2011年10月1期戦国時代桶狭間奇襲失敗 TOP カテ一覧 スレ一覧 削除依頼
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桶狭間奇襲失敗


1 :10/07/02 〜 最終レス :11/08/14
今川義元は上洛出来たのか

2 :
紀州を奇襲

3 :
上洛意思は無かったと言われてるけどとりあえず尾張は併呑しただろうね。

4 :
そのあと義龍に負ける、と。

5 :
>>1
今川焼きが全国に広がっただろうことは間違いない

6 :
せいぜい美濃辺りで力尽きないか?
仮に稲葉山を落としてそこを本拠地にするとかならともかく

7 :
>>6
奇襲失敗→信長死亡→尾張勢全面降伏ってことでしょ
ほぼ無傷で後背の心配もないんだから美濃攻略もイケる
名門今川の威光で近江も無抵抗で通過出来るだろう

8 :
もし上洛したら
全盛期の三好とぶつかる事になる
さすがに全盛期の三好には勝てないだろ
4年待てば三好兄弟みんな死ぬけどね

9 :
>>4 >>6
京都に行くのに美濃を通る必要はない。伊勢を通ればいい。
そもそもノブヤボのような戦国ゲームと違って京都行くのに京都の道中の諸勢力を滅ぼす必要はない。
そんなこと言ってたら、二度も上洛した上杉謙信はどうなるんだ?
しかも二度目の1559年の上洛は五千の兵を引き連れての上洛だ。
謙信の場合、越後から京都の道中にちゃんと断って許可取ってから上洛したんだけどな。
謙信ですら、そういうことができたのに足利家の親戚筋の今川家の上洛を邪魔する必要などない。
ただ、織田家とは敵対してたから何とかしなきゃいけなかっただけの話し。
>>8
上杉謙信が上洛した時、三好長慶や松永久秀も謙信に挨拶にしにやってきたんだよね。
別に敵対してなければ争う必要もない。

10 :
>>9
そのとうりだな。
せいぜい将軍に拝謁して官位貰うくらいだろ。
そもそも2万5千も引き連れて京都まで行くとはとうてい思えんけど

11 :
謙信とは能力が違うから久秀に狙われんか?二万五千の兵欲しさにやりかねんぞ

12 :
貴重な麻呂武将が・・・

13 :
尾張平定に一年余、その間義龍は病死、将軍家に仕えてた光秀と、義元は馬が合いそうだから、仕官してくるだろう 美濃も何なく平定する間に長慶病死、ここで義元に第一関門
浅井、朝倉連合に勝てるかどうかが、京への道が決まる

14 :
1558年の終わりに、それまで京都をのがれていた足利義輝が都に復帰している。将軍への挨拶ということで上洛することは可能だろう。
今川は室町幕府の守護だから、将軍を訪ねたとしても、これは公務。それを妨げるのは公務執行妨害で、幕府への反逆になる。
伊勢の北畠、近江の佐々木などはやはり守護だから、通過を求められればそれを拒絶する理由がない。
また、この頃、義元は朝廷から三河守に任命されており、そのお礼言上も上洛の理由となる。
1560年の今川義元の行動は、上洛を目指していたと見るべきだろう。

15 :
>14
ということは、史実で織田のやったことは公務執行妨害になるんだよね
この事件に関する織田追討令は出たのか?織田はいつ許されたのか?
これが二つともないんなら久秀なり三好なりが妨害してもいいんじゃないだろうか
それと事前に今川は幕府ないし朝廷に上洛する旨は伝えていたんだろうか?

16 :
このスレ見てて毎回思う事なんだけど
三好はまだしも松永が普通に大名扱いされてるのがありえないわ

17 :
俺は松永を大名といったことはない
完全な独立勢力でもないけど久秀なら勝手にやりかねんと思ったから書き込んだまでの話
そもそもこの議論はここでやることじゃないんだが

18 :
>>9
上杉謙信が上洛した時、三好長慶や松永久秀も謙信に挨拶にしにやってきたんだよね。
↑そんな事実は何処にも載っていない
>>17
松永は長慶が死ぬまでは忠臣の一人
きみは松永を過大評価しすぎだ
松永を単体扱いして良いのは1568年からだ
まああんたが誤解する発言したから訂正したまでだ

19 :
>18
う〜ん、考えてみればそのとおりでした。
私が未熟者でした、すいません。

20 :
>>15 信長は尾張守護斯波氏を追放して室町秩序からは離脱していたから、守護の権威に従う必要がなかった。秩序の外側にいる者は懲罰できない。
足利義昭はのちに信長の庇護下に入るが、そのことによって信長のこの行為は不問に付された、と考えるべき。もし、義政政権が続いていれば信長との関係はありえなかっただろう。
しかし、信長の行為を許さないものもいた。近江佐々木がそれで、信長主導の義昭上洛への協力をあくまで拒否したのは、その理由による。
信長のこの行為を当事者として関わったもう一人、伊勢の北畠を信長は目の敵にし滅亡に追い込んだ。

21 :
>20
ということは、義龍が同じことをしても懲罰されないのですね

22 :
今川の尾張併合まではすんなりだろうけど、
上洛、今川政権樹立の動きを見せたら、
甲相(特に信玄)が足をひっぱりだすと思う。

23 :
>>21 室町幕府が力を保っていた時代ならば、反幕府的行為を犯した者に対して追討令を出すこともできたが、この時代、たとえそれをしても誰も従わない。幕府がそれに対する恩賞を出せないのは明らかだから。
幕府の権威が失墜し、威令が届かないから戦国時代と呼ばれる。義龍も室町秩序の外側にいたから、今川の権威などは認めなかっただろう。
ただし、伊勢の北畠、近江の佐々木は幕府の秩序のもとにあるから、積極的に協力はしないかもしれないが、少なくとも今川の意図を妨害はしなかったろう。
あまり知られていないことだが、桶狭間の戦いの直前、鳴海城の近くの海上に服部右京之介率いる2000隻からなる船の大群が接近していた。
今川軍は鳴海で乗船して、伊勢に上陸し、上洛する予定であったと推測される。上の方で誰かが言っていたが、美濃を通る必要はない。

24 :
今川家臣団のしょぼさ見たら領地切り取りできるかな?
結局は桶狭間みたいな事になってたと思うけど

25 :
>23 信長なら、桶狭間に散った信長の怨霊なら、きっと伊勢湾台風を呼び寄せられるはず。
熱田沖に散った義元と今川軍2万5千。
ん!歴史は結局清洲で留守番を命じられた家康に微笑むのか!!

26 :
伊勢を通っても伊賀か大和か北近江は通らなければならないはず。
どこを通っても絶対安全ではないよな。

27 :
そもそも、桶狭間は今川が上洛するための戦ではないのだが。
単なる織田領への軍事侵攻だ。
もっとも、それが終わったら将来的に上洛することはありえるだろうけど。
それもあくまで主家であり親戚の足利しよぅぐん家を立ててのものだしな。

28 :
>>27
何でも計画通りに進むとは限らない
ほぼ無傷で尾張平定を達成すれば伊勢、美濃への侵攻案も浮上してくる

29 :
兵を引き連れての上洛は誤解を招くだろう。
上杉なんかは下手に刃向かったら命がなくなるから邪魔はせんだろうが、
今川には妨害するやつが出かねん。
じゃあ信秀らへんがやったようにとものみ引き連れての上洛は、
そもそも桶狭間自体の必要がないと思う。
ここから考えて、あったとしたら今川の上洛は、
@道中の大名を踏み潰しての上洛
A(アホな)今川が自分の兵力を頼んで(要は過信して)、尾張より先は自分から戦を起こそうとせずに上洛
の二通り
@に関しては伊勢→大和→京のルートが最速
しかし、三好に敗れると思われる。
Aについても、三好か伊賀上忍の奇襲を受けて失敗しそうだ。
まあ、後ろが後ろなだけに尾張制圧をやっただけで駿河に戻り、
義龍が死んだら家康あたりに美濃奪取を命じる、
次は近江を、とやって家康に留守任せて自分は上洛するのが今川の構想だったのかな。

30 :
連投すまん
「とも」→「供」
「やって」と「家康」の間に「その後」がぬけた

31 :
名古屋市の守山区への交通政策冷遇を糾弾するpart3
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/trafficpolicy/1254641566/637
637 名前:亀にゃん市民[sage] 投稿日:2010/07/28(水) 22:26:00 ID:wFbEPb010
緑区大人気ですねwww
桶狭間がそんなに有名だとは知りませんでしたよ。
でもおかしいですよね、そんなに有名ならもっと観光地として賑わっていてもいいはずですが・・・

32 :
今川義元上洛→将軍に接近 国元に帰る 武田信玄に協力し上杉攻め
または北条氏康に協力して小田原防衛
三国同盟VS全盛期関東管領上杉のドリームマッチが起こるかも

33 :
  今川義元は実力のある大名であったが尾張平定の後に
京へ登ろうとするなら美濃、近江、北伊勢は押さえんと
ならないから、おそらく寿命が尽きただろうな…

34 :
信長が尾張統一から10年ほどで京に上れたのだから、
尾三遠駿120万石の義元なら、寿命までに上洛、管領就任できたのではないか。
まあ、途上で死んでも我らが氏真様が、天下一蹴鞠大会を開くために三好、六角を滅ぼすだろう。

35 :
>>34
ちっ・・・義元が桶狭間で死んでなければ今頃日本はワールドカップで常勝を誇っていたと言う事か
信長めいらぬ事を・・・

36 :
足利幕府がさらに力を持つだろう
上杉謙信が絶頂に達する

37 :
て事は武田は途中で放り出されて甲斐と信濃南半は今川、北信は上杉に分割?

38 :
>>32
三国同盟VS全盛期関東管領上杉のドリームマッチは面白そう。
永禄4年、河越から北上した氏康・義元・信玄3万の軍勢と
厩橋から南下した憲政・謙信3万の軍勢が深谷あたりで合戦。

39 :
利害の薄い武田、今川に積極的に戦う意思はなく、
北条も自分が前面に出るのはできるだけ避けたい。
越後衆はいつでもサカリがついてるし、長野など上野上杉衆も血気盛ん。
そう考えると、初戦で憲政・謙信軍が先走る北条の武蔵衆を蹴散らし、
以後は川越や八王子などに分散してにらみ合い。
信玄や氏康、生きれいれば雪斎がなにか謀略をしかけるか、
義元が将軍家に働きかけて講和の使者で、
結局謙信が越後へ帰って終わるような気がする。

40 :
今川じゃ無理

41 :
>>9
滅ぼさなかったら、遅くとも来年には帰らなきゃいけないわけだが。
後半は相手が違う。
>>15>>20
挨拶しに行くのは公務だが、領土を奪おうとするのは公務じゃない。
>>28
正面から戦いをするのに無傷で済むわけないだろうが。

42 :
>>1
そもそも信長は奇襲とかしてないのだが
http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/078f4162.0400bdaf.078f4163.d5699732/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f6777169%2f%3fscid%3daf_ich_link_mail&m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f13975643%2f
第一部 桶狭間の死闘は正面攻撃だった!
 第一章 『信長公記』が伝える戦いの実相
 第二章 信長・義元の戦いを総括する 
第二部 戦国合戦の「定説」を疑う
 第三章 戦国大名の戦いのパターン
 第四章 今川義元は天下を目指したのか?
 第五章 「簗田特務機関」は信長を勝利に導いたのか?
第三部 桶狭間をめぐる「親説」の登場
 第六章 『甲陽軍艦』を典拠とした「乱取状態急襲説」
 第七章 織田軍別働隊による「迂回奇襲説」
 第八章 “狂気の信長”が指揮した「正面奇襲説」
第四部 「迂回奇襲神話」の誕生と参謀本部
 第九章 誤った「教訓」を生み出した『日本戦史・桶狭間役』

43 :
>>42
藤本大先生の本に、間違いなんてありませんねw

44 :
奇襲で勝ったなら、信長公記に大いばりで明記しているだろ?

45 :
>>41
いや別に滅ぼさなくてもいいって。
大内義興の例を見ればわかる。
大内の場合は尼子すら滅ぼさずに上洛してるしな。
今川が戦わなくてはいけない例外は敵対していた織田と
畿内で足利家を圧していた三好だけ。
北畠、京極、六角など室町政権内の家と戦わなくていい。
>>13
は?
今川がなんで浅井朝倉と戦わなくてはいかんの?
朝倉は織田の上洛すら邪魔してないし、浅井がわざわざ今川の上洛を邪魔するとは思えない。
そもそも、浅井と朝倉が旧知の仲だったというのは嘘で長らく敵対してたんだが。

46 :
ねーよw

47 :
>>41
奇襲失敗が前提ですので無傷で済みます
降伏した尾張兵が先鋒になり上洛軍に加わります

48 :
桶狭間の戦いは、今川上洛軍を織田軍が襲って破った戦い。今川上洛を否定し、尾張三河付近の勢力争いとするのが最近の傾向だが、これは前提が誤り。
織田今川は1556年四月に和解(というより織田が今川に降伏した、と言った方が正確だが)して、戦闘状態にない。
そもそも信長が強敵、岩倉織田氏を倒して尾張国内を統一出来たのは、ひとえに今川氏との和解があったから。
岩倉織田氏はこの時、美濃と同盟関係にあった。弱小の信長が、東の今川と対立しつつ、美濃をバックとした岩倉織田を戦えるはずがないではないか。
今川が鳴海城に軍を駐屯し、美濃勢の尾張への介入を牽制したから、孤立した岩倉織田を滅亡に追い込むことが出来たのだ。
今川が織田を援助したのは、上洛を実現するため。
尾張攻略は困難である。上洛も困難である。しかし、この困難な作業を二つ組み合わせれば、両方を実現できると考えた知恵者がいて、それを実行に移した、ということだ。
その知恵者は間違いなく大原雪斎。信長もこれに乗ったのだが、今川にとっては不幸なことに雪斎が死去。
義元がそれを引き継いだのだが、義元に信頼感を持てなかった信長が、直前にその計画から下りたというのが「桶狭間の戦い」の真相である。

49 :11/08/14
初陣が奇襲する側で、最期に奇襲されて討ち取られた武将いますか?
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