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2013年05月三国志・戦国143: 【馬氏の五常】馬謖と姜維【天水の麒麟児】 (216) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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【馬氏の五常】馬謖と姜維【天水の麒麟児】


1 :2008/07/18 〜 最終レス :2013/04/27
どちらがより優れているか、この場を借りて語れ。

2 :
結果論を言えば馬謖は相手が悪かった。ただもし山頂に布陣して勝利していたら、
その勝ちに味を占めて上からの指令よりも自分の判断を優先させ続けたと思う。
命に背いても功績を挙げれば許された風潮も、それに拍車をかけたに違いない。
馬謖が処断されずに街亭の敗戦を糧としたならば優秀な人材に育ったろうが、
そんな事を言っていられないほどあの局面での敗北は大きかった。
結局任せられた局面の重要さも、敵の将軍の器も、初陣には重荷だったんだろう。
劉備は馬謖の事を口が実質に勝るから用いる事はできないと評価していた。
実際に史書に残っている馬謖の前半生が限られているから推測するしかないが、
実質が口より劣るというのは、経験がないため学び得た理論で全てが通ると
勘違いしていた事をいうんだと思う。
ただ、どんな分野においても独創性のある人というのは
必ず基本をマスターして、それを応用する事で結果を生んでいる。
それでいけば馬謖は学び得たものがあるのだから、これからいくらでも成長できたはずだ。
まあ、三十八歳というのは初陣にしては遅いし、
政府もそれまでに実戦の経験を少しなりと作ってやればよかったと思うが。
姜維は軍事的なセンスや経験については史書を読む限り馬謖の上を行っていたと思う。
俺にはうまく説明できないがその辺りは後期無双スレを見れば詳しいだろう。
ただ、出自ゆえに政治的な派閥を作ることができなかったことと、
それに焦ったか、対極を見る目がなかったためか、あるいはその両方のためか、
功を焦るように闇雲に出兵して国力を疲弊させた事は人物の全体としての評価を落としてしまう。

3 :
やはり馬謖と姜維を比べるには馬謖の実績が不足しすぎている。
難しい。

4 :
たられば話はイラネ

5 :
>>4

6 :
>>4
書けること、書きたいことを書いたつもりなんだがなあ。

7 :
>>2
>後期無双スレ
あそこは姜維に肩入れしすぎだから比較論における参考にはできない。

8 :
馬謖の実戦経験の不足ってのと、間接的な評価しか
存在していない現状では姜維と比べるのは難しいと思う
本格的な実戦が街亭だけの馬謖の軍事的才能を語るのは正直無理があるだろ

9 :
馬謖についてだが、南方遠征に際しての献策にしても
対魏戦争の前での司馬懿失脚工作の献策にしても
出来る限りコストの少ない戦い方をせよという
兵法に書かれている事を応用しているように見える。
馬謖の実績に評価を下すとしたら、この箇所だろうか。
姜維の場合、兵站や戦力面で圧倒的に不利な状況の中
連年のように大軍を動かしていた事は戦略的に考えておかしい。
戦術レベルの功績は史書にも残っているが、
やはり将軍の器であって全軍の統率者の器ではない気がする。

10 :
ただ馬謖も劉備に仕えるようになってから街停で失態を冒すまでずいぶん時間があったからなあ
若手だの経験不足だのは免罪符にならないような気がする
もっとも、この件で最大の失策をおかしたのは孔明
もしも馬謖が生きていれば、自身の死後の北伐を戦略面で支えたかもしれないのに

11 :
孔明の指令を守らず、その上王平と喧嘩
子供っぽいとは思う

12 :
>>7
あそこってか俺の事だと思うけど、確かにそういう感は否めないね。
まぁ、極端に公平さを欠いている、とも思ってないけど。

馬謖との比較は、何人か言ってるけど難しいだろうね。
馬謖については僅かな記述しかないし。
姜維の記述も多くは無いけど、三国志や他の史書の記述を漁りまくれば、考察できる程度はあるからね。
史書よりは内容の充実している演義で比べた方がいいかも分からんね。

13 :
演義にしても馬氏兄弟は優秀だといいながら見せ場がない。
錐の袋中にあるがごとしという言葉があるが

14 :
確実性と言うか、安心して任務を任せられるのは
馬ショクより姜維かなぁ。槍の使い手でもあるし。

15 :
>>14
姜維に委任するともれなく国力が疲弊しましたが何か

16 :
任務を任せるなら、だろ
国政は任せられん

17 :
どちらのケツが孔明のお気に入りだったんだろうか

18 :
姜維だろ
何たって天水の麒麟尻だぞ?

19 :
馬 謖 幼 常(190〜228年)
  武 勇 ■■■■■■ 6
  戦 術 ■■■■■■ 6
  知 略 ■■■■■■■ 7
カリスマ ■■■■■■ 6
  人 望 ■■■■■■ 6
  外 交 ■■■■■■■ 7
  内 政 ■■■■■■■■ 8
これといった武勇伝も実績もない。
少しずつ経験を積めば成長したかもしれない。
ただ、若いといっても死んだときは40歳近かった。
南征の際は諸葛亮の補佐に徹し、大いに貢献。
一時は彼の後継者ともいわれた。
ただし、その器量のほどはいかがなものか。
劉備も、「口先ばかりで実がない」と見抜いており、
生きていたとしてさほどの活躍はなかったかも。
読書家で才気走った男だが、内政をやらせているぶんには、
かなりの才を発揮したと思われる。

20 :
姜 維 伯 約(202〜264年)
  武 勇 ■■■■■■■■ 8
  戦 術 ■■■■■■■ 7
  知 略 ■■■■■■■■ 8
カリスマ ■■■■■■■ 7
  人 望 ■■■■■■ 6
  外 交 ■■■■■■ 6
  内 政 ■■■■ 4
演義におけるデビューの描写は際立っている。
老いていたとはいえ、古豪・趙雲を敗走させたほどの武勇。
兵を率いては弱冠27才にして諸葛亮と互角以上に戦う。
諸葛亮の死後、北伐を引き継いだがほとんど戦果は挙げられなかった。
しかし、多勢に無勢では仕方なしの気もする。
諸葛亮の計略をも見抜くほどの知恵者。
その才を認めた諸葛亮から兵法、軍略を伝授される。
諸葛亮の死後、蜀の全軍を担うも力量不足の観あり。
また、その志と執念に共感するに足る人物はあまりいなかったのではなかろうか。
度重なる出兵で国力を疲弊させる。
が、あくまで軍人なので政治面は顧みなかった。
結果、黄皓などの侫臣がはびこり、蜀滅亡の原因となった。

21 :
>>13
演義の方がまだマシだと思ったが、それでも比べにくいだろうね。
南征の時にちょこちょこ進言があるくらいか?
>>19-20
何かと思えば、各駅亭舎の武将列伝じゃないの。

22 :
馬謖ってなんか船田元みたいな人かなって、思えてならない。
小沢一郎の下にいた時はニューリーダーぶってたけど、いざ個人で展開してみたら凡人でしたみたいな。
馬謖自体は嫌いじゃないんだけどね。
この人書令とか令史とかで、満足してくれればいい吏僚だったんじゃないかな?
武断による出世と、それによって手に入れる功績の方が、ショクにとっても対外的な声も強いんだけど。
馬良みたく足りない人員のところで、その仕事に徹してた方がよかったかも…。
確かに将軍格の層の薄さから街亭なんだろうけどね。

23 :
街亭は王平だけが守っていた方が良かった

24 :
23>確かにそうかも。
でもあの当時の王平に万を超える軍隊を任すのも勇気がいる。
リョウ化か張ギを主将で副将王平、参軍馬謖が妥当だとおもうけど。

25 :
馬謖のプライド高そうなところを見ると王平の参軍に甘んじるかしら?
すなおに要地には魏延派遣しとけよって思うなあ

26 :
孔明としては荊州閥の発言力を高める意図もあったんじゃないかな。
推薦されて却下された人員は軍人の魏延と益州閥の呉壱で、
ともに孔明の所属する益州閥とは派閥を異にしてる。

27 :
訂正
孔明の所属する荊州閥とは

28 :
孔明は荊州閥では?
戦役内の一戦闘では政治的な影響はほとんどないと思うけどねえ
どうでしょ
あんな負けかたしたから影響あったかもしれないけど
無難に守っていたら特に何も起きないのでは?

29 :
ああ訂正レス読んでなかった
失礼

30 :
下手に太守踏むもんじゃないよね。
特に機転やら機略を用いようとする馬謖はメインラインには、置きにくいよ。
参軍やってくんないかな?
または軍議校尉とか後軍校尉あたりに収まってもらって…。
スーパーサブ的な扱いには成れないかもしれないけど。

31 :
>>28
孔明は史書でも公正無私を賞賛されている人で、
現に馬謖が街亭で失態を犯した時も諫言を却下して処断に踏み切っているし、
一般的に言われている
「馬謖可愛さのあまり実力のある魏延、呉壱を差し置いてまで抜擢した」
という説明のされ方にどうも違和感があるんだよね。
何らかの意図が働いたのかと勘ぐってしまう。
ただ、街亭はもし山裾に布陣していれば確実に守れたのだとしたら、
「歴戦の将軍を出さなくとも馬謖で用は足りるし、馬謖の経験を増やすこともできる」
と判断したのかもしれない。

32 :
なるほど
非常にわかりやすく納得のいくところです。
するとよっぽど馬謖が生兵法って話になるねえ…

33 :
街亭の戦いで分かる事は、
・馬謖が南山に拠り麓の城に入らなかった事(魏書張郃伝)
・水を断たれた事(魏書張郃伝、蜀書王平伝)
・命令が煩擾していた事(蜀書王平伝)
・街泉亭で敗れた事(通典州郡典)
といった事。
水経注巻十七渭水上を読むと、漢の略陽道故城の西北にて略陽水に合流する、
埿渠水という川の事が載っている。
それによると、略陽水が略陽城の北を西に流れた先で、埿渠水という川が合流しており、
その埿渠水は、南山より流れ出た後、城を通って北に流れて略陽水に注いでいる。
蹏水という川も、同様に南山から出ているが、こちらは略陽城の東で略陽水に注いでいる。
つまり、南山の麓の城と言うと、略陽城になってしまう。本当に街泉亭だったのだろうか?
略陽に関しては、來歙が森林を切り開きながら、山に道を通して近付き奇襲した話もあるので、
周辺には森林があったと考えてもいいだろう。三国志軍事ガイドでもそうなっていた。

34 :
命令が煩擾?

35 :
原文で煩擾となっていたからそのまま書いちゃったけど、
要はゴタゴタして乱れてたって事。

36 :
位置関係を画像にしたのが見たいな。
どうも想像できない。

37 :
>>36
画像を作るのはちょっと面倒なので、
ttp://www.14hschool.com/web/sanguonet/ditu/9.jpg
とりあえず、この地図でも見てくれ。
通典州郡典だと、街泉亭の説明は瓦亭山の説明の後にあるので、
恐らくは略陽の東北にあるという事なのだろう。この地図の街亭の位置と変わらないと思う。
地図の街亭の辺りから略陽水が流れ出て、西南に巡って略陽の西で瓦亭水に注ぐ。
瓦亭水は街亭の少し来た辺りから流れ出て、これもまた西南に巡る。

38 :
まぁ命令どおりにうごかなかったバショクはだめだ

39 :
地図で見たことあるけど、街亭って堅いイメージはないよ。
長野の寒村の脇みたいなとこ。
孔明の眼力も疑うべきかな?

40 :
>>38
命令通りに動かなかった事自体は、そこまで避難される事じゃないと思うよ。
問題は、命令違反してまでとった行動が妥当であったのか否か、という事だと思う。
>>39
地図で見ただけでは、そこまでよくは分からないような。
国土地理院の発行してる2万5千分の1地形図とかなら、ある程度分かるかも知れんけどね。

水経注を読むと、南山とその麓の城という構図が張郃伝と一致し、
街亭ではなく略陽かもしれないという思いが湧くが、それでもおかしな点はある。
馬謖は水を断たれたわけだけど、この南山は二水の水源であり、
建武年間、隗囂が來歙を略陽に包囲した際、この二水と略陽水を使って水攻めを行ったほど水が豊富。
例え全軍を山に移したとしても、そう簡単には水は断たれないと思う。
張郃伝にある南山は、この略陽の南にある南山ではなく、別の場所を指しているのかもしれない。

41 :
そう水あるんだよ。

42 :
oppao

43 :
Jominianは考察のレベルはこのままで、
姿勢はもう少し他の住人に歩み寄る形が望ましい。
これでは次の考察に繋がらない。

44 :
>>43
歩み寄るというのはどういう意味だい?
もう少し具体的に言ってくれるとありがたい。

45 :
たとえば自分の考察の中からテーマを抜いて、
それを皆に問いかけるようにするとか

46 :
>>45
テーマを抜くって事は、自分の考えは述べず、
そう考えるに至るまでの材料だけを述べて問いかける、って事か?
レスの具体的な内容が思い浮かばない。
反応を見ながら、考えを小出しにしてくってのはやった事あるけど。

47 :
スレタイに立ち返って、馬謖と姜維とを比べてみる。
他の事はともかくとして、指揮官としての資質と言う点では、
馬謖ではなく姜維に軍配が上がると思う。
姜維には、指揮官として実際に敵を破った実績がある、というのも理由なんだけど、
それ以上に、「挙措煩擾」という一語が、馬謖の指揮官としての資質の無さを物語っていると思う。
南北戦争の名将ロバート・リーなども、
「指揮官の仕事は緊要な時期、緊要な場所に部隊を配置し、
攻撃前進を命令する事であって、それ以上の干渉は有害である。」
というような事を述べている。
指揮官が戦場の全てを把握できるわけではないし、
軍隊も人間の群れであるからあまりに複雑な命令はこなせない。
従って、干渉は最小限に、命令は簡潔に、でなければならない。
どれだけ優れた戦術が馬謖の頭にあろうと、彼がそれを実行するのは不可能に近かっただろう。

48 :
諸葛亮は姜維を後継者とは思っていないよね。
才能は認めていたけどやはり彼は軍人だもの。
諸葛亮が馬謖と姜維に対して求めていたものは違う気がするし。

49 :
>>48
諸葛亮もショウエンやヒイも軍人じゃないか

50 :
>>48
史書から窺える姜維は、諸葛亮の後継者でもなければ弟子でもないし、
様々な作品に出てくるように「諸葛亮の遺志」とやらに執着していたとも思えない。
ただ、諸葛亮の死後、すんなり輔漢将軍という重職に就き、軍の中枢に躍り出た事を考えると、
諸葛亮はもとより、蜀軍全体で彼が高く評価されていた事は窺える。
五丈原に辛ピが来た時のやり取りとかが事実なら、諸葛亮に近侍はしてたかもしれんけど。
馬謖については、街亭までは完全に諸葛亮の参謀として使われていたように思える。
その点では、姜維とは少し違うだろうね。
むしろ、参謀の経験しかない、参謀としてしか用いていない馬謖を、
突然指揮官として起用した事が少し信じ難いね。

51 :
>>50
県令、太守を歴任していた馬謖は「参謀の経験しかない」には当たらないと思うんだけどな

52 :
>>51
それは「軍人としては」って事ね。
まぁ、太守も軍を率いる立場ではあるから、厳密には違うのかもしれないけど。

53 :
姜維が取り立てられたのは羌族とかと連携できそう+北伐先の地理に詳しい
というあたりかしら

54 :
羌族に対する影響力とかなら、馬氏の方が持っていそうだし、
地理と言っても姜維が知っているのは天水郡周辺だけじゃないかと思う。
ただ、父を早くに亡くしてるとは言え、天水郡の四姓ではあるし、
諸葛亮が重要視した祁山も天水郡だから、ある程度の影響力は見越してたかも。

55 :
姜維の北伐が成功しなかったのは、国力の大幅な差と人材不足とコウコウが好き勝手やってたのと劉禅が役立たずだったのが主な原因と思われる。

56 :
辺境で一応平穏に落ち着いてしまっていたから、
厭戦感が下々の者に蔓延しても仕方なかったと思う。
先帝を知らない世代に「北伐!」と号令しても、反応が薄いだろうしねえ。

57 :
国論を戦争に向けて統一するのも宰相の仕事だからねぇ。
厭戦気分を蔓延させてしまった事は、姜維の宰相としての資質に対する批判材料にはなりうるだろうね。
国内が勝利に沸いている内は、厭戦気分も顕在化はしなかっただろうけど、
長く続いて国家が疲弊すれば、大敗が無くても、いつかは姜維の立場を揺るがす事になっただろう。

58 :
身も蓋もない言い方をすると、やはり諸葛亮が偉大すぎた。
違う言い方をしてみるならば、
諸葛亮路線が定着した国家のトップには姜維が適合しなかったってところ?
ところで、完全なif話になっちゃうけど、
馬謖と姜維が同時期に諸葛亮の下で働いていたらどんな感じだったんだろうね。
(性格の偏狭さは別として)楊儀と魏延みたいなことになったりしないかな?

59 :
>>58
馬謖は、王平との対立、煩瑣な命令を考えると、軍隊で信望を集めるような人物じゃないから、
軍隊の掌握に長けている姜維を見て、多少の焦りは感じるかもね。
ただ、馬謖は姜維より一回りも上だし、諸葛亮存命中は姜維も大権を握る事は無いと思うので、
楊儀と魏延のような深刻な対立が生じるとは考えにくいね。
姜維は、諸葛亮の下では最終的に中護軍として、恐らく諸葛亮直轄の中軍所属の指揮官になっている。
馬謖は、街亭での失策が無かった場合、それ以降、参軍からどうなったか分からんので、
両者が立場上どういう関係になったかはよく分からんね。

60 :
参考に、両者の官職を調べると、
・馬謖
荊州従事→緜竹県令→成都県令→越嶲太守→丞相参軍
・姜維
魏時代
天水郡上計掾→雍州従事→中郎・参天水郡軍事→投降

丞相倉曹掾・奉義将軍→中護軍・征南将軍→→右監軍・輔漢将軍
→大司馬司馬・輔漢将軍→大司馬司馬・鎮西大将軍領涼州刺史
→録尚書事・衛将軍領涼州刺史→仮節・録尚書事・衛将軍督中外軍事領涼州刺史
→仮節・録尚書事・大将軍督中外軍事領涼州刺史
全然共通するものが無い。敢えて言えば州の従事だけど、実績は不明。
馬謖は、劉邕とか姚伷とかと同じで、蜀の平定後に郡太守から丞相府に辟召されるパターン。
開府後、優秀な人物が丞相府に行くのは多く見られた事なので、
諸葛亮に特に気に入られていたとは言え、際立った経歴ではない。
官職から両者の能力を比較するのは難しい、と言うか、この二人は比較する人物でもないと思う。
演義における諸葛亮の弟子ポジションという事のみ共通しているだけだな。

61 :
やはりそういう結論になっちゃうよねえ。
街亭の一戦で馬謖を指揮官とする選択肢が出てしまうのが蜀の限界かな。

62 :
指揮官自体は、魏延に呉懿に呉班に陳式と、馬謖以外にいくらでもいたと思うんだよね。
「馬謖に経験と箔を付ける為」って意見もあるけど、そうだとするなら、
個人的には、それまでの諸葛亮の行動に疑問が湧く。
馬謖は諸葛亮の参軍として、共に南征の作戦を練ったけど、
襄陽記に拠れば、彼自身は南征に随行してはいない。越嶲太守を経験してたにもかかわらずね。
劉備の従事として益州入りしてるので、戦場自体は経験しているだろうけど、
軍を指揮するのがどういう事か、というのを分からないままだったと思う。
諸葛亮が南征に馬謖を随行させ、指揮の要諦を自身から学ばせたりしていれば、
少なくとも、街亭における「挙措煩擾」という事は避けられたかもしれない。

63 :
>>62
ショウエン、ヒイと戦場の経験は馬謖とどっこいどっこいみたいだけど、彼らは大将軍になっている
馬謖も「それくらいは出来て当然」と諸葛亮にも蜀の首脳陣にも思われていたんじゃないだろうか
それでも危ぶむ声があったし、ショウエンも大将軍になったとき反発があった
踊る大走査線みたいな現場組と会議室の認識の相違、乖離を感じるなあ

64 :
>>63
大将軍そのものは、他の将軍職とは一線を画し、より政治的な意味合いが強いと思うので、
指揮官としての経験の有無は重視されないと思う。
蒋琬の大将軍録尚書事就任で朝廷に動揺が起こったのは、
将軍未経験という事よりも、抜擢人事であり、偉大な諸葛亮の後を襲う事になっているのが大きいんじゃないだろうか?
むしろ諸葛亮は、「自分にできた事だから馬謖にもできるだろう」とか思ってたのかも。
諸葛亮は、恐らく初めて軍の指揮を自らが採った益州平定で、
張裔を破り諸県を落とすという実績を挙げてるからね。

65 :
個人的に、この二人は比較するのが難しい人物だと思うので、
両者の能力を比較するのは、誰か熱意のある人にお任せするとして、
今後の議論の助けとなるよう、また少し、街亭の戦いについて考えてみる。
戦場は略陽城かもしれない、という疑問を既に述べたが、
やはりこれは、城と、その南に山があると言う点のみが一致するに留まる意見であり、
水が豊富であるという、街亭の戦いの様子とは異なる要素があるので、
街亭と略陽城を同一視するのは困難な事だろう。
三国志で街亭とある以上、街亭、即ち街泉亭であると見た方が良い。
街泉亭は略陽水を更に遡った場所にあり、この略陽水は、
隴山香谷より出て、すぐに二水を合しつつ西へ流れる川。
街泉亭の詳細な場所は分からないが、中国歴史地図集に拠れば、
略陽水の北側に街泉亭の古城がある。
この略陽水に沿って道路があったと考えられるので、
街泉城は南側を川に依託した構造をしていたのだろう。
この街泉城の南山に拠ったという事は、水は北麓を流れる事になるので、
張郃が街泉城に入り略陽水と馬謖との間を断てば、史実通りに敗北させる事ができよう。

66 :
そういや、馬謖が越嶲太守をやってたのっていつ頃なんだ?

67 :
そもそも馬謖と姜維を比べるのは間違いだと思うがな。馬謖は軍政家で姜維は典型的な軍人だろ。
馬謖に掘られた諸葛亮が手柄立てさせたくて使ってみたら、戦略は得意でも戦術はトーシロだったもんだから、大惨敗したんだろ。
後の姜維だって、たかが軍人風情が他に人材いないからって政治家気取って軍国主義を施行したが、見事に厭戦気運が高まり降伏の憂き目に。
どっちにせよ諸葛亮が重用した結果だからな。諸葛亮に人事を任すとロクな事がないw
反骨の相があるとかチンピラヤクザ並のインネン吹っ掛けて魏延にオイコミかけたり。
劉備に『あいつツラが生意気だから殺っちゃいましょうよウヘウヘwww』とかDQNそのままだ。
すべては稀代のナルシスト孔明が悪い。適材適所っちゅうもんが奴には決定的に欠けてる。

68 :
>>66
かの地における逸話が全くといっていいほどないんですよね、確かに。
実際赴任していたのなら役立つはずの南征にも参加してないし。

69 :
>>68
伝を読む限りは、劉備が死ぬ前っぽいんだけど、
劉備が死んだ頃に、越嶲太守だったのは焦璜で、その後任は龔禄。
なので、劉備生前に越嶲太守だと、そこから丞相参軍までの間の官職が分からなくなる。

70 :
たしか緜竹と成都の県令を務めた後ですよね、越嶲太守は。
で、劉備の死後にその遺言にもかかわらず丞相参軍にした、と。
うーん、諸葛亮からのこれだけの信頼を考えると、
呉との大戦から関係修復においても名前が出てこないのはヘンですし、
やはりその頃に南地へ行ってたんですかね。
でもそれだと官職の空白の説明はつかない、うーん…。

71 :
馬謖が越嶲太守から他の官を経由せずに丞相参軍になったとするなら、
あと考えられるのは、越嶲太守が焦璜→馬謖→龔禄という順番で遷っていったって事。
焦璜が死んだのは、恐らく劉備の死んだすぐ後、
龔禄の越嶲太守就任は季漢輔臣賛に拠れば南征直前の225年。
だから、間に2年くらいある。
ただそうすると、丞相参軍は南征直前に就任って事になり、
共に作戦を練ったという話と繋がらなくなる。
まぁ、越嶲太守のまま作戦を練った、って事も考えられるけど。

72 :
話が逸れるけど、龔禄って越嶲太守に着任してすぐ殺されちゃったんだね。
焦璜・龔禄と叟族に殺されているのに、馬謖は何をやってたんだとw

73 :
>>72
二人が殺された事に馬謖の落ち度ってあった?

74 :
ごめん、そういう意味ではなく、
「戦ではなく心にて制するのが上策」と諸葛亮に助言しているけど
己の着任中に有効な手を打ってなかったんかいな?という素朴な疑問。
二人との前後関係は不明とはいえ同時期に赴任しているのに。

75 :
支配者が変われば簡単に反乱や騒動が起こる時代だと思ってた
この場合は太守だな。太守が変わってすぐに問題が起こるような時代だと思ってた

76 :
それは否定しないけど、
諸葛亮の南征後、心服した南方民は諸葛亮存命中は反乱しなかったわけだし。
てことは、馬謖自身は南方民の心を掴めなかったってことの裏返しになるような気が。

77 :
李厳が隣郡のケン為太守の折に叛乱が起きて救援に駆けつけてるけど、
この際の太守って誰なんだろう
俺は馬謖だと思ってたんだけど…

78 :
はっきりとした記述がないんだよねえ…
218年の時点で越嶲太守になっていたのかどうか…
馬謖だとしたら、それこそ「何をやってたんだ?」ってことになるねw

79 :
>>78
もしかしたらこのへんが劉備の馬謖評の一因になってたりするのかもと想像もする

80 :
高定の部下が新道県を包囲したのは、218年とは限らないと思う。
後主伝の建興元年の記事に、その建興元年以前に雍闓が反乱し、
高定もまた反乱を起こした事が載っている。
で、雍闓の反乱ってのは劉璋が死んだ時で、劉備の東征の際に、
秭帰にいたはずの劉璋の名が一切出てこない所を見ると、
劉璋が死んだのは東征以前なので、雍闓の反乱も東征以前ってのは分かる。
また、李厳が新道の包囲を解いたのは輔漢将軍就任前なので、
劉備の即位より前、或いは、劉備即位直後だろう。
劉璋が死んだのは219年以後なので、高定が新道を包囲したのは219年から221年の間だと思う。
221年ごろなら、既に焦璜が太守だった可能性が大いにある。
あと、新道県は僰道県のすぐ近くなので、高定が越嶲全体で反乱を拡げていたなら、
そっちに忙殺されて新道の救援に行けなかった、って事も考えられる。
まぁ、だとすると、仮にこの時の太守が馬謖だとすれば、
焦璜や龔禄が死んでるのに無事に帰れているってのが不自然だけどね。

81 :
ほす

82 :
知力、武力、胆力、決断力、統率力
全てにおいて姜維が上。

83 :
史書から分かる事で考えれば、全てにおいてかはともかくとして、
総合的には姜維の方が能力が上であったと見る事ができるだろう。
それに、我々は史書から分かる事しか分からないのだから、
結局はそういう結論か、或いは一歩退き、「分からない」とだけ述べるしかない。
ものすごい人が現れて、我々凡人には思いつかないような結論を、
史料から導き出してくれるかもしれないが、そういう人が現れるとは考えにくいね。

それにしても、何故諸葛亮は街亭に派遣したのだろうか?
どれだけ地理を知っていたのだろうか?何の戦史を参考にしたのだろうか?
一つ考えられるとすれば、何度か出しているが隗囂と來歙(光武帝)が争った建武年間の戦役だろう。
この時、王元が隴坻、行巡が番須口、王孟が雞頭道、牛邯が瓦亭を守っている。
街亭は番須口か隴坻の近傍だろう。
光武帝についてはさほど詳しくないので、詳細は間違っているかもしれないが、
彼らは敗北したが、それは牛邯の投降に端を発しており、力ずくでの突破ではなかったのかもしれない、
というのが、後漢書隗囂伝などから分かる。
とすれば、魏軍がどこを通るのかが分かれば、そこにいたる要害を押さえる事で、
月単位の足止めを期待できる、というのが諸葛亮の算段だったとも考えられる。

84 :
司馬の八達でいいよ。五常より人数多いし。
麒麟児とは言っても天水とかド田舎じゃん。
高校野球みたいに例えるなら「佐賀のイチロー」みたいなもんだろ?

85 :
姜維のチンポがキリンさんなだけだよ

86 :
シンザン、ミスターシービー、シンボリルドルフ、トウカイテイオー、
オグリキャップ、ナリタブライアン、テイエムオペラオー
芦毛もっともよし

一つ言っていいか、自分でも最低なくらいつまんねぇ

87 :
姜維

88 :
姜維を一発変換できないから生姜維持と入力してる
だがたまに障害児となってしまう

89 :
辞書に登録しとけよw

90 :
辞書登録が面倒くさい気持ちはわかる
よーくわかる
ついつい「またあとで」となりがちだ
だがこの機会だ!いますぐ登録しろ!
姜維には漢のロマンがある!

91 :
姜維なんて脳みそが狂ってるんだから障害児でちょうどいい

92 :
ただの戦闘狂

93 :
蜀の政治体制は良くも悪くも諸葛亮まずありきだったからねえ。
費イの死によって「国防(北伐)担当者≠内政トップ」となって、
いろいろと歪みが出てしまったんだろうね。

94 :
>>88
生姜維新で入力してくれ

95 :
登山家はもっと早く生まれてたら歴史に名前残ってないかも

96 :
馬謖が街亭攻略を名乗り出たのは、姜維への嫉妬かと思ってた。

97 :
図星だけどね

98 :
史書を見る限りは二人が同時期に蜀臣だった可能性は低いんだけどね。
だから、>>58-62あたりのやりとりがあるんじゃないの?

99 :
>>98
すでに既出でしたか・・・はずかしっ

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