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2011年10月1期戦国時代畠山義綱
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畠山義綱
- 1 :06/06/14 〜 最終レス :11/10/16
- 家臣によって城を追われた無能者。何度も奪還をこころみるも
結局返り咲くことが出来なかった敗北者。
誰か適当に語ってくれ。
- 2 :
- 二番槍
- 3 :
- は?誰?
- 4 :
- 能登かわいいよ能登
- 5 :
- >>1
そんな下らん3流の人物でなく
畠山満慶でスレを立てろ!
- 6 :
- 二本松の人だっけ?
息子が伊達輝宗拉致事件起こしてされた人?
- 7 :
- 畠山義総について語りましょう
∧,,∧
ミ,゚Д゚,彡 ふさふさ
(ミ ミつ
ミ ミ
∪ ∪
- 8 :
- >>6
能登畠山家の最期の当主だと思う
重臣の傀儡を嫌がって抵抗したら逆に追放された人
- 9 :
- 本当に無能者だな。語ることなけりゃ削除依頼だしとけよ。
- 10 :
- 【暴行】元キックボクサー庵谷鷹志【強姦恐喝】31
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news2/1146405334/l50
キックボクサー・庵谷鷹志のサイトが、話題を呼んでいる。
発端は、庵谷がオタクをしてブログで公開、「ば良いのに」と言い放ったことに起因する。
これが「2ちゃんねる」で取り上げられると、
批判は常習的な暴行や未遂などを書き綴った過去の日記に飛び火した
騒ぎを知った庵谷は、BBSへの書き込みにより騒ぎを鎮火させようとするが失敗。
段階的にサイトを閉鎖するものの 遂に開き直ったのか、
2ちゃんねらーに対する新たな挑発文と共にHPの運営を開始した。
かつて友人であった人物がavex関係者であった事まで判明。企業まで巻き込みかねない事態となった。
東京都杉並区出身
現在は東京都府中市に在住。マンションの5階(有線つき)。徒歩約20分の距離に病院(産婦人科)がある。
SHOP99(府中浅間町店)がすぐそばにある。妻が住宅ローン控除を申請しているため、賃貸ではなく持ち家。
<府中市天神町か浅間町在住か?>
- 11 :
- >>7
そのころは安定していたのに
- 12 :
- チョウ ゾクレン&モーレンとかいう異人父子がのさばる家は、ここですか?
- 13 :
- 畠山家臣は癖者揃い
末期は完全に家臣に乗っ取られてた
- 14 :
- 上条政繁はがんばったよね
- 15 :
- 一条兼定と被る
- 16 :
- もっと酷いと思う
- 17 :
- >>14
よく出来た弟だよな
あまりに出来が良すぎてマジで忘れてた
- 18 :
- 畠山 義綱(はたけやま よしつな、生年不詳 - 文禄2年12月21日(1593年2月11日))は能登の戦国大名畠山氏当主。畠山義続の嫡男で、妻は六角義賢の娘。
幼名次郎。修理大夫を受領。能登守護・七尾城城主。義胤。出家後は徳栄と名乗る。 1551年(天文21年)、父義続に家督を譲られ継承。義続の後見を受けて傀儡化した大名権力の復興を目指す。
1555年に重臣たちが大名権力を奪った「畠山七人衆」を崩壊させるため、家中で随一の勢力を誇る温井総貞を暗し、同年から始まった弘治の内乱を経て大名専制支配を確立した。
このため、能登畠山家では1560年から1566年までは政権が非常に安定していた。しかし、大名専制に反発した家臣が1566年に永禄九年の政変を起こし、義綱と父・義続は追放され、近江に逃亡した。
追放された義綱は、近江で妻の実家の六角氏の援助を受け、復権を試みる。
そして1568年、上杉謙信や神保長職と共同して能登に攻め込んだが、失敗し敗退した。
結局復権することは叶わず1593年12月21日、近江国伊香郡の余吾浦で波乱の生涯に幕を降ろした。法名は興禅院華岳徳栄居士。
ちなみに義綱の二人の息子(義慶・義隆)も、傀儡として重臣たちに擁立され、そのうえ父より早くこの世を去るという悲哀を味わっている。
- 19 :
- 二本松畠山にも義綱っているな
- 20 :
- 国王丸ですか
この人蘆名盛重(義広)に従い常陸江戸崎に入ったのはいいが、
盛重の命でされちゃうんですよね
- 21 :
- 剣術に優れている人とは別人?
- 22 :
- 守護大名出身の大名家が権力強めようとして追放されたり害されたりするのはよくある
- 23 :
- 上条政繁は謙信の養子になったあと、信州の政で揉めたけどその後に畠山姓に戻ったんだっけ?
- 24 :
- 政繁・・・上杉を出奔、関ヶ原後畠山に復す
長男景広・・・上杉に仕え続け子孫は畠山に
次男長員・・・上杉を名乗り幕府の高家に
三男義真・・・旗本畠山に
- 25 :
- 完全に家臣に握られていた大名権力を一瞬だけ復興させた人
- 26 :
- 一生懸命あっちこっちと泳いではいるんだけどね
遊佐加賀に退去→能登侵入した遊佐を破る→温井加賀退去
→遊佐復帰→温井と合戦、最終的には勝つ
→遊佐、長らに追われる
真の味方がいないなあ
- 27 :
- 30年の安定した治世を築いた7代当主畠山義総でさえも、守護代を通じた間接支配体制であった。
義綱専制時代は能登畠山氏の治世170年間の中で唯一強力な大名直接支配体制を実現した期間であった。その意味でも畠山義綱の行動と功績はもっと評価されていいだろう。
- 28 :
- その期間は何年ぐらいなの?
- 29 :
- 永禄三年〜永禄九年ぐらいじゃないかな
- 30 :
- 畠山鈴香にはどう続くの?
- 31 :
- 能登の特徴は、他国のように守護に替わって、誰かが実権握らないこと
まあ>>26の状況じゃな
どこも完全に滅ぼしてないから、一氏が台頭しようがない
- 32 :
- この権力の所在がねじくれた感じがたまらん
能登かわいいよ能登
- 33 :
- ネームバリューだけはいっちょまえの、畠山さん
越前・尾張の斯波さんは同等もしくはもっと名門だから、家臣、国人の考え方の考え方の違いかな
- 34 :
- 河内と能登
両方の守護代は遊佐氏ぐらいかな?
- 35 :
- むむ
- 36 :
- 能登畠山氏の在国って、文明六年(1474)から
滅亡まで約百年
- 37 :
- 工房の頃に三管領(細川、斯波、畠山)四職(京極、山名、赤松、一色)
って習ったっけ。
戦国時代では揃って負け組だがw
勝ち組は和泉細川(幽斎、忠興)だけか。
- 38 :
- >>37
京極高次がいます、強運な人
畠山は斯波よりは、若干活躍した程度かな
- 39 :
- >>36
名君畠山満慶の代だからそれより70年前だろ
- 40 :
- 満慶は確かに、兄の満家に家督と紀伊、越中、河内の守護を譲り、
能登一国の守護のみになった人物ですね
ただ、応永十七年〜応永十九年、応永二十八年〜永享元年の二度、約十年間管領をつとめるほどの人物でうから
在国はしていないでしょう
- 41 :
- ほしゅ
- 42 :
- 畠山義元は京から落ちていた、義材将軍を神保、朝倉とともに庇護し、
義尹と大内義興上洛後は、京で将軍側近として仕えた
京での活躍はこれが最後かな
- 43 :
- あげ
- 44 :
- 祖父・義総の時に義続を管領畠山家に入嗣させる機会があったらしいね。
これが実現していれば、畠山家が統一され面白い展開もあっただろうに。
- 45 :
- 能登畠山家は誰が当主か分からないほど、権力構造が複雑だな。
関東軍並みに実質的下克上が起きてるし。
- 46 :
- ドロドロとした人間関係があるイメージ
- 47 :
- 遊佐とか温井とか宗家にも能登にもいる一族が いつも争っているイメージ
長は能登しかいないけど
- 48 :
- 家臣団、見事に分裂w
長氏:織田家
遊佐氏:上杉家
温井氏:一向一揆
- 49 :
- で、結局「畠山七人衆」って誰がメンバーなんだよ
モー娘。みたいに追加・卒業・代替わりとかあったの?
- 50 :
- 七人衆はわからないが
遊佐、神保、平、誉田が四臣
温井、三宅、甲斐庄、伊丹が四家、ここまでで合わせて八臣
これに次ぐ、昵近衆(御屋形衆とも)が天野、松波、河野、神保、三宅、笠松、士田、得田、誉田
と手持ちのある本には書いてあった
八臣と昵近衆に重複がみられるけれども
- 51 :
- おっと義続から義綱の頃の七人の重臣のことなら、
温井総貞、長続連、三宅総広、平総知、伊丹続堅、遊佐宗円、遊佐続光になってます
同じ本で
- 52 :
- >>44
義総は神保や一向一揆との戦いに明け暮れた人物
義続の宗家相続は義総の死で白紙になったのかな
- 53 :
- やはり神保の自立が能登畠山にとって最大の痛手
応仁の乱での宗家分裂のせいなんだけどね
- 54 :
- 長連龍もここで語るの?
- 55 :
- >>54
詳しいなら、語ってよ。
- 56 :
- 土曜の朝のラジオでいつものおっちゃんが熱く語ってたな
- 57 :
- >>56
誰を?
- 58 :
- それ、永六輔じゃね?
- 59 :
- http://www.tbs.co.jp/radio/np/time/time.html
- 60 :
- >>53
越中神保は宗家被官だから、基本的に能登畠山とは関わらないんじゃ?
- 61 :
- そうだね、ごめんごめん
- 62 :
- http://www.ebara.co.jp/socialactivity/hatakeyama/index.html
- 63 :
- 春来れば
又打ち返す
畠山
なお争いの
種は尽きまじ
- 64 :
- 前田家に残った長氏は客分として、高禄を占めてたらしいね。
- 65 :
- ながうじ じゃなく ちょうし か
三万三千石だね
- 66 :
-
能登畠山氏って、将軍家・鎌倉公方家から
嫁もらったこと一度も無いの?
- 67 :
- 長氏明治には男爵にもなれたし。
- 68 :
- 長長氏(ちょう ながうじ)
- 69 :
- 宗宗氏(そう むねうじ)
- 70 :
- >>66
このスレに、そんなことを
知っている人はいません
- 71 :
- 七尾城は天守閣あったの?
- 72 :
- 曲直瀬道三に医術を伝授されたので、大名としては家康を押さえて、ナンバーワンの知識を持っている筈。
- 73 :
- >>66
満慶の正室でさえ、不明なのに・・・・わかるわけなかろう
- 74 :
- 嫁の実家・六角家での亡命生活はどんな感じだったんだろ?
忠臣とかは出奔して、近江まで付き従ったんだろうか。
- 75 :
- 畠山はなぞだらけだな
- 76 :
- そもそも六角自体亡命してるしw
- 77 :
- 親父の義続は優秀だったのに、この方は(ry
- 78 :
- 能登に忠臣などおらんわ
- 79 :
- 七尾城の収容能力以上の人員抱えちゃって屎尿処理の不手際から細菌が蔓延して死亡したのはこの人か?
- 80 :
- >>79
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E6%98%A5%E7%8E%8B%E4%B8%B8
- 81 :
- 三管領(細川、斯波、畠山)四職(京極、山名、赤松、一色) 国司三家(姉小路、一条、北畠)
戦国乱世で朽ちていった名家達・・・
- 82 :
- 【越中】神保氏を語ろう【紀伊】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1190830871/
- 83 :
- 頼むからウン子攻めだけはやめれ
- 84 :
- 名門
- 85 :
- 上条政繁は義綱の弟なんだね。
でもって子孫は幕府の高家が2家(3120石と1490石)と上杉家臣(250石)。
- 86 :
- 畠山氏は足利一門の名家であり、上杉家と同じく
足利将軍家・鎌倉公方家に娘を嫁がせている
上杉の名跡を継ぐ資格はある。
- 87 :
- >>85
謙信の人質→謙信の養子→上条家の養子→後に出奔して畠山に復姓、って流れかな?
実に波瀾万丈な人生だな。
- 88 :
- 神保氏張も実はこの方の息子なんだ
- 89 :
- >>86
幕府の管領(宗家はだけど)と関東の管領だから、どちらかというと畠山の方が上かな
- 90 :
- >>90
だから資格があるって言ってるんじゃないの?
- 91 :
- 間違えた、>>89ね
- 92 :
- 籠城中に糞尿から疫病に感染→死去
- 93 :
- 大槻・一宮の合戦で遊佐側についた人間やその一族は、やはり遊佐について越後に逃げて行ったんだろうか。
- 94 :
- 全く関係ないんだけど、信の野望蒼天の温井景隆が父親にそっくりな件
- 95 :
- >>94
よぉ、温井!
- 96 :
- >>93
手持ちの本には越前に逃れたことになっているが、越後とか加賀とか諸説あるのかな?
- 97 :
- 俺もちょっと調べたら色々な説をみたな
越後、越前、越中、加賀、どれが当たりなんだか…
一番数が多かったのは越後だけど
- 98 :
- その一例。
遊佐続光
ゆさつぐみつ
?〜1581
畠山氏→上杉氏→織田氏
(美作守)能登国畠山氏の重臣。珠州郡の土豪。畠山七人衆の一人。天文23年(1554)、温井紹春との抗争に敗れて越後に走り、ついで能登侵攻を企てたが敗れ越前に逃れた。弘治元年(1555)、畠山義綱によって紹春が害されると能登に復帰し年寄衆に列した。
ちなみにウィキペディアでは加賀に逃げたことになってるね
- 99 :
- 畠山誉田氏と戦国期は島津に仕えた畠山本田氏は同族ってことはもしかしたら家紋も共通なのかも。
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