2013年17戦国時代54: 豊臣と徳川、なぜ差がついたか。慢心、環境の違い (403) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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豊臣と徳川、なぜ差がついたか。慢心、環境の違い


1 :2009/08/20 〜 最終レス :2013/09/14
スレタイ通り。

2 :
豊臣には普代の家臣がいなかった
身内に頼ることになった

3 :
底辺から大名まで引き上げてもらった加藤らは「豊臣」や「羽柴」ではなくて「秀吉」個人に仕えてたんだろうな

4 :
豊臣の衰退は秀吉が甥一族皆殺しとかDQNなことやった
報いだよ。

5 :
まじめな話をすると秀吉には、どういう社会を目指すかという国家観が、まったく存在しなかった。
具体的な社会、国家像を持って、むしろその実現のために権力を欲した観のある家康とは
その部分で大きく違う。

6 :
>>5
家康が国家観を持ち始めたのは、信長が死んで以降だろうけどな。

7 :
身分が固定された閉鎖的な(安定した)社会を作ろうとした家康
四百年も前に能力に応じて禄高も激変する自由競争の社会を作ろうとした秀吉
どっちが今の日本にとって良かったのか?

8 :
>>7
君がこの時代について無知なことだけはよくわかった

9 :
さっそく思い込み激しい家康厨が貼り付いてんな
早く宿題やれよ!

10 :
>>9

11 :
秀吉・秀次時代に身分統制令や人掃令が出されたというに

12 :
>>5
太閤検地や刀狩で身分統制や兵農分離を完遂させたのは秀吉で、
家康もその基本政策は引き継いでるけど?
日本の近世封建制を完成させたのが秀吉というのは常識でしょ
逆に言えば家康がしばしば非難される身分固定がなされた閉鎖的社会を作った罪、
実は秀吉にも責任が有ったりするわけだけど

13 :
>>12
太閤検地は家康や毛利のやった、惣国検地を真似した物
刀狩は東北や九州の大規模一揆のあった地域のみに出された、ただの対処法令
兵農分離が成立したのは徳川家光の時代
秀吉の政策はそれまでの慣習をそのまま受け継いだに過ぎないものがほとんど。
あと、江戸期が身分固定の時代というのはもうかなり古い考え方だと思うぞ。
近代以前という制約の中では、かなりの流動性のある社会だった。

14 :
秀吉は山崎の戦いの直後に今まで信長が手付かずでいた山城の検地に着手してる
これは徳川や毛利の惣国検地よりも前でしょ
刀狩は早期に豊臣政権の勢力圏に入った畿内や毛利領でも発令されてる
家光の時代に兵農分離が成立したのは初耳だね
少なくとも秀吉の代に始まった諸政策が兵農分離の基本となったというのが通説でしょ
それを主張してる学者さんと著書を教えて

15 :
>>14
> 秀吉は山崎の戦いの直後に今まで信長が手付かずでいた山城の検地に着手してる
> これは徳川や毛利の惣国検地よりも前でしょ
「広域を同じ企画で検地する」というのは徳川や毛利が先。
つーか山城は差し出し検地じゃなかったっけ?
> 刀狩は早期に豊臣政権の勢力圏に入った畿内や毛利領でも発令されてる
毛利に命ぜられたのも、「対処法」としての刀狩の執行に過ぎない。
刀狩が全国法令でも、恒久法でもなかったことは、山本博文氏の研究で既に証明されている。
> 家光の時代に兵農分離が成立したのは初耳だね
> 少なくとも秀吉の代に始まった諸政策が兵農分離の基本となったというのが通説でしょ
> それを主張してる学者さんと著書を教えて
秀吉の時代に惣村への軍役は終わっていない。むしろ強化されているくらいだ。
つーか、兵農分離は信長や秀吉といった権力の都合ではなく、
軍役に人の代わりに金銭で代納できるようになった農村の経済的な成長の結果によって
起こったもの、というのが、それこそ今の「通説」だが。
そして寛永の大飢饉の影響から幕府による百姓使役の抑制が図られ、また、それに伴って
普請役なども含めた軍役の人夫が、農村からではなく、都市に集まる日雇い労働者から
調達するようになった。これにより「兵農分離」が成立した。
今はよほど古い人以外は、こういう説だと思うが?

16 :
山城検地では実際に奉行が派遣されて棹入れしてるよ
徳川や毛利は当初は差し出し検地で、実際に奉行が竿入れしたのは天正末から慶長になってから
つうか両国の惣国検地自体秀吉の命によるものなんだけど
大規模な一揆も発生せず、比較的安定した治安が保たれていた
毛利領に発令された刀狩令が「対処法」って意味がよくわからんね
柴田の刀狩や、雑賀一揆の後に行われた紀伊の刀狩は間違いなく対処法だと思うが
東北・北陸・東海・畿内・山陽・山陰・九州と全国的に刀狩を命じた
文書が見つかってるのに、全国法でもないという指摘も理解不能
江戸幕府の武家諸法度のようにきちんと成文化された法令じゃないからというのが理由なのか?
まあ一応研究者の名前が挙がってるから、今度関連のありそうな資料をあたってみようか
秀吉の時代に惣村への軍役が強化されたのは当面に唐入りという目標が有った以上当然だと思うが
そもそも太閤検地の目的自体、来るべき外征に向けての農村への支配体制の強化だったわけで
つうか百姓への賦役が兵農分離の基準になるというのも妙な話だね
秀吉が政権取った頃から農村部から大量の貧民が都市部に流入し社会問題化すると共に、
お得意の土木事業にもこれらの日雇い労働者が使われてるわけだし
一般的に太閤検地が兵農分離の重要な政策といわれるのは、支配者と農民の間で
中間搾取を行う特権や作合を否定し、その結果国人や地侍という中間層が消滅したことを指してる
この賦役の対象を固定化したという点で太閤検地が兵農分離の分水嶺として特別視されてるわけで、
農村の経済発展の結果、百姓に課せられた賦役が金銭納されたかどうかは
その歴史的重要性を損なうものではないよ
つうか現在でも中高生が兵農分離のポイントとして太閤検地を学んでる現状で、
「そんなこと未だに言ってるのは一部の古い人だけ」って言うのはおかしいと思わないのか?
もし太閤検地が兵農分離と無関係であると主張してる学者がいても、
それはそういう説があるというだけで、「通説」とは程遠いものだろう

17 :
差が何を指してるのかわからないんだが

18 :
長期政権を築けたかどうかを言ってるんだとは思うが、道半ばの信長の後を引き継いで天下統一を完成させた秀吉と、秀吉の築いた統一政権を転覆させて無能な徳川将軍家でも三百年近く政権が続くような仕掛けを作っただけの家康とは比較のしようがない
富を築いた大富豪よりもそれをそれを横取りした泥棒の方が偉いって言うむちゃくちゃな論理

19 :
スレタイからして、もっと面白いネタスレにすべきだと思うんだけど違うの?

20 :
>>18
お前はアンチ徳川の強迫観念を早く治す為に病院に帰りなさい。

21 :
関ヶ原の戦いは家康率いる東軍の圧勝に終わった。
そして、大坂の陣でも家康たちの“智略”により、大坂城の堀が埋められた…。
どうしてこうも差がついてしまったのか−。
象徴的なのは、豊臣秀吉亡き後の豊臣家と、“鳴くまで待った”徳川家康だろう。
島津義久は「相手は家康だし、打ち破るのは簡単ではない。三成と秀頼がもうちょっとしっかりしていれば…」
と秀吉恩顧の大名とその継嗣の“不徳”にあきれ顔だ。
織田信長が倒れた本能寺の変の後は、秀吉の方が家康よりも勢いは強かった。
ところが、今やすっかり逆。
「これまで積み重ねてきたものの差が出てきたということでしょう」と三河出身のある武士は話す。
ウサギとカメの例えではないが、物心ついてから人質として、岡崎に帰ってからも小大名として、
信長の無理難題により正室や長子を死なせざるを得ず、時には脱糞するなど苦労に苦労を重ねてきた
家康に対し、幼少期からの苦労では負けていないはずの秀吉に一分の慢心もなかったとは言い切れない。
また、秀吉(豊臣家)と家康(岡崎衆)の「環境の違い」も無視できない。
信長の天下統一事業を受け継いだ豊臣家というだけでチヤホヤされるのに対して、
家康をはじめ三河の武士は戦場で結果を出してナンボ…。
大坂冬の陣の後、秀頼は「今日は今季一番むかついた負けだった。いつもは相手を意識
しないけど、今日は(徳川)家康だし、本当は豊臣家の家来なのだから、絶対に負けた
くなかった」と悔しがったが、今の実力差を再びひっくり返すのは至難の業といえそうだ。

22 :
>>21
内堀を埋めたのは約束違反じゃね?

23 :
個人戦じゃなくて豊臣家VS徳川家って見れば勝敗はあきらかだなw

24 :
>>22
内堀の、しかも東軍側の手による埋め立ては最初から講和条約の中に入ってる。
むしろ約束通りの行動。

25 :
一族や子供に恵まれたかどうかの差じゃない?
息子一人に弟一人、あとは姉の血族やら奥さんの血族
頼みの秀吉に、息子は大勢いて十八松平のように
一族もたくさんいた家康の違い。

26 :
結局、秀吉は自己中で自分さえ良ければよい
強欲な人間だったからだと思う。
人格は家康の方が上。

27 :
家康は自分より上の秀吉や信長がいたら天下をとりにいかない
秀吉が死んで
怖いものがなくなったから天下を取りに行った
徳川が長く続いたのは
順番に恵まれた
譜代がいた
豊臣は秀吉一人の政権

28 :
>>27
徳川と豊臣の能力の差は長く続くような準備をしたかしないかの差じゃないか?
無駄な海外遠征をしたり秀次を殺したり自滅した感じ。
豊臣と徳川の順番が逆なら徳川の世が続いて豊臣の出番は無い。

29 :
秀吉は、織田の武将たちを完全には抑えられなかったんだよね
(小牧・長久手でも)。
恩賞にはやる武将たちに恩賞をやるための朝鮮出兵という一面
もあったんじゃないかと思う。

30 :
よく秀吉が家康を抑えるために、旧織田系武将の筆頭として、前田利家を厚遇したと言われるが、
むしろ秀吉は利家を始めとした織田系武将を抑えるために、外様である徳川や毛利といった諸侯に
大きな権力を与えたように見えるんだよな。

31 :
徳川の五ヶ国総検地は太閤検地の一環だったような。

32 :
別種のものと言う再批判がなされました

33 :
徳川と毛利には同族化という幻想を頑張っただけだろうけどな。

34 :
>>25だが、何で誰も一族子孫の違いに触れないんだ?
秀吉が晩年劣化しなくても、関が原の処理で豊臣の
直轄地や鉱山が取り上げられなくても
「豊臣と名乗る大名は若年の秀頼だけ」
「徳川、松平という大大名が地方にいくつも存在。その首領の
家康は政治を取り仕切ってる」
から豊臣はジリ貧になっていたと思う。
豊臣恩顧大名も、代替わりした子供の世代には
強そうな方に付きそうだしな。

35 :
>>34
とりあえず本姓と苗字の違いがわかるまで書き込むな

36 :
>>35
豊臣は本姓と苗字兼任と思うんだが。

37 :
本姓豊臣の名乗りは多くの大名に許されてる

38 :
だが豊臣に従った家は多くはなかった
血縁の力だろう

39 :
家康 利家 輝元 隆景 氏郷   長康 如水 三成 正家 長盛
家康 輝元 氏郷 直家 景勝   如水 三成 行長 吉継 玄以
輝元 直家 景勝 義弘 政宗   三成 行長 吉継 叡恵 兼続
直家 政宗 義宣 輝政 秀康   三成 行長 兼続 高虎 勝元 
直家 長政 宗茂 利常 盛親        

40 :
直家だと
同僚の大半は暗殺だな

41 :
秀吉はあまりに易々と天下統一してしまったからいけなかったのだお( ^ω^)
古来より負け方を知らない人間は勝ち方も知らないと言うお
その点家康は惨敗したり辛勝がせいぜいで驕る余裕もなく
今川、織田、豊臣と、人生の大半を強者に媚びへつらい消費してきたお( ^ω^)
だから弱者の機微を熟知しており統制の役に立ったのだお( ^ω^)

42 :
>>34
なあ、家康も豊臣一族なのを知ってそう言ってるのか?
あと、徳川、松平は後期だよね、時代がごっちゃになってる。
家康も、親兄弟いないところから這い上がって来たんだよ。
まあ、松平党がいたけどね、その差はでかいか。

43 :
そうなんだよな
秀吉は家康を親族として信頼している面もある
秀頼も徳川家の一員になればよかったのにな

44 :
何を馬鹿な事を┐ (´ω`) ┌
家康が豊臣一族になるのと秀頼が徳川一族になるのは全く異なる事だお┐ (´ω`) ┌

45 :
日光に行きたくなってきた。

46 :
淀のババアがいる限り無理
あのデブは死ぬまでかまぼこさえ食えればそれでも良かったのかもしれないが

47 :
秀頼と家康の二条城の対面は、秀頼が家康の「いる」場所に出向いていったわけだから、
言い訳の仕様もなく臣従の儀式なのに、なぜその対面の後になって、既に世間的には
徳川家臣である豊臣家を、主戦派が仕切るようになったのかが良くわからん。

48 :
追い込まれすぎると、人は距離感を無くして狂うもんだ
大日本帝国の滅びようを見なよ

49 :
何を前提に書かれてるのか、意味のわからないレスばっかりだなー
主張がなんなのかすらわからない

50 :
だがそれがいい

51 :
家康は秀吉に頼まれたように秀頼を残すつもりだった
秀吉は自分が死んだら家康が天下を治めるのがいいと思っていたんじゃないか
できれば豊臣は西で徳川は東をみたいに

52 :
ないと思います

53 :
秀吉はどうやって国を平定するのかについては抜群にアイデアがあったけど
どういう国家にしたいのかについてはあまり伝わってこない
対外戦争や豪華な建造物ばかり作っていたイメージしかない

54 :
秀吉の国家観の無さは、多くの研究者が指摘してるな。

55 :
具体名を頼む

56 :
まず戦国時代における国家観の説明をしてくれ

57 :
研究者とは違うと思うが、山内昌之がそんな事言ってたな>秀吉の国家観の無さ

58 :
秀吉が信頼していた大名って家康が一番じゃないか
たとえ自分の死後家康が天下をとっても別にいいと
どうせなら死ぬ間際に徳川に譲ってしまえばよかったんだよ

59 :
天下人にとっては一挙手一投足が政治
家康は律儀者と言い続けたのも政治だろ

60 :
いや、秀頼のことお頼み申すって頼んでるやん、
あくまで五大老と五奉行に秀頼を支えてって欲しかったんだよ。

61 :
平和の使者である神君家康公に逆らう暗愚秀頼では頭脳明敏な秀忠にも到底及ばない

62 :
つーか秀頼は、家康に対して兵を挙げるなら二条城対面のときじゃないとおかしい。
あれで世間的には豊臣も、徳川傘下に入ったって認識するんだから。
対面終わった後に、騙されたとでも思い始めたのだろうか?

63 :
秀吉は織田秀信に13万石しかくれてやらなかったのだから、秀頼もその程度で満足すべき。
秀頼の側近が思い上がっていたんだろうな。

64 :
>>59
ホントにこういう司馬史観の奴っているんだな

65 :
武田などの強豪と戦いながらも織田・徳川同盟を守り
続けたのはやはり律儀だからではないだろうか。

66 :
武田になびくという方策もあったはずだからね。

67 :
>>60
本当に秀頼を身を案じているならば、朝鮮出兵なんてさっさと止めるべきだし
大老制度だって生前から運用を始めて実務面を詰めるべきだろう
面倒なことは何もせずに全て丸投げしておいて秀頼を支えろと言われても
家康だって困り果てるよ
何もしないなら豊臣政権の存在価値なんてないのだから

68 :
>>65-66
当時の織田と武田の国力差知ってて言ってんの?

69 :
>>68
国力差なんて相対的なものだ。
つーか信玄の在世時、「国力」というほど織田権力はまだ統合されてない。
ゆるい織田権力集団がやっと形成されていたに過ぎんよ。

70 :
>国力差なんて相対的なものだ。
意味がわからない

71 :
>>70
織田権力が「公儀」化していない以上、その差というのは「絶対的」じゃないって事。
これでも解らない?

72 :
全くわからんね

73 :
秀吉と家康を互いに認めあっていた
徳川、豊臣は親戚なんだから仲良く日本を治めればよかったのに
秀頼は右大臣にもなっている。家康は秀吉に頼まれたように秀頼を残すつもりだった。

74 :
>>68
武田は川中島や三方原の戦い(徳川惨敗)をみても分かるように、
戦に強い。
下手すると滅ぼされかねまい。

75 :
>>74
武田が戦に強いのは同意だが、三方が原当時に
織田と武田の国力差は織田400万石、武田120万石と織田が圧倒的に大きい
徳川が織田との同盟を捨てて武田に走る合理的な理由なんか見出せない
「武田になびくという方策もあったはず」なんて話は成り立たないと思うよ
織田・徳川同盟が続いたのは家康の律儀な性格によるものでなくて
冷静に現状の力関係を分析した結果でしょう

76 :
>>75
数字だけ見りゃそうだが、当時織田は四方に敵を抱えていて広がった勢力圏は
むしろ重荷に働いていた。
冷静に分析しても、あの時正しく東の防波堤であった家康が武田に着けば、織田勢力圏が
重大な危機を迎えたことは容易に想像できる。

77 :
>>76
石高は兵の動員力と直結しているが、石高を軽視する理由は?

78 :
>>77
当時の織田の軍役体制は、石高とあまり連動していなかったから。
つーか、信長勢力圏の軍役体制は、慣習に頼った、当時としては遅れた動員制度で、
武田のように整備されていなかった。
そして信長は、味方に参じた者は、軍役に従う限りはそれまでの既得権を丸呑みにしていたので、
織田家は必ずしも充分にそのスケールメリットを享受出来ていた訳ではなかった
(それでも畿内の人口、経済力のメリットは勿論大きかったが)
あの辺は信長も綱渡りで勢力圏を保持していたというのは、頭に入れておいたほうがいいと思うよ?

79 :
織田の軍役体制が石高に連動していなかった
織田の軍役体制が遅れた制度で武田に及ばなかった
どちらも初めて聞いたわ
織田の勢力軽視にしか聞こえないけどな

80 :
>>79
それをはじめて聞いたのなら君は勉強不足だわ

81 :
検地すら織田政権後期にならないと行われないのに石高に応じた軍役なんてそりゃ課せないだろ

82 :
織田家って傭兵制だっけ?
武田は農民兵だったのか?

83 :
織田は兵農分離のはしり
武田は半士半農

84 :
>>83
織田は兵農分離なんて行われてないよ。
その軍団の構成も武田とかと大きく変わるものじゃない。
確かに傭兵としての足軽部隊を使ったのは確かだが、そういうものは織田に限らず
使われていた。
信長の軍隊に新しい所などひとつも無い。軍役体制などはむしろ遅れていたといっていい。
彼らが強かったのは足利将軍権威に寄って、人口の多い畿内で軍役を比較的効率的に課せた事と、
ここが信長の軍隊の肝だが、信長の下に徴収された兵員を使う司令官に優秀な人間が多かったことによる。

85 :
織田は兵農分離を行っていないなんてのは極端すぎるな
徹底的に推し進めたのは秀吉の検地、刀狩だが

86 :
豊臣は親族と親族待遇、譜代大名が無能すぎバラバラすぎ

87 :
>>85
太閤検地は軍役体制の強化のためのもので兵農分離とは関係ない。
刀狩にいたっては大規模一揆への対処法でしかなく、これも兵農分離と何の関係もない。
つーか、この当時兵隊だけでは戦争行為は完結できない。信長も秀吉も農村からの軍役に
頼り切っていたわけで、兵と農はむしろ密着していた。
兵農が分離したのは江戸期に入ってから。

88 :
秀吉は「組織」というシステムを構築しなかった。
個人の力量に頼り過ぎた。

89 :
>>87
太閤検地や刀狩が兵農分離と何の関係もないわけないでしょ
その政策を通して身分の固定化、安定化を推し進めていたんだよ

90 :
>>89
身分固定と言うのはむしろ、国内で戦争がなくなったことから起こった自然な流れであって、
(農民だって軍役なんかしたくはない、戦いが無ければ戦いたくない。)
秀吉の政策とは関係ない。
それに安定化などというが、秀吉の時代に農村はまったく安定していない(朝鮮役の軍役で
全国の農村が荒廃しておる)、これは政策的な矛盾でしょ?
江戸期になって定着した兵農分離を、織田や豊臣の政策に求めるのは間違い。
豊臣期と徳川期では、農村政策が大きく転換している。
農村の安定化は、徳川の政策だよ。
信長が大軍を動員できた理由を兵農分離に求めるのも間違い。
単純に人口が多く飛びぬけて経済的に発展していた畿内のスケールメリットを
信長が享受できたからに過ぎない
(信長に関してはそのスケールメリットを把握できたことにこそ天才と言う評価を与えるべき。)

91 :
>>90
身分固定が為政者が何もしなかったけど自然にそうなったなんてことはありえない
宗教と結びついて一揆を起こす農民を政策よって抑えるのは天下平定後の課題だ
秀吉の政策とは関係ないなんて無理がありすぎ
朝鮮役の軍役で農村が荒廃なんてのは検地、刀狩とは全くの別物だ
むやみに混同しない方がいい

92 :
>>91
正直太閤検地や刀狩を過大評価しすぎだと思う。
太閤検地の画期は、戦国大名の政策であった、均一の基準による軍役の賦課が、
統一政権によって全国的に、大名に適応されたことであって、住民把握とはまた別の話。
刀狩にいたっては全国法として発布された証拠は一切存在しない。
九州や東北などで部分的に実施されたに過ぎない。
身分固定のための施策というには弱すぎる。
しかも実施された九州や東北ですらルーズで不徹底だった。
統一政権による直接の住民把握は、寛政期の宗門改め、万改帳の成立による
事実上の戸籍制度の発足からだよ。
身分固定などもここから起こったと考えるのが自然。

93 :
>>92
太閤検地は土地の所有者ではなく、耕作者を調査し、耕作者に課税している
耕作し納税する人物をハッキリと規定したということだ
刀狩は3か条からなるけど最後の条で
 百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮せる。
 百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。ありがたく思って耕作に励め。
と言っている
この頃から武士と百姓を分けようとする意図が見えるでしょう?
豊臣政権の頃はまだ完全施行とはいかずに、その後の江戸幕府体制を待たないと
徹底的に行われなかったのも、ある意味事実だが、それをもって
太閤検地や刀狩が兵農分離と何の関係もないというのは暴論過ぎると思う

94 :
>>93
うーん、「武士と百姓を分ける」って考えは、鎌倉以前からの常識で、当時の
社会通念みたいなものでしょう?豊臣政権から言われるまでもないことかと。
兵農分離の議論をするといつも疑問に思うのは、農村から賦役、使役と言う形で動員される
人々を、「兵士じゃないから」って理由で無視する人が多い事。
彼らがいないと軍隊の運営自体が不可能なのに。
この賦役、使役を農村ではなく、都市に集まる労働者からまかなえるようになったのは
やはり江戸期から。
これは一国一城令による足軽も含めた家臣団の、藩都と呼ぶべき城下町への集結で、
各国の都市規模が一気に大きくなったことが大きい。
こういう部分から考えても、兵農分離とは江戸期の現象であると理解すべきだと思うよ?


95 :
鎌倉期こそ武士も農民も渾然一体だと思うんだがな?
自分の耕した土地を自分の力で守るから「一所懸命」なんて言葉もあるし
経済安定期を経て職業としての武士と農民が完全に分離したのは江戸期だろうが
豊臣時代から武士と農民を分けようという意図があったことは明らか
太閤検地や刀狩が兵農分離と何の関係もないわけは無い

96 :
>>95
違う。鎌倉期の武士は「農園経営者」ではあるが、農民では決して無い。
一所懸命の一所とは、耕した土地のことではなく、所有する土地のこと。
武士の発生当初から、農民と武士は既に分離していた。

97 :
上のほうで名前が挙がってる山本博文氏は近著で刀狩と太閤検地は身分固定の端緒となったとして
その歴史的意義は強調しすぎることはないとしているけど。

98 :
>>96
鎌倉期はほとんど武士=農民だよ。支配者がという意味じゃなくてね
普段畑を耕して何かあれば武器取ったんだよ


99 :
>>96
当初から分離してたのかよw
最初と言ってることが180度変わってるぞw

100 :
>>98
鎌倉期でも武士と農民は違うぞ。武士と言うのは最低限何らかの領地、領民を持つものだ。
自分で畑を耕す連中ではない。
>>99
ん?もともと農民とは違う出自の「武士」が、(それこそ農民が徴兵によって集められた律令軍隊とは
別の軍事組織として形成されたのが武士なんだから当然だが)
武士が権力と人民を掌握していき、かつ合戦の大規模化、常態化によって、農村に日常的に使役を
賦課するようになったのが、兵農一致常態だぞ?
物事には「経緯」ってものがある。

101 :
おかしくないでしょ?
大きな流れとしては
専業武士たち同士で合戦をした源平の時代から徐々に集団戦の時代になって
戦国の終わりと共にまた士農分離されるというのは一般的な見方じゃないか?
何を噛み付いているのか分からん

102 :
秀吉と家康の差は生殖能力の差

103 :
>>97
山本博文さんの「天下人の一級史料」、自分も軽く目を通してみたよ
なんつうか今時珍しい筋金入りの一次史料原理主義者つう印象だね>山本氏
この種のアプローチは比較的史料が豊富に残されてる江戸時代以降では有効でも、
史料の散逸が甚だしい戦国時代の研究には根本的に向いてないと感じた
山本氏の学問的業績見ても、評価されてるのは基本的に寛永以降の研究みたいだし
その山本氏でも秀吉の人掃令については、唐入りのための
時限法に過ぎなかったと主張する高木論文には懐疑的であり、
それらが結果的に近世身分制度の礎となったと主張してるわけで


104 :
鎌倉の武士が率いている兵が普段畑を耕してるなんて常識だろ。

105 :
スレ違いなんで他でやって

106 :
>>104
あと、そう言うものは資料を出してから言おうね。

107 :
このスレで資料もちだして語る奴なんていたか?

108 :
関ヶ原の戦いは家康率いる東軍の圧勝に終わった。
そして、大坂の陣でも家康たちの“智略”により、大坂城の堀が埋められた…。
どうしてこうも差がついてしまったのか−。
象徴的なのは、豊臣秀吉亡き後の豊臣家と、“鳴くまで待った”徳川家康だろう。
島津義久は「相手は家康だし、打ち破るのは簡単ではない。三成と秀頼がもうちょっとしっかりしていれば…」
と秀吉恩顧の大名とその継嗣の不甲斐なさにあきれ顔だ。
織田信長が倒れた本能寺の変の後は、秀吉の方が家康よりも勢いは強かった。
ところが、今やすっかり逆。
「これまで積み重ねてきたものの差が出てきたということでしょう」と三河出身のある武士は話す。
ウサギとカメの例えではないが、物心ついてから人質として、岡崎に帰ってからも小大名として、
信長の無理難題により正室や長子を死なせざるを得ず、時には脱糞するなど苦労に苦労を重ねてきた
家康に対し、幼少期からの苦労では負けていないはずの秀吉に一分の慢心もなかったとは言い切れない。
また、秀吉(豊臣家)と家康(岡崎衆)の「環境の違い」も無視できない。
信長の天下統一事業を受け継いだ豊臣家というだけでチヤホヤされるのに対して、
家康をはじめ三河の武士は戦場で結果を出してナンボ…。
大坂冬の陣の後、秀頼は「今日は生涯で一番むかついた負けだった。いつもは相手を意識
しないけど、今日は(徳川)家康だし、本当は豊臣家の家来なのだから、絶対に負けた
くなかった」と悔しがったが、今の実力差を再びひっくり返すのは至難の業といえそうだ。

109 :
秀吉はその気になれば家康を滅ぼすこともできた
しかし、秀吉、家康は互いに信長の下で苦労してきて、認め合っていた。
滅ぼすよりもともに天下を治めようと思った。
家康もそのつもりだったが、秀頼や淀の対応が悪すぎた。

110 :
そんなスポーティーな話かよ

111 :
自明のことに一々資料と噛み付くのは負け犬の証拠

112 :
カオスだな・・・

113 :
秀吉は一時本当に一番になった。家康が1番になったころは秀吉が
一番になって栄華を極めた後。秀吉対家康ならどちらも1番。
長続きしたほうが勝なら徳川。2世の出来は1世を超えるものは
でないね。ただ秀吉にとって不運なのは計算が狂って秀次がじゃまに
なったこと。60近くに跡継ぎ誕生じゃ老後の計画が狂いまくり。
豊臣家にとってはかえって実子(?)がいないほうがすっきりした。
秀吉の栄華のあとで実子に恵まれず計画通り秀次の代にうつれば徳川時代に
果たしてなったかどうか。利休もRことなく秀吉が先に死んでいたら
秀次は無理に戦争をしなかったのでは。徳川対秀次で関ヶ原になったかどうか。

114 :
サルは譜代が少なすぎた。
戦国を代表する出世頭だがそれが逆に仇になった。
出自はごまかせてもそこはどうしようもないからな。
逆に普通に大身の武家にでも産まれて
結果天下取れてたなら付け入られる隙があっても防げたろうに。
俺は秀吉と家康の差は家臣とみとる。

115 :
みなさんこんなネタスレなのにまじめですね。
http://find.2ch.net/?STR=%96%9D%90S&TYPE=TITLE&BBS=ALL&ENCODING=SJIS&COUNT=50

116 :
だがそれがいい

117 :
>>114
おっと、足利幕府の悪口はそこまでだ。

118 :
足利も豊臣も力で天下取ったけどその後のビジョンが見得てこないんだよ
豊臣の世が続いても室町時代みたいに各大名が勝手なこと始めて太平の世にならなかったと思うぞ
やっぱりブレーンの核に宗教家、学者を据えて日本のあるべき国家を真剣に考えていた家康は偉大だ

119 :
■ おすすめ2ちゃんねる 開発中。。。 by FOX ★
このスレを見ている人はこんなスレも見ています。(ver 0.20)
今まで28年間彼女出来たこと無いんだが・・・(4) [もてたい男]

これは生まれもった外見の違い

120 :
バカだな
徳川の太平の世がが日本に停滞をもたらしたんじゃんかよ
足利将軍だって5、6代くらいまでは大大名や関東公方征伐したりして力あるし、徳川将軍も実質的にはそれくらいまでであとは紀州藩に乗っ取られてるわけだし豊臣もそれくらいもてば良かったんだよ
であっさり享保維新で倒れて開国しとけば今頃日本は世界の超大国だったんだよ
それが家康がせこいクーデターなんか起こすからアメリカのいいなり、中国や北朝鮮にさえバカにされるような国に成り下がってしまったんだよ

121 :
それは戦後の話じゃんか。むしろ教育が行き届いていたおかげで、わずか40年で世界に追い付いたんだよ。
欧米の回想によると、「日本の鎖国の扉を開けたら、強い日本人が飛び出してきた」そうだ。

122 :
ほんとバカだな
そもそも鎖国しなければ40年かけて追いつかなきゃならない遅れなんか生じないしアメリカに負けるわけもないだろ
黒船来る頃にはもう大東亜共栄圏できてるし太平洋戦争の頃には東シナ海や樺太から石油が供給されてたんだよ

123 :
アメリカ50洲にはなかなか勝てまいよ

124 :
>>122
中東やアフリカなんかの、鎖国してない国々がヨーロッパに差をつけられやられた事をご存知?
ヨーロッパが近代化したのは、新大陸からの気が遠くなるような収奪のおかげだ。
日本が遅れた事に鎖国云々は、関係ない。
(つーか今時、『鎖国』なんて言葉は使わない。一般に管理貿易体制と理解されている。)
知識がないのに無理して歴史を語らないほうがいいよ?

125 :
このスレ立てた人は、もっとネタっぽいスレにしたかったんだろうが
ネタにマジレスしちゃう奴がいて、ちっともネタスレにならないなw

126 :
日本史板かと思いました、いやマジで。

127 :
だがそれがいい

128 :
>>124
その管理人が無能だったのが遅れを取った原因だったわけだけど( ^ω^)
それに貿易は行われていたといっても交流は制限され
幕府の監視下で極めて局地的なものであったのは事実だお( ^ω^)
何より海外情勢を知らなかったならともかく、幕府は知っていながら黙殺し
外交は幕府が自ら一手に引き受けていながら何もしなかった
欧米の躍進を知りながら何ら政策も施さず惰性で政を続け
国内に土足で踏み込まれてから慌てふためき言われるがまま不平等条約を結び
およそ150年経った今日に至っても覆せぬ日本史上最大最悪の負の遺産を残したお┐ (´ω`) ┌
この間に損なった国益は想像を絶するものであり徳川家・幕臣全て極刑にしても飽きたらぬ大罪だお(#^ω^)ピキピキ
それに僅かな間に日本が欧米に追い付いたなど妄言に等しい
技術というものは決して一朝一夕にはならいお┐ (´ω`) ┌
日本は上辺だけを真似しただけに過ぎず総合的な技術を底上げするには到底及ばなかった
例えば設計は完璧でも材料学が追い付かずバネ一つパッキン一つとっても
計画値を満たせず性能は格段に落ちるといった状態でちぐはぐな技術だった
結局日本が欧米に追い付くには100年の時を要したお┐ (´ω`) ┌
つまり維新後に流入した学問が実を結ぶまでを待たねばならなかったわけだお( ^ω^)

129 :
>>128
遅れをとったとか言ってるが、需要のない技術が根付くわけないだろ。
当時の中国の状況を見てもわかるが、欧米の技術地というものは、東アジアにおいて
「必要」が無かった。
国防の問題にならない段階で、いわゆる産業革命の成果を日本社会に取り入れる必要は
まったく存在しなかった。日本は黒船により国防問題に直面したが故に、近代化という名の
産業革命の波に巻き込まれたに過ぎない。
そして幕末、日本における産業革命をリードしたのも中央政府である幕府だ。
明治政府の初期の政策は、その幕府の成果に多くを負っている。
その後の急速な近代化を考えても、幕府が無能だとはとてもいえない。

130 :
>そして幕末、日本における産業革命をリードしたのも中央政府である幕府だ。
>明治政府の初期の政策は、その幕府の成果に多くを負っている。
大方小栗あたりが幕府の余財を使ってせっせと西洋文明を摂取しようとしたことでも指してるんだろうが、
幕藩体制という構造的欠陥を抱えながら近代化が成功するわけがないんだけどな
小栗や榎本がいくら頑張ってもどうしようもなかったのが江戸幕府であり日本の近世封建制の限界
その創始者である秀吉や家康に責任を求めるのは酷だろうが、以降の徳川将軍や幕閣の不見識は責められても良い

131 :
秀吉は開放政策というか積極策
鎖国の責任は自分の後継者の無能ぶりを考えて、自分の死後鎖国するよう遺言した家康

132 :
秀吉は有能な人間こそが日本を統治するシステムを模索し、秀頼への愛情との狭間で苦悩しながら、家康に政権を託した
家康はバカでも無能でも自分の血が少しでも入っていれば将軍が務まるシステム作りだし日本に停滞もたらした国家への業務上背信

133 :
低脳秀吉厨連投乙

134 :
>>131
> 秀吉は開放政策というか積極策
> 鎖国の責任は自分の後継者の無能ぶりを考えて、自分の死後鎖国するよう遺言した家康
歴史知らないのに無理して書き込みしなくても…

135 :
豊臣政権も家康に開放した秀吉は本当に偉人ですね

136 :
秀吉は豊臣政権が長く続かないことを知っていたのだろう。
己の無力さを悟っていた点と、統一事業の後継者に家康を選んだ点では評価できる。

137 :
続いて欲しかったから、秀頼の事お頼み申すって家康に言って
ったんでないの?

138 :
秀頼の事ではなく、豊臣家の事を頼みますって書かれた文章ってあるのかな?
秀頼の事=豊臣家の事って考えるのが普通だけど・・・・あえて穿った見方をしてみる。

139 :
>>129
必要があったじゃんお( ^ω^)
必要だから幕府も慌てて欧米文化を取り込もうとしたわけだお
それに黒船の来航で突然国防問題が沸き起こったわけではないお
以前から幕府は世界情勢を知っていたし、ペリー来航の30年も前から外国船の来航が問題視されていたが
幕府はたいした対応もせず臭い物に蓋で見てみぬふりをした
そして何の対策も考えなかった幕府はペリーの威圧に慌てふためき醜態を曝し
民衆一般にまでその無能さを知られてしまい不安と不満が爆発する結果を招いたお
幕府はこの期に及んで地方の知識人をかき集めた付け焼き刃で挑んだが
結果は知っての通り外国どころか諸藩にすら遅れをとって瓦解したお( ^ω^)
結局幕府が残したものと言えば莫大な負の遺産だけだったお┐ (´ω`) ┌

140 :
>>139
幕末は9割9部まで公武合体による国家改造が規定路線だったじゃん。
それが倒幕にいたったのは孝明天皇の急死とそれによる岩倉、西郷などの過激派が
主導権を握ったため。明治維新が倒幕と言う方向に至ったのは「偶然」に近い、って言うのは
今の維新史の研究では常識だと思うが。
幕府の企画していた改革と、明治政府の改革との間に、どれほどの差があったと思う?

141 :
>>139
江戸幕府の業績をネガティブにしか見ないのは
よほど偏った歴史観の持ち主であることを告白しているようなものだお┐ (´ω`) ┌

142 :
江戸幕府の業績ってなんか目立った業績あったっけ!?

143 :
参勤交代?

144 :
>>140
天地ほどの差があるお( ^ω^)
幕府はあくまで幕府の維持が最大の目的
大日本帝國は富国強兵による列強圧力の排除と国際地位を向上させ対等な国交を樹立させる事が最大の目的
要は幕府の尻拭いに終始したわけだから
連続性があると言えばあるけど( ^ω^)

145 :
またアンチ徳川の病人ががんばってんのか

146 :
石田スレがたったぞ。巣に帰れ

147 :
徳川は豊臣の後を継いだ
秀吉は別に天下なんぞは
信頼していた家康に治めてもらうつもりだった

148 :
>>142
文化財の保護
大名たちに治水工事など各種やらせる

149 :
秀吉の時代が超外向きすぎたんで、その後に国内を充実させるのは悪くない
でもそれがあまりにも長すぎたのが日本にとって不幸だった
それも外交を独占していたくせに新しい技術を取り入れるわけでもなく、何事も前例どおりの巨大な官僚機構じゃね
ほんと寸でのとこで明治維新起きて良い方向に舵切れて良かったよ
外国に攻め込むほどの豊臣と危うく外国の植民地にされそうだった徳川
なんでこんなに差があるの?w

150 :
それは徳川末期の事じゃまいか
だから秀吉は未だに朝鮮では評判が悪い

151 :
>>149
不幸だった・・・って、何か不幸だったのか?
歴史ってさ、時代の流れがあるんだよね。
しかも、秀吉の時代と、幕末を一緒にしているあたりが・・・大丈夫か?

152 :
たしかに歴史には流れがあるから幕末までを一つの流れとして比較したんだが?
それがおかしいというなら豊臣衰退期と徳川隆盛期だけを比較するのもおかしな話
秀吉と家康の同時代を比較するならかたや天下人かたや関東のいなか大名で秀吉の家臣
秀吉なんか最初は足軽なのにね
なんでこんなに差がついちゃったんだろw

153 :
>>152
300年前と後を単純比較するのがどれだけおかしな事か理解出来ないんだな君は。

154 :
都合のいい時代設定しなきゃ満足にRーもできない引きこもり家康厨おつw

155 :
>>113
同意

156 :
>>154
結局それかよw
お前みたいなタイプは自分がどれだけ恥ずかしい事を言っているか理解すらしてないから困る。

157 :
たしかに
徳川は豊臣にやられたな
でも秀吉から
天下を譲ってもらってよかった

158 :
82 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 09:18:29
戦国板家康スレで政宗厨が暴れている

意味が分からん

159 :
スレタイにある秀吉ではなく政宗?

160 :
「仙台藩百姓」とかいうコテハンのことでしょ。

161 :
>>160
馬鹿?

162 :
>>161
そうだね。仙台藩百姓は馬鹿だね。

163 :
>>162
お前が

164 :
>>161>>163=仙台藩百姓、乙。

165 :

-政界事情通生の声 ◆cc3RB/STnCwU氏
8月上旬に民主獲得議席数307と予想。
】生の声が政治を語る9
http://changi.2ch.net/test/read.cgi/yume/1250922463/7
http://c.2ch.net/test/-/yume/1250922463/i


166 :
仙台藩百姓の知識は結構すごいと思う

167 :
そうかな

168 :
元寇のとき朝鮮人に対馬をのっとられ、民間人が
虐殺されたのをご存知でしょうか?
さらに女子供も連れ去られ、高麗の王に献上された。
その対馬が今朝鮮人たちに「対馬は朝鮮のものだ」とか
言われてるんですが、どなたかご意見ください。

169 :
環境だろw 家康んとこは先祖は怪しいけどそれでも代々の領主だし
譜代もおる。最下層から天下取ったんだから充分。その上、子々孫々
まで繁栄なんて間に合わないお。

170 :
>>166
ぷらっと氏に完膚なきまでに叩かれたのをご存知ない?

171 :
>>170
あら、そうなんですか。知りませんでした。
奇橋屋onぷらっと氏はもっと凄いんですね。
勉強になります。

172 :
何だか名前が出されたので書いておこう。
オレの知識はwikiと岩波書店・小学館の「日本の歴史」を読んだ自己解釈に過ぎません。
断言しておきますが、オレは自分が調べたことのない家系に絡む人物の知識は小学生以下です。

173 :
文献調べたり高度な事やってるのかと思ってなんの話をしてるのか追うと
くだらないトンデモ解釈なのがほとんど

174 :
とはいえ文献に示されてる事柄が全て真実かというとそれもまた疑問符がつくわけで。
あれこれと想像をめぐらし、いろんな解釈を見たり聞いたり出来るのも2chの素晴らしさだと思いますよ。

175 :
別に奇矯屋onぷらっと氏も、仙台藩百姓も、名無しでただ揚げ足取りだけしてる書き込みよりはマシだと思うけどな。
「ご存じない?」とか、他人がやった事を誇られても、単発の人間としては処置に困るわw

176 :
マシも何もないだろw

177 :
ぷらっとって織田厨?

178 :
>>174
コンセンサスの得られない解釈、想像は妄想と呼ぶべきで
人様に開陳するべきではないよね
専門用語でいうところのチラ裏

179 :
家康に信長死後の天下統一はできたのか?
秀吉にトップが無能でも問題ない長期政権が作れたのか?

180 :
史実どおり

181 :
そもそも無能がトップになれる政権を創るべきではないお( ^ω^)

182 :
さすが戦国DQN四天王・筆頭の治める土地の人は、言うことのキレが違う!!

183 :
秀吉に二十歳過ぎの跡取りがいれば問題なかったろうに
そうすれば、家康も野心を持たずに豊臣政権の大老で終わってるはず

184 :
後継者のいない権力者って駄目だよね

185 :
秀吉は自分でその後継者をぶっ殺したからな。自業自得。

186 :
で、家康が仕方なく天下を取ってやったと。

187 :
つーか、秀吉の死後、実質的に既に家康の天下だった。
官位一つとっても政権内どころか、豊臣家の誰よりも上だし。

188 :
え?ねねは従一位じゃなかったけ?

189 :
家康の一族は性格が異常だったり知能が著しく劣る人物が多かったからな
そんな子孫でも無事治められる政権システムを立てた家康はやはり非凡な政治家だったよ

190 :
>>189
> 家康の一族は性格が異常だったり知能が著しく劣る人物が多かったからな
またそう言うデマを

191 :
一族を挙げてもらえばよろしい。
大河「徳川三代」家光が秀忠に「忠の字は不吉にござる」と吐き捨てたシーンを思い出した。

192 :
松平信康:盆踊りで民を射殺したりとアレな逸話が伝わる
結城秀康:秀吉の家臣を無礼討ちするなど激しい気性で有名、梅毒
松平忠輝:乱暴な素行が父に嫌われて改易
亀姫:逆恨みで宇都宮城釣天井事件を起こす
督姫:毒饅頭で義理の息子の殺害を謀る
徳川家光:ガチホモ、辻斬りをやってたという説あり
徳川忠長:後継者争いに敗れた後の狂乱が伝わる
松平忠直:家臣を討ったりと乱行が目立ち改易
千姫:色情狂
特に子供・孫の世代におかしな奴が多いな
その後の将軍も馬鹿ばっかだし

193 :
信忠や広忠も暗愚であったと言われるし
清康も家臣に殺されてるぐらいだし
先祖も大概だお( ^ω^)

194 :
ヒデヨリが家康の挑発に乗らずに家康が死ぬまで時間稼ぎができれば、徳川の世をひっくり返すこともできたかもしれないな
伊達と前田、福島あたりは味方につくやもしれん

195 :
つーか大阪の陣はむしろ豊臣側からの挑発だろ。

196 :
福島前田はともかく伊達はどうかな・・・

197 :
前田も利常じゃ無理だ

198 :
淀殿に現を抜かした時点で豊臣家は詰んでた

199 :
>>193
三河を統一しそうだった清康の死は守山崩れとも言われるね。

200 :
200

201 :
城下に来ては身分を隠し人を斬っていた将軍が居たらしい

202 :
水戸老公ですね

203 :
城下に来ては身分を隠し町娘を強姦していた暴れん棒将軍

204 :
それはない
通報した

205 :
水戸黄門が若い頃、命乞いまでした乞食を切り殺したのは事実だけどな

206 :
×事実
○伝承

207 :
秀次を殺してしまったこと
蜂須賀、
前野を遠ざけたこと
秀吉があと十年長生きしていれば問題なかった
朝鮮出兵をしないこと

208 :
>>207
朝鮮出兵は武将達への恩賞として土地を得るという一面もあり
当時拡大していく織田政権の方針を受け継いだ政権として仕方
なかったのかなと思う。
その点、徳川はうまくシフトチェンジしたし、織田信長じたい
領地ではなく茶の湯をステイタスにしたりしていたので、彼が
生きていたら日本はうまく中世から近世に変わっていたと思う。

209 :
>>208
武力があり余っているから外征を始めてみるというのは悪くない
悪いのは、行き詰りが明らかになっても手を引かずに死ぬまで続けていたこと
せめて後継者が幼児になると決まった時点で朝鮮の領地獲得を諦めるくらいは決断しないと駄目だよ

210 :
家康は天下のことを考えていた。しかし秀吉は自分のことしか考えていなかった。

211 :
本当に天下のことなんか考えてたら、とてもじゃないが関が原や大坂の陣のような
大乱は起こせない。

212 :
逆だろ
天下のことを考えていたから、無用有害な豊臣などというものを、武力を用いてでも
排除せねばならなかった。

213 :
家康や徳川だけじゃなく外様に至るまで汚らわしい豊臣を根絶やしにしなくてはならないと思っていたはず

214 :
なぜ汚らわしいんだ?

215 :
そういうことにしておかないと、権現様がやったことを擁護できないから。

216 :
家康は豊臣を滅ぼそうとまでは思っていなかった。
豊臣側に頭のいい奴がいなかった、つうか淀が聞き入れなかったのが×

217 :
家康は悔しかったんだろうな
自分より格下の秀吉に天下を取られて。
もっとも秀吉がいなければ家康は天下など取れなかっただろうに
豊臣政権で秀吉が優遇してやったからな
家康も秀頼を殺したり、豊国神社を破壊したりしなければ評価ももう少し違ったかもしれないな。

218 :
>>217
しかし、豊臣放置だと後々が怖すぎるぞ

219 :
その場しのぎの行動ばかりの秀吉と、先々を見越しての行動をする家康の違い。当然家康に人が集まる

220 :
秀吉にとっては、
天下など家康にくれてやってもいいと思っていたかもな。
ある意味、家康を残しておいたのも、千姫と秀頼を結婚させたのも
武家の徳川と公家の豊臣で東西上手く日本を治めてほしかったんじゃないか。
それにしても、家康は豊臣家怖かったのかね
秀頼を滅ぼしたら、すぐに安心して死んだもんな。

221 :
へ?
百年先を見据え壮大な大陸侵攻計画と後継者選別を行い結果的に失敗したけど
先進的な秀吉が、
なんの国家戦略ももたずにただ単に政権奪取と維持だけしか考えていない家康
に比べてその場しのぎ?
家康は人騙すのうまくて諸大名が騙されまくったけど、
400年後の人まで騙すとは!さすが神君!!!

222 :
十年先の関ヶ原で家康に勝たせるために
西日本の大名を疲弊させる大陸侵攻計画と関白を空位にする後継者粛清を行い
結果的に成功している秀吉は確かに先進的だな

223 :
後の事を考えず、母妹を人質に送る。 後の事を考えず、250万石をくれてやる。後の事を考えず秀次をR。後の事を考えず、朝鮮侵略。10万やそこらの兵で本気で取ろうとする。先の事を考えて、ただ笑って言う事を聞いていた家康。

224 :
先進的だからこそズッコけたわけで。
当時としてはよく考え、実行した方だよな。

225 :
>>219
>当然家康に人が集まる
そんなに家康に人望が有るなら、なぜ秀吉が生きてる間に天下取れなかったの?

226 :
秀吉に恩を感じてる大名もいたからだろ。秀吉がRば恩もクソもない。家康にとっても、死んでからの方がやりやすいだろ

227 :
秀吉に恩を感じてる大名なんているのか?
宇喜多くらいしか思いつかない

228 :
子飼いの大名もいれたら結構いるだろ。豊臣につくか徳川につくかは別にして

229 :
豊臣と徳川の差は、
冒険思考と安全思考の差。
後者に飛躍の可能性は無いけど長期政権は望める。

230 :
天下統一した後も、博打思考であった秀吉に問題がある

231 :
内政では豊臣政権の功績の方が上だったわけだが、問題とはいったい。

232 :
秀吉には恩賞や加増目当てで人が集まっただけ。
家康には天下平定という大願に共感する者が集まった。

233 :
秀吉は戦国バブルの象徴だな
どんどん敵を倒して領地を拡大して、その協力者には恩賞をばらまく
このバブル的手法は敵がいなくなった(天下統一した)段階で破綻する
天下統一後の秀吉に見るべきものがないのも道理
朝鮮出兵にこだわり続けたのはバブル思考から抜け出せていないから

234 :

娘婿 甚振り殺して 天下平定

235 :
>>232
それに尽きるな
家康には人望があったが秀吉には全くない
どれだけ反秀吉、反豊臣の大名がいたことか

236 :
逆でないの。

237 :
出自の差はでかいよ、家康は一応大名の息子なので諸大名も納得しやすかっただ
ろうし、

238 :
つうかそんなに家康に人望が有るなら、秀吉を斃して天下獲ってただろうし、
死んだ後でも関ヶ原や大坂の陣という二度の大乱起こすことなくすんなり決まってただろ
五大老筆頭で戦歴も一番豊富、石高や官位でも他を圧倒してたんだからさ
けど実際はすんなり決まるどころか、前田利家存命中は利家の方に過半の有力大名付く始末

239 :
なぜなら恩賞や加増目当ての連中ばかりだから、家康につくと経済的には損をすることになってしまう。
家康の人望以外の問題。

240 :
いや、経済的な損得を抜きで人を引き寄せるのが真の人望だろ
つうか三河一向一揆では半分の家臣に裏切られ、
武田との抗争中には嫁と嫡男が武田に内通、
小牧・長久手で重臣筆頭の石川数正に逃げられてる家康に人望って有ったの?
裏切られっぷりでは信長以上だぞ

241 :
>>238
前田に味方したのって既得権益を守るのに必死な大老
衆、奉行衆ぐらいのもんじゃん。

242 :
>>238
そんなに簡単に裏切るような人間が人望得られるわけないし
人望って難しい
豊臣残しておいたら後々面倒なことになるというコモンセンスが形成されるまで動けんだろ

243 :
>>240
>いや、経済的な損得を抜きで人を引き寄せるのが真の人望だろ
それは子供の考え

244 :
なぜ差がついたか?
そんなの決まってるじゃん。
長男:羽柴秀勝(夭折)
次男:豊臣鶴松(夭折)
三男:豊臣秀頼
VS
長男・松平信康(母:築山殿)
次男・結城秀康(母:小督局)
三男・徳川秀忠(母:西郷局)
四男・松平忠吉(母:西郷局)
五男・武田信吉(母:お津摩)
六男・松平忠輝(母:茶阿局)
七男・松平松千代(母:茶阿局)
八男・平岩仙千代(母:お亀)
九男・徳川義直(母:お亀)
十男・徳川頼宣(母:お万)
十一男・徳川頼房(母:お万)

245 :
>>241
家康以外の大老や奉行衆だけではなく、その後関ヶ原で東軍になる
両加藤、浅野、細川、小早川も前田利家に与してる
反徳川の旗頭が嫌われ者の三成ではなく、利家だったらどっちに転んだかわからなかった
>>243
利益ばらまきによる人心掌握だったら秀吉の右に出る者は居ないよ
ID:MYQO4jEqさんの主張によれば、家康の味方は
「天下平定という大願に共感」した同志らしいよ

246 :
人望があるなら秀吉を倒して天下を取っていたはずとか
重臣に裏切られたから人望が無いとか君の思い込みなんだよ

247 :
逆だな
家康に秀吉にはない人望があったという考えこそ、馬鹿な家康厨の思い込みだろう
秀吉も家康も巧みに利益誘導を行って、信用できない大名連中を纏め上げたという点で変わりはない
為政者にとっては単純な人間的魅力以上に、従う者たちの権益を保証するということは極めて重要
その点で秀吉も家康も、どちらも十分天下を統べるに値する器だったと
自分は考えてるよ(もっとも自分の評価では秀吉>家康だけど)
ただ>>232みたいな書き込み見るとからかいたくなってくるだけ

248 :
人望というか人徳は家康のほうがあっただろ
それが大名統治に役立つかどうかは別として

249 :
>>240
人望がないのに天下を取れたのは耐えに耐えたからかね。
泣くまで待ったんだな。家康は辛抱強く
>>244
ちょっと待て。7・8男は夭折だし、長男は既に死亡。次男は秀吉のもとに出されたし若くして死亡。
4・5男も若くして死亡。6は長生きしたがろくでなし。
実質、三男と9〜11男の4人だな。しかし9〜11は幼いが。

250 :
自分が豊臣時代の大名であったとして、牙をむき出した家康を前に、豊臣、徳川政権のどちらを選ぶか、ということかな

251 :
>>248
小説家の藤沢周平も「家康には信長や秀吉にはない“徳”があった」と書いてるね
家康には信長や秀吉にはない古典の教養があったし、
性格的にも硬骨たる武人という一面が強かったから、
数少ない戦国生き残りとなった晩年はさぞかし畏れ尊敬されただろうね
けど反面家康には信長のようなカリスマ性や強烈なリーダーシップ、
秀吉のような人蕩しと言われる愛嬌や奔放さがなかったのが痛い
家康に対し、尊敬すべき偉人だけど面白みがないという感想も多いし、
そういう面が人気のなさに繋がってるんじゃね
蒲生氏郷とかはっきりと家康の吝嗇を馬鹿にしてるしさ

252 :
>>249
秀康は若死にというほどではないし、関ヶ原では上杉の抑えとして家康の命令に従っている
忠吉・信吉も成人はしている
忠輝は権力闘争に敗れたがろくでなしではない
豊臣よりマシなのは疑いようがない

253 :
>>252
忠輝はろくでなしだろw 永対面禁止にされてどこがまともだってんだ。

254 :
せめて秀頼が家光レベルなら
日本中の大名を呼び出していきなり恫喝
その後も大した戦もなく改易しまくりで徳川家強化しまくりで
秀頼はただのマザコンでしかなかった

255 :
>248
俺の考えは逆。
家康の関ケ原前後の能力について
リーダーシップについては戦国大名としてあれだけの修羅場をくぐり抜け、5大老筆頭として天下を牛耳ってたんだから当然ある。
カリスマ性はまだなかったというか表に出さないようにわざと気をつかってたんじゃないかな。
同様に畏怖や尊敬もされないようにわざと少しだけバカっぽく、今の大河くらいかな?振る舞ってたんじゃ?
でも律儀者の仮面は完全に脱ぎ捨てて豊臣政権を都合よく変質させて行ってるから、秀吉ー三成ラインの時代に甘い汁吸えなかった武将達は自然に集まってくる結果になった。
正則や清正なんかは「三成倒すまでだけ神輿として利用してやれ」って感じで気軽に家康に近づき逆に罠に嵌ってしまった。
信長や秀吉が一般に人気があって家康がビジネスマンや中国人にしか受けないのは、前二人が英雄で、家康が政治家や企業の創始者を連想させるからだろう。

256 :
まったくその通りですな
家康はカリスマではないから学ぶことが多いです
好ききらいは別として

257 :
ヒデヨリと家光では状況が違うだろ
ヒデヨリが二十歳になったときに、秀吉なりトシイエなり後見人がしっかりしていて
福島、加藤、三成、大谷など豊臣系大名が大坂城に詰めていれば言えるだろう

258 :
>>249
4人じゃなく7人から跡継ぎを選べた。
長男・松平信康(母:築山殿) (切腹)
次男・結城秀康(母:小督局)
三男・徳川秀忠(母:西郷局)
四男・松平忠吉(母:西郷局)
五男・武田信吉(母:お津摩) (21歳で病死)
六男・松平忠輝(母:茶阿局)
七男・松平松千代(母:茶阿局) (夭折)
八男・平岩仙千代(母:お亀) (夭折)
九男・徳川義直(母:お亀)
十男・徳川頼宣(母:お万)
十一男・徳川頼房(母:お万)

259 :
>>257
23にもなって檄も飛ばせないようじゃ、大した器量じゃないよね。
伊達政宗、父・輝宗及び畠山義継を射殺。(18歳)
長尾景虎、兄・晴景を隠居させ家督を相続。(19歳)
武田晴信、父・信虎を追放し家督を相続。(20歳)
織田信長、守護代・織田信友を破り、織田家筆頭となる。(21歳)

260 :
>>258
でも秀忠にして正解だったよな。それ以外だとすぐに死んじゃって面倒なことに・・・
御三家を置いたのも流石(水戸は別だったけど)。家康の先見の明には驚かされる。

261 :
家康は子沢山だが、家康が海道一の弓取りめざして戦っていた時をまともに知るのは信康だけなのね

262 :
そのおかげで神格化されたというのもあるのかな。
葵徳川三代では昔脱糞したことを秀忠と忠吉あたりが知って驚いていたな。

263 :
秀吉が死んだ後豊臣家を支えるはずだった秀次を殺して
外様で固めた大老で豊臣家動かしたからだろ。

264 :
>>263
確かに。
5大老の制度は大失敗だったよな。
せめて清正や行長などを畿内に呼び戻して、秀頼を補佐させるべきだった。

265 :
>>260
忠吉、忠輝でも問題無いんじゃね?

266 :
忠吉は間もなく死亡。跡継ぎもいないから揉める。
忠輝にしたら政権崩壊。跡継ぎもいない。伊達に乗っ取られる。

267 :
>>266
忠吉は戦傷じゃん。跡継ぎだったらそこまで無茶しない。
忠輝も同じく立場が変われば、秀忠の横槍も無く、息子の自殺も無い。
秀康だってその嫡男・忠直でも資質的には問題ない。
秀康の死因は朝鮮の梅毒か毒殺。
跡継ぎであれば、この二つは回避できた。
つまり、家康は4人の誰を選んでも大丈夫。
資質もみな十分。
秀吉との圧倒的な差がここに存在すると思う。

268 :
2代目以降誰がやっても同じみたいな扱いだけど
秀忠はかなり有能だったんじゃないの?
大事な時期を乗り切ったのはこの人の手腕だと思えるんだよね

269 :
秀忠でよかったよ。忠輝になったら大変なことになっていたかもしれない。

270 :
殺傷関白や秀頼に比べたら優秀すぎて比較にもならん

271 :
今時殺生関白って・・・殺生大好きなのは太閤サマだろ。

272 :
そうだな。家康は殺生を好まなかった。

273 :
まぁ、用心深い家康が忠輝を将軍にするなんてありえないわなw

274 :
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275 :
これはどういうことを意味しているのだろう

276 :
アッーかノンケかどうかの違い。
家康は井伊直政とアッーすることによって有能な人材と固い主従関係を結ぶことができた。
対して秀吉はノンケだったため、自らのイチモツで市松達を調教することができなかった。

277 :
両刀使いの方が強いということか

278 :
そんなバカなw

279 :
秀吉は猿だったが家康は人間だった。

280 :
今の大河ドラマを見ればわかること。

281 :
今の大河じゃ家康が小物すぎて諸将が付いて来る理由がわからん

282 :
秀吉もびっくりするほど小者だった。
信長はワイン飲んでるだけだった。

283 :
信長と秀吉は天才すぎて何を考えてるのか理解されなかった。

284 :
桶屋の坊主は従弟。
鍛冶屋の小僧は又従弟。
それほど持ち上げるべきものでもない。

285 :
>>268
江戸開発、豊臣恩顧との対決、親族の粛清、本多追放、徳川御三家の創設、家康の神格化、貿易統制、
はっきり言って徳川政権の基本方針は家康でなくほとんど秀忠の実績かも。

286 :
>>144
こいつだれ?
何処のスレにも出没してるけど相当無知だよねwww

287 :
あなた誰?いきなり何?次の人ヨロ。

288 :
>>285
神格化は家光じゃない? 
東照大権現と名前を決めたのは秀忠と天海だけど、東照宮をあそこまででかくして尊いものに祀り上げたのは家光でしょ。
あと、御三家は制度化されたわけじゃなく綱吉の頃にようやく家格が定まったそうだよ。

289 :
東照宮の規模が大きくなったのは諸侯が競って寄進したという側面もあるお( ^ω^)
徳川家としても予想外に豪奢になってしまい
御家のためによろしからぬのではと問題になったぐらいだし( ^ω^)

290 :
>>288
「神格化」の定義を随分と狭義に捉えてないかそれ

291 :
どっちも信長の家来だろw
信玄=謙信=氏康>信長>猿と狸

292 :
家康は家来じゃないだろ。

293 :
信長がそのまま天下取ったら、家康は後世に早くから信長に仕えていた
有能な家臣ってことに落ち着いていたと思う

294 :
タラレバで言うなって。結局、家臣になってないのは事実なんだから。
最後に天下を取ったのは家康。

295 :
>>286
みんなから無知でスルーされてるやつなので気にしないでください

296 :
武田征伐の後駿河を信長から安堵されてるので、
その時点で織田家臣であると見做してる史家もいる>家康

297 :
「家臣」の定義による

298 :
荒木や松永、宇喜多と同じだね。

299 :
武田における小山田信茂的立場か

300 :
もしも新垣結衣に将軍宣下がくだったら
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1256530580/

301 :
他大名の本拠地に挨拶に行くとか臣従以外のなにものでもないおね( ^ω^)

302 :
家康>>>>>>>>>秀吉>信長>謙信>信玄>氏康ではないのか

303 :
未亡人趣味の順番かな?

304 :
後まで生きてた順

305 :
欲深さ(特に性欲)でしょお( ^ω^)
家康の女好きは異常だお( ^ω^)

306 :
大阪の陣以前の段階で既に、大阪ですら行政や司法の手順、方式は、関東風に
切り替わっていたらしい。
豊臣より、徳川幕府のやり方の方が普遍性があったというべきだろう。

307 :
いいおおう

308 :
何で秀吉は、内戦が勃発すれば戦後処理の過程でドサクサに紛れ全国に
散らばっている蔵入地を奪われかねない、という状況を放置していたの
だろうか?
大和なり伊勢尾張といったところを直轄領として組み込んでおくべき
だったのでは?
200万石、常備軍6万以上という裏づけがあれば、それ自身が抑止力として
働いて、家康もうかつには手を出せなかったのでは?
財力に自信があったのだろうが(事実10万の浪人を集めた)、それが
きちんと仮想敵・家康に伝わっていなかったために、結果的に介入を
招いてしまったのではなかろうか? 以上。

309 :
>>308
蔵入地は収入という目的だけではなく安全保障のための監視所でもあったからだよ。

310 :
>>308
七本槍のぼんくらどもが豊臣旗本として機能すると
思っていたから。

311 :
>>310
違う違う。蔵入地の管理をしてたのは奉行衆。秀吉もまさか奉行衆がまとめて崩壊するような
事態になるとは考えもしなかったのだろう。
その意味では浅野長政意外の奉行衆をまとめてしまった三成の罪は深い。

312 :
>>311
七本槍連中が蔵入り地を管理していた意味じゃなくて、
何かあったら七本槍連中が豊臣サイドに着いてくれる
って思ってたんじゃ、ということ。
七本槍連中=豊臣親藩って認識で。
だから直轄領は少なくてもいいやと思ってたんだろ。

313 :
>>312
七本槍は信長の小豆坂七本槍をぱくっただけで、秀吉の宣伝用以外に深い意味があるわけじゃない。
豊臣家の武力と言うのは七本槍とかそんなものではなく、基本的には七手組のはずだったんだが、
この七手組と言うのは秀吉の時代既に相当中身が劣化している。戦国を生き抜いた世代が
引退して、その地位が世襲利権となったためだ。
しかし秀吉が生きている間は秀吉のために諸侯が戦っていたのでそれは表面化しなかった。
秀吉は、直属軍である七手組があれば豊臣家は大丈夫だと思っていただろう。そうならなかったが。

314 :
家康が幕府を関東で開いたのにはこういうわけがあったのか
586 名前:マンセー名無しさん[sage] 投稿日:2010/05/03(月) 01:20:56 ID:6RAtR4RB
>>574
家康も、天皇家に対しては「親天皇家のとこもありますよー」とアピールしておきたかったのかもしれませんなぁ。
まあ天皇家に対して強気に出てたのは事実でしょうけど、でもやっぱり必ずどこかの部分では立てておかなければならなかったのでしょうね
591 名前:新那智神社黒神主 ◆AOZAIN.UDM [sage] 投稿日:2010/05/03(月) 01:26:26 ID:WNesH/qp
>>586
日本の権力者は、まず朝敵にならないことに気を使ってましたからね。
かといって近付き過ぎると、側近の公家が良からぬことを企む。
家康の場合は、それを防ぐために頼朝に倣って幕府を東国に開き、法度で縛ったんでしょう。

315 :
つうか自分が主家を乗っ取って天下を取った秀吉の子飼いの連中が
滅私奉公してまで豊臣に尽くすわけねえだろうと。

316 :
だからその連中は徳川についた後は粛清されたんですね。
わかります

317 :
そうです。歴史は繰り返します。

318 :
test

319 :
徳川は無理としても
最上と吉川は粛清しとくべきだった。
この二家は伝統的に秀吉に反抗的だった。
二家をとり除いただけでもその後の展開は
大きく違っていたのではと思われる。
さすがの秀吉も詰めが甘かったようだ


320 :
秀吉さんの甘さが、天下統一につながった。

321 :
>>319
最上はむちゃくちゃ親豊臣だろ
駒姫を秀次に差し出し
秀頼付けに義親を差し出してるくらいだし。
なかなかここまでやった大名はいないぞ。

322 :
家康の関東移封は結果的に朝鮮出兵を拒む口実を与えただけになったな。

323 :
半島での進撃が順調に行ってたら家康も渡海予定だったんだが…

324 :
>>321
その駒姫が殺されて以降は秀吉憎しになり、徳川に急接近したやん

325 :
別に特に徳川に急接近もしていないよ
義親は相変わらず秀頼付きのままだし。
もともと秀吉への東国取次役が家康だから秀次死後に自然と家康を頼るしかない状況になっただけ。
早くから秀吉に服属していた上杉は三成や吉継らが取次だし津軽も前田を頼る南部との対抗上で三成にくっ付いた。
南部らは前田閥(浅野や蒲生ら)が取次ぎ、
さらに前田主導で南部と安東の婚姻を勧めたりと北奥羽を自派閥に組み入れようとしてた。
こんな感じで前田や上杉とそれ程親しくもない伊達や最上は秀次事件で謀反を疑われた際に東国取次役の家康ルートを使うしか道がなかっただけの話。

326 :
大地震が発生したときにあてつけがましく
秀吉を無視して家康救援に向かったそうだが。
取り潰されてもおかしくなかったし
本人もそのほうが本望だっただろう。
それがなんのお咎めもなく肩透かし食った感じか

327 :
たかがそんなことが
あてつけがましいことなのか?
取次を無視して直接に秀吉に会えるような立場に義光はいないのだし。
秀次自刃の翌年なら
最上は上杉や前田や三成や吉継や浅野らとは
取り立てて親しくない以上は秀吉への取次の東国窓口の家康しか頼れる人間がいないだけじゃないかね。
本当なら最上配下の誰かが
(直江兼続や佐竹義久や北信愛や鍋島直茂や深水長智や伊集院棟など)
外交でやるべきことをやってないから豊臣政権窓口におけるツテがまったく無いのが最上だろ。

328 :
朝鮮出兵、というか唐入りは秀吉個人の野心はもちろんだけど、
治安改善・雇用対策という側面を持ってる、つまりは公共事業だね。
でなぜ治安が悪化したかといえば雇用が悪化したからで、
失業者が増えたのは国内で戦争がなくなって派遣社員ならぬ派遣武士がリストラされたから。
その問題に対する豊臣政権の答えが増税してその金で普請やら戦争やらの公共事業。
つまり放置の許されない重要政策なのであって、止めるとか止めないとかそういう問題じゃない。
ちなみにその問題に対する徳川政権の答えは、敗者の黙殺。
豊臣政権は検地と共に税収向上のために畿内の進んだ技術の全国への輸出をしていたし
豊臣大名も各地で導入してた。
城下町と治水などで石高の目覚しい向上があり中間搾取の不正も無くしている。
対して徳川幕府は国内自給経済と海禁政策で商業を軽視し経済成長モデルによる資本主義の発達を阻止し
職にあぶれた不逞牢人が跋扈し世情不安で世直し待望で溢れ
その矛盾が島原の乱・寛永の大飢饉・由井正雪の慶安の変で爆発してる。
豊臣政権の大消費社会による経済拡大と領地の大開発による石高の上に胡坐をかいていたら
時と共に貧しくなっていったのが徳川政権。
北条がなんら開発してなかった幕府の膝元たる江戸近郊の田舎を開発しただけで
雇用対策なんて言い出すのは捏造。
そもそも江戸の人口増加こそが地方の民力の大疲弊から農村が抱えられない人口の
首都への逃亡に他ならない。
豊臣時代には見られなかった地方の疲弊ぶりだ。
そして江戸開発は幕府の政争の具となって老中の失脚狙いの事業停止などが相次いでいて
まさに失政続きの腐敗ぶりだった。これも豊臣政権には見られないものだ。
徳川幕府のせいでくだらない政争とヘタクソ外交と経済オンチと
無責任解決先送りや働かない公務員なんて日本の体制を決定づけたからなー


329 :
>>328
質問スレで相手にされなかったから逃げてきたかw

330 :
秀吉>家康
秀忠>>>>>秀頼
後継者と寿命の差だな

331 :
小牧長久手で、最終的に講和に持ち込むにせよ
トラウマになるくらい家康に一度大打撃を
与えとかなかったのは失敗だった
早く天下人になりたいという焦りがあったんだろうが
詰めが甘かった


332 :
>>331
やろうとしたが大敗し、逆に秀吉のほうがトラウマになった

333 :
三河中入りは大成功する予定だったわけだしなあ。
出陣するときから凱旋軍のように振舞っているw

334 :
まあ小牧・長久手は局地戦では大勝利だけど
戦略的にはボロ負けだからなあ。
秀吉はもっと石川数正みたいに徳川から引き抜き工作しかけるべきだった。

335 :
age

336 :
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の乾杯だろ
わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒して
責任を池田森らに押し付けるとか基地外だな
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるしさすがに別働隊だから秀吉の責任じゃないとか全くそれは言い訳にならん
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ


337 :
豊臣軍135000が、織田家で最も無能な信雄22000相手に敗走、大苦戦。
戦国最弱の豊臣軍。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

338 :
あんだけ兵力差ありながら晩秋まで一進一退続いてるからな
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
つうか尾張口突破がそんな困難なら権力基盤弱い伊勢攻めるか
間接的統治を行うだけで支配力が弱く、木曽が寝返り、翌年に真田、小笠原が寝返るなど
不安定な支配の信濃を上杉とともに攻めりゃいいだけだろ
だらだら尾張口や木曽川筋で対陣続けて晩秋になるまで突破口見出せん秀吉は馬鹿すぎる

339 :
普通の能力が均等な2者が戦えば圧倒的国力差で秀吉が勝つだろうね
ただでさえ木曽が離反して上杉が信濃侵攻でぐらついてる上に
小笠原真田石川水野と離反が続き徳川の軍事機密露見した状況
この状況で母と妹人質に出すカスっぷり披露したのが秀吉


340 :
秀吉は軍事的才能が致命的に欠如していたんだろうな
この戦いに限らず常に圧倒的大軍で寡兵の敵に敗走、大苦戦、大損害。
織田兄弟で最も無能な信雄ごときに苦戦する雑魚はそうそういないだろう。
信雄がもう少し基盤の強い土地で防戦できたら秀吉は蟹江あたりで戦死してたんじゃないか

341 :
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の講談とプロバガンダの影響だろ。
一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。
実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない

342 :
( ´_ゝ`)

343 :
一時政権持った人間そのものが数えるほどしかいなかったことを
秀吉アンチはいつ理解するのか

344 :
秀吉は大坂に帰る余裕っぷり。
蒲生らが伊賀に続き伊勢を蹂躙しまくって、
好き勝手やっても信雄は、
なんら反撃の手段なく、
家康も支援する余裕なく、
結局、信雄が家康頼むに足らずと見限り
秀吉に土下座。
一気に戦線が三河になるに及んで、
家康も秀吉に秀康を人質に差し出して土下座。
これのどこが家康の勝ちなんだよワロタw

345 :
秀吉は加賀の井松ヶ島木造蟹江などで敗戦を重ね
家康にビビッて大阪に逃げ帰る始末
夏にさらに大軍を率いて北尾張に着陣したものの小牧長久手時よりも手薄な家康軍の城郭に苦戦して退却
3月攻防の段階で池田森が予想に反して秀吉について家康が伊勢から尾張口に転進せざるをえなくなった
おかげで蹂躙できた伊勢戦線ですらろくに戦果あげられず田畑を荒らし回ってたら
ヘタレ信雄がビビッて和議を結んだから勝てただけ
木曽小笠原真田石川水野が離反し家康の信濃の領土はわずか3郡の上に
地元豪族に所領安堵上を出しただけの間接的統治。さらに譜代の離反により軍事機密が露見した状況
さらに上杉からも全面的に支援をえられる状況
こんな今川氏真が指揮を取っても勝てそうな圧倒的有利な状況と兵力差で
遥かに小勢力の家康に頭下げろと叫び続けて母と妹人質に出したクソカスゴミが秀吉

346 :
なぜID変わってるん?
その理由を教えてくれ

347 :
家康は人質というか秀康を養子として差し出したのはあくまで講和条件だから
別にこれで屈服したわけじゃない。
信雄が領内の田畑荒らされてびびって和議を受け入れたから大儀名分がなくなったというだけ。
その後85年の真田攻め、小笠原・水野・石川の離反と水面下での戦いは続いていたため
家康は秀吉に対抗するため北条氏直との同盟強化のため娘を嫁がせている

348 :
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

349 :
なぜID変わってるん?
その理由を教えてくれ

350 :
結局、石川数正ひきぬかれて同盟してた諸勢力はかたっぱしから潰されて
戦争としては大敗北もいいとこだよ。なんとか面目だけは保ったけど。

351 :
圧倒的大軍で7分の1の織田軍に手も足も出なかったし多数の池田親子森木下兄弟始め多数の死傷者を出し
84年一杯使って権力基盤の弱く不安定な信雄の領土を荒らすのが精一杯で蟹江で負け木造で大敗し
松ヶ島や加賀の井、奥城で大苦戦。夏の対陣ではこれまで以上の圧倒的兵力差があったのにも関わらず
尾張諸城攻防戦で敗退し尾張口を半分すら突破できない秀吉の完敗でしょ。
戦略的に見ても家康が天下奪ったんだから家康の圧勝。

352 :
秀吉は加賀の井松ヶ島木造蟹江などで敗戦苦戦を重ね
家康にビビッて大阪に逃げ帰る始末
夏にさらに大軍を率いて北尾張に着陣したものの小牧長久手時よりも手薄な家康軍の城郭に苦戦して退却
3月攻防の段階で池田森が予想に反して秀吉について家康が伊勢から尾張口に転進せざるをえなくなった
おかげで蹂躙できた伊勢戦線ですらその後ろくに戦果あげられず田畑を荒らし回ってたら
ヘタレ信雄がビビッて和議を結んだから勝てただけ
木曽小笠原真田石川水野が離反し家康の信濃の領土はわずか3郡の上に
地元豪族に所領安堵上を出しただけの間接的統治。さらに譜代の離反により軍事機密が露見した状況
さらに上杉からも全面的に支援をえられる状況
こんな今川氏真が指揮を取っても勝てそうな圧倒的有利な状況と兵力差で
遥かに小勢力の家康に頭下げろと叫び続けて母と妹人質に出したクソカスゴミが秀吉

353 :
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である
京までも騒乱に陥れる一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。
いつも嘘ばかりついて戦果を基地害のように誇張する
秀吉自身が不安定な緩衝地帯にいる寝返ったばかりの外様中の外様である木曽義昌宛て書状で負けを
述べ同じく外様である宇喜多家臣長船、富岡宛書状とあて先不明書状でも秀吉が自分で負けを認め
本多重次宛やその他家康書状には一万余り討ち取り池田親子や森、木下兄弟に加え堀や長谷川、三好秀次など
ことごとく討ち取り計10000程討ち取ったとある。ちなみに当代記や家忠日記では戦死者15000などと書かれてる

354 :
圧倒的兵力差があったし敵対者の対立を利用してん寝返らせて勝ってるだけ。
別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。

355 :
信雄の根拠地の養子先だった北畠領が、
ゴッソリ蒲生氏郷らに奪い取られた時点で、
勝敗は決してる。
家康には勝つ戦略が描けず、
ひたすら受動的で籠城してたに過ぎず、
(秀吉が城攻めで苦戦するのは当たり前。100%攻め落とした武将などいない)
秀吉は常に攻勢主導権を握っていた。
秀吉は調略で家康から信濃を奪い取る寸前まで追い込んでるし、
おかげで佐々との連絡線すら無く、
のちにさらさら越えしてきた佐々を見放すほど、
秀吉にビビりまくってたのが家康。
あのまま和睦しなければ、
家康は信濃に次いで甲斐も奪い取られ真田あたりが武田化するだけ。

356 :
なんにせよあの時点では家康が頭を下げざるをえなかったんで家康の負け。

357 :
秀吉は加賀の井松ヶ島木造蟹江などで敗戦を重ね
家康にビビッて大阪に逃げ帰る始末
夏にさらに大軍を率いて北尾張に着陣したものの小牧長久手時よりも手薄な家康軍の城郭に苦戦して退却
3月攻防の段階で池田森が予想に反して秀吉について家康が伊勢から尾張口に転進せざるをえなくなった
おかげで蹂躙できた伊勢戦線ですらろくに戦果あげられず田畑を荒らし回ってたら
ヘタレ信雄がビビッて和議を結んだから勝てただけ
木曽小笠原真田石川水野が離反し家康の信濃の領土はわずか3郡の上に
地元豪族に所領安堵上を出しただけの間接的統治。さらに譜代の離反により軍事機密が露見した状況
さらに上杉からも全面的に支援をえられる状況
こんな今川氏真が指揮を取っても勝てそうな圧倒的有利な状況と兵力差で
遥かに小勢力の家康に頭下げろと叫び続けて母と妹人質に出したクソカスゴミが秀吉

358 :
圧倒的大軍で7分の1の織田軍に手も足も出なかったし多数の池田親子森木下兄弟始め多数の死傷者を出し
84年一杯使って権力基盤の弱く不安定な信雄の領土を荒らすのが精一杯で蟹江で負け木造で大敗し
松ヶ島や加賀の井、奥城で大苦戦。夏の対陣ではこれまで以上の圧倒的兵力差があったのにも関わらず
尾張諸城攻防戦で敗退し尾張口を半分すら突破できない秀吉の完敗でしょ。
戦略的に見ても家康が天下奪ったんだから家康の圧勝。

359 :
豊臣軍135000が、織田信雄22000に大敗!!!!!
敗走!!!!
 
って、まるで漫画だな。 。 。
アホすぎる。
流石戦国最強の豊臣軍。

360 :
秀吉が負けたのは家康ではなく信雄。
織田家でもっとも無能な信雄軍団が84年の攻防の主力であり、家康はたかだか8000連れてきただけなのは当代記などに書かれてる。
松ヶ島、木造、加賀の井方面で苦戦・大敗して結局尾張ライン超える事は挫折
滝川が前田四十郎を寝返らせて作ったチャンスも無駄にし、蟹江でも敗戦
夏の攻防の際にもやはり砦間の攻防で苦戦して退却
できた事といえばヘタレ信雄の、国替えになったばかりの権力基盤ガタガタな領国を、兵がいない隙を狙って
荒らしまわるだけ。
弱いにも程があると思う。
信雄(織田家でもっとも無能)>>>>>秀吉

361 :
7倍もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の乾杯だろ
わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒して
責任を池田森らに押し付けるとか基地外だな
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
7倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の35倍以上上手だろーな

362 :
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。
秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい
結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな
木曽川筋のわずかな城を落としただけで
南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして
権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけ

363 :
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の講談とプロバガンダの影響だろ。
一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。
実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない。
秀吉死後の好き勝手な緒大名の行動みりゃわかる
実際豊臣幕府などひらかれなかったしな
三好なんかと同じ。

364 :
おいおい、小牧長久手で、徳川軍8千?
どうみても、3万以上の動員が可能だよ、家康。
秀吉は7万くらい。信雄は1万五千。
桶狭間でもそうだけど、勝った側が、誇張するんだよな、戦さって。
桶狭間では、信長5千、義元1万五千だよ。

365 :
三国志に赤壁の戦いもそう。
曹操は20万くらい、孫堅・劉備は5万くらい。
それが、80万対3万になってるしw

366 :
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、
木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)、佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、
大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。秀吉方は
秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、
長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
上記のように一次資料類から秀吉側は領国中主力武将ほとんどかき集めている
当代記や三河物語などでも楽田周辺の秀吉軍だけで10万かそれ以上としている

367 :
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、
木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)、佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、
大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)

368 :
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

369 :
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

370 :
長い
要約って言葉知ってるか?

371 :
>>366-367
実際には家康信雄軍もっと少ないだろ
信雄なんて滝川が伊勢を失った後急遽伊勢にされたばかりで基盤もガタガタ
重臣を誅Rるなど掌握もままならない状況
徳川も武田末期の疲弊と貧困、火山噴火等で極度に疲弊した領国で一揆等もおきていたし
天正壬午の時も駿河では反乱の雰囲気あったくらいだし
多く見ても織田徳川全軍で16000くらいじゃね
装備などでも富裕な上方勢には到底及ばないだろうしな

372 :
※秀吉失態集※
・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる

373 :
>>368
要するに家康を総攻撃しようとして国中から兵かき集めて宇喜多からも援軍出してもらって
84年一杯使ってわずか7分の1くらいの信雄相手に手も足も出なかったという事ね
水野石川木曽小笠原真田が離反し軍事機密が露見し上杉も川中島から諏訪方面に乱入できるような
圧倒的優位な状況ですら家康に母と妹人質に出してまで従えと叫び続けてたんだから
相当雑魚だわな

374 :
>>372
同意。
秀吉より戦下手な武将はなかなかいない。

375 :
皆もいってるけど単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う
野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、
あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら
戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。
中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま
だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる
あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、
南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると
夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより
秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる

376 :
>>355
どうだよな、結局のところ
家康には秀吉を排除する策が一切なく
秀吉は確実に家康を追い込んでいて
北畠信雄の本領の北畠領を奪われた信雄は
秀吉に屈服するしか道がなくなり
家康を見限ったのが信雄。
信雄を救えず震えていた家康を見て
家康から離反し秀吉の調略に応じるものが多数という動きに
自分の軍の統率すら怪しくなってきたので
秀康を人質に家康は秀吉に土下座。

377 :
信雄の本領といっても
この時期の伊勢は滝川が前年までいた北部をかまえていたが
滝川が伊勢を去ったばかりで家臣の支配基盤も十分でなく
それが表に出たのが信雄による重臣誅殺
しかも南伊勢半分が3月の攻防で崩壊したのは
家康が予想に反して秀吉方についた池田森に対応するため
伊勢から木曽川筋に向かわざるを得なくなったからというだけ。
北部では秋になって尾張ライン突破が不可能と見た秀吉が、
信雄本領近くの田畑を荒らしまわったからビビッて和議を結んだだけ。
家康は人質というか秀康を養子として差し出したのはあくまで講和条件だから
別にこれで屈服したわけじゃない。
信雄が領内の田畑荒らされてびびって和議を受け入れたから大儀名分がなくなったというだけ。
その後85年の真田攻め、小笠原・水野・石川の離反と水面下での戦いは続いていたため
家康は秀吉に対抗するため北条氏直との同盟強化のため娘を嫁がせている。
そして84年秀吉との会戦時に木曽85年に小笠原真田石川水野が離反し家康の信濃の領土はわずか3郡の上に
地元豪族に所領安堵上を出しただけの間接的統治。さらに譜代の離反により軍事機密が露見した状況
さらに上杉からも全面的に支援をえられる状況
こんな今川氏真が指揮を取っても勝てそうな圧倒的有利な状況と兵力差で
遥かに小勢力の家康に頭下げろと叫び続けて母と妹人質に出したのが秀吉

378 :
家康は秀吉に土下座なんてしとらん
秀吉が必死にワシに従ってくれ〜と泣きついたから仕方なく応じてやっただけ。
秀吉が天下(形だけ)取れたのは光秀や信長が馬鹿だったおかげ。
信長が愚行を繰り返し謀反だらけで寡兵の光秀に瞬殺され、光秀もまんまと反逆者の汚名被ったから味方多く集まっただけ。

379 :
秀吉にガキが大勢いれば問題なしだろ

380 :
なかなか治らんもんやね。心の病気というのは。

381 :
伊賀と伊勢が信雄家臣団の大半の所領。
それをほぼ全て秀吉に奪われた以上は
継戦能力ゼロで屈服。
これによって家康の最重要拠点三河が丸裸に晒された時点で、
家康敗北も同前。

382 :
伊賀伊勢戦線は徳川の支援が得られなくなり3月段階で秀長軍に攻められて崩壊しているが
伊勢北部ではその後も抵抗が続き長久手合戦後では南伊勢でも反撃に出ている
もともと家康信雄軍の主軍が伊勢方面での迎撃を想定していなかったから崩壊しただけの話
秋になって蒲生が攻めてきて伊勢伊賀の大半を占領したとか書いてる本は大嘘
実際には春段階で南伊勢戦線を織田方が捨てたため松ヶ島以南ではほぼ羽柴方が蹂躙
実際には長久手合戦以降ほとんど戦果は上がっていない
信雄は本拠地周辺の田畑を荒らしてくる
敵軍に対してまともに迎撃する事なく和議を結ぶヘタレだったから勝てただけ。
秀吉は長久手だけでなく戸木、木造、蟹江、加賀の井、奥など
各城郭で散々手を焼かされたり敗戦したあげく退却し膠着状態に陥っている

383 :
池田・森が味方についたわかげで秀吉方は木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で7倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法では瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

384 :
信雄は抗戦する気概のないヘタレだったから秀吉が助かっただけ
本領安堵をいう格好の餌に食いついて後に改易された馬鹿
伊勢も尾張も家康の領国だったら秀吉は死んでただろうな

385 :
〜なだけ、と問題を単純化したがるのは科学的思考に向いてないって読んだわ
まさにお前のことだよw

386 :
たらればはどうでもいい

387 :
まあ秀吉なんてどこ言っても
ものすごい大軍と調略や政略で作り出した有利な状況や条件で
敗戦・苦戦・大損害ばかりだから
信雄戦でけちょんけちょんにやられてても何は不思議はないがな

388 :
※秀吉失態集※
・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる


389 :
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長  姉川
謙信>>>>柴田  手取川
謙信>>信玄    川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉  84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉     しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉      伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉   小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉            尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川            神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族   中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津       九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦       鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直            天正壬午
仁科>>>信忠  高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀     二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部     戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
これらを元に数値をつける
120 上杉謙信
110  武田信玄
100 徳川家康
  
  
 97 北条氏康 太原雪斎 山県昌景 上杉景勝 柴田勝家
 96 武田勝頼 明智光秀 葦名盛氏 田村清顕 本多忠勝
 95 本庄繁長 伊達政宗 織田信長 毛利元就
 94 佐竹義重 北条綱成 滝川一益
 93  立花道雪 北条氏直 相馬盛胤
 92 織田信忠
 91 島津家久 伊達政宗
 90 島津義弘 長宗我部元親 黒田孝高
    酒井忠次 真田幸村 朝倉宗滴

 70 羽柴秀吉
50 吉川 小早川(笑)

390 :
S 北条早雲 織田信長 徳川家康 三好長慶
A 伊達政宗 毛利元就 島津貴久 武田信虎 長尾為景 伊達種宗
B 豊臣秀吉 上杉謙信 織田信秀 今川義元 本願寺顕如 松平康国 柴田勝家 斉藤道三 明智光秀
C 佐竹義重 滝川一益 浅井長政 葦名盛氏 加藤清正 竜造寺隆信 長宗我部元親 北畠具則 
D 武田勝頼 細川藤隆 藤堂高虎 真田昌幸 長尾顕景 伊達種宗 松永久秀 石田三成

391 :
ランク付けは意味ないな。
時代も違えば環境も違うし、戦略、戦術でも違う。

392 :
滝川一益の娘婿で、
信雄家臣ナンバー1重臣の滝川雄利がいる時点で、
家康が負けるのは明らかだったからなあ。
つうか信長も信雄なんて軽視して、
滝川雄利に直接指示していたりと、
滝川雄利
が実質的に信雄家中を支配してたのが現実だし。

393 :
あれだけ大恩を受けた織田家を事実上崩壊させた秀吉。
それと似たりよったりの事を家康にやられ豊臣滅亡。
因果応報という言葉がしっくりくるなあ〜。

394 :
それに比べて明治政府の徳川への恩情は家康とは天と地ほど違うな

395 :
そりゃ、徳川は力を残した上で手を上げたから
大坂城落とされて、櫓に逃げ込んだ状態で助命を願った豊臣と一緒くたにされても

396 :
徳川家達とか教科書に載るほどの人材も輩出されているね。

397 :
豊臣秀吉は自分の欲の為に信長他を殺した。
徳川家康は天下泰平の為に行動した。

398 :
アンチ秀吉のキチガイ反日織田半島人暗躍中www

399 :
豊臣家宗家が滅んでも
秀吉の母方の縁者の小出氏が3万石の大名として幕末まで存続している
小出氏の秀吉の親戚で 小出秀政は秀吉の死後も秀頼に仕えている
秀政は1604年に病死…

400 :
>>397
むしろ信長の敵討ちしてくれた秀吉には織田家は感謝していたからこそ、
大坂陣でも信雄親子や有楽斎親子は豊臣方としてギリギリまで籠城組にいて、
一応はリーダーと目されてたじゃん。
ギリギリのタイミングでこりゃもう救えないと悟ると逃亡したけど、
やはり織田家としては家康の天下ってのは嫌だったんじゃないかね。

401 :
>>400
家康が信長や秀吉のように増長するのが嫌だったんじゃね?
たとえ形ばかりでも、関白(準后だっけかにもなってたか?)を輩出する家が、
反徳川の旗印として存続してくれてた方が生きやすいだろ

402 :
いやいや秀信を旧領の岐阜に封じてくれたりと
よくしてくれてるし、三成も秀信の体調が悪いと聞くとすごい心配して、
真田信之に連絡して、秀信を上野国草津温泉で湯治させてあげたいから
国元の人たちに不便がないよう案内してくれるように頼んでくださいって
頼んだりと織田宗家を大切にして配慮してるくらいだし、
これはもう秀吉の意向そのものなんだよ。
だから秀信は関が原の戦いでも秀頼様を守るために西軍に参加したわけ。

403 :2013/09/14
バカテスの木下秀吉について語りましょう。
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