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2011年10月1期心と宗教生活と愛、瞑想、修行 TOP カテ一覧 スレ一覧 削除依頼
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生活と愛、瞑想、修行


1 :10/06/01 〜 最終レス :11/11/25
いかに人生において宗教を役立てるか、宗教において人生を役立てるか
素直に自分をさらけ出してみんなで実践的に助けあってゆきます。

近代から古代まであらゆる宗教の話をしていいですが、ルールは一つ。
なるべく質問者に答えること。質問者を理解しようと努め、彼に適した宗教を紹介し、
彼に合ったスタイルの文章を書き、おしつけにならぬよう気をつけます。

2 :
ひとりの人はバラバラなのです。
あらゆる社会の役割
あらゆる癖
あらゆる食べ物、酒
あらゆる他人との関係
それら一つ一つの断片が主導権を奪おうをしていつも争っています。
例え社会が勝っても裏で食べ物のことを考えてるかもしれないし、
食事が勝っても食事中嫌いな人のことを考えているかもしれない。
神が瞑想がどうだという前に、人間はとりあえず統一されなければ
間違いなく不幸です。
自分のあらゆる思考、習慣を一まとめにするためにこそ
意識、「私」及び信仰、神はあります。
自分の生活全体に瞑想し、もしくは生活全体で信仰することによって分裂を癒す
ことが宗教の本来の意義なのではないでしょうか。
どちらの道でも、より大きな喜びと、より大きな苦しみに直面します。
そしてその限界において、喜びでも苦しみでもない目覚めにます。
このあたりは個人差があります。
直面して駆け抜ける人、穏やかな生活の中知らぬうちに準備のできる人。
喜びと苦しみは一つのものです。少なくとも等価と理解し、
喜びに驕らず、苦しみに自己批判せず、避け得ぬあなたの生を通り抜けましょう。

3 :

 それにしても、生活がバラバラだ。分断されている。これをやり、あれをやり、そっちも
やるというように、バラバラなことを常にやらなくてはならない。
やりたいことをやりたいだけ好きなようにやることができない。これでは精神が混乱して
バラバラになる。
 ある大手の社員をみていると、隣近所には人当たりがいい人が、会社では部下を怒鳴り
つけたり、ペコペコと営業をしたりと内的に分裂している。あらゆることへの適応を
強いられる会社の実体を知っていると、これは、已む得ないことのように思える。
 幸いなことに自分はヒエラルキーの下層にあり、独立しているため、このような分断への
適応は最小限にできる。しかし逆に、混乱した指示に振り回されることになる。
そのことの精神への影響は大きい。
 こどもの頃のように、やりたいだけやり続け、遊びたいだけ遊び続けることができないものか? 
 それなりの工夫をすればできるはずだ。
 社会に適応して生活するには、時間的に分断されるのはしかたない。分断された時間で
あっても分断しない生き方、精神を分断しない方法で泳ぐにはどのようにすればよいのか?
 接心は7日間集中的にやるので、禅的生活を習慣化するのに非常に良かった。
接心以後、毎朝坐ることが楽しみになった。集中的にやるというのは、何かを生活に
落とし込む上で最初に試みるもっとも手っ取り早い方法かも知れない。
このことを手がかりに、何か方法を考え出す必要がある。
 まず、冷静に分断した時間を受け入れる必要がある。そして自由にできるその与えられた
短い時間をいかに上手く、精神的に分断されること無く生きることができるか?
 もし5分を統一的に生きることができるなら、時間的分断の影響を殆ど受けることは無いだろう。
しかし、坐るという単純なことには集中できるのに、より高度な本来面白いはずの仕事にはすぐに
飽きてしまう。10分もやると飽きて、本を読んだりインターネットを探したりする。ほんの少し
壁に当たると、すぐにフラフラしてしまう。
寧ろ納期が身近に迫って強制力が働く時の方が集中できる。この状態をなんとか抜け出す必要が
ある。

4 :
2さんへ
ぬるま湯だと、最大の敵である自分の心が肥え太ります。
自分の中に完全に同じところがなければあらゆる悪意、誘惑には影響を受けません。
他人は私たちの反面教師になります。
かといって、きつすぎる対人関係では試練というより、ただ他人に飲み込まれてしまうので、
日本にあっては、まず、いかにして
「持続的に成長可能な環境」を手に入れるかです。
あなたのお話を聞くと
「納期が、、、。」
は第一に混乱ゆえにあなたのこころは複雑な仕事に対応したくない。強制が必要。
もう一つは、あなたの無意識からくる本心、あなた自身が、あなたの無心、直観が
別のあなたに合った仕事、別の家族関係、別の居場所を既に知っているのに
それにを現在の表面的な習慣が上塗りしてしまっているという可能性です。
もし、あなたがどんなにきつい状況でも、あなたに向いた仕事であり、あなたの成長のために
必要だと、直観が知っていればそれほどいやではないものなのです。

5 :
以上は人生上の可能性ですが、
瞑想ということでしたら、単に生活全体を見守ることで事足ります。
人は仕事、対人、食事で心を使い、さらに心と同化し、記憶を蓄積し、記憶と同化し
習慣、偏見を作り上げてゆきます。
ですが、目覚めた人は何に心を使っても心と離れており、記憶はあっても記憶は他人の伝記
のようなものです。
する、やる、という感覚がなく事はただ起こります。
その遊び、自由の第一歩が、とにかく何をやる時も自分、自分の心、自分の行為に気付いているということです
それであなたはまとまってゆきます。
が、それが可能な厳しすぎない人生の環境も、また必要になります。
頭脳労働より肉体労働のほうが見守るのが楽なのは確かですが、
自分の好きな頭脳労働はその限りではありません。
あなたは賢明で、自分の本当に好きなこと、人生の可能性を知っている。
知っているからこそ、蓄積された記憶と習慣に従うのがいやなのです。

6 :
でも、仕事を楽しむ。仕事を愛するってことはそもそも不可能なのです。
愛にあふれた人は何をするからではなく、無条件に幸せで愛しているので、何をしていても
それが自然にあふれ出ます。
あなたは何が好きですか?あなたがずっと好きだったもの。
両親の笑顔、子供の笑顔、気の許せる友。
駆け巡る野山。物の美しさを分かち合うこと。
それとも難しい問題を解くことを分かち合うことでしょうか。
生は喜びに満ちている。
けれど、人々は、お金のため、名誉のため、置いて行かれないため
など様々な不要な目的意識で働いています。
彼らの行動そのものは愛のある人と変わらないのですが、その動機が全く違います。
私たちは自分自身の、周りの人の、打算的で傷ついたハートの影響を受けず、
断固として童心と当たり前の社会的責任感で生き抜かねばなりません。
他人を憎むことではなく、その影響を受けず、自らの世界の愛の法則に
身を委ねられるように。

7 :
愛と愛じゃないものに分けて考えるのは、
物凄く傲慢な態度。自分が愛とは何かを知っていて、私の職場には「愛」が無いと
嘆くのは閉じた思考とエゴが見せる惑わし。
あなた方がここでやっている事は公開ープレイにしか見えない。
あなた方が公開するに値すると、考えているものは錯覚だ。二人の間でメールでやってくれ。あなた方の生活と瞑想に誰が関心を持つんだ? お前らのーなど胸糞悪いだけだ。とっとと自分に対して死んでくれ。

8 :
 愛は傲慢である。そして愛である。
苦痛は痛い。快楽は甘い。それも愛である。
聖書もバガバットギターも法華経も読んだことは無いが、おそらくそのようなことが
書かれているのではないかとおもう。
思うに最高の知性の一つはユーモアで、批判は最低限の知性でしかない。にもかかわらず
何と多くの時間とエネルギーを批判に費やしていることか? 
批判を半分にすれば、ご飯は半分で足りる。エコの観点からも批判を見直す必要がある。

9 :
 仕事に関しては、無から有を生み出さなければなりません。多分私にはそれだけの
実力?があり、試練があたえられたのだろうと思います。これからは嘗てのように、他人に
ぶら下がって仕事を貰うことはできないでしょう。這い上がるために突き落とされたのです。
もしまだ私が仕事でも未熟なら、近いうち美味しい仕事が回ってくるはずなのですが、
今度ばかりは、見放されるはずです。まだ時間猶予をあたえられていますが、このまま
というわけにはいかないでしょう。
 ですから、這い上がりながら瞑想を掴まなければなりません。これが私の置かれている
状況です。 できることなら、悠々と瞑想をマスターしたいし、生来能天気な私にはそれが
もっとも適しているのです。「あなたが古来より示しているのは、苦痛も快楽も等質だという
ことです。ですから私には快楽を持って教えていただきたい。」
 大いなる主への私の願いなのですが、理解していただけるのかどうか。

10 :
>する、やる、という感覚がなく事はただ起こります。
>その遊び、自由の第一歩が、とにかく何をやる時も自分、自分の心、自分の行為に
>気付いているということですそれであなたはまとまってゆきます。
 なにはともあれ第一歩からやっていく以外にありません。
 「ただ起こる」というのは、
 完全にコントロールされながらも、何故動くのか分からないほど自然に右手と左手が勝手
に動いて、ショパンを奏でるブレハッチの演奏のようなものでしょうか?
 意識はしている。しかし余りにも軽く動けるので、あたかも無意識に動ける。
「自分の行為に気づく」ことが「ただ起こる」になるには、行為の障害=こだわりに気づく
ことで、こだわりを落とすこと。
「音が響く、どう動けばよいかを考える、動く」という図式から思考が落ちて「音が響く、動く」になる。
 しかし、粗雑な無意識とはどう違うのでしょう。
 「ご飯と味噌汁が出されると、ガサガサと食べる。」
 もし気づきがあるなら、
 「ご飯を見て、お箸を見て、お味噌汁からゆったりと湯気があがる。、、、、、、、、、おいしい。」
 となります。これを私が観察すると
 「ご飯と味噌汁が出される。すっと食べる」になります。当人の内面までは分かりません。
「音が響く、動く」この言葉からは粗雑なのか、気づきのある「ただ起こる」なのかは分かりません。
しかし、達人の「音が響く、動く」と粗雑なものを比較すれば、明らかに違うのが分かります。
さらに興味があるのはもし仮に私が達人であって達人の「音が響く、動く」を見れば、どうなるのでしょう。
達人の内的な意識の流れを私もある程度、あるいはかなりの部分を共有するのでしょうか?
たとえば、お釈迦様と仏性を得た私がお味噌汁を一緒に飲んだら、同じように豊かな美味しさを味わうのでしょうか?

11 :
ふむふむ。
ですが、私は何も批判していないことにお気づきになるべきでしょう。
言葉上では分割と比較という手法をとらざるをえぬ内容でしたが、
私は事実を見つめ、外界の影響を受けないことを示唆しただけで、
何も批判はしていません。
批判することは今自分を支配しているものを強めることはあっても、
理解して離れることの役には立たないので、あなたのおっしゃる通り
批判は無意味なことでユニークさが知性の最大の働きです。
それよりあなたは何故憤ったのでしょう。
あなたこそ、批判を込めずユーモアを失わず私をたしなめることができました。
言葉で私を批判しつつあなたは私を批判しないということは可能であり、
それが愛とユーモアの働きです。
そうすれば、私も同じ文の調子でお返ししたでしょう。
また、あなたは困っていたのではありませんか?
私が何者かであるよりあなたの成長が大切なのではありませんか。
私は質問しておらず、あなたが質問なさったのです。
私を批判する余裕があなたにあるとは思えません。

12 :
あなたが、現世と涅槃。愛と憎しみは不分割で一体であるという法の境地に
目覚めているのでしたらそもそも質問などありますまい。
ご存じないからこその質問なのにいつの間にかあなたの知性は教える側に回ってしまっている。
こうやってあなたの知性の暴走を許せば永遠に知っているという夢を見続けるでしょう。
私がここにいる主眼は、現世の受容、現世と涅槃の統合です。

13 :
瞑想における快楽は問題などと言われますが、まずその快楽を得ないことには仕方ありませんね。
それはおっしゃる通りです。
一番簡単なのは和尚のダイナミック瞑想なんですが、
あなたの質問の流れでお答えすると、
まず無意識にお味噌汁を食べることに気づく必要があるというのは確かです。
次に、それを判断、感想する心の働きに気付くのです。
そうやって自分の心を意識し続ければ、一瞬でも心の束縛は解け、いわゆる世間での快楽と違う
あるがままの世界の接触という全く違う喜びに接することができます。
「サトリ」といった感じの現象です。
食べる喜び、味わいの喜びというよりは、無心で世界と調和することそのものの喜びが
「食べることを通じて」あなたに訪れるでしょう。
ただ、食べることは根強く本能と結びついているので、歩いている時や片付けるときの方が
楽かもしれません。

14 :
「音が響く、どう動けばよいかを考える、動く」
これは、思考というより、動作に関わる反射の部分に覚えこませることは必要でしょう。
覚えこんだパターンで反射する自分の体に無意識にならず気付いているイメージです。
共有については難しいです。
外に達人がいてもいなくても本質的には関わりありません。
ですが、外的な影響としては達人が側にいて、あなたが開いているならその影響を受けます。
あなたが開いているならブッダがお味噌汁を喜んでいる喜びが伝わってきます。
ですが、悟りは伝わってきません。それは自己の内奥です。
人は独りなのです。

15 :
愛と愛でないものを分かるとおっしゃるが、
私はこれが愛とは語っていないはずです。
なんにせよ比較でき、存在するものはエゴの投影でしかない。
愛は無条件、不在を旨とする。
私は愛を知っているとどこでにおわせてしまっただろうか。
愛は知りえない。無条件の神秘なのです。

16 :

>それよりあなたは何故憤ったのでしょう。
 8は7へのお返事です。
 9,10は4,5,6へのお返事です。
 
でした。 すこし紛らわしかったです。すいません。
あなたのようにスイスイと書けません。寝ても覚めても、考え尽くして
書いています。そのうち宗教が浸透してくれば、打てば響くように書けると
思いますが、いま打てば響くように書くと、多分誤解をまねくようなことを
スイスイと書いてしまいます。
7に対しては、
「腹が減ることはやめろ」 古人の深い洞察ですが、そのまま書くと愛を感じません。
これを8で表現したかったのです。
 取り急ぎ誤解を修正し、陳謝します。
12−15にはまた熟読してお返事します。

17 :
≫16氏へ。
おお、別人でしたか。
でも例え同一人物でも、
勢いの怒り>冷静になって考え直している。
と見て取れるので、もう別人扱いではありました。
過疎っておりましたので、別人という可能性を忘れておりました。陳謝です。
ただ、本当に正直な人は7−10
の書き込みをするかもしれません。
それこそ自分のあらゆる部分をさらけ出しているようで好感が持てます。

18 :
≫7氏
愛と愛じゃないものに分けて考えるのは、
物凄く傲慢な態度。自分が愛とは何かを知っていて、私の職場には「愛」が無いと
嘆くのは閉じた思考とエゴが見せる惑わし。
いや、やはりこれは私を打ったのだ。少々動揺しました。
世間に巻き込まれている段階では、虚偽と真実を見分け、外界の影響をシャットダウンしないと
いけない。なんにせよいったん拒絶しなければ世間の一部のままだ。
しかし、
「愛のない人間というものはいない。ゆえに愛のない人間という」
「愛のある人間というものはない。ゆえに愛のある人間という」
というように心と時間のない現性においては何物も存在せずただ調和だけがある。これを無という。
私はまだ批判があると思っている上で批判を許そうとしていた。
大っぴらではないもののまだ自分を特別賢いと思っている。全体と分離している。
ブッダなら批判が存在しないということを知りつつ、まだ批判があると思っている人々を導くため
批判があるというふりをして批判について語ったことだろう。
大変ありがとうございます。

19 :
≫仕事
「ゾーン」という本が瞑想と仕事の関連について見事に描いております。
とかく人間は安全なパターンを発掘しようと躍起になりますが、実際にはそんなものは
存在せず、
「たった今マーケットは何を欲しがっているのか」
という現実、しかも今しか通用しない連続性のある現実があるだけなのです。
人の心は過去の成功にしがみつき、過去の失敗を恐れます。
仕事における新天地というのは安全なパターンにしがみつく心を理解するための絶好の
試練場だと思います。
ルー潤[クの頭脳労働は瞑想と相性が相当悪いのですが、0からの仕事で心が動揺
することと瞑想の組み合わせはあなたの心をあなた自身に開示してゆくでしょう。
ユニクロの社長は、油断すれば、いやたとえベストを尽くしても将来社員を
一割首にしないといけないかもしれないという現実が見えてるからこそ自然
とアグレッシブになるのだと思います。
安全はない。でも必死で生きている人が飢え死にするほど世知辛い世界でもない。

20 :
ゾーン 相場心理学入門 (単行本)
マーク・ダグラス (著), Mark Douglas (著), 世良 敬明 (翻訳)
この本でしょうか?

21 :
ええ、それです。
内容は相場についてですが、そのアプローチは全てのビジネスにつながります。
過去と未来がなく、損も得もない境地が相場には必要であり、相場を通じて鍛えることができます。

22 :
愛という与え続ける境地
得失過去未来がない動機なき行動の境地
最優先で心を見守る境地
3つ適度に試しつつ自分に合ったものを見出して下さい。

23 :
だからメールでやれよ。そういう内容だろ。
ごちゃごちゃ話が長い。それでは手遅れだ。
正しい反応は即時であり、行為と思考の後に分析が来ても
意味がないし、意味もない。
行為の前に行為し、考えるまえに見よ。
その時批判は批判じゃない。全体的に手ぬるいよ。
スピードを上げろ。

24 :
>まこと賢明な23氏へ
分析など全くしていない。
言われた瞬間に理解するわけではないが、理解は今ここにだけ存在し、永遠だ。
思考を非難する思考。あなたのなさっていることだ。
内面の成長においては知的に理解し、それを為そうとすることは何の役にも立たない。
全的な理解が必要とされる。

25 :
>行為の前に行為し、考えるまえに見よ。
その時批判は批判じゃない。
全く同意である。しかもまた見事に私の急所をつく手腕は感心する。
ただ、正しいのは言葉だけで、あなたの存在がこれを理解する役には立たないのが残念だ。
こういった純粋な正論は実行できる力量のある人間に対してでなければ有害なので、
他者と何よりあなたを傷つける。

26 :
>23氏
要は、物事にはやろうとしてもどうにもならない種類の物事があるということです。
世間的、外的な目標ならともかく内的なありようを目指すことは不可能であり逆効果です。
私も他人(祖師)の内的なありようをまねしようと本当に奮闘したけれど、それは苦しみを生むだけでした。
まねをやめてようやく彼らに比べても恥ずかしくない要素が自然と花開き始めました。
これは大いなる逆説です。
あなたも自分に強制し、帰結として他人に強制するのではなく、ゆったりあなただけの道を歩むことができるのです。

27 :
≫all
内面の在り方においては他人を言うことを聞くというのは無意味です。
自分全体が関わらなければならないことなので、ほんのかけらでしかな
い他人の意見はただ自分全体との間に混乱を引き起こすだけです。
自分全体の意思と理解、もしくは信頼できる人への明け渡しだけが道しるべ
たり得ます。
同じように、他人に「これをやれ」というのは通用しても、
他人に「こうあれ」「変われ」というのはどだい実現性がなく、他人に
あらたな混乱の種を押し付けるようなものです。
そしてそれはあなたに怒りとして跳ね返ってきます。
自分が変わろうとしても変われぬことを理解すれば、他人にそれを期待す
ることもなくなります。
ただ、確かに時間というものがなく即対処する世界に住んでいれば、
自分にエゴが、物事はこうあるべきという自分勝手な欲望が全くなければ、
他人のあらゆる批判は批判としてではなく
「神の声的な正当性のある部分」「他人の主観のたわごとだが対処しなけ
ればまずい」「無視していいたわごと」
という複合として何の苦痛もなく対処できるでしょう。
全ては神であるとはかくなりぬ、と。ちょっと覗けただけですけど。

28 :
私はやれと言っているが、
どう受け取るかはあなたの問題だ。
私は何も期待しないし、あなた方のーに対して関心はない。ーは私的であるから、メールでやれと言う。
バスの中でーを始める人に何と言うだろうか?
これは常識の問題であって愛や気づきや思考それ自信とそこからの自由の話しではない。
常識の話しをしている。生活と瞑想と仕事とあなた方の言葉は別個のものじゃない。
別個のものと考えると、ーを所構わず始める。だからこれは常識の問題だ。
こことあそこが別個のものであり、自分はそこに到達せねばならないと考えるなら、
修行の資格すらないのだ。やるならーを持ってしてそこまで透徹せよ。
尿道から血が出るまでーすれば、あなた方はやめる可能性はある。

29 :
終わらせるには味わい知ることだが、
語ることは延期させる。よって対話は要らない。これは対話ではない。私は語るが語らない。

30 :
これは不快な思いをさせて申し訳ありません。
そうやら相当恥ずかしいことをしているみたいなんですが、ここはそういうスレッドですし、
参加者もいますので、しばらくみなで遊んでみます。

31 :
狸の常識はわかた。
いいたいのはそれだけか? お前こそ手ぬるいのではないか? もっとスピードを上げろ。

32 :
>その時批判は批判じゃない。全体的に手ぬるいよ。
>スピードを上げろ。
それは、臨在の禅問答なんかをイメージしているのでしょうか?
つまり「打てば響く。」
 しかしあせるとだめですね。寧ろ、最初は丁寧にゆっくりやったほうがいい。
そのほうが結果的には早く至る。 公案なんかで、はガツガツとあせるのは良くない。
「いけに投げて沈んだ石を、念じて浮かび上がらせようとしても無理です。」
一番簡単なのは、手を突っ込んで拾い上げることです。
 お釈迦様も「急がば回れ」とおっしゃってます。
 魔法を使うのはアフォーです。間違いありません。

33 :
>一番簡単なのは和尚のダイナミック瞑想なんですが、
 これは私の場合はどうかと思います。 ダイナミック瞑想の経験はありませんが、
一時期ハードロックを聴いて激しく踊ったり、あらん限りの力で喚き散らし、一日中
踊り狂っていました。こころに発破をかけて爆発して、粉々にする。
 「和尚の糞餓鬼なんか踏み潰して木っ端微塵にしてやる」というつもりで、ダイナマイト瞑想を
こころみていました。
 これは常識を破壊するにはよかったようです。
 変性意識状態に入ることで、なにかとてつもない自由をえた気がしました。
 しかし、その後粉砕された精神の統一に苦労しました。この方法はあまりよくありません。
浄化もありますが、毒をまき散らかします。
 最近坐禅をして分かるようになったのですが、激しい運動の後は精神を静めることはできません。
無理やり瞑想にはいるのはまずい気がします。

34 :
>あなたが、現世と涅槃。愛と憎しみは不分割で一体であるという法の境地に
>目覚めているのでしたらそもそも質問などありますまい。
 自分の行為に対して読みが足りないのです。ですから鈍感であり、鋭い質問が生じません。
真剣さに欠けるのです。 だからこそ、苦行というのは一つのテーマなのですが、極端に
真剣になれば、空回りする筈です。
>ご存じないからこその質問なのにいつの間にかあなたの知性は教える側に回ってしまっている。
>こうやってあなたの知性の暴走を許せば永遠に知っているという夢を見続けるでしょう。
「知性の暴走」という言葉を捕らえています。今はこれについて何かを言えませんが、ここに
示唆される重要なものがあることを感じます。
 苦痛と快楽が等質であることは私には分かりません。しかし挑発を含めての知的な意味では
理解できます。
これをたとえにして、愛と傲慢が等質であるということは乱暴過ぎました。そもそも苦痛や快楽は
個人の感覚です。愛や傲慢は別の次元です。
 しかし傲慢という言葉を非難をこめた意味で、傲慢でない人から聞くのは稀です。
傲慢マイナス傲慢はゼロです。
と同時に傲慢な人が愛を理解できるわけはありません。愛もゼロです。ですから愛と傲慢が
等質であるというのは、そのような人に向けられたメッセージとしては間違っていないのです。
 私が宗教的には未熟であるとしてもこのような言葉には影響を受けません。

35 :
>私がここにいる主眼は、現世の受容、現世と涅槃の統合です。
 私には統合がありません。私の言葉が内奥の言葉なのか、それともただの受け売りなのか
吐き出しつつその区別さえもつきません。神聖なところからくる言葉と自分の言葉の圧倒的差
を感じる時に、無駄な言葉がすこしつつはがれて落ちて行きます。

36 :
>32
知性を成熟させたあとでそれを捨てることと
単純な考えに乗っ取られることの違いです。
>33
変性意識状態に入ることで、なにかとてつもない自由をえた気がしました。
 しかし、その後粉砕された精神の統一に苦労しました。
その自発的な超努力たるやよしです。その意志の強さは大きな宝です。
ただ、もし和尚が嫌いでなければ、ダイナミック瞑想は非常にち密に計算されているので
そのものを経験されたわけではないみたいですね。
ダイナミック瞑想は狂気を自分の意思で演出するのではなく
「不規則な呼吸」>「今までにない自分のパターン」>「自分の知らない無意識出てくる」
>「その発散」>「内奥にすすむマントラ」>「静止」
とすでに持っている自分の表層意識、無意識を掘り下げるように作られています。
でも和尚が好きでなければ無理することはありません。
なんとでもやりようはあります。
東京近郊ならスピリチュアルな集まりも案内できますが、、。

37 :
>34
これは結局あなたに向けての言葉ではなかったのですが、
自分のこととして考えているのはいいことだと思います。
>苦行
あなたには動じない心とバランス感覚があります。
ここは私の欠点ですのでむしろ現時点では教えてもらっています。
得失のない行動を生全体にしみこませられるかもしれません。
これらは私にとっては最後にやってき始めたご褒美なのですが、
あなたはすでに見出しておりこの線で成長してゆかれるかもしれません。
愛と傲慢
傲慢な人の主観としては自分は正しく、相手はは哀れにも間違っているので
親切にも教えて差し上げようと思っています。
それは基本的に覆らないので現実的な対応をします。
相手を尊重すると自分のことを尊重するのがもっと楽になります。

38 :
やさしさだけがあるという夢と闘いだけがあるという夢があります。
どちらが優勢かは違うもののみなこの相補する2つの夢を持っています。
しかし、どちらで生きても両方を含む現実の世界と対立し苦しみます。
剣と花の統合が菩薩なのだといいます。

39 :
鈍感。
鈍感な人が自分を鈍感と見出すことははとても大変なことです。
安定感、現実のバランス感覚があるのであれば、その分鈍感になる
のは避けられぬことです。
この精神構造を理解しその影響から脱したなら、驚くほどの感受性を見出すでしょう。
ただし、安定―鈍感の精神構造を理解するだけの意識も必要ですが、
もともとの実際性のある男性的精神に加え、女性的な受容の精神が入って来るので、
それが対立せず相補するよう調整できるだけの
思考、感情、行動、意識の成長があらかじめ必要になります。
少しずつです。意識が成長した分のものをあなたは受け取ります。
意識、3センターの能力以上のものを受け取ったら混乱してかき乱されてしまい、
受け取ったものと同等の意識にたどり着くまでそれは続くでしょう。

40 :
無心の空っぽの空間の広さの分だけ
私たちはとらわれず自由に心を使い、
全体と交感できるようなのです。
これに気付かせてもらったおかげで、
自分の不可思議な人生の秘密も解けましたし、
これからの道なき道が露になりました。

41 :
今日は坐禅に身が入らなかった。昨日肉食ったせいだろうか?
食事ってどんな感じですか?
 私の場合は基本はご飯+菜食で小食をこころがけていますが、出されたら、肉も食べます。
昨日は重労働したので、昨晩ケーキもたべたし、チョコレートも食べた。ケーキは食べた直後
体の異変には気がついていたのですが、肉は普通に美味しかった。
ケーキ食べたせいだろうか頭がボヤーとしてすこし熱を帯びていて、全然集中できない。
>やさしさだけがあるという夢と闘いだけがあるという夢があります。
 優しさだけってのもヤッパリ夢なんですかね。
>もともとの実際性のある男性的精神に加え、女性的な受容の精神が入って来るので、
>それが対立せず相補するよう調整できるだけの
>思考、感情、行動、意識の成長があらかじめ必要になります。
 受容的になるためですが、毎朝の坐禅の時は、衣服を瞑想用に着替えて、必ず礼拝するよう
にしています。
>無心の空っぽの空間の広さの分だけ
>私たちはとらわれず自由に心を使い、
>全体と交感できるようなのです。
 土曜日は電車にのって山登りにでかけたのですが、待ち時間や電車の中で瞑想できました。
坐禅している時だけじゃなくて、生活の中に広がっていくのは嬉しい。

42 :

>ダイナミック瞑想は狂気を自分の意思で演出するのではなく
>「不規則な呼吸」>「今までにない自分のパターン」>「自分の知らない無意識出てくる」
>>「その発散」>「内奥にすすむマントラ」>「静止」
>とすでに持っている自分の表層意識、無意識を掘り下げるように作られています。
 ダイナミック瞑想の実際的な意味としては、浄化だと思います。そのため、心が開放されて
絵がかけるようになったり、作曲ができるようになったり、そういう芸術的作用は飛躍的に
高まると思います。
 しかし、瞑想ということであればこれはほんのさわりにしかならないでしょう。
インスタント瞑想の一種で、万人向けに短時間にできる瞑想をパッケージ化したところに意味
があります。
 瞑想修行の前提として、食事制限も含めて、節制(五戒を守る?)が絶対条件とおもっています。
かなり思い切って長期間、心の環境を整えて、静寂へ入っていく必要があると思います。
瞑想期間中に跳んだり跳ねたり喚き散らす浄化などは論外です。
 5戒は象徴的意味として捕らえています。厳密には実現不可能です。ですから、何処までを
絶対とするかは、まだ決めかねています。
 しかしある期間中、これを絶対に守ると決めたら絶対に守る必要があるとおもっています。

43 :
瞑想について語る時は控えめにされた方が良いでしょう。
私が意識、気づきという場合は誰でも今から可能なこととして語りますが、
瞑想は一瞬でも心と夢が止む飛躍のことであり、
瞑想には段階がないからです。瞑想にどれだけ留まれるかという力量はありますが、瞑想そのものは一定です。
その瞑想を見出すには、あなたにとって必要なあなただけのための
緻密であり完全な用意が必要です。
ダイナミック瞑想はその用意をするのに効率の良い方法です。
瞑想に至ればこの類の技法への関心はたちどころに消えます。
賛成も反対も意見もなくなります。
ですので、日々の生活の意識と、日々の運動を伴った行(走ってもいいし踊ってもいいしヨガでもいいです)
が「ひとりでできる」のであればダイナミック瞑想は不要です。

44 :
私の家族は優しい人が多いですが、いつも意地悪な人の文句を言っています。
意地悪だったり、野蛮だったりするものを恐れてしまい、不要な心配を抱え行動が制限されます。
自分もみんなもやさしくあるべきだという理想で社会と対立しているのです。
女性であったり、やさしい人々は一見魅力的な人々であり、ほとんどの場合暴力的な人より意識も成長しています。
ですが、これは花と剣の花の部分でしかなく、剣も生きていく上で同じくらい重要ですので
男性は自己卑下することはありません。
意地悪だったり、野蛮だったりするものを恐れてしまい、不要な心配を抱え行動が制限されます。
自分もみんなもやさしくあるべきだという理想で社会と対立しているのです。
私は剣の重要さを訴えますがそれは私に必要なのであって、あなたにはお察しの通り優しさのマインドの成長が必要ではあります。あなたが優しくないと言っているのではなく、受容的な女性性のマインドのことです。
宗教的な探索においては感受性は最も必要とされるものです。

45 :

食事制限は制限から始めるのではなく、
心理的な好みの味覚
心理的ストレス解消の食べ物の味覚

現実に肉体的が必要とする食べ物についての味覚
を識別するところから始めるとよいと思います。
「体が必要とするもの」という味覚は舌に限定されず体全体で喜ぶかのようです。
体のことには心は介入せず体に任せます。
また食べ物は精神的な影響を与えるので、それが感じられるなら
葱類、肉類は控えた方がいいでしょう。
アーユルベーダーをヒントにしながら体で実感することが大切です。

46 :
自分も最初はマントラ瞑想や、ヴィパサナから入ったので長期間集中してヴィパサナ
やってみるのはいいと思います。
瞑想が起こるには自我の統一が必要で、
ヴィパサナは自我の統一やあらゆる準備ができていれば
「その成果を刈り取る」役目といった感じで、単体では自分の場合
全くの役立たずでした。
ヴィパサナは5分でいいです。5分真剣にやればその大変さが分かります。
ヴィパサナは理解のためにあるもので、ヴィパサナの時間の蓄積には意味はありません。

47 :
>瞑想について語る時は控えめにされた方が良いでしょう。
 そうですね。本の印象だけではだめですね。
基本的に瞑想できる(と思う)実際の人に一度も出会ったことがありません。
あなたが瞑想できる人だと言うことは今までの書き込みから分かりますが、ダイナミック瞑想
に対する本などからの予断から、それを忘れていました。
ただどう考えたらいいのか、私のロジックには嵌らないです。
>私が意識、気づきという場合は誰でも今から可能なこととして語りますが、
>瞑想は一瞬でも心と夢が止む飛躍のことであり、
>瞑想には段階がないからです。瞑想にどれだけ留まれるかという力量はありますが、瞑想そのものは一定です。
 段階や深さはないということでしょうか?
すると私が瞑想と感じているものは瞑想ではないのでしょうか?
しかし、私の場合は明らかに段階を踏んでいます。まず数息感からはじまり、髄息感で息を感じる状態を
続けています。
>44
 ここの喩えはよくわかります。
>葱類、肉類は控えた方がいいでしょう。
>アーユルベーダーをヒントにしながら体で実感することが大切です。
 カレーなので、たまねぎとひき肉がはいっていました。ねぎはだめなんですね。

48 :
>瞑想が起こるには自我の統一が必要で、
>ヴィパサナは自我の統一やあらゆる準備ができていれば
>「その成果を刈り取る」役目といった感じで、単体では自分の場合
>全くの役立たずでした。
>ヴィパサナは5分でいいです。5分真剣にやればその大変さが分かります。
>ヴィパサナは理解のためにあるもので、ヴィパサナの時間の蓄積には意味はありません。
 そうなのですか?
まだビパッサナといえる状態ではないと思いますが、
 「姿勢を微動だにしない状態で息を感ずる」
を現在やり続けています。毎朝30分から40分やっています。
かなり頭がクリアーになる気がします。
 「瞑想には段階がない」ということと「自我の統一が必要」というのがよく分かりません。
自我の統一というのは、たとえばどういうことなのでしょうか? それは肉体感覚や思考方法に現れてくる
ようなことですか? 44のような喩えは非常によく分かるのですが、「自我の統一」というと
抽象的でよく分かりません。

49 :
これはあくまで私の瞑想の定義であり、みながそう定義しているわけではありません。
ですが、それには訳があります。
例えばミラレパが弟子に「洞窟にこもり瞑想しなさい」
と言った時の彼自身が指示した瞑想という言葉「そのもの」
は最近ようやく理解し始めたものです。
彼らの言う「瞑想」という言葉を自分のレベルで理解したために実に大きな
苦痛、回り道を経験しました。
もともと「瞑想」という言葉は私の定義では「覚醒」と同じです。(それですら甘いのですが)
そうすることで無用な誤解を避けることができます。
瞑想、覚醒は心でないものの無心のスペースを見出すひとつの飛躍です。
そのためには一瞬とはいえ自我を失わねばならぬのですが、あくまで
統一された大きな自我を失う必要があります。
これはあるマスターの比喩
ですが、自我が50パーセント統一されれば、自我を捨て自我の檻の外と
直接触れ合える、と。

50 :
>そうなのですか?
まだビパッサナといえる状態ではないと思いますが、
 「姿勢を微動だにしない状態で息を感ずる」
を現在やり続けています。毎朝30分から40分やっています。
かなり頭がクリアーになる気がします。
ここはとてもデリケートなところです。
あなたの言うことも分かるし、自分もそのクリアーな状態の成長を楽しみに
日々(瞑想)に励んだものです。
それは良いことではあるのですが、それにしがみつき蓄積し始めると同等の
苦しみも訪れはじめるでしょう。
とりあえずここは直接的な答えは用意しません。
瞑想は体験では無いということです。
そして心がある限り体験があります。
瞑想はこのような状態だという描写は全て体験であり心の働きです。
無心の状態に数時間もいれば光明を得るとマスターは言います。
ですが、何日もトランス状態に入れても光明を得ていない人はいくらでもいるのです。

51 :
ですので、
日々の気づき、意識
日々成長する体験
飛躍でありもともとあなたに備わっている瞑想
というように整理するとわかりやすいかもしれません。

52 :
 まずあなたの敬愛する人に暴言を吐いたかもしれません。お詫びします。
様々な悪評があると、冷静に理解するよりも、めんどくささや、恐怖から排除が先にたちます。
 あなたの言われることの意味を理解しようとしています。
ダイナミック瞑想、自我の統一、坐禅は間違い(デリケート)、瞑想は体験ではない。
瞑想は段階がない、
受容的な女性性のマインド、剣の重要さ
日々の生活の意識、日々の運動を伴った行(運動、踊、ヨガ)
 以上を総合して、あなたの言われる自我の統一とは自然にアートがあふれ出す身体性のことですね。
こちらは段階があり50%に達するとスコーンと瞑想に入れる可能性がある。
「元々備わっているものを覆っているのは」壁と靄だ。
壁の方が取り払うのが難しいように思えるが、靄の方が難しいかもしれない。
坐禅は壁に向かうが、日々の気付きで靄を払うこともしなくてはならない。
みたいな感じでしょうか?

53 :
2chで瞑想の指導をしたり、受けたりって危ないんじゃないか?自作自演ポイのもアホくさい

54 :
瞑想って危ないとおもいます。 2chでなくても。

55 :
>54氏
この板にはリアルの日本人では一人も会えなかったほどの人が
2人もいる、いやいたので結構濃い場所です。
2ちゃんだからって馬鹿にすることはないです。
瞑想について教わるのはリアルでもとても危ないです。
こういう話があったかな。
私はまず師に頭を下げる。
そして相手にえらそうなそぶりが少しでも出たらそこから逃げ出した。
相手が自分よりへりくだってもそこから逃げ出した。
あなたから影響を受けずあなたを理解できる人があなたの師です。
気が向いたらあなたのことで何か質問してください。
それがここの遊びのルールですし、私の力量も露にならざるをえません。

56 :
私にはなんの力もありません。
が、邪魔な私が引っ込んでさえいれば、存在と調和するための英知が
私の不在を通じてあなたにもたらされるはずです。

57 :
人は体験に固執してしまうと閉じてしまう。
他人に対しても世界に対しても閉じてしまうのだ。
宗教性とは「過去の体験」ではなく、「今ここに流れること」である。
自然であること
身体、生全体で表現すること
絶えず今あふれ出し続けること
これは瞑想の準備でもありますが、むしろ瞑想より高いものでもあります。
生のダンスを踊れるときが来ればもう瞑想は必要ないのです。
あなたの理解は素晴らしいものがあります。
この理解があなたの中で熟してゆきますように。
ただあくまでそのアートは気づきに寄り添う影のようなものです。
それを目指し試みるようなら偽善にはまりこんでしまうでしょう。
表層では幸せでも中は空洞であり、そのギャップがより大きな苦悩を
もたらします。
多くの便宜を得るのですが肝心の本人が不幸なのです。
そのつらさを分かっていたら誰も目指しはしないのですが。

58 :
和尚は実際にに役に立つことを語りました。
それはあらゆる慰めで生きている人を苦しめることになります。
あなたも他者には重々気をつけねばなりません。
和尚は相手が怒るのを解って言ってる自分が悪いと言っています。
目覚めた人間にだけ責任があり、目覚めつつあるあなたにも責任はあるのです。
どうか他者の苦しみに敏感でありますよう。
正義はいつも他人の気持ちに鈍感であり、眠りの一種です。
坐禅の意味をあまり考えるのはお勧めできない。
下手に正解を言い当てたならそれが最大の障害なので微妙に間違った考えに
誘導しないといけないぐらいだ。
坐禅は起こることであってすることではない。
理由と目的がある内はまだこなれていない。
今はかき乱されたときに心を観察するために、
落ち着ける態勢をとることを坐禅と理解しておけばいい。
禅の座禅は、弟子を打ち動揺させるマスターがいてこそ意味があった。
くつろげる姿勢で自分を見守ることとしてくみこめばいい。(ヨーガスートラ)
ただ、私は覚醒について語るが覚醒を急ぐことはないともいう。
覚醒をしても覚醒にとどまるためにはとどのつまり露払いをし続けなければならない。
また、露が多いのに覚醒に至るとそれは不均等な発達で多くの苦悩を背負ったり、
また堕落する可能性も高い。
覚醒には全てを賭けねばならない。後戻りもきかない。
それにはタイミングというものがある。
そういえばクリシュナムルティーのスレでLさんは何か書き込みされてますか。
過去の事とはいっても情報は多い方がいいので。

59 :
おショーの宣伝をしたければスレ立ててそこでやれよ。回りくどい自作ジエンなどするなってw
サニヤシンは全然オープンな人間じゃないよ。ラジニーシ色に染まらないと、連中は絶対納得しない。構造はオウムと同じ。っていうか、麻原がラジニーシを真似てるからな。今更ダイナミックとか、古すぎるだろ。そういう意味でもこのスレは危険だ。
絶滅危惧種のグルイズムがそのうち出て来るぞ。そういう奴が瞑想について語る時は危ないぞ。マジで。

60 :
それはサニヤシンの精神構造ではなく、人間の精神構造だ。
何も不思議なことはない。

61 :
>59さん
どうも、いらっしゃい。
サニヤシンを軽蔑し、反感を感じているようですね。
ですが、あなたがあなた自身を理解していれば、彼らのことも理解できます。
軽蔑や怒りではなく、事実認識を基底とした愛情が湧いてくるでしょう。
あなたは和尚はお好みではない、グルイズムも警戒している。
ならそれを表記した上で何か質問なさってください。お待ちしております。
私の関心は「あなたに」役立つことを述べることです。
そういう意味では過去の技法は全て古く役に立たないというのはその通りなのです。
ダイナミック瞑想は今でも通用する人もいますし、改造が必要なな人もいるでしょう。
また全く向いていない人もいるでしょう。
役立つかどうかは別に、もう古いものと多くの人が思っているかも入れません。
(あなた一人の意見では大勢は計りかねますが)
全く新しいものが必要だというのもその通りです。
ですが、さすがにそれは今の私の仕事ではないですね。

62 :
>>60
それが欺瞞というもの。サニヤシンは人間じゃないのか?
>サニヤシンを軽蔑し、反感を感じているようですね。
いいや。あなたが私をそう見てるだけ。
サニヤシンが閉じた世界であることは事実。
オショーのやり方はグルと弟子の関係だから当然。
サニヤシンは自分が特別と感じているからオープンでないのは明らか。
オープンで、相手の事を考えるなら、
>私の関心は「あなたに」役立つことを述べることです。
こういう事はいわない。なぜあなたは私の役に立つと断言できるのか?
何を根拠に? サニヤシンと書いて素早く反応してきたのは何故?
>ならそれを表記した上で何か質問なさってください。
何も質問はない。知っていることを聞いても意味がない。
>ですが、さすがにそれは今の私の仕事ではないですね。
あなたの仕事は和尚スレでも立てて盛り上げることじゃないのか?
それはそれで結構。ただ批判も当然あるのだから、少々揺さぶられても
動じない事だ。それがいやなら2chはしないことだね。
オウムとラジニーシ、そして両者に共通するグルイズムはどう説明する。
オショーに集う人々がオウムのようにならないという保証はあるのか。
説明しなければならないのはあなたであり、私ではない。
ここは大勢の人が見ているのだから、サニヤシンであるあなたの言動は
当然注目される。オウムの事件のときにラジニーシがカルトとしてTVで
取り上げられてただろ。随分昔の話だが。あなたはオショーの信奉者と
してどう見てるんだ?

63 :
まずおちついて60を読み返して下さい。
あなたと同じことをいっているはずですよ。
人間なのでオウムもサニヤシンも同じです。
どんな思想の集団であるかより構成する人間一人ひとりが組織をつくてゆきます。
それは和尚の責任でもオウムの責任でもありますまい。
あなたのいう保証でしたらありませんよ。そりゃ。
キリスト教の例と同じです。
また私のやり取りから私を信奉者として見るのは無理がある。
なんだかんだいって一番最近のマスターなので使いやすい。
お嫌いでなければ使ってみてください。それだけ。
あなたの役に立つと断言?
「私が邪魔をしなければ、英知が下りてくるかもしれません」
と述べています。
あなたは私をみていません。なにか見えない敵と戦っているようですね。
私はサニヤシンではありませんし、現行の多数の和尚の勢力からは煙たがられる
立場にあると思います。
なにを悲鳴を上げているのかな。まず私の書き込みをきちんと読みなさい。

64 :
サニヤシンは特別意識があり、オープンではない。
それが本当だとしてなぜ私が、貴方が困るのでしょうか。
他人のことはどうしようもありません。
あなたにできることはあなたがオープンであり、目の前の人にそれを伝播
させることだけです。

65 :
ついでにわたしはサニヤシンではありません。

66 :
いや、ごめんなさい。書き込みは下書きから持ってきたのですが、抜けていました。
以下抜けていた部分。
気が向いたらあなたのことで何か質問してください。
それがここの遊びのルールですし、私の力量も露にならざるをえません。
私にはなんの力もありません。
が、邪魔な私が引っ込んでさえいれば、存在と調和するための英知が
私の不在を通じてあなたにもたらされるはずです。

67 :

★ラジニーシーと呼ばれるインドの宗教カルトは、1984年にオレゴン州のレストランでサラダバーを
サルモネラ・チフィムリアム菌で汚染し、751名の市民が被害を受けた。 
このカルトは、地元の選挙に際してダラスとワスコ郡の政治的支配を確立するため、市民が投票出来なくしようとしたものだ。
http://www2.odn.ne.jp/~cdu37690/btidensitotansokin.htm

68 :
残念だが質問には答えてもらえないようですが?
>どんな思想の集団であるかより構成する人間一人ひとりが組織をつくてゆきます。
>それは和尚の責任でもオウムの責任でもありますまい。
それは嘘でしょう。あなたの論理だと、サリンを撒いたのは実行犯の責任だと言ってるのと同じ
になりますよ。オショーにも麻原にも責任はあるのは間違いないでしょう。
サニヤシンという信仰システムを作ったのも彼でしょう?
>また私のやり取りから私を信奉者として見るのは無理がある。
すいませんが、57−58からは直近のマスターとして心酔しているようにしか見えませんね。
第三者から見て全く無理はありませんが。
>「私が邪魔をしなければ、英知が下りてくるかもしれません」
邪魔ではなく、いなく成ればでしょう。
>あなたは私をみていません。なにか見えない敵と戦っているようですね。
戦ってはいません。指摘しているだけです。和尚に心酔した人が2chで瞑想指導している人が
グルイズムについて理解しているのかは重要なことであり、誰かが指摘しておく必要はあります。
心酔している人は危険ですから。

69 :
>サニヤシンは特別意識があり、オープンではない。
>それが本当だとしてなぜ私が、貴方が困るのでしょうか。
私は困りません。誰か困ると言いましたか?事実ですから困るも何もありません。
ま、それでは確かに霧は晴れませんよね。
>それがここの遊びのルールですし、私の力量も露にならざるをえません。
ルールを決められるあなたは何なのですか?ここはあなたのサイトでは無いのですよ。
穏やかな書き込みしか見たくないなら会員制のブログでやったらどうですか?
>が、邪魔な私が引っ込んでさえいれば、存在と調和するための英知が
>私の不在を通じてあなたにもたらされるはずです。
あなたは邪魔だと自認するなら、ここで何も書かずに引っ込んだままにしていなさい。
それが本当の英知というものです。書かない勇気は書く勇気よりも重要です。

70 :
ふむ。あなたの考えは解った。ありがとう。

71 :
悪いがもうちょっと続けさせてもらうよ。
「存在と調和するための英知」 なるものはありませんよ。
きついことを言うようで申し訳ないが、あなたの言葉は誰かの借り物でしかありません。
おそらく直近のマスターの言葉で気に入っているかもしれませんが、心酔している人は、
自分がそれをすでに得ているかのように想像してしまいがちです。
それがこのスレで起っているtruthです。ただの夢想であり、何の役にも立ちません。
私が指摘したい真意はそこです。オショーの役割はグルとしてそういう夢を喚起すること
であり、彼は自分の役割を良く分かっていたと思います。ただし、夢見ているだけでは覚醒
はしません。夢だけでお腹一杯では駄目なのです。そこがいわゆるグルの罪深いところであり、
クリシュナムルティが「グル」に反対していたのもそこなのです。
私は自身の体験からその危険性を良く認識しています。
このまま書いていれば、あなたは自分の夢をますます強めるでしょう。
お尋ねしたいのですが、本当にそれでいいのですか?
それは明かにひとつの段階ですが、誰も同じところに留まってはいられません。
真理は道なき大地であり、誰かの言葉が灯火になるわけではありません。
しっかりしてください。あなたがやっていることはただのお遊びです。
申し訳ないが、何遍でも同じことを書くでしょう。
しかしながら私の意見に耳を傾ける必要はありません。
自らのハートに尋ねてください。
そうすれば霧は晴れます。このスレはひどい霧です。消散させるかはあなたに依ります。

72 :
ふむふむ。自分が言い続けていたことを言われるとは面白い。
クリシュナムルティースレであなたと同じことを言い続けて避難してきたんですよ。
私の見解w言葉に対する認識も書き込んであります。過去の未熟な私ですが。
あなたは夢想などしらぬよ。
覚醒した人だけが夢想を知る。あなたは覚醒したのかな?
眠った人が眠りを非難してどうする?
貴方が目覚めているのなら私の言葉から類推される実存を、私の内側をガツンと捕まえて
のけるだろう。正直外側からの批判は眠った人の特徴だ。
そして私のやってることが本当に遊びなら私は光明を得ている。
遊びのつもりでやろうと意識しても執着してしまっている自分を
見出すことがワークになるのだ。
またなんどでもおいで。

73 :
他人が夢を見ていると批判すれば、自分は目覚めていないにしても
少なくとも夢にどっぷりつかっているわけではないと思いこめる。
そういう夢を見ている人はクリシュナムルティー関係には多かったな。
共通する特徴は実在を不在である言葉で説明するというゲームをしているところ
それを真に受けて批判するところだ。全部冗談なのに。
あなたの実際の心の動きを見なさい。
愛がありますか?批判や怒りや嫉妬があるのではありませんか?
ことばは立派です。ですがあなたの中身は言葉についてきていますか。

74 :
71の書き込みは私の内面を全く無視しているが、そもそも
「何で夢想なのか証拠を全くあげず」説得できるつもりなのが面白い。
述べていることには妙な正確さがあるのでまともに返答してみよう。
第4の次元までは夢と完全に同化している
第5の次元では時に目覚め、時に夢を見ている。
第6の次元でようやく夢見は完全に消滅するらしい。
わたしが夢を見ているというのは正しい。
ただ夢見のメカニズム、段階は複雑なものだ。
私は夢を見ている。だがどういった種類の夢かわかるかな。
夢想を通じて夢想から出る。
言葉を利用して言葉から出る。
私の語ることはすべて夢だと。直接、間接に示している。
夢から出ても夢の消滅にはまだ至らないのだが。
まあクリシュナムルティースレッドの続きということも
あって説明不足かもしれない。
私はその人に合ったとびきりの第4の夢を見せるべく、
その人の特性に合った行を考案する。
私は人によって全く違う行を提示しています。
第4の夢は実存と知識の調和がなければ起こり得ない。
第4の夢は過渡期として必要なものだ。
持ってない人がどうやって失う?
後で取り上げるつもりでもそれを知らせずにまず与えるのだ。

75 :
で、第6の次元まで体験したの?
してるならどうぞ語るなり戯れてください
してないならしてから語ったほうがいんじゃね?

76 :
71の書き込みは冗談ではなく正しい。
まあ、私のことを全く見ていないひとりごとなので何のコミュニケーションにもならぬが。
正にその通りに私はやっている。私はあなたの言葉に完全に同意する。
また実在との調和のための英知などないというのも同意する。
そのとおり、そんなものはない。
それが知的にではなく実存として理解できていれば冗談と受け取れたでしょう。
私は私の言っていることを全く実行していませんよ。
これらはある段階までのものです。
そしてある段階までは必要なものでもあります。
あなたにはそれも分からない。
覚醒を見出し技法が自然に落ちた人なら、今技法が必要な人の邪魔もしないし
技法を必要としない人が必要とする人に与えているということも理解するでしょう。
ただ、心配していただいたのは有難い。
大丈夫です。ここで語っているのは過去必要だったことです。
しかし残念だ。あなたの知識はあなたには早すぎた。
近道は危険だ。まずその実存に分不相応な知識をすてなさい。
そうしないと実際のあなたは一歩も進まない。

77 :
>75
兄弟。 「らしい」だ。
彼が夢が全くない境地をお望みのようだから。
自分は知らんけど、それがいかに大変なことか示した。

78 :
自分が知らんこと示さなくていいよ
知らんのならいかに大変かどうかも知らんだろ

79 :
Kとかラジニーシとかの名前が出てるわりに単なる思考と妄想に執着したスレなんだな

80 :
>L氏へ
私はただの夢想家なのであてにしない方がいいです。気をつけるように。
「知識の暴走」「思考の暴走」
これは私も解ってなかったです。
心、知識、思考には良性と悪性があります。
良性の知識、思考
感情、意識、身体、実存と連動した知識。
瞑想と共に育つ知性。
実際に実存で理解したものを言葉に直してゆく。
それも障害ではあるのだが知識、思考の健全な働きである。
過去から脱し現在にとどまるにはこれすら止んでもらわないといけない。
悪性の知識、思考
知識と思考が独立していて、感情、意識、身体、実存とつながりがない。
物事の細部が理解できない。微妙な表現の書き込みなんか認識不可能。まず誤解。
倒錯が基本。何でも見間違える。
何からでも誤りを見つけ出す。
知識として知っているだけのものを実存で理解していると思い込むので、
その証明のため絶えず論争、アドバイスを必要とする。
誤った思考の使い方を知らないので社会のある部分が理解できなかったけれど、
試しに感情を交えず思考だけで思考してみると世の中の倒錯が理解でき始めた。
日々の意識で正しい思考のセンターと繋がりつつ、倒錯の思考のセンターに
惑わされぬよう気をつけましょう。

81 :
世の中には正知の人も倒錯の人もいるのだから
正知のは正知の、倒錯には倒錯の受け取り方をしないとこちらがかき乱される。
言葉と中身は同じであるという条件付けが問題だ。
いやいやそれは違う。それはめったに一致しない。
ずれているという前提で人と関わった方が実際的だ。
相手の言うことを真に受けなければ相手ひとりの意見にすぎない。
だが、真に受けて、自分でそうだと思ってしまうと結局全ての人がそう見ることになる。
内面で影響をけずに好きなように言ってもらうのが一番良いようだ。

82 :
>>1
仏とは実存のことですか?

83 :
>>13
ダイナミック瞑想に仏性はありますか?

84 :
 無

85 :
フラクタルという科学的手法で神の目から覚醒をみるなら、覚醒の順序というのは、
目が覚める。
頭が覚める。周りで寝言が聞こえる。
起きて衣服を正す。
傍で寝ているものに注意して出て行く。
このようになる。
まだ、300年、500年寝る人がいるので、金玉を踏んづけたりしないように静かに退出する。
これが悟りの作法だろう。和尚は作法を守ったのか? 疑問が残る。
まさか、まだ寝ている人にお構いなしに踊りだしたのではあるまいか?
しかし、ダイナミックに無理やり起こされた者はまた寝たらいいとおもう。
ここで無理やり起きる必要はない。はい、おねんねです。
私はもう起きる。
出て行くまでには、まだ10年くらいはかかるかもしれないが、
目を覚ましたいと希望する者がいれば、手をあげてくれ、出て行くついでに金玉を蹴り上
げるくらいならお安い御用だ。

86 :
>人は体験に固執してしまうと閉じてしまう。
 ここでの体験とは「メソード+手ごたえ」を指すと思う。
私の場合はメソードはダイナマイト瞑想であり坐禅である。ダイナマイト瞑想では、これこそ
自分を開くものだと思い込み快感という手ごたえを追いかけすぎたように思う。ただただ
騒ぎまくって、緩みまくって 「弛緩ただ」。
 結果的には自由になったというか精神が緩んだというか、服装が派手になり、ハイになって、
初対面の人にもあまりにもフレンドリーに話しかけて、相手はさぞ気持ち悪かっただろう。
 悪意は無いのだが、非常に自然に「あなたは、馬鹿ですね。」というようなことを
平気で言うようになって、しばしば失敗をした。
 あまり精神が急激に開放されると、社会的に不適合が生じる。最近は地味な服をきて言葉は慎む
ようにしている。
 ただとか見えないところは派手にしている。脱ぐと真っ赤。 今思うと坊主とか地味な服を
きているが、内面が派手になって浮かれて騒ぎ出すので、それで地味にしているのではあるまいか?
 踊り念仏なんてのも確か合ったと思うが、あれは踊るアフォーであって、私は踊る賢者になりたい。
だからダイナマイト瞑想はすてた。いや厳密には捨てない。必要に応じて使えるように、時々は静かに
こっそりとインプロビゼーションをしたりする。最近ではあれは確かトイレの中だった。
手と足と腰と気持ちと腸が非常によくコラボレーションをして、成果は非常に大きく長く、
実にすっきりした。

87 :
 次に坐禅。これも接心を受けてから手ごたえ十分。この手ごたえは、やはり一つには快感がある。
しかし、ダイナマイト瞑想がどちらかというと、胸とか、腰とか首から下の快感に対して、坐禅の
快感は脳みその快感のように思える。いや快感は全身だから必ずしもそうでもないかも知れないが
エロチックな快感は殆どない。しかも以前にもまして頭脳が明晰になるような気がする。
ここに固執するのは良くないと思う。しかし今のところはもう少しやってみようと思っている。
 体験への固執とはつまり、坐禅の過程で遭遇する快感やその他の変性意識状態への固執を
意味するのだろうか? 確か老師がそのようなことをチラッと言っていた。他の人はいろいろ
面白いものが見えるらしいのだが、私はちっとも何にも見えない。見えるのはただ壁のみ。
>自然であること
>身体、生全体で表現すること
>絶えず今あふれ出し続けること
 自分は自然か? 多分不自然ではないと思う。
 生を表現できているか? 否だ。
 この意味では、寝言を言っている者等と対して変わりないだろう。
生を引き出すこと、表現することで、今をあふれさせる必要がある。まだ自分から
でているのは、僅かな湧き水に過ぎない。
>これは瞑想の準備でもありますが、むしろ瞑想より高いものでもあります。
>生のダンスを踊れるときが来ればもう瞑想は必要ないのです。
 今瞑想で穿とうとしているのは、深い深い井戸であり、それは無限の伏流水の源泉に通ずる。
「静寂」というボーリング装置を得たので、湧き水をたどって掘り進めば必ず到達すると思う。

88 :
私事の世界だね〜

89 :
>>84
いい無だな。

90 :
私は固執ということで指し示したのは、私はこれを体験したんだという自負のことです。
瞑想とは覚醒とは今ここに体験し続けることなので、過去を自分の証明とし過去に誇りを持ち
過去の体験に執着することは必然的に瞑想を曇らせます。
今私はここにあり、今あなたはここにある。
過去を今の自分の証明に使うことが曇りです。
ですので、何が起きても何が起こらなくてもいいのです。
来たならら過ぎ去らせるように。
またより大きな体験を求めないことが大切です。
第4の夢は体験を求めないからこそ現れるすごい体験です。
私も一度とてつもない体験をしました。そしてそれにはある意味がありました。
真正な夢といえます。この真正な夢からのみ覚醒の可能性があります。
求めないからこそ会える無意識であり、広大な無意識であります。
あなたの心の中心へ還ってゆきます。
体験を求めると快楽を求めると、あなたの実存が連動していない夢を見ることになります。
すると言葉だけの人間になってしまいます。
言葉だけの人間は言葉を実体としてビジョンを見ます。
偽りの夢といえます。
知識を積み重ねてあなたの心は中心から遠くに行きます。

91 :
>85
まず自分のことをするというのは正しい。
徹底的に自己中心的であることだ。
私は全く周りを顧みず修行に打ち込んだ。
私はそれを非難されたからやめたのではなく、理解してやめた。
いまは自然と他人に迷惑はかけない。
できる範囲においてであり、自分も大切にしている。このあたりは呼吸だ。
だが分別する自我を失い、全体性に還るということは
全ての人間の全ての賢明さと愚かさを内包するということだ。
苦手なものがあるでは済まされない。
結局私が目覚めるのではなく世界が目覚めるのだ。
>86踊る阿呆、踊る賢者。
賢者は何も知らない。知的な結論がない。賢者は受容性である。
だから賢者は心理も人間もあるがままに受け入れられる。
阿呆は人間を現実と違うように見た上で、既成の自分で用意した答えを投げつける。
だから阿呆も行動力がある。
賢者であるには受容の痛み、分別するエゴの理解を通らねばならない。
87>到達するかどうか。
望まなければ還りつくだろう。
未来を想定することもある程度必要だろう。
だが、重点は今自分がどうか、何が起こっているかだ。
私は自分がどうなるか知らない。私は何も知らない。
知らないからこそ対話が出来、新しいものの受容がある。

92 :
正知に偏って倒錯の知性にあまり対応できないというのは珍しい例だ。
だが、こういった人間は宗教的進歩において道を誤る可能性が低いといえる。
真実しか見えなく、世間に対応できないのだ。
あなたは倒錯の知性も、正知もバランス良く持っている。
だが、それを称賛できるのはその両方が意識として覚醒の光によって
照らされているときだけである。
ここであなたの最初の書き込みに戻る。
「混乱」というテーマだ。
あなたはあなたの既に持ってる倒錯の知性のやり口を
「すべてとっ捕まえる」必要がある。
そうして初めてあなたの正知のセンターは十全に働き、経典の指し示すものや
私の実存を吸収することができる。
世間では正知でも倒錯の知性でも成功を収めることができる。
が、宗教の、真実の探索は正知によってしか為し得ない。
今のあなたでは事あるごとに倒錯のセンターがあなたの宗教的探索を事あらぬ
方向に誘導するだろう。
汝自身を知れ。
倒錯の知性はニュアンスが分からず、言葉尻を捕まえる。
そして自己を理解する方ではなく新しい知識を手に入れる方にだけ傾く。
代表的な例は
「ガンジス川につかると罪は洗い流される」
という言葉を
「川につかれば犯罪を犯してもいい」と理解することである。
本来は
「今目覚めれば過去の影響はあなたに触れることができなくなる」
という意味なのにだ。

93 :
>90,91,92
ビシッ。 脳天一撃、決まりました。
九拝
 居眠りしながら、能天気をかましている場合ではありません。背筋がシャンとしました。
本来ならここで大悟したはずですが、3mmだけそれました。脳天がくらくらしています。
>体験における自負
 これは、やりぬいた場合であって、「私は全く周りを顧みず修行に打ち込んだ。 」このこと
に拠ると思う。
 私は自負は希薄だが、それは喜ぶべきことではなく、多分修行が足りないことに拠るものと思う。
>体験を求めると快楽を求めると、あなたの実存が連動していない夢を見ることになります。
>すると言葉だけの人間になってしまいます。
 ここがガツンときます。私は言葉だけの人間なのか? 偽りの夢を追っているのか?
>結局私が目覚めるのではなく世界が目覚めるのだ。
 何故、私が目覚めるのではなく、世界が目覚めるのだ。
ここは最高に分かりにくい。 その時、もう私ではないということ。ああ、分からん。
私は世界になるのか? なぜ愚かさまで内包するのか? 
死を理解しない限りこれは理解不能だと思う。

94 :
>今のあなたでは事あるごとに倒錯のセンターがあなたの宗教的探索を事あらぬ
>方向に誘導するだろう。
>汝自身を知れ。
 私は誰か? 軽すぎる、問いかけが軽い。
 私は誰か? それではだめだ。もっと真剣に問いかけるのだ。 私は誰か?
 言葉で問うな、全身全霊で問え、命がけで問え、答えが出るまで止めるな?
 だめだ。問い方が分からない。
 そうだ。 あなたは誰か?
 「私は何も知らない」
 では改めて、私は誰か? 
 私は誰だろう。
 私は言葉だけだ。
>倒錯の知性はニュアンスが分からず、言葉尻を捕まえる。
 だめだ。
 私の脳みそはこれだけしかない。嘆いてもしかたない。ここから出発する以外に無い。
 何と言われようと、せめて自信だけは失わないようにしよう。
 
>「今目覚めれば過去の影響はあなたに触れることができなくなる」
 今目覚めれば、、、、いや今目覚めなければならない。それは分かっている。

95 :
>そういえばクリシュナムルティーのスレでLさんは何か書き込みされてますか。
>過去の事とはいっても情報は多い方がいいので。
 クリシュナムルティーのスレでは最近は書き込みしてないです。
>私はただの夢想家なのであてにしない方がいいです。気をつけるように。
 常に最大限の注意を払っています。
>良性の知識、思考
 71のような知識は鋭利な知識といえます。単独で目にふれるだけでもドキッとします。
 このような知識は本来、普通の人には目に触れることがなかった。しかるべき場所で
然るべきタイミングでへその緒を切るためだけに使われた。なぜこんな物騒なものが
ここにあるのか? 
 使い方を知らない人は刃渡り6cm以上は持ち歩かないようにして欲しい。
>88,89
 刃渡り、0.6mm 持ち歩きを許可する。

96 :
 いかに神聖な言葉であってもそれを聴く姿勢ができていないと聴くことはできない。
姿勢が大切だ。ぐらぐらしていてはだめだ。不動の姿勢がいる。

97 :
正見
 正しく観察すべし。是を正見と名く。
正見故に心身の厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。
喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱す
今小学生が下校する。「ウオー,とりゃー、あふぉー」と走り回り、屈託無く元気がいい。
生命がほとばしり出ている。しかしすこしの落ち着きも無い。
 仏陀の正見は身の引き締まる言葉である。しかし「心身の厭を生じ」とある。これは少なからず
違和感を覚える。
 一方、もし精神が開放されれば、屈託無く走り回る小学生のように無邪気になるだろう。
しかしここにも問題がある。仮に最終目標がここにあるにせよ、これでは修行にならない。

98 :
Lは怪しいな。とっても、とっても、怪しいな。w
押入れに隠れていないかへ。

99 :
 その怪しさを説明してごらん?

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