2011年12月2期日本史44: それでも邪馬台国は九州にあった11 (55) TOP カテ一覧 スレ一覧 2ch元 削除依頼
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48: 水野勝成 (90)

それでも邪馬台国は九州にあった11


1 :11/12/10 〜 最終レス :11/12/17
畿内説者は来るな!

2 :
>>1
乙です

3 :
邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。
卑弥呼の墓は小城公園内桜ケ岡です。(九州説で倭人伝の記述の大きさの墳丘はここだけです。)

4 :
脱原発デモの正体
ttp://blog-imgs-37-origin.fc2.com/h/o/r/horo346/panflash00045313.jpg
2011.9.11脱原発デモで暴れる在日参加者逮捕の瞬間
http://www.nicovideo.jp/watch/sm15581020

5 :
@伊都国を糸島へ比定したら
方角、距離、伊都国の人口が違い、不弥国から先へ進めなくなります。
伊都国は佐賀大和都渡城付近です。
倭人伝記載の方角はほぼ正確だったと考えられます。
A周旋可五千餘里から倭の範囲は九州中北部程度です。
投馬国を南九州とか出雲とか遠くに比定するのは間違いです。
BAから奴国、投馬国、邪馬台国に広大な領域を比定するのは間違いです。
有屋室父母兄弟臥息異處から1戸の人数は一家族よりもかなり少なく、
対馬国千、一大国三千、末盧国四千を基準に考えるべきです。
C其餘旁國遠絶不可得詳から
勅使が邪馬台国への途中に通った国は対馬国、一大国、末盧国、伊都国、
奴国、不弥国、投馬国だけです。
他の国は1国たりとも邪馬台国への途中にありません。
D当時有明海沿岸は九州最大の人口過密地帯です。
だから
@で伊都国を有明海へ進んだらCより伊都国以降は国と国はほぼ隣接していた状態です。
EABCDより水行二十日水行十日陸行一月は所要日数ではありません。
何らかの理由があって消費した日数です。
F有明海沿岸の当時の人口は山沿いにびっしりと密集しています。
http://www.geocities.jp/fsrfb814/isekibunpuzu.JPG
伊都国→佐賀大和都渡城付近
奴国→佐賀大和都〜吉野ヶ里、中心地は東名遺跡付近
不弥国→吉野ヶ里
投馬国→吉野ヶ里の南でツマの名前が残る三潴、筑後、八女地区
邪馬台国→投馬国の南でヤマトの名前が残る山門郡、大牟田、荒尾、玉名

6 :
背振山の周囲、松浦から糸島、室見川流域、筑紫野、鳥栖、佐賀と、
ぐるっと回って人口密集地帯なのは事実だろうね。
弥生遺跡がないところがないと言ってもよい。
また、甘木朝倉も遺跡の宝庫だ。
以前の奈良湖の話から考えていたのだが、
山すその扇状地から、平地に降りたときに灌漑技術の発達が必要ではないかと
考える。
ある程度高低差のある平坦地は、水田を作るときに水を入れる水路を作りやすいが、
完全な平野では、平地より下を川が流れるので、水を入れにくいのである。
これが技術の発達を促したのではないかと考えているのだが。

7 :
>甘木朝倉も遺跡の宝庫だ。
小城〜佐賀大和〜吉野ヶ里〜鳥栖〜夜須〜甘木〜朝倉〜
田主丸〜北野町〜久留米〜八女〜筑後〜瀬高〜高田〜大牟田〜

弥生時代には筑紫平野の遺跡は山沿いに帯状に密集している。
密度がやや薄いのは鳥栖小郡付近だけ。
他は甘木朝倉を含めてびっしりと密集している。
遺跡が密集しているし
大和朝廷と関係がありそう、
または
4世紀以降の重要地域となることから
甘木朝倉あるいは久留米や八女を
邪馬台国の候補地に挙げる人もいる。
しかし、
倭人伝の行程記事からはそれらの地域を邪馬台国に比定するのは無理だろう。
目星を付けたにすぎないと言える。
特に
久留米、八女、三潴などは4世紀中頃までは邪馬台国の友好国だったが
4世紀後半から大和朝廷と関係の深い博多湾岸勢力が
この地域を支配していったのである。
久留米、八女、三潴が最重要地域となるのは4・5世紀以降の話だ。
倭人伝を読み解けば、
風土記などにより当時の邪馬台国滅亡の様子が見えてくる。

8 :
鉄の優位性があるのに、なぜ九州勢は列島のイニシアチブを
畿内勢に譲ったのかという点に関して、本読んでもよくわからないのですが
なぜです?考古学的にみても鉄の利権をめぐり、九州と畿内瀬戸内との間に
大規模な戦などなかったらしいのですが。
個人的な考えでは記紀に書いてある崇神天皇の頃の疫病蔓延が
もしかしたら影響してるのかもと思ってるのですがトンデモですか?w
疫病蔓延が倭国大乱であり、高地性集落は疫病にかかったものを
高地に隔離するためか、あるいわ自分が疫病にかからないために
高地に移り住んだか、そしてモモソ姫の祖霊神を祭るシャーマニズム的な
鬼道で、疫病がおさまったので、九州勢もモモソ姫の力を認め、
瀬戸内や東海山陰とともにモモソ姫を女王に推戴。もちろん
モモソ姫の鬼道と疫病がおさまったのとは因果関係などないのですが
古代人はそうは思わなかったと。モモソ姫の鬼道のおがけだと
思ったというわけです。これでつじつまがあいますよね?w

9 :
倭人伝で邪馬台国の場所が判ると言う専門家はいない。
それは当然だろう。
なぜなら
倭人伝に従えば
距離は違う、方角は違う、伊都国の人口は違う。
挙げ句の果てには
不弥国から先へは船で南へ行けと書いてあるのに
不弥国に海はなく、南は山である。
不弥国から先は何処へも行くことができないのだから。
これで邪馬台国の場所が判るというのはアホである。
しかし
冷静に考えてみれば
陳寿は情報を徹底的に吟味して間違いのない情報だけを記載すると
言われているではないか。
勅使と同時代(233〜297)を生きて比較的正確な情報を入手可能だった
天才とも言われた陳寿が
これほど出鱈目な情報を記載するものだろうか?
さらに冷静になって考えれば
末盧国から糸島へ進んだのはいかなる確証も無い。
単に目星を付けただけである。
東南陸行と記載されているのに、糸島は東北であり、
何よりも当時はまともに陸行できる道は無かったのである。
楽に船で行ける糸島半島へ上陸しないで、
唐津付近に上陸して極悪の土地(道ではない)を
大量の賜物を持って陸行するなど正気の沙汰ではない。

10 :
それでは
東南陸行と言う記載通りに進むべきなのだろうか?
しかし
末盧国(唐津付近)から東南陸行五百里したらどうなるのだろう?
@東南陸行五百里到伊都國
A東南至奴國百里
B東行至不彌國百里
C南至投馬國
D南至邪馬台國
を満たす国々などあるのだろうか?
距離方角だけでなく陳寿は情報として人口も記載している。
方角、距離、人口を満たす伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国と同じ
位置関係が偶然に存在する確立はほぼ0である。
末盧国を日本の何処に比定しようとも
方角、距離、人口を満たす国々などあるはずもないのである。
ところが何と
〓〓〓〓
千里は四百q余りではなく、狗邪韓国〜末盧国三千里を基準にした距離。
戸は五人〜十人〜二十人ではなく、対馬国、一大国、末盧国を基準にした人口。
水行陸行は所要日数ではなく距離とは無関係の日数。
〓〓〓〓
と仮定すれば
末盧国を唐津に比定して倭人伝記載の通り東南陸行五百里した場合にだけ
これらの位置関係を満たす国々があるのである。

11 :
倭人伝の道程を、使者の行程そのものと考えることが間違い
あれは、倭国(九州)の位置相関図を文章で表現したものと考えればいい
伊都国には、郡の使いが往来して常に駐まると書いてある
つまり、正式な使者だけではなく、商人や郡の役人は邪馬台国には幾度も通っているのである
第一、使者が邪馬台国に行くのなら、船に下賜品を積載し、邪馬台国に一番近い上陸地点に
まで船で行き、そこから上陸すればいいではないか
なんでわざわざマツロに立ち寄り、そこから悪道を歩く必要があるのか、理由がない

12 :
邪馬台国九州説だが、筑後か熊本なら、
唐津、佐賀ルートは最短距離になり、非常に合理的である。
熊本なら、長崎を迂回し、天草島原から有明海に入るルートも
あるにはあるが、非常に遠回りになる。
また、有明海に入るまでは外洋であり、これも困難さを加えることになる。
航海の苦労がどの程度かはわからないが、
唐津までの航海で苦労している状況であれば、
長崎迂回ルートは、航海日数が長すぎるルートだと思う。

13 :
>>11
>わざわざマツロに立ち寄り、そこから悪道を歩く必要があるのか、理由がない
どだい。
最寄りの寄港地から陸行1ヵ月も要する陸の孤島に王都をつくるバカはいない。
当時の一級道路である水路交通ルートもあったろうが、
難儀な陸行をしたのはなぜか。その理由を考えるのが「考察」だ。
官もいない末盧は臨時の寄港地、末盧からの難儀な陸路は臨時のルート。
こう提示した天才研究者がいたっけな。
>12
>熊本なら、長崎を迂回し、天草島原から有明海に入るルートもあるにはあるが、
それが通常の通交ルートだったが、これを使えないから臨時の陸行ルートをとった。
>航海の苦労がどの程度かはわからないが、
舟をつかった水行こそが古代の一級通交手段だ。
>長崎迂回ルートは、航海日数が長すぎるルートだと思う。
これが最も早道で、臨時の陸路が迂回ルートだ。逆だな。

14 :
松浦と博多は、古代から近世まで、(いまでも?)
使われ続け、文献にも多く載っている貿易港ですが、
天草島原ルートでは、どこが貿易港に該当しますかね?
古代から使われたとおもわれる有名どころって、どこでしょうか?
この場所はかなり重要な情報だと思います。

15 :
>>14
王都というものは、
軍事拠点地域・商工業繁華地域・庶民の生活地域とかけ離れた所にあるものだ。
王都の出入り口と貿易港を関連づけてのことだろうが、互いは別次元のものだ。
思考不足か。
王都がどこにあろうが、九州北部沿岸が古代における外国との主要港になる。
ずーっとのちになると神戸、さらにのちには横浜がこれを担うことになっているだろ。
>松浦と博多は使われ続け
唐津は「カラへの津」だろ。
その「カラ」がナニを指すのかで港としての発祥時期もわかる。
絶対的主要港の博多と唐津を時代を一緒くたにして、
これをそのまま3世紀の貿易港でもあるかのいうのは、思考不足か詐欺論だ。

16 :
唐津は弥生前期、中期から大陸との交易の痕跡がありますからね。
まあ、場所的には一番貿易がしやすい場所でしょう。
博多と共に、ここから九州各地へいろいろなものが輸送されていたでしょうね。
逆に、ここが3世紀に貿易港でない、という論のほうが無理があると思いますがね。

17 :
>>12
>熊本なら、長崎を迂回し、天草島原から有明海に入るルートも
>あるにはあるが、非常に遠回りになる。
>>13
>それが通常の通交ルートだったが、これを使えないから臨時の陸行ルートをとった。
>舟をつかった水行こそが古代の一級通交手段だ。
>これが最も早道で、臨時の陸路が迂回ルートだ。逆だな。
>>12が正しい。
隋の裴清のルートも長崎回りだ。
雲仙有普賢岳の煙を見て海岸に上陸し、俀國の都(太宰府の南)である邪靡堆(久留米)に到着している。
(隋書・冊府元龜・唐會要・聖徳太子伝歴)
魏代の投馬國への水行20日のルートも同じだ。
帯方郡から末盧國まで1万餘里を10日の航海に費やしている。
末盧國から長崎島原を経て有明海岸の投馬國まで10日の航海である。
この航海は困難なので約5千里に10日(魏軍船船団)もかかっている。
ところが魏代に邪馬臺國に向かうには、島原湾には熊本の狗奴國舟が出没し、航海が困難だ。
末盧國から邪馬臺國へ梯儁張政らは陸路山越えの迂回ルートを取った。
この迂回ルートが陸行1月(1千里)の距離である。

18 :
>>13 >>15
またもや天災怪獣出現。
信じる馬鹿は┣ヾ民のみずら。
>こう提示した天才研究者がいたっけな。
十八番の自画自賛爆裂。
ブヒブヒブヒーン。

19 :
>>13
>官もいない末盧は臨時の寄港地、末盧からの難儀な陸路は臨時のルート。
末盧國は女王の直轄地。その津は大陸と往来する人や荷物の検査所。
取り締まり強化の為の末盧津ルート。臨時のルートではない。

20 :
マツロは、草木が繁茂して前に行く人が見えないような場所
こんなところにわざわざ上陸して、どうやって、たくさんの荷物を持ち抱えて歩くんだね?

21 :
途中の道の話じゃね?
さすがに港までそれじゃ、機能せんだろうし。

22 :
不審人物物品の出入りの発見を容易にする為。
即ちこの観音峠越え一本道ルート以外を通るものは不審者。
不審者の捜索発見逮捕は一大率の仕事。

23 :
観音峠なんて、車でも結構大変なところを
徒歩で行きたくないなあ。

24 :
>20
東南陸行五百里到伊都國と書いてある事実を否定してどうするかね?

25 :
松浦から佐賀は、一見するとすごく山の中を通るように見えるけど、
実際には、ずっと谷になってて、ぜんぜん山を登らなくていい。
北九州から唐津までの唐津街道が、(途中では他の街道も重なる)
佐賀を通る道なのは、移動が容易な道だから、古くから利用されて
いたからなんだよ。

26 :
>>24
それが何か?
問題は「たくさんの荷物を持ち抱えて」ということ
銅鏡100枚、かなり重量だろ

27 :
>>26
現実は、皇帝の詔書だけでもややもすれば4人担ぎの輿に乗ってくるんだぜ。
使節団が、いったい何人でやってきたと思って書いてるんだ。

28 :
>>26
>それが何か?
>問題は「たくさんの荷物を持ち抱えて」ということ
>銅鏡100枚、かなり重量だろ
それが何か?
まさか
東南陸行五百里を否定する根拠になるとでも?

29 :
それも前に僕が言ったでしょw
陸行一月も重い荷物背負って舗装もされてない獣道を
魏からきた使者が歩くわけないって。
九州でも近畿でもありえんよ。距離的にも陸行一月は長すぎるしね。
結局最初に来た郡からの使者が伊都国で仕入れた旅費を元にした
行程の情報と考えるのが一番しっくりくるよ。
魏からきた使者はおそらく船で伊都国まで行き、そこから瀬戸内を
通り近畿までいったはず。陸行一月は吉備〜奈良間の往復日程。
それを元に旅費が算出されてただけ。

30 :
カスの妄想など誰も聞いてない。

31 :
>>27、28
あんたたち、オレの言いたいことを勘違いしているようだな
東南陸行五百里を否定なんて、全然していないよ
オレの言いたいことは、倭人伝の記載通りの順番に使者が通ったとは限らないと言うことだ
女王国の東には海があるんだから、たくさんの荷物抱えているなら、
東海岸に上陸するのが一番の近道で楽だってことだよ
これは、邪馬台国が東京にあろうが大阪にあろうが、鹿児島にあろうが
どこであろうが同じ理屈だ
まあ、そう解釈しても、邪馬台国の位置が変わるわけではないがな

32 :
>>29
>陸行一月も重い荷物背負って舗装もされてない獣道を
 魏からきた使者が歩くわけないって。
それはそうだよな
>九州でも近畿でもありえんよ。距離的にも陸行一月は長すぎるしね。
陸行一月はあくまでも投馬国からの行程
>結局最初に来た郡からの使者が伊都国で仕入れた旅費を元にした
行程の情報と考えるのが一番しっくりくるよ。
魏からきた使者はおそらく船で伊都国まで行き、そこから瀬戸内を
通り近畿までいったはず。陸行一月は吉備〜奈良間の往復日程。
それを元に旅費が算出されてただけ。
これは意味不明というか、論外だなw
陸路を歩くってことは、単に道が悪いリスクだけではない
夜営もしなくちゃならないし、雨風にも当たる
強盗団に襲撃される恐れもある
あの目録の荷物をもう一度見直してみろよ
人間が手ぶらで歩くのとはわけが違うからな
荷物は魏の国内ではそれなりに舗装された道路で厳重に運搬されただろうが
倭国内となるとそうはいかない
危険な陸路よりも、出来るだけ海路で運ぶ方がリスクは少ない

33 :
陸行一月つっても直線距離で進むわけじゃないし、
危険領域を避けるために迂回することもあるわけで、
そういうのを考慮すれば陸行一月も決して長くはない。
ただ私も魏の使者は陸行一月も歩いてはいないと思う。
すべて水路で進んだとみるべきで、陸行一月は伝聞でしょう。
投馬国から邪馬台国まで陸路で歩けばなぜかそれくらいの日数がかかった。
それだけの話です。

34 :
>>銅鏡100枚、かなり重量だろ
伊都に保管して、わけて運べばいいじゃん。このドアホが!

35 :
>>銅鏡100枚、かなり重量だろ
百人で運べばいいじゃん。このドアホが!

36 :
お前、何興奮してるの?
気でも狂ったのか??
クビ括ってば楽になるぞww

37 :

ゴミクズ

38 :
金持ち、勝ち組のオレ様に、そんな戯言を叩いても無駄だよw
この負け犬、落ちこぼれめ!!ww

39 :

19歳落ちこぼれに天罰を。

40 :
在日の戦略にひっかかり、全ての間違いが始まった2009年 夏
        |:::::::::::::;;;ノ  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
        |::::::::::( 」 < 民主になればこの世はバラ色、政権交代!
        ノノノ ヽ_l   \______________
       ,,-┴―┴- 、    ∩_
     /,|┌-[]─┐| \  (  ノ
      / ヽ| | 在 反 | '、/\ / /     
     / `./| | 日 日  |  |\   /
     \ ヽ| lゝ    |  |  \__/
     \ |  ̄ ̄ ̄   |
      |   ┬    |それでも懲りない日本人、韓国民団総理支持率35%w早く目を醒まそう!

41 :
数十年前、体重40kgあるかないかの小柄な行商のおばちゃんたちが、
100kgぐらいの荷物を背負って延々と歩く風景は普通だったぞ。
マヤ・アステカ・インカでも、どんなに重くても、全部人力で荷物を運んでいた。
鏡100枚を100人で運ぶ必要など、まったくない。

42 :
もういいよ
アホ相手に論議する気はない
普通に、大量重量の荷物を目的地に運ぶのに、どうやって運ぶのが一番に楽で安全かを
言っているのに、ズレタこと言われても困るんだよ

43 :
>普通に、大量重量の荷物を目的地に運ぶのに、どうやって運ぶのが一番に楽で安全かを
言っているのに、
お前が心配することでない。
お前の妄想をが正当化される訳でもない。

44 :
43は真性のアホw

45 :
>>43
お前もしつこい奴だな、このアホ!!
とっととクタバレ、ボケ!!

46 :
妄想垂れ流して根拠も示せず罵倒ですか?

47 :
>>15
>唐津は「カラへの津」だろ。
その通り。唐津は唐にあるわけではない
同様に、那の津も那国にあるわけではない
那の津から船で渡航した先に那国があるのは当然のこと
那国は邪馬台国以前の倭国の都

48 :
>那の津から船で渡航した先に那国があるのは当然のこと
那国は邪馬台国以前の倭国の都
≪那の津≫は≪奴国の津≫じゃないの?
伊都国と不弥国の間にある奴国ではなく、
もう一つの奴国の。

49 :
那国はひとつだよ
大国だよ

50 :
子供心に男狭穂女狭穂が未発掘とか正気の沙汰じゃねえと思ったことを覚えている

51 :
>>49
どこにあんだよ。

52 :
みんなアホすぎるw
魏志倭人伝ってのは倭国大乱から壱与登場までの約80年のスパンの出来事であり、
かついくつかの資料を陳寿がまとめたものであることがまるでわかってない。
魏志倭人伝だけ読んで畿内だの九州だのとあまりにも平面的で奥行きのない歴史観だ。
最初の倭国大乱では九州勢力と近畿瀬戸内勢との大規模な戦闘などなかったことが
考古学的にはっきりしてるんだし、まだ鉄の優位性で九州が上回っており、
卑弥呼共立のときの女王国は明らかに九州にあっただろうよ。
ただ政治経済の中心は徐々に畿内巻向の連合体に移していったと。
魏の使者が最初に倭国にきて卑弥呼に会った時は卑弥呼は九州の女王国にいたから
まずこの記録を書いた。交易を管理する大倭として巻向は登場している。
つまりは祭政分離で祭は女王卑弥呼が、政は畿内の連合政権が担当してたってこと。
京都の天皇と、江戸の将軍みたいなもん。卑弥呼の死後の第二次倭国大乱後、
壱与を新女王として共立したときはすでに巻向が発展していたので、
新女王も巻向に呼んで、一元化したと。これが邪馬台国のこと。
明治維新で天皇も東京に呼び寄せたようなもん。
その後壱与に会いに魏の使者が畿内邪馬台国に来た時の記録を持ち帰ったと。
なので後世陳寿が倭人伝を書いた時に資料をまとめる際に新旧女王に居場所が
異なっていたので倭人伝はちぐはぐな記述になっており、
九州説だの畿内説だのと醜い争いになってるにすぎない。

53 :
浅草線など戦前かあらある東京の地下鉄はどうやって掘ったか知ってるか?
地面から開削していったんだよ。しかも全て手掘り。
この、日雇い人夫を大量動員して人海戦術で土木工事をするというやり方は、
卑弥呼の時代から全く変わっていなかった。
徑百歩の土まんじゅうなんて1000人の土木作業員を100日働かせれば出来るくらいの軽作業。
ちょっと大きめの邑なら、農閑期に領民集めてできてしまう。
邪馬台国は邑。大きな国である必要はないだろう。

54 :
>>52
みんなアホすぎるw
おまいも相当アホすぎる。

55 :11/12/17
>>53
昭和20年代
大阪地下鉄御堂筋線、昭和町駅より南、
オープンカットの状態で地下鉄が走っていた。
空堀の底のようなところを地下鉄が走っていた。
地下鉄の軌道を地下に埋め戻したのはずっと後。
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