく
ただもう、絶望感のなか、上で腰を振るパパを見てた。
- 24 :
- ≫22
いや、残念ながらDカプですw
でも、してみたかったんじゃないですかね?w
王子様の登場!!
ならいいんですが、私はその後すぐ
彼とは別れました。パパが半狂乱だったし、何より汚れた気がして
彼と会いたくなかったから。
一度一線を超えたパパは、それからはRを強要した。
でも、しばらくして私は
「私は、好きな人と結ばれる事も出来ないのか」
と思う様になり母に、全てを打ち明ける決心をした。
あ、やば
旦那帰宅。また後で来ます。すみません。
- 25 :
- 悲惨な幼少期だったようですが、今では結婚もして、
そこそこ平和な人生になってそうですね、よかったなぁ
- 26 :
- よく出来た作り話ですねw
- 27 :
- その後はどうなったんですか?
- 28 :
- テスト
- 29 :
- 酉付けますねー。
そして、ある日母を呼び出す。スーパーのフードコート。
でもやっぱり面と向かって言う勇気がないので目の前にいる母に手紙を渡す。
今思えば変な行動。
手紙には沢山は書かず
小3からRを強要されてたこと。
初せクロスの相手がパパである事を書いた。
母は泣いた。
外だというのに、気にする事も無い様に
ボロボロ泣いた。
そんで私に謝った。何回も謝った。
そして母はその足で、近所に住むパパ方のおばあちゃんちに行った。私を連れて。
そこでその手紙をおばあちゃんとおじいちゃんに見せて、泣きながら、離婚すると言った。
直後、おばあちゃんは顔色帰る事もなく
信じられない事を言った。
おじいちゃんは黙ってた。
わからないけど、怒った顔だった。
- 30 :
- おばあちゃんは、母に向かってこう言った。
「私は貴方のお母様にお金を貸しているのよ。200万円程。それをきっちり返済して貰わないと、離婚には応じられないわ。
ミカちゃんの事は、貴方の監督不行届でしょう。あの子(パパ)が仕事をしないのも、貴方のせいでしょう。」
- 31 :
- その日のそれからの事は覚えてない。
でも何か、おばあちゃんが言ったその事があってなのか、何なのか離婚はしなくて、またしばらく、元の生活に戻った。
ただ、母に言われたパパは、Rを強要しなくなった。
私とパパが2人きりになる時間もなくなった。ただやっぱりパパは仕事はしなかったし、ゲームとパチンコしてた。
それから半年くらい経ったある日、母が私に言った。
「これから毎日、パパにわからない様に、カバンに服や必要なものを詰めて、少しずつおばあちゃんちに運ぶように」
3日位、少しずつ運んだ。
本当に必要なモノだけ。服とか。
で、4日目の朝、母はパパにお小遣いをあげた。1万円。
パパは意気揚々と、パチンコに出かけた。
- 32 :
- 子がクズなら、親もクズだなぁ
なんで、平気で人を傷つけることができる人間がこの世には沢山いるんだろうねぇ
ホントこの世は理不尽だなぁ
- 33 :
- そしてパパが出掛けた後、最後に必要な荷物少しを持って、母と妹と私は家を出た。
私はちゃんとした説明も聞いてなかったので、頭ん中「???」だった。
で、割りとすぐ近くの喫茶店に。
入るとスーツの女の人。余談だけど割と若い人だった気がする。
女の人「うまくいきましたか?」
母「はい、ありがとうございました。あと、これ。。。お願いします」
母は女の人に離婚届を渡した。
喫茶店を出ると、次は電車に乗った。
5駅程離れた所で降り、しばらく歩き、団地の様な建物の前に着いた時、母はやっと話した。
母「ここは母子寮と行って、旦那さんから隠れる必要のある人が暮らす処。ここでしばらく暮らすよ。ただ、期限があるから、それまでだけど。」
私「パパに見つかったらどうするの?」
母「大丈夫。名称は地図にも載ってない位だから。見つからない。」
私は少し安心した。
後日、その女の人が(弁護士さんでした)離婚届をパパのところに持って行き、話し合い、判を押させたらしい。
- 34 :
- シェルターですね
彼のしたことは当然、何百万もの慰謝料を取れる罪ですが、どうなったんでしょうか?
ばばあが二百万うんぬん言ってますが、少なくともその二百万をチャラにさせるぐらいのことは
してますからね
- 35 :
- そしてそこで二週間足らずを過ごした。
何かよくわからないままに警察病院に連れて行かれ、膣内部を調べられた。
警察署にも何回も行った。
男の刑事さんに根掘り葉掘り聞かれた。
カウンセラーの人と話しもした。
でも、実際裁判はしなかった。
私が嫌がったから。
知らない人の前でその話をしたくなかったから。
今思えば、本当、慰謝料貰うべきだったwwwww
- 36 :
- いや、簡単な裁判はしたのかな?よくわからないけど
私が居なくても出来るの?
兎に角、母が
「パパかミカに近寄らない様に命令を下して貰った」って行ってた。
ところが、母子寮から出て、おばあちゃんちで暮らし初めた頃
パパが奇行に走る。
- 37 :
- どうしたのかな
- 38 :
- ≫32
あのRは、本当鬼畜だった。
鬼畜伝説その一
元水商売の女なんて、誰の子を孕んでるかわからない、と妹の前に出来た子を堕胎させられた。
その二
ミカちゃんをこちらの籍に入れるのは嫌だ、といい、養子縁組してもらえず六年間私だけ、家族と違う苗字だった。
それで結構学校でいじめられた。
その三
妹のお年玉=五千円
私=千円
その他
Rネタだけで本出せそうだ
- 39 :
- ≫34
シェルターですね。
あの時、日本にそんなもんがあるのかとちょっと驚いたANDかっけーと思いましたw
≫37
書き込み規制で遅くなりましたスマソ
- 40 :
- ある日、外に出ると、私の自転車のカゴに、何か入ってる。
それは、可愛いち
- 41 :
- 可愛い小さい紙袋だった。
中身は女の子の好きそうな可愛いカラーペンやシャーペンなどの文具。
そして、手紙。
- 42 :
- はっきりとした文面は覚えてません、すみません。
ただ、パパは、私の事を愛してると。
愛してるからRして貰ったし、Rしたと。
兎に角、すごく愛してる、会いたい、気が狂いそうだ、みたいな内容だった。
母に見せたけど、私にはあんまり反応した素振りは見せなかった。
ほっとけって、感じだった
- 43 :
- ちょっと風呂入ってきます。
続き、ちょっと遅くなるかもです。
すみません(´;ω;`)
- 44 :
- 見てます!
ごゆっくりー
あと安価は>>をつかって下さると嬉しいです><
- 45 :
- おっさんホントにクズだなぁ
でも、ロリコンの連中からしたら、子持ちの女性と付き合って、
その連れ子とエッチなことするって夢みたいなもんだろうからね
よく漫画とかのネタになってるし
不謹慎な言い方だけど、おっさんにとっては最高の生活だったんだろうな
- 46 :
- 遅くなりました。
ありがとうございます。
>>44それ。。。
どうやったらその記号出るかわからない
(´;ω;`) (´;ω;`) こう??
あいぽんで、その記号どこでしょうか。。
≫45
今は、あいつのクズさがよく解りますw
でも、あん時は本当に怖かった。。。
- 47 :
- おお!!!!1!
でけた!!!
えー、と。
続き書こうかと思ったけど時間遅いんでまた明日書きます。皆さん寝てるだろうし
というか見てる人少ないだろうし
ちょっと書き溜めますね。。。
- 48 :
- 質問というか、こういう話で気になるのは、そうやって性的虐待を受けた子は
その後、好きな人とか彼氏とか旦那さんとかとRしたりする時、
どんな感じになるんだろうか、と
やっぱRしたりすると、昔のこと思い出して嫌な気持ちになったりするんですか?
あと、不謹慎な質問だと、
子供の頃から、そんなにいっぱいRさせられてたってことは、
相当訓練積んでたわけだから、いざ他の男にしてあげた時、上手すぎるとかって
褒められたりしましたか?やっぱ上手になってるもんなんですか?
あと、おっさんはほぼ毎日それを6年間やらせたってことは、
一年に300回はさせてたとして、ざっと1800〜2000回はやらされたってことですかね
風俗で一回一万だとしたら、2000万分、しかも未成年にそんなことして貰おうと思ったら、
裏ルートだから、分かんないけど多分一回三万ぐらいだとしても、約5000万分はいってるのかな
おっさん罪深いなぁ、間違いなく地獄行きですね
- 49 :
- 結局その後暫くは、そういった事が度々ありましたが、母がどうにかしたのか、一月後には、ぱたっと無くなりました。
そして私は、高校に入るため猛勉強。今までの遅れを取り戻すべく、夜中まで毎晩勉強しました。
普通に人並みの高校生活を送っていた私ですが、やはり母とは別に暮らしていました。離婚後、母は水商売に本格復帰
母子寮を出てから私と妹は祖母宅へ
母は近くでマンションを借りて住んでいました。気付くと新しい男と一緒に。
母は当時35歳、男は51歳でした。
事もあろうか元ヤクザのチンピラでしたが、私や妹にはよくしてくれた記憶があります。
私が17歳になった時、その男の後ろ盾で、母がスナックを経営する事になりました。
私は毎日、ホステスとして手伝いに行きました。慣れないお酒を飲み、毎晩1時まで働きました。
そして、前の旦那と出会ったのです。
- 50 :
- >>48
おはようございます。
えーっと、ご質問のお答えですが
私は特に余り何も感じた事は無いです。
何というか、もう開き直ってたのでしょうか。
思い出して嫌な思いはしません。
むしろ、好きな相手にしてあげる事が幸せだと思いました。
Rは、上手だと旦那には絶賛されますが、それが経験を積んだからかは謎です。
単純に、旦那さんを喜ばせてあげたいので、一生懸命します。
パパ相手の時は嫌々だったので、モチベーションが全く違うので、丁寧さも違います。
開き直ったからと、風俗に行こうとは思った事はありません。
パパに無理矢理させられたからこそ、愛してる人としか、したくないです。
- 51 :
- 前の旦那
スペック31歳
178cm85kg位
顔は、清原さんを少し崩した感じ
ついでに私のスペック(当時)
17歳
152cm43kgくらい
インリンに似てるってよく言われた
- 52 :
- 旦那は、週の半分位飲みに来ました。
作業服で。(解体業)
金払いも良く、少し変わりモノでしたが、男らしい人だと思いました。
4ヶ月位飲みに来続けて、私が18歳になる前、旦那からご飯に誘われました。
母に相談したら
「M君(旦那)だったら安心だから、行っておいで。但し、ご飯の後、お店に連れてくる様に」と言われました。
旦那に指定された焼き鳥屋へ。
少しお酒を飲みつつ、ご飯を食べ、たわいも無い話をしました。
さぁ、お会計というところで
旦那が私に言いました。
「ところでミカちゃん、いつ付き合ってくれるの?」
- 53 :
- 私は、そんな対象で見られてると思わなかったし、マトモな恋愛経験が無かったので
「えぇえぇぇえ???」ってなりました。
でも結局、恋愛に対する憧れや、少し顔もタイプだったのもあって、その後暫くして、お付き合いする事になりました。
そして来る初Rの日。
旦那服を脱ぐ。
「??!」
めっちゃ刺青入ってますやーーん
それも、それってファッションじゃなくて本物のやつですやーーん
てゆうか、よく見たら左手小指無いですやーーーん
- 54 :
- その後、母に聞いたら、母は知ってた様でした。
言えよ、先に・・・
高校を卒業して、旦那と同棲する事に。
旦那は一人暮らしのくせに、2LDKの立派なマンションに住んで居たので、私が旦那の家に荷物を運ぶ形で。
母は特に反対しませんでした。
というより、一緒に住んでた訳でもなかったので、別に私が
ばーちゃんちに居るか、男の家に居るかで、母にとっては何の変わりばえも無かったんだと思います。
付き合ってすぐ、失敗したと気付きました。
旦那はDVでした。
- 55 :
- 毎日ではありませんが、旦那はくだらない事で私を殴りました。
腑に落ちないながらも、逆らうと怖かったので、泣きながら、ただ謝りました。
怖くて部屋の隅に逃げても、追い付いては殴り、蹴りました。
母には言いませんでした。
パパの事で、慣れてしまったのか、我慢するのに大した苦痛もありませんでした。
暴力に慣れた頃は
何て言うんでしょうか。
痛みも余り感じず、殴られてる私を、離れて見てる様な感覚でした。他人事みたいな。
- 56 :
- 後でDVの本を見た時にすごくよく解ったのですが
DVにはサイクルがあります。
まず優しい時期があります。
普段からは信じられないくらい、優しい時期が。
そして1〜2日経つと、何だかとっても不安になる時期があります。
特に旦那が怒っているとか、不機嫌とかでは無いのですが、無性に不安になるのです。
そしてまた1〜2日経つと、もう必死に顔色を見てしまう。
その頃位に旦那に殴られる日が訪れます。
私をひとしきり殴った旦那は
罪悪感からか、また優しくなります。
この繰り返しです。
優しい時期があるので、私は訳が解らなくなり、離れる事も出来ませんでした。
- 57 :
- くだらない事で殴ったとありますが
ある時は
付き合いだした頃は、旦那は
「友達に18歳の子と付き合ってると言ったら、すごく羨ましがられた」と得意げに言ってたのですが
私が可愛いミニスカートを母に買ってもらい、見せると
「そんな子供みたいな服着やがって、俺に恥をかかせる気か、くそガキと付き合ってると友達に笑われたらどうしてくれる」と言って殴りました。
またある時は、
「ブタ女が、みっともない。」
と殴りました。
確かにスレンダーではなかったですが、太っても無かったと思いますが。
それが度々あったので、私は無理なダイエットを繰り返し、ストレスで過食嘔吐になりました。
食べてしまった罪悪感から、下剤を乱用し
○ーラック1箱一気飲みしたりしていました。
その成果?か
体重は34kgまで落ち、旦那はたいそう喜びました。
- 58 :
- 18歳で入籍、19歳と20歳で出産しました。
子供は大好きだったので、とても可愛く、大切に育てました。
旦那は一切協力が無く、母にも頼りませんでした。
というより、頼る事を許されていませんでした。
「子供2人くらい、お前一人で育てろ。そんな事も出来ないのか」と殴られたので
母に助けを求める事は出来ませんでした。
旦那は、仕事の帰り道、毎日飲みに行っていました。
帰ってから、お風呂に入り酒を飲み、ご飯を食べて、二階の寝室に消えて行く。
私は、子供が泣くと怒られるので、子供2人を一階のリビングで寝かせてから、一人ご飯を食べ、その後一人ずつ連れて上がっていました。当然、寝室は別です。(この頃にはメゾネットタイプのマンションに引っ越してました。間取りは3LDK)
ある日、いつものように子供を寝かしつけ、一人ご飯を食べていると
旦那が二階からおりてきました。
その日の私のおかずは、旦那の残した刺身でした。
旦那は「一丁前に刺身なんか食いやがって。また太る気か」と罵りました。
私は悲しくなり、もう死のうと思いました。旦那の残り物でも、そんな風に言われるのかと。
- 59 :
- Rへの思いを読みましたが、素晴らしいですね
誰が何と言おうと、その心意気は素晴らしいと思います
今の旦那さんは幸せもんだな
それにしても、災難が続きますね
一旦大きくリセットしないと、不幸体質はずっと悪い縁を
引き寄せますからね、貧乏神に憑かれるというか
- 60 :
- 死んで、旦那や母に「死んでやった、ざまあみろ」と言ってやりたかった。
「お前らのせいで、私は死んだ。一生その十字架を背負っていけ。」と。
でも、何度そう思っても、可愛い子供の顔を見ては
「この子たちには、私がいないと」と泣きながら思いとどまりました。
それ以来、ストレスでますますご飯を食べれなくなり、私は極度の免疫力の低下により、肺炎にかかりました。
ある日の夜、子供を寝かせつけながら、一緒にリビングで寝てしまったのですが
ふと、猛烈な痛みで目が覚めました。
17歳から、慢性的な胃痛持ちだった私は、ただの胃痛だと思い
もがきながらも、我慢してましたが、段々と呼吸もままならなくなり
2階の旦那を起こしに行きました。
途切れ途切れ、旦那に言いました。
「ただの胃痛かと思っていたが、様子が違う。痛くてたまらない。病院に連れて行って欲しい」
旦那が暴れだしました。
「嘘付きの大袈裟な女。そんな事を言って寝かせないつもりか。行きたきゃ自分で行け」そして蹴り飛ばされ、下に追いやられました。
私は泣きながら、電話を手にとり119番しました。
もうその時は本当に途切れ途切れしか話せなかったので、電話の向こうで救急隊の人?が心配してました。
すると旦那が二階から降りてきて、
「救急車を呼ぶと金がかかるし、近所でみっともないから、自分で運転して行け!」と言われました。
私は、救急隊の人に、「自分で行くので、受け入れてくれる病院を教えて欲しい」
といい、自分で行きました。
- 61 :
- >>59
後に書きますが、今の旦那がリセットしてくれたと思います。
今は、まぁまぁ幸せです。
ありがとう。
そして、肺炎の診断。
MRIに入る時、仰向けで寝るのが苦しかった。
その場で点滴を受け、楽になった。
医者は、
「肺炎というのは通常、お年寄りや赤ちゃんなど、免疫力の低い人が風邪をひいたりした時になるもので、普通貴方の様に20歳くらいの人がなるもんじゃない。よほど体力や免疫力が低下してるんだろう。とりあえず、入院して下さい。」
と言いました。
私の頭の中には、
「入院なんかしたら、子供も面倒がみれなくなる。そしたら旦那にまた殴られる」
という事しか浮かばず、医者に頼んで通院にしてもらった。
医者は渋々だったが、うちの近所の病院に、紹介状を書いてくれ、私は徒歩10分ほどの近くの病院で、1日2回、点滴を受けるべく通うことになった。
- 62 :
- ま、通院2日目の日、旦那に
「もう痛くもないんだろう?その点滴は一回いくらする?」
と言われ、行けなくなりましたが。
あと旦那の性癖は、どノーマルとはいきませんが、生粋のSだったと思います。
(あんまり詳しくないんですみません)
RSEXを好みました。
私は痛かったので、毎回嫌がりましたが、無理矢理にされました。
ある時は、Rを使い、両方突っ込まれたり、もう、泣きながら抱かれました。
しょっちゅう飲尿もさせられました。
苦くて、吐きそうになりながら飲みました。
旦那のRで愛情を感じた事は無かった。
- 63 :
- どうやって離婚の展開になるか気になるな
- 64 :
- 因みにこの頃、母は2度目の再婚をする。
更に種違いの妹が増え、弟も出来た。
しかしやっぱり養子縁組はしてもらえなかったので、住民票上は、母の子供は3人ということらしいw
私って一体wwwwww
そんな事もあり、ますます私は母と疎遠になる。
ただ、パパの子供である妹に、私はとても愛情があったので
また同じ繰り返しにならないか、母の再婚の時はとても心配だった。
奇しくも母の再婚時、妹は小3。
母がパパと再婚した時の私と同じ年だった。
私は毎日妹に、「何か悲しい事があって、お母さんにも誰にも言えない時は、お姉ちゃんとこに来るように。」と言いました。
私も結婚していたので、妹を近くで守る事は出来なかった。
幸い、新しい旦那さんは、妹を可愛がってくれた。
今も上手くやってます。
でも、私は一緒に暮らした事も無いし、可愛くないみたいw
母は未だに、旦那さんと居る時は私の電話にも出てくれませんw
- 65 :
- 長男が2歳になる誕生日の日、母が電話で、「長男にプレゼントを買いに行こう」と言いました。
しかし、母にそんな事をしてもらっては、また旦那に殴られると思った私は、断りました。
祖母も同じ様に言いましたが、やはり断りました。
2人とも疑問に思っていた様子でしたが、兎に角断りました。
そしてその日の夕方、旦那帰宅。
私の携帯の履歴チェック。母からの着歴。
旦那大暴れ。内容はこう。
「俺の居ない間に、母に会っただろう。そして、長男の誕生日祝いをした。親の俺を差し置いて、先にお祝いしたんだろう。」
私は泣きながら否定しましたが聞く耳もたず。殴る蹴る。
長男が泣きながら止めに入るも、長男も突き飛ばす。
10ヶ月の次男が、歩行器に乗って泣いてるのを、うるさいと突き飛ばす。
ひとしきり暴れた後、旦那は二階にあがりました。
私は、その日、長男の好きなお好み焼きを焼いてあげようと思ってたのに。。。
もう時間は9時前。
ふと見ると、お腹を空かせきった長男が、手づかみで天かすを食べていました。
- 66 :
- その時、私は涙が止まらなくなりました。
私は、こんな子に、こんな思いをさせている。せっかくの誕生日に、涙でカピカピになった顔で天かすを食べている。
私は何て事をしてるんだ。
子供には、実父と実母がいたほうがいいと、頑なになっていた私でしたが
それ以来、私は離婚しようと決めた。
- 67 :
- レベルあげるぞ〜
- 68 :
- しかしこちらから事を起こす前に、ある出来事が起こる。
長男の誕生日から、僅か1週間ほどたったある日の夕方。
私の実父方の祖父が訪れる。
実は私の両親の離婚後、実父方の祖父母が、私に会いたいと母に頼み込みに来てたらしい。
初孫で、男系家族だった祖父母は、女の子の私をたいそう可愛がってくれた。
その祖父がやって来たのだ。
どうやら、異変を感じた母が、祖父に頼んで私を連れ出しに来たようだった。
- 69 :
- 離婚を決意していた私には、好都合だったのだが、いざその場になると、また
「こんな事が見つかったら殺される」
と言う考えに陥り、祖父から逃げる様部屋の隅に逃げ、震えた。
その姿を見て、祖父は旦那に対する怒りが爆発したと、後に聞かされた。
そこへ旦那帰宅。
部屋で仁王立ちの祖父を見て、
「何だお前は?」と形相を変えてすごい勢いで近寄る。
そこで祖父に突き飛ばされ、すっころぶ旦那。不意をつかれたので、見事な尻もちw
旦那慌ててヤクザの連れ呼ぶ。
- 70 :
- しかし、ヤンチャなじいちゃん
「何やワレ!スーツの袖折り曲げとるちんちくりんのクソヤクザが!!やれるもんならやってみぃ!!堅気相手にやるんかゴルァ!!」
じいちゃんww河内弁ww
そして、じいちゃんから聞いて事の全てを知ったヤクザ屋さん
「恥かかせやがって」
と旦那に一喝、お帰りに。
- 71 :
- 壮絶な人生だなぁ
それにしても、なんでまたこんな過疎板で立てたんでしょうかね
完全にこれはvipとかvip+とかでやってたら、まとめに載るような話なんだけどな
- 72 :
- こうして私は、じいちゃんちに無事逃げる。息子2人を連れて。
私は、この時
異常なまでに子供に執着していた。
それは、私を必要としてるのは子供達だけだと思ってたから。
母にRと言われ、パパにオモチャにされ、旦那にゴミのように扱われる。
私の事を愛してくれて、必要にしてくれるのは息子達だけだと思ってた。
息子の為だけに生きてた。
- 73 :
- >>71
あんまり詳しくなかったので。。。すみません
板違いとかだったらゴメンなさい。
(´;ω;`)
でも、その時じいちゃんが言った
「じいちゃんは、何でミカがこんな目に遭ってるのか知らん。
ひょっとしたらミカに原因があるんかも知れん。
でもじいちゃんは、そんな事はどうでもいい。じいちゃんは、世界中を敵にしても、ミカを守る。
世界中がミカが間違ってるっていうても、ミカを庇う。だから安心してここに居なさい。」
涙が止まらなかった。
そんなじいちゃんが、家事で生きたまま焼かれて死ぬのは、また後の話。
- 74 :
- じいちゃんちに逃げて2日ほど経ったある日、旦那がやってきた。
それまで幾度となく携帯は鳴っていたが、私は出なかった。
旦那は家に無断で入ってくる。
じいちゃん
「ふじこふじこ!!!」
息子2人を両脇に抱え、連れて行こうとする。
旦那は知っていた。私が息子に弱い事を。息子がいるから、離婚出来なかった事を。当時の私は未熟で、こんな場合、私に必ず親権がくると知らなかった。
だから旦那に取られるのが嫌で、それを引き合いに出され、離婚出来なかったのだ。
旦那は度々言っていた。
「離婚するなら子供は俺が引き取る。もし裁判でお前に親権が渡っても、さらってでも連れて行く。
それでブタ箱に入っても、出たら必ずまたさらいに行く。」
- 75 :
- ついにその日が来たのだ。
息子をさらいに鬼がやって来た。
しかしここで私の思いが一気に爆発する。
初めてあんなに声を荒げた。
子供を車の後部座席に押し込み、運転席に乗ろうとする旦那の胸ぐらを掴んだ。
「この野郎!!くそ基地外が!!!お前がそんなんだから、こんな風になったんだろうが!!子供が泣いてるのが見えんのか!!クソが!!子供返せ!!」
泣きながら言った。
しかし旦那は私を振りほどき、車で走り去った。
- 76 :
-
いざ、連れ去られると私は開き直った。
どうしようとか、そんな思いはなく
意地でも取り返さなければと思った。
しかし次の日、旦那から電話が。
どうやら、あの後、子供を連れて実家に帰ったらしい。
姑に、見て貰うつもりだったようだ。
しかし姑に拒否され
「子供がお母ちゃんって一晩中泣く。俺には見れない。明日、返しに行く。」
と言った。
旦那は父親がヤクザで、家庭内暴力が酷く両親が離婚。
母親に引き取られるも、新しい父に粗末に扱われ、中学卒業と同時にヤクザになった。
私と出会った当時、その話をした。
そして、「俺か家庭環境に恵まれなかった。だから幸せな家庭を持ちたい。」
と言った。
私もそうだった。
なのに何故こんな事になったのか。
私はまた泣いた。
- 77 :
- その後、旦那は嘘の様に大人しくなり、すんなり離婚した。
慰謝料と養育費は、要らないと私は言った。実際、一度も貰わなかったし、その代わり会わせる事もしなかった。
私は、私の力で子供を育てようと決めたからだった。
その時は
「私はお母さんと違う。子供には私の作ったご飯を食べさせて、一緒に暮らす。再婚もしない。」
と心に決めていた。
- 78 :
- かっこいいぜ
- 79 :
- 私は、何とかマンションを借りて、息子と三人暮らしを始めた。
2kのマンション。余り広くはないけど、1歳と2歳の息子と三人で暮らすには、狭くもなかった。
保育所も、母子家庭だったので優先的に入れれた。
私は、働いた。いっぱい働いた。
息子に、キャラクター物のコップを買ってあげたい。旅行にも連れて行ってあげたい、必死に働いた。
中卒でシングルマザーの私には、バイトしかなかった。
完全に負け組だった。
朝、7時半に保育所に預け、いったん帰って家事。
その後すぐパチンコ屋に行き夕方まで働いた。早番は16時半までだった。
帰りに買い物をして、保育所に迎えに行き、帰ってご飯、お風呂を済ませる。
そのまま祖母宅に子供を預け、今度は夜の仕事。
朝5時までだった。
そのまま家には帰らず、車で寝た。
1時間半寝たら、子供を迎えに行く。
朝ごはんは祖母が食べさせてくれていた。
保育所が休みの日曜日だけは、仕事を必ず休みにして、一緒に過ごした。
- 80 :
- >>76
ありがとう。照れるぜ
あ。違。私いちお高卒ですww
でも、そんな生活1年で疲れ果てた。
私は、毎晩仕事で浴びる様に飲んでいたので、内臓がボロボロだった。
肝臓はまだマシだったと思うけど
中性脂肪が980とかだった
そのうち、保育所の忘れ物が増え、夜ご飯も買った物を食べさせた。
保育所の先生や、保護者から、後ろ指を指される様になった。
それが悲しくて、ちゃんと出来ない自分が嫌になって、段々病んでいった。
ここでトドメを刺される。
- 81 :
- ナマポを貰うという発想はなかったのか
つくづく苦労を買ってでもしちゃう性分というか、
茨の道を嫌でも選ばざるを得ない運命なのか
たくましすぎるよ
世の中には、あなたよりももっと小さな不幸や挫折で落ち込んだり、
ふさぎ込んだりして、引きこもりになったり、精神障害認定を受けて、
家族や社会に甘えて生きていく人がいっぱいいるというのに
- 82 :
- 次男が2歳になった頃、川崎病になった。
最初は熱があった。
風邪の症状は、、、なかったと思う。
近くの内科へ。(私が肺炎の点滴打ったとこです)
診断は、風邪。
熱が、38度以上あったので座薬を貰う。
しかし様子がおかしい。
座薬を入れてもすぐまた熱が上がる。
おかしいと思いつつ、私は仕事にかまけて、息子を病院に連れて行かなかった。
座薬を入れて、一瞬熱が下がるので、それでごまかしてた。
保育所は休ませてたので、仕事の間は祖母に預けた。
- 83 :
- >>81
ありがとう。でもこの後わかると思いますが、私は、あかんたれです。
最初に熱が出てから5日目の日、祖母が見るに見かねて、また内科へ連れて行った。
小さい街医者だったので、血液検査をするが、結果はら2〜3日かかると言われたらしい。
祖母は、納得がいかず、その足で大学病院へ連れて行った。
母が車で乗せてってくれたらしい。
そこで川崎病の診断を受けた。
母からの電話でそれを聞いた時、心臓が止まりそうになった。
「川崎病??川崎病って何??教科書で見たやつ??何??」
って感じでパニックだった。
- 84 :
- 息子は入院する事になった。
私は、医者に呼ばれ病院に行った。
すごく怒られた。
「息子さんは、全身の異常があったはずだ。
お腹や、睾丸、足の裏などが腫れていたし、白血球の数値が異常なまでに上がってた。お腹を相当痛がったはずだ。
今日から、点滴治療をするので、何とか大丈夫だけど、あと2日も遅かったら、死んでしまったかも知れない。
おばあちゃんに感謝しなさい。そんな事では、親失格ですよ」
と言われた。
- 85 :
- その病院は、完全看護だった。
ただっ広い病室には、あちこちに高い冊のついたベッドがあり、沢山の子供が居た。
オモチャの電子音があちこちから聞こえ、絵本やぬいぐるみが沢山あった。
そのベッドの一つに息子は居た。
同じ様に冊つきのベッドの中で立ってた。
腕は、添え木みたいのがあてられ、包帯で巻かれていた。そこから、点滴のチューブが出てた。
息子は、私の顔を見て喜んだ。
抱っこをせがんだ。
息子の顔は別人の様だった。
目が落ち窪んでいた。
何で、気付けなかったのか。
情けなかった。恥ずかしくて泣きたかった。
私は、母に頼ってしまったこと
結局、母に助けられたことに、感謝よりも悔しい気持ちだった。
- 86 :
- 息子はその後、1ヶ月入院する。
私は毎日、仕事の合間に病院へ行った。
短い時間を過ごし、看護師さんに息子を渡す時、毎回息子は大泣きした。
お母ちゃん!!って泣いた。
私も泣いてた。
一ヶ月後、退院。
幸い、退院時に、心配された合併症もなく、元気に退院した。
その後も、半年に一度、心電図を撮りに通った。
川崎病は、治療後、五年は経過観察の必要があった。
去年の2月、無事に完治となりました。
- 87 :
- しかし、その後また事態が変わる。
祖母が、お金を要求する様になった。
今までも、月に2万円は渡していたのだが、それでは足りないと言われた。
私は、夜ご飯もお風呂も済ませ、そのまま寝る状態で預けてたし、食べさせて貰うのも朝ごはんだけだったから、それでいいと思ってた。
でも、足りないと。せめてあと3万寄越せと。
私は、母はともかく、祖母に言われた事がショックだった。
正直、私の生活は苦しかった。
家賃は6万5千円。
光熱費やガレージ代、支払いで併せて固定経費が13万くらいだった。
子供の為、貯金もしたかった。
その頃、保育所での風当たりが更にキツくなっていた。
私のせいで、息子が危ない状況だったからだ。
一番言われたくなかった
「子供が子供を育ててる」
「これだから母子家庭は」
が、あちこちから聞こえた気がした。
- 88 :
- 私は段々と病んでいく。
そして知り合いから、ある病院を勧められた。
医者は、「境界性人格障害」と言った。
で薬貰った。何て名前かは忘れた。
実際本当にそんな病気だったのか今でも謎
でも、それを言われてますます病んだ。
実際その病気のせいか、薬のせいか、それ以降の記憶が曖昧なところがあったりする。
自分ではその病気の事を調べなかったし、医者もそれ以来行かなかった。
ただ薬は、知り合いが何故か同じの持ってて貰いつづけた。
- 89 :
- 少し思ったのが、厳しい環境を耐え抜いた人って、
自分が大人になった時、「自分もあれだけ苦労したけど、こうして強くなれたんだから」
みたいな思いがあるから、自分の子どもとか職場の同僚、後輩とかにも
「このぐらい我慢して当然」「このぐらいきつい思いさせても大丈夫」みたいな発想で、
無意識にきつく扱ってしまう場合があるかも知れない
うちの親父がその典型だったし
むずかしいね
- 90 :
- そして23歳になったある日、仕事が終わってから、行った事もないBARに寄った。
ただ、何となく飲みたかったからだった。
そこで、私は今の旦那様とRます。
うーーー
あいぽん疲れる。誤字多いし、スマソ
- 91 :
- パソコンないの?
- 92 :
- >>89
確かに、そうですね。
23様までは、そう思ってました。
日曜日?だっけ
芸能人の波瀾万丈のテレビとか
あれ見て
「ばーか、私のが波瀾万丈だよ。テレビ出てやるから金くれ!」
とか思ってた。
あと、くだらない事で悩む友達とか、腹立たしかった。
でも、今は違います。
視点変えれば、私より不幸な人なんてごまんと居る訳で。
そんな人からしたら私なんて、ぷっぷくぷーだし。
だから、幸不幸の大きさは、人それぞれだと思ってます。
実際、今私は裕福じゃないけど幸せです。
車も無いし、五人家族なのに、2kで住んでる。
でも、家も食べるものも無い人も、たくさん居ますもんね。
- 93 :
- >>91
あるけど、家事しながら片手間に打てない。w
- 94 :
- そこはダーツバーだった。
初めてしたダーツにはまった。
旦那は、そこの店員だった。
スペック
旦那当時
35歳
179cm100kgくらい
たむけんに似てる
- 95 :
- 最初めっちゃ愛想悪かった。
見た目もタイプじゃなかった。
眼鏡だったし。
でも今は、その眼鏡がエロくてたまらない訳だが。
旦那はバツイチ子無し。
しばらく通ううちに仲良くなった。
私は旦那に惹かれてたけど、恋愛関係になるつもりはなかった。
恋愛しても、再婚は出来ないし、思うように会える訳でもなかったので。
でも、いざ旦那に付き合いを申し込まれた時は、断れなかった。
- 96 :
- 私は、まだその時めっちゃ病んでたし
毎晩アホほど飲んで、薬乱用して、腐ってた。
生活に困ってんのに、そのBARには毎日の様に通った。
旦那は異変に気付く。
ある日、家に行きたいと言われた。
困った。
そりゃそうだ。
それまでいつもピカピカにしてたのに、今は全く片付いてない。
慌てて片付けてから招待した。
旦那と色々話した。
旦那は、うんうんって聞いた。
パパの事や前の旦那の事は言わなかったけど、今の状況を、話してしまった。
旦那はいっしょに住みたいって言った。
再婚を前提にって。
私は悩んだ。悩んで悩んで、もう旦那とは連絡取らないでおこうと思った。
再婚するのは怖かったし、余り誰も信じられなかった。
でも、このままじゃ私は腐ったままで、それも不安だった。
幸せになりたいとも思った。
結局、私は思い切る事は出来ずに、更に状況が悪化していった。
薬をアホほど飲んで、一日中寝たり
左右がわからなくなるほど酒を飲んだ。
- 97 :
- ある日、私の職場に旦那が来た。
私は冷たくあしらった。
そんで、またアホほど飲んだ。
旦那は、その時、助けてやらなきゃって使命感でいっぱいだったらしい。
それからちょくちょく旦那が来た。
はしょって申し訳ないが、前途の通り記憶が曖昧なので簡単に書きます。
旦那に殴りかかったこともあった
包丁持って暴れた事もあった
薬はことごとく旦那に捨てらてた。
まっすぐ家に連れて帰られた。
ある日旦那が、家に来た。
タイトルは忘れたけど、境界性人格障害の人の話の洋画のDVD持ってきた。
「一緒に見よう」って。
- 98 :
- で、見終わったあと言った。
「お前は病気じゃない。薬なんかやめろ。ちゃんとしろ。
子供が可愛いって泣いてたんじゃないのか?しんどいなら俺が養ってやる。
俺は貧乏だけど、幸せにする。
子供も大事にする。ミカが嫌なら、子供は作らなくていい。幸せにしたい。」
みたいな感じだったと思う。
当然、私号泣
- 99 :
- 旦那は嘘みたいに優しい。
いままでそんな風に扱われた事なかったから、不安なくらいだった。
よしよしなんか、された事なかったのに。
褒められた事もなかったのに。
旦那は、本当に子供を作らなかった。
私の息子をとても可愛がってくれた。
交際から2年後、ケコーンしました。
そして去年末、旦那との間に子供が産まれました。
また男の子wwww
今、めっちゃ幸せです。
ウチ貧乏なんで、臨月まで働いてたけど、産休とったんで、暇だから書いてみました。
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