2011年12月2期世界史15: 海を渡った日本人と、来日した外国人と (52)
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海を渡った日本人と、来日した外国人と
- 1 :11/12/14 〜 最終レス :11/12/18
- 日本を後にして外国で活躍した日本人、日本に来て活動した外国人について語るスレです。
※中国(人)と朝鮮(人)は、あまりにケースが多すぎるので、当スレでは対象外とします。
- 2 :
- John Manjiro
- 3 :
- 気
あ を
の 付
朝 け
犯 鮮 .ろ
罪 人
者 .
圖
∧_∧
( ´∀`)
( ○ )
- 4 :
- ダグラスマッカーサー
1945年
日本がポツダム宣言を受諾したことによりアメリカが戦勝国となった
そして翌年マッカーサーは日本へ来日
町を行くマッカーサーに対し敗戦国の礼を取った敗戦国日本兵士は全員町中でマッカーサーの乗る車に背を向け
我々は負けた
いつでも撃ちせ
という敬意を表した
- 5 :
- よく、最初に日本に来た西洋人については、鉄砲伝来の年とイコールだから
話題になるけど、アラブ人がそれより何100年も前に来ていたことは、
意外と知られてないよね。
- 6 :
- 中世に渡来してきたインド人の話は時たま聞くけど、アラブ人ってなかなか聞かないなぁ。
- 7 :
- アラブ人か。蒲って人はアラブ人だと何かに書いてあったな
- 8 :
- 何?蒲って人って?
- 9 :
- 蒲姓の人
- 10 :
- 朝鮮人はケースが多いのか?
- 11 :
- 16世紀のペルーに日本人が20人くらいいたみたいだね
- 12 :
- 飛鳥時代にペルシャ人とかインド人がいたらしいね
- 13 :
- >>12
なにかソースある?
- 14 :
- 海外に渡った日本人というと、やっぱりヤジロウだな。
キリスト教関係者のせいで、過小評価気味だけど、日本発の西洋語翻訳者、通訳者であるわけだし。
- 15 :
- 977 名前:世界@名無史さん 投稿日:2009/02/28(土) 21:30:42 0
遣唐使の一行が陸奥でとれた砂金を持っていったのが中国で評判になり、
「黄金の国」のイメージが形成されたらしいなw
宋代になっても日本から砂金を輸出していたし。
現代になると、中国の泉州とペルシア湾のホラズムが直接結びつき、
ジャンク船を使った中国商人の海上交易が最盛期を迎える。
- 16 :
- 如宝
- 17 :
- 鑑真
- 18 :
- だから、中国人はみんな対象外だっつってるんだろうが
- 19 :
- なぜか日本でやたら有名なのは、ルソン助左右衛門だな。
- 20 :
- 古い時代に渡来したアラブ人と言われているのは、奇叟異珍で、
14世紀後半から15世紀前半の人と言われている。
『重続日域洞上諸祖伝』では南蛮国の人とされているが、南蛮人=ポルトガル人
とも言えないだろう。
- 21 :
- ああ、すまんすまん16世紀じゃなくて17世紀でした
1613年ペルーのリマでの人口調査
- 22 :
- 奈良時代にペルシア人の医者が来日してるね。
- 23 :
- ええー、そうなの?
もっと詳しく教えてください
- 24 :
- >>13
横レスだが、ペルシャ人に関してはたぶんイラン史学者の故・伊藤義教の説だろうね。
飛鳥時代に渡来した達阿(ダーラーイ)を、唐に亡命したサーサーン朝王子の使節としてたはず。
奈良時代前半の人では、実忠和尚=ジュド・チフル(中世ペルシャ語で異邦人の意)を挙げてるね。
1980年代から後、あんまし掘り下げられてる感はないんだが、実際のとこどうなんかなぁ。
- 25 :
- スタルヒン
- 26 :
- 名前だけを挙げるスレじゃないんだけどな。
最低でも、いつ頃日本に来て、何をやった人間かぐらい書けよ。
- 27 :
- >>24
AMAZONでちょっと検索してみたんですけど、『ペルシア文化渡来考』って本ですか?
ずばりこのスレ向きの本みたいですね。
- 28 :
- 奈良時代、創建時の東大寺大仏の開眼供養をしたのは、インド人僧のボダイセンナ。
平安時代初め、三河の国にインド人が漂着した。
彼は綿花の種を携えていたので、それを知った朝廷は綿花の栽培に乗り出そうとした。
しかし栽培技術が未熟だったために種を絶やし、綿の国産は失敗した。
まったくもってもったいない話ではないか。
- 29 :
- 凄いな。
奈良時代にすでに来てたのか。
考えてみれば、大陸はすでに唐になっていて、長安は国際都市で有名だったしね。
ペルシャ辺りの人間も来ててもおかしくないか。
- 30 :
- ヨーロッパ偏重というか、最初にポルトガル人がいつ来たかについては、やたら知られているけど、
ペルシャ人とかインド人が遙か昔に来てたと言うのに、教科書じゃ完全無視だからな。
- 31 :
- >>5
同感だね
唐の時代にはすでに中国には何万人もアラブ人が住みついていて
黄巣の乱の時は相当されているのに、日本に渡ってきたとの記録は
ないのだよな
それから、日本に最初にゾウがやってきたのは、室町期に敦賀の港に
アラジン卿という人が献上したとなっているけど、
その人の素性もあまり言及されないのだよな
- 32 :
- 裸行上人、仁徳帝の頃
法道仙人、推古帝の頃
どちらも天竺の行者あるいは僧といわれる
- 33 :
- >>24
李密翳なんてのもいたね
- 34 :
- 【続日本紀 巻第十二 聖武天皇】
(天平八年)八月庚午、入唐副使従五位上中臣朝臣名代ら、唐の人三人、波斯一人を率ゐて拝朝す。
十一月戊寅、天皇、朝に臨みたまふ。(中略)唐の人皇甫東朝・波斯人李密翳らに位を授くること差有り。
【訳】
(西暦736年)8月23日、遣唐副使・従五位上の中臣朝臣名代らが、唐人三人・ペルシャ人一人を率いて、
帰国の挨拶のため天皇に拝謁した。
11月3日、天皇は朝殿に臨御し、(中略)唐人の皇甫東朝・ペルシャ人の李密翳らにはそれぞれ身分に
応じて位階を授けた。
- 35 :
- 楠葉西忍
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E8%91%89%E8%A5%BF%E5%BF%8D
楠葉 西忍(くすば さいにん、応永2年(1395年) - 文明18年2月13日(1486年3月18日))は、
室町時代の商人。父は天竺人の「ヒジリ」。幼名はムスル。俗名(通称)は天次で、西忍は
出家した後の号。もとは「天竺」を姓とした。
父の天竺人(この天竺がどこを指すかは不明。インド、ジャワもしくはアラビアの可能性も
あり)の商人・ヒジリは足利義満の時代に来日し、京都の相国寺に居住して絶海中津の
庇護を受けていた。やがて河内の楠葉(現大阪府枚方市楠葉付近)の娘を妻とし、西忍が
生まれた。のち西忍が楠葉を姓としたのは母の出身地による。はじめ京都の三条坊門烏丸に
居住し「有徳の者」と称されたが、将軍足利義持の勘気を受けて(詳細は不明)、父子ともに
大和立野に移り住み、興福寺大乗院に奉仕する。
父の死後、大乗院の坊主・実弾房宗信の妹・戌亥を娶る。永享元年(1429年)に長男の
元次が誕生した。その後もさらに二男二女を得る。永享4年(1432年)はじめて遣明船にて
明国へ渡航。享徳2年(1453年)二度目の渡明では、興福寺末寺の多武峰寺・長谷寺共同の
船の外官となり、息子元次を同行させた。南京を経て、首都北平(北京)まで赴き、
直接貿易に関わり、銅と生糸・明銭などの交易に携わった。
これらの西忍の交易活動は、帰国後興福寺に報告され、大乗院主尋尊によって
「大乗院寺社雑事記」「唐船日記」などに詳細に記されており、当時の日明勘合貿易の実際を
知る上での貴重な史料となっている。
晩年は大和古市に寓居し、文明18年に死去。享年92。
- 36 :
- >>7
足利義持の外交顧問であった楠葉西忍は南蛮人と日本女性の混血児で本名を「務須瑠」と言った。
名前の由来から「ムスリム」つまりイスラム教徒であったようだ。
- 37 :
- 一瞬ムスカに見えた
- 38 :
- >>14
ヤジロウは、デウスを大日と訳したことで、やたらキリシタンの評価が低いけど、
あの当時、ポルトガル語に加えラテン語までマスターし、ゴアの学院で神学を
学んだというのは、かなり凄いことだと思うんだけどな。
- 39 :
- 高岳親王
- 40 :
- 名前挙げるだけじゃなくて、なんか書いてくれよ
みんな知ってるとは思うけど。
- 41 :
- 1632年、肥前の士・森本右近太夫、後に世界遺産となる建造物にラクガキを残す
- 42 :
- 36 名前:人間七七四年 投稿日:2009/01/29(木) 09:29:49 ID:bTNd73Jk
西洋人より知能の劣る倭の庶民
「あんたらの言うように神の教えが唯一普遍的な真理なら、そんな事は誰かに教えてもらう物でもなく、誰もが
はじめから知ってるはず あんたら宣教師は今という時代にここに来て、わしらに何を教えにきたんかいのう?」
倭人より知能の高いはずの西洋人の中でもトップクラスの知識を兼ね備える宣教師
「………!!」
- 43 :
- >>38
なんか、日本人はポルトガル人の学生よりラテン語がよくできた、みたいなことを
イエズス会員がなんかに書いていた。
- 44 :
- ラテン語は、綴り字と発音の不一致がないのがいい。
何で英語はああなんだ!
- 45 :
- >綴り字と発音の不一致
英語もそうなんじゃ?
- 46 :
- 間違った。
「ないのがいい」か
- 47 :
- ラテン語は、SVOじゃなくて、SOVなんだよね。
他の屈折語と違い。
そこだけに注目すれば、日本語と同じ語順。
- 48 :
- >ラテン語は、SVOじゃなくて、SOVなんだよね。
SVOでもSOVでも構わないのがラテン語なのでは?
日本語の助詞や助動詞を単語の活用とみなせばラテン語の特徴と通じるものがある。
助詞・助動詞の使い分けで日本語はわりと語順にはこだわらない。
日本語は助詞・助動詞の使い分けで語順にはわりとこだわらない。
日本語はわりと語順には助詞・助動詞の使い分けでこだわらない。
- 49 :
- >>47
>>48
もっと言えば、古典ラテン語は単複や屈折や人称の区別さえ間違ってなければ、
主語と述語と目的語の順番はすべて自由でもある。
(まあ、「主語の屈折と目的語の屈折が同形になって、付け加え表現が無いとどちらが主語か目的語か区別がつかなくなる文章」も、稀にあるが)
というか、印欧語族の文法は基本的に屈折に主眼が置かれてて、語順は大して問題にならない。本来なら。
たとえばドイツ語も構文はかなり自由で、
動詞が文中2番目の語または句になりさえすれば、そのほかの語順は基本的には自由。
語順が構文の基本を為す言語は、いわゆる孤立語と呼ばれる文法の言語が中心。中国語とかが典型例。
「印欧語文法は語順優先だ」という思い込みが生ずることが日本でかなりあるのは、
日本の世間一般でそれなりに文法を知られてる欧州語が、事実上、英語しかないことからの影響だと思うんだが。
- 50 :
- 「盗難予防」
これを中国語で解釈すると?
- 51 :
- >>44
文明を生み出した国の言語だと、ローカルな話し言葉と、公的メディアで使用する
書き言葉の間にの食い違いがないけど、
例)ローマ帝国:ラテン語、イタリア語、中国:中国語
辺境にあって、そうした文明から言葉を大量に借用せざるを得なかった国の言葉
例)イギリス:英語、日本:日本語
は、つじつま合わせのために、無数の歪み、例外が出るのは致し方ないということだろう。
- 52 :11/12/18
- >>42
倭人とか差別用語使うなよ
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17: 子供の生活史 (171)
18: ハンガリーの歴史を語ろう (151)
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