2013年05月戦国時代59: 龍造寺氏と、たまには鍋島氏を語るスレ (783) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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龍造寺氏と、たまには鍋島氏を語るスレ


1 :2010/04/20 〜 最終レス :2013/04/30
落ちたので立てました。
龍造寺氏について語りましょう。

2 :
九州で下克上らしい下克上を唯一やったのが龍造寺。

3 :
苗字がかっこいい。

4 :
肥前国佐嘉郡小津郷竜造寺村が発祥
この村に竜造寺って寺があったらしい。

5 :
竜造寺村って今だと何市に属しているの?

6 :
確か佐賀城の南で現在の地名は本庄町の末次辺りって聞いたけど。

7 :
隆信が大友と戦ったのは佐嘉城周辺なのになぜ今山合戦と云われるんだろか
今山なんか局地戦に過ぎないと思うんだけど

8 :
>>7
鍋島信生の武功マンセーのため

9 :
大友の敵将を討取ったのは龍造寺四天王の一人だった成松信勝だよね

10 :
テレ玉見れる人は今すぐ見てくれ。龍造寺隆信特集あいてるw

11 :
なんかスレタイトルよくないな
前スレの方が分かり易くて良かったのに
【肥前】龍造寺氏を語るスレ【佐賀】

12 :
有馬に負けた割に
島原半島方面は
秀吉に
だいぶ
安堵されたよな

13 :

龍造寺>>>>龍造寺四天王>>>>>>>>>>>鍋島

14 :
大友が佐嘉を包囲した時、龍造寺勢は5千人と云われているけど必死の覚悟だったんだろうな
この当時は納富、福地、小河、鍋島、安住、江副、百武、副島、徳島、野田、高岸、石井、
鴨打、成松、小林、土肥、西村などが譜代の家臣だったらしい。
結果は今山合戦で龍造寺勢が勝利を得て大友氏と和睦した。

15 :
>>4
徐福伝説でこの地で竜頭船を造ったのが地名由来じゃなかったか?

16 :
>>15
もう少し詳しく教えてほしい

17 :
>>16
スマン、覚え間違いだった。徐福伝説ではなく大和武尊伝説。戦前の小学校の国定教科書に記載されたそうだ。
記紀の川上尊討伐の話で、大和武尊は多布施川の川沿いの小津江川を遡る江中の島に龍艇を泊め、この島を龍造島と名付けた。
(天皇の乗船する船首には龍の頭の彫刻があり大和武尊も天皇の代理として許されてた)それが現在の佐賀城付近
西に上陸して仮の御殿を建てた地が本所(佐賀市本庄)。龍艇を留めた場所が堀江大明神付近。
小舟に乗り換え上流に進み上陸した場所には蠣殻が沢山あり踏み去られた場所がカキフサ(鍋島町蠣久)
川上尊が親族を集め宴会の際に女装した大和武尊が刺そうとした時、「待て!」と叫んだ場所が(大和町真手)
その後、地元の人達が建福寺に川上尊を祀った
討伐後、大和武尊は南下し森で休憩をとり、15才だった記念にこの場所を十五と(嘉瀬町十五)
残党討伐は弟彦が行ったがその陣屋があった場所が(小城町彦島)
弟彦を川上に乙の明神として崇めたが後に淀姫神社を建てる時、峰の頂上に移した

18 :
>>17
サンクス
「栄の国」の云われ程度の知識しかない。

19 :
その後、日本武尊の供養として行基が開山したのが龍造寺。以前は佐賀西高付近にあったが、
龍造寺八幡宮と共に移転したのが高寺(正式名称が龍造寺)

20 :
全盛期の龍造寺(お寺ね)はでかかったのかな?

21 :
高寺に常陸筑波山の龍造寺の寺僧が来て住んだことから起こったものであると
いう説もあるらしいね

22 :
龍造寺八幡宮はもともと村中城内にあったが鍋島が佐賀城として拡張した時に
現在の場所へ移転してる

23 :
いずれにしても龍造寺氏が表舞台に出てきたのは家兼の時代からだろ。

24 :
隆信が「残虐非道」と云われているがこれは間違ってる。
よく云われるのが、恩義を忘れて蒲地鎮並を騙し打ちにしたとか、
赤星統家の子供を磔にしたなどだが下克上の時代としては当り前の事と思う。
懲罰された武将
馬場頼周 少弐冬尚と計り龍造寺一族(6名)を殺害した張本人
土橋栄益 鑑兼を推して少弐氏へ内応した(19城将に囲まれ隆信筑後へ逃亡)
小田鎮光 隆信の娘と婚姻したが今山合戦で大友に味方した
高木鑑房 少弐氏武将として最後まで抵抗した
蒲地鎮並 隆信の娘と婚姻したがその後も島津へ内通した
赤星統家 再々の佐賀城呼出しに理由をつけて応じない。
隆信は戦った相手でも降伏した者は許すが、裏切り行為は徹底的に根絶やしにする考えだったんだろ。
しかし他の戦国大名みたいに親兄弟を殺害するような行為は一切していないし
一時少弐方へ内応した叔父鑑兼(家晴の父)さえも許して水ヶ江龍造寺家を相続させている。

25 :
龍造寺氏の居城「村中城」遺構見つかる。
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1635836.article.html
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1636781.article.html
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/172051
これを機に龍造寺氏を再認識してほしいな。

26 :
村中城は要害というより内政の拠点の意味合いが濃かった?

27 :
>>26
当時の平城なんて犬夜叉に出てくるような屋敷を武装化した程度でしょ

28 :
当時の平城でもそれなりに攻めにくい城はなかったのかな?

29 :
「佐嘉龍造寺の城、四方の総構を築き、牛島敵繰の土手の松を植う。其役成富甲斐守なり」
天正4年に補強したらしいけど、これによると城外に砦を作ってみたいだね。

30 :
出丸みたいなもんかな。

31 :
>>12
筑後を取られたからかわりに島原半島方面をもらった
>>26
当時どこが歩けるか地元民しかわからない深田、湿地に囲まれてたら、十分
要害だと思う。

32 :
実際に城一つを攻め落とすのって大変だったろね。
城に近づくまでに地の利を生かした城方の伏兵がどこから攻撃して来るか不安だよね。
それに守る側は決死の覚悟だろうし、攻める側も相当の犠牲の覚悟が必要だったと思うな。

33 :
籠城が必ずしも決死の覚悟だったとは限らんよ。全員死ぬまで戦う籠城なんて
そんなになかったんだから。例えば大友が佐嘉を囲んだときも、大軍に慢心し
てただけじゃなくてそのうち降伏してくるはず、っていう油断もあっただろう。

34 :
大友が佐嘉城を囲ったのが3月で今山決戦が8月だから6ヶ月間睨み合っていたんだね。
それまでに巨勢あたりで小競り合いはやってたらしいけど。

35 :
今山合戦に決戦なんて表現は不相応では?

36 :
まぁ状況は依然として暗いもんだったからね。

37 :
確かに決戦と云ったのは間違いだった。
今山で戦ったのは龍造寺も大友もごく一部の軍勢だった訳だからね。

38 :
われらの広辞苑さんによれば、「勝敗を決める戦い」らしいから、
認識次第だな。
軍勢の一部しか戦ってないから決戦とはいえないってことはない。
今山の戦いが勝敗の決め手になったと考えるなら決戦と言えるし、
今山の後も包囲は続いて結局戦前と同じ龍造寺の大友への従属で終
わったという新説(?)に従うなら決戦と言うのはどうかと思う。

39 :
今山合戦以来、大友は佐嘉の龍造寺に手も足も出せなかったのは事実。
宗麟から隆信に対して度々書状が届いていたが適当にあしらい領地拡大を図っている。
隆信は宗麟と和睦したのは元亀元年10月だがすぐさま大友に加勢した肥前の豪族達の
掃討作戦に出て東肥前19城将は神代、横岳氏を除いて1年で平定したし、抵抗してた神代、
横岳氏さえ数年後には降伏してる。
その間宗麟がやったことは横岳氏に武器、ひょう量を援助したくらいであった。

40 :
ひょう量

41 :


42 :
田代まさしさんが龍造寺の末裔というのは本当の話?佐賀のどの辺の出身?

43 :
田代ってんなら田代出身なんだろ

44 :
隆信は今山後に宗麟に降伏したと数年前の佐賀新聞に載ってたよ
普通に考えたらそうだよな

45 :
普通に考えて偉大なる宗麟公が隆信を降伏させたは当たり前だよね
1573年までには西肥前の隆信を虐めていた諸将は偉大なる宗麟公の庇護下にいる隆信に伏しているし、同じく隆信を虐めた北肥前にも隆信は何度も攻撃加えてる
1574年には偉大なる宗麟公の庇護下にいる隆信は北肥前も平定したけど、偉大なる宗麟公の名を騙る不届き者が隆信追討令を発しても筑後諸将は当然の如く誰も動かなかったし
1575年には偉大なる宗麟公の庇護下にいる隆信は南肥前に執拗に攻撃を加えているし、筑後諸将も偉大なる宗麟公の庇護下にいる隆信の傘下に治まりつつあったし
1576年には偉大なる宗麟公の庇護下にいる隆信が肥前・筑後諸将の過半をその傘下に組み込んだしね
偉大なる宗麟公の武威は西海に轟きまくりだよね

46 :
鉄砲の数は
大友 > 龍造寺
ではなかったか?

47 :
龍造寺の鉄砲は8000丁って噂だが
大友は更に上をいくのか?
しかも耳川の段階で既にフランキ砲もあるし
硝石の関係で鉄砲のフル運用は出来ないにしても凄くないか?
だって秀吉の九州征伐時でも10000丁って話だし
九州連合軍とか作ってれば天下統一出来そうだ。

48 :
今山のあと、降伏までどれくらい期間あったっけ?
>>47
貿易港へのアクセスを比べれば、大友の方(府内、博多)が多く持ってても
おかしくはないと思う。

49 :
>>48
今山合戦が8月19日夜半より20日早朝で、
午後には宗麟に加担した小田鎮光の多久城を落している。
和睦交渉は9月下旬より始まり10月1日成立、
同月3日に高良山の宗麟は豊後へ引き揚げている。

50 :
隆信は何でキリシタンを庇護しなかったんだ?
九州にいてキリシタン弾圧するとかアホだろ
それでどうやって鉄砲とか手に入れたんだ?

51 :
坊さんあがりだから、まあしょうがないかと。
苗字も龍造寺だし。

52 :
苗字は関係ないんじゃないかなあ

53 :
宗麟は佐嘉城攻めを2回行なっている
1回目は永禄12(1569)年
隆信は佐嘉城奪還のち周辺、東肥前の反隆信派を平定して少弐氏が滅亡すると
こんどは西肥前へと勢力を拡大していった。
こうした動きに肥前守護(名目上だが)の宗麟が軍勢を繰り出し佐嘉城攻めを開始した。
その為それまで隆信に従属していた肥前の諸将までが宗麟に味方した為に人質を出し
無条件降伏している。
一方宗麟の方も和議を急いでいたらしいが、この頃筑前へ毛利勢が攻入っている。
2回目が元亀元(1570)年
毛利が尼子との合戦で中国へ軍勢を退いたので再度佐嘉城攻めを開始した。
そして今山合戦だが、隆信の勝利で宗麟に加勢した軍勢は全て地元へ逃げ帰っている。
残ったのは宗麟の直属軍勢のみとなった訳だが、隆信の方から和議の申し出があり
宗麟も喜んだことだろう。

54 :
田代て地区は市内にあるの?

55 :
龍造寺と鍋島は意図的に親類になってるてあまり知られてないのかな?

56 :
今山の前後で戸次鑑連と戦ったんだっけ?

57 :
>>56
前哨戦として4月23日に戸次鑑連と隆信が正面衝突した。
隆信勢は先陣が信昌(直茂)、小川信友、第2陣が納富信景、殿軍が自ら隆信で総勢1500人
場所は鑑連勢(2000人)が布陣してた巨勢から若宮あたりと云う。
状況を云えば、先陣が攻め口へ突入して優位に進めていたが、突然に鑑連本隊(1000人)が
隆信の本隊(500人)へ突入してきた。信昌は本陣の隆信危急の報を受け、直ちに救援に向い
この時信昌と鑑連が直接対決を演じ、双方引き分けとなったが鑑連の作戦勝ちと云えるだろう。
鑑連は足が悪く六尺四角の手興に乗っていたらしい。

58 :
>>50
隆信が敵とする大名(大友・有馬・大村氏など)がたまたまキリシタンであって
直接イエズス会は弾圧してないと思うけど。
大村純忠を平定した時に、隆信に対して家臣が大村領のキリシタンを排除するように
進言したが隆信は「今しばらくは、キリシタンたちに対して、さもない風を装い、
伴天連たちにも表向きには鄭重に対処せよ」と云ったとイエズス会の記録にある。
鉄砲の入手はマカオから日本に来るポルトガルの定航船で、その為にも表立って
キリシタン弾圧はしなかっただろね。

59 :
>>54
あるよ。
>>55
戦国時代の縁組って全て意図的だと思うけど。

60 :
今山合戦を大まかに現代佐賀の地理に当てはめて考えると。
・大和―神埼―諸富―川副(ほぼ水軍)のラインで大友が佐賀を囲う
・大和―小城のラインで肥前国人衆が佐賀を囲う
・大友筑前衆は三瀬を背に嘉瀬川の東川上に着陣(大和―神埼)
・大友豊後衆は犬童川を前面に着陣(神埼―諸富)
・筑後国人衆は筑後川下流域に分散して着陣(諸富―川副)
・肥前国人衆は嘉瀬川を前面に出して嘉瀬川の東側に着陣(大和―小城)
・大友豊後衆の備はかなり分厚く最前面が巨勢と境原の中間ぐらい? 最後方の総大将宗麟は久留米高良山に着陣
・戦域は大まかに嘉瀬川―城原川間の佐賀平野
・一番の係争地は一番突き出た部分の巨勢川一帯から、諸富―川副・筑後川最下流域
・大友の主戦は筑前衆か? 佐賀若宮辺りまで攻勢をかけたり、一部が豊後衆の前面(巨勢辺りか?)に陣を移したりと大規模に展開している
・筑後衆は包囲線や兵站線の維持確保担当? 水軍衆の動員で撃ち合いもしていて、佐賀側との交戦も多い
・豊後衆は数による前線の押し上げ担当か?
・肥前衆はかなり遠巻きに佐賀を囲って戦闘にはあまり参加せず
・そうして1570年4月〜8月まで競り合いが続くが決着つかず
 8月20日に大友側は(大和―小城)嘉瀬川の戦線、肥前衆も川越えさせて前面に押し出し、総攻撃を掛けようとするも失敗(鍋島によると大和今山に派遣された親貞が討ち取られたため)。
 そうして隆信が小城方面に攻勢を掛けた結果、肥前衆が撤退し嘉瀬川一帯(大和―小城)の包囲線が崩壊。
 これをみた筑後衆も陣払いをし、結果として包囲が完全に解け、ほどなく講和。
 と佐賀平野を南北に流れる幾つかの川で自然と戦線が構築され、今山合戦は川を挟んでの進退が争点で。
4ヶ月にも渡る臨戦状態での長期対陣により、大友側が攻勢限界点へ達したのが終結の主因だったんじゃないのかなと。

61 :
>>57
サンクス
戸次勢がえらく少なく感じるけど、単独じゃそんなものだったの?
他の軍勢は応援に来なかったのかな
>>58
でも有馬や大友が龍造寺に鉄砲とか売らないようポルトガルに働きかけたり
しなかったのかしら
>>59
肥前衆は積極的じゃ無かったんだね
これは龍造寺に対する遠慮と捉えるべき?
大友への警戒?

62 :
>それでどうやって鉄砲とか手に入れたんだ?
単純にイエズス会が火縄銃関係の流通を握れてなかっただけだと思うよ。
種子島に持ち込んだのだってイエズス会と関わってる人とは限らない。いわゆ
る冒険商人たちにとっては、仮にイエズス会が銃や火薬の供給を禁じる相手が
いたら、絶好の売り先になる。
本願寺だって銃で有名じゃない。銃そのものは国内生産地で賄えたとしても、
火薬は明らかに海外からの輸入でしょう?
フロイス日本史を信じるなら、龍造寺家には戦術を知ってる西洋人が加担して
た可能性まで妄想したくなるね。

63 :
>>57
あれ?俺が持ってる郷土史には、
隆信本隊は居城の大手、高尾口に出陣。鍋島直茂、信景が先陣として大友軍の先陣、田尻鑑種と交戦。
この時戸次鑑連(2000)が隆信本隊に奇襲。直茂は納富に自分が救援に赴くから納富にこの場を死守してくれと言ったが
倉町信吉は直茂に「今、急に軍を分けると後陣にいる味方の軍勢は先手の兵が敗れたと疑うだろう。
このまま一同で鬨の声を上げ切り込むべき」と進言、
直茂も之に賛同、総勢一斉に進撃し、この奇智に戸次鐘連は家臣に助けられ敗走と書いてあるけどね


64 :
典拠となった書名は明示したほうがいいのでは。
論拠が確認できたほうがいいし。
いちいち書名確認するのもめんどうかな。

65 :
龍造寺はなんで化け猫が取り沙汰される訳?龍造寺と鍋島家は親類で続いてるのに?

66 :
傍流が本家を乗っ取ればそりゃ不穏でしょ。

67 :
次男が家を継いだら長男の息子が恨む可能性は無いか?
まして本家が残ってるのに分家が主流になったら?
隆信の曾孫は自分が龍造寺の正統な跡継ぎだと主張して騒いだ。
それを題材にした創作が流行った。

68 :
>>64
いや〜おもいっきり地元の名前で〇〇史、多分所有してる処が地元の小学校と佐賀市立図書館だけのような本だから
地元で持ってるのはもう俺ぐらいだろう、だから特定されるのもイヤだから勘弁な。
ただ、地元がこの合戦の地だよ

69 :
そうかな〜?鍋島家は優秀だったんでしょう?だから龍造寺家は補佐になったんじゃないの?鍋島に任せます〜て。化け猫騒動になるほど対立してたの?

70 :
>>69
龍造寺高房の死に様が凄くて、江戸屋敷で妻を殺し、自分も毒を飲んで自害しようとしたがなかなかRず、
毒の回りを早くするため馬に乗って町中を走り回って死んだ。
その後、真夜中になると白装束を纏った隆房の怨霊が馬に乗り佐賀城下を走り回ったとか。
こんな狂気の様見せられたら講談等の格好のネタになるだろうよ

71 :
江戸城で自殺したんだ〜。自殺じゃなくて殺されてたら?もともと、龍造寺家を内紛させて潰しにかかってたなんて説あった気がするけど?違ったらすいません!

72 :
>肥前衆は積極的じゃ無かったんだね
>これは龍造寺に対する遠慮と捉えるべき?
>大友への警戒?
6/13には佐賀北高の更に北辺りで鍋島が神代と銃撃戦して鍋島が敗退したらしいので
戦った国人は戦ってるし、国人なんて全くもって一枚岩じゃないから政治的な配慮は自分には判断しかねるんだけど
地勢からの推察で良いのなら
東肥前の国人衆は嘉瀬川を越えたくても越えられ無かったんじゃないのかなと
・佐賀平野の表層地質は粘土質で、当時嘉瀬川の河辺は殆ど沼地の様な状態
・嘉瀬川は川幅が大きく、また佐嘉城までに大きな川がない
・佐嘉城近辺の城はクリーク・堀が多く、それを防衛陣地として活用する
この事から渡河に危険が伴うので東肥前の国人衆は積極攻勢に出る事が無かったんじゃないのかなと思ってる

73 :
間違えた
東じゃなくて西の国人ね

74 :
>佐賀北高の更に北辺り
北の口、長瀬村の南無道具留利

75 :
>>63
九州治乱記を元ネタにしてるんだが、そちらの郷土史は何が元ネタだろうか。

76 :
>>75
参考文献の項には関連しそうな物では
佐賀郡誌(佐賀郡教育会)佐賀県史(佐賀県史編纂委員会)佐賀市史(佐賀市役所)
佐賀県郷土教育資料集(佐賀県学務課)肥前叢書(肥前史談会)肥前国史(森錦洲)下村生運実録(第3子、下村利充)


77 :
県郡市史などは全て転載だから元となる資料があると思うけどね
例えば佐賀だったら「直茂公譜」とか「北肥戦誌」など

78 :
>>77
>>63は「九州軍記の一節を記す〜」と書かれてるから、九州軍記から転載された物だろう

79 :
>>78
サンクス

80 :
>>50
天正時代頃の龍造寺城付近の地図に南蛮寺と記載箇所があるから領内でもキリスト布教は許されたはず

81 :
>>69
一部(もともと龍造寺の傍流で、鍋島に変わっても厚遇が約束されたのだろう)
は「任せます〜」に同意したらしいが、伯庵は隆信の直系を自認してて、「本
来なら自分が大名になるはずだった」「乗っ取られた」と主張した。
だけど少数派で、他の龍造寺一族は鍋島(現状)を支持した。
>>71
伯庵は龍造寺の正統な後継者だと主張してたから、鍋島を潰そうとしたわけ
じゃない。理想は穏当に鍋島の地位を返上させるつもりだった。
自殺直前はただ恨みで動いてたかもしれないけどね。

82 :
>理想は穏当に鍋島の地位を返上させるつもりだった。
鍋島側がウンと言っても、幕府が認めないでしょ。

83 :
>>60
佐嘉城の隆信が決めた守備体系を云えば
東口大手方面へ鍋島信房、信昌兄弟と小川信安の部隊
北方川上口方面は龍造寺家就と納富信景、広橋一祐軒の部隊
有馬義純を主力とする西肥前勢には龍造寺信周と龍造寺鑑兼の部隊
南の海岸から来る敵には龍造寺長信と龍造寺長信の部隊
しかし総勢5000人では6万の大友軍には勝ち目はなく四面楚歌の様相
大友親貞が今山に布陣し、佐嘉城総攻撃が8月20日との情報が城内に伝わると、
隆信は武将を集めて軍議を開いた。
「成松信勝の報告によれば、大友勢は明日を期して城攻めを始めるらしい。
そこで篭城死守するか、先んじて討って出るかの戦法は二つのみ、
皆の意見を聞きたい」と切り出した。

84 :
総勢8万で内佐嘉城を囲んでたのは3万じゃなかった?
他は筑後にいたんじゃないの

85 :
肥陽軍記では総勢6万、九州治乱記には総勢8万(包囲軍3万)と記してあるね。
今山合戦当日に隆信軍が隈部親永、城親冬などを生捕ってるから肥後勢は今山に
布陣していたんだろうね。それから筑後の五條鎮定も同様に生捕りされてるね。
田尻鑑種の水軍を除いて、肥後・筑後勢は殆ど豊州三老の指揮下に入って最前線に
いたんじゃないかな。
筑後に残っていたのは高良山の宗麟を警護する旗本程度だったと思うけど。

86 :
佐賀は龍造寺の子孫だらけ?

87 :
>>59 田代地区には田代姓があるかな? どういった所?

88 :
レス内容から察するに鍋島氏の子孫やその家臣の子孫などゆかりある人々がレスしてる気がする…

89 :
>>87
佐賀城の東付近。佐賀市外地からちょっと外れた普通の住宅地。どういった所ってどのようなレス期待してるのだ?
田代家は竜造寺嫡流、村中竜造寺第17代当主、龍造寺胤久の出。
田代まさしは祖父、父親、本人も佐賀市出身
無論、ただの偶然かもしれんよ

90 :
>>82
幕府が認めるかどうかと本人の理想は関係ないだろう?
むしろ幕府が認めないから理想が理想でしかないんだよ。

91 :
佐賀城より西方へ1kmほど離れた付近が西田代町で本行寺などがある。
本行寺は与賀龍造寺家の菩提寺で宗家14代の胤家の墓がある。そのほかにも江藤新平
成富茂安などの墓もある。
この付近は与賀龍造寺家の住いだった西の館があったと云われている。
西田代町は国道の為南北に分断されているが一歩奥へ入れば閑静な住宅地。

92 :
大村純忠の小説読んでたら、有馬仙岩が東肥前を攻めた際
龍造寺勢が迎撃の構えを見せているのを知って引き返したって書いてたがこれマジ?

93 :
有馬仙岩(晴純)と云えば晴信の祖父だよね。
天文14(1545)年
有馬仙岩は少弐冬尚の要請にて東肥前19城将と共に龍造寺水ヶ江城を攻め、
家兼を筑後へ追い払ったが、二ヵ月後に逆襲を受け撤退してるがこのことだろうか。

94 :
その田代家はまだ、市内にあるのでしょうか?田代家は鍋島家の家臣でどういった扱いだったとか分からないですか?

95 :
>>93
いやもっと前だと思う

96 :
フジテレビの田代なんとかという女子アナは先祖がここの出身ではなかったか。

97 :
昨日、陸上の日本選手権に江里口って選手が出てたな
やっぱり縁者なのかな?

98 :
田代地区、西田代地区は代々、武家が多く住んでいた地区なんですか?
その辺りには、縁者の方々が今でも住んでいらっしゃる?もう、それらしき面影は残していない景色でしょうか?

99 :
>>98
佐嘉城下古図
ttp://www.mapshop.co.jp/cgi-bin/mapshop/shop/prod_view.pl?_PIDList=M99901JS0605
佐嘉城西方堀端(地図では下方)のすぐ下に小さな堀がある場所が本行寺で西田代周辺となる。
今では本行寺を除いて面影は残っていないと思う。

100 :
なんでそんなに現状を知りたがるんだろう。ストーキングでもする気か?

101 :
縁者です、と言っても薄い繋がりだけど。ストーキングではありません、ご安心を!幕末ブームから歴史に興味を持ち、いろいろ調べてる一関です!
小さい頃に化け猫騒動のテレビを見ながら先祖の事と聞いてとても恐ろしかった〜、化け猫ばかりでなくもっといろいろ取り上げて欲しいね。
化け猫以外は最近知ったよ。

102 :
田代まさしの縁者か。ネットの匿名掲示板で匿名の意見を聞くことを「調べる」
ということに違和感がある。ただ教えてもらうよりお勧めの本とか聞いたほうが
いいよ。ここの人たちが信用できないとは言わないが、匿名の人に嘘つかれても
わかんないじゃん?

103 :
>>98
田代は賀藩唯一の河港があった為、江戸時代以降は町人の町。材木、紺屋、今宿の地名も残ってる。遊郭もあったらしい。
川を挟み西隣の水ヶ江が武士の町でお互いいがみあってた為、横目(じろり)橋という名前の橋が残ってる程
龍造寺胤久の孫で三代藩主鍋島綱茂の祐筆役を勤め「葉隠」を書いたのが田代陣基。
田代の瑞龍寺に墓がある
まあ田代の苗字はこの地に住んでた人が明治以降、苗字にした線も考えられるから
一概に田代姓=龍造寺が先祖で武士って訳でもないかもな

104 :
ただ、佐賀城下は武家区画と町人区画が明確に別けられてはいたが、町人区画の住人の約半数近くが下級武士。
5〜15石程度では生活出来無いから副業も容認されていて、佐賀藩は江戸時代以降も兵農分離が出来ていなかった特殊な藩
また、初代藩主勝茂の時、50石以下の武士は「手空き槍」と無役扱いとして録を取り上げ一律15石にした為、
武家区画に住める上級武士以外は商売や百姓をやるのが当たり前状態。 ID:F7z3OMrPの先祖が武士だった可能性もあるよ
(ちなみに西田代町は武家区画)


105 :
武士だよ。
と言っても、薄い繋がりだけど。

106 :
鍋島直茂が当初考えた自前の城は今の佐嘉城ではなかったんだよね。
もっと西の方で本庄江に近い現在の八戸町あたりだったがこの付近は水害が多く
結果的に龍造寺家の村中城を拡張することに決めたらしい。

107 :
>>105
田代まさしの縁者か?別にマーシーが龍造寺田代かどうかは解らないだろう
佐賀で田代姓は全然珍しくない

108 :
村中も姉川城みたいな感じだったのかな?

109 :
田代とは平地の田畑の意味。
田代氏が本拠にしてたから田代ではなく田代に居を構えたから地名を苗字にしただけ。
佐賀市で田代の地名なら幾らでもあるだろう。
「大字」のさらに下、例えば佐賀市高木瀬大字東高木”中田代”とかの地名になると郵便番号検索でも無理


110 :
>>108
姉川城跡って周辺は田んぼだらけで戦国当時の雰囲気を残しているよね。
今にも甲冑をまとった武将が出て来そうで多少不気味な感もするけど。
村中と姉川は多少規模は違ってたかもしれんが似ていたんじゃないかな。
周辺はクリークが縦横無尽にあって城の四方には堀を巡らしていたとか。

111 :
姉川城、行ってみたい。甲冑纏って誰かぶらぶらしてくれんかな?そんなイベント作れば盛り上がりそう?
佐賀のどこに姉川城はあるの?

112 :
たぶん貧乏豪族(失礼)の館だっただろうから、きらびやかな甲冑コスプレは場
違いじゃないかな。現状も静かな農村だし。
とりあえずgoogleマップで「葦辺の館」を調べて見てくれ。横武城だけど、佐
嘉平野のクリークの城のイメージは伝わると思う。ちょっと掘ればすぐ水濠に
なる。まわりには今でも曲輪の中に住んでる集落がある。

113 :
姉川氏と云えば武家の名門だよね。
東肥前19城将の1人で反龍造寺派だったがのち隆信の重臣となって活躍してる。
朝鮮の役で姉川氏当主が戦死すると鍋島直茂は従兄弟の鍋島道虎(生三)に
姉川氏の名籍と知行を継がせた。
のち鍋島騒動の主人公となった伯庵は幼年期を生三のもとで育ったと云われている。
姉川鍋島家は代々鍋島本藩の家老職を務め知行高は5000石だったらしい。

114 :
>>111
アスカの地上絵と同じように航空写真では凄く壮大に写ってるが
実際に行ったら堀以外遺構らしきものが無い(小さな神社がある程度)
ただ田んぼと堀があるだけで「これ?」ってなると思う。過度な期待はしないほうがいい。
石垣の一部でもあればそれっぽくもなるだろうが、、、

115 :
石垣がないと城じゃない、って人にはわからないだろうね。石垣なんてもとも
となかっただろうし、もっとよく遺ってたとしてもかきあげた土居くらいじゃ
なかろうか。
水濠がある、曲輪の配置が想像できる、ってだけで城跡としては十分。

116 :
そんなのて、他にも残っているの?遥か昔の人が見た景色と今の景色が余り変わらないとかある?行ってみたい。そこら辺りの事を書いた本とかある?

117 :
103>>龍造寺胤久の孫は家就じゃない?

118 :
直鳥城も姉川と似た感じだね。少し護岸工事をしてるけど。
>>117
田代陣基が胤久の孫とは知らんかったけど、家就は違うよ。
胤久−−胤栄−−隆信
胤門−−家就

119 :
>>117
当時は一夫多妻制だから本妻の正室の子だけではなく側室の子も含めると十数人いるのが普通。
田代陣基は竜造寺胤久の孫、田代宗澄の子だから曾孫だね

120 :
本家を継ぐ長男意外は分家を立てるが戦国期以前の場合、苗字がそのままのケースと知行地名を苗字にするケースがある。
田代家が龍造寺を名乗らなず、藩政以降も家老クラスに成って無い事を考えると側室の出ではないだろうか

121 :
鍋島氏と鍋島という土地の関係は?

122 :

【世界の】鍋島直茂・勝茂スッドレ【葉隠】

123 :
佐賀で出版された図説本読んでたら、以下の記述があった
・後藤家信が蔚山の清正救援を主張した
・それが基で二人は親交を深め、清正は何度も武雄を訪れ家信と狩猟をしたり、
病身の家信を見舞ったりしている
・清正は隆信を尊敬していて家信に寺の建立を勧めた
これマジ?
たかが小禄の陪臣如きが軍議の場で発言権があったと思えないし、
清正が対等に付き合うとも思えないんだけど

124 :
本当だったら面白いね。清正が直茂を尊敬してたってのは読んだことあるが。

125 :
>>123
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%AE%B6%E4%BF%A1
これ読むと後藤家信は小禄の陪臣じゃないな

126 :
見事なまでの分家だな。

127 :
>>123
家信が病に伏したとき、清正は虚無僧に化け、家来を一人連れて見舞ったと云う。
藩主が虚無僧に化け、他藩に忍び込むなんて史実とは思えないが清正らしい伝説だね。

128 :
この前武雄のエポカルで戦国時代に関する出し物があったらしいが、そんなかにも詳しいこととか展示してあったのだろうか

129 :
じゅ、19万石!?と思ったら小数点間違いか。

130 :
武雄のエポカルて初めて聞く、何?

131 :
「エポカル武雄」らしいwwwまったく地方自治体の命名センスはwww
ttp://www.epochal.city.takeo.lg.jp/

132 :
前スレ【肥前】龍造寺氏を語るスレ【佐賀】で見学した感じをレスくれたような

133 :
兄の江上家種は朝鮮で少弐の怨霊によって狂死したってほんとだろか。
家種と云えば鎧を二着まとって戦場を駆け回った剛の者だよね。

134 :
>>131
これは痛い。

135 :
ヽ(`Д´)ノ

136 :
>>135
市長乙

137 :
龍造寺一族の知行地
与賀系
家親50,000石 信季1,900石 信門1,800石 鎮家1,000石 信親770石 信明770石
村中系
家就3,850石 家直2,000石 家久1,200石 信氏1,000石 光則1,000石 信貞1,000石 信時1,000石
水ヶ江系
家晴15,700石 長信8,700石 信周5,000石 康房3,000石 信純620石 家俊500石 惟明500石
一族、家臣を除いて隆信の直轄知行ってどのくらいだったんかな。

138 :
ちなみに上はいつの話?

139 :
天正8年頃だから柳川の蒲池氏を殺害する前年になるね。
「隆信公領地配分表」から龍造寺一門を抜粋したけど、当時は知行地を「町」で
表しているので「石」に換算してみた。

140 :
神代勝利って強かったんだね
けっこう隆信も負けてるし

141 :
長良の代にも高木町とかそこらへんまで抑えてる。家良の代にも神代衆は
活躍してるし、神代家自体がなかなかの強勢だったと言えるね。

142 :
神代家累代の御霊屋は、後世に鍋島勝茂の娘によって建てられたものだけど
一豪族の墓としては驚くようなモノだよね
神代氏の力が想像できるんじゃないかなと思う
自分は、高伝寺の鍋島、龍造寺家の墓よりも感動したよ

143 :
神代家の強さの理由は?

144 :
一ヶ月ほど前勝利の墓目指して行ったけどダム工事で近寄れなかったよ。
>>143
神代氏の領内はほとんど山岳地帯だから守り易い。
反対に敵方から見ると山岳合戦は不慣れで攻めにくかっただろうね。
神代勢がどこから飛び出してくるかわかんない状況?

145 :
>>142
勝茂の娘が作らせたなら、一豪族のものではないのでは?
近世大名佐賀鍋島家の重臣(一門?)の御霊屋ってことだろ?

146 :
石高が同等の龍造寺嫡流村田家の墓や、倍以上の石高の多久家等の墓と比べると
分かりやすいんじゃないかな
確か、御霊屋がある小高い山も人工の山だったような気がする(記憶違いかもしれないけど)
実際に行って見てみるといいよ 久保泉の白髭神社近くだから↓
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=33.33253167690076&lon=130.32334439169966&z=15&mode=map&pointer=on&datum=wgs&fa=ks&home=on&hlat=33.312060962084&hlon=130.33623600602&layout=&ei=utf-8&p=

147 :
>>145
神代家は鍋島家の親類だね。
それにしても龍造寺と神代は家兼が馬場頼周の騙し討ち(1545年)に始まって
神代氏が龍造寺氏から養子を貰う(1579年)まで34年間も戦い続けてたとは。

148 :
そんだけ背振山地が要害の地だったってことかいな

149 :
神代勝利は龍造寺隆信から「長年の決着を付けるため正々堂々と平地で勝負しろ」と挑発の手紙送られて
ノコノコ出陣して味方側に内応者がいるのにも気づかず大敗してるから(川上の戦い)山岳ゲリラ戦は得意だったが
平地戦、計略、謀略の類は得意じゃなかったのだろうな

150 :
>>146
名義上一門扱いの別家と、実際血のつながりがある別家、だから後者が優遇
される部分もあるかもしれない。
石高と家格は正比例しないものだし。
>>147
和睦は勝利が死んだ65年くらいじゃなかった?養嗣子を迎えるのはもう一段
階先だ。
>>148
兵の足腰に差があったかもしれない。龍造寺はひたすら低地で伸びた勢力だ
から。

151 :
>>149
隆信はその前の山岳でやった鉄布峠合戦で痛い目に合ってるからね。
>>150
隆信と勝利は川上合戦(1561)のち長良の娘初菊と隆信三男(鶴仁王のち後藤家信)の
婚約で和睦(1562)したけど、勝利が病死(1565)し、さらに婚約者の初菊が死ぬと
隆信が突然神代領へ攻め込んでいる。
長良は一旦筑前へ逃亡したが勢力を盛り返し(1566)逆に佐賀郡北村・五領・高木・
渕・藤木・三溝郷あたりまで攻めた。
その後も今山合戦(1570)をはさみ睨み合いは続いたが、その後長良が龍造寺から
養嗣子(小川信俊三男のち家良)を貰うことで最終的に決着(1579)したらしい。

152 :
>>151
詳しくサンクス。
佐嘉城包囲を今山合戦だけに集約するのはどうなんだろう。今山に詰めてたの
は肥後だか筑後だかの衆でしょう?

153 :
勝敗を決した戦いだったから致し方ないな。
そもそもが前年の佐嘉城攻めで隆信が降伏した時に大友への人質として
秀島家周を差し出したがこともあろうに逃げ帰ってきた。
それで宗麟が激怒して再度佐嘉城攻めとなったという。

154 :
>>153
それでも今山合戦という言葉で表される戦いがあって、そこに神代は関わって
ないんだから。

155 :
今山合戦で最大の被害を受けたのが神代勢じゃないかな。
神代勢は今山大願寺原に布陣してたが、鍋島、納富を始め龍造寺勢に攻められて
軍奉行の古川佐渡守ほか三瀬、名尾、杠、川浪等の主たる武将が戦死して
長良自身は命からがら逃げたらしいよ。
大願寺原では神代勢を含む2千人の大友勢が戦死したと云われているしね。

156 :
戦国東肥前スレの方がよかったかもな

157 :
剛忠(家兼)の遺言
「水ケ江の惣領職家門が跡は、子の鑑兼襲ぐべし。家純が跡並びに剛忠の隠居分は
周家が次男慶法師丸(信周)に与え、宝琳院の中納言(隆信)は性儻にして大志あり、
向後当家を興さん者は渠なり、時機を見て還俗せしめよ」
隆信は剛忠の遺言で後継者となったと云われているが実際はどうなんだろか。

158 :
成富兵庫の偉業を解説 信玄流と清正流を併用
 岸原さんは、水の流れを変える「野越し」や不連続堤防の「霞(かすみ)堤」など
洪水エネルギーを減らすために成富兵庫が採用した技術について説明。
「城原川の左岸は加藤清正流、右岸は武田信玄流。佐賀の地形を見極め、独特のシステムを
作り上げた」と評価した。
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1680289.article.html

159 :
>>113
佐賀市兵庫町掘立(34号線と51号線が分岐する場所)にある
光圓寺住職兼光生幼稚園園長の生三(いくみ)家が鍋島道虎直系の子孫らしい。
以前は伊賀屋駅の南辺りに生三屋敷があったとか

160 :
>>158
加藤清正流は理解できるが武田信玄流ってのがどうもな。
城原と云えば隆信時代は執行種兼を筆頭とした城原衆だね。
江上家種の配下だったが龍造寺軍団のなかでは抜群に強かったらしい。
のち沖田畷合戰でほとんど戦死したみたいだけど。
>>159
光圓寺が姉川鍋島家の菩提寺だろうか。

161 :
鍋島道虎、鍋島生三ってどう読むの?実名は生三?

162 :
>>161
鍋島道泉が実名。鍋島清久の嫡男清正の嫡男賢純の三男。幼い頃に仏門に入り、高揚庵の住職していた。
正式には生三斉だから「しょうさんさい」→「しょうさん」だと思う「いくみ」は後の読みじゃないかな?
龍造寺隆信の頃から才能は認められて此頃、既に姉川家を転封させ、鍋島生三に旧領を与える計画だったが
生三が還俗するのを拒否。
鍋島直茂の代の時に下村生運からの推薦で還俗するよう指示されるも最初は拒否、数十回使者を送り続けやっと承諾、
鍋島道虎と名乗るもその後も剃髪、入道姿でおしとうしたために鍋島生三の名のほうが有名になった

163 :
ありがとう、信生からの拝領だから「なりみつ」もありかなぁ、と思ってた。
再三もうしわけないが、「道泉」はなんて読むの?

164 :
>>163
当時の通例で法名は音読み、名前は訓読みだから生三「しょうさん」道泉「みちずみ」でいいと思うけど

165 :
泉はずみか。ありがとう!

166 :
明日の夜8時、NHKで、鍋島直茂vs島津家久も萌え萌え対決とかいう番組が
あります。多分、九州限定放送だと思います

167 :
鍋島直茂が島津家久に土下座するのをやるわけだな

168 :
誰が考えたんだこんなの
国民から取った金で萌え萌え対決とか頭沸いてんじゃないか

169 :
https://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=505-20100723-21-36698
これか、しかし島津家久にスポットというのは凄いな
朝鮮征伐に参加してないので、取り上げやすいのか

170 :
裏切り武将と裏切られ武将の生き様を史実に基づいて進行してもらいたいな

171 :
>>169
鍋島は朝鮮行ってるぞ。旅行したあたりが萌えらしい。
あと、どっちも弟分なのをアピールしてた。

172 :
いえひさくんじょうきょうにっき

173 :

スレタイ最悪!!

174 :
>>168
おまえ国民一般のつもりか

175 :
竜造寺って宗派は何処でしょうか?

176 :
>>157
質問の答えを自分で書いてないか?

177 :
>>174
お前よりはな

178 :
重症www

179 :
萌え萌え対決とか喜んで観てる奴のが重症だろ
消防でも白けてたのに

180 :
不評に付き終了しますた

181 :
見てて普通におもしろかったがね、一月も前の番組に噛み付くのもどうじゃろなと

182 :
>>175
臨済宗

183 :
>>181
それは>>174に言えよ

184 :
>>181
あれは、実況でわいわいやってこその番組だった。
ひとりでただ視るにはつらいw 

185 :
保守

186 :
剛忠を追放した一件はあくまで頼周が画を描いてそれに有馬を引き込んだと思っていたけど、
こないだ読んだ本では有馬の東肥前侵攻がまずあってそれに頼周が便乗した
みたいに書かれていた

187 :
有馬の東肥前侵攻は小城千葉氏の内紛時だったと思う。

188 :
武雄市図書館・歴史資料館で「武雄の中近世城館」展が開催中
住吉城、潮見城、烏帽子山城などの縄張図や城絵図、
大坂夏の陣と戸石合戦(1546年)の布陣図、他具足などが展示してあった。
武雄って城や砦多いんだね。
南北朝の頃から、有馬後藤渋江に至るまで勢力の衝突地帯だったんだな。

189 :
情報thx、今度帰る予定があるから見に行くか
長崎街道があったわけだし、交通の要所だったんかね
御船山の武雄城と黒髪山の住吉城しか知らんかったなあ

190 :
天正八年の龍造寺勢力を1600年の推定人口で計ってみる
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
筑前国122,800・9/15郡=73,680
筑後国104,400・10/10郡
肥前国253,200・11/11郡
肥後国248,100・14/14郡
豊前国97,100・3/8郡=36,413
対馬国5,900
壱岐国9,300
計730,993
73万1千は当時の国内人口の約6%
ついでに
大友
筑前国6/15=49,120
豊後国204,800
計253,920
島津
薩摩国77,700
大隅国52,600
日向国90,200
計220,500
大友所領はほぼ肥前一国と互角で、島津の勢力範囲に至っては肥前一国より3万人も下回る
島津は後年の肥後半国を加えても35万程
龍造寺の本拠地東肥前8郡だけでも18万4千人、龍造寺の動員力がどれ程のものかが分かる

191 :
佐賀新聞が龍造寺隆信ゆかりの島原ツアーを募集しているけど、
日帰りで6800円は高すぎ
どんだけ豪華な昼飯なんだか……

192 :
>>191
隆信を萌えキャラにするのが先だな

193 :
クマー

194 :
だから佐賀には既にまほろちゃんがいると・・・
まぁでも熊と化け猫とそれに悩まされる鍋島みたいなストーリーでキャラクタ作ったら面白そうよね
鍋島さんはどんな動物がよさげね

195 :
今日三養基で成富茂安祭りがあったらしいね
今年生誕450年だとか

196 :
すんません。
この時代についてはド素人もいいところなんで、ちょっとお聞きしたいです。
ある戦国本読んでたら、戦国大名の鉄砲保有数の比較が載ってて、
龍造寺隆信が9000丁とダントツだったんですが、この数って本当に根拠があるんでしょうか?
根拠となる資料があったとして、それは信用できるものなのでしょうか?

197 :
九州の種子島銃は有名だし
北九州の方にも、近江堺には及ばないにしても結構な数の鉄砲鍛冶屋がいたような

198 :
鉄砲持ってても使えたん?
宣教師に嫌われてたんしょ

199 :
肥前高木氏の一族で開港直後の長崎に移住し、貿易で大成功して
長崎でも有力な豪商になっている人物がいるから
輸入品に関しては長崎の高木氏と取引していたんじゃないか?

200 :
>>198
宣教師と武器商人は別物

201 :
一緒だよ
フロイス知らんのか

202 :
一緒じゃねーし。
見分けもつかないとか盲目すぐる

203 :
武器商人との仲介役な宣教師だろ
宣教師がやってた訳じゃない
長崎福岡があるし9000丁あっても不思議じゃないかもね

204 :
いくらなんでも9000丁はありえない数字だな。
そもそもそんなに所持運用できるほどの硝石の貯えがあるとか
どんだけ南蛮貿易で女童を奴隷に落として売りまくって手に入れてんだよって話だしw
大友の場合はキリシタン保護を通じてゴアの提督に硝石や火器の援助を頼んだりしてる。
沖田畷の戦いでの竜造寺軍は鉄砲1000挺に大砲を投入したらしいから
各地に鉄砲の配置はあるだろうがせいぜい3000挺くらいなんじゃね?

鉄砲といえば北条五代記には1510年(永正7年)に唐から渡来し
和泉の堺の見世物としてあったものを買い込んで
北条氏綱が手に入れ、氏康が生産開始したのが始まりって書いてるけどな・・・たぶんいつもの北条の捏造だろうけど。


205 :
>>203
仲介役なら嫌われちゃまずいことに変わりはないな

206 :
嫌われてたって言うか
もともと出家してた僧体だったこともあり隆信が嫌ってた。
だけどキリシタン弾圧してしまうとキリシタンの支部のあるゴアで
いろいろとゴアの提督への讒言を言われた挙句に
ゴア提督のの指示で南蛮貿易に支障が生じるかも知れないから放置してた。
隆信の考えでは、島津を討って九州を支配した暁には
宣教師を弾圧しまくって九州から追放するつもりだった。
島津の例を見れば実際には宣教師を排除してても収益が上がる南蛮貿易を
ポルトガル人商人がやめるわけもないし、
やめたらスペイン人商人やらが代わりに商売するだけ。
中国人経由で南蛮人と商売することまでできるし
当時の支配層は東南アジア海上取引を取り締まることは不可能。

207 :
宣教師は弾圧してる領主にも
面談を頼んだり、いざ面談が可能になれば珍しい商品を贈り物にして
日本人キリシタン保護や宣教師派遣許可や教会設置などの説得をする立場だから
宣教師の方から領主を拒否することはないよ。
命を奪うぞって島津が脅してる状況で
周囲の日本人達が泣きながら止めても
説得して状況を打開したいって面談に行ってるくらいだからね。

208 :
戦国末期に50万丁あったって言われてるんだから、龍造寺が9000丁持ってたって不思議じゃないよ
弾薬の事を考えても遠く離れた関東の佐竹が3000丁持ってたって事は、国内でも確保出来ていたと考えて良い

209 :
そもそもその全国50万丁には根拠ないから。
それに佐竹は小規模な金山を多数開発所持してて財力の裏付けもあったから。
中国商人も関東まで直接に船で行き交い貿易してたし。
佐竹の所持した採掘技術ノウハウは凄いもので
秋田へ転封後もわずか4年で院内銀山を発見して江戸期を通じて東洋一の銀山と呼ばれ活況を呈したほど確かなもので、
戦国期において今川、武田、上杉と鉱山開発ノウハウでは劣るものではなかった。
しかし北条ほど技術導入に熱心さを感じられない家は無いな…

210 :
フロイスは隆信を悪魔の仲間とか暴君なんて尊敬しているね

211 :
>>209
> しかし北条ほど技術導入に熱心さを感じられない家は無いな…

北条氏康は名将ではあったが、技術革新とか水軍の活用はうまくなかったみたいだね。

212 :
隆信存命のまま秀吉が九州に乗り込んで来たらどうなってたんだろ

213 :
強勢力にはなびきそうなイメージ

214 :
沖田畷で普通に勝った後
筑肥の国人衆を龍造寺家臣として正式に取り込んでいくのが
龍造寺家にとってのベストな選択だろう
あれ以上南下しても旨味なんてないしね

215 :
>>204
元寇で使われてたてつはうじゃないのかな?

216 :
>>215
もののけ姫に出てきた様なヤツじゃない?

217 :
佐賀藩は伊万里焼きでどの位儲けてたんだろうか

218 :
国内だと瀬戸物というぐらいに、磁器は瀬戸の方が有名だったってことは
国内シェアはそんななかったのかね

219 :
白磁とそれ以外だと需要が微妙に違うんじゃないのかと思ってたけど
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E6%88%B8%E7%84%BC
によると徐々に瀬戸焼は伊万里焼、というか白磁に国内シェアを奪われていったみたい

220 :
天保6年に伊万里港から積み出された陶磁器は約31万俵、内海外輸出は4万6千俵
1石=2.5俵換算で12万4千石、1万8.4千石
1俵=60kgとしたら18,600t、2,760t
同重量あたりの陶器と米の価格が等しいのかは知らんけど、輸出量はこのぐらい

221 :
龍造寺軍は行軍時の素行の悪さを秀吉の近衆から注意されてる
WW2時も佐賀や筑後の人間で編成された龍兵団や菊兵団も風紀が乱れていた事で有名
九州兵の行儀の悪さは伝統なのか?

222 :
明日勢福寺城跡で戦国山歩きだってさ
行きたいけど遠いわ

223 :
>>220
内訳のは佐賀藩以外の焼き物
すんません

224 :
鍋島氏て後醍醐帝に最初に滅ぼされた佐々木清高の子孫を名乗っているんだな

225 :
鍋島ていい加減で模造家系図だけは立派だね

226 :
立派だよ

227 :
その話題はhttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1220009690/
スレのほうがいいのでは?妄想全開の書き込みしてる痛い人がいるけどもう沈静化してるようだし

228 :
この板って鍋島関係者が絶対にレスしてるよな。
やたらかばう書き込み多いし。

229 :
面白い脳みそをお持ちのようで

230 :
龍造寺隆信 統率87 武勇91 知略59 政治42 総合279 戦法・槍衾之三 足軽A 騎馬B 弓隊D 鉄砲A 兵器A 生年1529 没年1584 格付けA 義理10
鍋島直茂 統率90 武勇85 知略91 政治84 総合350 戦法・離間 足軽D 騎馬A 弓隊B 鉄砲A 兵器B 生年1538 没年1618 格付けA 義理44
信長の野望最新作での能力値
隆信は一代の英雄の筈なのにこの差、明らかに差別されている

231 :
沖田畷合戦時に政家の居場所がよく分からないんだけど。
鍋島と山手の陣にいた?それとも佐嘉城で留守番をしてた?。

232 :
鍋島と一緒に出陣してた。
隆信敗死の報を聞いて鍋島さんと一目散に逃げた

233 :
討ち死にしなかっただけましじゃない?
当主と跡継ぎと続けざまに討たれちゃ織田家みたいになっちゃうだろうし

234 :
一応、跡継ぎが生き延びたのに
鍋島に実権取られちゃうのが政家の凄いとこ

235 :
政家Wikiには留守番をしてたとあるわ。

236 :
そりゃ、政家を支持している重臣たちがが沖田畷で全滅したのと、
生き残った有力者がこぞって政家を支持してなかったからだろうな。
特に信周、長信、家晴のビッグ3が不支持表明してたらどうもならん。

237 :
当時信周は一ノ岳、長信は梶峯、家晴は南関に居て沖田畷には参陣してない。
逃げ戻った政家には一族からの風当たりが強かったことだろ。
武雄の家信はノイローゼになってしまったらしい。

238 :
>>235
それは間違いだな。修正しとくよ

239 :
wikiでこんなこというのはナンセンスかもしれんが、出来れば典拠を示しとくほうがいいかもね

240 :
wikiって何処のwiki?戦国関連の代表的なwikiとかあるの?

241 :
龍造寺氏関連の論文を検索してたら
長信が龍造寺の物資を取り仕切っていたって話のを見つけた

242 :
佐賀の手明槍と足軽の違いは藩からの禄が在るか無いかの違いだけ?

243 :
>>242
手明槍は途中で待遇の変化があったはず。

変化後は
侍 > 手明槍 > 御徒
だと思った。

244 :
勉強になります

245 :
手明槍制があるの本藩と蓮池だけなんだよね
龍造寺系の領地には必要なかったのかな

246 :
蓮池領の大半が龍造寺系からの三部上地だったからね。

247 :
>>245
龍造寺四家は裕福だから手明槍制は必要なかったんじゃない?

248 :
手明槍って隆信時代華々しく活躍した苗字が殆どだね。
分家筋だろか。

249 :
元は50石クラスだった者も多いから

250 :
三十俵ニ人扶持(約14石)を武士の平均禄だと考えると50石はかなりの上級。やはり戦国期に活躍した家系筋になるケースが多いだろうね

251 :
龍造寺以外に神代、千葉の家臣も一部手明槍にしてるね

252 :
>>248
どんな苗字の人達がいるの?

253 :
>>252
佐賀藩手明鑓(元禄15年)
鍋嶋左大夫与内 中嶋七兵衛組
横尾惣左衛門、北原孫三郎、執行三左衛門、古賀太左衛門、千々岩覚左衛門、
原五郎左衛門、千々岩藤兵衛、大野千兵衛、江里口庄左衛門、千々岩長右衛門
鍋島主水組内 大隈加兵衛組
富永弥六衛、池田弥兵衛、上野利兵衛、前山十郎右衛門、北嶋三左衛門、
牟田十五左衛門、池田藤左衛門、横尾孫助、大渡甚左衛門、成富伊右衛門、
諸岡杢兵衛、堤与市左衛門、犬塚弥次兵衛、横尾内蔵允、田原利左衛門、
田代小左衛門、久保与右衛門、蒲原藤五左衛門、高木代右衛門、本村作助、
田代正右衛門、柿原利右衛門、北原太兵衛、深川幸左衛門、大嶋八郎兵衛、
安住格右衛門、馬渡平左衛門、高木安兵衛
鍋島主水組内 村上孫兵衛組
重松源衛門、山田嘉兵衛、小林源七、野田吉十、小嶋与左衛門、牧口与市、
香田貞兵衛、秀嶋藤右衛門、小嶋次郎兵衛、加々良八郎左衛門、久富善左衛門、
南里六郎左衛門、加々良九五郎、林武左衛門、小林安右衛門、江頭十郎兵衛、
相蒲藤左衛門
石井修理組内 石井小右衛門組
井上嘉兵衛、赤星久右衛門、吉原甚太郎、香田市郎左衛門、北村善左衛門、
杉町孫助、増田左助、志波勘左衛門、副田喜左衛門、堤弥右衛門、嶋五郎助、
古賀利兵衛、嶋清右衛門、藤山藤七兵衛、牛嶋新五郎、鮎川貞右衛門、大塚与助、
執行十郎兵衛、坂井戸兵衛、青柳藤次左衛門、堤善助、東嶋彦左衛門、
増田藤右衛門。
鍋嶋喜左衛門与内 倉町市郎右衛門組
大坪忠左衛門、成冨八兵衛、早田儀左衛門、小川源左衛門、真崎右之助、
平野次郎八、石井久左衛門、久冨貞右衛門、吉田弥五兵衛、香田清兵衛、
俣野久左衛門、牟田部兵衛、永渕九兵衛

254 :
千葉頼母組内 西五太輔組
光岡清左衛門、光安源次郎、土山与助、渡辺徳右衛門、諸岡喜兵衛、松岡新之丞、
藤瀬源左衛門、馬郡久五郎、古賀市良左衛門、執行太郎左衛門、増田孫左衛門、
灰塚五郎左衛門、小柳伊右衛門、大庭平次兵衛、廉江八十郎、大江新左衛門
鍋嶋庄兵衛与内 川瀬十郎左衛門組
高木久兵衛、増田彦左衛門、立川十之允、大石小兵衛、栗波弥右衛門、
中溝部右衛門、川原千兵衛、野田利右衛門、中村平太輔、江頭孫六、
土屋三五左衛門、中山新次左衛門、梅崎治部右衛門、武冨次兵衛、永田太右衛門、
田尻善左衛門、徳嶋弥左衛門、福田幸左衛門、南里忠左衛門、武冨次六、
岸川弥五右衛門
鍋島靭負組内 諸岡彦右衛門組
副田藤次兵衛、野口武左衛門、犬塚平内、堤三左衛門、上野兵助、野田平蔵、
石田兵左衛門、新郷千兵衛、松永弥太右衛門、小川与兵衛、副島久右衛門、
藤山諒斉、吉原五右衛門、藤野蔓竹、相良九八郎、横尾弥吉郎、空閑三五右衛門、
江口九郎左衛門、江口藤次郎、江口吉左衛門、江口半右衛門、山辺惣右衛門、
江口小左衛門、柳川弥右衛門、原十郎右衛門、百武勘右衛門、牟田嘉左衛門、
宮地甚兵衛、城島六右衛門、吉村源内
中野数馬組内 犬塚武左衛門組
安住二左衛門、井上吉左衛門、藤井福右衛門、諸隈孫三郎、牛島作右衛門、
小出次左衛門、中野真右衛門、福田文蔵、小川茂右衛門、江口武右衛門
古賀権内、成富三右衛門、古川権太夫、無藤助右衛門、三上平八、槙利右衛門、
指山源六、野口甚兵衛、秀島嘉平次、蒲原八右衛門、上瀧久五郎、井上甚九郎
成富九郎兵衛組内 古賀清兵衛組
江越太郎右衛門、田中善次郎、宮地八郎左衛門、福地藤七兵衛、江嶋二兵衛、
江嶋吉兵衛、田口久左衛門、牛嶋利右衛門、中溝源六、藤崎万吉、藍川次郎左衛門、
陣内覚兵衛、海野千右衛門、野副二左衛門、■田六右衛門、大隈藤左衛門
鍋島官左衛門組内 深堀新左衛門組
川副戸右衛門、川副祐右衛門、中西源之允、秀嶋新右衛門、坂井太左衛門、
千布用之助、円城寺権兵衛、田代藤左衛門、江口彦左衛門、仁戸田正左衛門、
赤司市左衛門、堤次郎左衛門、松野喜兵衛、志岐新五右衛門、枝吉清兵衛、
林吉兵衛、杉町牛兵衛、馬渡佐左衛門、執行孫兵衛、伊東二右衛門、古賀与左衛門、
草野藤五左衛門、柴田伝兵衛、堤与兵衛、石井弥右衛門、亀川新右衛門、
相浦五郎右衛門、伊東近右衛門、森戸次左衛門、相浦近左衛門

255 :
こんな名簿をさらっと……
あんた、すごいね

256 :
安政年間で手明鑓+足軽が佐賀藩全部で約五千人
手明鑓のリストラだけで五千石分ぐらい浮かしているから、それ以前はもう1.5倍ぐらい手明鑓+足軽の人員は居たと思う

257 :
>>242
手明槍は50石以下の録を一旦召し上げ、一律切米15石としたからちゃんと録はある。
手明槍の意味は手明(手が空いてる)=無役。
江戸時代になると幕府、諸藩は経費削減のため平時にはあまり必要としない無役の武士はリストラされていったが
佐賀藩は極力リストラしない方針を取ったための策。戦国期に活躍した苗字が多いのは
家柄的に解雇するのは忍びないと優先されたから

258 :
手明槍制が佐賀本藩、蓮池藩だけだったのは元龍造寺家臣団の家系筋が多かったせいだろうね。
龍造寺家が御家事情で必要の無い無役の龍造寺家臣を解雇するは仕方がないと納得もするだろうけど
鍋島家の場合はねえ、、、

259 :
隆信時代から小城は直茂、鹿島は信房と殆ど鍋島領だったし必要がなかったんだろうね。

260 :
小城郡の多久方面は長信管轄だったんだろうけど
祇園城破棄後の小城周辺がどういう取り扱いになってたのか

261 :
手明槍の名前まとめた冊子あったよね
あれもらったけどどこやったっけ

262 :
>>261
寛永五年の分だったら鍋島本藩着到帳に属与として名前が載ってるけど

263 :
竜造寺の子孫といえば、夢野久作

264 :
佐賀城の地下掘ったら龍造寺が見つかるのかな

265 :
村中城の改築は今山合戦の後から始めたみたい
さすがに籠城に耐えうる城ぐらい持っておかないとマズいと
佐賀を攻められて痛感したんだろうね

266 :
コンビニとかで戦国関連の雑誌見つけても、龍造寺も鍋島もまったく見ないぜ

267 :
ならば自分で書いてだしてやろう
という人間がいないかぎりそのまま

268 :
あと15年くらい待ってくれたら俺がPHPから出す

269 :
コンビニの雑誌だろ、PHPじゃ駄目だぜ

270 :
>>263
あれ、そうなの?
夢野久作も僧侶ではあるが。

271 :
ttp://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=1830
こんなの見つけたんだけど
どこまで真に受けていいのか

272 :
> 北山より侵入して、東、西、南、佐嘉郡の寺社、民家を悉く焼払ったけれども、当社と新庄村の勝楽寺だけは残され、河上大明神の神殿も焼き払われた。
勝楽寺は今山へ出陣する前に戦勝祈願したとこ
> 河上で佐嘉軍と一戦を交え、佐嘉勢300余名戦死、その後も方々の寺社、家屋を焼打にした。
敵領国に侵入したらまず焼き討ちは常套手段

273 :
>>271が言いたかったのはソコじゃないと思うんだけど・・・ワザと?w

274 :
大友吉広なんて知らないから答えようがないもの
吉弘氏の関係者かとは思ったんだけど
呪い関係はこの手の話ならそういうもんだろと割り切るしか
永禄年間には二回大友方による佐賀近辺まで寄せた攻撃があったみたいなんで戦自体はあったんだろうと

275 :
永禄年中豊後軍放火神埼郡押寄龍造寺戸次鑑連吉弘鑑種会於神代長良而龍府之北陣塚原與水上臼杵鑑速龍府之東陣干姉村神代長良先駆到三溝鑑連陣高木社鑑理屯長瀬社継之

276 :
水上に與するってどういうことだろう
塚原の川上に陣を組んだという話?
あと継之がわからん

277 :
豊後衆爰にて三萬餘騎を三手に分けたり一手は戸次鑑連北へ廻り春日塚原に吉弘鑑理同じく北の方水上山に陣を取る臼杵鑑速東の大手ゝ姉村へ押詰めたり
扨又神代長良は神野三溝大宝まで討入り所々に火を懸け焼拂ふ斯くて陣替の為戸次鑑連は北の方高木八幡社吉弘鑑理は長瀬社に陣を移す

278 :
水上は地名なわけか
多布施口合戦は当にこの時の話だろ

279 :
長瀬社ってまだ有るのですか?

280 :
長瀬天満宮は普通に現存してるよ

281 :
佐賀城下の長瀬町と長瀬社のあった長瀬は別の場所
長瀬社は高木瀬町大字長瀬の方
というのも高木瀬の長瀬にいた初代忠吉を城下に呼んで住まわたのが長瀬町の由来だそうで

282 :
ありがとう〜、勉強になりました。

283 :
ついでにも一つ質問。淀姫神社もこの長瀬天満も川の傍にあるみたいだけど、そこも昔から?氾濫流されたりしなかったのかな?

284 :
読売新聞朝刊 文化面 戦国武将の実力にあの人の特集が

285 :
葉隠物語読んでるんだが、直茂って依怙贔屓ばっかしてんのな
成富兵庫が加藤清正から駆け落ちした姫を奪還した話は痺れたわ

286 :
>>285
面白そうな話なので
もう少し詳しくお願いします

287 :
>>286
鍋島茂治の娘が夜中に若侍と駆け落ち
その数年後、加藤家の家老の側室になっていることが判明
茂治の家来が連れ戻しに行ったが、本人も加藤家も拒否する
で、成富兵庫の出番となる
大勢の共を連れて熊本入りした兵庫だが清正は仮病を使って会わない
兵庫は慌てず、そのまま居座り物見遊山よろしくあちこちを見て回る
その内、噂が広まり仮病で会わないのは卑怯だという世論に負けた清正は兵庫に会う
そこでも女の引き渡しを渋る清正だが兵庫が朝鮮での借りを持ち出すと一も二もなく陥落
かくして姫は佐賀へ連れ戻されたとさ
そいでばっきゃあ

288 :
鍋島家って後醍醐に討たれた佐々木清高を祖としているんだな

289 :
クマーの首の引き取りを「お断りします」するなんて酷いよナベちゃん

290 :
>>287
これって実話なの?
家老がわざわざ他国に行くのかな

291 :
http://www1.axfc.net/uploader/Flash/so/1875.swf
やっつけ仕事な1570〜1579年の龍造寺勢力拡大図

292 :
>>289
後ろめたいから顔見たくなかったんだよ

293 :
age

294 :
>>292
首と目があったら祟りで狂死しそうな怖さを感じたのかもな

295 :
鍋に従うのがいやで帰農した者も多かったのだろか

296 :
龍造寺侍やってても飯が食えないって理由が一番大きかったと思う

297 :
別にトップと看板が変わっただけちゃうのん?

298 :
佐賀以外の知行地を喪失している状態で龍造寺をそのまま引き継いでしまうと
隆信の代に肥大化した譜代家臣団もそのままくっついて来るので
龍造寺から鍋島への権力移行期は絶対的に知行地が足りなかった
それで土地がこれ以上増える見込みも無くなった勝茂の代で
家老衆(龍造寺四家含む上級家臣)に対する三部上地(給地一律三割カット)と
下級武士層の家禄没収&無役化で龍造寺家臣系を自主退職に追い込んでいったの
その無役化した譜代家臣団に対する救済処置が手明鑓制

299 :
豊臣秀吉から竜造寺高房への朱印状   天正18年(1590)正月8日
※肥前国竜造寺藤八郎(高房)知行割之事
30,000石 竜造寺藤八郎京賄分(高房)
11,200石 佐嘉にて台所入(高房)
5,000石 竜造寺民部大輔(政家)
14,000石 後藤善次郎(家信)
10,070石 竜造寺六郎次郎(長信)
5,250石 竜造寺阿波守(信周)
19,188石 竜造寺七郎左衛門(家晴)
6,040石 神代二郎(家良)
44,500石 鍋島加賀守信生(直茂)
9,000石 竜造寺伊勢松(勝茂)←江上家種分
80,000石 馬廻分
67,650石 小給人分
合計309,902石
天正15年(1587)島津討伐時の恩賞
鍋島加賀守(直茂)
5,700石-養父半郡
5,000石-高来郡神代

300 :
四天王が健在なら鍋島なんて

301 :
>>299
家種が生きてる間に養子に入った勝茂が江上領分を相続してたんだっけ?

302 :
戦場で殉死まがいの討死するような盲目な人が生き残っても
政治的な活動なんて出来ないだろ
殉死は武士の価値観からすれば美しいんだろうけど
組織の人間としては責任逃れの自殺と大差ない

303 :
かといって全員が全員一目散に逃げ出しちゃ、追い討ちかけられて余計殺されるんじゃないの

304 :
遺体の引き取り拒否で後世でクズ扱いみたいにされるのも
あまり賢いとは思えない

305 :
その逸話の大意は戦って取り返すからワザワザ持ってくるな。という所だろ
それをクズかどうか思うのは受けての感性の問題
訳文だと部分だけ切り抜いてい曲解する訳者の見解が入るからその限りじゃないが

306 :
生母の義母もいるんだし納得してもらってるんじゃないの?

307 :
>>305
そんなデタラメは書いてない

308 :
>>301
家種は慶長2年(1597)2月に朝鮮役で卒してるので生前に勝茂へ譲った事になる。
実際の知行は10,200石で9,000石を勝茂へ、残り1,200石は隠居分として手元へ残していた。
家種が卒した後に1,200石は実子の江上孫太郎(佐野右京亮茂美)へ800石、残り400石を
江上左近允(勝山大蔵勝種)へ分配された。
存知の通り勝山大蔵はのち伯庵と共に鍋島騒動の立役者となった人物。

309 :
朝鮮役前後における信生の立場を考えると、軍は動かせるけど台所事情には口を挟めない
東肥前連合軍の最高指揮官の域を出ていない印象
そこから軍事の功績で親族会議での発言力を強めていったのだろうなと

310 :
勝山大蔵は父家種の相続分とは別に祖母(隆信の妻)の化粧田も一部貰っており
寛永五年鍋島藩着到帳には1,086石となっている。

311 :
戦国時代に興味があるひとにこそ知っておいてほしいカモ
小学生低学年に向かって「まわしたるぞ」と…
始まって1分ほどに何人もの小学生低学年が映っています。
その子たちに向かって「まわしたるぞ」と言っていた模様です。
ttp://www.youtube.com/watch?v=J53DISMjHuc


312 :
263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/19(土) 17:17:10 ID:jI1mnhOC
竜造寺の子孫といえば、夢野久作

            ↑
           これは事実なのか?スチャラカポクポク
   
 

313 :
天正11年に安国寺が、
毛利の大幅譲歩による秀吉との和睦の決断を促す書状で、
百姓同然の龍造寺と書いていてワロタw
他の大名については悪口書いてないのに。

314 :
今和睦しないと百姓の秀吉が百姓同然の龍造寺をけしかけて
毛利領を侵犯するかもしれないぞって感じ?

315 :
中央の人間とか、大内・陶家の文化をまるまる吸収した大毛利にしてみれば
そりゃあ九州ってだけで田舎モン扱いされるだろうねえw
しかも大名自身がクマーなんだからどんだけだよって話だw
しかしトンデモ学説では当時日本最大の鉄砲保有大名だったって資料もあるくらいで
さすがにそれは大げさだとしても、純粋な軍事力では馬鹿に出来ないだろう


クマー本人は馬鹿だけどね^^

316 :
フロイスの日本史では、
金ピカ装備で大量の銃を
龍造寺は所持してて
島津はビビりまくり陣の後ろの方に閉じ籠ったって書いてるぜ。
有馬らは鉄砲は使わず突撃戦法と、
海岸からの砲撃で
隆信の息子らを押しまくったので
隆信が彼らを督戦するために中央から海岸側へ移動したとか。
もともとの作戦では、
隆信は山側へ布陣予定だったが、
柳川にいた信生が、突然に主命を破ってやってきて、
自分が山側に布陣した島津と対陣するので、
隆信は山側でなく
中央を進軍に作戦を
土壇場で捻じ曲げたんだよね。
信生は、わざわざその変更のために柳川から来たわけで、
柳川での調略や外交で、
何らかの勝算が出来ての陣替えだったのだろうか。

317 :
>島津はビビりまくり陣の後ろの方に閉じ籠ったって書いてるぜ。
実際にはどういう表現で書いてあるの?

318 :
有馬兵ら味方があまりに少なく
島津兵はこりゃ絶対に敗北確定だわと確信したらしく
兵力・装備が充実している隆信軍を見て色を失い、
互いに顔を見合わせ死の汗を流したとか
鎮痛な面持ちになったとか書いてあるね。
有馬軍が鉄砲の餌食になりそうだから
義久が篭った山へ退却しようとしたが
島津側がそれを許さなかったので
有馬はその山の麓で
地面にうっぷして銃弾を避けてから
肉薄突撃をして戦ったが、
竜造寺は槍兵と槍兵の間からも銃弾をぶっ放してきて
苦戦してたが、海岸からの大砲の支援を受けて盛り返した。
そんでなぜか突然現れた少人数の島津軍の川上に、隆信は味方だと誤解した挙句に殺されたと書いてる。
ちなみにフロイスは日本では盾を使わないと書いてる。

319 :
なんで義久いんの?

320 :
どこを斜め読みしたらよいずら?

321 :
>>319
島津の主戦は八代に居ただろ
沖田畷合戦は八代の側面にある島原を隆信が潰しに来た戦い

322 :
>>321
文章読む限りでは、義久が籠った山のふもとで戦ったように見えるけど、
隆信は沖田畷の戦いで八代にまで軍を伸ばしてたの?
そんで沖田畷のあたりで討ち取られたの?すげえな

323 :
>>318の文章の『その山』は元々陣を敷いていた場所の事だろうね、好意的に解釈すると
あと直前に合志城を政家が落としているので、軍勢の一部が近辺に駐屯したままだったのは十分考えられる
だいたい八代の手前40km付近の話

324 :
お前らアホだろ。
普通に考えて義久と家久を間違えて書いただけだろ。
鍋島厨は読解力がこれ程無いとは。

325 :
義久と家久間違えるのか、すげぇな
これだからアンチ鍋島は…どこの猫だよ

326 :
義久が沖田畷にいたと思ってるバカがいると聞いて

327 :
揚げ足を取るしか能がないクズしかおらんのか。
つまらん糞スレ住人だ。

328 :
「枝葉末節 揚足取り」
大友、島津がもっとも得意とした戦法でごわす。

329 :
ここでも唐突に川上が隆信の元に現れるとかwww
どう考えても隆信が死んだ理由は鍋島の内通による案内以外考えられんな。

330 :
鍋島が裏切る動機は?

331 :
戦国に動機が必要かね?

332 :
仮に下克上を狙ってたとしてもこのタイミングはありえんと思うわけだが
それはそれとしてもしその意思があったとして動機を考えるならば
ただひとつ「隆信に呆れ見切りをつけた」だろうなあ
どう考えても沖田畷前の数年の行動は人として疑問符が付くし
そういう家臣の声が、一番人望のあった鍋島を動かした、っていう風になっちまうな

333 :
どう考えてもと言っても事実だけ取り上げたら取り立てて失策してるわけじゃないだろ
酷いって評判だけひとり歩きしてるだけで

334 :
むしろ鍋島が隆信に悪事をやるように誘導してたような…

335 :
蒲池の騙し討ちだってやったのは鍋島だろ

336 :
隆信の悪行は同盟国や自勢力下の領主・武将たちへの仕打ちだからな
それも歳を取ってから猜疑心が強くなってそういう傾向が強まった
決して評判のひとり歩きじゃない
そして蒲池の事件は確かに鍋島と計ってという記述をしてる場合が多いが
鍋島は反対したが結局主君の命には逆らえずというのも見たことがある
その辺の真実は分からないが結果的に共犯になるのは間違いないだろう
だが隆信のやり方で配下の叛乱が連発したのに
それを主導したのが鍋島だというのなら当然ながら隆信亡き後の
鍋島に他の家臣が従うはずがない
その辺りの推移を考えても隆信に往年のカリスマが無くなっていたのは明らかであり
隆信亡き後に残された家臣団には鍋島以外に立て直してくれる能力を持った武将は
いないという共通認識があったのは間違いない

337 :
叛乱分子の粛清を速攻で済ませる事が出来なかったのが失敗だったな

338 :
隆信と信生の母の慶ァ尼の指示だから仕方が無く
竜造寺家臣団も一時的に信生に家政を任せただけだな。
その基盤の弱さを補うために信生は秀吉政権を味方につけて
家内掌握を図っただけ。
鍋島藩がかなり信生の悪事を隆信の悪事に摩り替えて捏造藩史を
残しているからこそ化け猫伝説まで民間で生まれたんだろうな。

339 :

鍋島松茂譜考補に三成らが伊勢から美濃に来て要請を
長島城に備えてた勝茂がいま守ってる野代の陣の守備の代わりがいないから
無理と断わった話が載ってるらしいんだが知ってる?

340 :
松茂って誰?

341 :
鍋島直茂は熱心なキリスト教徒で、
秀吉の命を無視し非常に厚く彼らを保護し匿ったので、
1601年の佐賀城下だけでも200人のキリシタンがいた。

342 :
一方、隆信はキリスト教が大嫌いだが
貿易利潤のために九州統一までは
一時的に虐殺を我慢していた。

343 :
九州統一なんて面倒臭いことをなんで龍造寺がやらなきゃいけないんだよ

344 :
信生「価値観の不一致で隆を暗殺した後悔はしてない」

345 :
うむ

346 :
なるほど

347 :
以心伝心

348 :
粛清されたとき周家は当主と認識されていたのか
それとも家督は家門が握ったままだった?

349 :
『四天王なのに5人いる』のフレーズが有名な龍造寺氏

350 :
そればっかが有名になり過ぎよな、結構がんばって下剋上してんのに

351 :
もうちょっとお互いに信用していたら少弐との対立は避けられたはず

352 :
龍造寺四家もなんで鍋島受け入れたんだろ
結局鍋島分家強化で弾圧されたのに

353 :
弾圧?
されたか?
むしろ、幕末まで四家には気を使い続けた印象

354 :
参勤も天下普請もないのに領地だけは持ってる四家は本藩からすれば無責任
四家の家臣団からすれば鍋島の問題をこっちまで持ってくるなという感じ

355 :
例えば諫早騒動の事を取り上げる時は枕詞に
「佐賀藩の圧政に堪えかねた諫早民が立ち上がった」とつくのがお約束

356 :
>>352
> 龍造寺四家もなんで鍋島受け入れたんだろ

幕府の意向なら逆らえないでしょ。

357 :
四天・五天もうたわれる程の功績があるかと言われれば疑問だがな(成松は除く)
完全にゲームバランスとる為に持ち上げられた連中だろ

358 :
>>356
幕府は継承の追認しかしてない
意向を示したとするなら直茂を長崎奉行にしたうえで
龍造寺領の中に鍋島領をねじ込んだ秀吉

359 :
実質的には多久諫早の二家の勝利かと
爵位は手に入らなかったけど

360 :
勝ち負けが出ないように調整し続けてきたのが藩政の歴史だろ
あと爵位貰えなかったのは親類同格中だと須古だけ

361 :
鍋島一族・龍造寺一族どちらのどの家柄も突出しないようにか
そういや佐賀藩家臣席次一位ってどこ?

362 :
小城鍋島
官位を直茂と同じ加賀守を貰う家

363 :
三支藩の首脳部は本藩の要職につけない
親類同格四家は当主が本藩の加判に参加して藩政を総覧できる

364 :
>>336
指導者たる者、己の力量によって悪行を為さずに済ます、なんてことは不可能。
特にこんな時代ではね。
もしできたとすれば、よほど運が良かったか、隠蔽したかのどちらか。
俺の意見は>>337と同じ。

365 :
龍造寺は血筋が良いわけでも中央にコネがあるわけでも無く
大名として勢力を張れる根拠が戦争に強いという事だけ
その根拠が大将敗死で一挙に吹き飛んじゃったんだろうな
逆に言うと勝ててるうちは内部の事なんてどうとでもなった

366 :
そのへんはたぶん本人たちもよくわかってたから、
「じゃあ、次に戦争強い人誰よ?」
「鍋島じゃね?」
「しょうがないから、野郎にやらせとけ」って感じになったんだろうな

367 :
>>365
名前がかっこいいアドバンテージもあったぞ。
東北にも「大宝寺」氏がいて、名前だけは天下人。

368 :
龍造寺は確かに名前がいいよなあw
ま、戦の強さが戦国大名として存在し得る根拠というのは確かにあるわな
でその当主が死んだらもともと地方国人・城主の集まりなんだから空中分解する可能性高い
しかしせっかくここまで大きくなった龍造寺勢力を空中分解させるわけにもいかない
戦争に強いリーダーが必要だった
「どうするよ、若殿さまじゃまとめきれんぞこれ」
「もう鍋島でいいんじゃね、一応龍造寺一門と言えなくもないしw」
「サルどのの覚えもめでたいしそれで行くか」
こんな感じで家中特に異論もなくまとまった気がするw

369 :
武士の時代が始まった頃に別れた大宝寺と少弐が
両家とも廃れて久しく武士の時代も終わろうという時に
末裔達が弓じゃなくて銃を向け合い戦うなんて誰が想像していただろうか
大河を見て感じ入った次第

370 :
『百姓の如き龍造寺』by安国寺恵瓊

371 :
高木氏が火国造建緒組命の末裔説をとるなら
龍造寺も神代の時代から火の国を治めていたやんごとなき一族の系譜
たかだか800年前に成りあがった連中とはものが違う

372 :
3年ぶりに帰ってきましたので宜しく!!

373 :
龍造寺隆信が死に際に今の気持ちを聞かれて「紅炉上の一点の雪」って答えたエピソードあるけど、
調べると川中島でも謙信玄が同じことやってるらしいな
どっちが元ネタなん?

374 :
禅語だからどっちも元ネタじゃない

375 :
禅語なんだろうが、戦中に命の危険に晒されて禅問答って状況はそうじゃないだろう?

376 :
信玄謙信の問答の初出出典はググっただけじゃ分かんないな

377 :
>>366
要するに政家がスカだっ(ry

378 :
状況からすると政家は兄弟ともども押し込み食らったとしか思えない

379 :
状況からすると一番現実的に考えられるのは
政家らが頼み込んで直茂に当面の仕切りを完全委任したという感じだろうな。
政家は病弱だったと言われているが、少なくとも自身の力を過大評価するほど
愚鈍ではなかったと思われる。
それは隆信の血の繋がる誰にも言えることで、
隆信急死後に誰かが直茂の仕切りに反発してたら肥前は大藩として生き残ることはなく
幕末の肥前の活躍もなかっただろう。
その時の龍造寺の後継候補たちが自らの器を量れる人間であったことは
肥前にとっての幸いであったと思う。


380 :
龍造寺さんについても調べたいのですが、
お勧めの本てありますか?調べたいのは龍造寺氏の軍事関係(甲冑他)昔話、龍造寺の当主の人物像です。あと、龍造寺氏と竜宮城て関係ないのですか?

381 :
龍造寺と竜宮城の関係ない事だけは、トーシロの俺でもわかる

382 :
家中こぞって当面の仕切りを任せたというところにはおそらく異存はないと思われる
問題は、「当面」がいつの間にか「永続的」に変わってたことであって
それには秀吉の鶴の一声があったというが、じゃあ鶴の一声を言わせた理由は何だったのか?
秀吉の立場で言えば、大きな大名家の家老筋が主家と入れ替わるという事態を自ら命じるというのは危険な行為でもあるわけでw
龍造寺直系の統治能力に疑問を持ったのか、忠誠心に疑問を持ったのか…
おそらく後者ではないかと思う
先代の隆信がああいう経歴であったこともあるし、統治能力はなければ自分の子飼いと差し替えればいいだけだし、そのほうがありがたいだろうしw
鍋島は秀吉への忠誠が認められたのだろう
ただそれはあくまで(情勢を鑑みての忠誠)であるのだが
その後も含めてお家取り潰しにならないようにうまく立ち回ったのはやはり鍋島の功績
鍋島から秀吉に自分を大名にするように工作したのではと主張する人もいるがそれはありえないと思う
前述したように、秀吉の立場を考えればそんなこと上申したら不興を買うこと間違いなしだから。

383 :
>>380
初版がもう50年前の物になるけど『龍造寺隆信・五州二島の太守』ぐらいしか手頃な価格のものはないと思う
甲冑については博物館でも巡ってくれ、と言いたいが画像を貼っとく
http://www.kjclub.com/UploadFile/exc_board_14/2010/08/04/img440.jpg
龍造寺隆信 紺糸威桶側二枚胴具足
http://www.pref.nagasaki.jp/bunkaDB/bunkazai/pdf/00112.pdf
龍造寺家晴 明珍作うこん威甲冑
http://www.nabeshima.or.jp/collection/index.php?mode=display_itemdetail&id=88
成富茂安 錆色塗紺糸威仏二枚胴具足
http://www.nabeshima.or.jp/collection/index.php?mode=display_itemdetail&id=6
鍋島勝茂 青漆塗萌黄威二枚胴具足

384 :
>>383
ありがとう鍋島さん!
本屋にいったけどみつからなかった

385 :
>>383
> http://www.kjclub.com/UploadFile/exc_board_14/2010/08/04/img440.jpg
> 龍造寺隆信 紺糸威桶側二枚胴具足

地味な感じだなあ。

386 :
鍋島が島津に内通して隆信を売り
秀吉の権威にすがって島津を売り飛ばし
自らが簒奪して当主になったとする意見の支持者だが
その本は息子が加筆修正して平成18年10月に再販しとる。
俺が確認できる範囲だが平成20年11月の時点で第3刷が発行されてる。
佐賀新聞社か佐賀市内の書店で聞いて見れば在庫あるんじゃね?

387 :
>>384
去年福岡天神のジュンクにあった。
>>386
俺は鉄さび色が渋くて好きだな。
たしかに戦場で目立つ色ではないが。

388 :
>>383>>386
ありがとうございました!!無事入手して、読みました。
龍造寺隆信は逞しくて、有能だったけど、気性がすごい激しくて、疑り深くて怖い。
一族が皆殺しにあったり、味方にすら反乱を起こされて大変だったからなのかな。
落ち込むより、外へ攻撃してストレスを発散するタイプなんだろうか。
若い頃は何だかんだいっても部下の意見は聞いていたし、苛烈だけど仕事熱心ぽかったのに隠居してダメ人間になって、何か空しい。あと、鍋島とのコンビはジャイアンにドラえもんが使えてる感じがした。
鍋島は一応、龍造寺の血は引いているのに、鍋島の名前にこだわったってことは、
乗っとるってつもりじゃなくても、それなりにナベシマンとしての自負があったからなのかな。

389 :
直茂に足りなかったのは勇気だったんですか?
慎重な性格を評したんですかね

390 :
>>389
直茂は有能ではあったが、やや小心だったので、中央政権からあまり警戒されなかったんだと思うね。

391 :
秀島家周は忍者

392 :
小心者というよりは野心が薄いのかな、という印象。
あとは龍造寺隆信が悪名高かった分、それに諫言しつつも忠実に仕えてきた事で秀吉の評価を得たか。
秀吉は鍋島みたいな人間に豊臣家の忠臣になってほしいと願って
龍造寺領を与えて恩を売ったんだと思う。
鍋島が龍造寺を名乗らないのはまぁ当然だとしても、
鍋島はその後も龍造寺一族を”異常に”厚く遇し、龍造寺一族もほとんどがそれに納得してるわけで
しかも隆信に仕えていた国人領主・家臣団が誰も異論を唱えていないわけだから、
形としてはともかく実態は乗っ取るというよりは納得づくの委譲と言えそう。


393 :
道雪死後再び高良山を奪い返し秀吉と連絡とりながら島津に秀島を人質として送りつけ高橋と筑紫を攻撃しつつ
その翌月には筑前に展開していた部隊を引き上げさせ
毛利が九州上陸しだすと幽閉されていた近所の領主を解放して暴れさせ
転進する島津の尻を追いかけ突っつき北関で高橋母娘を手に入れ
南関へ入城した後高良山まで進軍して来た秀吉に頭下げて臣下の礼をとる
卑怯者、二股軟骨と周りから散々罵倒されそうな事をしれっとやってのける連中は好かれない
弱きを挫き強きに媚びるような行動を澱みなく取れる奴がみっともなくとも生き残る

394 :
突き詰めると、みっともなく生き残ることが戦国の勝者だからねぇ。
一族郎党全滅するまで戦い抜いた戦国大名のほうが少なかろう。
ストーリーとして見る分には滅びの美学のほうが面白いだろうけど
現実にはなかなかそうはいかないわな。
直茂だけでなく隆信もそういう世渡りをしてきたんだしな。
だから鍋島は戦国の勝者。
龍造寺家ももちろん戦国の勝者だ。
戦国一カッコイイ名字はなくなってしまったが、一族は鍋島本家より良い暮らししたんだからなw

395 :
まぁ高房は不幸だよな、気骨が強すぎたのか
高房が生きていれば、鍋島は安泰じゃなかったのだろうか

396 :
既に勝茂が蓮池五万石の領主で高房と同等の立場
龍造寺家中の共同統治者という具合に収まってる

397 :
国に居ない統治者ってのも何だかな、そういう時代だから仕方ないけど
国元に帰るまで我慢できればよかったんだが

398 :
>>395
戦国時代ならそうだったかもしれないが
中央政権が出来てしまって以降はキツイ。
気性激しいということで幕府から警戒されたはず。

399 :
戦場で死んだ大名って、今川義元と龍造寺隆信以外いるの?

400 :
時代の範囲と大名の定義による

401 :
義元の戦死場所と隆信の戦死場所を比べると余りの扱いの差に泣けてくる

402 :
>>399
少弐氏の当主は戦死がデフォルト。

403 :
http://www.kanzaki-museum.com/data.php?mode=show&id=1393
冬尚の墓もまあうらぶれた場所にあるけど機会があったら参ってあげてね

404 :
勢福寺城跡の山道が整備されたって先週新聞で読んだな

405 :
>>404
> 勢福寺  ← 名前がかっこいい。御利益がありそうだ。

406 :
勢福寺城は勝尾城等と共に九州探題が征西府の北上に備える為城塞化され
探題が少弐によって滅ぼされた後その勢力下におかれた

407 :
http://www.town.togitsu.nagasaki.jp/kihon/pub/detail.aspx?c_id=62&id=31&pg=1
長崎甚左衛門の墓は時津ジャスコの裏にあったけど、意外としっかりしてた

408 :
墓守の存在は大切だわな
担い手がいないと史跡は荒廃する一方だ

409 :
各鍋島家(旧竜造寺)を見てまわりたいが
武雄市歴史資料館(幕末を中心に出版物まで出してる規模)
多久市郷土資料館(すいません程度の無料施設か?)
諫早市(仮称)歴史文化館 建設構想(まだ構想段階?)
須古(そんな歴史はない!)
オススメある?

410 :
資料館見物ならそんなもんだろ

411 :
家跡がみたいなら宗家直系の久保田村田家にも行かないとな

412 :
須古は隆信より便槽の方が有名だよ

413 :
須古の高城は難攻不落であり、隆信は数度の城攻めで漸く陥落させたが、その際直茂は山の斜面に脇差を突き立てて攻め上ったという

414 :
便槽メーカーでもあるのかと思ったら、ひどい事件だなこりゃ

415 :
母親に頭が上がらず、今山の戦いの奇襲は母親の叱咤で決めたとも言われる。
曽祖父の家兼は隆信の才能を見抜き、「長法師丸は大器である」と評したとされる。

416 :
>「長法師丸は大器である」
なるほど。それで後家女房をヒィー、ヒィー言わせたわけか。

417 :
この位置からだと須古城の現在の全景が分かるかな
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/56/ba6afdf3e349f2ff2494d5415fed3712.jpg
真ん中の大きい丘が高城
奥の丘が支城の杵島城
手前の丘が男島城
外回りを濠で囲まれていて特徴は残ってる

418 :
>>415
確か20歳くらいまでは坊主なんだよな。
なんで寺で青少年期を過ごしてるのに殺戮を好むのか。

419 :
真面目に修行してなかったんでないの

420 :
寺なんて大学みたいなものでは
信玄謙信が代表格だし、太原雪斎や安国寺恵瓊みたいなのばっか
とはいえ、こいつらと比べてもなんか残虐なんだよなあ

421 :
寺は現代の小学校〜大学までを全部合わせたようなもの

422 :
暴君と言われるが民に対してはどうだったんだろう

423 :
>>417
写真続きは無いの?どっかのブログ?

424 :
どっかのブログ画像なんだろうけど、
展望所(肥前犬山城)からの写真だなこりゃ。

425 :
>>420>>422
何をもって残虐とか暴君なのか意味不明、教えてくれー。

426 :
>>423-424
うん、次はないけど別の人のを
歌垣公園からの遠望とグーグルマップ
https://ssl.panoramio.com/photo/11746222
マップを右に動かして、須古小のとなりに見える丘が須古城、右が男島城、左が杵島城
北西の妻山神社と南西の陽興寺も戦時には砦として使われていたらしい
龍造寺軍が陽興寺を取って奇襲を掛けた話が残ってる

427 :
>>426
Thanks
高岳(須古)城
北の大手は岩石峨々と峙ち、一騎打の細道。東は男島に稠しく砦を構え、
南は堀を二重に深く掘り塀を高く塗りて、所々に櫓を掻竝べ、
西は百町牟田とて、深泥限りなし
龍軍攻撃
高岳城の北(一間堀方面) 廣橋信等(一祐軒)、鍋島信生(直茂)、成松、百武ほか2300
高岳城の東(白河口・男島方面) 龍造寺信周、波多、前田、井元ほか2000
高岳城の南(湯崎・川津口方面) 納富信景、田代ほか (小塚口方面) 納富信理、副島、木下ほか1800
搦め手  竜造寺長信
隆信(本陣) 福母→妻山

428 :
>>418
足利義教は天台座主だったが粛清を好んだ。

429 :
残虐だから裏切られたとか言うけど
もっと有明海の貿易利権だとかなんだとかそういうのも絡んでくる話じゃないのかなあ
とよく思う

430 :
裏切ったから報復した が正しい

431 :
分別も過ぎればねまる っていい言葉だと思う
ねまる、なんて雑巾が牛Rで腐った時にしか使わない方言だったけど

432 :
ねまるも古語だから当時は方言でもなかった可能性がある

433 :
>>429
明らかに交通の要地ばかりだもんな。

434 :
「ねまっとーが」
母親の実家で普通に子供の頃聞いたけどなあ。

435 :
うちのばーさんもねまるとかはよく言ってたし、学校とかでも使ってた

436 :
たまには方言を語るスレってここですか

437 :
母ちゃんは今でも言うよ
暑い時に弁当のご飯がねまるって

438 :
地域言わないと方言かどうか検証にならないだろうが。
頭のねまったやつらだ<用例としてあってる?

439 :
うちの母ちゃんはねぶるのが上手って父ちゃんが云ってる

440 :
この前お前の母ちゃんに500円払って尺八してもろたけど確かにねぶるの上手だったわ

441 :
頭のねまったやつがさらに増えた責任どうしてくれる

442 :
うちの母ちゃんは無料奉仕だよ

443 :
む・む・む・無料奉仕だとぉぉぅ!
( ̄¬ ̄;;)ゴクリ・・・

444 :
ちゅ ちゅぱ ジュボ ジュボボボ ちゅぱ ジュボボボ ジュボ
い・いくよっ・・・
うっ・・・ビクッビクッビクッ

445 :
母ちゃん母ちゃん言っても全部慶ァ尼に変換されるのが龍造寺スレだぞ

446 :
まぁ、そうなるよな

447 :
竜道寺隆信が佐賀と長崎の71万3千石を治めていたのだが、島原の乱で隆信が天草側について討ち死し、
家老であった鍋島が佐賀を治めるようになったのだそうである。
「あくまでも家老ですよ!竜道寺の家老は鍋島!本当は!」
「本当いうとですね、寝返りを討たれたという事で思うとりますね!」

448 :
>>447
民明書房「龍造寺氏はピラミッドの謎を知っていた」にそう書いてあったな。

449 :
日本語が不自由なのはあれか
先祖が直茂に鼻を削がれたせいか

450 :
日本史板や三戦板も含め竜造寺関連スレでの鍋島擁護は異常レベル

451 :
アスペには擁護に見えるんだろうな

452 :
普段から擁護か攻撃の書き込みしかしてないんだろうね

453 :
>>450
慶ァ尼が鍋島擁護の筆頭だしなー

454 :
化け猫騒動のイメージがやっぱ強いのかにゃ

455 :
鍋島擁護というが、この規模でありながらこれだけスムーズに権力移行が進んだというところに
そのまま鍋島の能力と人望を認めざるを得ないところはあるだろう。
長年龍造寺の禄を食んできた家中に騒動がまったくないというのは本当に驚くほかはない。
つまり鍋島擁護は歴史の状況分析からそうならざるを得ないもの。
龍造寺を貶めているわけではなく鍋島を持ち上げてるわけでもなく
歴史というのは残っている史料とその結果で判断するしかない。
新たに確実な史料が出ればすべていっぺんに吹き飛ぶんだけど、それが歴史学だしね。
ここで鍋島を貶めて龍造寺を持ち上げてる人がいるのは承知しているが
その論理がすべて「鍋島が自分の都合の良いように捏造した」では誰も説得できないよね。
個人の歴史観としてはいいけど、人を説得するならそれを裏付ける史料がなければね。

456 :
>>454
猫化け騒動と言う呼称が正しいとか
現代人ってこの騒動知る機会少なくないか?
>>455
鍋島批判と擁護は感情派と現実派にしか見えない。

457 :
県史料集を流し読みしてたら個人的な新発見があったのでメモ
天正年間初頭に毛利家の仲介で龍造寺は義昭と接触をしており
その使節として鍋島信昌が派遣され西海の守護を司る御内書を得たとされる
その後おそらく今件の見返りとして毛利の織田への弾劾状に隆信も署名し、対織田の第三次包囲網に協力する事を約束している
この段階を毛利側からみた場合、毛利主体の連合勢力の一翼で扱いは宇喜田家等と同じ様なものであったと思われる
毛利の仲介という事は義昭が京から追放された後で
この時期の衰退窮まった将軍と接触したのは
当時織田家と誼を深めつつあった大友家への対抗上必要にかられた手段であり
肥前守護たる大友の討伐を受けても反抗を続ける謀反の家から
将軍の公認勢力と周囲に喧伝し認知させる働きを狙ったものと考えられる

458 :
義昭の権威を得るというのは副次的なもので
もっと現実的に、大友家の背後を扼するために毛利の力を欲したってことだと思います。
毛利としても大友は面倒な相手だし、自家が主体の弾劾状を出すのに
少しでも多くの大名の名前が並んでいるほうが見栄えがいいし。
まぁ毛利としては、現代的に言えば「毛利の傘」に組み入れたとの認識はあったかもしれない。
それくらい毛利にしてみれば龍造寺は格下の存在に映ってたはず。
龍造寺はそれを知りつつ、あえて下手に出て狡猾に毛利を利用するつもりだったのではないかな。
実際、織田を攻めるのに兵を出すことはできないので
龍造寺にしてみれば名前を貸しただけで損はないわけでw
・・・とはいえ本能寺の変が無ければ魔王さまに滅ぼされただろうけどねw

459 :
>大友家の背後を扼するために毛利の力を欲した
これは龍造寺が少弐と完全に袂を分けた後の一貫した方針で
大内とその勢力を継いだ毛利に与して、少弐とそれを後援する大友と対峙してます
少弐が滅び大友が直接肥前へ介入する様になった後も基本的に一緒
つまり天文から天正初期まで龍造寺は親大内―毛利派で
大友の侵攻を退けた直後の天正初期は取り急ぎ毛利の力をあてにする様な局面ではない筈です
義昭と隆信のどちらからのアクションかは不明だけど
守護大名家の討伐令という名分から存分に痛い目をあっている龍造寺が
足利将軍という守護の上位存在に目が向くのも無理からぬ事かなと思います

460 :
>本能寺の変が無ければ魔王さまに滅ぼされただろうけどね
鍋しぃが信長存命中に秀吉に通好してたってのは史実じゃないんだっけ?
少なくとも100%滅ぼされるとは言えない保険はかけてたかと。

461 :
>>459
取り急ぎ毛利の力が必要ではなくても普段から誼を通じておいたでしょうし
龍造寺としては一番勢いのある時期であっても、親大友勢力を斬り崩していくには
毛利の影をチラつかせるのはとても効果があったでしょう。
誰からのアクションかといえば、それはたぶん義昭でも隆信でもなく、毛利ではないかな。
>>460
ナベちゃんが最初に秀吉に誼を通じたのは秀吉の中国攻めのときだともいうけどそれはともかく
信長は自分に反対する連合を作った勢力はことごとく滅ぼしてるからなんとなくそう思いましたw
まぁそれは織田家の存亡をかけて戦ってた時期の話ですから
天下の趨勢が決まった後ならばきっちり臣下の礼を取れば余裕を持って赦したかもしれないけど
でも一般的な信長のイメージならやっぱり滅ぼすんじゃないかなと思いましたw

462 :
1574年ごろだと龍造寺も筑紫や平井に攻勢掛けてるくらいで
その五年前よりそんなに大きくなってない
佐賀の近国衆を全部併せて25万町歩弱程度の領地で総動員数が1万前後
それまでと違うのは上松浦が既に従属していて玄海北辺の水運に融通が効くようになったぐらいか

463 :
ああごめんなさい、私の表現が悪かったですね。
一番勢いのあるっていうのは、勢力的な規模の話ではなく
家中の雰囲気というかノリみたいなものを表現してました。
組織って拡大し始める時期が一番勢いあるからw

464 :
義昭は誰彼構わず御内書出してるから毛利の積極関与は匿った極初期以外はない

465 :
>>457
そういえば毛利と龍造寺の関係って、あまり注目されていないよね。
大友と織田の関係も。

466 :
>>462
> それまでと違うのは上松浦が既に従属していて玄海北辺の水運に融通が効くようになったぐらいか

龍造寺は水軍を積極的に使わない印象があるがどうだろうね。
伝令とかには使ったんだろうが戦闘には使わない印象があるが。

467 :
この前佐賀新聞にポルトガルのガレオンを囲む鍋島水軍の絵図が載ってたけど
小早がうじゃうじゃと長崎沖に展開してた
ソマリア海賊的な印象を受けた

468 :
龍造寺時代に戦闘要員として水軍を必要とする戦いってあったのかな。
宗氏はじめ戦う前に形ばかりの臣従の使者を寄越して終わりだったのでは。
有明海沿岸の高速移動手段としては隆信も船を使ったらしいけどそれが水軍と言えるのかどうか。
一応軍勢の移動に使ったのなら漁民の小船ではなかっただろうけど。

469 :
筑後川河口で筑後水軍と戦闘した時も追い打ち出来てるので
泳いで追い掛けたとするよりは小舟を大量に浮かべて漕いだと考えるほうが納得できる
後は肥後国人連合軍と船上戦やったり
天草へ2万人上陸させたりするぐらいの事は現地の協力込みで可能だった模様

470 :
>>462
玄海北辺ってなんか違和感
>>466
佐嘉拠点で有明海を意識しないのは無理がある。
隆信に興味がなくても向こうからは攻められるわけだし。
確かに玄界灘側で水軍を使えば戸次攻めの一助になりそうなものだが。

471 :
戸次鑑連含む筑前五城を攻撃した時は宗に要請して筑前の沿岸を荒らさせている
宗が北側で活動している時に南側から龍造寺・筑紫の本隊で城を落とすといった寸法
唐津と伊都を攻撃したときも宗と共同で似たような事やって草野・原田を屈服させてる

472 :
情報ありがとう。
龍造寺は玄海には自身の水軍を作ら/れなかっただけか。

473 :
今日者疎津表変排申候少相残候条、明日も罷出・可佛之覚悟候ス濱城普請・報成就候・可御心安候、又方角働日限等、目是可申候、
殊更、至其元陣替之儀、是又、日限自是可申候・恐く謹言
                                                                  山城守一月廿六日  『佐賀県史料集成10巻』
きちんと読み切れてないので恐縮だけど天正5年前後に隆信が長信宛に出した書状
浜城(=伊万里城)の普請についてかなり急がせている様子
伊万里が政家→高房→勝茂と代々当主の直轄領になっていることから、隆信が天正年間に伊万里を直轄地としつつ港の整備に取り掛かり
大凡15年後には軍港として機能するようになっていたのではなかろうかと
朝鮮出兵のとき龍造寺家は名護屋から30キロ離れた浜城に本陣を置いて活動しているので
とにかく玄海側の水軍拠点を持つことに意欲的であったのは間違いないと思う

474 :
2ちゃんの関係スレって
鍋島の子孫が書いてるのかって疑うレベルだよね。

475 :
県資料って閉架だろうし、そもそも原文から読まないとだし、佐賀限定だし
もう、その細かさがいいね

476 :
>>471
そういえば宗氏の水軍って話題になることが少ないな。

477 :
>>474
鍋島は幕末には欧米列強に匹敵するサイバー部隊やネット工作員部隊を持っていたとされている。
(民明書房「ツイッターは鳥羽伏見の戦いをどう伝えたか?」より)


478 :
>>473
準備はしていたけど実戦力には育っていなかったんだろうか。
>>474
確かに資料の引用をよく見かけるようなw
>>476
少弐と絡んで博多に来てた頃以降、何してたんだろう。

479 :
鍋島家の歴史は龍造寺なしではありえないから
鍋島家の研究家はそのまま龍造寺の研究家でもあるんだよな
ついでに言えば両方あっての佐賀の歴史なんだからどっちかに偏ってるわけでもない
すべては歴史という流れの中の過去の出来事
どっちかに偏ってるように見えるのは、他人ではなく「自分」が歴史を感情で見てるからだよ

水軍に関して
松浦との関係は臣従というよりは実質は盟友といった感じだったろうし
(形として臣従してる以上、上下関係はあっただろうけど。神代家ともそんな感じだったし)
その玄海域の利権を直接奪うような真似ができたかは私は疑問に思う
じゃあ伊万里の城は何のためだって言われたら困るんだけど・・・

480 :
貿易とかは?
古伊万里とか輸出してたんじゃん?

481 :
龍造寺や鍋島って周りの国に比べて海外貿易してるってイメージないんだけど、
やっぱあの地域だとキリシタンとかもいたの?

482 :
松浦行ったことあるけど今でもほっそい山道を延々と走らされるし、海路中心だったんだろうなあって思った

483 :
伊万里城を落としたのち、城を固め、鍋島信房(直茂の弟)を城番へ置いたのも
武雄の後藤を牽制するためで西肥前攻略(有馬、平井氏)の布石。
鍋島信房の三男茂成が伊万里姓を継承し、伊万里鍋島氏は代々着座の身分。

484 :
>>479
> 松浦との関係は臣従というよりは実質は盟友といった感じだったろうし

形式上は臣下だが、実際は半独立勢力ということだよな。
佐竹氏と真壁氏・江戸氏の関係もそういう感じだな。
でも一緒に戦場に出陣した場合には「指揮下」に入って「指図」を受ける関係だったのかもしれない。
東日本ではそういう例がある。

485 :
平井氏は天正二年12月末に須古城陥落と共に滅亡
松浦党伊万里氏は天正四年9月に伊万里城を攻略され一族は武雄後藤氏のもとに落ち延びた
後藤氏も天正二年に養子の惟明(松浦隆信二男)が謀反を起こし貴明が城を追われたが
貴明に乞われ出兵した龍造寺軍により惟明が平戸へ逃走した
これにより牛津川以西・横辺田・志久一円を多久長信への割譲と
貴明の実子晴明を質とする約定が交わされる
これで一旦後顧の憂いがなくなった貴明は武雄の南の嬉野直通を攻撃
しかし嬉野直通は以前から龍造寺に対して臣従する旨の密約をしており
恐らくは龍造寺の援軍を期待して野戦を挑んのだろうが、逆に討たれてしまった
(余談:嬉野は後年大規模な隠れキリシタン村ができたが佐賀藩により滅ぼされたらしい)
嬉野氏の打撃等を受け、上記約定は締結から丸一年で破綻し双方領土の侵犯を再開
だが一ヶ月程で貴明は劣勢にたたされ、龍造寺により居城塚崎城下を占拠された
城下まで迫った隆信だが貴明が塁を固め出て来ないので城下を焼き払うと天正四年12月末に帰陣
そうして翌年二月には晴明が隆信の養子へ、家信が貴明の養子に入り武雄塚崎城主となり
後藤氏に匿われていた松浦党伊万里氏はそのまま後藤家信の家臣となった

486 :
>>483
信房はお兄ちゃんだね。
伊万里城整備は玄界灘方面対策じゃなく、武雄包囲網ということか。
>>484
松浦はどうか知らないが、「形式上対等で実質従属」という例がある。
従属=半独立なんだが、形式上も臣下じゃない場合がある。
「一緒に戦場に出陣した場合には」以下は同じだと思う。

487 :
>>486
> 「形式上対等で実質従属」という例がある。

織田・徳川とか、一時期の後北条・里見だな。

488 :
平戸松浦が龍軍に従軍する時は『松浦党』として行動している
その時は相神浦盛(佐世保市相浦)・山代虎王丸(伊万里市山代)・平戸鎮信(平戸市平戸)の三名が党の代表として選ばれ党員を率い龍造寺の指揮下で動いた
この代表者を複数名選ぶやり方は松浦党が遠出する場合の古くからの慣習で
源平の頃から同様の方法をとっていた

489 :
松浦家の当主って、東アジアの貿易史の教授やってたと思ったけどどうだったっけ
鍋島は東京でゴルフ関係の会長やってたはずだが

490 :
>>487
龍造寺の場合、西郷ね。
このスレで既出かもしれないが。

491 :
>>489
宗氏の当主は教員やっているらしい。

492 :
鍋島宗家の先々代と先代は日本ゴルフ協会の理事

493 :
そうけ、知らんかったわ。

494 :
2011年刊行で戦国九州を扱った書籍のタイトルわかる人、いらっしゃる?
8,000円くらい。

495 :
>>479
かっこよくキメたところ悪いけど、あんたが言えることじゃないだろ。
あんたの歴史に対する理想はそうかもしれないが、万人がそうとは限らない。
歴史を感情で見る人がいるのと同じように、歴史を感情で語る人もいる。
なるべく抑えてほしいけどな。

496 :
鯖復活

497 :
8,000円か…趣味程度にはキツいかな…

498 :
前スレでは龍造寺宗家の人が書き込みしてくれてたな
なにされている方かは知らないけど


499 :
>>498
佐竹とか細川みたいに選挙に出ればいいのにな。

500 :
大村氏も市長やってたな

501 :
井伊氏も彦根市長やっていた。

502 :
鹿島支藩15代の直紹さんは佐賀県知事、国務大臣(科学技術庁長官)を歴任してる。
鹿島鍋島家の菩提寺(普明寺)を探索してたら直紹さんの墓もあった。

503 :
>>502
自民党三木派だったみたいだな。

504 :
 隆信−政家−高房−伯庵季明の子孫です。皆様が龍家についてお取り上げになって下さっていること、感謝します。
ありがとうございます。

505 :
>>504
\(・o・)/ おー、どうもです!

506 :
竜造寺の歴代宗家って
13康家→14胤家→15家和
っであってる?
前スレで貼ってあったんだけど
龍造寺隠岐守康家 龍造寺家氏ノ子 拾三代龍造寺宗家 隠居ヲ機ニ家兼ト共ニ水ヶ江城ェ移住ス
龍造寺豊前守胤家 龍造寺康家ノ子 拾四代龍造寺宗家 ノチ廃嫡 佐嘉郡本行寺ノ開基
龍造寺隠岐守家和 龍造寺康家ノ弟 家員 右衛門太夫 拾五代龍造寺宗家

507 :
隆慶一郎の死ぬことと見つけたりで、伯庵の扱いが怖かった

508 :
wowwowのテニスの実況でよく出てくるアナウンサーに鍋島さんて居るな
茂の字が名前についてた

509 :
ググって見たら>>502のお孫さんだった

510 :
そういや、鍋島直茂の肖像画ってなんで中華っぽいんだろ

511 :
>>510
どの肖像画?

512 :
帰化人なんじゃね

513 :
多分これのことかと
http://tjsaga.co.jp/tjs/event/event_shosai.php?eid=1330&area=1

514 :
正面像はだいたい仏様を描くときに使う
つまりこの肖像画は佐賀藩のご本尊となるべく描かれたもの
同じ事例に義弘の肖像も正面像で描いてある

515 :
>>514
たしかに座ってる台座(名称わからん)がうちの仏像と同じだわ。
家康も正面向きのがあるな。家光が拝むために描かせたとか。

516 :
本尊用として描かれてるのか。これまで単に中国っぽい方が当時は箔が付くのかなーって思ってた

517 :
鍋島直茂はこんな感じで家臣を集めて説教してたのかな
http://www.terakoya.com/amidakyo/r_amida_01.html

518 :
龍造寺系家臣の前ではそういうカッコで居なきゃいけなかったから
「大名とか辞めたい……」って手紙に書いたんですね

519 :
そういやその手紙って誰にあてた手紙?なん

520 :
>>481
深堀鍋島家が隠れキリシタンを匿ってた話は有名。
あと諫早領内にも隠れキリシタンが多数潜伏していた
といわれていて
大村藩が諫早領の喜々津村に侵攻して
宣教師を捕らえて処刑する事件も起きてる。

521 :
うちは龍造寺氏の末裔。
といっても、胤家からの末裔だから隆信とは全然関係無いけど。

522 :
龍造寺氏大系図
http://www2.harimaya.com/sengoku/kz/ryu_kz.pdf
>>521
胤家からどの流れになるの?

523 :
有名人の子孫とか全く興味持てないんだけど、需要あるんだね。不思議。

524 :
このスレなんかがきっかけで末裔同士実際に会ったりするから分からんもんだよ

525 :
>>522
胤知だよ。
近所の寺には当時から現代に至るまでの家系図までちゃんと残ってる。
ちなみに家紋は16枚菊なんだけど、日立紋から変わってこの家紋になったんだろうかと興味がある。

526 :
>>525
胤知に凄く興味があるので教えて下さい
名前を龍造寺から変名した理由って何故ですか
龍造寺家の中で1番早く名捨てしてるよね
兄弟のなかで胤知だけ戦功もないようだし病弱で仏門に入ったとかなのかな
龍造寺右京亮胤直 龍造寺胤家ノ子 有馬勢トノ藤津冬野原合戰ニテ奮戦ス
◎龍造寺対馬守胤知 龍造寺胤家ノ子
龍造寺伯耆守盛家 龍造寺胤家ノ養子 高木右京太夫満兼ノ子 入道日勇 鶴田勢トノ松浦龍川合戰ニテ奮戦ス


527 :
>>527
さすがに、改姓の理由までは家系図に載ってないので不明です。
うちは分家だから、あれだけど本家に聞いてみたけど何も知らないそうです。
ちなみに、本家は今はぶどう園を営んでおります。

528 :
上司の鍋島姓が本当に関係あるのか知らんが偉そうにお家自慢するのがうぜえ
うちは深溝の流れだから、佐賀藩は嫌いなんだよ

529 :
>>527
本家にまで聞いてくれてわざわざ有り難う
父親の胤家も研究するには面白い人だ
1473年 家督相続し当主に(25年)
1498年 敗戦して筑前に亡命(6年)
1504年 肥前に帰還
25年間も当主だったのに闇に消されているのは不思議
無かった事にするには長過ぎだと感じるし違和感がある
龍造寺家のアンタッチャブルなのか


530 :
関係ないけどお家自慢するやつのウザさには同意w
俺の知ってるやつがね
先祖が日本史にちょっと詳しい人なら誰でも知ってる有名人だからって
何かあると必ずそれを話題に出して
「○○家のせいでうちは滅亡の淵に立たされた」とか
「○○天皇がうちの力を頼って無茶振りしなければ・・・」とか
まるで自分のことのようにしゃべるw
そんで先祖が領有してた場所をドライブなんかしてた日にゃ
「このあたりは本当は全部私のものなんだけどなあ・・・」って
おまえ別に本家筋でもないだろうが!!
いやまぁ、俺の嫁なんだけどさ・・・すまん愚痴だw

531 :
永正元年(1504年)って龍造寺にとって記念すべき年だね。
資元が少弐当主になった年だけど、胤家が筑前から戻り、隆信の父周家が生まれ、
胤家の子胤知が資元の命にて筑後へ出陣した。

532 :
>>531
龍造寺史に詳しそうですね
> 胤知が資元の命にて筑後へ出陣した。
って他の一族も参陣してたのかな

533 :
探題渋川一族を掃討する出征なので一族の大半は随行していたんではないかな
ただ大将は胤知だけど軍事指揮は家兼が執ってる

534 :
>>533
胤知が大将って驚き
兄の胤直よりも実は胤知の方が次期当主扱いされてた?
家系図の史料とかでは省かれているから戦功の無い人だと思っていた
胤家系は面白いなあ

535 :
>>534
戦国武将の中には「内政や外交はそこそこできるが、戦闘指揮は下手」という人もいたからなあ。

536 :
鍋島って化け猫の話しか知らない(´・ω・`)

537 :
隆信「クマクマッ クマ 俺のスレより3倍くらいはやってるクマ。」

538 :
1497年に太宰大弐を得た大内義興の攻勢に敗れ
少弐政資が嫡男高経共々死亡し少弐家が一旦滅亡
ここで困ったのは少弐方として戦っていた龍造寺家で
徹底抗戦派(胤家派)と恭順派(家和派)に家中が分裂し抗戦派は一族会議で恭順派に圧しきられた様だ
しかし1498年、西千葉家高田城が大内方につく筑紫・東氏に攻撃され
これをみた胤家は家和派の制止を振り切り抗戦派の地侍(成富・木塚・太田等)を率いて筑紫・東氏を夜襲、退ける
だが胤家は続く東千葉家の攻撃に敗退したことで家中での立場を失い
妻の実家である天満宮権宮司小鳥居氏を頼り筑前へ落ち延びたのである
胤家が肥前へ戻れたのは少弐資元が少弐氏再興の旗揚げをした1504年の事だった
これで胤家は大財に入った様だがその後の足跡はよくわからないが
弟の家兼が1504年時点で満50歳なので程無く亡くなったものと考えられる

539 :
佐賀に土地勘全くないんだけど大財端城ってどこにあったの?
胤家は本行寺をに建立してるから1518年までは生きてるね

540 :
大財端城瑞エ心院
住所はたしか大財の二丁目
位置的に村中城北側の外堀側にあった出城のよう

541 :
村中城その他のいろんな城、堀を
統合拡張したものが佐賀城ってことなんです?

542 :
当時、大財(宝)端の城主は胤家派だった木塚直喜だね。
隆信着到帳では木塚尾張守直喜の領地は200町
胤知は筑後で起きた大友×大内の合戦に、大友方へ加勢を命じられ、出陣したが途中から大内方へ寝返った。
結果は大友方の勝利で、胤知は叛乱者となり佐嘉には帰れないし、竹野郡森部村(久留米市田主丸町)に隠れ住んだ。
この時、龍造寺姓を捨て久富と名乗っている。

543 :
>>539
>大財端城
名前がかっこいい

544 :
永正の政変で中央情勢が変化し大内もゾンビの様な少弐と際限なく戦闘をする暇がなくなり
停戦のため永らく絶縁状態だった足利と少弐を復縁させる事を画策し実行
このおり大内少弐に随伴して龍造寺家も上洛する事になった

545 :
清心院って調べたら胤家の子の斎亮っていたようだけど、家系図には載ってないよね
龍造寺の家系図って信憑性低いのかな
>>542
胤知のその戦って何年にあったの?
馬場合戦で一族殺された時に戻ればよかったのにね


546 :
清心院斎亮は法名

547 :
胤家は永正元年(1504)大宝端城へ入ったのち城の鬼門に清心院を建てた。
永正5年(1508)に旧少弐館(与賀城)へ入り以来与賀龍造寺家と云われた。
>>545
文亀2年(1502)筑後で星野重泰(生葉妙見城主)が大内へ味方して篭城し、永正元年(1504)胤知も命により出陣した。
しかし数万の大友勢が囲っても落とせず、決着したのが永正11年(1514)で12年間を費やした。
永正14年(1517)今度は川崎鑑実(上妻犬尾城主)が大友へ謀反起こすと、高良山・蒲池・西牟田などの豪族と共に
胤知は大内軍に加勢したが永正16年(1519)鎮圧された。

548 :
ここで出てくる星野氏と川崎氏は黒木氏を惣領とする調一党の一員で
西筑後に古くから割拠し戦国時代には党全体で推定五万石ほどの所領を持っていた
ただ一族としてのまとまりは無く秀吉の仕置でその所領を全て失ったが
その後は三家とも龍造寺家臣、佐賀藩士として存続した

549 :
>>546
確かに斎亮って僧名ぽいから違和感があった
胤家の息子なら「胤」の字が付くはずなんだけど
当時の当主の実子なら他の史料には出てないのかな
>>547
とても詳しくありがと
胤知に関しては大体分かる事が出来ました
兄弟の胤直、盛家は1544年に馬場に殺されているけど
それまでの戦功があったら教えて下さい

550 :


551 :
高祖父は白石鍋島家の石丸。文化文政時代藩政改革した、家老鍋島直章の側付きだったようです。
妻は直章の娘です。

552 :
葉隠れに書かれているのですが、石丸安之が白石鍋島家の家臣になったようです。
佐賀藩直参石丸六兵衛の系図の中に石丸安之がいるのですが、初めのところに
竜造寺豊前守胤家御末とあります。胤家の子孫ということらしいのです。

553 :
清心院に行ってみます。
本行寺には、石丸霊廟があります。
石丸備後守と彫っていて、佐賀藩直参の石丸六兵衛の系図に
石丸備後守六兵衛とあるのです。代々名前が彫っていますが
ただ途中からどうも系図とは違っています。直系のお墓がどこかにあるはず。
清心院か?途中で養子を迎えているようですから、その関係のところか?

554 :
龍造寺家就が秀吉と直談判して諫早貰ったてマジ?

555 :
私が探した、佐賀の乱の時の古文書に、曾祖母の弟とともに白石鍋島家の家臣 深堀豹蔵の名が署名してあった。
彼の妻は、須古宮内家の二女だとある。宮内家とは須古本家の分家、東と西があり西家を宮内家と言うらしい。
家紋は鍔に小槌紋。これは長崎の深堀鍋島家の紋。珍しいです。

556 :
須古鍋島は竜造寺系ですよね?

557 :
>>552
本藩の配分帳なら手元にあるので石丸六兵衛について確認
神埼郡崎村郷快楽村 石丸六兵衛 四十二石余
石丸家が胤家後裔というのは興味深いので気長に調べて頂けたらと
>>554
それは家就ではなく家晴で
柳川を九州国割で失ったので代替地に諫早をという経緯
>>556
須古家は龍造寺信周系

558 :
本行寺で聞いたけど、本行寺は胤家を祀って建てられたらしく、
石丸家は末裔の一つらしい。
一角に成富兵庫の養子になった、白石鍋島家の鍋島直弘の墓所がある。
直葉隠聞書第六702に、直弘没時、殉死禁止令が出て、その時に中止するよう、進言したのが
石丸安之か、この子石丸采女(その後石丸清左衛門)であると、書いているの
で、戸籍で確認した曾祖母の実家の白石鍋島家の石丸家が、この石丸安之に
つながっていると、思うのです。石丸頼母ー石丸弥六(嘉永)は着到帳で確認、石丸弥六は
戸籍で確認。石丸安之から石丸頼母までは不明。
もしよろしければ557さんメールください。noricyannjp@yahoo.co.jp

559 :
石丸六兵衛の着到帳の最後、虎五郎が、明治政府の電信頭
石丸安世です。

560 :
>557様
私の持っている系図とは少し違うようですね。
崎村郷…というのは載っていません。佐賀県立図書館の系図なんですが
これには竜造寺豊前守胤家公之御末 石丸備後守と書いていています

561 :
上の竜造寺大系図http://www2.harimaya.com/sengoku/kz/ryu_kz.pdf
の中に、藤井、村上という姓を名のったと書いているが
こちらも本行寺。石丸の近く。なぜ上の系図に石丸がないのか、不明。

562 :
上の系図中にたった一つ、鎮家のところに何も書いていない
これが石丸なのか?

563 :
今系図見たら、法名が常秀とあり、常の字が2代続いている

564 :
竜造寺備後守を検索すると、竜造寺鎮家になる。
上のことからして、石丸備後守六兵衛の系図は、
佐賀藩に提出しているの系図で
官職が付いているということは、それなりの地位にあった
者だろうと、以前学者の先生に聞いたことがあった。
竜造寺大系図の中の鎮家は、断絶したとどこかで見たけど
石丸だったのではないかと思う。

565 :
>>557
だから直談判したのはマジなの?
精々官兵衛じゃなくの?

566 :
というより秀吉は直に会いに来ない奴の領地の保証なんてしないし認めない

567 :
その件に関して宣教師側の視点
本年(1587年)暴君が博多にいた時に彼は伊佐早(西郷信尚)に関してよからぬ報告に接したので、
伊佐早からその城と領地および封禄を没収する事件が生じた。
関白はそれらを家晴と称する他の殿に授与した。
そして肥後の成政に対する反乱の鎮圧に家晴が出向いている間に、
伊佐早(西郷)が有馬殿の援助で伊佐早の城を回復して金、銀、武器を収めたが、
帰還した軍によって全く滅ぼされた。
フロイス日本史11
イエズス会日本年報

568 :
◆天正15年(1587年)6月18日 秀吉 九州知行割を発表。
筑後 御井・御原郡                    小早川隆景(名島)
   山本・竹野・生葉郡       130、000石  毛利秀包(久留米)※隆景の弟
   山門・三瀦・下妻郡       132、200石  立花宗茂(柳川)
   三池郡              18、100石  立花直次(内山)※宗茂の弟
   上妻郡              18、000石  筑紫広門(山下)
肥前 基肄と養父の半郡                 小早川隆景(名島)
   三根・神崎・佐嘉・杵島・藤津  309、902石  龍造寺政家(佐嘉)
   小城・西松浦郡       
   養父半郡      5,700石  鍋島信生
   松浦郡             60,000石  波多信親(岸岳)
   松浦郡             63,200石  松浦鎮信(平戸)
   高来郡             40,000石  有馬晴純(日ノ江)
   彼杵郡             27,900石  大村喜前(大村)
   長崎                秀吉直轄地

569 :
>>567
有馬改易やんか

570 :
>>549
盛家の戦功は永正11年(1513)小城東尚盛との合戦、享禄3年(1530)野路宿(田手畷)合戦
天文3年(1534)有馬勢との多久城合戦など多々ある。
天文11年(1542)に千葉(小栗)八幡宮へ奉納した鐘には少弐冬尚、馬場頼周、江上元種、筑紫惟門
宗本盛、小田政光と、家兼を筆頭に主な龍造寺一門の中に盛家の名前もある。
胤直については調べた限りでは見当たらず。

571 :
>570様
石丸が胤直からの家だとすると、以前ネットで教えてもらったのですが
記録として残っている名前が
石丸彌次郎だったと思います。
私の高祖父は戸籍で確認したところ石丸彌六。この彌の字と石丸六兵衛の六
です。

572 :
伊佐早氏って滅亡して残党が北陸に逃げた割に地名は残ってるんだな。

573 :
>>572
わざわざ北陸まで逃げたってのは凄いよな。

574 :
>>573
つてがあったにしても、逆になぜそこに、なぜそこにしかない、ってレベルだよな

575 :
>>570
どうもです
調べたら胤知が長男で胤直が次男だったよ
どうりで胤知の方が大将になるはずだ
しかし大系図は参考にならないね
なんでだろ

576 :
上杉家臣に家伝で諫早の元領主らしい伊佐早ってのが居るんだな
初めて知った

577 :
諫早の字は家晴が伊佐早から改めたんだっけ?

578 :
三文字より二文字の方が楽だから変えたんだろうな

579 :
諌めるのが早いって、なんか色々思うところある地名だよね

580 :
早すぎるのを諌めるのかも

581 :
千々石家も龍造寺に滅ぼされた後にミゲルが頑張ったけど駄目だった
しかも、明治維新後に楠家系統の橘中佐に地名乗っ取られてるし

582 :
元亀元年(1570)藤津郡横造城への攻撃で千々石直員(ミゲル父)が戦死
天正五年(1577)高来郡釜蓋城攻撃で千々石澄員(ミゲル兄)が戦死
千々石家はいろいろ記述が錯綜している史料も多いけど
1577年には千々石領主としては滅亡していたらしい
天正遣欧使節も窮地にたたされていたキリシタン大名はじめ諸勢力の挽回策としての側面と
布教進捗が芳しくないイエズス会の思惑が一致したから行われたもの
日向の伊東と大友の関係は言うに及ばず千々石領も1000石弱の収益がある有馬配下の小豪族であったし
中浦も90石程度の地侍、原も同程度の波佐見の地侍で大村家臣だった

583 :
な〜に、波多鎮の波多家が6万石もあっただと?

584 :
龍造寺が把握していた波多領は七千町、豊臣が来た時の差出検地の提出値は六万三千石
元和に寺沢が検地した時は八万二千石だったので
振れ幅から最初の七千町というのは波多家自身が把握出来ていた数値として誤魔化してはいない、と言える範囲

585 :
波多を継ぐ予定だった龍造寺弥三郎はその後どうなったんでしょ?

586 :
>>582
>元亀元年(1570)藤津郡横造城への攻撃で千々石直員(ミゲル父)が戦死
元亀元年(1570)は今山合戦だね。
それはさておき、千々石直員の名前が横造城合戦記(天正4年)に出て来ないのは何故だろうか。
「嬉野越後宗佐伝」には、天正元年藤津郡塩田で有馬勢と後藤貴明の合戦の折、
日吉城の城代だった千々石直員を嬉野勢が下野辺田で討ち取ったとあるし、よく分からないね。
>>585
弥三郎(孫三郎)は安子(秀の前)と共に佐嘉へ帰ったが、間もなく夭折したらしい。
安子も追って一生を終えた(慶長4年)説と天寿を全うした(寛永元年)説があるんだよね。
また安子は秀吉の計らいで小倉城主の毛利家へ嫁いだとも云われてるね。

587 :
鍋島五兄弟の領地が併せて2130町とは、隆信はちと与え過ぎと違う
平戸の松浦氏2000町、大村の大村氏2000町より多いんだよな

588 :
少し話し反れるけど、龍造寺隆信所用と伝わる甲冑は江戸期製作の可能性が高いって本当?

589 :
理由も書かんただの推測だと意味がない

590 :
>>588
どこで入手した情報なんだよ。まずそういう根拠を示してくれないと。

591 :
>>588
甲冑マニアの自分が答えましょう。
ずばり本当です。
だから、龍造寺隆信所用ではなく、伝・龍造寺隆信所用が正解。
@大将が使用する具足としては非常に簡素な作りで、日立紋等の家紋も見当たらない。
A兜に試し撃ちの痕があるが、試し撃ちを始めたのは江戸になってから。
B隆信は非常に体格が良かったとあるが、実際の具足は小さい。
C具足櫃が非常に新しく、櫃に書かれた隆信所用とする伝承は後世の捏造の可能性が高い。
D面頬の形状は江戸期に多く見られたもので、桃山期のものとは考えにくい。
以上のことからも、江戸期の作品がいつの間にか隆信所用にすり替わった可能性が高いです。
ただ、隆信に限らず所有者の伝来を勝手につけることは当時非常に多く、有名な明智光春の具足や豊臣秀吉所用と伝わる馬藺の兜も江戸期作製品です。

592 :
なるほど〜
甲冑マニア いるんだな

593 :
陪々臣が所持してた事になってた馬蘭兜と
直系子孫が所持してた鎧じゃ事情が違くね

594 :
>>591
具体的にどの甲冑の話だかも教えてくれんかね

595 :
>>594
佐賀県立博物館にある龍造寺隆信所用と言われる紺糸威桶側二枚胴具足ですよ。
更に付け加えるなら、佩盾は本来の物ではなく後で補った可能性もあります。
試し撃ちを行った具足は桶側胴や南蛮胴、五枚胴であることが多く、この隆信所用と伝わる甲冑も元々は試し撃ち用のためだけに作られた可能性があります。
>>593
子孫ですらも、先祖の威厳を守る意味で結構捏造したりしてました。
有名なのは天童藩織田家に伝わる信長所用と言われる紺糸威胴丸具足も江戸中期〜幕末頃の作品です。
あと、本多忠勝のあの有名な獅子兜の具足も江戸初期〜中期の作品ですし。

596 :
具足は大名の儀礼用として不可欠だから、
家にないと、格好がつかないものでもあるのかと。

597 :
確実に隆信所要の鎧が欲しいなら雲仙で墓暴きするぐらいしかないなw

598 :
最近、大分で大友宗麟を知らない人が多いってニュースが流れてたけど、
大分での大友宗麟と佐賀での龍造寺隆信って、
@ どっちが認識されてない率が高いの?
A 地元博物館などでの扱いは、どっちが大きいの?
B 地元小学校等での歴史学習はどんななの?
大分・佐賀両方に住んだことある人、おせーて!

599 :
隆信の鎧兜は鍋島が全て廃棄したんだろ

600 :
佐賀市ならどうなんだろうなあ
武雄(山内)民は幕末武雄鍋島についてしか知りませんですた

601 :
・成富兵庫と堤防
・佐野常民と日本赤十字
・伊東玄朴と牛痘
『地元のえらい人とその偉業』として小学校のとき習った記憶があるのはこれら
成富兵庫は江戸時代の人と教えられたので
けっこう長いこと戦国時代に生きた人だとは知らなかった
先生が余程戦国時代好きじゃなければ龍造寺時代の話はとりあげないと思う
宗麟は高校で日本史専修すればキリシタン大名として高頻度で出るし
佐賀の内外問わず認知度は龍造寺の方が低いんじゃないかな
隆信は興味が有るなら知ってる人は知ってるという程度
下手すれば有馬晴信や大村純忠より認知度低い(天正遣欧少年使節で教科書に名前が出るので)

602 :
>>598
簡単に言えば、隆信ではそんなニュースあり得ない。

603 :
戦時に供出された閑叟さんの銅像は再建運動があるのに対して
同時に供出された日峯さんの銅像はそういう話が全くあがらない

604 :
鍋島好きで佐賀まで旅行にいったんだけど
確かに地元じゃ日峯さまは影薄いのな…
お墓探すのに藪掻き分けて歩いたし、
松原神社の人に「珍しいですね」って言われて
ちょっと切なかった

605 :
隆信も四天王(なぜか5に以下略)も直茂も、あくまで戦国ファンの間でしか知られてないし
観光資源として売り出すには弱いしってなもんで。
佐賀としては、より知名度の高い幕末をRュしてるせいで
戦国期があえてスルーされてるっていうのはあるよね。
その幕末Rュだって成功してないしw

606 :
>>605
どちらかと言うと維新Rュだな。ファンが多いいわゆる「幕末」には
佐賀は地味。
全国の幕末動乱を無視して一人で維新してた感じ。

607 :
三重津が世界遺産に本当に登録されたら流れも変わるんじゃない?
佐賀県HP知事への提言にあった意見に名護屋城の陣跡に
アイフォンのアプリで武将が出るようにしたらどうかっていうやつあった
そういうことができたらまた違うかもねえ

608 :
>>601
ありがとうございました、納得です
成富兵庫北茂安は習った覚えがありますが、それ以外は全く覚えてないww
>>602
隆信って地元民にとってどうでもいい存在なのか、それとも嫌われているのか・・・ww

AやBもごぞんじの方がいらっしゃったらお願いしますw
Aはいつか見に行こうと思ってるので比較しようとは思いますが、
なかなか行く機会がないなぁw

609 :
>>604
藪掻き分けて誰の墓探しに行ったの?

610 :
ひなまつりは頑張ってるし、佐賀市内の観光客は増えてる気がする
鍋島関係(?)なら、「葉隠れ・えびす・鍋島文様」 あたりはもっと活用できそうだけど

611 :
>>608
北茂安ワロタ
単純な話、大友は「日本人なら誰でも習った」レベルの一般常識。博物館でも
主役と言える。
龍造寺は鍋島が優先される。佐賀城本丸歴史館なんて、鍋島時代だけのためみ
たいな施設もあるくらい。
隆信がどうでもいいとか嫌いとか以前に、「歴史ネタ」という枠でより優先さ
れるものがあると、いろいろな「予算」がそっち偏重になってしまう。
広報や教育がされないと、地元民でも知らない、なんてことになる。

612 :
>>609
日峯さん…というか、鍋島、龍造寺家一門のお墓
お寺の道が藪と梅の枝で覆われてて、歩きづらかった

613 :
>>603
直正公の銅像の台座って、
旧牛津町役場の駐車場にあるやつだっけ?
隆信公の台座は、どこにあるんだろ。

614 :
そういや龍造寺の存在を知ったのは、信長の野望で自分の住んでる所だからってのが始まりだったな

615 :
>>612
高傳寺だろうと思うが、そんなに管理が悪いとは住職はなにやってるんだろか
>>613
隆信の銅像って昔はあったの?

616 :
そういえば県立図書館のデータベースで直茂の銅像の写真見れるね

617 :
>>606
司馬遼太郎の「歳月」はNHKでドラマ化してもおかしくない。

618 :
俺のころは小学校か中学校の副教材で郷土の歴史の小冊子があって
隆信の「5州2島の太守」、直茂の今山の奇襲は載ってた。
・・・だがそもそもその冊子自体を授業で使ったことがなかったw

619 :
>>618
郷土史の授業義務付けろって思うわ
年5コマくらいでいいから。

620 :
>>615
直茂公と間違えました。すいません。

621 :
直茂は公で隆信は呼び捨てか…

622 :
>>621
613と620書き込みしました。
ウチではどっちも「公」つけてます。

623 :
泥棒猫に公なんて付ける必要ないだろ。

624 :
頭悪いやつの言葉なんて読みたくない

625 :
いろんな人間がいるからな
どっちも歴史上の郷土の偉人なのに誇れない人間性に憐れみを覚える

626 :
昨日本行寺で確認しました。
14代竜造寺豊前守胤家→○→○→竜造寺備後守鎮家(改姓石丸とありました)

627 :
清心院行きましたが、たいしたところではありませんでした。
門扉もしまってましたし。

628 :
>>598
大分県民です。佐賀に住んだ事がないのでこちらの現状だけ報告します。
@だいたいの大分県民は宗麟の名前くらいは聞いた事があるというレベル。
 おそらく戦国大名という事すらわかってないと思われる。
A先哲資料館や大分市歴史資料館でたまに宗麟の展示をやっている。
B現在大分市は学校で使う宗麟の副読本を製作中。
※府内戦紙とかいう何処かの祭りのマネものでは、山車に宗麟と道雪がほぼ毎年登場。
しかしなぜか全国のメジャー武将の山車も登場するため影はうすい。

629 :
>>628
自分たちの手で有名にするんだ、くらいの気概が欲しいよな。
大友二十四将創っちゃうとかさ。

630 :
武田なんて滅亡したけど、風林火山だの赤備えだの未だにネームバリューは凄いからなあ
大友って、なんか売りになるオリジナル要素無いもんかと考えたけど、キリシタンと国崩しあたりに活路を見いだせないもんだろうか

631 :
まぁ大友は形だけとはいえ一度は九州の大半を勢力下に治めたんだから
それだけでも大したものだよね。
それに家臣だって全国のどこに出しても恥ずかしくないのが揃ってるし。
実績に比して評価が少ないのはやはり晩年が原因かなあ。
龍造寺も若いときは野心溢れるドラマ性のある大名なんだがやはり晩節がね・・・
龍造寺売り出すには何に活路を見出せばよいものかな?

632 :
学術的な再調査や精査も終わってないうちから商業的に売り出すのはやめて欲しい
一般的な印象が固定化されるとどうしてもそれに引き摺られる

633 :
終わってないと言っても400年以上過去のことなので完全に調査できるはずもなく
新たな資料が出るかもしれないとか言ってたらそもそも歴史学なんて何もできなくなるよ。
それに一般的に分かりやすいイメージを打ち出すっていうのはとても大切で
そのイメージが固定化されたときこそ広報戦略は成功したとも言えるんだよね。
(良いイメージに限ってだけど)
まぁあくまでもし売り出すならどうしよう、っていう話だから。
今のまま戦国マニアなら知ってる大名という程度の知名度でも別にそれはそれでいいと思うけどね。

634 :
>>631
龍造寺売り出すには何に活路を見出せばよいものかな?
名字がカッコイイ!

635 :
鍋島は猫ステマと葉隠ステマが強力過ぎる

636 :
>>635
隆慶一郎の死ぬことと見つけたりが面白かった

637 :
隆信が生まれて田手畷のあるころから
直茂が柳川で本領安堵受けるくらいまでの小説をいつの日か書きたい

638 :
>>632
言いたいことはわかるが、引きずられないように心掛けるしかない。
633の言うように研究が終わることはないし、間違った形でも有名になって
こそ研究者の裾野が広がったり、予算がついたり、資料が出てきたりするも
の。結果、研究が深まれば固定観念を壊していけばいい。
無名のままだと研究もなかなか進まないよ。
>>631
宣教師が驚いた鉄砲軍団、とか?
それで負けたんだから押しにくいことこの上ないな。
>>635
猫の方はそんなに強力か?講談全盛ならともかく、いまどき猫化け知って
たらそれが荒唐無稽なことぐらいわかると思うが。
>>637
御家裁判あたりの政治闘争も書こうよ

639 :
>>631
龍造寺を売り出す前に、まずは鍋島から売り出そうよ。
佐賀人でも知らない人多いし。

640 :
>>638
物語としてなら綺麗に終わりたいじゃん
描かないという選択肢

641 :
628の大分県民です。
>>637
いいね。以前隆信が主人公の小説を読みたくてさがしてたけど、
小説と勘違いしてアマゾンで佐賀新聞社刊の五州二島の太守龍造寺隆信買った。
自分は宗麟の漫画描きたくて数年前から準備進めてる。

642 :
>>641
直接隆信じゃないけど、田尻鑑種主人公で隆信と絡むマニアックな小説がある。

643 :
幕末に鍋島が点在してた龍造寺家の墓を高伝寺へ移したらしいが余計なことをしたものだ。
折角の遺跡を壊しやがった。

644 :
そうだね。そのまま点在してれば管理が行き届かなくて地元住民の開発で
破壊される危険しかなかったのに、完全消滅だもんね。

645 :
点在していたのを集めたというのなら逆に良いことしたって思ってるだろう
破壊するつもりでやってないのだから仕方ないとも言える
当時は墓を移すなんて良くあることだし
歴史上の遺物を後世に大事に取っておこうという意識はまだないしな

646 :
話はズレるけど世界遺産登録を目指す川副の三重津海軍所跡を見てみろ
ついこないだまで当時の姿がまだ残っていて歴史的に価値が高いと分かっていたのに
調練所の船着場あたりを壊してコンクリートで固めやがったw
その後に世界遺産登録を目指すと言われても地元民には「はぁ?」だよw

647 :
遺産を歴史的なモノとして捉えてるんじゃなくて、集客するモノとて捉えてるんだろ。
お役人さんには小奇麗さや安全さが大事なんじゃないw

648 :
コンビニの歴史人見たら、龍造寺が1512年ぐらいからやたら広い領地持ってたり
関ヶ原周辺の地図で諫早が大村領っぽくなってたり
扱いが雑だなあと感じた

649 :
>>645
>歴史上の遺物を後世に大事に取っておこうという意識はまだない
そんなことは無い。重代の家宝を死ぬほど大事にしてるじゃない。
ただ幕末当時、墓って「保存すべき過去の遺跡」じゃなくて「現在進行形
で使う場」だからね。そこにあり続けるより、供養し続ける方が大事だから。
>>643氏の言いたいことはわかるが、過去の出来事を現代の感覚で批判するな、
というやつだ。戦国武将は全員殺人犯、みたいな。
>>647
>お役人さんには小奇麗さや安全さが大事
その通りだね…世界遺産の意味が分かってない。
>>648
龍造寺の版図は歴史群像シリーズでも適当…なんてレベルじゃないなw

650 :
>>649
645だけど、まぁ誤解されるような書き方したかなーとは書きこんだ瞬間思ったw
歴史的に見て後世に取っておいた方が良いから残す、っていう感覚はないという意味で書いた
つまり壊すか放置するか積極的に残すかを歴史的見地から考えるのではなくて、恣意的に決めてるという意味ね
もちろん地方レベルじゃなく全国レベルの歴史的遺産になると
それを地域領主クラスが手を出すのは憚られるという意識もあったろうけど
でもそんなのでも焼く人は焼くからねえw

651 :
個人個人の宝は大切にしやすいけど、
地域の宝だと利害関係が絡んで来るから難しいんだろうな

652 :
寺は焼くもの

653 :
>>638
つ落日の鷹

654 :
>>646
あれは地元民が危険だから壊せって言うのと
役所の残したいっていうのがぶつかって結局ああなったような

655 :
お役所が勝手に地元の声を代弁して工事を始めるときもあるからねえ
ただどうであれいったん自分たちで壊したものを世界遺産に、とか恥ずかしい事言わないでほしい

656 :
石原伸晃は平成の鍋島猫茂

657 :
ということは龍造寺はガッキーか・・・思いのほか龍造寺の評価が低すぎて笑ったw
おまえよほど龍造寺嫌いなんだなwww

658 :
歴史人に今山の戦いが載ってたね
桐野作人筆
結構離れてるよね何キロくらいあんだろ
やっぱり直茂は凄いなあ

659 :
秀吉と家康に天下を取らせるとは直茂は凄いなあ

660 :
直茂の優秀なところは朝鮮征伐で耳鼻そぎの数が一番だった

661 :
>>658
佐嘉城〜今山は直線で10キロ

今山周辺の地勢について整理すると、嘉瀬川を挟んで東の対面に龍造寺の春日山城が存在
そこから北の川上辺りが当時の神代と龍造寺の勢力境界で、今山自体は嘉瀬川西の小城郡であり千葉領
ここで要点として確認しておきたいのが、鍋島信昌は西千葉家の元養子で部下に多数の千葉氏族を抱えていた点
川上〜今山・春日山周辺は古来から山内勢力と平野勢力の係争地で何度も戦場になっており
当地の人間も何度となく川上〜今山・春日山周辺で戦闘を熟している
つまりは当時の信昌麾下部隊にとって今山は自分達の庭、勝手を知り尽くしている地元だった
それで、今山への夜襲は現地集合での敢行だった可能性を指摘する
平城で兵を集結し、夜行軍からの奇襲というのは流石に発見されるリスクを捨て切れないから
進発をばらけさせ、今山周辺を囲ってからゲリラ的な一斉強襲を選択したのではないかなと

662 :
古来から
戦闘を熟している
ゲリラ的な一斉強襲

663 :
他スレに貼ってあった姉川城
ttp://www.maff.go.jp/j/nousin/sekkei/museum/m_siki/68_anega/img/66_01.jpg
ttp://www.maff.go.jp/j/nousin/sekkei/museum/m_siki/68_anega

664 :
http://goo.gl/maps/q1y7d   http://goo.gl/maps/pNWIQ
姉川城        こっちは姉川城から東の横岳城
http://goo.gl/maps/s5Rxp
三城の中央地点付近にある新宿
http://goo.gl/maps/xLjJB
姉川城の南にある直鳥城
http://homepage3.nifty.com/kencho/picture/map00.jpg
http://homepage3.nifty.com/kencho/sagajyou.htm
http://goo.gl/maps/DY2su
佐嘉城も基本構想は上のものと同じ
http://www.ming-mment.com/Pages/hizenoadshi.aspx
蓮池城(小曲城)のように地勢がよければ天然の水濠要塞を作れる事もある
http://goo.gl/maps/Xd8oZ
柳川城との設計思想の違いを比べてみても面白い
http://goo.gl/maps/HL2mG
こうして比較すると環壕の城としての規模が凄い吉野ケ里
干拓や水利技術が向上して山辺にある古代の巨大環壕(空堀)外土塁から
中世には平野の小規模環濠(水堀)内土塁へと変化していったのが一通り分かる

665 :
>変化していったのが一通り分かる
弥生と中世だけ見てこれかよ
ちゃんちゃらおかしいわ

666 :
鍋島は城なしだったから龍家の佐嘉城を略奪したのか

667 :
鍋島が城なしってのがいまいち納得いかない
当時の社会では厳密な規制があったのだろうか

668 :
龍造寺を龍家って言ったりするのって一般的な用法なん?

669 :
ちゃんぽんかとんこつラーメン作ってそうな肥前の熊だな

670 :
>>668
龍造寺を話題にすることが一般的かはともかく、
書籍でその表記はみたことある

671 :
そういや豊家って言い方も聞いたことがあるな
頭一文字でわかるような家には使うのかしらん

672 :
長家ってなると別の家になるから長宗我部は略できないね

673 :
>>667
清久以前の鍋島氏は富農程度の地侍だから

674 :
>>671
多いとは言えないが、例はあるよな。
高階→高とか、大江→江とか、菅原→菅公とか。

675 :
直茂→猫、家康→狸、秀吉→鼠、綱吉→犬

676 :
http://382a.com/C
http://382a.com/C
http://382a.com/C


677 :
隆信→熊 元就→三 義弘→奸 勘兵衛→禿 半兵衛→病

678 :
>>675
ばーか

679 :
>>671
藤原氏だって『藤氏家伝』なんてものがあるように、そういった
呼び方をする場合がある。どっちかというと、気取った感じ

680 :
佐賀って参勤交代遠くて大変そうだよな

681 :
地方はたいがいそうだから、特に佐賀が大変ってわけでもないだろう
つか九州の大名は半分船旅だしその後は日本一整備された東海道なんだから
まだましじゃないかな
東北の奥地の方とか全部陸路だとしたらそっちがより大変な気もする

682 :
>>680
佐賀は多少免除されてるんだぞ
>>681
東北は基本陸路じゃないか?
太平洋側航路は使いにくいし、日本海側で越後まで行っても結局列島横断だし。

683 :

いやなお客は鍋島 いつも夜泊り七ツ立ち

684 :
へーそんな狂歌みたいのあるんだ。でも鍋島佐賀藩はお金あんまなさそうだし仕方ないのかな

685 :
>>683
なんでそんなに語呂悪いん?
改変でもした?

686 :
本当は鍋島の後に薩摩が付き、街道筋で金を落とさず、すぐ居なくなる両藩を宿場の人間が揶揄したもの
佐賀と福岡は長崎警護で江戸駐在の期間軽減かつ不定期、東北諸藩は蝦夷地警護の場合申し出れば参勤交代免除
対馬藩は三年に一度、松前藩は六年に一度の在江戸交代
参勤交代は原則軍務なので他に外衝に立つ様な事があれば国力に比して負担が減免される
大名行列も本来は準戦時的な行動こそ望まれるものであり軍務が重なっている佐賀藩が急ぐのは当然で
そもそも幕府からして参勤交代で豪奢に走るのを制限する定めを出している

687 :
鍋島の場合は龍造寺一族の支藩も参勤交代で大変だったと聞く

688 :
龍造寺一族の支藩なんてないんだけど

689 :
三支藩は勝茂の息子と弟が初代
全員柳間詰めで二本道具を許されちゃってるから三本槍の本藩と併せて無駄としか思えない出費がかさむ
龍造寺四家は国家老で有り体に言えば参勤せず自領に引きこもってる

690 :
>>686
外衝ってなんぞ
>>687
誰に聞いたん

691 :
間違って覚えてたん

692 :
>>690
外衝に立つ、で外側で守るとか要衝を受け持つとかそういう意味

693 :
長崎でのフェートン号事件で、さすがに鍋島の警護ぶりは見事だった
幕府も感服してたらしい

694 :
こんなところでイヤミ言って何の得があるんだ…
別に快感もないだろ?

695 :
龍造寺も鍋島も同じく郷土の偉人であるということを理解できてない人がいるんだよ
片方を貶めてももう片方の評価が上がるわけじゃないのにね
家系的に鍋島に恨みがあるっていうなら知らんけど

696 :
龍も鍋も好きだけど、偉人とか英雄とか言うのは素直にうなずけんわ
その時代その社会を普通に生きた一般人だろと思う

697 :
一般人が云十万石を維持したまんま普通に生きるって無理だと思うんだ

698 :
頑張ってる中小企業の社長程度のものだろ

699 :
3年の潜伏期間を経て失敗すればその場で腹を切ると宣言し
義勇兵を募り隆信が挙兵したのは27才の時

700 :
当時の隆信は捨扶持三十町の配流人だったが
その30年後になると彼の領地は十二万町にまで拡大していた

701 :
よくそういうミスリードさせる記述あるけど、三十町しか再興の資本が無かった
わけじゃないからな。

702 :
元手に何があったのか書いてくれると嬉しいんだけど

703 :
支援者だろ

704 :
>>703
うれしい?ねぇうれしい?

705 :
嬉野がどうした?

706 :
肥前佐賀

707 :
>>705
おっさんってこんなのが笑えると思ってんの?

708 :
一匹釣れた象

709 :
朝鮮では耳とか鼻がないゾンビが徘徊してたらしが鍋島と関係あるんだろか

710 :
>>709
日本でも同じような死体あるはずなのに、おかしいな

711 :
嬉野がどうした?
これは佐賀ではやる

712 :
うれしのへゆくませられ候て養生肝要に候
隆信書状

713 :
嬉野の語源はうれしいのうらしいからな

714 :
>>713
ちゃんと古い出典があるのか、後世の付会なのか
単なる思いつきを訳知り顔に語るほど馬鹿らしいことはないからな

715 :
神武皇后が名付けたとか地元の爺さんから聞いた
あと、長崎の日見はそこから太陽が見えたからとかも言ってた
明らかに長崎街道を意識してる流れだなあって思ったわ
神武皇后が行基や弘法大師ばりの活躍してる

716 :
温泉碑には『往古神功之自朝鮮凱旋也浴此而疾愈因呼日嬉故名焉』と由来が説明してある
近郊の寺では
『高祖大師渡唐の後日域をまわり霊山を開き諸仏諸場安置の時此の山岳に廻り来り
巌崛を見給うに悪魔悪獣住めり。これに因て岩山に吾が姿を残し置き
定めて人邑と成る可き旨案念し則ち松に腰を休め
自らの形を自作あつて石室に納めああ嬉野と歓喜あり。故に世人伝う嬉野と唱う』
神社だと『日向に至り豊玉姫の御神を勧請し給うとなり而して神慮此の地に降臨ましまし……(中略)
山川兼美の地なり嬉しや此処に鎮座あるべしとの神勅なり。老翁もあな嬉しやと宣う。
その時仮に鎮座し給う松が枝の下を始めて嬉野と言うなり』
判明している範囲の「ウレシノ」初出は
蒙古合戦勲功賞神埼荘配分帳にある『肥前国宇礼志野六郎通氏子息犬童黒童』という名

717 :
よくわからんけどどこぞの偉い女の人が嬉しいのうって言ったからだとかガキの頃から聞いてたぞ

718 :
宇礼志野を嬉野に改称したのは室町時代より後、宇礼志野直通が領主の時期以降のこと
宇礼志野という名前が他にないか調べたが
宇礼志という字を使う河内国の宇礼志荘ぐらいしか見つからなかった
恐らく漢字が日本へ入る前、もともと和語の音に当て字をしたものだと思われる

719 :
>>716
嬉しかった人はいろいろ説があるんだ
その中で古くて権威ある人として神功が選ばれたみたいだな
>>717
今何歳?千何百歳だったら神功説の信憑性が増す
>>718
語源が「嬉しい」である可能性は捨てきれないと思う?

720 :
>>695
くっさー

721 :
嬉野市民の俺がきましたよ
地元が話題になるって珍しいな

722 :
>>721
地元が話題で心楽しい場合、言う言葉は決まってるだろ?

723 :
723

724 :
724

725 :
なにさ
なによ

726 :
地獄を彷徨う直茂
   /△
  (´e`)
  ( ヘヘ
   )_ノ

727 :
今年の大河だから会津のことネットで調べてたら
会津藩士の秋月登之助って人が江上家種の次男が興した家の末裔らしいね
血筋的には原田系になってるけど

728 :
その頃の原田は嫁が二代続けて龍造寺から来てるから
脈絡がない養子というわけでもない
ちなみに江上家種の長男茂美の家系の佐野氏からは佐野常民が出てる
この佐野氏は下野佐野氏の系譜を称しているけど詳しい事は不明

729 :
常民は養子だろ。どうでもいいが‥‥。

730 :
「 佐賀の戦国史 −龍造寺鍋島伝- 」
[内容]
世評における龍造寺氏・鍋島氏について。
日時:平成25年3月23日(土)13:00〜15:00
会場:佐賀城本丸歴史館
外御書院二ノ間・三ノ間
資料代:500円
高校生以下無料  (佐賀城本丸歴史館の入場料は無料)
講師:中西豪 氏
( 作家・歴史家 ・史伝鍋島直茂著者・学研関連執筆中)
後援:佐賀新聞社
佐賀県立佐賀城本丸歴史館
ポスターはアニメ絵ですが、mixiで確認した限りでは、内容は硬派。

731 :
龍造寺-鍋島はそろそろ大河になってもいいと思う

732 :
大河になって、どの場面で盛り上がるんだよw
ドラマな要素がまったく感じられんが・・・

733 :
ピカレスクヒーロー隆信が戦暗殺詐術に欺瞞でライバルを蹴落とし陥れ
最後は主人公が巨悪として討ち取られる一大スペクタクル
現代的な価値観じゃ理解できない理不尽さに溢れるドラマ性

734 :
隆信にアクが強い俳優使ってそれなりの魅力を持たせ、直茂はそれを諫言する完璧超人役が固いな

735 :
龍造寺隆信⇒佐藤浩市
鍋島直茂⇒伊勢谷友介

736 :
化け猫大河だろ
最後は直茂が梅毒にかかって化け猫顔になるし面白いよ

737 :
直茂の死因はおそらく耳の掻きすぎが原因の外耳道がん

738 :
>>726
地獄に居ても全然平気だぜって言ってそうだな。

739 :
戦国期を生き抜いてさらに朝鮮出兵経験した将兵はみんな地獄より酷いもん見てきてるだろ

740 :
直茂に関しては、龍造寺や島津との絡みだけでお腹いっぱい

741 :
>>736
清盛のスタッフ起用すればがばいの出来そうだw

742 :
幕末に佐賀藩のアームストロング砲で将棋隊壊滅させたのに
薩長に利用されてその後見事に主導権盗られたよなぁ

743 :
鹿島で砲弾が見つかったらしいが龍造寺と有馬の合戦時のものか

744 :
直径15cm全長40cmなんですが・・・ていうかそもそも丸くなかったよねw

745 :
>>742
というより戊辰戦争になるまで政治的に
積極的に動かなかったのが原因では?

746 :
幕府方に忠誠を誓う様な素振りをしつつ同時に朝廷工作?して
京の薩摩を牽制したりとか、裏ではちょこちょこ動いてるみたいなんだけどね・・・
純粋に武力では抜きん出てたとは思うので、あとはトップに大気があれば・・・
いや、大気があったらは藩祖以来の伝統かなw

747 :
そのトップが死ぬ間際に「戦国時代に生まれたら楽しかったろう」と述懐した、みたいな話をきいたことがある
これが本当なら結果的な自分の判断ミスを悔やんでたんじゃないのかと思う
ただ鳥羽伏見戦時点の京阪周辺の戦力差で幕府方が負けるなんて傍から見てる限りじゃあり得ないから弁護しうる余地もまた十分
慶喜をして『俗に言えばこすい人』と言われた大名の性格以外に
介入しなかった(出来なかった)点を挙げるとするなら歴史的な経緯もあるかと
毛利の場合は戦国から始まって江戸時代入ってからも朝廷への資金援助諸々は続けていたらしいし
島津は五摂家と直接的なパイプがあった
朝廷や中央情勢へ積極的になるような動機、を発生させるコネクションと背景がそもそも無い

748 :
もちろん>>747にほぼ同意なんだけどね
歴史は後世の人間から見たら「あの時こうしてればもっとよかったのに」ということばかり。
でも当事者はその時の状況と情報とで考えられる一番良い判断をしたはずで・・・
だから歴史は教訓にも学問にもなる、だから面白いw
まぁ肥前に関しては戦国より幕末のほうが大河向きだよね、ということでスレ違いすまぬ

749 :
戊辰戦争の時、ご先祖は京都まで上洛したが、急遽長崎防備を命じられ引き返したらしい。
資料を調べて見たが、ご先祖は勝いくさには縁が薄かったようだ。

750 :
長崎の田舎の山に結構立派な砲台跡とかあるしな
http://www.city.nagasaki.nagasaki.jp/bunkazai/bunkazai/bunkazai/122.html

751 :
>>750
Thanks
諫早家の管轄で橘湾の守備砲台みたいだね。

752 :
明日のシンポジウム資料代500円て高くね?
精々200円くらいが妥当だと思うけどなぁ

753 :
シンポジウムの内容は?

754 :
龍造寺の近年の評判、お家騒動なんかの訂正で時間が尽きた形だった
資料的には沖田畷まで話したかったんだろうけど

755 :
急な仕事で行けなかった…
人沢山来たのかな?

756 :
人かなりいたよ
若い人も思っていたよりいた
話もっとききたかったなあ

757 :
講演会の宣伝の、人物キーワードが詐欺過ぎたw
途中一回会場の外から「武士道とは死ぬことと見つけたり!」って叫ぶ変な奴がいたなあ

758 :
長信関連まで踏み込むのは2時間じゃ無理だろうとは思ってた

759 :
龍造寺又七郎は誰ですか?⇒調べろ
あのエピソードは多分俺だなぁ
今日来てくださった方はお疲れさまでした!

760 :
しかし、質疑応答ありで少人数の座談会したいな。掛け合ってみるかな

761 :
多久、武雄、須古、諫早など秀吉の朱印状がなければ2、3代後に消滅してるか、
捨て扶持で100石程度になってただろうな。

762 :
大河なら蒲池さんは誰やるんだ

763 :
Twitter情報ですが
「佐賀の戦国史 番外編-基礎-」
H25.7月開催予定
中世から戦国時代の九州の情勢と、龍造寺氏の興りについて、基本的なポイントを解説。
無料らしいです。
なお、2回目は秋。

764 :
>>763
おお、情報ありがとうございます
覚えておかねば。

765 :
土橋栄益が謀略で隆信を村中城から追い出した時、龍造寺内部でも反隆信派が鑑兼を始め、
家就、胤直、常家、家重、常直などいたんだよね。
でも隆信は再起した後も誰一人として殺していないし、やっぱり心優しい隆信だったんだろな。
そもそも土橋栄益の嫁は少弐資元の娘だし、怨み多い大内と隆信が組んだのが気に入らなかったんだろう。
結果として栄益を始め、弟の四郎兵衛、主馬允、息子の織部正など一族は戦死、
領地の小侍城は龍造寺長信、千葉胤連に攻められ城将の櫛山式部の投降で結末。

766 :
胤直は>>526の冬野原の戦い時に討死してたんじゃ

767 :
戦国期の土豪や地侍や小城主は戦ごとに所属陣営を変えるのすら当たり前の時代、
敵対したからと殺されて領地没収されるなんてほとんどなかった。
最悪でも代表責任者の首ひとつで後は水に流すのが通例だったわけで
主犯格とされた土橋一族を殺して一件落着というのはごく当たり前の仕置き。
それが心優しいとかどういうフィルター装着してんだw
しかし壮年期までの隆信にはその野心に劣らない高いレベルの将の器はあったのは間違いない。
歳を取るのは罪だねぃ・・・

768 :
まあ優しいとは違うやな
晩年も言うほど耄碌していたわけじゃない、ってこの前の講演会で中西豪さんが言うとったなあ
須古にいたのも南肥前の抑えだとかなんだとか

769 :
蒲池一党「優しい……だと!?」

770 :
>>766
確かに胤家の子の胤直は冬野原で戦死してるが別に同名がいたかも知れん。
常直にしても龍家の系図には見当たらないしな。
土橋栄益の子孫が書き残した古書からの転記だからここは信じる事としよう
>>768
隆信が須古へ隠居した目的は「北肥戦誌」に書いてあるよ。
>>769
出たー!?蒲池の亡霊が‥‥。
土橋栄益には生き残った息子がいて事変後に与賀から多久、牛津方面へ逃避行。
最後は山内の神代勝利へ匿われ育ったのが後の土橋尾張守。
隆信は20年後の天正元年に降参してきた土橋尾張守へ400石、戦死した土橋織部正の子善兵衛へ50石を与えた。

771 :
まあ戦国大名の中なら優しい方じゃないかなw

772 :
>>693
勝手に兵力を減らしていた鍋島藩家老等数人も責任を取って切腹した。(ウィキ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6

773 :
>>693はどう見ても皮肉

774 :
★佐賀の戦国史 番外篇
「1から始める龍造寺史」
H25.8/4 (日曜日)
13:00-15:00
佐賀城本丸歴史館へ会場申請中。
講師:中西豪 氏  今回は番外篇につき、無料。
終盤30分は、講師への質問タイムです。

775 :
>>768
耄碌はしてなかったと思うが驕りはあったと思う

776 :
隆信の悪評のせいで、四天王まで脳筋イメージが酷いからなあ

777 :
っつーか龍造寺って言うと四天王しか出てこないのがなんというかにゃんというか

778 :
逆に九州地方でごく短い期間勢いがあった程度の大名なのに(一般人認知度激低)
戦国マニアの間だけとはいえ四天王(実は5人以下略)が知られてるのがありがたいわw

779 :
成松信勝が龍造寺一族だってことはあんまり知られてないよな。
胤久――胤栄‥‥隆信
  |
  |―胤明――信勝

780 :
龍造寺はゲームで強すぎず弱すぎず使いやすいってのも知られてる理由じゃないかな

781 :
苗字がかっこいいアドバンテージもある。

782 :
四天王より凄かったのは執行種兼だろな。
数々の武勲があるが、究極なのは島原沖田畷の負け戦で種兼一族郎党は互いの指を
糸で結び一歩も退かず全員戦死した。その数55名と云われている。

783 :2013/04/30
櫛田宮の執行別当だから執行氏、同じく櫛田宮別当の本告氏もいるが
武事は執行、政事は本告と役割分担があったらしい
所領は代々守護使不入を行使できる本告氏の方が大きかった模様
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